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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

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2025/04/26

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議に関する意見具申

 

                                                                                               令和7430

  

 衆参両院議長・副議長・国会議員へ

 

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議に関する意見具申

                    

  取るに足りない者が厚かましくも、上申する無礼をお許しください。大詰めですが、本件は、たんに国制の根幹にかかわるだけでなく、皇室が模範的存在である以上、国民の家族倫理にかかわる事柄ゆえであります。

  要旨(要望および国会協議の論点批判)

一 ①案を恒久的制度としないこと。皇室典範12 条は絶対改正しない

 

二 ①案の主たる目的は、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員等を担う皇族を確保するため 、当面の皇族減少期の特例として実施すること。

 

三 ①案の配偶者や御子息の身分、女性皇族に皇位継承権を付与するか否かは、議論を先送りとする。

 

四 ①案実施にあたり、御用地に居邸を造営することに反対。内親王降嫁の先例は夫方居住である。

 

五 ①案実施にあたり、納采の儀、入第の儀等、嫁取(嫁娶、嫁入)婚儀礼の形式を変えないこと。

 

六 ①案実施にあたり、女性皇族の墓所は婚家の廟所とすること(17・18世紀の前例は全て婚家の廟所)

 

七 女性皇族の配偶者・子息の准皇族化(維新の提案)に反対 

 

八 後宇多上皇の猶子として順徳曽孫源忠房が親王宣下を受けており、養子となって皇籍に復帰した先例はある 

九 養子案について天皇との血縁の疎隔・親等は全く問題にしなくてよい

 

 私自身の意見は、有識者会議の案女性皇族(内親王・女王)が皇族以外と結婚しても皇族の身位を失わず保持する案は、皇室制度を破壊するので反対、皇統に属する男子直接復帰の一択、の皇統に属する男子の養子案は現存宮家が養嗣子を望む場合の次善策という評価である。

 有識者会議とくに当時の事務局には①案を恒久的制度としたいとしている点で悪意がある。有識者会議①案に好意的な自民党案にも反対。男系さえ維持できれば良いというものでは全くない。

 最善策は③案の一択。後崇光院太上天皇の親王時代の著書『椿葉記』にある伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒、後小松上皇(室町院領について応永231416に永代安堵の勅裁を得ている [白根陽子, 2018]これは史実)、後花園天皇(康正2年1456「永世伏見殿御所」号勅許の所伝-複数の史料がなく裏付けなし)の叡慮により永代存続が約され、天皇と血縁が離れても、ステイタス が劣化することのない別格の宮家(准天皇家)として550年、天皇家と併存してきた歴史的経緯、意義を重んじ、宮号の再興、旧皇族家の復帰・復籍をコンセプトとすべきであるとの見解である。

 特に反対なのは有識者会議の事務局が、①案実施のため皇室典範 12 条「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは皇族の身分を離れる」を改正し、特例ではなく恒久的な制度とする方針を打ち出していた。皇室典範 12 条の改正は大きな変革であり恒久的制度とすることは反対である。

 有識者会議は②案皇統に属する男子を養子とする案と併行もしくは①案を先行して実施することをにじませているが、①案は破棄すべき。

  ただし、生涯非婚内親王については、女院宣下(多数)や非婚内親王の准母立后(11例)として厚遇された歴史があり、院庁や附属職司、家礼を従えていた。たんに内親王であっても、例えば後鳥羽皇女昇子内親王は当歳(満0歳)で内親王宣下され、政所家司として職事、家司、蔵人、侍者 、御監 、庁年預 が補任され、家礼を従える身分である。また御給(年官年爵)という、毎年一定数の官職や位階を与えるべき者を推薦し、その任料・叙料を推薦者の所得とした制度もあった。皇室領の実効知行地が大きく減少した室町・戦国時代は皇女のすべてが入寺得度し尼門跡(比丘尼御所)となったが、門跡領は広義の皇室領で幕府が保護していたので寺領経営体のトップで相応の収入があった。 例えば後土御門皇女渓山が住持の大慈院の永正7年(1510)~14年(15177年間の主な収入が1867貫7文[菅原正子(2002)]で、現代の貨幣価値に換算して2億円近くしかも黒字で、年収3千万円弱の住持が皇女のポストであった。

  このように、生涯非婚内親王が厚遇されていた歴史的経緯をふまえ、内親王(女王であっても)が皇族の身位で残っていただくために、生涯非婚を前提として独立居邸、家政機関を附置する宮家があってもよく、これは皇室典範を改正することもなく、できることなのでの代替案である。

 しかしながら、①案はほぼすべての政党が、賛成していること。②案は合意を得ていないが、多くの政党が支持していることから、 とりまとめは、の併行もしくは①先行実施の可能性が強い状況になってきた。 私としてはきわめて遺憾だが、意見を改め、よりましな制度設計を要望するとともに、国会での協議で出てきた各党の意見で明らかに間違っていると思う点を以下のとおり、上申するものである。

 

一 ①案を恒久的制度としないこと。皇室典範12 条は絶対改正すべきでない

   皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)は、明治22年皇室典範44条と同趣旨で、旧典範を継受したものである。

  帝国憲法皇室典範義解によれば旧皇室典範 44 条の趣旨は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス」とされ婚出した女子(出嫁女)は夫の身分に従うゆえ、皇族の列から離れるとしている。

  つまり夫婦同一身分、婚入配偶者(嫁・婿)の婚家帰属、死後は婚家の仏となるという、侯爵夫人なら、夫に従って侯爵家の成員、公爵夫人なら公爵家の成員というように我国の常識的な家族慣行に即した合理的な判断をとっているのである。

  にもかかわらず有識者会議は、表向き女性皇族を皇室に留める方策として旧皇室典範 44 条の趣旨を顧みることもなく、それを継受した皇室典範12条を安易に棄て去る判断をとっていることは大きな過ちである。

  むろん「家」制度は戦後否定され、戸主の統制、長男の権威が喪失したが、家長と主婦の連鎖で永続する「家」が我が国の家族慣行、社会構造(清水昭俊は「家」分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的と定義)で現に存在し、家督相続も慣行として存在し、結納・白無垢・色直しといった嫁入婚の習俗も失われていない。世界的にファミリー企業の平均寿命は 24 年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜 2010 ]。老舗企業が健在なのは家職の継承「家」制度が社会構造であるため。皇室でも納采の儀と入第の儀は嫁取婚に相当する儀式である。「民法の父」明治民法起草者梅謙次郎は夫婦同氏制度の立法趣旨の一つに妻が夫家に入ることが家族慣行を挙げている。

  有識者会議事務局は12条を改変したい。この目論見は、男女いかんにかかわらず初生子が王位継承者とする北欧・西欧の王室の制度に容易に転化できる、マルキストのいう古典的一夫一婦制の止揚、ジェンダー差別を廃し家父長制を敵視する共産主義者の意向に沿ったものとなるからである。

  ここさえ一点突破すれば、西欧の王室のような男女共系へ移行は先送りでも左翼陣営は大勝利といえる。

  社会人類学の大御所清水昭俊によれば、日本的「家」とは家連続者一名(跡継ぎ、実子長男が通例だが、家付き娘、養子の場合もある)だけが家に残り、婚入配偶者(主婦予定者としての嫁、家長予定者としての婿)を迎えて「家」を継承する。その他の家成員は婚出、養出、分家設立により生家から離れるのが、日本の「家」のルールである。個人が帰属する家は一つ、両属はありえない[清水昭俊1970,1972,1973] 。

  .むろん令制の「天皇家」は少なくとも戦国時代まで正妻は確立していなかったし、宮門跡、尼門跡という天皇の諮問に答えることで国政にも参与しうる、生涯独身のポストが用意されていることは、一般の「家」とは違うが、天皇家も少なくとも14世紀以降「家」制度的に運用されていた。

  分割相続から嫡子単独(限嗣)相続に移行した日本的「家」は1415世紀に成立した。

  つまり皇室も 14 世紀の後光厳天皇より、嫡子(限嗣)単独相続で、猶子という親子関係の擬制により日本的家制度の直系継承となった(伏見宮出身の三世王後花園天皇は後小松天皇の猶子、閑院宮出身の三世王光格天皇は後桃園天皇の養子なので皇統転換はしていない建前)であり、幕末まで儲君以外の皇子は宮門跡に入室し法親王となり、儲弐以外在俗でありうるのは世襲親王家が空主となったケースのみである。

  皇室が単独相続となったのは禁裏御料の収入が15世紀中葉に現金換算で年収7億円程度ほどあったが[久水俊和 2021]、分割できる余裕はないこと。14世紀は貴族社会が限嗣単独相続の移行期だったこと。猶子が貴族武家社会で実質的意味を有していたこと。猶子による万歳継帝を望み伏見宮への皇統転換を否定した後小松院の遺詔に後花園が忠実だったことによる。

  皇女には独自の知行はなく、それゆえ室町戦国時代は十代前半で寺領経営体のトップとなる尼門跡となった。17世紀になると皇女が増加し、尼門跡のポストが不足したことから、摂家への降嫁、17世紀末からは霊元上皇の復古政策で皇族との結婚がみられる。

  皇室典範 12 条は家族慣行に沿って妥当な立法趣旨があるのでこれを改変することは、たんに皇室の問題でなく、皇室が国民に慕われる存在ゆえ、国民の家族慣行に与える影響が大きく、いかに皇族数を確保する理由であるとしても反対なのである。

  前記引用の旧皇室典範 44 条義解「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ」とは、出嫁女の婚家帰属性を意味しているというのは、明治 8 年内務省「夫婦同氏」案の趣旨と合致するからである。

  明治8年 11 月9日妻の氏について未だに成例がないために内務省は、腹案を示しつつ伺出を太政官に提出している。

「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又

ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候ヘ

共、右ハ未タ成例コレナキ事項ニ付決シ兼候ニ付、仰上裁候‥‥」[廣瀬隆司(1985)][近藤佳代子(2015)]

  夫ノ身分ニ従フ筈ノモノという文面からみて皇室典範義解と内務省の夫婦同氏腹案の趣旨は同じである。

  要するに内務省案は、華士族平民いずれであれ、婦女は他の家に婚嫁した後は、夫の身分に従うはずのもの。婚家に帰属するのであるから、夫家の苗字を終身称するのが穏当というものである。

  夫の身分に従うというのは、夫婦同一身分、嫁取婚(嫁入婚)、大化元年の男女の法に遡ることができる父系帰属主義といずれの見方も可能であるが、我が国の家族慣行の常識である。

  江戸時代の婦人道徳の教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』貝原益軒)とあり、1世紀の白虎通を典拠として、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、婦人道徳の規範であり[柴桂子(2004)]。それは歴史的に一貫した道徳なのである。

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中国の宗法においても出嫁女は夫の宗に属するので朝鮮・韓国の門中も含めて、東アジア共通の古くからの文化ともいえるのでその意味は深い。

  このことは、同戸異姓の禁止、氏を統一した明治政府の政策とも合致している。実際今日においても夫婦同氏の 96%が夫家姓であるのも、日本が準父系の社会構造であることを示す。

  つまり日本的家族慣行に合致させた意義といえる。それを否定し、婦人は婚家を継ぐものという伝統的婦人道徳を粉砕してしまう危険性の強い提案が有識者会議事務局7の皇室典範12条改正提案である。このようなリスクのある提案は断乎回避すべき。

  ところで、417日の国会協議では、紀宮清子内親王や、眞子内親王と同様、従前どおり一般国民と結婚後、皇族から離脱する選択肢を残すべきとの意見が出たとされている。それならば、皇室典範 12 条は維持したうえ、皇族以外と結婚後も身位を維持するのは当面の特例として実施するのとすべきというのが私の提案である。

 

二 案の主たる目的は、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員等を担う皇族を確保するため 、当面の皇族減少期の特例として実施すること

 

  皇室を維持するために摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員を担う皇族は最低必要というのは有識者会議の表向きの見解であり、それ自体説得力はあるので認める。ただし①案の配偶者や御子息を皇族とするか、女性皇族を皇位継承者とするかという議論は、悠仁親王殿下が結婚する時期まで先送りする。これは自民党案と大筋で同じ見解である。

  この議論は悠仁親王殿下のお妃選びと男子が誕生されるか鍵になってくるが、伏見宮系皇族は初代栄仁親王(観応21351降誕、応安元年1358親王宣下、応永231416薨)から26代博明王まで600年近く実系が途絶えることもなく皇族の崇班を継承し(16代薨後空主となり、17代貞行親王は桃園皇子でいったん血筋は中切れになったが、親王は早世され、『椿葉記』の由緒、持明院統の正統を自認、仙洞御文庫や仙洞御所を相続し、琵琶の秘曲伝授など正統の流儀を継承してきた矜持から実系維持を望む伏見宮家の嘆願で、邦忠親王の弟の勸修寺門跡寛寶法親王が還俗し18代邦頼親王となる[武部敏夫 1960])700年近く実系で続いていて、異なる家筋から養子をとらずに続いているのは貴重な家系といえる。五摂家は、近世初期の段階で二条晴良の子孫だけが残り(当時の鷹司、九条、二条家)、四家の実系は途絶した[木村修二1994]。公家は養子相続が多く、江戸時代の四世襲親王家も三家の実系は途絶したことと比較して、伏見宮系旧皇族の御子孫は実績からみて男子が誕生する確率が高い。③案が最善だが②案実施なら旧皇族の御子孫で男子が多くご誕生になるケースもありうる。

  皇位継承者たりうるか現段階では不透明なのに、すべての女性皇族を皇族以外と結婚しても身位を維持していくのは、かえって負担になる。①案は恒常的制度とせず、当面の特例として実施すべきである。

 

 四 ①案実施にあたり、御用地を居邸とすることに反対、内親王降嫁の先例どおり夫方居住であるべき

 (一)内親王・皇女が臣下に降嫁した17世紀以降の10例はすべて夫方居住

  女性皇族が、皇族以外と結婚した場合でも、御用地を居邸をすることも可能と、事務局がしている点については反対である。

 アン王女を①案のモデルとするならば、コッツウェルズのマナーハウスは、エリザベス女王が結婚祝として購入し、ロンドン滞在時はセントジェームス宮殿が居所とされているから、王室側が用意している。

 しかし、有識者会議事務局の調査資料が前例としている、婚約したが家継急逝により江戸に下向せず、3歳で未亡人となった八十宮吉子内親王を除く6例を含め、内親王や皇女が臣下に降嫁したケースは、少なくとも17世紀の摂家に降嫁した1例と、18世紀の将軍家に降嫁した1例はすべて夫方居住、嫁取婚、墓所も婚家の廟所で、内親王は婚入配偶者として婚家に帰属するものとなっている。

 以下の例はすべて夫方居住である。ここでは史料上記録のあるもの限って記載する。

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(二)前例 和宮(静寛院宮親子内親王)について

上記の康子内親王、常子内親王とともに有識者会議事務局の調査資料が①案の前例としているので言及しておく。

  徳川将軍家茂に降嫁した仁孝皇女和宮は嘉永6年(18516歳で有栖川宮熾仁親王と婚約。親王妃となる皇女として300石の化粧料が充行われた[久保貴子2009]。しかし幕府は万延元年(1860)朝幕間の緊張緩和、公武一和を目的として、和宮の将軍家茂への降嫁を奏請することを決し、朝廷は孝明天皇のご希望でもある鎖国攘夷の措置を講ずればこの要請を拒否しないこととなり、熾仁親王との婚約は棄破されて、内親王宣下(親子内親王)の後、文久元年(18614 月、同年 10 月に桂宮邸を出立、1115日江戸到着、文久2年(1862211日婚儀をあげられた。姑の家茂養母天璋院と「御風違い」の反目があつたことはドラマなどで描かれている。慶応2年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。院号は天皇が選んでいるが将軍正室としての院号である。

  静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視されたうえ、婚家が天皇の名をもって討伐を受ける最悪の事態となった。 

  慶応4年(1868)静寛院宮は慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。

  2月26日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。3 月には帰順した者の宥免を求め、大総督府はこれを承諾することになった。明治2年~7年まで京都に帰住され、7年より東京麻布市兵衛町を居邸とされたが、脚気の発病で明治10年湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨ぜられた。洋行中の徳川家達の留守居、旧 津山藩主松平確堂(徳川家斉十五男)を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫(1987)]。ということで和宮も夫方居住、嫁入婚、徳川家の家名存続と慶喜寛大処分のため尽力され、葬儀も徳川家でなされ、墓所も徳川家の菩提寺である。

(三)10世紀康子内親王は夫方居住、保子内親王と盛子内親王は訪妻婚だが、御用地に居邸造営はありえない

 次節で述べるとおり、公家の嫁取婚儀礼は戦国時代に確立しており、江戸時代の内親王降嫁はすべて嫁取婚夫方居住である。後水尾皇女女二宮や賀子内親王の摂家への降嫁で大きな御殿が造営されたのは、母が東福門院源和子で外祖父が秀忠、徳川の縁者であるためで、婚姻に際して幕府より三千石が献上されている。

 戦国時代に荘園公領制は衰退したため、豊臣秀吉は、諸公家、諸門跡の中世の知行を収公し再給付することより、知行充行権を掌握した [山口和夫2017]諸公家の収入は安定したが、それぞれ由緒のある公家の所領であった中世の荘園公領制とは違って、知行は再給付した秀吉の麾下におかれることとなった。この知行充行権は徳川幕府に引き継がれ皇室、宮家、公家は幕府より御領、家領の知行を充行われる近世的領主となったのである。

 徳川幕府は皇女に冷たく、17世紀に独自の知行を与えていない。後水尾皇女梅宮(女一宮・母は典侍四辻公遠女与津子)は 13 歳で鷹司教平に降嫁したが数年後に離縁、その後剃髪し、法諱を文智という。文智女王に独自の知行はない。東福門院(秀忠女源和子)が文智の円照寺のために幕府に寺領寄進を依頼したため、寛文8年に家綱からやっと寺領200石の朱印状が発せられたのだという[久保貴子200)]

 嫁取婚ではなかった10世紀の藤原師輔への内親王三方の降嫁は、いずれも内裏で密通し、違法婚だが事後的に承認された例だが、一品准后康子内親王は師輔の私邸である坊城第を居所とされていた。ただし村上皇女の保子内親王は、摂政兼家が通っていたがつまらない女だとして途絶えてしまった事例で訪妻婚である。盛子内親王の居所広幡第は、祖父・源庶明、母・計子を経て継承し、夫である藤原顕光を経て僧・仁康に施入され、広幡寺とされた。これも訪妻婚だが、妻の財産を夫が相続している事例。

 今回、事務局が①案のように臣下と結婚する場合、御用地の邸宅を認めていることについて先例はないといってよい。むろん、女性皇族の配偶者については、皇族同様、VIPとして身辺警備に政府が関与すべきだし、セキュリティ上しかるべき高級住宅を居所とするため持参金などとして皇室側が支出し、名目的には内親王・女王の財産であってもよいが、先例どおり、夫方居住を原則とすべきである。御用地の居邸造営は、女性宮家と同じことになり、将来、初生子相続、男女共系の北欧、ベネルクス、英国と同じ方向性に傾きやすくなるため反対である。

 

 五 ①案実施にあたり、納采の儀など嫁取(嫁娶、嫁入)婚儀礼の形式を変えないこと

 

 脇田晴子[1992]によれば、中世における嫁取婚の一般的成立は、「家」の成立を意味し、嫁取婚形式の「家」とは一夫一婦制と正妻の確立であるとする。

 公家の嫁取婚の成立時期の通説は鎌倉時代だが、後藤みち子[2014]は公家日記を厳密に検討し、嫁取儀礼の確立は、戦国時代とした。

  嫁取儀礼とは家長が嫡子に正妻を本邸で迎える儀式のことである。儀式の後、正妻は夫方の父母や親族と対面し三献で祝うことにより、夫家の親族となり、家司たちとの祝いの宴により夫家の一員と認められたこととなる。戦国時代より婚礼後は父子二世代同一屋敷別棟居住となった。戦国時代の公家は、戦後の民法改正まで続く、嫡子単独相続日本的「家」の雛形といえるだろう。

 17世紀に内親王・皇女が摂家に降嫁した9例と、幕末の将軍家に降嫁した1例はすへて嫁取婚といえる。夫方居住の表で示したとおり、近衛家熙に降嫁した霊元皇女憲子内親王の嫁取儀礼は、家熙の母常子内親王の日記无上法院殿御日記と父の基煕公記に記録されており、他の事例も同様と考えられる。

 なお八十宮吉子内親王は、幕府より江戸下向までの御殿が築造され、納采の儀の後、婚約者の家継が夭折したので僅か3歳で未亡人となった。江戸に下向されてないので、婚礼はないが、将軍正室の寡婦扱いなので、幕府は合力500石の道具料を進献、享保14年(1729)毎年合力銀200両で厚遇されたのである。[久保貴子2009]。

 令和3年眞子内親王の婚儀では納采の儀、告期の儀、賢所皇霊殿神殿に謁するの儀、参内朝見の儀、皇太后に朝見の儀、内親王入第の儀がなされた。 

  納采の儀は、婚約、結納にあたる。賢所皇霊殿神殿に謁するの儀は、内親王が三殿の外陣で拝礼念するもので、五衣唐衣裳に正装し、他家へ嫁ぎ、姓が変わる前に皇祖神ほか神々へのお別れのご挨拶を申し上げるものとされる。入第の儀というのは嫁迎えの儀式で、嫁入婚の形式である。①案では賢所皇霊殿神殿に謁するの儀の位置づけが大問題となるが、婚入配偶者と位置づけで、変更しなくてもよいと思う。納采の儀・内親王入第の儀を変更する必要はない。

  内親王が皇族と結婚する場合でも、宮家への嫁入婚であるから、以下の婚礼の先例研究も必要となるだろう。

元禄11年(1698)霊元皇女 綾宮 福子内親王 伏見宮邦永親王妃

宝永7年(1710)東山皇女 姫宮 秋子内親王 伏見宮貞健親王妃

寛延2年(1749)中御門皇女 籌宮 成子内親王 閑院宮典仁親王(慶光天皇)妃

明治41年(1908)明治皇女 常宮 昌子内親王 竹田宮恒久王妃

明治41年(1908)明治皇女 周宮 房子内親王 北白川宮成久王妃

明治43年(1910)明治皇女 富美宮 允子内親王 朝香宮鳩彦王妃

大正5年(1915)  明治皇女   泰宮 聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃

昭和18年(1943)昭和皇女 照宮 成子内親王 東久邇宮盛厚王妃

六 ①案実施にあたり、女性皇族の墓所は婚家の廟所とすること(1718世紀の前例は全て婚家)

   臣下に降嫁した内親王の墓所について、先例は少なくとも17世紀以降10例は全て婚家の廟所となっており、宮内庁の管理ではない。昭和天皇第三皇女鷹司和子も鷹司家の廟所二尊院が墓所である。案においても先例どおり豊島岡墓地ではなく婚家の墓所とすべきある。女性皇族の配偶者や御子息も同様である。

(一)康子内親王の仏事について

 まず臣下に降嫁した内親王の先例について、藤原師輔が内裏で密通のうえ、事後的に勅許された10世紀の醍醐皇女准后一品康子内親王について、四十九日は法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳元年七月二二日条)一周忌も法性寺で行っている(『日本紀略』天徳二年六月四日)[栗原弘(2004)]。 墓所は不詳である。

 法性寺とは関白藤原忠平が京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺でもあった。寺域は広大で現在の東福寺や泉涌寺のある地域を含む。

 平安時代を通じて藤原氏の氏寺として繁栄し、藤原忠通は法性寺で出家し、法性寺入道前関白太政大臣と称される。九条兼実も後法性寺殿と称された。

  しかし鎌倉時代九条道家が東福寺を建立し浸食される形で縮小、応仁の乱で衰退した。

 法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子(伊尹・兼通・兼家・安子の母)の一周忌のほか忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光の四十九日が執り行われている。また村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤藤原忯子(為光女)の四十九日、また藤原安子と円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が行われている[栗原弘(2004)]。

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 小野宮流の仏事も行われていることから、法性寺は忠平一門の氏寺的性格とみてよいだろう。

なお康子内親王の仏事が法性寺で執り行われたことについては、皇族が母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、母方の氏寺で執り行われたという解釈を栗原弘氏がとっており、仮に康子内親王が生涯非婚であったとしても、官寺である法性寺で法要がなされた蓋然性は高い。

  この時期は日本的「家」は確立されていない。したがって婚家の氏寺での仏事と解釈できない。

栗原弘によれば、藤原師輔や兼家、源雅信の妻は夫方の寺院や邸宅で法要がなされているが、一方、道長の妻源倫子の追善法要は不明で墓所は仁和寺であり、道長は木幡であるから夫婦別墓である。頼通の妻隆姫女王の四十九日は、三井寺の常行堂で、葬式も実家の甥源俊房が執り行っていて、夫方が関与していない。11世紀の時期の妻の追善仏事は、夫方か実家のいずれか、夫方と実家と双方で行われ、夫方か実家かは遺族が選択していると栗原弘は解説している。過渡期なのである。

(二)17世紀以降の内親王は全て婚家の廟所

  しかし、17世紀以降の内親王・皇女が臣下に降嫁した12例はすべて、墓所が婚家の廟所であり、葬儀、追善仏事も婚家とみなしてよい。

以下の表は筆者がネットで調べたものである。

Bochi1 

明治皇女・昭和皇女

Bochi2

 上記の表にないが、東山天皇の皇后、中宮皇后幸子女王(女院宣下承秋門院・父有栖川宮幸仁親王)は、月輪陵である。リストから除いた多くの尼門跡については門跡寺院が墓所となり、宮内庁治定陵墓である。分類すると以下のとおりとなる。

1 非婚内親王 すべて宮内庁治定陵墓

 〇泉涌寺(御寺・皇室菩提寺-月輪陵・後月輪陵)

明正女帝、後桜町女帝、淑子内親王

 〇般舟院(御寺・皇室菩提寺) 孝子内親王(礼成門院)

 〇光雲寺(母后ゆかりの寺)昭子内親王 

 〇知恩院(徳川家ゆかりの寺)吉子内親王(婚約者徳川家継夭折により江戸に下向せず、将軍家の寡婦待遇)

2 皇后に冊立された女王・内親王(宮内庁治定)

 〇泉涌寺(御寺-月輪陵・後月輪陵)東山后中宮幸子女王、光格后中宮欣子内親王

 3 皇族に婚嫁した内親王

 〇相国寺内伏見宮墓地 福子内親王、秋子内親王(宮内庁治定)

 〇蘆山寺(閑院宮家墓地)籌宮成子内親王(宮内庁治定)

 〇豊島岡墓地 昌子内親王、允子内親王、房子内親王、聡子内親王、照宮成子内親王

 4 臣下に降嫁した内親王

 〇二尊院(鷹司家・二条家廟所)

清子内親王、貞子内親王、賀子内親王、栄子内親王、和子内親王

(二条家の賀子内親王御殿の御化粧之間が元禄年間に移築され、非公開だが茶室とて現存)

 〇東福寺塔頭海蔵院 女二宮

 (海蔵院には近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。女二宮が改葬されていない理由は不明)

   〇大徳寺(近衛家廟所)常子内親王、憲子内親王

 〇東福寺(九条家廟所)益子内親王

 〇増上寺(徳川家廟所)親子内親王

このとおり、臣下に降嫁した内親王江戸時代の10例と、戦後、鷹司平通氏に降嫁した昭和天皇第三皇女の和子内親王も含め、すべて婚家の廟所で、宮内庁治定陵墓ではない。

内親王案もが皇族以外と結婚した場合は、先例どおりとすべき。

七 女性皇族の配偶者・子息の准皇族化に反対

(一)准三宮(准后)宣下は有力貴族個人の実績による特別待遇、もしくは天皇近親の皇族等を厚遇する措置、摂家出身等の門跡を名誉的地位というべきで、准皇族を意味しない

◇准皇族という範疇は歴史的にない

 日本維新の会から、女性皇族の配偶者に称号を与えるとか、准皇族とする案が出されている。称号を与えたうえ,御用地内に宮殿を築造するとなると、待遇上皇族に近く容認しがたい。

 維新の会は准三宮(准后)が准皇族との見解だが、歴史学者はそのような見解をとっていない。

  従三宮(准后)の初例は、貞観13年(871年)、初の人臣摂政である藤原良房であり、三宮に準じて年官・封戸・随身兵仗を与えたことである。次いで藤原基経が、摂政在任中に三宮に准じて随身兵杖、年官・年爵(叙位・任官の推薦権、実質売官制度、院、三后だけでなく親王、内親王にも推薦権があった)を与えられたことで、朝廷の正式な制度として定着し、以後、皇族、公家、将軍家、高僧に与えられた。年官・封戸等は早くに実質を失い、もっぱら身分上の優遇を意味する称号に変化していったとウぃキペディアが説明している。准后宣下は明治初期までおよそ170例ある。

  つまり朝廷実力者個人に対する特権待遇(封戸や叙位任官推薦権、護衛の武官を三后に准じる)から始まった制度である。配偶者が皇族だから与えられるものでは全くないし、例えば藤原良房・基経・兼家・道長・頼通・忠実・九条道家・二条良基・足利義満・一条兼良・足利義政・義昭が准三宮宣下を受けているが、朝廷の実権を掌握した実力者、もしくは業績顕著な公家、武家である。個人一代に与えられる朝廷の待遇で、特別の家系を意味するものではない。あえて例えていうなら、首相より上席の大勲位相当者。

  生涯非婚内親王を厚遇するために准后宣下するケースは非常に多い。后となっていない天皇生母を厚遇する根拠として准后宣下するケースも多い。室町戦国時代に多い摂家や将軍家出身等の門跡准后は三宝院満済のように幕府の実力者のケースもあるがほぼ名誉的地位といえる。摂家の正妻も准后宣下されるケースがある。

 准三宮(准后)は、朝廷での序列(座次)や書札礼で高い位置づけとなる身分といえる。繧繝縁は最も格の高い畳縁で、天皇・三宮・上皇が用いるが、准后も繧繝縁を用いることが出来るとの見解もある。ただし朝廷での序列、座次に変遷があることは(四)で述べるように、太政大臣より上と考えられるが、二条良基により室町時代に明確に親王より上と定められたが、秀吉時代には忘れられ親王と同格の裁定、法親王と門跡准后と前関白が同格とされたこともある。

 とはいえ序列・身分の高さ=准皇族なのではない。令制は天皇と太政官二極による統治体制なので、臣下が親王・諸王より上席となるのはよくあることである。

 とにかく准三宮が個人一代のもので、家筋に与えられるものではなく、皇族、公家、後宮、門跡と対象も広範で、准皇族との理解は間違いである。

  むろん①案女性皇族の配偶者については身辺警備の対象とし、筆者は夫方居住とすべきとの見解なので、高額の持参金等、女性皇族を通じて財政的支援があってよいが、配偶者に格別称号、准皇族という特別の地位を創出すべきでない。それは女性宮家に転化の口実になるという意味でも反対である。

 むしろ、歴史的には、皇族の肩書、例えば嫡流の非婚内親王の後光明皇女孝子内親王(後光明天皇の唯一の皇子女で、後水尾院の意向で、手許に留める方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領 300 石が与えられた[久保貴子 2009])。桂宮を相続した仁孝皇女淑子内親王(天保 11 年(1840)閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料 300 石を得たが、2 年後に親王が薨ぜられたため結婚に至らず、朝廷は淑子内親王の御殿を用意できず、住まいを転々としていた[久保貴子 2009])が准后宣下されている。

  敬宮愛子内親王殿下については悠仁親王殿下と結婚し皇后となるケースもありうるが、非婚の孝子内親王の先例にもとずき准后として特別待遇することはありうると思う。

 江戸時代の皇女の多くは尼門跡(御宮室)となったが、幕末は尼門跡が荒廃したようで、入寺することはなかったと考えられる。淑子内親王が准后宣下されているように、非婚内親王を厚遇する趣旨なら前例どおりということである。

  准后良房は嵯峨皇女源潔姫を妻とし、准后基経は人康親王女(二世女王)を妻とし、准后兼家は保子内親王(村上皇女)を妻としたが、皇女や二世女王を妻としていることと准后宣下は全く無関係である。

  二世女王降嫁の初例は承和期に蔵人頭、式部大輔を歴任した右大臣内麿の十男藤原衛(淳和皇子恒世親王女を妻)は良吏だが、淳和上皇近臣のためか参議に昇進できず、二世女王降嫁が必ずしも有益でなかった事例である。

  村上皇女盛子内親王を妻とした左大臣藤原顕光は准后宣下されてない。

  三条皇女禔子内親王を妻とした関白藤原教通も准后宣下されておらず、外戚か格別の実力者でなければ准后宣下はされないともいえる。

 内親王降嫁は継嗣令王娶親王条では違法であり、とくに初期の右大臣藤原師輔と密通の上、事後的に承認された康子内親王のケースは、村上天皇の天気を害し、左大臣実頼などは批判的だった。令制が想定していない勅許による殊遇であるが、それによって准皇族化されるわけでは全くないわけである。

  令制では親王号、王号を称する皇親(天皇の親族)と、氏姓のある臣下に区別があり、院政期以降、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家といった家格によるヒエラルキーが形成されたが、皇族と臣下の中間に准皇族という範疇を歴史家は認めていない。

 僅かに岡野友彦が村上源氏の清華家久我氏を准皇族と言うが、孤立した見解にすぎず、村上源氏中院流が源氏長者及び淳和奨学両院別当を輩出する資格等を有していたとしても、皇位とは無関係で、それが准皇族とはいいにくい。

 臣籍に降下した古代、中世の皇別氏族は、歴史家は「王氏」と称するのが通例で、准皇族とはされないし、賜姓源氏は9世紀に藤原氏と横並びだが、摂関期以降は摂家より下位の家格とみなすほかない。近世では五摂家のうち三家が血筋では皇別摂家となり幕末まで純粋に藤原氏の血筋は、九条家と二条家だけだが、摂関就任資格で五摂家は対等で、家格が重要で実系の血筋は問題外。まして個人の特典にすぎない従三宮が准皇族という理解はありえない。

(二)内親王を妻としたことで准三宮の殊遇を得るわけでは全くない

 17世紀に摂家に皇女・内親王9方、将軍家に1方が降嫁されているが、内親王の配偶者10名のうち8名が摂関、藤氏長者だが、准后宣下を受けているのは近衛家熙だけであり、将軍家宣の正室が家熙の姉で、母が常子内親王でもある。たんに内親王の配偶者というだけで特典を受けることはない。

 従一位関白 鷹司信尚(後陽成皇女清子内親王降嫁)

従一位摂政 二条康道(後陽成皇女貞子内親王降嫁)

従一位左大臣 鷹司教平(後水尾皇女文智女王室、離別)

従一位左大臣 近衛尚嗣(後水尾女二宮降嫁)

従一位関白 二条光平(後水尾皇女賀子内親王降嫁)

従一位関白 近衛基熙(後水尾皇女常子内親王降嫁)

従一位関白 九条輔実(後西皇女益子内親王降嫁)

従一位関白准后 近衛家熙(霊元皇女憲子内親王降嫁)母は常子内親王

従一位関白   二条綱平(霊元皇女栄子内親王降嫁)

従一位右大臣 贈太政大臣 徳川家茂(仁孝皇女親子内親王降嫁)

 

(三)内親王を母とする公卿が必ずしも准后となるわけではない

 臣下で内親王を母とするケースをピックアップする。1011世紀の為光と公季は太政大臣まで昇進したが准后宣下は受けてない。江戸時代では近衛家熙と家久が准后宣下されているが、二条吉忠は贈准后である。母が内親王なので准后宣下を受けるという慣例はない。

 

 1 藤原為光(父右大臣藤原師輔・母醍醐皇女雅子内親王)

  右大臣より太政大臣(関白道隆の推挙)に昇進したが准后ではない。

 2 藤原公季(父右大臣藤原師輔・母醍醐皇女准后一品康子内親王)

右大臣より太政大臣に昇進したが准后ではない。

 3 藤原重家(父左大臣藤原顕光・母村上皇女盛子内親王)

  左近衛少将、五位蔵人、若くして出家。

4 藤原(鷹司)教平(父関白鷹司信尚・母後陽成皇女清子内親王)

  左大臣

5 藤原(二条)光平(父摂政二条康道・母後陽成皇女貞子内親王)

  関白

6 藤原(近衛)家熙(父関白近衛基熙・母後水尾皇女常子内親王)

  関白、太政大臣、准后

7 藤原(大炊御門)信名(実父関白近衛基熙・実母後水尾皇女常子内親王)

  左近衛中将 大炊御門家に養子に出されるが早世。

8 藤原(九条)師孝(父か関白九条輔実・母後西皇女益子内親王)

  左近衛大将、26歳で薨去

9 藤原(近衛)家久(父関白近衛家熙・母霊元皇女憲子内親王)

  関白、太政大臣、准后

10 藤原(二条)吉忠(父関白二条綱平・母霊元皇女栄子内親王)

  関白 贈准后

  

(四)准后と親王の座次相論

 ここでは准后の朝廷での序列の変遷について説示し、准后宣下の価値を検討するが結論を先にいうと、室町時代の准后の身分は高く、明らかに親王より上だったが、織豊時代に親王と同格となり低下、徳川時代は摂関家の地位が上昇し、摂関の下、太政大臣より上との位置づけとなったが、現官大臣が前大臣より地位が高くなったので、名目的地位になった感がある。

 

1 室町時代は親王より准后が上

 内裏歌会で准后左大臣足利義政(寛正5年准后宣下)と二品式部卿貞常親王(伏見宮第4代)の上下が問題になり、『親長卿記』文明五年七月二十二日条によれば、宇治殿(藤原忠実)が准后の時、親王より上位とした先例、永徳3年(1383年)左大臣足利義満の准后宣下の先例が回顧されている。室町時代は、親王より准后が上位であった。後光厳院擁立の盟主で足利義満を指南し公家化させたとされる准后二条良基は書札礼を改め、義満のために准后は親王の上に位置すると明確に定めたからである[小川剛生2005]。

2  天正13年の座次相論 伏見宮邦房親王と准后近衛龍山は横並び

 天正13年(15857 13日藤原秀吉は関白任官披露のため前例のない公家、門跡が一同に会する禁中能会を開催したが、親王と准后との間で座次相論となり、不満を持つ方々、伏見宮家出身の宮門跡らが欠席したという。

 当時の親王は、儲弐誠仁親王を別格として、伏見宮第九代中務卿邦房親王以下、御室(仁和寺)、青蓮院、妙法院、梶井の宮門跡はいずれも伏見宮家出身の法親王だった。准后は前関白近衛龍山(前久)と、聖護院、大覚寺、三宝院、勧修寺の門跡准后で、摂家出身者であった。

 関白秀吉は当事者より意見を聴取したうえ直ちに裁定を下し、正親町天皇の認可を受けた(『親王准后座次三ヶ条之事』)。

 7 月15日の裁定は、親王と准后は同格、門跡准后、法親王、前関白は同格とし、それぞれの席次はくじ引きとした。

 ただし伏見宮邦房親王と近衛龍山は別格で、常に並んで上座を占めるとされた [谷口研語 1994] [神田裕理 2019]。従って伏見宮邦房親王は、前関白で准后宣下を受けてない九条兼孝、一条内基、二条昭実より上座ということになる [谷口研語, 1994]

 室町期は、親王より准后が上位とする見方が有力であり、親王は摂関に優越するとはみられていなかった[小川剛生2009]。親王と准后が同格とされているので、戦国時代の伏見宮のステイタスが高かった影響がある。摂家出身門跡の准后宣下は、法親王が入室する門跡より格下とみられないために必要な地位といってよいのではないか。室町時代は、二品伏見宮貞常親王より十年ほど年下の准后左大臣足利義政が上座とされたので、この前例は忘れられてしまっている。

3 天正13年禁中茶会 伏見宮邦房親王と准后近衛龍山は横並び

 同年107日関白豊臣秀吉は前例のない公家衆、門跡総出の禁中茶会を開催した。千利休の茶会覚書は次のとおり [仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 1995]  

禁中様菊見の間

一 上段 三畳敷 東同 

正親町院様 親王様 若宮様

御相伴衆 下段 六畳敷

近衛殿龍山ニ 伏見殿 菊亭殿

上段三畳敷に天皇、誠仁親王、和仁王(のちの後陽成)、下段六畳敷に御相伴衆として准后近衛龍山、伏見宮邦房親王、取次役の右大臣菊亭晴季が着座、伏見宮は上流貴族のトップ近衛龍山と横並びなので面目を保ったといえる。

 

4 天正16年 聚楽第行幸 伏見宮は前関白より上位

 次に天正16年(1588)後陽成天皇の聚楽第行幸の天皇行列の序列である[中川和明1991]。

烏帽子着の侍

後陽成御生母 (新上東門院勧修寺晴子)

女御 (近衛前子- 正妻格)

大典侍御局

匂当御局

女中衆御輿30丁余

御輿添100余人 ・御供の人々 ・童姿

塗輿145

六宮 (皇弟、のちの八条宮智仁親王)

伏見宮邦房親王 

九条兼孝(前関白)

一条内基(前関白)

二条昭実(前関白)

菊亭晴季(右大臣)

徳大寺公雄(前内大臣)

飛鳥井雅春(前権大納言)

四辻公遠(前大納言)

勧修寺晴豊(権大納言)

中山親綱(権大納言)

大炊御門経頼(前権大納言)

白川雅朝王(非参議)

以下略

 この序列では前関白より伏見宮が上、前年の裁定のとおりである。現任公卿より年長者上位といえる。なお左大臣近衛信輔は関白の行列の筆頭となっている。

5 慶長16年二条城参賀  親王が准后や摂関家当主より上位

 徳川時代では、慶長16年(161142日の二条城の家康のもとへ後水尾受禅の御礼参賀が行われた時、伏見宮邦房親王と准后前関白二条昭実との間で座次相論があり、家康はとりあえず親王が上と裁定したため、座次は次のようになった[杣田善雄(2003)]。

八条宮智仁親王(一品)

伏見宮邦房親王(二品)

一条内基(従一位前関白)

二条昭実(准后従一位前関白

近衛信尹(従一位左大臣)

 慶長期に伏見宮が准后より上座というのは、家康は朝廷のしきたりをよく知らず、二条昭実は不満が残る結果である。

 

6  元和元年 禁中並武家諸法度 現官大臣が伏見宮より上位

 ところが元和元年 (1615) 禁中並武家諸法度であいまいだった座次が序列化され、関白九条忠栄や摂家は、奈良時代、舎人親王より右大臣の藤原不比等が上席だったことを根拠として、儲弐以外の親王は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より下位の座次と決められた。また従来の現官大臣より、年長の前官大臣が上座だったあり方は否定され大きな変更なのである。

 鎌倉時代後半、大臣と親王は同格であることからすると、大臣が親王より上というのは摂関家の地位が上昇したといえる。天正の座次の取り決めより皇位継承予定者を除く親王の地位が著しく下降した。

 ウィキペデアによれば江戸時代の准后は摂関より下、太政大臣より上だとしている。

 つまり秀吉が伏見宮に有利な裁定をし、家康も親王を上位として裁定したが、摂関家から巻き返しがあり、幕府も摂家を通じて朝廷を制御しようとしたので、江戸時代は摂関家上位、世襲親王家当主は、大臣より座次下位が定着した。明治以降は皇族の地位が上昇し、朝廷の座次、序列は時代によって変遷があるといえます。

 

八 後宇多上皇の猶子として順徳曽孫源忠房が親王宣下を受けており、養子となって皇籍に復帰した先例はある

◇権中納言源忠房⇒弾正尹忠房親王(順徳曽孫)

 三月十日会議で立憲民主党の馬淵澄夫氏が「少なくとも歴史上養子として皇族に迎えたという形でのいわゆる皇族ではなかった方々は先例にはございませんということを私どもも確認をさせてただきたいというふうに思います」と述べ皇籍を持たなかった者が、養子縁組で皇族となった先例はないことが立憲民主党が養子案を承服しない理由の一つとなっておりますが、事務局側も、鎌倉時代の源忠房が皇籍復帰の例をあげているにもかかわらず、後宇多上皇の養子ないし猶子としての親王宣下ということ(源忠房は、順徳二世王の彦仁王の子で、父は時期不詳だが源賜姓により臣籍に降下しているので、その時点で出生していたか不明だが、父が臣籍に降下した後は皇族ではない)をまったく触れずに、「一般人に初めからなっている方が誰かの養子になって戻った例があるわけではありません。」と断言し、忠房親王を先例と認めていない応答をしていますが、事務局の説明としては大きなミスだと思います。

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 忠房親王に言及している論文としては、松薗斉 2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)3頁の表に後宇多上皇の養子とあり、大智院宮忠房親王については10頁に説明があり、この論文はネット公開なので容易に閲覧できます。

 またウィキペディアにも文保3年(1319年)忠房は後宇多上皇の猶子となり親王宣下を受けた。と記載があります。

 ネット界隈では忠房親王の例は、旧皇族が皇籍復帰するにあたって有力な先例と重視されているわけです。

 すなわち従二位権中納言源忠房は、順徳曽孫(三世王)。父彦仁王は時期不詳だが源氏賜姓で臣籍降下、母方が摂関家であり外伯父・二条兼基の猶子となる。乾元元年(1302年)公卿に列し、徳治元年(1306年)権中納言叙任。後宇多院政の後二条朝では摂関家の子弟に準じた官歴をたどり急速に昇進したが、花園天皇即位(伏見院政)により官職を辞す。後醍醐天皇即位後(後宇多院政)、文保3年(1319年)忠房は後宇多上皇の猶子となり親王宣下を受けて、無品ながら弾正尹に任ぜられた。後宇多上皇の猶子となったことにより皇籍に復帰した事例といえます。

 源忠房は母方が摂家で摂家の猶子となったことが、摂家の子弟に准じた昇進となり恵まれていたといえる。後宇多院政期に異例の出世をとげたのは後宇多上皇の引きたてとみられている。持明院統の治世約十年間(伏見院政と後伏見院政期)は干された。再び後宇多院政となったことにより文保3年に皇籍に復帰した。醍醐寺塔頭の大智院宮と称された。出家された後に隠棲し後宇多院と関係が深い寺でもある。

 

◇賜姓源氏⇒承鎮法親王

 なお、忠房親王とは兄弟の承鎮法親王についてコトバンク「天台宗三千院門跡の尊忠について出家。正和6(1317)後宇多法皇の猶子となり、親王となった。正中3年天台座主」とあり、父が源彦仁なので法皇の猶子となることによって源氏から皇族に復帰した先例といえる。

 当時三世王相当の臣下の皇籍復帰は異例といえるし、三世王相当の親王宣下も当時としては異例である。ただし、14世紀以降常磐井宮満仁王(後光厳猶子)が三世王ながら親王宣下され、15世紀になると、宮門跡に入室する皇子がいなくなり、五世王、六世王でも親王宣下が慣例化されたが、いずれも14世紀以降は、天皇か上皇の猶子として、皇子に准じた礼遇を受ける者として親王宣下を受けるのが通例となった。以下の表のとおりであるが、忠房親王等のように源氏から親王宣下される例は異例なのであり、それら以外は諸王が親王宣下を受ける先例である。

 

九 養子案について天皇との血縁の疎隔・親等は全く問題にしなくてよい

 

 天皇家との血縁の近さ(親等-女系含み)を優先順位としたり、制限したりすることに反対である。親等の近さとなると、明治皇女聡子内親王、昭和天皇長女の成子内親王が嫁した東久邇宮が有利となり、次いで、香淳皇后の御実家久邇宮、久邇宮系でも明治皇女允子内親王が嫁した朝香宮が賀陽宮より有利となる。竹田宮は明治皇女昌子内親王が、北白川宮は房子内親王が嫁しているので天皇家と近親であるが、香淳皇后の御実家である久邇宮系より離れており、皇位継承順でも下位になるので、後回しにされると不公平感がある。

 明治皇室典範で世襲親王家は否定されたので、宗家は伏見宮家であるとしても11宮家に皇位継承順以外家格差はなく横並びであるから、基本的には対等の資格とすべきである。公平で失礼のない対処となると、特定の家系にかたよらないようすべきと考える。久邇宮系をとるなら、北白川宮系もとるという形にすべき。むろん優先順位とは言わず、秘密会議で内々に決めてしまうことがあってもそれはかまわない。

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 筆者はそもそも直接復帰案が良いと考えており、優先順位を(皇位継承順で、伏見宮→山階宮→賀陽宮→久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮)の末流の男系男子(養嗣子含む)に加えて、戦前に華族に列し宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見侯爵家の御子孫を加え、12宮家の御子孫のすべて。さらに大正9年以降昭和18年まで次男以下の王で12方(皇族の臣籍降下を可能にした明治40年皇室典範増補第一条により、情願によって家名を賜り降下し華族に列している方々)の御子孫も復帰の対象とする。本家の子孫が優先、次に分家の御子孫、他家に養子となった方々は優先順位む下げる案、それでは多すぎるなら秘密会議や、天皇・皇后両陛下、成人皇族の推薦によって絞っていく案であったが、養子案は現存宮家当主が望まれる場合など次善策と考えていたが、養子案を支持する政党が多いのでとりまとめは養子案となるものと思われる。

 私の提案は12宮家の末流の男系男子なら、男系での疎隔、女系での近親関係では優先順位をつけなくてよいと考える。それは以下のように15世紀に皇親の範囲が継嗣令原意から変化し、以降、北朝に帰属し、大覚寺統正統の由緒がある木寺宮、初代が亀山法皇より正嫡とするとの遺詔(後宇多上皇が反故にする)の由緒のある常磐井宮[松薗斉2010]、『椿葉記』で持明院統正嫡との由緒のある伏見宮が、[秦野裕介2019a]五世王以降でも親王宣下され、特に伏見宮は代々、天皇の猶子となって親王宣下を受ける世襲親王家となった経緯から、15世紀以降は天皇との血縁の疎隔より、しかるべき格別の由緒のある皇統に属しているかが重要になったと考えられるからである。後南朝の皇族に親王宣下はなく差別化された。

◇14世紀~16世紀初期の二世王以降の親王宣下 

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◇15世紀に五世王、六世王でも親王宣下が合法化された意義

 

 継嗣令皇兄弟条では、天皇の兄弟と四世王(皇玄孫)までが皇親という世数制限があり、王号を称するのは五世王まで、ただし五世王・六世王は皇親と同じく不課の特典あり、七世王は揺が免ぜられ、徐々にフェードアウトしていく制度設計になっているが、男系なら嫡流、庶流、男女いかんにかかわらず皇親という増加しやすい制度設計のためである。

 そのため奈良時代から臣籍降下が常態化した。院政期以後は多くの皇子が宮門跡に入室することとなったので、皇族は増加しなくなり、15世紀には宮門跡に入室する皇子も払拭したので、応永26年に後小松上皇は、北朝に帰属した後二条五世王で大覚寺統正統(木寺宮)世平王の子息2名を猶子としたうえ、親王宣下(妙法院新宮明仁法親王と17代御室承道法親王)された[稲葉伸道 2019]。

 以降、五世王、六世王という末流の皇胤でも上皇や天皇の猶子として、皇子に準じた礼遇を受ける者として、親王宣下が合法化された。

 中世律令法は明文改正をいっさいしないが、明法家の「准的」等のテクニックで既成事実を合法にできる法制度なのである[保田卓 1997]。

 継嗣令の原意では皇親の範疇から外れる五世王、六世王でも親王宣下が合法化された意義が大きい。

 伏見宮第3代貞成王(のち親王宣下、太上天皇尊号宣下後崇光院)はこのことを日記に記している。『椿葉記』永享5年(1433)では、「崇光院・後光嚴院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中惡く成て、御子孫まで不和になり侍れは、前車の覆いかてか愼さるへき、いまは御あらそひあるへしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」[村田正志 1954初刊、1984]

 崇光院流御一統が久しく栄えなければならないとして、天皇家と伏見宮は、不和な時があったが、将来疎隔することなく水魚の如く親睦していくべきという趣旨で始終伏見宮家の若宮を天皇の猶子とする構想を天皇に奏上している。これは伏見宮を世襲親王家にするブランと解釈されており[小川剛生 2009] [田村航 2018]、それが実現したゆえ、天皇家と伏見宮家は550年併存したのである。むろん伏見宮家が存続したのは、家領として播磨国衙領、熱田社領、室町院領、干鮭昆布公事等、実効知行地と上納金の現金換算で年収2億円程度に過ぎないが収入があり[秦野裕介2019b][横井清2002、]、小さくても庭田家、田向家など家礼を従える権門で仙洞御所も相続している。

 嫡流として持明院統の仙洞御文庫を相続したことは大きな財産で[飯倉晴武2002,2009]、「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]ともいわれ、戦国時代の伏見宮家は、土佐一条家との姻戚関係とか今川氏親など大名・国人への贈答品などで荘園公領制の衰退による収入減をしのいでいたという推測ができる。

 在俗皇族では、後二条五世王の木寺宮邦康王は公家社会では無名の存在だったにもかかわらず、享徳4年(14557月に後崇光院法皇の猶子として親王宣下を受け、同年(康正元年)10月に40歳で元服、同日三品、中務卿に任ぜられた。加冠役は准后前関白一条兼良だった[小倉慈司2010]。親王の加冠役に決まりはなく大臣・大納言でもよいはずだが、支持する公家のいない末流の皇胤にすぎない木寺宮に朝廷首班クラスは厚遇されている。五百年来の大学者が五世王親王宣下を認めているのだから合法というほかない。

 なお、第4代貞常親王は猶子とされた記録はないが、天皇の実弟であるので、継嗣令皇兄弟条では親王格上げとなる。過去の淳仁に光仁の兄弟姉妹と同じこと。第5代二品式部卿邦高親王(後土御門猶子)から第22代および第24代元帥陸軍大将貞愛親王(孝明猶子)まで天皇の猶子と親王宣下を受けている。

 天皇と血縁的には疎隔しても猶子としてステイタスを劣化させることなく親王位を再生産できる制度が世襲親王家であるが、明治皇室典範で廃止された。しかし皇室典範は永世皇族制をとったため、養子はできなくなったが、血筋が続く限り永続可能な制度となっている。

十 事務局が例示してないが政治史的には知られている皇籍復帰事例

 

 なお、事務局は例示していない、臣籍から皇族に復帰した政治史的には重要な事例も補足しておきたい。

 

◇勲二等の叙勲にもかかわらず流罪とされた皇族

和気王⇒岡真人和気⇒和気王

 天武三世王、祖父が舎人親王、天平勝宝7歳(755年)兄弟の細川王とともに岡真人姓を賜与され臣籍降下し、伯父の淳仁即位により皇親に復帰、機を見るに敏な和気王は仲麻呂の乱では反乱計画を事前に孝謙上皇に伝えた。兄弟の多くは淡路廃帝・仲麻呂の陣営に与し処罰されたが、兵部卿として数百の兵を率いて淳仁天皇を包囲したのである。その功績により従三位に昇叙され公卿に列し勲二等を叙勲される。しかし皇位を望む謀反が露見して称徳女帝の逆鱗に触れ、伊豆国流罪、途中で絞殺される。

 奈良時代には、和気王同様、淳仁即位時など臣籍から皇籍に復帰した例は多数ある。

 

◇元寇当時の鎌倉将軍

惟康王→源惟康→惟康親王

 第7代鎌倉将軍惟康王は、後嵯峨二世王で、父宗尊親王。文永7年(1270年)源姓を賜与され、源惟康と名乗ったが、弘安10年(1287年)に幕府の要請で皇籍に復帰して後宇多天皇より親王宣下がなされた。[青山幹哉1988

 臣籍降下は、幕府の実権者安達泰盛が将軍は源氏であるべきとの主張によるとされている。しかし霜月騒動で泰盛が討たれ、将軍の親王化は平頼綱の方針、その他の説がある。

 親王宣下は天皇や上皇の猶子ではなく、亀山院政の停止、後宇多譲位の強行とのセットで東使の意向を呑んだ政治色の強いものであった。

 執権北条貞時は惟康親王の在任を嫌い、正応2年(1289年)には将軍職を解任され、京に送還された。

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引用参考文献 ★はネット公開

 

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