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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

カテゴリー「皇室典範」の27件の記事

2023/05/26

皇位継承は天皇の男系子孫であることが伝統

 ツイッターで男系主義をカルトと言う方への返信の転載

 男系継承は継嗣令皇兄弟条の継受である。明文で男系と書かれてなくても事実のうえで皇親たる親王、諸王は男系であり規則性は明確。
 令制で天皇の親族を皇親という。親王、諸王(内親王、女王を含む)のことだが、一律父系継承であることは吉田孝『歴史のなかの天皇』岩波新書2006の以下の見解のとおり。
 「日本律令の『王』(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである。但し、『王』族の急増をもたらした。その結果、『賜姓』による臣籍降下が日常化し、『王』も『姓』の一種とみなされるようになる。」
 日本史の学者は左翼が多いので男系継承の論理を知っていても積極的には発言しないか傍観しているが、岩波新書には父系で一律に継承されたと断言しているわけである。
 
 ところで、令制は四世王までが皇親で世数制限があるとされるが、五・六世王は皇親と同じく不課の特典あり、七世王は揺が免じられているので徐々にフェードアウトしていく制度といえる。
 しかし、15世紀以降は事情が異なる。後円融、後小松、後花園は皇子が少なく、称光は皇女のみ。持明院統側に男性皇親が払拭していた時期があり、宮門跡に入室しうる皇子が御一方もいなくなった。
  この事情から大覚寺統の末流の皇胤でも親王宣下されることが慣例化(合法化)した。後二条流の木寺宮や亀山法皇遺詔で嫡流認定された常磐井宮出身の皇族の五世王や六世王が親王宣下されるに至った。 [松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)オープンアクセス]。

 五世王親王宣下の初例は、応永26年(1419) 12月21日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞日記』、『薩戒記』)。
 後二条直系廃太子康仁親王流は大覚寺統正統を鎌倉幕府と持明院統により認められてた。後醍醐と敵対関係にあったため北朝に帰属していた。常磐井宮も伏見上皇が後宇多上皇を追い詰める狙いで恒明親王立坊を支持した経緯があり、その義理もあってか北朝に帰属していた。
 伏見宮貞成親王が後花園天皇に永享6年に奏進した『椿葉記』に伏見宮歴代を天皇の御猶子として永続させる提案があり、世襲親王家構想と解釈されている。血縁で天皇と疎隔しても、しかるべき皇統の末流なら天皇の猶子として親王宣下を受け、親王位を再生産することによりステイタスを劣化させることのない世襲親王家の嚆矢が伏見宮家である。
 世襲親王家は男系が続く限り世襲、途絶した場合は、皇子が家領を相続して在俗皇族となるためのポストになった。伏見宮以外の八条宮(のち桂宮)、頻繁に実系が途絶、高松宮(のち有栖川宮)も2回実系が途切れている。閑院宮は幕末期に実系が途絶し、明治になって伏見宮系に継承された。とはいえ、継承者がすべて男系なので世襲親王家も男系継承である。。
 伏見宮も16代で後継者がいなくなり空位となったことがある。17代は桃園皇子の貞行親王が伏見宮を継承したが、早世されたので、また空位となり、宮家側では『椿葉記』にある皇統上の格別の由緒にもとづき血脈に当たる者の相続を嘆願した。
 朝廷は皇位継承者以外の皇子のポストにするため難色を示したが、前代将軍徳川家重の正室が伏見宮邦永親王の第四王女増子女王だった義理で、徳川家治の支持を得たため、異例だが、勧修寺に入寺得度としていた伏見宮貞建親王の第二皇子寛宝法親王が還俗、相続して18代邦頼親王となり以降、26代博明王まで伏見宮は実系継承であり、皇族の崇班を継承してきた意義は大きい。
 伏見宮が実系(男系)継承にこだわったのは後深草院流の嫡宗家を自認し完全なる傍系化を回避された「准天皇家」としての矜持だろう。
 伏見宮御一流の弱点をあえていえば南朝正統論で流祖の崇光が歴代天皇から外れたため、戦前は鎌倉末期の後伏見の末流とされてしまったことである。しかし今日皇国史観や南朝忠臣賛美の教育はされておらず、近年室町時代ブームで伏見宮の由緒にかかわる研究成果に事欠かないので容易に克服できる事柄である。
 以下は筆者の見解。
 太政大臣藤原為光の母は雅子内親王(醍醐皇女)だが父が右大臣藤原師輔なので藤原氏
 太政大臣藤原公季の母は康子内親王(醍醐皇女)だが父が藤原師輔なので藤原氏
 公季は母が産褥で薨ぜられたことから、異母姉の皇后藤原安子に引取られ、宮中で養育されたので貴種といえるが、膳の高さで親王とは差別化されていたという。天皇と近親であっても女系の子どもは差別化される。
 近世では准后関白近衛家熙は母が品宮常子内親王(後水尾皇女)だが、父が関白近衛基熙だから藤原氏。
 もっとも皇別摂家であり血筋のうえでは家熙は後陽成玄孫の男系だが、父が摂関家である以上、皇親にはならない

継嗣令皇兄弟子条の本註「女帝子亦同」は女系継承を認めているという見解の反論

  敬宮様を皇位継承者にすべきと主張する女系容認論者のツイッターに返信したものに若干加筆したものを転載します。

 くどいがお邪魔して継嗣令皇兄弟子条「女帝子亦同」の見解を主として成清弘和の専論を参考にして述べます。結論は天皇の男系子孫が皇位を継承することを否定するものではなく、たんに女帝の近親者(兄弟姉妹、子女)の待遇は男帝と同一の扱いとするだけの趣旨である。

継嗣令皇兄弟子条

「 凡皇兄弟・皇子、皆為親王、[女帝子亦同]。以外並為諸王。自親王五世、雖得王名、不在皇親之限。」

(凡そ皇兄弟・皇子は皆な親王となす。女帝の子も亦た同じ。以外は並びに諸王となす。親王より五世なれば、王名を得といへども、皇親の限に在らず。)

 

 

一 義解の注釈

 

 義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」

 

  女帝の子は親王とする意味としても四世王以上との婚姻の結果、生んだ子と解釈されるから、女帝の子は男系出自系譜であることにかわりない。

  その根拠として下条つまり継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」を引く。諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。

  王娶親王条の皇親女子の内婚規定により、皇親男子(天皇、親王~四世王)としか結婚できない。「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていた。これは56世紀の慣例を明文化したものでもある。

  少なくとも8世紀において明確に違法といえるのは加豆良女王(天武三世女王)と藤原久須麻呂(太師藤原仲麻呂三男)との結婚だけであり、仲麻呂が天下の政柄を握っていたからできたことで、王娶親王条はよく守られていた。

  歴代女帝八方のうち七方が皇女で、皇極・斉明だけは宝皇女と申すが茅渟(ちぬ)王が父で敏達曽孫令制の三世女王にあたる。用明の孫高向王と結婚し、舒明とは再婚(田村皇子は田眼皇女を妃として皇后に立てる予定だったと推測するが、皇女が早世したので、当時大后は皇親に限定されていた。たとえ再婚でも宝皇女を妃とする必要があった)だが、結婚しているのは皇親なので、皇后もしくは皇太妃から即位した女帝四方の所生子はすべて天皇の男系子孫である。異姓の者が皇位継承者にはならない。

 もっとも、延暦12年詔で二世女王は藤原氏と、三世女王以下は現任大臣、良家の子孫と婚姻可能となり、規制が緩和された。一例として藤原時平の母は人康親王女で母方は皇族でも父基経は藤原氏だから、皇族になることはない。しかも令制では内親王は一貫して臣下との婚姻は違法である。

 とはいえ10世紀に藤原師輔が醍醐皇女三方、勤子内親王、雅子内親王、康子内親王と密通し、後から承認を受ける形で、令制が想定していない反律令行為である内親王の降嫁を実現した。

 村上天皇の同母姉の康子内親王については、天気を損じた(大鏡)。天皇も世間も許さなかったとの史料(大鏡裏書)もあり評判の悪い婚姻例である。ただ師輔は皇后の父で村上天皇の立坊を支持し春宮大夫として近臣でもあったから、事の性質上勅許された。

 師輔に降嫁した雅子内親王所生の太政大臣藤原為光、康子内親王所生の太政大臣藤原公季は藤原氏であって、男系規則は一貫していて、天皇と近親だからといって女系の子孫は皇親とはならない。

 北欧・西欧諸国の直系初生子男女共系(女系容認)の王位継承にならうと、藤原為光や公季のケースでも皇族にして皇位継承権を付与することになるが、これは日本の伝統に反している。

 

二 穴記の注釈

 

 令集解の穴記は「女帝子者。其兄弟者兼文述訖。故只顕子也。孫王以下皆為皇親也。」

 

 たんに女帝の子を親王となすというだけでなく、女帝の兄弟姉妹を含む意味である。継嗣令皇兄弟子条は藤木邦彦の次の読み方でよいのである「天皇(女帝をふくむ)‥‥皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とする」。

 令制前だが、敏達曾孫で令制概念では三世王の孝徳天皇(軽皇子)のようなケースでは、皇極女帝の弟なので三世王から親王に格上げとなる。親王は諸王と比較して待遇が厚く格段の差があったから、女帝の近親を厚遇する趣旨である。

 実際奈良時代には、傍系から皇位継承した淳仁や、光仁の兄弟姉妹は、諸王から親王・内親王に格上げされているので穴記の注釈は妥当である。

 筧敏生が継嗣令皇兄弟条は、唐の封爵令ではなく『隋書』巻二八百官志下に、「皇伯叔昆弟・皇子為親王」とあることから親王号は隋制継受とみなしており、とすると皇極女帝即位前に知られていた可能性があり、軽皇子(孝徳天皇)と似たケース、傍系でも女帝の兄弟姉妹の親王格上げが「女帝亦同」の主要な趣旨と考える。

 

三 小中村清矩説と吉備内親王所生子の処遇について

 

 このほか、小中村清矩の、継嗣令にある三文字女帝子は、皇極天皇の前夫高向王との間で生まれた漢皇子(あやのみこ)を指すとの見解がある(有識者会議平成17年5月31日の八木秀次の発言)。

 用明三世王で皇子ではないが漢皇子と称されるのは、母の宝皇女が再婚したうえ皇后、さらに女帝に即位したため。しかし再婚なのに皇后に立てられた宝皇女こそ異例であり、この説は奇妙だ。

 女帝の子を親王とするのは、史実と逆だが文武より先に元明が即位した場合の想定、前記穴記の趣旨とみてよいだろう。 

 現実の「女帝子亦同」の影響としては吉備内親王所生子の処遇が指摘されているので検討する。

 左大臣長屋王(父高市皇子、母御名部皇女-元明の同母姉)の妃が二品吉備内親王(父は草壁皇子母元明、文武の姉か妹、元正の妹)。

 長屋王は天武二世王だが慶雲元年に選任令の二世王の蔭階を三階上回る正四位上に初叙されるなど「別勅処分」による親王扱いを受けている。式部卿-大納言-台閣首班右大臣に昇進したのも、元明女帝の甥であり娘婿だから元明の引き立てだろう。

 成清弘和が指摘するように霊亀元年(和銅八年)二月勅により天武曾孫にあたる吉備内親王所生の三世王(膳夫王、葛木王、鉤取王)が皇孫の例に入れられていることは「女帝子亦同」の影響と解釈してもよい。女系のカウントで二世王だが、しかし女系が公式的に認められているわけではない。長屋王が別勅処分で親王扱いにされているからである。「長屋親王宮」木簡の出土など親王家の礼遇であったことは立証されていることだ。

 仮に膳夫王(かしわでおう)が即位した場合、天武-高市皇子-長屋王の男系出自系譜により高市皇子皇統に付替えになる。高市皇子は母の身分が低いのが難点だったが、膳夫王は、母方をたどっても天智や天武が曾祖父であるうえ、純血度が高いことは有力な皇位継承候補たりうるが、女系継承にはならない。

 なお、長屋王の権力基盤は脆く、後盾となっていた元明上皇崩後、宮廷で孤立していく。長屋王の変で、長屋王は自刃、吉備内親王と膳夫王、葛木王、鉤取王らは縊死という悲劇的結末となった。

 

(引用・参考) ★ネット公開

 今江広道 1983 「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館

岡部 明日香(2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮」中古文学 90(0)★ 

筧敏生2002『古代王権と律令国家』第二部第二章太上天皇尊号宣下制の成立 校倉書房(初出1994160頁以下

倉本一宏1998『奈良朝の政変劇』吉川弘文館 

栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2

中村みどり2014 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13)★

成清弘和1999『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999 131頁

藤木邦彦1991『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館(但し初出は1970「奈良・平安朝の皇親賜姓について」

保立道久 1996 『平安王朝』 岩波新書

安田政彦 1998 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館

米田雄介 2004 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』塙書房.

2023/04/11

国会議員への意見具申 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対 ③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき-「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-(第4分冊)理由概要

                                                    平成4年12月

  結論と要点は第1分冊、比較的短い理由要旨(version1)は第2分冊、①案反対に重点を置いた理由要旨(version2)第3分冊

 PDF版のダウンロードはエバーノート公開リンクのあるエントリー

理由概要

 

(天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告はきわめて悪質で容認し難い)

内容

理由概要... 1

(天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告はきわめて悪質で容認し難い).. 1

一 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案に絶対反対... 2

(一) 皇室典範12条、旧皇室典範44条の立法趣旨は正当性があるのでこれを否定  することは日本の家族慣行を破壊する    2

(二)案は日本の家族慣行を根本的に否定する脅威、共産主義に屈服そのもの... 2

(二)案は婦人道徳を全面的に否定する恐ろしい害毒になる... 5

(三)内親王の歴史的由来を全面的に否定し皇室制度を破壊する.. 8

(四)31130事務局調査研究資料の案の前例とされる6事例に論理性はない... 9

(五)皇室典範12条改変は「千古ノ国体」たる家制度破壊... 13

二 案が最善-皇統に属する男系男子が直接復帰すべき.. 14

(一) 11宮家の再興・旧皇族復籍をコンセプトすべき.. 14

(二) 養子縁組案に否定的な理由... 15

第一 皇統上の格別の由緒、永続を約された由緒など崇光院流に正当性がある.. 16

第二 令制皇親制度は世数制限があるが、15世紀に実質修正され天皇との血縁的疎隔  してもステイタスを維持できる。皇統上の正当性こそが肝要... 16

第三 明治皇室典範は永世皇族制度となったから特殊な事情で離脱した宮家は復籍されるのが筋... 17

第四 想定される反論(皇族ノ降下二関スル施行準則)に対する反論... 18

第五 養子や親子関係の擬制が否定されている皇室典範において、養嗣子にこだわることにさほど意味はない... 21

第六 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を永続が約されている由緒を重んじるべき.. 22

 

一 ①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案に絶対反対

 

 有識者会議報告は、①案を恒久制度とするため、皇室典範12条を改変する方向性を打ち出しているが、非常に危険な案で、夫婦なのに女性皇族は皇統譜、配偶者と所生子は戸籍という一体性がなくバラバラ、夫婦別姓のような歪で醜悪な制度を創出し、皇室制度を根本的に破壊する。

 皇室典範12条は内親王・女王が天皇・皇族と結婚する場合(皇后、親王妃、王妃)は、皇族の身分を保持するのは当然のこととして、皇族以外の民間人と結婚した場合は、嫁入婚が慣習である以上、婚入者として夫家の成員になるのだから、夫の身分に従うべきで皇籍を離脱するという趣旨のものであり、日本的「家」慣行に即したものなので堅持すべきである。

 有識者会議①案は民間人と結婚しても内親王・女王の身位を保持するが、配偶者や所生子は戸籍のまま、将来的には検討するとしてもさしあたり一般国民のままという歪な制度をつくろうとするものである。

 摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員、その他の公務を担っていただくことが①案の表向きの目的である以上、宮家当主の男性親王と同様の国家的給付(皇族費)がなされると想定できる。

 居邸について不明だが有識者会議議事録では英国のアン王女に言及しているメンバーがいて、王女は女王よりコッツウェルズの邸宅を贈られ、普段の居邸としている。ロンドンの居邸はセント・ジェームズ宮殿なので、王室側で用意されている。アン王女をモデルとすると女性皇族は夫方の私邸でなく皇室側で用意された御所ということになる。納采の儀など嫁取婚の形式になるか、墓所は皇室側か夫方かは不明であるが、以下の理由により強く反対する。

 

 


(一) 皇室典範12条、旧皇室典範44条の立法趣旨は正当性があるのでこれを否定  することは日本の家族慣行を破壊する

 

 皇室典範12条は、旧皇室典範44条を継受したものである。帝国憲法皇室典範義解(伊藤博文著)によれば44条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス)の趣旨は、「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という理由が示されている。第一部で後述する明治8年の内務省夫婦同氏案趣旨と同じ理由である。  

 「夫ノ身分ニ従フ」とは、妻は夫の家に婚入し、婚家の成員となるということと、夫の身分と尊卑を同じくするという、2つの意味が含まれる。

 旧皇室典範39条では「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」とされていたから、華族に嫁すならば、侯爵家なら、侯爵夫人となり夫家の成員となり、公爵なら、公爵夫人として華族に列する、夫と同一の身分ということである。

 出嫁女は婚家(夫家)の主婦予定者として迎えられるのであり、婚入者は婚家の成員であって、出嫁女は婚家を継ぐ者である・生家の成員から外れ、婚家に帰属して夫と身分を同じくする。死後は婚家の仏となるというのが日本の家族慣行である。

 嫁や入婿の婚家帰属性は華士族平民同じことであるから、皇室典範12条に相当な理由があり、これを改変することは穏当なものではないゆえ強く反対する。

 

(二)①案は日本の家族慣行を根本的に否定する脅威、共産主義に屈服そのもの

 戸主権のもとに家内統制される「家」制度は廃止されても家族慣行としての「家」は、分割相続となっても日本の親族構造とし存在し、家長と妻(主婦)が家政を役割分担する「家」は我が国の最も基本的な婚姻家族の在り方である。

 また家業、家職が継承されるのは日本の「家」の特徴である。中国の宗族はそうではない。世界的にファミリー企業の平均寿命は24年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜2010]。老舗企業が健在なのは「家」制度が社会構造であるためだというほかない。

(日本の「家」と憲法24条と婚姻理念についての補足)

 夫方の父母や親族と対面し、三献で祝うことで夫の親族として認められたこと意味するが、この儀式は今日でも行われている。結納も白無垢、色直しという嫁入婚の習俗もすたれておらず、夫婦同氏制で96%が夫の苗字である。

 なお、憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する」という合意主義婚姻理論は、起草者は意識していないかもしれないが、その法源はローマ法の諾成婚姻理論を継受した古典カノン法といえる。

 古典カノン法の緩和的合意主義は領主や父母の承諾などは婚姻の要件から排除したうえ婚姻適齢も男14、女12であり、教会法学者は12歳未満でも大人っぽければ可としていた[JL・フランドラン1992]。婚姻非解消主義という点では厳格であっても、人類史上最も自由な婚姻法といえるのであって、教会婚姻法は近親婚を禁止するなどして血族解体を促しており、ある意味では革新的でもあった。

 10世紀に婚姻は教会裁判所の管轄となり、12世紀中葉には教皇庁が司法化し、とくに英国からは活発な教皇上訴がなされていた。なかでも英国から婚姻の成否をめぐって教皇庁への上訴があり、法律家教皇の嚆矢であるアレクサンデル3世(教皇在位1159~81)が緩和的合意主義理論を採用した裁定によりカノン法の婚姻法が形成されていった[赤阪俊一2008] [直江眞一2014]。

 合意主義は、ヨゼフが許婚者である以上処女懐胎のマリアとの真実の婚姻があったとして、肉体的交通以前に合意による婚約によって婚姻は成立すると説いたパリ学派サン・ヴィクトルのフーゴ[ウタ・ランケ・ハイネマン1996]、中世最大の教師、パリ司教ペトルス・ロンヴァルドゥスの神学[塙陽子1993]等に依拠しているが、基本的にイギリスのような単純核家族型の社会、あるいは婚前交渉に寛容な北西ヨーロッパの基層文化に適合的なもので、教会挙式は婚姻を有効とする要件ではなかった。なぜならば結婚の秘跡とは聖職者が付与するものではないからである[秘跡については枝村茂1975参照]。慣習の違うあらゆる地域の人々の婚姻の成否を教会の管轄にしようとしたためである。実際、秘密婚を有効にしてしまう教会法に反発があり、教会と世俗権力は数世紀にわたって抗争していた。イギリスでは土地の相続は世俗裁判所の管轄のため寡婦産の確定のために挙式を要求したのは世俗裁判所であって教会裁判所は求めていない[島津一郎1974]。

 ラテン的キリスト教世界で、有効な婚姻であるために教会挙式が要件とされたのは教会法が秘密婚を容認しているという非難によるもので、16世紀中葉のトレント公会議以降のことである(ガリカニスム・フランス教会は父母の承認要件がないためトレント公会議を受け容れず)。イングランドでは1753年ハードウィック卿法により婚姻法が還俗化するまで、教会挙式を法的に要求しない合意主義の古典カノン法は、古き婚姻約束の法として生ける法であり、コモンロー・マリッジとして有効だった[不破勝敏夫1958a]「柴田敏夫1987 」[栗原真人1991,1992a,1992 b,1996][ 白木歩澄2018]。

 逆説的だが、婚姻法の還俗化とは教会挙式を強要することだったのである。しかしスコットランドではなお古法が有効でありイングランド=スコットランド協定によりイングランド人はスコットランド法により婚姻ができたため、18世紀後半の馬車で越境するロマンチックなグレトナ・グリーンの結婚風俗が知られている[加藤東知1927][岩井託子2002]。

 逆説的だが、中世の古典カノン法を近代まで墨守していたのはトレント公会議を非難した長老教会のスコットランドであった。

 逆説的だが、近代個人主義的友愛結婚の法源は古法、イギリスから教皇庁への上訴、教皇の裁定により成立した12世紀のカノン法に依拠していたのであって近代啓蒙主義の所産ではない。

 私は、古典カノン法の合意主義の重大な歴史的意義を認めつつ、あるいは西洋の個人主義的自己決定の源流かもしれないが、しかし世俗社会の家族慣行と大きな軋轢を生じたことも史実で、特に父母の承諾を必要としていない点、フランスは反発し国王立法により婚姻法を16世紀に還俗化させたのであるが、カノン法は、世俗社会の慣行や文化とずれている側面も多分にあったのである。

 憲法24条それ自体は法制史的には西洋のローマ法、古典カノン法由来の合意主義を打ち出し、結婚のあり方の西洋化を促したが、嫁入婚慣習や婚入者を成員とする日本的「家」の家族慣行を否定するものではないし、性的役割分担で成り立っている婚姻家族理念は西洋も同じことである。

 婚入者の婚家帰属(成員)性(嫁は主婦予定者として、入婿は家長予定者として迎えられる)という日本の家族慣行は明治民法以前も戦後も同じであり、人類学の大御所清水昭俊[1970、1972、1973]により、日本の「家」は嫁も婿を生家とは離れて、婚家の成員なることは理論化されていることで、明治民法の夫婦同氏制の立法趣旨も、妻は夫に家に入るのだから、夫と同苗字ということを民法起草者の一人梅謙次郎は法典調査会で述べている。

 であるから、婚入者たる嫁の婚家の成員性が夫婦同氏の立法趣旨の一つである。

 むろん、「夫ノ身分ニ従フ故」は、妻は夫権ないし家長に服する、妻は夫の庇護権のもとにある、伝統的家族規範のニュアンスを看取できるかもしれないが、それは社会通念だった。今日では古風といわれる反論があるかもしれないが、人類学の大御所清水昭俊[1987 97頁]によれば婚姻家族とは「家内的生活が主として夫婦間の性的分業によって営まれる家」と定義され、それは性的役割分担で成り立ち、婚入者は婚家の成員であることも学問的に理論化されているされているので、我が国の親族構造として否定しようがない。

 また和装婚礼でなく教会挙式が多くなったという反論があるかもしれない。

 しかし教会挙式はそもそも教会法由来ではなく、ヴァージンロードはゲルマン法の花嫁の引き渡し、父から花婿へムント(庇護権の譲渡)を意味し、教会挙式の要素のいくつかがゲルマン法由来で、嫁入り婚に類似した性格を有している。

 朝の贈り物(モルゲンガーペ)で花嫁に鍵が与えられ、主婦としての鍵の権力を得る[島津一郎1974]。

 家長と主婦で成り立っている婚姻のあり方は、西洋も日本も同じことである。

 鵜川馨[1991]によればウェディングの語源は、ゲルマン法に固有の婚姻契約の履行を担保するものとしての動産質(E pledge,OE wedd)を与える儀礼と述べ、weddは将来夫の死後に寡婦産として現実に土地の引き渡しを担保する者として、指輪あるいは銀貨が与えられることを意味する。本来は質物、担保を意味したが、wedは結婚するという意味に変わり、本来の保証する意味の言葉としてはpledgeなる語が用いられるようになった。ウェディングとは花嫁の終身的経済保障の担保・質物を与えるということを原義としていたのである。つまり、中世イギリスにおいては夫家の家産である土地の一部が寡婦産として設定され、花嫁は終身的経済保障を得る。人類学的にいう花嫁代償にあたり、夫家の家産を相続するのであるから、夫姓を唱える権利を取得するのである。

 これが北西ヨーロッパにおける夫婦同姓が慣習である理由の一つと考えている。

 むしろ西洋の方が男性支配原理や家父長制はもともと強いというべきだろう。

 すなわち神の宣告、神が女に下した罰「なんじは夫をしたい、彼はなんじを治めん」(創世記3:16)つまり男性による女性の支配をいう。現代のジェンダー平等の主張は神の宣告にたいする重大な反逆行為である。

 またパウロが教えるように「男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」(第一コリント11:3)「男は神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきでない。女はまた男の光栄である。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだから」(第一コリント11:7~9)。「婦人たちは教会で黙っていなさい。婦人たちに語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」(第一コリント14:34)

 新約聖書には家庭訓ジャンルがあって、これはペテロの第一の手紙と第二パウロ書簡(エペソ、コロサイ、第一第二テモテ、テトス)である。西洋文明世界の基本的な家庭倫理となっている。

 ここではペテロの第一の手紙の家庭訓は3章1節だけを引用する。「妻たる者よ、夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく、清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるだろう。」

 聖書学者の荒井献東大名誉教授はフェミニスト神学に批判的で、次のように解説する。「『仕える』と訳されている‥‥のは夫の下に立ちなさい。夫に服従しなさいという意味です。(中略)もしもこの『同じように』が前の文脈の主人に対する奴隷の服従を受けるものとすれば、妻は主人に対する奴隷と同じように夫に服従せよということになります」[荒井献1985]。

 それは古代ヘレニズム世界の家族倫理だというかも知れないが、このような古典的価値により文明社会の規範が成り立っているのであって、聖書的価値を尊重すべきである。

 近代市民社会も同じである。ナポレオン法典231条「夫は妻を保護し、妻は夫に服従する義務を負う」とある。ナポレオン法典には、父権、夫権、親族会議の力を示すものが多い。父権、夫権は近代市民社会においても全く正当なものであった。

 ブラックストーンは『英法釈義』(1765)1巻15章婚姻の一般的効果としての夫婦一体の原則について次のように説明する「婚姻によって、夫と妻は法律上一人格となる。すなわち、婦人(woman)の存在または法律上の存在そのものは、婚姻中、停止されるか少なくとも夫のそれに合体され、統合される。夫の翼、保護、そして庇護(cover)の下に、彼女はあらゆることを行う。したがって、われわれの法律用フランス語では、feme-coventと呼ばれ、covent-baronすなわち彼女のbaronないし領主(lord)である彼女の夫の保護と権力のもとあるといわれる」[上野雅和1962、1981]。 

 つまりイギリス普通法では夫とは妻の領主であった。

 我が国においても、近代化の過程で西欧の男性支配原理や価値観は移入されたが、戦後、男性は戸主権を喪失し弱くなり、長男は分割相続により威信を失ったという社会的事実がある。しかしながら社会構造、慣行として日本的「家」、単性家族は明らかに存在しているのだ

 清水昭俊国立民族学博物館名誉教授の出雲地方の1967年の調査によれば、相続の際、象徴物が伝達されることを「家督相続」と言っている。これは家内統制権というよりも、物象化された家長位の地位の継承のことである[清水昭俊1970 210頁]。今日でも家長位は慣行として存在する。

 戸主権は喪失したといっても、家長にはその「家」の指し示す家格と、それを裏付ける経済力、家格に応じて村落社会から家に課せられる、社会的義務と期待、これを維持、発展させる役割があり、家業その他の社会的営為の統括者としての役割がある[清水昭俊1970 208頁]。戸主権により統制される「家」制度は廃止されても家族慣行としての「家」は、日本の親族構造としてあるもので、それを否定する①案、皇室典範12条の改変は恐るべき文化破壊をもたらすゆえ難色を示さざるを得ない。

 有識者会議が目論む皇室典範12条の粉砕は、穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいうべき社会構造を瓦解させると脅威と理解すべきである。

 性的役割分担の定型概念の否定、家父長制への敵意、「家」を古風なものとして否定したいのはマルクス主義者のイデオロギーである。皇室典範12条粉砕により性的役割を流動化させようという有識者会議のやり方は、著しい左翼体質といわざるをえない。

「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という立法趣旨の否定は、ジェンダー平等を実現する左翼の政策で、出嫁女(婚入配偶者)は婚家帰属という日本の慣習を否定するものとして、千古の国体破壊となるので断乎反対なのである。

 

(二)①案は婦人道徳を全面的に否定する恐ろしい害毒になる

 女性は夫ともに婚家を継ぐことが婦人道徳の基本である。夫の身分に従うという趣旨は日本の古来の婦人道徳にもとづいている。

 それゆえ帝国憲法皇室典範義解(伊藤博文著)によれば44条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス)の趣旨は、「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という理由が示されている。

 女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり『女大学宝箱』は中等以上の身分を対象とした女訓書である。享保元年(1716)から明治初年まで11版を重ねたものである。

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 『女大学』とは親および舅姑に対する孝、洗濯、裁縫、結納・結婚・出産・子育てなどを内容とした女訓書であるが、1980年代中学校の家庭科男女共修の流れになった頃に良妻賢母教育が否定されるまで、女性は嫁いだら婚家の舅姑に仕えるのは支配的な価値観であった。

 少なくとも女性は婚家に嫁ぐ人生がノーマルなものと認識されていた。今日でも特定の政治勢力は批判するだろうが、嫁入婚、結納は一般的慣習である。

 SDGsやグレートリセットがトレンドだとみてグローバル全体主義を推進したい政治家は多い。学校教育でも企業で皇室典範改正により家族倫理、婦人道徳を破壊しジェンダー平等を達成することが善と洗脳されている人が多いのである。それだけに心配なのである。

 皇室典範12条改変は、婚家に帰属する日本の「家」慣行を否定し、国民への影響が甚大である。日本の文化破壊にとどめ刺す恐ろしさがある

 補足して出嫁女の婚家帰属性については東アジア、儒教文化圏は同じことであることについて説示する。

まず王権論の流行で注目された古代中国の夫婦斉体思想に着目する必要がある。

「妻は家事を伝え祭祀を承く」戸婚律二九条疏

「夫れ祭なるものは、必ず夫婦これを親らす」『禮記』祭統

 夫婦単位の祖先祭祀という意味が含まれている。

『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである[谷口やすよ1978]。

 つまり中国の宗法では夫婦一体で祭り祭られる存在であり、これは日本でも世代仏として夫婦一対の位牌となることで基本的に我が国に継受された思想といえるし、まさに婚家帰属性を明らかにしている思想である。

 我が国も漢土法も近世朝鮮・韓国も同じことである。この点については東洋法制史の滋賀秀三(1967 459頁)によると女性は父の宗との帰属関係を有さない。父を祭る資格を有さないのである。女性は婚姻によってはじめて宗への帰属関係を取得する。夫婦一体の原則にもとづき、夫の宗の宗廟に事える義務を有し、死後、夫婦同一の墳墓に合葬され、考妣対照の二牌つまり夫婦で一組の位牌がつくられ、妻は夫と並んで夫の子孫の祭を享けるが、女性は実家において祭られる資格を有さず、未婚の女の屍は家墳に埋葬されず他所に埋める。つまり女性は生まれながらにして他宗に帰すべく、かつそれによってのみ人生の完結を見るべく定められた存在であった。

 後漢の『白虎通』に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」。「礼の挙行によって女性は確定的に夫宗〔夫の宗族〕の秩序に組み込まれる。漢族は夫婦別姓であっても妻は夫の宗族に帰属する。韓国の門中も同じことである。

 だから、儒教規範で徹底している社会(例えば韓国農村)において、女性にとって最大の幸福とは、死後亡夫と並んで一組の位牌がつくられ夫の子孫によって末代まで祭を享けることにあるのだ。

 もっとも、中国は中華民国以来、親族法を大きく変革しており、男女平等をコンセプトにしている。韓国においても1990年代に親族法を改正し、法制的には伝統的なものではなくなった。

 以上、東洋の家族倫理をふまえて、日本の家族倫理法制について言及したい。我が国の家族道徳の基本は孝子・順孫・義夫・節婦(総じて「孝義」)という儒教道徳である。律令国家の統治理念は儒教道徳による民衆教化なのである。それで日本は礼節をわきまえた国民性の基本になっている。

 儒教は偕老同穴の思想にみられるように、夫婦の一体性も重視していることに注意したい。

 そしてそれは、福沢諭吉が「古来偕老同穴は人倫の至重なるものとして既に已に其習慣を成し、社会全体の組織も之に由りて整頓したることなれば、今俄に変動せんとするも容易に行はる可きに非ず」『福翁百話』と言ったように、それは近代社会にも通じる夫婦倫理といえる。

 令制では、儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序を確立した。婦人道徳が民衆に浸透していったのは節婦の表旌に多くの記事がみられる9世紀と考えられる(賦役令では孝子・順孫・義夫・節婦の聞こえがある者を太政官に報告し、天皇へ奏聞を行い、その家の門前か所属する里の入口に孝状を掲げてその人物と同一戸の全ての公民に対する全ての課役を免除した[曾我部静雄1974武田佐知子1980]。

 節婦表旌の一例をあげると、三代実録、清和天皇、貞観七年三月廿八日巳酉条 近江国に言えらく、伊香郡の人石作部廣継女、生まれて年十五にして、初めて出でて嫁ぎ、卅七にして、夫を失ふ。常に墳墓を守り、哭きて声を断たず、専ら同穴を期ひて再び嫁ぐに心無し。其の意操を量るに節婦と謂ふべし』と。勅あり『宜しく二階を叙して戸内の租を免じ。即ち門閭に表すべし』

 つまり節婦には単に二夫に仕えずという貞操概念だけでなく、偕老同穴という夫婦の羈絆性を重視する価値観が含まれており、実はキリスト教の夫婦の伴侶性を重んじる価値観にも通じている。

 もちろん、舅姑に従わない嫁は離縁することができるとする七出の状も戸令に定められているし、礼の基本として、社会の基本単位としての家族のあり方を繰り返し説くのが儒教である。それは我が国に継受された規範的な価値である。

 それゆえ、「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という旧皇室典範44条の立法趣旨をあっさり否定する有識者会議案が、日本の家族倫理をたたきつぶすとどめになることを非常に恐れている。

 日本の「家」の構造を理解するうえで、人類学の大御所清水昭俊が1960年の出雲地方斐川下流域のフィールドワークで発見した「世代仏」(セタイホトケ)という学問的概念は優れていると思うので補足して説示する。

 というのは例えば社会人類学者の蒲生正男は、婚入者(嫁)の成員性について「カマドの一体化原理」という説示があるが、素人にわかりにくい。この点、明解な理論を提示する清水昭俊説が優れているということである。

 人は死亡時に所属した家の仏になる。仏には世代仏と子仏の2種類がある。世代仏とは、清水が出雲のフィールドワークで発見した概念だが、日本の「家」の標準的な仏体系とみなしてよい。

 世代仏とは、歴代の家長・主婦達であり、出雲では永久に年忌が営まれる(弔い上げはない)。生前結婚し、家長・主婦に予定されながら、家長・主婦になる前に死亡した者、男の家連続者(家長予定者)が、結婚年齢に達しながら未婚で死亡した場合を含む。ただし婿、嫁で不縁とされた者、中継ぎとして分家した夫婦等は、世代仏とはならない。一系列に配列された歴代の世代仏は、生きている家成員と、家の創始者(先祖)を結びつける媒体である[清水1987 208頁]。

 清水が「家」を家族というよりは出自集団descent groupあるいはリネジ団体と定義したヒントが世代仏であったと考えられる。

世代仏は見事に「世代的連鎖にもとづく特定祖先への系統的帰属」を表している。。婚入者は嫁であれ婿であれ、子孫に孝養を尽くされ、死んでからは子孫に供養される存在なので婚家帰属は明白だということである。

 上野和男[1985]が位牌祭祀の諸類型を分類しているが、相続者夫婦を本幹として位牌が深く蓄積する「父系型」の類型が、日本で最も広い分布をもつものとされているので、清水が発見した「世代仏」概念の裏付けにある。牌が蓄積しないケースもあるし、少数例であるが、特殊な形態として分牌祭祀と、位牌分けがある。

 我が国の家庭の多くで位牌祭祀がすたれているわけではない。「家」が存在することは疑いようがない。

とはいえ大都市においては単純核家族も多くなっているとの反論があるかもしれないが、

 人類学の理論では核家族も「家」であることに変わりない。清水昭俊は、清水盛光、川本彰、リーチを引いたうえで日本語の「家」と欧語のfamilyは近似したものとの認識を示している。家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団と親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の最広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」[清水1987 56頁]としているが厳密な定義と言ってよい。

 さらに清水[1987 96頁]は次のようにも云う「家‥‥は家族本位制のもとに、つまり〈いえ〉といった理念の下に共同意識で結ばれた家内的生活集団と定義され‥‥伝統的社会の家で営まれる家内的生活の内容は豊富で、多くの機能が累積している。つまり重責的共同体である。またこのように家を定義すれば、現代都市の核家族もまた〈マイホーム〉〈かぞく〉〈いえ・うち〉といった理念で結ばれた家だということができる」とする

 家業の継承のない核家族といっても親族との連帯関係がないということは考えにくい。盆暮の帰省、特定祖先への系統的帰属意識、また民法自体直系血族の第一次的扶養(民法877条1項)等が期待される親族共同生活の場とされているので、親族構造と無関係な単なるドメティックグループに核家族が解消されたわけではない。

 私は、女子の幸福とは、嫁いだ夫の家をわが家とし、子孫に孝養を尽くされ、夫ともに位牌となって末代まで供養されることにあるという古来の家族倫理が正しいという立場である。もしそれが否定されるなら日本は共産主義者の手に落ちたことなにるだろう。

 仁孝皇女静寛院宮親子内親王(和宮)が尊敬されるのは、婚家が天皇の名をもって討伐を受ける最悪の事態において、徳川家の存亡に従う覚悟を示したことが、婦人道徳の鑑であるからである。

 慶応4年(1868)静寛院宮は慶喜と天璋院の懇請により、徳川家存続の嘆願書の周旋を依頼された。

 静寛院宮親子内親王は、2月26日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている[武部敏夫1987]。

 もし、親族を見捨てて存命したら、末代まで婦人の道徳に反し不義者と申される。かえって御父帝様へ不孝なので、徳川家の正室である以上、死を潔くするという意味である。

 ここにも儒教的な婦人道徳の価値観が示されている

 いかにSDGs信者が嫌おうが、マルクス主義者が家父長制を撲滅しようと企むとしても、「家」は存在し、妻は夫の家に入るのが通例。にもかかわらず、有識者会議は、皇統譜と戸籍とバラバラな、「婚姻家族」とはいいがたい、際立って異常で歪なものを提言している。全然美しくない。①案を皇室の制度にしてはいけない。却下されてしかるべきものである。

(三)内親王の歴史的由来を全面的に否定し皇室制度を破壊する

 内親王の歴史的性格について文殊正子氏によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している[文殊正子 (1986))、中村みどり (2002) 文殊説の要約]。

 そもそも大宝令や養老令の継嗣令王娶親王条では皇親女子の皇親内婚が規定され、内親王が臣下と結婚することは一貫して違法であるが、10世紀に藤原師輔が内親王三方と密通のうえ、事後的に承認されたことから、違法(反律令行為)であるが臣下に降嫁した内親王の例は少なからずある。[i]

 延暦12年(793)九月丙戌詔により、二世女王は藤原氏との結婚が許され(初例淳和皇子恒世親王女の藤原衛への降嫁)、三世女王以下は、現任大臣と良家(三位以上と解される)に降嫁することが可能になったが[安田政彦 (1998)、栗原弘 (2002)、中村みどり(2002)(2014)]、原則は皇親内婚である。従って令制においては皇親女子(内親王・女王)とりわけ内親王と臣下との婚姻は想定されていない。

 違法と考えられる内親王皇女の勅許による結婚として令制では婚約の一例を除いて22方である。内親王に限ると18方。

 臣籍に降嫁した皇女を含むと(養女除く)23方、20世紀後半以降を含めると27方(令制では二世女王にあたる眞子内親王殿下まで含めても30方)。

 統計的にみると6世紀の宣化皇女以降19世紀までの皇女のうち、臣籍に降下した皇女をのぞくと446方(服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館2002の皇女一覧表参照)おられ、欽明后石姫から光格后欣子内親王まで皇女56方(臣籍に降下した皇女含むと58方)近代まで含むと昭和天皇長女の東久邇宮盛厚親王妃成子内親王まで63方が皇親内婚(結婚相手は天皇・親王・諸王)である。

 皇親内婚56対違法婚22である。生涯非婚の内親王が大多数を占めることもあり、そもそも違法婚である臣下への降嫁は圧倒的少数なのである

 内親王の臣下への降嫁は統計的にみも少数で例外的といえるのである。。

 明治22年旧皇室典範では、令制では皇女か天皇の姉妹に限定されていた内親王位は四世女王まで拡大されたうえ、39条では「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」とされた。

 令制では違法だった内親王の降嫁が特に認可された華族においては合法とされているが、旧皇室典範のもとでは、婚期まで無事成長した内親王はすべて皇族に嫁し王妃となった。令制の趣旨は継受されているとみてよいのである。

 有識者会議は①案を正当化するため内親王が婚姻後も皇族の身分を保持した先例として報告書では徳川家茂に降嫁した仁孝皇女静寛院宮親子内親王、事務局調査・研究資料では藤原師輔が内親王と密通のうえ事後承認された醍醐皇女勤子内親王等6例を例示しているが、いずれも継嗣令王娶親王条の内婚規定に反する違法婚であり(内親王が臣下へ降嫁するのは令制では一貫して違法)、違法婚だが勅許によるものとしても、反律令行為で例外的事例を「皇室の歴史と整合的なもの」とする報告書には全く論理性がない。

 皇親(天皇・親王・諸王)としか結婚しない。内向きだから内親王なのである。内親王の歴史的性格規定に根本的に反する反律令行為を「皇室の歴史と整合的なもの」と有識者会議は言い募っているのである。①案が内親王の性格を外向きに改変する。内親王の歴史的由来を否定、皇室制度の根本的変革を意図するものといえる。

 そもそも内親王は臣下に降嫁することが令制では想定されてないのである。違法婚のはじまりは10世紀だが、とくに藤原師輔と康子内親王との密通は天気を損じたが[大鏡]、師輔は村上天皇にとって皇太弟時代から近臣で、皇后の父でもあるから事後的に勅許されたということである。

 聖武皇女不破内親王は配偶者の塩焼王が臣籍に降下しても内親王であったが、巫蠱に連座して宝亀3年(772)、異母姉の称徳女帝により内親王位を剥奪(後に誣告とされ復位)され懲罰的に臣籍に降下したケースがある。親王は謀反や陰謀にかかわらない限り、親王位や皇親たる身分がそう簡単に失われることはないとはいえる。

 したがって内親王のままであることは違法婚であっても自然といえるが、内親王が臣下に降嫁することは令制が想定してないイレギュラーな事例で、伝統規範に沿ったものとはいえないのに、有識者会議は反律令行為を「皇室の歴史と整合的なもの」と評価しているのは詭弁であり、国民を騙しているということを申し上げたい。

 

(四)3年11/30事務局調査研究資料の①案の前例とされる6事例に論理性はない

 有識者会議の令和3年11月30日会議事務局調査研究資料では、江戸時代の臣下に降嫁した(御一方は婚約)四方が①案の前例として例示されているが、実際には17世紀に摂家に降嫁した皇女は九方おられる、そのうち八方は内親王と称されている。18世紀に徳川氏との婚約が一例、19世紀に徳川氏への降嫁一例がある。有識者報告では19世紀の静寛院宮親子内親王(和宮)の一例のみ例示している。

 室町戦国時代の皇女はすべて非婚、尼門跡(比丘尼御所)だった。尼門跡は寺領経営体のトップという処遇で、皇女であることにかわりなく経済的待遇は決して悪いものではない[菅原正子2002]。

 17世紀に摂家への降嫁が多いのは、禁中並公家諸法度により儲君以外の親王は、現官大臣より座次下位となったので、実質、世襲親王家当主より五摂家が座次上位となった。五摂家は釣り合うという認識になったと推定できること。

 17世紀は皇女が多く、室町時代以来の比丘尼御所(尼門跡)の知行も不足していた。御生母が徳川氏であるケースを別として、皇女御料はなく[久保貴子2009]、経済的理由で結婚相手として五摂家が選択されたと考えられる。17世紀末期に福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以降、皇女の結婚は霊元院の復古主義により、内親王は本来の皇親との結婚が基本となり、摂家との婚姻はなくなった。

 以下A~Dに示すとおり、摂家や徳川家正室となった皇女は、身位は内親王であっても、いずれも嫁取婚、夫方居住、墓所も婚家であり、婚家に帰属したことは明らかである(ただし後水尾皇女常子内親王については、近衛基煕との結婚の初期が別居だったなど注釈が必要なので本文で説明する)。

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 したがって、そもそも令制では内親王と臣下の結婚自体が違法で例外的なものであったが、明治22年皇室典範では、内親王の範疇が四世王まで拡大され、特に認可された華族と内親王・女王が結婚できるものとし、44条で内親王や女王が華族と結婚した場合に、夫の身分に従い皇族の列から離れ、華族に列するとしても、出嫁女は夫方の婚家の成員となるという華士族平民の「家」制度的家族慣行に合致するので、旧皇室典範44条に違和感はなく正当性があるというべきである。

 皇室典範12条は旧典範44条を継受した。ここで言っているのは明治民法の「家」制度ではなく民間の家族慣行としての14~15世紀に確立した嫡子単独相続の「家」である。今日でも国民の慣習では結婚は個人の結びつきにとどまらない認識され、家と家がかかわるものであり、結納等の儀礼がある。人類学者は婚姻家族とは性的役割分担で成り立っているもの家長-主婦の性的役割分担に基づくものが「家」である。

 和装婚姻儀礼では定番の、白無垢は死装束で生家成員としての死を、色直しは婚家での再生、婚家の成員となったことを意味するという解釈は有力であり[江守五夫1993][徳島県立博物館 企画展図録『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』2001]、今日でも夫婦同氏制で96%が夫家の姓であるのは、文明が起きたのはどこも父系、準父系社会だからということもあるが、日本においては大化元年645年「男女の法」が良民は父系帰属主義をとったからでもある。

 したがって、①案は大化元年以来のいやそれ以前からの伝統を破壊する象徴になりかねない。大変恐ろしい文明破壊兵器となるだろう。

 皇室制度の破壊にとどまらない。国民の多くが皇室を慕っていることから、このように歪で醜悪な制度化を行うことは、国民への影響も大きく、夫婦別姓導入と夫婦の役割分担のポリコレ化を促す。それゆえ強く反対するものである。

 

A 嫁取婚

 公家社会では少なくとも戦国時代においては嫁取婚の様式であることがわかっているが、室町・戦国時代の皇女は比丘尼御所に入寺得度するのが通例なので、非婚だった。

 しかし17世紀には皇女の摂家への降嫁が九例ある。

 嫁取婚については天和3年(1682)近衛家煕と霊元皇女憲子内親王の婚儀について記録があり、「无上法院殿御日記」に白無垢、色直しという今日でも嫁入婚の和装婚礼の定番となっている習俗が書かれているし「基煕公記」に書かれている嫁迎えの儀式は嫁取婚の形式である[瀬川淑子(2001)]。17世紀の摂家への降嫁他の8例も嫁取婚で同様と考えられる

B 夫方居住

 17世紀、摂家に降嫁した皇女のうち東福門院(後水尾后源和子、徳川秀忠女)所生の皇女二方(女二宮と、賀子内親王)は、幕府より婚姻に際し、知行三千石が充行われているが、これは将軍の外孫にあたるため特別待遇であった。婚嫁した近衛家や二条家の邸宅の敷地内に皇女のために大きな御殿が新造されているけれども、夫方居住なのである。

 10世紀の醍醐皇女康子内親王と師輔との密通は内裏だったが、婚姻が承認された後は、師輔の坊城第を居邸とし、夫方居住が史料上確認できる[栗原弘2004 5頁]

C 墓所

 事務局例示6例のうち師輔に降嫁した御二方の墓所は不詳であるが、康子内親王の四十九日は、藤原氏の氏寺法性寺で、師輔の先妻と同じ。

江戸時代に摂家や徳川家に降嫁した皇女(内親王)十方の墓所は近衛家・東福寺海蔵院・大徳寺、二条家・二尊院、九条家・東福寺、徳川家・増上寺である。

 いずれも婚家の菩提寺ないしゆかりの寺である。いずれも宮内庁治定陵墓ではないということは、皇室ではなく婚家に帰属していることを意味する。

 人は死んで仏になる家に帰属する、江戸時代の非婚内親王では、孝子内親王(後光明皇女)の墓所は御寺般舟三昧院、淑子内親王(仁孝皇女)は御寺泉涌寺で、いずれも皇室の菩提寺であり、非婚内親王は終生皇室に帰属するといえるが江戸時代の例示四方はそうではない。

 ただし事務局が例示した八十宮吉子内親王(霊元皇女)は宮内庁治定陵墓のリストにある。2歳で婚約したが直後に婚約相手の家継夭折のため江戸に下向されなかった。

 3歳で未亡人となり、徳川家正室の寡婦の扱いで経済的には厚遇されたが、御寺(皇室の菩提寺)でなく、徳川家が造営した知恩院が墓所である。

 

D 知行

 有識者会議①案の女性皇族は摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員を担う立場である以上、当然国家的給付があると考えられるが、事務局が①案の先例として例示している近衛基煕に嫁した常子内親王(後水尾皇女)と二条綱平に嫁した栄子内親王(霊元皇女)に内親王独自の知行はなかった。

 常子内親王は後水尾院より結婚後も経済的にあれこれ支援(例えば近衛家本邸の改築、紫竹の別荘の購入など)されているとはいえ、そもそも皇女御料はなかったのである。嫁取婚、夫方に居住し、北政所等と称されていたのだから婚家に帰属することはいうまでもない。

 和宮は有栖川宮熾仁親王と婚約(後に破棄)し化粧領三百石を得ているが[久保貴子2009]、これは親王妃としての皇族費に相当する知行である。①案のイメージとはかなり違うありかたである。

 有識者会議①案のモデルとされる英国のアン王女であるが、歴史人口学では英国の基層は単純核家族の社会構造と、日本とは違う。

 有識者会議が①案の先例と言い募る、静寛院宮親子内親王にしても徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟をされた。徳川家で葬儀が行われ、墓所の増上寺は宮内庁治定陵墓ではない以上、徳川家に入った皇女が、摂政や国事行為臨時代行を担うといっても説得性はない。先例といってもフェイクに近い先例で了承しろと迫ってくる有識者会議と事務局のロジックに騙されてはいけない。

 

(五)皇室典範12条改変は「千古ノ国体」たる家制度破壊

 皇室典範12条の否定は、天皇と皇后、親王と親王妃といった皇族の性的役割分担を流動化させ、男女共系に道を開き皇室制度を革命的に破壊するので絶対反対である。

 明治民法の夫婦同氏の立法趣旨は、すでに民間では事実上、夫婦同氏で呼称するのが慣例となっていたこともあるが、もちろんよくいわれることだが、婚姻家族の一体性を重んじる考え方、明治民法はドイツ、オーストリア、スイス、イタリア等の法制が夫婦同姓であることに倣って、欧米の単婚家族におけるファミリーネームを継受したという側面はあることは認める。

 明治民法起草者穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三者のうちもっとも強く夫婦同氏を推進したのが梅謙次郎である。梅は儒教道徳より愛情に支えられた夫婦・親子関係を親族法の基本とし、士族慣行より、庶民の家族慣行を重視した点で開明的だったといえる。

 しかし夫婦同氏の立法趣旨の第一は日本的「家」の慣行、婚入者の婚家帰属、妻が夫の家に入る嫁入婚の慣習にもとづくものである。

 梅は法典調査会で、漢土法に倣って夫婦別氏とすべきという一部の意見に強く反対し、日本の慣習では妻が夫の家に入ることが慣習である以上、実家の苗字を唱えることは理屈にあわないとはっきり言っている。

「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信しシラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ‥‥」『人事慣例全集』58頁[江守1990 57頁]

 私は夫婦別姓の推進者は舅姑に仕えたくない、夫と同じ墓に入りたくない、でも夫家の財産は分捕りたい。日本の慣習、醇風美俗を否定しているから容認しがたいのである。

 夫婦同氏制度に批判的な法制史家は、妻が夫の家に入って共同生活に入ると同時に夫の戸主権に服する「家」制度の残滓[熊谷開作1987 208頁]とみなすのであるが、私はこれを否定的にとらえる必要はなく、「家」制度が日本の社会構造なのだから、日本の家族慣行が崩壊せず、白無垢、色直しなどの嫁入り婚の習俗も廃れずにすんでいるのはかろうじて、「家」制度的な残滓の夫婦同氏制が残っているから、これこそが日本の伝統規範、醇風美俗を守る最後の砦という認識である。

 限嗣(嫡子)単独相続という日本的家制度が確立したのが14~15世紀である。

 後藤みち子[2009]によれば、我が国では15世紀に公家の妻たちは夫の名字を名乗り、同じ墓地に葬られるようになった。

 摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。『後法成寺関白記』(近衛尚通1472〜1544)では久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。

 一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。嫁は婚家に帰属するから、夫婦同苗字なのであり、明治民法以降の夫婦同氏も基本的には同趣旨である。

 人類学者では厳密な定義で定評のある大御所の清水昭俊国立民族学博物館・総合研究大学院大学名誉教授[1970、1972、1973]によれば、 「家」は家長-主婦という地位は必須の構成であること。家長と主婦は必ず夫婦であること。次代の家長と主婦を確保することで永続が保障されること。嫁は主婦予定者として、婿は家長予定者として婚家の成員であること。婚入配偶者は、「家連続者」たりうる。そして死後も婚家の世代仏となるので、その婚家帰属性は論理的に明らかである。

 以上が清水説の概略であるが、シナにおいても妻は夫の宗に帰属し、清朝の姓名記載慣習は夫婦別姓ではない[島村修治『外国人の姓名』ぎょうせい24頁]。夫婦別姓は宋姉妹が特約で別姓としたことが流行ったことによる。

 出嫁女の婚家帰属性は中国の宗族、韓国の門中も同じである東アジア共通の社会構造ともいえる。

 この点、皇室は、令制皇后は嫡妻というよりも政治的班位としての性格が強く、皇后を冊立せず、嫡妻格の女御だけ、嫡妻のいない天皇も少なくないことから一般的な「家」と違う側面もあるが、華士族平民の「家」の婚入者が嫁であれ婿であれ「家」の成員である以上、また穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいうべき社会構造である以上、旧皇室典範44条において、皇族女子が、華族と結婚する場合、夫の身分に従って皇籍を離脱して、華族に列するのは、家族慣行に合致していて、合理的なものであり、旧典範44条を継受した現皇室典範12条も正当なものといえるのである。

にもかかわらず有識者会議は正当性のある12条の改変を提案したことではきわめて悪質だと判定せざるをえないのである。

 結論として、有識者会議①案は皇室典範12条改変により恒久的制度とするもので、内親王の歴史的由来、皇室制度を破壊し、東洋における夫婦斉体思想、西欧の夫婦の一体性を重視する単婚理念という文明規範ともいえる夫婦倫理、家族倫理を否定するものである。歪なかたちの夫婦別姓を先行実施させるものであり、一般国民の家族慣行に深刻な影響をあたえ、我が国の家族慣行、それは千古の国体、醇風美俗を否定するものとして明確に破棄されるべき案なので、この点を政治家の先生方に伏してお願いしたいと思います。

(私は穂積八束の北朝抹殺論に批判的な見解だが、千古の国体論は好意的ということである)

 

二 ③案が最善-皇統に属する男系男子が直接復帰すべき

 

 

(一) 11宮家の再興・旧皇族復籍をコンセプトすべき

 

 11宮家は昭和22年、昭和天皇と大正天皇の直宮三家を守るため、当時の特殊な事情により離脱されたのであって、11宮家の宮号再興、旧皇族復籍をコンセプトとして皇統に属する男系男子を独立の当主として復籍していただくべき。

 旧皇室典範は、原則は 永世皇族制であり男系男子が続く限り皇族である。現皇室典範も嫡出を明記しているが同じことである。

 明治22年皇室典範の永世皇族制を前提とするならば、旧宮家の男系男子は、離脱してなければ皇族であったはずだから、現今のように皇位継承者が枯渇している状況では、できる限り復籍していただくのが筋である。

 もっとも、明治40年に皇室典範増補第一条「王は勅旨又は情願に家名を賜ひ華族にせしむることあるへし」により、臣籍降下がありうることが確定し、永世皇族制度が見直され、大正 9年(1920)から昭和18年(1943)にかけ、明治40年(1907)年の皇室典範増補に従い、臣籍降下された次男以下の12名の旧皇族がおられるが、この方々の男系子孫(分家だけでなく養出したケースも含めて、復帰していただきたいと考える。それでは多すぎるということなら別途調整する案が考えられると思う。

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 皇室典範増補の規定により華族に降下した皇族

 

大正9年 山階宮菊麿王次男 芳麿王→山階侯爵

大正12年 久邇宮邦彦王次男 邦久王→久邇侯爵

大正15年 伏見宮博恭王三男 博信王→華頂侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王三男 藤麿王→筑波侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王四男 萩麿王→鹿島伯爵

昭和4年 山階宮菊麿王五男 茂麿王→葛城伯爵

昭和6年 久邇宮邦彦王三男 邦英王→東伏見伯爵

昭和11年 朝香宮鳩彦王次男 正彦王→音羽侯爵

昭和11年 伏見宮博恭王四男 博英王→伏見侯爵

昭和15年 東久邇宮稔彦王三男 彰常王→粟田侯爵

昭和17年 久邇宮邦彦王甥 家彦王→宇治伯爵

昭和18年 久邇宮邦彦王甥 徳彦王→龍田伯爵

 とはいえ、ウィキペディアによれば閑院家は絶家とされている。無嗣子となった旧宮家もあるだろう。皇室典範では宮号は称号であり、遺産相続はあっても家督相続なしというが臣籍に降下された以上、家の跡取りが考えられているはずである。

 通常、実子の跡取りがいない場合は、婿養子や養子縁組をする。皇籍から離脱されている以上、養嗣子を取ることはできるから、例えば旧宮家Xに4方男系男子がおられるなら、御一方はX宮家当主として復籍し、他の男系男子は、実系では途絶した旧宮家の養嗣子であるならば、皇籍に復帰できるようにする。そうでなくても旧宮家を尊重し、当主もしくは代表者の推挙によるなど、それに准じた案を検討し、旧宮号をできるだけ多く再興するようにすべきである。具体策は第二部の第2節に記述する。

 私は有識者会議の①案とそれに付随する性的役割を流動化させる皇室典範12条の改変に絶対反対で、③案の皇統に属する男子が直接宮家の当主として(配偶者・実子を含めて家族ぐるみでよい)復帰する案に絞るべきだと提言したい。

 ②案については、現存宮家の当主が跡取となる養嗣子を要望されているなら、③案と平行する形で検討すべき事柄。

 つまり、旧宮家の嫡男は旧宮号で再興していいただき、次男以下の男子がおられるなら、その方々は新宮号や実系では途絶した宮号の再興を基本案として、もしくはそれに工夫を加えて復籍していただくということである。旧宮家を尊重するあり方が望ましい。

 

二) 養子縁組案に否定的な理由

 

 そもそも、皇室典範9条は養子相続を認めていないので、明治22年以前のあり方に戻すだけだといっても、改革には慎重であるべきである。できれば9条も改変しない方がよいと思う。

 但し現存宮家当主が跡取りとして養子縁組の希望があると仰られるなら検討せざるをえない。しかし皇室典範で養子相続が否定されている大前提があり、宮号、財産や祭祀を承継する養嗣子は必要がないと仰られたなら、この案は実現困難となり、男女共系に道を開く①案しかなくなるというリスクがあり。従って堅実無難な③案が軸とすべきである。

 通常養嗣子というと、長男ではなく、次男以下が養子に出されるイメージである。旧宮家の方々の矜持もあり、宮家の長男の方は旧宮号で直接復帰し、次男以下が新宮号もしくは現存宮家の養嗣子とされるのが筋だろう。現存宮家より旧宮家のほうが古い家系であるから、新しい家系に古い家系の長男で継承させるというのは道理に合わないのである。

 現存宮家が養子縁組する目的が、たんに旧皇族男系男子の血縁的疎隔を穴埋めするための准的な措置、方便として行うという意味なら、以下の理由でそれは不要である。

 

第一 皇統上の格別の由緒、永続を約された由緒など崇光院流に正当性がある

   伏見宮御一流の宗家である伏見宮家には後深草院流正統とする『椿葉記』に記されるような皇統上の格別の由緒、永続を約された由緒が複数以上あること。崇光院流=伏見宮の正当性の再定義を政府で行えば、国民の理解は容易に得られし、それほど伏見宮と天皇家が併存する理由、伏見宮の永続性にかかわる理由には事欠かないからである。

 

第二 令制皇親制度は世数制限があるが、15世紀に実質修正され天皇との血縁的疎隔してもステイタスを維持できる。皇統上の正当性こそが肝要

   大宝令や養老令の継嗣令皇兄弟条は、皇親の範疇を四世王までに世数制限しているが、15世紀に、門跡に入室する人材が払拭したため、五世王や六世王でも上皇や天皇の猶子として親王宣下が合法化された。中世公家法は、准的などの法技術により令義解の原意にこだわらない解釈が可能なので継嗣令皇兄弟条は男系が皇親という根幹は不変だが、15世紀に実質修正されており、しかるべき由緒のある皇統では、天皇との血縁が疎隔しても親王宣下が慣例化した。継嗣令の原意の世数制限にこだわる必要はない。

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 15世紀は限嗣単独相続の日本的家制度の成立期であり、それに対応した皇親制度に変容したのである。要するに15世紀以降の展開は、皇統上の格別な由緒、正当性が重要なのであって、天皇との男系での血縁の疎隔はさほど重要な問題ではない。

第三 明治皇室典範は永世皇族制度となったから特殊な事情で離脱した宮家は復籍されるのが筋

   五・六世孫の親王宣下の慣例によって、後深草院流の正統という格別の由緒のある伏見宮は世襲親王家となり、天皇と血縁が疎隔しても親王家のステイタスは劣化せず、皇親からフェードアウトしない自立的に親王位を再生産する別格の宮家となった。伏見宮家は、康正2年(1456)の「永世伏見殿御所号」の後崇光院太上天皇の紋の直許の所伝等などから永続が約されているステイタスにある別格の宮家と評価できるのである

  明治5年(1872)に伏見宮出身の載仁親王が継嗣のない閑院宮を継承し、明治14年(1881)に仁和寺門跡より還俗した東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)が世襲親王家に格上げされ、永代存続する伏見宮系の世襲親王家は三家となっている。

   幕末期に朝政参与、皇室の脱仏教化により伏見宮出身の宮門跡が続々とし還俗し7つの宮家(うち1家は幕末に途絶)が創立した。還俗皇族は原則一代限りで2代目は賜姓降下とされていたが、前記東伏見宮(のち小松宮)が世襲親王家となり、山階宮、久邇宮は二代皇族とされ、当主が薨去した宮家(北白川宮、華頂宮、梨本宮)も明治天皇の特旨によって継承がなされた[山田敏之 2018]。
 明治22年(1889)皇室典範では世襲親王家は廃止され、伏見宮や閑院宮は王号を称する宮家となり、養子相続も否定されたため、実子のない小松宮や華頂宮は断絶し、北白川宮輝久王が、明治36年に臣籍降下して小松侯爵家を創立し、宮家の資産・祭祀を継承した。また華頂宮博忠王に王子女なく途絶するが、伏見宮博信王が大正15年に臣籍降下し華頂侯爵家を創立し、宮家の資産・祭祀を継承した。

   しかし旧皇室典範31条は「永世皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」とされ男系男子が続く限り永世皇族制となったのであり、旧世襲親王家の伏見宮、閑院宮のほか、明治天皇の特旨により存続していた山階宮、久邇宮、北白川宮、梨本宮も永世皇族となった。

 皇室典範施行以後も、賀陽宮(明治25年)、東伏見宮(明治36年)、竹田宮、朝香宮、東久邇宮(明治39年)が永世皇族制のもとで創立されている。

  なお、明治天皇の皇女(内親王)九方のうち、婚期まで無事成長されたのは四方であるが、次表にあるとおりすべて伏見宮系皇族に嫁し親王妃となられたのである。

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   永世皇族制を前提とするならば、11宮家は、昭和22年に昭和天皇と大正天皇の直宮を守るためなどのやむをえぬ事情で離脱されたのだから、この際、末流の男系男子は復帰していただくのが筋である。

 要するに伏見宮家は『椿葉記』(永享6年1434奏進)等における後深草院流の正統、嫡流を引く皇統上の格別の由緒と、康正2年(1456)「永世伏見殿御所」号勅許の所伝等における永続を約されている由緒に加え、明治14年(1881)には永代宮家としての世襲親王家が伏見宮系では三家となったこと。その他、宮門跡か還俗して創立した伏見宮系宮家も明治天皇の特旨により相続が許され存続したこと。

 さらに皇室典範のもとでも伏見宮御一流11宮家は、永世皇族制のもとで存続していたという由緒がある以上、現皇室典範もそうだが、旧皇室典範でも養子相続は否定されているので前提からすれば特殊な事情で離脱した方々を養子相続などの下手な策を弄せずとも復籍していだくのが筋である。

 

第四 想定される反論(皇族ノ降下二関スル施行準則)に対する反論

  以上の見解について、以下のような反論が予想される。

  本来ならば皇室令と同等の性格をもつものだが、大正天皇の裁可を受けただけで、公示されることがなかった大正9年(1929)「皇族ノ降下二関する施行準則」は、皇族の臣籍降下を可能にした明治40年(1920)皇室典範増補の準則で、伏見宮系皇族は、15歳までに情願がなければ勅旨により家名を賜り、臣籍降下し華族に列する。ただし長子孫の系統で邦家親王から数えて四世孫までを除くと定め、次男以下は直ちに臣籍降下(但し邦芳王と多嘉王は例外)。長子孫系統も当時の当主より二世代から三世代たつと、臣籍降下とするものであった。

  それゆえ、旧皇族復籍に難色を示していた所功[2012]などの論者は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられることになり、従来の規模の皇室を維持できなくなったことで、昭和22年に11宮家が臣籍降下したが、そうでなくても、伏見宮系皇族は皇族ノ降下二関する施行準則によりリストラされ、宮家は消滅させる方針だったのであり、しかも皇室典範増補第6条は臣籍降下した皇族は復籍できないとしており、旧皇族の復籍は国民の理解を得られないとする見解がある。まり「準則」が長子孫系統で皇族の身位の維持を保証しているのは、伏見宮家が博明王まで、久邇宮家は邦昭王まで、賀陽宮は邦寿王まで、北白川宮家は道久王まで、竹田宮家は恒正王まで、朝香宮は誠彦王まで、東久邇宮は信彦王までで、次の世代は家名を賜り華族に列するということになる。この準則どおりなら伏見宮系宮家は男系が続いてもいずれは消滅することになる。

  もっとも、この規定に従うとしても、伏見博明氏は、令和4年にも著書を出版され、日本テレビのインタビュー取材を受けお元気であるので現在でも伏見宮家はなお存続したことになるし、東久邇宮信彦氏は令和3年に薨ぜられたので、その時点までは宮家が存続したことになるが、この問題について反論しておきたい。

「準則」は絶対励行されるべき規則ではない

  明治 40年(1907)王は勅旨又は情願により家名を賜って華族に臣籍降下することを可能とする皇室典範増補が成立したことによりも永世皇族制は見直された。

   令制で親王とは皇兄弟か皇子が原則だが、明治皇室典範では令制の二世王~四世王も親王とされたので、王とは皇室典範以前に親王宣下を受けていない五世王以降の皇族である。明治41年有栖川宮の継嗣栽仁王が薨ぜられたので、以降対象となるのは伏見宮系皇族である。しかし十年以上たっても勅旨による臣籍降下は一例もなかった。

  以下、永井和[2012]より「準則」が枢密院諮詢に至る経過を引用する。

  帝室制度審議会で大正 8(1919)年 1 月に「皇族処分内規案」の検討が開始され、委員の伊東巳代治、平沼騏一郎、岡野敬次郎が「現在の宮家を世数を限りて臣籍に降下すべき」として平沼と岡野、宮内省帝室会計審査局長官の倉富勇三郎がそれぞれ起草に当たった。倉富の当初案は、長子孫を除いて臣籍降下させるものだったが、その理由は「現在の宮家を世数を限りて臣籍に降すことは到底実行し難し」「宮内省は之を施行する責任を生するも、実際到底之を施行することを得す。非常の窮境に陥るへきに付、寧ろ処分内規を作らす、不文の儘適宜に処置する方宜しかるへき」というものだが、伊東から批判され採用されず、伊東は、倉富案を支持した宮内省と交渉した結果、宮内省側は、帝室制度審議会の見解を無視できず、大正天皇の直宮でも次男系統は四世孫まで、長子孫系系統でも八世孫までに世数制限することで、伏見宮系をターゲットとした印象を薄め、少なくともあと二~三世代は宮家を維持できる配慮で妥協がはかられた。

  大正9年宮内省と帝室制度審議会の合意により成立した「皇族ノ降下ニ関スル内規」は年2月末に波多野宮内大臣から大正天皇に上奏され、3月3日に枢密院に諮詢され、審査委員会で若干修正されたが趣旨に大きな変更はなく、3月17日枢密院本会議で満場一致により可決された。

  ただ、審査委員会で末松謙澄、一木喜徳郎から、王の臣籍降下を強制義務化するのは、皇室典範および皇室典範増補の法文と矛盾するおそれがあるので、「内規は一般の標準を示したるものにて、絶対に之を励行すへき性質のものに非す。内規中其の趣旨を示す個条を設くる必要ある」との修正意見が出され、それに対して審査委員長の伊東巳代治がその趣旨を示すには新たに条項を追加する必要はなく、ただ内規の表題を「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」と改めるだけでよいと反駁したので、伊東の意見にしたがい表題が変更されるつまり、天皇が降下を命じるのは「原則」であって、場合によっては命じないこともありうるとされたわけである。

 

B 準則の効力についての疑問

 

 「準則」の効力について正面から反論しているのが中川八洋氏で、宮内庁が平成12年(2000)に明らかにするまで「準則」なるものは一般に知られていなかった。宮内庁書陵部が偶然発見した形で表に出された。女性女系天皇準備の一環との見解である。

 「準則」は邦彦王、鳩彦王、博恭王など多数が絶対反対で大正9年5月15日皇室会議の紛糾により実態として廃案であり、法手続き的には成立していないとされるのは、皇室会議令八条は「過半数によりこれを決す」と決議を絶対要件としているためである。波多野敬直宮内大臣が廃案なのに大正天皇の御裁可を頂いたのは大暴挙とされている。ただし公示されず、法律の効力を有しないとされている [中川八洋 2018]。

 皇族の多数が反対もしくは宮内省の把握では賛成派であっても表決に消極的であったため、表決されずに決定したのは異例の展開であり、6月18日には波多野宮内大臣が、皇室会議の不首尾の責任を取って辞職している以上、大筋で妥当な批判に思えるが、5月15日の皇室会議と、宮内大臣辞職に至る経緯につき永井和[2012]と浅見雅男[2016]より引用したうえで、筆者の感想を述べることとする。

 「準則」は枢密院に諮詢されたあと、さらに皇族会議に付議されることになっていたおり、議員は成人男性皇族であり、当時、皇太子裕仁親王と伏見宮系皇族14方で組織され、天皇の命で召集されるが、大正天皇は病状により公務が制限され親臨されず、伏見宮貞愛親王が議長であった。

 とはいえ皇族会議の議案は天皇が下付したものであり、通常は何の異論もなく承認されるのが慣例であった。元老や宮内省にとって異論が噴出するなど天皇の権威が揺らぐことになりあってはならないことだった。

 大正9年4月8日の皇室会議は延期された。宮内省調査課長事務取扱が、貞愛親王から「邦彦王殿下(久邇宮)が主として反対せられ、博恭王殿下も之に賛成し居る模様にて、或は反対者の方か多数なるやも計られす」と告げられ、波多野宮内大臣は貞愛親王に議長の職権で会議を延期することを求めたのである。

 大正9年4月11日伏見宮邸において非公式の皇族協議会が開かれたが、久邇宮邦彦王(陸軍中将)、博恭王(伏見宮継嗣・海軍中将)、博義王、朝香宮鳩彦王が反対を表明し、協議はまとまらなかった。反対派の中心は久邇宮邦彦王で香淳皇后(良子女王)の父であり当時皇太子との婚約は内定しており岳父となる方である。元老の山縣有朋は宮邸を訪問、邦彦王は皇統断絶の危機をもたらす懸念により反対とされ、山縣は「皇統の断絶等を云々せらるるは、畢竟杞憂に過ぎず」などと説得したが不調に終わったため、対策の協議で山縣から、形勢不利なら、大正天皇の勅旨を示して、賛成せざるをえなくする強硬策の提案もあった。 

 当時の皇室会議は成人皇族男子で組織され、成人したばかりの皇太子裕仁親王と伏見宮系皇族14方が議員である。内大臣、枢密院議長、宮内大臣、司法大臣、大審院院長が参列員として出席し、天皇が臨席する。ただし当時は大正天皇が病状により公務制限があり議長は伏見宮貞愛親王だった。

 

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 宮内省の把握では5月6日の時点で、賛成が伏見宮貞愛親王、閑院宮載仁親王、東伏見宮依仁親王、梨本宮守正王、山階宮武彦王、反対は久邇宮邦彦王、博恭王、博義王、朝香宮鳩彦王、北白川宮成久王で、賀陽宮恒憲王は態度不明だったが、伯父の久邇宮を慕っており反対が想定されていた。フランス留学の東久邇宮稔彦王、京都在住の多嘉王、廃嫡とされた邦芳王は皇族会議に出席しない。

 事態の収拾に動いたのは北白川宮成久王だった。議員全体の利害にかかわるため表決しない方向で各宮を訪問して根回しし、皇族間で合意したという。閑院宮載仁親王が表決しないことを提議し、成久王が賛成意見を表明する打ち合わせがなされた。ただし反対派から条件があり、議員の質問と意見表明の自由を保証するというもので、宮内大臣と協議、宮内省がこの妥協案を受け容れたので、5月15日の皇室会議当日は成久王、邦彦王、鳩彦王、博恭王が発言した後、打ち合わせどおり載仁親王が表決しない提議をし、邦彦王、博恭王が反対したが、波多野宮内大臣は議員多数が表決しないことに賛成なら宮内省に異論はないと述べ、議長の貞愛親王が強引に表決しないと宣言し閉会した。

 北白川宮が調整したことで、元老による強硬突破策、勅語により賛成せざるをえなくなる荒療治は避けられたとはいえ、「準則」そのものは、大正天皇が裁可された。

 原敬は決定されたとしているが、玉虫色的収拾のように思える。会議の数日後、波多野敬直宮相は「皇族会議にて議すへき事項なりとして御諮詢を奏請したるに、皇族会議にて議決せさることゝなりたるは、取調不行届の結果にて、恐懼に堪へす」という趣旨の待罪書を大正天皇に提出した。これは却下されたが、6月16日波多野宮相は皇室会議での不首尾の責任をとって辞職する。

 中川八洋氏の指摘のとおり、宮相が議決できなかった責任をとって辞職している以上「大正天皇の御裁可」により永世皇族制は否定されていたというプロバガンダに惑わされる必要はないと思う。

「準則」は伏見宮系皇族を一掃する狙いのリストラになるが、伏見宮の格別の由緒、永続が約されていること、世襲親王家として天皇と血縁的に疎隔しても親王家のステイタスは劣化せず、皇親からフェードアウトすることのない「別格の宮家」「准天皇家」であったこと。15世紀以降世数制限は有名無実で五世王以降の親王宣下が合法化されたことを無視していたといえる。

 それは明治44年の南朝正統の勅裁の影響もある。伏見宮の流祖である崇光天皇が歴代から外され、伏見宮系皇族は後伏見天皇の末裔と称することになってしまったことのダメージが大きかった。

 崇光天皇は、神皇正統記では偽主とされる光厳天皇の皇子で、南朝軍に吉野に連れ去られ子孫の皇位継承を断念する起請文を書かされている。もちろん虜囚の身で窮余認めたのであって、その効力は否定できるし、皇統嫡系の今上陛下も光厳の皇統であることは同じことである。

 伏見宮御一流の皇族の多くは、陸軍、海軍の武官に任ぜられ、臣民に「義勇奉公」の範を示す役割を担うなど大きな存在だったが[所功 2012]所、戦前において支配的だった国民の南朝忠臣賛美と直接思想的に結びつかない捻じれがあったのである、

 今日では大抵の歴史学者や国文学者が認いている、持明院統正嫡『椿葉記』など由緒を語ることが憚れる状況にあったことが推測できる。

 南朝正統史観にもとづき伏見宮御一流はいらないというのは暴論である。禁闕の変、長禄の変で、後南朝勢力は衰え、後花園上皇が後南朝後胤蜂起に対し討伐の院宣を下し、15世紀に歴史上消えているからである。

 皇統で残っているのは光厳院流の皇統(皇統嫡系=後光厳院流と伏見宮系=崇光院流)だけだから、伏見宮御一流を復籍される以外にないわけである。

 今日の歴史学では光厳上皇の現存する院宣は350通に及び、政務は活発であり「暦応雑訴法」が制定され、充実した政治機構が存在していた[森茂暁2008][深津睦夫2014]。

 今日では北朝政権の意義も評価されており、皇国史観は教育されておらず、桜井の駅の別れも史実ではないともいわれる。

 もっとも北朝五代が歴代から外れ、皇統譜の別冊とされていることに今日でも変わりないが、とはいえ、南朝正統論が価値相対化されている状況において、近年の歴史学や国文学など伏見宮の由緒については数々の研究成果があり、伏見宮の特別のステイタスを再評価するならば「準則」を強調して旧皇族を排除する理屈は粉砕できる。この意見書もそのための趣旨である。

 中川八洋氏が主張するように「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の法律の効力を否定するならば大正 9年(1920)から昭和18年(1943)にかけ、皇室典範増補に従い、臣籍降下された12名の旧皇族の末流である男系男子も、皇籍復籍の対象とすべきである。

 12名が臣籍降下しなければ、大正天皇の直宮3家に加え、伏見宮系皇族24家となり30に近い宮家の数は多すぎるかもしれない。

 しかし貞観5年(862)に二世から四世に至る諸王の数は5600人、夏冬の時服料を賜う人数が400余人とされ [藤木邦彦 1991]ことから比べれば、それでも少ないともいえるのであり、伏見宮が完全なる傍系化が回避された由緒があるのだから、冗長な部分として排除するのは間違いだったのである。

 その観点から、昭和18年以前に臣籍降下した12名の旧皇族の末流の男系男子も皇籍に復籍する対象に含めるべきである。

 

第五 養子や親子関係の擬制が否定されている皇室典範において、養嗣子にこだわることにさほど意味はない

 もっとも将来的には伏見宮系が大統を継承する可能性もあるから、皇統転換、付け替えにならないよう、養子縁組で皇統の継続性を考慮したいという考え方はありうる。

 実際、後花園天皇は正長元年(1428)後嗣のない称光天皇が御発病あらせられ、後小松上皇と二条持基の合意により、称光崩御の3日前に伏見若宮御歳10歳が仙洞御所に入御され「後小松院の御所生の如く御父子の儀を契約せられ」たのち新内裏で践祚した『建内記』[村田正志 1983初出1944]。この猶子関係は強いものである。後花園は後小松上皇の猶子として後光厳皇統を継承した。

 光格天皇は、閑院宮典仁親王の第六王子であるが、安永8年(1779)後嗣のない後桃園天皇の早世により、正妻格である女御藤原維子を養母として、後桃園天皇は崩後も在位したことになっており、実質後桃園天皇の養子として9歳で大統を継承された[久保貴子1998] [高埜利彦2019]。15世紀以降は、皇室も皇統転換がなくなり、猶子という親子関係の擬制で直系継承となり、皇統転換は後光厳天皇以降ないといってよい。

 しかし、現皇室典範は、そもそも皇室典範では宮号は称号であり、遺産相続はあっても家督相続なしという実系主義であり養嗣子による継承がそもそもない以上、第4項で述べる伏見宮御一流は皇統の正当性を強調すればそれで足りる事柄といえる。

 養子相続が否定されているので、秋篠宮皇嗣殿下は、今上陛下の猶子という位置づけではなく、皇嗣殿下が即位される場合は、皇統転換となり今上陛下は中継ぎの位置づけになるという見方はありうる。

 もっとも皇太弟ではないので皇嗣は実質猶子という含みがあるという玉虫色的解釈も成り立つ。

 とはいえ皇子がなくても、皇弟(高貴宮=霊元院)を猶子とすることにより嫡流で中継とはされていない後光明天皇の先例はふまえていないのである。

 しかし今上陛下が中継とされるのは良くないのでも皇嗣殿下を養子とすべきだという声はきいたことがないのだから、養嗣子にこだわる必要はない。

 親子関係の擬制、猶子として准的に血縁の疎隔の穴埋めをすると居座りがいいという考え方があるとしても、現存宮家の跡取りつまり養嗣子とする必然性はなく、名目的な猶子とするなにらかの措置があれば足りる。

 直接復帰に際して、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下、現存宮家の皇族方による選定もしくは認証があったほうがすわりがよいということなら、王朝時代の御給、年官年爵のように皇族方に推挙権を行使していただくとか、工夫があってもよいだろう。

第六 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を永続が約されている由緒を重んじるべき

第二部本文で詳しく説示するが要点だけを述べる。

A 『椿葉記』に正統という格別の由緒が記されている

 『椿葉記』(永享5年1433)は、後花園天皇の実父である第3代伏見宮道欽入道親王(貞成親王)が、崇光院流(伏見宮)が後深草院流の正統な皇統とする見解と後高倉院の先例により太上天皇尊号拝受の意向を奏上するための手記であるが、伏見宮がばっちり後深草院流正統である由緒を説示していることは、旧皇族にとって大きなアドバンテージである。伏見宮は琵琶の伝習など嫡流の流儀を継承する宮家であったのだ。

 文安4年伏見宮道欽入道親王(貞成親王)は帝に非ざる皇族だが、太上天皇尊号宣下を受けた。後崇光院太上天皇の横井清[2002]の辞退説は、近年、尊号辞退の報書は事実だが、形式的な慣例で内実は拝受だったとして明確に否定されている。

 実際、後崇光院は元旦に関白以下公家衆の拝賀を受け、繧繝畳に着座し[久水俊和2020a]、「仙洞」「法皇」「院御所」と称された[田村航2018]。

「崇光院流の流儀は王家のなかでは別格であり」、伏見宮家は「崇光院流の正当性を担保し」「皇位継承への一縷の望みを遺す世襲親王家に転成した」、「別格の宮家」「准天皇家」とされる [久水俊和 2020a]  。伏見宮は完全なる傍流化を回避された別格の宮家ということである。

 伏見宮家は14世紀の初代栄仁親王より昭和22年第26代博明王が離脱するまで実系の男系子孫で継承され、600年近く皇族の崇班を継承している意義は甚大であり、宝暦9年後嗣のない16代邦忠親王が29歳で薨去、空主となった時期もあり、宝暦10年(1760)桃園天皇の第二皇子(17代貞行親王)が伏見宮を継承されたが、明和9年(1772)親王が13歳で早世されたため再び空主となる。

 このとき伏見宮家は『椿葉記』等格別の由緒があるゆえ実系に復すことを嘆願している。結果的に安永3年(1774)15代貞建親王の次男で勧修寺に入室した寛宝入道親王が還俗して18代邦頼親王となる[武部敏夫1960]。

 このたびもこれと全く同じ趣旨を強調したい

B 永続を約された由緒が複数以上ある(血縁が疎隔してもフェードアウトしない特別のステイタスを獲得した)

 そもそも『椿葉記』という書名は八幡の御託宣「古今著聞集」「増鏡」の後嵯峨院の逸話に由来するものであるが、単純にいえば崇光院流が久しく栄えることを願った書名なのである。「荘子‐逍遙遊」によれば椿の葉は八千年をもって一春とする。それが再び改まるほど長い年月のことである。永年のたとえであり永続性を意味する(椿は最高の吉祥木だった。花がポトリと落ちるから縁起が悪いとされたのは江戸時代以降のこと)。

 皇室典範より前は、伏見宮家は、血縁が疎隔しても親王家のステイタスが劣化せず、歴代親王宣下され、皇親からフェードアウトしない世襲親王家として事実上公認されていた。皇族からフェードアウトしない落葉しない『椿葉』そのものといえる。

 それは天皇の猶子という親子関係の擬制で、皇子に准じた礼遇を受ける准的措置による。

 世襲親王家が成立した客観的条件として、15世紀に後二条天皇の5世・6世孫や亀山天皇の5世孫が親王宣下されており、五世王や六世王は継嗣令皇兄弟条では、不課の特典はあるが皇親の範疇にないとされているが、中世には血縁が疎隔しても親王位授与が合法化されたことがある。

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 院政期以降、皇子の法親王化が進み、俗体の親王が減ったこと。特に後光厳より正親町まで限嗣単独相続で、天皇家からの分家がなくなったので、皇子が少なくなると、天皇の周囲に配置される宮門跡に入室する人材は、血縁が疎隔する宮家に求められた事情によるものであるが、天皇家とは伏見宮家より血縁的にははるかに遠い大覚寺統の六世王の親王宣下が合法化された以上、皇統上格別の由緒があり、仙洞御所を相続する別格の宮家、伏見宮家が定親王家とされたことは自然の成り行きといえる。   

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 康正2年10月の伏見宮系譜「貞常親王御記」にある康正2年(1456)伏見宮第4代貞常親王が、後花園天皇より「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝は、裏付ける史料がないため慎重に扱うべきであるが、意味するところは世襲親王家の公認であり、近年これを伏見宮家の永続を約したものとして積極的に評価する歴史家が多い。

 それは裏付けがなくても世襲親王家が成立する客観的条件が整っており辻褄が合うからである。

 第一に伏見宮栄仁親王は、室町院領(萩原宮遺領)について応永23年(1416)に後小松上皇より「永代」安堵の院宣を得ている [白根陽子 2018]。

 持明院統の嫡流所領である長講堂領等は、応永5年(1398)崇光院崩後、足利義満により没収され、後小松天皇の禁裏御領に編入されたが、後小松院は代わりに持明院統の庶流の所領である、後高倉皇統追善仏事料所荘園群という由緒のある王家領を永代安堵してくれたのである。

 王家領を治天の君により永代安堵されたのだから、永続すべき王統たる根拠となる。八条宮は豊臣秀吉、高松宮(のち有栖川宮)、閑院宮は徳川幕府により知行を充て行われて創設されたのであって格式が違うというべき。

  第二に伏見宮第3代道欣入道親王の『椿葉記』「崇光院・後光嚴院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中惡く成て、御子孫まで不和になり侍れは、前車の覆いかてか愼さるへき、いまは御あらそひあるへしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」4]とあり、天皇家も伏見宮も実系では崇光院流一統になったのだから、過去のように不仲となることなく親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉ることを実父の意向として提案しているのである [村田正志 1954初刊、1984]。

  15世紀には五世王以降の末流の皇族でも親王宣下が慣例化されており[松薗斉 2010]、「御猶子となし奉る」とは、猶子により皇子に准じた礼遇とすることで、親王宣下が通例であるゆえ、伏見宮家の世襲親王家とする要望を天皇に奏上する趣旨である [小川剛生 2009] [田村航 2018] 。

   後花園天皇は、後小松院の猶子とされた直後に践祚しており、後光厳院流の万歳継帝を望む養父の御遺詔を重んじたので、『椿葉記』の見解である崇光院流への皇統の付け替えを拒否している。しかし一方で実家の伏見宮にも宥和策をとり、「永世伏見殿御所」勅許の所伝は、『椿葉記』の構想の一部を実現したとみなせば辻褄が合う。

  「後花園は、弟の貞常に伏見宮家の継承と、その『永世』にわたる存続を約した。そして伏見宮家の当主は代々天皇の猶子となって親王宣下を受けるという特殊な形がとられるようになった。ここに後光厳皇統と崇光皇統の両立が完成したのである。」 [秦野祐介 2020]

 このように伏見宮の永続性は、後小松院政における末流の皇胤の親王宣下の合法化、後崇光院、後花園による崇光院流の永続化を図る政策と、加えて伏見宮で養育されたため伏見に般舟三昧院を建立するなど崇光院流に親近感を持っていた後土御門天皇と、外戚が伏見宮と共通する後柏原天皇が、伏見宮やその連枝と宮廷社交行事で大変親しかったという歴史的経緯[朝倉尚 1990]により確定したといえる。

 室町時代から昭和時代まで600年皇統嫡系となった後光厳院流(天皇家)と伏見宮の併存体制が続いたのには理由がある。後花園上皇は文明2年(1470)興福寺に後南朝討伐の院宣を下し、吉野奥・紀伊・熊野の南朝皇胤蜂起を鎮圧したので[秦野裕介2020 290頁][森茂暁(1997 2013)]、この後、皇位をめぐる争いは全くなくなった。天皇家と伏見宮の併存体制こそ嘉例といえるのである。

 伏見宮の初代栄仁親王(1351~1416)から600年経過しても自然血統で男系が枯渇することなく続いているというのは、ある意味で優秀な家系といえると思う。

 昔は医療的問題で男子が早世するケースが多く、家督継承が順調でない場合養子縁組は通例のことだった。

 例えば、五摂家というのは江戸時代初期に藤原氏の実系の血脈としては二条晴良(1526~1579)の子孫だけが残った[木村修二1994]。

 二条家の初代は13世紀の良実だから、単系出自の実系では五家あっても、400年たつと残るのは一系統だけなのである。

 17世紀中葉に近衛家と、一条家は後陽成皇子が養子となって皇別摂家になった。九条・二条・鷹司家当主の実系の共通の先祖は二条晴良ということである。鷹司家は後に閑院宮家より養子を迎えて、皇別摂家になっている。

 岡山藩池田家、鳥取藩池田家とか、仙台藩伊達家と宇和島藩伊達家は仲が悪かったので適切な例ではないが、2つの家系が併存すると安定感を増す。

 今ここで、嘉例といえる天皇家と伏見宮御一流の併存体制を復活させるべきである。

 

C 伏見宮の正統たる由緒とその証拠

 正統たる由緒の柱は3つで①貞治2年光厳院置文に「正統につきて伏見殿(崇光院)の御しそん御管領あるべきよし‥‥」とあること [村田正志 1954初刊、1984]、②皇統文庫の相続と維持③持明院嫡流の天皇の帝器だった琵琶の習練、秘曲の伝授であるが、本文に詳しく説示するのここでは、要点を記述するにとどめる。

   後崇光院太上天皇(伏見宮貞成)は強い正統意識を持ち続けたことは数々のエピソードで知られる。貞成王は親王ですらないのに、本来は治天の君が管理する、持明院統文庫213合を相続した。古記録・家記の原本が伝来している家が嫡流というのは常識である。正統、嫡流を自認するのは当然のことである。

   伏見宮に伝来した文書は、天皇家に進献されたもの、将軍家や武家に贈答品とし贈られたもの、戦乱等の移動の際失われたもの、散逸したものが多いとはいえ、伏見宮家は蔵書を維持し、昭和22年12月宮内庁書陵部に788部1666点が寄託され、後に国費で宮内庁が購入した [飯倉晴武 2002]。現存する伏見宮旧蔵本の評価は、中世の天皇家の蔵書をよく伝えており、伏見院日記8巻、花園院日記36巻等の鎌倉時代後期宸筆宸記のほか、貴重な自筆原本や古写本のほか、琵琶を中心とした楽書もあり充実している[小川剛生2017]。最も古いものは延喜19年(919)大江朝綱筆の『紀家集』である。『水左記』の自筆原本4巻は、もともと蓮華王院宝蔵の蔵書であった[田島公2004]。

   禁裏文庫は万治4年(1661)火災で古筆はすべて失われた。したがって「現在、東山御文庫に継承された近世禁裏文庫に残っている史書・古記録・漢籍など史料の残存状況を調べると応仁文明の乱以前に遡る写本・古文書の原本は少ないので‥‥中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された書籍・文書・絵画などの一部は、むしろ伏見宮家によって近代まで伝えられたといえよう。」 [田島公 2004]との書誌学者の評価である。

   伏見宮家は昭和22年まで中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された古文書の一部を伝えていた。嫡流を引く由緒を認定してよいと思う。書誌学的な証拠がある。だからこそ完全なる傍系化が回避され永続されるべき宮家といえるのである。

 『椿葉記』は永享4年まで書名は『正統廃興記』であった。正統たる崇光院流=伏見宮の約80年の歴史を記述するものだった。しかし後小松天皇が存命されている以上、憚れたので『椿葉記』というおとなしめの書名となった。崇光院流=伏見宮が正統という主張に変わりはない。

 伏見宮家とは、血のスペアとして創立された閑院宮などとは違う。そもそも嫡流の由緒、崇光院流の正当性があるからこそ存続した。

 後深草院は亀山天皇に秘曲伝授で先を越されたことを後悔され、巻き返しのため立て続けに秘曲の伝授を受けた[阿部泰郎 2018]。以来持明院統嫡流の天皇は琵琶の伝習が必須となったのだ。琵琶は帝王の管弦主座であり、皇統の正統性にかかわるものと認識されていたためである。

   それゆえ後深草院以来、持明院統流正嫡は琵琶を帝器とし、秘曲が伝授された。琵琶は持明院統嫡流の後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光-伏見宮初代栄仁親王-2代治仁王は、最秘曲の啄木を伝授されている。3代貞成親王以降は啄木の伝授は受けてないが、4代貞常親王、5代邦高親王、6代貞敦親王は楊真操、両流泉といった秘曲の伝授を受けた[猪瀬千尋 2018]。

    一方、後花園天皇は実父貞成親王が琵琶を勧め、稽古用の琵琶を進献したが、後光厳院流の流儀で笙を帝器とした。文明14年(1482)後花園院13回忌の御懴法講では後土御門天皇の笙の御所作に、邦高親王が琵琶を合わせた [三島暁子 2012]というように、嫡流の流儀は天皇家ではなく伏見宮家が継承した。

   そうしたことから、どうしても伏見宮が嫡流を引く由緒が残るのである。。

 

 もちろん、伏見宮家以外でも嫡流の由緒のある宮家は中世には存在した。

 皇統嫡系(後光厳院流)は『本朝皇胤紹運録』等で正当化が図られている。大覚寺統後二条直系木寺宮には後宇多上皇の譲状において正統であり、常磐井宮は亀山院の譲状において嫡流、正統といえる。

   ただ亀山院の遺詔は後宇多院によって反故にされ、常磐井宮恒明親王立坊は、持明院統が支持したが、幕府が後宇多院を支持したため立坊されなかった。後二条直系は皇太子邦良親王が、後醍醐に譲位を求めても居座り続けたため践祚できずに早世、康仁親王は建武新政によって立太子が無効とされ親王位を剥奪されたが、大覚寺統の正統であることは持明院統と鎌倉幕府が認めていた。

後醍醐流は『神皇正統記』『大日本史』『日本外史』等で正統とされたことはよく知られているとおりである。

 しかし後醍醐流(後南朝)は15世紀に消え、常磐井宮は16世紀に消え、木寺宮は近世初期まで存続したが消えている。

 皇統上の格別の由緒、嫡流の由緒があって残っているのは、皇統嫡系以外では伏見宮御一流だけなのである。

だから伏見宮御一流を復活させる以外にないし、それが最善唯一の方策である。

 

引用・参考文献(一覧表

 ★印=オープンアクセス(ネット公開)

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JL・フランドラン1992宮原信訳『性の歴史』藤原書店

JL・フランドラン1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

イレイン・ぺイゲルス1993 絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社(原著1988

ウタ・ランケ・ハイネマン1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社

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ミッテラウアー,ミヒャエル、 ジーダー,ラインハルト1993若尾夫妻訳『ヨーロッパ家族社会史』名古屋大学出版会

ミッテラウアー,ミヒャエル1994若尾・服部・森・肥前・森訳1994『歴史人類学の家族研究-ヨーロッパ比較家族史の方法』新曜社

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赤坂恒明2018「室町期の皇族、木寺宮とその下向」『日本史のまめまめしい知識第3巻』岩田書院

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浅見雅男2016『皇族と天皇』ちくま新書

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荒川玲子1986 「比丘尼御所に於ける御所号勅賜の意義」 書陵部紀要(38

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嵐義人1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社)

飯倉晴武2000 『地獄を二度もみた天皇 光厳院』 吉川弘文館

飯倉晴武2002 『日本中世の政治と史料』 吉川弘文館

飯倉晴武2009 「伏見宮本の変遷-書陵部での整理と書名決定-」 禁裏・公家文庫研究第三輯 思文閣出版

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家永遵嗣 2016 「光厳上皇の皇位継承戦略」  桃崎有一郎・山田邦和『室町政権の首府構想と京都』所収

家永遵嗣 201814世紀の公武関係・朝幕関係と室町幕府 : 皇位継承争いのもとにおける国制の再構築(縮約補訂)」学習院史学56

家永遵嗣・水野圭士ほか 2019 <資料解題>解説と翻刻 国立公文書館所蔵『初任大饗記』, 国立歴史民俗博物館所蔵『義満公任槐召仰議并大饗雑事記』」 人文 (17)

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伊集院葉子2014『古代の女性官僚女官の出世・結婚・引退』吉川弘文館

伊藤之雄2021『最も期待された皇族東久邇宮』千倉書房

伊藤喜良1997 『南北朝動乱と王権』 東京堂出版

伊藤唯真1982「知 恩 院 周 誉 珠 琳 と 浄 厳 坊 宗 真」鷹陵史学8

石崎泰助1975「秘跡概念の発展についての一考察」アカデミア 人文自然科学編,保健体育編35

石原比伊呂2015『室町時代の将軍家と天皇家』勉誠出版

石原比伊呂2018『足利将軍と室町幕府』戎光祥出版

石原比伊呂2020『北朝の天皇』中公新書

井戸田博史1986『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 

井戸田博史2003『氏と名と族称』法律文化社

稲田利穂1989 「曹源寺蔵「永正18410日和漢聯句」--翻刻と解説」 岡山大学教育学部研究集録 (80)

稲葉伸道 2019 『日本中世の王朝・幕府と寺社』 吉川弘文館

稲福日出夫1985<論説>ミルトンの離婚論 : 法思想史におけるその位置づけ」s同志社法學 371/2号★

井上兼行・清水昭俊1968「出雲調査短報」『民族學研究』331号 

井上幸治2016『古代中世の文書管理と官人』八木書店

井上光貞 (1985初出は1964) 井上光貞著作集一『日本古代国家の研究』 岩波書店

井上亘1993 「光明立后の史的意義をめぐって」 学習院史学 (31)

猪熊千尋2018『中世王権の音楽と儀礼』笠間書院

位藤邦生 1973 「無力次第也 「看聞日記」に見る伏見宮貞成の生きかた (中世文学(特集) 国文学攷(62)

位藤邦生1991『伏見宮貞成の文学』清文堂出版社

井原今朝男1995 『日本中世の国政と家政』 校倉書房

井原今朝男 2014 『室町廷臣論』 塙書房

今井通郎1962「平安文学に現れた楽器」東洋音楽研究 1617

今江広道 1983 「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館

今谷明1990『室町の王権』中公新書

今谷明 2000 『室町時代政治論』 塙書房

今井通朗1962「平安文学に現われた楽器」東洋音楽

井山温子 1995 「しりへの政』その権能の所在と展開」 古代史研究(13

岩井託子1996a「グレトナ・グリーン英国随一の結婚式場(1) 」 中京大学文学部紀要 312

岩井託子1996b 「グレトナ・グリーン英国随一の結婚式場(2)」中京大学文学部紀要 313434

岩井託子1997「グレトナ・グリーン英国随一の結婚式場(5)」 中京大学文学部紀要 32

岩井託子1999a「グレトナ・グリーン 英国随一の結婚式場(8)」中京大学文学部紀要 341

岩井託子1999 b「グレトナ・グリーン 英国随一の結婚式場(9) 」中京大学文学部紀要 342

岩井託子2002『イギリス式結婚狂騒曲 駆け落ちは馬車に乗って』中公新書

岩佐美代子1993「光厳天皇-その人と歌-」駒澤國文 30

岩佐美代子 1997 『宮廷に生きる』 笠間書院

植木朝子 2009 「『看聞日記』にみられる楽器」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社

植田真平・大澤 泉(2015)「伏見宮貞成親王の周辺 ―『看聞日記』人名比定の再検討」書陵部紀要66

上野和男1982「日本の祖名継承法と家族--祖先祭祀と家族類型についての一試論」『政経論叢』5056

上野和男1985「日本の位牌祭祀と家族--祖先祭祀と家族類型についての一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』6

上野雅和1962「イングランドのキリスト教化と婚姻法-イングランドにおける近代的婚姻の成立過程2」松山商大論集132

上野雅和1981「イギリス婚姻思想史-市民的夫婦一体観の成立をめぐって」福島正夫編『家族-政策と法』東大出版会

鵜川馨 1991「十八世紀英国における婚姻契約」『イングランド中世社会の研究』聖公会出版

梅村恵子 2000 「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

宇根俊範1980「律令制下における賜姓について-朝臣賜姓ー」『史学研究』80

宇根俊範1983「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99

枝村茂1975「婚姻の秘跡性をめぐる神学史的背景」  アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 25

枝村茂1978「婚姻の不解消性と教会権についての神学的考察」アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 28

枝村茂1980「カトリック教説における婚姻の目的の多元性」 アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 31

枝村茂1985「カトリック教会法における婚姻の形式的有効要件とその史的背景」宗教法学3

枝村茂1995「カトリック婚姻法における世俗性と宗教性」宗教法14

江守五夫1986『日本の婚姻』弘文堂

江守五夫1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990

江守五夫1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993

江守五夫1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998

榎村寛之 2007 「元・斎王井上内親王廃后事件と八世紀王権の転成 」 国立歴史民俗博物館研究報告( 134

遠藤慶太2000「『続日本紀』と承和の変」古代文化52

遠藤みどり 2015 『日本古代の女帝と譲位』 塙書房

近江昌司1962 「井上皇后事件と魘魅について」 天理大学学報(14

大島創2015「法金剛院と法金剛院領の形成・伝領過程」史観172

大竹秀男1977『「家」と女性の歴史』弘文堂

大藤修1996『近世農民と家・村・国家 : 生活史・社会史の視座から』吉川弘文館

小笠原敬承斎(2010)「結婚にまつわるしきたり その起源と意味」『歴史読本』201010 55 10号 通巻856

岡野友彦2015『戦国貴族の生き残り戦略』吉川弘文館

岡部 明日香(2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮」中古文学 90(0)★

小川剛生2003『南北朝の宮廷誌―二条良基の仮名日記』臨川書店

小川剛生2005 『二条良基研究』 笠間書院

小川剛生 2009 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社

小川剛生2012『足利義満』中公新書

小川剛生2017 『中世和歌史の研究』 塙書房

小川剛生 2020 『徒然草をよみなおす』 ちくまブリマー新書

小川剛生 2020 『二条良基』 (人物叢書)吉川弘文館

奥村佳紀1971「新羅人の来般について」駒沢史学 (18)

小倉慈司2010「親王・王成年式表」『書陵部紀要』(61

小田部雄二2014『天皇と宮家 消えた十二宮家と孤立する天皇家』新人物文庫

小野則秋 1944 『日本文庫史研究 上巻』 京都・大雅堂

尾上陽介(2001)「年官制度の本質」史観 145★

折井美耶子2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636

加栗貴夫2018「家移り儀礼から見た中世後期の「家」妻の位置」『日本史のまめまめしい知識第3巻』岩田書院

加地信行1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書

加藤東知1927『英国の恋愛と結婚風俗の研究 』日本大学出版部

勝俣鎭夫2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社

河西秀哉 2008 「象徴天皇制・天皇像の定着 ミッチー・ブームの前提と歴史的意義」 同時代史研究(1

河西秀哉2018『天皇制と民主主義の昭和史』人文書院

上村正裕 2018 「しりへの政と皇后八・九世紀を中心に」 日本歴史 (844)

金井静香 1999 『中世公家領の研究』 思文閣出版

神谷正昌2002「承和の変と応天門の変」史学雑誌111111

神谷正昌 2020 『清和天皇』 吉川弘文館

亀田俊和2014『南朝の真実 忠臣という幻想』吉川弘文館

亀田俊和2015『高師直』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー

蒲生正男1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

蒲生正男1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社

蒲生正男1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

蒲生正男1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

蒲生正男1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3川上貢(1960)『般舟三昧院について』日本建築学会論文報告集 662

川上多助1982『平安朝史学』上 初版1930 昭和57年 国書刊行会

川崎晃 2004 「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』 慶応義塾大学出版会

神田裕理 2019 『朝廷の戦国時代-武家と公家の駆け引き』 吉川弘文館

河村政久史1973 「昌子内親王の入内と立后をめぐって」 史叢(7

官文娜2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版

官文娜2010「日中伝統家業の相続に関する歴史的考察--北京同仁堂楽家と三井家との比較において」立命館文學617

菊池大樹2001「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」歴史学研究747

岸俊男 1957 「光明立后の史的意義」 ヒストリア(20

岸俊男1969 『藤原仲麻呂』 吉川弘文館

北啓太2016 「禁裏文庫と近衛家」田島公編『近衛家名宝からたどる宮廷文化史』 笠間書院

鍛代敏雄2013敗者の日本史11『中世日本の勝者と敗者』吉川弘文館

北西鶴太郎 「大鏡の文藝性序説 : その 1 主題に就いて」文芸と思想  (3)★

北野隆(1979)「近世公家住宅における数寄屋風書院について : その 2 摂家住宅について」日本建築学会論文報告集 275(0)★

木原弘美 1995 「 絵巻の往き来に見る室町時代の公家社会その構造と文化の形成過程について― 」 佛教大學大學院紀要 23号★

木村修二1994「近世公家社会の「家」に関する一試論 : 養子縁組をめぐって」 史泉79

木本好信 (2004、初出2002) 『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう

京楽真帆子1989「平安貴族の居住形態」比較家族史研究4

京楽真帆子1993「平安京における居住と家族-寄住・妻方居住・都市」『史林』76巻2号

金宅圭2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会

久保貴子 1998 『近世の朝廷運営 - 朝幕関係の展開』 岩田書院

久保貴子 2002 「江戸時代-武家社会のはざまに生きた皇女」服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館

久保貴子2009 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち) 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2

楠元町子 2010「万国博覧会と皇室外交-伏見宮貞愛親王と1904年セントルイス万博-」愛知淑徳大学論集一文学部・文学研究科篇一 (35)★

熊谷開作1963『歴史のなかの家族』酒井書店

熊谷開作1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社

倉本一宏2019『公家源氏』中公新書小山順子2021「後土御門天皇と連句文芸-文芸を導く天皇」芳澤元編『室町文化の座標軸-遣明船時代の列島と文事』勉誠出版

倉本一宏2001「内府悦気有り」駒沢女子大学研究紀要 (8)1

栗原弘1990「藤原内麿家族について」日本歴史 (511)

栗原弘1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店

栗原弘1999『平安時代の離婚の研究』弘文堂

栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2★

栗原弘2004「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史学会 編 (19)★

栗原真人1991 <論説>秘密婚とイギリス近代 (1)」 香川大学 11巻1号★

栗原真人1992a 「〈論説>秘密婚とイギリス近代 (3)  香川法学 121号★

栗原真人1992 b「<論説>秘密婚とイギリス近代(4・完)  香川法学 122号 ★

栗原真人1996「 フリートとメイフェア : 一八世紀前半ロンドンの秘密婚」 香川法学 154号★

栗原涼子2003「革新主義考アナーキストフェミニズムについて」岩手県立大学盛岡短期大学部研究論集 5

栗山圭子 2001 「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号 日本史研究465

黒田俊雄(1994・初出1982)「朝家・皇家・皇室考-」『黒田俊雄著作集一権門体制論』法蔵館

桑山浩然1996「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』( 6)

河内祥輔2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館

河内祥輔2018「鎌倉幕府と天皇」『天皇と中世の武家』所収

呉座勇一2018『陰謀の日本中世史』角川新書

小久保嘉紀2022「斯波義敏と斯波義廉の内訌」渡邊大門編『諍いだらけの室町時代』柏書房

小谷徳洋2022「河内四条畷の戦いと楠木正行の生涯」渡邊大門編『南北朝の動乱主要合戦全録』星海社

後藤みち子2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

後藤みち子2014「室町戦国時代の婚姻」高橋秀樹編『婚姻と教育』竹林舎

小森崇弘2008 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」 立命館文學 (606)

小林よしのり 2010 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』 小学館

古藤真平2018 『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む』 臨川書院

五味文彦 2006 『中世社会史料論』 校倉書房

近藤佳代子(2015)「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要49

近藤成一2016『鎌倉幕府と朝廷』岩波新書

近藤毅大 1997 「紫微中台と光明太后の『勅』」 ヒストリア(155

近藤好和2010「布衣始について」日本研究42★

近藤好和 2019 『天皇の装束』 中央公論新社

齋藤公太2019『「神国」の正統論―『神皇正統記』受容の近世・近代』ぺりかん社

佐伯智広2019『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』吉川弘文館

坂井孝一2018『承久の乱』中公新書

酒井信彦 2002 戦国時代の朝廷 朝廷の「式微」は真実か 日本及び日本人1643

酒井茂幸2009 『禁裏本歌書の蔵書史的研究』  思文閣出版

坂本真美子 1987「十 五 世 紀 の 宮 廷 雅 楽 と 綾 小 路 有 俊」東洋音楽研究51

坂田聡(2002)「中世後期~近世の家・家格・由緒--丹波国山国地域の事例を中心に 」『歴史評論 』630

坂田聡(2006)『苗字と名前の歴史』吉川弘文館

坂田聡(2007)「家制度の期限を探る-転換期としての戦国時代-」『青少年問題』625

桜井栄治 (2009) 『室町人の精神』 講談社学術文庫

桜田真理絵 2016 「未婚の女帝と皇位継承元正・孝謙天皇をめぐって— 」 駿台史学156

桜田真理絵2018 「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ -「不婚の女帝」論の再検討-」 文化継承学論集 (13)

佐々木宗雄 1994 『日本王朝国家論』名著出版

佐古愛己2012『平安貴族社会の秩序と昇進』思文閣出版

佐古愛己2013「中世叙位制度の特質に関する一考察 : 鎌倉期を中心佐藤長門 (2009) 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤賢一2009『カペー朝-フランス王朝史1』講談社現代新書

佐藤賢一 2014 『ヴァロア朝-フランス王朝史2』 講談社現代新書

佐藤賢一2019『ブルボン朝-フランス王朝史3』講談社現代新書

佐藤哲也2012「近代教育思想の宗教的基層(1) : コトン・マザー『秩序ある家族』(1699)」 宮城教育大学紀要 47号★

佐藤長門 2009 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館

篠川賢 2013 『飛鳥と古代国家』 吉川弘文館

滋賀秀三1967『中国家族法の原理』創文社

柴桂子2004「近世の夫婦別姓への疑問〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状 のコメント」『総合女性史研究』(21)

柴田敏夫1987「「コモン・ロー・マリッジ」略史」大東法学 14

島善高1992「近代における天皇号について」早稲田人文自然科学研究(41

島津一郎1974『妻の地位と離婚法』第42イギリスにおけるコモン・ロー婚の展開 有斐閣

島村修治1971『外国人の姓名』ぎょうせい

清水昭俊1970「<>の内的構造と村落共同体 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

清水昭俊1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

清水昭俊1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

清水昭俊1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

清水昭俊1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

清水昭俊1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

東海林亜矢子2004「母后の内裏居住と王権」お茶の水史学 48

白木歩澄2018「十八世紀イングランドにおける女性の結婚観 : ハードウィック婚礼法制定による変化」歴史研究64

白根陽子2018 「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開』 同成社

末柄豊 2011 「伏見宮旧蔵文書二題」 東京大学史料編纂所研究成果報告2011-3

末柄豊2012 「禁裏文書における室町幕府と朝廷」 ヒストリア(230

末柄豊2012 「十三絃道の御文書」のゆくえ」 日本音楽史研究(8

末柄豊 2018 『戦国時代の天皇』 山川日本史リブレット

菅原正子2002「中世後期-天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』小学館

菅原正子2014『日本中世の学問と教育』同成社

杉崎重遠 1954「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (9-10)★

鈴木繁夫2004「交わりの拡張と創造性の縮小 : ミルトンの四離婚論をめぐる諸原理について」言語文化論集 261号★

鈴木繁夫2013「性格不一致の離婚とその起源 : ミルトン離婚論と現代離婚観の宗教性」言語文化論集 35(1)

瀬川淑子2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』

相馬真理子 1997 「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」 書陵部紀要 (49)

園部寿樹2015 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢治芳短期大学紀要 51

曽我良成2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館

曾我部静雄1974「日唐の詔勅に見える節婦の旌賞」史林572

曽我部愛2021『中世王家の政治と構造』同成社

杣田善雄2003『幕藩権力と寺院・門跡』思文閣出版

苑田 亜矢1997 1159年の教皇選挙と教皇庁上訴 : イングランド史からの一考察」有明工業高等専門学校紀要 33

苑田亜矢2000「一二世紀イングランドにおける教皇庁への上訴をめぐって--1164年のクラレンドン法第8条および1172年のアヴランシュの和約の再検討」法制史研究 (50)

薗部寿樹2014資料紹介『看聞日記』現代語訳(二)山形県立米沢女子短期大学紀要50★

薗部寿樹2015 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢女子短期大学紀要51★

高岸輝2007「室町時代における高階隆兼の伝説形成」美術史論集7

高岸輝 2017 「天皇と中世絵巻」高岸輝・黒田智『天皇の美術史3乱世の王権と美術戦略 室町戦国時代』 吉川弘文館

高岸輝 2020 『中世やまと絵史論』 吉川弘文館

高久嶺之介1981「近代皇族の権威集団化過程 ― その近代宮家の編成過程 ―」社会科学(27)★ 

高埜利彦2014『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館

高埜利彦2019「江戸時代の皇位継承」朝幕研究会『論集近世の天皇と朝廷』岩田書院

高橋秀樹1996『日本中世の家と親族』吉川弘文館

高橋秀樹2004『中世の家と性』山川出版

高橋秀樹2014「「家」研究の現在」『婚姻と教育』竹林舎

高橋康夫1978 「後小松院仙洞御所跡敷地における都市再開発の実態室町時代京都の都市再開発に関する考察」 日本建築学会論文報告集(263)★

高橋康夫1978 「戦国期京都の町 組 「六 町 」 の地域構造」 日本建築学会論文報告集274号★

高橋康夫 1983 『京都中世都市史研究』 思文閣出版

高橋典幸 2019 「南北朝動乱期の社会」『中世史講義』 筑摩書房

武部敏夫 1960 「世襲親王家の継統について-伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」 書陵部紀要12

武部敏夫1987『和宮』吉川弘文館

瀧浪貞子 1991 『日本古代宮廷社会の研究』「孝謙女帝の皇統意識」 思文閣出版

瀧浪貞子2017『藤原良房・基経』ミネルヴァ書房

竹島寛 (1982復刊、1936) 『王朝時代皇室史の研究』 名著普及会1982復刊

武田佐知子1980「律令国家による儒教的家族道徳規範の導入-孝子・順孫・義夫・節婦の表旌について」竹内理三編『天皇制と社会構造』校倉書房

詫間直樹2003「伏見宮本『御産部類記』について」『禁裏・公家文庫研究 第一輯』思文閣出版

詫間直樹2006「高松宮家旧蔵『伏見殿文庫記録目録』について」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』思文閣出版

田島公 1997 「禁裏文庫の変遷と東山御文庫の蔵書」大山喬平教授退官『日本社会の史的構造 古代・中世』 思文閣出版

田島公2004 「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収 吉川弘文館

田島公2006 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』 思文閣出版

龍野加代子1997 「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号 法政史学(49)★

玉井力1964「承和の変について」歴史学研究286

谷口やすよ1978 「漢代の皇后権」 史学雑誌87(11)★

谷口研語 1994 『流浪の戦国貴族 近衛前久』 中公新書

谷田博文 2019 『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか』 河出書房新社

田中明2007「修学院離宮における御幸様式の変遷と場所構成について」日本建築学会計画系論文集72  621 

田中和夫1958「イギリスの婚姻法」比較法研究18号 

田村航 2013 『一条兼良の学問と室町文化』 便誠出版

田村航 2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)

田村航 2020 「後花園天皇-後光厳流か、崇光流か」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

千葉功2019「南北朝正閏問題再考」学習史学57★

告井幸男2007「摂関・院政期における官人社会」日本史研究535

角田文衛 (1985初出1966) 「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』 法蔵館

角田文衛2003『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房徳田武(2011)『朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁』勉誠出版

角田文衛2006『日本の女性名―歴史的展望』国書刊行会

東郷茂彦2020『「天皇」永続の研究』弘文堂

所功 2012 『日本の宮家と女性宮家』「皇室史上の宮家制度」 新人物往来社

所功2021「皇位継承史上の危機と課題」『皇位継承の歴史と廣池千九郎』モラロジー研究

徳島県立博物館企画展図録2001『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』

利行榧美2006「桓武朝における「国忌」についての一考察」奈良史学(24

豊永聡美2001「平安時代における天皇と音楽」研究紀要 25(東京音楽大学)

豊永聡美2017 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』 吉川弘文館

豊永聡美2020 「後土御門天皇-心を砕いた朝議復興-」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 (1995) 「わび茶と露地 (茶庭の変遷に関する史的考察 その9: 禁中の茶とその茶庭」 千葉大学園芸学部学術報告 (49)

直江眞一1990「『我々はイングランド法を変更することを欲せず』(Nolumus leges Anglie mutare)について」『法学』東北大 543

直江眞一2014「アレクサンデル三世期における婚姻法 : 一一七七年六月三〇日付ファウンテン修道院長およびマギステル・ヴァカリウス宛教令をてがかりとして」法政研究 81 (3)

永井晋2003『金沢貞顕』吉川弘文館

永井晋2006『金沢北条氏の研究』八木書店

永井晋2021『八条院の世界』山川出版社

永井晋2022『鎌倉幕府はなぜ滅びたのか』吉川弘文館

永井和 2012 「波多野敬直宮内大臣辞職顛末 : 一九二〇年の皇族会議 (杉橋隆夫教授退職記念論集)」立命館文学(624)★

中込律子 2005 「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』 清文堂出版

中川和明1991「聚楽第行幸の行列について」弘前大学國史研究 (90)

中川八洋2005『皇統断絶』ビジネス社

中川八洋2007『悠仁天皇と皇室典範』清流出版

中川八洋2018 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』 ヒカルランド

中川八洋 2019 「「旧皇族の復籍」妨害に全力疾走の赤い山羊八木秀次 ──」 ブログ 中川八洋ゼミ講義

中林隆之 (1993 1994) 「律令制下の皇后宮職(上)(下) 新潟史学31 32

中村順昭 2019 『橘諸兄』 吉川弘文館

中村みどり 2002 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編(1

中村みどり2014 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13)★

中村順昭 2019 『橘諸兄』 吉川弘文館

中本真人2021a「北山惣社御神楽と綾小路信俊」人文科学研究147

中本真人2021b『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社

波田永実 2017 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)★

成清弘和1999 『日本古代の王位継承と親族』 岩田書院

仁井田 陞1952『中国法制史』岩波書店

西川誠2019「皇室典範の制定-明治の皇位継承」歴史学研究会編『天皇はいかに受け継がれたか』績文堂

西川健誠2005「夫婦の交わり,神との交わり : 『楽園喪失』における夫婦愛と信仰()」神戸外大論叢 56(2)

西川健誠2004「夫婦の交わり神との交わり : 『楽園喪失』における夫婦愛と信仰 ()」 神戸外大論叢 55(3)★】

西嶋定生 1999 『倭国の出現 東アジア世界のなかの日本』 1999 東京大学出版会

西島正1954「ミルトンの女性觀」紀要 3

西田かほる2021「近世遠江における親王由緒-木寺宮をめぐって-」静岡文化芸術大学研究紀要21

西別府元日2002 『律令国家の展開と地域支配』 思文閣出版

西谷正浩1996『日本中世の所有構造』塙書房

新田一郎 2001 「継承の論理-南朝と北朝」『岩波講座 天皇と王権を考える 2統治と権力」」 岩波書店

新田一郎2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社

仁藤智子2016「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

布谷陽子2005「中世王家領の研究-女院領の伝領と王家の追善仏事」博士論文要旨★

根本猛1992「アメリカ法にみる母性保護と男女平等」『法経論集』静岡大学法経短期大学部6768 

野田泰三2019「宣陽門院覲子内親王の夢 (女性歴史文化研究所 第27回シンポジウム報告「発信する皇女たち -斎王を中心に-」. II)」女性歴史文化研究所紀要27

野村育代1992 「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館 吉川弘文館

野村玄2019 「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」 大阪大学大学院文学研究科紀要(59)★

橋本義彦 1976 「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』 吉川弘文館

橋本義彦2003「東山文庫と書陵部」『禁裏公家文庫研究第一輯』

橋本義則 1996 『平安宮成立史の研究』 塙書房

波田永実2017 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)★

波多野敏1990「フランス、アンシャン・レジームにおける結婚の約束と性関係」京都学園法学 創刊号★

秦野祐介 2020 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版

秦野裕介 2018 「常盤井宮恒興王への親王宣下」 ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座, 11-04

秦野裕介2019「オンライン日本史講座四月第二回「南北朝の動乱」4」ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座 412

秦野裕介 2020 『乱世の天皇』 東京堂出版

秦野裕介 2020 YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」 (ページ: 31以降日本史オンライン講座★

秦野裕介2020 YouTube「中世の皇位継承16 後小松上皇 後光厳流の断絶と継承」 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020 YouTube「中世の皇位継承17 後小松上皇と後花園天皇」 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020YouTube「京都のお寺の歴史 妙心寺Ⅰ花園上皇の御所を禅寺に」日本史オンライン講座★

秦野裕介2021「観応の擾乱」「禁闕の変」渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』所収 柏書房

秦野裕介2022a「両統迭立から正中の変・元弘の変まで」「和泉堺浦・石津の戦い」「九州における南北朝の動乱」渡邉大門編『南北朝動乱主要合戦全録』星海社

秦野裕介2022YouTube「戦国大名477 足利家 天皇家と足利将軍家」日本史オンライン講座★ 

秦野裕介2022YouTube「観応の擾乱 後光厳天皇践祚と持明院統の分立」日本史オンライン講座★

塙陽子1993「カトリック教会婚姻不解消主義の生成と発展」『家族法の諸問題()』信山社

早川庄八 1993 『続日本紀(古典講読シリーズ)』 岩波セミナーブックス

樋口健太郎2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂

樋口健太郎2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

久水俊和 2011 『室町時代の朝廷行事と公武関係』 岩田書院

久水俊和 2020a 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

久水俊和 2020b 『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』 戎光祥出版

久水俊和2021「同一の帳簿を用いる「公武共同の財政構造」『「室町殿」の時代 安定期室町幕府研究の最前線』山川出版社

廣木一人2001 「後土御門天皇家の月次連歌会」 青山語文31

廣瀬隆司1985「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究2812.

広岡裕児 1998 『皇族』読売新聞社

兵藤裕己2018 『後醍醐天皇』 岩波新書

深津睦夫2014『光厳天皇』ミネルヴア書房

深澤光佐子2015『明治天皇が最も頼りにした山階宮晃親王』宮帯出版社

福井俊彦1970「承和の変についての考察」日本歴史260 

福井憲彦 2019 『教養としてのフランス史の読み方』 PHP研究所

福田景道2015「『池の藻屑』の皇位継承史構図―編年史的側面と「世継」―」島大国文35

島大国文★

福地陽子1956<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展」法と政治7(4)

服藤早苗 1991 『家成立史の研究』  校倉書房

藤木邦彦1991 『平安王朝の政治と制度』 吉川弘文館

藤田覚 2011a 『江戸時代の天皇』 講談社学術文庫

藤田覚2012b『近世天皇論』清文堂

藤田大誠2006 「幕末維新期における宮門跡の還俗に関する一考察」国学院大学日本文化研究紀要 96 

藤田高夫1990 「前漢後半期の外戚と官僚機構」 東洋史研究 , 48(4)

不破勝敏夫1958a「Common Law Marriageについて-1-」山口経済学雑誌 8(3

不破勝敏夫1958bCommon Law Marriageについて-2-」山口経済学雑誌 8(4)

不破勝敏夫1959「アメリカにおけるCommon Law Marriageの理論」山口経済学雑誌 10(1)

北條文彦 2002 「中世に於ける長講堂の供花の沿革について」 駒沢史学 (58)

保科季子2002 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』612号 東洋史研究612

保立道久 1996 『平安王朝』 岩波新書

洞富雄1957『日本母権制社会の成立』淡路書房

前田雅之 2018 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館

増田忠彦201) 「資料にみえる 碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 (15)

松下晴彦2004「グレトナ・グリーン「駆け落ち婚」の聖地」英米文化学会編『英文学と結婚-シェイクスピアからシリトーまで』彩流社所収

松永和浩2013『室町期公武関係と南北朝内乱』吉川弘文館

松永和浩 2020 「後光厳天皇-神器を欠き、都を逐れても」久水・石原變『室町・戦国天皇列伝』所収 戎光祥出版

松永和浩2022「室町幕府の皇位・皇統」「室町時代と酒-『看聞日記』を中心に-」『京都の中世史5首都京都と室町幕府』

松薗斉 1997 『日記の家』 吉川弘文館

松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25),

松薗斉2014 「戦国時代禁裏女房の基礎的研究 後土御門~後奈良天皇期の内裏女房一覧」 愛知学院大学論叢 (44)

松薗斉 2016 「室町時代禁裏女房の基礎的研究  後花園天皇の時代を中心に」 人間文化 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (31)

松薗斉2017『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家  (日記で読む日本史)』臨川書院

松澤克行・荒木裕2008「 刊行物紹介 大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記 九」東京大学史料編纂所報第44号★

三木太郎 1953 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因長講堂領以下の所領を中心としてー」 駒沢史学2★

三崎裕子 1988 「キサキ宮の存在形態について」  史論41

三島暁子 2002 「室町時代宮中御八構の開催と記録」 武蔵文化論叢二

三島暁子 2003 「南北朝、室町時代の追善儀礼に見る公武関係」 武蔵文化論叢三

三島暁子 201 『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版

水間政憲 2019 『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘」 ビジネス社

水野智之2014 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』 吉川弘文館

水野柳太郎2008 「いわゆる光明立后の詔について」 奈良史学 (26)

水野智之 2005 『室町時代公武関係の研究』 吉川弘文館

三村晃功 1995 「「永正8年月次和歌御会」をめぐって--725日和歌御会を中心に」 光華女子大学研究紀要 (33)★

村上史郎1999「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

村井章介 2005 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』 校倉書房

村田正志 (1954初刊、1984) 『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1944) 「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1951)「皇統における熊澤一派の俗論を筆誅する」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

桃崎有一郎 2020 『室町の覇者足利義満-朝廷と幕府は以下に統一されたか』 筑摩書房

森茂暁(2005 2020)『南朝全史』講談社

森茂暁2007戦争の日本史11『南北朝の動乱』吉川弘文館

森茂暁2008『増補・改訂 南北朝期公武関係史の研究』思文閣出版

森茂暁(1997 2013)『闇の歴史、後南朝』角川書店

森茂暁 2017 『室町幕府崩壊』 角川文庫

森茂暁 2004 『満済』 ミネルヴァ書房

森暢平 2014 「昭和20年代における内親王の結婚「平民」性と「恋愛」の強調」 成城文藝229

森暢平2022『天皇家の恋愛』中公新書

盛本昌広2008 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文館

森田大介2020 「後柏原天皇-践祚二十年を経ての即位」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

森安雅子2011「『池の藻屑』における南北朝史観をめぐって」岡大国文論稿39

両角倉一1958「最 盛 期 の 堂 上 連 歌 壇」連歌俳諧研究16★゜

文殊正子 1986 「『内親王』号について 『公主』号との比較 」古代文化 38(10)

保田卓 1997 『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)』 教育・社会・文化研究紀要4

安田政彦 1998 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館

山﨑雅稔2001「承和の変と大宰大弐藤原衛条起請」歴史学研究751号、(2001

山崎雅稔 2012 「藤原衛の境涯」 帝京大学外国語外国文学論集(18)

山口和夫 2017 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館

山田敏之 2018 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」 レファレンス(808)★

山本啓介2013 「後柏原天皇時代の内裏和歌活動について 時代背景と形式」 日本文学629

湯川俊治2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

横井清2002『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫 旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979

吉川真司 1998 『律令官僚制の研究』 塙書房

吉田賢司 2017 『足利義持』 ミネルヴァ書房

吉田孝 2006 『歴史のなかの天皇』  岩波新書

吉田常吉 1976 『幕末政治論集』 岩波書店

米田雄介 1992 『歴代天皇の記録』 続群書類従完成会

米田雄介 2004 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』 塙書房

渡邊大門2012『戦国時代の貧乏天皇』柏書房,

渡邊大門2019『奪われた三種の神器』草思社

渡邊大門2021「長禄の変」『戦乱と政争の室町時代』柏書房

渡邊大門2022a「南北朝の合一」『南北朝動乱主要合戦全録』星海社

渡邊大門2022b『嘉吉の乱』ちくま新書

 

 

 

[i] 10~11世紀に十方、17世紀に八方、19世紀に御一方の例がある。

2023/03/26

国会議員の先生方へ意見具申 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対 ③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき -「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-(第3分冊)理由要旨version2

  

 結論は3月21日のエントリー第1分冊で述べてます。理由要旨ですが、①案、皇室典範12条改変反対を重点化し伏見宮御一流の由緒についてはかなり簡略化して短くしたバージョンです。

理由要旨(version2

内容

理由要旨 (version2)... 1

一 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する案に強く反対する.. 2

(一)皇室典範12条改変は日本の家族道徳、慣行、規範を根本的に破壊する... 2

(二) 生涯非婚内親王ならば実質女性宮家を創出してもよい... 7

(三) 案を「皇室の歴史と整合的なもの」と言うのは虚偽である... 7

二 旧宮家の再興・旧皇族復籍をコンセプトとして案にしぼるべき... 10

(一)養子縁組案を否定したい理由.. 11

(二)崇光院流=伏見宮御一流に正当性がある... 11

(三)令制皇親制度の世数制限は15世紀に実質修正され天皇との血縁的疎隔しても... 12

ステイタスを維持できる。皇統上の正当性こそが肝要... 12

 

 

一 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する①案に強く反対する

 

(一)皇室典範12条改変は日本の家族道徳、慣行、規範を根本的に破壊する

 

1 婚入者の婚家帰属性という日本の基本的な親族構造の否定

 

 有識者会議は、事務局の提言にもとづいて①案を恒久的制度とするため皇室典範12条の改変を強く打ち出しているが、絶対反対である。

   皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)は、旧皇室典範44条を継受したものである。

   帝国憲法皇室典範義解によれば44条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス‥‥以下略)の趣旨は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨のものである。

 夫の身分に従うとは、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、主婦予定者として婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすることで、婚入者(嫁・婿)の婚家帰属性という日本の家族慣行を意味しており、これは華士族平民同じことで、侯爵家に嫁すならば侯爵夫人となり嫡妻として婚家を継いでいくゆえ、皇族の列を離れるという趣旨である。

 明治8年11月9日妻の氏について内務省が太政官に提出した伺出では、「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候‥‥」[廣瀬隆司(1985)][近藤佳代子(2015)]とあり、これは旧皇室典範44条の立法趣旨とほぼ同じことを言っている。

 明治民法起草者の一人、法典調査会で梅健次郎は、夫婦同氏であるべき理由として、妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致しているという趣旨を 述べている[江守五男1990 57]

 それゆえ旧皇室典範44条の立法趣旨の否定は、日本の家族慣行の全面否定といえる深刻な問題なのである。私は選択的夫婦別姓導入に反対だがそれに先鞭をつける意図せざる結果をもたらす。

 人類学者によれば日本の「家」は離在単位であり、人は複数の家に両属することはない。婚入者(嫁・婿)は婚家の成員であり、不縁とならない限り死後婚家の仏となる[清水昭和俊197019721973]。

 ①案のように夫妻と嫡子とで尊卑の異なる新奇で歪な制度を創出することは、日本の社会構造に合致した皇室典範12条を否定することによって、伝統的家族規範を崩壊させる強い懸念がある。国民の多くが皇室を慕っている以上、一般国民に与える影響が大きいからである。

 我が国の家族慣習では婚入者である入婿は家長予定者として迎えられ、婚家に帰属する。

 我が国の「家」は家長-主婦の性的役割分担の地位構成が各世代続いていくことにより永続する。人類学の大御所清水昭俊氏が指摘していることで、婿取りの場合、長女の地位は嫁と同様主婦予定者であることにかわりない。家長、当主は長男であれ入婿であっても男性で、寡婦は子供が未成年の場合に家長代行たりうることや、夫が早世した場合は、新たに嫁が婚入者を迎えても家は継承されるという規則性を明らかにしている。

 したがって家長(当主)予定者でない入婿というのは日本では考えられず、①案がそのよう歪な制度を作ってしまっているのは、男性を皇族女子の添え物にしてしまうのは男性に対する侮辱だ。

 ところで、限嗣単独相続の日本的「家」が成立したのは1415世紀(後期中世)と考えられるが、公家社会で史料上嫁取儀礼が頻出するのは戦国時代以降のことである。

 嫁取儀礼は「家」の継承者である「嫡子」に正妻を迎える儀礼として重視され、儀礼後「正妻は夫方の父母や親族と対面し、三献で祝うことで夫の親族として認められた。」[後藤みち子2009]。

 公家社会における嫁取婚は応仁文明の乱以降が想定されているので、17世紀に皇女ないし内親王が摂家に降嫁した9方の事例し当然嫁取婚である。

 近衛家煕に降嫁した霊元皇女憲子内親王の婚儀の詳細が「无上法院殿御日記」「基煕公記」に記されており嫁取婚の形式であり[瀬川淑子2001]。他の8例も同様と考えられる。摂家に降嫁した皇女はいずれも夫方居住、墓所は婚家の菩提寺もしくは婚家にゆかりの寺であり、宮内庁治定陵墓でないということは皇族から離れたことを意味しており、皇女・内親王の婚家帰属は明らかなのでである。

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  しかも、継嗣令王娶王娶親王条は内親王が臣下に降嫁すること自体違法としている。実際には、10世紀の藤原師輔が醍醐皇女三方と密通したことは反律令行為だったが、事後的に勅許され形となったため、10世紀と17世紀などで、内親王が臣下に降嫁した例がみられるが、統計的にも6世紀の欽明后石姫皇女以降、現代まで千五百年で、一世皇女ないし内親王(一世皇女)で皇親(皇族)と結婚したことが知られるのが63方、臣下と結婚したのが27方であり、やはり皇親内婚が大きく上回り、それが原則である。

 実際、1698年に伏見宮邦永親王に嫁した霊元皇女綾宮福子内親王から、1943年に東久邇宮盛厚王に嫁した昭和天皇の長女照宮成子内親王まで、内親王が結婚した例(婚約相手が早世もしくは婚約棄破した例を除く)10例のうち、1例が天皇か8例が皇族であり、原則に回帰したあり方になっている。

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 したがって、内親王と臣下の婚姻は令制が想定していないイレギュラーな事例であるが、17世紀の摂家への降嫁は、当時皇女が多く、室町・戦国時代通例だった比丘尼御所(尼門跡)の知行が不足していたこと、内親王独自の知行はなかったなどの事情によるもので[久保貴子2009]、少なくとも幕末の徳川家に降嫁した例を含め近世の10例の皇女、内親王の婚家帰属は明白なのであるから、旧皇室典範日本的「家」の慣行に従って、「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」、皇族の列を離れるとしたことは道理があり、これを否定する理由はない。

 戦後、明治民法の戸主権喪失により男性が弱くなり、長男は分割相続により威信を失ったことは社会的事実として認められるが、人類学者がいうように「家」は我が国の親族構造として存在し、いわゆる核家族も「家」であることに変わりない。

 有識者会議①案は、妻は夫の家に入るという、婚入者の婚家成員性という伝統的価値規範をねじまげてしまう深刻な問題なのである。恐ろしい文化破壊兵器になる。これが通ったら日本の醇風美俗は崩壊する。

 

2 夫妻は尊卑を同じくするのは儒教文化圏の文明の基本理念

 

 夫妻なのに皇統譜と戸籍、嫡子は戸籍という、家族であっても尊卑を同じくしないこと。夫妻と嫡妻と嫡子がバラバラの身分としている違和感は相当に不愉快なものである。

 夫妻は尊卑を同じくした身分という秩序観念は儒教の最も基本的な経書に由来する。

 『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためである。『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされる[谷口やすよ1978]。つまり儒教文化圏の古来の規範に由来する秩序観念もある。

 したがって①案により夫妻、母と嫡子でバラバラの新奇な制度を創出することは、有識者会議は文明理念への重大な挑戦を行ったともいえる。道理に反するので却下されるべきである。

 

3 婦人道徳を全面的に否定する害毒になる

 

  女性は夫ともに婚家を継ぐことが婦人道徳の基本である。夫の身分に従うという趣旨は日本の伝統的な婦人道徳にもとづいているともいえる。

 教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり『女大学宝箱』は中等以上の身分を対象とした女訓書である。享保元年(1716)から明治初年まで11版を重ねたものである。

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 この見解は後漢の『白虎通』に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」とあるように儒教に由来する。

 『女大学』とは親および舅姑に対する孝、洗濯、裁縫、結納・結婚・出産・子育てなどを内容とした女訓書であるが、1980年代中学校の家庭科男女共修がされたころに良妻賢母教育が否定されるまで、女性は嫁いだら婚家の舅姑に仕えるのは支配的な価値観だったが、公教育で婦人道徳が教えられず、良妻賢母教育は崩壊し、女子の婚姻指向の価値観が相対化したため少子化が当然の社会になってしまった。

 しかし日本の家族倫理の基本は儒教道徳であるとはいうまでもない。

 令制では、儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序を確立した。律令国家の統治理念は儒教道徳による民衆教化なのである[武田佐知子1980]。それが礼節をわきまえた国民性の基本になっている。

 儒教は偕老同穴の思想にみられるように、夫婦の一体性も重視していることに注意したい。

 そしてそれは、福沢諭吉が「古来偕老同穴は人倫の至重なるものとして既に已に其習慣を成し、社会全体の組織も之に由りて整頓したることなれば、今俄に変動せんとするも容易に行はる可きに非ず」『福翁百話』と言ったように、それは近代社会にも通じる夫婦倫理といえる。

 七出(七去)の状も戸令に定められているし、舅姑に従うべき道徳は公定されていた。。礼の基本として、社会の基本単位としての家族のあり方を繰り返し説くのが儒教である。それは我が国に継受された規範である。

 女子差別撤廃条約の条文解釈は締約国の解釈いかんなので、1980年代に家庭科男女共修も良妻賢母教育を否定する必要もなかった。今や舅姑に仕えるのはいやだ、夫と同じ墓に入りたくない。でも夫家の遺産は分捕りたいという夫婦別姓論者がはびこり、SDGs教育でジェンダー平等を教えている。

 とはいえ、結納、三献など嫁入婚の習俗はすたれていない、夫婦同氏96%は夫家の苗字、白無垢・色直し(白無垢は死装束で生家での死、色直しにより婚家で再生するという意味があるとの説が有力[江守五夫1990 48頁][徳島県立博物館企画展図録2001])は和装婚礼衣装の定番であることは今日でもかわりない。。

 良妻賢母教育は崩壊し、今やSDGsという左翼偏向教育を文科省が推進しジェンダー平等を教えている。しかし日本社会の基層は、古来の家族倫理、道徳によってまだ健全に保たれている。

  それなのに有識者会議は、旧皇室典範44条の立法趣旨をあっさり否定し、1130日の会議で事務局が資料で恒久的制度とすべきと提言し、皇室典範12条を潰すことに強い執念を示しているのが不気味だ。有識者会議①案は伝統的婦人道徳を根底的に破壊しとどめを刺すように思える。日本的「家」の慣行を破壊し、日本の親族構造を否定する重大な挑戦として断乎として反対である。

 

 4 皇室の性的役割分担を流動化させる

 

 夫婦なのに女性皇族は皇統譜、配偶者と所生子は戸籍という一体性がなく、夫婦別姓のような歪で醜悪な制度を創出し、皇室制度を根本的に破壊する。

 皇室典範は男子だけが皇位継承者であり、天皇と皇后、親王と親王妃、王と王妃という性的役割分担があり、これは一般家庭の家長-主婦に類比できる。旧皇室典範のもとでは内親王五方は全て皇族と結婚したので王妃となった。明治皇女の内親王にしても、下記のとおり称され王妃という役割である。

     明治神宮サイトのデータベースより引用

    大正14(1925)年4月9日

   竹田宮故恒久王妃昌子内親王殿下、北白川宮故成久王妃房子内親王殿下、東久邇宮稔彦王妃聰子内親王殿下御参拝

 むろん冷泉天皇と昌子内親王のように従兄弟どうしの結婚の前例もあり[河村政久史1973]、内親王が皇后となる可能性はもちろんあるが、皇室典範12条は、皇族女子が結婚する場合は、皇后、親王妃、王妃という身位以外は用意されていないから、性的役割分担が明確なのである、①案がこれを改変するので左翼的なジェンダー平等を見据えた政策で、特殊な身位を創出することになり、皇室の性的役割分担を流動化させる。この案は女性皇族が確実に増加していく案(仮に生得的な皇族が男女同数としても、男性皇族の妃が皇族となる一方、女性皇族の配偶者し当面皇族としないのが①案でしかも恒久的制度とするというので、女性皇族が増加していく)、将来的に男女共系長子相続とする政策を誘導することになる。①案と②案の並行実施も反対で、養子縁組が進捗しなければ、結局、①案から将来男女共系にせざるをえなくなる。

 

5 夫婦別姓に誘導させる政策である

 

 伝統的な中国は宗法によって完全な父系社会であるわけではなく、入贅(贅婿)の慣行もある。日本と同じ準父系であることは20世紀前半の民族学調査でわかっている。しかし入贅となる男性は宗法に反するので甚だ軽蔑の対象となる、表向きには祖父-孫継承になるので無視される存在なのである。

 むろん中国と日本では、家族慣行に共通点も多いが、我が国では当主(家長)たりえない入婿、たんに子づくりのための入贅というのはない。

 有識者会議①案は、日本的ではない政策、軽蔑される対象となる入贅という男性が添え物であるような、中国の下位制度を皇室に創出しようとしている。しかも、これを恒久的制度とするというのである。男性に対する重大な侮辱だ。男性の一人として激怒すべき事柄である。

  夫婦なのに女性皇族は皇統譜、配偶者と所生子は戸籍という夫婦別姓的で歪な制度を創出することにより、選択的夫婦別姓に先鞭をつけることになる、共産主義、左翼の家族政策に迎合し誘導することになる。

 

(二) 生涯非婚内親王ならば実質女性宮家を創出してもよい

 性的役割分担を流動化させる皇室典範12条に手をつけない政策に限定されるべき。皇族女性を皇室にとどめるには従来どおり天皇、皇族と結婚し、皇后、親王妃、王妃となられるか、伝統に照らすならば先例のある生涯非婚の内親王として独立の御所、独立生計、家政を担う職員を付属させて非婚の内親王家の当主として特旨により厚遇するあり方に限定されるべきである(先例として後光明皇女一品准后孝子内親王は、御殿が造営されて生母と同居し、御領300石の知行を有した例[久保貴子2009]。

 それ以上の譲歩はNGにしてくださいということを政治家の方々に訴えたい。

 

(三)①案を「皇室の歴史と整合的なもの」と言うのは虚偽である

 

 有識者会議報告では①案を正当化させるため、皇族女子が臣下に嫁しても結婚後も皇族の身位を維持している先例として、徳川家茂に降嫁した仁孝皇女親子内親王、令和31130日会議での事務局資料では、藤原師輔に降嫁した醍醐皇女勤子内親王以下6例を例示しているが、いずれも違法婚である。

 つまり継嗣令王娶親王条は、皇親女子(内親王、二~四世女王)は臣下との結婚を違法としており皇親内婚を規定している。我が国固有の婚姻法制である[i]

 延暦12年詔により、二世女王は藤原氏への降嫁、三世女王以下は現任大臣、良家に嫁することが許され規制緩和はなされているが、内親王の臣下への降嫁は一貫して違法であり[今江広道 1983[安田政彦 1998][栗原弘2002[米田雄介2014]、事務局例示の6例は、いずれも令制が想定していない婚姻であり、違法だが勅許されたというイレギュラーな事例なのである[ii]

 反律令行為が特に勅許されたとしても、違法婚である以上「皇室の歴史と整合的なもの」と評価するのは間違っている。

 このような非論理的説示で、政治家を騙そうとしている悪質なものいえる。

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1 師輔と康子内親王の密通が「皇室の歴史と整合的な」なはずがない

 

 内親王の結婚を親王、諸王(四世王まで)に限定する継嗣令王娶親王条は、藤原師輔が内親王三方と密通のうえ事後的に承認されることによって破られた。

 このうち有識者会議事務局資料が例示する天暦9年(955)一品准后康子内親王(醍醐皇女、村上皇姉)の右大臣藤原師輔への降嫁は下記の史料にみられるように評判が悪い。それは反律令行為だからである。

 師輔は康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなきに(前が汚れている)」(『大鏡』)とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『中外抄』) などと伝えられている。

 [保立道久1996 81]

 次の史料では村上天皇及び世間はこれを許さなかったとも伝えている。

『大鏡』三 裏書

一品康子内親王事

(中略)

天暦八年三月廿八日勅賜年官年爵。本封外加一千戸。准三宮。同九年配右大臣師輔公。帝及び世不許之。天徳元年六月六日生仁義公。即薨。同十日乙丑葬礼

[米田雄介2004 486頁]

 

 天気を損じたこと。世間も肯定的でなく異常な事態とみなされていたことが史料でうかがわれる。但し『中外抄』は12世紀の関白藤原忠実の口述記録で、同時代の記録ではないが、師輔の子孫でありながら醜聞と認識していることがわかる

 もっとも、結果的に結婚は承認された。師輔は村上天皇の皇后の父で義父にあたり、事の性質上、違法であっても内親王降嫁を勅許せざるをえなかったのである。

 康子内親王は産褥により薨ぜられ、遺児が太政大臣藤原公季(閑院流藤原氏の祖先)である。のようにこイレギュラーな婚姻事例を「皇室の歴史と整合的なもの」とし、①案を正当化しようとする有識者会議事務局の見解に論理性はない。

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2 事務局例示の6例を①案の前例とすることに論理性がない

 

 事務局例示6例について、婚姻のあり方、所生子、夫方居住か否か、葬儀・仏事、墓所等を調べたところ、以下のとおりである。

 吉子内親王は納采の儀の年に結婚相手の家継が7歳で夭折し、たった3歳で未亡人になってしまった例で特殊であり、吉子内親王と結婚期間が短く墓所等不詳の勤子内親王を除いて、例示の臣下に降嫁した内親王四方は、夫方居住、墓所もしくは仏事が婚家の菩提寺であり宮内庁治定陵墓のリストにない。なによりも所生子は父系帰属で藤原氏なのであるから、婚家帰属性は明確である。①案はアン王女から発想された案と考えられるが、女性皇族が摂政や国事行為臨時代行となる①案の皇族女子が夫の私邸居住は不都合に思え①案のイメージと、事務局例示の前例とはかなりの違和感があり、6事例を前例とすることに論理性はない。

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 二 旧宮家の再興・旧皇族復籍をコンセプトとして③案にしぼるべき

 

 11宮家は昭和22年、昭和天皇と大正天皇の直宮三家を守るため、当時の特殊な事情により離脱されたのであって、旧宮家の宮号再興、旧皇族復籍をコンセプトとして皇統に属する男系男子を独立の当主として復籍していただくべき。

 旧皇室典範は、原則は 永世皇族制であり男系男子が続く限り皇族である。現皇室典範も嫡出を明記しているが同じことである。

 明治22年皇室典範の永世皇族制を前提とするならば、旧宮家の男系男子は、離脱してなければ皇族であったはずだから、現今のように皇位継承者が枯渇している状況では、できる限り復籍していただくのが筋である。

 もっとも、明治40年に皇室典範増補第一条「王は勅旨又は情願に家名を賜ひ華族にせしむることあるへし」により、臣籍降下がありうることが確定し、永世皇族制度が見直され、大正 9年(1920)から昭和18年(1943)にかけ、明治40年(1907)年の皇室典範増補に従い、臣籍降下された次男以下の12名の旧皇族がおられるが、この方々の男系子孫も、復帰していただきたいと考える。それでは多すぎるということなら別途調整する案が考えられると思う。

 とはいえ、ウィキペディアによれば閑院家は絶家とされている。無嗣子となった旧宮家もあるだろう。皇室典範では宮号は称号であり、遺産相続はあっても家督相続なしといわれ、「家」制度的なあり方とは違うとはいえ、臣籍に降下された以上、家の跡取りが考えられているはずである。

 実子の跡取りがいない場合は、婿養子や養子縁組をする。皇籍から離脱されている以上、養嗣子を取ることはできるから、例えば旧宮家X4方男系男子がおられるなら、御一方はX宮家当主として復籍し、他の男系男子は、実系では途絶した旧宮家の養嗣子であるならば、皇籍に復帰できるようにする。そうでなくても旧宮家を尊重し、当主もしくは代表者の推挙権を行使していただくか、それに准じた案を検討し、旧宮号をできるだけ多く再興するようにすべきである。具体策は本文第二部の第2節に記述する。

 なお、②案については、現存宮家の当主が跡取となる養嗣子を要望されているなら、③案と平行する形で検討すべき事柄である。

 つまり、旧宮家の嫡男は旧宮号で再興していいただき、次男以下の男子がおられるなら、その方々は新宮号や実系では途絶した宮号の再興を基本案として、もしくはそれに工夫を加えて復籍していただくということである。

 

(一)②養子縁組案を否定したい理由

 

 そもそも、大鉈を振るう改革には大反対で、皇室典範9条は養子相続を認めていないので、明治22年以前のあり方に戻すだけだといっても、改革には慎重であるべきである。12条改変は絶対反対であることは再三述べたが、9条も改変したくないので、現行の皇室典範のコンセプトを改変せずに、皇位継承候補者の確保をなすべきである。

 但し現存宮家当主が跡取りとして養子縁組の希望があると仰られるなら検討せざるをえない。しかし皇室典範で養子相続が否定されている大前提があり、宮号、財産や祭祀を承継する養嗣子にこだわらないと仰られたなら、この②案は実現困難となり、男女共系に道を開く①案しかなくなるというリスクがある。従って堅実無難な③案を軸とすべきである。

 現存宮家が養子縁組する目的が、たんに旧皇族男系男子の血縁的疎隔を穴埋めするための准的な措置、方便として行うという意味なら、以下の理由でそれは不要である。

 

(二)崇光院流=伏見宮御一流に正当性がある

 

 伏見宮御一流の宗家である伏見宮家には後深草院流正統とする『椿葉記』に記されるような皇統上の格別の由緒、永続を約された由緒が複数以上あること。

 伏見宮家は、崇光院流の正当性ゆえ、天皇と血縁が疎隔してもステイタスは劣化せず、皇親からフェードアウトしない永続性のある世襲親王家となり、しかも実系で血統が絶えることなく天皇家と550年併存した。「別格の宮家」、「准天皇家」ともいわれ、完全なる傍系化が回避された王統なのである[久水俊和2020a 39頁]。しかも明治22年皇室典範以前に、実系で伏見宮系の世襲親王家は、伏見宮、閑院宮、小松宮と三家もあったのである。

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 平成初期頃から伏見宮旧蔵本(戦後宮内庁書陵部が国費で購入)の楽書が研究に利用しやすくなって帝王学である琵琶を中心とした音楽の研究が進展し、また伏見宮持明院統の文庫を相続しているが、平成時代に書誌学的研究も進展し、蓮華王院宝蔵という後白河院由来の蔵書も有していたことが明らかになった[田島公2004]。

 伏見宮の由緒については、近年『看聞日記』は細かいエピソードまで詳しく研究されており、現代語訳もされるようになった。

 従来の伏見宮貞成親王の太上天皇尊号宣下辞退説が明確に否定され、後崇光法皇は本格的太上天皇であったことが明らかにされた[田村航2018][久水俊和2020a]。伏見宮貞常親王が後花園より「永代伏見殿御所」号勅許の所伝は、複数の史料がないため慎重に扱われていたが、近年積極的に評価する歴史家が多くなったなど成果も多い。崇光院流=伏見宮の正当性の再定義を行えば、国民の理解は容易に得られる。それほど伏見宮御一流と天皇家が併存すべき理由、伏見宮の永続性にかかわる理由には事欠かないからである。

 

(三)令制皇親制度の世数制限は15世紀に実質修正され天皇との血縁的疎隔してもステイタスを維持できる。皇統上の正当性こそが肝要

 

 大宝令や養老令の継嗣令皇兄弟条は、皇親の範疇を四世王までに世数制限しているが、15世紀に、門跡に入室する人材が払拭したため、五世王や六世王でも上皇や天皇の猶子として親王宣下が合法化された[松薗斉2010]。中世公家法は、准的などの法技術により令義解の原意にこだわらない解釈が可能なので[保田卓 1997 ]、15世紀に実質修正されており、しかるべき由緒のある皇統では、天皇との血縁が疎隔しても親王宣下が慣例化した。継嗣令の原意の世数制限にこだわる必要はない。

 15世紀は限嗣単独相続の日本的家制度の成立期であり、それに対応した皇親制度に変容したのである。要するに15世紀以降の展開は、皇統上の格別な由緒、正当性が重要なのであって、天皇との男系での血縁の疎隔はさほど重要な問題ではない。

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[i] (継嗣令王娶親王条)

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。 従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は違法。 

[ii] 日本紀略延暦12年(793)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得ることにより、規制緩和がなされているが、内親王と臣下の結婚は一貫して違法である[今江広道 1983[安田政彦 1998][栗原弘2002[米田雄介2014]

  文殊正子[1986]によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていた[中村みどり2014による文殊説の要約]

  




引用・参考文献(一覧表

 ★印=オープンアクセス(ネット公開)

翻訳書

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JL・フランドラン1992宮原信訳『性の歴史』藤原書店

JL・フランドラン1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

イレイン・ぺイゲルス1993 絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社(原著1988

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ピーター・ラスレット1986『われら失いし世界―近代イギリス社会史』川北・指・山本訳 三嶺書房

ミッテラウアー,ミヒャエル、 ジーダー,ラインハルト1993若尾夫妻訳『ヨーロッパ家族社会史』名古屋大学出版会

ミッテラウアー,ミヒャエル1994若尾・服部・森・肥前・森訳1994『歴史人類学の家族研究-ヨーロッパ比較家族史の方法』新曜社

メッツ,ルネ1962久保正幡・桑原武夫訳『教会法』ドン・ボスコ社

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荒木敏夫1999 『可能性としての女帝 』 青木書店

嵐義人1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社)

飯倉晴武2000 『地獄を二度もみた天皇 光厳院』 吉川弘文館

飯倉晴武2002 『日本中世の政治と史料』 吉川弘文館

飯倉晴武2009 「伏見宮本の変遷-書陵部での整理と書名決定-」 禁裏・公家文庫研究第三輯 思文閣出版

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家永遵嗣 2016 「光厳上皇の皇位継承戦略」  桃崎有一郎・山田邦和『室町政権の首府構想と京都』所収

家永遵嗣 201814世紀の公武関係・朝幕関係と室町幕府 : 皇位継承争いのもとにおける国制の再構築(縮約補訂)」学習院史学56

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岩井託子1999a「グレトナ・グリーン 英国随一の結婚式場(8)」中京大学文学部紀要 341

岩井託子1999 b「グレトナ・グリーン 英国随一の結婚式場(9) 」中京大学文学部紀要 342

岩井託子2002『イギリス式結婚狂騒曲 駆け落ちは馬車に乗って』中公新書

岩佐美代子1993「光厳天皇-その人と歌-」駒澤國文 30

岩佐美代子 1997 『宮廷に生きる』 笠間書院

植木朝子 2009 「『看聞日記』にみられる楽器」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社

植田真平・大澤 泉(2015)「伏見宮貞成親王の周辺 ―『看聞日記』人名比定の再検討」書陵部紀要66

上野和男1982「日本の祖名継承法と家族--祖先祭祀と家族類型についての一試論」『政経論叢』5056

上野和男1985「日本の位牌祭祀と家族--祖先祭祀と家族類型についての一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』6

上野雅和1962「イングランドのキリスト教化と婚姻法-イングランドにおける近代的婚姻の成立過程2」松山商大論集132

上野雅和1981「イギリス婚姻思想史-市民的夫婦一体観の成立をめぐって」福島正夫編『家族-政策と法』東大出版会

鵜川馨 1991「十八世紀英国における婚姻契約」『イングランド中世社会の研究』聖公会出版

梅村恵子 2000 「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

宇根俊範1980「律令制下における賜姓について-朝臣賜姓ー」『史学研究』80

宇根俊範1983「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99

枝村茂1975「婚姻の秘跡性をめぐる神学史的背景」  アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 25

枝村茂1978「婚姻の不解消性と教会権についての神学的考察」アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 28

枝村茂1980「カトリック教説における婚姻の目的の多元性」 アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 31

枝村茂1985「カトリック教会法における婚姻の形式的有効要件とその史的背景」宗教法学3

枝村茂1995「カトリック婚姻法における世俗性と宗教性」宗教法14

江守五夫1986『日本の婚姻』弘文堂

江守五夫1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990

江守五夫1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993

江守五夫1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998

榎村寛之 2007 「元・斎王井上内親王廃后事件と八世紀王権の転成 」 国立歴史民俗博物館研究報告( 134

遠藤慶太2000「『続日本紀』と承和の変」古代文化52

遠藤みどり 2015 『日本古代の女帝と譲位』 塙書房

近江昌司1962 「井上皇后事件と魘魅について」 天理大学学報(14

大島創2015「法金剛院と法金剛院領の形成・伝領過程」史観172

大竹秀男1977『「家」と女性の歴史』弘文堂

大藤修1996『近世農民と家・村・国家 : 生活史・社会史の視座から』吉川弘文館

小笠原敬承斎(2010)「結婚にまつわるしきたり その起源と意味」『歴史読本』201010 55 10号 通巻856

岡野友彦2015『戦国貴族の生き残り戦略』吉川弘文館

岡部 明日香(2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮」中古文学 90(0)★

小川剛生2003『南北朝の宮廷誌―二条良基の仮名日記』臨川書店

小川剛生2005 『二条良基研究』 笠間書院

小川剛生 2009 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社

小川剛生2012『足利義満』中公新書

小川剛生2017 『中世和歌史の研究』 塙書房

小川剛生 2020 『徒然草をよみなおす』 ちくまブリマー新書

小川剛生 2020 『二条良基』 (人物叢書)吉川弘文館

奥村佳紀1971「新羅人の来般について」駒沢史学 (18)

小倉慈司2010「親王・王成年式表」『書陵部紀要』(61

小田部雄二2014『天皇と宮家 消えた十二宮家と孤立する天皇家』新人物文庫

小野則秋 1944 『日本文庫史研究 上巻』 京都・大雅堂

尾上陽介(2001)「年官制度の本質」史観 145★

折井美耶子2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636

加栗貴夫2018「家移り儀礼から見た中世後期の「家」妻の位置」『日本史のまめまめしい知識第3巻』岩田書院

加地信行1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書

加藤東知1927『英国の恋愛と結婚風俗の研究 』日本大学出版部

勝俣鎭夫2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社

河西秀哉 2008 「象徴天皇制・天皇像の定着 ミッチー・ブームの前提と歴史的意義」 同時代史研究(1

河西秀哉2018『天皇制と民主主義の昭和史』人文書院

上村正裕 2018 「しりへの政と皇后八・九世紀を中心に」 日本歴史 (844)

金井静香 1999 『中世公家領の研究』 思文閣出版

神谷正昌2002「承和の変と応天門の変」史学雑誌111111

神谷正昌 2020 『清和天皇』 吉川弘文館

亀田俊和2014『南朝の真実 忠臣という幻想』吉川弘文館

亀田俊和2015『高師直』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー

蒲生正男1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

蒲生正男1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社

蒲生正男1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

蒲生正男1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

蒲生正男1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3川上貢(1960)『般舟三昧院について』日本建築学会論文報告集 662

川上多助1982『平安朝史学』上 初版1930 昭和57年 国書刊行会

川崎晃 2004 「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』 慶応義塾大学出版会

神田裕理 2019 『朝廷の戦国時代-武家と公家の駆け引き』 吉川弘文館

河村政久史1973 「昌子内親王の入内と立后をめぐって」 史叢(7

官文娜2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版

官文娜2010「日中伝統家業の相続に関する歴史的考察--北京同仁堂楽家と三井家との比較において」立命館文學617

菊池大樹2001「宗尊親王の王孫と大覚寺統の諸段階」歴史学研究747

岸俊男 1957 「光明立后の史的意義」 ヒストリア(20

岸俊男1969 『藤原仲麻呂』 吉川弘文館

北啓太2016 「禁裏文庫と近衛家」田島公編『近衛家名宝からたどる宮廷文化史』 笠間書院

鍛代敏雄2013敗者の日本史11『中世日本の勝者と敗者』吉川弘文館

北西鶴太郎 「大鏡の文藝性序説 : その 1 主題に就いて」文芸と思想  (3)★

北野隆(1979)「近世公家住宅における数寄屋風書院について : その 2 摂家住宅について」日本建築学会論文報告集 275(0)★

木原弘美 1995 「 絵巻の往き来に見る室町時代の公家社会その構造と文化の形成過程について― 」 佛教大學大學院紀要 23号★

木村修二1994「近世公家社会の「家」に関する一試論 : 養子縁組をめぐって」 史泉79

木本好信 (2004、初出2002) 『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう

京楽真帆子1989「平安貴族の居住形態」比較家族史研究4

京楽真帆子1993「平安京における居住と家族-寄住・妻方居住・都市」『史林』76巻2号

金宅圭2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会

久保貴子 1998 『近世の朝廷運営 - 朝幕関係の展開』 岩田書院

久保貴子 2002 「江戸時代-武家社会のはざまに生きた皇女」服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館

久保貴子2009 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち) 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2

楠元町子 2010「万国博覧会と皇室外交-伏見宮貞愛親王と1904年セントルイス万博-」愛知淑徳大学論集一文学部・文学研究科篇一 (35)★

熊谷開作1963『歴史のなかの家族』酒井書店

熊谷開作1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社

倉本一宏2019『公家源氏』中公新書小山順子2021「後土御門天皇と連句文芸-文芸を導く天皇」芳澤元編『室町文化の座標軸-遣明船時代の列島と文事』勉誠出版

倉本一宏2001「内府悦気有り」駒沢女子大学研究紀要 (8)1

栗原弘1990「藤原内麿家族について」日本歴史 (511)

栗原弘1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店

栗原弘1999『平安時代の離婚の研究』弘文堂

栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2★

栗原弘2004「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史学会 編 (19)★

栗原真人1991 <論説>秘密婚とイギリス近代 (1)」 香川大学 11巻1号★

栗原真人1992a 「〈論説>秘密婚とイギリス近代 (3)  香川法学 121号★

栗原真人1992 b「<論説>秘密婚とイギリス近代(4・完)  香川法学 122号 ★

栗原真人1996「 フリートとメイフェア : 一八世紀前半ロンドンの秘密婚」 香川法学 154号★

栗原涼子2003「革新主義考アナーキストフェミニズムについて」岩手県立大学盛岡短期大学部研究論集 5

栗山圭子 2001 「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号 日本史研究465

黒田俊雄(1994・初出1982)「朝家・皇家・皇室考-」『黒田俊雄著作集一権門体制論』法蔵館

桑山浩然1996「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』( 6)

河内祥輔2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館

河内祥輔2018「鎌倉幕府と天皇」『天皇と中世の武家』所収

呉座勇一2018『陰謀の日本中世史』角川新書

小久保嘉紀2022「斯波義敏と斯波義廉の内訌」渡邊大門編『諍いだらけの室町時代』柏書房

小谷徳洋2022「河内四条畷の戦いと楠木正行の生涯」渡邊大門編『南北朝の動乱主要合戦全録』星海社

後藤みち子2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

後藤みち子2014「室町戦国時代の婚姻」高橋秀樹編『婚姻と教育』竹林舎

小森崇弘2008 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」 立命館文學 (606)

小林よしのり 2010 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』 小学館

古藤真平2018 『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む』 臨川書院

五味文彦 2006 『中世社会史料論』 校倉書房

近藤佳代子(2015)「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要49

近藤成一2016『鎌倉幕府と朝廷』岩波新書

近藤毅大 1997 「紫微中台と光明太后の『勅』」 ヒストリア(155

近藤好和2010「布衣始について」日本研究42★

近藤好和 2019 『天皇の装束』 中央公論新社

齋藤公太2019『「神国」の正統論―『神皇正統記』受容の近世・近代』ぺりかん社

佐伯智広2019『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』吉川弘文館

坂井孝一2018『承久の乱』中公新書

酒井信彦 2002 戦国時代の朝廷 朝廷の「式微」は真実か 日本及び日本人1643

酒井茂幸2009 『禁裏本歌書の蔵書史的研究』  思文閣出版

坂本真美子 1987「十 五 世 紀 の 宮 廷 雅 楽 と 綾 小 路 有 俊」東洋音楽研究51

坂田聡(2002)「中世後期~近世の家・家格・由緒--丹波国山国地域の事例を中心に 」『歴史評論 』630

坂田聡(2006)『苗字と名前の歴史』吉川弘文館

坂田聡(2007)「家制度の期限を探る-転換期としての戦国時代-」『青少年問題』625

桜井栄治 (2009) 『室町人の精神』 講談社学術文庫桜井栄治 2009 『室町人の精神』 講談社学術文庫

桜田真理絵 2016 「未婚の女帝と皇位継承元正・孝謙天皇をめぐって— 」 駿台史学156

桜田真理絵2018 「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ -「不婚の女帝」論の再検討-」 文化継承学論集 (13)

佐々木宗雄 1994 『日本王朝国家論』名著出版

佐古愛己2012『平安貴族社会の秩序と昇進』思文閣出版

佐古愛己2013「中世叙位制度の特質に関する一考察 : 鎌倉期を中心佐藤長門 (2009) 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤賢一2009『カペー朝-フランス王朝史1』講談社現代新書

佐藤賢一 2014 『ヴァロア朝-フランス王朝史2』 講談社現代新書

佐藤賢一2019『ブルボン朝-フランス王朝史3』講談社現代新書

佐藤哲也2012「近代教育思想の宗教的基層(1) : コトン・マザー『秩序ある家族』(1699)」 宮城教育大学紀要 47号★

佐藤長門 2009 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館

篠川賢 2013 『飛鳥と古代国家』 吉川弘文館

滋賀秀三1967『中国家族法の原理』創文社

柴桂子2004「近世の夫婦別姓への疑問〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状 のコメント」『総合女性史研究』(21)

柴田敏夫1987「「コモン・ロー・マリッジ」略史」大東法学 14

島善高1992「近代における天皇号について」早稲田人文自然科学研究(41

島津一郎1974『妻の地位と離婚法』第42イギリスにおけるコモン・ロー婚の展開 有斐閣

島村修治1971『外国人の姓名』ぎょうせい

清水昭俊1970「<>の内的構造と村落共同体 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

清水昭俊1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

清水昭俊1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

清水昭俊1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

清水昭俊1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

清水昭俊1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

東海林亜矢子2004「母后の内裏居住と王権」お茶の水史学 48

白木歩澄2018「十八世紀イングランドにおける女性の結婚観 : ハードウィック婚礼法制定による変化」歴史研究64

白根陽子2018 「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開』 同成社

末柄豊 2011 「伏見宮旧蔵文書二題」 東京大学史料編纂所研究成果報告2011-3

末柄豊2012 「禁裏文書における室町幕府と朝廷」 ヒストリア(230

末柄豊2012 「十三絃道の御文書」のゆくえ」 日本音楽史研究(8

末柄豊 2018 『戦国時代の天皇』 山川日本史リブレット

菅原正子2002「中世後期-天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』小学館

菅原正子2014『日本中世の学問と教育』同成社

杉崎重遠 1954「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (9-10)★

鈴木繁夫2004「交わりの拡張と創造性の縮小 : ミルトンの四離婚論をめぐる諸原理について」言語文化論集 261号★

鈴木繁夫2013「性格不一致の離婚とその起源 : ミルトン離婚論と現代離婚観の宗教性」言語文化論集 35(1)

瀬川淑子2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』

相馬真理子 1997 「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」 書陵部紀要 (49)

園部寿樹2015 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢治芳短期大学紀要 51

曽我良成2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館

曾我部静雄1974「日唐の詔勅に見える節婦の旌賞」史林572

曽我部愛2021『中世王家の政治と構造』同成社

杣田善雄2003『幕藩権力と寺院・門跡』思文閣出版

苑田 亜矢1997 1159年の教皇選挙と教皇庁上訴 : イングランド史からの一考察」有明工業高等専門学校紀要 33

苑田亜矢2000「一二世紀イングランドにおける教皇庁への上訴をめぐって--1164年のクラレンドン法第8条および1172年のアヴランシュの和約の再検討」法制史研究 (50)

薗部寿樹2014資料紹介『看聞日記』現代語訳(二)山形県立米沢女子短期大学紀要50★

薗部寿樹2015 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢女子短期大学紀要51★

高岸輝2007「室町時代における高階隆兼の伝説形成」美術史論集7

高岸輝 2017 「天皇と中世絵巻」高岸輝・黒田智『天皇の美術史3乱世の王権と美術戦略 室町戦国時代』 吉川弘文館

高岸輝 2020 『中世やまと絵史論』 吉川弘文館

高久嶺之介1981「近代皇族の権威集団化過程 ― その近代宮家の編成過程 ―」社会科学(27)★ 

高埜利彦2014『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館

高埜利彦2019「江戸時代の皇位継承」朝幕研究会『論集近世の天皇と朝廷』岩田書院

高橋秀樹1996『日本中世の家と親族』吉川弘文館

高橋秀樹2004『中世の家と性』山川出版

高橋秀樹2014「「家」研究の現在」『婚姻と教育』竹林舎

高橋康夫1978 「後小松院仙洞御所跡敷地における都市再開発の実態室町時代京都の都市再開発に関する考察」 日本建築学会論文報告集(263)★

高橋康夫1978 「戦国期京都の町 組 「六 町 」 の地域構造」 日本建築学会論文報告集274号★

高橋康夫 1983 『京都中世都市史研究』 思文閣出版

高橋典幸 2019 「南北朝動乱期の社会」『中世史講義』 筑摩書房

武部敏夫 1960 「世襲親王家の継統について-伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」 書陵部紀要12

武部敏夫1987『和宮』吉川弘文館

瀧浪貞子 1991 『日本古代宮廷社会の研究』「孝謙女帝の皇統意識」 思文閣出版

瀧浪貞子2017『藤原良房・基経』ミネルヴァ書房

竹島寛 (1982復刊、1936) 『王朝時代皇室史の研究』 名著普及会1982復刊

武田佐知子1980「律令国家による儒教的家族道徳規範の導入-孝子・順孫・義夫・節婦の表旌について」竹内理三編『天皇制と社会構造』校倉書房

詫間直樹2003「伏見宮本『御産部類記』について」『禁裏・公家文庫研究 第一輯』思文閣出版

詫間直樹2006「高松宮家旧蔵『伏見殿文庫記録目録』について」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』思文閣出版

田島公 1997 「禁裏文庫の変遷と東山御文庫の蔵書」大山喬平教授退官『日本社会の史的構造 古代・中世』 思文閣出版

田島公2004 「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収 吉川弘文館

田島公2006 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』 思文閣出版

龍野加代子1997 「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号 法政史学(49)★

玉井力1964「承和の変について」歴史学研究286

谷口やすよ1978 「漢代の皇后権」 史学雑誌87(11)★

谷口研語 1994 『流浪の戦国貴族 近衛前久』 中公新書

谷田博文 2019 『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか』 河出書房新社

田中明2007「修学院離宮における御幸様式の変遷と場所構成について」日本建築学会計画系論文集72  621 

田中和夫1958「イギリスの婚姻法」比較法研究18号 

田村航 2013 『一条兼良の学問と室町文化』 便誠出版

田村航 2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)

田村航 2020 「後花園天皇-後光厳流か、崇光流か」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

千葉功2019「南北朝正閏問題再考」学習史学57★

告井幸男2007「摂関・院政期における官人社会」日本史研究535

角田文衛 (1985初出1966) 「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』 法蔵館

角田文衛2003『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房徳田武(2011)『朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁』勉誠出版

角田文衛2006『日本の女性名―歴史的展望』国書刊行会

東郷茂彦2020『「天皇」永続の研究』弘文堂

所功 2012 『日本の宮家と女性宮家』「皇室史上の宮家制度」 新人物往来社

所功2021「皇位継承史上の危機と課題」『皇位継承の歴史と廣池千九郎』モラロジー研究

徳島県立博物館企画展図録2001『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』

利行榧美2006「桓武朝における「国忌」についての一考察」奈良史学(24

豊永聡美2001「平安時代における天皇と音楽」研究紀要 25(東京音楽大学)

豊永聡美2017 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』 吉川弘文館

豊永聡美2020 「後土御門天皇-心を砕いた朝議復興-」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 (1995) 「わび茶と露地 (茶庭の変遷に関する史的考察 その9: 禁中の茶とその茶庭」 千葉大学園芸学部学術報告 (49)

直江眞一1990「『我々はイングランド法を変更することを欲せず』(Nolumus leges Anglie mutare)について」『法学』東北大 543

直江眞一2014「アレクサンデル三世期における婚姻法 : 一一七七年六月三〇日付ファウンテン修道院長およびマギステル・ヴァカリウス宛教令をてがかりとして」法政研究 81 (3)

永井晋2003『金沢貞顕』吉川弘文館

永井晋2006『金沢北条氏の研究』八木書店

永井晋2021『八条院の世界』山川出版社

永井晋2022『鎌倉幕府はなぜ滅びたのか』吉川弘文館

永井和 2012 「波多野敬直宮内大臣辞職顛末 : 一九二〇年の皇族会議 (杉橋隆夫教授退職記念論集)」立命館文学(624)★

中込律子 2005 「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』 清文堂出版

中川和明1991「聚楽第行幸の行列について」弘前大学國史研究 (90)

中川八洋2005『皇統断絶』ビジネス社

中川八洋2007『悠仁天皇と皇室典範』清流出版

中川八洋2018 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』 ヒカルランド

中川八洋 2019 「「旧皇族の復籍」妨害に全力疾走の赤い山羊八木秀次 ──」 ブログ 中川八洋ゼミ講義

中林隆之 (1993 1994) 「律令制下の皇后宮職(上)(下) 新潟史学31 32

中村順昭 2019 『橘諸兄』 吉川弘文館

中村みどり 2002 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編(1

中村みどり2014 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13)★

中村順昭 2019 『橘諸兄』 吉川弘文館

中本真人2021a「北山惣社御神楽と綾小路信俊」人文科学研究147

中本真人2021b『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社

波田永実 2017 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)★

成清弘和1999 『日本古代の王位継承と親族』 岩田書院

仁井田 陞1952『中国法制史』岩波書店

西川誠2019「皇室典範の制定-明治の皇位継承」歴史学研究会編『天皇はいかに受け継がれたか』績文堂

西川健誠2005「夫婦の交わり,神との交わり : 『楽園喪失』における夫婦愛と信仰()」神戸外大論叢 56(2)

西川健誠2004「夫婦の交わり神との交わり : 『楽園喪失』における夫婦愛と信仰 ()」 神戸外大論叢 55(3)★】

西嶋定生 1999 『倭国の出現 東アジア世界のなかの日本』 1999 東京大学出版会

西島正1954「ミルトンの女性觀」紀要 3

西田かほる2021「近世遠江における親王由緒-木寺宮をめぐって-」静岡文化芸術大学研究紀要21

西別府元日2002 『律令国家の展開と地域支配』 思文閣出版

西谷正浩1996『日本中世の所有構造』塙書房

新田一郎 2001 「継承の論理-南朝と北朝」『岩波講座 天皇と王権を考える 2統治と権力」」 岩波書店

新田一郎2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社

仁藤智子2016「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

布谷陽子2005「中世王家領の研究-女院領の伝領と王家の追善仏事」博士論文要旨★

根本猛1992「アメリカ法にみる母性保護と男女平等」『法経論集』静岡大学法経短期大学部6768 

野田泰三2019「宣陽門院覲子内親王の夢 (女性歴史文化研究所 第27回シンポジウム報告「発信する皇女たち -斎王を中心に-」. II)」女性歴史文化研究所紀要27

野村育代1992 「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館 吉川弘文館

野村玄2019 「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」 大阪大学大学院文学研究科紀要(59)★

橋本義彦 1976 「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』 吉川弘文館

橋本義彦2003「東山文庫と書陵部」『禁裏公家文庫研究第一輯』

橋本義則 1996 『平安宮成立史の研究』 塙書房

波田永実2017 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)★

波多野敏1990「フランス、アンシャン・レジームにおける結婚の約束と性関係」京都学園法学 創刊号★

秦野祐介 2020 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版

秦野裕介 2018 「常盤井宮恒興王への親王宣下」 ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座, 11-04

秦野裕介2019「オンライン日本史講座四月第二回「南北朝の動乱」4」ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座 412

秦野裕介 2020 『乱世の天皇』 東京堂出版

秦野裕介 2020 YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」 (ページ: 31以降日本史オンライン講座★

秦野裕介2020 YouTube「中世の皇位継承16 後小松上皇 後光厳流の断絶と継承」 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020 YouTube「中世の皇位継承17 後小松上皇と後花園天皇」 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020YouTube「京都のお寺の歴史 妙心寺Ⅰ花園上皇の御所を禅寺に」日本史オンライン講座★

秦野裕介2021「観応の擾乱」「禁闕の変」渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』所収 柏書房

秦野裕介2022a「両統迭立から正中の変・元弘の変まで」「和泉堺浦・石津の戦い」「九州における南北朝の動乱」渡邉大門編『南北朝動乱主要合戦全録』星海社

秦野裕介2022YouTube「戦国大名477 足利家 天皇家と足利将軍家」日本史オンライン講座★ 

秦野裕介2022YouTube「観応の擾乱 後光厳天皇践祚と持明院統の分立」日本史オンライン講座★

塙陽子1993「カトリック教会婚姻不解消主義の生成と発展」『家族法の諸問題()』信山社

早川庄八 1993 『続日本紀(古典講読シリーズ)』 岩波セミナーブックス

樋口健太郎2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂

樋口健太郎2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

久水俊和 2011 『室町時代の朝廷行事と公武関係』 岩田書院

久水俊和 2020a 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

久水俊和 2020b 『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』 戎光祥出版

久水俊和2021「同一の帳簿を用いる「公武共同の財政構造」『「室町殿」の時代 安定期室町幕府研究の最前線』山川出版社

廣木一人2001 「後土御門天皇家の月次連歌会」 青山語文31

廣瀬隆司1985「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究2812.

広岡裕児 1998 『皇族』読売新聞社

兵藤裕己2018 『後醍醐天皇』 岩波新書

深津睦夫2014『光厳天皇』ミネルヴア書房

深澤光佐子2015『明治天皇が最も頼りにした山階宮晃親王』宮帯出版社

福井俊彦1970「承和の変についての考察」日本歴史260 

福井憲彦 2019 『教養としてのフランス史の読み方』 PHP研究所

福田景道2015「『池の藻屑』の皇位継承史構図―編年史的側面と「世継」―」島大国文35

島大国文★

福地陽子1956<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展」法と政治7(4)

服藤早苗 1991 『家成立史の研究』  校倉書房

藤木邦彦1991 『平安王朝の政治と制度』 吉川弘文館

藤田覚 2011a 『江戸時代の天皇』 講談社学術文庫

藤田覚2012b『近世天皇論』清文堂

藤田大誠2006 「幕末維新期における宮門跡の還俗に関する一考察」国学院大学日本文化研究紀要 96 

藤田高夫1990 「前漢後半期の外戚と官僚機構」 東洋史研究 , 48(4)

不破勝敏夫1958a「Common Law Marriageについて-1-」山口経済学雑誌 8(3

不破勝敏夫1958bCommon Law Marriageについて-2-」山口経済学雑誌 8(4)

不破勝敏夫1959「アメリカにおけるCommon Law Marriageの理論」山口経済学雑誌 10(1)

北條文彦 2002 「中世に於ける長講堂の供花の沿革について」 駒沢史学 (58)

保科季子2002 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』612号 東洋史研究612

保立道久 1996 『平安王朝』 岩波新書

洞富雄1957『日本母権制社会の成立』淡路書房

前田雅之 2018 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館

増田忠彦201) 「資料にみえる 碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 (15)

松下晴彦2004「グレトナ・グリーン「駆け落ち婚」の聖地」英米文化学会編『英文学と結婚-シェイクスピアからシリトーまで』彩流社所収

松永和浩2013『室町期公武関係と南北朝内乱』吉川弘文館

松永和浩 2020 「後光厳天皇-神器を欠き、都を逐れても」久水・石原變『室町・戦国天皇列伝』所収 戎光祥出版

松永和浩2022「室町幕府の皇位・皇統」「室町時代と酒-『看聞日記』を中心に-」『京都の中世史5首都京都と室町幕府』

松薗斉 1997 『日記の家』 吉川弘文館

松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25),

松薗斉2014 「戦国時代禁裏女房の基礎的研究 後土御門~後奈良天皇期の内裏女房一覧」 愛知学院大学論叢 (44)

松薗斉 2016 「室町時代禁裏女房の基礎的研究  後花園天皇の時代を中心に」 人間文化 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (31)

松薗斉2017『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家  (日記で読む日本史)』臨川書院

松澤克行・荒木裕2008「 刊行物紹介 大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記 九」東京大学史料編纂所報第44号★

三木太郎 1953 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因長講堂領以下の所領を中心としてー」 駒沢史学2★

三崎裕子 1988 「キサキ宮の存在形態について」  史論41

三島暁子 2002 「室町時代宮中御八構の開催と記録」 武蔵文化論叢二

三島暁子 2003 「南北朝、室町時代の追善儀礼に見る公武関係」 武蔵文化論叢三

三島暁子 201 『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版

水間政憲 2019 『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘」 ビジネス社

水野智之2014 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』 吉川弘文館

水野柳太郎2008 「いわゆる光明立后の詔について」 奈良史学 (26)

水野智之 2005 『室町時代公武関係の研究』 吉川弘文館

三村晃功 1995 「「永正8年月次和歌御会」をめぐって--725日和歌御会を中心に」 光華女子大学研究紀要 (33)★

村上史郎1999「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

村井章介 2005 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』 校倉書房

村田正志 (1954初刊、1984) 『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1944) 「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1951)「皇統における熊澤一派の俗論を筆誅する」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

桃崎有一郎 2020 『室町の覇者足利義満-朝廷と幕府は以下に統一されたか』 筑摩書房

森茂暁(2005 2020)『南朝全史』講談社

森茂暁2007戦争の日本史11『南北朝の動乱』吉川弘文館

森茂暁2008『増補・改訂 南北朝期公武関係史の研究』思文閣出版

森茂暁(1997 2013)『闇の歴史、後南朝』角川書店

森茂暁 2017 『室町幕府崩壊』 角川文庫

森茂暁 2004 『満済』 ミネルヴァ書房

森暢平 2014 「昭和20年代における内親王の結婚「平民」性と「恋愛」の強調」 成城文藝229

森暢平2022『天皇家の恋愛』中公新書

盛本昌広2008 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文館

森田大介2020 「後柏原天皇-践祚二十年を経ての即位」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

森安雅子2011「『池の藻屑』における南北朝史観をめぐって」岡大国文論稿39

両角倉一1958「最 盛 期 の 堂 上 連 歌 壇」連歌俳諧研究16★゜

文殊正子 1986 「『内親王』号について 『公主』号との比較 」古代文化 38(10)

保田卓 1997 『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)』 教育・社会・文化研究紀要4

安田政彦 1998 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館

山﨑雅稔2001「承和の変と大宰大弐藤原衛条起請」歴史学研究751号、(2001

山崎雅稔 2012 「藤原衛の境涯」 帝京大学外国語外国文学論集(18)

山口和夫 2017 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館

山田敏之 2018 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」 レファレンス(808)★

山本啓介2013 「後柏原天皇時代の内裏和歌活動について 時代背景と形式」 日本文学629

湯川俊治2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

横井清2002『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫 旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979

吉川真司 1998 『律令官僚制の研究』 塙書房

吉田賢司 2017 『足利義持』 ミネルヴァ書房

吉田孝 2006 『歴史のなかの天皇』  岩波新書

吉田常吉 1976 『幕末政治論集』 岩波書店

米田雄介 1992 『歴代天皇の記録』 続群書類従完成会

米田雄介 2004 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』 塙書房

渡邊大門2012『戦国時代の貧乏天皇』柏書房,

渡邊大門2019『奪われた三種の神器』草思社

渡邊大門2021「長禄の変」『戦乱と政争の室町時代』柏書房

渡邊大門2022a「南北朝の合一」『南北朝動乱主要合戦全録』星海社

渡邊大門2022b『嘉吉の乱』ちくま新書

                         

国会議員の先生方へ意見具申 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき-「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-(第2分冊)理由要旨version1

 結論は第一分冊で述べてます。比較的短い理由の要旨です。引用参考文献は第一分冊3月21日エントリー文末にあります。゜

理由要旨(version1)

内容

Ⅰ 案と皇室典範12条改変に反対する理由... 1

A 案に付随する皇室典範12条の改変は家族慣行、婦人道徳を破壊する... 1

B 案は内親王の歴史的由来の否定... 2

Ⅱ 旧宮号再興・旧皇族復籍をコンセプトとして案の直接復帰にしぼるべき... 5

A 伏見宮御一流(崇光院流)が皇籍に復帰すべき正当性がある... 5

B 天皇家と伏見宮家併存の意義を再評価すべき... 7

B 11宮家は皇室典範のもとでは永世皇族制が前提で存続した... 7

C 想定される反論の反論... 11

D 養子縁組案に賛同できない理由... 15

E 宮家再興、創設に消極的になる必要はない... 15

①    伏見宮御一流の格別の由緒... 15

②    国家は伏見宮御一流永続のために財政支出する義理がある... 16

③『椿葉記』には崇光院流の永続の意味も込められている... 18

 

 Ⅰ ①案と皇室典範12条改変に反対する理由

A ①案に付随する皇室典範12条の改変は家族慣行、婦人道徳を破壊する

 有識者会議は、①案を恒久的制度とするため皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)の改変を強く打ち出しているが、同条は旧皇室典範44条を継受したものであり、皇室典範義解によれば「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨のものであって、相応正当な理由がある。

 夫の身分に従うとは、夫と尊卑を同じくした同一の身分、夫が侯爵なら嫡妻も侯爵家の身分という意味であり、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすることで、婚入者の婚家帰属性という日本の家族慣行、女子は婚家を継いで我が家とする婦人道徳に合致させたものである[i]

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 夫妻は尊卑を同じくするという理念は、儒教の経書にみられる文明理念であり、夫婦斉体思想、夫婦の一体性という婚姻家族にとって妥当な意義を有する[ii]

 尊卑を別にする夫妻・母子という異例の制度は、婚姻家族の在り方としては大きな変革となり日本の家族慣行、秩序観念、婦人道徳、醇風美俗を否定するので到底容認できない。

 別の言い方をすれば、穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいう社会構造を全面否定する意図を看取できるのである。

 

B ①案は内親王の歴史的由来の否定

 令制では内親王が臣下に降嫁することは一貫して違法であり[iii]、勅許された18例は令制が想定していないものである。「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した[iv]

 ところが①案は「内親王」号の歴史的由来を否定し、臣下と結婚しながら、摂政、国事行為臨時代行等を内親王や女王に担っていただくというもので、皇室の伝統破壊である。

 加えて、この案は皇室の性的役割分担を流動化させるので、将来、英国、北欧、ベネルクスの君主国のように男女共系に移行することを見据えた案といえる。

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C ①案は夫婦別姓に先鞭をつける歪な形の制度創出であり不愉快

 

 有識者会議①案は、夫妻でありながら妻が皇統譜と夫と嫡子が戸籍でバラバラなのは「婚姻家族」としてはありえない歪で新奇な制度を創出するもので不愉快。我が国の家族慣行では入婿は家長(当主)予定者として迎えられるが、夫妻で尊卑を異にし、男性が皇族女子の添え物になるような婚姻のあり方は男性に対する侮辱だ。

 

D ①案が「皇室の歴史と整合的なもの」という説示は間違っている

 

 事務局の調査研究資料(令和31130)では、①案を正当化するために江戸時代以前は、臣下に嫁した後も内親王の身位であることに変わりないとして、6方を例示しているが、たとえば康子内親王(醍醐皇女)は藤原師輔と内裏で密通し、事後的に承認されたケースである(勤子内親王も同じ)。

 『大鏡』によれば村上天皇の怒りをかった。同時代のものではないが『中外抄』は「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」[保立道久1996 81頁]とあり醜聞と認識されている。それは反律令行為だからである。

 村上天皇及び世間は許さなかったとする下記の史料もあり、それは異常事態と認識されていたといえる。

『大鏡』三 裏書

一品康子内親王事

(中略)

天暦八年三月廿八日勅賜年官年爵。本封外加一千戸。准三宮。同九年配右大臣師輔公。帝及世不許之。天徳元年六月六日生仁義公(藤原公季)。即薨。同十日乙丑葬礼

[米田雄介2004 486頁]

 とはいえ、師輔は村上天皇の皇太弟時代から近臣(春宮大夫)で、皇后安子の父で義父である以上、事の性質上、降嫁が事後的に勅許された。内親王は師輔の坊城第に居住し夫方居住であり[杉崎重遠 1954][栗原弘2004]、藤原公季の誕生直後産褥で薨ぜられている。

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 令制が想定していない違法行為を「皇室の歴史と整合的なもの」とする有識者会議報告の評価は論理的に間違っているし、フェイクと断言してよいと思う。

 また、例示6方のうち婚約相手(徳川家継)の夭折で江戸に下向していない八十宮吉子内親王以外、墓所が判明している近世の摂家に降嫁した常子内親王、栄子内親王と徳川家に降嫁した親子内親王の墓所はいずれも婚家の菩提寺で、宮内庁治定陵墓のリストにはない。

 婚家の墓所ということは皇室から離れたことを意味し、嫁取婚、夫方居住であったことを含め、婚家の成員である。皇族として摂政や国事行為臨時代行等を担う立場にある①案のイメージとは隔たりがあると言わなければならず、これらを先例として①案を正当化する論理性はない。

 なお、①案は女性皇族の配偶者と所生子を当面皇族とはしないけれども、既成事実化したうえでいずれ皇族とすることも検討する趣旨だが、康子内親王所生子は太政大臣藤原公季、常子内親王所生が関白藤原(近衛)家煕であるように、所生子は父系帰属主義で藤氏である。

 検討の余地などない前例なのに、検討するというのは、藤原公季や近衛家煕を皇族に認定するというありえないことをやるということであり、仮に康子内親王や常子内親王が①案の前例と認めるとしても、それは前例を否定することで、小さく生んで大きく育てるたくらみとみてよいだろう。

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Ⅱ 旧宮号再興・旧皇族復籍をコンセプトとして③案の直接復帰にしぼるべき

A 伏見宮御一流(崇光院流)が皇籍に復帰すべき正当性がある

 

a)伏見宮御一流の由緒が顧みられなかったのは南朝正統史観の影響

 

 昭和天皇と直宮3方を守るため昭和22年に皇籍を離脱した11宮家は、伏見宮御一流であるが、片山哲首相の説明では後伏見天皇の末流であり男系では天皇と血縁が疎隔していることを理由の一つとしている。

 伏見宮には『椿葉記』(第3代貞成(道欽入道)親王のちの後崇光院太上天皇の永享5年の著作)非登極皇族で太上天皇尊号宣下を受けたのは、現代の認識では二例、後亀山院は現代では歴代天皇だが、近世以前を公認してないので三例をはじめ皇統上格別の由緒、永続を約されていた由緒があるが、それはいっさい無視された。そこに問題がある

 それは、南朝正統史観、皇国史観の影響が大きいと言わなければならない。

『椿葉記』や石清水八幡宮願文など、伏見宮貞成親王(後崇光院法皇)は、崇光院流を正統とする強い意識を持ち続けたことが知られている。

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(註 なお本朝皇胤紹運禄に従った系図なので宮内庁HPとは違う。但し後崇光院は貞成親王と記されており、尊号は註記が正しい。)

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(註 なお非登極皇族で太上天皇尊号宣下を受けたのは、現代の認識では色をつけた二例、後亀山院は現代では歴代天皇だが、近世以前は公認されておらず帝に非ざる皇族としての尊号宣下でありで三例ともいえなくもない。)

 

 理由の第一は、崇光上皇が持明院統の所領と財産を相続し、惣領の光厳法皇から正統と認定されているのは、後光厳ではなく崇光という趣旨である。

  その光厳や崇光が歴代天皇から外され、後伏見上皇の末流とされたのは、ダメージが大きかった。書陵部にある伏見宮旧蔵本、嘉暦3年(1328)「御事書并目安案」は後伏見上皇が在位10年になっても後醍醐天皇が居座り続ける不当性を幕府に訴える内容だが、当代(後醍醐)は「一代の主」であると「定申」された身ではないか、中継ぎなのだから早々と退位すべきと訴えている[森茂暁2020,73頁]。いわば後醍醐の政敵であり、伏見宮御一流の由緒が全く顧みられることがなかったのはその事情が大きいといえる。  

 南北朝正閏問題の経緯については複雑なので、オープンアクセスの千葉功[2019]講演や、それを解説する秦野裕介が講師をしているYouTube日本史オンライン講座「南北朝正閏問題 国定教科書は南北朝を認めるか」2022の参照指示をするが、主として千葉功[2019]を参考、引用して、概略を述べる。

 南北朝正閏論争とは、明治43年(1910)喜田貞吉(写真)が編修する国定の教師用教科用図書が、宮内省が南北朝正閏を決定していない状況から、南北朝の対立につき軽重をつけない論旨となっていた。検定期の教科書は南朝を「正位」、北朝を「閏位」と位置付けるのが一般的であったので、教育現場で反発があり、明治441月読売新聞が非難、2月藤沢元造代議士の質問は、政府側の説得で回避されたが、犬養毅が激烈な大逆事件と絡めて弾劾演説してこの問題を政争化した。激昂した山縣有朋が教科書改訂を断行しない桂太郎内閣の緩慢を非難、明治44227日喜田定吉は休職処分となり[千葉功2019 ]、桂首相は南朝正統を閣議決定したうえ、228日明治天皇に歴代について上奏、仰裁、3月諮詢された枢密院も南朝正統の奉答書を可決した。

 明治44年(191133日の勅裁とは、天皇が内閣総理大臣からの上奏、枢密院からの奉答、宮内大臣からの上奏を容れる形で侍従長より「後醍醐天皇より後小松天皇に至る間の皇統は、後醍醐天皇・後村上天皇・後亀山天皇・後小松天皇なることを認定したまへる旨を内閣総理大臣並びに宮内大臣に達せしめたまふ」とされたことをいう。

 また、宮内大臣が天皇に「北朝の天皇に対する宮中の取扱方」について伺ったところ、天皇は宮内大臣に「光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては尊崇の思召により尊号・御陵・御祭典等総て従来の儘たるべき旨を命じたまふ」とされた。ここまでが第一次政治決着である。

 したがって、皇統譜においても光厳・光明・崇光・後光厳・後円融は歴代天皇から外された。今日でも、尊号、御陵、御祭典は維持しつつも、北朝天皇として別冊にまとめられている。

 

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 明治44年の国史教科書の修正では、北朝抹殺論により北朝側は「逆賊」とされ、「南北朝」は「吉野の朝廷」に改められた。以後、田中義成などが両朝併立説を主張したが、一般には南朝正統説、南朝忠臣賛美が終戦時まで支配していた。

 天に二日なし。万世一系と矛盾するため、北朝を抹殺し吉野朝時代とされた。北朝を抹殺してしまうと肝心な伏見宮の由緒は見えてこない。旧皇族にとってダメージになっていた。ゆえに、旧皇族の由緒が全く顧みられることなく、皇籍を離脱された背景としては、『椿葉記』など北朝側の歴史が否認されていた皇国史観の時代背景をみてよいのである。その点で不当な扱いをされたことこそ問題である。

 喜田貞吉・三上参次罷免後の教科用図書調査委員会では、南朝正統論者で占められていたが、「史実派」と「憲法派」が対立、委員長である加藤弘之、山川健次郎は「史実派」であり、「憲法派」穂積八束の「北朝を抹殺し、北朝天子を親王とすべし」という北朝抹殺論を排除した。

 ところが、小松原文相や桂内閣は、教科用図書調査委員会の総会決議を無視し、教科書改訂では、「光厳天皇」は「光厳院」、「光明天皇」は「光明院」と改め、略系図では、光厳・光明は親王、崇光・後光厳・後円融は王とされ、穂積八束の北朝抹殺論に沿った内容とした。これが第二次政治決着である。

 北朝抹殺論は今日では不当のように思える。15年に及ぶ光厳院政における政務は活発で、院宣は350通が現存している[森茂暁2008]。

 院評定が開かれ、政務の中心となる文殿が整備され、公家法を完成させた暦応雑訴法が制定され、「公家政務の到達点」との意義が認められている [伊藤喜良 1997]。また京極流の勅撰和歌集である『風雅和歌集』が編纂された。

 しかし、大正、昭和期における北朝抹殺論の影響による伏見宮御一流のダメージは皇統嫡系より大きかったと考える。つまり、皇統嫡系も神皇正統記では偽主とする光厳系であることは、伏見宮と同じなのだが、後小松が後亀山より神器が譲渡され、以下歴代天皇であり、伏見宮の流祖崇光院は一応、南朝より太上天皇尊号を受けてはいるが略系図では王で帝に非ざる皇族にされてしまったからである。

B 天皇家と伏見宮家併存の意義を再評価すべき

 しかし近年においては実証的な歴史学・国文学等(法制史、芸能史、美術史含)の研究により、伏見宮家が天皇と血縁が疎隔してもステイタスが劣化せず皇族からフェードアウトすることのない意義、世襲親王家の「公認」の過程の研究などで進展、成果がみられる。

 帝に非ざる皇族である伏見宮道欽入道親王の太上天皇尊号宣下の辞退説は明確に否定されており、繧繝畳に坐し、元日には関白、摂家以下公家衆の拝賀を受けていた後崇光院法皇は本格的な法皇であったこともわかってきた[田村航2018][久水俊和2020a 39]。近年の研究は伏見宮王統の正当性を論じるにあたって有利なものと言ってよい

 後深草院以来の正統として、嫡流を引く由緒、伏見宮家が嫡流ゆえ皇室文庫を相続し、その後天皇家に進献した部分があり、贈答品その他で散逸したものがあるにせよ、中世の天皇家の蔵書を昭和22年まで伏見宮家が伝えてきたことは書誌学的にみてその意義は大きい[飯倉晴武2002]。また嫡流の帝器だった琵琶の伝習など嫡流の流儀を継承してきたことから、伏見宮家は「別格の宮家」「准天皇家」あるいは完全なる傍系化を回避された王統と評価されている[久水俊和 2020a]

 550年間天皇家と併存して、しかも血筋が途絶することこなく皇族の崇班を継承してきた意義は甚大であるなお伏見宮は18世紀に実系途絶の危機を乗り越えている。宝暦9年(1760)継嗣のない第16代邦忠親王が、病を得て29歳で薨去。亡くなる直前に、伏見宮家は「崇光院已来嫡流格別之家筋」であるので「系脈無断絶速相続被仰出」て欲しいと、御内儀へ願い出ていた[松澤克行・荒木裕2008]。結果的には、宝暦10年桃園天皇の第二皇子が伏見宮(17代貞行親王)を相続したためいったん血筋は中切れとなったが、親王は明和9年(177213歳で早世されたので再び空主となる。宮家から『椿葉記』の由緒等を理由に朝廷に実系継承を嘆願され、将軍にも大奥経由で訴えた結果、安永3年(1774)後桃園天皇の勅命により、勧修寺に入寺得度した伏見宮貞建親王第2王子寛宝法親王の安永3年(1774)年18代邦頼親王として還俗したため実系に復している[武部敏夫1960]

 天皇家と伏見宮家が併存してきた意義を再評価するならば、伏見宮御一流の皇籍復帰をなし奉ることが妥当である。

 

Bその2 11宮家は皇室典範のもとでは永世皇族制が前提で存続した

  幕末維新期以降、伏見宮系の宮家が増大傾向になったのは、皇室の脱仏教化がトレンドとなり、門跡制度が廃止されていく過程で、幕末期は皇子が少なく宮門跡の多くが伏見宮系だったため宮門跡が還俗し、国政に参画するなどしたことによる。

 幕末期に青蓮院門跡であった中川宮(文久31863)、勧修寺門跡であった山階宮(文久41864)、30世御室仁和寺宮(慶応2/1866)その後、東伏見宮、小松宮と改称)が還俗。、

 王政復古を契機に慶応4年(明治元年/1868)に聖護院宮(慶応 4 8 月に嘉言親王の薨去により消滅)、知恩院門跡より華頂宮、梶井門跡より梶井宮(その後、梨本宮と改称)、聖護院に入寺した信仁入道親王が照高院宮(その後、聖護院宮、北白川宮を改称)としてそれぞれ還俗して創立され、明治4年(1872)に三宝院門跡から還俗した伏見宮出身の載仁親王が継嗣のない世襲親王家、閑院宮家を継承し、明治14年(1881)に東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)が世襲親王家に格上げされ、永代存続する伏見宮系の世襲親王家は三家となっている。山階宮と久邇宮は二代皇族とされ、華頂宮は特旨により、梨本宮は養子によって、北白川宮も兄の能久親王が後嗣となって宮家が継承され存続、さらに明治皇室典範により永世皇族制を前提として存続することとなった。

 ここでは、久邇宮、山階宮、小松宮、北白川宮創立等の経緯を簡単に述べる。

〇久邇宮

 幕末期の最初の還俗の例は、青蓮院門跡だった中川宮朝彦親王(伏見宮邦家親王第4王子、その後、賀陽宮と改称、一時宮号の停止後、久邇宮と称する。)であり、文久2年還俗以前に国事御用掛に任命され、文久3年(1863年)一橋慶喜の建白により還俗し、公武合体(親幕)派として、同年の818日の政変(尊皇攘夷過激派を京都から追放した)で宮廷を動かし、孝明天皇、慶喜を陰で支えるなど大きな影響力があった[徳田武2011]。

 しかし第二次長州征伐失敗で失脚状態になり、尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ、明治元年には親王位を剥奪され、明治8年に久邇宮として復位。京都のかつて親子内親王所有だった下立売門内の土地を宮邸とする。伊勢神宮の祭主に就任、明治15年に神宮皇學館を設置した。

梨本宮守正王、皇室典範以降創立の賀陽宮、朝香宮、東久邇宮は久邇宮朝彦親王の御子孫である。

〇山階宮

 勧修寺門跡だった山階宮晃親王(伏見宮邦家親王第一王子)の還俗は、雄藩が朝廷改革を志向し、提携できる皇族とみなされたためである。一橋慶喜、松平慶永、松平容保、伊達宗城、島津久光の連署による願出によるもので、孝明天皇が不快感を抱いたため朝廷の抵抗があったが、薩摩藩が主体となった運動により還俗の道が開かれた。慶応元年以降は、幕府と結びついた中川宮や二条斉敬の朝廷主流派に対抗し、正親町三条実愛ともに朝廷内の王政復古派を形成、孝明天皇により国事御用掛を罷免、蟄居に追い込まれたが、孝明天皇崩御で復権した[高久嶺之介1981、熊野秀一2014]。王政復古後、議定・外国事務総督に就き、明治政府の外交トップとなった。

〇小松宮

 嘉彰親王は、邦家親王の第8王子で仁和寺門跡から還俗し、仁和寺宮東伏見宮小松宮彰仁親王と改め、明治新政府議定、軍事総裁、奥羽征討総督等の維新以来の功労が認められ、明治14年に家格を世襲親王家に改められる。明治23年陸軍大将、31年元帥。36年薨去、国葬を賜る。

〇北白川宮

 邦家親王第13王子の初代智成親王は17歳で明治5年に薨去。邦家親王の第9王子の兄能久王を後嗣と遺言したため、第2代能久王とは輪王寺宮門跡公現入道親王であった。戊辰戦争では奥羽列藩同盟の盟主として擁立され「東武天皇」説がある。仙台藩が降伏し新政府により処分を受け親王位を解かれていた。明治11年親王位に復位、日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、明治28年現地でマラリアに罹り薨去。特旨により国葬を賜る。

 竹田宮は能久親王の御子孫である。

 次代の北白川宮成久王はフランスの陸軍士官学校に留学、大正12年パリ郊外の自動車事故により35歳で薨去

 3代北白川宮永久王は日華事変に出征、昭和15年蒙疆方面で演習中、軍用機の不時着事故のため31歳で薨去。三代に亘り大日本帝国の為に献身遊ばされた[中島武1942]。

 明治22年皇室典範により、世襲親王家が廃止され、宮家の家格差はなくなって、親王号ではなく王号を称することとなり、養子相続が否定された。

 しかし旧皇室典範31条は「永世皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」とされ男系男子が続く限り永世皇族制となったのであり、旧世襲親王家の伏見宮、閑院宮、小松宮のほか、山階宮、華頂宮、久邇宮、北白川宮、梨本宮も永世皇族となった。

 しかし小松宮に実子がなく、明治36年の小松宮彰仁親王薨去の際、皇室典範で養嗣子は宮家を継承できないので、養子であった弟の依仁親王の継嗣が停止された。小松宮は一代で断絶したが、依仁親王は新たに東伏見宮家を創設する。これは小松宮の旧宮号である。但し小松宮家の祭祀を承継したのは北白川宮能久親王第4王子輝久王で臣籍降下し小松侯爵となる。

 また華頂宮家は、明治16年第2代博厚王が8歳で薨ぜられたため、伏見宮貞愛親王の庶子博恭王が華頂宮を相続したが、明治37年伏見宮家の嫡子邦芳王が不治の病を理由とした請願により廃嫡とされたため、博恭王は伏見宮家に復帰した。このため第4代華頂宮は勅命により博恭王の第二王子博忠王が入った。しかし博忠王は大正13年嗣子なく23歳で薨ぜられたで、華頂宮家は絶家となったが、博恭王の第二王子博信王が、祭祀を承継し臣籍降下し華頂侯爵となる。

 明治33年以降、旧皇室典範の永世皇族制を前提として邦家親王系の東伏見宮、久邇宮系の賀陽宮、朝香宮、東久邇宮、北白川宮系の竹田宮が創設されている。昭和22年に皇籍を離脱した11宮家は、旧世襲親王家が2、幕末維新以降創設された宮家が9、そのうち皇室典範以降の創設が5であるが、皇室典範のもとでは永世皇族制の前提のもとにあった。

 旧皇族の方々の貢献は大きく、実系で伏見宮系皇族では次の四方が国葬を賜っている。明治28年(1895)陸軍大将北白川宮能久親王、明治36年(1903)元帥陸軍大将・征清大総督小松宮彰仁親王、大正12年(1923)元帥陸軍大将伏見宮貞愛親王、昭和20年(1945)、昭和20年(1945)元帥陸軍大将閑院宮載仁親王である。

 明治22年皇室典範により、世襲親王家が廃止され、宮家の家格差はなくなって、親王号ではなく王号を称することとなり、養子相続が否定された。

 しかし旧皇室典範31条は「永世皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」とされ男系男子が続く限り永世皇族制となったのであり、旧世襲親王家の伏見宮、閑院宮、小松宮のほか、山階宮、華頂宮、久邇宮、北白川宮、梨本宮も永世皇族となった。

 しかし小松宮に実子がなく、明治36年の小松宮彰仁親王薨去の際、皇室典範で養嗣子は宮家を継承できないので、養子であった弟の依仁親王の継嗣が停止された。小松宮は一代で断絶したが、依仁親王は新たに東伏見宮家を創設する。これは小松宮の旧宮号である。但し小松宮家の祭祀を承継したのは北白川宮能久親王第4王子輝久王で臣籍降下し小松侯爵となる。

 また華頂宮家は、明治16年第2代博厚王が8歳で薨ぜられたため、伏見宮貞愛親王の庶子博恭王が華頂宮を相続したが、明治37年伏見宮家の嫡子邦芳王が不治の病を理由とした請願により廃嫡とされたため、博恭王は伏見宮家に復帰した。このため第4代華頂宮は勅命により博恭王の第二王子博忠王が入った。しかし博忠王は大正13年嗣子なく23歳で薨ぜられたで、華頂宮家は絶家となったが、博恭王の第二王子博信王が、祭祀を承継し臣籍降下し華頂侯爵となる。

 明治33年以降、旧皇室典範の永世皇族制を前提として邦家親王系の東伏見宮、久邇宮系の賀陽宮、朝香宮、東久邇宮、北白川宮系の竹田宮が創設されている。昭和22年に皇籍を離脱した11宮家は、旧世襲親王家が2、幕末維新以降創設された宮家が9である。

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 明治22年皇室典範の永世皇族制それ自体を前提とするならば、旧宮家の男系男子は、離脱してなければ皇族であったはずだから、現今のように皇位継承者が乏しくなっている状況では、できる限り復籍していただくのが筋である。

 総じていうなら崇光院流=伏見宮に男系で天皇と血縁的に疎隔しているといっても『椿葉記』をはじめとして皇統上の格別の由緒があり、室町時代に「永代」存続が約されている由緒が複数以上あり、完全なる傍系化が回避された別格の王統であり、天皇家と併存して皇籍に復帰する正当性があることを政府は認め、旧皇族の方々を奉載申し上げるべきである。

 この点、国民に向けて、適切な専門家を動員して「現代版新椿葉記プロジェクト」として伏見宮御一流皇籍復帰の正当性を法制史、宮廷史等その他脈絡から説示することを、政府が行なえば、今日の研究水準では伏見宮系に有利な成果が出ており、十分理解を得られるし、反天皇制でない国民の多くから歓迎されるだろう。

 したがって養子縁組のような小細工することなく、皇室典範9条も12条も手をつけずに直接、未婚者に限らず家族ともども復帰していただくのが筋であると考える。

 

C 想定される反論の反論

 以上の見解について、以下のような反論が予想できる。

 明治 40年(1907)に五世以下の王が勅旨又は情願により家名を賜って華族に臣籍降下することを可能とする皇室典範増補が成立したことにより永世皇族制は見直されており、大正 9年(1920)には「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」永世皇族制を放棄された。

 これは、世数制限を設け、永世皇族制を放棄する政策であり、皇族の範疇を次男系統は四世孫まで、長子孫系統でも八世孫までに世数制限することとしたもので、建前上、大正天皇の直宮も永世皇族にはしていないのが、実質伏見宮系をターゲットとして皇族を整理する趣旨のものである。

 伏見宮系は、後伏見15世孫(崇光13世)邦家親王を四世孫として計算し、次男以降は多嘉王と邦芳王を例外として原則臣籍降下、長子孫系も邦家親王から四世孫まで臣籍降下とすること原則としている。当時の当主より2~3世代を経て臣籍降下し、宮家を消滅させる政策を打ち出した。

 「準則」が長子孫系統で皇族の身位の維持を保証しているのは、伏見宮家が博明王まで、久邇宮家は邦昭王まで、賀陽宮は邦寿王まで、北白川宮家は道久王まで、竹田宮家は恒正王まで、朝香宮は誠彦王まで、東久邇宮は信彦王までで、次の世代は家名を賜り華族に列することを原則としている(なお伏見博明氏は御高齢であるが、令和4年に出版され、読売テレビの番組のインタビューにも出演されており、仮に「準則」が適用されたとしても伏見宮家は今日まで存続していることになる)

 それゆえ、旧皇族復籍に難色を示していた所功[2012]などの論者は、GHQの指令により皇室財産が国庫に帰属させられることになり、従来の規模の皇室を維持できなくなったことで、昭和22年に11宮家が臣籍降下したが、そうでなくても、伏見宮系皇族は皇族ノ降下二関する施行準則によりリストラされ、宮家は消滅させる方針だったのであり、しかも皇室典範増補第6条は臣籍降下した皇族は復籍できないとしており、旧皇族の復籍は国民の理解を得られないとする見解がある。

 これらについては、公示されず、報道もされていないため、近年までよく知られてなかった。平成12年の書陵部紀要【資料紹介】『倉富勇三郎日記』「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」関係抄録(大正8年)」(オープンアクセス)以降明らかになったことで、慎重な議論が必要である。ここでは永井和[2012]と浅見雅男[2016]を引用してその経緯を概説すると以下のとおりである。

帝室制度審議会で大正 81919)年 1 月より「皇族処分内規案」の検討が開始され、委員の伊東巳代治、平沼騏一郎、岡野敬次郎が世数制限により永世皇族制を放棄し、事実上伏見宮系皇族を整理する方針を打ち出した。

 大正9年2月までに宮内省との合意により「皇族ノ降下ニ関スル内規」は成立し、2月末大正天皇に上奏、33日枢密院に諮詢、審査委員会で若干修正され「皇族ノ降下ニ関スル準則」となり、317日の枢密院本会議で満場一致で可決、皇族会議を経て制定されることとなった。

 当時の皇室会議員は成年男子皇族15方であるが、皇太子裕仁親王以外は伏見宮系皇族である。

 皇族会議の議案は天皇が下付したものであり、通常は何の異論もなく承認されるのが慣例であった。元老や宮内省にとって異論が噴出するなど天皇の権威が揺らぐことになりあってはならないことだった。

 しかし、久邇宮邦彦王、伏見宮継嗣博恭王、博義王、朝香宮鳩彦王といった反対派皇族の存在があり、不穏な情勢により、49日の会議は中止延期された。その後、宮内省の把握では56日の時点で、少なくとも五方が反対で、態度不明の御一方は反対が予想され、仮に皇太子が賛成としても66で可決の見通しが立たない状況となり、枢密院議長の山縣有朋は反対派の中心になっていた久邇宮邦彦王の説得にあたったが、不調に終わった。

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 事態の収拾に動いたのは北白川宮成久王だった。各宮を訪問し、議決しないで天皇に奏上することで皇族間の合意を得たという。但し反対派から条件があり、質問と反対意見は自由に述べることを保証するというもので、波多野宮相と交渉し、宮内省側はこの妥協案を受け容れた。

 5月15日の皇室会議では、大正天皇は臨席せず、議長は伏見宮貞愛親王で、図表のとおり16方が出席し、約1時間の皇室会議員の主な発言は以下のとおり。

  北白川宮成久王「現時民心動揺の際、皇族降下の如き処分を為すは一層民心の動揺を誘発する恐なきや」

  久邇宮邦彦王「本案の施行は皇統断絶の懸念あり」

  朝香宮鳩彦王「準則は典範増補に矛盾するの疑あり」

  博恭王「増補には華族に列せしむることあるへしとあるに、準則には華族に列すと決定的の辞を用ゐ在り。何の為めなるや」

 質問に対する返答が終わると、議長(伏見宮貞愛親王)より本案に対する各員の意見を問うたところ、打ち合わせどおり閑院宮載仁親王が「本案は皇族会議員各自の利害に関係するを以て自分は表決せさる旨」を述べ、成久王が賛成を表した。それに対して博恭王、邦彦王はこれに反対して質問した。波多野宮相が「皇族会議員が多数にて表決を避けることを決められるのであれば、宮内大臣としては異議は唱えることはいたしません」と返答し、そこで議長は、載仁親王の意見に対し反対の論がないので、皇族会議はこの件については表決しないことに決すと宣言し、閉会を告げた。

 皇族会議は議決を回避したが、「施行準則」そのものは、大正天皇の裁可を受けた。

 しかし会議の数日後、波多野敬直宮相は「皇族会議にて議すへき事項なりとして御諮詢を奏請したるに、皇族会議にて議決せさることゝなりたるは、取調不行届の結果にて、恐懼に堪へす」という趣旨の待罪書を大正天皇に提出した。これは却下されたが、6月16日波多野宮内大臣は皇室会議での不首尾の責任をとって辞職する。

 皇室会議は秘密会であったため、新聞報道は仄聞として大筋の事実を伝えたが正確ではなかった。読売新聞では皇室典範増補の内規で王の第二子以下の男子の臣籍降下が義務づけられたことに対し、皇族が反発し難航したことの責任をとったとされており、「施行準則」が12宮家は二~三世代を経て消滅することを原則としていることを新聞は把握していないのである、国民はこの事実は知らなかった。

 「準則」を有効とする議論に正面から反論しているのが中川八洋氏で、宮内庁が平成12年(2000)に明らかにするまで「準則」なるものは一般に知られていなかった。2000年に宮内庁書陵部が『倉富勇三郎日記』編纂で偶然発見した形で表に出された。女性女系天皇準備の一環とみなされている。

 「準則」は邦彦王、鳩彦王、博恭王など多数が絶対反対で皇室会議は紛糾。実態として廃案であり、法手続き的には成立していないとされるのは、皇室会議令八条は「過半数によりこれを決す」と決議を絶対要件としているためである。波多野敬直宮相が廃案なのに大正天皇の御裁可を頂いたのは大暴挙とされている。とはいえ公示されず、法律は効力を有しないともいう [中川八洋 2018]

 私が思うに、皇室典範以前に伏見宮系の世襲親王家は3家あり、少なくとも3家に永続性があったことも顧みられていない。中川八洋の言うように手続的デュープロセスとしても「準則」の効力にはかなりの疑問があり、大正天皇の御裁可を錦の御旗として皇籍離脱を必然とするプロパガンダは気にしなくてよいと思う。

 当時、大正天皇皇子が4方(皇太子裕仁親王、雍仁親王、宣仁親王、崇仁親王)おられたが、100年たった今日的観点では山縣のいう皇統の断絶等を云々は畢竟杞憂に過ぎずとした見解は見込み違いだったといえる。

 適切なたとえではないが、例えば岡山藩池田家と鳥取藩池田家、仙台藩伊達家と宇和島藩伊達家というように幹は複数あったほうがよい。五摂家というのは江戸時代初期に2家が皇別摂家になった時点で、藤原氏の血脈としては二条晴良(15261579)の子孫だけが残った[木村修二1994]。5摂家のうち4家は血筋としては途絶していることも考慮すれば、邦彦王が皇統断絶の懸念を表明したのは杞憂ではなかったということである。

 世数制限政策が推進された背景としては、明治44年に南朝を正統とする勅裁があり(近年では消極的同意とみなされているが[野村玄2019])、南朝忠臣賛美が支配的な時代において、歴代から外された北朝天皇の子孫である伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒は著しく軽視され、立場が悪くなっていたことの影響は大きい。

 「準則」は南朝正統史観の影響による伏見宮王統の不当は軽視によるとみてよいだろう。

 しかし今日では皇国史観は教育されていない。現代の研究水準からすれば伏見宮御一流の正当性は十分擁護できるので克服することは容易である。天皇家と併存してしかるべき王統なのである。

 法制史的には15世紀に後二条天皇や亀山天皇の五世王、六世王が上皇や天皇の猶子とされたうえで親王宣下が合法化されており[松薗斉2010]、継嗣令王兄弟条が皇親を四世王の範囲に世数制限しているあり方は実質修正されていることを強調したい。

 格別の由緒のある王統においては、猶子という親子関係の擬制という准的な措置により、血縁の疎隔を穴埋めし、ステイタスが劣化させない制度となったのである。それを歴代当主に公認もしくは慣例化した王統が伏見宮家である。

 令制の皇親制度は15世紀に実質修正されているのだから、世数制限していた令制の原意にこだわる必要はなく、皇室典範の永世皇族制は歴史的経緯に反していない。「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の世数制限の方針は、皇族いじめに等しく間違っていた。

 『椿葉記』の由緒などを皇族方が持ち出すことはなかったようである。しかし桃園皇子伏見宮17代貞行親王(歴史上唯一実系相続でない伏見宮当主)が13歳で夭折された後、安永3年(1774年)6月に伏見宮家は後崇光院太上天皇の『椿葉記』の由緒により、実系相続を嘆願しているが、それができなかったのは、南朝正統史観の影響というほかない。

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 しかし今日、室町時代ブームで『看聞御記』の細かいエピソードまで詳しく研究され、後花園天皇の事績も評価されている状況では南朝忠臣賛美一辺倒の大正時代より伏見宮御一流に好意的な世論が形成される可能性はずっと高く、大正時代のような政策をとる必要はない。

 旧皇室典範それ自体は、天皇猶子という親子関係の擬制という血縁の疎隔の穴埋めがなくても永世皇族としたものであり、加えて今日では伏見宮御一流の格別の由緒から正当性が引き出せるので、養子縁組という小細工をせずに直接復帰すべきであるというのが結論である。

 

●補足 皇籍復帰候補として戦前臣籍降下した家系も含めるべき

  皇位継承者の安定的確保のため、皇籍復帰候補者は、昭和22年皇籍を離脱した11宮家の末流だけでなく、明治 40年(1907)に五世以下の王が勅旨又は情願により家名を賜って華族に臣籍降下することを可能とする皇室典範増補により大正9年から昭和18年にかけて臣籍降下して華族に列した12名の末流、明治22年皇室典範以前に臣籍降下した小松侯爵家などの末流なども含めて、男系男子の存在を政府が調査し、他家に養出した場合も含め皇胤認定し、リストとすべきである。

大正9年 山階宮菊麿王次男 芳麿王山階侯爵

大正12年 久邇宮邦彦王次男 邦久王→久邇侯爵

大正15年 伏見宮博恭王三男 博信王華頂侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王三男 藤麿王筑波侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王四男 萩麿王鹿島伯爵

昭和4年 山階宮菊麿王五男 茂麿王葛城伯爵

昭和6年 久邇宮邦彦王三男 邦英王→東伏見伯爵

昭和11年 朝香宮鳩彦王次男 正彦王→音羽侯爵

昭和11年 伏見宮博恭王四男 博英王伏見侯爵

昭和15年 東久邇宮稔彦王三男 彰常王→粟田侯爵

昭和17年 久邇宮邦彦王甥 家彦王→宇治伯爵

昭和18年 久邇宮邦彦王甥 徳彦王→龍田伯爵

 このなかで旧皇族以外の他家に養出した方は優先順位を下げるが皇胤認定はする。

 旧皇族の御子孫の全体像は部外者なのでわからない。しかし週刊誌報道などをみるかぎり相当数の方がおられるように思える。できる限り多くの方が、復帰されることを望む。今回辞退されたり調整により皇籍に復帰できなかった方々とその子孫についても、リストとしては残し、将来的な危機にも備えておくべきである。なお皇胤リストは伏見宮御一流に限定すべき。皇別摂家は論外、系譜上藤原氏が皇族になるなどあってはならない。

 

D 養子縁組②案に賛同できない理由

 

 皇室典範9条も基本的には維持すべきである。

 この点は中川八洋[2005]が「死守すべき皇室典範の第一条、第九条、第十二条」と主張されている。

 近代の皇室典範は中世以降の朝廷が王家や摂関家など自立的「家」の集合体だったものを、天皇のもとに統率される体制としたので、相続あっても家督相続なしとされ、養子相続を否定した。「家」の集合体である近世以前の朝廷の体制に戻すのは時代錯誤に思え、このコンセプトを変更する理由は殊更ない。

 17年前の著書だが中川八洋[2005]同書152頁によれば、久邇宮末流に3名、賀陽宮末流に1名(男児2名)、朝香宮末流に1名、東久邇宮末流に4名(男児1名)、竹田宮末流に5名の男系男子がおられる記載されており、14名すべて復帰していだたき、14宮家を創設すべきとしているが、また1415家が適正規模とも述べている[中川八洋2018]。

 今日では男系男子の数に変動があるにせよ、同様に男系男子全員復籍をベースとしつつも、しかるべき配慮をなし、戦前臣籍降下した末流の方々を含め、他のバリエーションも検討しておくべきだろう。

 皇室を尊崇するということは、その親族の方々も尊重する考え方でなければならない。旧11宮家について閑院家は絶家とネット情報にあるが、継嗣のない宮家も尊重されてしかるべきで、伏見宮系の男系男子を養嗣子とされているならば当然、そうでなくても、旧宮家当主に男系男子の推薦権を付与するなど配慮があってしかるべきである。

 旧宮家が、男系男子の養子を取っているケースとして、例えば昭和41年に梨本家が、久邇宮家の多嘉王三男徳彦王、臣籍降下して龍田徳彦伯爵を養嗣子としているがそういうケースで、もし末流が男系男子であるなら皇籍復帰候補たりえてよいと思う。

 できれば由緒ある伏見宮や閑院宮の宮号も復活すれば、このうえなく喜ばしい。

 継嗣のない宮家も含めて、原則を旧宮家の再興、旧皇族の復籍をコンセプトとすべきである。

 養子縁組の考え方は現存宮家当主の選定相続になり、旧宮家側から養子に出すというのは次男以下の余分な男子というイメージが思い浮かぶ。しかし本家を継承する男子が旧宮号で直接復帰するのが筋である。そもそも、現存宮家の当主が養嗣子を望まれておられるのか不透明であり、万一積極的でなければ結局①案になってしまうリスクがある。

 旧皇族の親子ともども直接復帰を軸として、もし②現存宮家の当主が養嗣子を望まれているなら③と平行して検討することには反対しない。

 直接復帰に際して、天皇皇后両陛下や上皇上皇后両陛下、現存宮家の皇族方による選定もしくは認証があったほうがすわりがよいということなら、王朝時代の御給、年官年爵のように皇族方に推挙権を行使していただくとか、工夫があってもよいだろう。

 

E 宮家再興、創設に消極的になる必要はない

①   伏見宮御一流の格別の由緒

 

 有識者会議の②養子縁組案は現存する宮家邸宅を相続させ、皇族費など増やさない案で、財政支出を極力控える案ともいえるが、次の理由で財政支出を惜しむしぶちんな対応にする理由などない。

 応永23年(1416)伏見宮初代栄仁親王は後小松院より旧室町院領を永代安堵され、第4代伏見宮家は、康正2年(1456)の「永世伏見殿御所号」と後崇光院太上天皇の紋の勅許の所伝等により伏見宮は永続が約されているのである。従って、当事者は主張していないが、歴史的由緒からみて客観的にみて国家的給付を受けて、永続すべき権利があるので皇籍復帰の財政支出を惜しむ必要はない。

 応永23年(1416)伏見宮初代栄仁親王は、後小松上皇の院宣により後堀河皇女の旧室町院領(萩原宮遺領)を永代安堵されている[白根陽子2018]、室町院領とは後高倉院皇統の追善仏事領所となる王家領(皇室領)であり、伏見宮家は、その他播磨国衙領、熱田社領等の由緒のある王家領を経営し、永享8年(1434)に「干鮭昆布公事」が追加され、年収現金換算2億円程度の年収[秦野裕介YouTube2022 55分過ぎ]。があったとされている。

 あくまでも実効知行地と税収(上納金)等で2億円ということで、室町院領は100か所以上あって、持明院統の権利はその半分。大覚寺統と折半しており、実効知行地は大覚寺統より小さかったが、本来の価値、規模はずっと大きい。

 もちろん荘園公領制は幕府が守護を支配できなくなった戦国時代に衰退し、秀吉は公家門跡の所領と洛中の地代収入をすべて収公したうえ知行を再給付することとなり、それを引き継いだ徳川幕府が、公家の知行充行権を掌握したので[v]、伏見宮も含め公家の家領は付け替えられたが、伏見宮は京都近郊の表向き一千石、旗本クラスの知行が充行われた。

 しかし、もともと皇室領を永代安堵されていたのが伏見宮で、旧領本復のアナロジーで、宮家再興等にあっては国家的支出があってしかるべきなのである。

 もちろん、現代において600年以上前の院宣にもとづいて旧領本復などありえないことはわかっている。

 近世以降の世襲親王家は、八条宮(のち桂宮)が秀吉から知行を充行われ、高松宮(のち有栖川宮)、閑院宮は徳川幕府から知行を充行われて創設されたが、いわば武家政権に完全依存した経済基盤である。しかし伏見宮家は荘園公領制時代の本物の皇室領(後高倉皇統追善仏事料所荘園群)を永代安堵されたという由緒があり、加えて後嵯峨院の知行国で、後深草院が相続した播磨国衙領や後白河院准母上西門院系の熱田社領も所領だった。他の宮家とは格式が違う。重んじられてしかるべきと言いたいわけである。

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②   国家は伏見宮御一流永続のために財政支出する義理がある

 

 室町院領とは図表にあるとおり伏見宮家の知行としては伊賀国長田荘、江州山前荘、塩津荘、今西荘、若州松永荘、越前国磯部荘栗田嶋、備中国大嶋保そのほかの荘園群である。

 治天の君の勅裁で永代安堵されている由緒の裏には、その代わり、後小松上皇に天皇の象徴たる累代御物に准じた「天下名物至極重宝」という名笛「柯亭」を進献し[植木朝子 2009]、その後も嫡流家ゆえ伏見宮に伝来した、後深草院以来の相伝の『寛平御記』『延喜御記』、『朝覲行幸記』三合、『諸社諸寺御幸記』の御記五合後深草院より三代の『大嘗会記録』『神膳御記』その他、重宝級の古記録を進献したことにより[松薗斉1997]、親王家としての位地を得たのであるから、伏見宮はその代償を払っている。

 このような歴史的脈絡から国家は伏見宮御一流永続のために支出する義理があるというべきなのである。

 嫡流の重宝・文庫が伝来した伏見宮は重宝を天皇家に進献して永代安堵を得ているのだから、政府はこの義理を果たすべきで、養子縁組に限るとか財政的支出に出し惜しみするやり方に固執するのは完全に間違っている。

 もちろん、宮家が再興しても、かつての11宮家本邸のように都心の一等地に大きな敷地を用意することは困難かもしれない。

 

 11宮家の本邸跡の現在

 

伏見宮邸→ホテルニューオータニ紀尾井町

山階宮邸→衆議院九段宿舎跡地とその付近(富士見)

賀陽宮邸-千鳥ヶ淵戦没者墓苑(番町)

久邇宮邸→聖心女子大学(広尾)

梨本宮邸→渋谷区役所仮庁舎・高齢者施設美竹の丘しぶや

朝香宮邸→東京都庭園美術館(白金)

東久邇宮邸→六本木ファーストビル(旧麻布市兵衛町)

北白川宮邸→グランドプリンスホテル新高輪・衆議院高輪宿舎

竹田宮邸→グランドプリンスホテル高輪

閑院宮邸→参議院議長公邸(永田町)

東伏見宮邸→常陸宮邸(常盤松御料地)

 

 伏見宮家は「永世伏見殿御所」号勅許の所伝があり格式があるので都心の一等地でしかるべきである。室町時代の伏見殿は一条東洞院(現在の京都御所皇后常寧殿付近)にあり、後小松上皇の仙洞御所を破却して寝殿、対屋等を移築したものである。後崇光院太上天皇の仙洞御所を貞常親王が相続し、旧後小松院仙洞御所の跡地も伏見宮領となった。土御門内裏の北隣のブロックで陣中にあり、一等地といえる。建物自体は応仁の兵火で焼失したが、16世紀もこの場所にあった。近世においては今出川通の上(現在の同志社女子大付近)と公家町の東に伏見宮邸があった。

 

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 東京の伏見宮本邸も彦根藩中屋敷跡であり、有栖川宮邸の三年町や霞関離宮と比較しても遜色はなく、皇族の崇班としてふさわしい場所だった。

 たとえば、白金自然教育園は、もともと御料地だったし、参議院議長公邸は閑院宮本邸の跡地なので返還してもらうとか、中川八洋氏は旧朝香宮邸の東京都庭園美術館を買いもどし、皇嗣殿下の御所とすべき見解も示されていたが、すでに都民に親しまれている所を潰すのは望まれないかもしれない。

 しかし宮家の再興こそ大事なので御殿は二の次の問題にしたい。例えば、集合住宅型の宮殿、郊外や地方に拠点を置くなど経費削減策をとっても反対はしない。

③   『椿葉記』には崇光院流の永続の意味も込められている

 

 『椿葉記』は、後花園天皇に崇光院流が正統であることを悟っていただくために書かれたものだが、書名の由来は、土御門皇子(のちの後嵯峨天皇)が、出家しようか悩んでいたとき、石清水八幡宮を参詣し、そこで「椿葉影再改」との神託を得たので学問に励んでいたところ、四条天皇が12歳で急逝し、後高倉皇統が途絶、鎌倉幕府の推薦により、図らずも皇位を継承した『増鏡』や『古今著聞集』にある故事に拠っている。

「椿葉影再改」とは『和漢朗詠集』の大江朝綱の漢詩「早春内宴賦聖化万年春詩序」(承平2年932)より採られており、天子となって徳高く久しく栄えるだろうとの句である[秦野裕介2020]。

「椿葉」に次のような意味もある。「荘子‐逍遙遊」にある椿葉の影再び改まる八千年をもって一春とする。椿の葉が再び改まるほど永い年月のことである。すなわち崇光院流の永続の意味も込められている。それを政策とすべきである。

『椿葉記』がある以上、崇光院流は永続しなければならない。我々国民は③案の実現を望むのが妥当というのが結論である。

 

 

[i] 「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」『女大学宝箱』

[ii] 『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである[谷口やすよ1978]。

後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」『績漢書』禮儀志劉昭注引蔡質「立皇后儀」)という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた[保科季子2002]。

[iii] (継嗣令王娶親王条)

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。 従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は違法。

 ただし、日本紀略延暦12年(793)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得ることにより、規制緩和がなされているが、内親王と臣下の結婚は一貫して違法である[今江広道 1983[安田政彦 1998][栗原弘2002[米田雄介2014]

[iv] 文殊正子[1986]によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていた[中村みどり2014による文殊説の要約]。

[v] 山口和夫 2017 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文

2023/03/21

国会議員の先生方へ意見具申 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対 ③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき -「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-(第1分冊)結論・理由の要点

 2022 11月28日のエントリー下記リンクで公開リンクPDF版を公開したものを若干修正しましたがほぼ同じ内容です。検索にひっかかるようにするため再掲するものです。まだ読んでない重要な論文がいくつかあり加筆の余地がありますが、とりあえずこれを決定版にします。

国会議員への意見具申 皇位継承者の安定的確保 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対 ③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき-「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-: 川西正彦の公共政策研究 (cocolog-nifty.com

 意見書の目的

  取るに足らない者が恐る恐る謹んで上申します、軽輩でありながら、不躾にも長文の文書を送りつける無礼をお許しください。有識者会議の新奇な制度の提案は皇室制度を破壊するだけでなく、国民の家族慣行に影響が大きく、千古の国体たる「家」制の否定であり、深刻な問題と受けとめており、この際意見したい。私の思想的立場は秩序と古典的価値を重んじる自由主義。ご笑覧いただければ幸甚に存じます。

  この意見具申の目的は、令和3年12月22日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告が悪質なものであり、この計略にはまらないよう、国会議員の先生方に訴えるものであります。

  とりわけ①案を恒久的制度とするため皇室典範12条を改変する方向性を強く打ち出している点、女子は婚家を継ぐものという婦人道徳を破壊するため絶対的に反対します。

  令和3年12月22日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告は、下記の①案と②案を検討すべきとしました。

  仮に①案を実施しても女性皇族に皇位継承権を付与せず、配偶者、所生子も当面皇族としないで将来身分を検討するものとし、②案も当事者は皇位継承資格を付与しないことを示し、悠仁親王殿下の次の皇位継承者を、男系男子維持か男女共系に変革するかという問題は先送りとする趣旨の報告でした。

  令和4年1月12日には岸田首相により国会報告が行われている。

①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること

②皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること

③皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること

 

   ①案は、皇室典範12条の立法趣旨を否定して婚入配偶者の婚家帰属性という日本の家族慣行の全面的否定となるから、重大な変革である。天皇と皇后、親王と親王妃といった皇族の性的役割分担を流動化させる目論見がある。

  それゆえ皇室典範12条改変を狙いとする①案先行実施及び②案との並行実施は絶対回避すべきである。将来的には英国・北欧・ベネルクスと同様、男女共系の長子相続への移行を見据えた案であり、改変の反対理由の説示が意見書の第一の目的である。

  正しい政策は、旧宮家の再興、旧皇族の復籍をコンセプトとして、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒にもとづき、『椿葉記』に説示される王統の正当性、永続が約された王統として、男系男子の方々を独立の当主として奉戴申し上げるのが筋であり、できるだけ多くの旧宮号を復活させるべきである。

  未婚者に限らず、親子ともども家族全員が復籍するあり方が望ましい。

   つまり有識者会議が推奨していない「③ 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること」が「継嗣を広め、皇基を固くする」正しい選択であり、その理由を説示するのが、意見書の第二の目的である。

結論

一 有識者会議の①案は日本的「家」の婚姻慣習、婚入配偶者の婚家帰属性を否定し、夫婦、親子で身分を異にする歪な婚姻の在り方であり、性的役割分担の流動化をもたらす最悪な案なので断固として排斥するべき。②案との並行実施も強く反対する。皇室典範12条の制定趣旨は正当であり改変に強く反対する。

二 ③案を実施する。②案は現存宮家の方々が養嗣子への承継を望まれた場合にのみ③案と並行して実施すること検討するとし、皇室典範1条も改変を認めない。

三 ③案の実施方法は以下のとおりとする。

(一)皇籍復帰の対象者は伏見宮御一流のみとする

 皇統に属する男系男子(皇胤)を幅広く調査、公式に認定し、暫定的に皇位継承順位を付与、適正規模の範囲で、認定された皇胤の御家族が皇籍に直接復帰されるようなし奉るべきである。

  対象者は、皇統上の格別の由緒、永続を約されている由緒にもとづき一品式部卿伏見宮邦家親王の御子孫(伏見宮御一流)にしぼる。皇別摂家の末流など藤氏となった方々が復帰するのは論理的でない。

(二)調査対象と優先順位

第一範疇 

 12宮家(祭祀承継家を含む)の末流の男系男子と養嗣子(但し第一~第三範疇の男系男子に限る)を第一範疇として全員が皇籍に直接復帰することを原則とする。員数が適正規模を超える場合には調整する。

 この範疇の調査対象は、昭和22年に皇籍離脱した11宮家のうち離脱時に皇位継承資格者のいない東伏見宮家を除く10宮家(皇位継承順では、伏見宮→山階宮→賀陽宮→久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮)の末流の男系男子と養嗣子に加えて、戦前に華族に列し宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見侯爵家の御子孫を加えたカテゴリーになる。

  華頂宮は第4代博忠王が独身で薨ぜられ、大正13年に断絶したが、実弟の博信王が家名を賜り臣籍降下し華頂侯爵として祭祀を承継しており、伏見宮博恭王の御子孫であって血筋としては伏見宮家に近く皇室典範が実弟の養子相続さえ認められていれば存続していたことを考慮し、11宮家と同列に遇するのが妥当であり第一範疇とする。

  また東伏見宮依仁親王は大正13年に継嗣なく薨去し断絶が決定したが、宮家自体は周子妃殿下により昭和22年まで存続した。事実上の養子だった久邇宮邦彦王三男の邦英王が祭祀を継承し昭和6年に家名を賜り東伏見侯爵として華族に列しているので、10宮家と同列に遇するのが妥当であり第一範疇とした。

 優先順位は、①旧宮家(祭祀承継家を含む)の本家を継承した男子、②実系の子孫が途絶した旧宮家であっても養嗣子もしくは当主の推挙で第一~第三の範疇の男系男子である場合、③分家分出した男系男子、④旧皇族以外の他家の養子となった方も優先順位を下げるが皇胤認定するものとする。

 以上に加えて第二範疇以下でも、皇室、皇族方から推挙のあった男系男子は第一範疇に加える。

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第二範疇

  大正9年以降昭和18年まで次男以下の王で12方が、皇族の臣籍降下を可能にした明治40年皇室典範増補第一条により、情願によって家名を賜り降下し華族に列しているが、第一範疇の宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見侯爵家を除く10家の御子孫で男系男子の方々を第二範疇の皇籍復帰の対象者とする。

 優先順位は第一範疇の次とするが、皇室や現皇族に推挙された方、第一範疇で実系が途絶した宮家の養嗣子か当主に推挙された方は第一範疇に加える。

大正2年 久邇宮邦彦王次男 邦久王→久邇侯爵

大正15年 伏見宮博恭王三男 博信王→華頂侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王三男 藤麿王→筑波侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王四男 萩麿王→鹿島伯爵

昭和4年 山階宮菊麿王五男 茂麿王→葛城伯爵

昭和6年 久邇宮邦彦王三男 邦英王→東伏見伯爵

昭和11年 朝香宮鳩彦王次男 正彦王→音羽侯爵

昭和11年 伏見宮博恭王四男 博英王→伏見侯爵

昭和15年 東久邇宮稔彦王三男 彰常王→粟田侯爵

昭和17年 久邇宮邦彦王甥 家彦王→宇治伯爵

昭和18年 久邇宮邦彦王甥 徳彦王→龍田伯爵

 

第三範疇 

  明治時代に家名を賜り臣籍降下し華族に列した方々の御子孫で男系男子。小松侯爵家や清棲伯爵家。

 

(三)秘密会での決定や、推挙権による決定など別の方法があってもよい

 筆者は全く部外者であり、上記の類別で男系男子の員数はメディアで流布されている大雑把なことしか知らない。

 旧皇室典範の皇位継承順としなかったのは、久邇宮系末流が上位となり北白川宮系末流が下位となるので、全員復帰でならよいが、適正規模が少なめに判断された場合、不公平感があるためである。そのため12宮家の本家嫡流と、養嗣子を優先して復帰するプランを結論としている。

 ウィキペディアによれば閑院家は絶家と書かれているが、実系が途絶した旧宮家でも養嗣子又は当主の推挙者を加え、旧宮号をできるたけ復活させるべきである。

 しかし、この際、優先順位とか堅苦しいことはいわないで、非公式の協議や、秘密会で皇籍復帰者を決定してもそれには反対しないし、皇室側の推挙があったほうが収まりがよいということなら、天皇皇后両陛下、成人皇族の方々に推挙権を行使していただく、王朝時代に御給(年官年爵)という制度があって、天皇、三后、女院、親王、内親王に廷臣の叙位等を推挙する制度がありそのアナロジーである。

  要するに①案を排除③案が実現すれば正しい政策なので、優先順位や調整の方法は二の次でこだわらない。なお適正規模の問題については、補遺32頁以下、理由概要version1の15頁で言及することとする。

 

    *******************************************************************

 

 理由の説示は、簡潔なものとして「理由の要点」、(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について③案を推す理由を比較的詳しく述べる。以上第1分冊である。

 全体の理由要旨としてversion1とversion2、やや長めの理由概要と3つのバージョンを用意し第2~第4分冊として、①案の反対論は第3・4分冊がより詳しく本音を出した見解としたが、論旨は4分冊とも同じものである。本文は冗長で第5分冊の第Ⅰ部が①案に反対の理由、第6分冊の第Ⅱ部が③案の旧皇族(伏見宮御一流)の男系男子が養子でなく直接復帰すべく奉るべき理由を縷々説示する。

 意見具申はPDFで第7分冊の引用参考文献一覧表をふくめ7分冊と長大になっているうえ、内容が重複しているので適当なところを、ご笑覧いただければ幸甚に存じます。(このエントリーでは第7分冊の引用参考文献一覧表は文末で示します)

目次

意見書の目的... 1

結論... 2

一 有識者会議の①案は日本的「家」の婚姻慣習、婚入配偶者の婚家帰属性を否定し、夫婦、親子で身分を異にする歪な婚姻の在り方であり、性的役割分担の流動化をもたらす最悪な案なので断固として排斥するべき。②案との並行実施も強く反対する。皇室典範12条の制定趣旨は正当であり改変に強く反対する。    2

二 ③案を実施する。②案は現存宮家の方々が養嗣子への承継を望まれた場合にのみ③案と並行して実施すること検討するとし、皇室典範1条も改変を認めない。    2

三 ③案の実施方法は以下のとおりとする。    2

理由の要点... 6

第一 皇室典範12条は死守されるべき... 6

第二 ①案は「皇室の歴史と整合的なもの」という説示は間違っているので棄却されるべき    7

第三 ①案は奇妙で歪、夫婦別姓の導入に先鞭をつけることになる... 9

第四 ②案養子縁組案は筋が悪い。直接男系男子が宮家当主として復帰すべき... 10

第五 宮家再興、創設に消極的になる必要はなく、復帰されるべき正当な理由がある... 10

第六 『椿葉記』の由緒を重んじ伏見宮御一流の皇族復帰をなし奉るべき... 11

(一)『椿葉記』が伏見宮の由緒となった経緯      11

(二)南朝正統史観によるダメージは克服できる    14

(三)崇光院流は完全なる傍系化が回避されるステイタスを得た    16

(四)『椿葉記』に込められた意味を忖度すべき    17

第七 伏見宮の永代存続は世数制限のある令制においても合法で正当... 18

第八 世数制限は愚策。永世皇族主義で旧皇族を奉載申し上げるべき    21

 

(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について... 23

(一)伏見宮家が正統・嫡流たる由緒、その証拠もある    23

(二)後崇光院が本格的な太上天皇であった決定的意義    29

(三)伏見宮の永続性には合法的な根拠がある    33

(四)幕末維新期以降 伏見宮系皇族の繁栄の意味    36

(五)旧皇室典範の問題点    39

(六)大正9年の永世皇族制放棄政策の問題点    41

(七)「準則」の背景として南朝正統史観の影響とその克服の方途    44

(八)宮家の数の適正規模    46

 引用参考文献一覧は第7分冊としましたので文末にはありません。                            

理由の要点

①案に徹底的に反対し、③案の直接皇族とする案を推す理由を以下説示する。

 

第一 皇室典範12条は死守されるべき

 有識者会議は①案を恒久的制度とするため皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)を改変する方向性を強く打ち出している。

 皇室典範12条の趣旨[i]は、婦人は婚家を継ぐもの、妻は夫の家に入って婚家の成員となるので、生家からは離れる我が国の常識的な家族慣行、婦人道徳にもとづいており、加えて夫婦が尊卑を同じくするという価値観は、儒教の基本的な経書にある文明理念であり[ii]、これを否定するのは性差、男性が天皇、親王、女性が皇后、親王妃といった性的役割分担を否定する共産主義イデオロギー、ジェンダー平等論に毒された考え方なので断乎容認できない。

 世界的にファミリー企業の平均寿命は24年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜2010]。戸主権により統制される「家」制度は廃止されても家族慣行としての「家」は、日本の親族構造として厳として存在しているのであって、それを否定する①案、皇室典範12条の改変は恐るべき文化破壊をもたらすゆえ容認できない。

 勿論、皇室典範1条も死守されなければならないが、多くの方が主張しているので、脚注で大筋のところを説示するにとどめ[iii]、本意見書では12条改変反対の趣旨を中心に記述する。

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第二 ①案は「皇室の歴史と整合的なもの」という説示は間違っているので棄却されるべき

 

 令和3年11/30提出の事務局調査研究資料では①案を正当化する前例として、藤原師輔と密通したうえ降嫁した醍醐皇女勤子内親王以下、内親王6方の婚姻を例示し、臣下に嫁しても内親王としての身位を失うわけではないとしているが、令制では内親王が臣下と結婚することは違法(継嗣令王娶親王条)なので[iv]、想定外の婚姻である。そもそも親王・諸王でない臣下に嫁すこと自体、反律令行為であり、違法であるが勅許という異例のケースである。それを有識者会議報告書が「皇室の歴史と整合的なもの」と評価しているのはフェイクというほかない。

 例示6方で墓所が判明している4方のうち、霊元皇女八十宮吉子内親王(2歳で婚約したが、相手の家継が夭折したため後家となった)を除いて、宮内庁治定陵墓のリストにはなく婚家の菩提寺であるから、皇室から離れたと認識できる。ゆえに①案の先例たりえない。

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 日本の令制では、皇女は天皇・親王・諸王としか結婚できないから、「公主」号は継受されず、我国独自の称号「内親王」号なのであり[v]、ところが①案は臣下と結婚しながら、摂政、国事行為臨時代行等を内親王に担っていただくというもので、内親王号の歴史的由来を否定するに等しく皇室の伝統破壊になる。

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 もっとも延暦12年詔では二世女王以降が、条件付で臣下に嫁すことを可能にし、規制は緩和しているが、内親王と臣下の結婚は令制では一貫して違法なのである。

 

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 第三 ①案は奇妙で歪な制度、夫婦別姓の導入に先鞭をつけることになる

 夫妻でありながら皇族女子が皇統譜、夫と嫡子は戸籍であり、尊卑を同じくしないのは、家族慣行にない奇妙で歪なあり方でる。家長たりえない入婿など男性に対する侮辱であり、実質夫婦別姓の先行実施のようできわめて不愉快な制度になる。

 なお、私は選択的夫婦別姓に強く反対なのでなおさら不愉快である。

 

第四 ②案養子縁組案は筋が悪い。直接男系男子が宮家当主として復帰すべき

 そもそも養子相続を否定し、実系の皇統のみが存続する皇室典範9条のもとで現存宮家当主の方々が養嗣子を求めておられるのか不透明であるし、9条のコンセプトをあえて変更する理由はない。

 養子というと次男以下が他家に養出するイメージだが、旧宮家の本家継承者が旧宮号で復帰してしかるべきで、現存宮家の承継者となる必要はない。次男以下の男系男子は、継嗣のない旧宮家の養嗣子か当主の推薦があれば旧宮号、他の方は新宮号やかつての宮号を復活させる形で、旧宮家末流の方々を奉戴申しあげるべき。

 

第五 宮家再興、創設に消極的になる必要はなく、復帰されるべき正当な理由がある

 養子縁組案は皇族費など増やさず、現存する宮家の邸宅を継承する案で、財政的支出を極力控える趣旨といえるが、そこまで支出を惜しむことはない。

 昭和22年皇籍離脱した11宮家は実系(血筋)ではすべて第20・23代一品式部卿伏見宮邦家親王(1802~1872)の御子孫であるのでここでは伏見宮御一流と記す。

 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒、『椿葉記』が説示する嫡流を引く王統であること。永続を約された由緒が複数以上ある以上(次節以降、補遺参照)、伏見宮系12宮家は、終戦後の特別な事情により臣籍に降下したのだから、今上陛下の次世代の皇位継承資格者が乏しい状況に鑑み、旧皇族の方々を奉戴申し上げ、宮家を再興していただくべきである。養子縁組ではなく直接当主として復帰していただくのが筋であり、もし現存宮家の方々が養嗣子を迎えるご希望があるなら別途検討すべきである。

 旧皇族復帰の大義名分として、皇室典範第1条の男系継承が語られることが多いが、それだけではなく、この意見具申では、伏見宮御一流=崇光院流皇統に正当性がある、数々の根拠を強調し、それゆえ皇籍復帰をなし奉るべきであるとの見解である。

 

第六 『椿葉記』の由緒を重んじ伏見宮御一流の皇族復帰をなし奉るべき

(一)『椿葉記』が伏見宮の由緒となった経緯

 持明院統(後深草院流皇統)は14世紀中葉観応の擾乱で南朝軍が京都を一時占領した経緯から、崇光院流と後光厳院流に分裂したが、崇光院流が後深草院流の正統(嫡流・嫡宗家)と主張され、伏見宮が永代存続する由来のわかる『椿葉記』(永享5年1433-貞成親王〔道欽入道親王〕のちの後崇光院法皇著)があるということは、皇籍復帰に向けて大きなアドバンテージといえるだろう。この王統の正当性を示す書物がばっちりあるわけである。
 逆にいえば『椿葉記』がある以上、皇位継承の正当性が担保されている伏見宮御一流をないがしろにして、北欧や西欧の王室のように直系長子男女共系に走るのは国民の一人として容認しがたいということである。 

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 伏見宮は初代栄仁(なかひと)親王(親王宣下-応安元年/正平23/1368)より昭和22年(1947)第26代博明王が皇籍を離脱するまで実系の男系子孫で継承され、600年近く皇統正系と併存し皇族の崇班を継承してきた意義は甚大である。

 但し実系継承については例外が1例あり、宝暦9年(1759)後嗣のない16代邦忠親王が29歳で薨去、伏見宮家は『椿葉記』等格別の由緒があるゆえ入寺得度した皇族を還俗させ実系に復すことを嘆願している。しかし宝暦10年桃園天皇の第二皇子(17代貞行(さだもち)親王)が伏見宮を継承されたため一旦は血筋が中切れとなったが、明和9年(1772)13歳で早世されたため再び空主となる。

 結果的に安永3年(1774)15代貞建(さだたけ)親王の次男で勧修寺に入室した寛宝入道親王が還俗して18代邦頼親王となり実系に復している[武部敏夫1960]

 

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 当時、実系で永続すべき根拠として『椿葉記』の由緒を示しており、このたびもこれと全く同じ趣旨を強調したい。

 『椿葉記』執筆意図は、永享5年の後小松院御遺詔(上皇は血筋としては途絶した後光厳院流皇統の万歳継帝を望まれ、後花園を御猶子としているゆえ、皇統転換の主張を許さない趣旨で、伏見宮へ尊号宣下してはならない、仙洞御所を居所にはさせないとしたもの)に対抗して天皇実父の見解を主張するものである。

 つまり正長元年(1428)7月後嗣のない称光天皇が御発病あらせられ、崩御の3日前に伏見若宮御歳10歳が仙洞御所に入御、後小松上皇と対面し「後小松院の御所生の如く御父子の儀を契約せられ」たのち新内裏で践祚あそばされた(『建内記』[村田正志1983 初出1944])。後花園天皇である。

  強い正統意識を持ち続けた実父道欽入道親王(伏見宮第3代貞成(さだふさ)親王-称光天皇の勅勘を蒙り薙髪入道)は新帝と他人の関係にされたことに納得するはずがない。

 永享3年(1431)より後花園登極を崇光院流の皇胤再興(ひらたくいえば嫡宗家が皇位を奪還した)と位置付けるため、太上天皇尊号を拝受する意向を後花園天皇に上奏する計画をもち、その実現のため長講堂や石清水八幡宮などに奉納祈願のうえ、叡覧に備える目的で起草したのが『正統廃興記』であり、途中で後嵯峨天皇の故事を由来とするタイトルに改め永享5年に完成し、翌年奏進されたのが『椿葉記』である。

 主な論点は①崇光天皇廃位から後花園元服までの約80年間の史実とその意義、とくに所領の問題、総じて崇光院流が後深草院以来の正統であることを悟っていただくよう記述され、皇位から離れて凋落したが後花園登極による皇胤再興にいたる歴史、全体の三分の二を占める。②天皇実父が無品親王であってよいはずがない。承久の後高倉院の先例にもとづいて太上天皇尊号拝受の意向があること。猶子は一代かぎりのことで真実の父母が皇統を形成する。③君徳涵養、学芸見識の修養心得、帝王学の記述もあり、賢王聖代は一条、後朱雀、後三条であるとし、雑訴は関白・大臣等に勅問し、明法家が提出した勘状を読んで、道理に従って裁決すれば、君主として誤りはないとする。④若宮を始終御猶子となし奉ることにより、天皇家と伏見宮が将来永く疎隔あるまじきこと親しい関係であるべきとする。伏見宮家の世襲親王家構想と解釈されている。⑤崇光院以来奉公してきた廷臣らに御慈愛をかけられんこと。核心部分は②であり、後小松崩後に尊号宣下の一点突破で、後小松院と後花園の猶子関係を実質解消する意図である

 しかし天皇は実父の熱望を黙殺し続け、後小松崩後13年も経過した文安4年(1447)11月の太上天皇尊号宣下は、詔書によれば実父としてでなく傍親への格別の厚意としての尊号宣下とされている(貞成王は後小松院より年長だが上皇の猶子として親王宣下されているため「兄」とされた)[田村航2018]。天皇は国を譲られた重恩により後小松院御遺詔を重んじ、筋を通したことになる。

 

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この詔書の趣旨により皇統正系(天皇家)が崇光院流を継承しておらず、猶子の親子の擬制により後光厳院流直系であることが明瞭になった。後小松上皇が自らの系統の正統性を主張するため編纂された『本朝皇胤紹運録』(洞院満季編、応永33年1426成立)のとおり後光厳院流が正系ということになったが、逆にいうと後花園の実弟で伏見宮を継承した貞常親王の御子孫だけが持明院統嫡流の流儀を継承した崇光院流であり、崇光院流の正当性を記している『椿葉記』は結果的に伏見宮家の由緒になったといえる。

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『神皇正統記』のような日本全史ではないので広く知られてはいないが、皇統の正統性をテーマにしている著作として『椿葉記』はそれに匹敵する価値があるとみるべきだ。

 もちろん朝廷公認ではないし執筆時は無品親王といっても太上天皇尊号が勅定され、至尊とされた方の著作だから尊重されてしかるべきである。

 

二)南朝正統史観によるダメージは克服できる

 終戦後の特殊な事情があったとはいえこれほどの格別の由緒のある伏見宮御一流があっさり皇籍を離脱され、永続を約されている由緒などが全く顧みられることがなかったのは理由がある。

 明治44年の南朝正統の勅裁の影響と、それ以降の教科書が北朝抹殺論に近い記述になったことでダメージが大きかったためである。

 崇光院流が後深草院以来の正統という『椿葉記』の主張が意味をなさない時代背景である。

 伏見宮は北朝の崇光天皇(1334~98、在位1348~51)の御子孫で、皇子の栄仁(なかひと)親王(1351~1416 )が初代とされるが、大正~皇籍離脱時まで旧宮家は、崇光が歴代天皇から外れたため、鎌倉時代の後伏見天皇(1288~1336、在位1298~1301)の末流と称さざるをえなくなっていたのである

 南北朝正閏論争とは、明治43年(1910)喜田貞吉が編修する国定の教師用教科用図書が、宮内省が南北朝正閏を決定していない状況から、南北朝の対立につき軽重をつけない論旨となっていた。検定期の教科書は南朝を「正位」、北朝を「閏位」と位置付けるのが一般的であったので、教育現場で反発があり、明治44年1月読売新聞が非難、2月藤沢元造代議士の質問は、政府側の説得で回避されたが、犬養毅が大逆事件と絡めて激烈な弾劾演説してこの問題を政争にした。

 激昂した山縣有朋が教科書改訂を断行しない桂太郎内閣の緩慢を非難、明治44年2月27日喜田定吉は休職処分となり[千葉功2019 ]、桂首相は南朝正統を閣議決定したうえ、2月28日明治天皇に歴代について上奏、仰裁、3月諮詢された枢密院も南朝正統の奉答書を可決した。

 明治44年(1911)3月3日の勅裁とは、天皇が内閣総理大臣からの上奏、枢密院からの奉答、宮内大臣からの上奏を容れる形で侍従長より「後醍醐天皇より後小松天皇に至る間の皇統は、後醍醐天皇・後村上天皇・後亀山天皇・後小松天皇なることを認定したまへる旨を内閣総理大臣並びに宮内大臣に達せしめたまふ」とされたことをいう。

 また、宮内大臣が天皇に「北朝の天皇に対する宮中の取扱方」について伺ったところ、天皇は宮内大臣に「光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては尊崇の思召により尊号・御陵・御祭典等総て従来の儘たるべき旨を命じたまふ」とされた。

 したがって、皇統譜においても光厳・光明・崇光・後光厳・後円融は歴代天皇から外された。今日でも、尊号、御陵、御祭典は維持しつつも、北朝天皇として別冊にまとめられている。

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 天に二日なし、万世一系と矛盾するため、明治44年の国史教科書の修正では、北朝抹殺論により北朝側は「逆賊」とされ、「南北朝」は「吉野の朝廷」に改められた。以後、田中義成などが両朝併立説を主張したが、一般には南朝正統説、南朝忠臣賛美が終戦時まで支配していた。

 北朝を抹殺してしまうと肝心な伏見宮の由緒は見えてこない。旧皇族にとってダメージになっていた。ゆえに、伏見宮系の由緒が全く顧みられることなく、皇籍を離脱された背景としては、『椿葉記』など北朝側の歴史が否認されていた皇国史観の時代背景をみてよいのである。その点で不当な扱いをされたことこそ問題である。

 南朝正統史観は、後期水戸学で尊王攘夷、足利時代以降失われた国体回復運動に思想的に転位した。明治維新の大業は建武の中興の道筋によるものであり、その歴史的意義を認めつつも、しかしながら野村玄[2019]によれば、明治天皇の南朝正統とする聖裁(勅裁)は消極的同意であるとの説もあることも言及しておきたい。

 この聖裁は、国家の大事であるのに、公式令の詔による詔書の形式を避け、勅書の形式をも採られず国民に宣誥されていない。文書的裏付けである内閣総理大臣と宮内大臣への伝宣書は侍従長名・侍従長印で発出され、事務連絡文書に近く、官報にも告示されていない。

 詔書の形式を避けた宸意が消極的同意とみなされている。

 南朝忠臣を賛美する教育は過去のものである。「桜井の別れ」の逸話は、年輩の方はよくご存じだが、大阪府三島郡島本町国史跡の発掘調査では南北朝期の駅家の跡が発見されておらず『太平記』の創作の疑いがあり[小谷徳洋2022]、教えられていない。

 実証的な史学では15年に及ぶ光厳院政は院宣を活発に発給し現存するものだけでも350通に及ぶ、公家法を完成させた暦応雑訴法が制定され、雑訴興行の充実した政治機構が存在し「公家政務の到達点」との意義を認めている [伊藤喜良 1997][深津睦夫2014]。また京極流の勅撰和歌集である『風雅和歌集』が編纂された。南朝においても朝儀は行われていたが、弁官、局務、官務が機能している京都朝廷の意義を否定する北朝抹殺論は行き過ぎに思える。

 南朝正統はある程度価値相対化した議論が今日あってよいわけである。現代においては憚ることなく伏見宮の由緒を語ってよいだろう。

 近世期の朝廷では、北朝方の後小松上皇が自らの系統の正統性を主張するため編纂された『本朝皇胤紹運録』(洞院満季編、応永33年1426成立)が勅撰の皇室系譜として宮中で重んじられ、公家の間では北朝正統論が絶対視されていた[森安雅子2011]。後村上天皇は義良親王、後亀山天皇は熙成王で、帝に非ざる皇親の扱いであり、朝廷は南朝を公認していないのである。

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『続神皇正統記』壬生晴富(15世記後半)、幕府編修『本朝通鑑』(寛文10年 1670)林羅山・鵞峰編纂、『池の藻屑』荒木田麗女(安永4年1774)も北朝正統論である。

 今日では南北朝・室町時代の実証主義的な研究が進展し、伏見宮の由緒にかかわる研究成果も多く、書物も近年多く出版されており最新の研究成果をふまえるなら、『椿葉記』の論理をふくらますことが容易にできるので、政府が伏見宮御一流の格別の由緒を重んじる方針を示せば、南朝正統論によるダメージは容易に克服できる事柄である。

(三)崇光院流は完全なる傍系化が回避されるステイタスを得た

 近年の研究で、南北朝史研究の大家村田正志の従来説、皇室も伏見宮も崇光院流とする説は否定されたが、このことは伏見宮の由緒にとって不利な材料にはならない。

 第一に、とにかく歴史上類例の少ない、帝に非ざる皇族が、生前に太上天皇尊号を拝受し後崇光院法皇となった意義が大きい。関白以下公家衆より拝礼される本格的な法皇だった[田村航2018,久水俊和2020a]。伏見宮の威信は高まり崇光院流の正当化に少なくとも成功した。

 第二に『椿葉記』の趣旨は部分的に実現した。

「若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」[村田正志 1954初刊、1984](写真次頁-群書類従. 第貳輯 椿葉記 国立国会図書館デジタルコレクション公開分)伏見宮の若宮を始終猶子とし、天皇家と伏見宮家は将来疎隔することなく水魚の如き親しい関係であるべきとする構想は実現し、実際そのとおりとなった。

 親王位は継嗣令皇兄弟条で、皇子か天皇の兄弟の身位であるが、始終天皇の猶子とするということは、皇子に准じた礼遇として、親王宣下を受けるという意味で『椿葉記』のこの部分は伏見宮の世襲親王家構想と解釈されている[小川剛生2009][田村航2018]。

 中世では一般論として猶子とは「猶子になると擬制的な親子関係が形成されるため、親は猶子に対して権力を行使することができた。反対に猶子になった者は親の家の一員に准ずる存在として、その家の格式・礼遇がおよそ適用された」 [水野智之, 2014]と解説されているとおりで、その意義は大きい。

 国立国会図書館デジタルコレクション 群書類従 第弐輯

 

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 後崇光院太上天皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」にある所伝「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申‥‥」は裏付けがないため慎重に扱いたいが[小川剛生2009]、天皇は伏見宮を継承した第4代貞常親王に「永世伏見殿御所」号と後崇光院の生前の異紋をそのまま位袍などに使用することが許可された。また牛車での参内も許された

 「永世伏見殿御所」とは世襲親王家の公認を意味し『椿葉記』の趣旨を実現したものと解釈されている。

 伏見宮家の宮家継承者は必ず天皇の猶子となって、親王位を維持できるので、皇統嫡系との距離に依存せずに自立し継承される宮家となり、天皇と血縁的に疎隔しても(猶子という擬制で穴埋めし)、親王家としてのステイタスは劣化せず、皇親からフェードアウトしない地位を確立したのである[新田一郎 2011]。

 「永世伏見殿御所号」勅許は裏付けがないといっても、後花園が実弟の伏見宮4代貞常親王を信頼していたことは、『後花園院御消息』で成仁親王(後土御門)に伏見宮の申されたことはないがしろしてはならない旨訓戒し、応仁元年7月には一条兼良と貞常親王を調停のために幕府に派遣していることなどから確実であるので[田村航2018]、否定する材料もない。

 皇室典範で養子が否定されるまで、伏見宮家は、第3代無品貞成(さだふさ)親王より第24代元帥陸軍大将貞愛(さだなる)親王まで、歴代当主が親王宣下を受けているので、それが慣例だったともいえる。

 第七に説示するとおり中世公家法は律令は不変でも解釈によって合法化できた。皇親の定義は実質修正され、世襲親王家が成立する条件が整っており、伏見宮が「別格の宮家」「准天皇家」として完全なる傍系化が回避された[久水俊和2020a]特別の地位を占めたといえる。

四)『椿葉記』に込められた意味を忖度すべき

 『椿葉記』に込められた意味を忖度すべきである。「おほよそ称光院の絶たる跡に皇胤再興あれは、後嵯峨院の御例とも申ぬへし。八幡の御託宣に、椿葉の陰ふたゝひ改としめし給へは其ためしを引て椿葉記と名付侍ることしかり」というのが書名の意味で、土御門皇子(のちの後嵯峨天皇)が、出家しようか悩んでいたとき、石清水八幡宮を参詣し、そこで「椿葉影再改」との神託を得たので学問に励んでいたところ、四条天皇が12歳で急逝され後高倉院皇統は途絶、北条泰時の強い推薦により、順徳皇子を退けて図らずも皇位を継承した『増鏡』や『古今著聞集』にある故事に拠っている。

 「皇胤再興」がキーワードだが、「椿葉影再改」とは『和漢朗詠集』の大江朝綱の漢詩「早春内宴賦聖化万年春詩序」(承平2年932)より採られており、天子となって徳高く久しく栄えるだろうとの句である[秦野裕介2020]。

 つまり「荘子 逍遙遊」によれば、椿葉の影再び改まる八千年をもって一春とする。大昔、大椿という木があって、八千年を春、八千年を秋としていた。椿葉とは永続性のたとえである。

(椿は最高の吉祥木だった。花がポトリと落ちるから縁起が悪いとされたのは江戸時代以降のこと)

 『椿葉記』には「皇位の正統性を承認・守護する神」である八幡神の御託宣により皇位を継承した後嵯峨院の皇子後深草院の正嫡の皇統(崇光院流)の永続の願いが込められている。

 後崇光院太上天皇の存念を現代に生かすべき。この意見書の核心である。だから③案一択しかないと結論する。

 

第七 伏見宮の永代存続は世数制限のある令制においても合法で正当

 親王位は、継嗣令皇兄弟条にあるとおり天皇の兄弟姉妹か皇子女の身位で格別の礼遇であったし、同条では五世王は王号を称するが皇親の範疇にあらずとし皇親には世数制限がある。とはいえ五世王と六世王は不課の特典があり、令制皇親は天皇から血縁が疎隔するとフェードアウトしていく制度設計である。このことと、中世後期以降の世襲親王家が代を重ねても、フェードアウトせず、親王位を再生産するステイタスを維持できる制度であることとは矛盾するのではという疑問を持つ人がいるが、これは矛盾せず、全く合法であると申し上げたい。

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 なるほど13~14世紀には継嗣令では親王位ではない二世王の親王宣下の例は少なくないが、14世紀まで四世王以降の親王宣下はない。上皇や天皇の猶子として三世王の親王宣下の例もあるが後光厳天皇は亀山三世王常磐井宮満仁王の親王宣下の奏請を三世王であることを理由に拒否している[松薗斉2010]。のちに満仁王が親王号欲しさに義満に愛妾を譲り首尾よく願いが叶えられた[小川剛生2005 100頁]。三世王の親王宣下は特例だったのである。それは治天の君の意向いかんであり、この時代には自立的に親王位を再生産できる世襲親王家は存在していない。

 しかし、15世紀には、親王宣下は継嗣令皇兄弟条では皇親ですらない五世王、六世王でも親王宣下が慣例化した。末流の皇胤でも親王位が勅定されうる展開には十分理由があった。

 そもそも唐制では『王・公・侯・伯・子・男』の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の『王』(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず庶流も父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである[吉田孝『歴史のなかの天皇』岩波新書, 2006] 。つまり唐制と違って皇親は増加しやすく、財政負担が大きい構造になっていた。それゆえ、奈良時代より賜姓による臣籍降下で皇親を減らさざるをえなくなっていた。貞観12年(870年)、豊前王の建議をいれて、王禄を賜う者を429人に限定したのである。

 嵯峨朝には、親王宣下制となり親王位は生得的身位ではなくなった。土地制度が荘園公領制に移行した院政期以降は、皇子の多くが入寺得度し門主となった。宮門跡には所領が付随し、王権を法力で護持するのみならず、宗教ネットワークを掌握するためにも天皇の周囲に配置すべきポストだったし、勅問衆として天皇より意見具申が求められ国政にも関与することは上流貴族と同じである[井原今朝雄2014]。しかし法親王は一代皇族であるから皇統を形成できないので、皇親を大幅に減らした。

 中世においては皇親が出家して寺に入ることで多くの皇統が消えていった。天皇家は、観応3年(1352)践祚の後光厳より、9世代にわたって限嗣単独相続である(下記後光厳皇子の例)。

後光厳天皇(在位1352~1371)の皇子(一子単独相続の典型)

 後円融天皇              御生母    紀仲子(崇賢門院)

 亮仁法親王 (妙法院)       右衛門佐

 行助入道親王(円満院)二品

 覚叡入道親王(梶井)        左京大夫局

 永助入道親王(仁和寺)一品      紀仲子(崇賢門院)

  堯仁法親王 (妙法院)二品

 道円入道親王(青蓮院)       伯耆局

 覚増法親王 (聖護院) 

 寛守法親王 (上乗院)

 明承法親王 (梶井)

 聖助法親王 (本覚院)

 堯性法親王 (妙法院)

 道寛内親王 (大覚寺)

 新しい皇統(天皇家の分家)が形成されていない。後光厳の所領は、光明法皇が辞退した祖母広義門院領だけ相続し、あとは南方との戦闘を得た没官領である。分割できる御料がないので当然のことである。天正17年(1589)後陽成皇弟智仁親王に秀吉より知行三千石が宛行われて、八条宮家が創立されるまで、天皇家に分家はなかった。

 従って在俗皇親は当然血縁的に疎隔する。親王位は勅別当が補され、政所、家政機関が附く以上、家領と近臣を引き継ぐことのできる世襲宮家は適合的な制度だったといえる。15世紀の皇親制度の変容は以上のような歴史的脈絡から必然的なものだったといってもよい 。

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 つまり、15世紀になると、後円融、後小松の実子が少なかったうえ、称光は皇女のみ。後花園も皇子は御一方だけで、辛うじて皇位継承者は持明院統の内輪で確保できたが、天皇の周囲に配置される門跡に入室する人材が払拭していた時期が長かった。

 この事情から、天皇から数えて五世孫以降の末流の皇胤でも上皇や天皇の猶子とされたうえで、親王宣下されることが慣例化した。いずれも大覚寺統の木寺宮か常磐井宮出身の皇族で、北朝に参仕した宮家である(図表参照)。

 五世王親王宣下の初例は、後小松院政の応永26年(1419) 12月21日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞御記』『薩戒記』)。世襲宮家は、天皇家に皇子が少ないときに、宮門跡に入室する人材のプールでもあったのだ[松薗斉 2010]。

 応永26年(1419)後二条五世王の親王宣下は『看聞御記』に記されており『椿葉記』の執筆は永享3年(1431)以降であるから、伏見宮家世襲親王家構想は、五世王の親王宣下が合法化、既成事実化したことをみて、着想されたと推測できるのである。

 継嗣令皇兄弟条は五世王以降を皇親の範疇としてないので、それは便宜的だというかもしれない。しかし中世の律令法は「准的」等の明法家の法技術によって、令義解の原意にこだわらず現状追認的に合法化できるのであって [保田卓 1997]、 猶子という親子関係の擬制で血縁の疎隔を穴埋めすることは、准的「乙は甲と比べてみて、甲と釣り合うもの、同格のものと価値づける」というテクニックで合法になるだろう。

 従って応永26年(1419)の五世王親王宣下以降の展開は、継嗣令の原意である皇親が嫡系から離れてはそのステイタスを維持できず、世代を経るごとに劣化コピーする制度を修正し、皇統の正当性が重要というあり方になったのであり、世襲親王家の成立を可能にした。

 宝徳元年(1449)10月23日、常磐井宮直明王の第二王子勧修寺宮恒弘法親王が後崇光院太上天皇(伏見宮貞成)の猶子として親王宣下を受けた。亀山五世王である『康富記』  [秦野祐介 2020]。五百年来の大学者、一天無双の才人と尊称される一条兼良が現任関白で認めている以上合法である 。

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   天皇・上皇の猶子となることによって、末流の皇胤でも親王位が勅定されうる展開は、現代の永世皇族制の皇室典範の考え方に接近している。しかるべき由緒のある皇統に属する男子であれば、世数で天皇と疎隔した皇胤末流でも皇子に准じた礼遇になりうるということである。後二条直系の木寺宮は後宇多院の譲状により大覚寺統正統、常磐井宮は亀山院遺詔で正嫡とした由緒があり持明院統とは友好関係にあったからこそ親王宣下を受けたとも考えられ、将軍家の庇護のもとにあった後南朝皇胤は親王宣下はなく明らかに差別化されていた 。

 しかし木寺宮や常磐宮は世襲親王家ではない、あくまでも天皇や上皇の意向次第で親王宣下を受ける存在にすぎないが、後崇光院が亀山院系でも格別の由緒のある木寺宮や常磐宮出身の皇族を猶子として庇護している以上、伏見宮の優位性は明らかで、伏見宮が世襲親王家のステイタスたりうるのは納得できるといえるだろう。

 

第八 世数制限は愚策。永世皇族主義で旧皇族を奉載申し上げるべき

 明治22年皇室典範起草の過程で、井上毅は親王宣下と天皇の養子廃止に反対し、世襲親王家は「継嗣を広め、皇基を固くする」ものとしてその存続を主張したが、柳原前光が封建時代の因習という否定的な評価をとったため廃止された[山田敏之2018]。これによって中世由来の天皇の猶子という親子関係の擬制で、諸王に親王宣下される制度はなくなった。血縁の疎隔を穴埋めする准的な制度を失ったことになる。

 歴史的経緯からすれば、特別のステイタスである本当の意味での世襲親王家は伏見宮家である、後小松上皇による伏見宮家の室町院領永代安堵の院宣(応永23年1416)や後花園天皇による「永世伏見殿御所号」勅許(康正2年1456)等の永続性の由緒があるからである。

 近世四親王家は、伏見宮も含め幕府により宛行われた家領を相続する近世領主にすぎないことは他の公家と同じことで、それを「封建的因習」と言っているのだろうが、荘園公領制が衰退し知行充行権を徳川幕府が掌握する以前から、中世の皇室領である室町院領、熱田社領、播磨国衙領等を経済基盤としてきた伏見宮家は格が違うし「封建的因習」によって成立したものでなく、『椿葉記』が説示するとおり後深草院流嫡流を引き、その流儀を継承している宮家として正当性により別格とされたとみるべきである。

 明治4年に伏見宮邦家親王息の三宝院門跡から還俗した載仁親王が継嗣のない世襲親王家、閑院宮家を継承し、同じく邦家親王息の明治14年(1881)に東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)が世襲親王家に格上げされ、永代存続する伏見宮系の世襲親王家は三家に増加したが、この制度は遺憾ながら廃止された。

 しかも柳原前光は、伏見宮の血統が皇位から遠く、五世以下の皇族は皇系疎遠なるものから降下させる案を伊藤博文に問い賛成を得ていた。井上毅は、五世以下を皇族としないのならば継体天皇の継承に差支えを生じるなどとして反論したという。しかし、枢密院諮詢案の段階で形勢の逆転があり、伊藤博文が豹変し、五世以下の皇族を臣籍降下可能として、疎遠の皇族より適用するという臣籍降下規定が突然削除された。最終的には皇室繁栄のために井上毅や宮内書記官の三宮義胤が言及していた永世皇族主義となったのである[西川誠2019]。

 すなわち「皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」、世数制限はないのである。男系が続く限り永世皇族制が採用された。

 皇室典範以前は、山階宮と久邇宮は二代皇族とされ、華頂宮は明治天皇の特旨により、梨本宮は養子によって、北白川宮も兄の能久親王が後嗣となって宮家が継承され存続していたが、旧世襲親王家も含め明治皇室典範により永世皇族制を前提として存続することとなったということである。

 皇室典範施行以後も伏見宮系宮家は増加した。賀陽宮邦憲王(明治25年)は、久邇宮の家督を継承する予定だったが、病身のため弟の邦彦王に家督を譲り、病状が回復し、久邇宮邦彦王が伊藤博文と明治天皇に情願して宮家が創立された。東伏見宮(明治36年)は依仁親王が小松宮の継嗣を停止して創立した。明治39年には三家が創立、竹田宮、朝香宮、東久邇宮であり、いずれも永世皇族制のもとでは横並びであり宮家の格差はなくなった。

 しかし明治40年の皇室典範増補により、永世皇族制を見直し第一條 「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシ」とされ、家名を賜い、臣籍に降下し華族に列することが可能となった。大正9年以降、伏見宮系の次男以下の皇族が情願により家名を賜い、華族に列するのが慣例になったといえるが、増補第一条は、臣籍降下を強制するものではなかった。

 ところが第一次大戦後に、大正天皇の皇子四方が無事に成長されたこともあり、皇族は世数制限とし、伏見宮系の永世存続を認めず、排除していく動きが加速した。帝室制度審議会で大正 8(1919)年 1 月より「皇族処分内規案」の検討が開始され、委員の伊東巳代治、平沼騏一郎、岡野敬次郎が世数制限により永世皇族制を放棄し、事実上伏見宮系皇族を整理する方針を打ち出した。

 宮内省側は次男以降のみの臣籍降下案だったが、伊東巳代治が皇族の世数制限実現で妥協せず、大正9年2月までに宮内省との合意により「皇族ノ降下ニ関スル内規」として成立し、2月末大正天皇に上奏、3月3日枢密院に諮詢、審査委員会で若干修正され「皇族ノ降下ニ関スル準則」となり、3月17日の枢密院本会議で満場一致で可決、皇族会議を経て制定されることとなった[永井和2012]。

 「準則」において王(明治皇室典範では4世孫まで親王位とされたので、王とは5世孫以降の皇族にあたる)は長子孫の特例を除いて、家名賜って、臣籍降下し華族に列するとされ、次男以降は多嘉王と邦芳王を例外として臣籍降下とされた。

 長子孫系については8世孫までが皇族で以降が臣籍降下とされた。ただし伏見宮系皇族に特例があり、後伏見15世孫(崇光13世-後崇光11世)邦家親王を4世孫として計算し、邦家親王から数えて4世孫まで皇族のままだが、以降は臣籍降下とするものだった。この計算だと当時の当主から2~3世代まで、伏見宮は博明王、久邇宮は邦昭王までということになる。

 なお枢密院の審議でタイトルの修正があり「準則」とされたため、特殊計算で9世孫は、絶対的、自動的に臣籍降下するものではないが、9世孫は家名を賜り、華族に列するのが原則とするというものである。

 これは永続を約された伏見宮の由緒を全く無視するものといえるが、宮家の消滅を当時より2~3世代以降としたことで、宮内省では受け容れられるものと判断したようである。

 秘密会のため、読売新聞は仄聞により緩やかな宮内省案を推測する報道だった。本当のことは把握されておらず、国民がこれを知るようになったのは平成12年『倉富勇三郎日記』「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」関係抄録(大正8年)」が書陵部紀要で発表されてからのことであった。

 宮内官僚で、のちに枢密院議長を歴任した倉富勇三郎の日記により「準則」の裁可までの経過と、波多野敬直宮内大臣の辞職までの詳細が明らかになったということである。

 当時は成人男子皇族全てが皇室会議の議員で、皇太子以外はすべて伏見宮系だった。元老は皇室会議での異論は天皇の権威が揺らぐのであってはならず形式的に承認するだけと考えていたが、久邇宮邦彦王を中心として、博恭王(伏見宮継嗣子)、博義王、朝香宮鳩彦王、北白川成久王が反対の意向と判明し、可決が困難な不穏な情勢のため4月の皇室会議は突然延期された。

 枢密院議長山縣有朋は久邇宮を説得したが不調、元老との深刻な対立を回避し事態を収拾するため北白川宮成久王が皇族間の調整に乗りだし、宮内省と事前協議したうえ、反対派の発言の自由を保証することを前提として、5月15日皇室会議では議員に利害にかかわるため採決しないで閉会する事前の打ち合わせがなされた[永井和2012]。

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 当日の皇室会議は、ほぼシナリオどおりに展開し、結果的には大正天皇により裁可された(なお、天皇は発語障害がみられ、大正9年3月25日の宮内庁掛の医師による「拝診書」によれば、幼少時の腦膜炎の為故障のある御脳に影響して、御安静を失ったり、お体が傾く事が起こったり、身体の平衡を保つ基が困難な状態であった[杉下守弘2012 小林幸男2003])。

 ただし「準則」は公示されておらず、原敬は皇族会議を通過し制定されたとしているが、この効力について無効とする説、波多野宮相が廃案なのに天皇の御裁可を頂いたのは大暴挙[中川八洋2018]との見解もある。

 しかも会議の数日後、波多野敬直宮相は「皇族会議にて議すへき事項なりとして御諮詢を奏請したるに、皇族会議にて議決せさることゝなりたるは、取調不行届の結果にて、恐懼に堪へす」という趣旨の待罪書を大正天皇に提出した[永井和2012]。これは却下されたが、6月16日皇室会議での不首尾の責任をとって辞職する

「準則」の効力は疑問視せざるをえず、女系容認論者には終戦後の特別な事情がなくても、旧皇族はいずれ臣籍に降下されることになっていたと主張されることがあるが、このプロパガンダに気にとられる必要はない。

 大正8年以降の経緯は、当時南朝正統、北朝抹殺論のご時世であり、崇光院流=伏見宮の皇統上の格別の由緒を無視、永続を約されている由緒を無視しているので不当に思える。先にも述べているように、令制の原意である皇親の世数制限は、日本的「家」の成立期である室町・戦国時代、15世紀以降、令制の皇親制度は、五世王、六世王の末流の皇親でも、天皇の猶子という擬制により、天皇と世数で血縁的に疎隔しても親王宣下が受けられる制度に変容し、それゆえ世襲親王家が制度化したこと。中世の公家法は、令義解の原意にこだわらなくても現状追認的に合法となるので、この法制史的経緯を無視していて、令制の原意にこだわりすぎているものと今日的観点で非難したい。

 伏見宮の永代存続は令制で合法なのである。天皇と世数で疎隔してもステイタスが維持できていた。旧皇室典範も原則は永世皇族制であったのだから、この趣旨にもとづいて皇族に復帰していただくべきである。

 

 

(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について

(要点 第五~第七の下書きであり重複するが少し詳しい内容なので補遺として掲載する)

(一)伏見宮家が正統・嫡流たる由緒、その証拠もある

 伏見宮御一流には皇統上の格別の由緒がある。『椿葉記』(永享5年1433道欽入道親王著)が説示しているとおり崇光院流=伏見宮家は後深草院以来の正嫡、嫡流を引く由緒を有する。ゆえに永続してしかるべきでなので、旧皇族の方々を奉載申し上げるべきである。

 伏見宮が持明院統の嫡流を引く、正統たる由緒は、次節以下の主として4点である。 

 中世においては嫡流か傍流かという判別は重要な指標である。鎌倉時代の皇位継承において、三種神器だけではなく、太刀契、玄上(琵琶の名器)、鈴鹿(和琴の名器)などが累代御物として伝領されていた。しかし歴代天皇であっても嫡流と、中継ぎ(一代主)とでは差別があった。王家惣領の太上天皇に皇位継承者、所領等経済基盤や両統に分割された文庫等の財産の継承者を決定する権限がある。

 要するに摂関家において殿下渡領という氏長者に相伝する所領、五摂家それぞれの家領があるように、皇室においても皇位継承により相伝される御物と、両皇統の惣領が管理し皇統の正嫡に伝えられる財産に分かれていた。中継ぎの天皇は子孫の皇位継承の見込みがないし、皇統の財産を差配する権限もない。

 直系子孫が皇位継承し、院政を敷くことができるのは原則として正嫡に指定された天皇に限られる。後醍醐のように中継ぎに指定された天皇が全財産を継承しても一期相続なのである。花園や光明は中継の役割に徹したため、持明院統は、14世紀中葉まで分裂せずにすんでいた。しかし大覚寺統では前代以往の治天の君の遺詔や譲状が反故にされ、鎌倉末期には4つの王家に分裂し(大覚寺統正統康仁親王、邦省親王、後醍醐系、恒明親王)が、それぞれ皇位継承の正当性を主張し競望する事態となった。

 1 延文2年(1357)に崇光上皇が嫡流所領の全てを相続した

 観応の擾乱の最終局面(正平7/観応3/1352)、南朝軍が京都に進攻、北朝三上皇、皇太子花園皇子(光厳猶子)直仁親王が拘引され南朝拠点に連れ去られた(次頁地図で示す)。約4~5年虜囚の身となる一方、幕府軍は男山合戦で南朝軍を撃退し、身柄を確保していた崇光弟の芝宮15歳(後光厳)を擁立し北朝を再建したことにより持明院統は分裂状態となる。

 

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 延文2年(1357)光厳法皇は深草金剛寿院、崇光上皇(伏見宮の流祖1334~1398)は城南離宮伏見殿に還御なる。王家惣領の光厳法皇は、譲国の詔宣なく勝手に幕府が擁立した後光厳天皇を「御時宜不快」として認めていなかった。廃太子直仁親王は法体で帰洛し皇位継承を放棄していたため、光厳法皇の承認のもと崇光上皇が、光厳御生母広義門院(西園寺寧子)が保全していた治天の君が管領する全ての財産を相続した。

 『椿葉記』は「抑長講堂領・法金剛院領・熱田社領・同別納・播磨国衙・同別納等は、後深草院以来正統につたはる。然は法皇の御譲を受け上皇御管領あり。御堂御領知行する諸家みなこの院に奉公す」と記し、これが崇光院流を「正統」とする第一の理由である。

 長講堂領は後白河院追善仏事料所巨大所領群で、追善仏事を主催する持明院統惣領は、後白河皇統の継承者を自認していた。

 のちに伏見宮初代栄仁(なかひと)親王となる崇光皇子は当時7歳、この時点で後光厳皇子は降誕していないので、有力な皇位継承候補に浮上した。

 もっとも、崇光上皇は南方に幽閉されて、子孫の皇位継承を断念する起請文を書かされているが、虜囚の身で窮余認めたもので、効力などないことはいうまでもない[vi]

 なお崇光上皇は文和4年(1355)~延文元年(1356)抑留されていた河内国天野金剛寺で、琵琶の秘曲を光厳法皇より伝受され(『秘曲伝授月々例』 [池和田有紀 2020][秦野裕介2020])、治天の君となる嫡流の天皇は秘曲を伝授されており、崇光院を正統とみなす第二の理由となる。

(YouTube 日本史オンライン講座 講師秦野裕介 観応の擾乱 後光厳天皇践祚と持明院統の分立【研究者と学ぶ日本史】2022参照)

 

 しかし、後光厳天皇は、応安3年(1370)光厳天皇7回忌宸筆御八講を清涼殿で盛大に営み、光厳院の継承者たることを顕示したうえで [三島暁子 2012]、皇子(後円融)へ譲位する内意を幕府に伝えた。崇光上皇は巻き返しのため幕府に使者を遣わし『椿葉記』によれば「後深草院以来、正嫡にてまします御理運の次第」を説き、皇子栄仁親王20歳(伏見宮初代)の践祚を申し入れたが管領細川頼之は拒否、後光厳皇子の皇位継承を支持する(『椿葉記』[家永遵嗣2013])。

『椿葉記』は栄仁(なかひと)親王を正嫡と記している、第三の理由である。

 崇光院は正理・正統の皇位継承を求めたが、後光厳及び近臣による幕府と結びつく戦略が上手だった。伏見宮家ではこのことを長く遺恨とする。

 

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 その後、政治力、廷臣の掌握力で勝る足利義満によって崇光院近臣は制圧され、皇位競望は困難になった。応永5年(1398)崇光院崩後、長講堂領等嫡流所領等は没収され、後小松天皇の禁裏御領に編入された[vii]

 栄仁親王は義満により出家を強いられた。親王の発心入道に驚いた伏見宮家司の庭田経有は、「凡そ天照大神以来一流の御正統、既に以て失墜、言語に絶するものなり。只、悲涙に溺れおわんぬ」と同情を惜しまなかった(庭田経有日記応永5年5月26日条)[村田正志 (1983(初出1944)、横井清2002、今谷明1990]。

 伏見宮家の正統意識が強いことを物語っている。

 但し、栄仁親王は、足利義満より萩原宮直仁親王遺領(室町院領)7箇所(伊賀国長田荘、江州山前荘、塩津荘、今西荘、若州松永荘、越前国磯部荘栗田嶋、備中国大嶋保)の相続と、播磨国衙領の返還が認められた。義満に京極流勅撰和歌集『風雅集』正本を贈ったのはその報謝とみられる。義満薨後に一時接収された伏見も幕府により返還され、最晩年には後小松院の所望で天皇家の象徴たる重宝(准累代御物級)である横笛の「柯亭」*[植木朝子 2009]を進献することにより、室町院領全ての永代安堵の院宣等などが下され、世襲宮家として存続できることになった。

  栄仁親王は応永 23 年 11 月 20 日(1416)薨ぜられたが、伏見宮貞成王の『看聞御記』は「ああ登極の御先途ついにもって達せられざるの条、生前の御遺恨この一事にあり」と父の思いの無念を綴っている [桜井栄治 2009]。皇位を傍系から奪還できず、天皇家から宮家に転落したのが伏見宮家であった。

*後宇多天皇御愛用の楽器で、御筥にお入れになり、常に座右に置かれたとある(増鏡)[今井通朗1962]「准累代御物級」「天皇家の象徴」とされるのは、上記の記録から、玄上や鈴鹿と同じく、皇位継承により伝領されていたと推定できるからである。

 

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2 貞治2年(1363)光厳法皇の置文に伏見殿の御子孫が正統とあること

 『椿葉記』によれば貞治2年光厳院置文(1363)に「正統につきて伏見殿(崇光院)の御しそん御管領あるべきよし‥‥」とあり、光厳院は崇光の子孫を嫡流と認定している [村田正志 1984初刊1954]。ゆえに嫡流所領が没収されても嫡流の由緒はどうしても残るのである。

 もっとも置文の正本、案文は現存せず二次史料だが、『椿葉記』の歴史記述は正確であり、叡覧に供される目的で執筆されたので、話を盛っているとは考えにくい。これが、伏見宮が嫡流を引く第四の理由であ る。

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3 持明院統皇統文庫の伏見宮家への伝来

 貴族社会では家記、古記録を伝えている家が嫡流なのである[高橋秀樹1996]。家記の自筆原本・古記録の蔵書が嫡流の証しになる。伏見宮家は嫡流ゆえ持明院統皇統文庫が伝来した。これは14世紀中葉に光厳院が管理した仙洞御文庫目録と15世紀前期に伏見宮が管理した即成院預置目録等の書目が一致するため書誌学的に立証されている[飯倉晴武 2002, 2009,田島公 2004,2006,酒井茂幸 2009]。伏見宮家が嫡流を引く王統といいうる第五の理由である。

 昭和22年12月伏見宮の蔵書は宮内府に788部1666点が寄託され、後に国費で宮内庁書陵部が購入した[飯倉晴武 2002]。現存する最も古いものは延喜19年(919)大江朝綱筆の『紀家集』である[viii]

 伏見宮旧蔵本は、中世の天皇家の蔵書をよく伝え[小川剛生2017]、鎌倉時代後期宸筆宸記のほか記録類も貴重な自筆原本や古写本のほか、琵琶を中心とした楽書もあり充実していると評価され、書誌学的に総合的に判断し中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された古文書の一部を伝えてきた以上、嫡流を引く由緒を認めるべきである。

 そもそも、天皇ゆかりの宝物や貴重図書は、原則として大内裏内の倉や文庫にあり、典籍・文書は校書殿、内御書所、一本御書所に保管されていた。

  しかし院政期以降は、歴代御記などは院が管理して、天皇は借覧するあり方になった[井原今朝雄1995]

皇室の蔵書は後嵯峨院崩御時に両統に分割され、日記や政務文書は後深草院に譲られ「和歌并鞠文書」は亀山院に譲られたと伏見院自身が認めているという [小川剛生 2017]。

  応永24年(1417)伏見宮第2代治仁王は中風で頓死、弟の貞(さだ)成(ふさ)王が伏見宮を継承した。無位無官だったが嫡流ゆえ、本来は持明院統の治天の君が管理する文庫推定213合の膨大な古記録・典籍を相続した[飯倉晴武 2002]。応永8年(1401)の伏見殿の火災で、累代御記文書が焼失したとされるが詳細は不明で、この教訓により即成院、法安寺、大光明寺といった伏見の寺に分散して預置するようになったようである。

 近年では、伏見宮第5代邦高親王より三条西実隆が借用した(『実隆公記』延徳2年(1490)八月条)の、歴代天皇宸筆や皇族御筆、三蹟など平安時代の「古筆」のリストが検討され、このうち弘法大師御筆の法華経、称讃浄土経、無垢清光陀羅尼等、智証大師(円珍)筆の転女成仏経、三蹟藤原行成卿筆の心経、諸仏集会陀羅尼経といった経巻が、写本だが東山御文庫にある後白河院蓮華王院宝蔵の蔵書目録と合致し、宝蔵の蔵書の一部は伏見宮家に伝来したことが立証されている[田島公 2004]。

 本来天皇家が管理すべき皇室の重宝級蔵書は伏見宮が伝来していたということである。

伏見宮の蔵書は後小松院政期以降、宸筆宸記等[松薗斉 1997]、重宝級が天皇家に断続的に進献されており、室町殿への報謝[前田雅之 2018]や将軍来訪時の引出物として、貴族や大名、国人等へ下賜、贈答品とされたもの[小川剛生2017]、戦乱時の移動等により散逸等、失われたものは少なくない。

「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]ともいわれ、戦国時代の伏見宮家は、土佐一条家との姻戚関係とか今川氏親などへの贈答品などで荘園公領制の衰退による収入減をしのいでいたという見方もできる。

 一方、禁裏文庫は嘉吉3年(1443)禁闕の変で内裏が放火され被害があったほか、応仁文明の乱での被害が大きく、文明8年(1476)の新造内裏類焼で悉く焼失した。その後も歴代天皇は書写、収書活動を続けていく。天文4年(1535)伏見天皇宸記2合が伏見宮第6代貞敦親王より後奈良天皇に進献され(『後奈良天皇宸記』)、後水尾院の文庫に伏見天皇宸記70巻があったという記録があるが[米田雄介 1992]、万治4年(1661)正月に二条家賀子内親王御殿出火で隣接する内裏が焼亡し、禁裏文庫の古筆は悉く焼失しているので、この時失われたと考えられる。幸いにも朝儀に関して後西天皇が書写した副本は難を免れ、親本は失われたが、古典籍、古記録の良質の写本を中心に禁裏文庫は再建され、今日の東山御文庫に伝えられている。

 東山御文庫は、天皇陛下の御物であり、侍従職が管理しているが、霊元天皇以降の禁裏文庫は近世の写本が中心なのである。誤解がないように言っておくと、東山御文庫には伝嵯峨天皇宸筆『李嶠雑詠』、宇多天皇宸筆の『周易抄』、『後鳥羽天皇詠三十首和歌色色紙』という名品があるが、これは近衛忠凞が明治天皇に献上したもので、来歴は新しい [北啓太 2016]。また東山御文庫にある伝醍醐天皇筆「自題山草亭」は、明治5年に伏見宮邦家親王が明治天皇に献上したもので、伏見宮家に伝わっていたものである [田島公 2004]。

 そうしたことから中世の天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された書籍・文書絵画の一部はむしろ伏見宮家によった近代に伝えられたといえる[田島公2006]。

 持明院統の皇統文庫には、王権の荘厳なレガリアともいうべき宇多、醍醐、村上、後朱雀、後鳥羽、順徳の日記があった。後南朝小倉宮より足利義教に進められ、さらに後花園に進献された後三条、後朱雀といった平安時代の天皇の日記は室町時代まであったが、平安時代のものは今日原本も写本もなく、逸文だけが伝わっているだけである。

 そうした諸事情から、もともとあった量からすればかなり少ないとはいえ、伏見宮家で維持された持明院統の天皇の日記は比較的よく残っている。伏見院日記8巻、花園院日記36巻等である。今上陛下が大学卒業時に深い感銘を覚えましたと仰られた花園天皇の『誡太子書』や『学道の御記』も伏見宮旧蔵本にある。

 永享2年(1430)後花園天皇の大嘗会に際して伏見宮より後小松上皇に代々秘蔵の後深草院より三代の『大嘗会記録』『神膳御記』が進献されている。これは失われたとみられるが、伏見宮で維持されたもので、「建暦二年十月供神膳秘記」があり、後鳥羽上皇が順徳天皇に作法を教申せしめたものだが、後深草天皇が抄録して書写したものを伏見天皇が後伏見天皇のために書写したものが現存しているのである[米田雄介 1992]。

 伏見宮旧蔵本の『御産部類記』19巻は醍醐天皇以降の皇子女の誕生に関する貴重な逸文が多い史料だが、鎌倉中期に西園寺家が所蔵していたが、鎌倉末期から南北朝頃に持明院統皇統文庫に移管された[詫間直樹2003]。14世紀中葉の光厳院が管理する仙洞御文庫目録や15世紀前期に伏見宮が管理する即成院預置目録にもある。

 同様に仙洞御文庫目録、即成院預置目録にある書物で、伏見宮旧蔵本として現存するものとして、筆者が調べたところでは、東宮元服部類記、平安後期の『水左記』の自筆原本4巻は、もともと蓮華王院宝蔵の蔵書であったことがわかっているが[田島公2004]、堀河左府記という書名で、また現存の行成卿記(権記)全22巻も仙洞御文庫、即成院預置の双方のリストにある。また双方のリストある本朝世紀は散逸した部分があるが現存しているものがある。中右記1巻と、台記(鎌倉写)8巻は、宇治左府記という書名で即成院預置目録にある。

 現存する伏見宮本、小右記32巻(野府記-鎌倉写)は前田家(旧三条西家)本とともに最も古い写本なので貴重だが、仙洞御文庫目録にみあたらないので室町時代以降に宮家に伝来したものかもしれない。

 いずれにせよ光厳院の仙洞御文庫にあったものが伏見宮に伝来し、その文庫の一部は昭和22年まで維持され、現存していることが確認できるので[飯倉晴武2009]、これは嫡流を引く家系である物的証拠といえるのである。

 現存する古記録が嫡流の由緒を物語っているのだから、この王統の正当性を主張できる。

4 琵琶の習得、秘曲の伝受という嫡流の流儀の継承

 中世において管弦は帝王学の要であり、儒教の礼楽思想により管弦に秀でることが有徳の君主の証とされ、天皇は特定の楽器を熱心に習得した [豊永聡美 2001,2017] [相馬真理子 1997]。

 器物として平安中期より笛が天皇の習得すべきものとされていたが、二条天皇が琵琶を好まれ、後鳥羽、順徳が琵琶の累代楽器「玄上」を弾奏した由緒から [五味文彦 2006,坂井孝一2018]、累代楽器の権威構造は累代御物「玄上」-大嘗会の清暑堂御神楽-琵琶の秘曲伝授が中心となり[猪瀬千尋 2018]、琵琶が管弦首座として重視されるに至った。

 後深草院は亀山天皇に琵琶の秘曲伝受で先を越されたことを悔やまれ、立て続けに秘曲の伝授を受けた[阿部泰郎 2018]。その甲斐あって、御遊では後深草院が琵琶を弾き、亀山院は笛の吹奏が慣例化したので、持明院統では琵琶の弾奏は譲れない。皇統の正統性にかかわるものとして後深草院流嫡流の天皇は琵琶の習練が必須となった。中継ぎに指定された花園院や光明院の帝器は笛であり、嫡流の天皇とは明確に差別化されていた。

 持明院統嫡流の後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光-栄仁親王-治仁王は、最秘曲の啄木を伝授されている。貞成親王以降は啄木の伝授は受けてないが、貞常親王、邦高親王、貞敦親王は楊真操、両流泉といった秘曲の伝授を受けた[猪瀬千尋 2018]。

 つまり、伏見宮家は、琵琶の秘曲を伝承する家でもあり、それが持明院統正嫡の流儀なのであった。

 一方後光厳院流の帝器は笙であり、後花園は実父が琵琶を強く勧め、練習用の楽器も進献されたにもかかわらず笙を帝器とし嫡流の流儀を継承しなかった。

 文明14年(1482)後花園院13回忌の御懴法講では後土御門天皇の笙の御所作に、伏見宮邦高親王が琵琶を合わせていた [三島暁子 2012]。後深草院流以来の流儀を継承していることが、完全に傍系化しない「別格の宮家」であるゆえんである。伏見宮が嫡流を引く第二の理由であることすでに述べたとおり。

 

5 伏見宮家は18世紀後半においても『椿葉記』の由緒により嫡流を自認していた

 伏見宮16代邦忠親王は病を得て宝暦9年(1760)6月2日に薨去する。継嗣とすべき男子のいなかった親王は、伏見宮家は「崇光院已来嫡流格別之家筋」であるので「系脈無断絶速相続被仰出」て欲しいと、亡くなる前に御内儀へ願い出ていた(広橋兼胤公武御用日記5月25日の条)[松澤克行・荒木裕2008]。

 嫡流を絶やさないために実系相続にこだわる伏見宮家は『椿葉記』の由緒などを理由に竹園連枝(邦忠親王弟)で勧修寺に入寺得度した寛宝入道親王の還俗を嘆願したにもかかわらず、桃園皇子で後桃園天皇の同母弟が伏見宮を相続し血筋は中切れになるが、17代貞行親王は13歳で薨ぜられたので再び空主となる。しかし朝廷は空主のまま皇子が降誕された時のポストとする考え方だった。

 伏見宮家は奥の手を使う。紀州徳川家と代々姻戚関係があり、将軍吉宗、家重の正室が伏見宮家の女王だった。この縁故により大奥取締松島を伝手として将軍徳川家治に直訴し、将軍が朝廷に伏見宮の実系相続を要請したことで、安永3年(1774)寛宝入道親王が還俗して18代邦頼親王となり実系相続が継続された[武部敏夫 1960]。

 血筋の中切れを嫌い、実系継承を続行させる矜持は、嫡流の自認にあり、流祖の崇光院崩御から380年近くたった時のことであるが、現在は630年近く経過しているが、表向き皇統正系ではなくても400年たっても嫡流を意識されているということは、600年たっても同じことであると思う。

 

(二)後崇光院が本格的な太上天皇であった決定的意義

1 伏見宮は太上天皇尊号宣下の一点突破で皇統の付け替えを画策

 伏見宮家が正統、嫡流の意識を持ち続けたのは、後花園天皇が後小松上皇の御猶子とされたうえで践祚され、後光厳院流の継承者となり、崇光院流の流儀を継承しなかった歴史的経緯による。

 応永26年(1419)伏見宮第3代貞成王に男子が誕生、のちの後花園天皇(御生母は敷政門院、庭田重有女幸子)である。

 貞成王が応永28年(1421)8月に石清水八幡宮に代参を立て奉納祈願した願文は、無位無官を脱すること。旧領の相伝の本復。自らが「皇統」の「嫡流」「正嫡」であり、「小児息災安穏にして一流万代に相続せしめ給へ」と念じ、嫡流が不遇の境界に置かれるのは道理に合わぬという懸命の祈請立願であった [横井清 2002]。

 後小松上皇、称光天皇健在なので過激な文章といえるが[位藤邦生1991]、それだけ強い正統、嫡流意識を持ち続けたということである、この崇光院流永続の祈願は昭和22年まで宮家が存続した以上、大筋において実現したというのが凄いことだといえる。

 翌年伏見を訪れた足利義持に、貞成王は秘蔵の『宮滝御幸記』(菅原道真)を贈つたところ喜ばれ、仙洞御所に義持が参上した際も、伏見若宮がずいぶんと話題になったという[横井清 2002]。応永30年には称光の弟で儲君とされていた小川宮が変死、称光天皇は病弱で後嗣なく、伏見宮にとって一陽来復の好機が到来した。

 応永31年(1424)伏見宮貞成王は、訴訟事に便宜をはかってもらうため後小松上皇に後深草院以来相伝の『寛平御記』『延喜御記』、『朝覲行幸記』三合、『諸社諸寺御幸記』の御記五合を進献しているが、宇多、醍醐の二代御記は重宝であり、上皇から特に感謝された [古藤真平 2018]。翌年の親王宣下とは無関係とはいえないだろう

 応永32年(1425)に後小松上皇より伏見宮へ後円融天皇33回忌宸筆御八講の写経供養の助筆の依頼があり、これを梃子にして念願の親王宣下を奏請し4月16日後小松院の猶子として勅定された。当時の親王宣下は治天の君の意向次第であるが、時に54歳だった。

 6月28日後嗣のない称光天皇が出奔未遂を起こす。天皇が平曲を聴くため琵琶法師を宮中に呼ぼうとしたところ、後小松上皇より前例がないとしてダメ出しされた。天皇は使者を怒鳴りつけ逐電を企てた。女官が必死に押しとどめ、足利義持がかけつけて説得にあたったが、天皇は上皇への不満をぶちまけ、伏見宮貞成を猶子にしたことに反発した。それゆえ貞成親王を出家させる以外に、神経質な称光天皇を宥める手段がなく、親王宣下の4ヶ月後の7月薙髪して道欽入道親王となる。

 とはいえ貞成親王は上皇より年長なので、皇位継承のための猶子だったという想定には疑問がある。伏見宮の期待は7歳の若宮にかかっていたのであり、この年に次男(のちの伏見宮4代貞常親王)も誕生していて、法体になったダメージは大きなものではないといえる。

 正長元年(1428)7月称光天皇が御発病あらせられ、後小松上皇と関白二条持基の合意により[石原比伊呂2018]、称光崩御の3日前に伏見若宮御歳10歳が仙洞御所に入御された。後小松上皇と対面し「後小松院の御所生の如く御父子の儀を契約せられ」たのち新内裏で践祚した『建内記』[村田正志1983 初出1944]。

 後光厳院流の実系は四代で途絶した。伏見宮道欽入道親王は「天照大神、正八幡大菩薩の神慮とはいえ、ふしきなる御果報、幸運眉目にてあらすや」(『椿葉記』草本乙巻) [村田正志 1954初刊、1984]と若宮践祚を喜びつつも、新帝とは他人の関係とされてしまったことには当然納得していなかった。

 それゆえ伏見宮道欽入道親王が永享6年(1434)に奏進した『椿葉記』は、崇光院流こそ正統と新帝に悟っていだだく目的で書かれ、「御猶子は一代の御契約にて、誠の父母の御末にてこそわたらせ給へ」と述べ、御猶子関係は、一代限りの契約でその子孫には及ばず真実の父母の御子孫が皇統となるとしている。

 そして帝に非ざる皇族が史上初太上天皇尊号を拝受した承久3年(1221)の後高倉院(高倉皇子守貞親王)の先例に拠って、太上天皇尊号を拝受する意向を奏上し、この一点突破で、後小松崩後に猶子関係の実質解消を示唆したうえで、後花園登極を正統たる崇光院流の再興と位置づけたい旨を記述している。

  足利義教が伏見宮に好意的で自信を持たれたのか、親王は正統再興のため後花園元服前の永享3年7月に太上天皇尊号が勅定されるよう神仏への祈願を開始している。

  まず後深草院聖忌に後深草院宸筆法華経を長講堂に奉納した。本気だ。嫡流はこちらだと主張しているのも同然で、上皇のお耳には絶対に入らぬよう隠密に事を運んだ。

翌月、石清水八幡宮に鹿毛の馬と和歌を添えた願文を奉納した[横井清2002 313頁以下][秦野裕介2020]。

和歌三首

「いにしへのためしあればと 祈るてふ 我が理を 神は知るらむ」

「君が代に遭ふは嬉しき 老いが身に のこる望みを 哀れとも知れ」

「吾れ人の数ならずとも 男山 さか行く末を 守らざらめや」

 このほか石山寺詣でも祈願し、長谷寺には庭田三位に願書を託した。

伏見宮がこれほど尊号勅定にこだわったのは、後花園天皇の皇統属性を決するからである。

例えば光仁実父の志貴皇子は叙位もなかった皇族だが、薨去の54後に追尊して春日宮御宇天皇号を受けた。桓武天皇は延暦12年平安京遷都の報告を山階(天智)、後田原(光仁)、先田原(春日宮御宇天皇)山陵に行っており[利行榧美2006]、天武系の聖武は排除され、天武より天智皇統への交替は、祖父が追尊天皇(志貴皇子)であることにより明確になったということである。『椿葉記』は追尊天皇ではなく、生前の太上天皇尊号拝受を望むものである。

  一方、朝廷では伏見宮が尊号を望み皇統の付け替えを画策していることはおそらく察知されていたのだろう。

 永享5年(1433)後小松院崩御。御遺詔は、伏見宮を仙洞御所に移徙させてはならない。伏見宮に尊号宣下してはならない。追号は後小松院とするの三点で、後光厳院流皇統の万歳継帝を望む趣旨であった[村田正志 (1983初出1944)]後小松遺詔遵守派の三宝院満済、一条兼良らは諒闇を主張し、伏見宮贔屓の足利義教と二条持基らは反対して籤引きに持ち込んだが、2対1で諒闇に決した。

 しかし公家の家領を安堵する朝廷の実権者でもある左大臣足利義教は、後小松院仙洞御所を破却し、永享7年主要な寝殿・対屋等を移築して一条東洞院伏見殿御所を造営、御遺詔は事実上反故にされたともいえる。伏見宮が伏見より洛中に移徙され中央政界に復帰し、威信は高まった。伏見宮は永享8年報謝として京極流の勅撰和歌集『玉葉集』正本を義教に贈っている[末柄豊 2011]。また仙洞御所跡地は伏見宮領となった。

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 ところが後花園は実父の要望を黙殺し続けた。この後、後花園親政で嘉吉の変、禁闕の変を乗り切った後、文安4年(1447)11月になって道欽入道親王(伏見宮貞成)はやっと太上天皇尊号宣下を拝受することができた。

 時に77歳。後小松崩御から14年はあまりにも待たされ過ぎである。万里小路時房のような強硬に反対する公家の存在もあったが、なによりも後花園天皇が後小松院を慕っていて[秦野裕介2020]、国を譲られた重恩により御遺詔を重んじたゆえ、尊号宣下には慎重だったと推測されている。

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2 実父でなく兄とされた太上天皇尊号宣下詔書と皇統問題

 帝に非ざる皇族の太上天皇尊号宣下は当時の認識では(後高倉、後亀山)に続いて3例めであるが、結果的に万里小路時房が後高倉の例と同族への厚意としての後亀山の例(明徳5年1394)の中間の位置づけなら反対しないと折り合ったので実現した(朝廷は南朝を公式に認めていないので、後亀山の尊号は不登極帝の特例としての扱い、南朝による正平の光明・崇光の扱いと同じ)。

 近年、文安4年の太上天皇尊号宣下の詔書が解明され、後崇光院は天皇の父ではなく傍親とされ、傍親への格別の厚意としての尊号宣下とし、この巧妙な術策により後小松院御遺詔との整合性が図られた。

 康正2年(1456)の後崇光院(伏見宮貞成)の葬礼で後花園天皇が錫紵装束であったのは「御兄弟分」としての特例であった[田村航2018]。

 貞成王は後小松上皇の猶子となって親王宣下を受けており、それゆえ「兄」にあたるとされたのである。従って天皇家とは、猶子という親子関係の擬制による継承も含む、後光厳院流の直系の皇統なのであり、18世紀後半の光格天皇も後桃園の養子とされたので、後光厳以降皇統転換はなされず直系継承なのである。そして伏見宮だけが崇光院流ということになり、通説の天皇家も伏見宮も崇光院流とする村田説が否定され、皇統問題は決着したのである。

 結局『椿葉記』は天皇家を正統たる崇光院流とする目的で執筆されたが、そうならず、伏見宮家が永代存続する皇統上の格別の由緒として伝えられることになったといえる。

 後花園が後小松御遺詔を反故にしなかったのは、道義として当然だろう。実父は伏見宮であっても家督継承上の父は後小松院だからである。

 後世の尊号一件の松平定信の理屈と同じことである。天皇や皇太子は帝王学として学問(『孝経』四書五経、史書、漢詩文)や和歌の修養のほか管弦楽器の稽古を行うが、後花園は清原業忠に師事して永享11年『礼記』、嘉吉元年に『春秋左氏伝』を学び、「御利性、言語道断の御事なり」とその利発さを絶賛されている[菅原正子2014]。

 近年では後花園天皇は、「ずば抜けて高い君主の資質」「日本を往古から理想とした、《礼》をよく実践する国に脱皮させた」 [桃崎有一郎 2020] と歴史家の評価が高い。近来の英主たる所以である。

 ただし、後小松院御遺詔を重んじたことは伏見宮を蔑ろにしたわけではないのである。例えば、寛正3年(1462)皇儲に確定した皇子成仁王(後土御門)を説諭する『後花園院御消息』でことに伏見殿(貞常親王)に対して敬意を表することを説き [田村航 2020]、応仁元年(1467)7月後花園上皇は、関白再補の一条兼良と式部卿伏見宮貞常親王を勅使として、応仁の乱の調停のため幕府に派遣した [田村航 2013]。

 むしろ後花園より親崇光院流とみなされているのが、伏見宮家で養育された後土御門天皇である。伏見宮や竹園連枝(伏見宮の実弟、宮門跡、禅僧)は宮廷の文芸、遊戯、遊興的行事の多くに召され参仕しており、例えば長享3年3月5日5の庚申和歌御会は、皇族だけの内々の徹夜行事で、天皇、勝仁親王(後柏原)、伏見宮邦高親王、道永法親王、常信法親王、宗山等貴といった天皇家と伏見宮、竹園連枝が約60首を詠じている[朝倉尚 1990]。後土御門が和漢連句文芸を好んだのも伏見宮家で養育された影響だった[小山順子2021]。後土御門は伏見指月に般舟三昧院を建立し、後光厳院流の泉涌寺に対抗した天皇家の第二の御寺になった[久水俊和, 2020b] [秦野裕介, YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」, 2020] [川上貢(1960)][伊藤唯真(1982)]。

 般舟三昧院の建立は、伏見宮家の菩提寺大光明寺と近接しているのだから、明らかに親伏見宮を意味する。

 後柏原天皇も御生母が庭田家で外戚が伏見宮と共通したことからやはり伏見宮や連枝と親しく、後柏原、後奈良は先帝の中陰仏事を般舟三昧院としていることなどから、少なくともこの三代の天皇は親崇光院流なので皇統問題はそのような意味でなお検討の余地を残してはいるとはいえる。

 

2 後崇光院は本格的な太上天皇であり伏見宮の威信を高めた

 名目上、実父でなく兄弟分で直系尊属にされなかったが、太上天皇尊号拝受は明らかに伏見宮の威信を高めたのである。当時旧三条実量邸が仙洞仮御所(最晩年に一条東洞院伏見殿御所に還御)であるが、御所の室礼と扈従公卿の行粧が整えられ、後崇光は繧繝畳に着座し、晴儀で公事が執行された[久水俊和 2020a]。

 文安5年より元旦には「院拝礼事」が毎年行われ、関白一条兼良、五摂家の近衛教基以下、公家衆より拝賀を受けた。正月十日の将軍足利義政の「院参」も恒例行事として定着するようになった。同時代人より「仙洞」「法皇」「院御所」と称され[田村航2018]、正真正銘の至尊たる太上天皇であった。

 院拝礼事で関白以下の拝賀を受けたことは、伏見宮が別格の宮家となった理由の一つだろう。

 康正2年(1459)後崇光院崩後、伏見宮家の所伝によれば、第4代伏見宮二品式部卿貞常親王に「永代伏見殿御所」号、後崇光院の紋の使用、牛車による参内が勅許された。それはたんに、実弟ゆえの厚遇ではなく、崇光院流=伏見宮は、格別の由緒と嫡流の流儀を継承している正当性ゆえとみてよいと思われる。

 久水俊和[2020a]によれば「崇光院流の流儀は王家のなかでは別格であり」、伏見宮家は「崇光院流の正当性を担保し」「皇位継承への一縷の望みを遺す世襲親王家に転成した」、「別格の宮家」「准天皇家」とされる  。伏見宮は完全なる傍流化を回避されたということを言っている。

 4代貞常親王の元服加冠役は関白二条持基で後花園天皇と同じ。5代邦高親王の元服加冠役は准后前左大臣足利義政で後年の後柏原天皇(勝仁親王)と同じで将軍家が後見者とされた[小倉慈司2010]。

 この後、伏見宮は、天皇家と血縁的に疎隔しても親王家としてのステイタスは劣化せず、皇親の身分からフェードアウトしない自立した世襲親王家という特別のステイタスを獲得した。

 第3代の後崇光院太上天皇(貞成親王)以来第22・24代貞愛親王(崇光15世王・元帥陸軍大将)まで、歴代当主は親王宣下を受けている。

 明治22年の皇室典範で世襲親王制度は廃止され、第25代伏見宮博恭王(元帥海軍大将・軍令部総長)以降、伏見宮は王号を称するが、昭和22年に第26代博明王(崇光18世王)が皇籍を離脱するまで、流祖崇光院崩御より約550年、式部卿や中務卿等に任用され、しかも他流を交えず(例外、桃園皇子17代貞行親王)、実系継承で皇族の崇班を継承した意義は甚大である。

 

(三)伏見宮の永続性には合法的な根拠がある

 中世皇統である伏見宮に永続性の由緒があることを強調したるい。柱は次の3点である

 

1 応永23年後小松上皇より室町院領永代安堵の勅裁

 伏見宮初代栄仁親王は、室町院領(後高倉皇統追善仏事料所荘園群-萩原宮遺領)について応永23年(1416)に後小松上皇より「永代」安堵の院宣を得ている。これは白根陽子[ 2018]の専論で詳しく研究さ れている。『看聞御記』応永23・9・3条によれば「室町院領永代可有御管領之由載勅裁(中略)殊更永代字被載之条、御本望満足珍重也」。永代安堵については、植田真平・大澤 泉[2015]が『看聞御記』のほか『後小松院御消息類』、後小松上皇書状案 図書寮文庫所蔵 伏-七九四 『後崇光院御文類』栄仁親王書状案 図書寮文庫所蔵 伏-七六五を史料として参照指示している。

 伏見宮家は、皇室領の一部を治天の君により永代安堵されたのだから、この由緒を重んじ、政府は伏見宮に永代存続の意義を認めるべきだ。

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2 『椿葉記』の伏見宮家当主を永代天皇の猶子となし奉る構想の奏上

 『椿葉記』(著者・道欽入道親王=伏見宮貞成)は、後光厳院流天皇家も崇光院流伏見宮も実系では崇光院流一統になったのだから、過去のように不仲となることなく親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉るべきことを実父からの要望として奏上している[村田正志 1984初刊1954]。これは、伏見宮を世襲親王家とする構想である[小川剛生2009][田村航 2018]。

『椿葉記』は朝廷が公認した歴史書でないが、至尊たる太上天皇になられた方の著作である以上、政府は『椿葉記』の由緒に基づく伏見宮の永続性を認めるべきだ。

 

3 康正2年の後花園天皇より「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝

 康正2年10月(1456)の伏見宮系譜「貞常親王御記」の伏見宮第4代二品式部卿貞常親王が、後花園天皇より「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝は、裏付ける史料がなく慎重に扱うが、この意味は世襲親王家の公認であり、近年これを伏見宮家の「永世」にわたる存続を約されたものとして、あるいは、②の実父の意向に天皇が応えたものとして、積極的に評価する歴史家が多い[ix]。それは当時、世襲親王家が成立する客観的条件が整っており辻褄が合うからである。天皇や上皇の猶子という親子関係の擬制により、准的に皇子に准じた礼遇とされることにより、五世王、六世王の親王宣下が15世紀に慣例化(合法化と言ってもよい-図表「五世王、六世王の親王宣下」参照)されたことにより皇親概念に世数制限が事実上なくなったことがある[松薗斉2010][x]

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(大覚寺統系図)

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 令制では五世王、六世王は不課の特典が認められていたが、継嗣令皇兄弟条の原意では皇親の範疇にはない。にもかかわらず、親王宣下された。

 従って、仮に「永世伏見殿御所」勅許の所伝を疑うとしても、伏見宮家は永続性のある世襲親王家であることが事実上公認されていたことに変わりないし、それは15世紀に天皇や上皇の猶子と親子関係の擬制により血縁の疎隔を穴埋めして、しかるべき皇統の御子孫ならば世数制限を問題にしなくなった歴史的経緯により、合法的な制度として説明できる。

 それゆえ550年間、皇族の崇班を継承し、皇統嫡系の後光厳院流天皇家と併存してきた。

 

(四)幕末維新期以降 伏見宮系皇族の繁栄の意味

 幕末維新期に、皇室の脱仏教化がトレンドとなって伏見宮系の門跡が続々と還俗、宮家が創設された。勧修寺門跡だった山階宮晃親王が元来仏教に批判的で、文久以降慶応年間にかけて、島津久光らに対して宮門跡の還俗を主張し、皇族の出家や門跡寺院の制度そのものの廃止を盛んに訴えていた[藤田大誠2006]。   明治元年には皇族の出家が禁止された。晃親王は律令体制を理想としており、還俗を促した目的は、皇族を政治勢力として成長させることにあったという見方がある[熊野秀一2014]。

 院政期以降、大多数の皇子は入寺得度して法親王もしくは入道親王となった。そもそも法親王は院権力による顕密仏教統制を目的として白河院によって創出された制度とされるが、天皇の周囲に配置され、法力によって王権を護持する。門跡寺院には寺領が付随しており、宮門跡は寺領経営体トップの一代皇族である。

 16世紀初頭において、宮門跡や比丘尼御所は、摂家・清華家と同じく「勅問の輩」にあたり、天皇の国家意志決定過程において、天皇から勅問衆として選択されて意見具申を求められた特権公家層との位置づけがなされ、門跡領は広義の禁裏御料として保護された[井原今朝男 2014]。

 15世紀以降、天皇家に皇子が少ない時期がしばしばあって、世襲宮家が宮門跡に入室する人材を供給した。伏見宮家では15世紀から19世紀まで宮門跡を多数輩出した実績が認められる。

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 東山時代に御室は木寺宮出身だが、梶井、上乗院(仁和寺脇門跡)、勧修寺、妙法院、竹内(曼殊院)、聖護院が伏見宮邦高親王の実弟で占められていた。道永法親王(仁和寺脇門跡)や常信法親王(勧修寺門跡)が後土御門天皇の宮廷で文芸、遊戯的行事に参仕している[朝倉尚 1990]。

 天正15年の秀吉の関白就任時は、御室、青蓮院、妙法院、梶井が伏見宮出身者で占めていた。幕末期も伏見宮系の門跡が多かった時期にあたる。

 近世門跡の研究では、宮門跡の実父や養父にあたる天皇家や親王家は門跡の運営にも関与し、門跡寺院組織構成員が親王家当主に伺いを立て、門跡は皇室や宮家の統制を受けていた。

 したがって、幕末維新期に在俗親王家が多数創立されたことは、明治になって突然伏見宮系皇族が増えたというわけではない。時代によっては伏見宮連枝が法親王として多くを占めていたわけである。

 幕末期に青蓮院門跡であった中川宮(文久3/1863、その後賀陽宮、久邇宮)、勧修寺門跡であった山階宮(文久4/1864)、30世御室仁和寺宮(慶応2年/その後、東伏見宮、小松宮と改称)が還俗。

 王政復古を契機に慶応4年(明治元年/1868)に聖護院宮(慶応 4年 8 月に嘉言親王の薨去により消滅)、知恩院門跡より華頂宮、梶井門跡より梶井宮(その後、梨本宮と改称)、聖護院に入寺した信仁入道親王が照高院宮(その後、聖護院宮、北白川宮を改称)としてそれぞれ還俗して創立され、明治4年に三宝院門跡から還俗した伏見宮出身の載仁親王が継嗣のない世襲親王家、閑院宮家を継承し、明治14年(1881)に東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)が世襲親王家に格上げされ、永代存続する伏見宮系の世襲親王家は三家となっている。山階宮と久邇宮は二代皇族とされ、華頂宮は特旨により、梨本宮は養子によって、北白川宮も兄の能久親王が後嗣となって宮家が継承され存続、さらに明治皇室典範により永世皇族制を前提として存続することとなった。

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 ここでは、久邇宮、山階宮、小松宮、北白川宮創立等の経緯を記す。

〇久邇宮

 幕末期の最初の還俗の例は、青蓮院門跡だった中川宮朝彦親王(伏見宮邦家親王第4王子、その後、一会桑政権と連携していた時期に賀陽宮と改称、一時宮号の停止後、久邇宮と称する。)であるが、文久2年還俗以前に国事御用掛に任命されており、文久3年(1863年)一橋慶喜の建白により還俗し、公武合体(親幕)派として、同年の8月18日の政変(尊皇攘夷過激派を京都から追放した)で宮廷を動かし、孝明天皇、慶喜を陰で支えるなど大きな影響力があった[徳田武2011]。

 しかし第二次長州征伐失敗で失脚状態になり、尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ、明治元年には親王位を剥奪されるが、明治8年に久邇宮として復位。京都のかつて親子内親王所有だった下立売門内の土地を宮邸とする。伊勢神宮の祭主に就任、明治15年に神宮皇學館を設置した。

 梨本宮守正王、皇室典範以降創立の賀陽宮、朝香宮、東久邇宮は久邇宮朝彦親王の御子孫である。

〇山階宮

 勧修寺門跡だった山階宮晃親王(伏見宮邦家親王第一王子)の還俗は、雄藩が朝廷改革を志向し、提携できる皇族とみなされたためで、一橋慶喜、松平慶永、松平容保、伊達宗城、島津久光の連署による願出による。孝明天皇が不快感を抱いたため朝廷の抵抗があったが、薩摩藩が主体となった運動により還俗の道が開かれた。

 慶応元年以降は、幕府と結びついた中川宮や二条斉敬の朝廷主流派に対抗し、正親町三条実愛ともに朝廷内の王政復古派を形成、孝明天皇により国事御用掛を罷免、蟄居に追い込まれたが、孝明天皇崩御で復権した[高久嶺之介1981、熊野秀一2014]。王政復古後、議定・外国事務総督に就き、明治政府の外交トップとなった。

〇小松宮

 嘉彰親王は、邦家親王の第8王子で仁和寺門跡から還俗し、仁和寺宮→東伏見宮→小松宮彰仁親王と改め、明治新政府議定、軍事総裁、奥羽征討総督等の維新以来の功労が認められ、明治14年に家格を世襲親王家に改められる。明治23年陸軍大将、31年元帥。36年薨去、国葬を賜る。

〇北白川宮

 邦家親王第13王子の初代智成親王は17歳で明治5年に薨去。邦家親王の第9王子の兄能久王を後嗣と遺言した。第2代北白川宮能久王とは輪王寺宮門跡公現入道親王であった。戊辰戦争で奥羽列藩同盟の盟主として擁立され「東武天皇」だったという説がある。仙台藩が降伏し新政府により処分を受け親王位を解かれていた。明治11年親王位に復位、日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、明治28年現地でマラリアに罹り薨去。国葬を賜る。

 竹田宮は能久親王の御子孫である。

 次代の北白川宮成久王はフランスの陸軍士官学校に留学、大正12年パリ郊外の自動車事故により35歳で薨去。3代北白川宮永久王は日華事変に出征、昭和15年蒙疆方面で演習中、軍用機の不時着事故のため31歳で薨去[中島武1942]。

 明治期の伏見宮系皇族の繁栄は、一品式部卿伏見宮邦家親王が子だくさんのうえ、無事に成人した男子が比較的多かったことによるが、それは伏見宮家が特別のステイタスにより実系で継承されてきたためであり、15世紀以降、天皇家の皇子が少ない時期に伏見宮が宮門跡となる人材を輩出してきた実績の延長線上にある。後崇光院太上天皇が親王時代に『椿葉記』で伏見宮家の世襲親王家構想を奏上した意義は大きかったし、石清水八幡宮などに崇光院流が正統だとして永続を祈願したことがかなり効いているというほかないだろう。

 一方天皇家は桜町天皇から明治天皇まで七代の男帝は、皇子が比較的少ないだけでなく、無事に成長した皇子が極端に少なかった。対照的といえるだろう。実績からして伏見宮御一流の復籍が安全安心なのである。

 〇桂宮家の途絶

 伏見宮に次いで古い八条宮の系譜の桂宮は霊元皇子の京極宮が実系三代で途絶し、光格皇子の盛仁親王が空主だった京極宮を相続、桂宮として幕府より三千石余の世襲親王家では最大の知行が認められたが2歳で夭折、空主の後、仁孝皇子の節仁親王が相続したが4歳で夭折されたので長期にわたって空主だった。文久2年に桂宮の諸大夫より閑院宮愛仁親王と婚約したが親王の早世で結婚できず住居を転々としていた仁孝皇女淑子内親王の相続を願出があり、幕府が承認したため、異例だが淑子内親王が相続、但し非婚であるため明治14年薨去により桂宮は途絶している。

 

 〇有栖川宮家の途絶

 有栖川宮家は、霊元皇子職仁親王より5世代6代、実系で継承されていたが、明治41年に嗣子栽仁王薨去で継嗣がなく、皇室典範で養子相続が否定されたため宮家の断絶が確定、威仁親王妃薨去の大正13年で正式に絶家となる。祭祀は高松宮が承継、有栖川宮家の良質の蔵書は高松宮親王妃により国に寄贈され、現在高松宮伝来禁裏本として国立民俗博物館が管理している。

 閑院宮家は初代東山皇子直仁親王より5代愛仁親王まで実系で継承されたが、愛仁親王が嗣子なく早世、従来宮家の血筋が中切れになった場合、相続できるのは皇子に限られ、伏見宮家出身者が相続することはなかった。しかし皇子がいないので、明治4年に邦家親王第16皇子載仁親王が相続したので血筋は伏見宮系になっている。したがって有栖川宮家が絶家となった後、皇室典範のもとで存続する宮家は、大正天皇の直宮のほかはすべて伏見宮系となった。

 

(京極宮/桂宮、有栖川宮、閑院宮系図)

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(五)旧皇室典範の問題点

1 世襲親王家の廃止

 明治22年(1889)旧皇室典範によって、歴代が天皇の猶子という親子関係の擬制により、血縁が疎隔しても皇子に准じた礼遇として親王宣下を受ける世襲親王家は廃止されることとなり宮家の格差をなくし、養子相続も否定されることになった。伏見宮、閑院宮が親王号でなく王号を称するようにしたのは明らかに格下げといえる。

 つまり、令制では親王家には親王庁(政所)が附属し廷臣を従える格別の待遇だった。『江家次第』などによれば、公卿のうちから勅別当が指名され、家司・御監・職事・侍者・蔵人が補された。応安元年(1368)栄仁親王(伏見宮初代)の親王宣下では本所の儀という親王庁の構成員を任命する、王朝時代の習わしがまだ行われていた[小川剛生 2009]。それだけ格式のある親王家が500年以上続いてきた(例外第2代治仁王)伏見宮がたんに王号を称することになったのは明らかに格下げである。

 とはいえ旧皇室典範31条は「永世皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」とされ実系で男子が続く限り永世皇族制とされたのであり、当時、実子のなかった小松宮も含めれば、伏見宮系7つの宮家が永世皇族制のもとに存続することとなった。

 世襲親王家の制度は否定されたが、伏見宮系7家のうち6家は男子が続くかぎり存続することとなったことは一応良しとしてもよいだろう。

 ただし、皇室典範起草の過程で皇族永世主義とされるまで以下のような紆余曲折があった。内規規取調所案は世襲親王家を廃止し世数制限するものとしていたが、井上毅は親王宣下と天皇の養子廃止に反対し、世襲親王家は「継嗣を広め、皇基を固くする」ものとしてその存続を主張した。また、欧州諸国では王族の子孫はいつまでも王族で人民に降ることはないとしてプロイセンの王家の2分家の例をあげ、両家は家格も王家と同じで世襲親王家に相似しているとして、世襲親王家廃止に疑義を呈したが、柳原前光が世襲親王家について封建時代の因習という否定的な評価をとったがゆえに廃止した「山田敏之2018]。

 さらに、柳原前光は、伏見宮の血統が皇位から遠く、五世以下の皇族は皇系疎遠なるものから逓次降下させる案を伊藤博文に問い、伊藤の賛成を得た。

 柳原の見解は伏見宮の由緒を無視している。先祖の柳原資明は観応擾乱後の崇光上皇の別当として仕えていたのに。

 井上毅は、五世以下を皇族としないのならば継体天皇の継承に差支えを生じるなどとして反論したという。

 ところが、枢密院諮詢案では、伊藤博文により五世以下の皇族を臣籍降下可能として、疎遠の皇族より適用するという臣籍降下規定が削除され、永世皇族主義が適用されていた。枢密院に諮詢される前に突然、方針が変更されたのだ。

最終的には皇室繁栄のために井上毅や宮内書記官の三宮義胤が言及していた永世皇族主義となったのである[西川誠2019]。

 

2 小松宮と華頂宮の養嗣子の臣籍降下

 明治36年の小松宮彰仁親王薨去の際、養子であった弟の依仁親王の継嗣が停止された。養子相続が皇室典範で否定されたからである。小松宮は一代で断絶したが、依仁親王は新たに東伏見宮家を創設する。これは小松宮の旧宮号である。小松宮家の祭祀を承継したのは北白川宮能久親王第4王子輝久王で臣籍降下し小松侯爵となる。

 また華頂宮家は、明治16年第2代博厚王が8歳で薨ぜられたため、伏見宮貞愛親王の庶子博恭王が華頂宮を相続したが、明治37年伏見宮家の嫡子邦芳王が不治の病を理由とした請願により廃嫡とされたため、博恭王は伏見宮家に復帰した。このため第4代華頂宮は勅命により博恭王の第二王子博忠王が入った。しかし博忠王は大正13年嗣子なく23歳で薨ぜられたで、華頂宮家は絶家となったが、博恭王の第三王子で博忠王の実弟博信王が、祭祀を承継し臣籍降下し華頂侯爵となる。

 実弟の養嗣子さえ認めていれば華頂宮は存続できたのである。

 

3 明治25~39年創設の5宮家と明治40年皇室典範増補

 

 とはいえ皇室典範施行以後も伏見宮系宮家は増加した。賀陽宮邦憲王(明治25年)は、久邇宮の家督を継承する予定だったが、病身のため弟の邦彦王に家督を譲り、病状が回復し、久邇宮邦彦王が伊藤博文と明治天皇に情願して宮家が創立された。賀陽宮は、朝彦親王が一会桑政権と連携した時期に称した宮号である。東伏見宮(明治36年)は小松宮の継嗣を停止して創立した。明治39年には三家が創立、竹田宮、朝香宮、東久邇宮であるが、図表のとおり明治天皇の皇女が嫁している。いずれも永世皇族制のもとで創立された。伏見宮系は12宮家となったのである。

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   しかし明治40年以降は伏見宮系の宮家は増加しなくなった。

 明治40年皇室典範増補第一条により、王(旧皇室典範では5世王以降)ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシとされた。

 大正9年以降宮家の次男以下の男子は情願により臣籍降下が慣例となったため、この後、伏見宮系の宮家は減少(大正13年に華頂宮が絶家)することはあっても創設されなくなった。

 皇室典範以降の問題点は、永世皇族制となったとはいえ世襲親王家が廃止され、天皇の猶子という親子関係の擬制により血縁の疎隔を埋め合わせする准的な制度、それは中世公家法の法技術により正当であるのそれを排したこと。それは、『椿葉記』天皇家と伏見宮は親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉るべきことした由緒を顧みなかったことの問題がある。

 後崇光院が「始終御猶子」というのは、永代親王家ということで、この由緒を無視してしまったことは非常にまずかったと思う

六)大正9年の永世皇族制放棄政策の問題点

 さらに問題は、第一次大戦後に永世皇族制を見直し、皇族は世数制限とし、伏見宮系の永世存続をみとめず、排除していく動きが加速したことである。

 大正9年に大正天皇が裁可した「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」であるが、公示されず、報道もされていないため、近年までよく知られてなかった。平成12年の書陵部紀要【資料紹介】『倉富勇三郎日記』「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」関係抄録(大正8年)」(オープンアクセス)以降議論になった事柄である。ここでは永井和[2012]と浅見雅男[2016]を引用してその経緯を説示する。

 それは帝室制度審議会で大正 8(1919)年 1 月より「皇族処分内規案」の検討が開始され、委員の伊東巳代治、平沼騏一郎、岡野敬次郎が世数制限により永世皇族制を放棄し、事実上伏見宮系皇族を整理する方針を打ち出した。

  大正9年2月までに宮内省との合意により「皇族ノ降下ニ関スル内規」は成立し、2月末大正天皇に上奏、3月3日枢密院に諮詢、審査委員会で若干修正され「皇族ノ降下ニ関スル準則」となり、3月17日の枢密院本会議で満場一致で可決、皇族会議を経て制定されることとなった。

  これは、皇族の範疇を次男系統は四世孫まで、長子孫系系統でも八世孫までに世数制限することとしたもので、建前上、大正天皇の直宮も永世皇族にはしていないが、実質伏見宮系をターゲットとして皇族を整理する案である。

  伏見宮系は、後伏見15世孫(崇光13世)邦家親王を四世孫として計算し、次男以降は多嘉王と邦芳王を例外として原則臣籍降下、長子孫系も邦家親王から四世孫まで臣籍降下とすること原則としている。当時の当主より2~3世代を経て臣籍降下し、宮家を消滅させることを原則とするものである。

 「準則」が長子孫系統で皇族の身位の維持を保証しているのは、伏見宮家が博明王まで、久邇宮家は邦昭王まで、賀陽宮は邦寿王まで、北白川宮家は道久王まで、竹田宮家は恒正王まで、朝香宮は誠彦王まで、東久邇宮は信彦王までで、次の世代は家名を賜り華族に列することを原則としている(なお伏見博明氏は御高齢であるが、令和4年に著書を出版され、読売テレビインタビューにも出演されており、仮に「準則」が適用されたとしても伏見宮家は今日まで存続していたとはいえる)。

  当時の皇室会議員は成年男子皇族15方であるが、皇太子裕仁親王以外は伏見宮系皇族である。

  皇族会議の議案は天皇が下付したものであり、通常は何の異論もなく承認されるのが慣例であった。元老や宮内省にとって異論が噴出するなどあってはならないことだった。

  しかし、久邇宮邦彦王、伏見宮継嗣博恭王、博義王、朝香宮鳩彦王といった反対派皇族の存在があり、不穏な情勢により、4月9日の会議は中止延期された。その後、宮内省の把握では5月6日の時点で、少なくとも五方が反対で、態度不明の御一方は反対が予想され、仮に皇太子が賛成としても6対6で可決の見通しが立たない状況となり、枢密院議長の山縣有朋は反対派の中心となっていた久邇宮邦彦王を訪ね説得にあたった。

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  当時大正天皇の皇子四方が無事に成長されているが、邦彦王は、「準則の通りにては皇統の断絶する懸念あり」と言い、山縣は「皇統の断絶等を云々せらるるは、畢竟杞憂に過ぎす‥‥若し皇族にて此案に反対せられたりと云ふ如き事か世間に分かる様になりては、皇族自身の不徳のみならす、皇室の不徳ともなる‥‥」と述べたが、久邇宮は説得に応じなかった。

  事態の収拾に動いたのは北白川宮成久王だった。各宮を訪問し、議決しないで天皇に奏上することで皇族間の合意を得たという。但し反対派から条件があり、質問と反対意見は自由に述べることを保証するというもので、波多野宮相と交渉し、宮内省側はこの妥協案を受け容れた。

  5月15日の皇室会議では、大正天皇は臨席せず、議長は伏見宮貞愛親王で、図表のとおり16方が出席し、1時間ほどの皇室会議員の主な発言は以下のとおり。

北白川宮成久王「現時民心動揺の際、皇族降下の如き処分を為すは一層民心の動揺を誘発する恐なきや」

久邇宮邦彦王「本案の施行は皇統断絶の懸念あり」

朝香宮鳩彦王「準則は典範増補に矛盾するの疑あり」

博恭王「増補には華族に列せしむることあるへしとあるに、準則には華族に列すと決定的の辞を用ゐ在り。何の為めなるや」

  質問に対する返答が終わると、議長(伏見宮貞愛親王)より本案に対する各員の意見を問うたところ、打ち合わせどおり閑院宮載仁親王が「本案は皇族会議員各自の利害に関係するを以て自分は表決せさる旨」を述べ、成久王が賛成を表した。それに対して博恭王、邦彦王はこれに反対して質問した。波多野宮相が「皇族会議員が多数にて表決を避けることを決められるのであれば、宮内大臣としては異議は唱えることはいたしません」と返答し、そこで議長は、載仁親王の意見に対し反対の論がないので、皇族会議はこの件については表決しないことに決すと宣言し、閉会を告げた。

  皇族会議は議決を回避したが、「施行準則」そのものは、大正天皇の裁可を受けた。

 しかし会議の数日後、波多野敬直宮相は「皇族会議にて議すへき事項なりとして御諮詢を奏請したるに、皇族会議にて議決せさることゝなりたるは、取調不行届の結果にて、恐懼に堪へす」という趣旨の待罪書を大正天皇に提出した。これは却下されたが、6月16日波多野宮内大臣は皇室会議での不首尾の責任をとって辞職する。

  皇室会議は秘密会であったため、新聞報道は仄聞として大筋の事実を伝えたが正確ではなかった。読売新聞では皇室典範増補の内規で王の第二子以下の男子の臣籍降下が義務づけられたことに対し、皇族が反発し難航したことの責任をとったとされており、「施行準則」が12宮家は二~三世代を経て消滅することを原則としいていることを新聞は把握していないのである。国民はこの事実を知らなかった。

 「準則」が有効とする議論に正面から反論しているのが中川八洋氏で、宮内庁が平成12年(2000)に明らかにするまで「準則」なるものは一般に知られていなかった。2000年に宮内庁書陵部が『倉富勇三郎日記』編纂で偶然発見した形で表に出された。女性女系天皇準備の一環とみなされている。

 「準則」は邦彦王、鳩彦王、博恭王など多数が絶対反対で皇室会議は紛糾。実態として廃案であり、法手続き的には成立していないとされるのは、皇室会議令八条は「過半数によりこれを決す」と決議を絶対要件としているためである。波多野敬直宮内大臣が廃案なのに大正天皇の御裁可を頂いたのは大暴挙とされている。とはいえ公示されず、法律は効力を有しないともいう [中川八洋 2018]。

   したがって「大正天皇の御裁可」により永世皇族制は否定されていたというプロバガンダに惑わされる必要はないと思う[xi]

  世数制限は、令制の皇親制度の原意は四世王までが皇親で、五世王、六世王は不課の特典があるというものに倣った考え方だが、すでに述べたとおり15世紀に上皇や天皇の猶子という准的措置により令制では皇親の範疇にない五世王、六世王の親王宣下が合法化された(以降五世王以降が親王宣下を受けたのは、大覚寺統正統の木寺宮、亀山院遺詔により正嫡と定められた常磐井宮、後深草院流正嫡を自認した伏見宮と、近世以降の親王家、有栖川宮、閑院宮)。しかるべき王統なら世数制限に関係なく皇親としての身位からフェードアウトすることもない中世後期以降合法化された制度、公家法の展開からしてみれば永世皇族制を放棄したのは間違いだった考える。

 伏見宮は血筋のスペアとして創設されたの分家では全然ない。「準則」は、嫡流の財産の一部を維持し、嫡流の流儀を継承している格別の家筋として天皇家と併存してきた伏見宮御一流の矜持を無視している愚策である。

  但し、当時の伏見宮系皇族は、宮家消滅は不当、『椿葉記』の皇統上の格別の由緒や、永続が約された家系であるという、正面切った反論をしていない。

  それは、明治44年に南朝正統の勅裁があり、伏見宮の嚢祖である崇光院が、歴代天皇から外され、伏見宮は後伏見天皇の末流とされてしまったことの影響が大きいと考える。

 

(七)「準則」の背景として南朝正統史観の影響とその克服の方途

 南北朝正閏問題の経緯については複雑なので、オープンアクセスの千葉功[2019]講演や、それを解説する秦野裕介が講師をしているYouTube日本史オンライン講座「南北朝正閏問題 国定教科書は南北朝を認めるか」2022の参照指示するが、近年このテーマの研究はさかんである。千葉功講演等より主として依拠、引用等して大まかなところをいえば次のとおりである。

 明治43年(1910)喜田貞吉が編修する国定の教師用教科用図書が、宮内省が南北朝正閏を決定していない状況から、南北朝の対立につき軽重をつけない論旨となっていた。検定期の教科書は南朝を「正位」む、北朝を「閏位」と位置付けるのが一般的であったので、教育現場で反発があり、明治44年1月読売新聞が非難、2月藤沢元造代議士の質問は、政府側の説得で回避されたが、犬養毅が激烈な大逆事件と絡めて弾劾演説してこの問題を政争化した。激昂した山縣有朋が教科書改訂を断行しない桂太郎内閣の緩慢を非難、明治44年2月27日喜田定吉は休職処分となり[千葉功2019 ]、桂首相は南朝正統を閣議決定したうえ、2月28日明治天皇に歴代について上奏、仰裁、3月諮詢された枢密院も南朝正統の奉答書を可決した。

 明治44年(1911)3月3日の勅裁とは、天皇が内閣総理大臣からの上奏、枢密院からの奉答、宮内大臣からの上奏を容れる形で侍従長より「後醍醐天皇より後小松天皇に至る間の皇統は、後醍醐天皇・後村上天皇・後亀山天皇・後小松天皇なることを認定したまへる旨を内閣総理大臣並びに宮内大臣に達せしめたまふ」とされたことをいう。

 ただし宮内大臣が天皇に「北朝の天皇に対する宮中の取扱方」について伺ったところ、天皇は宮内大臣に「光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては尊崇の思召により尊号・御陵・御祭典等総て従来の儘たるべき旨を命じたまふ」とされた。

 ここまでが、第一次政治決着である。

 喜田貞吉・三上参次罷免後の教科用図書調査委員会では、南朝正統論者で占められていたが、「史実派」と「憲法派」が対立、委員長である加藤弘之、山川健次郎は「史実派」であり、「憲法派」穂積八束の「北朝を抹殺し、北朝天子を親王とすべし」という北朝抹殺論を排除した。

 ところが、小松原文相や桂内閣は、教科用図書調査委員会の総会決議を無視し、教科書改訂では、「光厳天皇」は「光厳院」、「光明天皇」は「光明院」と改め、略系図では、光厳・光明は親王、崇光・後光厳・後円融は王とされ、穂積八束の北朝抹殺論に沿った内容とした。これが第二次政治決着である。

 保守派の方々は憤慨されるかもしれないが、わたくしは伏見宮の由緒を語る以上、南朝正統史観はある程度価値相対化した立場をとりたい。

 北朝抹殺論は今日では不当のように思える。15年に及ぶ光厳院政における政務は活発で、院宣は350通が現存している[森茂暁2008]。

 院評定が開かれ、政務の中心となる文殿が整備され、公家法を完成させた暦応雑訴法が制定され、「公家政務の到達点」との意義が認められている [伊藤喜良 1997]。

 37

 

 大正、昭和期における北朝抹殺論の影響による伏見宮御一流のダメージは大きかった。つまり、皇統嫡系も神皇正統記では偽主とする光厳系であることは、伏見宮と同じことだが、後小松が後亀山より神器が譲渡され、歴代天皇とされているが、伏見宮の曩祖崇光院は、南朝より太上天皇尊号を受けてはいるが略系図では王で帝に非ざる皇族にされてしまったからである。

 書陵部にある伏見宮旧蔵本、嘉暦3年(1328)「御事書并目安案」は、後伏見上皇が、在位10年になっても後醍醐天皇が居座り続ける不当性を幕府に訴えたものであるが、「此の御方は遠くは神武天皇、近くは後深草院以降、皇統の嫡嗣として、両上皇は久しく姑射の洞を卜し、春宮は紹運の儲君にして、ともに長生殿にあり」[深津睦夫2014 13頁]という皇統の嫡嗣たる量仁親王(光厳)の即位促進を目的として、当代(後醍醐)は「一代の主」であると「定申」された身ではないか、中継ぎなのだから早々と退位すべきとしている[森茂暁2020,73頁]。いわば後醍醐の政敵であった。伏見宮御一流が後伏見末流とされたことは政敵の末流となり、ダメージが大きかったといえるのである。

 当時の南朝忠臣賛美一辺倒の時代にあっては、そもそも歴代天皇から外れた崇光院流を正統とする『椿葉記』などを理由として、伏見宮御一流の永続性を主張することは憚られる空気があったに違いないからである。

 とはいえ近世期の朝廷では、北朝方の後小松上皇が自らの系統の正統性を主張するため編纂された『本朝皇胤紹運録』(洞院満季編、応永33年1426成立)が勅撰の皇室系譜として宮中で重んじられ、公家の間では北朝正統論が絶対視されていた[森安雅子2011]。

 後村上天皇は親王(義良親王 陸奥太守、於南方稱君主、號後村上天皇云々)、後亀山天皇も諸王(熙成王 法名金剛心、自吉野降後、蒙太上天皇尊號、號後亀山院)、帝に非ざる皇親の扱いである。後亀山は帝に非ざる皇親として、同族への厚意として太上天皇尊号宣下された。

 朝廷は南朝を公認していない。桜町天皇の「享保二十年九月廿一日 人皇百十六代孫昭仁」という自署、光格天皇の寛政7年10月の阿弥陀経奥書に、「神武第百二十代兼仁合掌三礼」という自署は[藤田覚2011]、北朝を正統とした数え方である。

 しかし、幕末期以降南朝正統史観、水戸学の名分論史学の影響が大きくなった。

 そもそも水戸光圀が南朝を正統としたのは、家康が清和源氏新田流の由緒を主張したためであり、新田氏の初代義重の四男義季が得川郷に居住し、徳川氏の先祖とされていた。足利氏と雄を争って敗れた新田氏は「忠貞」ゆえに天祐を得て、家康の時代に幕府を創業したとされ、徳川氏の政治的覇権を正当化する企だてだった[兵藤裕己2018]。

 それが後期水戸学、藤田幽谷によって名分論的史学は思想的に転位する。18歳の若さで執筆した『正名論』(寛政3年1791)の神がかり的な文章により、天皇の権威が強調されたため、徳川氏の名分を介在する余地もなくしてしまった[兵藤裕己2018]。

 会沢正志斎の『新論』(文政8年1825)によれば足利時代とは「国体を欠くや甚だしき」時代であり、足利時代以降失われた「国体」を回復する運動が尊王攘夷だった[兵藤裕己2018]。

 王政復古とは、後醍醐天皇が企てた新政の再現であり、幕府どころか、摂政・関白等の公家の門流支配も廃してしまったところが革新的だったともいえる。

 南朝忠臣の顕彰運動が活発に行われ、鎌倉宮(明治2年)、湊川神社(明治5年)などの建武中興十五社が創建され、明治6年文部省編纂の『小学読本』巻四には楠木正成、正行父子の話が載せられた [兵藤裕己 2018]。明治後期には忠君愛国が国民道徳の基軸であり、南朝忠臣を臣民の鑑とする教育がなされていたことはいうまでもない。

 明治44年勅裁により南朝が正統とされ光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の北朝の天皇は歴代天皇から外された。尊号、御陵、御祭典は維持しつつも、現在の皇統譜においても光厳以下五代が歴代に数えられておらず、北朝天皇として別冊にまとめられているとことは今日も同じである。

 今日においても地方のお年寄で皇国史観を信奉する方々はおられる。しかし現代では南朝忠臣賛美はされてない。桜井の駅の別れは『太平記』の創作で史実ではないらしい。

 近年では明治44年南朝正統の勅裁は消極的同意だったという説[野村玄2019]もあり、この問題は容易に克服できる事柄である。

 いかに南朝正統史観と言っても、後南朝末流は15世紀に史料上消えている。北朝に帰属した亀山院系の常磐井宮は16世紀に消え、北朝帰属の大覚寺統正統の木寺宮は、近世初期まで末流が遠州で土着し存続していた可能性があるが、歴史上消えている。

 皇統は伏見宮系しかないわけであるから、旧宮家の末流の方々が復籍するのが筋である。

 伏見宮の由緒の研究が特に進んだのは、戦中の村田正志氏の業績以降だと思うが、平成時代に中世の音楽の研究が著しく進展した。これは岩佐美代子『校注文机談』(1989年)や、宮内庁書陵部『図書寮叢刊伏見宮旧蔵楽書集』(1989)の発刊など伏見宮旧蔵文書等基本資料が使いやすくなったためで、伏見宮に伝来した文書の書誌学的研究も成果がある。

 また近年『応仁の乱』が売れたために、室町時代ブームになり『看聞御記』など細かいエピソードまで詳しく研究されている。伏見宮の由緒を語る書物は続々と出版されている。実証的な史学にもとづいて伏見宮の由緒を重んじ再評価していくならば、当然、安定的な皇位継承のために、当然旧皇族の復籍が妥当という結論になる。

 八)宮家の数の適正規模

 伏見宮は中世皇統であるが、以上述べた皇統上の格別の由緒と歴史的脈絡から、国家的給付を受けて永続すべき権利性があるというべき。伏見宮と分家にあたる宮家は皇室典範によって格差がなくなったため、伏見宮の由緒は横並びになった御一流の方々の由緒でもあるから、皇籍復帰のために財政支出を惜しむ必要などない。

 応永23年(1416)伏見宮初代栄仁親王は後小松院より室町院領を永代安堵され、康正2年(1456)第4代二品式部卿貞常親王にの「永世伏見殿御所号」と後崇光院太上天皇の異紋の勅許、牛車による参内の勅許の所伝等により伏見宮は別格の宮家として永続が約されているので、当事者から仰らないとしても、永続を約されている由緒を政府は客観的に認めるべきである。

 宮家の数の適正規模については、中川八洋[1918]は皇統護持に必要な宮家14~15としている。明治39年の段階で皇太子を含め14宮家が存在していたことからのようだが、わたくしは別の観点で伏見宮系は4~12宮家復活、創設してよいと考える。

15世紀の伏見宮家の経済規模分を復活させる徳政と言う観点である。

1 5世紀中葉の伏見宮の家領[xii]の年収は二千貫相当で現金換算で約2億円相当[秦野裕介YouTube2022 55分過ぎ]に対して、禁裏御料は7億5千万円[xiii]と試算されているが、令和4年常陸宮家の皇族費が4575万円、三笠宮家が5856万円、高円宮家3690万円余と比較すると、一つの宮家で皇族三方だと五千万円以上になるから、15世紀の伏見宮の年収は、現代の宮家3~4家分の経済規模にすぎないとはいえる。

 しかし推定2億円というのはあくまでも実効知行地と足利義教の差配により永享8年以降伏見宮の権利となった年収五百貫以上あった「干鮭昆布公事」の上納金と旧仙洞御所跡地の地子収入の合計なので、名目上の家領は、不知行地も含めるとかなりの規模になるはず。

 伏見宮初代栄仁親王が、後小松上皇に、崇光院が秘蔵していた天皇の象徴たる累代御物に准じた「天下名物至極重宝」という名笛「柯亭」[xiv]を進献したことと引き換えに永代安堵された室町院領とはもともと百か所以上の巨大荘園群を両統で分割相続したもので[xv]、所領経営は安定していない時期もあったようだが、本来の経済規模はずっと大きい。

 不知行地の多かった播磨国衙領や不知行地の権利も含めると経済規模は数億円からもっとあるはず。また伏見宮家の財産には文庫の膨大な書物があった。「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]というのは言い過ぎではない。

 荘園公領制は秀吉が公家の家領と地子収入を収公して再給付したことにより中世の所領とは違うものになった。近世では知行充行権は江戸幕府にあり、知行は幕府の麾下にあった[山口和夫 2017]。伏見宮家領は表向き一千石実収四百石程度の近世領主にすぎないが、そこを見ていただけではだめだ。かつては後高倉皇統追善仏事料所荘園群とか後嵯峨院の御分国だった播磨国衙などの本物の皇室領を家領としていたというべらぼうな由緒のある伏見宮家が昭和22年まで存在していたのだ。秀吉や幕府に知行を充行われて創立された近世以降の宮家とは格式が違うのである。最低でも4家~12家の再興、創設が妥当という結論になる。現代における本領回復に相当する徳政があってよいと考えるものである。

 

[i] 同条は旧皇室典範44条を継受したものであり、皇室典範義解によれば「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨のものであって、相応正当な理由がある。

夫の身分に従うとは、夫と尊卑を同じくした同一の身分、夫が侯爵なら嫡妻も侯爵家の身分という意味であり、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすること。

[ii] 『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである[谷口やすよ1978]。

後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」『績漢書』禮儀志劉昭注引蔡質「立皇后儀」)という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた[保科季子2002]

夫婦は一体でなければならない。皇統譜と戸籍と別々は異常だ。

[iii]  男系主義については信用できる歴史家の著作から2件を引用する。

 吉田孝青山学院大学名誉教授(故人)[『歴史のなかの天皇』, 2006]が唐制との違いを説明している。

「唐制では『王・公・侯・伯・子・男』の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の『王』(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである。但し、『王』族の急増をもたらした。その結果、『賜姓』による臣籍降下が日常化し、『王』も『姓』の一種とみなされるようになる。」。

米田雄介(神戸女子大学教授、元宮内庁書陵部編修課長・正倉院事務所長)「皇親を娶った藤原氏」続日本紀研究会編『続日本紀の諸相』2004は継嗣令を男系主義と述べている。

 「継嗣令皇兄弟条 によると『凡皇兄弟皇子 皆為親王〔女帝子亦同〕以外並為諸王 自親王五世雖得王名 不在皇親之限』とあるように、『雖得王名 不在皇親之限』と規定されているから、皇親でない五世王は内親王との結婚は認められず、また一般の貴族官人らが皇親と婚姻することもできないのである。令意によると、婚姻は男系主義をとっており、親等の数え方も男系主義に基づくことはいうまでもない。‥‥‥しかし‥‥『女帝子亦同』とあることから、男帝・女帝の区別はなく、したがって男系・女系の区別がないと考えられるかもしれないが、もともとこの文言は日本令の元になった唐令にはみえず、大宝令の制定当時のわが国の現実を踏まえて挿入されたもので、本質的には男系主義であったと考えられる。 

 以下の言辞は皇位の男系継承を裏付けるともいえる。

 花園上皇の『誡太子書』に「 吾朝は皇胤一統なり」」 「異姓簒奪の恐無し」とある。洞院満季が後小松上皇の勅命を奉じ撰進した皇室の系図か『本朝皇胤紹運録』というように、皇位継承資格者は皇胤(男系)である。

 同趣旨の見解として『愚管抄』巻七に「日本ノ国ノナライハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国」「コノ日本国ハ、初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノマゝニテイカナル事イデクレドモ、ケフマデタガハズ‥‥」 [村井章介, 2005] 。神武天皇より王胤によって皇位が継承されてきた。自明の事柄である。

 『神皇正統記』は、「唯我国のみ天地ひらけし初より、今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓のなかにをきても、をのずと傍より伝給しすら、猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。」という。

 吉田定房奏状には「異朝は紹運の躰頗る中興多し。蓋し是れ異姓更に出ずる故のみ。本朝の刹利天祚一種なるが故に、陵遅日に甚だしく、中興期なし」 [村井章介, 2005] とある。異姓に帝位が継承されない天祚一種が日本であるとする。

 それゆえわが国の皇親とは、女系を排除した親族概念である宗、ローマ法のアグナチオに類比できる。ただし中国の宗法制度のような外婚制や昭穆制をともなわない。

 比較文化的にいうと男系継承についてはサリカ法のフランス王権の方が徹底している。フランスは女王や女子相続は不可。我が国は女帝が歴史上存在し、院政期より鎌倉時代において非婚内親王(女院)が膨大な御願寺領(皇室領荘園群)の本所であったことから、サリカ法との相違点がある。。

[iv] (継嗣令王娶親王条)

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。 従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は違法。

 ただし、日本紀略延暦12年(793)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得ることにより、規制緩和がなされているが、内親王と臣下の結婚は一貫して違法である[今江広道 1983][安田政彦 1998][栗原弘2002][米田雄介2014]。

[v] 文殊正子 1986 「『内親王』号について 『公主』号との比較 」古代文化 38(10)によれば中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した[中村みどり2014による文殊説の要約]。

[vi] ここに至る複雑な過程について、要点だけ記す。観応の擾乱の渦中、幕府が南朝に降伏する「正平一統」(観応2年11月/正平6/1351)があり、崇光天皇は在位3年で廃位、神器、壺切は南朝に接収されたが、光厳上皇に長講堂領等が従来どおり安堵され、光明・崇光は南朝より太上天皇尊号宣下を受けた。しかし宥和はみせかけで、翌年閏2月和睦は破綻し、南朝軍が京都に進攻、5月男山合戦で幕府軍は南朝軍を撃退したが、光厳・光明・崇光三上皇と皇太子花園皇子(光厳猶子)直仁親王が拘引され、八幡より河内国東条、さらに賀名生に連行された。

しかし、幕府は2歳の崇光皇子(栄仁-1351~1416伏見宮初代)と15歳崇光弟の芝宮(弥仁-後光厳)の身柄を確保しており、二条良基より新主を元服後の自立践祚とする提案があって、15歳の芝宮が新主とされ、二条良基を関白として北朝が再建された。

 問題は後光厳践祚(観応3年8月)が譲国の詔宣(太上天皇詔命)を受けておらず、群臣義立だけで正当化されたことである。当時、持明院統(王家)惣領光厳上皇は、南朝拠点で虜囚の身であったが、光厳院は後光厳践祚を「御時宜不快」して認めてないとする風聞が伝わっており、治天の君の代行とされた光厳生母の広義門院(西園寺寧子)は嫡流所領の支配権を後光厳に与えず、緊急避難の中継ぎの扱いだった[家永遵司2013、秦野裕介2021ab]。

譲国の詔宣がなくとも百官の推戴による正当な皇位継承ではある 。しかし太上天皇の譲りを受けてないのであるから、後深草院流の王家を継承していない。新しい皇統なのである。

  崇光上皇は、延文2年(正平13年-1358)河内国より伏見殿に還御なる。光厳法皇は深草金剛寿院に還御。廃太子直仁親王は法体で帰洛した。実は、光厳上皇は建武2年5月の春日大明神の神託により、康永2年(1343)の置文で花園皇子の直仁親王を正嫡とするトリッキーな皇位継承戦略をとり、崇光は当初中継の天皇として即位した[家永遵嗣2013][石原比伊呂2020]。しかし直仁親王が南朝により皇位継承を放棄させられたことにより、光厳長子である崇光が嫡流に転換したのである。

 

[vii] 光厳院は晩年の貞治2年(1363)の置文で、栄仁親王が践祚するか、両統迭立ならば崇光院流が長講堂領・法金剛院領を相続するが、そうでなければ後光厳天皇が相続するものとしたので、『椿葉記』では所領没収を正当なものとして認めている[飯倉晴武2000]。

但し、後述するように置文には崇光院流を正統とする記述があり、所領の没収は嫡流転換を意味せず、没収されても嫡流と主張できる。天皇家と伏見宮家が550年間併存したという理由の一つは、光厳院置文にもあったのである。

[viii] ちなみに『椿葉記』の書名の由来である「椿葉影再改」とは『和漢朗詠集』の大江朝綱の漢詩「早春内宴賦聖化万年春詩序」(承平2年932)より採られており、天子となって徳高く久しく栄えるだろうとの句である[秦野裕介2020]。大江朝綱自筆が残っていることはすごいことである。

[ix] 新田一郎2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社、田村航 2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)★、秦野裕介2020『乱世の天皇』東京堂出版225頁

後崇光院法皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」にある「永世伏見殿御所」号勅許という所伝(「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申‥‥」)について、その意味は伏見宮が世襲親王家として公式に認められたと解釈されているが、近年の研究者は(田村航など)後光厳院流と崇光院流を両立させ、伏見宮家の永続を約したものという積極的解釈がなされている点は注目してよい。

 ちなみに、勅使庭田長賢は伏見宮近臣でもあり、後柏原天皇生母の典侍庭田朝子の父である(贈内大臣)。

ただし、国文学系の小川剛生[2009]が、裏付ける史料がないことから慎重に扱いたいとしており、複数の史料がない以上史実と断定しにくい難点があるが、にもかかわらず歴史家が積極的に評価するのは理由がある。

 親王宣下は本来、治天の君の意向次第である。中世の常磐井宮や木寺宮は清華家が後見する格式の高い宮家で、断続的に親王宣下を受けているが、常磐井宮満仁王(亀山三世王)は後光厳天皇に親王宣下を奏請したが拒否され[松薗斉2010]、後に足利義満に取り入ることにより親王宣下を受けた。

 崇光三世王の貞成王は応永18年に40歳で元服、服装はそれまで「半尻」姿だった。応永32年父栄仁親王と皇位継承を争った後円融院33回忌の写経供養に参加したことで、後小松院猶子として54歳でやっと無位無官から脱し、親王宣下を拝受できたのだから、この時点では伏見宮は世襲親王家ではない。

伏見宮第二王子、第4代貞常親王は、文安2年(1445)3月関白二条持基を加冠役として元服し、6月に親王宣下を受けた。時に21歳、文安3年3月任式部卿、文安4年3月二品に叙せられたのは厚遇といえる。同年8月家領を譲られて第4代伏見宮当主となった[小川剛生2009]。もっとも継嗣令では天皇の兄弟は親王と規定されているから親王宣下は当然ともいえる。

「永世伏見殿御所」号勅許の後、伏見宮家は文明6年(1474)に第5代邦高親王が後土御門猶子として19歳(元服加冠役は准后前左大臣足利義政)、文亀2年(1502)に第6代貞敦親王は後柏原猶子として17歳で元服と同時に順調に親王宣下を受けている。したがって、この所伝がなかったとしても、事実上、歴代当主の親王宣下が慣例となったことはいうまでもない。実質邦高親王以降が世襲親王家といってよいだろう。

 以下、歴史家等の「永世伏見殿御所」号勅許の所伝のコメントを引用する。

 

A 新田一郎氏(法制史)のコメント

「親王たるステイタスを長期にわたり安定して継承する本格的な世襲親王家は伏見宮家を以て嚆矢とする。貞常が後花園天皇から永世にわたり「伏見殿御所」と称することを勅許された、とする所伝があり、これによって、伏見宮家が皇統嫡系との距離に依存せずに自立し継承される世襲親王家してのステイタスを確立した、とする解釈が示される場合がある。こうして天皇家直系と伏見宮家は皇統の内部で画然と分かたれ、それぞれ継承されるべき役割を異にする家として成型される。伏見宮家はその家産とステイタスを継承する世襲親王家として成型され、皇位の正統の所在は擬制的な直系へと固定されたわけである。」 [新田一郎 2011]。

 

B 田村航氏(中世史)のコメント

「伏見宮は『故院』すなわち貞成の生前の異紋を、そのまま位袍などに使用することが許可された。これは貞常親王以降の伏見宮が、後崇光院=貞成親王をよりどころにするということである。同時に「伏見殿御所」の「永世」にわたる存続も約された。これは貞成が後小松院の猶子として受けた親王宣下をふまえ、貞常王、邦高王、貞敦王、邦輔王がそれぞれ後花園・後土御門・後柏原・後奈良の歴代天皇の猶子として親王宣下を受け、以降同様に継承されていったことをさす。かくして伏見宮は親王の再生産をつづける特別の地位を得たのである。

‥‥後崇光院=貞成から伏見宮が得られる正統性を制度的に裏付けたもので、伏見宮の当主が世代を重ねても天皇家と疎遠となる事態が避けられた。‥‥‥伏見宮は代々の親王宣下で皇位継承権を担保され、ここに崇光院皇統のある種の再興が果たされた」 とする [田村航 2018]。

 

 上記の見解は、後花園が後光厳院流を継承したので、実家の伏見宮と宥和政策をとったという脈絡での説示である。

 

 なるほど後花園は後小松院御遺詔を重んじ、崇光院流を継承することはなかった、実父に協調的でない部分も多分にあったことは秦野裕介[2020]が明らかにしている。

しかし、実家の伏見宮に対して好意的であったことは間違いない。例えば、皇子成仁王を伏見宮で養育させ、寛正3年(1462)皇儲に確定した皇子成仁王(後土御門)を説諭する『後花園院御消息』でことに伏見殿に対して敬意を表することを説き [田村航 2020]、応仁元年(1467)7月後花園上皇は、関白再補の一条兼良と二品式部卿伏見宮貞常親王を勅使として、応仁の乱の調停のため幕府に派遣するなど、伏見宮は信頼されていた [田村航 2013]。ゆえに「永世伏見殿御所」号勅許は史実であってもおかしくないとの認識をもつことはできるだろう。

 

C 秦野裕介氏(中世史)のコメント

「後花園は、弟の貞常に伏見宮家の継承と、その『永世』にわたる存続を約した。そして伏見宮家の当主は代々天皇の猶子となって親王宣下を受けるという特殊な形がとられるようになった。ここに後光厳皇統と崇光皇統の両立が完成したのである。」 [秦野祐介 2020]とする。田村航説の参照指示ありそれをふまえた見解。

 

D 松薗斉氏(中世史)のコメント

「貞常親王が「永世伏見殿御所」と後花園から許可されたという伏見宮も、代々天皇の猶子となって親王宣下を受けなければならないわけで、基本的には‥‥中世の他の宮と同じである。むしろ持明院天皇家の家記・文書を継承し、現天皇家の「家」の機能を補完する側面が「家」としての継続を可能にした」 。中世の皇統文庫を維持、継承していたことが伏見宮家の強みだったという見解 [松薗斉 2010]。

 

E 小川剛生氏(中世和歌史)のコメント

「この御記の内容はいまのところ他に裏付がないので、当面この説の信憑性には慎重にならざるを得ないが、ここで後崇光院の紋を使用すること。また、「御所」の号を永代にわたり許されたというのは、これをもって世襲親王家の存在を公式に認めたということになるだろう」 [小川剛生 2009] 。

 

[x] 五世王親王宣下の初例は、応永26年(1419) 12月21日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞御記』『薩戒記』)。

 世襲宮家は、天皇家に皇子が少ないときに、天皇の周囲に配置される宮門跡に入室する人材のプールでもあったのだ[松薗斉 2010]。

『椿葉記』の執筆時期は永享3年(1431)以降であるから、伏見宮家世襲親王家構想は、後小松院政で五世王でも上皇の猶子として親王宣下が可能であることをみて、着想されたと推測できるのである。

 後小松院と明仁法親王、承道法親王は13親等離れている猶子だが、門跡寺院側は、威信にかかわるので親王宣下を望んだ [松薗斉 2010]。

 継嗣令皇兄弟条は五世王以降を皇親の範疇としてないので、それは便宜的だというかもしれない。しかし中世の律令法は「准的」等の明法家の法技術によって、令義解の原意にこだわらず現状追認的に合法化できるのであって [保田卓 1997]、 猶子という親子関係の擬制で血縁の疎隔を穴埋めすることは、准的「乙は甲と比べてみて、甲と釣り合うもの、同格のものと価値づける」というテクニックで合法になるだろう。。

[xi] 不適切かもしれないが、当時の大正天皇の御病状についても検討してみると、大正8年12月25日の原敬日記によると、勅語御朗読を数日来御練習なされたにもかかわらず御朗読困難。音読障害があり、26日議会開院式を欠席、原敬が勅語を代読。「準則」が枢密院で可決された後の大正9年3月25日の宮内庁掛の医師による「拝診書」によれば、天皇の御こころを惱ませらるゝ事、すなわち精神的ストレスが多かったため神経過敏となった。一~二 年前からの 一、二 の分泌臓器の官能失調の 2 つが幼少時の腦膜炎の為故障のある御脳に影響して、御安静を失ったり、お体が傾く事が起こったり、身体の平衡を保つ基が困難という病状を呈したとある。しかし大正9年には、軍歌を聞召、唱和、夜のビリヤードなど盛んであり、角力天覧もあった。大正10年4月24日大隈重信が面会後、「陛下ハ果シテ御諒解アリシヤ否ヤハ疑シ」と話し言葉の理解障害があり、大正10年11月25日に天皇大権(統治大権、統帥権、皇族監督権)の遂行不能により皇太子が摂政に就任するが、同日の御容態書によれば、「御記銘、御判断、御思考等の脳力暫時衰へさせられ、………。殊に御記憶力に至りては御衰退の兆最も著しく」とある[杉下守弘2012 小林幸男2003]。

「準則」の御裁可が大正9年5月であるが、病状は翌年ほどではないとしても、天皇の統治体権は空洞化に近い状況にあったのかもしれない

[xii] 伏見宮第3代貞成親王(道欣入道親王)より4代貞常親王への御譲状

「後崇光院院御分類」第四巻十五[横井清2002 389頁]

相伝御領以下目録在別紙譲進之候、永代可有御管領候也

文安三年八月廿七日 (御花押)

追伸

記録文書以下同可有御管領候、代々御記禁裏へ進之候、可得御意候、御領之中男女御恩不相替可有御扶持候也

譲進

  • 伏見御領

五ヶ加納

一、播磨国衙

別紙十カ所 但当時七カ所管領

  此地御祈 伊和西 玉造保 粟賀加納

  石見郷 市余田 佐土余部

  • 熱田社領

付藪郷

  • 江州山前南庄

同七里村、八里村 北庄役

  • 昆布干鮭月俸
  • 若州松永庄一円
  • 江州塩津庄、同今西庄
  • 丹波草野 同戸野谷
  • 播州平野五名半分
  • 同国餝摩津別符
  • 筑前住吉社
  • 日向国大嶋保
  • 一条東洞院敷地 仙洞旧跡

已上

右管領所々、式部卿親王所譲与如件、此内人給寄進等有之、不可有相違者也、

文安参年八月廿七日 (御花押)

[xiii] 久水俊和 2020 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

[xiv] 

38

[xv]

 

25

議員へ意見具申

有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対

③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき

-「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-(第7分冊 引用・参考文献一覧表)

                    

引用・参考文献(一覧表

 ★印=オープンアクセス(ネット公開)

翻訳書

ジョン・ノックス1986飯島啓二訳「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」『カルヴァンとその周辺〈2(宗教改革著作集〈10)』教文館

JL・フランドラン1992宮原信訳『性の歴史』藤原書店

JL・フランドラン1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

イレイン・ぺイゲルス1993 絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社(原著1988

ウタ・ランケ・ハイネマン1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社

ピーター・ラスレット1986『われら失いし世界―近代イギリス社会史』川北・指・山本訳 三嶺書房

ミッテラウアー,ミヒャエル、 ジーダー,ラインハルト1993若尾夫妻訳『ヨーロッパ家族社会史』名古屋大学出版会

ミッテラウアー,ミヒャエル1994若尾・服部・森・肥前・森訳1994『歴史人類学の家族研究-ヨーロッパ比較家族史の方法』新曜社

メッツ,ルネ1962久保正幡・桑原武夫訳『教会法』ドン・ボスコ社

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赤坂恒明2018「室町期の皇族、木寺宮とその下向」『日本史のまめまめしい知識第3巻』岩田書院

赤坂恒明2019「遠州木寺宮考」十六世紀史論叢12

赤坂恒明2020『「王」と呼ばれた皇族 古代・中世皇統の末流』吉川弘文館

明石一紀2000「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店

明石一紀2006『古代・中世のイエと女性』校倉書房

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浅見雅男2016『皇族と天皇』ちくま新書

浅山郁1985「女子差別撤廃条約の報告制度と締約国からの報告 (女性そして男性) -- (外国における女性と法) 」『法学セミナー増刊 総合特集シリーズ 』日本評論社 (通号 30)

阿部泰郎2018 『天皇の歴史10天皇と芸能』渡部泰明、鈴木健一、松澤克行共著 講談社学術文庫

荒井献1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号日本聖書協会

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荒木敏夫1999 『可能性としての女帝 』 青木書店

嵐義人1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社)

飯倉晴武2000 『地獄を二度もみた天皇 光厳院』 吉川弘文館

飯倉晴武2002 『日本中世の政治と史料』 吉川弘文館

飯倉晴武2009 「伏見宮本の変遷-書陵部での整理と書名決定-」 禁裏・公家文庫研究第三輯 思文閣出版

家永遵嗣 2013「室町幕府と「武家伝奏」・禁裏小番」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 5

家永遵嗣 2016 「光厳上皇の皇位継承戦略」  桃崎有一郎・山田邦和『室町政権の首府構想と京都』所収

家永遵嗣 201814世紀の公武関係・朝幕関係と室町幕府 : 皇位継承争いのもとにおける国制の再構築(縮約補訂)」学習院史学56

家永遵嗣・水野圭士ほか 2019 <資料解題>解説と翻刻 国立公文書館所蔵『初任大饗記』, 国立歴史民俗博物館所蔵『義満公任槐召仰議并大饗雑事記』」 人文 (17)

池和田有紀2020 崇光天皇-北朝皇統分裂の始まり 久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝』, 戎光祥出版

伊集院葉子2014『古代の女性官僚女官の出世・結婚・引退』吉川弘文館

伊藤之雄2021『最も期待された皇族東久邇宮』千倉書房

伊藤喜良1997 『南北朝動乱と王権』 東京堂出版

伊藤唯真1982「知 恩 院 周 誉 珠 琳 と 浄 厳 坊 宗 真」鷹陵史学8

石崎泰助1975「秘跡概念の発展についての一考察」アカデミア 人文自然科学編,保健体育編35

石原比伊呂2015『室町時代の将軍家と天皇家』勉誠出版

石原比伊呂2018『足利将軍と室町幕府』戎光祥出版

石原比伊呂2020『北朝の天皇』中公新書

井戸田博史1986『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 

井戸田博史2003『氏と名と族称』法律文化社

稲田利穂1989 「曹源寺蔵「永正18410日和漢聯句」--翻刻と解説」 岡山大学教育学部研究集録 (80)

稲葉伸道 2019 『日本中世の王朝・幕府と寺社』 吉川弘文館

稲福日出夫1985<論説>ミルトンの離婚論 : 法思想史におけるその位置づけ」s同志社法學 371/2号★

井上兼行・清水昭俊1968「出雲調査短報」『民族學研究』331号 

井上幸治2016『古代中世の文書管理と官人』八木書店

井上光貞 (1985初出は1964) 井上光貞著作集一『日本古代国家の研究』 岩波書店

井上亘1993 「光明立后の史的意義をめぐって」 学習院史学 (31)

猪熊千尋2018『中世王権の音楽と儀礼』笠間書院

位藤邦生 1973 「無力次第也 「看聞日記」に見る伏見宮貞成の生きかた (中世文学(特集) 国文学攷(62)

位藤邦生1991『伏見宮貞成の文学』清文堂出版社

井原今朝男1995 『日本中世の国政と家政』 校倉書房

井原今朝男 2014 『室町廷臣論』 塙書房

今井通郎1962「平安文学に現れた楽器」東洋音楽研究 1617

今江広道 1983 「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館

今谷明1990『室町の王権』中公新書

今谷明 2000 『室町時代政治論』 塙書房

今井通朗1962「平安文学に現われた楽器」東洋音楽

井山温子 1995 「しりへの政』その権能の所在と展開」 古代史研究(13

岩井託子1996a「グレトナ・グリーン英国随一の結婚式場(1) 」 中京大学文学部紀要 312

岩井託子1996b 「グレトナ・グリーン英国随一の結婚式場(2)」中京大学文学部紀要 313434

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岩井託子1999a「グレトナ・グリーン 英国随一の結婚式場(8)」中京大学文学部紀要 341

岩井託子1999 b「グレトナ・グリーン 英国随一の結婚式場(9) 」中京大学文学部紀要 342

岩井託子2002『イギリス式結婚狂騒曲 駆け落ちは馬車に乗って』中公新書

岩佐美代子1993「光厳天皇-その人と歌-」駒澤國文 30

岩佐美代子 1997 『宮廷に生きる』 笠間書院

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上野雅和1962「イングランドのキリスト教化と婚姻法-イングランドにおける近代的婚姻の成立過程2」松山商大論集132

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鵜川馨 1991「十八世紀英国における婚姻契約」『イングランド中世社会の研究』聖公会出版

梅村恵子 2000 「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

宇根俊範1980「律令制下における賜姓について-朝臣賜姓ー」『史学研究』80

宇根俊範1983「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99

枝村茂1975「婚姻の秘跡性をめぐる神学史的背景」  アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 25

枝村茂1978「婚姻の不解消性と教会権についての神学的考察」アカデミア 人文自然科学編,保健体育編 28

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榎村寛之 2007 「元・斎王井上内親王廃后事件と八世紀王権の転成 」 国立歴史民俗博物館研究報告( 134

遠藤慶太2000「『続日本紀』と承和の変」古代文化52

遠藤みどり 2015 『日本古代の女帝と譲位』 塙書房

近江昌司1962 「井上皇后事件と魘魅について」 天理大学学報(14

大島創2015「法金剛院と法金剛院領の形成・伝領過程」史観172

大竹秀男1977『「家」と女性の歴史』弘文堂

大藤修1996『近世農民と家・村・国家 : 生活史・社会史の視座から』吉川弘文館

小笠原敬承斎(2010)「結婚にまつわるしきたり その起源と意味」『歴史読本』201010 55 10号 通巻856

岡野友彦2015『戦国貴族の生き残り戦略』吉川弘文館

岡部 明日香(2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮」中古文学 90(0)★

小川剛生2003『南北朝の宮廷誌―二条良基の仮名日記』臨川書店

小川剛生2005 『二条良基研究』 笠間書院

小川剛生 2009 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社

小川剛生2012『足利義満』中公新書

小川剛生2017 『中世和歌史の研究』 塙書房

小川剛生 2020 『徒然草をよみなおす』 ちくまブリマー新書

小川剛生 2020 『二条良基』 (人物叢書)吉川弘文館

奥村佳紀1971「新羅人の来般について」駒沢史学 (18)

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小野則秋 1944 『日本文庫史研究 上巻』 京都・大雅堂

尾上陽介(2001)「年官制度の本質」史観 145★

折井美耶子2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636

加栗貴夫2018「家移り儀礼から見た中世後期の「家」妻の位置」『日本史のまめまめしい知識第3巻』岩田書院

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久保貴子2009 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち) 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2

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倉本一宏2001「内府悦気有り」駒沢女子大学研究紀要 (8)1

栗原弘1990「藤原内麿家族について」日本歴史 (511)

栗原弘1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店

栗原弘1999『平安時代の離婚の研究』弘文堂

栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2★

栗原弘2004「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史学会 編 (19)★

栗原真人1991 <論説>秘密婚とイギリス近代 (1)」 香川大学 11巻1号★

栗原真人1992a 「〈論説>秘密婚とイギリス近代 (3)  香川法学 121号★

栗原真人1992 b「<論説>秘密婚とイギリス近代(4・完)  香川法学 122号 ★

栗原真人1996「 フリートとメイフェア : 一八世紀前半ロンドンの秘密婚」 香川法学 154号★

栗原涼子2003「革新主義考アナーキストフェミニズムについて」岩手県立大学盛岡短期大学部研究論集 5

栗山圭子 2001 「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号 日本史研究465

黒田俊雄(1994・初出1982)「朝家・皇家・皇室考-」『黒田俊雄著作集一権門体制論』法蔵館

桑山浩然1996「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』( 6)

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呉座勇一2018『陰謀の日本中世史』角川新書

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小谷徳洋2022「河内四条畷の戦いと楠木正行の生涯」渡邊大門編『南北朝の動乱主要合戦全録』星海社

後藤みち子2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

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小森崇弘2008 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」 立命館文學 (606)

小林よしのり 2010 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』 小学館

古藤真平2018 『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む』 臨川書院

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近藤好和 2019 『天皇の装束』 中央公論新社

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佐伯智広2019『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』吉川弘文館

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桜井栄治 (2009) 『室町人の精神』 講談社学術文庫桜井栄治 2009 『室町人の精神』 講談社学術文庫

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桜田真理絵2018 「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ -「不婚の女帝」論の再検討-」 文化継承学論集 (13)

佐々木宗雄 1994 『日本王朝国家論』名著出版

佐古愛己2012『平安貴族社会の秩序と昇進』思文閣出版

佐古愛己2013「中世叙位制度の特質に関する一考察 : 鎌倉期を中心佐藤長門 (2009) 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤賢一2009『カペー朝-フランス王朝史1』講談社現代新書

佐藤賢一 2014 『ヴァロア朝-フランス王朝史2』 講談社現代新書

佐藤賢一2019『ブルボン朝-フランス王朝史3』講談社現代新書

佐藤哲也2012「近代教育思想の宗教的基層(1) : コトン・マザー『秩序ある家族』(1699)」 宮城教育大学紀要 47号★

佐藤長門 2009 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館

篠川賢 2013 『飛鳥と古代国家』 吉川弘文館

滋賀秀三1967『中国家族法の原理』創文社

柴桂子2004「近世の夫婦別姓への疑問〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状 のコメント」『総合女性史研究』(21)

柴田敏夫1987「「コモン・ロー・マリッジ」略史」大東法学 14

島善高1992「近代における天皇号について」早稲田人文自然科学研究(41

島津一郎1974『妻の地位と離婚法』第42イギリスにおけるコモン・ロー婚の展開 有斐閣

島村修治1971『外国人の姓名』ぎょうせい

清水昭俊1970「<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

清水昭俊1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

清水昭俊1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

清水昭俊1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

清水昭俊1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

清水昭俊1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

東海林亜矢子2004「母后の内裏居住と王権」お茶の水史学 48

白木歩澄2018「十八世紀イングランドにおける女性の結婚観 : ハードウィック婚礼法制定による変化」歴史研究64

白根陽子2018 「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開』 同成社

末柄豊 2011 「伏見宮旧蔵文書二題」 東京大学史料編纂所研究成果報告2011-3

末柄豊2012 「禁裏文書における室町幕府と朝廷」 ヒストリア(230

末柄豊2012 「十三絃道の御文書」のゆくえ」 日本音楽史研究(8

末柄豊 2018 『戦国時代の天皇』 山川日本史リブレット

菅原正子2002「中世後期-天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』小学館

菅原正子2014『日本中世の学問と教育』同成社

杉崎重遠 1954「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (9-10)★

鈴木繁夫2004「交わりの拡張と創造性の縮小 : ミルトンの四離婚論をめぐる諸原理について」言語文化論集 261号★

鈴木繁夫2013「性格不一致の離婚とその起源 : ミルトン離婚論と現代離婚観の宗教性」言語文化論集 35(1)

瀬川淑子2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』

相馬真理子 1997 「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」 書陵部紀要 (49)

園部寿樹2015 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢治芳短期大学紀要 51

曽我良成2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館

曾我部静雄1974「日唐の詔勅に見える節婦の旌賞」史林572

曽我部愛2021『中世王家の政治と構造』同成社

杣田善雄2003『幕藩権力と寺院・門跡』思文閣出版

苑田 亜矢1997 1159年の教皇選挙と教皇庁上訴 : イングランド史からの一考察」有明工業高等専門学校紀要 33

苑田亜矢2000「一二世紀イングランドにおける教皇庁への上訴をめぐって--1164年のクラレンドン法第8条および1172年のアヴランシュの和約の再検討」法制史研究 (50)

薗部寿樹2014資料紹介『看聞日記』現代語訳(二)山形県立米沢女子短期大学紀要50★

薗部寿樹2015 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢女子短期大学紀要51★

高岸輝2007「室町時代における高階隆兼の伝説形成」美術史論集7

高岸輝 2017 「天皇と中世絵巻」高岸輝・黒田智『天皇の美術史3乱世の王権と美術戦略 室町戦国時代』 吉川弘文館

高岸輝 2020 『中世やまと絵史論』 吉川弘文館

高久嶺之介1981「近代皇族の権威集団化過程その1 近代宮家の編成過程」社会科学(27)★ 

高埜利彦2014『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館

高埜利彦2019「江戸時代の皇位継承」朝幕研究会『論集近世の天皇と朝廷』岩田書院

高橋秀樹1996『日本中世の家と親族』吉川弘文館

高橋秀樹2004『中世の家と性』山川出版

高橋秀樹2014「「家」研究の現在」『婚姻と教育』竹林舎

高橋康夫1978 「後小松院仙洞御所跡敷地における都市再開発の実態室町時代京都の都市再開発に関する考察」 日本建築学会論文報告集(263)★

高橋康夫1978 「戦国期京都の町 組 「六 町 」 の地域構造」 日本建築学会論文報告集274号★

高橋康夫 1983 『京都中世都市史研究』 思文閣出版

高橋典幸 2019 「南北朝動乱期の社会」『中世史講義』 筑摩書房

武部敏夫 1960 「世襲親王家の継統について-伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」 書陵部紀要12

武部敏夫1987『和宮』吉川弘文館

瀧浪貞子 1991 『日本古代宮廷社会の研究』「孝謙女帝の皇統意識」 思文閣出版

瀧浪貞子2017『藤原良房・基経』ミネルヴァ書房

竹島寛 (1982復刊、1936) 『王朝時代皇室史の研究』 名著普及会1982復刊

武田佐知子1980「律令国家による儒教的家族道徳規範の導入-孝子・順孫・義夫・節婦の表旌について」竹内理三編『天皇制と社会構造』校倉書房

詫間直樹2003「伏見宮本『御産部類記』について」『禁裏・公家文庫研究 第一輯』思文閣出版

詫間直樹2006「高松宮家旧蔵『伏見殿文庫記録目録』について」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』思文閣出版

田島公 1997 「禁裏文庫の変遷と東山御文庫の蔵書」大山喬平教授退官『日本社会の史的構造 古代・中世』 思文閣出版

田島公2004 「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収 吉川弘文館

田島公2006 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』 思文閣出版

龍野加代子1997 「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号 法政史学(49)★

玉井力1964「承和の変について」歴史学研究286

谷口やすよ1978 「漢代の皇后権」 史学雑誌87(11)★

谷口研語 1994 『流浪の戦国貴族 近衛前久』 中公新書

谷田博文 2019 『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか』 河出書房新社

田中明2007「修学院離宮における御幸様式の変遷と場所構成について」日本建築学会計画系論文集72 621

田中和夫1958「イギリスの婚姻法」比較法研究18号 

田村航 2013 『一条兼良の学問と室町文化』 便誠出版

田村航 2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)

田村航 2020 「後花園天皇-後光厳流か、崇光流か」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

千葉功2019「南北朝正閏問題再考」学習史学57★

告井幸男2007「摂関・院政期における官人社会」日本史研究535

角田文衛 (1985初出1966) 「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』 法蔵館

角田文衛2003『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房徳田武(2011)『朝彦親王伝 維新史を動かした皇魁』勉誠出版

角田文衛2006『日本の女性名―歴史的展望』国書刊行会

東郷茂彦2020『「天皇」永続の研究』弘文堂

所功 2012 『日本の宮家と女性宮家』「皇室史上の宮家制度」 新人物往来社

所功2021「皇位継承史上の危機と課題」『皇位継承の歴史と廣池千九郎』モラロジー研究

徳島県立博物館企画展図録2001『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』

利行榧美2006「桓武朝における「国忌」についての一考察」奈良史学(24

豊永聡美2001「平安時代における天皇と音楽」研究紀要 25(東京音楽大学)

豊永聡美2017 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』 吉川弘文館

豊永聡美2020 「後土御門天皇-心を砕いた朝議復興-」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 (1995) 「わび茶と露地 (茶庭) の変遷に関する史的考察 その9: 禁中の茶とその茶庭」 千葉大学園芸学部学術報告 (49)

直江眞一1990「『我々はイングランド法を変更することを欲せず』(Nolumus leges Anglie mutare)について」『法学』東北大 543

直江眞一2014「アレクサンデル三世期における婚姻法 : 一一七七年六月三〇日付ファウンテン修道院長およびマギステル・ヴァカリウス宛教令をてがかりとして」法政研究 81 (3)

永井晋2003『金沢貞顕』吉川弘文館

永井晋2006『金沢北条氏の研究』八木書店

永井晋2021『八条院の世界』山川出版社

永井晋2022『鎌倉幕府はなぜ滅びたのか』吉川弘文館

永井和 2012 「波多野敬直宮内大臣辞職顛末 : 一九二〇年の皇族会議 (杉橋隆夫教授退職記念論集)」立命館文学(624)★

中込律子 2005 「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』 清文堂出版

中川和明1991「聚楽第行幸の行列について」弘前大学國史研究 (90)

中川八洋2005『皇統断絶』ビジネス社

中川八洋2007『悠仁天皇と皇室典範』清流出版

中川八洋2018 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』 ヒカルランド

中川八洋 2019 「「旧皇族の復籍」妨害に全力疾走の赤い山羊八木秀次 ──」 ブログ 中川八洋ゼミ講義

中林隆之 (1993 1994) 「律令制下の皇后宮職(上)(下) 新潟史学31 32

中村順昭 2019 『橘諸兄』 吉川弘文館

中村みどり 2002 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編(1

中村みどり2014 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13)★

中村順昭 2019 『橘諸兄』 吉川弘文館

中本真人2021a「北山惣社御神楽と綾小路信俊」人文科学研究147

中本真人2021b『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社

波田永実 2017 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)★

成清弘和1999 『日本古代の王位継承と親族』 岩田書院

仁井田 陞1952『中国法制史』岩波書店

西川誠2019「皇室典範の制定-明治の皇位継承」歴史学研究会編『天皇はいかに受け継がれたか』績文堂

西川健誠2005「夫婦の交わり,神との交わり : 『楽園喪失』における夫婦愛と信仰()」神戸外大論叢 56(2)

西川健誠2004「夫婦の交わり, 神との交わり : 『楽園喪失』における夫婦愛と信仰 ()」 神戸外大論叢 55(3)★】

西嶋定生 1999 『倭国の出現 東アジア世界のなかの日本』 1999 東京大学出版会

西島正1954「ミルトンの女性觀」紀要 3

西田かほる2021「近世遠江における親王由緒-木寺宮をめぐって-」静岡文化芸術大学研究紀要21

西別府元日2002 『律令国家の展開と地域支配』 思文閣出版

西谷正浩1996『日本中世の所有構造』塙書房

新田一郎 2001 「継承の論理-南朝と北朝」『岩波講座 天皇と王権を考える 2統治と権力」」 岩波書店

新田一郎2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社

仁藤智子2016「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

布谷陽子2005「中世王家領の研究-女院領の伝領と王家の追善仏事」博士論文要旨★

根本猛1992「アメリカ法にみる母性保護と男女平等」『法経論集』静岡大学法経短期大学部6768

野田泰三2019「宣陽門院覲子内親王の夢 (女性歴史文化研究所 第27回シンポジウム報告「発信する皇女たち -斎王を中心に-」. II)」女性歴史文化研究所紀要27

野村育代1992 「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館 吉川弘文館

野村玄2019 「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」 大阪大学大学院文学研究科紀要(59)★

橋本義彦 1976 「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』 吉川弘文館

橋本義彦2003「東山文庫と書陵部」『禁裏公家文庫研究第一輯』

橋本義則 1996 『平安宮成立史の研究』 塙書房

波田永実2017 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)★

波多野敏1990「フランス、アンシャン・レジームにおける結婚の約束と性関係」京都学園法学 創刊号★

秦野祐介 2020 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版

秦野裕介 2018 「常盤井宮恒興王への親王宣下」 ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座, 11-04

秦野裕介2019「オンライン日本史講座四月第二回「南北朝の動乱」4」ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座 412

秦野裕介 2020 『乱世の天皇』 東京堂出版

秦野裕介 2020 YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」 (ページ: 31以降) 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020 YouTube「中世の皇位継承16 後小松上皇 後光厳流の断絶と継承」 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020 YouTube「中世の皇位継承17 後小松上皇と後花園天皇」 日本史オンライン講座★

秦野裕介2020YouTube「京都のお寺の歴史 妙心寺Ⅰ花園上皇の御所を禅寺に」日本史オンライン講座★

秦野裕介2021「観応の擾乱」「禁闕の変」渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』所収 柏書房

秦野裕介2022a「両統迭立から正中の変・元弘の変まで」「和泉堺浦・石津の戦い」「九州における南北朝の動乱」渡邉大門編『南北朝動乱主要合戦全録』星海社

秦野裕介2022YouTube「戦国大名477 足利家 天皇家と足利将軍家」日本史オンライン講座★ 

秦野裕介2022YouTube「観応の擾乱 後光厳天皇践祚と持明院統の分立」日本史オンライン講座★

塙陽子1993「カトリック教会婚姻不解消主義の生成と発展」『家族法の諸問題()』信山社

早川庄八 1993 『続日本紀(古典講読シリーズ)』 岩波セミナーブックス

樋口健太郎2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂

樋口健太郎2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

久水俊和 2011 『室町時代の朝廷行事と公武関係』 岩田書院

久水俊和 2020a 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

久水俊和 2020b 『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』 戎光祥出版

久水俊和2021「同一の帳簿を用いる「公武共同の財政構造」『「室町殿」の時代 安定期室町幕府研究の最前線』山川出版社

廣木一人2001 「後土御門天皇家の月次連歌会」 青山語文31

廣瀬隆司1985「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究2812.

広岡裕児 1998 『皇族』読売新聞社

兵藤裕己2018 『後醍醐天皇』 岩波新書

深津睦夫2014『光厳天皇』ミネルヴア書房

深澤光佐子2015『明治天皇が最も頼りにした山階宮晃親王』宮帯出版社

福井俊彦1970「承和の変についての考察」日本歴史260 

福井憲彦 2019 『教養としてのフランス史の読み方』 PHP研究所

福田景道2015「『池の藻屑』の皇位継承史構図―編年史的側面と「世継」―」島大国文35

島大国文★

福地陽子1956<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展」法と政治7(4)

服藤早苗 1991 『家成立史の研究』  校倉書房

藤木邦彦1991 『平安王朝の政治と制度』 吉川弘文館

藤田覚 2011a 『江戸時代の天皇』 講談社学術文庫

藤田覚2012b『近世天皇論』清文堂

藤田大誠2006 「幕末維新期における宮門跡の還俗に関する一考察」国学院大学日本文化研究紀要 96

藤田高夫1990 「前漢後半期の外戚と官僚機構」 東洋史研究 , 48(4)

不破勝敏夫1958a「Common Law Marriageについて-1-」山口経済学雑誌 8(3

不破勝敏夫1958bCommon Law Marriageについて-2-」山口経済学雑誌 8(4)

不破勝敏夫1959「アメリカにおけるCommon Law Marriageの理論」山口経済学雑誌 10(1)

北條文彦 2002 「中世に於ける長講堂の供花の沿革について」 駒沢史学 (58)

保科季子2002 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』612号 東洋史研究612

保立道久 1996 『平安王朝』 岩波新書

洞富雄1957『日本母権制社会の成立』淡路書房

前田雅之 2018 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館

増田忠彦201) 「資料にみえる 碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち)」 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 (15)

松下晴彦2004「グレトナ・グリーン「駆け落ち婚」の聖地」英米文化学会編『英文学と結婚-シェイクスピアからシリトーまで』彩流社所収

松永和浩2013『室町期公武関係と南北朝内乱』吉川弘文館

松永和浩 2020 「後光厳天皇-神器を欠き、都を逐れても」久水・石原變『室町・戦国天皇列伝』所収 戎光祥出版

松永和浩2022「室町幕府の皇位・皇統」「室町時代と酒-『看聞日記』を中心に-」『京都の中世史5首都京都と室町幕府』

松薗斉 1997 『日記の家』 吉川弘文館

松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25),

松薗斉2014 「戦国時代禁裏女房の基礎的研究 後土御門~後奈良天皇期の内裏女房一覧」 愛知学院大学論叢 (44)

松薗斉 2016 「室町時代禁裏女房の基礎的研究  後花園天皇の時代を中心に」 人間文化 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (31)

松薗斉2017『日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家  (日記で読む日本史)』臨川書院

松澤克行・荒木裕2008「 刊行物紹介 大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記 九」東京大学史料編纂所報第44号★

三木太郎 1953 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因長講堂領以下の所領を中心としてー」 駒沢史学2★

三崎裕子 1988 「キサキ宮の存在形態について」  史論41

三島暁子 2002 「室町時代宮中御八構の開催と記録」 武蔵文化論叢二

三島暁子 2003 「南北朝、室町時代の追善儀礼に見る公武関係」 武蔵文化論叢三

三島暁子 201 『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版

水間政憲 2019 『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘」 ビジネス社

水野智之2014 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』 吉川弘文館

水野柳太郎2008 「いわゆる光明立后の詔について」 奈良史学 (26)

水野智之 2005 『室町時代公武関係の研究』 吉川弘文館

三村晃功 1995 「「永正8年月次和歌御会」をめぐって--725日和歌御会を中心に」 光華女子大学研究紀要 (33)★

村上史郎1999「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

村井章介 2005 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』 校倉書房

村田正志 (1954初刊、1984) 『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1944) 「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1951)「皇統における熊澤一派の俗論を筆誅する」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

桃崎有一郎 2020 『室町の覇者足利義満-朝廷と幕府は以下に統一されたか』 筑摩書房

森茂暁(2005 2020)『南朝全史』講談社

森茂暁2007戦争の日本史11『南北朝の動乱』吉川弘文館

森茂暁2008『増補・改訂 南北朝期公武関係史の研究』思文閣出版

森茂暁(1997 2013)『闇の歴史、後南朝』角川書店

森茂暁 2017 『室町幕府崩壊』 角川文庫

森茂暁 2004 『満済』 ミネルヴァ書房

森暢平 2014 「昭和20年代における内親王の結婚: 「平民」性と「恋愛」の強調」 成城文藝229

森暢平2022『天皇家の恋愛』中公新書

盛本昌広2008 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文館

森田大介2020 「後柏原天皇-践祚二十年を経ての即位」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

森安雅子2011「『池の藻屑』における南北朝史観をめぐって」岡大国文論稿39

両角倉一1958「最 盛 期 の 堂 上 連 歌 壇」連歌俳諧研究16★゜

文殊正子 1986 「『内親王』号について 『公主』号との比較 」古代文化 38(10)

保田卓 1997 『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)』 教育・社会・文化研究紀要4

安田政彦 1998 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館

山﨑雅稔2001「承和の変と大宰大弐藤原衛条起請」歴史学研究751号、(2001

山崎雅稔 2012 「藤原衛の境涯」 帝京大学外国語外国文学論集(18)

山口和夫 2017 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館

山田敏之 2018 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」 レファレンス(808)★

山本啓介2013 「後柏原天皇時代の内裏和歌活動について 時代背景と形式」 日本文学629

湯川俊治2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

横井清2002『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫 旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979

吉川真司 1998 『律令官僚制の研究』 塙書房

吉田賢司 2017 『足利義持』 ミネルヴァ書房

吉田孝 2006 『歴史のなかの天皇』  岩波新書

吉田常吉 1976 『幕末政治論集』 岩波書店

米田雄介 1992 『歴代天皇の記録』 続群書類従完成会

米田雄介 2004 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』 塙書房

渡邊大門2012『戦国時代の貧乏天皇』柏書房,

渡邊大門2019『奪われた三種の神器』草思社

渡邊大門2021「長禄の変」『戦乱と政争の室町時代』柏書房

渡邊大門2022a「南北朝の合一」『南北朝動乱主要合戦全録』星海社

渡邊大門2022b『嘉吉の乱』ちくま新書

 

 

 

 

 

 

2022/11/28

国会議員への意見具申 皇位継承者の安定的確保 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対 ③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき-「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-

有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき-「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-
(第1分冊)意見書の目的・結論・理由の要点・(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について 全51p(理由の要点まで21p)
(第2分冊)理由要旨version1 19p
(第3分冊)要旨version2 13p 
(第4分冊)理由概要 25p  
(第5分冊)本文・第1部 63p 
(第6分冊)本文・第2部 69p
(第7分冊)引用・参考文献一覧表 11p

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 あまりにも遅くなりましたが、決定版をつくりましたので、これから周知します。

 今回はブログではなくワードをPDF化して、ダウンロードできるよう エバーノートの公開リンクでPDFを読んでいたたく形となりました。

 ご笑覧いただければ幸甚に存じます。

2022/03/12

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告は悪質なので反対する(意見具申その1)

 軽輩が国制の根幹にかかわる問題に口出しするのは甚だ僭越ではあるが、これはたんに皇室、国体の問題ではなく、ロイヤルファミリーが国民に慕われる存在である以上、国民の家族慣行に大きな影響があるので、家族のあり方という国民一人ひとりにかかわる問題なので、これは一国民として発言したいという趣旨による意見具申である。

 

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告は悪質なので反対する... 1

第1章 疑問点の提示... 2

第1節    ①案が「皇室の歴史と整合的なもの」というのはフェイク.. 3

第2節 リヒテンシュタインを模倣しなければならない理由はない... 5

第3節 皇室典範12条の改変という重大な変更が安易に行われようとしている.. 7

第4節 ①案は皇室典範12条を改正するので「女性宮家」に容易に転換する... 8

第2章 結論... 9

第3章 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する①案は絶対反対... 10

第1節 要旨... 10

一 内親王の歴史的由来を否定する.. 10

二 夫婦別姓の事実婚のような歪な制度の創出は不愉快... 12

三 性的役割の流動化により皇室制度を破壊する.. 12

四 皇室典範12条改正は日本の家族慣行を否定する... 13

五 令制では皇女内親王は臣下に婚嫁しても皇族の身分を維持したとする先例は、①案を正当化しない.. 15

(一) 令制と近代皇室典範では皇族の概念が異なる.. 15

(二) 例示の6例は違法婚、令制が想定していない婚姻である.. 16

(三) 例示3方の所生子は藤原氏で、父系帰属を留保している①案とは違う.. 16

(四) 17世紀以降例示の内親王の婚家帰属性は明白... 17

第2節 有識者会議①案を悪質とみなす理由... 18

一 将来的には共系、女系容認を目指している案.. 18

二 皇室典範12条潰しで女系容認の突破口にする隠れた意図... 19

三 女性宮家の可否が全くなされていない... 19

(一) 前例とされる幕末の淑子内親王の桂宮相続が検討されてない... 20

(二) 生涯非婚内親王なら「女性宮家」を否定はしない.. 23

(三) 内親王の経済的厚遇は、皇親のみに嫁ぐ皇親内婚が定められていたため.. 24

(四) 古代・中世の非婚内親王の礼遇からすれば、もっと女性皇族の経済的待遇を良くすべきかもしれないが①案は伝統に反し反対である... 25

四 皇位継承資格のない皇族がやたらと増加する案... 29

第3節 ①案は皇室典範12条改正を伴い皇室制度を根本的に破壊する.. 31

一 アン王女がモデルの①案は英国の模倣であり国体を破壊する... 32

二 皇室典範12条には相応妥当な理由がある.. 35

第4章 事務局調査・研究資料例示の臣下に降嫁した内親王8例は、①案を正当化しない.. 51

第1節 反律令の違法婚が皇室の歴史と整合的であるはずがない.. 53

第2節 事務局資料例示6方の検討.. 55

一 醍醐皇女勤子内親王... 55

二 醍醐皇女康子内親王... 55

(一) 天気を損じた違法婚... 55

(二) 夫方居住... 57

(三) 法性寺での仏事... 57

三 霊元皇女品宮(級宮)常子内親王... 58

(一) 品宮の財産と相続(近衛家熈が相続)... 60

(二) 夫方居住... 61

(三) 嫁取婚(嫁入婚)である... 62

(四) 墓所... 64

四 霊元皇女栄子内親王... 65

五 霊元皇女八十宮吉子内親王.. 65

六 仁孝皇女和宮親子内親王... 66

第5章 代替案... 67

 

 

 

1章 疑問点の提示

 

  令和31222日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議は、下記の案と案を検討すべきとした。

  ①案を実施しても女性皇族に皇位継承権を付与せず、配偶者、所生子も当面皇族としないで、将来身分を検討するものとし、案も当事者は皇位継承資格を付与しないことを示し、悠仁親王殿下の次の皇位継承者は、男系維持なのか女系容認・共系に変革するかという問題は先送りとする趣旨の報告であった。

  4112日には岸田首相により国会報告が行われている。

①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること

② 皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること

③ 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること

 

 ここでは主たる疑問点を提示し、次章で結論だけを述べ、理由については第3章以下で取り上げる。

 

第1節   ①案が「皇室の歴史と整合的なもの」というのはフェイク

 

   有識者会議報告は、臣家に降嫁しても皇族の身分を維持した先例として仁孝皇女和宮(静寛院宮親子内親王)を例示し、①案が「皇室の歴史と整合的なもの」として正当化する理由としている。

  また令和31130日会議「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」では以下の6方を挙げ、臣家に降嫁しても皇族の身分を維持したとして①案の先例としている。

以下資料の引用

【江戸時代より前の事例】

ア.勤子内親王(醍醐天皇皇女)天慶元年(938 年)藤原 師輔(947 年右大臣)に嫁した後、天慶元年11 月薨去。薨去を伝える史料に「四品勤子内親王薨」と見える。

イ.康子内親王(醍醐天皇皇女)

天暦9年(955 年)藤原師輔に嫁した後、天暦 11 年(957 年)薨去。薨去を伝える史料に「一品康子内親王薨」と見える。

【江戸時代の事例】

ウ.常子内親王(級宮、後水尾天皇皇女)

寛文4年(1664 年)近衛 基凞(1690 年関白)に嫁した後、延宝5年(1677 年)に親王宣下※を蒙っている。

エ.栄子内親王(女二宮、霊元天皇皇女)

貞享3年(1686 年)二条 綱平(1722 年関白)に嫁した後(婚姻直前に親王宣下)、寛保3年(1743 年)二品に叙されている。

オ.吉子内親王(八十宮、霊元天皇皇女)

正徳6年(1716 年)2月に徳川 家継(江戸幕府第7代将軍)と結納の儀を行ったが、同年4月に家継は死去したため、江戸には行かず京都に居

住し続けた。ただし、薨去(宝暦8年(1758 年))まで家継正室として遇

された。享保 11 年(1726 年)に親王宣下を受け、宝暦8年には二品に叙

された。

カ.親子内親王(和宮、仁孝天皇皇女)

文久元年(1861 年)親王宣下を受け、文久2年(1862 年)徳川 家茂(江戸幕府第 14 代将軍)に嫁した。明治6年(1873 年)二品に叙され、

薨去(同 10 年(1877 年))後の同 16 年(1883 年)一品を追贈されている

 

  以上のように6方は、婚姻直前もしくは婚姻また婚約後の、親王宣下、婚姻後の叙品の事例の例示だが、江戸時代には内親王宣下を受けていない、御宮室(尼門跡)にも叙品の例があり、婚出した内親王であれ、尼門跡であれ皇族であることはかわらないとはいえる。

6_20220313002001 

 また令和3126日議事録に次のような①に積極的な意見がある。

 「女性皇族が御結婚後も皇族の身分を保持されるときに、その配偶者と子が皇族とならないということは、かつて日本でもそのような事例があったということで、スタンダードになる可能性もあるのではないか。女性皇族の御結婚のハードルを下げることにもつながり、お相手の方の職業選択の自由が守られるなどプライベートの部分を守ることにもつながるのではないか。」

  事務局の示した6例をスタンダードとみなすメンバーの歴史認識はおかしい。報告書に「皇室の歴史と整合的なもの」とする見解に重大な異議がある。

 

一 例示6例はすべて違法婚

 

 令制の皇親は単系出自リネジで、血統そのもの。嫡流であれ庶流で男女いずれでも、父系で天皇に繋がれば、継嗣令皇兄弟条では五世王まで皇親。ただし嵯峨朝以降は親王宣下制となり、臣籍に降下(賜姓源氏)していない条件で皇親の範疇である。ただし15世紀に事実上、五世王・六世王の親王宣下が合法化され[松薗斉 (2010)]、伏見宮家が永代親王家とされたのであるが[田村航 (2018)]、8世紀の不破内親王のように謀反や陰謀にかかわらなければ皇親の位地をはく奪されることはない。

 例えていうと、血統の生理的一貫性はない点、皇親と違うが、天皇の賜与・認定による源平藤橘等の古代的姓氏と同じ。そもそも改賜姓権限は天皇大権であり、婚出によって変更されることはない。

 しかしながら、令制の継嗣令王娶親王条は皇親女子は皇親内婚を定めている。ただし延暦129月詔で二世女王以下は条件付で臣下への降嫁を合法化したが、臣下が内親王を娶ることは一貫して違法であり、事務局が例示した和宮(静寛院宮親子内親王)ほか6方の皇女の降嫁などは反律令行為で、政治的に勅許されたイレギュラーな事例なのである。

 令制が想定していない、反律令行為がスタンダードでありうるはずがないし、そもそも違法行為が、皇室の歴史と整合的でありうるはずがない。

 事務局例示資料は6方(うち1方は婚約のみ)、実際には、違法と考えられる内親王皇女の勅許による結婚として令制では婚約の一例を除いて22方である。内親王に限ると18方臣籍に降嫁した皇女を含む(ただし養女除く)と23方、20世紀後半以降を含めると27方(令制では二世女王にあたる眞子内親王殿下まで含めても30方)。

 統計的にみると6世紀の宣化皇女から19世紀の孝明皇女まで臣籍に降下した皇女をのぞくと446方(服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館2002の皇女一覧表参照)のうち、欽明后石姫から光格后欣子内親王まで皇女56方(臣籍に降下した皇女含むと58方)近代まで含むと東久邇宮盛厚親王妃成子内親王まで63方が皇親内婚である。

 合法婚56対違法婚22である。生涯非婚の内親王が大多数をしめるが、全体からいればそもそも違法婚である臣下への降嫁は圧倒的少数なのである


 特に事務局例示の10世紀の醍醐皇女康子内親王と藤原師輔の密通については、「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『中外抄』) [保立道久 (1996) ]などと伝えられており、評判が悪いことがわかる。

『中外抄』は12世紀の藤原忠実の口述記録であり、後世の評価とはいえ、醜聞として認識されている。村上天皇の怒りもかった(『大鏡』)。結果的に事後承認されたのは、師輔が皇后藤原安子の父でミウチであり功臣でもあったためで、反律令行為であることに変わりない。

 イレギュラーな事例、違法行為を皇室の伝統だというのである。とんでもない間違いである。

 

二 例示6例は①案のイメージとはかなり違う

 

 事務局が例示した6方すべてが①案を正当化できないことは本文で逐一説示するが、簡単に和宮親子内親王に言及すれば、家茂薨後に薙髪され、静寛院という法号は、天皇が選んでいるけれども、将軍正室としてのものであり、静寛院宮の葬儀は徳川家で行われ、墓所が婚家の菩提寺増上寺であり、宮内庁治定陵墓のリストにはないということは天皇家から婚出し離れたという認識してよい。

 婚家に帰属しているのは明らかで天皇家から離れている。しかし①案は婚出し夫方居住とするとは述べておらず、婚入配偶者となって天皇家から離れるものとは述べていないので、前例とみなすことに強い疑問がある。

 

三 内親王の所生子は資料に記載がなく隠ぺいされている

 

 なによりも、事務局調査資料例示の康子内親王は太政大臣藤原公季の母で、常子内親王は関白近衛家煕の母で、栄子内親王は二条吉忠の母である。

 父系帰属主義により所生子は藤原氏である。しかし「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」には内親王の所生子の記載がなく隠ぺいされている。

 前例では臣下に降嫁した内親王の所生子は皇族ではありえないことになっている。

 しかし①案は当面、配偶者と所生子を皇族とはしないと言いつつ、将来的に皇族とすることも検討されうるということは、79日議事録に「女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」と有識者会議メンバーが発言していることである。

 所生子の身分は将来検討するのでは前例とは異なるのだから、論理的に考えて所生子の姓を留保しているニュアンスのある①案を正当化しない。

 

 

2節 リヒテンシュタインを模倣しなければならない理由はない

 

 一 リヒテンシュタインとはゆかりがないのに強要したい有識者会議の欺瞞

 

 1130日議事録に「我が国と同様、男系男子継承制を採るリヒテンシュタインにおいては、女性皇族が婚姻後も公族の身分を保持しつつ、その配偶者と子は公族とならないという制度であることや、継承者が不在となった際に継承養子を迎えることとしている制度があることは、緩やかに皇族数を増加させようと考えている今後の検討において参考となるのではないか。」との意見がある。

 清家座長は会合後、記者団に対しリヒテンシュタインの継承養子が今後の検討で参考になると語っているとの記事があり(2021/11/30産経ニュースウエブサイト「年内に最終答申へ 皇位継承有識者会議」)、有識者会議①と②案は、リヒテンシュタイン公国モデルの採用と言いたげだが、両方同時にあるいは皇室典範12条法改正だけで容易な①案の先行実施をにじませている。

 私は、あえて同国こそ参考例と言いだしたのは意図的な狙いがあると思っている。

 フランスや神聖ローマ帝国、ドイツ領邦はフランク王国のサリカ法典に依拠して男系継承であり女性君主を認めない。一方、英国や北欧の国々やロシアは女性君主を容認している。

 1970年代から2010年代にかけて、北欧、ベネルクスといった欧州の君主国が男女いかんにかかわらず初生子相続・共系に王位継承法を変更し、2013年に英国も王位継承法を変更している状況で、リヒテンシュタイン公国は欧州では数少ない男系継承墨守国とされる。

 あえて同国を前面に出してきたのは、男系継承墨守国なら、男系維持論者に①案を呑ませやすい。あるいは、同国が永世中立国であるから、有識者会議案はイデオロギー的に中立というアピールと考える。

 しかしなぜ、大国である日本が、リヒテンシュタインの模倣をしなければならないのか釈然としない。

 サリカ法典は男子のみが土地相続できるとしているが、日本では非婚内親王が莫大な王家領御願寺領荘園の本所であった時期があり、歴史的由来は違うのである。

 リヒテンシュタイン侯爵家は、神聖ローマ帝国属する領邦国家で、かつては広大な領土があったし、現在も中東欧に膨大な地所を保有する。ハンス=アダム2世公爵は純資産50億ドルの大富豪であり、小豆島程度のミニ国家だからと言って侮ってはいけないと思うる。しかし日本とは歴史的にあまりゆかりのない国である。

 我国は大宝養老の儀制令で「 天子、祭祀所称、 天皇、詔書所称、 皇帝、華夷所称、 陛下、上表所称」とされ、対外的には皇帝号を使用していた時期があり、日清戦争や日露戦争の宣戦詔書は皇帝号であった。また条約においてはEmperor of Japanとされた[島善高1992]。

 格の違いがある。遠い小国の模倣を皇室に強要させるいわれはない。

 女性皇族が結婚しても王族の身分を保持するのはオランダ、ノルウェー、ベルギーといった初生子相続、共系に王位継承法を変更した国々も同じことで、①案はオランダ、ノルウェー型のモデルともいえるにもかかわらず、リヒテンシュタイン・モデルと位置付けたのは男系維持論者に呑ませるための印象操作にほかならない。

 

二 アン王女が①案の基本モデルで、英国のように共系を目指しているのでは

 

 先にも引用した令和379日議事録に以下の発言がある。

「イギリス王室では、アン王女は王族であるが、御家族は王族ではなく、それによって問題が生じているわけではない。このような海外の例を見ても、御本人は皇族であるが、御家族はそうではない、という形も、それほど無理なく成立するのではないか。 女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」

 この発言から知名度が高いアン王女を①案のモデルと想定し、将来的には女系容認の本音を看取できるのである。

英国王室はもともと女系容認で、2013年に英国は王位継承法をあらため長子相続による男子優先を撤廃しており、①案は英国など共系に移行した国々のモデルでもあり、リヒテンシュタイン・モデルというのは後付けの理屈である。男系維持論者を油断させるためのリップサービスに思える。当面①案であってもいずれ「女性宮家」女系・共系への改革の可能性をもたせているのが①案である。

 

 

3節 皇室典範12条の改変という重大な変更が安易に行われようとしている

 

 

 中間報告の段階で、①案は「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする」案とされ、特例として皇室典範12条適用除外とする結論もありえたはずだが、1130日会議の事務局側の資料により恒久的制度とするべきと提案された。

 同日の会議で「‥‥ 女性皇族の方が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案について、その法形式は、一人一人の女性皇族の方の身分に関わる話であるので、調査・研究結果のとおり、恒久的な制度として対応することがよいのではないか。‥‥」という意見がありこの方向でまとまった。

 眞子内親王殿下のように一般国民に婚出することにより自動的に皇室から離れることをできなくする案である。

 むろん内親王が皇位継承予定者と結婚して皇后となることは当然ありうる。イトコどうしの結婚は、冷泉天皇-昌子内親王のような前例があるから。

しかし、嫡系内親王が皇位継承順位の低い皇族と結婚する場合も、女性皇族は親王妃、王妃として宮家に婚出した形になる。17世紀末より8例ある。

 婚出できない女子とは、96%が夫方の姓をとっている、我が国の慣習と異なり異常な制度だといわなければならない。

 男系維持のリヒテンシュタイン・モデルが①案だから安全という宣伝文句に踊らされて、この急進的改革を受け入れようとしている、男系維持主義者の考え方は甘い。 

 有識者会議は、安易に恒久的制度の確立に賛同し、きわめて安易に皇室典範12条の改変という急進的、重大な変更を結論している。

 皇室典範12条は旧皇室典範44条を継受するものだが、出嫁女の婚家帰属という、日本的「家」制度に対応するもので、夫と妻の身分を一致させることは、異姓戸籍の否定、夫婦同氏という明治の家族政策と一致するだけでなく、欧米の単婚婚姻家族の理念の継受(妻妾制廃止)、夫婦の伴侶性を重んじる考え方においても、夫婦を同一身分とするのは相応妥当な理由がある。

 これを改変することは男性が天皇、宮家当主、女性が后妃という性的役割分担を流動化させ、婚出する女性は婚家に帰属する日本の家族慣習を廃棄することになり、国民が皇室を慕っている以上、国民の家族観に与える影響も重大で、本来内向きの歴史的由来のある内親王号、皇室制度を根本的に変革される。

 男系維持のリヒテンシュタイン・モデルだと宣伝し男系維持とみせかけて、真意を隠す意図が看取できる。

 

4節 ①案は皇室典範12条を改正するので「女性宮家」に容易に転換する

 

 令和379日の議事録に以下のような女性宮家の議論がある。

 「「女性宮家」という言葉によって、一足飛びに議論がされ、多くの反対論が生じているように思う。配偶者・子は皇族とせず、内親王・女王御本人が皇族に残るという形であれば、そこまで強い反対はないのではないか。」

 「「女性宮家」については、その定義も多くの国民の中で一致していない中で、議論が曖昧になっている部分があるのではないか。「女性宮家」に対する反対は、おそらく女性天皇・女系天皇につながるという危惧があるということではないか。」

 この発言から、一部の政治勢力から反発のある「女性宮家」を正面から取り上げず、「女性宮家」のネーミングを避け、より通りやすい案として①案が立案され、将来「女性宮家」に容易に転換できる戦略をとったものと推測する考えられる。

 もっとも広い意味では、独身の内親王が、独立生計を営み経済的に男性宮家当主に准じた待遇とすることも「女性宮家」であり、これは皇室典範をいじる必要はなく可能である。

 歴史的にみて生涯非婚皇女は夭折事例を除いてもこの千五百年間で8割以上をこえ、非婚内親王は、内親王庁、女院宣下の場合は院庁、つまり家司・院司を従え、家政機関が設置されて独立生計であったケースが多かったし、南北朝時代から江戸時代まで多くの事例のある尼門跡も寺領経営体のトップであった。伝統重視というなら、初めから女性皇族は結婚するという前提となっているのが不可解である。

 とはいえ、歴史的事例のように非婚女性皇族を厚遇して皇族として残っていただくというのは、結局皇位継承候補者の安定的確保とはならないので、従来は、ほとんど考慮されてはいなかった。

 ところが、有識者会議が当面皇族数の減少を避ける措置に重点をおいて、皇位継承者の拡充問題は先送りとしたことから、当然検討されてしかるべきだが全く行われていないのは欺瞞的対応である。

 今日多くの人が「女性宮家」と称しているのは、配偶者も皇族とし、所生子も皇族として、場合によっては皇位継承権も付与するあり方。つまり非婚でなく結婚する女性宮家当主なるものを創設するのがいわゆる「女性宮家」である。

 これを実現するには皇室典範12条の改正が必須で、「女性宮家」という反発のあるネーミングを避けた①案で皇室典範12条潰しをするのが①案の眼目ではないのか。

 皇室典範12条潰しさえ済ませば、①案が「女性宮家」に転換するのはきわめて容易だからである。

 私は文化戦争の天王山が、皇室典範12条と夫婦同氏制度の維持にあると考えるので、12条改変は絶対反対である。
 日本的「家」制度、家族慣行にマッチした、婚出した女性は夫の身分に従う、夫婦同一の身分、出嫁女の婚家帰属性という慣行維持にあると考えているので、当面男系維持で大きな変更はしたくないといいながら、しらっと左翼側の性別役割分担の撤廃の主張につながる12条改変に迎合していく①案は、かなり策略的な意図を感じる。

 有識者会議①案は、女性皇族に皇族費がどのような形で支給されるか、夫方の私邸に居住するのか、宮家と同じく皇族の居邸が用意されるのか、納采の儀など婚儀のありかた。墓所について不明である。議事録ではモデルとしてアン王女に言及しているメンバーがいるが、ロンドンの居邸はセント・ジェームズ宮殿であり、ふだん居住しているコッツウェルズのマナーハウスは、女王が結婚祝いとして購入した物件で、そもそも英国が単純核家族社会ということもあるが、夫方居住とはなっていない。

 有識者会議①案で皇室に残る女性皇族は、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員を担うだけでなく、独身時代の公務を引き続き担っていただくとのことであるから、皇族費不支給は考えにくいとすると、実質女性宮家に等しい待遇となる可能性があるので、①案は典範12条潰しで地ならしし、容易に女性宮家に転換するための案と考えてよいだろう。

 仮に①案と②案を平行して実施したとしても、②案が養子を取る側の宮家当主と、養子を出す旧皇族との間に入って政府やしかるべき要人がまとめていくものだとすれば、それを意図的に政府がサボタージュすれば②案は進捗せず、結局、①案だけが進捗して女性宮家にせざるをえなくなる状況をつくるのが狙いなのだろう。

 

2章 結論

 

 先に結論をのべると①案に絶対反対で皇室制度を破壊する。③の一択、②は次善策という評価で、有識者会議には批判的、かなり悪質との特に有識者会議案①は叩きつぶすべしとの見解を持つ。

 ①案は、女性皇族(内親王・女王)が皇族以外と結婚しても皇族の身位を失わず保持することにより、皇族の数を確保する。そのために皇室典範12条「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」を改正する。特例ではなく恒久的な制度とするものだが、案に付随する12条改正には絶対反対である。

 有識者会議は②案と並行もしくは①案を先行して実施することをにじませているが、それは非常によくないので、①案は明確に破棄すべき案と強く主張したい(とはいえ念のためにこじれた場合の代替案も第四章で示す)。

 最善策は③案の一択。後崇光院太上天皇の親王時代の著書『椿葉記』にある伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒、後小松上皇と後花園天皇の叡慮により永代存続が約され、天皇と血縁が離れても、ステータスが劣化することのない別格の宮家(准天皇家)として550年、天皇家と併存してきた歴史的経緯、意義を重んじ、旧宮家の復帰、復籍をコンセプトとすべき。

 ②は現存宮家当主が希望される場合に追加すべき案で、次善の案と考える。養子縁組にしぼるのは反対である。

 次章以下①案に反対理由を記すが、理由の要旨、本文となる。その次に③案を支持する基本的理由を述べる(次回掲載)。

 

 3章 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する①案は絶対反対

 

1節 要旨

 

 皇室典範12条改正を必須とする案は絶対反対である。皇室典範12条には相応妥当な理由があり、これを改正することは皇室制度が破壊される深刻な危機と認識する。理由の要旨は以下のとおり。

 

一 内親王の歴史的由来を否定する

 

 第一に、①案は令制(継嗣令王娶親王条)において皇親内婚のみを適法とする内親王の歴史的性格規定を全面的に否定するので、皇室制度を根本的に破壊する。

 

〇継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 

 文殊正子[1986]によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した[中村みどり2014による文殊説の要約]。

 有識者会議①案は、皇族女子と一般国民と結婚しても皇室に残る制度であるから、「内親王」号のきわめて特徴的な歴史的由来を否定するもので伝統破壊そのものである。

 令制では延暦129月詔で二世女王以下が条件付で臣下への降嫁が認められたが、臣下が内親王を娶ることは一貫して違法なのである[安田政彦 (1998)、栗原弘 (2002)、中村みどり(2002)(2014)]。

 

〇延暦12年(793)九月丙戌詔

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」

 

 有識者会議報告は、違法婚であるが勅許により例外的に臣下に降嫁した事例(和宮親子内親王など)を根拠にして案を「皇室の歴史と整合的」とする詭弁を弄している。

 反律令行為、令制が想定していない婚姻のあり方が「皇室の歴史と整合する」という言い方は、皇室の歴史を歪めており、有識者会議はきわめて悪質と断定してよい。

 一方、旧皇室典範は内親王の範疇を令制の四世女王まで拡大し、現皇室典範も二世女王まで内親王の範疇である。近代皇室典範では、内親王の範疇が変更したうえ、継嗣令王娶親王条が明示する皇親内婚を規定しておらず、内親王が臣下に嫁すことが合法化されている。

 しかし、内親王・女王が身位を維持しうる結婚のあり方を、天皇か皇族との結婚に限定したことから、大筋で令制の趣旨を継受しているという見方をしてよいだろう。

 なぜならば旧皇室典範44条のもとで明治41年常宮昌子内親王から昭和18年照宮成子内親王まで無事に成人された内親王5方すべてが皇族と結婚しており、令制の皇女内親王は皇族との結婚が大原則であることが意識されていたとみてよい(別表参照)。

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 したがって、戦後の令制の内親王の範疇である一世皇女が四方つづけて臣下に嫁していることは、通史的にみると例外的なあり方といえる。ただし皇籍を離脱しているので、ぎりぎり合法と評価される嵯峨皇女源潔姫が藤原良房に嫁した例に照らしてみれば、令制の理念を大筋では継承されているという見方ができる。

 しかし①案は令制の伝統的な内親王のあり方と全く整合性がないゆえ、内親王の内向きの制度によって成り立ってきた皇室制度を根本から破壊することを事実上目的とした案と評価できる。

 

 

 

二 夫婦別姓の事実婚のような歪な制度の創出は不愉快

 

 第二に①案は、女性皇族は皇統譜、配偶者と所生子は戸籍という、夫婦別姓の事実婚のように異常で新奇、歪な制度を創出するが、これは夫婦別姓推進論者に与するイデオロギー的偏向、政治的な判断が根底にあるように思える。

 歴史的に既婚の女性皇族は、三后、妃、后位を退いた後の女院宣下の例があるが、配偶者が生存するかぎり天皇、宮家当主たりえない慣例であり、皇親内婚では当主は常に男性皇族である。

 基本的に内親王が既婚者である時は、御配偶の男性皇族が在世している限り、后妃以上にはなれない。つまり天皇、宮家当主にはなれない。

 我国の家族慣行では入婿は家長予定者として迎えられる。家付き娘が当主になるわけではない。しかし①案では配偶者男性は添え物的存在で、これは日本の家族慣行に反し、男性に対する侮辱的扱いとなり容認できない。

 

三 性的役割の流動化により皇室制度を破壊する

 第三に、①案は皇位継承資格問題を先送りして、当面は女性皇族、所生子に皇位継承権は付与されないにもかかわらず、臣下と結婚した場合でも女性皇族が皇室に残り皇族の役割を果たしていくことは、天皇は男性で、皇后が女性、宮家当主が男性で、妃が女性という、性的役割分担を流動化させ、皇室制度を変質させようとする意図が背景にあると考えてよく、非常に不愉快である。

 皇室典範12条の改正は、エンゲルスが家父長制を私有財産の起源とみなして、これを打破しようとする共産主義者の目論見どおりになる。

 むろんマルクス主義の変異株ともいえるジェンダー平等論者にとっても性的役割分担の流動化は大歓迎で、皇室を変質させる重大な変更といえる。共産主義者にとって皇室典範12条の改正が核心的に重要であり、有識者会議はこの戦略に沿った報告をしていると評価するほかない。

 夫婦同氏の96%が夫家姓というのは、大化元年の男女の法かそれ以前に由来する日本の慣習で、皇室典範12条改正により、父系帰属主義を粉砕する道筋をつけることは事実上、少なくとも大化元年以来の規範の徹底的破壊、共産主義者と、ジェンダー平等論者の大勝利となる。ゆえに絶対反対なのである。

 

 

四 皇室典範12条改正は日本の家族慣行を否定する

 

 第四に、皇室典範12条は相応妥当な理由がある。

 

 

  • 皇室典範 第12

 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる

 

  • 旧皇室典範(明治221889)第44

皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ

 

 皇室典範12条は、旧皇室典範44条を継受したものである。帝国憲法皇室典範義解(伊藤博文著)によれば44条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス)の趣旨は、「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という理由が示されている。

 これは、婚出する女性は婚家に帰属する。婚入配偶者の婚家帰属性という日本の家族慣行に合致するもので、本文で後述する明治8年の内務省夫婦同氏案趣旨と同じ理由である。

 実際、17世紀摂家に降嫁した皇女内親王9例は、嫁取婚で、夫方居住、墓所は婚家の菩提寺であり、内親王を称していても婚家帰属は明白である。

 皇室や宮家は、明治22年皇室典範により、養子することができなくなり、一般国民の家族と異なるが、基本的には婚出する皇族女子、婚入する妃は婚家帰属、男子御一方以外は、男子は宮家当主として分家分出、女子は、皇后となるケース以外は、婚出により(宮家に婚出する場合も含め)家から排除されるというのは日本の家族慣行と大筋で同じことである。

 夫と妻の身分を一致させることは、異姓戸籍の否定、夫婦同氏という明治の家族政策と一致するだけでなく、欧米の単婚婚姻家族の理念の継受(妻妾制廃止)、夫婦の伴侶性を重んじる考え方においても、夫婦を同一身分とするのは相応妥当な理由がある。

 それゆえ、旧皇室典範44条と、現皇室典範12条は中世以来の日本的「家」制度の家族慣行に合致しており、伝統から逸脱するものではないから、断固維持されなければならないと考える。

 補足すると、皇室も貴族や武家と同様、14世紀より「家」制度的な慣行である。

 中世前期まで皇位継承のたびに頻繁な皇統の転換があったが、皇統嫡系は14世紀の後光厳天皇より日本的「家」制度と同じ限嗣単独相続で、皇位継承は、猶子という親子関係の擬制による継承もある直系継承に収束しているのである[新田一郎 (2011)]。

 崇光三世王の後花園天皇は正長元年(1428)後小松院の猶子(事実上養子、実父は後伏見宮貞成親王、のちに後崇光院太上天皇)と為されたうえで践祚、東山三世王の光格天皇は安永8年(1779)後桃園天皇女御藤原維子の猶子(実質後桃園の養子、実父は閑院宮典仁親王、追諡号慶光天皇)と為されたうえで践祚されたのである。

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 また、兄弟継承の場合も、弟を養嗣子として嫡系の直系継承とする。

 承応3年(1654)後光明天皇に皇子がなく崩御になられたため、生後間もない異母弟の高貴宮(のち霊元天皇)を養嗣子とされた。

 後光明の次の後西天皇(良仁親王)も異母弟で、親王は高松宮を継承して花町宮と称され、傍系の宮家当主から皇位を継承、高貴宮が成長するまでの中継ぎの扱いであり、皇位継承は後水尾→明正→後光明→後西→霊元の順序だが、皇統は後水尾→後光明→霊元が嫡系ということになる。

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 つまり皇室嫡系は後光厳院流皇統のまま今日まで皇統移動せず直系継承なのである。本朝皇胤紹運録の系図のとおりなのである(もっとも皇室典範は、養子することができないので、皇嗣殿下は、今上陛下の養子とはされていない。従って今後は中世前期のように皇統移動することになる)。

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 江戸時代の天皇家や宮家を「家」と類比すると家連続者となる男子一人を残して、つまり皇室の場合は儲君、それ以外の男子の大多数は入寺得度し法親王となり、例外的に空主の宮家を継承し在俗のまま事実上分家分出ないし養出と類似したあり方、女子は婚出する内親王以外、多くの場合、例外もあるが入寺得度し尼門跡となるというありかたは、一般国民の「家」が次男以下は分家分出か養出、女子は婚出して家から排除されるあり方と基本的に類似している。

 有識者会議①案は前記のような伝統規範的「家」の規則性を破壊し、性的役割分担を流動化させ革命的事態を起こすことを狙っている。

 婚出した内親王が天皇家を離れることは前近代でも同じである。

 江戸時代に結婚した皇女は14例で、皇后1例、世襲親王家に嫁す2例、摂家に嫁す9例、徳川家が1例(婚約例含むと2例)だが、皇后となった欣子内親王以外は天皇家から離れたとみてよい。

 なぜなら、人は死んだ時の家の仏となる。墓所でどの家に帰属するかがわかるからである。

 別表に示すとおり天皇家から臣家に嫁した皇女は宮内庁治定陵墓のリストにはない(例外的に八十宮吉子内親王は、リストにあるが、婚約したが結婚生活の実質はない)。東福寺海蔵院は近衛家の墓所だったが大徳寺に移された。嵯峨二尊院には二条家、鷹司家の墓所があり、東福寺は九条家の墓所があるので、降嫁した内親王の墓所は婚家の菩提寺であるから、天皇家から離れたといえるのである。

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 尼門跡は出家しても皇族であることに変わりないが、一方婚出した皇親は、宮家であれ摂家であれ、皇親ではあるとしても婚家に帰属する。それが日本的家制度であり、皇室も例外にはなっていないことを述べた。

 有識者会議はこうした日本の家族慣行に根差した理由のある旧皇室典範44条とそれを継受した現皇室典範12条の意義を顧みることもなく、皇族数の確保という口実で、特例でなく恒久的な制度とするため全面改正に積極的な方針を打ち出したのは、伝統規範破壊という意味で非常に恐ろしい政策である。

 国論を二分する夫婦別姓導入に関する議論に先行する形で、夫婦別姓の事実婚のような新奇な制度を創出し、制度改正を先導する底意が有識者会議にはなかったとしても、意図せざる結果をもたらし非常に不愉快で、夫婦同氏制度を支持している立場でも強く反対である。

 

五 令制では皇女内親王は臣下に婚嫁しても皇族の身分を維持したとする先例は、①案を正当化しない

 

 有識者会議報告は、臣家に降嫁しても皇族の身分を維持した先例として仁孝皇女和宮(親子内親王)を例示し、①案が「皇室の歴史と整合的なもの」として正当化する理由にしている。

 また令和31130日会議「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」では10世紀藤原師輔に降嫁した醍醐皇女勤子内親王(内親王が臣下に降嫁した初例)、同じく醍醐皇女康子内親王、17世紀近衛基煕に降嫁した後水尾皇女品宮常子内親王、二条綱平に降嫁した霊元皇女栄子内親王、18世紀徳川家継と婚約したが家継夭折により江戸に下向しなかった霊元皇女八十宮吉子内親王、19世紀徳川家茂に降嫁した仁孝皇女和宮親子内親王の6方を例示している。

 しかし、以下の理由で事務局史料例示6方は、案を正当化しない。「皇室の歴史と整合的なもの」と太鼓判を押す有識者会議の評価は全く間違っているし、案の前例として説得できる要素に乏しい。

 

(一) 令制と近代皇室典範では皇族の概念が異なる

 

 令制皇親(「親王」「王」名号の天皇の親族)は、単系出自リネジ(血統)の概念なので、人類学的にいうと自動的に単系出自集団である皇親の成員となる。

 嵯峨朝以降、親王宣下制となり、親王位、内親王位は生得的身位ではなくなったが、賜姓されて臣籍に降下しない限り皇親として生涯身位を保持するのは当然である。

 神護景雲3年(769)に巫蠱事件に連座して内親王位を剥奪された例(不破内親王)があるけれども、謀反や陰謀にかかわらない限り親王位が剥奪されることはない。

 一方、皇室典範は后妃が臣下出身であれ皇族の身分とされる。天皇の正配や親王妃が臣下出身の場合は、天皇家に属しても皇親ではない令制とは概念が異なる。

 自然血統概念と、正配も含む「家」ファミリーの概念との違いである。

 したがって令制と近代では皇族の概念が異なるから、令制における臣家に降嫁しても皇族の身分を維持した先例をもって、①案を正当化できない。

 

(二) 例示の6例は違法婚、令制が想定していない婚姻である

 

 先述したとおり、皇親女子の皇親内婚を規定する継嗣令王娶親王条は延暦129月詔で修正されたが、令制では臣下が内親王を娶ることは一貫して違法である。従って、「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」6方はすべて違法であるが勅許された例外的事例なのである。

〇継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

〇延暦12年(793)九月丙戌詔に

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」

 

 特に醍醐皇女康子内親王と藤原師輔の密通は村上天皇の怒りをかったのであって、事後的に承認されたとはいえ反律令行為である。

イレギュラーなケースを、「皇室の歴史と整合的なもの」とする有識者会議の結論に論理性はない。詭弁に等しい。

 

(三) 例示3方の所生子は藤原氏で、父系帰属を留保している案とは違う

 

 臣家に降嫁した内親王の所生子は、父系帰属主義により父の姓を称する。良民の子は父地につける大化元年の男女の法と同じことなのである。

 10世紀の康子内親王の所生子が太政大臣藤原公季、17世紀の常子内親王の所生子が関白藤原(近衛)家煕、栄子内親王の所生子が関白藤原(二条)吉忠である。

 しかし有識者会議は①案の所生子の身分をどうするかを、「将来において悠仁親王殿下の御年齢や御結婚等をめぐる状況を踏まえた上」つまり結婚される頃まで先送りするというものであり、先例のように父系帰属主義を必ずしもとるとは言ってはいない。所生子の身分は留保されているニュアンスで先例とは異なる。

 実際、79日議事録には、「女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」と、将来皇族とすることに積極的な意見があり、状況次第で女系容認もありうる趣旨である。

 藤原公季や近衛家煕、二条吉忠が父系帰属主義で、母は内親王でも皇族になれない。所生子は明確に皇族ではない前例と、①案の趣旨とは明らかに異なるのである。従って論理的に考えて①案の前例とみなすことはできない。。

 

(四) 17世紀以降例示の内親王の婚家帰属性は明白

 

 江戸時代に摂家、将軍家に降嫁した皇女・内親王は、嫁取婚、夫方居住であり、摂家等の正室として婚家に帰属し、墓所も婚家の菩提寺等(近衛家・東福寺海蔵院・大徳寺、二条家・二尊院、九条家・東福寺、徳川家・増上寺)にあるから皇室から離れていることは明白である。

 事務局資料の例示6方のうち、平安時代の勤子内親王と康子内親王は墓所不詳だが、宮内庁治定陵墓(宮内庁が管理)とされているのは霊元皇女八十宮吉子内親王だけである。事務局資料が、八十宮が徳川家正室の寡婦の扱いなので結婚した皇族の範疇にしていることに異論はないが、八十宮は2歳で徳川家継8歳と婚約したが、直後に家継が夭折したため江戸に下向せず、実際に結婚したわけではないから宮内庁の管理なのだろう。墓所は知恩院、徳川家の拠点であって、御寺ではない。

 常子内親王(大徳寺)、栄子内親王(嵯峨二尊院)、親子内親王(増上寺)は宮内庁治定陵墓のリストにはない。ということは、宮内庁はこれらの皇族は天皇家から離れ、婚家に帰属していると認識しているわけである。

 嫁取婚については近衛家煕に霊元皇女憲子内親王の婚儀の詳細が「无上法院殿御日記」「基煕公記」に記されており嫁取婚の形式である[瀬川淑子(2001)]。17世紀の摂家への降嫁他の8例も同様と考えられる。

 なお、摂家に降嫁した皇女のうち東福門院(後水尾后源和子、徳川秀忠女)所生の皇女二方(後水尾皇女女二宮と、賀子内親王)は、幕府より婚姻に際し三千石が充行われているが、これは将軍の外孫にあたるためで、17世紀に摂家に降嫁した他の7方は、国家的給付に相当する皇女御料はなかったと久保貴子[2009]が指摘しており、皇族費の国家的給付が想定される案とは違う。

 また、事務局資料には例示されていない女二宮と賀子内親王については、婚嫁した近衛家や二条家の邸宅の敷地内に皇女のために大きな御殿が新造されているけれども、夫方居住なのである。その他の17世紀に摂家に降嫁した内親王は、品宮常子内親王が新婚当初だけ別居という変則的なあり方だが、近衛家本邸を居所としており、他の内親王も夫方居住である。

 なお、10世紀の醍醐皇女康子内親王と師輔との密通は内裏だったが、婚姻が承認された後は、師輔の坊城第を居邸とし、夫方居住が史料上確認できる。墓所不明だが、四十九日と一周忌は法性寺(藤原忠平建立の氏寺)であった。

 有識者会議①案は皇室財産の邸宅が用意されるのか不確定だが、摂政や国事行為臨時代行たりうる立場である以上、結婚相手の私邸住まいではすまないようにも思われ、例示の内親王が夫方居住であることは、①案のモデルであるアン王女が、女王が購入し贈られたマナーハウスを居邸としていることとも異なると指摘できる。

 つまり例示された内親王の先例は①案の想定とは状況がかなり異なるので、①案を正当化できない。

 

 以下の本文で、要旨で述べたことを詳説し、その他の論点を補足する。

 

 

本文

2節 有識者会議①案を悪質とみなす理由

 

一 将来的には共系、女系容認を目指している案

 

 私は、有識者会議案はかなり悪質と評価する。

 有識者会議①案は、婚入配偶者(出嫁女)は婚家に帰属する、日本的「家」の家族慣行にもとづいた皇室典範12条の改正を必須とすることにより、天皇や宮家当主は男性皇族、皇后や妃は女性皇族という性的役割分担を流動化させることに真の狙いがあるものと考える。

 将来的にはスウェーデン、英国などと同じく、男女いかんにかかわらず長子相続(1979年にスウェーデン、1983年オランダ、1990年ノルウェー、1991年ベルギー、2009年デンマーク、2010年ルクセンブルク、2013年英国が王位継承法を改正)、要するに初生子相続の女系容認、共系の皇位継承法に変革する構想を暗に示唆している。

 つまり、令和37月の中間整理の段階では、皇族数を確保する当面の目的は、悠仁親王殿下が即位した後、皇室を支えるために摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員等を担える員数を確保するという趣旨であり、①案が皇室典範12条の改正により恒久的な制度とするとは言ってはいない。

 皇族数減少期の特例も視野にあったはずだが、11月に会議が再開されて、事務局の提案を受け入れ、最終段階で恒久的制度として、女性皇族は男性皇族と同様、生涯皇族にする案として明確にしたのである。

 有識者会議①案が実現すると、眞子内親王殿下のように一般国民と結婚しても皇室を離れることは原則としてできなくなる。対立する見解を中和させるため、仮に①案と②案が並行して実施されたとしても、養子縁組が進捗しない場合には女性皇族が圧倒的に多くなる。仮に②案も並行して実現し旧皇族が復帰したとしても、親王妃、王妃を含めると、皇族全体では女性皇族の割合がどんどん増加していくプランなのである。

 女性皇族が今後も増加し、仮に悠仁親王に皇子がない事態になれば、女性皇族に皇位継承権を付与し、共系、女系容認しかないという流れになることを見据えているのではないか。

 

二 皇室典範12条潰しで女系容認の突破口にする隠れた意図

 既述のとおり、少なくとも14世紀以降、皇室や宮家は日本的「家」制度と同じく限嗣単独相続となった。

 事務局が強く推した皇室典範12条を改正する目的は、男性皇族が天皇家や宮家の家連続者であり、当主であり、女性皇族は后妃、親王妃、王妃という、女性は婚家に嫁す存在としての伝統的慣行、性的役割分担を流動化させることにあると考える。それは大きな変革になる。

 しかも恒久的制度とする方針を有識者会議が受け入れた以上、将来的にはスウェーデンや英国の王位継承法に准じた改正を想定しているとみてよい。

 加えて、②案が並行して実現しても養子縁組の旧皇族に皇位継承資格は付与されないとすると、悠仁親王殿下以降、男系男子の皇位継承法を今後も維持していくことは留保されているので、旧皇族が過渡期の一時的な皇族減少策に利用されて終わる茶番になる可能性すらある。

 皇室典範12条さえ潰せば永久に女性皇族が増加していくからくりで、概ね男女同数とするには女性皇族の配偶者が一般国民であっても皇族とし女系容認とするほかない。皇室制度は大きく変質することになり、それが①案の隠れた狙いなのだろう。

 

三 女性宮家の可否が全くなされていない

 

 有識者会議は付帯決議にある女性宮家の可否について言及していないことも問題とされる。論点をずらして正面切った提言をしていない。

 女性宮家をしっかり精査すれば、「皇位継承の歴史や伝統は、大変重いもの」という観点では否定的にならざるをえないから、女性宮家ではなく①案のような変化球になったといえる。

 今回の有識者会議のコンセプトは悠仁親王殿下が即位した時点で、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員たりうる皇族の員数を確保するということなら、非婚の内親王・女王を厚遇して皇族数を確保するプランもありうるが、その言及はない。

 結論を先にいうと生涯非婚内親王、とりわけ嫡系の内親王が厚遇されていた歴史的経緯をふまえ、非婚内親王は、独立生計で家政機関を付置し宮家当主に準じた経済的待遇があってもよい。

 所功氏[2018]は、次のように女性宮家の創設を主張する。

 「いわゆる女性宮家とは、皇族女子を当主とする宮家であります‥‥「皇室経済法」第六条三によれば、内親王も「独立の生計を営む」ことが想定されています。その第六条一により、三笠宮次男の宜仁親王も結婚せずに独立して「桂宮」と称された実例がありますから、未婚の皇族女子が当家から独立して新宮家を称することは、法的に可能だと解されます。しかし、未婚のままではその方限りで終わってしまいます。それゆえ必要なことは‥‥結婚して当家を相続できるようにすることです。」

 私が女性宮家推進論に反対するのは、主として皇室典範12条改変と、歪なかたちで入婿的配偶者を認めることにあり、配偶の男性皇族が在世しているかぎり、女性皇族は当主たりえない規範に反するからであり、女性皇族に皇位継承資格を付与することや、所生子も皇族とする前提がなくても反対である。

 有識者会議が皇室典範12条潰しを狙っていることは、従来の「女性宮家」推進論と全く同じであり、本当の狙いを隠し、旧宮家の男系男子の養子縁組とセットにして対立する見解と中和させるようにみせかけていると考える。

 私の本心は結論で述べたとおり③案のみがベスト、②案は次善策で、旧宮家の再興、復帰をコンセプトにしてシンプルな政策を望むので積極的には推さないが、皇室典範12条改変さえなければ、たんに非婚の女性皇族の厚遇には反対はしない。たとえば嫡系の内親王を准三宮のような形として厚遇することは、先例もあるから非婚であるという前提のもとに反対はしない。

 

(一) 前例とされる幕末の淑子内親王の桂宮相続が検討されていな

1 空主の期間が長かった桂宮家

 女性宮家を正面からとりあげなかったので、この議論が避けられてしまった。そこで所功氏が女性宮家の前例とする、幕末の仁孝皇女敏宮淑子内親王の桂宮相続について筆者の見解を述べる。

 周知のとおり、江戸時代は伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の世襲親王家が4家あった。桂宮とは天正14年(1586)、豊臣秀吉の猶子だった陽光院誠仁親王の皇子一品式部卿智仁親王を初代として創設され、八条宮と称したが、家領は秀吉より付与された。

 この点、中世の世襲宮家の所領体制と幕府の麾下におかれた徳川時代の世襲親王家では性格が異なるので留意したい。

 たとえば室町時代の伏見宮家の家領の由緒をみていくと、応永23年(1416)後小松院より永代安堵された室町院領(近江山前荘、塩津荘、今西荘、若狭松永荘など)[村田正志. (1954初刊、1984)][白根陽子(2018)]とは、後高倉院系の荘園群で伏見院が亀山院・瑞子女王と争ってその一部を獲得した由緒がある[金井静香. (1999)]。播磨国衙領は後嵯峨院の御分国を後深草院が相続した由緒があり、ほかに後白河院の姉宮上西門院領だった熱田社領などもあり、小規模ながら廷臣を伺候させ、家礼を従える権門だったのである。

 永享8年(1436)に足利義教の差配で加わった「干鮭昆布公事」という専売権は元々北条得宗家の権益だが[秦野祐介 (2020]、それ以外は持明院統に伝来した由緒のある皇室領で、15世紀中葉には現金換算で約2億円程度の収入があったと推定されている[秦野裕介YouTube2022 55分過ぎ]。

 しかし近世の石高知行制に移行し、伏見宮は幕末には表向き千二百石、実収四百石程度といわれ、知行地も付け替えられ、中世と近世では家領が全く違うものになってしまっている。それはなぜか。

 豊臣秀吉が諸公家、諸門跡の中世の知行、洛中の地子銭収入をいったんすべて収公し、知行を再編して再給付することにより、知行充行権を掌握したからである [山口和夫, 2017]

 戦国末期に荘園の不知行地化が進んでいたため、知行の再編再給付により公家の収入は安定化したが、それは秀吉の麾下におかれることを意味していた。

 そして徳川幕府は全領主階級を統合し、知行充行権を秀吉より引継ぎ、皇室、宮家、公家は幕府より御領、家領の知行を充行われる近世的領主となったのである。 

 中世の所領体制の皇室領とは意味が違うのである[菅原正子2002]。近世は、古代のように皇親各々に封禄が給付されたり、現代のように皇族各々に皇族費が給付されるのとは違う。宮家に家領があてがわれていて、家領の相続した皇族が宮家当主である。

 近世では、皇位継承予定者以外の皇子は入寺得度して宮門跡(法親王)となるのが通例だが、世襲親王家が空主となった場合は皇子が宮家を相続する。

 すべての宮家で実系が途絶し空主となったことがあり、皇子が宮家を相続した。ただし伏見宮は桃園天皇第二皇子の貞行親王が17代当主として相続したが、親王が早世されたため、勧修寺門跡寛宝親王の還俗(18代伏見宮邦頼親王-15代貞建親王の二男)により実系相続に復帰したので、戦後の臣籍降下まで皇統の曩祖崇光天皇より550年一貫して実系を維持した。

 一方、頻繁に空主となり、実系の世襲が長くても四代までだったのが桂宮であり、このため宮号も八条宮、常磐井宮、京極宮、桂宮と変遷している。

 それゆえ桂宮は、皇位継承者以外の皇子が、入寺得度せず、在俗親王とする空きポストのような状況になっていた時期が長い。特に19世紀は、宮家を相続した親王の夭折が相次いだためである「若松正志(2014)]

 霊元三世孫の京極宮公仁親王は後継者がなく明和7年(1770)薨御。寛政元年(1789)後室で紀州徳川家から嫁した寿子妃が薨ぜられて宮家は空主となった。

 文化7年(1810)、光格皇子盛仁親王は天皇の命により京極宮の継承者となり、桂宮の宮号を賜る。幕府より山城国葛野郡川勝寺村、下桂村、徳大寺村、夙村、御陵村及び乙訓郡開田村30066余の領有を認められたが2歳で夭折し、宮家は空主となる。

 天保7年(1836年)仁孝皇子節仁親王が桂宮を相続したが4歳で夭折、長期にわたって桂宮は空主だった。しかし家領の経営は諸大夫により続いており、皇子が誕生したときのポストとしてとっておかれた。

 そうしたところ文久2年(186210月桂宮家に仕える諸大夫たちが仁考皇女敏宮淑子内親王の桂宮家相続を願い出、幕府も承認したため、非婚内親王の当主は異例だが、文久3年(1863)、淑子内親王は宮家を相続した [久保貴子, 2002]。幕府は道具料500石を進上、時に35歳で生涯独身、慶応2年(1866)准后、一品、明治14年(1881)薨御により宮家は断絶した。

 

2 公武合体策で、和宮の姉宮にもしかるべき待遇が用意された

 

 敏宮淑子内親王は天保11年(1840)閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料300石を得たが、2年後に親王が薨ぜられので結婚に至らず、朝廷は淑子内親王の御殿を用意できず、住まいを転々としていた。江戸時代の皇女の多くは尼門跡(御宮室)となったが、幕末は尼門跡が荒廃したようで、入寺することはなかったと考えられる。

 敏宮淑子内親王と和宮は同居していた時期があり、文久元年(1861)江戸への出立が近づいた和宮親子内親王は、輪王寺宮里坊を居所としていた姉宮敏宮淑子内親王の処遇を憂い、御殿造営を幕府に命じられるよう天皇に願い出たとされている。よくできた話であり、降嫁を控えて幕府も拒否できなかったのである[久保貴子 (2002)]。

 公武一和という文久の政治的事情で、孝明天皇や和宮の姉宮を粗略に扱えない幕府側の事情もあり、宮家当主として非婚内親王を厚遇したものであって、婚入配偶者と結婚することを前提とした今日取りざたされる女性宮家とは性格が異なる。

 淑子内親王の宮家相続は、35歳独身であり、配偶者を迎えることは考えられていない。だからこそ相続できた。宮家は空主が長期続いていたこともあり、表向きは和宮の計らいと諸大夫の願い出があって、姉宮に御殿と知行が付与されたということになる。

 以上の特殊な事情から、淑子内親王は、長期間空主だった桂宮当主として遇された。しかし宮家が空主でなければ、非婚内親王最後の女院、後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下により礼成門院)のような遇され方になったのではないか。

 在俗非婚内親王の厚遇の前例の孝子内親王は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、手許に留める方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられた[久保貴子2009]。

 このケースは東福門院(徳川秀忠女)の計らいがあったのではないかとみられている。

 孝子内親王がなぜこのような形になったか、後光明の猶子である高貴宮に万一事故があったときの中継要員なのかそれは憶測にすぎない。

 

(二) 生涯非婚内親王なら「女性宮家」を否定はしない

  つまり、生涯非婚内親王の厚遇、特に嫡系の内親王については准后、院号宣下相当の遇され方をしても前例があるので悪いとは言いにくい。

 もっとも、在俗の非婚内親王で後水尾皇女昭子内親王(岩倉御所)は母が東福門院(源和子・徳川秀忠女)のため厚遇されたが、母后と同居していた時期が長く、後光明皇女孝子内親王の御殿も母と同居であった。

 ところが桂宮は表向き三千石の知行で、淑子内親王は異例の厚遇といえる。

 後水尾皇女女二宮や賀子内親王が摂家に降嫁する際、幕府より三千石が付与されているのは、徳川家の縁者のためで、東福門院や明正上皇の知行五千石と比較しても、非婚内親王に三千石+道具料500石は破格の待遇に思える。

 ただし宮家当主というのは家領経営体のトップというポストであるが、内親王が婚入配偶者を迎えたりすることは伝統に反するのでなされることはない。淑子内親王も非婚であり、この意味で、皇室典範12条は維持されなければならない。

 とすれば、結論は、非婚である限りの「女性宮家」、非婚女性皇族の厚遇は皇室典範12条の絶対維持と皇位継承資格を付与しない前提なら否定はしない。

 12条維持なので、皇族以外との結婚で眞子内親王殿下のように皇室を離れて結婚を希望されてもよいし、非婚か皇族と結婚して皇室に残っても相応に厚遇される案であれば、共産主義者が喜ぶだけの有識者会議①案より、人生設計の選択肢が広くて自由度が高いから、たぶん当事者となる女性皇族にとっても喜ばれる案になる。

 ただし積極的には提言しない。皇位継承者の確保にはつながらないからである。③案などを堅実に実施し、皇族数確保の目途がたてば、「女性宮家」は必要ない。

 有識者会議①案は明確に棄却すべきであるが、内親王の国民的人気から待遇改善はあってもよいという趣旨である。くすぶるなら皇族数を確保するための代替案とする。第4章でも同様のことを述べる。

 女系容認の政党の出方がわからないが、①案は将来的に女系容認をみすえた案であることに気づくはずで、こちらを推してくる可能性が強いからである。

 

(三) 内親王の経済的厚遇は、皇親のみに嫁ぐ皇親内婚が定められていたため

  6世紀の宣化皇女欽明后石姫より紀宮清子内親王までの約千五百年間で、皇女(実子)の結婚は天皇・皇親と結婚された例が63方に対し、臣下に降嫁した例が27方である。

 これは継嗣令第十三の王娶親王条が、臣下が娶りうるのは五世女王以降とし、皇親女子の皇親内婚を規定していることによる。内婚は56世紀に遡る皇室の慣行であり[栗原弘(2002)]、皇族の血の聖性を保証することに由来する。皇族の血の流出を防ぎ、皇統の神聖さを高めるものだった[村山太郎(2003)]。

 それゆえ、統計的にみても内親王は皇親内婚が、違法婚になる臣下への婚姻よりずっと多い。しかし、夭折事例を除いても、皇女のおおよそ八割は、生涯非婚であり「皇女独身主義」的状況もみられた。13世紀、15世紀から16世紀は、ほとんど皇女は生涯非婚だった。

 もっとも、延暦129月詔に三世女王以下は、現任大臣、良家の子孫が娶ってもよいことになり、藤原氏は特に二世女王を娶ることを許すとされ、大きな規制緩和がなされている。

 二世女王の臣下への降嫁は、9世紀の淳和二世女王恒世親王女の内麿十男藤原衛への降嫁が初例である。

 しかし令制においては臣下が内親王を娶ることは一貫して違法なのである。

 これに挑戦したのが10世紀の藤原師輔であり、醍醐皇女三方(勤子内親王・雅子内親王・康子内親王)と密通し、反律令行為でありながら事後承認される形で違法婚が成立している[ 岡部 明日香・(2012)]。

 とはいえ、内親王が臣下と結婚することは好ましくないという意識は歴史上一貫していて、生涯非婚内親王が大多数をしめるのは、第一に継嗣令王娶親王条が、臣下との結婚を違法としているためであるが、令制の規定により内親王庁が付置され経済的な待遇で恵まれていたこともある。

 もっとも食封制や禄制は崩壊過程をたどったが、それに代わるものとして内親王は御給(年官年爵)の給主として特権があった。

 律令国家の収取体系が完全に崩壊した、12世紀以降も内親王が非婚准母皇后として立后や、女院宣下により三后に概ね劣らぬ顕位とされたこと。王家御願寺領の本所として経済的にも恵まれていた。

 室町時代以降は、寺領経営体のトップである尼門跡(比丘尼御所)のポストが用意された。

 このように古代より中世まで一貫して内親王や皇女についてみると、総じて経済的な待遇は良かったといえる。

 というのも内親王は天皇か皇親以外と結婚しない、内向きの性格ゆえ厚遇されたのであって、一般国民と結婚しても皇族の身位を失わないとする有識者会議案は歴史的な皇室制度とは全く理念が異なるのである。

 

(四) 古代・中世の非婚内親王の礼遇からすれば、もっと女性皇族の経済的待遇を良くすべきかもしれないが①案は伝統に反し反対である

  有識者会議案は、女性皇族の処遇の大改革をめざしているが、それは皇室の歴史的伝統に合致しない。この点古代・中世の内親王の礼遇、経済的特権について概観したうえ見解を述べる。

 

 

1 令制の家令職員、禄令食封など

 

 令制において親王の礼遇が諸王・諸臣と比較して格別であることはいうまでもない。

その礼遇、経済的待遇については、諸王・ 臣下の位階に相当する叙品(一~四品)により格差もあった。

 『西宮記』の「一親王及后腹、 一度三品、余四品」の意味は、「一親王」とは最初の男子の親王であり、皇后所生の親王が「后腹」で、初叙において三品に直叙され、それ以外の親王は、初叙を四品とする。内親王が天皇の妃となるときは三品直叙としている[久下 裕利(2006)]。これは10世紀の慣例を示しているが、あくまでも令制の規定どおり内親王は皇親とのみ結婚する前提のものである。

 嵯峨朝以降、親王宣下制度となり、親王は生得的身位ではなくなり[i]、源潔姫のように賜姓されて臣籍に降下する皇女と、内親王宣下される皇女と格差がつけられるようになる。

 親王の待遇は、家令職員令で文学・家令・扶・従の職員がつく、文学は経書を教授する教育係で内親王にはつかない。帳内(近侍して雑用にあたる)の数は品階によって格差がある。親王の品田は一品に80町、二品60町、三品50町、四品40町、禄令食封条では親王一品に800戸、二品600戸、三品400戸、四品300戸で内親王は半減である。なお正三位の食封は130戸なので、四品内親王は正三位より良い待遇といえる。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、皇親が官職につくと官職に応じて職田、食封、季禄などがつく[藤木邦彦. (1991)]。

 これは平安時代には延喜式に踏襲されたものの、食封制や禄制は崩壊過程をたどっていく。しかし内親王にはそれに代わる特権である。御給(年官年爵)を行使するようになるので、経済的に優遇されたといえる。それは、皇親内婚もしくは非婚で、皇族にとどまる身位であるからと理解してよいのである。

 

2 内親王庁(政所)につい

 

 平安中期以後になると、親王には摂関家のように別当・家司が附属する親王庁が組織された。『江家次第』によれば公卿のうちから勅別当が指名され、その指示で本所の儀が執行され、家司・御監・職事・侍者・蔵人が補されるならわしであり、応安元年(1368)の栄仁親王(崇光皇子、伏見宮初代)までは、親王庁の構成員を任命する儀が行われていた。従って、中世まで、親王家とは廷臣を伺候させ、家礼を従える権門であった [小川剛生, 2009]

 内親王についても内親王庁(政所)が開設された。例えば鳥羽皇女暲子内親王(八条院)は、保延4年(11382歳で内親王宣下を受け、後見者となる勅別当には母美福門院の別当を兼ねる、中納言藤原伊通が補任されている。

 伊通は二条親政派の重鎮であり、中級貴族ながら太政大臣にまで昇進した。暲子内親王は二条天皇の准母として、従来女院は后位を退いて宣下をうけたが、先例にない后位を経ないで女院宣下を受けた。それを押し通したのが伊通だった[永井晋2021]。

 後白河は中継ぎの天皇なので、鳥羽院・美福門院の嫡系所領を継承したのは八条院であり、母の跡をついで、二条親政派を支え、旧鳥羽院政派の公家や廷臣をまとめた。後白河院に冷遇された廷臣や、没落した家を庇護したため[永井晋2021]、新規の所領が加わり続け、220か所以上という莫大な荘園群の本所となった。最強の皇女といわれるゆえんである。

 八条院の猶子で、荘園群の相続を指定されていた後鳥羽皇女昇子内親王(春華門院・中宮藤原任子所生・八条院薨後半年で薨御)は当歳で内親王宣下をうけた。政所家司は以下のとおり(『三長記』建久61016)[永井晋2021]。

 つまり満0歳で以下の家礼を従えたということである。

職事 左中将 三条公房

家司 丹後守 藤原長経

家司 伊予守 藤原能季

蔵人     源国朝

侍者 中宮六位進 源季忠

御監 元中宮侍長 源重継

庁年預 中宮属 安倍資兼

 

3 御給(年官年爵)制度

 

 非律令的な制度だが、内親王や三后、女院について10世紀後半以降、院宮給事と称される、人事推挙権御給の権限があった。これは食封制の崩壊からそれに代わる封禄制度、給主が家政機関や近親者に官位を賜ることを本質とした制度とされる[佐古愛己(2014)]。

 年官年爵という、毎年一定数の官職や位階を与えるべき者を推薦し、その任料・叙料を推薦者の所得とした制度である[ii]

 一般論として非婚内親王は利害調整的な政治にかかわらないとしても、御給により朝廷の人事に関与していることになる。

 律令官人は官職位階によって地位をあらわしており、御給は家格に見合った地位につくために有効な手段だった。年爵を受けるためには、給主との血縁関係、勤務状態、精勤が条件だった[細谷勘資(1990)]。

 院政期になると、内親王、女院、准后など年爵の給主が増加したうえ、院家沙汰行事の勧賞が急増し「非年労制的」昇級が激増、従来叙爵に使用されていた年爵は、後白河院政期には三位以上に及んだ。

 御給による叙位は昇進を早め有利だったのである。このため年労制的秩序は崩壊に向かい、人格的関係と個別具体的奉仕が重視される中世的叙位制度が後白河院政期に確立する[佐古愛己(2014)]

 ただし御給制度は、13世紀後半から統制されるようになり、14世紀には治天の君と国母、有力な上皇、女院に限られるようになった。

 

4 非婚准母皇后と女院制度

 

 令制の収取体系は12世紀以降、受領監察が形骸化して崩壊し、土地制度は荘園公領制に移行する。

 平安時代に天皇の妻后として皇后に立てられた内親王は5方、皇族と結婚した内親王は、5方以外に16方おられる。

 保元元年(1156)鳥羽皇女姝子内親王(高松院)が後白河皇子だが皇后藤原得子猶子の守仁親王(二条)の東宮妃とされるまで、間断なく内親王が結婚する事例が続いてきたが、姝子内親王以降、内親王は非婚が通例となる。しかしこの時代は非婚内親王が最も厚遇されていた時期かもしれない。

 院政期から鎌倉時代にかけて非婚内親王は准母等を名目とする皇后の立后例が、11例ある。

 皇后は天子の嫡妻だから、非婚内親王を准母として皇后に立てるというのは本来の制度とは違うが、白河上皇は、醍醐養母皇太夫人藤原温子(関白基経女)が中宮職が付置されていたため、温子は宇多天皇の女御として入内したのに、これを前例とする強弁ともいえる強引なやり方で、鍾愛する白河皇女媞子内親王を厚遇するため、非婚でありながら堀河天皇の姉だが准母という名目で皇后に立てられた。さらに后位を退いて女院宣下された(郁芳門院)。これが非婚内親王の女院宣下の初例である。

 非婚皇后の第二例は、鳥羽准母令子内親王(白河皇女)である。鳥羽天皇の実母藤原苡子が産褥死し、鳥羽天皇は5歳で践祚したので、行幸等扶持する母后が必要であり、名目的ではなく実質的に准母としての役割を果たしている。令子内親王は政争にかかわることなく、太皇太后にのぼせられ長命でもあったので、これを佳例として、非婚准母皇后が慣例化したのである[橋本義彦. (1976)]。

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 また非婚皇后だけでなく、非婚内親王が直接女院となる事例も多くある。そもそも女院の初例は一条御生母の皇太后藤原詮子の女院宣下、東三条院であり、初期の女院は、国母に限られ、太上天皇に准じ、后位に勝るとも劣らぬ顕位であったが、女院は、時代により性格が変化し、天皇生母でない皇太后や、非婚内親王も含めて女院宣下されるようになった。非婚内親王の女院宣下は院政期から江戸時代まで34例ある。

 とくに院政期から鎌倉時代、八条院(鳥羽皇女)や宣陽門院(後白河皇女)が有名だが院庁が開設されて院司を従え、莫大な御願寺領荘園群の本所として大富豪となった。

 しかしそれは内親王の歴史的由来が、臣下に降嫁すべきものではなく、内向きの性格を有していたからであることを理解すべきである。

 なお鎌倉時代後期になると、巨大皇室領荘園群は、持明院統、大覚寺統両皇統の惣領である治天の君の管領となり、巨大荘園群を相続する内親王はいなくなる。

 

5 尼門跡

 

 皇室領の実効知行地が大きく減少した室町・戦国時代は皇女のすべてが入寺得度し尼門跡(比丘尼御所)となった。尼門跡は経済的には幕府に依存していたが、寺領経営体のトップで相応の収入はあった。

 例えば後土御門皇女渓山が住持の大慈院の永正7年(1510)~14年(15177年間の主な収入が1867貫7文[菅原正子(2002)]で、現代の貨幣価値に換算して2億円近くありしかも黒字である。

 つまり年収約3千万円の住持が皇女のポストであり、しかも渓山は男性公家を引き連れて、社寺参詣や遊興に繰り出す余裕があった。また尼門跡領も広義の禁裏御領として保護されていたのである[井原今朝男 (2014)]。

 尼門跡は、令制の内親王の経済的待遇とは違うが、寺領領主で代替されているともいえる。

 中世後期から近世の尼門跡(比丘尼御所・御宮室)は内親王宣下をうけないが、皇族であることに変わりなく決して悪い待遇ではない。

 

6 小括

 

 以上の歴史的経緯から、皇女内親王はもっと厚遇されてよい。しかしそれは、令制が皇族との結婚のみ合法としていたように、内向きの性格ゆえである。

 内親王が令制の規定どおりの国家的給付を受けていた時期は短いだろう。9世紀には食封制も禄制も崩壊過程をたどっていったと考えられるからである。

 しかしそれに代替する経済的特典は付与されてきたわけだし、大富豪となった時期もあった。少なくとも中世までは男性親王と同じく、廷臣が祗候し家礼を従える存在だったと考えられ、尼門跡も寺領経営体のトップでありしかるべき経済的待遇があった。

 令制を規範として生涯非婚独身を前提とするならば独立生計、家政機関付置の「女性宮家」の考え方は全面的には否定しない。

 しかし有識者会議①案は、天皇や皇親と結婚相手が限られ、あるいは非婚にとどまったからこそ厚遇されていた歴史上の内親王のあり方とは全く違うものである。

 有識者会議案は、皇室典範12条を改正する方針である以上、一般国民と結婚しても生涯皇族として国家的給付が想定される案で、これは伝統的なあり方から大きく逸脱するだけでなく、内親王号の歴史的由来[文殊正子. (1986)]を否定し、皇室制度を根本的に破壊するものとして反対する。

 

四 皇位継承資格のない皇族がやたらと増加する案

 有識者会議①案は、皇位継承者でもないのに常に女性皇族が多数をしめる状況をつくってしまうことが問題である。

 中世前期以前、在俗の非婚内親王が権門体制の一翼を担ったことはすでに述べた。

 しかし、室町時代以降、多くの皇女は入寺、得度された。尼門跡は皇族であることに変わりなく世俗行事で宮廷の在俗皇族と交流があるにせよ、基本的には天皇家からは離れているので、①案のように在俗のまま皇室にとどまりつつ、一般国民と結婚することを合法化して、皇室に残る女性皇族の増加をめざす政策は歴史的にみてきわめて異様なあり方といえる。

 尼門跡と婚出した内親王が皇族であれ天皇家から離れたと解釈すると、江戸時代には天皇家に残る非婚内親王はさほど多くないのは、17世紀に皇女御料が制度化されていなかったことがある。

 江戸時代は無事に成人した皇女50方のうち28方、生涯非婚皇女の八割は尼門跡(御宮室)であり、尼門跡は親王宣下されなくても皇族であることにかわりないが、17世紀は皇女御料が制度化されていなかった[久保貴子(2009)]。

 江戸時代の初期は皇女の数が多く結婚するケースが比較的多いのは、尼門跡のポストが足りなかったこともある。

 後水尾皇女17方のうち女二宮と、賀子内親王は、徳川秀忠の外孫にあたるため摂家との婚姻の時点で三千石の知行が付与されたということだが、これは徳川家の縁者であるための特別待遇で、普通の皇女には知行はない。

 近衛基煕に降嫁した後水尾皇女品宮常子内親王(母は新中納言局園国子)が後水尾院崩後、法皇の遺詔により、幕府に返還する知行三千石のうち、修学院村300石の知行を得た[瀬川淑子(2001)]。これは幕府が承認したためだが、常子内親王が39歳の時である。従ってこれは皇女御料という性格のものでなく、皇室領の一期相続でもない。品宮は法皇に鍾愛され独身時代に公家町に御殿を賜り、岩倉の山も法皇から賜っており、法皇は近衛基煕夫妻に幡枝の別荘も下賜された。さらに法皇は近衛家本邸の茶室などの改築にも支出したうえ、常子内親王は法皇に無心して銀子五百枚で紫竹の別荘も購入したが[久保貴子2008]、制度的な皇女御料はなかったとみられている。またこれらの物件は近衛家煕が相続している。

 したがって17世紀の皇女は、後光明皇女孝子内親王(生涯非婚)のように知行を充行われることがなければ、寺領領主である尼門跡か、摂家や皇族と結婚するしかなかった。

 17世紀に摂家に降嫁した内親王は9方おられる。17世紀末期に方針が変わって、内親王は結婚する場合は皇親との結婚が原則となり世襲親王家の親王妃となられた内親王が3方、後桃園皇女欣子内親王は光格天皇の中宮であるが、皇后に立てられた欣子内親王以外は、摂家の政所や、親王家の妃として、嫁取婚により婚家に帰属するから、結婚して天皇家に実質とどまったといえるのは、皇后の欣子内親王だけなのである。

 ただし、生涯非婚内親王で天皇家にとどまった例が数例ある。まず後水尾皇女で明正女帝、岩倉御所と称される昭子内親王、後光明皇女孝子内親王、桜町皇女智子内親王(後桜町女帝)である。幕末の仁孝皇女淑子内親王は婚約していた閑院宮愛仁親王が早世されたので独身のまま、長期間空主が続いていた桂宮の諸大夫の請願により桂宮を相続した。

 後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下礼成門院)は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、生涯手許に留めて厚遇する方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられたが[久保貴子2009]、これは東福門院のはからいとも考えられている。

 桜町皇女智子内親王(一品、後桜町女帝)は寛延元年(1748)幕府から将軍世子家治との密々の縁組の申し入れがあったが、桜町天皇が拒否。桜町崩後に御領300石を得たのは[久保貴子2009]、縁談申し入れの経緯もあるからだろう。

 幕末の淑子内親王の厚遇は、既に述べたとおり公武合体策で和宮が将軍家に降嫁した経緯から、和宮の姉宮を粗略に扱えない事情があった。

 周知のとおり、江戸時代は四親王家あった。入寺得度した法親王は皇位継承者たりえないので、男性皇族は基本的に在俗なら皇位継承資格者といえる。天皇家嫡系の儲君のほか、宮家当主とその王子が在俗であれば皇位継承者たりえた。

 近世の女性皇族で潜在的に皇位継承候補たりうるのは、非婚で在俗の皇女か、皇后に立てられた幸子女王や欣子内親王が御配偶の天皇崩御の後ということになるが、皇女は十代の早い時期に、入寺するか婚姻するかが決められる傾向があり、皇女御料は制度化していないので、潜在的に皇位継承者たりうる在俗の非婚皇女はこれまで述べた事例のように常に存在するわけではない。

 とするならば、江戸時代の状況は皇位継承候補たりうる皇族はやはり男性皇族が多いということになる。

 明治から昭和、特に11宮家離脱前は、多くの男性皇族がおられて皇位継承者が不足することはなかったことはいうまでもない。

 ところが有識者会議①案は、皇位継承者でもないのに常に女性皇族が多数をしめる状況をつくってしまう。

 ノーマルな思考なら、皇位継承者たりうる男系男子が不足しないような対策であるべきなのに、①案は逆なのである。

 皇族減少期に限った対策なら、①案は恒常的制度とする必要はないが、皇室典範12条を改正して恒常的制度にすることに事務局がこだわるのは、隠された狙いがあると勘繰られても仕方ない。

 真の狙いは、性的役割分担の流動化、家父長制の粉砕という、左翼勢力が喜ぶ皇室制度の伝統破壊である。

 にもかかわらず保守派論客が有識者会議案を肯定的に評価していることに不安を覚えるものである。

 

 第3節 ①案は皇室典範12条改正を伴い皇室制度を根本的に破壊する

一 アン王女がモデルの案は英国の模倣であり国体を破壊する

   令和3年、79日有識者会議議事録に以下の発言がある。

 「イギリス王室では、アン王女は王族であるが、御家族は王族ではなく、それによって問題が生じているわけではない。このような海外の例を見ても、御本人は皇族であるが、御家族はそうではない、という形も、それほど無理なく成立するのではないか。 女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」

 これより後の1130日会合でリヒテンシュタインの制度の言及があるが、アン王女への言及が先行していることから、アン王女が案のモデルと想定できる。

 アン王女のロンドンの居邸はセント・ジェームズ宮殿、普段は女王が結婚祝いとして購入したコッツウェルズのマナーハウスを居邸とされている。アン王女をモデルとすれば、①案も夫方の私邸ではなく、宮家と同じく皇室財産の邸宅になるのではないかと想定できる。

 要するに①案は英国王室の模倣をやろうとしているが、非常に筋の悪い案である。

 

(一)女系容認の英国王室の模倣は国体破壊

 そもそも14世紀の英仏百年戦争は、母方でフランス王権カペー朝直系の血統を継いでいるエドワード3世が、男系だが傍系のヴァロア家フィリップ6世よりフランス王にふさわしいと主張し、宣戦布告した(別表参照)。

 英国王室は昔から、女系で王位継承の正当性ありという思想で戦争してきた国家なのだ。

 大陸では、サリカ法の影響が大きく、フランス[iii]、神聖ローマ帝国、ドイツ領邦など男系であったが、英国は古くより男系が途絶すると女系をたどって後継者を見つけてきたので女系容認であった。

 また1979年にスウェーデン、1983年オランダ、1990年にノルウェー、1991年ベルギー、2009年デンマーク、2010年ルクセンブルグが男女いかんにかかわらず長子(初生子)相続の王位継承法に変更した。英国は2013年に、王位継承法をあらため長子相続による男子優先を撤廃しており、英国の模倣は我が国の皇位継承と全く異なり、単系出自でなく共系になっているのだから、単系出自の皇室のあり方を著しく変質させる。

 入婿が家長予定者として婚家に婚入する日本的家制度、出嫁女の婚家帰属の我が国の家族慣行と、英国(北西ヨーロッパ)は核家族が基本で社会構造が違うことも指摘しておきたい。

 英国は近代以前から本質的に夫婦と子供からなる単純核家族の社会であったことは、ケンブリッジグループのピーター・ラスレット[川北稔・指昭博・山本正訳(1986)]や歴史人口学が示していることで、日本にも隠居制家族があるが、英国とは社会構造が違うというべきであり、アン王女を安易に模倣すべきではない。

 英国王室の模倣は我が国の国体や家族慣行とも違うものであるから、国体や我が国の醇風美俗を破壊することになり、それゆえ①案は文化破壊の脅威となる。

 

(二)女子差別撤廃条約との関連で改正したルクセンブルクに追従する理由なし

 なおルクセンブルク大公国は、女子差別撤廃条約との関連で、2010年大公位継承法を変更したという。

 この論点に有識者会議報告はふれていないが、①案がこれをトレンドとみて皇室典範12条の男女差をなくす方向性を打ち出しているとも考えられる。

 当然、女系容認の政党は、女子差別撤廃条約を錦の御旗として、女性宮家を主張してくるだろうから、コメントしておきたい。

 女子差別撤廃条約は、まずアメリカ合衆国が批准していないので、これが国際的スタンダードなとはみなせない。

 合衆国が批准しない理由の一つとして、男女平等権憲法修正案が1982年に廃案になったことや、公民権法タイトル7の性差別禁止規定の判例理論で、鉛の被曝を避けるための胎児保護ポリシー(間接的母性保護)を性差別として違法とした全米自動車労組対ジョンソンコントロールズ事件判決 AUTOMOBILE WORKERS v. JOHNSON CONTROLS, INC., 499 U.S. 187 (1991)が、女子差別撤廃条約では容認している母性保護を違法としたため、条約になじまないことがある。

 しかも人権条約の実施措置としてはもっとも緩い報告制度をとっている。締約国の義務は国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW) に条約批准の一年後とその後は四年ごとに条約の実施のためにとった立法上、司法上、行政上のその他の措置の報告をするだけにすぎない。CEDAWの権限は弱く条約十八条で提案と一般的勧告を行うことができるが条文の解釈は締約国に委ねられているから[浅山郁(1985)]、勧告に強制力はないので問題にせずともよいというのが私の意見である。

 

(三) 日本の令制皇親の父系帰属主義と英国とは全く違う

 

 ところで、我国では皇室典範以前に、皇位の男系継承の成文法はなかったという人がいるが、とんでもない。

 令制皇親の父系帰属は明白で、女系を排除した親族概念である宗、ローマ人のいう男系親(アグナチオ)に類比できるものであり、父系出自のリニージ、自然血統で繋がっている親族概念である。

 このことは、以下の吉田孝の説明がわかりやすい。

 「唐制では『王・公・侯・伯・子・男』の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の『王』は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである。但し、『王』族の急増をもたらした。その結果、『賜姓』による臣籍降下が日常化し、『王』も『姓』の一種とみなされるようになる」[吉田孝. (2006)

 花園上皇の『誡太子書』(元徳2年・1330)に「 吾朝は皇胤一統なり」 「異姓簒奪の恐無し」とある。

 内大臣洞院満季が後小松上皇の勅命を奉じ撰進した皇室の系図が『本朝皇胤紹運録』(応永33年・1426)というように、皇位継承資格者は皇胤(男系)である。

 同趣旨の見解として慈円の『愚管抄』巻七(承久2年頃・1220)に「日本ノ国ノナライハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国」「コノ日本国ハ、初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノマゝニテイカナル事イデクレドモ、ケフマデタガハズ‥‥ [村井章介. (2005)]

 男系継承は明確に意識されている。

 父系帰属主義が明白といえるのは、先述した藤原公季などの例でもいえる。

 そもそも臣下が内親王を娶ることは、継嗣令王娶親王条により違法であるが、10世紀、藤原師輔は醍醐皇女内親王三方(勤子、雅子、康子)と密通のうえ事後承認される形で、内親王降嫁が実現した。

 太政大臣藤原為光は雅子内親王の所生、太政大臣藤原公季は康子内親王の所生である。17世紀の皇女・内親王が摂家に降嫁した事例で関白近衛家煕は、常子内親王所生で、関白二条吉忠は栄子内親王所生である。父系帰属主義により父が藤原氏なら、所生子も藤原氏であることは自明である。

 姓が男系で継承されるのは欧州も同じことだが、英国の王位継承は女系継承がよくある。

 そもそも12世紀のプランタジネット朝ヘンリー2世が女系継承で、男系が途絶すると女系をたどって後継者を見つけてきた。

 例えばエリザベス1世(位15581603)の後は女王の祖父ヘンリー七世の娘マーガレットの曾孫に当たるジェームス1世(位16031625)。

 アン女王(位1702 1714)はカンバーランド公のジョージが王配Prince Consortであったが、子供がなかった。

 次の王位はアン女王の曽祖父ジェームス1世の外孫にあたるゾフィーを母とするハノーヴァー選帝侯のゲオルグ・ルートヴィッヒがジョージ1世(位171427)として英国王に即位した(系図参照)。

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 英国はそもそも女系容認思想で成立している王権であっただけでなく、2013年法で長子相続の男子優先をやめ、男女いかんを問わない長子相続となっている。完全に共系としたのである。

 長老派教会の創始者でスコットランド宗教改革の指導者ジョン・ノックスの著書「「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」が[ジョン・ノックス(1986]は、女性君主が、聖書や教父の教えに反するとして批判していたのはある意味正論である。

 我が国の皇室と成り立ちが全然違う。それをモデルとする①案は国体を破壊することになる。

アン王女がモデルということは、①案は英国と同じ完全共系を目指しているのが隠された目的だと思う。

 

二 皇室典範12条には相応妥当な理由がある

 

(一)婚入配偶者の婚家帰属という家族慣行を無視してはならない

 

 皇室典範12条は明治22年典範44条と同趣旨で、旧典範を継受したものである。

 帝国憲法皇室典範義解(伊藤博文著)によれば旧皇室典範44条の趣旨は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス」とされ婚出した女子(出嫁女)は夫の身分に従うゆえ、皇族の列から離れるとしている。

 つまり婚入配偶者(嫁・婿)の婚家帰属という、我国の常識的な家族慣行に即した合理的な判断をとっているのである。

 にもかかわらず有識者会議は、女性皇族を皇室に留める方策として旧皇室典範44条の趣旨を顧みることもなく、それを継受した皇室典範12条を安易に棄て去る判断をとっていることは大きな過ちである。

 これは女性宮家の創設よりも重大な皇室制度の変革になる。

 日本的「家」は家連続者一名(跡継ぎ、実子長男が通例だが、家付き娘、養子の場合もある)だけが家に残り、婚入配偶者(主婦予定者としての嫁、家長予定者としての婿)を迎えて「家」を継承する。その他の家成員は婚出、養出、分家設立により生家から離れるのが、日本の家」のルールである。「家」とは離在単位であり、個人が帰属する家は一つ、両属はありえない[清水昭俊1970,1972,1973]。

 分割相続から嫡子単独(限嗣)相続に移行した日本的「家」は1415世紀に成立した。

 皇室も14世紀の後光厳天皇より、嫡子(限嗣)単独相続で、日本的家制度の直系継承となったことは要旨で述べたとおりである。

 皇統嫡系が直系に収束した背景として、貴族社会が限嗣単独相続の成立期にあったこと。猶子が貴族、武家社会で実質的意味を有していたこと。公武御契約(後光厳皇統と足利将軍家の盟約)により政治的に後光厳皇統が、嫡流とされる崇光院流(伏見宮)その他の皇統と比較して圧倒的に優位に立ったことがある。

 皇室典範では、養取、養出を禁止したので、中世前期以前の皇統転換を前提とする制度となったが、他は一般の家族慣行と同じことであり、婚姻家族の夫婦一体性の観点からも夫婦を同一身分とすることは論理性がある。

 皇室典範12条は家族慣行に沿って相応妥当な理由があるのでこれを改変することは、たんに皇室の問題でなく、皇室が国民に慕われる存在ゆえ、国民の家族慣行に与える影響が大きく、いかに皇族数を確保する理由であるとしても反対なのである。

 要するに婚入配偶者は婚家に帰属し家成員となる。婚出した者は家成員から排除される家族慣行を有識者会議は全く無視しており、皇室典範12条潰しという、左翼受けする非常に乱暴な結論を拙速に導きだしていると批判できる。

(二)①案は配偶者となる男性が添え物となる不愉快で歪な制度

 有識者会議①案の不快さは、嫁入婚や婚入者の婚家帰属といった家族慣行を無視する暴挙であり、たんに皇族数を確保するとい名目のため、女性皇族が皇統譜、配偶者と所生子は当面戸籍という、同戸異姓というか、夫婦別姓を先取りしたかのような、配偶者となる男性を添え物にする異様な婚姻形態を創設することにある。

 有識者会議①案は従来どおり嫁入婚(歴史的には嫁取婚ともいう)の形式になるのか、入婿型なのか、たんに事実婚なのか不確定である。

仮に入婿型だとすると、一般国民のケースは皇室の前例に明確に反する。

 皇親内婚で入婿的な傍系の皇親が大統を継承したケースは屡々あり、8世紀の聖武皇女井上内親王と天智二世王白壁王の婚姻では傍系皇親の男性皇親が即位(光仁天皇)、嫡系皇統であれ内親王は皇后である

 同様の例として、10世紀の朱雀皇女昌子内親王(皇后)と村上皇子憲平親王(冷泉天皇)、12世紀の鳥羽皇女姝子内親王(中宮)と後白河皇子守仁親王(二条天皇)、18世紀の後桃園皇女欣子内親王(中宮)と光格天皇(ただし結婚より前に、閑院宮典仁親王六男の祐宮が後桃園天皇女御で正妻格の藤原維子の猶子として大統を継承、これは女一宮欣子内親王の入内、立后を前提としての皇位継承である)、「夫帝優先の原則」により、傍系であれ配偶者の皇親が天皇である。

 また皇統嫡系の内親王が、世襲親王家もしくは宮家に嫁す例は、元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、昭和18年(1943)昭和天皇の長女照宮成子内親王が東久邇宮盛厚王に嫁したケースまで8例あるが、宮家当主は男性皇族で、内親王はあくまでも親王妃、王妃であり、当主となるわけではない。

 「夫帝優先の原則」とは古代史の佐藤長門 [2009,  286]が提示した分析概念で、皇親内婚では、配偶者が世にある限り、即位するのは男帝、皇親女子の皇后もしくは妃なのでありこれは歴史的に一貫した規則性がある。

 歴史上の女帝で、配偶者のあった4方の女帝はすべて御配偶の天皇の崩御、もしくは御配偶の皇太子の薨御の後に不婚で即位していることを、「夫帝優先の原則」というのである。

 女帝は、本源的に不婚が強制されていると主張される。佐藤長門 [2009]や遠藤みどり [2015]「不婚の女帝」論がそうである。但し、桜田真理絵 [2018]は不婚ではなく「非婚・未婚」と言うべきだという。

 それは「夫帝優先の原則」と裏返しの意味であり、妊娠・出産の役割は皇后・妃で、天下知らしめす君主の役割ではないという見方もあるが、それは女帝即位が皇后権に由来しているからだろう。

 皇室の入婿的な婚姻とは、傍系皇親で有力な皇位継承候補者であり、実際に、光仁や光格のように即位した入婿的皇親の例がある。とすれば、入婿型では配偶者となる男性に皇位継承資格があり、しかもそれは内親王より優先するものでなければ歴史的伝統に合致しないのである。しかし①案はそうではない。

 また日本の一般の家族慣行では、婚入配偶者(嫁・婿)は婚家に帰属し、入婿は家長予定者として婚家に迎えられる慣例である。家付き娘は主婦予定者なのであり、当主となるのは婿である。

 比較文化的に検討してみると、中国は宗法によって完全な父系社会であるわけではなく、入贅の慣行もある。日本と同じ準父系であることは20世紀前半の民族学的調査でわかっている[牧野巽(1985・初出1935)]。しかし入贅となる男性は宗法に反するので軽蔑の対象となる、表向きには祖父-孫継承になるので無視される存在なのである。

 むろん中国と日本では、家族慣行に共通点も多いが、我が国では当主となりえない、たんに子づくりのための入贅というのはない。これは中国と日本の家族慣行の違いの一つである。

 有識者会議①案は、中国の入贅のあり方に類比できる。日本的ではない政策、軽蔑される対象となる家長予定者でない入贅という、中国では軽蔑される下位制度を皇室に創出しようとしている。しかも、これを恒久的制度とするというのである。これは男性に対する重大な侮辱だ。

 つまり①案は、皇室の前例にもなく、我が国の庶民の家族慣行とも合致しない、当主となりえない、たんに添え物としての入婿という歪で醜悪な制度を創出する。それが政治的にも夫婦別姓推進論を先導する役割を果しそうなので非常に不愉快であるだけでなく、文化破壊の脅威と認識せざるをえない。

 

 

(三)日本の「家」の構造に即した皇室典範12条は合理的、妥当性がある

 ところで、前記引用の旧皇室典範44条義解「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ」とは、出嫁女の婚家帰属性を意味しているとみてよいだろう。

 それは以下に引用する明治8年内務省「夫婦同氏」案の趣旨と合致するからである。

 明治8年11月9日妻の氏について未だに成例がないために内務省は、腹案を示しつつ伺出を太政官に提出している。

 「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候ヘ共、右ハ未タ成例コレナキ事項ニ付決シ兼候ニ付、仰上裁候‥‥」[廣瀬隆司(1985)][近藤佳代子(2015)]

 文面からみて皇室典範義解と内務省の夫婦同氏腹案の趣旨は同じである。

 要するに内務省案は、華士族平民いずれであれ、婦女は他の家に婚嫁した後は、夫の身分に従うはずのもの。婚家に帰属するのであるから、夫家の苗字を終身称するのが穏当というものである。

 夫の身分に従うというのは、出嫁女の婚家帰属性というだけでなく、夫婦同一身分、嫁取婚(嫁入婚)、家父長主義、大化元年の男女の法に遡ることができる父系帰属主義といずれの見方も可能であるが、それは我が国の家族慣行の常識である。

 江戸時代の婦人道徳の教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』貝原益軒)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範である[柴桂子(2004)]。それは歴史的に一貫した社会構造といえる[iv]

 中国の宗法においても出嫁女は夫の宗に属するので朝鮮・韓国も含めて、東アジア共通の古くからの文化ともいえるのでその意味は深い[v]

 このことは、同戸異姓の禁止、氏を統一した明治政府の政策とも合致している。実際今日においても夫婦同氏の96%が夫家姓であるのも、日本が準父系の社会構造であり先述した歴史的経緯にもよる。

 つまり東アジアの婚姻の在り方、日本的家族慣行に合致させたのが皇室典範12条の意義といえる。

 この婚姻家族は同一の身分とする考え方によって、旧皇室典範44条と現皇室典範12条は、皇族女子も皇族の身位を維持できるのは天皇・皇族と結婚した場合のみとし、臣下に婚嫁した場合は、夫の身分と同一とするものとして皇室を離れる。

 但し、旧皇室典範44条では特旨により、皇室を離れた場合も、内親王号、女王号を称しうることとしたのである。

 ところで、室町戦国時代に皇女はすべて生涯非婚、入寺得度されているが、17世紀には皇女の結婚例が10例あり、9例は摂家(二条家及び近衛家3方、鷹司家2方、九条家1方)である。17世紀末期以降、昭和18年(1943)まで内親王の婚姻は9例が皇族で(天皇1方、伏見宮2方、東久邇宮2方、竹田宮、朝香宮及び北白川宮1方)、1例が徳川家(婚約例を含むと2例)である。17世紀末期以降の方針の転換は、霊元上皇の古式復興政策と軌を一にするもとと考えられる。

 では、なぜ臣下が内親王を娶ることが違法なのに17世紀に9例もあるかという点は、久保貴子氏がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、 一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」とする[久保貴子(2009)]

 上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。皇族以上の序列なら臣下が娶ることは違法とされていた内親王との結婚も障碍はないという理屈はありうるからである。

 戦国時代は伏見宮のステイタスが高く、伏見宮出身宮門跡の法親王と、摂家出身の門跡准后との間で争いになった天正15年(1587)の座次相論では715日関白秀吉が裁定し、正親町天皇の認可を受けた(『親王准后座次三ヶ条之事』)。裁定は、親王と准后は同格、門跡准后、法親王、前関白は同格とし、それぞれの席次はくじ引きとされ、ただし伏見宮邦房親王と近衛龍山は別格で、常に並んで上座を占めるとされた [谷口研語, 1994] [神田裕理, 2019]

 鎌倉時代末期の書札札では親王家は大臣と同格だったので[小川剛生 (2009) ]、親王家は明らかにステイタスが上昇している。従って伏見宮邦房親王は、前関白であるが准后宣下を受けていない九条兼孝、一条内基、二条昭実より上座とされていたのである [谷口研語, 1994]。この時期の裁定と比べると禁中並公家諸法度は明らかに、世襲親王家の位地が下降し、五摂家の位地が上昇しているといえる。

 摂家に降嫁した内親王はいずれも夫方居住であり、墓所は二条家に降嫁した賀子内親王や栄子内親王は二尊院、近衛家に降嫁した常子内親王や憲子内親王は大徳寺、九条家に嫁した益子内親王は、東福寺。いずれも婚家の廟所である。

 これは昭和25年鷹司平通に降嫁した昭和天皇の皇女孝宮和子内親王の廟所が鷹司家の菩提寺二尊院であることと同じことである。

 人は死んだ時に帰属していた家の仏となるという一般の家族慣行と同じことである。

 静寛院宮親子内親王(和宮)にしても、葬儀は徳川家により行われ、墓所は徳川家茂と同じ増上寺であり、婚家帰属性は明白で、そのような趣旨でも、皇室典範では臣下に嫁した場合は皇室から離れるものとしたのは合理性がある。

 なお、光格后欣子内親王(新清和院)は後月輪陵であるが、きー宮家に嫁した内親王は江戸時代の福子内親王、秋子内親王が相国寺内伏見宮家墓地、慶光天皇妃成子内親王は蘆山寺陵(閑院宮家墓所)、明治皇女4方と昭和皇女1方の墓所は皇族専用の豊島岡墓地である。江戸時代は宮家の墓所であり、天皇家から離れたと認識しうるのである。

 現皇室典範12条は旧皇室典範の趣旨を継受しているので、皇室典範12条は、最高裁が合憲とした夫婦同氏と同様に合理性があるという理屈になるのである。

 以上の論点について、明治民法の家制度はもはや効力を有していないという反論があるかもしれないが、慣習としての日本的「家」制度は現に広範に存在する。日本は北西ヨーロッパ型の単純核家族社会の社会構造とは違うだろう。

 人類学者の清水昭俊1960年代の出雲地方のフィールドワークで研究し理論化された「家」も現に存在し、白無垢・色直し・結納などの嫁入婚の習俗もすたれていないし、家職や家業を継承している家や老舗も存在する。中国の宗族では家職や家業の継承の慣習はない。それは日本的「家」の特徴である。

 私は、1415世紀以来の嫡子単独相続が成立した後の「家」を一応日本的「家」と定義するが、出自集団としての家は、古代にさかのぼるものであり、まさに、穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいうべき社会構造と理解すべき。

 厳密な学術的定義で定評のある清水昭俊は、「家」を出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的であると定義している。

 清水昭俊は、清水盛光、川本彰、リーチを引いたうえで日本語の「家」と欧語のfamilyは近似したものとの認識を示している。

 「家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団、親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の最広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」[清水1987 56頁]としている。

 人類学者の定義に従えば、母系家族と対極をなすのが婚姻家族であって「これは家内的生活が主として夫婦間の性的分業によって営まれる家と定義され、核家族や核家族からなる拡大家族はこれに含まれる」[清水1987 97頁]とされている。

人類学者の大御所がそういう以上「家」は、都市部で核家族が主流となっても社会構造として存在し、ロイヤルファミリーも例外ではない。

従って①案は日本の社会構造に挑戦する急進的な性格を有しているゆえ、穏健な政策を望む一国民としては排除されてしかるべきと考える。

(四)前近代と近代の姓氏概念の違い

 

  すでに述べたとおり、皇室典範12条と夫婦同氏の立法趣旨は共通するものがあるということである。

 この章は旧皇室典範44条を継受した皇室典範12条は相応妥当なものという理由の補足的な説明になる。

 本題から少し外れるが筆者は夫婦別姓には反対であり夫婦同氏は堅持すべきとする考え方であるというのは、梅健次郎の立法趣旨が妥当だということである。

  • 妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致している[vi]
  • 欧米ではキリスト教の夫婦一体性、絆を重んじる婚姻理念から西洋では夫婦同姓が通例で、ファミリーネームの欧州の法制を継受した。

 また実態においても庶民は夫婦同氏が慣例になっていたことは府県からの伺からも明らかなことである[vii]。庶民の夫婦同氏慣行が当然といえるのは、徳川時代の宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かったためでもある。

 にもかかわらず、明治9317日太政官指令が「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」とし所生ノ氏にこだわった主たる理由は何かというと、太政官法制局見解「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」[viii]という見解に尽きる。

 明治元年(18681228

女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)

 從三位藤原朝臣美子(昭憲皇太后、左大臣一条忠香女)

(ウィキペディアより引用)

 太政官法制局は、庶民の実態としては夫婦同氏であるのに、自然血統主義である上代由来の令制の皇親概念と天皇の賜与認定による、天皇大権、王朝的姓氏概念にこだわった見解をとっていた。

 むろん時代によって、皇親女子の礼遇、特権のあり方は変遷があるとはいえ、令制では、皇室典範のように内親王や女王の身位は、婚出によって失う性格のものではない。

 嵯峨皇女源潔姫のように賜姓により臣籍降下するか、神護景雲3年(769)聖武皇女不破内親王が巫蠱事件に連座して懲罰的に内親王位を剥奪されるようなケースでなければ、皇親が臣下として扱われることはないとはいえる。

 源平藤橘といった王朝的姓氏が婚姻によって改姓されないのは当然のことである。姓の賜与認定は天皇大権であるから、勝手に改姓してよいものではないからである。

  したがって、前近代において内親王が臣下に降嫁しても、内親王の身位は保持したという有識者会議の見解は、現象的にはそのとおりであり、それは「皇后藤原氏ナランニ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」と裏返しの理屈になるが、にもかかわらず、明治維新後、前近代の姓氏概念において大きな変更があったので、以下の理由により旧皇室典範44条を継受した皇室典範12条は相応妥当なものといえる。

 令制の皇親は、血統が生理的(実系で)に貫徹し擬制による例外のない単系父系出自である。

 要するに『王』名号は、天皇と父系で繋がるリネジ、血統の標識なのである。婚姻関係とは基本的に無関係である。

 天皇大権により臣下に賜与・認定される源平藤橘等の古代的姓氏も婚姻により変更されない点では同じである。 

 もっとも天皇の改賜姓権能による古代的・律令的姓氏は血筋として実系が貫徹しているわけでは全然ない[宇根俊範1980 1983]。政治的に血統とは無関係に認定されうるという点では、皇親とは違うとはいえるが、類似したカテゴリーである。

 要するに令制の皇親は賜姓による臣籍降下と、懲罰的に剥奪される場合を除いて、生涯皇親である。

 南北朝・室町時代以降多くの皇女が入寺得度し比丘尼御所、御宮室(尼門跡)と称されたが、内親王宣下をうけてなくても、皇女たる位地は同じであり、男性の宮門跡(法親王)と同様、皇親であることに変わりなく、出家された場合であっても令制では基本的に皇親たる立場や親王宣下を受けた皇親が懲罰的理由[ix]以外では身位を失うことはないといえる。

 つまり前近代において内親王、女王の身位が失われないことは、いわゆる本姓(古代的姓氏)が婚姻によって変更されるものではないという理屈と類比できるのであり、同列のものとして理解してよい。

  しかしながら近世までは我が国は天皇の賜与・認定による姓氏(古代的姓氏、王朝風姓氏、源平藤橘など)と自然発生的な家名である苗字(名字)の姓氏の二元システムであったものが、後者に一元化されたのが近代である。

 すなわち近世朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土浦藩主(土屋氏)の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職「土屋能登守」となる[大藤修1996]。

 要するに天皇との君臣関係は公式的には王朝風の古代的姓氏(本姓)。将軍との君臣関係は名字(苗字)であった。

 明治維新以後、藤原朝臣実美よりも三条実美、越智宿禰博文ではなく伊藤博文のほうが、わかりやすく、家名ないし苗字のほうが家筋を識別できる機能があるため、見直されることとなり、明治4年10月21日太政官布告で「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」[井戸田1986 7884頁]により、古代的姓氏を公文書で用いることはできなくなった。

 さらに、明治8年2月13日太政官布告の平民苗字必称令により、姓氏は苗字(公家の場合は称号とされる家名)に一元化されたのである。

 もちろん源平藤橘等、天皇の賜与・認定の由緒は重んじられてよいことだが、実生活では用いてはならないルールになった。

 近世には勝手に系図を作って古代的姓氏を自称する家もかなり多く、社会的標識としては不適切、藤原氏といっても上流・中級貴族だけでなく、職人階層まで広範な範疇になるためである。法制的には氏(苗字)、慣習としては家名、名字、門名で家を識別することとなったのである。

 日本的家制度は離在単位であり、個人はどこかの家の成員だが、両属することはない、婚入者(嫁・婿)は婚家の成員で死後は婚家の仏となる。家成員は婚出、養出、分家設立により生家から離れるのが、日本の「家」のルールである。

 出嫁女の婚家帰属性という観点では、日本の家族慣習のみならず、伝統的な中国、朝鮮でも同じことである。したがってその由来は東アジア共通の文化であり、中世に始まるものではなく非常に深い[x]

 一方、西洋ではローマ法の諾成婚姻理論、古典カノン法が12世紀にローマ法を継受した合意主義婚姻理論を決定的に採用したため、個人の合意によって容易に婚姻が成立する、秘密結婚の文化があり、戦後も我が国にも広がった価値観ではある。

 しかし婚姻は両性の個人の結合のみならず、家と個人の結合でもあることは少なくとも我が国においては常識的な家族慣行である。

 明治政府は、明治5年の太政官布告で改姓を原則禁止し、「家」を識別する記号は変動できないこととした。また明治9年の内務省指令で、「家」を識別する記号は、複数あってはならない。「家」と氏は一対一で対応するものとし、同戸異姓が否定された。

 明治15年に妻妾制が廃止され、西洋的な単婚で夫と妻の伴侶性の強い婚姻家族の価値観も受け容れられることにより、伝統的な「家」の成員、婚入配偶者の婚家帰属性とともに、夫婦同宗の東アジア共通の価値観、夫婦の一体性から、夫婦同一身分とする考え方は常識的なものであり、「家」を識別する記号にならない古代的姓氏は実質否定された。

 要するに令和31130日有識者会議「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」にある江戸時代以前の臣家に嫁した内親王が身位を失うわけではないとして内親王6方を例示しているが、それは令制皇親と今日用いられてない律令的古代的姓氏が類似した概念であり同列のものと理解してよい。

 

 (五)令制皇親と近代皇室典範の皇族の範疇の違い

 明治22年皇室典範における皇族の範疇は、前近代の皇親の概念とは違う。

 つまり近代の皇室典範における皇族と、血統の標識である令制の皇親とは概念が異なる。

 令制では臣下出身の三后皇太夫人、女御、親王妃は、皇親の範疇にはないが、近代の皇室典範では三后、親王妃、王妃は皇族となる。

 この変更の背景として、三后という身位ゆえ皇族という考え方だが、実質婚入配偶者を皇族とするものである。

 この点、令制では立后は政治行為であり、光明皇后の立后は聖武即位の5年後、橘嘉智子の立后は、高津内親王廃妃の後、嵯峨即位の6年後、藤原穏子の立后にいたっては入内の22年後、醍醐即位の26年後である。一帝二妻后の例や、立后のない天皇も少なくなく、我が国の皇后は中国王朝のように嫡妻性より政治行為による身位という性格が強いことがある。

 一方、明治以降の皇后は嫡妻としての性格が明確になった。三后や親王妃、王妃は臣下出身であっても、生家とは離れており皇室の成員という考え方である。

 明治9年の太政官法制局の見解である「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」の考え方が、明治22年の皇室典範では採用されなかったのは、理由があるといえる。

 令制で皇后冊立は政治的に決定される位地であり、入内時には将来の位地は不確定なのである。ゆえに配偶者であっても皇族ではない。この点近代の皇室とは異なる。

 よって后妃が臣下であっても皇族とする皇室典範のあり方と相似並列的に臣下に降嫁する女性皇族は、婚家に婚出するものとして、生家から離れる家族慣行に基づき、夫と身分と同じくする考え方をとっているのは自然である。

 つまり、有識者会議①案を正当化するためには、令制皇親のカテゴリーに戻す。皇族出身ではない三后、親王妃、王妃を皇族の成員から外すことでないと、理屈のうえでは釣り合わなくなる。

 

 

(六)夫婦別姓旧慣習説批判はそのまま有識者会議①案批判にあてはまる

 1 女性の呼称の変遷

 本題から外れるようだが、旧皇室典範44条の義解と明治8年内務省「夫婦同氏」案が同趣旨であることから、表題の論点を述べることで、理屈のうえでは旧典範44条を継受した皇室典範12条の正当性の主張を補完できると考える。

  つまり、夫婦同氏と皇室典範12条は同一の理由によるものなのであり、夫婦同氏の慣習は、少なくとも15世紀に遡る慣例だからである。逆に言うと、皇室典範12条改正は、夫婦同氏制を破壊する重大な要因になるのできわめて危険といえるのである。

 女性の呼称、指称のあり方は、それ自体大きなテーマで、角田文衛氏[2006]などの業績もあり、大筋のところを述べておくにとどめる。

 下記は89世紀の大臣と妻が女官であるケース等の一覧表である[伊集院葉子(2014) 156]

 

     夫      妻

 

右大臣 藤原不比等 -県犬養橘三千代

左大臣 橘諸兄   -藤原多比能

左大臣 藤原永手  -大野仲千(尚侍・尚蔵)

右大臣 大中臣清麻呂-多治比古奈禰(尚侍)

右大臣 藤原是公  -橘真都我(尚蔵)

右大臣 藤原継縄  -百済王明信(尚侍)

右大臣 藤原内麻呂 -百済永継(女孺)

右大臣 清原夏野  -葛井庭子

右大臣 藤原三守  -橘安万子(典侍)

右大臣 橘氏公   -田口真仲(乳母)

 奈良時代の女官は本姓+実名による署名がなされていたと考えられるので、天皇により賜与・認定される姓名に実質的意味があったと推定できる。

 しかしだからといって、奈良時代の夫婦別姓状況を肯定的に評価しない。貴族で嫡妻制が成立するのは関白基経以降といわれ[栗原弘(1990)]
、ここに記載された時期は、嫡妻制度が確立されていない時期であり、従って今日の婚姻家族とは違う、対偶婚に近い在り方だからである

る。

 飛鳥白鳳時代の結婚は緩く、対偶婚的といわれる。その例として県犬養橘宿禰三千代と藤原不比等の結婚である。 県犬養宿禰三千代は出仕し天武12年(683)ころ敏達天皇曽孫の美努王と結婚し葛城王(橘諸兄)佐為王(橘佐為)、牟漏女王を生んだ。ところが持統八年(694)美努王が大宰府率に赴任する際に三千代は同行せず、飛鳥に残ったが不比等と再婚した。三千代は阿閉皇女(元明)付きの女官で持統上皇の信任厚く、不比等にとって有益な結婚だった。戸令二七先姧条「先ず姧してむ、後に娶きて妻妾と為らば、赦に会うと雖も、猶し離て」の趣旨からすれば、違法であるがお咎めはなかった。

 対偶婚なら夫婦別姓は合理的といえる が、それはともかく女性の姓名は六国史にあるものなので、女叙位は所生の氏である。

 しかし嫡妻制が成立した平安時代中期から女房の候名が確立した。日常生活で呼称されているのは候名であって姓+実名ではない。清少納言や紫式部の実名が不詳であるのは、実名で指称されることがなかったからである。つまり社会生活で夫婦別姓にはなっていない。

 角田文衛[2006 178頁]によると平安時代中期の女房の候名は主として父、やむをえぬ場合は、夫、兄弟、祖父の官職名に因んで賜った。候名は優雅であり「実名敬避」に役立ち、女房たちの実名に煙幕をはった。

 女流歌人の次のような事例である[角田文衛(2006)121頁]。

 

 〇和泉式部 式部は父の藤原為時が式部丞の任にあったため。和泉は夫の橘道貞の任和泉守に因む。

 〇伊勢大輔 父の大中臣輔親が伊勢の祭主で神祇官の権大副。

 〇上東門院中将 父藤原道雅の任左近衛中将に因む。

 〇馬内侍 右馬権頭源時明の女。

 〇相模 相模守大江公資の妻。

 女房に限らず、后妃は清和生母原明子が染殿后、陽成生母藤原高子が二条后と称されるように、もちろん同時代人は「実名敬避」のならわしにより、実名で呼称することはないことはいうまでもない。

 中世における女官の符牒については近年多数の研究があるが長文になるためこれらは省略する。基本的に女性は位階授与の宛名以外に実名で称されることはほとんどないと考えてよい。

  女叙位等の宛名が本姓+実名である。戦国時代以降では以下のような例がある。本姓は、既婚者であれ生家か養家の姓が通例である。

  • 文正元年(1466) 従三位 源益子

   関白室二条持通正妻の伯家雅兼王女(白川伯王家)

  [後藤みち子2009]

  • 元禄15年(1702)2月14日 従一位 藤原朝臣光子 

   五代将軍徳川綱吉母桂昌院(お玉)、家光妾、本庄(藤原)宗利養女

  • 文政11年(1828)1月10日 従二位 故従三位藤原輝子(追贈)

   七代将軍徳川家継母月光院(お喜代の方)、家宣妾、元加賀藩士勝田玄哲女

  [大藤修(1996)]

 しかし、こうした事例も夫婦別姓の根拠にはならない。位記等の宛名は実生活で用いられることはまずないのである。たんに形式といってよいものだろうし、そもそも近世で女叙位の対象となる女性の数は少ない。

 

2 近世における夫婦別姓旧慣習説は柴桂子説により明確に否定されている

  夫婦別姓推進論の背景として井戸田博史[2003]、洞富雄[1957]、熊谷開作[1963]などの法制史学者が夫婦別姓旧慣習説を唱えていたことである。特に井戸田博史が夫婦別姓を支持する方向で論じていたことである。しかし、近世史研究者、女性史研究者が井戸田説や法制史学者の見解を批判している。

 近世については大藤修[1996]、とくに柴桂子[2003]が一次史料を詳細に検討したうえ、江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしていないことを明らかにしており、井戸田説を批判している。

 柴桂子によれば、法制史研究者によって「江戸時代の妻の氏は夫婦別氏だった」と流布されているが、夫婦異姓の根拠とされる史料はごくわずかに過ぎない、女性の立場や実態把握に疑問があるとする。

 「法制史研究者は別姓の根拠を、主として武士階級の系図や妻や妾の出自の氏に置いている。ここに疑問がある。妾や側室は雇人であり妻の範疇には入らない。給金を貰い借り腹の役目を終わると解雇され配下の者に下賜されることもある。」とする。

 別姓説の中に「氏の父子継承原理」が語られるが、『女大学宝箱』といった教訓書では、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。

 また、宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かった。

 実態として近世の既婚女性はどう呼称、自称していたのか。長文だが柴桂子論文かに引用する。

○出版物 『近世名所歌集』嘉永四年(1851)、『平安人物誌』文政五年(1822)

姓はなく名前のみで○○妻、○○母と婚家の身分が記されている。

○人別書上帳・宗門人別帳

庶民の場合は姓も出自もなく、筆頭者との続柄・年齢が記される。

○著書・歌集・写本などの序文や奥付

武士階級でも姓も出自もなく、院号や名のみの場合が多い。

○犯科帳、離縁状、訴状、女手形

姓はなく名のみが記され○○妻、○○後家と書かれ、名前さえ記されないものもある。

○門人帳 (略)

○墳墓、一般的には正面に戒名、側面に生家と婚家の姓が刻まれている。

◎自称・自署の場合

○著書 多くは姓がなく名のみを自署している。

○書画・短冊 雅号のみの場合が多い

○書簡 これも名前のみサインである。

○『古今墨跡鑑定便覧』本人の署名を集めたもので、姓はなく名前のみサインである。

例外的にフルネームの署名もあるが書画や文人の書簡であって夫婦別姓とはいいがたい。

 柴桂子の指摘から、一般に江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、自称、自署していないと断言してさしつかえないだろう。夫婦別姓の実態はない。

 夫婦別姓推進論者は舅姑や夫と同じ墓に入りたくないと言うが、しかし我が国においては、婚入配偶者が、生家に帰葬されるというのはきわめて例外的なものである[xi]

 

3 戦国時代の公家と農民において夫婦同氏の慣習が認められる

 1)後藤みち子説

 後藤みち子[2009]によれば戦国時代の貴族は基本的に夫婦同じ家名で称されるのが普通であるという。

 摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。

 清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。関白近衛尚通(14721544)は右大臣久我通言正妻(徳大寺実淳女)を「久我女中」と称し、太政大臣徳大寺実淳妻(出自不詳)は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。

 西洋でも○○家出の○○卿夫人というように、夫の家名や爵位にちなんで称されるのと同じ感覚である。

 一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。

 内大臣三条西実隆(14551537)は大納言中御門宣秀正妻(甘露寺親長女)を「中御門西向」と称し、権大納言甘露寺親長(14241500)は、権大納言中御門宣胤(甘露寺親長女)の正妻を自分の娘であるが「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。

 15世紀の公家社会における嫡子単独相続確立期以降に、家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して称された。

 後藤みち子氏は、女叙位の位記は所生の氏であるから夫婦別氏、夫婦同苗字と述べているが、社会的呼称は、婚家の名字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから、公家社会では15世紀には実質的には夫婦同氏といってよいと思う。であるから、嫁取婚、出嫁女の婚家帰属性から慣習は別氏というより同氏といえる。

 2) 坂田聡説
  坂田聡[2006  2009]は、丹波国山国荘は夫婦同苗字が3例、北近江菅浦にも同様の例があるとし、庶民においては15世紀後半以降夫婦同苗字のほうが一般的とみなし、明治初期庶民は夫婦同姓を当然視していたとするのである。一方、農民に苗字が成立していない鎌倉時代は夫婦別氏としており、少なくとも「家」が成立した後は、夫婦同苗字としているので、坂田氏自身は選択的夫婦別姓支持という政治的見解を述べているが、同氏の研究自体は、事実上夫婦別氏旧慣習説を否定している。

 以上のことから、夫婦別姓旧慣習説は否定してよい。

 限嗣単独相続の日本的「家」制度は15世紀の公家を基本モデルとしてとらえると、この時点から、夫婦同氏は必然だった。

 日本の家族慣行(1415世紀に成立した日本的家制度)は離在単位で、両属はありえない[清水昭俊197019721973]。婚入配偶者である嫁は主婦予定者として、婿は家長予定者として婚家に帰属するというのが社会通念である。

 つまり我が国では出嫁女、入婿という婚入する配偶者は婚家に帰属する家族慣行であり、嫁養子という言葉はないが、実質養子が養家に帰属するのと同じである。

 近代主義的観点でも明治15年に妻妾制が廃止され、西洋的な単婚で夫婦の伴侶性を強調する婚姻家族の価値観がとりいれられたことから、旧皇室典範44条、現皇室典範12条が夫婦で身分を同じくするものとしたことは、妥当なものである。

 「家」が離在単位であり、嫁取(嫁入)婚は、皇室であれ、庶民であれ常識的なものであるのに、そうした我国の家族慣行を否定するかのように、女性皇族は皇統譜、配偶者と所生子は当面戸籍という歪な制度をぶちあげた有識者会議①案は、我が国の公序良俗、順風美俗に対する重大な挑戦であるだけでなく、以下に述べるマルクス主義者に阿った提案と非難すべきというのが結論である。

 

(七) 皇室典範12条改正が実現すれば左翼、マルキストの大勝利

 夫婦同氏制を潰す政策を後押ししているのは共産主義イデオロギーもしくはそれと親和的なイデオロギー、世俗主義を信奉している勢力と考えられる。

 女性宮家や今回の有識者会議①案は、皇室典範12条の改変を必須としているが、それは、夫婦同氏制や、旧典範44条の義解にある夫の身分に従う趣旨などが、日本的「家」制度の残滓もしくは家父長制の残滓とみなされ攻撃の対象としている考え方に沿っているからこそ、私は反対なのである。

 エンゲルスの唯物論的家族史論『家族・私有財産・国家の起源』は、嫁入婚と家父長制家族の成立が私有財産制の淵源であると同時に「世界史的女性の敗北」と称しており、逆に嫁入婚と家父長制家族に打撃を加え、女権の拡大により、事実上社会主義革命の展望が開かれるという理屈になるからである。男女平等やジェンダー論は本質的に共産主義と親和的な思想である。

 事実上、①案の実現で、皇室典範12条を改正すればマルキストの目論見どおりとなる。その理由でも反対である。

 

(八) 皇室典範12条は令制の皇族女子の皇親内婚原則を一応踏襲しているが、①案は全く無視しており、皇室制度を根本的に破壊する。

 私が①案に強く反対する理由の第一がこれである。歴史上一貫した内親王の性格規定を否定し皇室の伝統を破壊する

 皇族以外と結婚しても、内親王は皇室に残るとする有識者会議の案は、歴史上一貫した規範である内親王の皇親内婚の原則を否定し、皇族にのみ嫁ぐことで皇室の血縁的尊貴性を守る役割という「内親王」号の歴史的性格規定を否定するから、皇室制度を根本的に破壊する。

 この点について文殊正子氏によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している[文殊正子 (1986) )、中村みどり (2002) 文殊説の要約]。

 皇親女子(内親王~四世女王・慶雲3年格では五世女王まで)は継嗣令王娶親王条により臣下は内親王を娶ることは違法であり、実際には10世紀に8例、11世紀に1例、17世紀に7例、19世紀に1例の違法であっても勅許による内親王の降嫁があるが、これは令制が想定している婚姻ではない。

 11/30会議における事務局の制度的歴史的研究資料では、法制史的な観点が欠落している。

 つまり、継嗣令王娶親王条の皇親女子の皇親内婚原則[今江広道 (1983)、安田政彦 (1998)、栗原弘 (2002)、中村みどり(2002)(2014)]については何も説明していない。内親王の歴史的由来を無視して婚姻法制をいじろうとすることが容認しがたいのである。

 

〇継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。

 従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王と(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)臣下との婚姻は違法である。

 統計的にも6世紀の欽明后石姫皇女以降、現代まで千五百年で、一世皇女ないし内親王(一世皇女)で皇親(皇族)と結婚したことが知られるのが63方、臣下と結婚したのが27方であり、やはり皇親内婚が大きく上回り、それが原則であることは明確に言える。

 

 とはいえ延暦12年(793)九月丙戌詔において、見任大臣と良家の子孫は三世女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとした

 「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」『日本紀略』[安田正彦1998、栗原弘2002、中村みどり2014

 なお中村みどりによれば、「良家」とは三位かそれに准じた家柄と注釈している。二世女王降嫁の初例は9世紀の藤原衛への淳和二世女王恒世親王女の降嫁であり、次いで藤原基経への嵯峨二世女王操子女王、仁明人康親王女の降嫁などがあるが、この婚姻は合法ということになる。

 規制は緩和されたが、二世女王以下は内親王のような叙品や特別の礼遇ではないので、諸臣との身分的ずれは大きくないともいえる。

 しかし内親王を臣下が娶ることは令制では一貫して違法であり、皇親内婚原則という建前がくずれたわけでは全くない。

 旧皇室典範44条、現皇室典範12条は、内親王が臣下に降嫁することを違法とはしていないが、皇族女子が結婚後も身位を保持するのは天皇・皇族との結婚に限定しているので、令制の皇親内婚原則を一応踏襲し整合性をもたせているとも解釈できる。

 近世においても元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来霊元院の古式復興政策により、皇女が結婚する場合は皇親が通例となった。幕末まで内親王と皇親の結婚が4方、婚約を含むと6例ある。明治皇室典範以降においても、明治41年の常宮昌子内親王が、竹田宮恒久王に嫁してから、明治天皇の皇女4方と昭和18年の昭和天皇の長女照宮成子内親王と東久邇宮盛厚王の結婚まで、内親王5方は全て皇族との結婚で、原則は皇親内婚であることは明確に意識されていた。

 しかし有識者会議①案はこの歴史的原則を無視している点で伝統破壊の案であり、皇室制度を破壊する。

 つまり令制では内親王を臣下が娶るのは違法で、反律令行為である。違法でも勅許による結婚として令制では18方だが、それはイレギュラーな事例と言いうるのである。

  なお、生涯非婚の皇女は、夭折事例除いても皇女全体の八割以上を占める。というのは、臣下に降嫁することが好ましくないという認識が一貫してあったことと、内親王には令制の規定や荘園公領制のもとでも経済基盤があり、非婚内親王のために准母皇后や女院宣下により厚遇され、南北朝~江戸時代は尼門跡という寺領経営体のトップというポストが皇女のために用意されていたためであり、非婚内親王の厚遇は歴史的伝統としてありうるが、臣下と結婚することは原則に反するということである。

   

4章 事務局調査・研究資料例示の臣下に降嫁した内親王8例は、案を正当化しない

  要旨の五で既に述べているがここでは例示6方について逐一検討するなど詳説する。

 令和31130日有識者会議で提出された事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料に「内親王・女王が皇族以外と結婚しても皇族の身分を保持することを可能とする案」(以下案と略す)を正当化するために、江戸時代以前は臣下に嫁した後も内親王は身位を保持し、あるいは臣下に嫁した後、親王宣下を蒙ったり、叙品されたりする事例を先例として例示している。以下の内親王6方である。

   

〇勤子内親王(醍醐皇女)藤原師輔に降嫁 10世紀前半

 

〇康子内親王(醍醐皇女)藤原師輔に降嫁 10世紀中葉

 

 所生子 太政大臣藤原公季、深覚

 

〇常子内親王(後水尾皇女)近衛基煕に降嫁 17世紀後半

 

 所生子 長女 近衛煕子

 甲府藩主徳川綱豊正室(のち6代将軍家宣)。家宣薨後、天英院。

 長男 近衛家煕 関白・摂政・准后

 次男 大炊御門信名 左近衛中将 

 

〇栄子内親王(霊元皇女)二条綱平に降嫁 17世紀後半

 所生子 関白二条吉忠

〇八十宮 吉子内親王(霊元皇女)徳川家継と婚約 18世紀初期

〇和宮 親子内親王(仁孝皇女)徳川家茂に降嫁 19世紀

 有識者会議報告では、①案を正当化するために臣家に嫁した内親王が結婚後も皇親たる身分を保持していた先例として、仁孝皇女和宮親子内親王の一例のみあげているが、ここでは、事務局資料の6例のすべてについて批判的に検討する。

 私の統計では前近代で一世皇女が臣下に降嫁した例では23方、内親王宣下が確認されている例では18例ある(別表参照)。

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 なお天皇の孫にあたる二世女王(親王女)の臣下への降嫁の初例は、9世紀の承和前半期淳和皇子恒世親王女の藤原衛への降嫁で、平安時代に18例が確認されている。二世女王以下の皇族女子の臣下への降嫁は世襲親王家の女王の臣下への降嫁も含めればかなりの数にのぼると言ってよい。

 

1節 反律令の違法婚が皇室の歴史と整合的であるはずがない

 

  令和31130日の事務局資料の例示は全て臣下が内親王を娶った事例であり、すでに述べたとおり、継嗣令王娶親王条で臣下が内親王を娶ることは一貫して違法であり、例示の6例は、いずれも反律令行為であり、令制が想定していない違法婚である。それが勅許されたものであっても例外である。

 違法行為をもって「皇室の歴史と整合的なもの」とする有識者会議の見解は、詭弁といえる。完全に間違っている。

 法制的に違法の結婚を「皇室の伝統と整合的」と言っているのは皇室の歴史の冒涜だと言う厳しい言い方をしてもよい。

 もっとも、二世女王以下は延暦12年詔により条件付で臣下への降嫁が合法であるが、その事例はあげていないのである。

 なお、17世紀の皇女9方(うち内親王宣下7方)の摂家への降嫁については、なぜこの時期に集中的に摂家への降嫁がみられるかという問題は注釈が必要に思える。

 室町・戦国時代の皇女は入寺得度し比丘尼御所となるのが通例で、皇女は非婚で内親王宣下もなくなった。

 江戸時代においても皇女が尼門跡となるのは通例である。例えば後水尾皇女17方のうち8方は比丘尼御所であるけれども、結婚するケースも少なくない。

 嫁ぎ先が摂家とされた理由については、久保貴子氏がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」[久保貴子2009]とする。

 上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。

 しかし近世朝廷においては、17世紀末期に皇女の婚姻の方針が明確に転換された。元禄11年(1698)霊元皇女綾宮福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁して以来、摂家との婚姻をやめ、原則として本来の在り方である内親王は皇族と結婚する在り方に回帰している。

 この方針の転換については霊元院の古式復興政策の一環として評価すべきである。

 霊元天皇が幕府と強く交渉して、天和3年(1683)に14世紀中葉以来の立太子礼(朝仁親王)を復活させ、貞享4年(1687)に221年ぶりに、大嘗祭(東山天皇)を復活させた。

 元禄10年(1697)有栖川宮家の幸子女王が東山天皇に入内し宝永5年(1708)皇后に立てられたが、皇親皇后は後醍醐后珣子内親王以来。だから、内親王が皇親に嫁ぐようになったのも、霊元天皇による古式復興、原則回帰の政策と軌を一にするものという理解でよいと思う。

 もっとも正徳6年(17162歳の霊元皇女八十宮が家継と婚約しているが、これは霊元法皇の幕府と関係修復を図る、あるいは政敵近衛基熙を牽制する政治的意図によるものとみられており、江戸時代においては朝廷・公家の知行充行権を幕府が掌握し、知行が幕府の麾下にある以上、幕府の要請に応えていく必要もあったという事情をふまえてみるべきである。

 和宮親子内親王については幕府再三の要請、公武一和による鎖国攘夷という政治的判断によるもので、和宮とて有栖川宮熾仁親王と縁約していたのであるから、幕末まで皇女は結婚するなら皇親という方針は一貫している。

 明治22年旧皇室典範のもとでは、明治41年の常宮昌子内親王から、明治皇女4方はすべて皇族と結婚しており、明治皇女内親王は9方おられるが、5方は夭折されており、無事に成長された方は4方だった。すべて皇族との結婚である。

 また昭和18年の昭和皇女照宮成子内親王も皇族と結婚されているので、終戦前の皇女内親王5方の結婚はすべて皇族であり、令制以来の伝統原則に沿った在り方を踏襲していた。

 したがって終戦前は、内親王は皇族と結婚するのが古来より原則というのが意識されていた。

 皇室典範は、令制と違って臣下が内親王を娶ること自体は合法化したが、終戦前は内親王が臣下に降嫁することはなかったのである。

 17世紀末期から、20世紀前半というくくりでは、内親王が天皇か皇族と結婚した例9例に対し、臣下が娶ったのは1例にすぎない。

 

 戦後は内親王が皇族と結婚せず、臣下への降嫁が通例となった状況があるが、それは通史的にみれば、例外的事象であって、今日では合法であっても異例が続いているという見方をしてよい。

 皇室典範12条は明治皇室典範44条と同趣旨のため旧皇室典範を継受しているのであるから、旧皇室典範のもとでも実態として一世皇女内親王はすべて皇族に嫁し、令制においては臣下が娶ることが違法であった伝統を意識しており、皇室典範12条も原則は、内親王については身位を失わない皇族内婚と理解できるので、戦後の在り方は異例、ただし内親王が臣下に降嫁するのは、先にも述べたとおり臣籍に降下した皇女源潔姫と藤原良房が合法とされることと同列のものとして理解することによってかろうじて伝統の範疇という見方をとることはできるといえる。

 以下、事務局の調査・研究資料例示の6例を個別にとりあげ、案を正当化できないことを説明し、総括的説明は要旨で述べた通りなので省略する

 

2節 事務局資料例示6方の検討

 

一 醍醐皇女勤子内親王

   勤子内親王は醍醐天皇の第四皇女で母は更衣源周子(嵯峨三世孫)である。醍醐天皇鍾愛の皇女で、源順に 『和名類聚抄』を編纂させた才媛であり、絵もよくした。内親王で歴史上初めて臣下に降嫁した事例である。

承平4年(934)当時蔵人頭だった藤原師輔(27歳)は、本来律令では許されない内親王の降嫁を実現するために、勤子内親王(31歳)と密通し、後から承認を受ける形を取った。内親王は承平6年叙四品、天慶元年(938)子もなく病没(35歳)した[ 岡部 明日香(2012)]。

 この密通が大目に見られた背景として、母の源周子は更衣であり、所生子は賜姓し臣籍に降下されるのが通例であったからという見方もあるが批判もある。密通当時朱雀天皇は12歳、摂政は父の忠平だった。

臣下が内親王を娶ることは違法であり、令制が想定していない婚姻であり、これを先例として案を正当化する理由にはならない。

  

二 醍醐皇女康子内親王

(一) 天気を損じた違法婚

 天暦9年の師輔(48歳)と康子内親王(37歳)の密通についてはさすがに天気を損じたと伝えられている。

結果的に村上天皇は降嫁を勅許したとはいえ、突っ込みどころ満載、評判の悪い違法婚である。

事務局は①案を正当化するためにこの事例を引用しているのは全く説得力に乏しいといわなければならない。

 康子内親王は村上天皇の同腹の姉宮で、母は太皇太后藤原穏子、承平3年(933)裳着、叙三品、承平4年叙二品、天慶9年(946)叙一品、居所は母の藤原穏子と同じ殿舎だった。藤原穏子が崩御になられたあと、天暦8年(954)准三宮宣下、后腹ゆえ最高ランク、格別尊貴な内親王であった。

師輔は康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなきに(前が汚れている)」(『大鏡』)とか

 「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『中外抄』) などと伝えられている。[保立道久 (1996) 『平安王朝』. 岩波新書]

 内親王の御前が汚れていると言ったのは師輔の兄左大臣実頼である。

 『中外抄』では、師輔はまらが大きいので、内親王を悦ばせた醜聞みたいな言い方をしているが、ただ『中外抄』は、師輔の時代より六世代たった約200年後の関白藤原忠実の口述記録なので、本当に公然周知のスキャンダルだったのかはよくわからない。『中外抄』には藤原実資が女好きだったとか裏話もあって面白いが、後世の忠実の認識を示しているだけで、同時代人のものではないので批判的にみておく必要はある。

 忠実は『殿暦』で閑院流の藤原璋子と藤原季通が密通していると記し「乱行の人」「奇怪不可思議の女御」と非難していることから性的倫理に厳格であるゆえ、摂関家中興の祖とはいえ師輔に批判的な見方をとっているともいえるからである。

 とはいえ反律令行為である以上、少なくとも12世紀においては好ましくない行為と認識されていたとはいえる。12世紀には内親王が臣下に降嫁した事例がないのである。

 そのように評判の悪い密通であるが、勅許されたというのは、師輔は外舅であり、村上天皇の皇后藤原安子の父、皇太弟時代の春宮大夫として成明親王を支え、立坊の功臣であり、大目にみられたということである。

 要するに内親王三方降嫁という違法婚は、師輔自身が好色であり、密通を繰り返してもお咎めがないのは、師輔は伯母の皇太后藤原穏子の中宮大夫でもあり、太后に取り入って娘の安子を成明親王と結婚させたように近臣であったし、村上天皇にしてもミウチ同然で師輔に甘くならざるをえず、内親王降嫁を裁可したということで、婚姻政策の政策転換とはいえない。

 ただこれが前例になって令制では違法であっても10世紀には師輔の例を含めて9方、11世紀に御一方の内親王が臣下に降嫁した事例がある。

 もつとも師輔は降嫁が勅許されてからは夫婦愛が濃やかであり、康子内親王薨後は、師輔は独身生活を通したと『大鏡』には書かれている。

 康子内親王の所生子は深覚、太政大臣藤原公季である。天徳元年(957)に公季が誕生するが、同年産褥死で薨去。

 なお、藤原公季は閑院流藤原氏(清華家の転法輪三条、西園寺、徳大寺、今出川家)の嚢祖であるが、宮中で村上天皇の皇子たちと一緒に養育されたのは康子内親王が産褥死、師輔も3年後に薨じたため、母代がなく、師輔女の皇后藤原安子が引取ったということであり、皇子たちとは膳の高さで差別化されていたという。

 

(二) 夫方居住

 

 康子内親王の未婚時代の居所は基本的に太后の藤原穏子と同殿されていたと考えられている。

延長4年(926)皇太后藤原穏子は弘徽殿に還御、7歳の康子内親王、4歳の寛明親王(朱雀)、当歳の成明親王(村上)を伴っていた。

 承平2年(932)に藤原穏子は飛香舎を居所とし、康子内親王と成明親王も同殿されていた。藤原穏子は村上朝では朱雀太上天皇の朱雀院あるいは二条院を居所としており、朱雀上皇崩後、主殿寮に遷御、さらに内裏弘徽殿に入っている。このほか麗景殿、承香御などを居所とされていた[東海林亜矢子(2004)]。

 一方、師輔は「九条殿」とか「坊城右大臣」と称されたように、九条殿や坊城第、桃園第といった邸宅があった。康子内親王は内裏に居住していた時に、師輔と密通したが、勅許され師輔の邸宅である坊城第に居住していたことは史料により確認されている。

 

 坊城右大臣歌合(伝宗尊親王筆歌合巻、類聚歌合

天暦十年八月十一日、坊城殿にきたの宮おはしますに、つきのいとおもしろきに、をとこかたをむなかた、おまへのせざいをだいにてよめる

 北宮と称されるのが康子内親王である[杉崎重遠(1954)]。

 康子内親王は坊城第で薨ぜられた(『日本紀略』天徳元年六月六日条)[栗原弘(2004)]。

 

 夫方居住であり、師輔に降嫁した以上、皇室からは離れたという見方をとってもよいと思う。ゆえに①の先例とはならない。

 

(三) 法性寺での仏事

 

 康子内親王の墓所は不明である。

 四十九日は法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳元年七月二二日条)

 一周忌も法性寺で行っている(『日本紀略』天徳二年六月四日)[栗原弘(2004)]。

 法性寺とは藤原忠平が興福寺でなく京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺でもあった。寺域は広大で現在の東福寺や泉涌寺のある地域を含む。

 平安時代を通じて藤原氏の氏寺として繁栄し、藤原忠通は法性寺で出家し、法性寺入道前関白太政大臣と称される。九条兼実も法性寺で出家し、後法性寺殿と称された。

 鎌倉時代九条道家が東福寺を建立したことにより、東福寺に浸食される形で縮小していくことになる。

 法性寺の歴史については、YouTubeの「日本史オンライン講座・東福寺【京都のお寺の歴史】」2022で秦野裕介氏が解説しているので参照されたい。

 法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子(伊尹・兼通・兼家・安子の母)の一周忌のほか忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光の四十九日が執り行われている。また村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤藤原忯子(為光女)の四十九日、また藤原安子と円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が行われている[栗原弘(2004)]。

 小野宮流の方々の仏事も行われていることからみて、法性寺は忠平流の氏寺と考えてよいだろう。

 なお康子内親王の仏事が法性寺で執り行われたことについては、皇族が母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、母方の氏寺で執り行われたという解釈を栗原弘氏がとっているので、仮に康子内親王が生涯非婚であったとしても、官寺である法性寺で法要がなされた蓋然性は高い。

 したがって、法性寺の法要は内親王が皇室から離れた根拠にはならないが、師輔の先妻(藤原南家出身)も法性寺で一周忌が行われている以上、夫方の氏寺で法要が行われたという見方をとってもよいように思う。

 准三宮康子内親王は勅許されたと言っても、内親王との密通は継嗣令王娶親王条に反する反律令行為であり、天気を損じたのは史実とみてよい。令制が想定していない婚姻であるから、この先例をもって有識者会議案は正当化できないし、「皇室の歴史と整合的」と強弁している有識者会議は噴飯ものである。違法行為に準拠してそれが伝統だとはいえないからである。

 有識者会議①案はさしあたり、女性皇族の配偶者と所生子は皇族とはならないが、将来的には皇族とすることも検討するというものである。

 しかし所生の藤原公季は父系帰属主義で当然藤原氏であり皇族となることは絶対ない。

 有識者会議案のモデルと考えられるアン王女はセント・ジェームズ宮殿や、女王が結婚祝いとして購入したコッツウェルズのマナーハウスを邸宅とされ、王室側で用意されているが、康子内親王は師輔の邸宅である坊城第の夫方居住であり、明らかに臣下に降嫁したのであって、核家族を基本とする英国の生活実態も異なるゆえ、案のモデルたりえない。

 

三 霊元皇女品宮(級宮)常子内親王

 

 品宮(級宮)常子内親王とは、後水尾院の第15皇女で、母は新広義門院(新中納言局・典侍園国子)、霊元御生母、国母である。

 寛文4年(166423歳の時、6歳年下の大納言近衛基煕に降嫁した。所生子は甲府藩主徳川綱豊(のち将軍家宣)に嫁した煕子(天英院)、関白准后近衛家煕、大炊御門信名である。

 なお品宮の内親王宣下は正規のものではない。結婚に先立って親王宣下されるケースが多いが、品宮の場合は結婚後かなりたった延宝5年(1677)に諱が常子と定まったことにより、公認された。以降常子内親王と署名されているということだが、諱が定められたなら内親王であるといってよい。

 後水尾院は皇子が19方、皇女が17方もおられたが、なかでも鍾愛された皇女とされている。夭折された方をのぞくと皇女は14方、うち8方は比丘尼御所(尼門跡)である。在俗で生涯非婚が御二方、明正女帝と、女三宮昭子内親王(岩倉御所)、摂家に降嫁されたのが4方で、梅宮文智女王が鷹司教平に降嫁したが離縁し円照寺の開基となった。

 女二宮は近衛尚嗣に降嫁し、女五宮賀子内親王が二条光平に降嫁し、もう一方が品宮である

 皇女のなかでも中宮源和子(将軍秀忠女・東福門院)所生の女二宮と女五宮賀子内親王は厚遇された、婚姻に際して幕府より三千石が献上されている。

 しかし久保貴子[2009]によれば、これは秀忠の孫娘で将軍家縁者のためであって、17世紀において皇女御領(化粧領)はなかったとされている。従って皇女に知行が充行われてないとするならば、基本は室町時代と同じように、入寺得度し尼門跡となるのが皇女のあり方といえる。

 皇女御料は原則なかったというのは、皇女は、入寺し、結婚するのが十代前半が通例だったこともある。

 後水尾皇女梅宮(女一宮・母は典侍四辻公遠女与津子)は13歳で鷹司教平に降嫁したが数年後に離縁、その後剃髪し、法諱を文智という。寛文7年に仙洞御所で徳川家光17回忌追善の観音懺法が行われ、文智が導師を勤めたことをきっかけにして、東福門院が文智の円照寺のために幕府に寺領寄進を依頼したため、寛文8年に家綱からやっと寺領200石の朱印状が発せられたのだという[久保貴子(2008)]。それまでは冷遇されていたといってよいからである。

 第八皇女の緋宮(後西天皇皇姉、母は勾当内侍・御匣殿、櫛笥隆子)は、院参町に緋宮御殿が建設されているが、後水尾法皇崩後に落飾、法皇旧御料から300石が緋宮に贈られ、これが御宮室林丘寺の寺領となった[久保貴子(2008)]。

 つまりそれまで、皇女御料はなかったと考えられるのである。

 
 (一)品宮の財産と相続(近衛家熈が相続)

  品宮の場合も、新中納言局と称される園国子が母であるから、東福門院所生の皇女とは違って特別の御料は充行われてなかった。

ただし独身時代から、法皇より院参町に品宮御殿が与えられていた。万治4年(1661)大火の後、寛文4年に中筋の法皇別邸の隣に御殿が建てられ、なぜかその半年後に結婚している[久保貴子2008]

 また岩倉の山を法皇より賜っていた。法皇は人に物を与えるのが好きで、近衛家の寝殿の修復、茶室と物見の格子の構築は法皇の出費であり、近衛邸への御幸は105回に及ぶ[瀬川淑子(2001]。岩倉の山と地続きの幡枝の山荘も近衛家に下賜されている。

 また品宮は、紫竹の別邸を購入するため、法皇に無心し、法皇は銀子五百枚を支出している[久保貴子2008]

 さらに常子内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村300石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行3000石の一部ということであり、幕府が認め所司代より報知されたもので、これは内親王薨去により幕府に返却されたとみられている[瀬川淑子(2001]。近世の皇室、宮家、門跡、公家の家領については、中世とは違って徳川幕府が知行充行権を掌握していたので、幕府の麾下にある近世領主であった。したがってこの処分は皇室領の一期相続とは性質が違うものと理解している。

 延宝5年に常子内親王は門跡宮方の深草の知行の監督、後水尾院より宰領を命じられていた。新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた[瀬川淑子(2001]

 門跡領も広義には皇室領ともいえるので、皇室の所領経営を代務していたことになり、当然この知行から収入も得ていたと考えられる。それは臣下に降嫁しても内親王という身位ゆえんといえるかもしれない。

 しかしながら瀬川淑子氏によれば、品宮御殿や岩倉の山といった品宮の財産は嫡子の近衛家煕が相続し、これらは近衛家領だとしている。

 以上の考察から、品宮常子内親王の事例は、有識者会議案の前例にはならないと考える。品宮の財産は嫡子が相続しており、それゆえ婚家に帰属しているといえる。

 有識者会議案は、女性皇族に皇室に残ってもらうのは、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員その他の公務の担い手となる皇族がいなくからである。当然国家的給付、皇族費が給付されるとみる。しかし、品宮は国家的給付に相当する皇女御料を得ていないのである。

 後水尾法皇より賜った財産があり、遺詔より300石の知行を幕府が認めたとはいえ、それは内親王固有の給付でない。娘の煕子が徳川家宣の正室であるため、徳川家からの送金等もあって、近衛家は経済的余裕があったとみられるが、皇女固有の設定された知行はない。

 結婚した皇女内親王を皇室に残すという有識者会議案とは実態として隔たりがある。

 

(二) 夫方居住

 

 江戸幕府京都大工頭の中井家伝来の図面によると、寛永13年(1636)後水尾皇女の女二宮が、近衛尚嗣に降嫁の際、今出川の近衛家本邸に「奥方御殿(女二宮御殿)」が造営整備された[藤田勝也(2012)]。

 正保2年(1645)に後水尾第五皇女の賀子内親王は二条光平に降嫁し、当時新在家町の二条家本邸敷地内に邸宅があり、ここが万治4年(1661)大火の火元だった。二条光平本邸は今出川通の北に移転し、敷地の東半が「女五宮御殿」だったことが当時の指図でわかっている[藤田勝也(2009)]。

 寛文10年(16704月二条家賀子内親王の御殿に、実の父母である後水尾院と東福門院(徳川秀忠女源和子)の両院と、同母姉である明正上皇の御幸があり、御馳走と狂言尽くしが準備された。[瀬川淑子(200155頁]これは天皇家の方々を二条家に嫁した女五宮が饗応したという理解でよいわけである。賀子内親王は外祖父が徳川秀忠であるから経済的に恵まれており、大きな御殿が建てられたが、二条家の敷地内である以上夫方居住は明白である。

 ところが、品宮の場合は、事情が異なる。基煕の時代、近衛家には今出川邸(1585年~陽明亭、東亭、現京都御苑北西)という本邸と、旧本宅である桜御所(1483年~旧御霊殿、現同志社大学新町キャンパス)があった。

 瀬川氏によれば寛文4年(1664)結婚当初は別居だった。品宮は公家町の中筋にある品宮御殿、基煕は桜御所(旧本宅)に居住していた。寛文6年(1666)に新宅の陽明殿(今出川の本邸とみられる)で同居したと述べている。しかし、これについて上代の妻問婚を想定するのは間違っている。

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 皇別摂家の近衛家は17世紀に三代にわたって皇女、内親王の降嫁があった。寛永13年(1636)女二宮が、近衛家本邸に「奥方御殿」が造営されたのだから、品宮も近衛家本邸が居所とされて当然だからである。

 万治4年(1661)正月の大火で内裏、仙洞御所、女院御所、多くの公家屋敷が焼亡したが、近衛家本邸は類焼を免れた。火元は新在家(内裏の南)二条家に降嫁した賀子内親王邸であった。

 後西天皇は白川の照高院に臨幸、仮内裏は近衛家本邸とされ、2月内侍所仮殿上棟により移徒された。寛文3年正月に近衛邸仮内裏において譲位、新帝は新内裏で受禅、霊元天皇である。

 寛文48月後西上皇は新造の仙洞御所へ移徒されるまで、近衛邸は後西上皇の仮御所だったと考えられる。

 その間、近衛家当主の基煕は別邸の桜御所を居所としたのだろう。同年11月に品宮が結婚したのだが、なんらかの事情で本邸に居住するには再整備が必要であったのだろう。品宮が結婚した寛文4年ころの日記がないため、なぜ結婚初期、別居という変則的なことになったのか詳細が不明なのである。

 結婚のタイミングは、後西上皇の移徒とみられる。品宮も23歳で、姉宮3方の摂家への降嫁が1214歳であることから、当時の婚姻年齢としてはかなり遅いため結婚を急いだのが意外と真相かもしれない。

 品宮は結婚当初、後水尾法皇の御所で夜遅くまで過ごすことが多く、数年たっても変わりなかったという。この点、瀬川氏は妻としての自覚に乏しかったと批判的である。後水尾院の近衛邸の御幸は105回と頻繁にあり、常子内親王は後水尾院の文化サロンのメンバーであり、修学院離宮への御幸にもお供されており、結婚後も宮廷社交中心の自由な生活をされていた。

 後水尾法皇を中心とする遊興・文芸活動の拠点は、仙洞御所、長谷・岩倉・幡枝の山荘だったが、品宮の結婚時、後水尾法皇は69歳と高齢で、法皇は長命であったが、晩年は文芸というより遊興活動が中心になり、場所も公家町にある皇子女の邸宅になった。宮門跡や御宮室(尼門跡)は公家町に里坊(別宅)を持っており、室内の遊興の場となっていた。後水尾法皇は近衛邸だけでなく、こうした皇子女の邸宅に頻繁に御幸されていたのである。

 そのような意味では、常子内親王は宮廷社交にたけており、結婚した後は夫に従い里帰りは、暮れの挨拶、正月、盆などの慣例に限定される一般のしきたりとは違ったかなり自由な結婚生活であったとはいえる。

 とはいえ、いずれにせよ、品宮の居所は寛文6年(1666)以降近衛家本邸である。夫方居住である。

 

(三) 嫁取婚(嫁入婚)である

 

 天和3年(1683)家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は母の品宮常子内親王が日記に詳しく記されている。「御里の御所へまず中務卿を先に参らす‥‥‥女一宮ねもじ(練絹の白)、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している[瀬川淑子(2001)]。明らかに嫁迎え、嫁入婚の儀礼である。御所を御里と言っていること。白無垢・色直しは現代の婚礼・披露宴においても、嫁入婚の和装花嫁衣装の定番である習俗と同じである。

 

〇 白無垢・色直しについて

 

 嫁入は、古くは嫁取(よめどり)と言い、嫁入婚の成立儀礼を「嫁娶」とよんでいるように、儀礼の基本は、嫁を夫家に迎い入れる「嫁迎え」にあった。[江守五夫1986 294]つまり、出嫁女の婚家帰属が嫁入婚であるが、端的に「白無垢・色直し」だけを切り取ってもその意味が込められていると言ってよいのである。

 色直しは本来、嫁迎えから三日目に行われ、その後、嫁が舅姑、親族と対面披露されたが、明治以降では祝言の盃が済むとすぐに色直しの儀式を行うようになり、大きな披露宴では主要な儀式となった。

 歴史人類学者の江守五夫によれば「白無垢が死装束であって、花嫁が生家を出るときにいったん死ぬとみなされ、また、婚家に入ってから、赤色の衣装に色直しすることが再生をあらわしているということは、日本各地の人々が語っている」とする[江守五夫1993 51頁]。

 徳島県立博物館によれば、 花嫁行列は日が沈んで提灯を携える。 花嫁の出立時には生家の門で藁火をたき、花嫁が使用していた茶碗を割った。「県内の花嫁行列に見られるこれらの習俗は、葬送の際、死者を送り出す所作と非常に類似しています。‥‥死者と同様にあつかうことで、花嫁に象徴的な死を与え、生まれ変わることを指し示したものだと考えられます‥‥角隠し、白無垢の花嫁衣装の特徴は、死者に着せる死装束、または、葬送に参列する人々の服装に類似します。死者の装束は一般に白色とされ、額には三角形の白布の宝冠が被せられます。‥かつては喪服が黒色でなく白色であったと言い伝えも耳にします」[徳島県立博物館2001]。

 色直しについて「婚礼には披露宴の際、花嫁が白無垢から色打掛などに着替える色直しと言う習俗が見られます。色直しには、白無垢によって死の状態にあるとされる花嫁が、色のついた衣装に着替えることによって、 あらたに嫁いだ家の人間として生まれ変わったことを示す」[徳島県立博物館2001]と説明している。

 また小笠原流の伝書においても「嫁入りは惣別死にたるもののまねをするなり。さて輿もしとみよりよせ白物を着せて出すなり。さて輿出て候えば門火など焼くこと肝要なり。ことごとく皆かえらぬ事を本とつかまつり候」[小笠原敬承斎2010]とあり、白無垢=死装束の模倣との見解を裏付けしている。

 しかし伊勢流有職故実研究家伊勢貞丈の見解では、白無垢の白色は五色の大本であるためとし死装束であるとは言ってない。ただ通俗的によくいわれるのは「白無垢」は婚家の家風にしたがい何色にでも染まりますとの意味を込めたものとされているから、実質的な意味に大きな差はないと考える。

 白無垢-色直しは出嫁女の婚家帰属性を表徴するものと理解して問題ないと考える。

 なお教会挙式でもヴァージンロードはゲルマン法の嫁の引き渡しであって、父から夫へムント権(保護権・庇護権)を譲り渡す儀式を簡略化したものであるから、生家から婚家へ移ることを意味するものといってよいのである。

  17世紀の摂家への降嫁は常子内親王に限らず、憲子内親王と同様のものであったと考えられる。婚礼は嫁入婚を示している。婚入配偶者は婚家に帰属するのである。

 婚家に帰属する婚入配偶者であれ、生家とかかわりをもつことはありうるとはいえ、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員のような重要な公務を一般国民の婚家に帰属する方がなさるというのはかなりの違和感がある。ゆえに、常子内親王を含め17世紀の摂家への降嫁例を前例として、有識者会議案を正当化できない。

  

(四) 墓所

  品宮常子内親王は大徳寺の近衛家廟所に墓所がある。近衛尚嗣に降嫁した後水尾皇女女二宮は東福寺海蔵院にある。近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。なぜ女二宮が改葬されていないか不明だが、近衛家の墓所があったところである。

 近衛家煕に降嫁した霊元皇女憲子内親王墓所は、ネットで調べたところ、大徳寺総見院、西王寺、長泉寺、清浄華院と4か所出てくるが、義母で叔母にもあたる常子内親王と同じく大徳寺がメインなのだろう。

 二条光平に降嫁した賀子内親王は、二条家の墓所嵯峨二尊院。二尊院に賀子内親王邸の御化粧之間が元禄年間に移築され、非公開だが茶室として現存する。

 なお、東福門院(明正生母、中宮源和子)は後水尾や明正と同じく泉涌寺月輪陵、在俗で生涯非婚だった後水尾皇女昭子内親王は、岩倉御所と称されるが、東福門院ゆかりの南禅寺境外塔頭の光雲寺が墓所である。

 なお後光明皇女で嫡流の皇女として一品、女院宣下で厚遇された孝子内親王は生涯非婚だったが、文明年間に後土御門天皇が伏見に建立し戦国時代に泉涌寺と並んで御寺とされていた般舟院陵(後花園、後土御門、後奈良の分骨所でもあり、秀吉の伏見築城により西陣に移転した)、幕末に桂宮を相続した非婚内親王の淑子内親王の墓所は泉涌寺である。

 したがって非婚内親王は皇室ゆかりの御寺かもしくは母后ゆかりの寺だが、摂家に降嫁した内親王は、近衛家なら東福寺海蔵院や大徳寺、鷹司家や二条家は二尊院、九条家は東福寺と婚家の墓所に葬られているのは婚家の嫡妻ゆえであり、生家を離れていると解釈してよいのである。

 また江戸時代、摂家に降嫁した内親王の墓所は宮内庁治定陵墓のリストにはない。非婚内親王の昭子内親王や孝子内親王の墓所はリストにあり宮内庁が管理している。

 宮内庁治定陵墓ではないということは端的に天皇家からは離れているとみなしてよい。

 

四 霊元皇女栄子内親王

 霊元院の第三皇女で、母は新上西門院藤原房子(左大臣鷹司教平女)、貞享3年(1686年)二条綱平への降嫁に先立って内親王宣下されており、寛保3年(1743)という晩年に二品に叙されているが、品位は生母の尊貴性と関連する面があり、生母が摂家の女である以上、栄子内親王の二品叙位はある意味当然のものといえるだろう。墓所は二尊院である。

 所生子は関白二条吉忠。

 すでに述べたとおり、17世紀の皇女は国家的給付にあたる皇女御料はなかったと考えられているが、二条家の敷地の東半は二条光平に降嫁し綱平の養母でもある賀子内親王の御殿だったこと、賀子内親王の母が東福門院で徳川家の縁者のため経済的には恵まれていたこと。賀子内親王所生の女は甲府藩主徳川綱重に嫁す姻戚関係もあった。そうした経緯で二条家には、二代続けて内親王が降嫁したと考えられる。

 摂家の正室たる立場、夫方居住、墓所も婚家の廟所であり、宮内庁治定陵墓ではない。皇室からは離れたとみてよいだろう。

 

五 霊元皇女八十宮吉子内親王

 

 霊元院の第十三皇女八十宮(母は右衛門佐局)は2歳で徳川家継と縁約した。この縁談は幕府の要請に応じたもので、霊元法皇は幕府との関係修復を意図、あるいは大奥の家継生母月光院と家宣正室の天英院(近衛基煕女)の対立に乗じて、政敵である親幕派の近衛基煕に楔を打ち込む狙いもあるとも言われる。

 しかし正徳6年(1716)納采の儀の2カ月後に家継が8歳で夭折し、八十宮は関東に下向していない。

 とはいえ事務局資料では後家として処遇されているので婚姻事例としている。享保11年(1726)内親王宣下で諱は吉子。婚家である将軍家のメンツもあり内親王宣下はある意味当然だろう。

 なるほど幕府より500石の道具料が進献され、御殿が建てられて、さらに毎年銀200両[久保貴子. (2002)]の待遇は、徳川家正室としての処遇といえるし、浄琳院も将軍正室としての法号であり、墓所も徳川家の拠点である知恩院である。

 ただし、宮内庁治定陵墓で宮内庁が管理している。しかし御寺の泉涌寺や般舟院ではない以上、皇室から離れたとみなしてよいと思う。

 私がとった統計では八十宮は婚姻事例としてカウントしてない。納采の儀までで、実際の結婚生活には至っていないのであるから、生涯非婚と分類しても問題ないだろう。

六 仁孝皇女和宮親子内親王

 

 仁孝皇女和宮は嘉永6年(18516歳で有栖川宮熾仁親王と婚約しておられたが、幕府は万延元年(1860)朝幕間の緊張緩和、公武一和を目的として、和宮の将軍家茂への降嫁を奏請することを決し、朝廷は孝明天皇のご希望でもある鎖国攘夷の措置を講ずればこの要請を拒否しないこととなり、内親王宣下は文久元年(18614月、同年10月に桂宮邸を出立、1115日江戸到着、文久2年(1862211日婚儀をあげられた。きわめて政治的な駆け引きの色濃い結婚である。

 家茂養母の天璋院との対面で、姑の天璋院が上座で、和宮は下座であったことが報告され孝明天皇が憤慨したという。

 将軍家定の正室である天璋院は、篤姫と称され、実は島津忠剛女、島津斉彬養女、のちに近衛忠煕養女。徳川家に嫁した以上は盛衰ともに徳川家に従う覚悟を示した女性で、和宮とは仲が悪く、「御風違い」で反目があったことはドラマにも描かれよく知られている。

 慶応2年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。法号は天皇が選んでいるが将軍正室としての法号である。静寛院宮は江戸にとどまることが徳川家のため天下万民のためであれば、上洛は望まないとのお考えだった。

 静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視されたので、江戸にとどまる意味を失っただけでなく、婚家が天皇の名をもって討伐を受ける最悪の事態となった。

 慶応4年(1868)静寛院宮は慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。

 226日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。3月には帰順した者の宥免を求め、大総督府はこれを承諾することになった。

 その後明治2年~7年まで京都に帰住され、7年より東京麻布市兵衛町を居邸とされたが、明治10年脚気の発病により湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨去、洋行中の徳川家達の留守居、松平確堂を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫(1987)]。

 以上のことから、和宮(静寛院宮親子内親王)は夫方居住で、婚家徳川氏の家名存続と慶喜の寛大処分のために尽力、徳川氏の存亡に従う決心すら示された。婚家徳川氏の成員としてふるまっている。徳川家で葬儀がなされ、菩提寺増上寺が墓所であること。墓所は宮内庁治定陵墓のリストにはない。内親王とはいえ徳川家に婚入した正室であるから皇室とは離れた存在とみなしてよい。

 そもそも令制で臣下が内親王を娶ることは違法であり、このような結婚は令制が想定していない。違法だが、政治的に特殊な事情から勅許された結婚であった以上、イレギュラーなケースなのであり、和宮などの先例によって①案は「皇室の歴史と整合的なもの」という有識者会議の見解は間違っている。

 有識者会議の①案は、皇族女子に、摂政や国事行為臨時代行などを担っていただくために皇室に残ってもらう案であるから、皇族費の給付が想定され、居邸も夫方の私邸でなく宮家の当主のように皇室財産の居邸が用意されることが想定されることを考えると、和宮のケースを①案を正当化する先例とするにはかなりの違和感がある。

 以上有識者会議令和31130日事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料に臣家に嫁した皇女内親王が、内親王の身位を維持、もしくは婚嫁した後に内親王宣下、叙品がなされている例として例示された6例について検討し、①案の前例としては不適切な事例であることを示した。総括は冒頭の要旨に示したとおりである。

 

5章 代替案

 

 有識者会議①案はきわめて悪質で、明確に破棄されるべきである。

 

 しかし念のため、女系容認勢力が①案を推してくると思うので譲歩案も示す。

 皇族の員数を確保する目的で、女子皇族を皇族に留まらせる代替案として、生涯非婚を選択した女性皇族に限定して特旨により独立した居邸、家政機関を付置、独立生計として厚遇することとする。生涯非婚であることに限定した「女性宮家」のイメージである。

 たとえば嫡系内親王を念頭において准三宮として厚遇する制度とする。准三宮は三后に准じた待遇の身位の意味だが、前関白や、摂関家出身の宮門跡など准三宮宣下をうけており、皇族だけのものではないので、皇位継承権は付与しない。宮家当主の親王と同格かそれ以上の経済的待遇とする。目的は、有識者会議のいうとおり、皇族減少期に、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員その他を担っていただくことだけである。減少期だけの特例とする。

 鎌倉時代末期は、親王より准后が上位であったが、天正15年(1587)の座次相論による関白秀吉の裁定では親王と准后は同格とされており[谷口研語, 1994] [神田裕理, 2019]。この考え方を踏襲する。

 一方、眞子内親王殿下のように一般国民に婚出を希望される女性皇族の婚姻の自由のためにも、皇室典範12条にはいっさい手をつけず、一時金の引上げなど厚遇してよいと考える。

 そうすれば①案のように、皇室典範12条を粉砕して、性的役割分担を流動化させる懸念はないし、非婚で皇室に残ってもよい女性皇族も厚遇され、婚出を希望される女性皇族も厚遇し双方にとって①案よりも有益である。

 要するに、皇室典範12条改正を阻止することに眼目があり、それさえやらなければ「女性宮家」もありというのが私の意見。もちろん、③案もしくは②案が順調に進捗するならそれも必要はないということになる。

  

 

[i] ただし皇子でありながら臣籍降下した初例は光仁皇子広根朝臣諸勝で、次いで桓武皇子の長岡朝臣岡成と良峯朝臣安世であるが、母はいずれも女嬬(堂上の掃除、灯油等の雑仕)だった。

[ii] つまり律令制の考課選叙方式は、9世紀前半に六位以下の位階形骸化と五位以上成選制(勤務評定)が放棄されたことにより崩壊、承和期に巡爵と年労叙爵が成立し、9世紀末から10世紀初頭頃までには、受領など一部の官職以外は基本的に官職の年労や恩寵によって任官される、新しい平安時代的任官システムが確立するが[尾上陽介(2001)]、「非年労制的」昇級の機会としては院宮などの御給があり、10世紀以降、行事に伴う勧賞という昇級の機会もあったので、勧賞を獲得した家が昇進のうえで優越することになる。

[iii] ◎フランスの男系継承について

フランス王権はユーグ・カペーの989年の即位から、男系継承で、復古王政ブルボン朝最後のフランス王シャルル10世(在位182430)まで一貫している。七月王政のルイ・フィリップ(在位183048)も傍系のオルレアン家、カペーの系譜につながっている [福井憲彦, 2019]

 フランス王権は単婚婚姻非解消主義の文化圏でありながら、男系継承でもざっと千年、王位継承者が枯渇することはなかったのである。

 カペー朝は直系男子に恵まれ、15341年続き、カペー朝の奇跡といわれる。

続くヴァロア朝は傍系の男系男子で、1374年シャルル5世のヴァンセンヌ勅令で男系継承の王位継承法を成文化した。これはゲルマン部族法典のサリカ法典で「ただ土地に関しては、いかなる相続財産も女に帰属するべきではなく、全ての土地は兄弟たる男なる性に帰属すべし」を法源としている [佐藤賢一, 2014]

ヴァロア朝はアンリ3世で途絶したため、1589年に末流のブルボン公家の分家でヴァンドーム伯家(後に公家)のアンリ4世が即位したが、十代遡ってカペー朝に繋がる傍系である。当時の人々はヴァロア朝が絶えた時は、ブルボン公家が王位に就くときちんと認識していたため混乱することはなかった。

1979年にスウェーデン、1990年にノルウェー、1991年ベルギーなど性別にかかわらず長子相続制をとるようになった。近年ではルクセンブルグは2010年[山田敏之. (2017)]、2013年に英国がそうなった。欧州では男系男子長子相続(サリカ法典)を墨守しているのはリヒテンシュタインしかないといわれる。

[iv] 我が国の良妻賢母教育は、女子差別撤廃条約批准を梃とした家庭科共修や1986年の雇用機会均等法の頃からすたれ、婦人道徳の教育が否定される傾向にあるが、筆者は家父長制家族を破棄して私有財産制を止揚する、マルクス主義の影響、イデオロギー的偏向と考えて、婦人道徳の否定は悪しき傾向と考えるものである。)

[v] この点については東洋法制史の滋賀秀三[(1967459頁以下註16])によると女性は父の宗との帰属関係を有さない。父を祭る資格を有さないのである。女性は婚姻によってはじめて宗への帰属関係を取得する。夫婦一体の原則にもとづき、夫の宗の宗廟に事える義務を有し、死後、夫婦同一の墳墓に合葬され、考妣対照の二牌つまり夫婦で一組の位牌がつくられ、妻は夫と並んで夫の子孫の祭を享けるが、女性は実家において祭られる資格を有さず、未婚の女の屍は家墳に埋葬されず他所に埋める。つまり女性は生まれながらにして他宗に帰すべく、かつそれによってのみ人生の完結を見るべく定められた存在であった。白虎通に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」。「婚礼の挙行によって女性は確定的に夫宗〔夫の宗族〕の秩序に組み込まれる」。漢族の妻は夫の宗族に帰属する。韓国の門中も同じことである。

 だから、儒教規範で徹底している社会(例えば韓国農村)において、女性にとって最大の幸福とは、死後亡夫と並んで一組の位牌がつくられ夫の子孫によって祭を享けることにあるのだ したがって、妻の異族的性格や自然血統的家族観を強調する論理は誤りである。日本であれ、韓国であれ、満州族であれ、漢族であれ出嫁女の婚家帰属性は同じことである。

[vi] 明治民法の起草委員は帝国大学法科大学教授の穂積陳重、梅謙次郎、富井政章であったが、梅謙次郎は逆縁婚(生存する妻が死亡した夫の兄弟と再婚する)の取り扱いなどで士族家族慣行の採用を却下し、民法を庶民の家族慣習に合致させることを強調した。

 夫婦同氏についても強く推進したのも梅謙次郎である。穂積陳重・富井政章も異論はなく、世間の実態を追認したものともいえる。梅謙次郎は法典調査会で次のように夫婦同氏を強調した。「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信シラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ」。『人事慣例全集』58[江守五夫1990  57]

 

[vii] 明治9年太政官指令「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は社会生活の実態とまったく乖離しており、事実上実効性がなかったと考えられる。それは夫婦の別氏を称することの不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。代表的な伺文を引用する。

 

〇明治22年12月27日宮城県伺

「婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」

 

〇明治23年5月2日東京府伺

「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」[廣瀬隆司1985

 

[viii] 皇親と臣下とは明確に区別する考え方は先に、以下の夫婦別姓の明治9年太政官指令にみられる。 

 太政官政府法制局の見解は次のとおりである。

 「内務省伺嫁姓氏ノ儀審案候処婦女人ニ嫁シタル者夫家ノ苗字ヲ称スルコト不可ナル者三ツアリ

第一 妻ハ夫ノ身分ニ従フヲ以テ夫ノ姓ヲ冒サシムヘシト云ハ是ハ姓氏ト身分ヲ混同スルナリ

第二 皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ皇后ヲ皇族部中ニ入ルゝハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ

第三 今ニシテ俄カニ妻ハ夫ノ姓ニ従フトスレハ歴史ノ沿革実ニ小事ニアラス例ヘハ何々天皇ハ何々天皇ノ第幾子母ハ皇后〔王〕氏ト署セントスル歟 

 帰スル処今別二此制ヲ立テント欲スルヲ以テ一ノ大困難ヲ醸スナリ右等ハ都テ慣法ニ従ヒ別ニ制ヲ設ケサル方可然歟因テ御指令案左ニ仰高裁候也 」[山中永之佑1976、廣瀬隆司1985、近藤佳代子2015]。

[ix] 永享6年(1434)妙法院新宮明仁法親王が逐電。これは足利義教の公家・僧中の粛正の一環である[稲葉伸道2019]。また明治初年に中川宮朝彦親王が陰謀を企てたとして親王位を剥奪された例がある

[x] 註3と同じ

[xi] もっとも江守五夫[1990]は「子持たずの若嫁の帰葬」を論じている。新潟県岩船郡・西頸城郡・青森県三戸郡田子町・秋田県鹿角市、仙北地方に「子持たずの若嫁の帰葬」の習俗があるとしている。これは子どもができないで若死にした場合、特に不正常死した若嫁の遺骸や遺骨を生家が引き取るというならわしがある。しかしながら、こうしたローカルな習俗から、出嫁女の婚家帰属性という我が国の慣習を否定するほどの論理性はない。東アジアに共通していえることだが、例えば足入れ婚のように、初生子を出産するまでの、嫁の地位が不安定であるということは指摘されている。しかし、今日足入れ婚の悲劇はきかなくなったし法律婚が定着している以上この問題を論ずる必要はないだろう。

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河西秀哉 (2008) 「象徴天皇制・天皇像の定着 ミッチー・ブームの前提と歴史的意義」 同時代史研究(1

河西秀哉(2018)『天皇制と民主主義の昭和史』人文書院金井静香 (1999) 『中世公家領の研究』 思文閣出版

上村正裕 (2018) 「しりへの政と皇后八・九世紀を中心に」 日本歴史 (844)

蒲生正男(1968)「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 

蒲生正男(1970)「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970

蒲生正男(1974a)「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

蒲生正男(1974b)「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

蒲生正男(1975)「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3

神谷正昌 (2020) 『清和天皇』 吉川弘文館

川上多助(1982)『平安朝史学』上 初版1930 国書刊行会

川崎晃 (2004) 「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』 慶応義塾大学出版会

河村政久史 (1973) 「昌子内親王の入内と立后をめぐって」 史叢(7

神田裕理 (2019) 『朝廷の戦国時代-武家と公家の駆け引き』 吉川弘文館

岸俊男 (1957) 「光明立后の史的意義」 ヒストリア(20

岸俊男 (1969) 『藤原仲麻呂』 吉川弘文館

北啓太 (2016) 「禁裏文庫と近衛家」田島公編『近衛家名宝からたどる宮廷文化史』 笠間書院

北西鶴太郎 「大鏡の文藝性序説 : その 1 主題に就いて」文芸と思想  (3)

北野隆(1979)「近世公家住宅における数寄屋風書院について : その 2 摂家住宅について」日本建築学会論文報告集 275(0)

木原弘美 (1995) 「 絵巻の往き来に見る室町時代の公家社会その構造と文化の形成過程について―  佛教大學大學院紀要 23 

木本好信 (2004、初出2002) 『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう

官文娜(2005)『日中親族構造の比較研究』思文閣出版

久保貴子 (1998) 『近世の朝廷運営 - 朝幕関係の展開』 岩田書院

久保貴子 (2002) 「江戸時代-武家社会のはざまに生きた皇女」服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館

久保貴子(2008)『後水尾天皇』ミネルヴァ書房

久保貴子(2009) 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち)」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2

金宅圭(2000)『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会

熊谷開作(1963)『歴史のなかの家族』酒井書店

熊谷開作(1987)『日本の近代化と「家」制度』法律文化社

倉本一宏(2001)「内府悦気有り」駒沢女子大学研究紀要 (8)1

栗原弘(1990)「藤原内麿家族について」日本歴史 (511)

栗原弘 (2002) 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2

栗原弘 (2004)「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史研究 (19)

栗山圭子 (2001) 「准母立后制にみる中世前期の王家」『日本史研究』465号 日本史研究465

桑山浩然(1996)「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』( 6)

後藤みち子(2009)『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

小林よしのり (2010) 『ゴーマニズム宣言SPECIAL 新天皇論』 小学館

近藤佳代子(2015)「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要49巻★

近藤毅大 (1997) 「紫微中台と光明太后の『勅』」 ヒストリア(155

近藤好和 (2019) 『天皇の装束』 中央公論新社

古藤真平(2018) 『日記で読む日本史3 宇多天皇の日記を読む』 臨川書院

五味文彦 (2006) 『中世社会史料論』 校倉書房

小森崇弘 (2008) 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」 立命館文學 (606

酒井茂幸 (2009) 『禁裏本歌書の蔵書史的研究』  思文閣出版

坂田聡(2002)「中世後期~近世の家・家格・由緒--丹波国山国地域の事例を中心に 」『歴史評論 』630

坂田聡(2006)『苗字と名前の歴史』吉川弘文館

坂田聡(2007)「家制度の期限を探る-転換期としての戦国時代-」『青少年問題』625号桜井栄治 (2009) 『室町人の精神』 講談社学術文庫

桜田真理絵 (2016) 「未婚の女帝と皇位継承元正・孝謙天皇をめぐって—  駿台史学156★

桜田真理絵 (2018) 「女帝「非婚」と「未婚」のあいだ -「不婚の女帝」論の再検討- 文化継承学論集 (13)★

佐古愛己(2013)「中世叙位制度の特質に関する一考察 : 鎌倉期を中心に(研究発表,中世史部会,日本史部会,第一一〇回史学会大会報告)」史学雑誌1221

佐藤賢 (2014) 『ヴァロア朝-フランス王朝史2 講談社現代新書

佐藤長門 (2009) 『日本王権の構造と展開』 吉川弘文館

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館

滋賀秀三(1967)『中国家族法の原理』創文社1967

篠川賢 (2013) 『飛鳥と古代国家』 吉川弘文館

柴桂子(2003)「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14)

柴桂子(2004)「近世の夫婦別姓への疑問」〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント『総合女性史研究』(21)

島善高(1992)「近代における天皇号について」早稲田人文自然科学研究(41

清水昭俊(1970)「<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3)

清水昭俊(1972)「<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3)

清水昭俊(1973)「<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1)

清水昭俊(1985a)「出自論の前線」『社会人類学年報』vol111985

清水昭俊(1985b)「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985

清水昭俊(1987)『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂198

東海林亜矢子(2004)「母后の内裏居住と王権」お茶の水史学 48巻★

白根陽子 (2018) 「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開 同成社

末柄豊 (2011) 「伏見宮旧蔵文書二題」 東京大学史料編纂所研究成果報告2011-3★

末柄豊 (2012) 「禁裏文書における室町幕府と朝廷」 ヒストリア(230

末柄豊 (2012) 「十三絃道の御文書」のゆくえ」 日本音楽史研究(8

末柄豊(2018) 『戦国時代の天皇』 山川日本史リブレット

菅原正子(2002)「中世後期-天皇家と比丘尼御所」服藤早苗編『歴史のなかの皇女たち』小学館

菅原正子(2020)「公家の生活基盤を支えていたものは何か」神田裕理編『戦国時代の天皇と公家衆たち』文学通信

杉崎重遠 (1954)「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (9-10)★

瀬川淑子(2001)『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』

相馬真理子 (1997) 「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」 書陵部紀要 (49)

園部寿樹 (2015) 資料紹介『看聞日記』現代語訳(五) 山形県立米沢治芳短期大学紀要 51

高岸輝 (2017) 「天皇と中世絵巻」高岸輝・黒田智『天皇の美術史3乱世の王権と美術戦略 室町戦国時代』 吉川弘文館

高岸輝 (2020) 『中世やまと絵史論』 吉川弘文館

高橋康夫(1978) 「後小松院仙洞御所跡敷地における都市再開発の実態室町時代京都の都市再開発に関する考察」 日本建築学会論文報告集(263)★

高橋康夫 (1978) 「戦国期京都の町 組 「六 町 」 の地域構造」 日本建築学会論文報告集274号★

高橋康夫 (1983) 『京都中世都市史研究』 思文閣出版

高橋秀樹(1996)『日本中世の家と親族』吉川弘文館

高橋秀樹(2004)『中世の家と性』山川出版社

高橋典幸 (2019 「南北朝動乱期の社会」『中世史講義』 筑摩書房

瀧浪貞子 (1991) 『日本古代宮廷社会の研究』「孝謙女帝の皇統意識」 思文閣出版

瀧浪貞子(2017)『藤原良房・基経』ミネルヴァ書房

竹島寛 (1982復刊、1936) 『王朝時代皇室史の研究』 名著普及会

武部敏夫(1987)『和宮(人物叢書)』吉川弘文館

田島公 (1997) 「禁裏文庫の変遷と東山御文庫の蔵書」大山喬平教授退官『日本社会の史的構造 古代・中世』 思文閣出版

田島公 (2004) 「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収 吉川弘文館

田島公 (2006) 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』 思文閣出版

谷口研語 (1994).『流浪の戦国貴族 近衛前久』中公新書

谷口やすよ(1978)「漢代の皇后権」『史學雜誌 』87(11)

谷田博文 (2019) 『国家はいかに「楠木正成」を作ったのか』 河出書房新社

龍野加代子 (1997) 「八条院領の伝領過程をめぐって」『法政史学』49号 法政史学(49)★

田中明 (2007)「修学院離宮における御幸様式の変遷と場所構成について」日本建築学会計画系論文集72 621 号★

田村航 (2018) 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)

田村航 (2020) 「後花園天皇-後光厳流か、崇光流か」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

徳島県立博物館編(2001)徳島県立博物館企画展図録『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』徳島県立博物館編

豊永聡美 (2017) 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』 吉川弘文館

豊永聡美 (2020) 「後土御門天皇-心を砕いた朝議復興-」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

永井晋(2021)『八条院の世界』山川出版社

 

仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 (1995) 「わび茶と露地 (茶庭) の変遷に関する史的考察 その9: 禁中の茶とその茶庭」 千葉大学園芸学部学術報告 (49)★

中川八洋 (2018) 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』 ヒカルランド

中川八洋 (2019) 「「旧皇族の復籍」妨害に全力疾走の赤い山羊八木秀次 ── ブログ 中川八洋ゼミ講義

中込律子 (2005) 「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』 清文堂出版

中林隆之 (1993 1994) 「律令制下の皇后宮職(上)(下) 新潟史学31 32

中村みどり (2002) 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編(1)★

中村みどり (2014) 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13)

中村順昭 (2019) 『橘諸兄』 吉川弘文館

波田永実  (2017) 「国体論の形成~南北朝正閏論争からみた南朝正統観の歴史認識」 流経法學16(2)

成清弘和 (1999) 『日本古代の王位継承と親族』 岩田書院

角田文衛(2003)『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房

角田文衛(2006)『日本の女性名-歴史的展望』国書刊行会

角田文衛(2020)「太皇太后藤原穏子」『平安人物誌 下』法蔵館

角田文衛(2003)『二条の后藤原高子 業平との恋』幻戯書房

所功 (2012) 『日本の宮家と女性宮家』「皇室史上の宮家制度」 新人物往来社

所功(2021)「皇位継承史上の危機と課題」『皇位継承の歴史と廣池千九郎』モラロジー研究

生井 真理子(1998)「『古事談』 実資か?実頼か?」同志社国文学 (47) 1998

仁井田 陞(1952)『中国法制史』岩波書店

西嶋定生 (1999) 『倭国の出現 東アジア世界のなかの日本』 1999 東京大学出版会

西別府元日 (2002) 『律令国家の展開と地域支配』 思文閣出版

西谷正浩(2006)『日本中世の所有構造』塙書房

新田一郎 (2001) 「継承の論理-南朝と北朝」『岩波講座 天皇と王権を考える 2統治と権力」」 岩波書店

新田一郎 (2011)2018 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社/講談社学術文庫

仁藤智子(2016)「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

野村育代 (1992) 「王権の中の女性」峰岸純夫編『中世を考える家族と女性』吉川弘文館 吉川弘文館

野村玄 (2019) 「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」 大阪大学大学院文学研究科紀要(59

 

橋本義彦 (1976) 「中宮の意義と沿革」『平安貴族社会の研究』 吉川弘文館

秦野裕介 (2018) 常盤井宮恒興王への親王宣下 ブログ 室町・戦国時代の歴史・古文書講座, 11-04

秦野祐介 (2020) 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版

秦野裕介 (2020) YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」 日本史オンライン講座★

秦野裕介 (2020) YouTube「中世の皇位継承16 後小松上皇 後光厳流の断絶と継承」 日本史オンライン講座★

秦野裕介 (2020) YouTube「中世の皇位継承17 後小松上皇と後花園天皇」 日本史オンライン講座

秦野裕介(2021)「観応の擾乱」「禁闕の変」渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』柏書房

秦野裕介(2022YouTube  「戦国大名477 足利家 天皇家と足利将軍家」日本史オンライン講座 ★

久下 裕利(2006)「一品宮について--物語と史実と」学苑 (792)

久水俊和 (2011) 『室町時代の朝廷行事と公武関係』 岩田書院

久水俊和 (2020a) 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

久水俊和 (2020b) 『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』 戎光祥出版

廣木一人 (2001) 「後土御門天皇家の月次連歌会」 青山語文31

廣瀬隆司(1985)「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究28巻1・2号

福井憲彦 (2019) 『教養としてのフランス史の読み方』 PHP研究所

福地陽子(1956)「<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展」『法と政治』7(4)1956

藤木邦彦 (1991) 『平安王朝の政治と制度』 吉川弘文館服藤早苗(1991)『家成立史の研究』 校倉書房

藤田勝也 (2009)「近世二條家の屋敷について -近世公家住宅の復古に関する研究 1-」[日本建築学会計画系論文集]/74 巻★

藤田勝也(2012)「近世近衛家の屋敷について」日本建築学会計画系論文集675★ 

藤田高夫 (1990) 「前漢後半期の外戚と官僚機構」 東洋史研究 , 48(4)

藤田寛 (2011)2018)『江戸時代の天皇』 講談社/講談社学術文庫

文殊正子 (1986) 『内親王』号について 『公主』号との比較 古代文化 38(10)

保科季子 (2002) 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』612号 東洋史研究612

細谷勘資(1990)「 内麿流藤原氏の台頭と摂関家・女院--藤原資長・兼光を中心として」駒沢史学 (42)

保立道久 (1996) 『平安王朝』 岩波新書

前田雅之 (2018) 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館

増田忠彦 (2013) 「資料にみえる 碁の上手たち(江戸時代以前の碁打たち) 大阪商業大学アミューズメント産業研究所紀要 (15)★

松永和浩 (2020) 「後光厳天皇-神器を欠き、都を逐れても」久水・石原變『室町・戦国天皇列伝』所収 戎光祥出版

松薗斉 (2010) 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)

松薗斉 (2014) 「戦国時代禁裏女房の基礎的研究 後土御門~後奈良天皇期の内裏女房一覧」 愛知学院大学論叢 (44)

松薗斉 (2016) 「室町時代禁裏女房の基礎的研究  後花園天皇の時代を中心に」 人間文化 愛知学院大学人間文化研究所紀要 (31)

松薗斉(2020)「伏見の土倉について―その文化史的アプローチ―」人間文化 : 愛知学院大学人間文化研究所紀要(35)★

牧野巽(1985・初出1935)「中国における家族制度」『牧野巽著作集第6巻』御茶の水書房

町田香(2005)「後水尾院サロンと宮廷庭園の展開」ランドスケープ研究69   5 号★

町田香 (2006)「『无上法院殿御日記』にみる後水尾院サロン以降の宮廷庭園文化」ランドスケープ研究70 5 号★

松井みき子 , 後藤 久太郎(1996a)「寺町御殿と瓢界御殿 : 後水尾院の公家町別邸 上」日本建築学会計画系論文集 61(479)

松井みき子  後藤 久太郎(1996b)「二階町御殿と白賁軒御殿 : 後水尾院の公家町別邸 下」日本建築学会計画系論文集 61486

松井みき子  後藤 久太郎(1997)「」「无上法院日記」にみる「格子」と「物見」 上」日本建築学会計画系論文集 62(494)

松井みき子(1998)「公家邸指図にみる「物見」」日本建築学会計画系論文集 63(508)

三木太郎 (1953) 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因長講堂領以下の所領を中心としてー」 駒沢史学★

三崎裕子 (1988) 「キサキ宮の存在形態について」 史論41

三島暁子 (2012) 『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版

水野智之 (2005) 『室町時代公武関係の研究』 吉川弘文館

水野智之 (2014) 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』 吉川弘文館

水野柳太郎 (2008) いわゆる光明立后の詔について」 奈良史学 (26)★

水間政憲 (2019) 『ひと目でわかる皇室の危機 ~天皇家を救う秘中の秘」 ビジネス社

三村晃功(1995) 「「永正8年月次和歌御会」をめぐって--725日和歌御会を中心に」 光華女子大学研究紀要 (33)

村井章介 (2005) 「易姓革命の思想と天皇制」『中世の国家と在地社会』 校倉書房

村井章介 (2005初出1997)  『中世の国家と在地社会』 校倉書房

村上史郎(1999)「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

村田正志 (1954初刊、1984) 『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」 思文閣出版

村田正志 (1983(初出1944「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版

村山太郎(2003)「『源氏物語』論 : 〈女〉言説との「対話」」広島大学大学院教育学研究科紀要 第二部, 文化教育開発関連領域  (52)

桃崎有一郎 (2020) 『室町の覇者足利義満-朝廷と幕府は以下に統一されたか』 筑摩書房森茂暁(1997)(2013)『闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』角川選書/角川ソフィア文庫

森茂暁 (2004) 『満済』 ミネルヴァ書房

森茂暁(2005)(2020)『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』講談社選書メチエ/講談社学術文庫

森茂暁 (2011)2017 『室町幕府崩壊』角川選書/角川ソフィア文庫

森暢平 (2014) 「昭和20年代における内親王の結婚「平民」性と「恋愛」の強調」 成城文藝229

森田大介 (2020) 「後柏原天皇-践祚二十年を経ての即位」久水・石原編『室町・戦国天皇列伝』 戎光祥出版

盛本昌広 (2008) 『贈答と宴会の中世』 吉川弘文館

保田卓 (1997) 『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)) 教育・社会・文化研究紀要4

安田政彦 (1998) 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館

山口和夫 (2017) 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館

山﨑雅稔(2001)「承和の変と大宰大弐藤原衛条起請」歴史学研究』751号、(2001

山崎雅稔 (2012) 「藤原衛の境涯」 帝京大学外国語外国文学論集(18)

山田敏之 (2018) 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」 レファレンス(808)★

山本啓介 (2013) 「後柏原天皇時代の内裏和歌活動について 時代背景と形式」 日本文学629)★

山中永之佑(1976)「明治民法施行前における妻の氏」『婚姻法の研究上高梨公之教授還暦祝賀』有斐閣1976

湯川俊治(20055『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

吉田賢司 (2017) 『足利義持』 ミネルヴァ書房

吉田孝 (2006) 『歴史のなかの天皇』  岩波新書

吉野芳恵(1982)「室町時代の禁裏の女房-匂当内侍を中心にして」『國學院大學大学院紀要文学研究科』13号

米田雄介 (1992) 『歴代天皇の記録』 続群書類従完成会

米田雄介 (2004) 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』 塙書房

若松正志(2014)「日本史上の親王・宮家に関する基礎的研究  近世の桂宮家を中心に」京都産業大学総合学術研究所所報 (9)

鷲山茂雄(1979)「源氏物語の一問題 : 紫のゆかり・形代のこと」日本文学 28(8)

改革著作集〈10)』教文館

 

2021/12/24

①案は排除するか、生涯非婚内親王・女王の厚遇に切り替えるべき

①案は排除するか、生涯非婚内親王・女王の厚遇に切り替えるべき

 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議最終報告は、今後も徹底的に批判していきたい。①案は恒久的な制度とし、新制度では眞子内親王のようにして皇室を離れることを不可能にする案を示している。私は①案は排除して、皇室典範12条維持しつつ、有識者会議が女性皇族を残したいというのなら、生涯非婚女性皇族を厚遇する制度の創設で十分だと思う。
 具体的には生涯非婚を選択される女性皇族は特旨により准三宮待遇とする、后位に准じた身位とし独立した生計と家政機関を附属させる。皇族以外と結婚する場合はこれまでどおり皇室を離れる。
 女性皇族には二つの選択肢があり、皇室典範12条には手をつけなくてすむ。歴史的には、皇女は夭折事例を除いても、千五百年単位で八割以上は非婚。非婚内親王の准母皇后等が11例あるほか、女院宣下される非婚内親王も多く、中世には膨大な御願寺領荘園の本所であったケースもあるし、室町時代から江戸時代の尼門跡(比丘尼御所、御宮室)は寺領の経営体のトップであり、伝統にかなったありかたが非婚内親王の厚遇である
 23日東京新聞で女系論者の高野明勅氏のコメントがあり「女性皇族は皇統譜に、配偶者と子どもは戸籍に属することになり,極めて奇妙な制度だ。女性皇族の結婚の大きな障害になるだろう」と予測しているとする。この見解に関する限り賛同する。
 日本の家族慣行は、婚入配偶者(嫁、婿)は婚家に帰属し、男性は一般に嫁を迎えるか、家長予定者として入婿になるかであり、家長となれない入婿は男性への侮辱である。こんな歪な制度を皇室につくっていいのか。そのうえ結婚しにくくなると高森氏がおっしゃるなら、私の案のほうがましというもの。
 

2021/12/21

皇室典範12条の改変に反対する本音の理由

  12月20日配信の新日本文化チャンネル桜、討論「皇統存続の道」を部分的に見ましたが、百地章氏が冒頭、女性皇族の案には反対だが、旧宮家の男子を養子で迎える道が開けたので、一代くらいの女性皇族がいてもという発言に少しがっかりした。
 百地氏は、平成2年の即位礼、大嘗祭の時期から有識者として発言されていて、当時政教分離違反論が結構つよくあったが、厳格解釈を批判していた数少ない憲法学者で、もちろん実績のある方で尊敬はしてますが、皇室典範12条改正の懸念というものが聞かれなかったので、がっかりしたということです。
 私は、百道氏や八木英次のように有識者会議やその事務局を評価してません。皇室典範12条改正に積極的で危険だというふうにかんがえます。
 つまり私の本音というか、見解は以下のとおりであります。
 現在の皇室典範12条は、旧皇室典範44条と基本的に同趣旨である。

 11月30日事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料 からの孫引きである。

  皇室典範義解(伊藤博文『帝国憲法皇室典範義解』(国家学会蔵版 明治22 年)p185~186)
第四十四条 皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍内親王女王ノ称ヲ有セシムルコトアルヘシ恭テ按スルニ女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス此ニ臣籍ト謂ヘルハ専ラ異姓ノ臣籍ヲ謂ヘルナリ仍内親王又ハ女王ノ尊称ヲ有セシムルコトアルハ近時ノ前例ニ依ルナリ然ルニ亦必特旨アルヲ須ツハ其ノ特ニ賜ヘルノ尊称ニシテ其ノ身分ニ依ルニ非サレハナリ
 義解は嫁する者は、夫の身分に従うという趣旨が述べられているが、エンゲルスは嫁入婚と家父長制家族の成立を「世界史的女性の敗北」と称しており、家父長的家族を悪くいうのは共産主義者の思想である.
 家父長家族の粉砕が共産主義者の目的だから、左翼側からすれば夫の身分に従うという性的役割固定観念を粉砕したいのて、皇室典範12条も粉砕したいのである。
 女性宮家とは言ってないが、女性皇族が皇室に残り、夫を従えるかたちになると、まさに家父長家族の否定で、左翼にとっては望ましいことなのである。
  
 伝統規範は、皇族どうしの婚姻では女性皇族は后妃であって、配偶者の男性皇族が在世しているかぎり即位することはないし、当主となることはない。非婚内親王は厚遇された。非婚皇后の例も11例あるし、膨大な御願寺領の本所となり、女院となれば院庁が開設され、院司を従える。
 尼門跡(比丘尼御所・御宮室)も寺領の経営体のトップである。
 女性皇族がトップでありうるのは女帝でれ、女院であり尼門跡であれ、非婚であることかが前提である。だから生涯非婚内親王の厚遇には反対しないが、皇室典範12条の改変は、性的役割固定観念の打破とい左翼の戦略どおりの結果になるので非常に不愉快なのである。。
 性的役割分担、つまり男性が天皇で女性が皇后、男性が宮家の当主で、女性が妃というののと違う制度をつくって性的役割分担を流動化させてしまうと、皇室制度を破壊し、男系継承も危うくなってしまう。有識者会議は悠仁親王殿下の次については男系でいくとはも女系でいくともいっておらず、先送りにしており、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は、皇室典範12条の否定であり、性的役割の流動化につながり、女系を既成事実化する懸念が強いので反対なのである。
 だから旧宮家の男系男子の養子縁組と抱き合わせで①案をやられるのは非常に困るのである。
 ひょとしたら女系もありというでは、旧宮家の方々も二の足を踏むことになりかねず、チャンネル桜の百道氏がフリップをもって、旧宮家には若い男系男子がこれだけおられると説明していたが、男系・女系は先送りにせず、悠仁親王殿下の次も当然男系男子で、皇統上格別の由緒のある伏見宮御一流の男系男子は潜在的皇位継承資格者としてできるかぎり皇族に復帰していただくという方針を打ち出したほうがよい。

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