pdf ダウンロード 安定的な皇位継承・皇族数確保を巡る協議に関する意見「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する」案は当面の特例とし皇室典範12条改変により恒久的制度としない旨要望
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令和7年2月13日
国会議員へ
安定的な皇位継承・皇族数確保を巡る協議に関する意見
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令和7年2月13日
国会議員へ
安定的な皇位継承・皇族数確保を巡る協議に関する意見
令和7年2月13日
国会議員へ
安定的な皇位継承・皇族数確保を巡る協議に関する意見
川西正彦
取るに足りない軽輩でありながら、厚かましくも送り付ける無礼をお許しください。
私の意見は昨年一部の国会議員に送付したとおり、有識者会議の①案「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する」に反対、皇室典範12条改変に強く反対 、③案「皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすべき」というもので、②案「養子縁組を可能とし皇統に属する男系の男子を皇族とする」、現存宮家当主より承継の要望があった場合の選択肢とする。でしたが、衆参両院の協議では、①案は大筋で各党の合意を得ており、②案支持の政党は少なくないが合意を得ていないとの中間報告でありました。
強く不満でありますが、趨勢は①案実施の方向性ということなら、実施を前提として、やむをえず次善の策として以下の3つの条件を要望します。
一 ①案実施はあくまでも、当面の措置、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員の担い手となる皇族が不足する事態を避ける目的とすること。
二 皇室典範12条改変は行なわない。恒久的制度にせず、当面の皇族減少期の特例措置として実施する。
三 ①案を実施したとしても、17世紀に四摂家に降嫁した内親王・皇女の九例は、摂家の嫁取婚であり、嫁迎えの儀式(※1)、夫方居住(※2)、婚家の墓所(※3)で共通している。墓所は宮内庁治定とされていないのでこの前例を踏襲すること。
つまり納采の儀を行うこと。夫家の私邸居住で、豊島岡墓地に埋葬されない。勿論、女性皇族には摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員、その他の公務をなされる以上、相当の皇族費が支給されるうえ、結婚時には相当に高額の化粧料、道具料(持参金)を用意するものとなる。
入婿や現存宮家同様の御料地での居邸は前例がなく強く反対する。
モデルとしては後水尾皇女で近衛基熙正室の常子内親王、霊元皇女で近衛家熙正室の憲子内親王とする。
そもそも、有識者会議は仮に①案を実施しても女性皇族に皇位継承権を付与せず、配偶者、所生子も当面皇族としないで将来身分を検討するものとし、②案も当事者は皇位継承資格を付与しないことを示し、悠仁親王殿下の次の皇位継承者を、男系男子か男女共系に変革するかという問題は殿下の結婚の時期頃まで先送りとする趣旨のものであった。
つまり殿下は健康であっても、事故や疾患に陥るリスクは想定外ではないから摂政となる皇族が必要。病気療養や外国訪問の際の国事行為臨時代行は頻繁にあるので、その担い手となる皇族も必要。皇室会議議員も必要なので、皇室を支えるため、女性皇族に結婚後も皇族の身分を維持とするという趣旨に限定し、配偶者や所生子を皇族とするか、西欧のような男女共系初生子相続に移行するかは、親王が結婚する時期まで先送りとすべきである。
にもかかわらず、事務局資料は、恒久的制度とする、そのために12条改正を強く示唆する内容で、先送りとする趣旨と矛盾する。典範12条さえ改変すれば、北欧、ベネルクス、英国と同様、男女いかんにかかわらず初生子の王位継承へ移行することは容易であるし、以下の難点があるので反対する。
皇室典範12条改変は家族道徳、規範を根本的に破壊する。 婚入者の婚家帰属性という日本の基本的な親族構造の否定になるので反対である。
皇室典範 12 条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)は、旧皇室典範44条を継受したものである。 帝国憲法皇室典範義解によれば 44 条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス‥‥以下略)は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨である。
夫の身分に従うとは、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、主婦予定者として婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすることで、婚入者(嫁・婿)の婚家帰属性という日本の家族慣行を意味しており、これは華士族平民同じことで、侯爵家に嫁すならば侯爵夫人となり婚家を継いでいくゆえ、皇族の列を離れる。
明治8年11月9日妻の氏について内務省が太政官に提出した伺出では、「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候‥‥」(内務省案-夫婦同苗字)[廣瀬隆司(1985)「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究 28 巻 1・2 号][近藤佳代子(2015))「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要 49 巻openaccess]とあり、これは旧皇室典範44条の立法趣旨と同じであるし、異姓戸籍を認めない戸籍制度を前提とした制度ともいえるだろう。したがって皇室典範 12条改変は夫婦同姓(氏)の立法趣旨の否定になる。夫婦別姓(氏)反対の立場から容認しがたい。
明治民法起草者の一人、法典調査会で梅謙次郎は、夫婦同氏であるべき理由として、妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致していると述べた[江守五男19900『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂 1 57頁]。
人類学の大御所によれば日本の「家」は離接単位であり、人は複数の家に両属することはない。婚入者(嫁・婿)は婚家の成員であり、不縁とならない限り死後婚家の仏となる[清水昭俊 1970「<家>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<家>制度・その一」『民族學研究』 35(3)openaccess, 1972「<家>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<家>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 1973「<家>と親族 : 家成員交替過程(続) : 出雲の<家>制度・その二(続)」『民族學研究』 38(1) ]。
新奇な家族モデル、夫妻と嫡子とで戸籍と皇統譜、身分の異なる歪な制度を創出すること自体不快なのであって当面の措置とする理由である。
女の道として最も普及した教訓書『女大学宝箱』では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰る」という。享保元年(1716)から明治初年まで11版を重ねたものである。 この見解は1世紀後漢の『白虎通』に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」とあるように儒教に由来し、正当な価値である。
また、12条改変は、天皇、親王、王が男性、皇后、親王妃、王妃が女性という性的役割分担を流動化させ好ましくない。
現行では、内親王や女王が結婚する場合は、皇后、親王妃、王妃以外の身位以外はなく、それを変える必要はない。
明治皇女の内親王にしても、下記のとおり王妃内親王殿下と称される。
明治神宮サイトのデータベースより引用
大正14(1925)年4月9日
竹田宮故恒久王妃昌子内親王殿下、北白川宮故成久王妃房子内親王殿下、東久邇宮稔彦王妃聰子内親王殿下御参拝
また第二に令制では継嗣令王娶親王条に内親王より四世女王は、五世王以下および臣下との婚姻は違法である。ただし延暦12年詔で、二世女王は藤原氏への降嫁を合法とし、三世女王以下は、現任大臣、良家への降嫁を合法とし、皇族女子の内婚は規制緩和されているが、令制では内親王の臣下への降嫁は一貫して違法なのであり、勅許により承認されたとはいえ、10世紀に9方、11世紀に1例のほか、しばらくなく17世紀に9例(内親王宣下の記録がない1例含)、18世紀1例で時期が偏っており、内親王は天皇か皇族と結婚するか、生涯非婚であるのが通例である。
ところが有識者会議事務局調査研究資料では藤原師輔が内親王と密通のうえ、事後的に承認され降嫁した醍醐皇女勤子内親王ほか6例の違法婚(違法だが勅許による)を根拠にして①案を「皇室の歴史と整合的」としているが、令制が想定していない婚姻であり、反律令行為、イレギュラーな事例が歴史と整合的というのは詭弁である。
前例も特例としてのものであるから、今回も特例として実施すべき。
二 前例と同じく、納采の儀等嫁入婚、夫方居住、墓所は婚家とし、宮内庁治定陵墓にはしない理由
寛文4年(1664年)近衛基熙に降嫁した後水尾皇女常子内親王は自身の結婚の記録が残ってないが、天和3年(1683)長男の家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は「无上法院殿御日記」に詳しく記していて、「女一宮ねもじ、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、白無垢、色直しという嫁入婚の現代でも和装婚礼の定番である習俗と同じである。
基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している。嫁迎えの儀式である。公家は15~16世紀に嫁取婚は確立していたので他の内親王も同様に嫁入婚の儀礼がなされたとみてよい。
なお霊元院の第十三皇女八十宮吉子内親王(母は右衛門佐局)は 2 歳で徳川家継と縁約した。この縁談は将軍家の要請に応じたもので、納采の儀までなされたが、家継夭折で、八十宮は3歳で寡婦となり、江戸に下向されてないので嫁取婚は未遂といってよいが、将軍正室の寡婦扱いで、経済的には恵まれた。
そうした前例から、①案実施の場合前例踏襲でこれまでどおり納采の儀を行い、嫁入婚とするべきである。
一品康子内親王は村上天皇の同母姉で、右大臣藤原師輔と内裏で密通、天気を害したが、事後的に勅許された例。師輔は「九条殿」とか「坊城右大臣」と称されたように、九条殿や坊城第、桃園第といった邸宅があった。
結婚した康子内親王は、坊城第が居所であったことは史料上確認されている。
坊城右大臣歌合(伝宗尊親王筆歌合巻、類聚歌合) 天暦十年八月十一日、坊城殿にきたの宮おはしますに、つきのいとおもしろきに、をとこかたをむなかた、おまへのせざいをだいにてよめる[杉崎重遠 1954「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (910)openaccess] 。また内親王は坊城第で薨ぜられた(『日本紀略』天徳元年六月六日条)。[栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2 openaccess]
墓所は不詳だが、四十九日は一周忌は法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳元年七月二二日条。天徳二年六月四日場)[栗原弘 2004「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史学会 編 (19)openaccess]。法性寺とは、関白藤原忠平が、京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺であり、今日の東福寺、泉涌寺を含む広い寺域を有した。法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子の一周忌のほか忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光、村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤原忯子(為光女)の四十九日、円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が執り行われている[栗原弘2004]。 皇族でも母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、仮に康子内親王が生涯非婚でも法性寺で法要がなされた可能性が高いが、師輔の先妻同様、藤原忠平一門の氏寺ということである。
(1)後水尾皇女東福門院所生の女二宮と女五宮賀子内親王
江戸幕府京都大工頭の中井家伝来の図面によると、寛永 13 年(1636)後水尾皇女の女二宮が、近衛尚嗣に降嫁の際、今出川の近衛家本邸に「奥方御殿(女二宮御殿)」が造営整備された[藤田勝也 2012「近世近衛家の屋敷について」日本建築学会計画系論文集675 openaccess]。
正保 2 年(1645)に後水尾第五皇女の賀子内親王は二条光平に降嫁し、当時新在家町の二条家本邸敷地内に御殿があり、ここが万治 4 年(1661)大火の火元だった。二条光平本邸は今出川通の北に移転し、敷地の東側半分が「女五宮御殿」だったことが当時の指図でわかっている[藤田勝也 「近世二條家の屋敷について : 近世公家住宅の復古に関する研究1」13 日本建築学会計画系論文集 636号1 2009]openaccess。
女二宮と賀子内親王は外祖父が徳川秀忠で、徳川の縁者であることから、化粧料等経済的に恵まれ御殿が造営されたが、いずれも、婚家の敷地内ということである。徳川の縁者でない皇女は、知行がないので、12~14歳で尼門跡に入るか、摂家に降嫁するかいずれかが通例だったが、次節の常子内親王は在俗の独身期間が長く異例といえる。
近衛尚嗣に降嫁した後水尾皇女女二宮の墓所は東福寺海蔵院にある。近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。なぜ女二宮が改葬されていないか不明だが、海蔵院は近衛家の墓所があった寺である。二条光平正室の賀子内親王、二条綱平正室の栄子内親王は、嵯峨二尊院の二条家墓所。賀子内親王邸の御化粧之間は元禄年間に二尊院に移築され、非公開だが茶室として現存する。在俗で生涯非婚だった後水尾皇女昭子内親王は、岩倉御所と称されるが、東福門院ゆかりの光雲寺が墓所である。
(2)後水尾皇女品宮(常子内親王)について
寛文4年(1664)11月に満22歳で6歳年下の権大納言近衛基煕(のち関白)に降嫁した品宮(級宮)常子内親王は、後水尾院の第15皇女で、母は新広義門院(典侍園国子-羽林家)、霊元御生母である。後水尾院は皇子が19方、皇女が17方もおられたが、なかでも鍾愛された皇女である。『无上法院殿御日記』記主。結婚当初正室としての役割に拘束されない自由な社交生活がみられるのは異例といえる。後水尾院の文化サロンのメンバーであったこと。仙洞御所だけでなく遊興のため公家町の門跡の里坊など御幸されることが多く、品宮は結婚当初、後水尾法皇の御所で夜遅くまで過ごすことが多かった。後水尾院の近衛邸の御幸は105回と頻繁にあり、修学院離宮への御幸にもお供されており、また岩倉の山を法皇より賜っていた。
なお品宮の内親王宣下は正規のものではなく延宝5年(1677)に諱が常子と定まったことにより、公認されたと解釈されている。結婚後の皇室とのかかわりで重要なのは、後水尾院より、延宝5年(1677)門跡宮方の深草の知行の監督、宰領を命じられたことである。新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた[瀬川淑子 2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』]。皇族男子が宮門跡となる門跡領は広義には皇室領ともいえるので、宰領は内親王という身位ゆえといえる。品宮には独自の知行がないので、もともと生母の権益だったから法皇の配慮だろう。
品宮は独身時代から、法皇より院参町に御殿が与えられていた。万治 4 年(1661)大火の後、寛文4 年に中筋の法皇別邸の隣に御殿が建てられ、なぜかその半年後に結婚している[久保貴子 2008『後水尾天皇』]。 居住形態についていうと瀬川氏によれば寛文 4 年(1664)結婚当初は別居だった。品宮は独身時代からの御所の品宮御殿、基煕は桜御所(旧本邸)とあり、寛文 6 年(1666)に新宅の陽明殿(今出川邸)で同居した。寛永 13 年(1636)後水尾皇女の女二宮が、基煕の父尚嗣に降嫁の際、今出川邸に「奥方御殿」が造営整備されており、この前例からみて、品宮も近衛家本邸の今出川邸が居所とされて当然である。
万治 4 年(1661)の大火で内裏・仙洞御所や多くの公家屋敷が焼亡したが、後西天皇は類焼を免れた近衛家本邸を仮内裏とされ、寛文3年正月に霊元天皇に譲位、寛文4年8月新造の仙洞御所へ移徒されるまで、後西上皇の仮御所とされた経緯がある。その間、近衛基煕は別邸の桜御所を居所としたのだろうが、なんらかの事情で本邸に戻るまで再整備が必要であったのだろう。 結婚のタイミングは、後西上皇の移徒とみられる。品宮も 23 歳で、姉宮 3 方の摂家への降嫁が 12~14歳であることから、当時の婚姻年齢としては遅いため結婚を急いだのが真相かもしれない。品宮が結婚した寛文4年ころの日記がないため、なぜ結婚初期別居の真相が不明なのである。しかし近衛家本邸が居所であり夫方居住といえる。近衛家の寝殿の修復、茶室と物見の格子の構築は法皇の出費であり[瀬川淑子2001]、岩倉の山と地続きの幡枝の山荘も近衛家に下賜されている。また品宮は、紫竹の別邸を購入するため、法皇に無心し、法皇は銀子五百枚を支出している[久保貴子2008『後水尾天皇』]。 さらに常子内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村 300 石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行 3000 石の一部ということであり、幕府が認めたもので、これは内親王薨去により幕府に返却されたとみられる[瀬川淑子2001]。
法皇から賜った品宮御殿や岩倉の山、紫竹の別荘のほか、近衛家は女煕子が徳川家宣の正室であるため、この姻戚関係から比較的裕福だった。粟田にも花見のための別荘を購入していたが、内親王の財産は嫡子の近衛家煕が相続し、これらは近衛家領となった。 以上の考察から、品宮は国家的給付に相当する皇女御料を得ていないが、法皇からの経済支援のほか、門跡領の経営を任され、実質皇室領からの収入はあったとはいえる。また墓所は大徳寺近衛家廟所である。①案のモデルとしては常子内親王というこしになる
和宮親子内親王については、ドラマなどで江戸城での舅姑の天璋院との軋轢が描かれ著名であるから、結婚の経緯は省略するが、有栖川宮熾仁親王と縁約を破棄したうえでの、江戸下向であり、直前に内親王宣下を受けている。
慶応 2 年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。号は天皇が選んでいるが将軍正室としての法号である。静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視された。慶応 4 年(1868)慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。
2 月 26 日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。明治 2 年~7 年まで京都に帰住されたが、7 年より東京麻布市兵衛町(のちに東久邇宮邸)を居邸とされた。明治 10 年湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨去、洋行中の徳川家達の留守居、松平確堂を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫『和宮』吉川弘文館(1987)]。
和宮(静寛院宮親子内親王)は、徳川氏の家名存続と慶喜の寛大処分のために尽力、徳川氏の存亡に従う決心、死を潔くする覚悟さえ示されたのである。葬儀も墓所も徳川氏であり、宮内庁治定陵墓ではないので、この前例を踏襲し、夫方居住、皇族のままであっても豊島岡墓地でなく、夫家の墓所とすべき。
後光明皇女で嫡流の皇女として一品、礼成門院孝子内親王は生涯非婚だったが、文明年間に後土御門天皇が伏見に建立し戦国時代に泉涌寺と並んで御寺とされていた般舟三昧院(後花園、後土御門、後奈良の分骨所でもあり、秀吉の伏見築城により西陣に移転した)が墓所。幕末に桂宮を相続した非婚内親王の淑子内親王の墓所は泉涌寺である。
したがって非婚内親王は皇室の菩提寺といえる御寺かもしくは母后ゆかりの寺だが、摂家に降嫁した内親王は、近衛家なら東福寺海蔵院や大徳寺、二条家や鷹司家は二尊院、九条家は東福寺というように婚家の廟所に葬られているのは婚家の嫡妻ゆえであるし、また江戸時代、摂家に降嫁した内親王の墓所は宮内庁治定陵墓のリストにはない。非婚内親王の昭子内親王や孝子内親王の墓所はリストにあり宮内庁が管理している。一方、霊元院の復古政策で17世紀末期から、内親王は摂家でなく皇族に嫁す原則に戻しているが、伏見宮家に嫁した福子内親王や秋子内親王は、相国寺内伏見宮家の墓所、閑院宮家に嫁した成子内親王は閑院宮家の墓所のある蘆山寺、非婚女帝や非婚内親王の陵墓は御寺(泉涌寺・般舟院)である。八十宮吉子内親王は、納采の儀は行われたが家継薨去により3歳で寡婦となり、江戸に下向されなかった。浄琳院も将軍正室としての法号であり、墓所も徳川家ゆかりの知恩院である。ただし、実質結婚生活がなかったためか、宮内庁治定陵墓で宮内庁が管理している。とはいえ御寺の泉涌寺や般舟院ではない以上、皇室から離れたとみなしてよいと思う。
以上述べた前例から①案実施の場合は、夫家の私邸居住、墓所も夫家とすべきである。
三 臣下に降嫁した内親王の所生子は資料に記載がなく隠蔽されている
なによりも、11月3日配布の事務局調査資料例示の一品准三宮康子内親王は太政大臣藤原公季の母で、常子内親王は関白藤原(近衛)家煕、の母で、栄子内親王は関白藤原(二条)吉忠の母である。
異母兄兼家と出世を競った藤原為光は、父藤原師輔、母雅子内親王である。雅子内親王は伊勢斉宮から帰京後、師輔と密通したケースで、結婚生活は長かった。
前例では臣下に降嫁した内親王の所生子は皇族には絶対ならないことはいうまでもない。
藤原為光は、外戚が弱い花山天皇を支えていた。しかし弘徽殿女御の女忯子は懐妊したが出産前に急逝。花山天皇を見限って、ライバルだった異母兄兼家と協調、一条朝では右大臣、名目的地位となった太政大臣にまで昇進したという人物。
藤原公季は、閑院流藤原氏(清華家の三条・西園寺・徳大寺・今出川家など)の祖、母一品康子内親王が産褥死されたため、皇后藤原安子に引き取られ、宮中で育てられたがが、親王とは膳の高さで格差がつけられていたという。弘徽殿女御の女義子が一条天皇に入内したが寵幸薄く皇子女がなかったゆえ、警戒されることもなく、道長政権を支える立場で結果的には太政大臣にまで昇進したという人物である。
為光と公季は主として陣定の場面であるが、大河ドラマ「光る君へ」に登場し、知名度は高くなったのであるから、母が内親王でも父が臣下なら皇族になれないことは容易に理解できることである。
ところが「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」には内親王の所生子の記載がなく隠ぺいしているのは不可解。受ける印象が違うためだろう。
しかも①案は当面、配偶者と所生子を皇族とはしないと言いつつ、将来的に皇族とすることも検討されうるというのは、前例の枠におさまらないのである新奇な案だといわなければならないのである。
7 月 9 日議事録に「イギリス王室では、アン王女は王族であるが、御家族は王族ではなく、それによって問題が生じているわけではない。このような海外の例を見ても、御本人は皇族であるが、御家族はそうではない、という形も、それほど無理なく成立するのではないか。 女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」との発言があるが、単純核家族社会の英国モデルを取り入れるのは反対である。コッツウェルズのマナーハウスはエリザベス女王が購入したものであり、ロンドン滞在時はセント・ジェームズ宮殿を居邸としており、江戸時代摂家に降嫁した内親王のように夫方居住ではない。
この発言から知名度が高いアン王女を①案のモデルと想定し、将来的には女系容認の本音を看取できる
英国王室はもともと女系容認で、2013 年に英国は王位継承法をあらため長子相続による男子優先を撤廃しており、①案は、従来、男性皇族が、天皇、親王、王、女性皇族は皇后、皇太后、太皇太后、親王妃、王妃という役割と決められた在り方を流動化させる隠された意図があり、英国など共系に移行した国々のモデルに移行しやすいので、警戒すべきである。
四 生涯非婚前提なら女性宮家があってもよい
伝統に即したという女性皇族厚遇の在り方としては、あくまでも生涯非婚に限定して、独立した居邸とする「女性宮家」が妥当と考える。非婚内親王が中世において、天皇准母として非婚皇后に立てられたこと、院号宣下により女院となり、皇室領荘園の本所であった等の厚遇されていた歴史を踏まえてのものである。
参考資料
服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館2002の皇女一覧表、ウィキペディア、コトバンク.結婚の年、右の欄に所生子等備考
内親王は令制は皇女、天皇の姉妹の身位であるが、明治皇室典範は四世女王まで、現皇室典範は二世女王まで
17世紀は皇女が多く、尼門跡のポストも不足したため、摂家への降嫁が9例あるが、霊元院の復古政策により17世紀末より、内親王は皇族または天皇と結婚する原則に戻している。
本音の選択的夫婦別姓(別氏)反対論
川西正彦
(二)平成27年12月16日 夫婦別姓訴訟 大法廷合憲判決... 4
二 夫婦別姓の立法目的が邪悪。文明二千年の規範、婦人道徳の否定だからこそ反対... 5
1 出嫁女の婚家帰属(婚家の成員であること)の立証... 9
三 明治民法起草者梅謙次郎の立法趣旨は全く正しい... 15
※左院と内務省も夫婦同氏案だった 明治民法前も夫婦同氏が慣行... 16
五 選択的夫婦別姓の導入は社会主義政策として始まった... 21
(一) 中国は元々夫婦別姓ではなかったが、宋家姉妹の例から一般に広まった... 22
(二) 夫婦別姓はソ連の1924年の法令に由来する... 22
六 共産党の家父長制敵視は文明の正当的価値の否定... 23
七 夫から妻に処分した家領は、他氏に流出しない歴史的慣例... 24
本音の夫婦別姓反対論とは次のような意味です。一口でいえば、明治民法起草者梅謙次郎の立法趣旨は正しい。夫婦同氏の明治民法の立法趣旨とは、妻は夫の「家」に入る。婚入配偶者は婚家に帰属し、死後も婚家の仏となる以上、夫家の成員として同じ氏とすることは、我が国の家族慣行(日本的「家」、単系リネージ)に合致するとともに、ゲルマン諸法(教会の「二人の者一体となるべし」の教えに由来する)、欧米の単婚家族の夫婦同姓法制、具体的にはドイツ、オーストリア、スイス、イタリアの当時の法制いわゆるファミリーネームの継受という側面もある。東西文明の家族規範に合致し、すぐれており断固維持されるべきであるということを言います。夫婦同氏が基本的に「家」の名の下での家族の一体性(内務省案では出嫁女は夫の身分に従うという趣旨)+キリスト教の夫婦斉体思想にもとづくゲルマン諸法の継受として欧米の近代家族慣行とも合致しており、伝統的規範と近代的価値を融合した立法趣旨を高く評価する。
明治民法起草者穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三者のうちもっとも強く夫婦同氏を推進したのが梅謙次郎である。梅は儒教道徳より愛情に支えられた夫婦・親子関係を親族法の基本とし、士族慣行より、庶民の家族慣行を重視した点で開明的だったと考える。つまり進歩的な民法学者が夫婦同氏を強く推進したのであって、その趣旨は今日においても全く妥当である
戸主権・家督相続が制度上なくなっても、家長や家督相続の慣行は失われていないことは、人類学や民族学のフィールドワークで明らかなことで、13世紀中葉以来の嫡子単独相続はなくなったが、「家」の社会構造は厳に存在するし、家父長的な「家」制度が封建的な悪ととらえてはいない。家業、家職が継承されるのは日本的「家」の特徴である。中国の宗族はそうではない。世界的にファミリー企業の平均寿命は 24 年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜 2010 「日中伝統家業の相続に関する歴史的考察--北京同仁堂楽家と三井家との比較において」立命館文學 617]。老舗企業が健在なのは、今日においても「家」制度が親族構造であるためだというほかない。
滝沢聿代氏は、2016年『選択的夫婦別氏制これまでとこれから』三省堂75頁で「夫婦別氏は日本社会の伝統と真っ向から対立する。それは「家」の名の下で家族の一体性を否定し、人々の心に残る過去への郷愁を名実ともに破壊する改革だからである」と喝破されている点も同意見である。
夫婦別姓論者の主張は、家父長制を攻撃し、夫婦同氏が「家」制度の残滓とみなし、これをつぶして我が国の家族慣行を破壊しようとするである。別姓論者は、別姓を強制しない。古風なカップルの同氏の選択をさまたげないからいいではないかというが、それは危険な考えで、主婦予定者として婚家に迎えられる嫁ではないなどいうのは得たいの知れない存在なのであり、舅姑に仕えず、死んで家の仏にもならない別姓の嫁では、代々の家の財産を譲りたくないなど、婚姻の意義の認識の違いからトラブルは多発させることは必定。結婚はやりにくくなる。
私は本音として家制度の残滓としての氏を評価し、それゆえ夫婦別姓に反対というのが本音なのである。だから以下のような同氏合憲論によくみられる主張を認めるが、ここで強調することはない。他の人と同じことは言わないということです。
例えば次のような夫婦同氏支持論である。
「家庭は、相互に扶助協力義務を有する夫婦(民法752条)を中心として、未成年の子の監護養育(民法820条、877条1項)や、他の直系血族の第一次的扶養(民法877条1項)等が期待される親族共同生活の場として、法律上保護されるべき重要な社会的基礎を構成するものである‥‥ このような親族共同生活の中心となる夫婦が、同じ氏を称することは、主観的には夫婦の一体感を高めるのに役立ち、客観的には利害関係を有する第三者に対し夫婦であることを容易にするものといえる。‥‥したがって、国民感情または国民感情及び社会的慣習を根拠として制定されたといわれる民法750条は、現在においても合理性を有するものであり、何ら憲法13条、24条1項に反するものではない」滝沢聿代 「夫婦別氏の理論的根拠--ドイツ法から学ぶ」『判例タイムズ』 42(10)
婚姻に伴い夫婦が同一の氏を称する夫婦同氏制は,旧民法(昭和22年法律第222号による改正前の明治31年法律第9号)の施行された明治31年に我が国の法制度として採用され,我が国の社会に定着してきたものである。前記のとおり,氏は,家族の呼称としての意義があるところ,現行の民法の下においても,家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位と捉えられ,その呼称を一つに定めることには合理性が認められる。
そして、夫婦が同一の氏を称することは,上記の家族という一つの集団を構成する一員であることを、対外的に公示し、識別する機能を有している。特に、婚姻の重要な効果として夫婦間の子が夫婦の共同親権に服する嫡出子となるということがあるところ、嫡出子であることを示すために子が両親双方と同氏である仕組みを確保することにも一定の意義があると考えられる。また,家族を構成する個人が、同一の氏を称することにより家族という一つの集団を構成する一員であることを実感することに意義を見いだす考え方も理解できるところである。さらに,夫婦同氏制の下においては、子の立場として、いずれの親とも等しく氏を同じくすることによる利益を享受しやすいといえる。
これらの見解は、大筋で欧米的ファミリーネームの継受としての夫婦同氏を支持する見解なのであり、それを認めるが、一方、夫婦別姓論者は、夫婦同氏を「家」制度の残滓として攻撃しているが、「家」は戸主権や家督相続が法律上なくなっても、社会的事実として存在することが気に食わないのである。
明治民法は女子は生家を離れて婚家に入るゆえ、家の「家」成員はゆえに同氏という立法趣旨+欧州の法制(キリスト教の夫婦一体思想からゲルマン諸法は夫婦同姓といわれる)の継受なのである。ファミリーネームとしての意義だけの強調するのは「家」制度の残滓と指摘をはぐらかしているように思える。
実際、人類学の大御所、厳密な定義で定評のある清水昭俊総研大名誉教授は、家の成員を嫁・婿・実子・養子と定義しており、婚入配偶者は明白に「家」成員なのである。
「家」制度の残滓という理解は基本的には正しいだろう。逆に私は、「女大学」等教訓書の儒教的家族道徳や、良妻賢母教育が消滅して女子教育が崩壊してしまった現在、とはいえ結納、白無垢・色直し、披露宴等、嫁入り婚の慣行、祖先祭祀、供養、位牌等により婚入配偶者の婚家帰属性、最末節のリネージ団体である離接単位としての「家」が社会的事実として存在することは明らかではあるが、女子教育が完全に崩壊し、今日、氏という同族家名、「夫婦同氏」が日本的「家」と伝統的規範を維持する最後の砦となる法制度だからこそ維持されるべきという考えなのである。
高市早苗氏など、旧姓の通称使用の制度化により夫婦別姓阻止のためしのぐという戦略をとっていますが、その戦略を否定はしないが、私は通称使用が良いとも思っていないのが実は本音です。
なぜならば、私は社会学者や法制史家のように「家」制度を封建制度の遺制というような否定的なものとはとらえない。共産党のように家父長制攻撃や、SDGsジェンダー平等の趣旨から否定されなければならないものとも思っていない。
清水昭俊の「家」の定義は、「出自集団descent group、分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体」である。descent groupが日本の社会構造なのであって単純核家族なのではない。
戦後戸主の家内統制権が喪失し、家督相続がなくなって長男の権威が失墜したのは事実としても、家長継承者として家督相続も存在し、「家」の代表者としての家長と主婦の世代連鎖で継続していく、嫁は主婦予定者、婿は家長予定者として迎えられ、婚入配偶者の婿は死後婚家の仏となる家族慣行としての「家」は存続しており、婚姻は単に個人の合意主義的結合だけでなく、「嫁入り」「入婿」というように、離在単位の家からの排除、婚入のプロセスであることは社会的事実として認識されていると、それを肯定的に理解しているからである。
端的に夫婦別姓は、推進論者が、舅姑に仕えるのがいやだ。夫と同じ墓に入るのもいやだと言う、日本的「家」の慣習、婚家を敵視する論理を展開している。それは婦人道徳の否定であり、約1950年前の後漢の白虎通義に由来する東洋文明の規範に反する。わが国では律令以来、儒教道徳は公定イデオロギーなのであり、夫婦別姓推進論者の立法目的は端的に道徳規範に反するから、反対なのである。これが本音であります。
『女大学宝箱』は1716年初版、19世紀末まで11版、もっとも影響力のある女性向け往来物教訓書とされ、貝原益軒の原作を大坂の版元が編集したものされる。女性は婚嫁した家族とその家の存続に対し自分の人生を捧げるという道徳が説かれる。100年以上出版されていないとはいえ、社会の底流にある規範的価値なのである。
類書の『続女大学』は、女の道として、結婚後は舅姑・夫に仕えて貞女の道を尽くし、小舅や諸親類にも謙虚に親しみ厚く接して、みだりに外出せずに細やかな心配りで「内治」「家政」に努めよとある。(小泉吉永「続女大学--『女大学』に似て非なる「異種女大学」」江戸期おんな考 (12) 2001)
舅姑・夫に仕えず、ただ、女性の社会進出のために、婦人道徳、文明的規範を露骨に否定する立法目的が極悪法だからこそ、夫婦別姓に反対する。
また人類学者の蒲生正男は「日本の伝統的な〈直系家族〉はunilateral familyであり、〈隠居制家族〉はconjugal unilateral familyであって、日本の伝統的家族の基本構造をunilateral なものとして理解しようとするものである。たとえば家の象徴として〈家名〉〈家屋〉〈家職〉〈家督〉などがあげられているが、これらの継承相続が一方の親からのものに限られているなら、その構造はunilateralというべきもの」[蒲生1975]つまり日本の家を単性家族と規定した。夫婦別姓は単性家族を破壊する。大きな伝統崩壊であるそれゆえ反対する。
日本的家制度の典型とされる嫡子単独相続は、貴族社会(公家)では、13世紀中盤にはじまり、南北朝期に一般化した。また武家の単独相続への移行は、鎌倉末期から南北朝にはじまり、室町期に一般化した[西谷正浩2006『日本中世の所有構造』塙書房]。
小農民は、17世紀後期以降、幕藩領主が百姓経営維持のため分地を制限したため、田畑、屋敷、家名、家業、祖先祭祀が一体となった単独相続が一般化したとされている[大藤修2001「幕臣体制の成立と法」『新体系日本史2 法社会史』] 。また南北朝時代以前の分割相続の時期を含めると、局務・官務・博士家等官職請負制が通例となった12~13世紀には日本的「家」は成立したともいう見方もある。
武士の場合は史料上、嫡子単独相続を明記したものとして 宝治元年(1247)平朝秀譲状が最も古い。
貴族層では、暦仁(りゅくにん)元年(1238)の藤原忠定置文 (藤原北家御子左流、歌人として著名な藤原定家の伯父にあたる人物)が最も古いとされ、次に仁治(にんじ)3年(1242)石清水八幡宮宇美宮家の房清処分状案とされる。
正応6年(1293)関白を辞した九条忠教による家督の内大臣師教宛の譲状は、「為興隆家門、不分譲諸子」として日記・文書・剣・平緒と荘園所領の全てを長子師教一子に処分したものである。これは忠教の父忠家の遺誡によるものなので、分割相続の停止は、忠家薨去の単独建治元年1275よりも早い時期とされるのである。
ただし、元享元年(1322)西園寺実兼処分譲状案は分割相続である(ただし、関東申次を継がせた実衡を「家督之正流」として日記文書や氏寺妙音院を譲与している)。久我家が単独相続に移行したのは南北朝期(岡野友彦「中世久我家と久我家領庄園』続群書類従完成会2002』、勧修寺家も南北朝期(『中村直勝著作集第4巻』淡交社1978』とされている
実務官人について、官務(大夫史)は11世紀末頃より小槻氏が世襲・独占し官司請負制となり、局務(大外記)は12世紀半ば中原氏と清原氏によって独占され官司請負制になったというのというのが通説であるが、遠藤珠紀『中世朝廷の官司制度』吉川弘文館2011は、後世から遡って系図の特徴から「家」成立の起点設定しているあり方に疑問を呈し、小槻氏については13世紀後半、中原氏は14世紀に中世的「家」が成立するという。
文永4年(1267)、小槻秀氏(大宮流)と小槻有家(壬生流)の代に所領相論の結果、小槻「氏」のなかで永業流(大宮家)と隆職(壬生家)の優越を宣言し、両流で官務職と相伝文書の独占的継承を認めたことが「家」成立の画期とする。
文永10年(1273)つまり元寇の前年の「小槻有家起請」は「所領事(中略)有家子孫中、伝文書仕朝廷之者、為其財主可惣領(攻略)」と文書だけでなく所領の嫡子単独相続を定めた。実際には所領争論はこの後も繰り返されているが、嫡子単独相続の自覚的宣言として、戦後の民法改正で700年近く続いた、嫡子単独相続の濫觴とみなしてよいだろう。
関連して三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館 2007によれば、文永10年に九条忠家が関白に就任し、いわゆる五摂家が摂関職に就任できる家と確定したのであり、蒙古襲来の前年文永10年はその意味でも画期といえるのではないか
【博士家の家業化、官職請負制の展開】
紀伝道
紀伝道における世襲氏族は、菅原・大江両氏はよく知られているけれども、藤原氏の日野流(北家内麿-真夏流)式家、南家も世襲氏族である。世襲を確立したのは日野流(北家内麿-真夏流)が広業(任文章博士寛弘5年(1008))、資業(任文章博士寛仁元年(1017)兄弟。
式家が明衡(任文章博士治暦二年(1066) 南家が実範 (任文章博士天喜元年(1053))とされている。
局務-これは12世紀以降の展開だが、中原氏と清原氏で固定化される。
官務-11世紀末以降小槻氏が官職請負
法家-すぐれた著作のある惟宗氏が家学を継承できず、坂上(本姓中原氏)・中原氏にとって替えられ固定化。
陰陽道-10世紀中葉より賀茂氏と安倍氏で固定化。
医道-10世紀末より和気氏、丹波氏で固定化
楽家―10世紀より多氏が活躍
算博士―小槻氏と三善氏が知られている。
告井幸男2007「摂関・院政期における官人社会」『日本史研究』535告によると、特定氏族の世襲固定(父から子の継承)は摂関期にあらわれた。10世紀の改姓は理念的だったが、院政期以降は養子としての改姓であった。
大ざっぱにいって日本の戦後民法改正まで300~700年嫡子単独相続の時代があり、それを日本的家制度といってもよいが、しかし、「家」は単独相続が崩壊しても存在していることは社会的事実なのである。
清水昭俊は、「家」を出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的であると定義している。嫡子単独相続が成立した後の「家」を狭義の「家」とみなすが、出自集団のしての家は、12世紀にさかのぼるものであり、なお嫡妻制は藤原基経以降とすると10世紀以降といえるが夫婦同墓と別墓の過渡期であるので、一般論としては12世紀以降もしくは13~14世紀以降が日本的「家」とここでは定義する。まさに、穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいうべき社会構造と理解すべきである。
両性の合意によるとする、憲法24条は、ローマ法の諾成婚姻理論を継受した、12世紀に成立した古典カノン法の合意主義婚姻理論(パリ司教ペトルス・ロンバルドゥスや教皇アレクサンデル3世)の理念をうつしたもので、法源は中世教会法、中世神学である。慣行としての「家」制度を否定はしていないものと理解すべきである。
英国は10世紀に教会裁判所が婚姻を管轄権としたが、カノン法は、普遍的にあらゆる地域で適用できるものとして婚姻の成立要件を最小限にして、北西ヨーロッパとくに英国の単純核家族に適合的で容易に婚姻が成立する合意主義を採用した。親や領主の許諾要件などない。婚姻適齢は男14歳、女12歳で自己決定権を認めており、秘密結婚も合法。挙式、婚姻にともなう財産移転、寡婦産や持参金は要件ではないため、ロミオとジュリエットのように世俗社会と大きな軋轢を生じたのである。
したがって、憲法24条の合意主義を認めるとしても、婚姻の実態において、慣習や親族構造を無視するのは間違いである。実際に結納や白無垢、色直し、披露宴など「嫁入り婚」の習俗がすたれているわけでは全くないわけである。なお教会挙式のヴァージンロードは、ゲルマン法の「嫁の引き渡し」に由来し、ムント(保護権、庇護権)が父から夫に移ることを意味し、嫁入りと同じことである。
日本の小農経営は親子力を合わせて働くが、英国の小農経営は、子供は思春期には親から離れて奉公人になるので、赤の他人の年季奉公人をこき使う。それが生産的だし、技術やノウハウは他人の家で覚えるのが合理的と考えられていた。奉公人は遺産相続で土地をえられれば結婚して独立、コテージャーとなるが、土地を得られなければ一生奉公人という人生で、日本の直系家族の経営とは違う。人類学の定義では日本の核家族のような世代別居でいる場合でも「家」であることには変わりない。
社会人類学の大御所といえる清水昭俊国立民族学博物館名誉教授の出雲地方の1967年の調査によれば、相続の際、象徴物が伝達されることを「家督相続」と言っている。これは家内統制権というよりも、物象化された家長位の地位の継承のことである[清水1970 210頁]。今日でも家長位は慣行として存在する。
村落社会での「家」は①家内的生活(domestic life食・住・養育等)、②宗教(祖先祭祀)③政治(村落共同体の政治)④経済(家計と農業生産労働)という幅広い生活を共同で営む[清水1987 205頁]。
戸主権は喪失したといっても、家長にはその「家」の指し示す家格と、それを裏付ける経済力、家格に応じて村落社会から家に課せられる、社会的義務と期待、これを維持、発展させる役割があり、家業その他の社会的営為の統括者としての役割がある[清水1970 208頁]。水利組合の下部組織「島」「組」、市や農協の事務を行う「区」といった村落共同体の組織に対する家の代表者でもある。
したがって、民間の慣習として家長という地位が否定されなければならない理由などもちろん全くないのである。
日本の社会学では、欧米の婚姻家族との対比において日本の「家」の独自性、特殊性を強調し、封建的、前近代的なものとして否定的する傾向が強いが、レヴィ=ストロースの「家社会」の研究により、日本の「家」に類似するような社会制度は世界各地に存在していることがわかってきた。レヴィ=ストロースは次のように「家」を定義する。「物質的および非物質的財から構成される財産を保有する法人であり、この法人は現実の系あるいは想像上の系にそって、名前、財産、称号を伝えることを通して永続する。この連続性は親族関係または姻族関係の言葉において、たいていはその双方の言葉において表現されている限り正当なものとみなされる」。また家は成員権が出自規則によって明確に定められているクラン、リニィジより家はある程度融通性があると説明されている[小池誠2005]。
従って、「家」を否定的に評価する理由などない。
重要なことは日本の家とは、離接単位で、同時に複数の家に帰属する事はあり得ない。家長と主婦という地位が永続していくリネジ団体であり、主婦予定者として嫁が、家長予定者として婿や迎えられるという構造である。むろん韓国の門中も中国の宗族も出嫁女は夫の宗族に帰属し、韓国の儒教規範では女性にとって幸せとは夫とともに一対の位牌となり末代まで子孫に祀られることであるが、わが国は、宗族や門中のような外婚制はないので、欧米とおなじような夫婦同氏が適合的なのである。
論旨を明快にするため人類学者では厳密な定義で定評のあるまず清水説を中心に取り上げる。
清水は日本の「家」を次のように定義する。
「家は家族というよりもむしろ出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的である」[清水1980b 清水1987 219頁]。清水は1967年の出雲地方斐伊川下流の村落の調査にもとづき精緻な理論で「家」成員交替過程を明らかにした。
結論を先に述べると、清水は日本の「家」の構造を理論化し、家長-主婦という地位は必須の構成であること。家長と主婦は必ず夫婦であること。次代の家長と主婦を確保することで永続が保障されること。嫁は主婦予定者として、婿は家長予定者として婚家の成員であること。婚入配偶者は、死後も婚家の世代仏となるので、その婚家帰属性は論理的に明らかである。
家成員は実子、養子、婚入者の3つの範疇と断言している。子供(実子・養子)と婚入者(嫁・婿)の2つの範疇と言い換えてもよい。[清水昭俊1973 62頁]
つまり、家成員の獲得とは、出生、家外からの婚入、養取である。
なお、清水は妻妾制の廃止された明治から昭和の「家」について論じており、近世においては密子・猶子というカテゴリーも認められるが、ここでは論外としたい。
清水が独自に定義している用語で、家長-主婦の地位構成で婚姻に先立って家の成員であった者を〈家連続者〉と定義する。つまり跡取息子、家付き娘等の範疇である。〈家連続者〉の配偶者、家外から婚入して来る者を、男なら婿、女なら嫁という。婚姻は両性の個人の結合のみならず、家と個人の結合でもあり、この家を婚入者にとって婚家という。
従って、この結合の終息は離婚ではなく、家との結合の断絶でありこれを不縁という。
かくして、家連続者夫婦→子供の出生=次代家連続者獲得→(次代)家連続者夫婦という循環的な過程が繰り返されるのである[清水1973]。
〈家連続者〉だけが、生涯、家の成員であり、その余の子供たちは婚姻より前に生家から離れなければならないので、これを排除予定者と定義する。
生家からの排除は、婚出、養出、分家設立の3つの形態のみである[清水1973]。
家成員は、おのおの与えられた地位に伴う役割を分担するものとして家生活に参与する。家は集団として不定形ではなく、限られた数の地位が一定の秩序に配列されている。つまり家は、時間的に配列された夫婦の対の地位(前・現・次代の家長・主婦-下記参照)と排除予定者以外の地位を用意していない。
前家長(おじっつぁんold man,grandfather)-前主婦(おばばold woman,grandmother)
家長(おっつぁんmale adult)-主婦(おばさんfemale adult)
家長予定者(わけぇしゅyoung fellow)-主婦予定者〈嫁〉(よめじょin-Marrying young woman)
[清水1987 209頁]
人は死亡時に所属した家の仏になる。仏には世代仏と子仏の2種類がある。世代仏(セタイホトケ)とは、清水が出雲の調査で発見した概念だが、日本の「家」の標準的な仏体系とみなしてよいと思う。
これは、歴代の家長・主婦達であり、出雲では永久に年忌が営まれる(弔い上げはない)。生前結婚し、家長・主婦に予定されながら、家長・主婦になる前に死亡した者、男の家連続者(家長予定者)が、結婚年齢に達しながら未婚で死亡した場合を含む。ただし婿、嫁で不縁とされた者、中継ぎとして分家した夫婦、女の家連続者については夫が世代仏にならない限り、世代仏とはならない。一系列に配列された歴代の世代仏は、生きている家成員と、家の創始者(先祖)を結びつける媒体である[清水1987 208頁]。
子仏とは生涯独身であった排除予定者、婚家で不縁とされて出戻り再婚しなかったケース等である。位牌とは区別されて箱位牌に収められ、父母兄弟など近い血族が家成員でなくなると忘れ去られていく。
清水が家を家族というよりは出自集団descent group[i]あるいはリネジ団体と定義したヒントが世代仏であったと考えられる。
例えば社会人類学者の蒲生正男は〈出自〉を、「社会的に承認された親子結合の世代的連鎖にもとづく、特定祖先への系統的帰属の方法」と規定し、〈出自集団〉の基本的特性は「単系性」と「自律性」にあり、出自の認知を明確に親子関係の連鎖としてたどれるものを〈系族lineage〉、単なる信念としてのみ出自の認知があるのを〈氏族clan,sib〉と説明している[蒲生1974]。
世代仏は見事に「世代的連鎖にもとづく特定祖先への系統的帰属」を表しているといえるだろう]。
清水の学者としての能力の高さは、この精緻な規則群の提示によって明らかである。
(A)最下世代を基点とした家成員を基点とした家成員獲得過程を規制する規則群
指定される〈家連続者〉とは
1) 下の世代が上の世代に優先する
2)上記の枠内で男子が女子に優先する。
3)上記の枠内で年長者が年少者に優先する。
つまり第一に最下世代夫婦の長男子、第二に長女子、第三に最下世代夫婦のうち家連続者の弟、第四に最年長姉妹である。
上記の可能性が不可能な場合は、家外から養子を求めるが、有力な家では血筋の中切れを嫌い分家から養子を求めるが、それは強制的な規則ではない。
(B)最下世代夫婦に事故が生じた場合の対処を規制する規則群
1)次代家連続者長男が結婚後間もなく死亡した場合
弟妹が家に残っていた場合、寡婦は生家に戻し、弟妹を家連続者に指定する。
残っていたのが弟であり、死亡した兄と年齢差がなければ、寡婦と弟の結婚(レビレート婚)が指定される。
弟妹も家に残って言いない場合は、婚入配偶者であった寡婦が、〈家連続者〉となり、あらたに婿を迎える。血筋としては〈中切れ〉になるがそれでも家は連続していく。
2)息子を残して最下世代夫婦の夫が死亡した場合
死者夫婦の息子を次の次の家連続者に指定したうえで、死者の弟ないし妹夫婦を〈中継ぎ〉として、息子が成人するまで家の運営を代理させる。息子の成人後、〈中継ぎ〉夫婦は分家を創設する[清水1987 211頁]。
(C) 清水説(B)の補足 寡婦・寡夫の再婚による家の継承
清水説はフィールドワークに基づいて家の連続は、婚入者〈寡婦・寡夫〉を介しても実現されているという規則を提示した。婚入者〈寡婦・寡夫〉は家連続者としてあらたに配偶者を迎えることにより家は連続する。
〈家連続者〉は「婚入配偶者を迎えて家成員を増殖させるために、家がその内部に用意する家成員」と定義されるため、婚入配偶者たる嫁・婿は家成員であることを見事なロジックで立証している。
この論点を補足すると、寡婦・寡夫の再婚による家や名跡の継承は歴史的モデルケースがある。
1)畠山氏
畠山重忠未亡人北条時政女が岩松義純と再婚した例
畠山重忠は秩父平氏の嫡流、長寛二年(1164)に畠山館(現深谷市)に出生し、知勇兼備の武将として「坂東武士の鑑」とされた著名な人物であるが、元久二年(1205)北条時政後室牧の方の謀略により、嫡子重保が由比ガ浜で討たれ、重忠は二俣川で北条兄弟軍により討たれた。重忠の末子、弟による家門再興は許されず、平姓畠山氏は断絶、政子の命令で重忠の所領は没収されたが、承元四年(1210)重忠未亡人北条時政の所領は改易されないこととなり、この未亡人は足利義兼の次男、岩松義純と再婚し、畠山泰国を出生しており、畠山の名跡は泰国の子孫が継承、足利一門として室町時代には管領となる[福島1990]。
2)住友家
婿養子が家外から後妻を迎え、その間の子孫が家業を継承した例
住友社史によると、家祖は政友であり、京都で書籍と医薬品を商う「富士屋」を開き長男の政以が継いだが、長女の婿となったのが蘇我理右衛門の長男理兵衛(1602~1662)であり、住友に改姓し、住友友以(とももち)と名乗った。実家より銅吹き業を持込み、実質住友財閥を興した人といえる。大阪に移転し代々銅精錬業として「泉屋」の家号を用いた。このため住友社史では蘇我理右衛門を元祖あるいは業祖としているのである。
友以は岩井善右衛門女を後妻としており、実質的な家業は婿養子の友以と岩井間の子孫が継いでいる。しかし友以の母が政友姉であるから、住友家の血筋は女を介して中切れにはなっていない。しかし八代目で血筋が絶え岡村家から養子を迎え、十五代目に徳大寺家の子孫を婿養子としている[官2005 266頁][iii]。
上記清水説A~Fによって主婦予定者として婚入する嫁、家長予定者として婚入する婿が婚家に帰属することは明らかであるが、次のような反論が考えられる。上記の理論は日本の農村の典型的な直系家族のことではないか、現代都市のいわゆる核家族の増大を考慮してないとの批判はあるかもしれない。
しかし、いわゆる核家族も「家」であることに変わりない。清水昭俊は、清水盛光、川本彰、リーチを引いたうえで日本語の「家」と欧語のfamilyは近似したものとの認識を示している。
「家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団]と親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の最広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」[清水1987 56頁]としている。
さらに清水[1987 96頁]は次のようにも云う「家‥‥は家族本位制のもとに、つまり〈いえ〉といった理念の下に共同意識で結ばれた家内的生活集団と定義され‥‥伝統的社会の家で営まれる家内的生活の内容は豊富で、多くの機能が累積している。つまり重責的共同体である。またこのように家を定義すれば、現代都市の核家族もまた〈マイホーム〉〈かぞく〉〈いえ・うち〉といった理念で結ばれた家だということができる」とする。
人類学者の蒲生正男は、単純に日本の伝統的家族を二類型に分け〈直系家族はunilateral familyと〈隠居制家族〉はconjugal unilateral family[iv]とする。共住を家族の要件としていないのは、レヴィ=ストロースに倣ったものだろう。世帯分離でも家族と規定できるのである。
人類学者の定義に従えば、夫婦別姓推進論者に多いジェンダー論は婚姻家族を崩壊させる懸念が強い。つまり母系家族と対極をなすのが婚姻家族であって「これは家内的生活が主として夫婦間の性的分業によって営まれる家と定義され、核家族や核家族かになる拡大家族はこれに含まれる」[清水1987 97頁]とされている。婚姻家族において性的分業は当然であるからだ。
[i]社会人類学の概念を用いて初めて家・同族を定義したのは中根千枝(1926~東大名誉教授)である。中根は出自集団descent group(中根は血縁集団と訳す)を定義して、成員権が「正式の結婚による父母を前提とする出生によって決定され」、この成員権は「原則として‥‥個人の一生を通じて変わらない」としたうえで、日本の家・同族においては婿養子や養子が成員権を得ることと、養取や婚姻によって個人が所属を変えることなどから、同族は(父系)出自集団ではないとした[中根1970]。
これに対して蒲生正男(1927~1981)は、この理解は人類学の常識を逸脱し、重大な誤解があり、偏見、空想であると批判した[蒲生1974]。これを中根-蒲生論争という
蒲生は出自を規定する要因として「出生のみに根拠をおくことは、実体の理解に適切ではない」「社会的に認知され‥ればそれで充分である」[蒲生1968]。
嫁を家の「ムスメ」とする「『カマドの一体化原理』」[蒲生1970]や非親族を養子としてとり込む養取の方式ゆえ、及川宏や喜多野清一も理解していたように同族を出自集団と扱ってよいと結論し、蒲生は日本の伝統的家族を「単性家族unilateral family」、同族は「practicalなlevelで言うなら‥‥cognatic lineage‥‥idealなlevelで言うならpatri-lineageと規定」することができるとした[蒲生1968]。
私はこの論争について次のように判断する。清水昭俊[1987]が、中根説を批判し、厳密に父系出自集団といえるのは韓国の門中だけだと言い、日本の家・同族について準父系の出自形式とし精緻な理論で説明している、家は家族というよりも出自集団と論じ、江守五夫[1990]も中根説が中国の宗族について女性は婚姻の後も出生の宗族の成員としたこと重大な誤りと指摘し、韓国の門中(姓族)も婚姻後は夫族に帰属すると述べた[1990]。いずれも首肯できるのであり、中根説は重大な欠陥があるとみなすほかない。
[ii]上野和男[1985]が位牌祭祀の諸類型を分類しているが、清水が発見した世代仏は、上野の分類する相続者夫婦を本幹とするもので位牌が深く蓄積する「父系型」と類型化されており、日本で最も広い分布をもつものとされている。〈出自集団〉の基本的特性は「単系性」にある以上、あえて「父系型」と類型化する必要もないだろう。バリエーションとしては、位牌が蓄積しないケースもあるまた少数例であるが、特殊な形態として分牌祭祀と、位牌分けがある。
分牌祭祀は1934年に五島列島で発見され、その後北限の福島県まで事例が報告されているが、これは生前より本家(長男)が父を世話し、分家(次男)が母の世話をする。死後の年忌法要も本家が父と分家が母というように分担するものである。これは婚家の同族での分牌であるから、婚入配偶者の婚家帰属を否定するものではない。
位牌分けは、複数の子供たちが位牌を別々に祀るもので、養出、婚出した子供の家に持ち込まれると双系祭祀になってしまう特異な例である。しかし上野は養出、婚出した家では一代限りのものとしており、この例外的事例をもって 、婚入配偶者の婚家帰属が揺らぐというものではない。このほか複寺檀制(半檀家)の指摘もあるが、きわめて例外的なケースにすぎずこだわる理由などない
[iii]日本の伝統的な家(単独相続)制度は、中国や韓国のように均分相続でないので、家族経営規模を保全して零細化を防止し、婿養子や非血縁養子により永続性が確保でき、家業・家職の継承に有利なだけでなく、住友家は婿養子が「持参金」代わりに製銅業を持ち込んだケースだが、経営能力のある婿を迎えて家業を興したり、養入により生家の家業を持参して事業を拡大できる等メリットが多く、ジォンダー論者のように敵視されるべきものではない。
[iv]蒲生は家族を「夫婦関係ならびに親子関係、もしくはその連鎖で結ばれた特定範囲の人たちからなる集団」と単純に規定した。
そして親子関係が尊重されるか夫婦関係を尊重するかで、婚姻家族と親子家族というと変差を生み出すとする[蒲生1974]。
そのうえで「日本の伝統的な〈直系家族〉はunilateral familyであり、〈隠居制家族〉はconjugal unilateral familyであって、日本の伝統的家族の基本構造をunilateral なものとして理解しようとするものである。たとえば家の象徴として〈家名〉〈家屋〉〈家職〉〈家督〉などがあげられているが、これらの継承相続が一方の親からのものに限られているなら、その構造はunilateralというべきもの」[蒲生1975]つまり日本の家を単性家族と規定した。
この概念は、ミードやレヴィ=ストロースが批判した核家族批判説の議論のなかで登場した「単性家族unilateral family」「双性家族bilateral family」の類型論にもとづくものであり[上野1982]、蒲生は一方の親子関係をとりわけ優先的に尊重するものを単性家族、一方夫婦別産が顕著なら双性家族と認知しうるとする[蒲生1974]。
(親子家族)
bilateral family(双性家族)‥‥アラスカ・エスキモーの家族
unilateral family(単性家族)‥‥日本の直系家族
conjugal family
(婚姻家族)
bilateral family(双性家族)‥‥ オーストリア農村家族
unilateral family(単性家族)‥‥日本の隠居制家族
日本の直系家族は明治民法が理想として規定してきた家族形態であり、東北や北陸地方を中心に東日本に広く分布する。しかしもう一類型あり、夫婦関係を尊重する西日本の隠居制家族 でありconjugal unilateral familyと規定し、いずれも単性家族としているのである。
むろん蒲生が顕著な夫婦別産とみなしているオーストリア農村とて夫婦同姓であり、たとえ夫婦別産でもキリスト教的な絆の強い夫婦倫理から、父系姓=ファミリーネームが西欧では普通だから、それが夫婦別姓の理由になるわけではないが、日本的「家」を単性家族と定義され、出嫁女が婚家に帰属する以上、夫婦同氏制が我が国の家族慣行に合致しているという根拠の一つといえるだろう。
明治民法は国民感情及び社会的慣習を根拠として夫婦同氏を制定されたといわれるが、起草者穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三者のうちもっとも強く夫婦同氏を推進したのが梅謙次郎である。梅謙次郎は「家」制度に批判的で、儒教道徳より愛情に支えられた夫婦・親子関係を親族法の基本とし、士族慣行より、庶民の家族慣行を重視した点で開明的だった。その判断は正しかったし近代法の父ともいえる梅博士の業績を否定するのは誤りである。
梅謙次郎は法典調査会議事速記録第146回で次のように述べた。「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信シラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ」。(熊谷開作『日本の近代化と「家」制度』法律文化社1987 207頁)
◎夫婦同氏は婚入配偶者が婚家に帰属する日本の「家」、家族慣行に慣習に合致する。(明治民法施行前から実態として夫婦同氏だった※)
梅は法典調査会で、漢土法に倣って夫婦別氏とすべきという一部の意見に強く反対し、日本の慣習では妻が夫の家に入ることが慣習である以上、実家の苗字を唱えることは理屈にあわないとはっきり言っている。
◎当時のドイツ、オーストリア、スイス、イタリア等の法制、単婚家族におけるファミリーネームの継受。
明治民法は当時ドイツ・オーストリア・スイス・イタリアの法制を参考としており、西欧の夫婦同氏を継受したという側面もある。スペインは複合姓であり、イギリスやフランスでは婚姻によって妻は夫の氏を取得するとされる。イギリス・ドイツの夫婦同氏の慣習であり少なくとも13~14世紀に遡ることができる。
栗生武生『婚姻の近代化』1968(原著は1930) 87頁によれば「ローマ法は妻をして結婚後も処女時代の姓は称せいめていたが、ゲルマン諸法は教会の「二人の者一体となるべし」の教えによって妻をして夫の姓を名乗らせ、二人の姓を一致させた。近代法の大多数も、妻は夫の姓を称すべしとする。つまりキリスト教の「夫婦一体」思想によりゲルマン諸法は夫婦同姓だ。おそらく14世紀以降の展開だろう。
しかし夫婦同姓は家産の相続と関連しているみることもできる。つまり、中世イギリスにおいては夫家の家産である土地の一部が寡婦産として設定され、花嫁は終身的経済保障を得る。夫家の家産を相続するのであるから、夫姓を唱える権利を取得するのである。つまり夫婦同氏の意味するところは婚家の財産分与で寡婦の終身的経済保障を得る権利に繋がっており、女性にとって有利な制度であるのにこれをみすみす破壊することは女性にとって利益とはならない。
我が国の家族慣行にも合致し、西欧のファミリーネームも継受した夫婦同氏は優れた制度であって、日弁連やフェミニストのいいなりになるのはばかげている。
明治8年11月9日の内務省伺
華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚家シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可
キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候ヘ共、右ハ未タ成例コレナキ事項ニ付決シ兼候ニ付、仰上裁候‥‥
内務省案「婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候」
ところが明治9年太政官指令「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は社会生活の実態とまったく乖離しており、事実上実効性がなかったとされている。それは夫婦の別氏を称することの不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。代表的な伺文を以下のとおりである。内務省や左院は夫婦同氏案だったが太政官法制局が夫婦別氏にこだわったのは、「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」という見解だった。むろん律令国家において改賜姓は天皇大権であって、昭憲皇太后の一条家は藤原氏であって、婚姻によって王氏となるものではない。
しかし近世の姓氏二元システムは、明治4年10月12日一切公用文書に姓を除き苗字を用いるとの太政官布告により、苗字(公家の場合は近衛・九条等の称号)に一元化された。つまり藤原朝臣実美ではなく三条実美と、大江朝臣孝允ではなく木戸準一郎(のち孝允)、越智宿祢博文ではなく伊藤博文と、源朝臣栄一ではなく渋沢栄一と書くべきだと。(井戸田博史『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986)
近世までの姓氏二元システムとは天皇の賜与・認定による姓氏(古代的姓氏・源平藤橘など)と自然発生的な家名である苗字(名字)の二元システムのことである。朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土浦藩主(土屋氏)の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職「土屋能登守」但し官職が侍従であったときのみ居城+官職「土浦侍従」になる(大藤修『近世農民と家・村・国家-生活史・社会史の視点から-』吉川弘文館1996)。要するに天皇との君臣関係は公式的には王朝風の古代的姓氏(本姓)。将軍との君臣関係は名字(苗字)であった。
夫婦同苗字は15~16世紀以降、公家では慣例になっていた(後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館歴史ライブラリー2009)。苗字(名字-公家の場合は称号)苗字が今日の氏である。
女性の場合、源平藤橘等、天皇の賜与認定の姓は女叙位のケースだが、叙位される女性は少ない。もちろん、実家の姓であるが、そもそも実名敬避の慣習から社会生活で称されることはない。それは大藤修の近世の例示からも明らかであり、桂昌院の実名である藤原光子が称されることはない。
改賜姓権能は天皇大権だが、10世紀にはすでに有名無実化し、例えば舎人親王系王氏の清原氏と局務家清原氏のように系譜がつながらないケースも少なくなく、近世では有力な農民は勝手に系図を作って名乗っているケースもあり、結局源平藤橘では家筋が不明で、社会的識別機能に乏しいので、同族、家筋のわかる苗字に一元化されのである。
したがって夫婦別姓の根拠とされた「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」という族姓秩序は、明治以降は否定されたので、太政官指令は根拠を失っていた
明治22年12月27日宮城県伺
婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」
明治23年5月2日東京府伺
「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」
(廣瀬隆司「明治民法施行前における妻の法的地位」『愛知学院大学論叢法学研究』28巻1・2号 1985.03参照)
折井美耶子2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636によれば、夫婦同氏は西欧式を意識していた側面もうかがえられる。明治24年8月創刊の『女鑑』(教育勅語の精神を女性に徹底する国粋主義的婦人雑誌)では「土方子爵夫人亀子」「高島子爵夫人 春子」「土岐夫人 理世子」などとなっており、田辺龍子が明治21年に発表した小説『藪の鶯』では「レディ篠崎」「ミスセス宮崎」と呼びかけている。
明治初期に女性の新しい生き方を模索して格闘した女性たち、岸田俊子は明治18年に結婚して中島俊子に、景山英子は明治18年に結婚し福田英子に、星良は明治30年に結婚して相馬良となっている。進歩的な女性たちを含め夫婦同姓だったのである。
戸主の家内統制と家督相続のある「家」制度は廃止されても慣行としての「家」は、分割相続となっても日本の親族構造として存在し、家長と妻(主婦)が家政を役割分担する「家」が我が国の基本的な婚姻家族の在り方である。清水昭俊のような人類学者の大御所がそう言っている。家を家族というよりは出自集団descent groupリネジ団体と定義した。
〈出自〉とは、「社会的に承認された親子結合の世代的連鎖にもとづく、特定祖先への系統的帰属の方法」と規定し、〈出自集団〉の基本的特性は「単系性」と「自律性」にあり、出自の認知を明確に親子関係の連鎖としてたどれるものを〈系族lineage〉[蒲生正男1974]。
清水昭俊によれば「家」の成員は、嫁、婿、実子、養子で、嫁は主婦予定者として婚家に入り、婿は家長予定者として婚家に迎えられる。家長-主婦が死後世代仏となって世代的に連鎖した末節が「家」であり、成員を同一の氏とするのは構造的にみてわかりやすい。
また家業、家職が継承されるのは日本的「家」の特徴である。中国の宗族はそうではない。世界的にファミリー企業の平均寿命は 24 年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜 2010 「日中伝統家業の相続に関する歴史的考察--北京同仁堂楽家と三井家との比較において」立命館文學 617]。老舗企業が健在なのは「家」制度が社会構造であるためだというほかない。
ところが、 日本の社会学では、欧米の婚姻家族との対比において日本の「家」の独自性、特殊性を強調し、封建的、前近代的なものとして否定的する傾向が強い。法制史学者なども同じことである。
しかしレヴィ=ストロースの「家社会」の研究により、日本の「家」に類似するような社会制度は世界各地に存在していることがわかってきた。レヴィ=ストロースは次のように「家」を定義する。「物質的および非物質的財から構成される財産を保有する法人であり、この法人は現実の系あるいは想像上の系にそって、名前、財産、称号を伝えることを通して永続する。この連続性は親族関係または姻族関係の言葉において、たいていはその双方の言葉において表現されている限り正当なものとみなされる」。[小池誠2005「序言 「家社会」とは何か(特集 アジアの家社会)」『アジア遊学 』74 ]。
したがって「家」は特殊なものではないし、排斥される理由も実はない。人類学の大御所清水昭俊は、清水盛光、川本彰、リーチを引いたうえで日本語の「家」と欧語のfamilyは近似したものとの認識を示している。
「家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団と親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の再広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」としている。
夫婦同氏姓制はドイツ法等の欧州の制定法の継受ともいえるが、英米も慣習は夫婦同姓が慣習である。実際ヒラリーはかつて弁護士として生家のローダム姓を名乗っていた。保守的なアーカンソー州の選挙民は別姓を不快とみなし知事選で夫が負けたことがある。そこで本心ではないが夫の選挙のためにローダムとクリントンの複合姓にしたのだという。フランスは、アンシャンレジーム期より夫婦同姓を女性の権利としている。結婚した女性が寡婦となっても終身的に経済保障されるためには、夫姓を名乗る必要があるのは当然だろう。総じて言えば欧米は夫婦同姓が基本でありであり、欧米で別姓を主張するのはキリスト教文明に対する反抗であり跳ね上がりである。
日本の家族慣行〈婚入配偶者は家の成員〉プラス、西洋文明圏のゲルマン諸法のファミリーネームの理念を継受したのが夫婦同氏で悪いはずがない。
これを壊そうとしているのかが夫婦別姓。そしてそれは、家族道徳を否定するものでもある。
夫婦別姓推進論者は、舅姑に仕えるのはまっぴらごめん。夫と同じ墓に入りたくないし、死んだら婚家で夫とともに一対の位牌となり、子孫に供養されたくもないという人々である。
この主張は、夫婦別姓論者の主張はローマの無夫権婚姻の主張に近い。これは持参金のない婚姻なので、寡婦となっても亡夫(婚家)からの財産分与・終身的経済保障はない。女性にとってはみじめな在り方だが、夫婦別姓論者が婚家に帰属したくないなら、夫(婚家)の家産を分捕る権利など与えるべきではなく、事実婚でよいのではないだろうか。
古くは「戸令」二十八の七出・三不去の制も律令国家の公定イデオロギーである。凡そ妻棄てむことは七出の状有るべしとされるのである。子無き。間夫したる妻。舅姑に事へず。心強き妻。ものねたみする妻。盗みする妻。悪疾。であるけれども子無きはさしたる咎にあらずともされている。舅姑に事へないことは悪事とされている。
近世の女子教訓書の代表作『女大学宝箱』(享保元年)には「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁いりを゛帰る″という。わが家にかえるという事なり」とあり、また「女は、我が親の家をば継がず、舅・姑の跡を継ぐゆえに、わが親より舅・姑を大切に思い、孝行を為すべし」と説かれ(柴桂子 「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003年])、出嫁女の婚家帰属性を明確に述べている。女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐのが女性の日常道徳の基本である。これは1世紀後漢の白虎通に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」に由来、東洋文明二千年の婦人道徳をゆるがせにできない。日本の令制も儒教道徳が公定イデオロギーで「孝子、順孫、義夫、節婦」等の家族道徳が基本。これを潰そうとしている。
『女大学』19ヵ条には女性にとって本来の家は婚家。七去の法。 生家の親より、舅・姑に孝養をつくすべきとされておりそれが婦人道徳の根幹であり、これがなくなれば「家」は解体する。まさしく夫婦別氏出デテ家亡ブのである。
我が国の家族道徳の基本は孝子・順孫・義夫・節婦(総じて「孝義」)という儒教道徳である。律令国家の統治理念は儒教道徳による民衆教化なのである。それで日本は安定した社会の基盤を形成し、礼節をわきまえた国民性の基本になっている。
儒教は親孝行というように親子関係を重視していると考えがちだが、偕老同穴の思想にみられるように、夫婦の一体性も重視していることに注意したい。
そしてそれは、福沢諭吉が「古来偕老同穴は人倫の至重なるものとして既に已に其習慣を成し、社会全体の組織も之に由りて整頓したることなれば、今俄に変動せんとするも容易に行はる可きに非ず」『福翁百話』と言ったように、それは近代社会にも通じる夫婦倫理といえる。
令制では、儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩※〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序を確立した。婦人道徳が民衆に浸透していったのは節婦の表旌に多くの記事がみられる9世紀と考えられる(賦役令では孝子・順孫・義夫・節婦の聞こえがある者を太政官に報告し、天皇へ奏聞を行い、その家の門前か所属する里の入口に孝状を掲げてその人物と同一戸の全ての公民に対する全ての課役を免除した)。
〈※五教 人の守るべき五つの教え。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友 (ほうゆう) の信の五つとする説(孟子)と、父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝の五つとする説(春秋左氏伝)とがある。〉
節婦とは「願守其(夫)墳墓以終天年」「其守節而有義」「謂、夫亡後葬舅姑負土、営墓、慕思不止也」とされる。
(一例をあげると。三代実録、清和天皇、貞観七年三月廿八日巳酉条 近江国に言えらく、伊香郡の人石作部廣継女、生まれて年十五にして、初めて出でて嫁ぎ、卅七にして、夫を失ふ。常に墳墓を守り、哭きて声を断たず、専ら同穴を期ひて再び嫁ぐに心無し。其の意操を量るに節婦と謂ふべし』と。勅あり『宜しく二階を叙して戸内の租を免じ。即ち門閭に表すべし』)
つまり節婦には単に二夫に仕えずという貞操概念だけでなく、偕老同穴という夫婦の羈絆性を重視する価値観が含まれており、キリスト教の夫婦の伴侶性を重んじる価値観にも通じている。
もちろん、儒教の家族道徳はこれだけではない。七出の状も戸令に定められているし、舅姑にしたがうべきという道徳は公定イデオロギーだったし、これ徳川時代まで寺子屋の女子教育にいたるまで一貫したものである。むろん三従四徳も基本的なものである。また「修身・斉家・治国・平天下」という『大学』のことばが表すように、礼の基本として、社会の基本単位としての家族のあり方を繰り返しとくのが儒教である。それは我が国に継受された規範的な価値である。
しかし、出嫁女の婚家帰属性という観点では、近年の王権論の流行で注目された中国の夫婦斉体思想に着目する必要がある。
「妻は家事を伝え祭祀を承く」戸婚律二九条疏
「夫れ祭なるものは、必ず夫婦これを親らす」『禮記』祭統
夫婦単位の祖先祭祀という意味が含まれている。
基本的な文献として谷口やすよ[1978]であり、これは漢代の太后臨朝の根拠を明らかにしたものである。皇帝が帝嗣を定めずに崩御の場合、皇后が皇帝に代わる者として皇帝の王朝創始者の徳を帝嗣に継承させたとし、漢代の皇后の役割を高く評価した論文であり、多く引用されている。
『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである。
後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」『績漢書』禮儀志劉昭注引蔡質「立皇后儀」)という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた[保科季子2002]。
法制史家では滋賀秀三が夫婦斉体思想を説明していた。「異なる「宗」出身の妻は、夫と共に夫が属す宗廟祭祀の主体となり、子孫から孝養を尽くされる者となる「婦女雖複非丁、拠礼与夫斉体」(名例律二七条)と、夫婦斉体=一体とみなされる。ただし、夫婦一体といっても「夫者婦之天也」(名例律六条)というように、あくまでも夫の人格に妻が包接されるという意味での一体であって、夫が生存する限りは妻の存在は夫の陰に隠れてみえない。ようやく寡婦になったときには夫の代位者として夫の有していた諸権利をもつことができるが、これは妻うちに亡夫の人格が合体したことに帰属する‥‥。[梅村恵子2004]」
つまり中国の宗法では夫婦一体で祭り祭られる存在であり、これは日本でも世代仏として夫婦一対の位牌となることで基本的に我が国に継受された思想といえるし、まさに婚家帰属性を明らかにしている思想である。
夫婦別氏(姓)を批判する立場では偕老同穴等の我が国が古来より夫婦倫理として継受され重んじられていたまさに夫婦斉体思想の崩壊をもたらすと観念されるからである。
氏に関する規定の改正を含む民法改正案(六次案)は、昭和22年に発表された。改正案に対しては、批判が出された。それは氏は「家」制度の残滓であるというものである。
まず同年5月12日、日本共産党の野坂参三は「全体としてきわめて進歩的な法案」であるが「最も遺憾とするところは、民法民主化の最大の眼目である封建的『家』制度の除去が尚、不徹底な点にある。」として、そのあらわれとして、「氏」を指摘する。
すなわち、「『家』を廃止するといいながら、今度は『氏』なる制度を創出し、しかも、これを全親族法の中枢的地位に据えている。これは『氏』の名のもとに旧来の『家』制度、『家』観念を温存しようとの企図であると見なさざるを得ない。かような態度は改正案全体にわたって、至るところに現われている。」
ついで5月14日、磯田進、川島武宣、立石芳枝らの家族法民主化同盟は次のように批判・要望している氏」に実質的効力を認める規定(七二九条二項、七八八条二項、七八九条二項、八こ一条ノニ第二項、八二一条ノ三・五、八三六条ノニ第二項、‥‥)を削除すること。それらの規定は家族制度を保存する結果となり、又婚姻、離婚、私生子認知などの場合に、子と氏を同じくする父母の一方のみが其の子に対し親権を有するのは不当であるから、父母は親としての関係に基き常に子の監護、教育について権利・義務を有するものとすべきである。さらに民法改正案研究会は置き代えられた。氏は「家」と異らぬと言っても俗解の余地がないではないかと批判した(山中永之佑1997「夫婦同氏の原則と憲法」追手門経営論集3巻1号)
したがって、事実上、野坂参三が夫婦同氏の最初の批判者だったということである。
韓国を除くと、夫婦別姓従来認めていたのは、ソビエト、東独、チェコスロバキア、中華人民共和国といった社会主義国であり(滝沢聿代「フランスの判例からみた夫婦の氏--夫婦別氏制への展望」『成城法学』34号1990)、このような社会主義国型立法を容認することはできない。
もう少しくわしいことを
中国では孫文-宋慶齢、蒋介石-宋美齢、毛沢東-江青、劉少奇-王光美、習近平-彭麗媛というように夫婦別姓が伝統と思っている人が多いと思うが、この固定観念は間違いで清朝の姓名記載慣習は夫婦別姓ではないと島村修治(『外国人の姓名』ぎょうせい1971年24頁以下)が指摘している。
もっとも伝統的な中国の宗族や朝鮮・韓国の門中においては、同姓不婚(娶)という族外婚制と異姓不養の原則があるけれども。外婚規則と、社会的標識としての姓名とは別の問題ということである。
島村によると清朝の姓名記載慣習は、女は結婚すれば夫と一心同体のものとして無姓無名の存在となり、一般の人々は〈何々家の奥さん〉、〈誰某の妻〉、〈誰某の嫁〉、〈誰某の母〉と呼びかたをしていた。
王竜妻張氏、あるいは 王張氏(王家に嫁入した張氏の娘との意味)というふうに書いたという。
中華民国の婚姻法(民法第1000条)でも夫婦は原則として同じ姓を称することになっていた。しかし実態としては1930年代以降、婚前の姓に字を添え、婚家の姓をかぶせ在り方が増加した。それは孫文-宋慶齢、蒋介石-宋美齢は原則に反するが、夫婦間の特約により婚前の旧姓を保持することも認められていたためだという。
従ってファーストレディーとしての宋家姉妹がこのモデルを普及させた要因とみられ、新しい慣行である。
中華人民共和国では1950年5月1日公布の新婚姻法では、男女は平等であり互に独立した人格者であるとして、姓名についても「夫婦それぞれ自分の姓名を使用する権利をもつ」と定め、いずれの姓を選ぶかは当事者の任意とした。
この法律のモデルはソ連である。
島村氏によると(前掲書148頁以下)
ア 帝政時代、妻は当然のものとして夫の姓を称した。
イ 1919年の法典では、夫婦同一姓の原則により共通の姓を称するが、夫の姓か、双方の姓を連結した姓を称するかは、両当事者の自由とした。
ウ 1924年11月の法令で夫婦異姓の可能性が認められ、同一の姓を称する義務がなくなった。(1926年に連結姓と第3の姓の選択を否定)。
1926年に事実婚主義を採用し、1936年の登録婚制度法定まで事実婚の時代といわれている。夫婦別姓はスターリン時代の事実婚社会にふさわしかったのである。
以上のことから夫婦別氏ないし夫婦別姓というのはレーニンが死去した1924年のソ連の法令に由来する。それが1950年の共産中国の婚姻法に継受されたとみることができる。
日本的「家」制度の残滓とみなされる、夫婦同氏制を潰す政策を後押ししているのは共産主義イデオロギーを信奉している勢力と考えられるのである。つまりエンゲルスの唯物論的家族史論は、嫁入婚と家父長制家族の成立が私有財産制の淵源であると同時に「世界史的女性の敗北」と称しており、逆に嫁入婚と家父長制家族に打撃を加え、女権の拡大により、事実上社会主義革命の展望が開かれるという理屈になるからである。男女平等やジェンダー論は本質的に共産主義と親和的な思想なのである。
文明世界の規範とは明確な性差別、男性による女性の支配である。ここでは西洋文明的脈絡から述べます。すなわち神の宣告、神が女に下した罰「なんじは夫をしたい、彼はなんじを治めん」(創世記3:16)つまり男性による女性の支配をいう。神の宣告だから忽せにできない決定的な価値です。これが、文明世界の秩序、鉄則であります。この規範からの逸脱は文明から転落、反文明とみなさなければならない。
またパウロが教えるように「男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」(第一コリント11:3)「男は神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきでない。女はまた男の光栄である。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだから」(第一コリント11:7~9)。「婦人たちは教会で黙っていなさい。婦人たちに語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」(第一コリント14:34)
私はコリント前書に忠実なんです。であるから真正パウロの勧告に従って独身だし、女どもの叛逆を許さない。女が男を貶めることは許さない。文明の規範提示者からの逸脱を絶対容認しない。男女平等とか同権とか、女子差別撤廃なんていうのは文明規範に対する叛逆です。秩序紊乱です。いわゆる男女同権論なるものはワイマール憲法あたりから、20世紀の新奇な思想なのであって、そんなのは鼻糞のように全く価値を認めないし、むしろ有害、環境ホルモンより恐ろしい害毒だ
さらに新約聖書には家庭訓ジャンルがあって、これはペテロの第一の手紙と第二パウロ書簡(エペソ、コロサイ、第一第二テモテ、テトス)である。これこそが西洋文明世界の基本的な家庭倫理となっている。
ここではペテロの第一の手紙の家庭訓は3章1節だけを取り上げる。
「妻たる者よ、夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく、清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるだろう。」
聖書学者の荒井献は次のように解説する。「『仕える』と訳されている‥‥のは夫の下に立ちなさい。夫に服従しなさいという意味です。(中略)もしもこの『同じように』が前の文脈の主人に対する奴隷の服従を受けるものとすれば、妻は主人に対する奴隷と同じように夫に服従せよということになります」[荒井1985]。
四世紀に教皇によって編まれたものとされる『使徒教憲』は決定的な意義を有するもので、これは12世紀にグラティアヌスの教令集の中に広く受け入れられ、現代に至るまで重要な意味を持つ。
「われわれは、女性が教会で教えるという仕事をなすことを許さない。彼女らは祈り教師の教えを聞くのみでなければならない。なぜならわれわれの師である主イエスは、民衆と異教徒に教えるため、われわれに十二人の男性のみを遣わされたのであり、決して女性をお遣わしにならなかった。女性がいなかったというわけではないのに。というのも、主の母とその姉妹、マグダラのマリアやヤコブの母マリア、ラザロの姉のマルタとマリア、サロメ、その他がいたのだから、であるから、もし女性にふさわしい事がらであるなら、彼自身が女性をお呼びになったであろう。しかし男が女の頭であるなら、体の他の部分が頭を支配するのは適当ではない」第三巻、六(ウタ・ランケ-ハイネマン著 高木昌史他訳 『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 178頁)
これが正統教会の規範である。そもそも、ユダヤ・キリスト教西洋文明2500年の歴史は、バアルのような豊穣神、あるいは地母神信仰と闘争し、マグダラのマリアを評価するグノーシス派を徹底的に排斥し、女性にも地位を与えるカタリ派を異端として徹底的に弾圧し、15世紀から18世紀に魔女狩りで4~6万人を処刑した。この文明とは女性原理の徹底的な排斥だった。
重要なことは、近代市民社会も男権原理の文明であるということである。ナポレオン法典231条「夫は妻を保護し、妻は夫に服従する義務を負う」とある。ナポレオン法典には、父権、夫権、親族会議の力を示すものが多い。父権、夫権は近代市民社会において正当なものである。
ブラックストーンは『英法釈義』(1765)1巻15章婚姻の一般的効果としての夫婦一体の原則について次のように説明する「婚姻によって、夫と妻は法律上一人格となる。すなわち、婦人(woman)の存在または法律上の存在そのものは、婚姻中、停止されるか少なくとも夫のそれに合体され、統合される。夫の翼、保護、そして庇護(cover)の下に、彼女はあらゆることを行う。したがって、われわれの法律用フランス語では、feme-coventと呼ばれ、covent-baronすなわち彼女のbaronないし領主(lord)である彼女の夫の保護と権力のもとあるといわれる」。
夫とは彼女のbaronないし領主(lord)様であるのだ。男性の地位が高いのでいまでは羨ましく思う。
ダニエル・デフォーは1724年「ロクサーナ」と言う作品でこう言っている。「結婚契約の本質そのものが、自由、財産、権威その他一切を男に委ねることにほかならない。結婚してしまえば、女は単なる女中にすぎない、つまり奴隷である。」 財をたくわえて独立の生活ができたのも結婚していない時だけ。娼婦や愛人のほうが自由な人間であった。
17世紀プロテスタントは、男は頭、女は身体、神は男性による女性の支配を神聖な秩序として定め給うたと牧師は説教した[久留島京子1989]。万人祭司の理念とは、家庭も一つの小さな教会であり、家長たる夫が小さな教区の主教であるということ、市民社会は男性に求心力のある家庭があってこそ成立したというべきだ。
私は、よくいわれる夫婦の一体感の基礎としてのファミリーネームの意義をもちろん認めるが、しかしそのような非イデオロギー的価値では、それはたんに観念論との別姓論者からのあるのでこの見解だけでは弱いと思う。
世界史的にみるなら、夫婦別姓などというのは、たかだかロシア革命以後の男女平等思想、社会主義思想や、1960年代末以降の女性解放運動、キリスト教家庭倫理への反抗、フェミニズム、近年のジェンダー理論という偏った価値観を前提としている。
共産党の家父長制への敵意は、パラダイス・ロストの神の宣告への敵意。これまで引用してきたた聖書的価値への敵意。正統的な宗教に由来する文明規範の否定なのである。それゆえ家父長制倒のために夫婦別姓を推進するマルキスト勢力に反対するものである。
ジェンダー平等の何がわるいか。パラダイス・ロストの神の宣告の反逆であり、文明への反逆である。
私は上記に述べた婚入配偶者は婚家に帰属するという人類学者の理論を、法制史や歴史学の成果と結び付けて歴史的由来を明らかにし補足するという作業を行いたいと考える 結論は、歴史的由来が深いので、妻の婚家帰属性を否定する夫婦別姓導入は、わが国の基本的家族規範から逸脱し、社会の凝集力となる根本的な規範を否定する。
※ 出嫁女の婚家帰属性の補足
夫より妻に処分された財産は、妻の生家に流出しないというのが古くからの日本の慣習
◎ア 戸令応分条と公家法
律令相続法で妻の財産については、大宝令戸令応分条に「妻家所得奴婢、不在分限。還於本宗」とあり、古記は「若有妻子者、子得。无子者、還本宗耳」と注釈し、妻が生家から将来した所得は実子が得るが、子が無い場合は本宗に還されるとする。中世前期の一期相続と同じである。実際、永暦2年(1161)に妻に子がないケースでの紛争で明法博士の裁定は「女子に処分するもの、女子亡ずれば、夫、妻の祖家に還す可きなり」[栗原弘1999 202頁]と裁定されている。
なお養老令は「妻家所得、不在分限」だけであり、唐令の「妻家並不得追理」(妻家所得は夫の所有に帰する)という規定を採用しておらず、古代は夫婦別財であったという女性史家学説の根拠の一つになっている。
しかし五味文彦[1982]は、明法家の法律書『法曹至要抄』『裁判至要抄』を根拠として、公家法では「夫婦同財」が,遅くとも12世紀初頭には確立したという。「夫婦同財とは、妻の財産を夫が「主」として「進退」することを意味する。‥‥夫が妻にかわって、妻の財産所領を領知・知行したのが、夫婦同財の内容であった」。また中世以降は,結婚した娘(嫁女)に対する生前譲与を親が取り消す権利(悔返権)権)が否定され,妻に対する実親の親権が著しく後退していったとする。
一方、吉田徳夫[1987]は五味説を批判し、「相伝の由緒は女性にあり、この点においては夫婦別産制である」とする。栗原弘[1999]も〔嫡子単独相続に移行する〕南北朝期までは別産で、妻の財産は夫のそれとは同化しないとしている。中世前期までは大筋で認めてよいだろう。
しかしながら、夫から妻へ家領が処分される事例が11~13世紀初期の分割相続時代の摂関家にみられる。これは正妻制の確立とも関連していることだが、義江彰夫[1967]が抽出した事例では、下記のとおり夫から妻に処分された家領は、夫の氏の嫡流に還されているのである。
義江は、「夫側から妻・嫁への処分がなされたばあい、一期の知行ののち妻・嫁の生家に伝領されることなく父側にもどさるべきことは、すでに律令法(戸令応分条)さえ認めるところであり、摂関家においても古くから一貫して慣習として通っている」と結論している。
明法家の見解は示されてないが、 夫より妻に処分された財産は、妻の生家に流出しないというのが慣習というのである。とするならばこの慣例は、妻の婚家帰属の根拠の一つとなる。
この事例を取り上げた理由は、夫婦別氏(姓)推進論者が、夫婦同氏を家制度の残滓として攻撃し、夫に従いたくない、舅姑を親とも思いたくもないし仕えたくない。夫と同じ墓に入りたくないなどと主張する一方で、法定相続で夫からがっつり遺産(つまり夫家由来の財産)を取得するのは当然だという、とても我儘で欲の深い反倫理的思想を展開するからである。
ローマの結婚は夫権に服するすマヌス(手権)婚が通例だが、夫権に服さない結婚のあり方もあって。これを無夫権婚という。ローマが持参金型結婚のため、生家の父が持参金による生家の父が婚家への財産の流出を渋るために広がったものである。今日の事実婚に近い。この場合、寡婦となっても夫からの財産分与、終身的経済保障はない。女性にとってはみじめなあり方が、無夫権婚であった。
ところが、夫婦別姓論者の主張は、ローマの無夫権婚とは明らかに違う。婚家に従属するのはいやといいながら婚家の財産であった夫の遺産は奪い取ってしまおうとするからである。
藤原基実から正妻平盛子の相続の例でも明らかなように平清盛ですら、摂関家領を横領することはしなかったし、できなかったのであって、それをやってしまおうとするのが現代の夫婦別姓推進論者ではないのではなかろうか。このように反倫理的な主張を到底許されないというべきである。
◎ 夫より妻に処分された家領が、夫の氏に還った例
ケース1 道長→源倫子→頼通
梅村恵子[2007 158頁]によれば藤原道長の正妻は源倫子(左大臣源雅信女)であり、倫子は親への求婚と許可を得、儀式婚をあげた上で同居に至ったのであり、源明子(左大臣源高明女)は公的には妾、生涯別居の次妻、副妻と呼ばれる存在である。
道長薨後、男子頼通は、父の遺言に従って最良の家領を法成寺に寄進したほか、膨大な家領すべてを倫子に処分する。道長の遺言によれば倫子一期ののちは女子二人、彰子・威子に処分されることになっていたが、実際には倫子ののちは頼通が伝領している。彰子・威子が指定されていたのは女院、后位にあるためだと思うが、実際は頼通である。これが摂ろく渡領の基盤と考えられている。
ケース2 頼通→隆姫女王→祐子内親王(養女)→忠実
頼通から正妻の隆姫女王に処分された家領は、邸宅の高倉殿に附属して、隆姫の養女祐子 内親王に伝えられたため高倉一宮領という。内親王は長治二年(1105)家領処分を行わないまま薨じたので、翌年摂政忠実[i]は、「宇治殿(頼通)所分旨」を根拠に、この所領を宣旨により認定され入手、曾祖父の家領であったものを取り戻した。
高倉一宮領は忠実より女の泰子(鳥羽后)に伝えられ高陽院領となり、基実が高陽院の猶子とされたため、基実に伝えられた[川端新2000][ii]。
ケース3 基実→平盛子→(高倉天皇)→基通
関白基実は父忠通から摂関家の基幹所領である京極殿領(摂関家の年中行事の財源となる中核的所領群)を相続し、高陽院(鳥羽后忠実女泰子)の所領も相続していたが、遺領処分状を作成せず、仁安元年(1166年)赤痢で24歳という若さで薨じた。男子基通(母は藤原忠隆女)が7歳と幼少であったことから、摂政は弟の松殿基房が継承し、氏長者領のみ相続したが、その他の膨大な基実遺領は、上皇の院宣によりに家政機関を有していた基実の正妻平清盛女11歳(北政所盛子)に中継ぎ的に相続させたケースである。
上皇の裁断は清盛に諮ったうえでのものだが、よくいわれる平氏が摂関家領を横領する目的というのは古い学説であり、今日では否定されている。結果的に基実遺領は実子で盛子の養子とされた基通に伝えられた。
従って、妻に処分した家産は異姓に流出しないことを示したモデル事例である。正妻に処分される場合の意義を確認できるものとして評価すべきである。
○治承3年政変の意義
治承3年(1179)6月盛子が24歳で薨じた際、後白河法皇は清盛不在(芸州厳島参詣)に乗じて摂関家領を没収し、高倉天皇の管領とする。これは盛子が高倉天皇准母だったことによるが、目的はすでに十年以上摂関職にあった基房を摂関家の継承者にするためだった。清盛は激怒し、養孫で婿でもあった基通への相続にこだわった結果が治承3年の政変(後白河院政停止、高倉親政開始、関白基房罷免、基通関白就任)である[河内2007]。
摂関家の嫡流争いはこの後も続くが、最終的には文治二年(1186)の文治争論の院の裁定により、基通が盛子より伝領した摂関家領の相続が確定し、摂関家嫡流近衛家の家領となる[iv]。
結果的に分割相続の時代であっても京極殿領という摂関家の中核所領は師実→(孫)忠実→(子)忠通→(子)基実→(正妻)平盛子→基通と直系で相続され、中世的「家」が成立したとみてよいと思う。
ケース4 忠通→源信子→基通
所領として少量だが、忠通の妻源信子に処分された家領は、信子の孫にあたる基通が相続している。
ケース5 基通→最舜女→兼基・円静・円基・静忠・実信
基通は、家領の3分の2を長子の摂政家実に処分するが、その他は細かく分割相続され、正妻ではないが家女房といわれる僧最舜女に10箇所を処分している。しかし最舜女は、生家に勝手に処分することは許されておらず、基通からいちいち許可を得て、実子に分割処分している。実子に分割処分された家領のほとんどは、一期の後、近衛家流の近親の僧侶か、近衛家嫡流に戻されている。
八 夫婦別姓は日本人をエヴェンキ族化する
中根-蒲生論争で問題は、中根がdescent groupについて個人のメンバーシップは婚姻によって変更されることはないという理論モデルに固執していることが、文明国における常識と乖離していることにある。
清水は父系出自集団(厳密には準父系)において婚出入者が集団帰属を変更する事例として、古典的な事例としてギリシャ・ローマ[クーランジュ1924]、満州族(満族)[シロコゴロフ1924]を指摘している[清水1987 228頁]。
しかしこの点は、漢族の宗族、朝鮮・韓国の門中においても、妻は夫族に帰属するのであって、中根の認識は誤っていることを厳しく批判する江守五夫の指摘[江守1990 212頁]がより妥当なものといえるだろう。
中根によれば、日本では嫁いだ女性は「父の同族集団から除外され」、嫁ぎ先の家の同族の一員となっており、それゆえ「夫婦は必ず同じ成員となっている」のに対して、中国では「夫婦がそれぞれ別のメンバーシップを持っている」のであって「女性は結婚後も父の姓をつづけ、夫の姓をなのらない」[中根1970としているが、中国は夫婦別姓の固定観念から、安易に別の夫婦別のメンバーシップとみなしているところが誤りである。
中国法制史の滋賀秀三がこの問題について詳細に検討しており「婚礼の挙行によって女性は確定的に夫宗の秩序に組み入れられる」あるいは「女性は結婚によってはじめて、自己の生死を通じてその一員となるところの家を見出す」と結論し[滋賀1967 21~22頁、459頁以下] 、仁井田陞もただ一句だが「出嫁女は夫の宗族に加えられた」と断定的言明を行なっている[仁井田1952 188頁]。
韓国の門中については崔在錫が、韓国では『出嫁外人』という言葉が通用し、一度結婚をすれば、実家との往来の道が殆ど断絶するのが、いまだ農村での慣例と述べ[崔1963]、また金宅圭によれば、韓国では近親関係をあらわす語に「堂内」があるが、この場合婚出した女性は含まれないが、婚入した他姓の女性は実質上の成員とみなされるとして、婚入者は堂内成員との見解を示している[金2000 104頁]。端的にいえば韓国において位牌は考妣対照の二牌をもって一組として子孫から祭られるのであるから夫族の成員たることは明らかである。
いうまでもなく伝統的な中国の宗族、朝鮮・韓国の門中は外婚制であり同姓不娶(同宗不娶)・異姓不要という規則、レビレート婚による再婚も否定されるなど、日本の家・同族と基本的な相違がみられる、しかしながら一方で、婚入配偶者たる嫁が夫家、夫族に帰属する点では実は同じなのである。文化的に共通な面についてもっと強調されてよい。
この点については、江守五夫が日本の嫁入婚の習俗において、韓国や古代中国との共通点を指摘[江守1998 201頁以下]し、嫁入婚中世成立説という通説を否定し古代より嫁入婚習俗が存在したと説いていることでもある。家族制度の本義として、祖先の祭祀はその血統の子孫が営むべきであって、異姓からの養子を嗣子とすると、その宗族を乱すと考えられたため、同一血族の同族の男子(厳密には昭穆制により同世代の)を養子とする。異姓は養子に迎え入れない。なお、正確にいうと華北・華中では、同姓父婚でなく同宗不婚、伝統的な韓国の門中は同姓同本不婚である。(なお、中華人民共和国では宗法を封建制度として否定している、韓国では1997年同姓同本不婚が違憲とされ、2008年に戸主制度と戸籍が廃止され新しい、新しい身分登録制度に移行している)
ところでローマ法では家父長権はマヌス(手権)というが、ゲルマン法ではムント(mundius)という。妻子の支配権と保護義務である。婚約男性は婚資を支払うことにより、ムント権者から婚約男性に女性が引き渡され、男性が女性を収容することによりムント権の移転は完了し、初夜の翌朝夫が妻にモルゲンガーペ(morgingab) を贈ることにより婚姻行為は終結する[鈴木2013]。従ってムント権の譲渡は女性の帰属変更を意味する。
なお朝の贈物(モルゲンガーペ)は家畜、武器、装飾品だが婚資とともに彼女の寡婦扶養料となるものである。ゲルマン法の要素は、教会挙式にとりこまれた。ムント権を花嫁の父より夫に引渡す儀礼は今日でも教会挙式のヴァージンロードの儀式として残っている。花嫁の寡婦扶養料の動産質が、金貨や銀貨であり、今日では指輪を与える儀式となり、終身的経済保障の質権を与えるからウェディングというのである。挙式での接吻にも意味があり、接吻のない場合夫が早死にした場合夫から財産分与されないとする地方もある。従って現代でも産業になっているウェディングの多くの要素は、ゲルマン法に由来する。
従ってギリシャしかり、ローマしかり、ゲルマンしかり、中国もそう。東洋であれ西洋であれおよそ文明圏において、女性は婚姻によって帰属を変更するものといえる。
従って、中根の純理論モデルの定義では、世界で最も徹底した父系出自集団である韓国
の門中ですら、出自集団ではないことになるからで理論として破たんしている。
もっともソ連の民族学者シロコドロフがツングース系のエヴェンキ族(狩猟とトナカイ遊牧を生業とする)は女性が出嫁後も、生まれた氏族に属し、父族の諸神霊を崇拝し続けるという[江守1993]。戦前の研究者なのでなお検証が必要だと思うが、成員権は「原則として‥‥個人の一生を通じて変わらない」とする中根の定義に合致するかもしれない。
夫婦別姓推進論者の本音は、夫権を否定しや婚家への帰属を否定したいのである。そうすると夫婦別姓は日本人をエヴァンキ族化させる政策といえるし、文明圏からの逸脱といってもよい。
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1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3
河内祥輔
2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館
告井幸男
2007「摂関・院政期における官人社会」『日本史研究』535
官文娜
2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版
京楽真帆子
1993「平安京における居住と家族-寄住・妻方居住・都市」『史林』76巻2号
金宅圭
2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会
熊谷開作
1963『歴史のなかの家族』酒井書店
1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社,
クーランジュ
1924 田辺訳『古代都市』白水社1961、原著1924)
栗原弘
1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店
久留島京子
1989「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185, 1989
小池誠
2005「序言 「家社会」とは何か(特集 アジアの家社会)」『アジア遊学 』74
後藤みち子
2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館
柴桂子
2003「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003年]
(2004「〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現) のコメント」『総合女性史研究』(21) [2004.3])上記と同内容
清水昭俊
1970「<家>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<家>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215
1972「<家>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<家>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213
1973「<家>と親族 : 家成員交替過程(続) : 出雲の<家>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76
1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11
1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号
1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987
滋賀秀三
1967『中国家族法の原理』創文社1967
シロコゴロフ
1924大間知訳満州族の社会組織」『満州族』(大間知篤三著作集6)未来社1982原著1924)
鈴木明日見
2013「ランゴバルド諸法における男子未成年者の婚姻 : リウトプランド王付加勅令128条、カロリング勅令140条を中心としてThe Marriage of Male Minor in the Lombard Laws : Based on the Article 128 of the Laws of King Liutprand and the Article 140 of the Laws of Carolingian」『駒沢史学』80 2013
曽我良成
2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館
高橋秀樹
2004『中世の家と性』山川出版社
ダニエル・デフォー
1724山本和平訳「世界文学全集10」集英社1981 379頁
谷口やすよ
1978「漢代の皇后権The Political Power of the Empress in the Han Dynasty」『史學雜誌 』87(11) 1978
所功
1971「続類従未収本『三善氏系図』考「続類従」『塙保己一記念論文集』温故学会
仁井田 陞
1952『中国法制史』岩波書店1952
西谷正浩『日本中世の所有構造』塙書房2006年
中根千枝
1970『家族の構造-社会人類学的分析』東京大学出版会1970「日本同族構造の分析」
樋口健太郎
2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年
2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011
福島正義
1990『武蔵武士-そのロマンと栄光』さいたま出版会
福地陽子
1956「<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展<Article>THE GROWTH AND DEVELOPMENT OF THE CATHOLIC PRECEPT AGAINST DIVORCE」『法と政治』7(4)1956
服藤早苗
1991『家成立史の研究』 校倉書房1991
J・Lフランドラン
1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房
イレイン・ぺイゲルス
1988 邦訳1993絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社
保科季子
2002「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』61巻2号1
洞富雄
1957「明治民法施行以前における妻の姓」『日本歴史』137号
松永晋一1959
「キリストのからだとしての教会The Church as the Body of Christ」『神學研究』 9 1959
宮地正人
1981『天皇制の政治史的研究』校倉書房
桃 裕行
1947『上代学制の研究』畝傍史学叢書
湯川俊治
2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会
吉田孝
1963 『律令国家と古代の社会』岩波書店
阿部一
2014「日本の伝統的家族・擬似家族システムとしてのイエの形成The Formation of 'Ie' as Japanese Traditional Family/Quasi-Family System」
『東洋学園大学紀要』 22 2014
荒井献
1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号1985日本聖書協会発行 162頁以下 『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス 1988も同内容
嵐義人
1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社222頁)
井戸田博史
1986『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986
井上兼行・清水昭俊
1968「出雲調査短報」『民族學研究』33巻1号 1968
上野和男
1982「日本の祖名継承法と家族--祖先祭祀と家族類型についての一試論」『政経論叢』50巻5・6号
1985「日本の位牌祭祀と家族--祖先祭祀と家族類型についての一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』6号
ウタ・ランケ・ハイネマン
1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 20頁以下
梅村恵子
2000「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店
2007『家族の古代史 恋愛・結婚・子育て』吉川弘文館
江守五夫
1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990
1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993
1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998
加地信行
1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書
勝俣鎭夫
2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社
蒲生正男
1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968
1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970
1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)
1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3』
1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3
河内祥輔
2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館2007
官文娜
2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版2005年
金宅圭
2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会2000
熊谷開作
1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社,1987年
クーランジュ
1924 田辺訳『古代都市』白水社1961、原著1924)
久留島京子
1989「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185, 1989
後藤みち子
2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館
2014「室町・戦国時代の婚姻」高橋秀樹編『生活と文化の歴史学4婚姻と教育』竹林舎
清水昭俊
1970「<家>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<家>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970
1972「<家>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<家>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972
1973「<家>と親族 : 家成員交替過程(続) : 出雲の<家>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973
1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985
1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985
1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987
滋賀秀三
1967『中国家族法の原理』創文社1967
シロコゴロフ
1924大間知訳満州族の社会組織」『満州族』(大間知篤三著作集6)未来社1982原著1924)
鈴木明日見
2013「ランゴバルド諸法における男子未成年者の婚姻 : リウトプランド王付加勅令128条、カロリング勅令140条を中心としてThe Marriage of Male Minor in the Lombard Laws : Based on the Article 128 of the Laws of King Liutprand and the Article 140 of the Laws of Carolingian」『駒沢史学』80 2013
ダニエル・デフォー
1724山本和平訳「世界文学全集10」集英社1981 379頁
谷口やすよ
1978「漢代の皇后権The Political Power of the Empress in the Han Dynasty」『史學雜誌 』87(11) 1978
仁井田 陞
1952『中国法制史』岩波書店1952
西谷正浩『日本中世の所有構造』塙書房2006年
中根千枝
1970『家族の構造-社会人類学的分析』東京大学出版会1970「日本同族構造の分析」
樋口健太郎
2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年
2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011
福島正義
1990『武蔵武士-そのロマンと栄光』さいたま出版会
服藤早苗
1991『家成立史の研究』 校倉書房1991
J・Lフランドラン
1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房
保科季子
2002「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』61巻2号
湯川敏治
2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会2005年
[i]忠実の時代に摂関家領が集積されるのは、忠実自身に原因があり、太政官機構を統率できず受領監察制度が機能しなくなって律令国家的給付(封戸・位禄等)が崩壊し、経済基盤が家領と知行国に移行していったためである。
[ii] なお高陽院領など女院領の意義について川端新は、忠実以降、摂関の職が院の恣意によって左右され、本来藤氏内の問題である氏長者も宣旨によることになり、摂関家の政治的地位が不安定となったことから、政局に左右されず、荘園を集積できる女院という身位を利用して、家領の保全を図ったとする。[川端2000]
平清盛が摂関家領を奪おうとしたというのは間違いである。
関白基実は藤原忠隆女(大国受領系院近臣家・兄が平治の乱の謀反人信頼)との間に男子基通をもうけていたが、長寛二年(1164)平清盛次女9歳を正妻とする(1167年准三宮宣下で実名盛子となづけられ、高倉殿北政所と称された。2012年NHK大河ドラマの登場人物でもあった)。
その2年後仁安元年(1166年)基実は赤痢のため24歳で夭没、基通は7歳と幼少のため六条天皇の摂政には基実の弟殿基房がついた。
この遺領処分は清盛にも諮ったうえ、後白河上皇の裁断により、氏領である殿下渡領等をのぞく家領のいっさい(京極殿領・高陽院領その他の家産)が、子のない11歳の寡婦盛子に伝領されることとなった。盛子には家政機関が附置されていたためである。
この事件は、平氏による「摂関家領横領」と称されることがあるが、清盛が摂関家領を奪おうとしたというのは戦前の村田正言や戦後の石母田正などの古い学説であって、今日では否定されている。治承3年盛子が24歳の若さで薨じたとき、「異姓の身で藤原氏の所領を押領したので春日大明神の神罰が下った」という世間の噂があった(『玉葉』治承3年6月18日条)。しかしこれは浮説にすぎない
もっとも樋口健太郎[2011]がいうように、平氏が一門や家人を摂関家の家司や職事とし、それに指示を与えることで間接的に家産機構を掌握したとはいえる。また清盛が摂関家の大殿の立場を踏襲し、いわば摂関家を包摂したことが平氏の政治権力を正当化することになったとはいえるだろう。
しかし樋口[2005]によれば、そもそも基実が盛子を正妻に迎えたのは姻戚関係で軍事警察権を掌握した清盛を後見人とすることにより摂関家内の自身の立場を強化し、嫡流としての地位を守るためだったのであり、「盛子の相続」は「基実の嫡子である基通への中継ぎとしての性格を有して」いる「彼女はまさに嫡流である基通の後見として、その『家』を受け継ぐ位置にあった」樋口[2011]とする。
河内祥輔[2007]も、兼実も盛子の相続が、春日大明神の神意に反しないとの見解であった。盛子が「仮の伝領の人」であり、基通が「宗たる文書・庄園、伝領せらるべきの仁」とみなしていたという。基通は、盛子の養子とされたのであり、夫の遺産を妻が相続し、それを亡父の実子に譲るという方式である。
実際、北政所盛子は家長代行として忠通の忌日仏事をはじめ摂関家の仏事を主催していた。しかも兼実、皇嘉門院(崇徳后、忠通女藤原聖子)、基実母源信子もこの仏事に関与し、盛子はその中心にいたし、仏事や寺院の管領権も有していたというのである[樋口2001]。正妻である盛子は明らかに摂関家に帰属しているとみるべきである。このことは、後述する中国の夫婦斉体思想が我が国にも浸透したことを意味している。
[iv]文治二年(1186)の文治争論とは、源頼朝が後援する兼実が 基通に代わって摂政に就任したため、頼朝は、基通のもつ摂関家領のうち高陽院領以外の家領、つまり最重要所領群である京極殿領を兼実に移すよう圧力をかけたものである。後白河院は拒絶、争論の結果後白河院の庇護のもと基通の主張が通り、この結果、氏長者の領と家の領の線引きが流動的だったあり方に終止符を打ち、近衛家と九条家の家領の区分が確定する[川端新2000]。兼実は実子の良通が皇嘉門院(崇徳中宮藤原聖子)の猶子であったため皇嘉門院領は相続したが、九条家の基幹所領はこれだけで、それ以外は幕府との友好関係などから増やしていったものとみられている。
法皇が頼朝の要求を拒絶したのは道理でもあるが、基通が平家を見捨て法皇に接近したこともある。「君臣合体の儀」と揶揄された男色関係も保身術の一つだろう。
[v]我が国の婦人道徳の形成において特徴的なのは節婦にみられる儒教的倫理と仏教が混淆して、貴人の女性の出家がみられる(この慣例は九世紀に成立したとみてよい)。ここでは婦徳が讃えられている二人のキサキ、仁明女御藤原朝臣貞子と清和女御藤原朝臣多美子のエピソードを引用する。
女御藤原貞子出家の女性史上の意義
藤原貞子(仁明女御、父右大臣藤原朝臣三守、母不詳、成康親王・親子内親王・平子内親王の生母、天長十年十一月従四位下、承和六年正月、従三位、嘉祥三年七月、正三位、貞観六年八月薨。贈従一位、仁明天皇の深草山陵兆域内に葬られる)薨伝に「風容甚だ美しく、婉順なりき。仁明天皇、儲弐と為りたまふや、選を以て震宮に入り、寵愛日に隆し」と見え、仁明の東宮時代に結婚、年齢は不明。文徳実録仁寿元年二月丁卯条に「正三位藤原朝臣貞子、出家して尼となる。貞子は先皇の女御なり、風姿魁麗にして、言必ず典礼なり。宮掖の内、その徳行を仰ぎ、先皇これを重んず。寵数は殊に絶える。内に愛あるといえども、必ず外に敬を加う。先皇崩じて後,哀慕追恋し、飲食肯わず。形容毀削し、臥頭の下、毎旦、涕泣の処あり。左右これを見、悲感に堪えず、ついに先皇のために、誓いて大乗道に入る。戒行薫修し、遺類あることなし。道俗これを称す」とあり(大江篤「淳和太后正子内親王と淳和院」大隅和雄・西口順子編『シリーズ女性と仏教1尼と尼寺』平凡社1989)、天皇のキサキで崩後出家し尼となった先例として桓武女御橘朝臣常子の例があるが、貞子は序列筆頭の女御なので(仁明天皇は皇后を立てていないので貞子が序列最上位のキサキ。文徳生母つまり東宮生母の藤原順子より位階上位)貞子の出家は女性史的にみて決定的な意義がある。父藤原三守は崇文の治の大立者であり、仁明生母の太皇太后橘嘉智子の姉橘安万子を妻としていることもあり、仁明天皇とはミウチ同然であるが、三守がもう少し長命で(承和七年薨-不審説もある)、承和の変さえなければ恒貞親王の次の候補として成康親王の可能性もあったと私は考える。
女御藤原多美子出家の意義と婦人道徳
藤原多美子(清和女御、父右大臣藤原朝臣良相)薨伝は概ね次のとおり「性安祥にして、容色妍華、婦徳を以て称さらる。貞観五年十月従四位下、貞観六年正月清和天皇元服の夕選を以て後宮に入り、専房の寵有り、少頃して女御、同年八月従三位、同九年三月正三位、元慶元年十一月従二位、同七年正月正二位、仁和二年十月薨。徳行甚だ高くして中表の依懐する所と為る。天皇重んじ給ひ、増寵他姫に異なり。天皇入道の日(清和上皇の出家-元慶三年五月)、出家して尼と為り、持斎勤修す。晏駕の後、平生賜りし御筆の手書を収拾して紙を作り、以て法華経を書写し、大斎会を設けて恭敬供養しき。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉りしなり。即日大乗会を受く。聞きて聴者感嘆せざる莫し。熱発して奄ち薨じき」
多美子は清和天皇の元服加冠の儀の当日に後宮に入って、そのまま入内、女御となった。帝最愛の寵姫であったが皇子女をもうけることができなかった。
貞観18年清和天皇は二十七歳で上皇権を放棄するかたちで退位された。退位は藤原基経の策略とみなす説(太田英比古「清和太上天皇の出家事情と水尾山寺隠棲(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)」『政治経済史学』107、108、109)がある。上皇の封戸は財政難のため半減とされたのであり、出家せざるをえないようにしむけられたのかもしれないが、いずれにせよ清和上皇の出家に従って、女御藤原多美子は出家して尼となった。夫唱婦随これほど美しい婦人道徳はない。出家されてほどなく元慶四年上皇は崩御になられたが、その後、多美子は平生天皇から賜った手紙を集めて漉き返し、その紙に法華経を写経して供養している。この時代には脱墨技術はないので、漉き返しを行う紙の色は薄い黒色となった。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉り、それを聞いた人々は感嘆したが、多美子は熱発して亡くなってしまったというのである。ここに貴人の女性の婦人道徳とはこうあるべきだということが示されている。
[vi]飛鳥白鳳時代の結婚は緩かったのではないかと思わせるものとして県犬養橘宿禰三千代と藤原不比等の結婚である。
県犬養宿禰三千代は出仕し天武12年(683)ころ敏達天皇曽孫の美努王と結婚し葛城王(橘諸兄)佐為王(橘佐為)、牟漏女王を生んだ。ところが持統八年(694)美努王が大宰府率に赴任する際に三千代は同行せず、飛鳥に残ったが不比等と再婚した。
三千代は阿閉皇女(元明)付きの女官で持統上皇の信任厚く、不比等にとって有益な結婚だった。戸令二七先姧条「先ず姧してむ、後に娶きて妻妾と為らば、赦に会うと雖も、猶し離て」の趣旨からすれば、違法であるがお咎めはなかった。
[vii]中国では、たんに皇帝生母であるだけでは政治権力はない。国母とは日本のように天皇生母のことではなく、皇后なのである。北魏のように皇帝生母は死を賜ることさえある。皇帝権力を代行できるのは皇帝生母でなく皇帝の公式の母である先帝皇后である。漢代の太后臨朝しかり、宋代の垂簾聴政しかり。清の西太后が例外だが、それでも先帝皇后である東太后より席次を上回ることはできなかった。
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