カテゴリー「書籍・雑誌」の9件の記事

2008/05/23

感想 山田昌弘・白川桃子共著「『婚活』時代」その1

 日テレ記者が紹介していたディスカバー携書の本、買いましたよ。
 美容院で髪をセットし、GAPでデート用のカジュアル一式を店員に頼んでそろえておくこともしないようじゃ結婚は無理とか書かれてましたが、なるほど。私には絶対に無理、美容院なんて恥ずかしいし、デートという言葉自体が桃色遊戯を連想し恥ずかしくて店員にすら発せられないたちだから。結局、生涯未婚者です。
 そもそもGAPを知ったのが流通業界研究サイトの鈴木敏仁のサイトです。 http://retailweb.net/index.html 「ウォルマート絶対支持論」をこのブログで書くために参考に見ていたわけですが、基本的にアメリカの非食品リテーラーと外食産業は組合不在で反労働組合的ですから、業界には好意的なわけですよ。
 アメリカ最大の衣料品小売ということで、社会勉強のために上野丸井の地下にあるGAPをのぞいてみましたが、アメリカが嫌いなわけではありませんが、買いたいものはなかった。日常衣料品は西友あたりで買うので、わざわざGAPで買うという発想はありません。もうその時点で結婚は無理ということですか。

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2008/05/06

正平一統の記述に関する訂正

 五月病のような無気力状態になってますが、2005年10月10日ブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_f888.htmlにおける次の直仁親王の廃位に言及した記述につき廃位されていなかったことが小川剛生氏の著作でわかったので、廃太子の記述をカットして訂正したいと思います。(すでに訂正しているがその理由を述べる)

  正平の一統(正平一統に訂正)とよばれる南朝による政権の接収により状況は大きく変化した。崇光天皇(当時18歳)は大嘗祭未遂のまま廃位、神器も南朝に回収され、東宮直仁親王(当時16歳)も廃位とされた。正平の一統(正平一統に訂正)は直義が毒殺された時点で破綻し、正平七年(1352)閏二月北畠顕能率いる南軍が京都に突入、警戒を怠っていた足利義詮が七条大路(七条大宮に訂正)の市街戦で大敗し、三上皇廃太子(三上皇皇太子に訂正)を置き去りにしたまま、近江に敗走する大失態で、結果、三上皇廃太子(三上皇皇太子に訂正)は大和賀名生まで連れて来られた。

 観応二年(正平六年)尊氏の南朝降伏(講和の条件は公家については南朝の全面支配、武家については尊氏が支配することを認めるというものだった)により、十一月七日崇徳天皇は廃位とされ、光厳上皇の院政が停止され、天下は形式上後村上天皇の親政になった。これを「正平一統」と呼ぶ。吉野朝は北朝の前太政大臣洞院公賢を左大臣一上に任じて京都の責任者とし、崇光天皇から三種の神器を接収した。ただ南朝の使者は後村上天皇は当分の間京都に出てこないと言明した。これは幕府を油断させるもので、北畠親房は講和とみせかけて明年閏二月を期して、京都と鎌倉を同時に軍事占領する作戦であった。(今谷明『中世奇人列伝』草思社139頁)。光厳に長講堂領を安堵、光厳・光明・崇光に太上天皇の尊号宣下の宥和策も油断させるための戦略でもあったわけですが、小川剛生『二条良基研究』笠間書院2006は、皇太子直仁親王は廃位とはなっていないと明快に説明されております。詳しくは同書を参照してください。小川氏によると洞院公賢の日記『園太暦』十二月十五日の記事「春宮御方(直仁親王)始終御運事云々」でこのことは明らかです。直仁親王は皇太子のままであった。つまり光厳上皇は、あくまでも大覚寺統と持明院統の両統迭立という認識で、後村上天皇の次は直仁親王ということだった。洞院公賢は南朝政権の左大臣ですから。今回は政治的事情により譲ったが、持明院統の皇位継承が否定されたものとは全然認識していないし、持明院統こそ正統と自認しているから当然のことであるが、直仁親王は南軍の実力行使で大和賀名生に連れてこられ幽閉されたこと。さらに北朝は後光厳天皇が光厳上皇の裁可ないとはいえ、即位したことにより事実上皇位継承が不可能になったというだけ。正平一統により廃位とされたわけではない。

 要するに、従来の歴史家(例えば今谷明)は三上皇廃太子(光厳・光明・崇光・直仁親王)が賀名生に拉致されたなどと記述していた。正しくは大和賀名生に遷られたと書くべきだが、実態は実力行使によるものだから拉致でもかまわないが、正確には三上皇皇太子なのである。崇光天皇は正平一統で廃位とされたが、皇太子直仁親王(花園皇子とされるが実は光厳皇子)廃位とされていない。
 
 この間の事情についてあらためて述べます。20年くらい前だと思いますが、大河ドラマ「太平記」はほぼ全回見ましたがドラマの終盤でほぼ史実に沿ったかたちで「観応の擾乱」が描かれていたのでストーリーの大筋は覚えてます。
 貞和四年、執事高師直は四條畷の戦いで楠正行らを討ち、勢いに乗じて吉野へ攻め入り、行宮などを焼き払い南朝方を賀名生(奈良県五條市)へ逃げ込ませる軍事的大功により台頭し幕府の権勢家となります。
 しかし副将軍格の足利直義と政策的にソリが合わず対立、貞和五年直義の要請によりいったんは執事を罷免されます。ところが高師直が足利尊氏と示し合わせたクーデターにより復権し、直義は出家して政務から退く。
 翌年十月、尊氏は中国地方に蟠踞して従わない直義の養子直冬を討つため出陣するが、直義は京都を出奔、直義が南朝に降って河内石川城で挙兵したことから、直義党が勢いづき、直義軍は義詮を京都から追い北朝を確保、観応二年二月、中国遠征から引き返してきた尊氏は摂津打出浜の戦いで直義に敗れ、高師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦、高師直・師泰は護送中に殺害される。直義は幕府の政務に復帰するが、尊氏と義詮が京都を挟撃して直義を討とうとする。それに気づいた直義が北陸に逃れ、その後和睦工作がなされたが、直義党の強硬派が拒否したため決裂、直義は信濃経由で鎌倉へ下る。
 尊氏は直義を討つため南朝に降伏して尊氏勅免の綸旨と、直義追討の治罰綸旨が発給され、尊氏は関東に進発し、駿河や相模早川尻の戦いで直義軍を撃破、直義は鎌倉で毒殺されます。このへんまではドラマの終盤でよく描かれていたと思いますが、このあとの三上皇皇太子拉致事件や後光厳擁立の経緯などは映像的に表現されず、わかりにくかったように思う。大雑把にいってしまえば尊氏-師直派と直義-直冬派の武家政権の権力抗争・派閥抗争のが二転三転したうえ直義や尊氏が便宜的に南朝に帰順したため複雑な経緯を辿っている。。
 尊氏の南朝降伏は、光厳上皇に事前に知らされておらず、道義的には無節操、重大な裏切り行為ともいえるが、尊氏からすれば直義を討つ以外に選択肢はない。再び直義党が南朝と結びつくような事態は戦乱の規模を拡大させるのでそれは現実的な政治判断だったともいえるだろう。
  

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2008/04/19

読書感想 ノーマン・F・キャンター『中世の発見』

 著名な中世史学者の評伝のようなスタイルの本。2007年刊行 朝倉・横山・梅津訳 法政大学出版局。まずメイトランドの伝記である。メイトランドの業績として、スタッブス流の議会神話を崩壊させたことが挙げられている(95頁以下)。つまりスタッブスは議会は民衆がつくる国民的集会であると考えたが、メイトランドによれば、議会とは要件を迅速かつ効率的に処理するため国王の法務官僚や、行政官僚を構成要員とした一つの機関にすぎない。1306年の議会とは国王の主要な大臣や裁判官が秩序を維持し公共の問題を処理するために手持ちの道具として使った機関なのであるとしている。この論争はメイトランドが余裕をもって勝利したと著者は述べている。議会は国民の意志を表明する機関なのでは本来全くなかった。議会制立憲主義の民主主義幻想は大きな誤りなのである。従って本来、議会構成員としてふさわしいのは、国民の代表ではないし、公共精神に富み、教養を備えた法律家や行政官僚ということで良いのである。もっとも、現代において法律家や行政官僚を腐っていて、非常識な人も多いので信用はしませんが。
 

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2008/04/18

最も総理にしたくない政治家 野田聖子

 『中央公論』5月号の河合香織「ひた隠しにされる高齢出産の危険性」を読みましたが、羊水検査で医者は「きれいな羊水だ」という言い方をするらしい。医者は倖田來未発言の意味はわかると言っている。バッシングは行き過ぎと論評されている。
 総出産の6割は30代以上、35歳以上は妊婦の5人に1人もいるとはいえ、高齢出産はリスク因子と書かれている。
 ところが最後のページを読んでいくと不愉快になってきた。野田聖子のインタビューになってワークライフバランスで男性の基準をつくるとか、男性に縛りをかけて労働の自由を侵害しようとの発言が載っている。そんなの関係ねぇー。夫婦別姓推進論者でもありイデオロギー上の敵ともいえる。無茶苦茶な見解を読んで気分が悪くなった。
 なぜか、特集の知的整理革命法で野口悠紀雄と勝間和代がGメールを推奨。
ところが私は、パソコンを電気屋にセットしてもらった時のメールしか使えないほどメールの使い方がわからないだよね。

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2008/01/31

週刊誌の感想

 今週も週刊新潮2月7日号を取り上げる。なるほどと思わせた記事が、ドイツ証券副会長武者陵司の「投資家の権利無視が『資本流入』を阻んだ」という東京株式市場の地盤沈下を憂う論説。
 日本は「先進国の中でもっとも財産権を尊重しない国」との不名誉なレッテルを貼られているという。具体的例として、村上ファンドに出資していた福井日銀総裁が、売却利益を団体に寄付することを余儀なくされたことは財産権の安易な侵害と言う。やっぱりそうか。ライブドア事件で検察が善悪を分かつ基準を「額に汗して働く人が許すかどうか」という感情論でアンバランスに懲罰が厳しかったことなどが挙げられている。
 投資家やファンドの権利が保護されないようだとダメだと。そりゃそうだ。格差是正の過度のこだわり、分配優先の傾向は反成長主義とバッサリ斬っている気持ちの良い記事でした。
 なぜか、新潮も文春もミス日本の白ビキニをグラビアに。しかし俺は、同い年の山本敏久阪大准教授と同じく18歳未満しか関心ないね。

 

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2008/01/24

週刊誌の感想

 帰りの電車で週刊新潮1月31日号野口悠紀雄「緊急提言-日本経済の『円安バブル』は崩壊した!」を読みました。90年代以降日本経済は長期的な機能不全に陥っていた。口先だけの「改革」が叫ばれたものの、金融緩和と円安政策に依存して本当の改革はやっていないからツケは回されるとの見解です。私は素人なのでとやかく言える立場ではありませんが、構造改革になってないということでしょう。野口氏の文脈からすると、日本人はもっと自由主義的な方向で意識改革すべきだということを言ってますね。
 イギリスの一人当たりのGDPは、日本を上回っているとも書かれてます。イギリスはアメリカを超えたというのも何かで読んだ記憶がある。それで私自身の意見を言いますが、イギリスが労働党政権でも好調なのは大きな揺り戻しをせず、80年代~90年代保守党政権の政策の大筋の枠組みを継承しているためでしょう。1992年保守党メージャー政権の白書『人、仕事および機会』では次のように述べてます。「‥‥団体交渉と労働協約に基づく労使関係の伝統的な形態は益々不適切になり、衰退してきた。多くの使用者は時代遅れの労務慣行を捨てて新たな人的資源管理を採用しつつある。それは個々の労働者の才能や能力の開発に力点を置くものである。使用者の多くは、労働組合や公式の労使協議会を仲介とするよりも、その被用者との直接のコミュニケーションを求めている。個々人の個人的技能、経験、努力及び成果を反映する報酬を個別交渉する傾向が増しているのである」(小宮文人『現代イギリス雇用法』信山社2006年 28頁)
 もうはっきり団体交渉と労働協約に基づく労働関係をやめようと言っているわけですよ。そういう線を明確に出してきたからイギリスは良くなった。
 そんなわけで、我が国を自由主義的な方向に転換させるためには、もっと劇的な改革が必要なんじゃないか。たとえば再三書いてますが、ニュージーランド1991年雇用契約法(Employment Contracts Act)のような団体交渉権を否認する労働政策とか。集団的労働関係に拘束されずに勤労できる権利、憲法28条廃止、ILO脱退ないし無視というような。

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2007/12/06

読書感想-ハイエク

はっきり言ってしまうと、私は行動的積極的な性格ではない。引っ込み思案で躊躇し内向的なのである。それで全てが後手後手になってしまう傾向がある。
時宜に適した、現実の政治問題にも取り組んでないことに忸怩たる思いはある。現実逃避とのお叱りを受けるかもしれないかが、もう開き直るしかない。原理原則論も重要なので、そちらの方も固めていきたい。
それで『ハイエク全集第6巻自由の条件Ⅱ自由と法』気賀・古賀訳春秋社を初めて買ったんで、パラッと見ただけですが、感想を言います。
法の支配の起源という章で、近代的自由は一七世紀のイギリスにはじまるというのはそのとおりでしょう。経済的自由というからには、営業の自由の確立の意義を私は重視したいが、ハイエクは独占判例や1610年の苦情請願、エドワード・コ-ク卿によるマグナ・カルタの解釈の発展「もし誰かある人にカード(トランプ)製造なり、そのほかどんな商売を扱う物であっても独占の許可を与えるとすれば、かかる許可は……臣民の自由にそむいている。そして結果的には大憲章に違反している」を引用しますが、営業の自由についてさらに突っ込んだ考察をしておらず、もの足りなく感じた。
 私はトレードの自由のコロラリーとしての労働の自由を決定的に重視しますが、この方面の理論を精緻化して、法と自由について論ずる構想を持っているのでいずれやります。
 ハイエクは第12章においてアメリカの立憲主義を論じ1937年のルーズベルトによる裁判所抱き込み法案による司法の危機に言及していますが、1937年のウェストコーストホテル対パリッシュ判決-憲法革命の評価や、ストーン判事のキャロリーンドクトリンの評価といった判例評価に踏み込んでおらず物足りなさを感じます。
 私は既にロックナー判決マンセー論で、憲法革命に否定的な評価を明らかにしてますが、積極国家の胎動を阻止しようとしたレッセフェール・アクティヴィズム、無体財産を含む財産権の擁護と契約の自由に肯定的な評価なので、この方面の理論も精緻化していきたいと思います。
 要するに自分の野心は明快にハイエクよりもより自由主義的な見解を述べて思想を伝えることです。経済的自由も精神的自由も両方重んじることになります。
 さて法の支配の意義、法実証主義敵視は重要な論点ですが、バラッと読んだだけではわかりにくい。19世紀後半に実証主義がドイツで確固たる地位をしめたことによりドイツは法の支配の理念を失ったという。ただ解説の古賀勝次郎はハイエクのケルゼン批判は勇み足といっている。
 私が思うには法の支配というからには、中世のブラクトン、フォーテスキューさらに、アングロサクソンの法伝統にまで遡って説明した方がわかりやすいのではないかと思った。
 

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2007/07/26

しつこいですね週刊文春は

  選挙情勢の記事を読むために週刊文春を買いましたが。まだしつこく森理世批判やってますね。とっくに名前を忘れてましたよ。世界一なんだから指を差して何が悪い。美人コンテストに受かりやすいスタイルの良い美人ですねと穏やかにすませばよいものを、別に清楚にみえなくたっていいじゃないですか。清楚タイプが実は恐ろしく下品な女でよっぽど怖いんですよ。
選挙といえば、私は都立園芸高校時代に学校農業クラブ会長選挙に出馬したことがあるんですけど、五十数票しか獲得できず惨敗した苦い記憶があります。全体で450人くらいの学校ですから、当選者が8~9割とってしまってこんな惨めな数字になるとは思いませんでした。作為があるんじゃとさえ思いましたから選管担当教師に票を見せろと訴えたが敵意丸出しで追い出されましたよ。麻原彰晃も同じことを言ってましたがこんなに得票が少ないとは思いもよらなかった。いろいろ言いたいことはありますが、古い話 をやってられないんで、その時思ったことは、やっぱり女はダメだということです。当時の都立園芸の7割は女生徒ですが判断力が全くないと思いました。負け方がひどいんで怒り心頭なんです。というより選挙なんてロクなもんじゃないと思いました。その時から民主政体に疑問を持ちましたよ。真正クリスチャンはキリストの再臨を待望し、千年間の義の支配を望むものです。ディスペンセーショナリズム(神的統治)が最善なんですよ。私が民主主義、大衆運動とか信用しないし大嫌いなのはそういう経験からですよ。

 なお、その時立会演説会で、一生懸命応援演説をしてくれた友人(故人)には恩があり、今でも心より感謝をしています。彼に支えられたことが大きいです。有り難う。

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2006/12/03

森田登代子論文を読んだ簡単な感想

 森田登代子大阪樟蔭女子大学非常勤講師(近世民衆史)の「近世民衆、天皇の即位の礼拝見」という論文が「幕府の政策で民衆から遠ざけられていたとされる従来の近世天皇像を覆すもの」として2006年11月19日読売オンラインで紹介されていたので、宣伝につられて、2006年11月刊行の笠谷和比古編『公家と武家Ⅲ-王権と儀礼の比較文明史的考察』思文閣出版という本を買って読みました。要旨は読売の記事から引用します。
 森田講師が、当時の京都で奉行所が高札などの形で出した膨大な数の「町触れ」を調べた結果、1735年の桜町天皇即位式前の町触れに御即位拝見之儀、此度者(このたびは)切手札(きってふだ)を以(もって)男ハ御台所門、女者(は)日之御門より入レ候之条」とあり、これは、観覧券に当たる「切手札」を発行し、男女別で御所のどの門から入るかを決めていたと判明。続く桃園天皇の即位式でも切手札を発行、事故防止のためか「男百人、女弐(二)百人」と制限し、老人や足が弱い人などの観覧を禁じた事実も分かった。‥‥森田講師は「民衆にとってごく身近で楽しみな行事だった。江戸時代になって急に公開したのでなく、中世以来の伝統ではないか」と語る。(引用終わり)
 このほか、『京都町触集成』によると朝廷行事に庶民参加が伝達された例として、元禄年間の元日の内侍所参詣、延享年間の節分参賀、弘化年間には禁裏で能狂言が開催された折、札を所持すれば観劇できる旨も伝達された例があり、庶民が御所へ伺候することはやぶさかではなかったということである。
 一方、大嘗会は公開されなかった。桃園天皇の大嘗会では寺院の鐘撞は自粛・禁止され、ただ火事の場合のみ鐘を撞くことが許されていた。又、後桃園天皇の大嘗会では、いつもどおりの火の始末の注意のほか11月18日から23日まで四条芝居と御所近辺の社寺境内の芝居の休演が要請されている。又、桜町天皇譲位桃園天皇受禅の当日においては煮焚きを禁止し前日までに食事の準備をするように指示され、当日火を使う商売は休むように命じられていた。森田は皮肉に言い方になるが、庶民は日常生活を規制する皇室行事を等閑視できようはずがないと述べている。
 そうすると女系論者高橋紘の発言「江戸時代以前には、多くの国民は天皇の存在すら知らなかった。つまり伝統といっても皇族間と幕府だけの狭い世界で続いてきたもの」(『週刊ポスト』37巻43号、2005年10月21日号 47~48頁』)などというのはやはり全く誤った歴史認識だということである。
 平興胤の『御即位式見聞私記』は庶民にも読まれていた。木版墨刷りの即位式図などは庶民も入手できたらしい。即位式には大坂から出かけてきた者がいたし畿内一円から参集していたらしい。大坂の商家では結婚前の娘を公家宅で行儀見習のため奉公させる習慣があったことを森田が記している。即位式などの京都の情報は各種のルートであっという間に各地に広まったとみてよいだろう。
 「御所千度参り」という天明年間の事件については藤田覚の著書で知ったが、これは京都御所の周囲を多数の人々が廻り、千度参りをしたというもの。「天明7年6月7日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。‥‥‥この事態を憂慮した光格天皇が京都所司代を通じて江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。‥‥‥これに対して幕府は米1,500俵を京都市民への放出を決定」とウィキペディアにある。
 だから庶民が天皇の存在を知らなかったなどという、そんなばかなことはない。

川西正彦

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