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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2023/05/26

皇位継承は天皇の男系子孫であることが伝統

 ツイッターで男系主義をカルトと言う方への返信の転載

 男系継承は継嗣令皇兄弟条の継受である。明文で男系と書かれてなくても事実のうえで皇親たる親王、諸王は男系であり規則性は明確。
 令制で天皇の親族を皇親という。親王、諸王(内親王、女王を含む)のことだが、一律父系継承であることは吉田孝『歴史のなかの天皇』岩波新書2006の以下の見解のとおり。
 「日本律令の『王』(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである。但し、『王』族の急増をもたらした。その結果、『賜姓』による臣籍降下が日常化し、『王』も『姓』の一種とみなされるようになる。」
 日本史の学者は左翼が多いので男系継承の論理を知っていても積極的には発言しないか傍観しているが、岩波新書には父系で一律に継承されたと断言しているわけである。
 
 ところで、令制は四世王までが皇親で世数制限があるとされるが、五・六世王は皇親と同じく不課の特典あり、七世王は揺が免じられているので徐々にフェードアウトしていく制度といえる。
 しかし、15世紀以降は事情が異なる。後円融、後小松、後花園は皇子が少なく、称光は皇女のみ。持明院統側に男性皇親が払拭していた時期があり、宮門跡に入室しうる皇子が御一方もいなくなった。
  この事情から大覚寺統の末流の皇胤でも親王宣下されることが慣例化(合法化)した。後二条流の木寺宮や亀山法皇遺詔で嫡流認定された常磐井宮出身の皇族の五世王や六世王が親王宣下されるに至った。 [松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)オープンアクセス]。

 五世王親王宣下の初例は、応永26年(1419) 12月21日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞日記』、『薩戒記』)。
 後二条直系廃太子康仁親王流は大覚寺統正統を鎌倉幕府と持明院統により認められてた。後醍醐と敵対関係にあったため北朝に帰属していた。常磐井宮も伏見上皇が後宇多上皇を追い詰める狙いで恒明親王立坊を支持した経緯があり、その義理もあってか北朝に帰属していた。
 伏見宮貞成親王が後花園天皇に永享6年に奏進した『椿葉記』に伏見宮歴代を天皇の御猶子として永続させる提案があり、世襲親王家構想と解釈されている。血縁で天皇と疎隔しても、しかるべき皇統の末流なら天皇の猶子として親王宣下を受け、親王位を再生産することによりステイタスを劣化させることのない世襲親王家の嚆矢が伏見宮家である。
 世襲親王家は男系が続く限り世襲、途絶した場合は、皇子が家領を相続して在俗皇族となるためのポストになった。伏見宮以外の八条宮(のち桂宮)、頻繁に実系が途絶、高松宮(のち有栖川宮)も2回実系が途切れている。閑院宮は幕末期に実系が途絶し、明治になって伏見宮系に継承された。とはいえ、継承者がすべて男系なので世襲親王家も男系継承である。。
 伏見宮も16代で後継者がいなくなり空位となったことがある。17代は桃園皇子の貞行親王が伏見宮を継承したが、早世されたので、また空位となり、宮家側では『椿葉記』にある皇統上の格別の由緒にもとづき血脈に当たる者の相続を嘆願した。
 朝廷は皇位継承者以外の皇子のポストにするため難色を示したが、前代将軍徳川家重の正室が伏見宮邦永親王の第四王女増子女王だった義理で、徳川家治の支持を得たため、異例だが、勧修寺に入寺得度としていた伏見宮貞建親王の第二皇子寛宝法親王が還俗、相続して18代邦頼親王となり以降、26代博明王まで伏見宮は実系継承であり、皇族の崇班を継承してきた意義は大きい。
 伏見宮が実系(男系)継承にこだわったのは後深草院流の嫡宗家を自認し完全なる傍系化を回避された「准天皇家」としての矜持だろう。
 伏見宮御一流の弱点をあえていえば南朝正統論で流祖の崇光が歴代天皇から外れたため、戦前は鎌倉末期の後伏見の末流とされてしまったことである。しかし今日皇国史観や南朝忠臣賛美の教育はされておらず、近年室町時代ブームで伏見宮の由緒にかかわる研究成果に事欠かないので容易に克服できる事柄である。
 以下は筆者の見解。
 太政大臣藤原為光の母は雅子内親王(醍醐皇女)だが父が右大臣藤原師輔なので藤原氏
 太政大臣藤原公季の母は康子内親王(醍醐皇女)だが父が藤原師輔なので藤原氏
 公季は母が産褥で薨ぜられたことから、異母姉の皇后藤原安子に引取られ、宮中で養育されたので貴種といえるが、膳の高さで親王とは差別化されていたという。天皇と近親であっても女系の子どもは差別化される。
 近世では准后関白近衛家熙は母が品宮常子内親王(後水尾皇女)だが、父が関白近衛基熙だから藤原氏。
 もっとも皇別摂家であり血筋のうえでは家熙は後陽成玄孫の男系だが、父が摂関家である以上、皇親にはならない

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