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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2024/04/10

国会議員の先生方へ意見具申(皇位継承の安定的確保問題) 決定版 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-

pdfのダウンロードもできます。エバーノートで公開 皇室典範問題私の見解

https://www.evernote.com/shard/s605/sh/e507f65e-cf29-244f-dac7-c734187077aa/wbsUomeip0N6Kg5QPOXJIxFRofI2tjGL1y3h4V3GC2mJvOfNvfLguUy9Wg
https://www.evernote.com/shard/s605/sh/d746a8c4-1881-2d9c-b940-f6f8ced3d1fb/34e309c6ac42aabc1bd45606537dd8c4   

 取るに足らない者が恐る恐る謹んで上申します、軽輩でありながら、不躾にも長文の文書を送りつける無礼をお許しください。保守系の先生方でも有識者会議の①案を支持している状況に危機感を覚えるため有識者会議の新奇な制度の提案は皇室制度を破壊するだけでなく、国民の家族慣行に影響が大きく、千古の国体たる「家」制の否定であり、深刻な問題と受けとめており、この際厚かましく恐縮ですが、秩序と古典的価値を重んじる思想的立場による見解です。もし時間に余裕があるのなら、ご笑覧いただければとても幸甚に存じます。

 この意見具申の目的は、令和31222日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告が悪質なものであり、この計略にはまらないよう、国会議員の先生方に訴えるものであります。

 とりわけ①案を恒久的制度とするため皇室典範12条を改変する方向性を強く打ち出している点、女子は婚家を継ぐものという婦人道徳を破壊するため絶対的に反対。

 令和31222日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告は、下記の案と案を検討すべきとしました。

 仮に①案を実施しても女性皇族に皇位継承権を付与せず、配偶者、所生子も当面皇族としないで将来身分を検討するものとし、②案も当事者は皇位継承資格を付与しないことを示し、悠仁親王殿下の次の皇位継承者を、男系男子維持か男女共系に変革するかという問題は先送りとする趣旨の報告でした。

①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること

②皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること

③皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること

①案は、皇室典範12条の立法趣旨を否定して婚入配偶者の婚家帰属性という日本の家族慣行の全面的否定となるから、重大な変革である。天皇と皇后、親王と親王妃といった皇族の性的役割分担を流動化させる目論見がある。

 それゆえ皇室典範12条改変を狙いとする案先行実施及び②案との並行実施は絶対回避すべきである。将来的には英国・北欧・ベネルクスと同様、男女共系の長子相続への移行を見据えた案であり、改変の反対理由の説示が意見書の第一の目的である。

 正しい政策は、旧宮家の再興、旧皇族の復籍をコンセプトとして、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒にもとづき、『椿葉記』に説示される王統の正当性、永続が約された王統として、男系男子の方々を独立の当主として奉戴申し上げるのが筋であり、できるだけ多くの旧宮号を復活させるべきである。未婚者に限らず、親子ともども家族全員が復籍するあり方が望ましい。

 つまり有識者会議が推奨していない「③ 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること」が「継嗣を広め、皇基を固くする」正しい選択であり、その理由を説示するのが、意見書の第二の目的です。

 

目次

 

結論        3

一 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する①案に強く反対する            5

(一)皇室典範12条改変は家族道徳、規範を根本的に破壊する      5

1 婚入者の婚家帰属性という日本の基本的な親族構造の否定         5

2 夫妻は尊卑を同じくするのは儒教文化圏の文明の基本理念         5

3 令制では皇女・内親王と臣下の23例の婚姻は違法婚 6

(二) 生涯非婚前提なら女性宮家があってもよい       15

(三)リヒテンシュタインモデルを強要されるいわれはない           16

(四) 小括 皇室典範12条の改変に強く反対する     16

二 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすべき理由    16

(一)宮家再興、創設に消極的になる必要はなく、復帰されるべき正当な理由がある          17

(二)『椿葉記』が伏見宮の由緒となった経緯                17

(三)南朝正統史観によるダメージは克服できる          21

(四)崇光院流は完全なる傍系化が回避されるステイタスを得た    22

(五)『椿葉記』に込められた意味を忖度すべき            22

(六)伏見宮の永代存続は世数制限のある令制においても合法で正当                22

(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について   24

(一)伏見宮家が正統・嫡流たる由緒、その証拠もある 23

1 延文2年に崇光上皇が嫡流所領の全てを相続した     25

2  貞治2年(1363)光厳法皇の置文に伏見殿の御子孫が正統とあること          27

3 持明院統皇統文庫の伏見宮家への伝来    26

4 琵琶の習得、秘曲の伝受という嫡流の流儀の継承     28

5 伏見宮家は18世紀後半においても『椿葉記』の由緒により嫡流を自認していた             29

(二)後崇光院が本格的な太上天皇であった決定的意義 29

1 伏見宮貞成親王は太上天皇尊号宣下の一点突破で皇統の付替えを画策(略) 29

2 実父でなく兄とされた太上天皇尊号宣下詔書と皇統問題             29

3 後崇光院は本格的な太上天皇であり伏見宮の威信を高めた        30

(三)伏見宮の永続性には合法的な根拠がある              31

1 応永23年後小松上皇より室町院領永代安堵の勅裁   31

2 『椿葉記』の伏見宮家当主を永代天皇の猶子となし奉る構想の奏上              31

3 康正2年の「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝         31

(四)幕末維新期以降 伏見宮系皇族の繁栄の意味       32

(五)旧皇室典範の問題点         34

1 世襲親王家の廃止                  34

2 小松宮と華頂宮の養嗣子の臣籍降下      35

3 明治2539年創設の5宮家と明治40年皇室典範増補               35

(五)大正9年の永世皇族制放棄政策の問題点(略)   36

(六)「準則」の背景として南朝正統史観の影響とその克服の方途(略)          36

(七)宮家の数の適正規模         36

 

 

結論

一 有識者会議の①案は日本的「家」の婚姻慣習、婚入配偶者の婚家帰属性を否定し、夫婦、親子で身分を異にする歪な婚姻の在り方であり、性的役割分担の流動化をもたらす最悪な案なので断固として排斥するべき。②案との並行実施も強く反対する。皇室典範12条の制定趣旨は正当であり改変に強く反対する。最悪①をとるとしても臨時的当面の措置とし、恒久的制度にしない。              

二 ③案を実施する。②案は現存宮家の方々が養嗣子への承継を望まれた場合にのみ③案と並行して実施する。

三 ③案の実施方法は以下のとおりとする

(一)皇籍復帰の対象者は伏見宮御一流のみとする

 皇統に属する男系男子(皇胤)を幅広く調査、公式に認定し、暫定的に皇位継承順位を付与、適正規模の範囲で、認定された皇胤の御家族が皇籍に直接復帰されるようなし奉るべきである。

対象者は、皇統上の格別の由緒、永続を約されている由緒にもとづき一品式部卿伏見宮邦家親王の御子孫(伏見宮御一流)にしぼる。皇別摂家の末流など藤氏となった方々が復帰するのは論理的でない。

(二)調査対象と優先順位

第一範疇 

 12宮家(祭祀承継家を含む)の末流の男系男子と養嗣子(但し第一~第三範疇の男系男子に限る)を第一範疇として全員が皇籍に直接復帰することを原則とする。員数が適正規模を超える場合には調整する。

この範疇の調査対象は、昭和22年に皇籍離脱した11宮家のうち離脱時に皇位継承資格者のいない東伏見宮家を除く10宮家(皇位継承順では、伏見宮→山階宮→賀陽宮→久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮)の末流の男系男子と養嗣子に加えて、戦前に華族に列し宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見伯爵家の御子孫を加えたカテゴリーになる。

 華頂宮は第4代博忠王が独身で薨ぜられ、大正13年に断絶したが、実弟の博信王が家名を賜り臣籍降下し華頂侯爵として祭祀を承継しており、伏見宮博恭王の御子孫であって血筋としては伏見宮家に近く皇室典範が実弟の養子相続さえ認められていれば存続していたことを考慮し、11宮家と同列に遇するのが妥当であり第一範疇とする。

 また東伏見宮依仁親王は大正13年に継嗣なく薨去し断絶が決定したが、宮家自体は周子妃殿下により昭和22年まで存続した。事実上の養子だった久邇宮邦彦王三男の邦英王が祭祀を継承し昭和6年に家名を賜り東伏見伯爵として華族に列しているので、10宮家と同列に遇するのが妥当であり第一範疇とした。

 優先順位は、①旧宮家(祭祀承継家を含む)の本家を継承した男子、②実系の子孫が途絶した旧宮家であっても養嗣子もしくは当主の推挙で第一~第三の範疇の男系男子である場合、③分家分出した男系男子、④旧皇族以外の他家の養子となった方も優先順位を下げるが皇胤認定するものとする。

 以上に加えて第二範疇以下で、皇室、皇族方から推挙のあった男系男子も第一範疇に加える。

18-2
 
第二範疇 

大正9年以降昭和18年まで次男以下の王で12方が、皇族の臣籍降下を可能にした明治40年皇室典範増補第一条により、情願によって家名を賜り降下し華族に列しているが、第一範疇の宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見伯爵家を除く10家の御子孫で男系男子の方々を第二範疇の皇籍復帰の対象者とする。

優先順位は第一範疇の次とするが、皇室や現皇族に推挙された方、第一範疇で実系が途絶した宮家の養嗣子か当主に推挙された方は第一範疇に加える。

大正 9 年 山階宮菊麿王次男 芳麿王→山階侯爵

大正12年 久邇宮邦彦王次男 邦久王→久邇侯爵

大正15年 伏見宮博恭王三男 博信王華頂侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王三男 藤麿王筑波侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王四男 萩麿王鹿島伯爵

昭和4年 山階宮菊麿王五男 茂麿王葛城伯爵

昭和6年 久邇宮邦彦王三男 邦英王→東伏見伯爵

昭和11年 朝香宮鳩彦王次男 正彦王→音羽侯爵

昭和11年 伏見宮博恭王四男 博英王伏見侯爵

昭和15年 東久邇宮稔彦王三男 彰常王→粟田侯爵

昭和17年 久邇宮邦彦王甥 家彦王→宇治伯爵

昭和18年 久邇宮邦彦王甥 徳彦王→龍田伯爵

第三範疇 

明治時代に家名を賜り臣籍降下し華族に列した方々の御子孫で男系男子。小松侯爵家や清棲伯爵家。

 

(三)秘密会での決定や、推挙権による決定など別の方法があってもよい

 筆者は部外者であり、上記の類別で男系男子の員数はメディアで流布されている大雑把なことしか知らない。

 旧皇室典範の皇位継承順としなかったのは、久邇宮系末流が上位となり北白川宮系末流が下位となるので、全員復帰でならよいが、適正規模が少なめに判断された場合、不公平感があるためである。そのため12宮家の本家嫡流と、養嗣子を優先して復帰するプランを結論としている。

 ウィキペディアによれば閑院家は絶家と書かれているが、実系が途絶した旧宮家でも養嗣子又は当主の推挙者を加え、旧宮号をできるたけ復活させるべきである。優先順位とか堅苦しいことはいわないで、非公式の協議や、秘密会で皇籍復帰者を決定してもそれには反対しないし、皇室側の推挙があったほうが収まりがよいということなら、天皇皇后両陛下、成人皇族の方々に推挙権を行使していただく

一 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する①案に強く反対する

(一)皇室典範12条改変は家族道徳、規範を根本的に破壊する

1 婚入者の婚家帰属性という日本の基本的な親族構造の否定

 皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)は、旧皇室典範44条を継受したものである。

 帝国憲法皇室典範義解によれば44条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス‥‥以下略)は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨である。

 夫の身分に従うとは、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、主婦予定者として婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすることで、婚入者(嫁・婿)の婚家帰属性という日本の家族慣行を意味しており、これは華士族平民同じことで、侯爵家に嫁すならば侯爵夫人となり婚家を継いでいくゆえ、皇族の列を離れる。

 明治8年11月9日妻の氏について内務省が太政官に提出した伺出では、「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候‥‥」(内務省案-夫婦同苗字)[廣瀬隆司(1985)「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究 28 巻 1・2 号]「[近藤佳代子(2015))「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要 49 巻openaccess]とあり、これは旧皇室典範44条の立法趣旨と同じであるし、明治の戸籍制度を前提とした制度ともいえるだろう。したがって皇室典範12条改変は夫婦同姓(氏)の立法趣旨の否定になる。夫婦別姓(氏)反対の立場から容認しがたい。選択的夫婦別姓(氏)に先鞭をつけることになる。

 明治民法起草者の一人、法典調査会で梅謙次郎は、夫婦同氏であるべき理由として、妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致しているという趣旨を 述べている[江守五男19900『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂 1 57]

 人類学の大御所によれば日本の「家」は離在単位であり、人は複数の家に両属することはない婚入者(嫁・婿)は婚家の成員であり、不縁とならない限り死後婚家の仏となる清水昭俊 1970「<家>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<家>制度・その一」『民族學研究』 35(3)openaccess, 1972「<家>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<家>制度・その二」『民族學研究』 37(3),  1973「<家>と親族 : 家成員交替過程(続) : 出雲の<家>制度・その二(続)」『民族學研究』 38(1) ]。

 新奇な家族モデル、夫妻と嫡子とで身分の異なる歪な制度を創出し、日本の社会構造に合致した皇室典範12条を否定することによって、伝統的家族規範を崩壊させる強い懸念がある。

 我が国の家族慣習では婚入者である入婿は家長予定者として迎えられ、婚家に帰属する。

 我が国の「家」は家長-主婦の性的役割分担の地位構成が各世代続いていくことにより永続する(前掲清水説).婿取りの場合、長女の地位は嫁と同様主婦予定者。家長、当主は長男であれ入婿であっても男性である。
 伝統中国の入婿は宗法に反し妻家に質となって労力を提供する存在にすぎないが、わが国の家族慣行では、家長(当主)予定者でない入婿というのは考えられず、有識者会議①案がそのような歪な制度を作ってしまっているのは、男性を女性皇族の添え物にしてしまうのは男性に対する侮辱だ。

2 夫妻は尊卑を同じくするのは儒教文化圏の文明の基本理念

 夫妻なのに皇統譜と戸籍、嫡子は戸籍という、家族であっても尊卑を同じくしないこと。夫妻と嫡妻と嫡子がバラバラの身分としている違和感は相当に不愉快なものである。

 夫妻は尊卑を同じくした身分という秩序観念は儒教の最も基本的な経書に由来する。

『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである[谷口やすよ1978 「漢代の皇后権」 史学雑誌 87(11)openaccess]。

後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」『績漢書』禮儀志劉昭注引蔡質「立皇后儀」)という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた[保科季子2002 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』61 巻 2 号 東洋史研究 61 巻 2 号]

したがって①案により夫妻、母と嫡子でバラバラの新奇な制度を創出することは、道理に反するので却下されるべきである。

3 令制では皇女・内親王と臣下の23例の婚姻は違法婚

 令制では継嗣令王娶親王条により内親王と臣下の婚姻は違法であるが、有識者会議報告は、違法婚であるが勅許により例外的に臣下に降嫁した事例(仁孝皇女和宮親子内親王など)有識者会議事務局調査研究資料(令和3年11月30日配布)では藤原師輔に降嫁した醍醐皇女勤子内親王ほか6例を根拠にして①案を「皇室の歴史と整合的」としているが、反律令行為、イレギュラーな事例が歴史と整合的というのは詭弁である。

 違法婚は特定の時期に集中してみられることで、原則は崩れていないことを述べるともに、それでも前例はあるというかもしれないが、前例の江戸時代摂家への皇女の降嫁9例と、徳川家の1例は、いずれも嫁取婚、夫方居住、墓所も婚家の廟所で、婚家に帰属し皇室を離れたと理解でき、皇室に残って摂政、国事行為臨時代行等を担うとされる有識者会議案とは整合しないモデルである。

1) 令制と近代皇室典範では皇族の概念が異なる

 本題に入る前に令制皇親(「親王」「王」名号の天皇の親族)と近代の皇族は概念が違うという前提がある。令制皇親は、単系出自リネジ(血統)の概念であり、自然血統(男系)で生理的に貫徹する親族になる。

 神護景雲3年(769)に巫蠱事件に連座して内親王位を剥奪された例(不破内親王)などあるけれども謀反や陰謀にかかわらない限り親王位が剥奪されることはない。ただし嵯峨朝以降、親王宣下制となり、親王位、内親王位は生得的身位ではなくなったが、賜姓されて臣籍に降下しない限り皇親として生涯身位を保持する。宮門跡も皇親としての身位であり、摂家・清華家貴族と同じく天皇の諮問に答え国政に参与しうる。つまり親王位は女叙位等の宛名、源平藤橘等の天皇の賜与・認定による古代的姓氏が婚姻によって改姓されるものではないことと同じである。

 しかし明治以降の姓氏は苗字に一元化され、古代的姓氏は公文書に用いてはならないこととなった。有識者会議が突然、前近代の天皇賜与の姓と自然発生的な家名である苗字の姓氏二元システムの時代の概念をふりまわした議論をしていることに問題がある。

 一方、皇室典範は后妃が臣下出身であれ皇后、親王妃、王妃の身位ゆえ皇族の身分とされる。天皇の正配や親王妃が臣下出身の場合は、皇親ではない令制とは概念が異なる。

 自然血統概念と、正配も含む「家」、ファミリーの概念との違いである。

 論理的に考えて令制と近代では皇族の概念が異なるから、令制における臣家に降嫁しても皇族の身分を維持した先例をもって、①案を正当化できないのである。

(2)内親王の歴史的由来を否定する

 ①案は令制(継嗣令王娶親王条)において皇親内婚のみを適法とする内親王の歴史的性格規定を全面的に否定するので、皇室制度を根本的に破壊する。

〇継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 文殊正子[1986  「『内親王』号について 『公主』号との比較 」古代文化 38(10)]によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した[中村みどり2014による文殊説の要約]

 有識者会議①案は、皇族女子と一般国民と結婚しても皇室に残る制度であるから、「内親王」号のて特徴的な歴史的由来を否定するもので伝統破壊そのものである。

 令制では延暦129月詔で二世女王以下が条件付で臣下への降嫁が認められたが、臣下が内親王を娶ることは一貫して違法である。

 [今江広道 1983 「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館、安田政彦 1998 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館、栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2openaccess、中村みどり 2002 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編(1)openaccess 2014 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13))]
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〇延暦12年(793)九月丙戌詔

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」

 旧皇室典範は内親王の範疇を令制の四世女王まで拡大し、現皇室典範も二世女王まで内親王の範疇である。近代皇室典範では、内親王の範疇が変更していることもあり、継嗣令王娶親王条が明示する皇親内婚に限定していない。明治皇室典範39条では皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ルとしている。

 令制でも延暦12年詔で二世女王は藤原氏、三世女王は見任大臣、良家(三位以上、それに准じた家)、皇親内婚原則緩和されており、明治典範では内親王が令制の四世女王まで拡大された以上、延暦12年詔とさほど変わらないという見方は可能である。なお、藤原氏の二世女王降嫁の初例は承和期の藤原衛への恒世親王女降嫁である。これは淳和上皇による殊遇である。藤原基経に降嫁した人康親王女も二世女王であり、時平・仲平・忠平と醍醐后穏子の母であり、この緩和は藤原氏にとって有益だったと考えられる。しかしそれは二世女王であって、内親王の降嫁は違法であることに変わりない。 

 実際、旧皇室典範44条のもとで明治41年常宮昌子内親王から昭和18年照宮成子内親王まで内親王5方すべてが皇族と結婚されており、令制の内親王は皇族との結婚が大原則であることが意識されていたとみてよいからである。(一覧表参照)

 それゆえ大局的にみて、旧皇室的典範を継受した皇室典範12条も伝統と整合的と認識してよいと思う。

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(3)内親王と臣下の婚姻23例との比較で有識者会議案を正当化できない理由

 皇族以外と結婚しても女性皇族は皇族の身位にとどまる案につき、有識者会議事務局資料は 6 方(うち 1 方は婚約のみ)を例示しているが、臣下が内親王を娶るのは、継嗣令王娶親王条に反し違法であるが、事後承認ないし勅許された結婚である。正確には表に示したように6例でなく22例ある。

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事務局例示の霊元皇女八十宮吉子内親王は徳川家継と婚約し納采の儀も行われたが、家継夭折のため3歳で寡婦となり江戸に下向していない。しかし道具料500石や毎年銀200両、徳川の正室としての待遇を受けているので、事務局と同じ観点で、八十宮もカウントして23例としておく。

 内親王に限ると19 例、20 世紀後半以降を含めると 28 例(令制では二世女王にあたる眞子内親王殿下まで含めても 31例)。

 6世紀の宣化皇女から19世紀の仁孝皇女まで臣籍に降下した皇女をのぞくと446方(服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館 2002 の皇女一覧表参照)おられるが、そのうち、欽明后石姫から光格后欣子内親王まで皇女 56 方(源賜姓を含むと58 方)、昭和18条の東久邇宮盛厚親王妃成子内親王まで 63 方が皇親内婚である。華族との婚姻を合法とした旧皇室典範のもとでは内親王五方がすべて皇族と結婚されており令制の原則は意識されていた。

 皇親内婚(合法婚)56 例対臣下との婚姻 (違法)23例 である。非婚も含めて全体では5%程度なのであり、統計的にみても有識者会議の言う「皇室の伝統と整合的」というのは間違いである。

 しかも大多数が10世紀と17世紀に集中しているので、歴史的に一貫しているわけでない。皇親内婚原則は崩壊していない。その根拠として、17世紀末の霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁してから、内親王三方が世襲親王家に嫁し、婚約の事例も含めると内親王五方が世襲親王家との縁組であり、御一方が皇后に立てられている。内親王と摂家との婚姻は、昭和25年まで途絶するのだ。東山天皇の皇后に有栖川宮家の幸子女王を立てたのも、大嘗祭再興等と同じく霊元上皇の復古政策で原則に戻したという見方ができる。

 なお生涯非婚の内親王が大多数をしめることには相応の理由があり、令制では、 食封が親王一品に800戸、二品600戸、四品300戸と規定され内親王は半減だが、それでも大きな収入があった。八世紀の内親王は結婚するのが通例だが、生涯非婚が成り立つ制度設計であって平安時代以降生涯非婚の例が増加した。院政期から鎌倉時代に天皇准母という名目での立后が11例あり、また多くの非婚内親王が院号宣下され皇室領荘園群の本所として経済的に恵まれていた。室町・戦国時代の皇女は尼門跡(比丘尼御所)となるのが通例になるが、これは男性皇族の宮門跡と類比できる。寺領経営体のトップであり、寺領荘園は広義の皇室領であり幕府により保護され相応の収入があった。江戸時代は婚姻する皇女が増加するが、礼子内親王のように知行を得て在俗で非婚の例もあるが、非婚の多くは御宮室(尼門跡)であるけれども、幕末に荒廃した。

1-2

 

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A 10世紀に違法婚が多い理由

 臣下が内親王を娶る違法婚の初例は藤原師輔と勤子内親王。醍醐第四皇女で母は更衣源周子(嵯峨三世孫)であり、源順に『和名類聚抄』を編纂させた才媛である[岡部明日香2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮―」中古文学 90openaccess]

 承平 4 年(934)当時蔵人頭だった藤原師輔(27 歳)は、本来律令では許されない内親王の降嫁を実現するために、勤子内親王(31 歳)と密通し、後から承認を受ける形を取った。

 内親王は承平 6 年叙四品。この密通が大目に見られた背景として、後宮を統率する皇太后藤原穏子が甥に甘かった。密通当時朱雀天皇は 12 歳、摂政は師輔の父忠平だった。

 天慶元年(938)勤子内親王薨後、同じく母が源周子で、伊勢斎宮から帰京した雅子内親王と密通のうえ、事後承認された。太政大臣藤原為光の母である。

 天暦 9 年(955)の師輔(48 歳)村上天皇の同腹の姉宮康子内親王(37 歳)の密通についてはさすがに天気を損じたと伝えられている。母は太皇太后藤原穏子、天慶 9 年(946)叙一品、穏子が崩御になられたあと、天暦 8 年(954)准三宮宣下、格別尊貴な内親王であった。太政大臣藤原公季の母だが天徳元年(957)産褥により薨去。

 この結婚は評判がよくない。

 師輔は康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなきに(前が汚れている)」(『大鏡』)とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『中外抄』) などと伝えられている[保立道久 (1996) 『平安王朝』 岩波新書]

 内親王の御前が汚れていると言ったのは師輔の兄左大臣実頼である。

 ただ『中外抄』は、約200年後の関白藤原忠実の口述記録である。反律令行為である以上、内親王との密通は好ましくない行為と認識されていたとはいえる。実際12世紀には内親王が臣下に降嫁した事例がないのである。

次の史料では村上天皇及び世間はこれを許さなかったとも伝えている。

『大鏡』三 裏書

一品康子内親王事(中略)

天暦八年三月廿八日勅賜年官年爵。本封外加一千戸。准三宮。同九年配右大臣師輔公。帝及び世不許之。

天徳元年六月六日生仁義公。即薨。同十日乙丑葬礼

[米田雄介 2004 4 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』 塙書房486 頁

 天気を損じたこと。世間も肯定的でなく異常な事態とみなしていた。

勅許されたというのは、事の性質によるもので、しかも師輔は外舅であり、皇后藤原安子の父、春宮大夫として皇太弟時代から村上天皇を支えた近臣でもあったからである。

 ただこれが前例になって令制では違法であっても 10 世紀には師輔の例を含めて 9 方、11 世紀に御一方の内親王が臣下に降嫁した事例がある(表参照)。

 11世紀の三条皇女禔子内親王の教通の降嫁は、天皇が勧めた縁談で、摂関家との関係修復を意図したもの。しかしこの後、内親王の臣下への降嫁は途絶するので、臣下への内親王の降嫁は一時的な流行とみなしてよい。

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B 17世紀における摂家への降嫁9例の理由

 

 17 世紀の皇女 9 方(うち内親王宣下 7 方)の摂家への降嫁については、この時期に集中的しているが、摂家とはいえ継嗣令王娶親王条において内親王は四世王まで男性皇親以外と結婚できないのであるから違法であるが勅許された婚姻と評価できる。

 室町・戦国時代の皇女は入寺得度し比丘尼御所(尼門跡)となり、全て非婚で内親王宣下もなくなった。

 江戸時代においても皇女が御宮室(尼門跡)となるケースは多く、例えば後水尾皇女 17 方のうち 8 方は入寺得度されているが、御所であるけれども、結婚するケースも少なくないのである。

 嫁ぎ先が摂家とされた理由について久保貴子[2009 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち)」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2openaccess]の見解は、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないか‥‥徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。‥一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」と言う。

1 7世紀の皇女は国家的給付にあたる皇女御料はなかった。ただし中宮源和子(将軍秀忠女・東福門院)所生の近衛尚嗣に嫁した女二宮と二条光平に嫁した女五宮賀子内親王は厚遇された。婚姻に際して幕府より三千石が献上されている。

 これは徳川の縁者のため特別であり、皇女が多かった時期なので、寺領領主である尼門跡のポストが不足していたことが摂家への降嫁例が多い要因とみてよいと思う。皇女御料がなかったというのは、皇女は、入寺し、結婚するのは十代前半が通例だったこともある。

 後水尾皇女梅宮(女一宮・母は典侍四辻公遠女)は 13 歳で鷹司教平に降嫁したが数年後に離縁、その後剃髪し、法諱を文智という。東福門院が文智の円照寺のために幕府に寺領寄進を依頼したため、寛文 8 年に家綱からやっと寺領 200 石の朱印状が発せられたのだという。

 第八皇女の緋宮(後西天皇皇姉、母は勾当内侍・御匣殿、櫛笥隆子)は、院参町に緋宮御殿が建設されているが、後水尾法皇崩後に落飾、法皇旧御料から 300 石が緋宮に贈られ、これが御宮室林丘寺の寺領となった[久保貴子『後水尾天皇』ミネルヴァ書房2008 『源和子』吉川弘文館2008]。

 上記の見方に加え、禁中並公家諸法度により、皇位継承予定者以外の親王は現任三公の下の座次となった。事実上、世襲親王家当主より摂関家当主が上位となったこともあるだろう。

 天正13年の座次相論で(伏見宮系宮門跡と、摂家出身の門跡准后の相論)は715日関白秀吉が裁定した(『親王准后座次三ヶ条之事』)。裁定は、親王と准后は同格であり、二品伏見宮邦房親王は、准后近衛龍山と同格、横並びだったことからすると、伏見宮の座次が低下し、五摂家の座次が上昇したのである。[神田裕理 2019 『朝廷の戦国時代-武家と公家の駆け引き』 吉川弘文館]

 しかし先に述べたとおり、17世紀末期以降、内親王の婚姻政策は、皇后が御一方、世襲親王家三方、婚約を含めると五方の縁組(幕末の淑子内親王は生涯独身だが、閑院宮愛仁親王と婚約したが親王が早世した例、和宮親子内親王は、有栖川宮熾仁親王と婚約していた)が世襲親王家であることから、原則通り、皇親内婚となったのである。

 やはり違法婚は定着せず、原則回帰しているので、臣下と内親王の婚姻は異例という評価をとってよいのである。

 徳川家への降嫁も婚姻も異例とみなしてよい。

 霊元院の第十三皇女八十宮(母は右衛門佐局)は 2 歳で徳川家継と縁約した。この縁談は将軍家の要請に応じたもので、霊元法皇は幕府との関係修復をはかりたいという趣旨[久保貴子 『近世の朝廷運営 - 朝幕関係の展開』 岩田書院1998]、もしくは、法皇が月光院と天英院の対立に乗じて、政敵である近衛基煕に楔を打ち込む狙いとも言われる[Wikipedia]。ただし家継夭折で、八十宮は3歳で寡婦となり、江戸に下向されなかった。

 江戸時代の皇室、宮家、門跡、公家の経済基盤である家領は徳川幕府が知行充行権を掌握していたから、幕府と関係修復のための違法婚はやむをえないものといえる。但し桜町天皇は皇女智子内親王(のちに後桜町女帝として非婚で即位)と徳川家治との縁談を断っている。

 19世紀の和宮は、幕府が公武一和を目的として、将軍家茂への降嫁を奏請、朝廷は鎖国攘夷の措置を講ずればこの要請を拒否しないという政治的駆け引きがあった。有栖川宮熾仁親王との婚約は棄破、内親王宣下の後、江戸へ下向、文久 2 年(18622 11 日婚儀。特殊な事例と評価する。

C 江戸時代の前例は嫁取婚、夫方居住、婚家の墓所であり、有識者会議メンバーがモデルとしているアン王女とは整合しない

 有識者議事録ではモデルとしてアン王女に言及している有識者会議のメンバーがいるが、ロンドンの居邸はセント・ジェームズ宮殿であり、ふだん居住しているコッツウェルズのマナーハウスは、エリザベス女王が結婚祝いとして購入した物件で、そもそも英国が単純核家族社会なので、日本の家族慣行と違う面があり夫方居住とはいえない。

 モデルとされるアン王女の居邸が王室側で用意された在り方にならうといれば、有識者会議の①案は女性宮家に近いものといえる。

 女性皇族に皇族費がどのような形で支給されるか、夫方の私邸に居住するのか、宮家と同じく皇族の居邸が用意されるのか、納采の儀など婚儀のありかた。墓所について宮内庁管理になるのか、夫方墓所か不明である。そこが問題なのだが明らかにされていない。

 江戸時代以前、内親王が臣下に降嫁した23例のうち実際に結婚生活のない八十宮は別として、墓所が判明している江戸時代の10方はすべて、婚家の廟所、墓所であり、宮内庁治定陵墓ではないということは皇室から離れ、婚家に帰属すると考えてよい。居住形態も10世紀の一品康子内親王の例も含め夫方居住である。17世紀は嫁取婚の形式であることは後述する。

 したがって、従って有識者会議が前例とするものと、アン王女をモデルとする考え方とは整合性がないといえる。

C-1 後水尾皇女常子内親王の評価がすべて

 江戸時代の10例についていうと近衛基煕に降嫁した後水尾皇女品宮常子内親王が、特に結婚した後も皇室とのかかわりが深い内親王といえるので、常子内親王が 有識者会議案のモデルたりうるかを検討する。というのは、日記が残っていて、宮廷社交の実態がわかっているからである。常子内親王は摂家の正室となった後も、正室としての役割に拘束されない自由な社交生活がみられる。

 品宮(級宮)常子内親王とは、後水尾院の第15皇女で、母は新広義門院(典侍園国子-羽林家)、霊元御生母である。後水尾院は皇子が19方、皇女が17方もおられたが、なかでも鍾愛された皇女である。

 寛文4年(166411月に満22歳で6歳年下の権大納言近衛基煕(のち関白)に降嫁。親幕派、霊元上皇の政敵として知られている。

 なお品宮の内親王宣下は正規のものではなく延宝5年(1677)に諱が常子と定まったことにより、公認されたと解釈されている。以降常子内親王と署名されている。結婚後の皇室とのかかわりの2点は、まず常子内親王は宮門跡、尼門跡なども含む後水尾院の文化サロンのメンバーであったこと。これは摂家正室となっても続けられたこと。晩年の後水尾院のサロンは遊興といわれているが、仙洞御所だけでなく公家町の門跡の里第など御幸されることが多く、品宮は結婚当初、後水尾法皇の御所で夜遅くまで過ごすことが多かった。後水尾院の近衛邸の御幸は105回と頻繁にあり、品宮は修学院離宮への御幸にもお供しており、また岩倉の山を法皇より賜っていた。

 第2に後水尾院より、延宝5年(1677)門跡宮方の深草の知行の監督、宰領を命じられていたこと。新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた[瀬川淑子2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』]

 門跡領は広義には皇室領ともいえるので、宰領は内親王という身位ゆえといえる。

 まず、宮廷社交については、摂家正室の立場であってもサロンから排除される理由はないから皇室の公務を担ったと評価しなくてもよい。門跡領の経営についても、内親王ゆえ宰領といっても、実務としては院別当の役割に近いものと理解でき、東福門院所生で徳川と縁戚の内親王は経済的に恵まれていたが、品宮は独自の知行がないので、もともと生母の権益だったから法皇の配慮とみなす。

  有識者会議案は、摂政、国事行為臨時代行という天皇に代わる役割、その他の皇室の中心的公務を結婚後も女性皇族に担っていただくというもので、門跡領の経営を担った役割があったとはいえ常子内親王は前例にならないと考える。

 品宮は独身時代から、法皇より院参町に御殿が与えられていた。万治 4 年(1661)大火の後、寛文4 年に中筋の法皇別邸の隣に御殿が建てられ、なぜかその半年後に結婚している[久保貴子 2008『後水尾天皇』]

 近衛家の寝殿の修復、茶室と物見の格子の構築は法皇の出費であり、[瀬川淑子2001 皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』]。岩倉の山と地続きの幡枝の山荘も近衛家に下賜されている。また品宮は、紫竹の別邸を購入するため、法皇に無心し、法皇は銀子五百枚を支出している[久保貴子2008『後水尾天皇』]

 さらに常子内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村 300 石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行 3000 石の一部ということであり、幕府が認め所司代より報知されたもので、これは内親王薨去により幕府に返却されたとみられている[瀬川淑子2001]

 品宮御殿や岩倉の山、紫竹の別荘等、内親王の財産は嫡子の近衛家煕が相続し、これらは近衛家領となった。

 以上の考察から、品宮常子内親王の事例は、アン王女をモデルとする有識者会議①案の前例にはならないと考える。品宮は国家的給付に相当する皇女御料を得ていないのである。内親王の財産は嫡子が相続しており、それゆえ婚家に帰属しているといえる。

 後水尾法皇より賜った財産があり、遺詔より 300 石の知行を一期相続的に幕府が認めたとはいえ、それは内親王固有の知行ではない。 大徳寺近衛家廟所に葬られ、アン王女のイメージや皇室に残るというイメージとは違うのである。

 居住形態についていうと瀬川氏によれば寛文4年(1664)結婚当初は別居だった。品宮は独身時代からの御所の品宮御殿、基煕は桜御所(旧本邸)とあり、寛文6年(1666)に新宅の陽明殿(今出川邸)で同居したと述べている。

 しかし結婚初期は変則的だった理由が不確定である。寛永13年(1636)後水尾皇女の女二宮が、基煕の父尚嗣に降嫁の際、今出川邸に「奥方御殿」が造営整備されており、この前例からみて、品宮も近衛家本邸の今出川邸が居所とされて当然である。

 万治4年(1661)の大火で内裏・仙洞御所や多くの公家屋敷が焼亡したが、後西天皇は類焼を免れた近衛家本邸を仮内裏とされ、寛文3年正月に霊元天皇に譲位、寛文48月新造の仙洞御所へ移徒されるまで、後西上皇の仮御所とされた経緯がある、その間、近衛基煕は別邸の桜御所を居所としたのだろうが、なんらかの事情で本邸に戻るまで再整備が必要であったのだろう。

 結婚のタイミングは、後西上皇の移徒とみられる。品宮も 23 歳で、姉宮 3 方の摂家への降嫁が 1214歳であることから、当時の婚姻年齢としてはかなり遅いため結婚を急いだのが真相かもしれない。品宮が結婚した寛文4年ころの日記がないため、なぜ結婚初期別居という変則的なものだったのか詳細が不明なのであるが、近衛家本邸が居所であり夫方居住といえる。

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C-2 夫方居住
常子内親王以外の違法婚の内親王の居住形態につき検討する

〇10世紀の康子内親王

 右大臣藤原師輔は「九条殿」とか「坊城右大臣」と称されたように、九条殿や坊城第、桃園第といった邸宅があった。康子内親王は内裏に居住していた時に、師輔と密通したが、勅許され師輔の邸宅である坊城第に居住していたことは確認されている。

 坊城右大臣歌合(伝宗尊親王筆歌合巻、類聚歌合)

 天暦十年八月十一日、坊城殿にきたの宮おはしますに、つきのいとおもしろきに、をとこかたをむなかた、おまへのせざいをだいにてよめる

 北宮と称されるのが康子内親王である[杉崎重遠1954「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (9-10)openaccess]

 康子内親王は坊城第で薨ぜられた(『日本紀略』天徳元年六月六日条)[栗原弘 2004前掲]。

夫方居住であり、師輔に降嫁した以上、皇室からは離れたという見方をとってもよいと思う。ゆえに有識者会議の①案の先例とはならない。

 

〇江戸時代に摂家に嫁した皇女・内親王について

 江戸幕府京都大工頭の中井家伝来の図面によると、寛永 13 年(1636)後水尾皇女の女二宮が、近衛尚嗣に降嫁の際、今出川の近衛家本邸に「奥方御殿(女二宮御殿)」が造営整備された[藤田勝也2012「近世近衛家の屋敷について」日本建築学会計画系論文集675]

 正保 2 年(1645)に後水尾第五皇女の賀子内親王は二条光平に降嫁し、当時新在家町の二条家本邸敷地内に御殿があり、ここが万治 4 年(1661)大火の火元だった。二条光平本邸は今出川通の北に移転し、敷地の東半が「女五宮御殿」だったことが当時の指図でわかっている[藤田勝也 「近世二條家の屋敷について : 近世公家住宅の復古に関する研究1」日本建築学会計画系論文集 636号1 2009]

 女二宮と賀子内親王は外祖父が徳川秀忠であることから、御殿が造営されたがいずれも、婚家の敷地内ということである。

 他の摂家に降嫁した内親王も夫方居住であることはいうまでもない。しかし有識者会議案は夫方居住とは言っておらず、先例とは違うわけである。

C-3 嫁取婚

 公家社会では少なくとも史料上戦国時代から嫁取婚の婚儀が通例となった。[後藤みち子 2014『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館、 2014「室町戦国時代の婚姻」高橋秀樹編『婚姻と教育』竹林舎]。

 天和 3 年(1683)家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は母の品宮常子内親王が日記に詳しく記されている。「御里の御所へまず中務卿を先に参らす‥‥‥女一宮ねもじ(練絹の白)、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している[瀬川淑子2001前掲]。明らかに嫁迎え、嫁取婚の儀礼である。御所を御里と言っていること。白無垢・色直しは現代においても和装花嫁衣装の定番である。

〇 白無垢・色直しについて

 嫁入は、古くは嫁取(よめどり)と言い、嫁入婚の成立儀礼を「嫁娶」とよんでいるように、儀礼の基本は、嫁を夫家に迎い入れる「嫁迎え」にあった。[江守五夫『日本の婚姻』弘文堂 1986 294 ]つまり、出嫁女の婚家帰属が嫁入婚であるが、端的に「白無垢・色直し」だけを切り取ってもその意味が込められていると言ってよいのである。

 色直しは本来、嫁迎えから三日目に行われ、その後、嫁が舅姑、親族と対面披露されたが、明治以降では祝言の盃が済むとすぐに色直しの儀式を行うようになり、大きな披露宴では主要な儀式となった。

 歴史人類学者の江守五夫によれば「白無垢が死装束であって、花嫁が生家を出るときにいったん死ぬとみなされ、また、婚家に入ってから、赤色の衣装に色直しすることが再生をあらわしているということは、日本各地の人々が語っている」とする[江守五夫「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房 1993 51 頁]。

 色直しについて「婚礼には披露宴の際、花嫁が白無垢から色打掛などに着替える色直しと言う習俗が見られます。色直しには、白無垢によって死の状態にあるとされる花嫁が、色のついた衣装に着替えることによって、 あらたに嫁いだ家の人間として生まれ変わったことを示す」[徳島県立博物館企画展図録 2001『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』 2001]。

 17世紀の摂家への降嫁は常子内親王に限らず、憲子内親王と同様のものであったと考えられる。

 婚家に帰属する婚入配偶者であれ、生家とかかわりをもつことはありうるが、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員のような重要な公務を一般国民の婚家に帰属する方がなさるというのはかなりの違和感がある。百歩譲って世襲親王家より座次上位の17世紀の摂家ならともかく、常子内親王を含め 17 世紀の摂家への降嫁例を前例とし、有識者会議案を正当化できない。

 和宮親子内親王は、慶応 2 年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。号は天皇が選んでいるが将軍正室としての法号である。

 静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視されたので江戸にとどまる意味を失ったが、慶応 4 年(1868)慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。

 2 月 26 日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。

その後明治 2 年~7 年まで京都に帰住され、7 年より東京麻布市兵衛町を居邸とされたが、明治 10 年湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨去、洋行中の徳川家達の留守居、松平確堂を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫『和宮』吉川弘文館(1987)]

 以上のことから、和宮(静寛院宮親子内親王)は、徳川氏の家名存続と慶喜の寛大処分のために尽力、徳川氏の存亡に従う決心すら示された。これは婦人道徳として当然のことである。

 しかし有識者会議案は、嫁入婚とは言っておらず、先例とは違うのである。

D  墓所等
〇康子内親王

 師輔に降嫁した醍醐皇女康子内親王の墓所は不詳だが、四十九日は法性寺(『日本紀略』天徳元年七月二二日条)一周忌も法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳二年六月四日)[栗原弘2004「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史学会 編 (19)openaccess]

 法性寺とは藤原忠平が興福寺でなく京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺でもあった。

 法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子の一周忌のほか忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光、村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤原忯子(為光女)の四十九日、円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が執り行われている[栗原弘2004]

 皇族が母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、仮に康子内親王が生涯非婚でも、官寺である法性寺で法要がなされると思う。日本的家制度限嗣単独相続の成立は1415世紀であり、法性寺だから婚家帰属と論じることはできない。

〇江戸時代の皇女・内親王

 品宮常子内親王は大徳寺の近衛家廟所に墓所がある。近衛尚嗣に降嫁した後水尾皇女女二宮は東福寺海蔵院にある。近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。なぜ女二宮が改葬されていないか不明だが、二条光平室、賀子内親王、二条常平の室、栄子内親王は、嵯峨二尊院の二条家墓所。賀子内親王邸の御化粧之間は元禄年間に二尊院に移築され、非公開だが茶室として現存する。在俗で生涯非婚だった後水尾皇女昭子内親王は、岩倉御所と称されるが、東福門院ゆかりの光雲寺が墓所である。

 なお後光明皇女で嫡流の皇女として一品、礼成門院孝子内親王は生涯非婚だったが、文明年間に後土御門天皇が伏見に建立し戦国時代に泉涌寺と並んで御寺とされていた般舟三昧院(後花園、後土御門、後奈良の分骨所でもあり、秀吉の伏見築城により西陣に移転した)が墓所。幕末に桂宮を相続した非婚内親王の淑子内親王の墓所は泉涌寺である。

 したがって非婚内親王は皇室の菩提寺といえる御寺かもしくは母后ゆかりの寺だが、摂家に降嫁した内親王は、近衛家なら東福寺海蔵院や大徳寺、鷹司家や二条家は二尊院、九条家は東福寺というように婚家の廟所に葬られているのは婚家の嫡妻ゆえであり、生家を離れていると解釈してよいのである。

 また江戸時代、摂家に降嫁した内親王の墓所は宮内庁治定陵墓のリストにはない。非婚内親王の昭子内親王や孝子内親王の墓所はリストにあり宮内庁が管理している。

 宮内庁治定陵墓ではないということは端的に皇室からは離れているとみなしてよい。

 八十宮吉子内親王は、納采の儀まで行われたが、家継薨去により3歳で寡婦となり、江戸に下向されなかった。浄琳院も将軍正室としての法号であり、墓所も徳川家の拠点である知恩院である。ただし、宮内庁治定陵墓で宮内庁が管理している。とはいえ御寺の泉涌寺や般舟院ではない以上、皇室から離れたとみなしてよいと思う。

 しかし①案は婚出し夫方居住とするとは述べておらず、婚入配偶者となって天皇家から離れるものとは述べていないので、これらを前例とみなすことに強い疑問がある。

 有識者会議案は、墓所の問題ははっきりしていない、夫妻で別々の墓所となれば異例であり好ましくない。

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E 内親王の所生子は資料に記載がなく隠蔽されている

 なによりも、事務局調査資料例示の一品准三宮康子内親王は太政大臣藤原公季の母で、常子内親王は関白藤原(近衛)家煕、の母で、栄子内親王は関白藤原(二条)吉忠の母である。

 大河ドラマ「光る君へ」にも登場し、異母兄兼家と昇進を競った藤原為光は、父藤原師輔、母雅子内親王である。父系帰属主義(大化元年男女の法)により所生子は藤原氏である。前例では臣下に降嫁した内親王の所生子は皇族には絶対ならない。

 母が内親王である藤原為光や藤原公季は太政大臣まで昇進したが、皇族になることはありえない。しかし有識者会議案は同様のケースで将来的には皇族とすることも検討するとしているので前例とは違うというべきである。

 ところが「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」には内親王の所生子の記載がなく隠ぺいしているのは不可解。

 しかも①案は当面、配偶者と所生子を皇族とはしないと言いつつ、将来的に皇族とすることも検討されうるということは、前例の枠におさまらないのである新奇な案だといわなければならないのである。

 7 月 9 日議事録に「イギリス王室では、アン王女は王族であるが、御家族は王族ではなく、それによって問題が生じているわけではない。このような海外の例を見ても、御本人は皇族であるが、御家族はそうではない、という形も、それほど無理なく成立するのではないか。 女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」との発言がある。

 この発言から知名度が高いアン王女を①案のモデルと想定し、将来的には女系容認の本音を看取できる

 英国王室はもともと女系容認で、2013 年に英国は王位継承法をあらため長子相続による男子優先を撤廃しており、①案は、従来、男性皇族が、天皇、親王、王、女性皇族は皇后、皇太后、太皇太后、親王妃、王妃という役割と決められた在り方を流動化させる隠された意図があり、英国など共系に移行した国々のモデルに移行しやすいので、警戒すべきである。

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(二) 生涯非婚前提なら女性宮家があってもよい

 伝統に即したという女性皇族厚遇の在り方としては、あくまでも生涯非婚に限定して、独立した居邸とする「女性宮家」が妥当と考える。非婚内親王が中世において、天皇准母として非婚皇后に立てられたこと、院号宣下により女院となり、皇室領荘園の本所であった等の厚遇されていた歴史を踏まえてのものである。

(三)リヒテンシュタインモデルを強要さいれるいわれはない

 令和3年11 30 日議事録に「我が国と同様、男系男子継承制を採るリヒテンシュタインにおいては、女性皇族が婚姻後も公族の身分を保持しつつ、その配偶者と子は公族とならないという制度であることや、継承者が不在となった際に継承養子を迎えることとしている制度があることは、緩やかに皇族数を増加させようと考えている今後の検討において参考となるのではないか。」との意見がある。

 清家座長は会合後、記者団に対しリヒテンシュタインの継承養子が今後の検討で参考になると語っているとの記事があり(2021/11/30 産経ニュースウエブサイト「年内に最終答申へ 皇位継承有識者会議」)、有識者会議①と②案は、リヒテンシュタイン公国モデル。両方同時にあるいは皇室典範 12 条法改正だけで容易な案の先行実施をにじませ、意図的な狙いがある。

 フランスや神聖ローマ帝国、ドイツ領邦はフランク王国のサリカ法典に依拠して男系継承であり女性君主を認めない。一方、英国や北欧の国々やロシアは女性君主を容認している。

 1970 年代から 2010 年代にかけて、北欧、ベネルクスといった欧州の君主国が男女いかんにかかわらず初生子相続・共系に王位継承法を変更し、2013 年に英国も王位継承法を変更している状況で、リヒテンシュタイン公国は欧州では数少ない男系継承墨守国とされる。あえて同国を前面に出してきたのは、男系維持論者に①案を呑ませやすいと意図である。

 しかし我国は大宝養老の儀制令で「 天子、祭祀所称、 天皇、詔書所称、 皇帝、華夷所称、 陛下、上表所称」とされ、対外的には皇帝号を使用していた時期があり、日清戦争や日露戦争の宣戦詔書は皇帝号であった。また条約においてはEmperor of Japan とされた[島善高 1992「近代における天皇号について」早稲田人文自然科学研究(41)openaccess]。格の違いがある。小国の模倣を皇室に強要させるいわれはない。

(四) 小括 皇室典範12条の改変に強く反対する

 有識者会議は①案を恒久的制度とするため皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)を改変する方向性を強く打ち出している。

 皇室典範12条の趣旨は、同条は旧皇室典範44条を継受したものであり、皇室典範義解によれば「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨のものであって、相応正当な理由がある。

 夫の身分に従うとは、夫と尊卑を同じくした同一の身分、夫が侯爵なら嫡妻も侯爵家の身分という意味であり、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすること婦人は婚家を継ぐもの、妻は夫の家に入って婚家の成員となるので、生家からは離れる我が国の常識的な家族慣行、婦人道徳にもとづいており、加えて夫婦が尊卑を同じくするという価値観は、儒教の基本的な経書にある文明理念であり、これを否定するのは性差、男性が天皇、親王、女性が皇后、親王妃といった性的役割分担を否定する共産主義イデオロギー、ジェンダー平等論に毒された考え方なので断乎容認できない。

 世界的にファミリー企業の平均寿命は24年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜2010 2「日中伝統家業の相続に関する歴史的考察--北京同仁堂楽家と三井家との比較において」立命館文學 617openaccess]。戸主権により統制される「家」制度は廃止されても家族慣行としての「家」は、日本の親族構造として厳として存在しているのであって、それを否定する①案、皇室典範12条の改変は恐るべき文化破壊をもたらすゆえ容認できない。

 夫妻でありながら皇族女子が皇統譜、夫と嫡子は戸籍であり、尊卑を同じくしないのは、家族慣行にない奇妙で歪なあり方でる。家長たりえない入婿など男性に対する侮辱であり、実質夫婦別姓の先行実施のようできわめて不愉快な制度になるので強く反対する。

 皇室典範 12 条潰しさえ済ませば、①案が「女性宮家」や女系容認に転換するのはきわめて容易である。

 私は文化戦争の天王山が、皇室典範 12 条と夫婦同氏制度の維持にあると考えるので、12 条改変は絶対反対。

 日本的「家」制度、家族慣行、婚出した女性は夫の身分に従う、夫婦同一の身分、出嫁女の婚家帰属性という慣行は守られるべきと考えているので、当面男系維持で大きな変更はしたくないといいながら、しらっと左翼側の性別役割分担の撤廃の主張につながる 12 条改変に迎合していく①案は、かなり策略的な意図を感じる。

 最悪でも女性皇族が結婚しても皇室に残る措置は緊急避難的なものとして恒常的措置とせず、皇室典範12条は維持することを伏して願います。

 

 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすべき理由

 そもそも養子相続を否定し、実系の皇統のみが存続する皇室典範9のもとで現存宮家当主の方々が養嗣子を求めておられるのか不透明であるし、9条のコンセプトをあえて変更する理由はない。

 養子というと次男以下が他家に養出するイメージだが、旧宮家の方々には矜持があるはずで、本家継承者が旧宮号で復帰してしかるべきで、現存宮家の承継者となる必要はない。次男以下の男系男子は、継嗣のない旧宮家の養嗣子か当主の推薦があれば旧宮号、他の方は新宮号やかつての宮号を復活させる形で、旧宮家末流の方々を奉戴申しあげるべき。

 

一) 宮家再興、創設に消極的になる必要はなく、復帰されるべき正当な理由がある

 養子縁組案は皇族費など増やさず、現存する宮家の邸宅を継承する案で、財政的支出を極力控える趣旨といえるが、そこまで支出を惜しむ理由がないというのが結論である。

 昭和22年皇籍離脱した11宮家は実系(血筋)ではすべて第2023代一品式部卿伏見宮邦家親王(18021872)の御子孫であるのでここでは伏見宮御一流と記す。

 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒、『椿葉記』が説示する嫡流を引く王統であること。家領の永代安堵、永代伏見殿御所号等、永続を約された由緒が複数以上ある以上、伏見宮御一流12宮家は、やむをえざる事情により臣籍に降下したのだから、今上陛下の次世代の皇位継承資格者が乏しい状況に鑑み、旧皇族の方々を奉戴申し上げ、宮家を再興していただくべきである。養子縁組ではなく直接当主として復帰していただくのが筋であり、もし現存宮家の方々が養嗣子を迎えるご希望があるなら別途検討するものとすることでよいと思う。

 旧皇族復帰の大義名分として、皇室典範第1条の男系継承が語られることが多いが、それだけではなく、この意見具申では、伏見宮御一流=崇光院流皇統に正当性がある、数々の根拠を強調し、それゆえ皇籍復帰をなし奉るべきであるとの見解である。

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 (二)『椿葉記』が伏見宮の由緒となった経緯

 崇光院流=伏見宮御一流にとって後深草院流の正統(嫡流)と主張され、伏見宮が永代存続する由来のわかる『椿葉記』(永享51433-貞成親王(道欽入道親王)のちの後崇光院法皇著があるということは、皇籍復帰に向けて大きなアドバンテージといえるだろう。この皇統の正当性を示す書物がばっちりあるわけである。

 (『椿葉記』については、南北朝史の大家村田正志『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」 (1954 初刊、1984)思文閣出版に詳しく、背景については村田正志「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版(1983(初出 1944)のほか、近年では秦野祐介「室町時代における天皇論-室町時代の皇族による「正統」思想-」日本思想史研究会報35 2019が『椿葉記』の趣旨を要領よく解説している。このほか三木太郎 1953 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因─長講堂領以下の所領を中心としてー」 駒沢史学 2openaccess)

 『椿葉記』がある以上、皇位継承の正当性が担保されている伏見宮御一流をないがしろにして、北欧や西欧の王室のように直系長子男女共系に走るのはあり得ないものと考える。

 伏見宮家は初代栄仁(なかひと)親王(親王宣下-応安元年/正平231368)より昭和22年(1947)第26代博明王が皇籍を離脱するまで実系の男系子孫で継承され、600年近く皇統正系と併存し皇族の崇班を継承している意義は甚大で、完全に傍系化してフェードアウトしないのは理由がある。

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 但し、実系継承については例外が1例あり、宝暦9年(1759)後嗣のない16代邦忠親王が29歳で薨去、伏見宮家は『椿葉記』等格別の由緒があるゆえ入寺得度した皇族を還俗させ実系に復すことを嘆願している。しかし宝暦10年桃園天皇の第二皇子(17貞行(さだもち)親王)が伏見宮を継承されたため一旦は血筋が中切れとなったが、明和9年(177213歳で早世されたため再び空主となる(次頁に系図)。

 結果的に安永3年(177415貞建(さだたけ)親王の次男で勧修寺に入室した寛宝入道親王が還俗して18代邦頼親王となり実系に復している[武部敏夫 「世襲親王家の継統について-伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」 書陵部紀要 12 1960]

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『椿葉記』の由緒は決定的であり、全く同じ趣旨を強調したい。

『椿葉記』とは、永享5年の後小松院御遺詔(血筋としては途絶した後光厳院流皇統の万歳継帝を望まれ、伏見宮へ尊号宣下してはならない、仙洞御所を居所にはさせないとした)の対抗言論である。

 すなわち正長元年(14287月後嗣のない称光天皇が御発病あらせられ、崩御の3日前に伏見若宮御歳10歳が仙洞御所に入御、後小松上皇と対面し「後小松院の御所生の如く御父子の儀を契約せられ」たのち新内裏で践祚あそばされた(『建内記』[村田正志1983 初出1944])。後花園天皇である。

 強い正統意識を持ち続けた実父道欽入道親王(伏見宮第3貞成(さだふさ)親王-称光天皇の勅勘を蒙り薙髪入道)は新帝と他人の関係にされたことに納得してはいなかった。

 永享3年(1431)より後花園登極を崇光院流の皇胤再興と位置付けるため、太上天皇尊号を拝受する意向を後花園天皇に上奏する計画をもち、その実現のため長講堂や石清水八幡宮などに奉納祈願のうえ、叡覧に備える目的で起草したのが『正統廃興記』であり、途中で後嵯峨天皇の故事を由来とするタイトルに改め永享5年に完成し、翌年奏進されたのが『椿葉記』である[秦野裕介『乱世の天皇』東京堂出版2020]。

 内容は①崇光天皇廃位から後花園元服までの約80年間の史実とその意義、とくに所領の問題、総じて崇光院流が後深草院以来の正統であることを悟っていただくよう記述され、皇位から離れて凋落したが後花園登極による皇胤再興にいたる歴史、全体の三分の二を占める。天皇実父が無品親王であってよいはずがない。承久の後高倉院の先例にもとづいて太上天皇尊号拝受の意向があること。猶子は一代かぎりのことで真実の父母が皇統を形成する。君徳涵養、学芸見識の修養心得、模範となる賢帝とは一条・後三条・後朱雀としている。若宮を始終御猶子となし奉ることにより、天皇家と伏見宮が将来永く疎隔あるまじきこと親しい関係であるべきとする。伏見宮家の世襲親王家構想と解釈されている。⑤崇光院以来奉公してきた廷臣らに御慈愛をかけられんこと。核心部分は②であり、後小松崩後に尊号宣下の一点突破で、後小松院と後花園の猶子関係を実質解消する意図である。

 しかし天皇は実父の熱望を黙殺し続け、後小松崩後13年も経過した文安4年(144711月の太上天皇尊号の詔書によれば実父としてでなく傍親への格別の厚意としてのものだった(貞成王は後小松院より年長だが上皇の猶子として親王宣下されているため「兄」とされた)[田村航2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)openaccess]。天皇は国を譲られた重恩により後小松院御遺詔を重んじ、筋を通したことになる。

 この詔書の趣旨により天皇家は崇光院流を継承していないことが明瞭になった。後小松上皇が自らの系統の正統性を主張するため編纂された『本朝皇胤紹運録』(洞院満季編、応永331426成立)のとおり後光厳院流が正系ということになるが、逆に言うと後花園の実弟で伏見宮を継承した貞常親王の御子孫だけが持明院統嫡流の流儀を継承した崇光院流であり、崇光院流の正当性を記している『椿葉記』は伏見宮家の由緒になったといえるのである。

 『神皇正統記』のような日本全史ではないので広く知られてはいないが、皇統の正統性をテーマにしている著作として『椿葉記』はそれに匹敵する価値があると現代的に評価すべきだ。もちろん朝廷公認ではないし執筆時は無品親王といっても太上天皇尊号が勅定され、至尊とされた方の著作だから尊重されてしかるべきである。

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(三)南朝正統史観によるダメージは克服でき

 終戦後の特殊な事情があったとはいえ格別の由緒のある伏見宮御一流があっさり皇籍を離脱され、永続を約されている由緒などが全く顧みられることがなかったのは理由がある。

 明治44年の南朝正統の勅裁の影響と、それ以降の教科書が北朝抹殺論の記述になったことでダメージが大きかったのである。

 崇光院流が後深草院以来の正統という『椿葉記』の主張が意味をなさない時代背景である。

 伏見宮は北朝の崇光天皇(133498、在位134851)の御子孫で、皇子の栄(なか)仁(ひと)親王(13511416 )が初代とされるが、大正~皇籍離脱時まで旧宮家は、崇光が歴代天皇から外れたため、鎌倉時代の後伏見天皇(12881336、在位12981301)の末流と称さざるをえなくなっていたのである。

 南北朝正閏論争とは、明治43年(1910)喜田貞吉が編修する国定の教師用教科用図書が、宮内省が南北朝正閏を決定していない状況から、南北朝の対立につき軽重をつけない論旨としたことが、教育界から反発があり、犬養毅が大逆事件と絡めて激烈な弾劾演説してこの問題を政争にした。激昂した山縣有朋が教科書改訂を断行しない桂太郎内閣の緩慢を非難、明治44227日喜田定吉は休職処分となり[千葉功2019 「南北朝正閏問題再考」学習史学 57openaccess]、桂首相は南朝正統を閣議決定したうえ、228日明治天皇に歴代について上奏、仰裁、3月諮詢された枢密院も南朝正統の奉答書を可決した。

 明治44年(191133日の勅裁とは、天皇が内閣総理大臣からの上奏、枢密院からの奉答、宮内大臣からの上奏を容れる形で侍従長より「後醍醐天皇より後小松天皇に至る間の皇統は、後醍醐天皇・後村上天皇・後亀山天皇・後小松天皇なることを認定したまへる旨を内閣総理大臣並びに宮内大臣に達せしめたまふ」とされたことをいう。

 また、宮内大臣が天皇に「北朝の天皇に対する宮中の取扱方」について伺ったところ、天皇は宮内大臣に「光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては尊崇の思召により尊号・御陵・御祭典等総て従来の儘たるべき旨を命じたまふ」とされた。

 したがって、皇統譜においても光厳・光明・崇光・後光厳・後円融は歴代天皇から外された。今日でも、尊号、御陵、御祭典は維持しつつも、北朝天皇として別冊にまとめられている。

 明治44年の国史教科書の修正では、北朝抹殺論により北朝側は「逆賊」とされ、「南北朝」は「吉野の朝廷」に改められた。以後、田中義成などが両朝併立説を主張したが、一般には南朝正統説、南朝忠臣賛美が終戦時まで支配していた。

 しかしながら野村玄[2019  「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」 大阪大学大学院文学研究科紀要(59)]によれば、明治天皇の南朝正統とする聖裁(勅裁)は消極的同意であるとする。。

 この聖裁は、国家の大事であるのに、公式令の詔による詔書の形式を避け、勅書の形式をも採られず国民に宣誥されていない。文書的裏付けである内閣総理大臣と宮内大臣への伝宣書は侍従長名・侍従長印で発出され、事務連絡文書に近く、官報にも告示されず、詔書の形式を避けた宸意が消極的同意とみなされている。

 いうまでもなく、後期水戸学、藤田幽谷『正名論』(寛政 3 1791)の神がかり的な文章により、天皇の権威が強調され、会沢正志斎の『新論』(文政 8 1825)によれば、足利時代以降失われた「国体」を回復する運動が尊王攘夷だった[兵藤裕己 『後醍醐天皇』2018]。王政復古とは、後醍醐天皇が企てた新政の再現であったという歴史的脈絡における南朝正統史観の意義は理解するが、南朝忠臣を賛美する教育や皇国史観は過去のものである。今日の実証的な史学では、弁官、局務、官務が機能している京都朝廷の意義を否定する北朝抹殺論は行き過ぎであることはいうまでもない。南朝正統はある程度価値相対化した議論が今日あってよいわけである。

 近世期の朝廷では、北朝方の後小松上皇が自らの系統の正統性を主張するため編纂された『本朝皇胤紹運録』(洞院満季編、応永331426成立)が勅撰の皇室系譜として宮中で重んじられ、公家の間では北朝正統論が絶対視されていた[森安雅子2011「『池の藻屑』における南北朝史観をめぐって」岡大国文論稿 39openaccess]。後村上天皇は義良親王、後亀山天皇は熙成王で、帝に非ざる皇親の扱いであり、朝廷は南朝を公認していないのである。

 『続神皇正統記』壬生晴富(15世記後半)、幕府編修『本朝通鑑』(寛文10年 1670)林羅山・鵞峰編纂、『池の藻屑』荒木田麗女(安永41774)も北朝正統論である。

 今日では伏見宮の由緒にかかわる研究成果も多く、多くの出版物、最新の研究成果をふまえるなら、『椿葉記』の論理をふくらますことが容易にできるので、政府が伏見宮御一流の格別の由緒を重んじる方針を示せば、南朝正統論によるダメージは容易に克服できる事柄である。

Hon Gomura

 

(四)崇光院流は完全なる傍系化が回避されるステイタスを得

 ということで、村田正志の皇室も伏見宮も崇光院流とする説は否定されたが、このことは伏見宮の由緒にとって不利な材料にはならない。

 第一に、とにかく歴史上類例の少ない、帝に非ざる皇族が、生前に太上天皇尊号を拝受し後崇光院法皇となった意義が大きい。関白以下公家衆より拝礼される本格的な法皇だった[田村航2018「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)openaccess,久水俊和2020『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店]。伏見宮の威信は高まり崇光院流の正当化に少なくとも成功した。

 第二に『椿葉記』の趣旨は部分的に実現した。

「若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」[村田正志 1954初刊、1984]写真次頁-群書類従. 第貳輯 椿葉記 国立国会図書館デジタルコレクション公開分)伏見宮の若宮を始終猶子とし、天皇家と伏見宮家は将来疎隔することなく水魚の如き親しい関係であるべきとする構想は実現し、実際そのとおりとなった。

 親王位は継嗣令皇兄弟条で、皇子か天皇の兄弟の身位であるが、始終天皇の猶子とするということは、皇子に准じた礼遇として、親王宣下を受けるという意味で『椿葉記』のこの部分は伏見宮の世襲親王家構想と解釈されている[小川剛生2009 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社][田村航2018]

 中世では一般論として猶子とは「猶子になると擬制的な親子関係が形成されるため、親は猶子に対して権力を行使することができた。反対に猶子になった者は親の家の一員に准ずる存在として、その家の格式・礼遇がおよそ適用された」 [水野智之, 2014 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』 吉川弘文館]と解説されているとおりで、その意義は大きい。

 後崇光院太上天皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」にある所伝「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申」は裏付けがないため慎重に扱いたいが[小川剛生2009 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社]、天皇は伏見宮を継承した第4代貞常親王に「永世伏見殿御所」号と後崇光院の生前の異紋をそのまま位袍などに使用することが許可されたとされる。また牛車での参内も許された。

「永世伏見殿御所」とは世襲親王家の公認を意味し『椿葉記』の趣旨を実現したものと解釈されている。

 伏見宮家の宮家継承者は必ず天皇の猶子となって、親王位を維持できるので、皇統嫡系との距離に依存せずに自立し継承される宮家となり、天皇と血縁的に疎隔しても(猶子という擬制で穴埋めし)、親王家としてのステイタスは劣化せず、皇親からフェードアウトしない地位を確立したのである[新田一郎 2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社]

 但し、「永世伏見殿御所号」勅許は裏付けがないといっても、後花園が実弟の伏見宮4代貞常親王を信頼していたことは、『後花園院御消息』で成仁親王(後土御門)に伏見宮の申されたことはないがしろしてはならない旨訓戒し、応仁元年7月には一条兼良と貞常親王を調停のために幕府に派遣していることなどから確実であるので[田村航2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)openaccess]、否定する材料もない。

 皇室典範で養子が否定されるまで、伏見宮家は、第3貞成(さだふさ)親王より第24代元帥陸軍大将貞愛(さだなる)親王まで、歴代当主が親王宣下を受けているので、それが慣例だったともいえる。

 世襲親王家は、15世紀に成立の客観的条件が整っており、伏見宮が「別格の宮家」「准天皇家」として完全なる傍系化が回避された[久水俊和2020 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店]特別の地位を占めることになったのである。

(五)『椿葉記』に込められた意味を忖度すべき

 『椿葉記』に込められた意味をわれわれは忖度すべきである。「おほよそ称光院の絶たる跡に皇胤再興あれは、後嵯峨院の御例とも申ぬへし。八幡の御託宣に、椿葉の陰ふたゝひ改としめし給へは其ためしを引て椿葉記と名付侍ることしかり」というのが書名の意味で、土御門皇子(のちの後嵯峨天皇)が、出家しようか悩んでいたとき、石清水八幡宮を参詣し、そこで「椿葉影再改」との神託を得たので学問に励んでいたところ、四条天皇が12歳で急逝し、後高倉皇統が途絶、北条泰時の推薦により、図らずも皇位を継承した『増鏡』や『古今著聞集』にある故事に拠っている。

 「皇胤再興」がキーワードだが、「椿葉影再改」とは『和漢朗詠集』の大江朝綱の漢詩「早春内宴賦聖化万年春詩序」(承平2年932)より採られており、天子となって徳高く久しく栄えるだろうとの句である[秦野裕介2020 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版]

 つまり「荘子 逍遙遊」によれば、椿葉の影再び改まる八千年をもって一春とする。大昔、大椿という木があって、八千年を春、八千年を秋としていた。椿葉とは永続性のたとえとみてもよい。

 『椿葉記』には「皇位の正統性を承認・守護する神」である八幡神の御託宣により皇位を継承した後嵯峨院の皇子後深草院の正嫡の皇統(崇光院流)の永続の願いが込められている

 後崇光院法皇の存念を現代に生かすべき。この意見書の核心である。だから③案一択しかない。

 

六)伏見宮の永代存続は世数制限のある令制においても合法で正当

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親王位は、継嗣令皇兄弟条にあるとおり天皇の兄弟姉妹か皇子女の身位で格別の礼遇であったし、同条では五世王は王号を称するが皇親の範疇にあらずとし皇親には世数制限がある。とはいえ五世王と六世王は不課の特典があり、令制皇親は天皇から血縁が疎隔するとフェードアウトしていく制度設計である。このことと、中世後期以降の世襲親王家が代を重ねても、フェードアウトせず、親王位を再生産するステイタスを維持できる制度であることとは矛盾するのではという疑問を持つ人がいるが、これは矛盾せず、全く合法であると申し上げたい。

 13~14世紀には継嗣令では親王位ではない二世王の親王宣下の例は少なくないが、14世紀まで四世王以降の親王宣下はない。上皇や天皇の猶子として三世王の親王宣下の例もあるが後光厳天皇は亀山三世王常磐井宮満仁王の親王宣下の奏請を三世王であることを理由に拒否しているため[松薗斉2010「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)openaccess]。のちに満仁王が親王号欲しさに義満に愛妾を譲り首尾よく願いが叶えられた[小川剛生2005『二条良基研究』 笠間書院 100頁]三世 王の親王宣下は特例だったのである。親王宣下は治天の君の意向次第であり、14世紀には自立的に親王位を再生産できる世襲親王家は存在していない。

 しかし、15世紀には、親王宣下は継嗣令皇兄弟条では皇親ですらない五世王、六世王でも親王宣下が慣例化した。末流の皇胤でも親王位が勅定されうる展開になったのたである。

 嵯峨朝には、親王宣下制となり親王位は生得的身位ではなくなった。土地制度が荘園公領制に移行した院政期以降は、大多数の皇子は入寺得度して法親王もしくは入道親王となった。法親王は院権力による顕密仏教統制を目的として白河院によって創出された制度とされるが、天皇の周囲に配置され、法力によって王権を護持する。門跡寺院には寺領が付随しており経済的基盤がある。宮門跡は一代皇族であるから皇統を形成できないので、皇親を大幅に減らした。

 中世においては皇親が出家して寺に入ることで多くの皇統が消えていった。天皇家は、観応3年(1352)践祚の後光厳より、9世代にわたって限嗣単独相続である。

 分割できる御料がないので当然のことである。天正17年(1589)後陽成皇弟智仁親王に豊臣秀吉より知行三千石が宛行われて、八条宮家が創立されるまで、天皇家に分家はなかった。、

 従って在俗皇親は当然血縁的に疎隔する。親王位は勅別当が補され、政所、家政機関が附く以上、家領と近臣を引き継ぐことのできる世襲宮家は適合的な制度だったといえる。15世紀の皇親制度の変容は以上のような歴史的脈絡から必然的なものだった 。

 つまり、15世紀になると、後円融、後小松の実子が少なかったうえ、称光は皇女のみ。後花園も皇子は御一方だけで、辛うじて皇位継承者は持明院統で確保できたが、天皇の周囲に配置される門跡に入室する人材が払拭していた時期が長かった。

 この事情から、天皇から数えて五世孫以降の末流の皇胤でも上皇や天皇の猶子とされたうえで、親王宣下されることが慣例化した。いずれも大覚寺統の木寺宮か常磐井宮出身の皇族で、北朝に参仕した宮家である(一覧表参照)。

 五世王親王宣下の初例は、後小松院政の応永26(1419) 1221日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞御記』『薩戒記』)。世襲宮家は、天皇家に皇子が少ないときに、宮門跡に入室する人材のプールでもあったのだ[松薗斉 2010]

 応永26(1419)後小松上皇の猶子の後二条五世王の明仁法親王や17世御室の承道法親王の親王宣下は『看聞御記』に記されており『椿葉記』の執筆は永享3年(1431)以降であるから、伏見宮家世襲親王家構想は、五世王の親王宣下が合法化、既成事実化したことをみて、着想されたことは間違いない。

 継嗣令皇兄弟条は五世王以降を皇親の範疇としてないのに、門跡側が親王宣下を望むのは、それは便宜的だというかもしれない。しかし中世の律令法は「准的」等の明法家の法技術によって、令義解の原意にこだわらず現状追認的に合法化できるのであって [保田卓 1997『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)』 教育・社会・文化研究紀要4]openaccess、 猶子という親子関係の擬制で血縁の疎隔を穴埋めすることは、准的「乙は甲と比べてみて、甲と釣り合うもの、同格のものと価値づける」というテクニックで合法になるだろう。

 従って応永26(1419)の五世王親王宣下以降の展開は、継嗣令の原意である皇親が嫡系から離れてはそのステイタスを維持できず、世代を経るごとに劣化コピーする制度を修正し、皇統の正当性が重要というあり方になったのであり、世襲親王家の成立を可能にしたのである。

 宝徳元年(14491023日、常磐井宮直明王の第二王子勧修寺宮恒弘法親王が後崇光院太上天皇(伏見宮貞成)の猶子として親王宣下を受けた。亀山五世王である『康富記』  [秦野祐介 2020前掲書]。五百年来の大学者、一天無双の才人と尊称される一条兼良が現任関白で認めている以上合法である 。

 天皇・上皇の猶子となることによって、末流の皇胤でも親王位が勅定されうる展開は、現代の永世皇族制の皇室典範の考え方に接近している。しかるべき皇統に属する男子であれば、世数で天皇と疎隔した皇胤末流でも皇子に准じた礼遇になりうるということである。木寺宮は後宇多院の譲状により大覚寺統正統、常磐井宮は亀山院遺詔で正嫡とした由緒があるからこそ親王宣下を受けたとも考えられ、将軍家の庇護のもとにあった後南朝皇胤とは明らかに差別化されていた 。

 しかし木寺宮や常磐宮は世襲親王家ではない、あくまでも天皇や上皇の意向次第で親王宣下される存在にすぎないが、後崇光院が亀山院系でも格別の由緒のある木寺宮や常磐宮出身の皇族を猶子として庇護している以上、天皇家と親しい伏見宮の優位は明白で、伏見宮が本当の意味での世襲親王家なのであった。

 

(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について

(一)伏見宮家が正統・嫡流たる由緒、その証拠もある

 伏見宮御一流には、皇統上の格別の由緒がある。『椿葉記』(永享51433道欽入道親王著)が説示しているとおり崇光院流=伏見宮家は後深草院以来の正嫡、嫡流を引く由緒を有する。ゆえに永続してしかるべきでなので、旧皇族の方々を奉載申し上げるべきである。

 伏見宮が持明院統の嫡流を引く、正統たる由緒は、次節以下の主として4点である。

 鎌倉時代の皇位継承において、三種神器だけではなく、太刀契、玄上(琵琶の名器)、鈴鹿(和琴の名器)などが累代御物として伝領されていた。しかし歴代天皇であっても嫡流と、中継ぎ(一代主)とでは差別があった。王家惣領の太上天皇に皇位継承者、所領等経済基盤や両統に分割された文庫等の財産の継承者を決定する権限がある。

 摂関家において殿下渡領という氏長者に相伝する所領、五摂家それぞれの家領があるように、皇室においても皇位継承により相伝される御物と、両皇統の惣領が管理し皇統の正嫡に伝えられる財産に分かれていた。中継ぎの天皇は子孫の皇位継承の見込みがないし、皇統の財産を差配する権限もない。

 直系子孫が皇位継承し、院政を敷くことができるのは原則として正嫡に指定された天皇に限られる。後醍醐のように中継ぎに指定された天皇が全財産を継承しても一期相続なのである。花園や光明は中継の役割に徹したため、持明院統は、14世紀中葉まで分裂せずにすんでいた。しかし大覚寺統では前代以往の治天の君の遺詔や譲状が反故にされ、鎌倉末期には4つの王家に分裂し(大覚寺統正統康仁親王、邦省親王、後醍醐系、恒明親王)が、それぞれ皇位継承の正当性を主張し競望する事態となった。それゆえ中世においては嫡流か傍流かという判別は重要な指標である。

1 延文2年に崇光上皇が嫡流所領の全てを相続した

 観応の擾乱の最終局面(正平7/観応31352)、南朝軍が京都に進攻、北朝三上皇、皇太子花園皇子(光厳猶子)直仁親王が拘引され南朝拠点に連れ去られたが延文2年(1357)光厳法皇は深草金剛寿院、崇光上皇(伏見宮の流祖13341398)は城南離宮伏見殿に還御なる。

王家惣領の光厳法皇は、観応3年譲国の詔宣なく勝手に幕府が擁立した後光厳天皇を「御時宜不快」として認めていなかった。廃太子直仁親王は法体で帰洛し皇位継承を放棄していたため、光厳法皇の承認のもと崇光上皇が、光厳御生母広義門院(西園寺寧子)が保全していた治天の君が管領する全ての財産を相続した[家永遵嗣 2013 「室町幕府と「武家伝奏」・禁裏小番」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 5openaccess]

『椿葉記』は「抑長講堂領・法金剛院領・熱田社領・同別納・播磨国衙・同別納等は、後深草院以来正統につたはる。然は法皇の御譲を受け上皇御管領あり。御堂御領知行する諸家みなこの院に奉公す」と記し、これが崇光院流を「正統」とする第一の理由である。講堂領は後白河院追善仏事料所巨大所領群であった。

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 なお崇光上皇は文和4年(1355)~延文元年(1356)抑留されていた河内国天野金剛寺で、琵琶の秘曲を光厳法皇より伝受され(『秘曲伝授月々例』 [池和田有紀 2020崇光天皇-北朝皇統分裂の始まり 久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝』, 戎光祥出版][秦野裕介2020前掲書]、治天の君となる嫡流の天皇は秘曲を伝授されており、崇光院を正統とみなす第二の理由となる。しかし、後光厳天皇は、応安3年(1370)光厳天皇7回忌宸筆御八講を清涼殿で盛大に営み、光厳院の継承者たることを顕示したうえで [三島暁子 2012『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版]、皇子(後円融)へ譲位する内意を幕府に伝えた。崇光上皇は巻き返しのため幕府に使者を遣わし『椿葉記』によれば「後深草院以来、正嫡にてまします御理運の次第」を説き、皇子栄仁親王20歳(伏見宮初代)の践祚を申し入れたが管領細川頼之は拒否、後光厳皇子の皇位継承を支持する(『椿葉記』[家永遵嗣2013])。

 崇光院は正理・正統の皇位継承を求めたが、後光厳及び近臣による幕府と結びつく戦略が上手だった。伏見宮家ではこのことを長く遺恨とする。

 その後、政治力、廷臣の掌握力で勝る足利義満によって崇光院近臣は制圧され、皇位競望は困難になった。

 応永5年(1398)崇光院崩後、長講堂領等嫡流所領等は没収され、後小松天皇の禁裏御領に編入された[i]。栄仁親王は義満により出家を強いられた。

 但し、栄仁親王は、足利義満より萩原宮直仁親王遺領(室町院領)7箇所(伊賀国長田荘、江州山前荘、塩津荘、今西荘、若州松永荘、越前国磯部荘栗田嶋、備中国大嶋保)の相続と、播磨国衙領の返還が認められた。義満に京極流勅撰和歌集『風雅集』正本を贈ったのはその報謝とみられる。義満薨後に一時接収された伏見も幕府により返還され、最晩年には後小松院の所望で天皇家の象徴たる重宝(准累代御物級)である横笛の「柯亭」*を進献することにより、室町院領全ての永代安堵の院宣等などが下され、世襲宮家として存続できることになった。

 栄仁親王は応永231120日(1416)薨ぜられたが、皇位を傍系から奪還できず、天皇家から宮家に転落したのが伏見宮家であった。

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*後宇多天皇御愛用の楽器で、御筥にお入れになり、常に座右に置かれたとある(増鏡)[今井通朗1962]「平安文学に現れた楽器」東洋音楽研究 16・17]「准累代御物級」「天皇家の象徴」というのは、上記の記録から、玄上や鈴鹿と同じく、皇位継承により伝領されていたと推定できるからである。

2 貞治2年(1363)光厳法皇の置文に伏見殿の御子孫が正統とあること

『椿葉記』によれば貞治2年光厳院置文(1363)に「正統につきて伏見殿(崇光院)の御しそん御管領あるべきよし‥‥」とあり、光厳院は崇光の子孫を嫡流と認定している [村田正志 1984初刊1954]。ゆえに嫡流所領が没収されても嫡流の由緒はどうしても残るのである。

 もっとも置文の正本、案文は現存せず二次史料だが、『椿葉記』の歴史記述は正確であり、叡覧に供される目的で執筆されたので、話を盛っているとは考えにくい。これが、伏見宮が嫡流を引く第三の理由である。

3 持明院統皇統文庫の伏見宮家への伝来

 貴族社会では家記、古記録を伝えている家が嫡流なのである[高橋秀樹19966『日本中世の家と親族』吉川弘文館]。家記の自筆原本・古記録の蔵書が嫡流の証しになる。伏見宮家は嫡流ゆえ持明院統皇統文庫が伝来した。これは14世紀中葉に光厳院が管理した仙洞御文庫目録と15世紀前期に伏見宮が管理した即成院預置目録等の書目が一致するため書誌学的に立証されている[飯倉晴武 2002 『日本中世の政治と史料』 吉川弘文館, 2009 「伏見宮本の変遷-書陵部での整理と書名決定-」 禁裏・公家文庫研究第三輯 思文閣出版,田島公 2004「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収 吉川弘文館4,酒井茂幸 2009 『禁裏本歌書の蔵書史的研究』 思文閣出版]。伏見宮家が嫡流を引く王統といいうる第五の理由である。

 昭和2212月伏見宮の蔵書は宮内府に788部1666点が寄託され、後に国費で宮内庁書陵部が購入した[飯倉晴武 2002]。現存する最も古いものは延喜19年(919)大江朝綱筆の『紀家集』である[ii]

 伏見宮旧蔵本は、中世の天皇家の蔵書をよく伝え[小川剛生2017 『中世和歌史の研究』 塙書房]、鎌倉時代後期宸筆宸記のほか記録類も貴重な自筆原本や古写本のほか、琵琶を中心とした楽書もあり充実していると評価され、書誌学的に総合的に判断し中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された古文書の一部を伝えてきた以上、嫡流を引く由緒を認めるべきである。

 そもそも、天皇ゆかりの宝物や貴重図書は、原則として大内裏内の倉や文庫にあり、典籍・文書は校書殿、内御書所、一本御書所に保管されていた。

  しかし院政期以降は、歴代御記などは院が管理して、天皇は借覧するあり方になった[井原今朝雄1995] 『日本中世の国政と家政』 校倉書房]皇室の蔵書は後嵯峨院崩御時に両統に分割され、日記や政務文書は後深草院に譲られ「和歌并鞠文書」は亀山院に譲られたと伏見院自身が認めているという [小川剛生 2017 『中世和歌史の研究』 塙書房]

 応永24年(1417)伏見宮第2代治仁王は中風で頓死、弟の貞(さだ)成(ふさ)王が伏見宮を継承した。無位無官だったが嫡流ゆえ、本来は持明院統の治天の君が管理する文庫推定213合の膨大な古記録・典籍を相続した[飯倉晴武 2002]。応永8年(1401)の伏見殿の火災で、累代御記文書が焼失したとされるが詳細は不明で、この教訓により即成院、法安寺、大光明寺といった伏見の寺に分散して預置するようになったようである。

 近年では、伏見宮第5代邦高親王より三条西実隆が借用した(『実隆公記』延徳2年(1490)八月条)の、歴代天皇宸筆や皇族御筆、三蹟など平安時代の「古筆」のリストが検討され、このうち弘法大師御筆の法華経、称讃浄土経、無垢清光陀羅尼等、智証大師(円珍)筆の転女成仏経、三蹟藤原行成卿筆の心経、諸仏集会陀羅尼経といった経巻が、写本だが東山御文庫にある後白河院蓮華王院宝蔵の蔵書目録と合致し、宝蔵の蔵書の一部は伏見宮家に伝来したことが立証されている[田島公 2004前掲書]

 本来天皇家が管理すべき皇室の重宝級蔵書は伏見宮に伝来していたということである。

 伏見宮の蔵書は後小松院政期以降、宸筆宸記等[松薗斉 1997『日記の家』 吉川弘文館]、重宝級が天皇家に断続的に進献されており、室町殿への報謝[前田雅之 2018 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館]や将軍来訪時の引出物として、貴族や大名、国人等へ下賜、贈答品とされたもの[小川剛生2017前掲書]、戦乱時の移動等により散逸等、失われたものは少なくない。

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[前田雅之 2018 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館、古藤真平 2018 『日記で読む日本史 3 宇多天皇の日記を読む』 臨川書院、小川剛生 2017 『中世和歌史の研究』 塙書房、松薗斉 1997 『日記の家』 吉川弘文館、伏見宮実録6巻]

 

「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]ともいわれ、戦国時代の伏見宮家は、土佐一条家との姻戚関係のほか今川氏親などへの贈答品などで荘園公領制の衰退による収入減をしのいでいたという見方もできる。

 一方、禁裏文庫は嘉吉3年(1443)禁闕の変で内裏が放火され被害があったほか、応仁文明の乱での被害が大きく、文明8年(1476)の新造内裏類焼で悉く焼失した。その後も歴代天皇は書写、収書活動を続けていく。天文4年(1535)伏見天皇宸記2合が伏見宮第6代貞敦親王より後奈良天皇に進献され(『後奈良天皇宸記』)、後水尾院の文庫に伏見天皇宸記70巻があったという記録があるが[米田雄介 1992 『歴代天皇の記録』 続群書類従完成会]、万治4年(1661)正月に内裏が焼亡し、禁裏文庫の古筆は悉く焼失しているので、この時失われたと考えられる。幸いにも朝儀に関して後西天皇が書写した副本は難を免れ、親本は失われたが、古典籍、古記録の良質の写本を中心に禁裏文庫は再建され、今日の東山御文庫に伝えられている。

 東山御文庫は、天皇陛下の御物であり、侍従職が管理しているが、霊元天皇以降の禁裏文庫は近世の写本が中心なのである。誤解がないように言っておくと、東山御文庫には伝嵯峨天皇宸筆『李嶠雑詠』、宇多天皇宸筆の『周易抄』、『後鳥羽天皇詠三十首和歌色色紙』という名品があるが、これは近衛忠凞が明治天皇に献上したもので、来歴は新しい [北啓太 2016 「禁裏文庫と近衛家」田島公編『近衛家名宝からたどる宮廷文化史』 笠間書院]。また東山御文庫にある伝醍醐天皇筆「自題山草亭」は、明治5年に伏見宮邦家親王が明治天皇に献上したもので、伏見宮家に伝わっていたものである [田島公 2004]

 そうしたことから中世の天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された書籍・文書絵画の一部はむしろ伏見宮家によった近代に伝えられたといえる[田島公2006 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』 思文閣出版]。

 持明院統の皇統文庫には、王権の荘厳なレガリアともいうべき宇多、醍醐、村上、後朱雀、後鳥羽、順徳の日記があった。後南朝小倉宮より足利義教に進められ、さらに後花園に進献された後三条、後朱雀の日記といった平安時代の天皇の日記は室町時代まで現存したが、今日、平安時代の天皇のものは原本も写本もなく、逸文だけが伝わっているだけである。

 そうした諸事情から、もともとあった量からすればかなり少ないとはいえ、伏見宮家で維持された持明院統の天皇の日記は比較的よく残っている。伏見院日記8巻、花園院日記36巻等である。今上陛下が大学卒業時に深い感銘を覚えましたと仰っられた花園天皇の『誡太子書』や『学道の御記』も伏見宮旧蔵本にある。

 永享2年(1430)後花園天皇の大嘗会に際して伏見宮より後小松上皇に代々秘蔵の後深草院より三代の『大嘗会記録』『神膳御記』が進献されている。これは失われたとみられるが、伏見宮で維持されたもので、「建暦二年十月供神膳秘記」があり、後鳥羽上皇が順徳天皇に作法を教申せしめたものだが、後深草天皇が抄録して書写したものを伏見天皇が後伏見天皇のために書写したものが現存しているのである[米田雄介 1992前掲書]。

伏見宮旧蔵本の『御産部類記』19巻は醍醐天皇以降の皇子女の誕生に関する貴重な逸文が多い史料だが、鎌倉中期に西園寺家が所蔵していたが、鎌倉末期から南北朝頃に持明院統皇統文庫に移管された[詫間直樹2003「伏見宮本『御産部類記』について」『禁裏・公家文庫研究 第一輯』思文閣出版]14世紀中葉の光厳院が管理する仙洞御文庫目録や15世紀前期に伏見宮が管理する即成院預置目録にもある。

 同様に仙洞御文庫目録、即成院預置目録にある書物で、伏見宮旧蔵本として現存するものとして、わたくしが調べたところでは、東宮元服部類記、白河朝の左大臣源俊房『水左記』の自筆原本4巻は、もともと蓮華王院宝蔵の蔵書であった[田島公2004]。堀河左府記という書名であった。また現存の行成卿記(権記)全22巻も仙洞御文庫、即成院預置の双方のリストにある。また双方のリストある『本朝世紀』は19巻散逸したが現存している。中右記1巻と、台記(鎌倉写)8巻は、宇治左府記という書名で即成院預置目録にある。

 このように光厳院の仙洞御文庫の書物は伏見宮に伝来し、その文庫の一部は昭和22年まで維持され、現存していることが確認できるので[飯倉晴武2009]、嫡流を引く家系である物的証拠といえるのである。

 現存する古記録が伏見宮の嫡流の由緒を物語り、書誌学的に証明されていることであり、伏見宮家・伏見宮御一流の旧皇族の皇統の正当性を主張できる。嫡流を主張かする第四の理由である。

4 琵琶の習得、秘曲の伝受という嫡流の流儀の継承

 中世において管弦は帝王学の要であり、儒教の礼楽思想により管弦に秀でることが有徳の君主の証とされ、天皇は特定の楽器を熱心に習得した [豊永聡美 1995「中世における天皇と音楽 : 御師について(下)」研究紀要19(東京音楽大学)openaccess 2001「平安時代における天皇と音楽」研究紀要 25openaccess,2017 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』 吉川弘文館] [相馬真理子 1997「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」 書陵部紀要 (49)]

 器物として平安中期より笛が天皇の習得すべきものとされていたが、二条天皇が琵琶を好まれ、後鳥羽、順徳が琵琶の累代楽器「玄上」を弾奏した由緒から [五味文彦 2006『中世社会史料論』 校倉書房,坂井孝一2018『承久の乱』中公新書]、累代楽器の権威構造は累代御物「玄上」-大嘗会の清暑堂御神楽-琵琶の秘曲伝授が中心となり[猪瀬千尋 2018『中世王権の音楽と儀礼』笠間書院]、琵琶が管弦首座として重視されるに至った。

 後深草上皇は亀山天皇に琵琶の秘曲伝受で先を越されたことを悔やまれ、立て続けに秘曲の伝授を受けた[阿部泰郎 2018『天皇の歴史 10 天皇と芸能』渡部泰明、鈴木健一、松澤克行共著 講談社学術文庫]。その甲斐あって、御遊では後深草院が琵琶を弾き、亀山院は笛の吹奏が慣例化したので、持明院統では琵琶の弾奏は譲れない。皇統の正統性にかかわるものとして後深草院流嫡流の天皇は琵琶の習練が必須となった。中継ぎに指定された花園院や光明院の帝器は笛であり、嫡流の天皇とは明確に差別化されていた。

 持明院統嫡流の後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光-栄仁親王-治仁王は、最秘曲の啄木を伝授されている。貞成親王以降は啄木の伝授は受けてないが、貞常親王、邦高親王、貞敦親王は楊真操、両流泉といった秘曲の伝授を受けた[猪瀬千尋 2018]

 つまり、伏見宮家は、琵琶の秘曲を伝承する家でもあり、それが持明院統正嫡の流儀なのであった。

 一方後光厳院流の帝器は笙であり、後花園は実父が琵琶を強く勧め、練習用の楽器も進献されたにもかかわらず笙を帝器とし嫡流の流儀を継承しなかった。

 文明14年(1482)後花園院13回忌の御懴法講では後土御門天皇の笙の御所作に、伏見宮邦高親王が琵琶を合わせていた [三島暁子 2012『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版]。後深草院流以来の流儀を継承していることが、完全に傍系化しない「別格の宮家」であるゆえんである。

5 伏見宮家は18世紀後半においても『椿葉記』の由緒により嫡流を自認していた

 伏見宮16代邦忠親王は病を得て宝暦9年(176062日に薨去する。継嗣とすべき男子のいなかった親王は、伏見宮家は「崇光院已来嫡流格別之家筋」であるので「系脈無断絶速相続被仰出」て欲しいと、亡くなる前に御内儀へ願い出ていた(広橋兼胤公武御用日記525日の条)[松澤克行・荒木裕2008「 刊行物紹介 大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記 九」東京大学史料編纂所報第 44 openaccess]。

 嫡流を絶やさないために実系継承にこだわり、伏見宮家は『椿葉記』の由緒などを理由に邦忠親王弟で勧修寺に入寺得度した寛宝入道親王の還俗を嘆願したにもかかわらず、桃園皇子で後桃園天皇の同母弟が伏見宮を相続し血筋は中切れになるが、17代貞行親王は13歳で薨ぜられたので再び空主となる。しかし朝廷は、幕府が新立の在俗親王家を認めないことから、空主のままにして皇子が降誕された時のポストとする考え方だった。

 伏見宮一門は奥の手を使う。伏見宮は紀州徳川家と代々姻戚関係があって、吉宗、家重の正室は早世したが、御三卿清水重好の室が邦忠親王の妹貞子女王で、親しかった大奥取締松島に嘆願する裏面工作を行った。将軍徳川家治が朝廷に伏見宮の実系相続を要請したことで、安永3年(1774)寛宝入道親王が還俗して18代邦頼親王となり実系相続が継続された[武部敏夫 1960「世襲親王家の継統について-伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」 書陵部紀要 12]

 血筋の中切れを嫌い、実系継承を続行させる矜持は、嫡流の自認にあり、流祖の崇光院崩御から380年近くたった時のことであるが、現在は630年近く経過しているが、400年たっても嫡流を意識されているということは、600年たっても同じことである

(二)後崇光院が本格的な太上天皇であった決定的意義

1 伏見宮貞成親王は太上天皇尊号宣下の一点突破で皇統の付替えを画策(略)

2 実父でなく兄とされた太上天皇尊号宣下詔書と皇統問題

 後花園は実父の太上天皇尊号拝受の要望を黙殺し続けた。この後、後花園親政で嘉吉の変、禁闕の変を乗り切った後、文安4年(144711月になって道欽入道親王(伏見宮貞成)はやっと太上天皇尊号宣下を拝受することができた。

 時に77歳。後小松崩御から14年は待たされ過ぎである。万里小路時房のような強硬に反対する公家の存在もあったが、なによりも後花園天皇が後小松院を慕っていて[秦野裕介2020『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版]、国を譲られた重恩により御遺詔を重んじたゆえ、尊号宣下には慎重だったと推測されている。

 帝に非ざる皇族の太上天皇尊号宣下は当時の認識では(後高倉、後亀山)に続いて3例めであるが、最後まで強硬に反対していた万里小路時房が後高倉の例と同族への厚意としての後亀山の例(明徳51394)の中間の位置づけなら反対しないと折り合ったので実現した(朝廷は南朝を公式に認めていないので、後亀山の尊号は不登極帝の特例としての扱い、南朝による正平の光明・崇光の扱いと同じ)。

 近年、文安4年の太上天皇尊号宣下の詔書が解明され、後崇光院は天皇の実父であるのに傍親とされ、傍親への格別の厚意としての尊号宣下とし、この巧妙な術策により後小松院御遺詔との整合性が図られたことがわかっている。康正2年(1456)の後崇光院(伏見宮貞成)の葬礼で後花園天皇が錫紵装束であったのは「御兄弟分」としての特例であった[田村航2018「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)openaccess]。

 貞成王は応永32年後小松上皇より年長だが、上皇の猶子となって親王宣下を受けており、それゆえ「兄」にあたるとされたのである。従って天皇家とは、猶子という親子関係の擬制による継承も含む、後光厳院流の直系の皇統なのであり、18世紀後半の光格天皇も後桃園の養子とされたので、後光厳以降皇統転換はなされず直系継承なのである。そして伏見宮だけが崇光院流ということになり、通説の天皇家も伏見宮も崇光院流とする村田正志説が否定され、皇統問題は決着した。

 結局『椿葉記』は天皇家を正統たる崇光院流とする目的で執筆されたが、そうならず、伏見宮家が永代存続する皇統上の格別の由緒として伝えられることになったといえる。

 重要なことは、後花園が後小松院御遺詔を重んじたことは、実家の伏見宮を蔑ろにしたわけではないことである。後花園が実弟の伏見宮貞常親王を信頼していたことは、寛正3年(1462)皇儲に確定した皇子成仁王(後土御門)を説諭する『後花園院御消息』で、ことに伏見殿(貞常親王)に対して敬意を表することを説き [田村航 2020]、応仁元年(14677月後花園上皇は、関白再補の一条兼良と式部卿伏見宮貞常親王を勅使として、応仁の乱の調停のため幕府に派遣したことなどのエピソードで明らかである [田村航 2013『一条兼良の学問と室町文化』 便誠出版]

 他方、後花園より親崇光院流(伏見宮)とみなされているのが、伏見宮家で養育された後土御門である。伏見宮や竹園連枝(伏見宮の実弟、宮門跡、禅僧)は宮廷の文芸、遊戯、遊興的行事の多くに召され参仕しており、例えば長享335日の庚申和歌御会は、皇族だけの内々の徹夜行事で、天皇、勝仁親王(後柏原)、伏見宮邦高親王、道永法親王、常信法親王、宗山等貴といった天皇家と伏見宮とその実弟が約60首を詠じている[朝倉尚 1990『就山永崇・宗山等貴』 清文堂]。後土御門が和漢連句文芸を好んだのも伏見宮家で養育された影響だった[小山順子2021後土御門天皇と連句文芸―文芸を導く天皇―芳澤元編『室町文化の座標軸―遣明船時代の列島と文事』]。後土御門は、伏見宮家の菩提寺大光明寺に近接する伏見指月に般舟三昧院を建立し、後光厳院流の泉涌寺に対抗した天皇家の第二の御寺とったとなった[久水俊和, 2020『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』 戎光祥出版] [秦野裕介, YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」, 2020] [川上貢1960「般 舟 三 昧 院 に つ い て「1本建築学 会論文報告集66 」[伊藤唯真1982「知 恩 院 周 誉 珠 琳 と 浄 厳 坊 宗 真」鷹陵史学 8openaccess]

 後柏原天皇も御生母が庭田家で外戚が伏見宮と共通したことからやはり伏見宮や連枝と親しく、後柏原、後奈良は先帝の中陰仏事を般舟三昧院としていることなどから、少なくとも三代の天皇は伏見宮と非常に親しい交流があったといえるから、後花園の判断と別に皇統問題はなお検討の余地があるようにも思える。

 なお般舟院は、豊臣秀吉の伏見築城により西陣に移転。皇室歴代の尊牌を安置していたが、皇室の下付金がなくなったので明治4年に泉涌寺に移された。近年競売され、別の寺になっているが、後花園、後土御門、後奈良の分骨所や高仁親王等の墓所は宮内庁が管理している。

3 後崇光院は本格的な太上天皇であり伏見宮の威信を高めた

 名目上、実父でなく兄弟分で直系尊属にされなかったが、太上天皇尊号拝受は明らかに伏見宮の威信を高めたのである。当時旧三条実量邸が仙洞仮御所(最晩年に一条東洞院伏見殿御所に還御)であるが、御所の室礼と扈従公卿の行粧が整えられ、後崇光は繧繝畳に着座し、晴儀で公事が執行された[久水俊和 2020『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店]

文安5年より元旦には「院拝礼事」が毎年行われ、関白一条兼良、五摂家の近衛教基以下、公家衆より拝賀を受けた。正月十日の将軍足利義政の「院参」も恒例行事として定着するようになった。同時代人より「仙洞」「法皇」「院御所」と称され[田村航2018]、正真正銘の至尊たる太上天皇であった。

 院拝礼事で関白以下の拝賀を受けたことは、伏見宮が別格の宮家となった理由の一つだろう。

 康正2年(1459)後崇光院崩後、伏見宮家の所伝によれば、第4代伏見宮二品式部卿貞常親王に「永代伏見殿御所」号、後崇光院の紋の使用、牛車による参内が勅許された。それはたんに、実弟ゆえの厚遇ではなく、崇光院流=伏見宮は、格別の由緒と嫡流の流儀を継承している正当性ゆえとみてよいと思われる。

 久水俊和[2020  『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店]によれば「崇光院流の流儀は王家のなかでは別格であり」、伏見宮家は「崇光院流の正当性を担保し」「皇位継承への一縷の望みを遺す世襲親王家に転成した」、「別格の宮家」「准天皇家」とされる  。伏見宮は完全なる傍流化を回避されたということを言っている。

 4代貞常親王の元服加冠役は関白二条持基で後花園天皇と同じ。5代邦高親王の元服加冠役は准后前左大臣足利義政で後年の後柏原天皇(勝仁親王)と同じで将軍家が後見者とされた[小倉慈司2010 0「親王・王成年式表」『書陵部紀要』61]

 この後、伏見宮は、天皇家と血縁的に疎隔しても親王家としてのステイタスは劣化せず、皇親の身分からフェードアウトしない自立した世襲親王家という特別のステイタスを獲得した。

 第3代の後崇光院太上天皇(貞成親王)以来第2224代貞愛親王(崇光15世王・元帥陸軍大将)まで、歴代当主は親王宣下を受けている。

 明治22年の皇室典範で世襲親王制度は廃止され、第25代伏見宮博恭王(元帥海軍大将・軍令部総長)以降、伏見宮は王号を称するが、昭和22年に第26代博明王(崇光18世王)が皇籍を離脱するまで、流祖崇光院崩御より約550年、式部卿や中務卿等に任用され、しかも他流を交えず(例外、桃園皇子17代貞行親王)、実系継承で皇族の崇班を継承した意義は甚大である。

 

三)伏見宮の永続性には合法的な根拠がある

 中世皇統である伏見宮に永続性の由緒があることを強調したい。柱は次の3点である。

1 応永23年後小松上皇より室町院領永代安堵の勅裁

 伏見宮初代栄仁親王は、室町院領(後高倉皇統追善仏事料所荘園群-萩原宮遺領)について応永23年(1416)に後小松上皇より「永代」安堵の院宣を得ている。これは白根陽子[ 2018「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開』 同成社]の専論で詳しく研究さ れている。『看聞御記』応永2393条によれば「室町院領永代可有御管領之由載勅裁(中略)殊更永代字被載之条、御本望満足珍重也」。永代安堵については、植田真平・大澤 泉2015「伏見宮貞成親王の周辺『看聞日記』人名比定の再検討」書陵部紀要 66]が『看聞御記』のほか『後小松院御消息類』、後小松上皇書状案 図書寮文庫所蔵 伏-七九四 『後崇光院御文類』栄仁親王書状案 図書寮文庫所蔵 伏-七六五を史料として参照指示しているので史実である。

 伏見宮家は、皇室領の一部を治天の君により永代安堵されたのだから、この由緒を重んじ、政府は伏見宮に永代存続の意義を認めるべきだ。

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2 『椿葉記』の伏見宮家当主を永代天皇の猶子となし奉る構想の奏上

 『椿葉記』(著者・道欽入道親王=伏見宮貞成)は、後光厳院流天皇家も崇光院流伏見宮も実系では崇光院流一統になったのだから、過去のように不仲となることなく親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉るべきことを実父からの要望として奏上している[村田正志 1984初刊1954]。これは、伏見宮を世襲親王家とする構想である[小川剛生2009 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社][田村航 2018]。

 『椿葉記』は朝廷が公認した歴史書でないが、至尊たる太上天皇になられた方の著作である以上、政府は『椿葉記』の由緒に基づく伏見宮の永続性を認めるべきだ。

3 康正2年の「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝

 後崇光院法皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」にある伏見宮第四代二品式部卿貞常親王が、後花園天皇より「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝(「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申‥‥)[小川剛生2009][田村航2018]について、裏付ける史料がなく慎重に扱うが、近年、世襲親王家の公認であり、あるいは、実父の意向に天皇が応えたものとして、後光厳院流と崇光院流を両立させ、伏見宮家の「永世」にわたる存続したものという積極的に評価する歴史家が多いことは注目してよい[iii]

当時、世襲親王家が成立する客観的条件が整っており辻褄が合うからである。天皇や上皇の猶子という親子関係の擬制により、准的に皇子に准じた礼遇とされることにより、五世王、六世王の親王宣下が15世紀に慣例化、合法化(一覧表「五世王、六世王の親王宣下」参照)されたことにより皇親概念に世数制限が事実上なくなったことがある[松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25][iv]

 令制では五世王、六世王は不課の特典が認められていたが、継嗣令皇兄弟条の原意では皇親の範疇にはない。にかかわらず、親王宣下された。

 従って、仮に「永世伏見殿御所」勅許の所伝を疑うとしても、伏見宮家は永続性のある世襲親王家であることが事実上公認されていたことに変わりないし、15世紀に天皇や上皇の猶子と親子関係の擬制により血縁の疎隔を穴埋めして、しかるべき皇統の御子孫ならば世数制限を問題にしなくなった歴史的経緯により、合法的な制度として説明できる。

 それゆえ550年間、皇族の崇班を継承し、皇統嫡系の後光厳院流天皇家と併存してきた。

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(四)幕末維新期以降 伏見宮系皇族の繁栄の意味

 幕末維新期に、皇室の脱仏教化がトレンドとなって伏見宮系の門跡が続々と還俗、宮家が創設された。勧修寺門跡だった山階宮晃親王が元来仏教に批判的で、文久以降慶応年間にかけて、島津久光らに対して宮門跡の還俗を主張し、皇族の出家や門跡寺院の制度そのものの廃止を盛んに訴えていた[藤田大誠2006綜合仏教研究所年報 (36)]。そして明治元年に皇族の出家が禁止された。晃親王は律令体制を理想としており、還俗を促した目的は、皇族を政治勢力として成長させることにあったという見方もある

 15世紀以降、天皇家に皇子が少ない時期がしばしばあって、世襲宮家が宮門跡に入室する人材を供給した。伏見宮家では15世紀から19世紀まで宮門跡を多数輩出した実績が認められる。

 東山時代に御室は木寺宮出身だが、梶井、上乗院(仁和寺脇門跡)、勧修寺、妙法院、竹内(曼殊院)、聖護院が伏見宮邦高親王の実弟で占められていた。とくに道永法親王(仁和寺脇門跡)や常信法親王(勧修寺門跡)が後土御門天皇の宮廷で文芸、遊戯的行事に多く参仕している[朝倉尚 1990]。

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 天正15年の秀吉の関白就任時は、御室、青蓮院、妙法院、梶井が伏見宮出身者で占めていた。幕末期も同様に伏見宮系の門跡が多かった時期にあたる。

 近世門跡の研究では、宮門跡の実父や養父にあたる天皇家や親王家は門跡の運営にも関与し、門跡寺院組織構成員が親王家当主に伺いを立て、門跡は皇室や宮家の統制を受けていた。

 したがって、幕末維新期に在俗親王家が多数創立されたことは、明治になって突然伏見宮系皇族が増えたというわけではない。時代によっては伏見宮連枝が法親王として多くを占めていたわけである。

 幕末期に青蓮院門跡であった中川宮(文久31863、その後賀陽宮、久邇宮)、勧修寺門跡であった山階宮(文久41864)、30世御室仁和寺宮(慶応2年/その後、東伏見宮、小松宮と改称)が還俗。

 王政復古を契機に慶応4年(明治元年/1868)に聖護院宮(慶応 4 8 月に嘉言親王の薨去により消滅)、知恩院門跡より華頂宮、梶井門跡より梶井宮(その後、梨本宮と改称)、聖護院に入寺した信仁入道親王が照高院宮(その後、聖護院宮、北白川宮を改称)としてそれぞれ還俗して創立され、明治4年に三宝院門跡から還俗した伏見宮出身の載仁親王が継嗣のない世襲親王家、閑院宮家を継承し、明治14年(1881)に東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)が世襲親王家に格上げされ、永代存続する伏見宮系の世襲親王家は三家となっている。山階宮と久邇宮は二代皇族とされ、華頂宮は特旨により、梨本宮は養子によって、北白川宮も兄の能久親王が後嗣となって宮家が継承され存続、さらに明治皇室典範により永世皇族制を前提として存続することとなった。

 報道では久邇宮系と、北白川宮系末流に男系男子がおられるということだが、全体のイメージを掴むため、幕末維新期の国政にかかわる皇族として久邇宮、山階宮、小松宮、北白川宮と、閑院宮のプロフィールを簡潔に記し華頂宮については、後段で言及する。

〇久邇宮

 幕末期の最初の還俗の例は、青蓮院門跡だった中川宮朝彦親王(伏見宮邦家親王第4王子、その後、一会桑政権と連携していた時期に賀陽宮と改称、一時宮号の停止後、久邇宮と称する。)であるが、文久2年還俗以前に国事御用掛に任命されており、文久3年(1863年)一橋慶喜の建白により還俗し、公武合体(親幕)派として、同年の818日の政変(尊皇攘夷過激派を京都から追放した)で宮廷を動かし、孝明天皇、慶喜を陰で支えるなど大きな影響力があった[徳田武2011『朝彦親王伝』]。しかし第二次長州征伐失敗で失脚状態になり、尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ、明治元年には親王位を剥奪されるが、明治8年に久邇宮として復位。京都のかつて親子内親王所有だった下立売門内の土地を宮邸とする。伊勢神宮の祭主に就任、明治15年に神宮皇學館を設置した。梨本宮守正王、皇室典範以降新立の賀陽宮、朝香宮、東久邇宮は久邇宮朝彦親王の御子孫である。

〇山階宮

 勧修寺門跡だった山階宮晃親王(伏見宮邦家親王第一王子)の還俗は、雄藩が朝廷改革を志向し、提携できる皇族とみなされたためである。一橋慶喜、松平慶永、松平容保、伊達宗城、島津久光の連署による願出によるもので、孝明天皇が不快感を抱いたため朝廷の抵抗があったが、薩摩藩が主体となった運動により還俗の道が開かれた。慶応元年以降は、幕府と結びついた中川宮や二条斉敬の朝廷主流派に対抗し、正親町三条実愛ともに朝廷内の王政復古派を形成、孝明天皇により国事御用掛を罷免、蟄居に追い込まれたが、孝明天皇崩御で復権した[高久嶺之介1981「近代皇族の権威集団化過程その 1 近代宮家の編成過程」社会科学(27openaccess、熊野秀一2014]。王政復古後、議定・外国事務総督に就き、明治政府の外交トップとなった。

〇小松宮

嘉彰親王は、邦家親王の第8王子で仁和寺門跡から還俗し、仁和寺宮東伏見宮小松宮彰仁親王と改め、明治新政府議定、軍事総裁、奥羽征討総督等の維新以来の功労が認められ、明治14年に家格を世襲親王家に改められる。明治23年陸軍大将、31年元帥。36年薨去、国葬を賜る。

〇北白川宮

 邦家親王第13王子の初代智成親王は17歳で明治5年に薨去。邦家親王の第9王子の兄能久王を後嗣と遺言したため、第2代能久王とは輪王寺宮門跡公現入道親王であった。戊辰戦争で奥羽列藩同盟の盟主として擁立され「東武天皇」だったという説がある。仙台藩が降伏し新政府により処分を受け親王位を解かれていた。明治11年親王位に復位、日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、明治28年現地でマラリアに罹り薨去。国葬を賜る。竹田宮は能久親王の御子孫である。

〇閑院宮

 閑院宮は東山天皇皇子の直仁親王から五代実系で継承された世襲親王家だが、第5代愛仁親王25歳の若さで薨去。後嗣が無かったため、孝仁親王の妃で愛仁親王の生母の鷹司吉子(初代直仁親王の曾孫)が当主格とされ、三宝院門跡だった伏見宮邦家親王第十六皇子の易宮が明治4年に第6代として継承、明治11年に載仁親王と称し伏見宮系の血筋の宮家となった。元帥陸軍大将、貴族院議員、昭和206月国葬を賜った。

 

五)旧皇室典範の問題点

1 世襲親王家の廃止

 明治22年(1889)旧皇室典範によって、歴代が天皇の猶子という親子関係の擬制により、血縁が疎隔しても皇子に准じた礼遇として親王宣下を受け、ステイタスが劣化することのない世襲親王家は廃止されることとなり宮家の格差をなくし、養子相続も否定されることになった。世襲親王家であるこの伏見宮、閑院宮が親王号でなく王号を称するようにしたのは明らかに格下げといえる。

 令制では親王家には親王庁(政所)が附属し廷臣を従える格別の待遇だった。『江家次第』などによれば、公卿のうちから勅別当が指名され、家司・御監・職事・侍者・蔵人が補された。応安元年(1368)栄仁親王(伏見宮初代)の親王宣下では本所の儀という親王庁の構成員を任命する、王朝時代の習わしがまだ行われていた[小川剛生 2009]。それだけ格式のある親王家が500年以上続いてきた(例外第2代治仁王)伏見宮がたんに王号を称することになったのは明らかに格下げである。

 とはいえ旧皇室典範31条は「永世皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」とされ実系で男子が続く限り永世皇族制とされたのであり、当時、実子のなかった小松宮も含めれば、伏見宮系7つの宮家が永世皇族制のもとに存続することとなった。

 世襲親王家家の制度は否定されたが、伏見宮系7家のうち6家は男子が続くかぎり存続することとなったことは一応良しとしてもよいだろう。

 ただし、皇室典範起草の過程で皇族永世主義とされるまで以下のような紆余曲折があった。内規規取調所案は世襲親王家を廃止し世数制限するものとしていたが、井上毅は親王宣下と天皇の養子廃止に反対し、世襲親王家は「継嗣を広め、皇基を固くする」ものとしてその存続を主張した。また、欧州諸国では王族の子孫はいつまでも王族で人民に降ることはないとしてプロイセンの王家の2分家の例をあげ、両家は家格も王家と同じで世襲親王家に相似しているとして、世襲親王家廃止に疑義を呈したが、柳原前光が世襲親王家について封建時代の因習という否定的な評価をとったがゆえに廃止した[山田敏之2018 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」 レファレンス(808)openaccess]。

 さらに、柳原前光は、伏見宮の血統が皇位から遠く、五世以下の皇族は皇系疎遠なるものから逓次降下させる案を伊藤博文に問い、伊藤の賛成を得た。

 柳原の見解は伏見宮の由緒を無視しているといえるだろう。先祖の柳原資明は観応擾乱後の崇光上皇の別当なのに。

 井上毅は、五世以下を皇族としないのならば継体天皇の継承に差支えを生じるなどとして反論したという。

 ところが、枢密院諮詢案では、伊藤博文により五世以下の皇族を臣籍降下可能として、疎遠の皇族より適用するという臣籍降下規定が削除され、永世皇族主義が適用されていた。枢密院に諮詢される前に突然、方針が変更されたのだ。

 最終的には皇室繁栄のために井上毅や宮内書記官の三宮義胤が言及していた永世皇族主義となったのである[西川誠2019 9「皇室典範の制定-明治の皇位継承」歴史学研究会編『天皇はいかに受け継がれたか』績文堂]

2 小松宮と華頂宮の養嗣子の臣籍降下

 明治36年の小松宮彰仁親王薨去の際、養子であった弟の依仁親王の継嗣が停止された。養子相続が皇室典範で否定されたからである。小松宮は一代で断絶したが、依仁親王は新たに東伏見宮家を創設する。これは小松宮の旧宮号である。小松宮家の祭祀を承継したのは北白川宮能久親王第4王子輝久王で臣籍降下し小松侯爵となる。

 また華頂宮家は、知恩院より還俗した博経王が初代。明治16年第2代博厚王が8歳で薨ぜられたため、伏見宮貞愛親王の庶子博恭王が華頂宮を相続したが、明治37年伏見宮家の嫡子邦芳王が不治の病を理由とした請願により廃嫡とされたため、博恭王は伏見宮家に復帰した。このため第4代華頂宮は勅命により博恭王の第二王子博忠王が入った。しかし博忠王は大正13年嗣子なく23歳で薨ぜられたで、宮家は途絶えたが、博恭王の第三王子で博忠王の実弟博信王が、大正15年祭祀を承継し臣籍降下し華頂侯爵となる。

 実弟の養嗣子さえ認めていれば華頂宮は存続できた。

3 明治25~39年創設の5宮家と明治40年皇室典範増補

 とはいえ皇室典範施行以後も伏見宮系宮家は増加した。賀陽宮邦憲王(明治25年)は、久邇宮の家督を継承する予定だったが、病身のため弟の邦彦王に家督を譲り、病状が回復し、久邇宮邦彦王が伊藤博文と明治天皇に情願して宮家が創立された。賀陽宮は、朝彦親王が一会桑政権と連携した時期に称した宮号である。東伏見宮(明治36年)は小松宮の継嗣を停止して創立した。明治39年には三家が創立、竹田宮、朝香宮、東久邇宮であるが、図表のとおり明治天皇の皇女が嫁している。いずれも永世皇族制のもとで創立された。伏見宮系は12宮家となったのである。

 しかし明治40年以降は伏見宮系の宮家は増加しなくなった。

 明治40年皇室典範増補第一条により、王(旧皇室典範では5世王以降)ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシとされた。

 大正9年以降宮家の次男以下の男子は情願により臣籍降下が慣例となったため、この後、伏見宮系の宮家は減少(華頂宮が途絶)することはあっても創設されなくなった。

 皇室典範以降の問題点は、永世皇族制となったとはいえ世襲親王家が廃止され、天皇の猶子という親子関係の擬制により血縁の疎隔を埋め合わせする准的な制度、それは中世公家法の法技術により正当であるのそれを排したこと。それは、『椿葉記』天皇家と伏見宮は親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉るべきことした由緒を顧みなかったことの問題がある。

 後崇光院が「始終御猶子」というのは、永代親王家ということで、この由緒を無視してしまったことは非常にまずかったと思う

1_20240410003801

(五)大正9年の永世皇族制放棄政策の問題点(略)

(六)「準則」の背景として南朝正統史観の影響とその克服の方途(略)

(七)宮家の数の適正規模

 伏見宮は中世皇統であるが、以上述べた皇統上の格別の由緒、歴史的脈絡から、国家的給付を受けて永続すべき権利性があるというべき。伏見宮と分家にあたる宮家は皇室典範によって格差がなくなったため、伏見宮の由緒は横並びになった御一流の方々の由緒でもあるから、皇族が少なくなっていることが問題なのだから、皇籍復帰のために財政支出を惜しむ必要などない。

 応永23年(1416)伏見宮初代栄仁親王は後小松院より室町院領を永代安堵され、康正2年(1456)第4代二品式部卿貞常親王にの「永世伏見殿御所号」と後崇光院太上天皇の異紋の勅許、牛車による参内の勅許の所伝等により伏見宮は別格の宮家として永続が約されているので、当事者から仰らないとしても、永続を約されている由緒を政府は客観的に認めるべきである。

 宮家の数の適正規模については、中川八洋[1918 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』 ヒカルランド]は皇統護持に必要な宮家1415としている。明治39年の段階で皇太子を含め永世皇族制のもとで1415前後、親王家、宮家が存在していたのだから、それを基準にしているようだが、わたくしは別の観点で伏見宮系は412宮家復活、創設という提案である。

 中川氏より渋ちんな考えだが、最低でも15世紀の伏見宮家の実効知行地経済規模分を復活させる徳政と言う観点である。プラスアルファ分を含めて、412宮家という提案である。

1440年頃の伏見宮の家領[v]の年収は二千貫相当で現金換算で約2億円相当[秦野裕介YouTube2022「戦国大名 47-7 足利家Ⅶ 天皇家と足利将軍家」日本史オンライン講座 55分過ぎの発言]に対して、当時の禁裏御料等、天皇家の収入は75千万円[vi]と試算されているが、令和4年常陸宮家の皇族費が4575万円、三笠宮家が5856万円、高円宮家3690万円余と比較すると、一つの宮家で皇族三方だと五千万円以上になるから、15世紀の伏見宮の年収は、現代の宮家4家分の経済規模にすぎないとはいえる。年収2億円はたいしたことはないともいえるが、それゆえ従える廷臣はの庭田、田向、綾小路等に限られてはいる。

 具体的には、秦野裕介「伏見宮家領における鮭昆布公事についての基礎考察」研究論集歴史と文化4 2019に、伏見宮の財務状況に詳しい。

後花園天皇践祚以前は、後嵯峨の御分国を後深草が相続したという由緒のある播磨国衙領260貫、同別納229貫、室町院領160貫(若狭国松永荘、近江国塩津荘、今西荘、日向国大嶋保)以上649貫、後花園践祚の後、足利義教の差配で、室町院領の近江国山前荘(350貫)と熱田社領(450貫)、同別納(100貫)が返還されたうえ、「鮭昆布公事」(504546貫)が新たに加わり、約2000貫(現金換算して約2億円)となる。しかし推定2億円というのはあくまでも実効知行地と足利義教の差配により永享8年以降伏見宮の権利となった年収500貫以上あった「干鮭昆布公事」の上納金と旧仙洞御所跡地の地子収入等の合計なので、名目上の家領は、不知行地も含めるとかなりの規模になるはず。プラスアルファとは、不知行地を含めた名目的所領と財産を含めた総合的観点である。

 伏見宮初代栄仁親王が、後小松上皇に、崇光院が秘蔵していた天皇の象徴たる累代御物に准じた「天下名物至極重宝」という名笛「柯亭」[vii]を進献したことと引き換えに永代安堵された室町院領とはもともと百か所以上の巨大荘園群を両統で分割相続したもので[viii]、不知行地の権利も含めると経済規模は数億円からもっとあるはず。

 また伏見宮家の財産には文庫の膨大な貴重な書物があった。「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]というのは言い過ぎではない。

 小川氏のような博識で評判の専門家が伏見宮は銀行のようなものと言っている。年収2億円どころではない財産があった。

 荘園公領制は戦国時代に崩壊過程となり、豊臣秀吉が公家の家領と洛中の地子収入を収公して再給付したことにより中世の所領とは全く違うものになった。近世では知行充行権は江戸幕府にあり、知行は幕府の麾下にあった[山口和夫 2017『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館]。伏見宮家領は表向き一千石実収四百石程度の近世領主にすぎないといわれるが、そこを見ていただけではだめだ。かつては後高倉皇統追善仏事料所荘園群とか後嵯峨院の御分国だった播磨国衙などの本物の皇室領を家領としていたというべらぼうな由緒のある伏見宮家が昭和22年まで存在していたのだ。秀吉や幕府に知行を充行われて創立された近世以降の宮家とは格式が違うのである。最低でも4家~12家の再興、創設が妥当という結論になる。現代における本領回復に相当する徳政があってよいと考えるものである。

 以上、伏見宮御一流ができるだけ多く、直接皇族に復帰すべきであり、それは皇統上の格別の由緒、永代存続が約され、皇室領荘園の永代安堵の院宣、後深草院流の正統、正嫡を引くゆえ完全に傍系化してフェードアウトしない皇統との位置づけがあったこと。格別の宮家、准天皇家としての由緒を重んじてのことであることを述べました。

 以上。別バージョンの草稿が多数ありhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-f03e6e.html

筆者のブログからエバーノート公開リンクに入りご覧いただけます。テーマ、内容は概ね同じもの。

 

[i]  光厳院は晩年の貞治2年(1363)の置文で、栄仁親王が践祚するか、両統迭立ならば崇光院流が長講堂領・法金剛院領を相続するが、そうでなければ後光厳天皇が相続するものとしたので、『椿葉記』では所領没収を正当なものとして認めている[飯倉晴武2000 0 『地獄を二度もみた天皇 光厳院』 吉川弘文館]

但し、置文には崇光院流を正統とする記述があり、所領の没収は嫡流転換を意味せず、没収されても嫡流と主張できる。天皇家と伏見宮家が550年間併存したという理由の一つは、光厳院置文にもあったのである。

[ii] ちなみに『椿葉記』の書名の由来である「椿葉影再改」とは『和漢朗詠集』の大江朝綱の漢詩「早春内宴賦聖化万年春詩序」(承平2年932)より採られており、天子となって徳高く久しく栄えるだろうとの句である[秦野裕介2020]。大江朝綱自筆が残っていることはすごいことである。

[iii] 後崇光院法皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」「永世伏見殿御所」号勅許という所伝(「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申‥‥」) 勅使庭田長賢は伏見宮近臣でもあり、後柏原天皇生母の典侍庭田朝子の父である(贈内大臣)。

ただし、国文学系の小川剛生[2009「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社]が、裏付ける史料がないことから慎重に扱いたいとしており、複数の史料がない以上史実と断定しにくい難点があるが、にもかかわらず歴史家が積極的に評価するのは理由がある。

 崇光三世王の貞成王は応永18年に40歳で元服、服装はそれまで「半尻」姿だった。応永32年父栄仁親王と皇位継承を争った後円融院33回忌の写経供養に参加したことで、後小松院猶子として54歳でやっと無位無官から脱し、親王宣下を拝受できたのだから、この時点では伏見宮は世襲親王家ではない。

伏見宮第二王子、第4代貞常親王は、文安2年(14453月関白二条持基を加冠役として元服し、6月に親王宣下を受けた。時に21歳、文安33月任式部卿、文安43月二品に叙せられたのは厚遇といえる。同年8月家領を譲られて第4代伏見宮当主となった[小川剛生2009]。もっとも継嗣令では天皇の兄弟は親王と規定されているから親王宣下は当然ともいえる。

「永世伏見殿御所」号勅許の後、伏見宮家は文明6年(1474)に第5代邦高親王が後土御門猶子として19歳(元服加冠役は准后前左大臣足利義政)、文亀2年(1502)に第6代貞敦親王は後柏原猶子として17歳で元服と同時に順調に親王宣下を受けている。したがって、この所伝がなかったとしても、事実上、歴代当主の親王宣下が慣例となったことはいうまでもない。実質邦高親王以降が世襲親王家といってよいだろう。

 以下、歴史家等の「永世伏見殿御所」号勅許の所伝のコメントを引用する。

 

A 新田一郎氏(法制史)のコメント

「親王たるステイタスを長期にわたり安定して継承する本格的な世襲親王家は伏見宮家を以て嚆矢とする。貞常が後花園天皇から永世にわたり「伏見殿御所」と称することを勅許された、とする所伝があり、これによって、伏見宮家が皇統嫡系との距離に依存せずに自立し継承される世襲親王家してのステイタスを確立した、とする解釈が示される場合がある。こうして天皇家直系と伏見宮家は皇統の内部で画然と分かたれ、それぞれ継承されるべき役割を異にする家として成型される。伏見宮家はその家産とステイタスを継承する世襲親王家として成型され、皇位の正統の所在は擬制的な直系へと固定されたわけである。」 [新田一郎 2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社]

 

B 田村航氏(中世史)のコメント

「伏見宮は『故院』すなわち貞成の生前の異紋を、そのまま位袍などに使用することが許可された。これは貞常親王以降の伏見宮が、後崇光院=貞成親王をよりどころにするということである。同時に「伏見殿御所」の「永世」にわたる存続も約された。これは貞成が後小松院の猶子として受けた親王宣下をふまえ、貞常王、邦高王、貞敦王、邦輔王がそれぞれ後花園・後土御門・後柏原・後奈良の歴代天皇の猶子として親王宣下を受け、以降同様に継承されていったことをさす。かくして伏見宮は親王の再生産をつづける特別の地位を得たのである。

‥‥後崇光院=貞成から伏見宮が得られる正統性を制度的に裏付けたもので、伏見宮の当主が世代を重ねても天皇家と疎遠となる事態が避けられた。‥‥‥伏見宮は代々の親王宣下で皇位継承権を担保され、ここに崇光院皇統のある種の再興が果たされた」 とする [田村航 2018「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)]

 上記の見解は、後花園が後光厳院流を継承したので、実家の伏見宮と宥和政策をとったという脈絡での説示である。

 

C 秦野裕介氏(中世史)のコメント

「後花園は、弟の貞常に伏見宮家の継承と、その『永世』にわたる存続を約した。そして伏見宮家の当主は代々天皇の猶子となって親王宣下を受けるという特殊な形がとられるようになった。ここに後光厳皇統と崇光皇統の両立が完成したのである。」 [秦野裕介2020『乱世の天皇』東京堂出版225]とする。田村航説の参照指示ありそれをふまえた見解。

 

D 松薗斉氏(中世史)のコメント

「貞常親王が「永世伏見殿御所」と後花園から許可されたという伏見宮も、代々天皇の猶子となって親王宣下を受けなければならないわけで、基本的には‥‥中世の他の宮と同じである。むしろ持明院天皇家の家記・文書を継承し、現天皇家の「家」の機能を補完する側面が「家」としての継続を可能にした」 。中世の皇統文庫を維持、継承していたことが伏見宮家の強みだったという見解 [松薗斉 2010「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)openaccess]

 

E 小川剛生氏(中世和歌史)のコメント

「この御記の内容はいまのところ他に裏付がないので、当面この説の信憑性には慎重にならざるを得ないが、ここで後崇光院の紋を使用すること。また、「御所」の号を永代にわたり許されたというのは、これをもって世襲親王家の存在を公式に認めたということになるだろう」 [小川剛生 2009]

 

[iv] 五世王親王宣下の初例は、応永26(1419) 1221日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞御記』『薩戒記』)。後小松院と明仁法親王、承道法親王は13親等離れている猶子だが、門跡寺院側は、威信にかかわるので親王宣下を望んだ [松薗斉 2010]。 

[v] 伏見宮第3代貞成親王(道欣入道親王)より4代貞常親王への御譲状「後崇光院院御分類」第四巻十五[横井清2002『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫 旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて 1979 389頁]

相伝御領以下目録在別紙譲進之候、永代可有御管領候也

文安三年八月廿七日 (御花押)

追伸

記録文書以下同可有御管領候、代々御記禁裏へ進之候、可得御意候、御領之中男女御恩不相替可有御扶持候也

譲進

  • 伏見御領

五ヶ加納

一、播磨国衙

別紙十カ所 但当時七カ所管領

  此地御祈 伊和西 玉造保 粟賀加納

  石見郷 市余田 佐土余部

  • 熱田社領

付藪郷

  • 江州山前南庄

同七里村、八里村 北庄役

  • 昆布干鮭月俸
  • 若州松永庄一円
  • 江州塩津庄、同今西庄
  • 丹波草野 同戸野谷
  • 播州平野五名半分
  • 同国餝摩津別符
  • 筑前住吉社
  • 日向国大嶋保
  • 一条東洞院敷地 仙洞旧跡

已上

右管領所々、式部卿親王所譲与如件、此内人給寄進等有之、不可有相違者也、

文安参年八月廿七日 (御花押)

[vi] 久水俊和 2020 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

[vii]Photo_20240410002601

[viiPhoto_20240410002801 i]

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