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2026年6月の9件の記事

2026/06/18

女性皇族身分保持の制度設計について

くどいが、高市総裁あてに自民党のフォームから意見を出しました。

 

一 時限立法の特例法とし、典範本則の改正をしないでほしい。

二 御称号(宮号)をつけないように(女性宮家になってしまう。)。 ○○夫人 ○○内親王(女王)殿下と称されるべき。

三 内親王位を維持する前例は、婚家の正妻。摂家なら政所、北政所と称され、天皇家から離れる。皇室の御所、後院に居邸の前例はない。夫方居住を原則とし、結婚一時金1億5,250万円も支給するべき。 内裏で密通した10世紀の康子内親王も結婚が勅許された後は師輔の坊城邸、盛子内親王は藤原顕光の訪妻婚だが、居所広幡第は、外祖父・源庶明、母・計子を経て内親王が継承し、夫である藤原顕光が相続。

四 納采の儀、 入第の儀といった嫁取婚儀礼は基本的に変更すべきでない。墓所も婚家の廟所が前例である。

五 皇族費は当主が(独立生計を営む親王または相当者)3,050万円。妃1,525万円だが、結婚後3,050万円の支給となると、外形的には女性宮家になってしまうので、一時金1億5,250万円+皇族費1,525万円+増額があってもよい。

六 御相手が男系男子の場合は、独立生計の皇族に復帰して(養子でもよい)宮号を賜り、そこに女性皇族が婚嫁する。○○宮○○親王(王)妃○○内親王(女王)殿下と称されるなら、内親王を迎えるために創設された竹田宮、朝香宮、東久邇宮が前例どおりでそれが望ましい。

2026/06/17

皇族数確保策の法制度化をめぐって焦点となる女性皇族身分保持案の論点

 YouTubeの台本にする予定 

  610日に衆参正副議長は皇族数確保策について「立法府の総意」を高市首相に報告した。現在、法案を作成中、骨子案が衆参正副議長に示されたのち、要綱が各党派に示される手順となっているが、13日の産経によれば、12日首相と維新の藤田文武共同代表が会談し、藤田氏から表に出す前に連立の両党で細かい制度設計まで詰めることを求めたとの報道がある。

 維新では16日に懇談会を開き、会見で藤田氏は①案(女性皇族の婚姻後の身分保持)については、対象や年限を区切った上で例外として、今の問題を解決する。恒久制度にしたくないという発言がありました。

 講師として百地章氏(憲法学者・日本会議政策委員・常任理事)が呼ばれたそうです。百地氏は、62日の読売のインタビュー記事で「今回の対応は、皇室の危機を受けた特別な措置で、両案とも恒久化せず、時限立法の特例法とすることが望ましいだろう。」と述べております。

 自民党のほうはどういう考えなのかわかりませんが、少なくとも与党内で、恒久制度化に反対の動きがあるので注目しています。

 

 「立法府の総意」本文はこうなっています。

「立法府の総意」案正副議長の会見(68日)

 

一 現時点において講ずべき皇族数の確保の具体的方策について

 本文 石井副議長が読み上げ

‥‥「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとする」案については、皇族の歴史に整合的であり、公的活動の継続性の観点などに鑑み、皇室典範を改正することとし、具体的な制度設計に進むべきと考える。なお、現在の内親王殿下、女王殿下が、婚姻後は皇籍を離脱するとの現行制度の下で人生を歩んで来られたことに鑑み、経過措置として、皇族の身分を保持するか否かについて、そのご意向を尊重するなど一定の配慮をすべきである。

 森衆院議長のコメント

「まず第1案が適切な方策だとの認識を示したうえで、皇室典範12条を中心とした皇室典範本則の改正が想定されていることを示した。現在の内親王殿下、女王殿下については本人の意思を尊重すべきことを経過措置として定めるべきことを示した」

 本文は皇室典範12条を改正せよとは言っていませんが、衆院議長は皇室典範12条を中心とした皇室典範本則の改正が想定されていることを示したとしています。

  にもかかわらず皇室典範本則改正でなく、天皇退位の時と同じように特別措置法として実施するということができるのか。藤田氏は、10日の記者会見でも本文はニュートラルとの見解のようです。

 内閣官房皇室典範改正準備室や山崎重孝内閣官房参与はどう考えているのか知りませんが、恒久法にこだわり、藤田氏らの動きと衝突する可能性もあると考えています。

 というのは、前の動画でも説明したとおり、令和31130日の有識者会議事務局が出した調査資料(概要)というのがございまして、ここに、今後も皇族数の大幅な増加は想定しがたいので、時限立法ではだめだと言っていまして、

 

①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とすることについて

立法形式

○ 皇族数が大幅に増加することは想定し難く、一定の年限で終期を設定することは困難ではないか。

○ 内親王・女王の人生に大きな影響を与えることとなる。

⇒ 恒久的な制度とすることが適当ではないか。

 

 太字で恒久的な制度を提案しており、その日の会議で

 以下のように事務局の提案どおりに恒久法という意見(以下引用)が出て、次の回の会議も時限立法という声はなく、事務局のもくろみどおりとなっているわけです。

 

  女性皇族の方が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案について、その法形式は、一人一人の女性皇族の方の身分に関わる話であるので、調査・研究結果のとおり、恒久的な制度として対応することがよいのではないか。具体的な方策を考える際には、皇室制度を構成しているのは血の通った人間であるということを踏まえる必要があるのではないか。

 養子縁組の法形式については難しいが、これまで血縁関係を重視して考えられてきた制度との整合性という意味では、恒久的に養子縁組を可能とするのは難しいのではないか。国民の間での平等感という点も考えると、一定の期間を限るということが考えられるのではないか。

 ただし、具体的な立法形式は国会で判断すべきことであり、そちらに委ねるべきではないかとも思う。会議の取りまとめとしては、附帯決議の範囲内で必要なことをお答えすべきではないか。

 

  前回申し上げたとおり、事務局が、恒久的な制度を強く推した理由、皇族数の増加は望めないというのは納得いくものではないです。2案も実施し養子縁組が何組かわかりませんが、実施するんですから、傍系も含め永世皇族制なので、こんな512分の1のような確率のような珍しいことが、続いておきるということはない。

 

  9回連続で女子が生まれる確率 =  1/512。

  パーセントにすると 約0.1953%(0.2%程度)

 

  令和312/12の最終報告は次のように言います。

   婚姻により皇族の身分を離れた元女性皇族に、その御了解をいただいた上で、様々な皇室の活動を支援していただくということも考えられます。現に、皇族の身分を離れた後も皇室にゆかりの深い役割を続けられている元女性皇族の方もいらっしゃいます。しかしながら、摂政や国事行為の臨時代行や皇室会議の議員という法制度上の役割は、「元皇族」では果たすことはできません。現在の皇室の活動等の担い手を確保していくための一つの方策ではありますが、やはり皇族数の確保のためには、上記①から③のような方策が必要とされるものと考えられます。

   摂政・国事行為臨時代行・皇室会議議員を担う皇族もいなくなる事態を防ぐためということなら恒久制度としなければならない理由はない。

   にもかかわらず恒久制度と事務局が強く押したのは、将来的には男女共系直系長子という、北欧やベネルクス、英国と同様にするのがトレンドだし、女性差別撤廃委員会の勧告に従っていくの流れなのでそうしていきたいという、隠れた真意がすけてみえる。

 つまり、自民党案は養子の子は皇位継承資格を与えるというものですが、有識者会議報告はその点は不確定。「立法府の総意」でもその点は明記していない。

 私は、事務局の隠れた真意があるとみてます。1案を恒久制度にして、夫方居住でなく、当主相当の皇族費がついて御用地に居邸となると外形上は「女性宮家」である。

  実際、令和7217日の全体会議で山崎内閣官房参与は、独立会計の皇族として皇族費がつく。配偶者が民間人であれ御用地に居住し皇宮警察でお守りすることは可能、同伴の公務のための旅費や、仕事が中断することによる費用弁済もするなどと言っておりまして、 悠仁親王殿下の次の世代から、男女共系直系長子とする意図があるように思えます。

  その場合、養子案が実現し、仮に養子縁組で男系男子が出生して皇位継承資格を与えたとしても、順位は繰り下がる。直系男女が優先です、姉がいれば、姉が優先しますから、養子案が実現しても結局永代男系維持できる確率は低くなります。

 養子案が実現してもそうなれば、養子の子は、順位の低い皇位継承者にしてしまえというのが事務局の底意を看取できる。

 したがって、私は当面の間の特例法と以前から主張していたことですし、もちろん藤田氏の方向性でやってもらいたいと思ってますが、自民党が乗ってくるか不透明であるほか、事務局側の官僚と衝突し、抵抗があると思う。高市氏の判断はどうなのだろうか。

 そこが最も関心のある点である。

   それから1案の議論で不可解なのは、これは身分保持案であって公式には女性宮家とは言ってないのに、皇族に残る案、とか皇族残留案と表現される方が多い。いつのまにかたんに身分保持案から、残留案にすりかわっている。これは山崎参与が、独立会計としての皇族費がつくとか、御用地に居住もありと言ったため、御用地に御殿がたつ実質女性宮家のイメージになってしまっているためだと思いますが、しかし有識者会議事務局が、臣下と結婚しても内親王の身分を保持した前例として6例あげているわけですが、これは1130日の調査資料ですね。報告書の本文にも和宮の例は示されてますが、前例は、6例のうち居所について史料がなく結婚期間も短かった勤子内親王と、婚約後徳川家継の夭折で3歳で未亡人となり江戸に下向しなかった八十宮吉子内親王を除く四方は、すべて夫方居住てす。これは2つ前の動画で説明してます。

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 摂家であれば政所、北政所と称され、摂家の正妻という立場になります。夫方居住であっても皇族としての公務は可能であり、遠方在住の場合は、首都での居所を設ける必要があるかもしれませんが、とくに国事行為臨時代行の場合はなおさらですが、前例に沿って考えれば皇室残留のイメージとは違うものを想定していたわけです。

 皇室残留なら、配偶者が皇族になるか定まらない女性宮家になってしまってます。これが問題です。

  そのうえで、私は以下のような意見をXで書きました。

一 御称号(宮号)をつけないようにしてほしい(これは身分保持案であって女性宮家とは説明されてない)。 ○○夫人 ○○内親王(女王)殿下と称されるようにし、宮号はつけない。

 二 内親王位を維持する前例は、婚家の正妻。摂家なら政所、北政所と称され、基本的には天皇家から離れる。皇室の御所、後院、御用地に居邸の前例はない。夫方居住を原則とし、結婚一時金15,250万円も支給するべき(物価高等のため増額してもよい)。 内裏で密通した10世紀の康子内親王も結婚が勅許された後は師輔の坊城邸、盛子内親王は藤原顕光の訪妻婚だが居所広幡第は、外祖父・源庶明、母・計子を経て継承し、夫である藤原顕光が相続した。源庶明の邸宅であった。

三 納采の儀、 入第の儀といった嫁取婚儀礼は基本的に変更すべきでない。墓所も婚家の廟所が前例(表のとおり)。

 四 皇族費は当主が(独立生計を営む親王または相当者)3,050万円。妃1,525万円だが、結婚後3,050万円の支給となると、外形的には女性宮家になってしまうので、一時金15,250万円+毎年の皇族費1,525万円+人件費・物価高の対応として増額があってもよいと思う。

 以上は一般民間人の想定で、御相手が男系男子の場合は、独立生計の皇族に復帰して(養子でもよい)宮号を賜り、そこに女性皇族が婚嫁する。○○宮○○親王(王)妃○○内親王(女王)殿下と称されるなら、内親王を迎えるために創設された竹田宮、朝香宮、東久邇宮が前例どおりでそれが望ましい。

  上記のことは2つ前の動画と重なるのでここではこの程度にとどめますが、ようするに今回は本則をいじらず必要最低限の法制度の設計にしてもらいたいということです。

 なお国民民主党の玉木氏が女性皇族の配偶者を准皇族とする案を出してますが、私は反対である。

 准皇族案というのは救国シンクタンクの倉山満氏が主張していることで、この方は政界への影響力もある方ですが、皇族と臣下の間に、准皇族というのはない、 これは鎌倉時代初期の著名な史論書「慈円」の『愚管抄』では、皇族(皇親)と臣下以外の身分はないとはっきり言っていることである。

 ただ藤原仲麻呂が淳仁天皇から「恵美押勝」の名を賜り、藤原恵美朝臣を許された。 恵美家は私印の公的使用、鋳銭、出挙権などを与えられ、皇族並みの経済・行政的特権を持ち准皇族といわれることがありますが、この目論見は仲麻呂の乱で消滅したのである。

 倉山氏は准皇族の前例として准三宮宣下を主張している(チャンネルくらら等)が、疑問である。

  准三宮(准后)宣下は有力貴族個人の実績による特別待遇、もしくは天皇の近親の皇族等を厚遇する措置、摂家出身等の門跡の名誉的地位で、皇族と臣下の中間を意味するものではない。

 従三宮(准后)の初例は、貞観 13 年(871 年)、初の人臣摂政である藤原良房であり、三宮に準じて年官・封戸・随身兵仗を与えたことである。次いで藤原基経が、摂政在任中に三宮に准じて随身兵杖、年官・年爵(叙位・任官の推薦権、実質売官制度。院、三后だけでなく親王、内親王にも推薦権があった)を与えられたことで、朝廷の正式な制度として定着し、以後、皇族、公家、将軍家、高僧に与えられた。年官・封戸等は早くに実質を失い、もっぱら身分上の優遇を意味する称号に変化していったとウィキペディアが説明している。准后宣下は明治初期までおよそ 170 例ある。

 つまり朝廷実力者個人に対する特権待遇(封戸や叙位任官推薦権、護衛の武官を三后に准じる)から始まった制度である。配偶者が皇族だから与えられるものでは全くないし、例えば藤原良房・基経・兼家・道長・頼通・忠実・九条道家・二条良基・足利義満・一条兼良・足利義政・義昭が准三宮宣下を受けているが、朝廷の実権を掌握した実力者、もしくは業績顕著な公家、武家である。個人一代に与えられる朝廷の待遇で、特別の家系を意味するものではない。あえて例えていうなら、首相より上席の大勲位相当者のような位置づけ。

 皇族や天皇生母を厚遇する根拠として准后宣下するケースも多い。室町戦国時代に多い摂家や将軍家出身等の門跡准后は三宝院満済のように幕府の実力者のケースもあるがほぼ名誉的地位といえる。摂家の正妻も准后宣下されるケースがある。

   繧繝縁は最も格の高い畳縁で、天皇・三宮・上皇が用いるが、准后も繧繝縁を用いることが出来るとの見解もある。

 北朝の盟主准后二条良基により、書札令で准后は親王より上と定めた故実の意義は大きいと思う。ところが秀吉時代には忘れられ親王と同格の裁定、法親王と門跡准后と前関白が同格とされたこともある。

 令制は天皇と太政官二極による統治体制なので、臣下が親王・諸王より上席となるのはよくあることである。

 とにかく准三宮が個人一代の処遇で、家筋に与えられるものではなく、皇族、公家、後宮、門跡と対象も広範で、准皇族との理解は間違いである。

  内親王を妻としたことで准三宮の殊遇を得るわけでは全くない

17 世紀に摂家に皇女・内親王 9 方、将軍家に 1 方が降嫁されているが、内親王の配偶者 10 名のうち 8 名が摂関、藤氏長者だが、准后宣下を受けているのは近衛家熙だけでありたんに内親王の配偶者というだけで特典を受けることはない。

 従一位関白 鷹司信尚(後陽成皇女清子内親王降嫁)

従一位摂政 二条康道(後陽成皇女貞子内親王降嫁)

従一位左大臣 鷹司教平(後水尾皇女文智女王室、離別)

従一位左大臣 近衛尚嗣(後水尾女二宮降嫁)

従一位関白 二条光平(後水尾皇女賀子内親王降嫁)

従一位関白 近衛基熙(後水尾皇女常子内親王降嫁)

従一位関白 九条輔実(後西皇女益子内親王降嫁)

従一位関白准后 近衛家熙(霊元皇女憲子内親王降嫁)母は常子内親王

従一位関白   二条綱平(霊元皇女栄子内親王降嫁)

従一位右大臣 贈太政大臣 徳川家茂(仁孝皇女親子内親王降嫁)

 

 内親王を母とする公卿が必ずしも准后となるわけではない 

  臣下で内親王を母とするケースをピックアップする。

  1011 世紀の為光と公季は太政大臣まで昇進したが准后宣下は受けてない。江戸時代では近衛家熙と家久が准后宣下されているが、二条吉忠は贈准后である。母が内親王なので准后宣下を受けるという慣例はない。

 

藤原為光(父右大臣藤原師輔・母醍醐皇女雅子内親王)   右大臣より太政大臣(関白道隆の推挙)に昇進したが准后ではない。

藤原公季(父右大臣藤原師輔・母醍醐皇女准后一品康子内親王)右大臣より太政大臣に昇進したが准后ではない。

藤原重家(父左大臣藤原顕光・母村上皇女盛子内親王)   左近衛少将、五位蔵人、若くして出家。

藤原(鷹司)教平(父関白鷹司信尚・母後陽成皇女清子内親王)   左大臣

藤原(二条)光平(父摂政二条康道・母後陽成皇女貞子内親王)   関白

藤原(近衛)家熙(父関白近衛基熙・母後水尾皇女常子内親王)   関白、太政大臣、准后

藤原(大炊御門)信名(実父関白近衛基熙・実母後水尾皇女常子内親王)   左近衛中将 大炊御門家に養子に出されるが早世。

藤原(九条)師孝(父か関白九条輔実・母後西皇女益子内親王)   左近衛大将、26 歳で薨去

藤原(近衛)家久(父関白近衛家熙・母霊元皇女憲子内親王)   関白、太政大臣、准后

藤原(二条)吉忠(父関白二条綱平・母霊元皇女栄子内親王)   関白 贈准后

 

 

2026/06/14

女性皇族身分維持案の制度設計に求めること

簡潔に言えば以下のとおりです。

  1案を恒久法とするのは将来女性皇族に継承権を与え、直系長子にする前提になるため、皇室典範本則改正でなく時限立法とすべき。

 御称号(宮号)をつけないようにすること(これは身分保持だけで女性宮家とは説明されてないから)。

 御用地に居邸でなく、夫方居住を原則とし、結婚一時金15,250万円も支給するべき。

 皇族費は当主(独立生計を営む親王または相当者)3,050万円。妃1,525万円だが、結婚後3,050万円の支給となると、外形的には女性宮家になってしまうので、15,250万円の支給+皇族費1,525万円+内親王の場合は道具料として増額でよいと思う。

 御相手が男系男子の場合は、独立生計の皇族に復帰して(それは直接復帰か養子でもよい)宮号を賜り、そこに女性皇族が婚嫁する。○○宮○○親王(王)妃○○内親王(女王)殿下と称されるなら、前例どおりなのでそうするべき。 内親王を迎えるために創設された竹田宮、朝香宮、東久邇宮が前例になる。

ニューイングランドの早婚多産多死社会について

AIGROK)を加工して書きました。

 

米国植民地時代の著名な教役者てコットン・マザー(Cotton Mather)の初婚の妻は、アビゲイル・フィリップス(Abigail Phillips)です。

早婚多産多死社会での典型例として取り上げたいと思います。15歳から32歳まで16年間で8人出産してます。

 

基本情報生没年: 1670619日(マサチューセッツ植民地チャールズタウン生まれ) - 17021128日没(ボストン、32歳)。

結婚: 168654日、ボストンでコットン・マザー(当時23歳)と結婚。 アビゲイルは当時15歳(誕生日まで1ヶ月足らず)。

 

出典:: 父親はジョン・フィリップス大佐(Colonel John Phillips of Charlestown)。 敬虔で裕福な家庭の娘で、マザー家のような名門ピューリタン家庭にふさわしい背景を持っていました。

結婚生活と子供たちマザーは日記などで初婚を幸せなものとして記述しており、アビゲイルを敬虔で感情的に安定した女性として高く評価していました。 結婚はマザーにとって経済的な安定ももたらしました。

子供: 8人(または9人とする資料もあり)。

: 最初の子供(娘アビゲイル)は1687年生まれですが、数ヶ月で死亡。 以降も喪失が続きました。

アビゲイル自身も流産を経験し、1702年の天然痘(smallpox)流行で死亡しました(一部資料ではconsumption=結核とするものも)。

マザーの日記では、アビゲイルを「my dear consort(愛する伴侶)」と繰り返し呼び、夫婦仲は非常に良好だったと記されています。結婚当日には「神が結婚生活に豊かな祝福を準備してくださった」と心を溶かされるような記述があり、日常では夕方の祈り、聖書朗読、賛美歌の歌唱を共にする穏やかな家庭生活を送っていたようです。



hubhistory.com
歴史家や現代の研究(例: Helen Gelinasの講演「Cotton Mather and the Women He Loved」)では、マザーを家庭では愛情深い夫・父として再評価する文脈でアビゲイルが触れられます。伝統的なイメージ(厳格なピューリタンとして妻を支配的だったというもの)とは異なり、実際は互いに敬愛し、知的・宗教的な対話を楽しむ関係だったと指摘されます。マザーは彼女の死後も悲しみを深く記し、彼女の死後に再婚するまで独身生活の苦しみを日記に綴っています。



hubhistory.com
他の伝記的記述でも「good and loving wife(善良で愛情深い妻)」とされ、マザーの牧師としてのキャリアを支えた存在として肯定的です。批判的な個人論評(例: 彼女の性格や行動に対する否定的意見)は見つかりませんでした。



ebsco.com

 

植民地時代のニューイングランドは早婚多産多死社会でした。未婚率も低かった。

 

早婚(Early Marriage)女性の初婚年齢の平均は約20歳(イングランドでは25-26歳)。男性も20代半ば。

ほぼ全員が結婚し、未婚率が低かった(18世紀初頭のニューイングランドで女性93%、男性98%程度)。

南部(例: メリーランド)よりは遅めだが、ヨーロッパに比べて大幅に早かった。これにより出産可能期間が長くなり、多産を支えた。

 

nerd.wwnorton.com +1

 

多産(High Fertility)結婚女性1人あたりの平均出生数は7-8人(生涯)。家族あたり生存児5-6人程度が一般的。

出生率は粗出生率で40-50/1000人と非常に高く、人口急増の主因。ベンジャミン・フランクリンやマルサスも指摘した。

ニューイングランド特有の「多産」文化で、大家族が標準。土地の豊富さと農業生活がこれを支えた。

 

ideas.repec.org +1

 

多死(High Mortality——ただし相対的に健康的乳幼児死亡率:1歳未満で10-30%(町により115-300/1000出生)。子供の半数近くが成人まで生き残らない場合も。

成人寿命:17世紀後半以降、ニューイングランドは「世界で最も健康的な地域の一つ」とされ、男性65-70歳、女性60歳超の期待寿命(イングランドより15-20年長い)。冷涼な気候、低密度、きれいな水が理由。

初期(到着直後や疫病時)は死亡率が高く(例: プリマス初冬で半数死亡、ボストンの天然痘流行で10%超死亡)、出産・感染症(ジフテリアなど)で特に子供・母親が犠牲になった。

 

ここから私の意見ですが

植民地では、結婚して家族で力を合わせて生活していくもので、未婚率も低く、ライフサイクル・サーバントの西欧とは違った環境にあったといえます。

女性が早婚・多産を受けてれているのは、「産めよ殖やせよ」(または「産めよ、増えよ、地に満ちよ」)は、旧約聖書・創世記128節に由来する言葉で、キリスト教圏の家族観や出生を重視する文化的背景が考えられます。

 

西洋文明的脈絡では少子化の原因は世俗化にあると考えます。

 

アビゲイル・フィリップスは、女性の役割、妻として母としての役割に徹した生き方です。現代では婦人道徳も含めそうした生き方が否定されていますから、少子化は進んでいくしかないと考えまする。フェミニストは彼女がほぼ2年おきに出産を続けてきたことで、体力を消耗したのではないかとの見解もありますが、それでも幸福だったと受け容れる価値観が現代では喪失しています。

2026/06/11

双系古代日本論の批判

 最初に古代日本双系を言い出したのは、吉田孝(故人)で古代日本には単系出自(クラン・リ二ージ)は存在していなかった。律令制以前の氏は政治組織といいます。
 しかし人類学では単系出自理論が核心的に重要で、古代には通用しないとかそんなばかなことはない。
 義江明子は氏は単なる血縁組織ではなく、首長層(支配層)による政治的族組織と言いますが、これも吉田説に近い。
 双系古代日本論を批判した重要な論者として清水昭俊国立民族学博物館名誉教授がいます。(「ウヂの親族構造」大林太良編『日本の古代』11中央公論社1987)

 

 専門はポリネシアですが、人類学の大御所であり、厳密な定義で定評があります。
 義江明子に限らず、古代史家全般に言えますが『双系』とか『両属』概念を安易に用いているのではないでしょうか。ここでは大雑把な双系説批判を述べます。

 

 東南アジアは双系とかいいますが地域的特徴もありわかりにくい。グッドイナッフは非単系出自集団とか選択的単系出自集団という述語を提案したが、 清水はグッドイナッフやフォックスの共系リネージ概念を批判し、「『双系』諸形式の位置づけは単系出自を中軸とした単系の補集合」と定義してます。
 ポリネシアにみられる選択的単系、(ambilineal)の出自集団は父系に傾斜しており、それゆえ父系的な選択的単系形式に近い。[清 水1985「出自論の前線」『社会人類学年報』11]。
 つまりポリネシアは双系といわれるが、日本と同じく準父系と言ってもよい。日本は中国とポリネシアの中間です。
 清水はいわゆる『双系』とか共系、両系とは父系と母系の中間にある概念で、非限定的共系出自を4つに分類し、双系という曖昧模糊とした述語を拒否しています。

 

一  父系中軸の準父系的複系

 

二  父系中軸の両系的複系

 

三  母系中軸の両系的複系

 

四  母系中軸の準母系的複系

 

 一から四がすべて「双系」といわれるものですが、父系に傾斜してるのか母系なのか、傾斜の度合まできちんと説明しなさいというのが、清水の学問的立場です。

 

 つまり律令制以前の日本が双系と言う場合、仮にそれを認めるとしても一から四のどれなのか、それによって読む人の印象はかなり違ったものになります。

 

 また高群逸枝・洞富雄らの「母系説」を批判者、歴史人類学の江守五夫や民族学の大林太良氏らは父系説を唱えています。

 

 古事記などの父祖称呼法(父方中心の系譜表記)や親族構造から、古代日本(特に古墳時代以降)の出自が父系的だったと解釈します。 律令制は中国風の父系原則を導入・強化しましたが、江守氏はそれ以前の段階(古墳時代やそれ以前の基層)でも父系血縁集団(氏族的な同族集団)が存在し、父系出自が基本だったと見なしています。例えば、ツングース系ハラ(父系血縁集団)との比較を通じて、日本古代の同族も父系的で、非血縁者(養子など)を包摂しつつ父系原理で運営されていたと論じます(この部分はAIによる)。
 厳密な意味で単系父系出自が徹底しているのはたぶん韓国の門中ではないか。日本のような婿養子や非血縁養子の継承はしないようです。
 中国は、宗法に反するが入贅による女系継承もあり、準父系です。これは戦中、戦前の民族学者の北支や中支の調査でわかってます。
 ギリシャ、ローマ、14世紀以降西欧の父系姓というように、高度な文明が発達した地域は、原則として父系出自(厳密には準父系)形式であり、伝統的に父祖からの系譜や由緒が重視される社会である。ローマのアグナチオ、中国の宗が父系出自の親族のことである。それが東西文明の基盤であった。
 14世紀以降の日本の嫡子単独相続の「家」は準父系である。入婿による女系継承や非血縁養子があるため生理的に男系を貫徹し血筋の中切れがなく何百年も家系が続くことはまれにしかないが、96%が夫の氏を選択しており、祖先とのつながりは父系を意識している。「世代仏」という清水昭俊が出雲地方のフィールドワークで発見した概念があって、歴代家長と主婦の位牌が蓄積していくのが標準的な日本の「家」。

2026/06/10

皇室典範12条改正なら左翼、共産主義者の大勝利 特例法にすべき

皇室典範12条改正なら左翼、共産主義者の大勝利

 

 私は「立法府の総意」に懸念を持つ。

 皇室典範12条とは皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れるというものだが、明治皇室典範44条を継受したものであり、義解によれば「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨のものであって、正当な理由がある。

 夫の身分に従うとは、夫と尊卑を同じくした同一の身分、夫が公爵なら妻も同じという意味であり、妻は夫の家に入る。生家から離れ、婚家の成員となる。婚入者の婚家帰属性という日本の家族慣行に合致するもので、左翼はこれを家父長制、ジェンダー差別として排撃したいのである。

 共産党は男系男子が男女平等に反すると言っているが、皇室典範12条も同じことである。

 これさえ潰せば、天皇、親王、王が男子、皇后、親王妃、王妃が女子という(庶民の家の家長と主婦に当たる)役割分担も流動化し、女性天皇や直系長子継承の展望も開けてくるからでもある。

 1案は、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員の担い手となる皇族数確保のための当面の措置として実施し、皇室典範本則の改正により左翼陣営を喜ばすものであってほしくないというのが、私の意見である。

 森衆院議長が皇室典範本則の改正を想定と解説しているのがとても心配で、政府には養子案も含めて時限立法の特例法として実施してもらいたい。

2026/06/08

女性皇族身分保持案の制度設計の要望

 内閣、国会議員へ                                                                                           

  

女性皇族身分維持案の制度設計の要望

  

川西正彦 (元都水道局職員66歳・都立園芸高校園芸科卒) 

 

 

  取るに足りない者が厚かましくも手紙を送りつける無礼をお許しください。

 そもそも1案は反対でしたが。議長とりまとめ案により実施されることは間違いないので、具体的な運用について前例に沿ったあり方として、新奇な制度にしないよう要望します。

 

 議長とりまとめ案が大筋のもので、皇室典範12条、9条改正を明記しないものであれば、百地章氏が読売インタビューで「両案」とも恒久化しないのが良いと発言したので、そうしてほしいです。

 「両案」とも時限立法の特例法を強く望む。皇室典範12条は旧皇室典範44条を継受したもので改変は重大な制度変更であり、維持を望むからです。

 1案の夫と子の身分については明記を見送られ、必要に応じて「適時適切な措置」を取るとされた場合、結婚の御相手が男系男子の場合は独立生計の皇族として、宮号がついて、そこに女性皇族が婚嫁すれば、従前と変わらない。

 野田元首相が昨年妥協案として提案した皇室会議でその都度判断でも悪くないとも思う。男系男子でない民間人と結婚する場合、皇族とすることに全会一致は難しく、女系の皇族が誕生するおそれは低いと考えるからです。

 養子制度の恒久化が自民党案だが、1案との見合いでそれにこだわるのは得策でなく、とにかくすばやく養子縁組を実現することが肝要だと思う。

 

一 御称号(宮号)-反対

 

 第1案は実は女性宮家だったいうことでは納得できない。

 結婚の御相手が男系男子でない民間人でない場合は、御称号(宮号)なしとすべき。○○夫人○○内親王(女王)殿下と称されるべき。

 和宮は誕生時に賜った幼名で、御称号とは違う。静寛院宮というのは将軍正室落飾後の院号で、朝廷の称号ではないです。

 帝室制度資料の166167頁「柳原伯皇室備考」というのがある。旧皇室典範では44条で「皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍内親王女王ノ称ヲ有セシムルコトアルヘシ」ですから、内親王と女王の称は特旨により可能という規定になっているが。柳原前光の私案は臣籍降嫁でも皇族の身位は維持するものであったので、1案と類似している。

 

 皇族女子ノ臣籍二嫁シタル者ハ、各其夫ノ分限二従フ、但シ仍ホ内親王、女王ノ號ヲ有ス。其ノ所生ノ子は皇族ノ限二在ラズ。新ニ此條ヲ加エタリ。臣籍二嫁スル者モ仍ホ貴號ヲ有スルは本邦ノ慣例二ナル上、現二英国今帝第六女「プリンセス(内親王)・ルイス(名)・マルショニ―(公爵)・スローン(名)」ノ實例アリ、之二拠リ試シ二、書式ヲ掲グ、左ノ如シ

 

公爵 徳川夫人 親子内親王

伯爵 井伊夫人 宜子女王 (父有栖川宮幟仁親王・夫井伊直憲) 

 

 上記のとおり柳原私案に宮号はないので、今回もそのとおりにしてもらいたい。

Iiyoshiko

 写真は宜子女王(明治元年に井伊家に婚嫁)


二 女性皇族が男系男子と結婚するケース

 

 内親王の御相手の候補として週刊誌で旧宮家の御子孫を取り上げる記事がしばしばあり、推測の域を出ないが、ありうるので、他の民間人とは区別すべきである。

 御相手が男系男子の場合は、独立生計の皇族に復帰して(それは直接復帰か養子でもよい)宮号を賜り、そこに女性皇族が婚嫁する。○○宮○○親王(王)妃○○内親王(女王)殿下と称されるなら、前例どおりなのでそうするべき。

 内親王を迎えるために創設された竹田宮、朝香宮、東久邇宮が前例になる。

  つまり1案と2案の有機的結合のような形にするべき。

 

 前例

 

明治天皇第6皇女 昌子内親王 竹田宮恒久王妃 明治41年

 

明治天皇第8皇女 允子(のぶこ)内親王 朝香宮鳩彦王妃 明治43

 

明治天皇第9皇女 聡子(としこ)内親王 東久邇宮稔彦王妃  大正5

 

 

 

 

三 皇族費

 

 当主(独立生計を営む親王または相当者)3,050万円。妃1,525万円だが、結婚後3,050万円の支給となると、外形的には「女性宮家」になってしまう懸念がある。

 夫方に婚嫁するのであるから夫方居住の場合は、結婚一時金は、15,250万円の支給+皇族費1,525万円でよいと思う。ただ内親王の場合はもっと増額が必要かもしれない。

 

 

 前例

 室町戦国時代皇女はすべて非婚。比丘尼御所(尼門跡)は寺領経営のトップであり、相応の収入があった。

 江戸時代も6割は尼門跡だが結婚のケースも少なくない。久保貴子によれば、17世紀の既婚皇女について、皇女御料(化粧料)はなかったと言う。但し源和子(東福門院)所生の二皇女(女二宮、賀子内親王)が、婚姻に際して幕府から3000石を進上されているのは将軍血縁者(徳川秀忠の孫娘) に対する特別の処遇である。

 19世紀は婚約した内親王二方に化粧料300石が与えられている。

 

 知行のなかった後水尾皇女としては文智女王。鷹司家に降嫁したが離縁し、大通と号し円照寺を創設した。東福門院が寺領寄進を幕府に依頼し、家綱から200石の朱印状が発せられたのである。緋宮のケースは法皇崩御後に法皇の旧御料から300石が贈られ、それが林丘寺の寺領になった。

 常子内親王(品宮)については、 独身時代から、父後水尾法皇より院参町に品宮御殿が与えられていたが、独自の知行はなかったと考えられる。万治4年(1661)大火の後、寛文4年に中筋の法皇別邸の隣に御殿が建てられ、なぜかその半年後に近衛基熙と結婚している[久保貴子2008]。 

 品宮は岩倉の山を法皇より賜っていた。近衛家本邸の寝殿の修復、茶室と物見の格子の構築は法皇の出費であり、近衛邸への御幸は105回に及ぶ[瀬川淑子(2001]。岩倉の山と地続きの幡枝の山荘も近衛家に下賜されている。

 また常子内親王は、紫竹の別邸を購入するため、法皇に無心し、法皇は銀子500枚を支出している[久保貴子2008]

 さらに常子内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村300石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行3000石の一部ということであり、幕府が認め所司代より報知されたもので、これは内親王薨御により幕府に返却されたとみられている[瀬川淑子(2001]。近世の皇室、宮家、門跡、公家の家領については、中世とは違って徳川幕府が知行充行権を掌握していたので、公家は幕府の麾下にある近世領主であった。

 延宝5年に常子内親王は門跡宮方の深草の知行の監督、後水尾院より宰領を命じられていた。母の新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた[瀬川淑子200]

 門跡領も広義には皇室領なので、今日でいう皇族費に相当する収入といえなくもない。

 

四 居住形態

 

 1案の江戸時代の臣下に降嫁した事例、世襲親王家に嫁した前例も含め、全て夫方居住である。外祖父が徳川秀忠の女二宮は、近衛家本邸に奥方御殿を建てられ、同じく賀子内親王は二条家の東半分が内親王の御殿だった。

 山崎内閣官房参与は、1案について御用地に居住し、皇宮警察がお守りすることも可能と昨年の国会協議で発言しているので前例とは違う。原則は慣例どおり、夫方居住であるべき。

 とはいっても警備しやすく結婚相手が財産家とは限らないとの理由で、御用地居邸とされる懸念がある。

 

 婚儀

 

 納采の儀、入第の儀等、嫁取(嫁娶、嫁入)婚儀礼の形式を変えないこと。

 なお、公家は少なくとも戦国時代以降は嫁取婚の婚儀がなされている。江戸時代の憲子内親王の婚儀について近衛基煕日記に、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している。明らかに嫁迎え、嫁入婚の儀礼である。

 

六 墓所

 

 江戸時代の9例(臣下へ降嫁)、3例(世襲親王家に嫁す)はすべて、嫁いだ家の菩提寺が墓所である。例えば近衛家に嫁いだ常子内親王や憲子内親王は、菩提寺の大徳寺、先月逝去された近衞忠煇氏の墓所も大徳寺である。賀子内親王は二条家の墓所二尊院、二尊院には非公開だが、賀子内親王の御化粧間が二尊院の茶室として移築されている。

 御寺(皇室の菩提寺)般舟院や泉涌寺を墓所としているのは非婚内親王で、家継と婚約したが、家継夭折により3歳で未亡人となった八十宮吉子内親王は、徳川家の寡婦の処遇のためか、徳川家所縁の知恩院を墓所とする。

 この趣旨からすれば、婚家となる夫方の墓所であるべき。

 女性皇族は豊島岡墓地で、夫や子とは別墓になるのか。夫や子も豊島岡墓地となると事実上女性宮家になってしまう。

 

(参考・引用)

菅原正子2002「中世後期-天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』小学館

久保貴子 2009 「近世天皇家の女性たち 」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2

久保貴子2008『後水尾天皇』ミネルヴァ書房

瀬川淑子2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』

北野隆1979「近世公家住宅における数寄屋風書院について : その 2 摂家住宅について」日本建築学会論文報告集 275

藤田勝也2009「近世二條家の屋敷について」日本建築学会計画系論文集 74 (636

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2026/06/07

皇族数確保、女性皇族身分維持案の制度運用についての意見

(二千字以内 首相官邸に出したもの)

具体的な運用について前例に沿ったあり方として、新奇な制度にしないよう要望する。

一 御称号(宮号)
 第1案は実は女性宮家だったいうことでは納得できない。
 結婚の御相手が男系男子でない民間人でない場合は宮号なしとすべき。○○夫人○○内親王(女王)殿下と称されるべき。
 和宮は誕生時に賜った幼名で、御称号ではない。静寛院宮というのは将軍正室未亡人の院号で、朝廷の称号ではない。


 御相手が男系男子の場合は、独立生計の皇族に復帰して(養子でもよい)宮号を賜り、そこに女性皇族が婚嫁する。○○宮○○親王(王)妃○○内親王(女王)殿下と称されるなら、前例どおりなのでそうするべき。

二 皇族費
 当主(独立生計を営む親王または相当者)3,050万円。妃15,25万円だが、結婚後3,050万円の支給となると、外形的には「女性宮家」であり将来的に懸念がある。
 夫方に婚嫁するのであるから夫方居住の場合は、結婚一時金は、1億5,250万円の支給+皇族費15,25万円が妥当。
 前例
 室町戦国時代皇女はすべて非婚。比丘尼御所(尼門跡)は寺領経営のトップであり、相応の収入があった。
 江戸時代も6割は尼門跡だが結婚のケースも少なくない。久保貴子によれば、17世紀の既婚皇女について、皇女御料(化粧料)はなかったと言う。但し源和子(東福門院)所生の二皇女(女二宮、賀子内親王)が、婚姻に際して幕府から3000石を進上されているのは将軍血縁者(徳川秀忠の孫娘) に対する特別の処遇である。
 19世紀は婚約した内親王二方に化粧料300石が与えられている。
 知行のなかった後水尾皇女としては文智女王。鷹司家に降嫁したが離縁し、大通と号し円照寺を創設した。東福門院が寺領寄進を幕府に依頼し、家綱から200石の朱印状が発せられたのである。
 常子内親王(品宮)については、 独身時代から、父後水尾法皇より院参町に品宮御殿が与えられていたが、独自の知行はなかったと考えられる。万治4年(1661)大火の後、寛文4年に中筋の法皇別邸の隣に御殿が建てられ、なぜかその半年後に近衛基熙と結婚している[久保貴子2008]。 
 品宮は岩倉の山を法皇より賜っていた。近衛家本邸の寝殿の修復、茶室と物見の格子の構築は法皇の出費であり、近衛邸への御幸は105回に及ぶ[瀬川淑子(2001)]。岩倉の山と地続きの幡枝の山荘も近衛家に下賜されている。
 また常子内親王は、紫竹の別邸を購入するため、法皇に無心し、法皇は銀子500枚を支出している[久保貴子2008]。
 さらに常子内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村300石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行3000石の一部ということであり、幕府が認め所司代より報知されたもので、これは内親王薨御により幕府に返却された[瀬川淑子(2001)]。中世とは違って徳川幕府が知行充行権を掌握していたので、公家は幕府の麾下にある近世領主であった。
 延宝5年に常子内親王は門跡宮方の深草の知行の監督、後水尾院より宰領を命じられていた。母の新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた[瀬川淑子200)]。
 門跡領も広義には皇室領なので、皇族費に相当する前例といえなくもない。

三 居住形態
 1案の江戸時代の臣下に降嫁した事例、世襲親王家に嫁した前例も含め、全て夫方居住である。外祖父が徳川秀忠の女二宮は、近衛家本邸に奥方御殿を建てられ、同じく賀子内親王は二条家の東半分が内親王の御殿だった。
 山崎内閣官房参与は、1案について御用地に居住し、皇宮警察がお守りすることも可能と昨年の国会協議で発言しているので前例とは違う。原則は慣例どおり、夫方居住であるべき。
 
三 婚儀
 納采の儀、入第の儀等、嫁取(嫁娶、嫁入)婚儀礼の形式を変えないこと。
 なお、公家は少なくとも戦国時代以降は嫁取婚の婚儀がなされている。江戸時代の憲子内親王の婚儀について近衛基煕日記等に嫁迎え、嫁入婚の儀礼の記録がある。

四 墓所
 江戸時代の9例(臣下へ降嫁)、3例(世襲親王家に嫁す)はすべて、嫁いだ家の菩提寺が墓所である。例えば近衛家に嫁いだ常子内親王やむ憲子内親王は、菩提寺の大徳寺、先月逝去された近衞忠煇氏の墓所も大徳寺である。
 この趣旨からすれば、婚家となる夫方の墓所であるべき。
 女性皇族は豊島岡墓地で、夫や子とは別墓になるのか。夫や子も豊島岡墓地となると事実上女性宮家になってしまう。
(主要参考)
久保貴子 2009 「近世天皇家の女性たち」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2
久保貴子2008『後水尾天皇』ミネルヴァ書房
瀬川淑子2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』

 

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女性皇族身分維持案の制度設計の問題点

 私は反対だったが、議長とりまとめにより実施されるので、具体的な運用について前例に沿ったあり方として、新奇な制度にしないよう注文をつけたい。

一 御称号(宮号)
 
 第1案は実は女性宮家だったいうことでは納得できない。
 結婚の御相手が男系男子でない民間人でない場合は宮号なしとすべき。○○夫人○○内親王(女王)殿下と称されるべき。
 和宮は誕生時に賜った幼名で、御称号ではない。静寛院宮というのは将軍正室未亡人の院号で、朝廷の称号ではない。


 御相手が男系男子の場合は、独立生計の皇族に復帰して(養子でもよい)宮号を賜り、そこに女性皇族が婚嫁する。○○宮○○親王(王)妃○○内親王(女王)殿下と称されるなら、前例どおりなのでそうするべき。

二 皇族費
 当主(独立生計を営む親王または相当者)3,050万円。妃15,25万円だが、結婚後3,050万円の支給となると、外形的には「女性宮家」であり将来的に懸念がある。
 夫方に婚嫁するのであるから夫方居住の場合は、結婚一時金は、1億5,250万円の支給+皇族費15,25万円を想定している。ただ内親王の場合はもっと増額が必要かもしれない。


 前例
 室町戦国時代皇女はすべて非婚。比丘尼御所(尼門跡)は寺領経営のトップであり、相応の収入があった。
 江戸時代も6割は尼門跡だが結婚のケースも少なくない。久保貴子によれば、17世紀の既婚皇女について、皇女御料(化粧料)はなかったと言う。但し源和子(東福門院)所生の二皇女(女二宮、賀子内親王)が、婚姻に際して幕府から3000石を進上されているのは将軍血縁者(徳川秀忠の孫娘) に対する特別の処遇である。
 19世紀は婚約した内親王二方に化粧料300石が与えられている。
 
 知行のなかった後水尾皇女としては文智女王。鷹司家に降嫁したが離縁し、大通と号し円照寺を創設した。東福門院が寺領寄進を幕府に依頼し、家綱から200石の朱印状が発せられたのである。緋宮のケースは法皇崩御後に法皇の旧御料から300石が贈られ、それが林丘寺の寺領になった。
 常子内親王(品宮)については、 独身時代から、父後水尾法皇より院参町に品宮御殿が与えられていたが、独自の知行はなかったと考えられる。万治4年(1661)大火の後、寛文4年に中筋の法皇別邸の隣に御殿が建てられ、なぜかその半年後に近衛基熙と結婚している[久保貴子2008]。 
 品宮は岩倉の山を法皇より賜っていた。近衛家本邸の寝殿の修復、茶室と物見の格子の構築は法皇の出費であり、近衛邸への御幸は105回に及ぶ[瀬川淑子(2001)]。岩倉の山と地続きの幡枝の山荘も近衛家に下賜されている。
 また常子内親王は、紫竹の別邸を購入するため、法皇に無心し、法皇は銀子500枚を支出している[久保貴子2008]。
 さらに常子内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村300石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行3000石の一部ということであり、幕府が認め所司代より報知されたもので、これは内親王薨御により幕府に返却されたとみられている[瀬川淑子(2001)]。近世の皇室、宮家、門跡、公家の家領については、中世とは違って徳川幕府が知行充行権を掌握していたので、公家は幕府の麾下にある近世領主であった。
 延宝5年に常子内親王は門跡宮方の深草の知行の監督、後水尾院より宰領を命じられていた。母の新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた[瀬川淑子200)]。
 門跡領も広義には皇室領なので、今日でいう皇族費に相当する収入といえなくもない。

三 居住形態
 
 1案の江戸時代の臣下に降嫁した事例、世襲親王家に嫁した前例も含め、全て夫方居住である。外祖父が徳川秀忠の女二宮は、近衛家本邸に奥方御殿を建てられ、同じく賀子内親王は二条家の東半分が内親王の御殿だった。
 山崎内閣官房参与は、1案について御用地に居住し、皇宮警察がお守りすることも可能と昨年の国会協議で発言しているので前例とは違う。原則は慣例どおり、夫方居住であるべき。
 とはいっても警備しやすい。結婚相手が財産家とは限らないとの理由で、御用地居邸とされる懸念がある。
三 婚儀
 納采の儀、入第の儀等、嫁取(嫁娶、嫁入)婚儀礼の形式を変えないこと。
 なお、公家は少なくとも戦国時代以降は嫁取婚の婚儀がなされている。江戸時代の憲子内親王の婚儀について近衛基煕日記に、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している。明らかに嫁迎え、嫁入婚の儀礼である。

四 墓所
 江戸時代の9例(臣下へ降嫁)、3例(世襲親王家に嫁す)はすべて、嫁いだ家の菩提寺が墓所である。例えば近衛家に嫁いだ常子内親王やむ憲子内親王は、菩提寺の大徳寺、先月逝去された近衞忠煇氏の墓所も大徳寺である。賀子内親王は二条家の墓所二尊院、二尊院には非公開だが、賀子内親王の御化粧間が二尊院の茶室として移築されている。
 御寺(皇室の菩提寺)般舟院や泉涌寺を墓所としているのは非婚内親王で、家継と婚約したが、家継夭折で3歳で未亡人となった八十宮吉子内親王は、徳川家の寡婦の処遇のためか、徳川家所縁の知恩院を墓所とする。
 この趣旨からすれば、婚家となる夫方の墓所であるべき。
 女性皇族は豊島岡墓地で、夫や子とは別墓になるのか。夫や子も豊島岡墓地となると事実上女性宮家になってしまう。

(参考・引用)
菅原正子2002「中世後期-天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』小学館
久保貴子 2009 「近世天皇家の女性たち 」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2
久保貴子2008『後水尾天皇』ミネルヴァ書房
瀬川淑子2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』
北野隆1979「近世公家住宅における数寄屋風書院について : その 2 摂家住宅について」日本建築学会論文報告集 275
藤田勝也2009「近世二條家の屋敷について」日本建築学会計画系論文集 74 (636)

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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)