時間外労働の上限規制に強く反対
契約自由、私的自治、自己責任という近代市民社会の原則、自由企業体制の維持という観点から、また労働時間規制を契約の自由の侵害とした、1906年ロックナー判決の趣旨に賛成する思想的立場から、社会民主主義的な労働政策に反対し、これ以上政府が雇用判断に干渉する政策に反対であり、労働時間上限規制に強く反対する。またEU労働時間指令のような勤務間インターバルの設定にも強く反対である。
すでに政府案は上限を月80時間、月平均45時間とするため半年で270時間と毎日新聞(1/25)が報道しているが。これでは日本経済にとって致命傷になる。
私は絶対反対、すでに首相はやるといっているから後退できないというなら、例えば上限月130時間、月平均70時間、半年で420時間ぐらいでないと勤労者の士気をそぎ勤労意欲を萎縮させかねない。またホワイトカラーなどは必要ないと思う。職種によって、あるいは個人の意思確認で上限規制の適用除外が必要だ。
首相は欧州並みというが、EU大陸諸国の協約自治、コーポラテイズムと我が国は体質が異なる。欧州型の社会民主主義ではなく、政府が雇用判断にできるだけ干渉しない英米型の自由市場路線が望ましい。それとは真逆の政策だけに容認しがたいのである。理由は以下のとおり。
一 外国の政策、慣行との比較
(一)イギリスが経済好調だったのは労働時間規制に一貫して消極的だったことにある
イギリスでは、サッチャー・メジャー政権の自由市場政策で児童年少者法以外の一切の労働時間規制を廃止した。EU労働時間指令にも反対し、適用除外(opt-out条項)の権利を勝ち取った。
ブレア政権はEU労働時間指令を受容し1998年週当たり48時間の労働時間規則を制定したが。適用除外(オプト・アウト)制度も導入され、労働者により署名された書面による個別的オプト・アウトの合意により、法定労働時間の規則の適用を排除することができるのである。
2004年の『海外労働情報』によると労働者の3割が法定労働時間適用除外にサインしており、事実上労働時間規制はない。なおイギリスでは時間外労働の割増賃金を法制化されてないからホワイトカラーや専門職の残業は無給と考えられる。
イギリスの16年連続景気拡大は、労働時間規制が実質空洞化し、日本のような愚かな時短政策をとらなかったこともある。EU離脱の背景には適用除外に反対する大陸諸国への反発、政府が労使関係に干渉しないボランタリズムの伝統によると考える。この点イギリスは大陸諸国より健全だったのである。
私は、新自由主義的なオーストラリアの自由党やニュージーランドの国民党の労働政策、サッチャー・メジャー時代のように成人の労働時間規制全廃が望ましいと考えるが、我が国の政策はそれと反対の方向に向かっていることを強く懸念する。仮に上限規制をするとしても、英国の例にならい労働者の個別意思で適用除外可能な制度が望ましい。
(二)ハードワークが成長企業のアメリカの伝統
どんな企業でも成長にはハードワークはつきものだ。熱中して仕事しなければ技術革新も生まれない。スティーブ・ジョブズがマッキントッシュを開発した頃「週80時間労働、大好き」というシャツを着せて、休日なし毎日11時間労働、3年間仕事漬けだったという有名な伝説がある。アメリカ中西部では1920年頃まで鉄鋼業が休日なし毎日12時間労働だった。重筋労働でも決して限界というわけではない。ウォルマートの社風がそうであるように、コミットメント、粉骨砕身働く価値は一貫して重んじられている。ウォルマート本社でバイヤーは6時半に出社し退社は午後5時から7時の間、すべてのホワイトカラーは土曜は朝7時から午後1時まで働くという。そうするとホワイトカラーなら週57時間ぐらい働くのは普通ということだ。(チャールズ・フィシュマン著中野雅司監訳『ウォルマートに呑み込まれる世界』ダイヤモンド社2007年)
私が思うに金曜に終わらなかった仕事は土曜日に出勤してこなすほうが仕事は能率的だと思うし、休日なしも生活のリズムがくずれないので実は能率的だと思う。
なおロー対ウェード判決で著名なブラックマン判事の控訴審時代の仕事ぶりは、平日10時間土曜7時間、日曜は教会の礼拝の前後に4時間で、週60時間である。知識労働者ならそれは普通だろう。
ちなみにリチャード・フロリダ/井口訳『クリエイティブ資本論』ダイヤモンド社2008、193頁によると、優秀な人ほど長時間労働になるのは周囲から頼りにされ支援を求められるため、業務をしばしば中断するからとのこと。クリエイティブな労働者が長時間働くのは、仕事そのものが好きだから、10人中7人が仕事の楽しさを平均ないしそれ以上としている。長時間働くのは「夢のため」という人もいる。クリエイティブな労働者が長時間労働を好むということは明白である。日本のような長時間労働否定の政策は、クリエイティブな労働者を疎外するだろう。
米国では公正労働基準法が割増賃金の支払い義務を定めているが、我が国の36協定のようなものはない(なお米国では協約を強要すると憲法違反の疑いがある。そもそも日本の36協定は民法の相対効に反するという点で市民法原則に反する)。公正労働基準法の立法趣旨は大恐慌時代のワークシェアリングにあり、あくまでも失業者増大に対応した非常時の立法であり、それが平時でも続いているだけ。しかも今日、米国は民間企業の労働組合組織率は6.7%しかないのであり、会社が関与する従業員代表制度は否定されているので、大多数の会社が個別契約である。外資系は過半数代表との協定が企業風土になじまないばかりか、それに上限規制が加わると我が国はビジネスしにくい国の烙印を押されることになると思う。
ちなみに米国では法定有給休暇はない。12週無給の家族医療休暇があるだけ、ワークライフバランスは、個別企業の従業員政策としてやるもので、政府が音頭をとるような考えはない。新しい労働長官となる人物は規制反対なので、オバマ政権の公正労働基準法(FLSA)に関する行政規則改正[残業代支給対象から除外する、年収を現在のほぼ倍となる4万7476ドルとする]は見直されるはず。トランプ政権は保護主義といわれるが、国内の労働政策は自由市場路線と考えられる。日本はそれと逆のことをやっている。
二 失われた20年の原因の一つは労働時間の減少にある
(一)やり過ぎ感の強い労基署の監督指導攻勢
労基署の監督指導攻勢によるビジネスモデル崩壊の危機については昨年の週刊ダイヤモンド12/17号で特集があったが、近年は、野村證券の投資銀行部門をはじめ、監査法人の会計士、証券会社のアナリスト、シンクタンクの研究員など、ホワイトカラーでエリート企業、長時間労働が当然の知識労働者にも労基署のメスが入り、6時から8時の間に退社させるようになったという。
知的肉食といわれる有能な社員がバリバリ働けなくなり、高業績システムが維持できず、競争力の低下は必至とされ深刻な事態だと思う。
そもそも1990年代末に自民党は日経連の全ホワイトカラー裁量労働制、労基法の罰則撤廃という自由市場路線の政策に賛成していたことを考えると、それと正反対の安倍-塩崎の政治路線は左傾化した政策の推進者となっているものと考える。
もはや若者を低賃金でこきつかうイメージのある「ブラック企業」対策の域をこえている。高給の本来なら残業代適用除外でもいいようなホワイトカラー攻撃になってしまっている。
だいたい労働基準法の月45時間とか年間360時間という残業の基準が、厳しすぎる。
月45時間の残業というと、土日出勤なしで平日に2時間程度しか残業できず、あまりにもとろ過ぎる働き方だといわなければならない。
ちなみにリチャード・フロリダ前掲書190頁によると、アメリカでは専門職・技術・管理職の4割が週49時間以上働いており、熟練ブル-カラーは3割である。週49時間というのは月40時間程度の残業に相当する。
熟練ブルーカラーでも3割近くが働いている労働時間が上限なんて厳しすぎるのである。
重筋労働ではないのである。仕事は熱中すれば楽しいし、クァルコムが夜食やクリーニングのサービスをしたり、Googleが食事を提供したりするのは、できるたけ長く働いてもらいたいため。6時から8時までに退社などというのは、男性に女性なみの働き方を強要するもので侮辱だ。
政府がやろうとしているのは、特別条項でも月間80時間の残業である。これでは非経常業務が重なる事態に対応できないと思う。
経常業務でもホワイトカラーなら、先に述べたウォルマート本社社員のように、平日最低10時間、土曜日7時間の残業が基本だとすると、月間60時間以上の残業が標準のように思える。月45時間に規制されたら、生産性は明らかに低下するとみるべきだ。
(二)労働時間の減少こそ、90年代以降の経済低迷の要因だ
林=プレスコット説は失われた10年の要因の一つを時短とみなしている。つまり、90年代の日本では二つの重要な展開があった。一つはいわゆる「時短」により週当たりの雇用者平均労働時間が、バブル期前後で44時間から40時間に低下したこと、もう一つは、生産の効率性を図るTFP(total factor productivity)の成長率が,90年代の中ごろから低下したことであるという説であるがあまりにも軽視されていることが問題だ。
つまりジャパンアズ№1といわれた1980年代の日本人の働きぶりはすごかった。日本の企業内組合は欧米の産業別組合のような制限的職場規則がないことが利点だった。日経連・大企業は「職能給と属人給との組み合わせによる併存型職能給」を選択し、その能力要素部分のウエイトを高めていく方向を打ち出し、ME技術革新の下で職務構造、職能要件の変化に対応したフレキシブルな配置により、国際競争力を強化したのだ。
80年代日本の労務管理の特徴として、長時間労働、サービス残業、生産現場の高い労働密度、出向、配転などに見られる企業戦士のような凄まじい働きぶりがあった。当時は年間300時間以上のサービス残業はふつう行われていたとされている。
90年代に週休2日制導入で、日本人の働き方が鈍ったのが経済低迷の要因のひとつである。さらに拍車をかけたのが、今世紀にはいってから労基署の働きによるものである。連合など労働組合や共産党が不払い残業是正キャンペーンを行い(これは日経連が全ホワイトカラー裁量労働制、労基法の罰則廃止という規制緩和を主張したことに対抗するものである)、それを背景として中基審が2000年11月に「労働時間短縮のための対策に対する建議」を行い、厚生労働省が「労働時間の短縮促進に関する臨時措置法」の改正を労政審に諮問し、森内閣の坂口力厚労相のもとで2001年2月に同法改正を閣議決定し、それまでは労使間の問題として政府が積極介入しなかったあり方をやめ、サービス残業は労働基準法違反で、悪質な企業は司法処分を辞さないという労働基準局長通達(基発339号)を出し、「サービス残業規制政策」が開始されたことの影響が、労働者の士気をそぎ、萎縮させた。
まず電機大手が集中的に狙われたのである。 まずNECが基準監督署の指導で主任以下の調査を行い過去2年分の残業代を支払わされた。本社田町の100人以上について平均150時間約4500万とされている。日立製作所でも未払い残業代が支払われ、三菱電機で是正勧告、係長級に導入していた残業手当の定額支給も見直された。その後の展開については省略するが、新自由主義的な立場で不要なものともいわれていた労基署が次第に力がつよくなってきて不愉快な状況になっている。
つまりそれまでは、定額の残業代とか、一定時間で超勤打切りは普通に行われていたし、事実上のコア時間の長い裁量労働制だったのである。労基署が活発に動き出したことにより、労基法が建前でなくなったことにより、労働者もせちがらく実働時間の超勤手当を請求するようになったと考える。逆にそのことが長時間労働は生産性が低いという口実にされるようになった。
労基法が時代遅れ(8時間労働原則なんていうのは、重筋労働が主だった19世紀末松から20世紀初期の労働運動のスローガンにすぎない)なのに、オーバーホールされず、強行規定の運用が厳重になっていったのである。
労働時間は今世紀にはいっても明らかに減少している、その後もワークライフバランス政策、ブラック企業対策、女性活躍のため男性中心の働き方改革、過労死ゼロ政策といった時短の口実となる政策が次々と止まることなく打ち出され、当初は不払い残業だけが摘発されていたのに、残業代を払っても労使協定をこえる長時間労働が摘発されるようになった。
アベノミクスの第三の矢は規制撤廃ではなく、規制の厳重化で、このうえ、労働時間上限規制がなされるなら経済低迷から抜け出すことは困難、外資系も中韓に逃げていくだろう。
むろん、職務設計の見直しで、能率的でない部分の長時間労働をさける工夫をすることは必要かもしれないがそれは労使間の問題で、政府が音頭とるべきことではない。
三 法改正の目的がいかがわしすぎる
(一) 男性中心の働き方改革
性的役割分担の定型概念の打破をめざすジェンダー論者によって、男性の長時間労働が攻撃の標的にされ、これをなくすことにより、性別役割分業をなくし、女性にとって活躍としやすい社会変革をしていこうとするものである。男性は仕事することをひかえ、家事や育児にいそしむべきだというものである。
このような偏った思想を公定イデオロギーとするのは適切でない。そもそも婚姻家族とは性的分業を特徴としている。性的分業がなければもはや婚姻家族ではない。人類学者が明確に言っていることである。家長-主婦という性的分業がないなら結婚の意味はない。私は夫がロード(領主)でありバロンでなければならないという伝統的な婚姻家族観をもつが、宗教の自由が保障されている以上、女の頭は男であるというパウロ書簡の教えに忠実でありたいし、どのような結婚観をもとうが国民の自由なはずであるが、政府がジェンダー論の実現のために、労働政策を行うのは偏りすぎているし、男性から仕事を奪って育児と家事をおしつけるのは虐待であり、特定の価値観の強要は社会主義国のようだ。
もっと単純に云ってしまえば、楽園を追放された時、神の宣告により罰として男性は労働しなければ生きていかれなくなった。それが苦しくても楽しくても、神の宣告という根拠に基づいて、男性は労働に励まなければならないというのが、西洋文明2500年の規範である。
(二) ワークライフバランス
男性にとって職業上の地位が社会的威信である。仕事が重要である。勤勉に働くことを奨励することは、17世紀からコモンローのパブリックポリシーであり、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神を持ち出すまでもなく、粉骨砕身、懸命に働くことは近代市民社会の美徳であり、それを変える必要など全くないのである。仕事ぶりで評判を高め、成果をあげ達成感のある仕事を遂げることは、その人にとったプラスに働くのはいうまでもない。仕事に対するコミットメント、熱中が非難されるのはおかしい。
すでに女性には、育児休業、セクハラ、マタハラ防止等、過保護とも思えるほど特典が与えられているうえ、女性活躍推進法により昇進でも男性より有利な環境になってきている。
アメリカで妊娠差別禁止法とは、疾病・外傷による一時的労働不能状態の労働者と同等に処遇することであり、妊娠女性に特典をもたらすことではない。妊娠女性は12週無給の家族医療休暇を利用できるが、それ以上の休業は政府が保障するものではないから、出産後10~11週で職場に復帰して働くのが普通である。日本のように1年後復帰というほど甘くはない。そのうえ今度は労働時間規制である。どこまで女性に奉仕すれば気が済むのか。
むろん米国にはワーキングマザーにとって働きやすい会社というのはあるが、それは企業が独自に従業員福祉としてやっているたけの話で、政府が音頭をとってすべてにやらせるというのは行き過ぎなのである。
そもそも、定時退社というのは遵法闘争の戦術であって、最近ではワークライフバランスと称して、ノー超勤デーなどがさかんに行われているが、結果論としてそれは仕事を先送りするたけで、仕事をかたづけて早く帰りたくない日に、仕事を積み残すためにやっているので全く無意味である。
(三)少子化対策
時短先進国のドイツの出生率は日本より低い、イタリアは日本とほぼ同じ。というデータを示すだけで十分であり、根拠など何にもない。
(四)過労死ゼロ政策
過労自殺がさかんに報道されているが、適応障害はありうることで、ゼロは不可能である。大学だって適応障害で休学する人もいるのである。アメリカでは解雇自由原則の裏返として、勝手に退職するのも自由なので、いやなら辞めるし、それは自己責任の問題となるのではないか。20世紀の初めごろまで労災補償などなく、自己責任というのが本来の近代資本主義であるはず。
さかんに過労死ラインなどといっているが、適応障害を起こす人のために契約自由・私的自治という近代資本主義の原則が否定される理由はない。一番運動できない児童にあわて体育の授業を行うようなもの。
結論として時間外労働の上限規制、休暇取得推進、長時間労働
の是正政策のすべてに反対である。
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