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天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議に関する懸念について意見具申
取るに足りない者が恐る恐る謹んで上申します。軽輩でありながら不躾にも長文を送り付ける無礼をお許し願います。大詰めですが、本件は、たんに国制の根幹にかかわるだけでなく、皇室が模範的存在である以上、国民の家族倫理にかかわる事柄ゆえであります。この意見書は一部の国会議員に4月末に出した内容を修正したものです。取りまとめの方向性に批判的な内容ですが、ご笑覧いただければ幸甚に存じます。
要旨(要望および国会協議の論点批判)
補遺 女性宮家の前例とされる淑子内親王の桂宮相続をどう評価すべきか
(註①案内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する②案皇統に属する男系男子を皇族の養子とする③案皇統に属する男系男子を法律により皇族とすること)
令和3年12月有識者会議報告には強い不信感をもっている。内閣官房参与の山崎重孝の以下の7年2月17日の国会協議の答弁で、法制的には宮家という言葉はないとして、宮家という言葉は使わない。実質的に①案が女性宮家であると言っています。宮家について議論しろと言っているのに、法制的にはないからと一蹴し、憲法24条などの結婚観で皇室の結婚を制度設計してしまっていることに危惧がある。
「附帯決議に女性宮家という言葉がありましたので‥‥、宮家というものが法的にどういう位置付けになるのかという議論から始めたわけでございます。ところが、現行の民法も、それから皇室典範も、家という制度を取っておりません。家ということを前提にせずに、両性の平等の中で婚姻が行われていく、そのお二方の協力義務によって婚姻関係というのは継続していくという宮内庁とも議論をしまして、宮家というのは‥‥独立の生計を営む皇族の方に天皇陛下からその呼称を賜る、宮号を賜るというようなものであって、法的な位置付けはない‥‥そうすると、婚姻をされても内親王、女王の身分といいますか、ポジションを保持されることというのが女性宮家ということの本質なんではないか‥‥。ただ、法制的には宮家という言葉はありませんので、この報告書では、宮家という言葉を使わずに、内親王、女王様がその婚姻後も身分を保持されるということで議論を進めてまいりました。」
しかし「宮家」「家」という離接単位はリアルに存在しており、「家」を無視すると婚入配偶者としての親王妃、王妃、婚出する内親王、女王という婚姻の実質についての議論ができなくなる。社会の慣習は、婚入配偶者は、嫁であれ婿であれ婚家に帰属し、生家を離れる。死後も婚家の仏となって末代まで供養されるというもので、皇室であれ旧華族であれ基本的なパターンは同じです。
法制上ないことになっているから「宮家」「家」は捨象した議論という点で大きな欠陥があるのです。
実際明治皇室典範 39 条では「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」と皇族の婚嫁の規定があり[i]、嫁入婚を前提としたものであり、この条文がなくなっても婚嫁としての婚姻の実態に違いがあるわけではない。
実質①案が女性宮家だと山崎は言っている。それなのに女性宮家に反対していた日本会議系議員の多い自民党でも、実質女性宮家を安易に是認してしまっている。むろん自民党案は配偶者や子息を皇族とはしないと言っても、御用地内の居邸も可能という山崎重孝の答弁も安易に是認している(4月17日の森山幹事長の発言)。
そもそも有識者会議は①案には前例があるとして、事務局調査資料では醍醐皇女勤子内親王以下六方を例示し、皇室の伝統と整合性があると言っているが、六例はすべて違法婚である。継嗣令王娶親王条で内親王が臣下と結婚できないルールは一貫しており、10世紀の右大臣藤原師輔は、内裏で内親王三方と密通、事後的に勅許されたとはいえ、反律令行為でありとくに康子内親王との結婚は村上天皇の天気を害し、左大臣実頼などは批判的だった[保立道久 1996][米田雄介 2004]。令制が想定していない婚姻を皇室の伝統と言う詭弁がある。
御用地内に居邸を造営するとなると、有識者会議事務局が前例だと言っている事例は夫方居住なので前例に従うものでもないので著しく矛盾する。
有識者会議は内親王、女王の婚姻について伝統を無視し両性の平等の中で婚姻が行われていくという現代的な価値観で、安易に皇族女性の結婚を制度設計してしまっている。
私個人の意見は、有識者会議の①案女性皇族(内親王・女王)が皇族以外と結婚しても皇族の身位を失わず保持する案は、皇室制度を破壊するので反対、③皇統に属する男子直接復帰の一択、②の皇統に属する男子の養子案は現存宮家が養嗣子を望む場合の次善策という評価である。
有識者会議事務局資料3年11月30日配布は①案を恒久的制度としたいとしている点で悪意がある。①案に好意的な自民党案にも反対。男系さえ維持できれば良いというものでは全くない。
最善策は③案の一択。後崇光院太上天皇の親王時代の著書『椿葉記』にある伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒(崇光院流=伏見宮が正統という由緒が記されている)、後小松上皇(室町院領について応永 23 年 1416 に永代安堵の勅裁を得ている [白根陽子, 2018] これは史実)、後花園天皇(康正2年 1456「永世伏見殿御所」号勅許の所伝-複数の史料がなく裏付けなし)の叡慮により永代存続が約され、天皇と血縁が離れても、ステイタス が劣化することのない別格の宮家(准天皇家)、完全な傍流化が回避され、 550 年、天皇家と併存してきた歴史的経緯、意義を重んじ、宮号の再興、旧皇族の復籍をコンセプトとすべきであるとの見解である。
特に反対なのは有識者会議の事務局が、①案実施のため皇室典範 12 条「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは皇族の身分を離れる」を改正し、特例ではなく恒久的な制度とする方針を打ち出していた。皇室典範 12 条の改正は制度の大きな変革になり恒久的制度とすることは強く反対する。
有識者会議は②案皇統に属する男子を養子とする案と併行もしくは①案を先行して実施することをにじませているが、①案は破棄すべきというのが私自身の意見であります。
ただし、生涯非婚内親王については、女院宣下や非婚内親王の准母立后(11 例)として厚遇された歴史があり、院庁や附属職司、家礼を従えていた。たんに内親王であっても、例えば後鳥羽皇女昇子内親王は当歳(満 0 歳)で内親王宣下され、政所家司として職事、家司、蔵人、侍者 、御監 、庁年預 が補任され、家礼を従える身分である。また御給(年官年爵)という、毎年一定数の官職や位階を与えるべき者を推薦し、その任料・叙料を推薦者の所得とした制度もあった。しかし皇室領の実効知行地が大きく減少した室町・戦国時代は皇女のすべてが入寺得度し尼門跡(比丘尼御所)となったが、門跡領は広義の皇室領で幕府が保護していたので寺領経営体のトップとして相応の収入があった。 例えば後土御門皇女渓山が住持の大慈院の永正 7 年(1510)~14 年(1517)7 年間の主な収入が 1867 貫7文[菅原正子(2002)]で、現代の貨幣価値に換算して 2 億円近くしかも黒字で、つまり年収 3 千万円弱の住持が皇女のポストであった。
このように、生涯非婚内親王が厚遇されていた歴史的経緯をふまえ、内親王(女王であっても)が皇族の身位で残っていただくために、生涯非婚を前提として独立居邸、家政機関を附置する宮家があってもよく、これは皇室典範を改正することもなくできることなので①の代替案である。実際9月30日皇室経済会議で彬子女王殿下は独立の生計を営む女王とされ、三笠宮家の当主となったと報道されております。 皇室経済法第六条三項五号によれば女王も当主となることが想定されていたことではあったが、未婚女性皇族が宮家当主となったのは江戸時代以来との報道ですが、前例仁孝皇女淑子内親王の桂宮相続の経緯は文末で述べる。
しかしながら、①案はほぼすべての政党が、賛成していること。②案は合意を得ていないが、多くの政党が支持していることから、 とりまとめは、①、②の併行もしくは①先行実施の可能性が強い状況になってきた。 私としてはきわめて遺憾だが、意見を改め、①、②の併行もしくは①先行実施を積極的には是認しないが、ここまで議論が進んできた以上、受け容れたうえで、よりましな制度設計を要望するとともに、国会での協議で出てきた見解で疑問点を以下のとおり、上申するものである。
皇室典範 12 条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)は、明治 22 年皇室典範 44 条と同趣旨で、旧典範を継受したものである。
帝国憲法皇室典範義解によれば旧皇室典範 44 条の趣旨は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス」とされ婚出した女子(出嫁女)は夫の身分に従うゆえ、皇族の列から離れるとしている。
つまり夫婦同一身分、婚入配偶者(嫁・婿)の婚家帰属、死後は婚家の仏となるという、侯爵夫人なら、夫に従って侯爵家の成員、公爵夫人なら公爵家の成員というように我国の常識的な家族慣行に即した合理的な判断をとっているのである。
にもかかわらず有識者会議は、表向き女性皇族を皇室に留める方策として旧皇室典範 44 条の趣旨を顧みることもなく、それを継受した皇室典範 12 条を安易に棄て去る判断をとっていることは大きな過ちである。
この点については、有識者会議や事務局が現行の民法も、それから皇室典範も、家という制度を取っていないので婚嫁、婚入配偶者としての嫁。婿、家の成員の帰属変更としての日本社会の家族慣行としての婚姻の結婚の意義を全く無視、捨象した議論になってしまっている。
例えば昭和18年に昭和天皇長女の成子内親王は、東久邇宮盛厚王と結婚し、王妃内親王となったわけですが、この場合東久邇宮家に嫁したのであって、皇族どうしの変更でも、婚家への帰属変更というものがある。
「宮家」は「家」は法制上のものではないか無視してよいので、皇室典範12条はいらないものとするというのは到底納得のいくものではない。
戦後の皇族女子の婚姻がすべて臣下、皇族以外だが、皇女内親王については歴史的には例外的事象であり、内親王と臣下との婚姻は10世紀と17世紀と20世紀後半以降以外はほとんどみられない事象なのである。令制(継嗣令王娶親王条)において内親王は皇族と結婚するのが大原則だが、17世紀末期以降の以下の9例は原則どおりといえる事例。この場合、欣子内親王を除いて天皇家から離れて世襲親王家や新宮家等への嫁入婚(嫁娶婚)なのであって、皇族女子が結婚した場合、皇后、親王妃、王妃以外は皇族の身分から離脱する皇室典範12条を破棄するのは皇室制度の重大な変更で看過できない問題なのである。
(元禄11年~昭和18年の内親王の皇族内婚9例)
元禄 11 年(1698)霊元皇女 綾宮 福子内親王 伏見宮邦永親王妃、宝永 7 年(1710)東山皇女 姫宮 秋子内親王 伏見宮貞健親王妃、寛延 2 年(1749)、中御門皇女 籌宮 成子内親王 閑院宮典仁親王(慶光天皇)妃、寛政6年(1794)後桃園皇女欣子内親王 光格后、明治 41 年(1908)、明治皇女 常宮 昌子内親王 竹田宮恒久王妃、明治 41 年(1908)明治皇女 周宮 房子内親王 北白川宮成久王妃、明治 43 年(1910)明治皇女 富美宮 允子内親王 朝香宮鳩彦王妃、大正 5 年(1915) 明治皇女 泰宮 聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃 、昭和 18 年(1943)昭和皇女 照宮 成子内親王 東久邇宮盛厚王妃。
むろん離接単位としての「家」制度は戦後否定され、限嗣単独相続より分割相続、戸主の統制、長男の威信は喪失したとされるが、しかしながら慣習としての「家」、家長と主婦の連鎖で永続する「家」が我が国の家族慣行、社会構造として現に存在し、社会人類学の大御所清水昭俊は60年代のフィールドワークに基づいて日本の「家」を分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的と定義している。家督相続も慣行として存在し、結納、白無垢、色直しといった嫁入婚の習俗も失われていない。世界的にファミリー企業の平均寿命は 24 年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜 2010 ]。老舗企業が健在なのは家職を継承する「家」制度が社会構造であるためである。
皇室でも納采の儀と入第の儀は嫁取婚に相当する儀式である。「民法の父」明治民法起草者梅謙次郎は夫婦同氏制度の立法趣旨の一つに妻が夫家に入ることが家族慣行を挙げている。
有識者会議事務局は本質的に左翼体質だから12 条改変を主張していると考えている。この目論見は、男女いかんにかかわらず初生子が王位継承者になる北欧・西欧の王室の制度に容易に転化できるためである。マルキストのいう古典的一夫一婦制の止揚、ジェンダー差別を廃し家父長制を敵視する共産主義者の意向に沿ったものとなるからである。
ここさえ一点突破すれば、男女共系へ移行は先送りでも左翼陣営の大勝利といえる。
清水昭俊によれば、日本的「家」とは家連続者一名(跡継ぎ、実子長男が通例だが、家付き娘、非血縁養子の場合もある)だけが家に残り、婚入配偶者(主婦予定者としての嫁、家長予定者としての婿)を迎えて「家」を継承する。その他の家成員は婚出、養出、分家設立により生家から離れるのが、日本の「家」のルールである。個人が帰属する家は一つ 、両属はありえない[清水昭俊1970,1972,1973] 。
むろん令制の「天皇家」は少なくとも戦国時代まで嫡妻は確立していなかったし、宮門跡、尼門跡という天皇の諮問に答えることで国政にも参与しうる生涯独身のポストが用意されていることは、一般の「家」とは違うが、天皇家も少なくとも 14 世紀以降「家」制度的な家督相続の性格となっている。
分割相続から嫡子単独(限嗣)相続に移行した日本的「家」は 14~15 世紀に成立した。
皇室も 14 世紀の後光厳天皇より、嫡子(限嗣)単独相続で、猶子という親子関係の擬制により日本的家制度の直系継承となった(伏見宮出身の三世王後花園天皇は後小松天皇の猶子、閑院宮出身の三世王光格天皇は後桃園天皇の養子なので皇統転換はしていない建前)であり、幕末まで儲君以外の皇子は宮門跡として入室し法親王となり、儲弐以外在俗でありうるのは世襲親王家が空主となったケースのみが通例である。
皇室が限嗣単独相続となった経緯は、後光厳は相続した所領が乏しく、後小松は崇光院崩後、伏見宮から持明院統の基幹所領を没収したことなどから、禁裏御料の収入が 15 世紀中葉に現金換算で年収 7 億5千万円程度あったが[久水俊和 2021]、実効知行地の減少から分割できる余裕などないこと。猶子が貴族武家社会で実質的意味を有していたこと。猶子による万歳継帝を望み、実系の伏見宮への皇統転換を否定した後小松院の遺詔に猶子の後花園が忠実だったことによる。
室町以降の皇女には独自の知行はなく、それゆえ室町戦国時代は十代前半で寺領経営体のトップとなる尼門跡となった。17 世紀になると皇女が増加し、尼門跡のポストが不足したことから、摂家への降嫁(後述するように嫁取婚)、17 世紀末からは霊元上皇の復古政策で世襲親王家に嫁する皇族との結婚がみられる。
後光明 天皇に皇子がなく、異母実弟の高貴宮を養嗣子とした。男子がない場合養嗣子をとるという家制度的な家督相続がなされているのであり、皇室典範 12 条は家族慣行に沿って妥当な立法趣旨があるのでこれを改変することは、たんに皇室の問題でなく、皇室が国民に慕われる存在ゆえ、国民の家族慣行に与える影響が大きく、いかに皇族数を確保する理由であるとしても反対である。
私が旧皇室典範 44 条義解「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ」とは、出嫁女の婚家帰属性を意味していると解釈しているのは、明治 8 年内務省「夫婦同氏」案の趣旨と合致するからである。
明治8年 11 月9日妻の氏について未だに成例がないために内務省は、腹案を示しつつ伺出を太政官に提出している。
「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候ヘ共、右ハ未タ成例コレナキ事項ニ付決シ兼候ニ付、仰上裁候‥‥」[廣瀬隆司(1985)][近藤佳代子(2015)]
夫ノ身分ニ従フ筈ノモノという文面からみて皇室典範義解と内務省の夫婦同氏腹案の趣旨は同じである。
要するに内務省案は、華士族平民いずれであれ、婦女は他の家に婚嫁した後は、夫の身分に従うはずのもの。婚家に帰属するのであるから、夫家の苗字を終身称するのが穏当というものである。
夫の身分に従うというのは、夫婦同一身分、嫁取婚(嫁入婚)、大化元年の男女の法に遡ることができる父系帰属主義といずれの見方も可能であるが、我が国の家族慣行の常識である。
江戸時代の婦人道徳の教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』貝原益軒)とあり、1 世紀の白虎通を典拠として、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、婦人道徳の規範であり[柴桂子(2004)]。それは歴史的に一貫した道徳なのである。
中国の宗法においても出嫁女は夫の宗に属するので朝鮮・韓国の門中も含めて、東アジア共通の古くからの文化ともいえるのでその意味は深い。
このことは、同戸異姓の禁止、氏を統一した明治政府の政策とも合致している。実際今日においても夫婦同氏の 96%が夫家姓であるのも、日本が準父系の社会構造であることを示す。
つまり日本的家族慣行に合致させた意義といえる。それを否定し、婦人は婚家を継ぐものという伝統的婦人道徳を粉砕してしまう危険性の強い提案が有識者会議事務局の皇室典範 12 条改正提案である。このようなリスクのある提案は断乎回避すべき。
男系継承さえ守ればよいなどというものではない。皇室典範12条を守らなければ保守主義の敗北である。
ところで、4 月 17 日の国会協議では、恒久的制度を前提として、現在の女性皇族の方々は、紀宮清子内親王や、眞子内親王と同様、従前どおり一般国民と結婚後、皇族から離脱する選択肢を残すべきとの大勢だという。それならば、そちらを特例とせず、皇室典範 12 条は維持したうえ、皇族以外と結婚後も身位を維持するのは、皇族減少期の当面の特例として実施すべきというのが私の提案である。
皇室典範12条の改変は皇室制度の破壊となるゆえ反対。ゆえに①案を恒常的制度とすることに反対である。しかし皇室を維持するために摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員を担う皇族は最低必要という有識者会議の見解は、それ自体説得力はあるので、その限りにおいて、当面①案を実施するものとすべき。①案の配偶者や御子息を皇族とするか、女性皇族を皇位継承者とするかという議論は、悠仁親王殿下が結婚する時期まで先送りするというのが有識者会議の見解であり、私も先送りで良いと思うが、一方立憲民主党の野田代表のように先送りせず、皇室会議で皇族の身分を付与できるとすべきとの提案もある。
一番懸念しているのが①案の恒久制度化であるため、皇室典範12条を改変しない確約があり、かつ②案も確実に実施していくということなら、当面(長期であってもよい)の措置として野田代表提案に乗っても悪い展開とはいえないとさえ思う。
国会協議で立憲民主党が②養子案の実施に期限を設けるべきとする議論がある。期限を設けていいと思う。しかし①案もそれとの見合いで当面の特例措置でいいはず。②案は期限を設けても万一芳しくない状況でも再開は可能である、しかし皇室典範12条を改変してしまうと戻せない。
この議論は悠仁親王殿下のお妃選びと男子が誕生するか、②案実施により順調に男子が誕生するかが鍵になってくるが、伏見宮系皇族は初代栄仁親王(観応 2 年 1351 生、応安元年 1358 親王宣下、応永 23 年 1416 薨)から 26 代博明王まで 600 年近く実系が途絶えることもなく皇族の崇班を継承し(16 代薨後空主となり、桃園皇子17 代貞行親王が継承いったん血筋は中切れになったが、親王は早世され、『椿葉記』の由緒、持明院統の正統を自認、仙洞御文庫や仙洞御所を相続し、琵琶の秘曲伝授など正統の流儀を継承してきた矜持から実系維持を望む伏見宮家の嘆願で、邦忠親王の弟の勸修寺門跡寛寶法親王が還俗し 18 代邦頼親王となる[武部敏夫 1960])700 年近く実系で続いていて、異なる家筋から養子をとらずに続いているのは貴重な家系といえる。
五摂家は、近世初期の段階で二条晴良の子孫だけが残り(当時の鷹司、九条、二条家)、四家の実系は途絶した[木村修二 1994]。公家は養子相続が多く、江戸時代の四世襲親王家も三家の実系は途絶したことと比較して、伏見宮系旧皇族の御子孫は実績からみて男子が誕生する確率が高いのではないか。
皇族女子の配偶者や御子息が皇位継承者たりうるか現段階では不透明なのに、すべての女性皇族を皇族以外と結婚しても身位を保持し、恒久的制度としたうえ御用地内に居邸も可能としているのは、そちらにリソースをとられてしまうので②案実施の負担になるという意味でも反対だ。
4月24日自民党と立憲民主党の非公式協議での新案について
天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議は、4月17日の会議で議論を打ち切り、衆参両院正副議長がとりまとめ案を提示する段階に入ってから4月24日に自民党の麻生太郎最高顧問と立憲民主党の野田佳彦代表が会談し、女性皇族が結婚しても皇族の身分を保持する案につき自民党は、女性皇族の相手が旧皇族御子孫なら、皇族とする新しい案を提示し、野田氏は女性皇族の配偶者と子に皇族の身分を付与するかどうかについて、皇室会議で判断する案で応答した、この折衷案について麻生氏は持ち帰り、今後断続的協議が行われたが、まとまらず、先送りとなっているが、新案について意見を述べる。
自民党は②案皇統に属する男子を養子とする案については、自民党は養子には皇位継承資格は付与せず、後に生まれた男子から皇位継承資格を付与する案だが、①案は女性皇族が結婚しても皇族の身分を保持する案は認めるが、配偶者や子は皇族身分を有せず一般国民としての権利・義務を保持し続けるとしているが、立憲民主党との妥協案として自民党麻生氏は、4月24日非公式に立憲民主党首野田氏と会談し、①案女性皇族の配偶者が旧皇族御子孫なら、男系男子なので皇族とする案を提示したとされる。
週刊誌で、敬宮愛子内親王殿下のお相手候補として旧宮家のK家御子孫が取り上げられる報道は何回かあった。その場合は、有識者会議の①案ではなく、②の養子案のバリエーションとするのが筋であると思う。
つまり、結婚相手とされる方は、②案を前提とすれば即養子となり現存宮家の承継予定者となり、独立生計の皇族としてそこに内親王が嫁す。この場合結婚相手は皇族待遇で宮号も称するが、自民党原案に従えば皇位継承資格は付与されず、生まれた男子から皇位継承資格を有するということである。この場合内親王は内廷皇族から外れることになるが、それこそが先例である。
女性当主の宮家は寡婦か独身であり、夫婦の場合は必ず男性皇族が当主となるのが先例で例外はないので、あくまでも皇族待遇の旧皇族に嫁するという②養子案の中に取り込むパターンとすべきである。山崎重孝は制度上宮家はないとしているのでこういう発想はないかもしれないが、以下のとおり内親王が世襲親王家や旧11宮家のうち4宮家に婚嫁し親王妃内親王、王妃内親王となる。それが先例である。
世襲親王家に婚嫁した内親王
霊元皇女 綾宮 福子内親王 伏見宮邦永親王妃 元禄11年1698
東山皇女 姫宮 秋子内親王 伏見宮貞(さだ)建(たけ)親王妃 宝永7年1710
中御門皇女 籌宮(かずのみや) 成子(ふさこ)内親王 閑院宮典仁親王妃 光格実父として明治時代に追諡された慶光(きょうこう)天皇の妃 寛延2年1749
明治皇室典範制定後に宮家に婚嫁した内親王
明治天皇第6皇女 常宮 昌子内親王 竹田宮恒久王妃 明治41年1908
明治天皇第7皇女 周宮(かねのみや) 房子内親王 北白川宮成久(なるひさ)王妃 明治42年1909
明治天皇第8皇女 富美宮 允子(のぶこ)内親王 朝香宮鳩彦(やすひこ)王妃 明治43年1910
明治天皇第9皇女 泰宮(やすのみや) 聡子(としこ)内親王 東久邇宮稔彦王妃 大正5年1915
昭和天皇長女 照宮 成子(しげこ)内親王 東久邇宮盛厚(もりひろ)王妃 昭和18年1943
竹田宮、朝香宮、東久邇宮は内親王を迎えるために新たに宮家を立てたのだからそれと同じことをなすべきであるということです。先例どおりとするのが、一番おさまりがよいというのが私の意見である。
ところが事務局は民法上も皇室典範でも 「家」は制度上ないとして、先例に沿った議論を好まないのである。戦後「家」制度は法的にはないから考えなくてよいなどというのは暴言です。
あくまでも①案は、有識者会議によれば令制での前例があるから実施するということなのだから、前例を踏襲すべきである。なお内親王が天皇家から婚出しないで結婚した前例は、後桃園皇女欣子(よしこ)内親王のように皇后に立てられるケースである。22歳で早世されたが、後桃園天皇の唯一の子女です。
閑院宮典仁親王の第六王子祐宮(さちのみや)(東山三世王)を公卿会議をへて皇位継承者とした。安永8年11月8日(1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)とウィキペディアには書かれていますが、後桃園天皇の女御藤原(近衛)維子(これこ)の養子ないし猶子とされる場合もあります。そのため前頁の系図では養子で継承した形で直系にしています。
江戸時代中期より、武家においては生母よりも、嫡妻の権限が上昇しており、当時の認識では皇后ではないが嫡妻格の近衛維子の養子であれば、直系継承の継嗣として正当化されるものと考える。
この前例が踏襲できるのは敬宮愛子内親王殿下が悠仁親王殿下と結婚される場合です。父方いとこ婚としては10世紀の冷泉天皇と昌子内親王があります。平安時代に伯父-姪(淳和-正子内親王)、甥-伯母(醍醐-為子内親王)、異母兄妹婚(平城-朝原内親王)とか近親婚は結構ありますから全然問題ないです。その場合、直系継承とするため、悠仁親王殿下を今上陛下の養子とすれば、前例どおりとなります。
ということで自民党新案が養子案のバリエーションとして制度設計するなら反対はしませんが、今の事務局ではとても不安です。
次に野田代表の提案、女性皇族の配偶者と子に皇族の身分を付与するかどうかについて、皇室会議で判断する案ですが、これは内規として 11宮家の御子孫なら皇族に、それ以外なら皇族にしないという前提なのでしょうか。それともその時々の皇室会議構成員の良識で判断するということなのでしょうか。
もし内規なしにやると次のようなケースの判断が問題になります。皇族の臣籍降下を可能にした明治40年皇室典範増補第一条により、大正9年以降昭和18年まで次男以下の王で12方が情願によって家名を賜り臣籍降下し華族に列した、私はこの時期に臣籍降下した以下の家系の御子孫の方々も復帰の対象にしてよいと思いますが、これまでの国会協議では大正9年まで遡る合意形成はされていないように思う。この場合は、華頂宮家も含め12宮家の御子孫になるからです。
大正9年 山階宮菊麿王次男 芳麿王→山階侯爵 、大正12年 久邇宮邦彦王次男 邦久王→久邇侯爵 、大正15年 伏見宮博恭王三男 博信王→華頂侯爵、 昭和3年 山階宮菊麿王三男 藤麿王→筑波侯爵 、昭和3年 山階宮菊麿王四男 萩麿王→鹿島伯爵、 昭和4年 山階宮菊麿王五男 茂麿王→葛城伯爵、 昭和6年 久邇宮邦彦王三男 邦英王→東伏見伯爵、 昭和11年 朝香宮鳩彦王次男 正彦王→音羽侯爵、 昭和11年 伏見宮博恭王四男 博英王→伏見侯爵 、昭和15年 東久邇宮稔彦王三男 彰常王→粟田侯爵 、昭和17年 久邇宮邦彦王甥 家彦王→宇治伯爵 、昭和18年 久邇宮邦彦王甥 徳彦王→龍田伯爵
4月17日の会議の報道では、養子案は11宮家の御子孫に限定という意見が趨勢とされていますが、上記の家系との縁談の場合、皇族に復帰できるかという問題がございます。
それから皇別摂家の問題についても言及しますが、ネットで公開されている論文で木村修二の「近世公家社会の「家」に関する一試論養子縁組をめぐって」史泉 79 1994年がございます。五摂家について近世、幕末まで、実系で家督相続されているか養子なのか逐一記述されていますが、まず近衛家は近世初期に後陽成皇子の近衛信尋が養子となって以降、幕末まで実系で続いています。一条家も後陽成皇子の一条昭良が養子となっていますが、三代実系で続いたが途絶し、鷹司家から養子を迎えたのが一条兼香ですが、近世初期の段階で、鷹司、九条、二条の三家はすべて養子相続で准后関白二条晴良(戦国・信長時代の公卿)の子孫でした。純粋藤原氏の血筋といえますが、一条家は兼香から数代実系が続きますがこの血筋も中切れになり、醍醐家から養子を迎えています。醍醐家というのは、後陽成皇子一条昭良の子が曩祖なので皇別の一条家の傍系、それも一代で終わったので醍醐家の分家四条家から養子を迎え、明治維新に至っています。養子相続で幕末まで純粋藤原氏の血筋は、九条家と二条家だけです。鷹司家も二条晴良系の実系が五代続くが、近衛家から養子を迎え、それも途絶したので、また二条晴良の実系子孫である一条兼香の子を養子としたが一代で終わり、閑院宮直仁親王の王子を養子に迎えます。鷹司輔平ですが数代実系がつづいたが、幕末に九条家から養子を迎えています。ということから旧華族で男系で遡ると後陽成天皇となる方もいらっしゃる。そのような方々が女性皇族と縁談があった場合はどうなるのか。
私は、もともと伏見宮の家筋は光厳法皇により持明院統正嫡とされたという矜持のある(こちらこそ嫡流とする)根拠となる『椿葉記』の皇統上の格別の由緒があり、天皇と血縁が離れても、ステイタスが劣化することのない別格の宮家(准天皇家)として550年、天皇家と併存し、皇族の崇班を継承してきた伏見宮系御子孫に限定すべきで、藤原氏の養子に迎えられた家系から復帰することに論理性がないので、八幡和郎氏が旧皇族に限定しなくていいなどと言っていますが、私は反対です。生理的血筋で男系ならよいというものではありません。ということで、皇室会議で異論がでたりすることがあると考えます。
ところで皇室会議は異論なく決定されるのが通例で、「カトリック問答」は岸総理のやらせともいわれ、異論が出て紛糾することはない。しかし今後は皇族の身分付与の問題で紛糾する可能性があり、予測不可能に思える。野田代表案は、内規で結婚相手を限定する考えはないように思え、私はもちろん皇族以外の女性皇族の配偶者と御子息に皇族の身分を付与することは前例がなく反対であり、旧皇族がお相手なら、養子案か直接復帰案として実施すればよいことだと思います。
とはいえ、今となっては最大の懸念は、皇室典範12条改変なので、①案を恒久的制度にせず、一時的な特例とすることを確約したうえ、②案も確実に実施していくこととすれば、この際、皇室会議の良識にまかせ野田代表提案に乗っても良いと思う。そういうとお前は女系移行を認めるのかといわれるかもしれないが、ぶっちゃけた話、仮に男系でない男子の皇族が一時的であれ出現する事態になっても、有識者会議①案を恒久的制度にしたほうが、男女共系に移行するリスクがずっと大きいという相対的判断である。恒久的制度にしてしまうと戻せないから。
内閣官房参与の山崎重孝は、2月17日の会議で、女性皇族が、皇族以外と結婚した場合、独立生計の費用は皇族費として出せる。配偶者が一般の民間人であれ御用地に居住でき、皇宮警察がお守りすることも可能と述べており、①案が前例とされる6例より女性宮家のイメージに近いものということが分かった。
有識者会議議事で言及のあるアン王女を①案のモデルとするならば、コッツウェルズのマナーハウスは、エリザベス女王が結婚祝として購入し、ロンドン滞在時はセントジェームス宮殿が居所とされているから、王室側が用意している。 しかし、有識者会議事務局の調査資料が前例としている、婚約したが家継急逝により江戸に下向せず、 3 歳で未亡人となった八十宮吉子内親王を除く 6 例を含め、内親王や皇女が臣下に降嫁したケースは、少なくとも 17 世紀の摂家に降嫁した9 例と、18 世紀の将軍家に降嫁した 1 例はすべて夫方居住、嫁取婚、墓所も婚家の廟所で、内親王は婚入配偶者として婚家に帰属するものとなっている(私が調べた皇女・内親王と臣下との婚姻事例は、12~13頁の一覧表を参照されたい)。
先例重視とするなら、やはり夫方居住、墓所も婚家とすべきであり、内閣官房参与は御用地内に居邸は可能としているが、強く反対する。
以下の表はすべて夫方居住である。ここでは史料上記録のあるもの限って記載する。
上記の康子内親王、常子内親王とともに有識者会議事務局の調査資料が①案の前例としているので、ドラマなどに登場し知られていることであるけれども一応 言及しておく。
徳川将軍家茂に降嫁した仁孝皇女和宮は嘉永 6 年(1851)6 歳で有栖川宮熾仁親王と婚約。親王妃となる皇女として 300 石の化粧料が充行われた[久保貴子 2009]。しかし幕府は万延元年(1860)朝幕間の緊張緩和、公武一和を目的として、和宮の将軍家茂への降嫁を奏請することを決し、朝廷は孝明天皇のご希望でもある鎖国攘夷の措置を講ずればこの要請を拒否しないこととなり、熾仁親王との婚約は棄破されて、内親王宣下の後、文久元年(1861)4 月、同年 10 月に桂宮邸を出立、11 月 15 日江戸到着、文久 2 年(1862)2 月 11 日婚儀をあげられた。大奥では姑の家茂養母天璋院と「御風違い」の反目があつた。慶応 2 年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。院号は天皇が選んでいるが将軍正室としての院号である。
静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視されたうえ、婚家が天皇の名をもって討伐を受ける最悪の事態となった。
慶応 4 年(1868)静寛院宮は慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。
2 月 26 日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。3 月には帰順した者の宥免を求め、大総督府はこれを承諾することになった。明治 2 年~7 年まで京都に帰住され、7 年より東京麻布市兵衛町を居邸とされたが、脚気の発病で明治 10 年湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨ぜられた。洋行中の徳川家達の留守居、旧津山藩主松平確堂(徳川家斉十五男)を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫(1987)]。ということで和宮も夫方居住(ただし明治維新の後の居所は夫方とはいえなくてもそれは政治的事情)、嫁入婚、徳川家の家名存続と慶喜寛大処分のため尽力され、葬儀も徳川家で執り行われて、墓所も徳川家の菩提寺ということである。
次節で述べるとおり、公家の嫁取婚儀礼は戦国時代に確立しており、江戸時代の内親王降嫁はすべて嫁取婚夫方居住である。後水尾皇女女二宮や賀子内親王の摂家への降嫁で大きな御殿が造営されたのは、母が東福門院源和子で外祖父が秀忠、徳川の縁者であるためで、婚姻に際して幕府より三千石が献上されている。
嫁取婚ではなかった 10 世紀の藤原師輔への内親王三方の降嫁は、いずれも内裏で密通し、違法婚だが事後的に承認された例だが、一品准后康子内親王は師輔の私邸である坊城第を居所とされていたことは史料上明らかである。[栗原弘(2004)][杉崎重遠 1954]
ただし村上皇女の保子内親王は、摂政兼家が通っていたがつまらない女だとして途絶えてしまった事例で訪妻婚である。盛子内親王の居所広幡第は、祖父・源庶明、母・計子を経て継承し、夫である藤原顕光を経て僧・仁康に施入され、広幡寺とされた。これも訪妻婚だが、妻の財産を夫が相続している事例。
今回、事務局が①案のように臣下と結婚する場合、御用地の邸宅を認めていることについて先例はないといってよい。むろん、女性皇族の配偶者については、さほど裕福でない民間人のケースもありうる。女性皇族には独立生計の費用分は皇族費として支出されるが、セキュリティ上しかるべき高級住宅を居所とするためそれでも足りない場合は、持参金などとして工面しても良いと思う。実質内親王・女王の財産であってもよいが、先例どおり、名目的にでも夫方居住を原則とすべきである。御用地の居邸造営は、女性宮家と同じことになり、将来、初生子相続、男女共系の北欧、ベネルクス、英国と同じ方向性に傾きやすくなるため反対である。
五 ①案実施にあたり、納采の儀など嫁取(嫁娶、嫁入)婚儀礼の形式を変えないこと
有識者会議や事務局は、民法でも現皇室典範でも「家」はないなどとして、婚姻儀礼には全く無関心ですが、私は重要な問題と考えている。
脇田晴子[1992]によれば、中世における嫁取婚の一般的成立は、「家」の成立を意味し、嫁取婚形式の「家」とは一夫一婦制と正妻の確立であるとする。
公家の嫁取婚の成立時期の通説は鎌倉時代だが、後藤みち子[2014]は公家日記を厳密に検討し、嫁取儀礼の確立は戦国時代と言う。
嫁取儀礼とは家長が嫡子に正妻を本邸で迎える儀式のことである。儀式の後、正妻は夫方の父母や親族と対面し三献で祝うことにより、夫家の親族となり、家司たちとの祝いの宴により夫家の一員と認められたこととなる。戦国時代より婚礼後は父子二世代同一屋敷別棟居住となった。戦国時代の公家は、戦後の民法改正まで続く、嫡子単独相続日本的「家」の雛形といえるだろう。
17 世紀に内親王・皇女が摂家に降嫁した 9 例と、幕末の将軍家に降嫁した 1 例はすべて嫁取婚といえる。
天和3年(1683)近衛家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は母の品宮常子内親王が日記に詳しく記されている。「御里の御所へまず中務卿を先に参らす‥‥‥女一宮ねもじ(練絹の白)、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、近衛基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している[瀬川淑子(2001)]。嫁迎え、嫁入婚の儀礼である。御所を御里と言っていること。白無垢・色直しは現代の婚礼・披露宴においても、和装花嫁衣装の定番である習俗と同じである。
令和 3 年眞子内親王の婚儀では納采の儀、告期の儀、賢所皇霊殿神殿に謁する儀、参内朝見の儀、皇太后に朝見の儀、内親王入第の儀がなされた。
納采の儀は、婚約、結納にあたる。賢所皇霊殿神殿に謁するの儀は、内親王が三殿の外陣で拝礼念するもので、五衣唐衣裳に正装し、他家へ嫁ぎ、姓が変わる前に皇祖神ほか神々へのお別れのご挨拶を申し上げるものとされる。入第の儀というのは嫁迎えの儀式で、嫁入婚の形式である。①案では賢所皇霊殿神殿に謁するの儀の位置づけが大問題となるが、婚入配偶者と位置づけで、変更しなくてもよいと思う。納采の儀・内親王入第の儀を変更する必要はない。
臣下に降嫁した内親王の墓所について、先例は少なくとも 17 世紀以降 10 例は全て婚家の廟所となっており、宮内庁の管理ではない。昭和天皇次女鷹司和子も鷹司家の廟所二尊院が墓所である。①案においても先例どおり豊島岡墓地ではなく婚家の墓所とすべきある。女性皇族の配偶者や御子息も同様である。
まず臣下に降嫁した内親王の先例について、藤原師輔が内裏で密通のうえ、事後的に勅許された 10 世紀の醍醐皇女准后一品康子内親王について、四十九日は法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳元年七月二二日条)一周忌も法性寺で行っている(『日本紀略』天徳二年六月四日)[栗原弘(2004)]。 墓所は不詳である。
法性寺とは関白藤原忠平が京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺でもあった。寺域は広大で現在の東福寺や泉涌寺のある地域を含む。
平安時代を通じて藤原氏の氏寺として繁栄し、藤原忠通は法性寺で出家し、法性寺入道前関白太政大臣と称される。九条兼実も後法性寺殿と称された。 しかし鎌倉時代九条道家が東福寺を建立し浸食される形で縮小、応仁の乱で衰退した。
栗原弘[2004]によると。法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子(伊尹・兼通・兼家・安子母)の一周忌、忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光の四十九日、また村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤藤原忯子(為光女)の四十九日、藤原安子と円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が執り行われている。小野宮流の仏事も行われていることから、法性寺は忠平一門の氏寺的性格とみてよいだろう。なお康子内親王の仏事が法性寺で執り行われたことについては、皇族が母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、母方の氏寺で執り行われたという解釈を栗原弘氏がとっており、仮に康子内親王が生涯非婚であったとしても、官寺である法性寺で法要が執り行われた蓋然性は高い。
この時期は日本的「家」は確立されていない。したがって婚家の氏寺での仏事と解釈されないのである。
栗原弘によれば、藤原師輔や兼家、源雅信の妻は夫方の寺院や邸宅で法要がなされているが、一方、道長の妻源倫子の追善法要は不明で墓所は仁和寺であり、道長は木幡であるから夫婦別墓である。頼通の妻隆姫女王の四十九日は、三井寺の常行堂で、葬式も実家の甥源俊房が執り行っていて、夫方が関与していない。11世紀の時期の妻の追善仏事は、夫方か実家のいずれか、夫方と実家と双方で行われ、夫方か実家かは遺族が選択していると栗原弘は解説している。過渡期なのである。
しかし、17 世紀以降の内親王・皇女が臣下に降嫁した 12 例はすべて、墓所が婚家の廟所であり、葬儀、追善仏事も婚家とみなしてよい。
以下の表は筆者がネットで調べたものである。
上記の表にないが、東山天皇の皇后、中宮皇后幸子女王(女院宣下承秋門院・父有栖川宮幸仁親王)は、月輪陵である。リストから除いた多くの尼門跡については門跡寺院が墓所となり、宮内庁治定陵墓である。分類すると以下のとおりとなる。
〇泉涌寺(御寺・皇室菩提寺-月輪陵・後月輪陵)
明正女帝、後桜町女帝、淑子内親王
〇般舟院(御寺・皇室菩提寺) 孝子内親王(礼成門院)
〇光雲寺(母后ゆかり)昭子内親王
〇知恩院(徳川家ゆかり)吉子内親王(婚約者徳川家継夭折により江戸に下向せず、将軍家の寡婦待遇)
2 皇后に冊立された女王・内親王(宮内庁治定)
〇泉涌寺(御寺-月輪陵・後月輪陵)東山后中宮幸子女王、光格后中宮欣子内親王
〇相国寺内伏見宮墓地 福子内親王、秋子内親王(宮内庁治定)
〇蘆山寺(閑院宮家墓地)籌宮 成子内親王(宮内庁治定)
〇豊島岡墓地 昌子内親王、允子内親王、房子内親王、聡子内親王、照宮成子内親王
4 臣下に降嫁した内親王・皇女
〇二尊院(鷹司家・二条家廟所)
清子内親王、貞子内親王、賀子内親王、栄子内親王、和子内親王
(二条家の賀子内親王御殿の御化粧之間が二尊院に元禄年間に移築され、非公開だが茶室とて現存)
〇東福寺塔頭海蔵院 女二宮
(海蔵院には近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。女二宮が改葬されていない理由は不明)
〇大徳寺(近衛家廟所)
常子内親王、憲子内親王
〇東福寺(九条家廟所)益子内親王
〇増上寺(徳川家廟所)親子内親王
このとおり、臣下に降嫁した内親王江戸時代の 10 例と、戦後、鷹司平通氏に降嫁した昭和天皇次女の和子内親王も含め、すべて婚家の廟所で、宮内庁治定陵墓ではない。内親王案が皇族以外と結婚した場合は、先例どおりとすべき。
日本維新の会から、女性皇族の配偶者に称号を与えるとか、准皇族とする案が出されている。称号を与えたうえ,御用地内に宮殿を造営するとなると、待遇上皇族に近く容認しがたい。
維新の会は准三宮(准后)が准皇族との見解だが、鎌倉時代初期の著名な史論書「慈円」の『愚管抄』では、皇族(皇親)と臣下以外の身分はないとはっきり言っていることである。
従三宮(准后)の初例は、貞観 13 年(871 年)、初の人臣摂政である藤原良房であり、三宮に準じて年官・封戸・随身兵仗を与えたことである。次いで藤原基経が、摂政在任中に三宮に准じて随身兵杖、年官・年爵(叙位・任官の推薦権、実質売官制度。院、三后だけでなく親王、内親王にも推薦権があった)を与えられたことで、朝廷の正式な制度として定着し、以後、皇族、公家、将軍家、高僧に与えられた。年官・封戸等は早くに実質を失い、もっぱら身分上の優遇を意味する称号に変化していったとウィキペディアが説明している。准后宣下は明治初期までおよそ 170 例ある。
つまり朝廷実力者個人に対する特権待遇(封戸や叙位任官推薦権、護衛の武官を三后に准じる)から始まった制度である。配偶者が皇族だから与えられるものでは全くないし、例えば藤原良房・基経・兼家・道長・頼通・忠実・九条道家・二条良基・足利義満・一条兼良・足利義政・義昭が准三宮宣下を受けているが、朝廷の実権を掌握した実力者、もしくは業績顕著な公家、武家である。個人一代に与えられる朝廷の待遇で、特別の家系を意味するものではない。あえて例えていうなら、首相より上席の大勲位相当者のような位置づけ。
生涯非婚内親王を厚遇するために准后宣下するケースは非常に多い。后となっていない天皇生母を厚遇する根拠として准后宣下するケースも多い。室町戦国時代に多い摂家や将軍家出身等の門跡准后は三宝院満済のように幕府の実力者のケースもあるがほぼ名誉的地位といえる。摂家の正妻も准后宣下されるケースがある。
繧繝縁は最も格の高い畳縁で、天皇・三宮・上皇が用いるが、准后も繧繝縁を用いることが出来るとの見解もある。
ただし朝廷での序列、座次に変遷があることは(四)で述べるが、北朝の盟主准后二条良基により、書札令で准后は親王より上と定めた故実の意義は大きいと思う。ところが秀吉時代には忘れられ親王と同格の裁定、法親王と門跡准后と前関白が同格とされたこともある。
令制は天皇と太政官二極による統治体制なので、臣下が親王・諸王より上席となるのはよくあることである。
ただ准后がいかに高い地位だとしても、義満が皇族になれないように、准后だから皇族になれるというものでは全くない。
とにかく准三宮が個人一代の処遇で、家筋に与えられるものではなく、皇族、公家、後宮、門跡と対象も広範で、准皇族との理解は間違いである。
むろん①案女性皇族の配偶者については身辺警備の対象とし、筆者は夫方居住とすべきとの見解なので、財政的支援があってよいが、配偶者に格別称号、准皇族という特別の地位を創出すべきでない。それは女性宮家に転化の口実になるという意味でも反対である。
むしろ、歴史的には、非婚内親王が准后とされた例が、参考になる。嫡流の非婚内親王の後光明皇女孝子内親王(後光明天皇の唯一の皇子女で、後水尾院の意向で、手許に留める方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領 300 石が与えられた[久保貴子 2009])。桂宮を相続した仁孝皇女淑子内親王(天保 11 年(1840)閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料 300 石を得たが、2 年後に親王が薨ぜられたため結婚に至らず、朝廷は淑子内親王の御殿を用意できず、住まいを転々としていた[久保貴子 2009])が准后宣下されている。
敬宮愛子内親王殿下については悠仁親王殿下と結婚し皇后となるケースもありうるが、非婚の孝子内親王の先例にもとづき准后として特別待遇することはありうると思う。
准后良房は嵯峨皇女源潔姫を妻とし、准后基経は人康親王女(二世女王)を妻とし、准后兼家は保子内親王(村上皇女)を妻としたが、皇女や二世女王を妻としていることと准后宣下は全く無関係である。
二世女王降嫁の初例は承和期に蔵人頭、式部大輔を歴任した右大臣内麿の十男藤原衛(淳和皇子恒世親王女を妻)は良吏タイプだが、淳和上皇近臣のためか参議に昇進できず、二世女王降嫁が必ずしも有益でなかった事例である。
村上皇女盛子内親王を妻とした左大臣藤原顕光は准后宣下されてない。
三条皇女禔子内親王を妻とした関白藤原教通も准后宣下されておらず、外戚か格別の実力者でなければ准后宣下はされないともいえる。
内親王降嫁は継嗣令王娶親王条では違法であり、とくに初期の右大臣藤原師輔と密通の上、事後的に承認された康子内親王のケースは、村上天皇の天気を害し、左大臣実頼などは批判的だった[保立道久 1996][米田雄介 2004]。令制が想定していない勅許による殊遇であるが、それによって准皇族化されるわけでは全くないわけである。
令制では親王号、王号を称する皇親(天皇の親族)と、氏姓のある臣下に区別があり、院政期以降、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家といった家格によるヒエラルキーが形成されたが、皇族と臣下の中間に准皇族という範疇を歴史家は認めていない。
僅かに岡野友彦が村上源氏の清華家久我氏を准皇族と言うが、孤立した見解にすぎず、村上源氏中院流が源氏長者及び淳和奨学両院別当を輩出する資格等を有していたとしても、王氏の班位だとしてもそれが准皇族とはいいにくい。
臣籍に降下した古代、中世の皇別氏族は、歴史家は「王氏」と称するのが通例で、准皇族とはされないし、賜姓源氏は 9 世紀に藤原氏と横並びだが、摂関期以降は摂関より下位の家格とみなすほかない。
17 世紀に摂家に皇女・内親王 9 方、将軍家に 1 方が降嫁されているが、内親王の配偶者 10 名のうち 8 名が摂関、藤氏長者だが、准后宣下を受けているのは近衛家熙だけであり、将軍家宣の正室が家熙の姉で、
母が常子内親王でもある。たんに内親王の配偶者というだけで特典を受けることはない。
従一位関白 鷹司信尚(後陽成皇女清子内親王降嫁)
従一位摂政 二条康道(後陽成皇女貞子内親王降嫁)
従一位左大臣 鷹司教平(後水尾皇女文智女王室、離別)
従一位左大臣 近衛尚嗣(後水尾女二宮降嫁)
従一位関白 二条光平(後水尾皇女賀子内親王降嫁)
従一位関白 近衛基熙(後水尾皇女常子内親王降嫁)
従一位関白 九条輔実(後西皇女益子内親王降嫁)
従一位関白准后 近衛家熙(霊元皇女憲子内親王降嫁)母は常子内親王
従一位関白 二条綱平(霊元皇女栄子内親王降嫁)
従一位右大臣 贈太政大臣 徳川家茂(仁孝皇女親子内親王降嫁)
(三)内親王を母とする公卿が必ずしも准后となるわけではない
臣下で内親王を母とするケースをピックアップする。
10~11 世紀の為光と公季は太政大臣まで昇進したが准后宣下は受けてない。江戸時代では近衛家熙と家久が准后宣下されているが、二条吉忠は贈准后である。母が内親王なので准后宣下を受けるという慣例はない。
藤原為光(父右大臣藤原師輔・母醍醐皇女雅子内親王) 右大臣より太政大臣(関白道隆の推挙)に昇進したが准后ではない。
藤原公季(父右大臣藤原師輔・母醍醐皇女准后一品康子内親王)右大臣より太政大臣に昇進したが准后ではない。
藤原重家(父左大臣藤原顕光・母村上皇女盛子内親王) 左近衛少将、五位蔵人、若くして出家。
藤原(鷹司)教平(父関白鷹司信尚・母後陽成皇女清子内親王) 左大臣
藤原(二条)光平(父摂政二条康道・母後陽成皇女貞子内親王) 関白
藤原(近衛)家熙(父関白近衛基熙・母後水尾皇女常子内親王) 関白、太政大臣、准后
藤原(大炊御門)信名(実父関白近衛基熙・実母後水尾皇女常子内親王) 左近衛中将 大炊御門家に養子に出されるが早世。
藤原(九条)師孝(父か関白九条輔実・母後西皇女益子内親王) 左近衛大将、26 歳で薨去
藤原(近衛)家久(父関白近衛家熙・母霊元皇女憲子内親王) 関白、太政大臣、准后
藤原(二条)吉忠(父関白二条綱平・母霊元皇女栄子内親王) 関白 贈准后
(上記のデータは母が内親王であっても皇族となった前例はないことを示すものでもあるので掲載した)
(四)准后と親王の座次相論
ここでは准后の朝廷での序列の変遷について説示し、准后宣下の価値を検討するが結論を先にいうと、室町時代の准后の身分は高く、明らかに親王より上だったが、秀吉時代は例外的に親王と同格となり地位が低下、徳川時代は摂関家の地位が上昇し、摂関の下、太政大臣より上との位置づけとされている。時代的に変遷がある
結論として、准后二条良基が、書札礼を改め、准后は親王より上と定めた故実を重んじると、もし女性皇族の配偶者を准后相当の准皇族などとしてしまうと、皇位継承権のある親王、王より格上になってしまい好ましくない。
内裏歌会で准后左大臣足利義政(寛正 5 年准后宣下)と二品式部卿貞常親王(伏見宮第 4 代)の上下が問題になり、『親長卿記』文明五年七月二十二日条によれば、宇治殿(藤原忠実)が准后の時、親王より上位とした先例、永徳3年(1383年)左大臣足利義満の准后宣下の先例が回顧されている。室町時代は、親王より准后が上位であった。後光厳院擁立の盟主で足利義満を指南し公家化させたとされる准后二条良基は書札礼を改め、義満のために准后は親王の上に位置すると明確に定めたからである[小川剛生 2005]。
天正 13 年(1585)7 月 13 日秀吉は関白任官披露のため前例のない公家、門跡が一同に会する禁中能会を開催したが、親王と准后との間で座次相論となり、不満を持つ方々、伏見宮家出身の宮門跡らが欠席したという。
当時の親王は、儲弐誠仁親王を別格として、伏見宮第九代中務卿邦房(くにのぶ)親王以下、御室(仁和寺)、青蓮院、妙法院、梶井の宮門跡はいずれも伏見宮家出身の法親王だった。准后は前関白近衛龍山(前久)と、聖護院、大覚寺、三宝院、勧修寺の門跡准后で、摂家出身者であった。
関白秀吉は当事者より意見を聴取したうえ直ちに裁定を下し、正親町天皇の認可を受けた(『親王准后座次三ヶ条之事』)。
7 月 15 日の裁定は、親王と准后は同格、門跡准后、法親王、前関白は同格とし、それぞれの席次はくじ引きとした。
ただし伏見宮邦房親王と近衛龍山は別格で、常に並んで上座を占めるとされた [谷口研語 1994] [神田裕理 2019]。従って伏見宮邦房親王は、前関白で准后宣下を受けてない九条兼孝、一条内基、二条昭実より上座ということになる [谷口研語, 1994] 。
室町期は、親王より准后が上位とする見方が有力であり、親王は摂関に優越するとはみられていなかった[小川剛生 2009]。親王と准后が同格とされているので、戦国時代の伏見宮のステイタスが高かった影響がある。摂家出身門跡の准后宣下は、法親王が入室する門跡より格下とみられないために必要な地位といってよいのではないか。室町時代は、二品伏見宮貞常親王より十年ほど年下の准后左大臣足利義政が上座とされたので、この前例は忘れられてしまっている。
同年 10 月 7 日関白豊臣秀吉は前例のない公家衆、門跡総出の禁中茶会を開催した。千利休の茶会覚書は次のとおり [仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 1995]
禁中様菊見の間
一 上段 三畳敷 東同 正親町院様 親王様 若宮様
御相伴衆 下段 六畳敷
近衛殿龍山ニ 伏見殿 菊亭殿
上段三畳敷に天皇、誠仁親王、和仁王(のちの後陽成)、下段六畳敷に御相伴衆として准后近衛龍山、伏見宮邦房親王、取次役の右大臣菊亭晴季が着座、伏見宮は近衛龍山と横並びなので面目を保ったといえる。
次に天正 16 年(1588)後陽成天皇の聚楽第行幸の天皇行列の順番である[中川和明 1991]。
烏帽子着の侍
後陽成御生母 (新上東門院勧修寺晴子)
女御 (近衛前子- 正妻格)
大典侍御局 匂当御局
女中衆御輿 30 丁余
御輿添 100 余人 ・御供の人々 ・童姿 塗輿 14・5 丁
六宮 (皇弟、のちの八条宮智仁親王)
伏見宮邦房親王
九条兼孝(前関白)
一条内基(前関白)
二条昭実(前関白)
菊亭晴季(右大臣)
徳大寺公雄(前内大臣)
飛鳥井雅春(前権大納言)
四辻公遠(前大納言)
勧修寺晴豊(権大納言)
中山親綱(権大納言)
大炊御門経頼(前権大納言)
白川雅朝王(非参議)
以下略この序列では前関白より伏見宮が上、前年の裁定のとおりである。現任公卿より年長者上位といえる。なお左大臣近衛信輔は関白の行列の筆頭となっている。
徳川時代では、慶長 16 年(1611)4 月 2 日の二条城の家康のもとへ後水尾受禅の御礼参賀が行われた時、伏見宮邦房親王と准后前関白二条昭実との間で座次相論があり、家康はとりあえず親王が上と裁定したため、座次は次のようになった[杣田善雄(2003)]。
八条宮智仁親王(一品)
伏見宮邦房親王(二品)
一条内基(従一位前関白)
二条昭実(准后従一位前関白
近衛信尹(従一位左大臣)
慶長期に伏見宮が准后より上座というのは、家康は朝廷のしきたりをよく知らず、二条昭実は不満が残る結果である。
ところが元和元年 (1615) 禁中並武家諸法度であいまいだった座次が序列化され、関白九条尚栄や摂家は、奈良時代、舎人親王より右大臣の藤原不比等が上席だったことを根拠として、儲弐以外の親王は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より下位の座次と決められた。また従来の現官大臣より、年長の前官大臣が上座だったあり方は否定され大きな変更なのである。
鎌倉時代後半、大臣と親王は同格であることからすると、大臣が親王より上というのは摂関家の地位が上昇したといえる。天正の座次の取り決めより皇位継承予定者を除く親王の地位が著しく下降した。
ウィキペディアによれば江戸時代の准后は摂関より下、太政大臣より上だとしている。
つまり秀吉が伏見宮に有利な裁定をし、家康も親王を上位として裁定したが、摂関家から巻き返しがあり、幕府も摂家を通じて朝廷を制御しようとしたので、江戸時代は摂関家上位、世襲親王家当主は、大臣より座次下位が定着した。明治以降は皇族の地位が上昇し、朝廷の座次、序列は時代によって変遷があるといえます。
◇権中納言源忠房⇒弾正尹忠房親王(順徳曽孫)
3月10日会議で立憲民主党の馬淵澄夫氏が「少なくとも歴史上養子として皇族に迎えたという形でのいわゆる皇族ではなかった方々は先例にはございませんということを私どもも確認をさせていただきたいというふうに思います」と述べ皇籍を持たなかった者が、養子縁組で皇族となった先例がないということが、立憲民主党が養子案を承服しない理由の一つとなっておりますが、事務局側も、鎌倉時代の源忠房を皇籍復帰の例をあげているにもかかわらず、後宇多上皇の養子ないし猶子としての親王宣下ということ(源忠房は、順徳二世王の彦仁王の子で、父は時期不詳だが源賜姓により臣籍に降下しているので、その時点で出生していたか不明だが、父が臣籍に降下した後は皇族ではない)をまったく触れずに、「一般人に初めからなっている方が誰かの養子になって戻った例があるわけではありません。」と断言し、忠房親王を先例と認めていない応答をしていますが、事務局の説明としては大きなミスだと思います。
忠房親王に言及している論文としては、松薗斉 2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」人間文化 (25)の 3 頁の表に後宇多上皇の養子とあり、大智院宮忠房親王については 10 頁に説明があり、この論文はネット公開なので容易に閲覧できます。
またウィキペディアにも文保3年(1319年)忠房は後宇多上皇の猶子となり親王宣下を受けた。と記載があります。
ネット界隈では忠房親王の例は、旧皇族が皇籍復帰するにあたって有力な先例と重視されているわけです。
すなわち従二位権中納言源忠房は、順徳曽孫(三世王)。父彦仁王は時期不詳だが源氏賜姓で臣籍降下、母方が摂関家であり外伯父・二条兼基の猶子となる。乾元元年(1302 年)公卿に列し、徳治元年(1306 年)権中納言叙任。後宇多院政の後二条朝では摂関家の子弟に準じた官歴をたどり急速に昇進したが、花園天皇即位(伏見院政)により官職を辞す。後醍醐天皇即位後(後宇多院政)、文保 3 年(1319 年)忠房は後宇多上皇の猶子となり親王宣下を受けて、無品ながら弾正尹に任ぜられた。後宇多上皇の猶子となったことにより皇籍に復帰した事例といえます。
源忠房は母方が摂家で摂家の猶子となったことが、摂家の子弟に准じた昇進となり恵まれていたといえる。後宇多院政期に異例の出世をとげたのは後宇多上皇の引き立てとみられている。持明院統の治世約十年間(伏見院政と後伏見院政期)は干された。再び後宇多院政となったことにより文保 3 年に皇籍に復帰
した。醍醐寺塔頭の大智院宮と称された。出家された後に隠棲し後宇多院と関係が深い寺でもある。
なお、忠房親王とは兄弟の承鎮法親王についてコトバンクに「天台宗三千院門跡の尊忠について出家。正和 6 年(1317)後宇多法皇の猶子となり、親王となった。正中 3 年天台座主」とあり、父が源彦仁なので法皇の猶子となることによって源氏から皇族に復帰した先例といえる。
当時三世王相当の臣下の皇籍復帰は異例といえるし、三世王相当の親王宣下も当時としては異例である。
ただし、14 世紀以降常磐井宮満仁王(後光厳猶子)が三世王ながら親王宣下され、15 世紀になると、宮門跡に入室する皇子がいなくなり、五世王、六世王でも親王宣下が慣例化されたが、いずれも 14 世紀以降は、天皇か上皇の猶子として、皇子に准じた礼遇を受ける者として親王宣下を受けるのが通例となった。
24頁の表のとおりであるが、忠房親王等のように源氏から親王宣下される例は異例なのであり、それら以外は諸王が親王宣下を受ける先例である。
なお、臣籍から皇族に復帰した政治史的には重要な事例も補足しておきたい。
和気王⇒岡真人和気⇒和気王
天武三世王、祖父が舎人親王、天平勝宝 7 歳(755 年)兄弟の細川王とともに岡真人姓を賜与され臣籍降下し、伯父の淳仁即位により皇親に復帰、機を見るに敏な和気王は仲麻呂の乱では反乱計画を事前に孝謙上皇に伝えた。兄弟の多くは淡路廃帝・仲麻呂の陣営に与し処罰されたが、兵部卿として数百の兵を率いて淳仁天皇を包囲したのである。その功績により従三位に昇叙され公卿に列し勲二等を叙勲される。しかし皇位を望む謀反が露見して称徳女帝の逆鱗に触れ、伊豆国流罪、途中で絞殺される。
奈良時代には、和気王同様、淳仁即位時など臣籍から皇籍に復帰した例は多数ある。
◇元寇当時の鎌倉将軍
惟康王→源惟康→惟康親王
第 7 代鎌倉将軍惟康王は、後嵯峨二世王で、父宗尊親王。文永 7 年(1270 年)源姓を賜与され、源惟康と名乗ったが、弘安 10 年(1287 年)に幕府の要請で皇籍に復帰して後宇多天皇より親王宣下がなされた。 [青山幹哉 1988]
臣籍降下は、幕府の実権者安達泰盛が将軍は源氏であるべきとの主張によるとされている。しかし霜月騒動で泰盛が討たれ、将軍の親王化は平頼綱の方針、その他の説がある。
親王宣下は亀山院政の停止、後宇多譲位の強行とのセットで東使の意向を呑んだ政治色の強いものであった。しかし 執権北条貞時が惟康親王の在任を嫌い、正応2年(1289年)には将軍職を解任され、京に送還された。
天皇家との血縁の近さ(親等-女系含み)を優先順位としたり、制限したりすることに反対である。親等の近さとなると、明治皇女聡子内親王、昭和天皇長女の成子内親王が嫁した東久邇宮が有利となり、次いで、香淳皇后の御実家久邇宮、久邇宮系でも明治皇女允子内親王が嫁した朝香宮が賀陽宮より有利となる。 竹田宮は明治皇女昌子内親王が、北白川宮は房子内親王が嫁しているので天皇家と近親であるが、香淳皇后の御実家である久邇宮系の方が近い。皇位継承順でも下位になるので、後回しにされると不公平感がある。
明治皇室典範で世襲親王家は否定されたので、宗家は伏見宮家であるとしても 11 宮家に皇位継承順以外家格差はなく横並びであるから、基本的には対等の資格とすべきである。公平で失礼のない対処となると、特定の家系にかたよらないようすべきと考える。久邇宮系をとるなら、北白川宮系もとるという形にすべき。むろん優先順位とは言わず、秘密会議で内々に決めてしまうことがあってもそれはかまわない。
筆者はそもそも直接復帰案が良いと考えており、優先順位を(皇位継承順で、伏見宮→山階宮→賀陽宮 →久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮)の末流の男系男子(養嗣子含む)に加えて、戦前に華族に列し宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見伯爵家の御子孫を加え、12 宮家の御子孫のすべて。さらに大正 9 年以降昭和 18 年まで次男以下の王で 12 方(皇族の臣籍降下を可能にした明治 40 年皇室典範増補第一条により、情願によって家名を賜り降下し華族に列している方々)の御子孫も復帰の対象とする。本家の子孫が優先、次に分家の御子孫、他家に養子となった方々は優先順位を下げる案、それでは多すぎるなら秘密会議や、天皇・皇后両陛下、成人皇族の推薦によって絞っていく案であったが、養子案は現存宮家当主が望まれる場合など次善策と考えていたが、養子案を支持する政党が多いのでとりまとめは養子案となるものと思われる。
私の提案は 12 宮家の末流の男系男子なら、男系での疎隔、女系での近親関係では優先順位をつけなくてよいと考える。それは以下のように 15 世紀に皇親の範囲が継嗣令原意から変化し、以降、北朝に帰属し、大覚寺統正統の由緒がある木寺宮、初代が亀山法皇より正嫡とするとの遺詔(後宇多上皇が反故にした)の由緒のある常磐井宮[松薗斉 2010]、『椿葉記』で持明院統正嫡との由緒のある伏見宮が、[秦野裕介 2019a]五世王以降でも親王宣下され、特に伏見宮は代々、天皇の猶子となって親王宣下を受ける世襲親王家となった経緯から、15世紀以降は天皇との血縁の疎隔より、しかるべき格別の由緒のある皇統に属しているかが重要になったと考えられるからである。後南朝の皇族に親王宣下はなく差別化されたといえる。

継嗣令皇兄弟条では、天皇の兄弟と四世王(皇玄孫)までが皇親という世数制限があり、王号を称するのは五世王まで、ただし五世王・六世王は皇親と同じく不課の特典あり、七世王は揺が免ぜられ、徐々にフェードアウトしていく制度設計になっているが、男系なら嫡流、庶流、男女いかんにかかわらず皇親になるため、皇親が増加しやすい制度設計になっている。
そのため奈良時代から臣籍降下が常態化した。しかし院政期以後は多くの皇子が宮門跡に入室することとなったので、皇族は増加しなくなり、15 世紀には宮門跡に入室する皇子も払拭したので、応永 26 年に後小松上皇は、北朝に帰属した後二条五世王で大覚寺統正統(木寺宮)世平王の子息 2 名を猶子としたうえ、親王宣下(妙法院新宮明仁法親王と 17 代御室承道法親王)された[稲葉伸道 2019]。
以降、五世王、六世王という末流の皇胤でも上皇や天皇の猶子として、皇子に準じた礼遇を受ける者として、親王宣下が合法化された。
中世律令法は明文改正をいっさいしないが、明法家の「准的」等のテクニックで既成事実を合法にできる法制度なのである[保田卓 1997]。
継嗣令の原意では皇親の範疇から外れる五世王、六世王でも親王宣下が合法化された意義が大きい。
伏見宮第3代貞成王(のち親王宣下、太上天皇尊号宣下後崇光院)は応永26年の親王宣下を日記に記している。『椿葉記』永享 5 年(1433)では、「崇光院・後光嚴院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中惡く成て、御子孫まで不和になり侍れは、前車の覆いかてか愼さるへき、いまは御あらそひあるへしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」[村田正志 1954 初刊、1984]
崇光院流御一統が久しく栄えなければならないとして、天皇家と伏見宮は、不和な時があったが、将来疎隔することなく水魚の如く親睦していくべきという趣旨で始終伏見宮家の若宮を天皇の猶子とする構想を天皇に奏上している。これは伏見宮を世襲親王家にするブランと解釈されており[小川剛生 2009] [田村航 2018]、それが実現したゆえ、天皇家と伏見宮家は 550 年併存したのである。
在俗皇族では、後二条五世王の木寺宮邦康王は公家社会では無名の存在だったにもかかわらず、享徳 4 年(1455)7 月に後崇光院法皇の猶子として親王宣下を受け、同年(康正元年)10 月に 40 歳で元服、同日三品、中務卿に任ぜられた。加冠役は准后前関白一条兼良だった[小倉慈司 2010]。親王の加冠役に決まりはなく大臣・大納言でもよいはずで、厚遇されている。五百年来の大学者が五世王親王宣下を認めているのだから合法というほかない。
なお、第 4 代貞常親王は猶子とされた記録はないが、天皇の実弟であるので、継嗣令皇兄弟条では親王格上げとなる。過去の淳仁や光仁の兄弟姉妹と同じこと。第 5 代二品式部卿邦高親王(後土御門猶子)から第 22 代および第 24 代元帥陸軍大将貞愛親王(孝明猶子)まで天皇の猶子と親王宣下を受けている。
天皇と血縁的には疎隔しても猶子という擬制的親子関係によりステイタスを劣化させることなく親王位を再生産できる制度が世襲親王家であるが、明治4年に閑院宮を伏見宮邦家親王第16王子の載仁親王が継承し、明治14年に第8王子の東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮)が維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家としたので、この時点で伏見宮系は3家が世襲親王家だった。しかし柳原前光が世襲親王家は封建遺制であるとして明治皇室典範で廃止された。また皇族の世数制限も復活する方針だったが、最終的に皇室典範は永世皇族制をとったため、養子することはできなくなったが、血筋が続く限り永続可能な制度となっている。
永世皇族制は、15世紀以降の展開、令制原意の世数制限を実質修正した五世王、六世王の親王宣下、世襲親王家の成立という歴史的経緯をみれば妥当なものである。
内閣官房参与の山崎重孝が、民法も、それから皇室典範も、家という制度を取っていないので、有識者会議では宮家という言葉を使わないのだと言い、有識者会議は女性宮家を議論するはずたったのに、この理由で一蹴しているのは誠実ではありません。宮家とは独立の生計を営む皇族の方に天皇陛下からその呼称を賜る、宮号を賜るというようなものであって、法的な位置付けはないとしている。
しかし、現実にわれわれは、秋篠宮家とか、常陸宮家等、離接単位の宮家がリアルに存在していることは疑う必要はないと思う。
所功氏[2012]が、皇室経済法第6条3項3号で未婚内親王が独立生計を営むことは想定されていることと指摘され、男性皇族については未婚の桂宮宜仁親王が昭和63年に独立生計を営む皇族となった前例があり、未婚内親王なら女性宮家が可能だと主張していた。
ただ、世間に流布している女性宮家とは、プリンスコンソート、配偶者を迎える性格のものであり、これは現行皇室典範では不可能であるので、これを議論するということだった。
令和7年9月30日三笠宮妃百合子さまが昨年11月に亡くなられたことに伴う皇室経済会議(議長・石破茂首相)が宮内庁で開かれ、百合子さまが務めていた三笠宮家の当主は孫の彬子さま(43)が継承。寛仁親王妃信子さま(70)は「三笠宮寛仁親王妃家」の当主として独立することになったと報道されている。
彬子女王殿下の独立生計については皇室経済法第6条3項5号で想定されているものだったということができる。そして未婚の宮家当主は、幕末期の淑子内親王の桂宮相続以来のことなのであるが、この前例がどういう性格をもつものかも、有識者会議は検討していないので、私の見解を述べることとする。
中世・近世の宮家と今日の宮家と違うのは経済基盤である。
15世紀中頃の伏見宮の財務状況は、秦野裕介「伏見宮家領における鮭昆布公事についての基礎考察」研究論集歴史と文化4 2019が詳しい。播磨国衙領260貫、同別納229貫、室町院領160貫(若狭国松永荘、近江国塩津荘、今西荘、日向国大嶋保)以上649貫、後花園践祚の後、足利義教の差配で、室町院領の近江国山前荘(350貫)と熱田社領(450貫)、同別納(100貫)が返還された。以上は中世の王家領そのものである。さらに「干鮭昆布公事」(504~546貫)が新たに加わり、約2000貫(現金換算して約2億円)旧仙洞御所跡地の地子収入等もあったとはいえ、禁裏御料の現金換算7億5千万円と比較すれば2億円はたいしたことはないといえる。しかし伏見宮家は嫡流として仙洞御文庫を相続したため、文庫の膨大な貴重な書物があった。「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]というのは言い過ぎではない。
家領が実効支配できず維持できなければ宮家は消えて行くしかない。中世の宮家では格別のステイタスがあった伏見宮家だけが残ったのである。
荘園公領制は戦国時代に崩壊し、豊臣秀吉が公家の家領と洛中の地子収入を収公して再給付したことにより中世の所領とは全く違うものになった。近世では知行充行権は江戸幕府にあり[山口和夫 2017『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館]、公家の知行は京都近郊に付け替えられ、幕府の麾下にあった。それゆえ近世において山城国では零細な公家領の錯綜した入組支配になっていた。例えば乙訓郡今里村は幕府領60石、禁裏増御料50石、伏見宮家269.495石、大聖寺58石、花山院家105石、西園寺家104石、大炊御門家100石、松木家100石、万里小路家90石、転法輪三条家50石、葉室家50石‥‥15の領主に配分されている[井ケ田良治1978、コトバンク]。幕末期の伏見宮家は京都近郊に表向き1022石、実収四百石程度の近世領主にすぎないといわれる。但し宮家出身法親王の門跡領の経営にも関与していたので、それ以外の収入もあったと考えられる。
そこで幕末の仁孝皇女敏宮淑子内親王の桂宮相続について筆者の見解を述べる。周知のとおり、江戸時代は伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の世襲親王家が4家あった。桂宮とは天正14 年(1586)、豊臣秀吉の猶子だった陽光院誠仁親王の皇子一品式部卿智仁親王を初代として創設され、八条宮と称したが、知行は秀吉より三千石付与された。
近世は、古代のように皇親各々に封禄が給付されたり、現代のように皇族各々に皇族費が給付されるのとは違う。宮家に知行が充行われ家領の継承者が宮家当主である。
近世では、皇位継承予定者以外の皇子は入寺得度して宮門跡(法親王)となるのが通例だが、世襲親王家が空主となった場合は皇子が宮家を相続する。 すべての宮家で実系が途絶し空主となったことがあり、皇子が宮家を継承した例がある。但し、伏見宮は桃園天皇第二皇子の貞行親王が 17 代当主と続いたが、親王が早世されたため、勧修寺門跡寛宝親王の還俗(18 代伏見宮邦頼親王-15 代貞建親王の二男)により実系相続に復帰したので、戦後の臣籍降下というか今日まで皇統の曩祖崇光天皇より700年近く一貫して実系を維持した。
一方、頻繁に空主となり、実系の世襲が長くても三代までだったのが桂宮であり、このため宮号も八条宮、常磐井宮、京極宮、桂宮と変遷している。
それゆえ桂宮は、皇位継承者以外の皇子が、宮門跡とならずに在俗親王となるためのポストのような状況になっていた時期が長い。特に 19 世紀は、宮家を相続した親王の夭折が相次ぎ空主となった時期が長い。
霊元三世孫の京極宮公仁親王は後継者がなく明和7年(1770)薨御。寛政元年(1789)後室で紀州徳川家から嫁した寿子妃が薨ぜられて宮家は空主となった。
文化 7 年(1810)、光格皇子盛仁親王は天皇の命により京極宮の継承者となり、桂宮の宮号を賜る。幕府より山城国葛野郡川勝寺村、下桂村、徳大寺村、夙村、御陵村及び乙訓郡開田村3006 石6 余の領有を認められたが2歳で夭折し、宮家は空主となる。三千石の知行は他の世襲親王家、五摂家と比較しても規模が大きい。
天保7 年(1836 年)仁孝皇子節仁(みさ ひと)親王が桂宮を相続したが 4 歳で夭折、長期にわたって桂宮は空主だった。しかし家領の経営は諸大夫により続いており、皇子が誕生したときのポストとしてとっておかれた。
そうしたところ文久 2 年(1862)10 月桂宮家に仕える諸大夫たちが仁考皇女敏宮淑子内親王の桂宮家相続を願い出、幕府も承認したため、非婚内親王の当主は異例だが、文久 3 年(1863)、淑子内親王は宮家を相続した [久保貴子 2002]。幕府は道具料500石を進上、時に35歳で生涯独身、慶応2年(1866)准后、一品、明治14年(1881)薨御により宮家は断絶した。
敏宮淑子(すみこ)内親王天保11年(1840)閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料300石を得たが、2年後に親王が薨ぜられたため結婚に至らず、朝廷は淑子内親王の御殿を用意できず、住まいを転々としていた。江戸時代の皇女の多くは尼門跡(御宮室)となったが、近世後期になると尼甘門跡は相次いで無住となり、幕末の慶応年間に無住でない御宮室は、霊鑑寺と圓照寺のみであった。幕末は尼門跡が荒廃したようで、入寺することはなかったと考えられる。
敏宮淑子内親王と和宮は同居していた時期があり、文久元年(1861)江戸への出立が近づいた和宮親子内親王は、輪王寺宮里坊を居所としていた姉宮敏宮淑子内親王の処遇を憂い、御殿造営を幕府に命じられるよう天皇に願い出たとされている。よくできた話であり、降嫁を控えて幕府も拒否できなかったのである[久保貴子2002]。
公武一和という文久の政治的事情で、孝明天皇や和宮の姉宮を粗略に扱えない幕府側の事情もあり、宮家当主として非婚内親王を厚遇したものであって、婚入配偶者と結婚することを前提とした今日取りざたされる女性宮家とは性格が異なる。
淑子内親王の宮家相続は、弟宮の節仁親王が前当主であったことからすれば、姉宮の相続は意外なものとはいえない。女二夫に見えずという趣旨では愛仁親王という婚約者がおられた以上、再婚の選択肢もなかったか配偶者を迎えることは考えられていない。だからこそ相続できた。宮家は空主が長期続いていたこともあり、宮家の中継ぎともいえる。表向きは和宮の計らいと諸大夫の願い出があって、姉宮に御殿と知行が付与されたということになる。
以上の特殊な事情から、淑子内親王は、長期間空主だった桂宮当主として遇された。しかし宮家が空主でなければ、非婚内親王最後の女院、後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下により礼成門院)のような遇され方になったのではないか。
在俗非婚内親王の厚遇の前例の孝子内親王は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、手許に留める方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられた[久保貴子2009]。このケースは東福門院(徳川秀忠女)の計らいがあったのではないかとみられている。
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令制でも延暦 12 年詔で二世女王は藤原氏、三世女王は見任大臣、良家(三位以上、それに准じた家と解釈できる)との婚姻が可能となり(内親王の臣下との婚姻は一貫して違法)、皇親内婚原則は緩和されており、内親王が令制の四世女王まで拡大された以上、延暦 12年詔とさほど変わらないという見方は可能である。
皇室婚嫁内則 [森暢平2022 『天皇家の恋愛』中公新書41頁]
第一条‥‥皇室に於いて華族と婚嫁を為すは‥‥
第二条 皇后、皇太子妃、皇太孫妃は左の家を選ぶ九条侯爵家、近衛侯爵家、一条侯爵家、二条侯爵家、鷹司侯爵家、
以上の家に於いてその選に膺るべき者なきときは、左の家を選ぶ。徳川侯爵家、三条侯爵家、家、岩倉侯爵家、島津侯爵家、毛利侯爵家、久我侯爵家、西園寺侯爵家、徳大寺侯爵家、徳大寺侯爵家、花山院侯爵家、大炊御門侯爵家、菊亭侯爵家、広幡侯爵家、醍醐侯爵家、清棲伯爵家。
第三条 親王妃は伯爵以上の家を選ぶ。王妃は子爵以上の家を選ぶ。
おわりに、別件ですが 東京都水道局における対組合活動労務管理等の是正要求(32項目包括的改善策提案)(附録・第Ⅲ部で東京メトロの私鉄総連春闘ワッペン取締り要望)という意見書もほぼ同時に都議会議員あてに郵送してますが、長文で50万字ほどあるためブログ「川西正彦の公共政策研究」にも掲載しているのでご笑覧いただけると幸甚に存じます。この意見書もブログに掲載予定。
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