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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2025/02/09

安定的な皇位継承・皇族数確保を巡る協議に関する意見-「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する」案は当面の特例とし皇室典範12条改変により恒久的制度としない旨要望

                                                                                                                                                                令和7213

    国会議員へ

安定的な皇位継承・皇族数確保を巡る協議に関する意見

「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する」案は当面の特例とし皇室典範12条改変により恒久的制度としない旨要望

                                                                                                                                               川西正彦

 取るに足りない軽輩でありながら、厚かましくも送り付ける無礼をお許しください。

私の意見は昨年一部の国会議員に送付したとおり、有識者会議の案「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する」に反対、皇室典範12条改変に強く反対 、案「皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすべき」というもので、案「養子縁組を可能とし皇統に属する男系の男子を皇族とする」、現存宮家当主より承継の要望があった場合の選択肢とする。でしたが、衆参両院の協議では、案は大筋で各党の合意を得ており、②案支持の政党は少なくないが合意を得ていないとの中間報告でありました。

強く不満でありますが、趨勢は①案実施の方向性ということなら、実施を前提として、やむをえず次善の策として以下の3つの条件を要望します。

一 ①案実施はあくまでも、当面の措置、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員の担い手となる皇族が不足する事態を避ける目的とすること。

二 皇室典範12条改変は行なわない。恒久的制度にせず、当面の皇族減少期の特例措置として実施する。

三 ①案を実施したとしても、17世紀に四摂家に降嫁した内親王・皇女の九例は、摂家の嫁取婚であり、嫁迎えの儀式(※1)、夫方居住(※2)、婚家の墓所(※3)で共通している。墓所は宮内庁治定とされていないのでこの前例を踏襲すること。

つまり納采の儀を行うこと。夫家の私邸居住で、豊島岡墓地に埋葬されない。勿論、女性皇族には摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員、その他の公務をなされる以上、相当の皇族費が支給されるうえ、結婚時には相当に高額の化粧料、道具料(持参金)を用意するものとなる。

入婿や現存宮家同様の御料地での居邸は前例がなく強く反対する。

 モデルとしては後水尾皇女で近衛基熙正室の常子内親王、霊元皇女で近衛家熙正室の憲子内親王とする。

 一 当面の特例として恒久的制度とすべきでない理由

(一) 有識者会議①案は基本的に皇族数確保のための案

そもそも、有識者会議は仮に①案を実施しても女性皇族に皇位継承権を付与せず、配偶者、所生子も当面皇族としないで将来身分を検討するものとし、②案も当事者は皇位継承資格を付与しないことを示し、悠仁親王殿下の次の皇位継承者を、男系男子か男女共系に変革するかという問題は殿下の結婚の時期頃まで先送りとする趣旨のものであった。

つまり殿下は健康であっても、事故や疾患に陥るリスクは想定外ではないから摂政となる皇族が必要。病気療養や外国訪問の際の国事行為臨時代行は頻繁にあるので、その担い手となる皇族も必要。皇室会議議員も必要なので、皇室を支えるため、女性皇族に結婚後も皇族の身分を維持とするという趣旨に限定し、配偶者や所生子を皇族とするか、西欧のような男女共系初生子相続に移行するかは、親王が結婚する時期まで先送りとすべきである。

にもかかわらず、事務局資料は、恒久的制度とする、そのために12条改正を強く示唆する内容で、先送りとする趣旨と矛盾する。典範12条さえ改変すれば、北欧、ベネルクス、英国と同様、男女いかんにかかわらず初生子の王位継承へ移行することは容易であるし、以下の難点があるので反対する。

 

(二) 皇室典範 12 条は趣旨は正当で改変は大変革になり好ましくない

皇室典範12条改変は家族道徳、規範を根本的に破壊する。 婚入者の婚家帰属性という日本の基本的な親族構造の否定になるので反対である。

皇室典範 12 条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)は、旧皇室典範44条を継受したものである。 帝国憲法皇室典範義解によれば 44 条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス‥‥以下略)は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨である。

夫の身分に従うとは、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、主婦予定者として婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすることで、婚入者(嫁・婿)の婚家帰属性という日本の家族慣行を意味しており、これは華士族平民同じことで、侯爵家に嫁すならば侯爵夫人となり婚家を継いでいくゆえ、皇族の列を離れる。

明治8年11月9日妻の氏について内務省が太政官に提出した伺出では、「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候‥‥」(内務省案-夫婦同苗字)[廣瀬隆司(1985)「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究 28 12 号][近藤佳代子(2015))「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要 49 openaccess]とあり、これは旧皇室典範44条の立法趣旨と同じであるし、異姓戸籍を認めない戸籍制度を前提とした制度ともいえるだろう。したがって皇室典範 12条改変は夫婦同姓(氏)の立法趣旨の否定になる。夫婦別姓(氏)反対の立場から容認しがたい。

明治民法起草者の一人、法典調査会で梅謙次郎は、夫婦同氏であるべき理由として、妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致していると述べた[江守五男19900『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂 1 57]

人類学の大御所によれば日本の「家」は離接単位であり、人は複数の家に両属することはない。婚入者(嫁・婿)は婚家の成員であり、不縁とならない限り死後婚家の仏となる[清水昭俊 1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3)openaccess, 1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3),  1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二(続)」『民族學研究』 38(1) ]。

新奇な家族モデル、夫妻と嫡子とで戸籍と皇統譜、身分の異なる歪な制度を創出すること自体不快なのであって当面の措置とする理由である。

女の道として最も普及した教訓書『女大学宝箱』では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰る」という。享保元年(1716)から明治初年まで11版を重ねたものである。 この見解は1世紀後漢の『白虎通』に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」とあるように儒教に由来し、正当な価値である。

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また、12条改変は、天皇、親王、王が男性、皇后、親王妃、王妃が女性という性的役割分担を流動化させ好ましくない。

現行では、内親王や女王が結婚する場合は、皇后、親王妃、王妃以外の身位以外はなく、それを変える必要はない。

明治皇女の内親王にしても、下記のとおり王妃内親王殿下と称される。

明治神宮サイトのデータベースより引用

大正14(1925)年4月9日

竹田宮故恒久王妃昌子内親王殿下、北白川宮故成久王妃房子内親王殿下、東久邇宮稔彦王妃聰子内親王殿下御参拝

また第二に令制では継嗣令王娶親王条に内親王より四世女王は、五世王以下および臣下との婚姻は違法である。ただし延暦12年詔で、二世女王は藤原氏への降嫁を合法とし、三世女王以下は、現任大臣、良家への降嫁を合法とし、皇族女子の内婚は規制緩和されているが、令制では内親王の臣下への降嫁は一貫して違法なのであり、勅許により承認されたとはいえ、10世紀に9方、11世紀に1例のほか、しばらくなく17世紀に9例(内親王宣下の記録がない1例含)、18世紀1例で時期が偏っており、内親王は天皇か皇族と結婚するか、生涯非婚であるのが通例である。

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ところが有識者会議事務局調査研究資料では藤原師輔が内親王と密通のうえ、事後的に承認され降嫁した醍醐皇女勤子内親王ほか6例の違法婚(違法だが勅許による)を根拠にして①案を「皇室の歴史と整合的」としているが、令制が想定していない婚姻であり、反律令行為、イレギュラーな事例が歴史と整合的というのは詭弁である。

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前例も特例としてのものであるから、今回も特例として実施すべき。

二 前例と同じく、納采の儀等嫁入婚、夫方居住、墓所は婚家とし、宮内庁治定陵墓にはしない理由

(一)嫁迎えの儀式(※1

寛文4年(1664年)近衛基熙に降嫁した後水尾皇女常子内親王は自身の結婚の記録が残ってないが、天和3年(1683)長男の家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は「无上法院殿御日記」に詳しく記していて、「女一宮ねもじ、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、白無垢、色直しという嫁入婚の現代でも和装婚礼の定番である習俗と同じである。

 基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している。嫁迎えの儀式である。公家は1516世紀に嫁取婚は確立していたので他の内親王も同様に嫁入婚の儀礼がなされたとみてよい。

 なお霊元院の第十三皇女八十宮吉子内親王(母は右衛門佐局)は 2 歳で徳川家継と縁約した。この縁談は将軍家の要請に応じたもので、納采の儀までなされたが、家継夭折で、八十宮は3歳で寡婦となり、江戸に下向されてないので嫁取婚は未遂といってよいが、将軍正室の寡婦扱いで、経済的には恵まれた。

 そうした前例から、①案実施の場合前例踏襲でこれまでどおり納采の儀を行い、嫁入婚とするべきである。

(二)夫方居住(※2)と墓所(※3

1 10世紀の醍醐皇女康子内親王について

一品康子内親王は村上天皇の同母姉で、右大臣藤原師輔と内裏で密通、天気を害したが、事後的に勅許された例。師輔は「九条殿」とか「坊城右大臣」と称されたように、九条殿や坊城第、桃園第といった邸宅があった。

結婚した康子内親王は、坊城第が居所であったことは史料上確認されている。

坊城右大臣歌合(伝宗尊親王筆歌合巻、類聚歌合) 天暦十年八月十一日、坊城殿にきたの宮おはしますに、つきのいとおもしろきに、をとこかたをむなかた、おまへのせざいをだいにてよめる[杉崎重遠 1954「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (910)openaccess] 。また内親王は坊城第で薨ぜられた(『日本紀略』天徳元年六月六日条)。[栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2 openaccess

 墓所は不詳だが、四十九日は一周忌は法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳元年七月二二日条。天徳二年六月四日場)[栗原弘 2004「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史学会 編 (19)openaccess]。法性寺とは、関白藤原忠平が、京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺であり、今日の東福寺、泉涌寺を含む広い寺域を有した。法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子の一周忌のほか忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光、村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤原忯子(為光女)の四十九日、円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が執り行われている[栗原弘2004]。 皇族でも母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、仮に康子内親王が生涯非婚でも法性寺で法要がなされた可能性が高いが、師輔の先妻同様、藤原忠平一門の氏寺ということである。

2 摂家に嫁した皇女・内親王について

(1)後水尾皇女東福門院所生の女二宮と女五宮賀子内親王

江戸幕府京都大工頭の中井家伝来の図面によると、寛永 13 年(1636)後水尾皇女の女二宮が、近衛尚嗣に降嫁の際、今出川の近衛家本邸に「奥方御殿(女二宮御殿)」が造営整備された[藤田勝也 2012「近世近衛家の屋敷について」日本建築学会計画系論文集675 openaccess]。

正保 2 年(1645)に後水尾第五皇女の賀子内親王は二条光平に降嫁し、当時新在家町の二条家本邸敷地内に御殿があり、ここが万治 4 年(1661)大火の火元だった。二条光平本邸は今出川通の北に移転し、敷地の東側半分が「女五宮御殿」だったことが当時の指図でわかっている[藤田勝也 「近世二條家の屋敷について : 近世公家住宅の復古に関する研究113 日本建築学会計画系論文集 6361 2009openaccess

女二宮と賀子内親王は外祖父が徳川秀忠で、徳川の縁者であることから、化粧料等経済的に恵まれ御殿が造営されたが、いずれも、婚家の敷地内ということである。徳川の縁者でない皇女は、知行がないので、1214歳で尼門跡に入るか、摂家に降嫁するかいずれかが通例だったが、次節の常子内親王は在俗の独身期間が長く異例といえる。

近衛尚嗣に降嫁した後水尾皇女女二宮の墓所は東福寺海蔵院にある。近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。なぜ女二宮が改葬されていないか不明だが、海蔵院は近衛家の墓所があった寺である。二条光平正室の賀子内親王、二条綱平正室の栄子内親王は、嵯峨二尊院の二条家墓所。賀子内親王邸の御化粧之間は元禄年間に二尊院に移築され、非公開だが茶室として現存する。在俗で生涯非婚だった後水尾皇女昭子内親王は、岩倉御所と称されるが、東福門院ゆかりの光雲寺が墓所である。

(2)後水尾皇女品宮(常子内親王)について

寛文4年(166411月に満22歳で6歳年下の権大納言近衛基煕(のち関白)に降嫁した品宮(級宮)常子内親王は、後水尾院の第15皇女で、母は新広義門院(典侍園国子-羽林家)、霊元御生母である。後水尾院は皇子が19方、皇女が17方もおられたが、なかでも鍾愛された皇女である。『无上法院殿御日記』記主。結婚当初正室としての役割に拘束されない自由な社交生活がみられるのは異例といえる。後水尾院の文化サロンのメンバーであったこと。仙洞御所だけでなく遊興のため公家町の門跡の里坊など御幸されることが多く、品宮は結婚当初、後水尾法皇の御所で夜遅くまで過ごすことが多かった。後水尾院の近衛邸の御幸は105回と頻繁にあり、修学院離宮への御幸にもお供されており、また岩倉の山を法皇より賜っていた。

なお品宮の内親王宣下は正規のものではなく延宝5年(1677)に諱が常子と定まったことにより、公認されたと解釈されている。結婚後の皇室とのかかわりで重要なのは、後水尾院より、延宝5年(1677)門跡宮方の深草の知行の監督、宰領を命じられたことである。新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた[瀬川淑子 2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』]。皇族男子が宮門跡となる門跡領は広義には皇室領ともいえるので、宰領は内親王という身位ゆえといえる。品宮には独自の知行がないので、もともと生母の権益だったから法皇の配慮だろう。

品宮は独身時代から、法皇より院参町に御殿が与えられていた。万治 4 年(1661)大火の後、寛文4 年に中筋の法皇別邸の隣に御殿が建てられ、なぜかその半年後に結婚している[久保貴子 2008『後水尾天皇』]。 居住形態についていうと瀬川氏によれば寛文 4 年(1664)結婚当初は別居だった。品宮は独身時代からの御所の品宮御殿、基煕は桜御所(旧本邸)とあり、寛文 6 年(1666)に新宅の陽明殿(今出川邸)で同居した。寛永 13 年(1636)後水尾皇女の女二宮が、基煕の父尚嗣に降嫁の際、今出川邸に「奥方御殿」が造営整備されており、この前例からみて、品宮も近衛家本邸の今出川邸が居所とされて当然である。

1_20250209212001   万治 4 年(1661)の大火で内裏・仙洞御所や多くの公家屋敷が焼亡したが、後西天皇は類焼を免れた近衛家本邸を仮内裏とされ、寛文3年正月に霊元天皇に譲位、寛文48月新造の仙洞御所へ移徒されるまで、後西上皇の仮御所とされた経緯がある。その間、近衛基煕は別邸の桜御所を居所としたのだろうが、なんらかの事情で本邸に戻るまで再整備が必要であったのだろう。 結婚のタイミングは、後西上皇の移徒とみられる。品宮も 23 歳で、姉宮 3 方の摂家への降嫁が 1214歳であることから、当時の婚姻年齢としては遅いため結婚を急いだのが真相かもしれない。品宮が結婚した寛文4年ころの日記がないため、なぜ結婚初期別居の真相が不明なのである。しかし近衛家本邸が居所であり夫方居住といえる。近衛家の寝殿の修復、茶室と物見の格子の構築は法皇の出費であり[瀬川淑子2001]、岩倉の山と地続きの幡枝の山荘も近衛家に下賜されている。また品宮は、紫竹の別邸を購入するため、法皇に無心し、法皇は銀子五百枚を支出している[久保貴子2008『後水尾天皇』]。 さらに常子内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村 300 石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行 3000 石の一部ということであり、幕府が認めたもので、これは内親王薨去により幕府に返却されたとみられる[瀬川淑子2001]

法皇から賜った品宮御殿や岩倉の山、紫竹の別荘のほか、近衛家は女煕子が徳川家宣の正室であるため、この姻戚関係から比較的裕福だった。粟田にも花見のための別荘を購入していたが、内親王の財産は嫡子の近衛家煕が相続し、これらは近衛家領となった。 以上の考察から、品宮は国家的給付に相当する皇女御料を得ていないが、法皇からの経済支援のほか、門跡領の経営を任され、実質皇室領からの収入はあったとはいえる。また墓所は大徳寺近衛家廟所である。①案のモデルとしては常子内親王というこしになる

3)仁孝皇女 親子内親王について

和宮親子内親王については、ドラマなどで江戸城での舅姑の天璋院との軋轢が描かれ著名であるから、結婚の経緯は省略するが、有栖川宮熾仁親王と縁約を破棄したうえでの、江戸下向であり、直前に内親王宣下を受けている。

慶応 2 年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。号は天皇が選んでいるが将軍正室としての法号である。静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視された。慶応 4 年(1868)慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。

 2 26 日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。明治 2 年~7 年まで京都に帰住されたが、7 年より東京麻布市兵衛町(のちに東久邇宮邸)を居邸とされた。明治 10 年湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨去、洋行中の徳川家達の留守居、松平確堂を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫『和宮』吉川弘文館(1987)]。

和宮(静寛院宮親子内親王)は、徳川氏の家名存続と慶喜の寛大処分のために尽力、徳川氏の存亡に従う決心、死を潔くする覚悟さえ示されたのである。葬儀も墓所も徳川氏であり、宮内庁治定陵墓ではないので、この前例を踏襲し、夫方居住、皇族のままであっても豊島岡墓地でなく、夫家の墓所とすべき。

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表の訂正 栄子内親王は二条綱平の室

4)江戸時代皇女の陵墓について補足

後光明皇女で嫡流の皇女として一品、礼成門院孝子内親王は生涯非婚だったが、文明年間に後土御門天皇が伏見に建立し戦国時代に泉涌寺と並んで御寺とされていた般舟三昧院(後花園、後土御門、後奈良の分骨所でもあり、秀吉の伏見築城により西陣に移転した)が墓所。幕末に桂宮を相続した非婚内親王の淑子内親王の墓所は泉涌寺である。

したがって非婚内親王は皇室の菩提寺といえる御寺かもしくは母后ゆかりの寺だが、摂家に降嫁した内親王は、近衛家なら東福寺海蔵院や大徳寺、二条家や鷹司家は二尊院、九条家は東福寺というように婚家の廟所に葬られているのは婚家の嫡妻ゆえであるし、また江戸時代、摂家に降嫁した内親王の墓所は宮内庁治定陵墓のリストにはない。非婚内親王の昭子内親王や孝子内親王の墓所はリストにあり宮内庁が管理している。一方、霊元院の復古政策で17世紀末期から、内親王は摂家でなく皇族に嫁す原則に戻しているが、伏見宮家に嫁した福子内親王や秋子内親王は、相国寺内伏見宮家の墓所、閑院宮家に嫁した成子内親王は閑院宮家の墓所のある蘆山寺、非婚女帝や非婚内親王の陵墓は御寺(泉涌寺・般舟院)である。八十宮吉子内親王は、納采の儀は行われたが家継薨去により3歳で寡婦となり、江戸に下向されなかった。浄琳院も将軍正室としての法号であり、墓所も徳川家ゆかりの知恩院である。ただし、実質結婚生活がなかったためか、宮内庁治定陵墓で宮内庁が管理している。とはいえ御寺の泉涌寺や般舟院ではない以上、皇室から離れたとみなしてよいと思う。

以上述べた前例から①案実施の場合は、夫家の私邸居住、墓所も夫家とすべきである。

三 臣下に降嫁した内親王の所生子は資料に記載がなく隠蔽されている 

なによりも、113日配布の事務局調査資料例示の一品准三宮康子内親王は太政大臣藤原公季の母で、常子内親王は関白藤原(近衛)家煕、の母で、栄子内親王は関白藤原(二条)吉忠の母である。

異母兄兼家と出世を競った藤原為光は、父藤原師輔、母雅子内親王である。雅子内親王は伊勢斉宮から帰京後、師輔と密通したケースで、結婚生活は長かった。

前例では臣下に降嫁した内親王の所生子は皇族には絶対ならないことはいうまでもない。

藤原為光は、外戚が弱い花山天皇を支えていた。しかし弘徽殿女御の女忯子は懐妊したが出産前に急逝。花山天皇を見限って、ライバルだった異母兄兼家と協調、一条朝では右大臣、名目的地位となった太政大臣にまで昇進したという人物。

藤原公季は、閑院流藤原氏(清華家の三条・西園寺・徳大寺・今出川家など)の祖、母一品康子内親王が産褥死されたため、皇后藤原安子に引き取られ、宮中で育てられたがが、親王とは膳の高さで格差がつけられていたという。弘徽殿女御の女義子が一条天皇に入内したが寵幸薄く皇子女がなかったゆえ、警戒されることもなく、道長政権を支える立場で結果的には太政大臣にまで昇進したという人物である。

為光と公季は主として陣定の場面であるが、大河ドラマ「光る君へ」に登場し、知名度は高くなったのであるから、母が内親王でも父が臣下なら皇族になれないことは容易に理解できることである。

ところが「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」には内親王の所生子の記載がなく隠ぺいしているのは不可解。受ける印象が違うためだろう。

しかも①案は当面、配偶者と所生子を皇族とはしないと言いつつ、将来的に皇族とすることも検討されうるというのは、前例の枠におさまらないのである新奇な案だといわなければならないのである。

7 月 9 日議事録に「イギリス王室では、アン王女は王族であるが、御家族は王族ではなく、それによって問題が生じているわけではない。このような海外の例を見ても、御本人は皇族であるが、御家族はそうではない、という形も、それほど無理なく成立するのではないか。 女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」との発言があるが、単純核家族社会の英国モデルを取り入れるのは反対である。コッツウェルズのマナーハウスはエリザベス女王が購入したものであり、ロンドン滞在時はセント・ジェームズ宮殿を居邸としており、江戸時代摂家に降嫁した内親王のように夫方居住ではない。

この発言から知名度が高いアン王女を①案のモデルと想定し、将来的には女系容認の本音を看取できる

英国王室はもともと女系容認で、2013 年に英国は王位継承法をあらため長子相続による男子優先を撤廃しており、①案は、従来、男性皇族が、天皇、親王、王、女性皇族は皇后、皇太后、太皇太后、親王妃、王妃という役割と決められた在り方を流動化させる隠された意図があり、英国など共系に移行した国々のモデルに移行しやすいので、警戒すべきである。

四  生涯非婚前提なら女性宮家があってもよい

伝統に即したという女性皇族厚遇の在り方としては、あくまでも生涯非婚に限定して、独立した居邸とする「女性宮家」が妥当と考える。非婚内親王が中世において、天皇准母として非婚皇后に立てられたこと、院号宣下により女院となり、皇室領荘園の本所であった等の厚遇されていた歴史を踏まえてのものである。 

 

参考資料 

服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館2002の皇女一覧表、ウィキペディア、コトバンク.結婚の年、右の欄に所生子等備考

内親王は令制は皇女、天皇の姉妹の身位であるが、明治皇室典範は四世女王まで、現皇室典範は二世女王まで

17世紀は皇女が多く、尼門跡のポストも不足したため、摂家への降嫁が9例あるが、霊元院の復古政策により17世紀末より、内親王は皇族または天皇と結婚する原則に戻している。

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