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カテゴリー「皇室典範」の10件の記事

2021/09/11

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議 を批判する その5

動画台本の再修正

 

1 皇室典範12条は継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受しており、王娶親王条は少なくとも5~6世紀以降の皇室の慣例を明文化したものなので、およそ1600年の伝統規範を、12条により維持している以上、揺るがせにできない規範的価値ゆえ、改変には反対、特例としての適用除外も反対である。

 

 継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 諸王は内親王以下を娶ることができる。但し五世王は内親王を娶ることができない。臣下は五世王以下を娶ることを許す。

 従って皇親の範疇である内親王、二世~四世女王は(令制では皇女と天皇の姉妹が内親王、孫が二世女王、曽孫が三世女王となる)は臣下との婚姻は違法

 

 

『日本紀略』延暦12年(793)九月丙戌の詔

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者

 見任大臣と良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得る

 

Photo_20210912111001 

 

 

明治皇室典範(明治22年1889)

第四十四條

皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ

 

 

 現皇室典範

 第十二条  

 皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。

 

内親王の範疇

 

 令制     皇姉妹、皇女

 

 嵯峨朝以降  親王宣下制度に移行

 

 旧皇室典範  皇女から皇玄孫の女子(四世孫まで) 

        支系から大統を継承した場合の皇姉妹

 

 現皇室典範  嫡出の皇女および嫡男系嫡出の皇孫である女子

 

要旨

 

 皇室典範12条は内親王、女王たりうるのは、皇族と結婚するか非婚に限られるものとしている。

 これは、皇親女子の皇親内婚を定める継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受しているものと理解してよい。令制では延暦12年詔で規制緩和がなされ、二世女王以下は、条件付きで臣下に降嫁することを認めた。にもかかわらず原則論は、皇親内婚であり、特に臣下が内親王を娶ることは一貫して違法であるが、実際には10世紀に藤原師輔は醍醐三皇女内親王の降嫁をはじめとして、原則に反する結婚は少なからずある。師輔と康子内親王の密会はスキャンダルでもあったが、勅許された。しかしそれは例外とみるべきである。

 内親王は、皇族と結婚し内向きなので内親王号なのである。実際の皇親女子の結婚は大筋で延暦12年詔に準拠してなされており、明治以降、皇族の入寺得度が禁止されたので、中世より近世において大多数の皇女を尼門跡のポストで遇することができなくなったこともあり、皇女が臣下に婚出することを違法とはしていないが、実態としては、明治22皇室典範のもとでは、終戦前まで皇女内親王の五方すべてが皇族と結婚しており、実態面からも令制の継受としての性格は明白である。

 よって、皇親女子の内婚が原則論である伝統規範を維持してきた12条は揺るがせにできず、これを否定する有識者会議の内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能として皇族を確保しようとする提案は、皇室の伝統規範を破壊するゆえ棄却されなければならない。

 

 

 

 

 

 

 皇室典範12条は継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受していると理解してよい。

 

 つまりきわめて特徴的な皇族内婚志向の制度の趣旨を継受している。

 

 臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想を引き継いでいる。

 

 でも、継嗣令と皇室典範の明文規定自体は違うものではないかとの反論があると思うのでそこのところを説明したいと思います。

 

 要するに、内親王は結婚相手は皇族が原則という規範性は令制から皇室典範まで一貫しているものとしてとらえると、とりわけ皇女、内親王の臣下への降嫁は皇室典範では明文上禁止するものではないが歴史的経緯から原則に反するもの異例としてとらえることができるということを言います。

 

 そうしますと、臣下、民間人、一般国民と結婚したうえ、皇族の身分を保持し宮家を立てることは、皇親女子、とりわけ皇女内親王の婚姻規制の歴史的経緯を無視し、伝統規範に著しく反し、実質女系容認の英国王室等の在り方に接近するものである。

 本来内に向いた、性格規定のなされている「内親王」の本来の趣旨を歴史的意義を無視しており断じて容認できないということであります。

 

 皇室では少なくとも5~6世紀から皇親女子は皇親内婚が規範であり、それを明文化したのが継嗣令王娶条親王条である。

 臣下は皇親女子(内親王、二世、三世、四世女王)を娶ることはできない。これが本来の在り方です。天皇の血縁女子の婚出を禁止したのは、皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持することです。

 中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している [文殊正子, 1986] [中村みどり, 2002]

 中国では宗法の秩序により、同姓不娶。外婚制ですね。日本の令制は唐永徽令を模範としてますが、外婚制は継受してません。

 

 実際、王娶親王条は8世紀までは厳格に守られていた。これは例外で、8世紀においても臣下と皇族女子の婚姻例で明確に違法といえるのは加豆良女王(天武三世女王)と藤原久須麻呂(太師藤原仲麻呂三男)との結婚だけである。臣下が三世王という高貴な女性を妻にすることは、反律令的行為であるが天下の政柄を執っていた仲麻呂だからできたことである [今江広道, 1983]。

 

 ただし延暦12年(793)詔で規制緩和され、見任大臣と良家(三位以上の家柄とみなされている)は、三世、四世女王を娶ることができるとし、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて女王は貴族との結婚が可能にとなった。これは大きな改変といえますが、しかし依然として内親王と臣下の婚姻は違法です。

 なお、二世女王を娶った初例は承和元年(834)頃の藤原衛と淳和皇子恒世親王女です。

 皇族としか結婚しないから内親王ですね。それが、皇族でなく臣下に降嫁するのは「内親王」とはいいがたいところがあります。

 もっとも10世紀前半に藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず勅許され、この後も内親王降嫁は20例以上あります。

  これは師輔の三皇女降嫁は醍醐崩後、朱雀朝、村上朝においてである。

 藤原師輔は 天慶2年(939)師輔の伯母にあたる皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同3年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(のち村上天皇)の室に入れ(皇后に立てられ冷泉・円融御生母)、権勢の基礎を築き、同7年4月成明親王が朱雀天皇の立皇太弟で、師輔は東宮大夫に転じる。要するに師輔の殊遇は後宮を統率していた皇太后藤原穏子に贔屓にされ、中宮大夫として仕えていたこと。村上天皇にとって立坊の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景にある [角田文衛, 1985初出1966]。

 

 藤原師輔は、康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなさに(前が汚れている)」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』) [保立道久, 1996] [中村みどり, 2002] などと伝えられており公然周知の醜聞だったという。

 つまり都の人々は、臣下である師輔と康子内親王の密会は、内親王の降嫁は違法という意味でスキャンダルとしてみていたことになります。

 全体的となところをみておきましょう。

 問題を皇女内親王に絞って考えるのがわかりやすいと思います。臣下が内親王を娶ることは令制では一貫して違法です。

 実際、皇女ないし内親王が、皇親(男性皇族)と結婚した事例は540年に欽明天皇の皇后に立てられた宣化皇女石姫皇女から、1943年に東久邇宮盛厚王に嫁した昭和天皇の皇女照宮成子内親王まで、私が数えたところ63例あり、うち立后が13例ある。ですから内親王は皇族と結婚するのが基本である。

 一覧表がこれです。

 千四百年に63例は少ないといえるかもしれないが、それは生涯非婚の皇女であるケースが最も多いからです。その意味については後で話します。

 問題は臣下との結婚であるが、10世紀に右大臣藤原師輔に醍醐皇女内親王三方が降嫁して以来、違法であるが勅許による婚姻というのが少なからずある。

 それ以前の9世紀における、藤原義房と嵯峨皇女源潔姫との結婚を含めると、実子としての皇女及び内親王を臣下が娶った例は、令制では25例、戦後の5例(眞子内親王殿下を含める)と30例に及ぶ。

 とはいえ江戸時代の10例のうち9例は摂家であり、17世紀に集中している。

 つまりおよその1500年間で、皇女内親王が皇親男子と結婚した、皇族内婚が63例、実子としての皇女及び内親王が臣下と婚姻した例は30例です。

 

  

 石姫皇女(540立后)から眞子内親王殿下(2017婚約内定)のおよそ1500年間

 

  実子としての皇女及び内親王 

 

  皇親男子との結婚 63例 (うち立后13例)

 

  臣下との結婚   30例

 

 63対30ということですから、統計的にみても原則は皇族との結婚であるといえるのです。

 貴族の家格が確定した院政期以降、上流貴族である清華家ですら降嫁は一例もなく、臣下が皇女を娶ることが多かった時期は、10世紀と17世紀、20世紀後半より現代までに限定されている。

 それゆえ、臣下との結婚より倍以上、皇族との結婚のだがら、内親王は皇族と結婚するのが実態としても原則といいうる。

 とくに元禄11年(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王妃となって以来、内親王は皇族もしくは天皇と結婚するのが通例となり、昭和18年に照宮成子内親王が東久邇宮盛厚親王に嫁すまで、内親王の結婚は天皇が一例、皇族が八例あり、臣下に嫁したのは特殊な政治的事情による和宮親子内親王だけである。

 つまり17世紀末期から20世紀の前半までは、近世朝廷だけでなく皇室典範制定後においても、皇女内親王は、皇族に嫁すことを原則とする方針となっております。

 例外の和宮も有栖川宮熾仁親王と縁約していたのであって、姉の淑子内親王も閑院宮節仁親王との縁約があったが、親王が早世されたので、結婚には至らなかった。このことから朝廷は福子内親王以来、17世紀末から一貫して、内親王は皇族との結婚という、令制の本来の趣旨に沿ったあり方となっており、明治皇室典範のもとでは、明治天皇の皇女内親王は九方おられたが、夭折された五方を除く四方が皇族に嫁し、昭和18年昭和天皇皇女内親王一方が、皇族に嫁したこととあわせ、明治22皇室典範のもとでは、無事に成長された皇女内親王五方すべてが皇族に嫁し、令制が臣下が内親王を娶れないとする大原則どおりであることがある

 つまり、皇室典範以降も、皇女は皇族との結婚が原則という意識があることは明白である。

 でも、皇室典範は、明文で内親王の臣下へま降嫁を違法としていないではないかという反論がありえる。

 この点については、令制と明治皇室典範とは内親王の範疇が異なることを指摘しておきたい。令制では、内親王は天皇の姉妹か、皇女のみで、生得的身位です。もっとも嵯峨朝以降は親王宣下制となり、内親王宣下されない限り、内親王ではない。源潔姫のように賜姓臣籍降下する場合もありますし、南北朝時代より江戸時代まで、多くの皇女が「比丘尼御所」とか御宮室といいますが、尼門跡となりますが、内親王宣下されないのが通例です。

 ところが明治22年皇室典範では、内親王は、皇女から皇玄孫の女子(四世孫まで)と        支系から大統を継承した場合の皇姉妹とされ、令制の二世女王、三世女王、四世女王が内親王とされてます(また現皇室典範では違った規定となってますが)。

 つまり延暦12年で、見任大臣良家の子孫が三世女王以下を娶ることが許され、藤原氏は二世女王を娶ることは合法とされた。ですから、内親王のくくりが四世女王まで拡大されたので、内親王を娶ること自体が違法ということを規定しなくても、令制を継受しているといえるのです。

 令制つまり前近代での、皇親女子の婚姻の在り方は、実態としても延暦12年詔の趣旨でした。つまり理念的には皇親内婚、とくに皇女内親王は臣下に嫁すのは好ましくない。しかし二世女王以下は条件付きで臣下に降嫁することを認めている在り方で、皇室典範では含みとすることを明文規定していないが、実際の皇族女子の結婚の在り方から少なくとも終戦前までは令制のしゅしどおりだったということです。

 加えて、明治維新で皇族が入寺得度できなくなり、皇女には尼門跡のポストがなくなりましたからら、そういう意味でも内親王と臣下の婚姻を違法と明文で規定するむことはしなかったのだと思います。

 もっとも私は皇室典範の立法過程を調べてませんが、結果論としてそのように分析できるということであります。

(補足説明)

(1)非婚内親王が多い件

理由は、2つあります。

一つは臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想。すでに述べたとおり内親王・女王たりうるのは、非婚か皇族と結婚するかいずれかとする、王娶親王条の思想。もう一つは令制で内親王に相当な国家的給付ずありかなりの収入と家政機関が付くので経済的に厚遇されるという伝統である。

 土地制度が荘園公領制となってから御願寺領等荘園群の本所が内親王であるケースが多かった。

 南北朝時代から江戸時代まで皇女の大多数が尼門跡となったが、これも寺領領主で経営体の長であり、皇女を遇するポストとなっていた。

 このような伝統を踏まえるならば、非婚内親王の厚遇はありうる選択肢というるが、有識者会議の考え方は

 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持するというもので、非婚ではないので伝統には反する。

 

(令制の親王や皇親の待遇)

 

 位階は親王は一品から四品の品位、諸王は一位から五位。親王は格別で諸王は礼遇では劣る。

皇親には多額の田地や禄が支給され、親王の品田は一品に80町、二品60町、三品50町、四品40町、食封は親王一品に800戸、二品600戸、四品300戸で内親王は半減である。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、皇親が官職につくと官職に応じて職田、食封、季禄などがつく

親王は令制では特に、文学・家令・扶・従の職員が附く。文学は経書を教授する教育係で内親王には附かない。このほか帳内(近侍して雑用に当たる者)が、一品親王なら160人、品位によって差がある。

 

 院政期から鎌倉時代は非婚内親王が格別厚遇されていた時期といえるかもしれません。皇后とは天子の嫡妻であるはずが、天皇准母(実質准母として意義のあったケースもある)としての非婚内親王の皇后が11例あります。

 

 また非婚内親王で女院宣下された例が後朱雀后後三条御生母陽成門院から、光格后欣子内親王まで41例(うち10例は非婚皇后)あります。

 

 南北朝時代以降は、男性皇族の宮門跡と同じように入寺得度するケースが大多数をしめるようになる。これを比丘尼御所とか御宮室といいますが、ここでは尼門跡としますが、とくに室町・戦国時代は皇女はすべて非婚で尼門跡です。私が数えたところ正確ではないかもしれませんが入寺得度された皇女ないし尼門跡といえるケースは63例あります。江戸時代は結婚した皇女は14例、尼門跡は幕末に荒廃したといわれますが、28例あります。

 

 要するに非婚皇女が寺領領主とて経営体の長となるポストが存在し、皇室では皇女が入寺得度されることは、めでたいことで、このポストは決して悪くありませんから、非婚が多かったともいえる。

 

 尼門跡(「比丘尼御所」「御宮室」)だが、皇女を尼寺に閉じ込めたというのは大きな誤解である
 室町・戦国時代の研究では、後柏原天皇の時代、比丘尼御所は年
4回宮中に参内しており、里帰りは俗人と同じことだし、社寺参詣や遊興には男性公家、しかも天皇近臣が従っており、内親王でなくても皇女という立場は変わらない[菅原正子2002]。男性公家を引き連れて夜遅くまで酒宴という世俗的で自由気まま生活なを送る尼門跡もおられたのである。。

 

 

 永正8年(1511 329日の観桜御宴では申楽が催され、宮御方(のちの後奈良)と三宮が御出座された。『実隆公記』によれば召された方々は、中書王(伏見宮貞敦親王)、円満院宮(後土御門皇子)、仁和寺宮(後柏原三宮の覚道か貞常親王息の道永)、大慈光院宮(後土御門皇女)、安善寺宮(後土御門皇女)、大慈院宮(後土御門皇女)、大聖寺新宮(後土御門皇女)、曇花院、三時知恩院御附弟、二位、三位禅尼等、以下公家衆で、三献中書王(伏見宮)御酌、七献天酌とある

 

 

 

 

 

後土御門皇女 渓山

 

 

 

永正14 真如堂参詣 吉田山で酒宴

 

永正16 千本釈迦堂参詣 酒宴

 

永正17 聖門師村 池亭 酒宴

 

 

 

後花園皇女 芳苑恵春

 

文明7 賀茂神社 猿楽見物

 

文明8 千本釈迦堂と鞍馬寺2回参詣

 

文明11 日吉大社祭礼見物

 

    石山寺参詣

 

    高雄 紅葉

 

シリーズ全体の引用・参考文献 は

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判
その2の末尾

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2021/09/05

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議 を批判する その4

動画台本の修正

 

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」 に関する有識者会議の内親王・女王が結婚しても皇族の身分のままとする案は、いわゆる女性当主の宮家といってもよいと思いますが、これに反対する理由の第一は、

皇室典範12条(明治皇室典範44条もほぼ同じ)の改変は絶対反対で、特例としての適用除外も反対ということです。それは、12条が令制の皇親女子の婚姻規制である継嗣令王娶親王条の趣旨を大筋で継受していると解釈してよいと考えられるからです。

 

明治皇室典範

第四十四條皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ

 

 現皇室典範

第十二条皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる

 

 とはいっても、継嗣令王娶親王条は臣下が内親王を娶ることは違法とされ、皇室典範はそうでないなど違いはあるのですが、令制の父系帰属主義を継承していることは同じで一貫しており、戦後は異例にも内親王や女王が皇族以外結婚するケースが続いていますが、明治41年から昭和18年まで内親王五方は皇族と結婚しており、令制の趣旨と合致している。継嗣令王娶親王条は少なくとも5~6世紀の慣例を明文化したものと考えられるので、千六百年の規範を大筋で維持されていると理解できそれゆえ、揺るがせにできないという結論ですが、要約していうとこういうことです。

 つまり継嗣令王娶親王条は皇親内婚を規定しています。臣下は内親王から四世女王までの皇親女子を娶れないんです。

 我が国の内親王は皇親内婚のみ許された。律令が天皇の血縁女子の婚出を禁止したのは、皇族の血縁的尊貴性を隔絶的に保護維持するため。子は父系に帰属するため、皇子が臣下の女を娶っても所生の子は、皇族に列するが、皇女が臣下に嫁いだ場合は、臣下に皇族の血を引く子が生まれることを好ましくないという思想です。

 栗原弘は記紀が皇親女子と臣下との婚姻事例を伝えていない事実は重要であるとする。5 7世紀に天皇に血縁的に近い女子を婚出させないとしい規制は(鎌足-鏡女王)を除き一貫して堅守されていたとし、その慣例を成文化したのが王娶親王条である。

 つまり皇室においては令制前の5世紀頃より一貫した規範だとされる [栗原弘, 2002]、実証史学にもとづいて1600年の規範といえるのです。

 中国では皇帝の娘や姉妹つまりプリンセスは「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有している [文殊正子, 1986] [中村みどり, 2002]

 内を向いた性格だから内親王なのである。

 実際、王娶親王条は8世紀までは厳格に守られていた。

 ただし延暦12年(793)詔で規制緩和され、見任大臣と良家(三位以上の家柄とみなされている)は、三世、四世女王を娶ることができる。特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて女王は貴族との結婚が可能にとなった。

 なお、二世女王を娶った初例は承和元年(834)頃の藤原衛と淳和皇子恒世親王女です。

 問題を皇女内親王に絞って考えるのがわかりやすいと思います。臣下が内親王を娶ることは令制では一貫して違法です。

 実際、皇女ないし内親王が、皇親(男性皇族)と結婚した事例は540年に欽明天皇の皇后に立てられた宣化皇女石姫皇女から、1943年に東久邇宮盛厚王に嫁した昭和天皇の皇女照宮成子内親王まで、私が数えたところ63例あり、うち立后例が13ある。ですから内親王は皇族と結婚するのが基本である。

 千四百年に63例は少ないといえるかもしれないが、それは生涯非婚の皇女であるケースが最も多いからです。

  院政期から鎌倉時代は非婚内親王が格別厚遇されていた時期といえるかもしれません。皇后とは天子の嫡妻であるはずが、天皇准母(実質准母として意義のあったケースもある)としての非婚内親王の皇后が11例あります。

 また内親王で女院宣下された例が後朱雀后後三条御生母陽成門院から、光格后欣子内親王まで41例(うち10例は非婚皇后)あります。これは非婚内親王も含めた数です

 南北朝時代以降は、男性皇族の宮門跡と同じように入寺得度するケースが大多数をしめるようになる。これを比丘尼御所とか御宮室といいますが、ここでは尼門跡としますが、とくに室町・戦国時代は皇女はすべて非婚で尼門跡です。私が数えたところ正確ではないかもしれませんが入寺得度された皇女ないし尼門跡といえるケースは63例あります。江戸時代は結婚した皇女は14例、尼門跡は幕末に荒廃したといわれますが、28例あります。

 要するに非婚皇女が寺領領主とて経営体の長となるポストが存在し、皇室では皇女が入寺得度されることは、めでたいことで、このポストは決して悪くありませんから、非婚が多かったともいえる。

 問題は臣下との結婚であるが、10世紀に右大臣藤原師輔に醍醐皇女内親王三方が降嫁して以来、違法であるが勅許による婚姻というのが少なからずある。

 それ以前の9世紀における、藤原義房と嵯峨皇女源潔姫との結婚を含めると、皇女及び内親王を臣下が娶った例は、令制では25例、戦後の5例(眞子内親王殿下を含める)と30例に及ぶ。

 とはいえ江戸時代の10例のうち9例は摂家であり、17世紀に集中している。この理由については、久保貴子氏がコメントしており、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないかと考えられる。徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。また、 一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」とする。

久保貴子(2009). 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち). 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2.

 

 上記の見方に加え、私の考えでは五摂家が禁中並公家諸法度により、事実上、世襲親王家当主より座次、序列上位となったことが大きいと思う。皇族以上の序列なら臣下が娶ることは違法とされていた内親王との結婚も障碍はないというべきである。

 近世の摂家への降嫁9例はそのようにみるべきで、今日における民間人への内親王降嫁と同列のものではない。

 序列の問題を補足しておきますが、鎌倉末期は書札礼で親王家は大臣家と同格だったとされるが、戦国時代に伏見宮家のステイタスが上昇した。

 天正15年(1587)の座次相論とは713日秀吉は関白任官披露のため前例のない公家、門跡が一同に会する禁中能会を開催したことによる。前例がないことをやったのだから当然もめるわけです。

 これは親王と准后との間で座次相論となり、不満を持つ方々、伏見宮家出身の宮門跡らが欠席したという事件なんですね。

 そもそも、摂関と宮家当主が同席する行事というのが中世にあったのか。足利義満が本来宮家は参仕しない朝儀に常磐井宮満仁親王を無理やり呼びつけた例があるようですが、ふつうないと思う。

 後土御門天皇は連句文芸を好まれ33年間に宮中で月次和漢御会を1500回張行してます。崩御の三日前も連句文芸御会が張行されていたということです。戦国時代、朝儀は衰退しましたが、文芸、遊興的行事などは行われてました。御会は5種類あったということですが、御会に召されることの多いメンバーとしては勝仁親王(後柏原)以外では、納言クラス、勧修寺流など中級貴族以下の禁裏小番の天皇近臣、伏見宮邦高親王とその連枝である門跡や僧侶でした。

 そもそも摂家が参内することがほとんどなくなっていた。近衛政家が参内したのはたった7回うち5回が外様和漢連句文芸御会ですが、これは近衛政家と西園寺実遠の懇願により実現したもの。天皇がミウチや禁裏小番の近臣とばっかり親睦を深めているのはまずいという認識でしょう。摂家、清華家当主も参仕できる御会を設けたのです。しかし近衛政家出席の外様の御会に勝仁親王や伏見宮邦高親王が参加することはないんです。摂家当主とは同席しません。これば座次の問題があるからかもしれません。

 政家の参加が5回で終わってしまったのは、恒例の一献で近衛政家が、断酒精進を理由に天皇の酌を受け取らなかったという事件があり、小森崇弘. (2008). 「後土御門天皇の月次連句文芸御会と公家」. 立命館文學 (606)

 酒を飲まないことに天皇が激怒し、そういう事情もあり戦国時代、天皇と摂関は疎遠になったということですね。

 そこで天正15年(1587)の相論ですが、当時の親王は、儲君たる誠仁親王を別格として、伏見宮第9代中務卿邦房親王、御室(仁和寺)、青蓮院、妙法院、梶井の宮門跡はいずれも伏見宮出身の法親王だった。准后は前関白近衛龍山(前久)と、聖護院、大覚寺、三宝院、勧修寺の門跡准后で、摂家出身者であった。

 関白秀吉は当事者より意見を聴取したうえ直ちに裁定を下し、正親町天皇の認可を受けた(『親王准后座次三ヶ条之事』)。

 715日の裁定は、親王と准后は同格、門跡准后、法親王、前関白は同格とし、それぞれの席次はくじ引きという曖昧さを残すものだった。ただし伏見宮邦房親王と近衛龍山は別格で、常に並んで上座を占めるとされた [谷口研語, 1994] [神田裕理, 2019]。従って伏見宮邦房親王は、前関白であるが准后宣下を受けてない九条兼孝、一条内基、二条昭実より上座とされていたのである [谷口研語, 1994]

 ところが元和元年 (1615) 禁中並武家諸法度であいまいだった座次が序列化され、皇太子以外の親王は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より下位の座次と決められた。

 家康は親王が大臣や准后より上位との見解を示したが、関白九条尚栄や摂家は、これを修正し、奈良時代、舎人親王より右大臣の藤原不比等が上席だったことを根拠として親王は三公の下とされたが、天正の座次の取り決めより親王の地位が著しく下降しているのは釈然としないものがある。

 摂関家の位地が上昇した以上、臣下は内親王を娶ることができないという、継嗣令王娶親王条を厳格に考える必要はなく、17世紀に皇女が摂関家に嫁した9例があると考えます。令制の規定から大きく逸脱するものではないという理解です。

 貴族の家格が確定した院政期以降、上流貴族である清華家ですら降嫁は一例もなく、臣下が皇女を娶ることが多かった時期は、10世紀と17世紀、20世紀後半より現代までに限定されている。

 それゆえ、臣下との結婚より倍以上、皇族との結婚のだから、内親王は皇族と結婚するのが実態としても原則といいうる。

 とくに元禄11(1698)霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王妃となって以来、内親王は皇族もしくは天皇と結婚するのが通例となり、昭和18年に照宮成子内親王が東久邇宮盛厚親王に嫁すまで、内親王の結婚は天皇が1例、皇族が8例あり、臣下に嫁したのは特殊な政治的事情による和宮親子内親王だけである。

 つまり17世紀から末期から20世紀の前半までは、近世朝廷だけでなく皇室典範制定後においても、皇女内親王は、皇族に嫁すことを原則とする方針となっております。

 例外の和宮も有栖川宮熾仁親王と縁約していたし、姉の敏宮淑子内親王も閑院宮節仁親王と縁約がありました。このことから朝廷は福子内親王以来、17世紀末から一貫して、内親王は皇族との結婚という、令制の本来の趣旨に沿った方針といえるのであって、明治皇室典範のもとでは、明治天皇の皇女内親王は九方おられたが、夭折された五方を除く四方が皇族に嫁し、昭和18年昭和天皇皇女内親王一方が、皇族に嫁したこととあわせ、明治皇室典範のもとでは、無事に成長された皇女内親王五方すべてが皇族に嫁し、令制が臣下は内親王れないとする大原則どおりであることがある。

 なるほど令制では内親王と臣下の結婚を違法とし、皇室典範では、明文上、皇族から離れるが、臣下との婚姻を禁止していないという違いはあっても、実態面では明治皇室典範のものでは内親王はすべて皇族と結婚ということで、令制の趣旨どおりで、皇室典範が、内親王降嫁を違法としてないのは、17世紀に摂家への降嫁が慣例になった時期があったこと、皇族の出家が禁止され、皇女を処遇できる尼門跡のポストがなくなったことを考慮してのものと考えられ、実態面からみて、明治皇室典44条は、令制の趣旨を継受したといいうると考えてよいと思う。だから、明治皇室典範44条とそれと概ね同じ内容の現行皇室典範は明文規定か違っていたとしても、大筋で令制継嗣令王娶親王条の趣旨を継受していると理解できるのいうのが私の見解です。

 そもそも、臣下が内親王を娶るのが原則に反するのだから、日本の内親王は中国皇帝のプリンセスである公主と違って皇族と結婚する内向きなのが基本的性格なのに、女系許容の英国皇室のようにプリンスコンソートを抱え込む制度は、内親王の根本的な性格を否定するものとして反対だということです。

 補足して、なぜ17世紀末から摂関家への降嫁から、皇女は皇族との婚姻が原則という風に戻ったのかについてですが、久保貴子氏は不明としておりますが、考えられることとしては、これはたんなる憶測ですが、霊元天皇親政期の天和貞享年間に内親王三方が摂関家に嫁してます。これは当時の慣例どおりです。1690年代元禄期ですが、東山天皇の治世、関白近衛基熙と霊元上皇と対立してました。

 霊元上皇は、幕府に強く交渉し、久しく廃絶していた大嘗祭、立太子式などの朝儀を再興した。しかし、院政の強行をはじめとして、朝廷の運営をめぐって関白近衛基熙と相容れなかったので、近衛基熙を「親幕派」として嫌ってました。そうしたことから、内親王の嫁ぎ先も摂関家から親王家にしたのではないか。

元禄11年(1698)福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁ぐ前年に、有栖川宮家の幸子女王を東山天皇の女御として入内しており、数年後に立后されてます。皇親皇后は久しぶりのことですが、令制の原則に戻した感があります。

 ということで大嘗祭再興などの霊元上皇による一連の政策をセットとして見てよいと思います。

もっとも、正徳6年(1716)霊元法皇は幕府と関係修復に転じ、新井白石があっせんした2歳の皇女八十宮の将軍家継への降嫁を認めます。結局家継が8歳で薨ぜられたので、実現はしませんでしたが、これも事情があって、江戸の大奥、前代将軍家宣御台所の天英院ですね。近衛基熙女ですが、大奥での天英院の勢力を排除したい家継生母月光院と、近衛基熙を政敵とする法皇の思惑が一致したというこということはウィキベディアに書かれてます。

要するにこれは政敵の幕府との結びつきを弱めてやろうという趣旨ですね。その後緋宮智子内親王と家治との縁談もあったのですが、桜町天皇は拒否してますから、八十宮は例外として考えてよいです。

 問題は戦後のあり方である。すべて臣下、一般国民なのである。これは皇室の民主化をアピールするためか、サラリーマンの妻、自由恋愛であることが報道され、国民に内親王が一般国民に近い生活をしていることが宣伝されたことが、皇室と国民の距離を縮めたと考えられる。国民大衆に親しまれる皇室といいますか、これがミッチーブームにつながる。

 むろん鷹司平通氏は摂家であるし、池田隆政氏は久邇宮家と姻戚関係があったということで、昭和の三例は旧華族ですが、皇室典範では合法でも令制の趣旨原則には反している、前にも言いましたが家格が確立した院政期以降でいうと清華家ですら降嫁はないです。まして地下官人クラスに降嫁は絶対ありえない。ありえなかったことが起きたとみるべき。 

 戦後の内親王や女王の結婚相手に皇族も旧皇族も御一方もおられないのは意図なものかどうかは知りませんが、20世紀前半期とは違って令制の趣旨を継受していないあり方のようにも思え問題なのである。

 つまり、戦後の内親王は本来の在り方ではなく、むしろ中国王朝のプリンセス公主に近いありかたになっている。国民の多くは誤解しているかもしれない、20世紀前半の在り方が原則なのに、戦後の在り方がふつうだと勘違いしているのではないか。

 ショックだったのは、東京都職員への降嫁です。そんなことがあってよいのかと率直に思いました。もちろんその方は立派な方なのだろうし、この婚姻自体を批判する趣旨では全くありませんが、東京都勤務が少しひっかかるということだけ言います。

 というのは、今上陛下は皇太子時代、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁であることから、東京都水道局の朝霞浄水場や平成20年には玉川田園調布にある研修・開発センターを行啓され、水道事業や施設等視察をされてます。私が経験した限りでは親皇室的な職場では全くないことが問題なんです。

 平成126月に上皇陛下の御生母香淳皇后が崩御になられました。725日に豊島岡墓地で斂葬の儀がありました、当日は平日で当時水道局千代田営業所に私はいましたが、10時に斂葬の儀に合わせて黙とうが要請されていたはずですが、10時少し前に所長は席を外し、しばらくすると組合役員(全水道東水労、全労協旧社会党系)が所長席前に陣取り演説を開始し、我々は天皇制に反対なので皇太后葬儀の黙とうを認めないとして、庁内放送のボリュームをさげ、長時間の反天皇制演説を続けました。10時半ころに勝手に離席した所長が戻ってきました。会議が予定されていたとは思えませんし、どこかで待機していたのでしょう。

 これは管理職と組合が示し合わせで、施設管理権、業務指揮権を放棄して現認を避けるために行っていることです。演説行為は業務の集中を妨げ、他の職員の職務専念を妨害させる行為であり、演説者の職務専念義務違反でもありますから、まともな企業の管理職なら、中止命令をするはずです。しかし私が経験している範囲で管理職は業務指揮権と、施設管理権が組合によって掣肘されており、他の職員の業務を妨げる行為、無許可演説・集会、を禁止する就業規則もないわけです。したがって処世術として管理職は組合のいいなりになって業務指揮権や施設管理権(庁舎管理権)を発動することをしないのが通例です。権限があり職場の秩序維持のために必要なことでも、命令はしませんし、違法行為や違法行為を助長する行為があっても現認調書を本局に提出することもないです。こうした職場風土は今日でも同じです。もちろん弔旗は掲出しません。赤旗の掲出は認めても日の丸はダメという左翼体質の職場です。

 平成12年の斂葬の儀では近くの銀行など弔旗を掲出していたのを見ましたが、都の出先の庁舎はしません。もちろん消防署は国旗掲出しますよ、掲出したところもあるかもしれませんが、私が勤務した出先で国旗を掲出した例はありません。千代田営業所は主税局との合同庁舎ですが、知事部局や水道局は消防署と違います。

平成211112日に天皇陛下御即位20年祝賀行事があり、国旗の掲出が政府から

されていたはずですが、当時水道局中野営業所にいましたが、もちろん組合を憚って掲出されません。そもそも国旗が備品としてないですから。

 もっとも都市整備局がどうかは全く知りません、教育庁のように

「OBJECTION HINOMARU KIMIGAYO」等と印刷したトレーナーを着用した教員に重い処分を下したりするところもありますが(都立南大沢学園養護学校事件・東京地判平29522TKC)それは一面を見ているのであって、私の経験は主として水道局ですが、よその局から異動してくる東京都管理職の体質は局をまたいでもさほど変わらないというように思えます。

 即位礼とか休日閉庁だから国旗掲出の必要はないですが、平日に行われる式典があっても、国旗を掲出しないのは組合員どころか管理職も反天皇制的な体質といわれてもしかたないです。そうしたことで、内親王降嫁の殊遇を得ている方が東京都勤務というのは違和感がある。その方は立派な方だが、職場の体質について疑問を呈しました。むしろニューヨークの法律事務所に勤務される方は良かったのではないでしょうか。職場が反天皇制なんてことはないと思いますから。

 くだくだ言いましたが要するに令制以来の原則を再確認した場合、やはり内親王なら、原則は皇族との結婚、一般国民へ婚出例外とみるべきで、それとは逆に、プリンスコンソート類似の制度で一般国民を迎えるのはもってのほかということです。

2021/08/28

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議 を批判する その3

承前,動画作成用台本

 

 

有識者会議が検討している夫婦別姓の事実婚のような歪な構造の女性宮家は異常なものだ

 

 女性宮家というのは、英国のような女性当主でプリンスコンソートを迎えるイメージだと思っていた。ウィキペディアによれば、「女王の配偶者が共同国王として戴冠していない場合、その人物のことをプリンス・コンソート(prince consort 、日本語訳は「王配」)といい、王家の成員としてプリンスと見なすようになった。」

 しかし有識者会議が考えているのは、女性皇族を結婚後も皇室に残すととし、配偶者と所生子は当面皇族にせず、時期がきたら、男系でいくか、女系容認かを判断するという。なにか夫婦別姓の事実婚のような歪な構造であり、女性当主に添え物としての男性という非常におかしな制度にしようとしている。

 ここではプリンスコンソートのあるイギリスの模倣が妥当ではないということを述べる。有識者会議が検討しているのは、王配を皇族の成員とはしないで、成員にすることは時期がたったら判断するというものであり、英国の模倣ではないが、将来的には想定されていることなのでこの問題を論じる。

 

 アン女王-カンバーランド公

 

エリザベス2世―エジンバラ公

 

女王の配偶者が共同国王として戴冠していない場合、その人物のことをプリンス・コンソート(prince consort 、日本語訳は「王配」)といい、王家の成員としてプリンスと見なすようになった。」  ウィキペディア

 

 

 

〇もちろん英国王室のプリンスコンソート方式も強く反対する

 

 

 有識者会議のヒアリングで英国王室に詳しい君塚直隆関東学院大教授が、男女を問わず長子(初生子相続)、女系容認と主張されたというが、英国は2013年の王位継承法で長子相続による男子優先を撤廃している。

 しかし、そもそも14世紀の英仏百年戦争というのは王位継承戦争で、エドワード三世が、母方でカペー朝直系の血統を継いでいるので、男系だが傍系のヴァロア家のフィリップ6世よりフランス王にふさわしいと主張し宣戦布告し始まったものであり [福井憲彦, 2019]、英国王室というのは昔から、女系で王位継承の正当性ありという思想で戦争してきた国家なのである。

 令制の皇親が男系で一貫している日本の皇室とは根本的に違った思想なのである。

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  イギリスの場合男系が途絶すると女系をたどって後継者を見つけてきた。例えばエリザベス一世の後はヘンリー七世の娘マーガレットの曾孫に当たるジャームス一世が即位し、スチュアート朝ですね。

 名誉革命でジェームス二世が追放された後は、娘のメアリー2世と夫君でオランダ人の女系でスチュアート朝の血を引いているウィリアム三世の共同統治とした。

 しかしウィリアム3世とメアリ2世に子供がないため、メアリー2世の妹アンが王位を継承する、配偶者がいてカンバーランド公のジョージであるが「女王の配偶者」(王配Prince Consort)及び海軍総司令官の地位を与えられたが、統治者としての君臨は行わなかった。

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日本の女帝はすべて不婚です。先帝皇后等の寡婦か生涯非婚内親王ですから、それとは違いますね。

 女性宮家の雛型がたぶんこれだと思いますね。これは我国とは異質のものです。

 エリザベス2世と、今年薨ぜられたエジンバラ公も共同統治者ではないわけです。その前例ではないかと思います。

 1701年王位継承法とは、アン女王の異母弟カトリック教徒のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート、ジェームズ老僭王といいますが、この方の王位継承を排除するため英国議会が制定した。

 国王は女系であれスチュアート朝の血を引いており英国国教会会信徒のみとされ、この制定法は王位継承者を、ジェームズ1世の外孫にあたるゾフィー(父はジェームズ1世女エリザベスと結婚したプファルツ選帝侯兼ボヘミア王のフリードリヒ5世)の子孫に限定するものだったため、ゾフィー母とするブラウンシュバイク・リューネブルク選帝のゲオルグ・ルートヴィッヒがジョージ1世としてイギリス王となった。

 つまりスチュワート朝の男系ではなく女系をとったのでハノーヴァー朝となったのである。

 英語が喋れない国王といわれますが、日本ではそのようなことはありえないことはいうまでもないです。

 

 イギリスの場合でも男系が途絶すれば姓が変わるから、プランタジネット朝、チューダー朝、スチュアート朝というように王朝名が変わるが、我が国は英国王室とは原理原則が異なるのであって、英国王室など初生子相続にしている外国に合わせよなどという意見は棄却されるべき。

 ところで、イギリス王室の例から、女系容認でないと続かないというような意見は間違いです。

 フランス王権はユーグ・カペーの989年の即位から、男系継承で、復古王のブルボン朝最後のフランス王シャルル10世(在位1824~30)まで一貫している。七月王政のルイ・フィリップ(在位1830~48)もオルレアン家という傍系だが、カペーの系譜につながっている [福井憲彦, 2019]。

 フランス王権は単婚婚姻非解消主義の文化圏でありながら、男系継承でもざっと千年、王位継承者が枯渇することはなかったのである。

 

 フランス 男系継承を法定 明文化

 1374年シャルル5世

 ヴァンセンヌ勅令 

 

サリカ法典

「ただ土地に関しては、いかなる相続財産も女に帰属するべきではなく、全ての土地は兄弟たる男なる性に帰属すべし」

 

 カペー朝は直系男子に恵まれ、15代341年続き、カペー朝の奇跡といわれる。続くヴァロア朝は傍系の男系男子で、1374年シャルル5世のヴァンセンヌ勅令で男系継承の王位継承法を成文化した。これはゲルマン部族法典のサリカ法典で「ただ土地に関しては、いかなる相続財産も女に帰属するべきではなく、全ての土地は兄弟たる男なる性に帰属すべし」を法源としている [佐藤賢一, 2014]。ヴァロア朝はアンリ3世で途絶したため、1589年に末流のブルボン公家の分家でヴァンドーム伯家(後に公家)のアンリ4世が即位したが、十代遡ってカペー朝に繋がる傍系である。当時の人々はヴァロア朝が絶えた時は、ブルボン公家が王位に就くときちんと認識していたため混乱することはなかった。

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 ヨーロッパ大陸では、サリカ法の影響が大きく、フランス、神聖ローマ帝国、ドイツ領邦など男系であった。1979年にスウェーデン、1990年にノルウェー、1991年ベルギーなど性別にかかわらず長子相続制をとるようになった。近年ではルクセンブルグは2010年[山田敏之. (2017)]、2013年に英国がそうなった‹。欧州では男系男子長子相続(サリカ法典)を墨守しているのはリヒテンシュタインしかないといわれます。

〇女子差別撤廃条約に条文の解釈は締約国にゆだねられ、杓子定規に解釈する必要なし

 

 ルクセンブルグは女子差別撤廃条約との関連で、王位継承法を変更したという。 女系推進派は、これがトレンドだといいます しかし女子差別撤廃条約(アメリカ合衆国が批准していないので、これが国際的スタンダードな考え方とはいえない)は人権条約の実施措置としてはもっとも緩い報告制度をとっている。締約国の義務は国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW) に条約批准の一年後とその後は四年ごとに条約の実施のためにとった立法上、司法上、行政上のその他の措置の報告をするだけにすぎない。CEDAWの権限は弱く条約十八条で提案と一般的勧告をを行うことができるが条文の解釈は締約国に委ねられいるから[浅山郁(1985)]、勧告に強制力はないので問題にせずともよい。

 ただ女子差別撤廃条約の危険性は慣習法を否定する理念を持っていることです。慣習法で規律された公序良俗を否定したい政治勢力に利用されることです。

 

 私はジェンダー平等論はラムダ株より恐ろしい害毒、女子差別撤廃条約はアメリカ合衆国が未批准なので意味なしという考え方ですから、ルクセンブルグや英国のようなあり方に変更することに当然反対です。

 

 女子差別撤廃条約で法改正するなど論外というのは、文明の正統的な規範・思想から逸脱している。

 ジェンダー平等論はエンゲルス主義の発展バージョン

 

 

 

〇ルクセンブルグと英国に絶対追随するな

 有識者会議は女系容認の議論を棚あげするが、内親王を婚姻しても皇室に残し、既成事実として女性宮家を推進する可能性があり、非常によくない

 

 

 西洋文明的脈絡でいえば、文明世界の規範とは明確な性差別、神の宣告(創世記3章16節)による

 

 男性による女性の支配である。ここでは西洋文明的脈絡から述べます。すなわち神の宣告、神が女に下した罰「なんじは夫をしたい、彼はなんじを治めん」(創世記3:16)つまり男性による女性の支配をいう。神の宣告だから忽せにできない決定的な価値です。これが、文明世界の秩序、鉄則、社会的正義であります。この規範からの逸脱は文明から転落、反文明とみなさなければならない。

 またパウロが教えるように「男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」(第一コリント11:3)「男は神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきでない。女はまた男の光栄である。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだから」(第一コリント11:7~9)。「婦人たちは教会で黙っていなさい。婦人たちに語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」(第一コリント14:34)

 真正パウロの勧告であるコリント前書に忠実であるべき。男女平等とか同権とか、女子差別撤廃なんていうのは文明規範に対する叛逆です。秩序紊乱です。

 第二パウロ書簡では

「妻は自分の夫に対して主に対するように(従え)。キリストが教会の頭であるのと同様、男が女の頭なのだ。キリストはまた(教会という)身体の救済者でもあるけれども、教会がキリストに従うようにして、妻はあらゆることについて夫に従え」(エぺゾ書5章22-25節田川健三訳) 「女たちよ、男たちに従え。それが主にあってふさわしいことである。男たちよ、女たちを愛せ。そして女たちに対してきつく対応してはならない」(コロサイ書3章18-20節

 

 

神が女に下した罰

「なんじは夫をしたい、彼はなんじを治めん」

(創世記3:16)

 

 神の宣告を否定するウーマンリブ・ジェンダー平等論は、神に対する重大な反逆

 

 

 

 

 神の宣告(文明規範)の反逆思想

 SDGsも反逆思想

 

  

  

人間(男性)は神の像と似姿にしたがってつくられた。

女は男の補助者

ジェンダー平等論=不法

 

 

 秩序を紊乱させる恐るべき異端思想

 女性に説教を許すカタリ派にはアビショニア十字軍が差し向けられた

 

 

現代社会の何が問題か

世俗主義、世俗化が進行しすぎ、反聖書思想、反キリスト教思想の跋扈、キリスト教の左傾化

特にヨーロッパがひどい

非嫡出子の権利

ジェンダー平等

同性婚 LGBTQ

 

 

 

さらにアメリカでも

ウォークカルチャー

エンゲルス主義に呑みこまれるのかこの世界は

この流れをとめるのはリヴァイヴァルしかない

 

〇神の宣告は西洋文明の根幹的価値というべきだ 

 

 『グラ ティアヌス法令集』の冒頭の一節に「人類は二 つの法によって規律されている,すなわち,自 然法と慣習である。 自然法とは聖書および福音 書の中に含まれているものである」(坂本進2004)聖書=自然法なのである。

 私はクリスチャンではない。ただし親近感はある。宗教的な理由でなくてもバイブルなのである。聖書が西洋文明二千五百年の規範を提示した書物と理解している。

 

 『創世記』ヤハウェ資料において、女は男の補助者として創られたが、彼の誘惑者となり彼を破滅に導いた。神は女に次のように宣告した。「私はあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなおあなたの欲望はあなたの夫に向かい、彼はあなたを支配するであろう」〔『創世記』3・16〕。神自らが、妻に対する夫の権威を高めた。男性支配による社会的、法的、経済機構は神の認可にもとづく決定的な秩序なのであります。

 

 女王メアリー・チューダーに反対した

スコットランド宗教改革者ジョン・ノックス

 女王反対論は正論といえる

 

 

 カルヴァン派のスコットランド長老教会を誕生させたジョン・ノックス(1505-72)がジュネーブで1558年に匿名で刊行した『女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り』という著作ですが、これはイングランド女王メアリー・チューダーと、スコットランド摂政ギーズのメアリの統治に反対し、転覆する反乱のアジテーションという政治目的の文書ですが、宗教倫理的な事柄は古代教父を多く引用しており、翻訳が出版されているので一部を引用する。

 つまり女王メアリの統治を女性という理由で非難している。カルヴァン派の思想です。

 

 

 

〇ヨアンネス・クリュソストモス(聖人) コンスタンティノーブル司教 東方教会最大の説教師

 

 女に優先権を与えた男を叱って「男に悪しき助言を与える女をはねつけるのが男の役割である。男に有害な助言を与えた女の耳には、四六時中、エバに与えられた罪を聞かせてやらなければならない」又、神の宣告を引き合いに出し「‥‥あなたは神の許を離れ、あの悪しき動物と喜んで親しみ、その助言を受け入れようとしたゆえに、わたしはあなたを男に服させるのであり、あなたが男の支配を認めるようにと、わたしは明確に男をあなたの主に任じる。あなたは支配することはできないから。支配されることを学べ」又「たとえ男は堕落しているにせよ、男の上に立つ権威を女が奪い取ることは許されない」さらに「女性というものは短気で無鉄砲で、その貪欲さは地獄の底なし沼のよう、つまり飽くことを知らない」と教えております。

 

 ジョン・ノックス著 飯島啓二訳「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」『宗教改革著作集第十巻カルヴァンとその周辺Ⅱ』教文館 1993

 

〇聖アウグスティヌス

「女はキリストに服するように男に服さなければならない。‥‥肉が霊に服すように女は男に服さなければならない。現世の弱さと滅びのうちにある肉は霊にさからって欲望を燃やし求めるからであり、従って聖霊は女に対し肉が権威となりうるようなものを与えようとしない」

 

 ジョン・ノックス著 飯島啓二訳「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」『宗教改革著作集第十巻カルヴァンとその周辺Ⅱ』教文館 1993

 

 

〇聖アンブロジウスの教え ミラノ司教 『六日間天地創造説』

 

「エペソ人への手紙」に触れ「女は自然法により、男に服するように命じられている。なぜならば、男は女の作成者で創始者であるから。すなわちキリストが教会のかしらであるように、男は女のかしらである。教会はキリストに始原を持つのだから、教会はキリストに服する。同じように女は男に始源を持つのだから女は服従すべきである」と教えている。

 

ジョン・ノックス著 飯島啓二訳「女たちの奇怪な統治に反対するラッパの最初の高鳴り」『宗教改革著作集第十巻カルヴァンとその周辺Ⅱ』教文館 1993

 

 

 ノックスの引用はほかにもありますがここまでにします。超大物の引用ですから十分でしょう。

 次に宏学博才、普遍的博士と尊称された大アルベルトゥスの見解を見ておきます。

 

〇アルベルトゥス・マグヌス(1206-80、列聖1931)の見解『動物論』。

「女性は男性よりも道徳には向いていない‥‥女性は気まぐれで好奇心が強い。女が一人の男と交わっているとき、彼女はできれば別の男と寝たいと思っている。女というのは誠を知らない。‥‥。女性とは出来損ないの男性であり、男性に比べると欠点だらけの性質を持っている。だから内面は信用できない。自分で手の届かないものは、ごまかしや悪魔のような嘘で手に入れようとする。つまり短く言えば、毒蛇か角の生えた悪魔に用心するように、あなたはあらゆる女性に気をつけなければならない。.」

 ウタ・ランケ-ハイネマン著 高木昌史他訳 『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 178頁

 

 

 ただし12世紀秘跡神学は女性の地位を上昇させたのではないか、その意義は十分検討する必要がある。

 

 

 結婚の秘跡

 花婿キリストと花嫁教会 

   

    

  教皇アレクサンデル3世が法定

  中世最大の神学者

  ペトルス・ロンバルトゥスの理論 

  合意主義婚姻理論

婚姻は当事者の合意により容易で、家父長権と対立する理論

 

  自由主義の原型は秘跡神学とカノン法だった

 

 〇次に17世紀の価値観

 

 ミルトンの『失楽園』(4・297-301)

男は思索と勇気のために造られていた、

女は柔和さと美しく優雅な魅力のために。

男はただ神のために、女は男の内なる神のために。

男の美しく広い額と清らかな目は、絶対的支配を語っていた。

 

 滝沢正彦(1997)「『失楽園』の夫婦像-「人間」への成長としての原罪-」辻裕子,佐野弘子編 『神、男、そして女 : ミルトンの『失楽園』を読む 』 英宝社

 

 ミルトンは『闘士サムソン』1671年で次のようにいう。

「女性の精神的天稟は急いでつくられたため未完成のままであり、判断力は乏しく、能力は最善のものを理解し尊重するほど高くなく、又選択にあたってはしばしば悪いものを愛しないではいられないように低劣である‥‥」

「女が男のためにつくられたもので、そして男が女のためにつくられたものでないということを知らないものが誰があろう」

 『失楽園』1667年も男性が女性を支配しなければならないことを強調している 

 「‥‥彼等の性がちがうように、両人は対等でなかった。すなわち彼(アダム)は思索と勇気ある行為をするためにつくられており、彼女(イーヴ)はやさしさと甘美な魅力の美のためにつくられていた。彼は神のためにのみ、彼女は彼をとおして神のためにつくすようにつくられていた。」 

 「イーヴは、その人(アダム)にいともうるわしい様子で次のように答えた。「私の創造者であるかたよ、あなたがお命じになることには、私は絶対服従です。神様はそのように命じていられます。神様があなたのおきてで、あなたが神のおきてです。それ以上何も知らないのが女のもっとも幸福な知識であり、女の美徳なのです」[西島正1954]

 楽園追放は男が神に従わず女に従ったことによる。この教訓は至福千年の道徳的教訓というべきものであって決して棄て去ることのできないものである。

 17世紀プロテスタントは、男は頭、女は身体、神は男性による女性の支配を神聖な秩序として定め給うたと牧師は説教した[久留島京子1989]。万人祭司の理念とは、家庭も一つの小さな教会であり、家長たる夫が小さな教区の主教であるということ、市民社会は男性に求心力のある家庭があってこそ成立したというべきだ。

 

〇 18世紀の価値観

 

 18世紀中葉のブラックストーンの英法釈義では、「婚姻によって、夫と妻は法律上一人となる。すなわち、婦人の存在または法律上の存在そのものは、婚姻中、停止されるか、または少なくとも夫のそれに合体され、統合される。夫の翼、保護、そして庇護のもとに、彼女はあらゆることを行う‥‥covertbaronすなわちbaronまたは領主(lord)であるかの彼女の夫の保護と勢力のもとにあると言われる。そして婚姻中の妻の状態は、そのカバチュアとよばれる。」

 夫とは妻の領主です。

 

 ダニエル・デフォーは1724年「ロクサーナ」と言う作品でこう言っている。「結婚契約の本質そのものが、自由、財産、権威その他一切を男に委ねることにほかならない。結婚してしまえば、女は単なる女中にすぎない、つまり奴隷である。」 財をたくわえて独立の生活ができたのも結婚していない時だけ。娼婦や愛人のほうが自由な人間であった

 問題はアン女王です。18世紀の初期の女王ですが、夫のカンバーランド公ジョージは、共同統治者ではなくプリンスコンソート、添え物である。夫は妻の領主ではないわけです。

 こういう歪な夫婦をのありかたが正当化されたことは、適切ではなかったです。

 

 世俗主義、反聖書的世俗的ヒューマニズムがよくない理由は、キリスト教において自然法とは聖書に体現されているものです。男性は神の宣告も神の法であり自然法です。それがウォークカルチャーそれが否定される方向に向かっているからです。 この文明における道徳的価値を掘り崩してします。

 その行きつく先は、「宗教は阿片」だといった社会主義、全体主義です。

 

 神の宣告の反逆は罪と思えます。私は地獄に行きたくないので、神の宣告に忠実でありたい。アダムへの罰として,労働の苦しみと生涯を終えれば,「土に帰る」(創 3 : 17- 19)労働に励むのは当然、過労死しても恨むことはありません。。

 男性による女性の支配を放棄するイクメンのような行為は死んでもやりません。 

 神の像に似せてつくられたのは男性であるからであります。そもそも人権なんていうのは、男性が神の似姿としてつくられたという神学的フィクション以外の何物でもないのです。

 もちろん「人間の尊厳」などというのか不遜で、アダムの罪を意識していない表現でこの好ましくありませんが、仮に「人間の尊厳」を認めても、それは「男性の尊厳」であって、女性の人権とか、ジェンダー平等などという新奇な思想はものは文明規範から逸脱以外の何物でもない。

 正統思想ではないです。カタリ派は女性も聖職者となりえたため、異端とされアビショニア十字軍が差し向けられたのではないですか。カタリ派の弾圧といっても全然同情なんてしません異端ですから。

 現今の状況はは異端思想、反逆思想がのさばっている、まったく異常です。

 

我々はエンゲルス主義に屈服するわけにはいかない

 

 ジェンダー平等論とはマルクス主義フェミニズムの発展形、エンゲルス主義の変異株といってもよいだろう。

 エンゲルス主義は婚姻家族を解体させる志向

ジェンダー平等論 SDGsも同じなので社会主義思想と親和的。

 

 もちろん、私は夫婦別姓も反対ですが、ジェンダー平等論という反文明規範的思想に与して、女性当主の宮家を既成事実化することは反対であります。

 

 私は聖書を重んじます。聖人、古代教父の教え、著名な中世の神学者を重んじます。

文明の正統な価値観を継承していくべきだと思います。

ゆえにエンゲルスやSDGsのような怪しい思想に強く反対します。

 

 男性は神に従わず、女に従ったから、楽園を追放され、死がもたらされた。

 

ジェンダー平等論に男性が屈服するのはパラダイスロストの教訓を生かすことなく同じことを繰り返す、非常に愚かなことである

 

 ほぼ完結

 

 引用参考文献はシリーズ全体で前回のその2の末尾にあります。

2021/08/26

内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することを可能とする案は排除すべき--「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議批判 その2

承前 動画作成用の台本

 

「女性宮家」は夫が世にある限り女性当主はありえない日本の家族慣行を否定する重大な文化破壊になる

 

 今日の女性宮家の議論は、不婚であること前提としておらず、英国王室のような女性当主、プリンスコンソート(王配)類似の新しい身位の創出を前提としていることが問題だ。

 しかし有識者会議は、摂政や国事行為臨時代行たりうる皇族数の確保を喫緊の課題として、女性皇族を皇室に残すが、配偶者と所生子は、当面は皇族とせず、女系を容認するか否かは先送りにして既成事実として進めていこうという案が検討されているとの報道がある

 

 プリンスコンソート類似の制度を創設せず女系容認の論議を先送りにすればハードルが低くなるという判断のようだが、しかし夫となる男性の身分、地位構成(ステータスシステム)が不確定で女性皇族の添え物扱い。夫婦別性の事実婚のような前例のない歪で醜悪な制度あり、非常に不自然なものといえる。

 

〇内親王・女王は婚姻関係にあるかぎり、后妃以上になれないという鉄則は踏まえなればならない

 

    皇統嫡系の内親王が入婿的に傍系の男性皇族と婚姻するケースはしばしばあるが、内親王は婚姻関係にある限り皇后以上にはなれない。つまり家附き娘的立場にある内親王であってもが結婚した場合、当主にはなりえない。

 

 皇族どうしの婚姻では、嫡系の親王であれ傍系の諸王であれ、即位するのは男性皇親、嫡系の内親王であれ、傍系の女王であれ女性皇親が皇后か妃と決まっている。

 ここでは、皇統嫡系でしかも、皇子がいない状況での内親王について、井上内親王、昌子内親王、欣子内親王について取り上げる。いずれも入婿的な婚姻で配偶者が天皇である。

 例えば聖武皇女井上内親王は嫡系の皇統だが、皇后であって、御配偶の傍系皇親である大納言白壁王(天智二世王)が光仁天皇。なお皇后井上内親王は光仁崩後、太后臨朝称制型の中継ぎの女帝として即位する可能性があり、宝亀2年(772)廃后事件[近江昌司, 1962] [榎村寛之, 2007]はそれを阻止するための謀略である蓋然性が高いとされる。

 

 重要なことは、井上内親王は聖武皇女で嫡系皇統(草壁皇統)であり斎王でもあったが、天智二世孫白壁王と結婚した以上、皇后に冊立されても、「夫帝優先の原則」により配偶者の白壁王をさしおいて即位することはできないということである。

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 10世紀の朱雀皇女昌子内親王も嫡系の内親王といえるが、皇后であって、御配偶の憲仁親王が冷泉天皇。憲仁親王の元服当日、昌子内親王(13歳、満11歳)が入内した [河村政久史, 1973]

 このイトコどうしの結婚は天暦太后藤原穏子の既定方針による婚姻だが、冷泉天皇は奇行で知られ、わずか2年で譲位しているが、だからといって昌子内親王が即位するというジェンダー役割の代替はありえないのである。

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 イトコどうしといえば、敬宮愛子内親王殿下と悠仁親王殿下が仮に結婚した場合は、令制の慣例にあてはめても、やはり「夫帝優先の原則により」敬宮愛子内親王殿下は皇后であり、悠仁親王殿下が天皇であることは自明である。そのために冷泉天皇の前例を示した。

 

 近世では後桃園天皇が後嗣なく早世し、遺児である皇女欣子内親王を皇后に立てることを前提として、傍系の閑院宮典仁親王息祐宮(光格天皇)が大統を継承しているが、嫡系の欣子内親王はあくまでも皇后。「夫帝優先の原則」により女帝はありえない。

 なお、江戸時代中期以降、昭和18年まで内親王が、伏見宮家に二方、閑院宮家に一方、竹田宮一方、北白川宮一方、朝香宮に一方、東久邇宮に二方嫁しているが、いずれも親王妃である。

 

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 入婿的な傍系皇親が、添え物の配偶者となるなどということは絶対ありえない。女性宮家の女性皇族の当主の配偶者は皇位継承を想定していないしても、当主となりえない入婿というのが大問題で、皇室のみならず、庶民の家族慣行に反し受け入れがたいのである。

 

 我が国の庶民の家族慣行では入婿は次期家長として迎えられる。この慣習は、皇室でも欣子内親王の例などで皇室も同じことであった。

 皇室のありかたは影響が大きく、日本の家族慣行に反する次期家長になれない入婿という制度を創成することは、容認しがたい。

 

 

 人類学者の大御所清水昭俊氏(参考文献表参照)は厳密な定義で知られるが、「婿養子」という語を用いずたんに「婿」とする。なぜならば「嫁養子」という言葉がないので「婿」と「嫁」でよいということです。

 

 

 

• 日本の「家」の婚入配偶者の地位構成

 

 

• 婿とは次期家長である。

 

• 嫁とは主婦予定者である。

 

(家附き娘も嫁と同じ地位構成)

 

 次期家長(当主)でない婿、添え物的な婿というのは日本ではありえない。

 

 日本の家族慣行に著しく反しているので女性当主に強く反対である。

 

 ただし、寡婦が実子が年少である場合には、中継ぎ的に家長代行となることはありうるが、夫がこの世にいる限り女性当主はないというべきだろう。

 

 婚姻制度というのは性的役割分担があって成立しているものであり、家長、当主となれない入婿というものに価値はない。そのような男性の処遇は侮辱であり屈辱でありとても容認できない。

 

 夫婦別姓の事実婚のような変な制度をつくることは強く反対する。

 

 そのような女性宮家をつくるなら、持参金を2倍、3倍にして婚出する女性皇族を厚遇したり、いわゆる「皇女制度」のほうがはるかにましというべきである。

 

 

 日本の家族慣行については厳密な定義で定評のある人類学者の清水昭俊が1967年の出雲地方斐伊川下流の村落の調査にもとづき精緻な理論で「家」成員交替過程を明らかにした。

 

 家成員は、おのおの与えられた地位に伴う役割を分担するものとして家生活に参与する。家は集団として不定形ではなく、限られた数の地位が一定の秩序に配列されている。つまり家は、時間的に配列された夫婦の対の地位(前・現・次代の家長・主婦-下記参照)と排除予定者以外の地位を用意していない。

 

 日本では、入婿は次期家長として迎えられるのであって、実子であれ婿であれ男性が次期家長、嫁であれ家附き娘であれ主婦予定者である。

 

 家長と主婦というの定型のジェンダー役割である。それが日本の慣習ですよということです。

 

 

日本の「家」の成員の地位構成

 

 

 

〇前家長(おじっつぁんold man,grandfather)-前主婦(おばばoldwoman,grandmother)

 

〇家長(おっつぁんmale adult)-主婦(おばさんfamale adult

 

〇次期家長(わけぇしゅyoung fellow)-主婦予定者〈嫁(よめじょinMarrying young woman)

 

指称 門名+おじっつぁん

 

[清水昭俊1987 209]

 

 

 

 

〇日本の「家」とはこういうものスマートに理論化(清水昭俊説)

 

 

 

ア 家成員の資格

 

 家成員は実子、養子、婚入者3つの範疇と断言している。子供(実子・養子)と婚入者(嫁・婿)の2つの範疇と言い換えてもよい。[清水昭俊1973 62頁]

 

つまり、家成員の獲得とは、出生、家外からの婚入、養取である。

なお、清水は妻妾制の廃止された明治から昭和の「家」について論じており、近世においては密子・猶子というカテゴリーも認められるが、ここでは論外としたい。

 

 

 

イ〈家連続者〉と婚入配偶者

 

 清水が独自に定義している用語で、家長-主婦の地位構成で婚姻に先立って家の成員であった者を〈家連続者〉と定義する。つまり跡取息子、家付き娘等の範疇である。〈家連続者〉の配偶者、家外から婚入して来る者を、男なら婿、女ならという。婚姻は両性の個人の結合のみならず、家と個人の結合でもあり、この家を婚入者にとって婚家という。

 

 従って、この結合の終息は離婚ではなく、家との結合の断絶でありこれを不縁という。

 

 かくして、家連続者夫婦→子供の出生=次代家連続者獲得→(次代)家連続者夫婦という循環的な過程が繰り返されるのである[清水1973]

 

 

ウ 排除予定者

 

〈家連続者〉だけが、生涯、家の成員であり、その余の子供たちは婚姻より前に生家から離れなければならないの  で、これを排除予定者と定義する。

 家からの排除は、婚出、養出、分家設立3つの形態のみである[清水1973]

 

 エ 仏体系

 人は死亡時に所属した家の仏になる。仏には世代仏子仏2種類がある。世代仏(セダイホトケ)とは、清水が出雲の調査で発見した概念だが、日本の「家」の標準的な仏体系とみなしてよいと思う。

 

 これは、歴代の家長・主婦達であり、永久に年忌が営まれる。生前結婚し、家長・主婦に予定されながら、家長・主婦になる前に死亡した者、男の家連続者(家長予定者)が、結婚年齢に達しながら未婚で死亡した場合を含む。ただし婿、嫁で不縁とされた者、中継ぎとして分家した夫婦、女の家連続者については夫が世代仏にならない限り、世代仏とはならない]。一系列に配列された歴代の世代仏は、生きている家成員と、家の創始者(先祖)を結びつける媒体である[清水1987 208頁

 

 

オ 家成員獲得過程を規制する規則群

 

 

清水の学者としての能力の高さは、この精緻な規則群の提示によって明らかである

 

(A)最下世代を基点とした家成員を基点とした家成員獲得過程を規制する規則群

 

指定される〈家連続者〉とは

下の世代が上の世代に優先する

)上記の枠内で男子が女子に優先する。

)上記の枠内で年長者が年少者に優先する。

 つまり第一に最下世代夫婦の長男子、第二に長女子、第三に最下世代夫婦のうち家連続者の弟、第四に最年長姉妹である。

上記の可能性が不可能な場合は、家外から養子を求める。有力な家では血筋の中切れを嫌い分家から養子を求めるが、それは強制的な規則ではない。

 (B)最下世代夫婦に事故が生じた場合の対処を規制する規則群

)次代家連続者長男が結婚後間もなく死亡した場合

弟妹が家に残っていた場合、寡婦は生家に戻し、弟妹を家連続者に指定する。

残っていたのが弟であり、死亡した兄と年齢差がなければ、寡婦と弟の結婚(レビレート婚)が指定される。

弟妹も家に残って言いない場合は、婚入配偶者であった寡婦が、〈家連続者〉となり、あらたに婿を迎える。血筋としては〈中切れ〉になるがそれでも家は連続していく。

2)息子を残して最下世代夫婦の夫が死亡した場合

死者夫婦の息子を次の次の家連続者に指定したうえで、死者の弟ないし妹夫婦を〈中継ぎ〉として、息子が成人するまで家の運営を代理させる。息子の成人後、〈中継ぎ〉夫婦は分家を創設する[清水1987 211]

 

 (C)清水説(B)の補足 寡婦・寡夫の再婚による家の継承

 

清水説はフィールドワークに基づいて家の連続は、婚入者〈寡婦・寡夫〉を介しても実現されているという規則を提示した。婚入者〈寡婦・寡夫〉は家連続者としてあらたに配偶者を迎えることにより家は連続する。

 

〈家連続者〉は「婚入配偶者を迎えて家成員を増殖させるために、家がその内部に用意する家成員」と定義されるため、婚入配偶者たる嫁・婿は家成員であることを見事なロジックで立証している。

 ちなみに近世における女の道の教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていたという指摘があるが(柴桂子「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」江戸期おんな考14 2003年)、出嫁女の婚家帰属性については我が国も漢土法も近世朝鮮・韓国も同じことである。
 この点については東洋法制史の滋賀秀三(『中国家族法原理』創文社1967 459頁以下註16)によると女性は父の宗との帰属関係を有さない。父を祭る資格を有さないのである。女性は婚姻によってはじめて宗への帰属関係を取得する。夫婦一体の原則にもとづき、夫の宗の宗廟に事える義務を有し、死後、夫婦同一の墳墓に合葬され、考妣対照の二牌つまり夫婦で一組の位牌がつくられ、妻は夫と並んで夫の子孫の祭を享けるが、女性は実家において祭られる資格を有さず、未婚の女の屍は家墳に埋葬されず他所に埋める。つまり女性は生まれながらにして他宗に帰すべく、かつそれによってのみ人生の完結を見るべく定められた存在であった。白虎通に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」。「婚礼の挙行によって女性は確定的に夫宗〔夫の宗族〕の秩序に組み込まれる」。漢族は妻は夫の宗族に帰属する。韓国の門中も同じことである。

  比較文化的にいうと、日本と中国では入婿の扱いが違う・女家に婿入りする贅婿の「贅」の字には「余計なもの」「無駄なもの」という意味があり、「質」の意味があり質にとられた婿という意味もある[牧野巽(1985・初出1935

 

 20世紀前半期の北支、中支の民族学調査で、実は中国は完全な父系社会でなく、我が国とおなじく準父系である。後嗣のない家では、娘と単に子孫をつくるための社会的地位のない配偶者(入)という存在があり、これは宗法に反するので軽蔑の対象となった。

 

 日本ではたんに家を断絶させないための入贅という男性にとって軽蔑の対象となる婿入りという慣習はない。入婿が次期家長であるからで、この規則性をなくして、皇室に家を断絶させないための入贅 という中国的な下位制度を認めるのは適切ではない。

 

女性宮家で日本の醇風美俗が失われる危機

 

 

 皇室と庶民の家とは性格が異なる面があるとはいえ、当主となりえなない入婿という我が国にはない男性を侮辱する制度を肯定することの国民に与える影響は大きく、家族規範を混乱させることとなる。それゆえ女性宮家は絶対的に反対なのである。

 

 

〇幕末の淑子内親王の桂宮相続は女性宮家の先例とはいえない

 

  幕末の淑子内親王の桂宮相続が女性宮家の先例という主張に反論しておくと、近世の世襲親王家は、他の公家と同じように、幕府より知行を充行された近世的領主で、事実上、公家領を安堵している幕府の麾下にあった。中世の伏見宮家の家領であった室町院領や播磨国衙領といった皇室領と由来のものとは違うのである。。

 

 秀吉は諸公家、諸門跡の中世の知行を収公し再給付することより、知行充行権を掌握し [山口和夫, 2017]、これが徳川幕府に引き継がれたからである。 

 

 近世では、皇位継承予定者以外の皇子は入寺得度して宮門跡(法親王)が通例だが、世襲親王家が空主となった場合は皇子が宮家を相続する。

 

 文化7年(1810)桂宮を相続した光格皇子盛仁親王は2歳で夭折し、天保7年(1836年)仁孝皇子節仁親王が桂宮を相続したが4歳で夭折、長期にわたって桂宮は空位だった。しかし家領の経営は諸大夫により続いており、皇子が誕生したときのポストとしてとっておかれた。

 

 そうしたところ文久2年(1862年)10月桂宮家に仕える諸大夫たちが仁考皇女敏宮淑子内親王の桂宮家相続を願い出、幕府も承認したため、非婚内親王の当主は異例だが、文久3年(1863年)淑子内親王は宮家を相続した [久保貴子, 2002]。幕府は道具料500石を進上、時に35歳で生涯独身、慶応2年(1866)准后、一品、明治14年(1881)薨去により宮家は断絶した。

 

続く

 

シリーズ全体の引用・参考文献

 

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 (追加・承和の変関連)

玉井力(1964)「承和の変について」歴史学研究286 

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遠藤慶太(2000)「『続日本紀』と承和の変」古代文化52

神谷正昌(2002)「承和の変と応天門の変」史学雑誌111111

佐藤長門(2012)「承和の変前後の春宮坊」『日本古代の王権と東アジア』吉川弘文館所収

仁藤智子(2016)「平安初期における后位の変質過程をめぐって 王権内の序列化と可視化」国士館人文学48

村上 史郎(1999)「九世紀における日本律令国家の対外意識と対外交通--新羅人来航者への対応をめぐって」史学 69(1)

奥村佳紀(1971)「新羅人の来般について」駒沢史学 (18)

 

 

 

 

 

 

2021/07/24

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の議論の収束の方向性に強い疑問を持つ

 

 菅義偉総理及び内閣府関係者様

 

 軽輩でありながら不躾にも意見具申の無礼をお許しください。

 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の討議資料をみると、皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすることについて、 法律改正で対応するには難しい面があり、国民感情の面からも抵抗があるのではないかとの意見が書かれており、現存宮家の養子縁組と、女性皇族も婚姻後も皇族として残るこの2つに絞って議論の収束させる方向性のようだが、養子縁組を認めても、皇位継承者とするか否かは26日の次の会議で議論するので、皇位継承者となりうるかは不透明な面も残っている。

 私は養子縁組に限定する案に強く反対する。もし、養子縁組に限定すると、宮家の当主が財産や祭祀の承継等で養嗣子は必要ないと言われれば、結局女系しかないということになり、皇統に属する男系男子を直接宮家の当主としてする案を残さないと非常に良くない結果といえる。

 旧皇族が直接、宮家当主として皇籍復帰していただくべき。伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒により、旧皇族の方々には矜持があるはずであり、宮家を再興され当主として戻っていただくのが筋であり、礼儀である。コンセプトは旧皇族の復籍、伏見宮御一流の宮家再興とすべきである。

 養子縁組といってもて最大4家程度になるが、それでは弥縫策に思えるし、選定相続となると、皇籍離脱前に皇位継承順位で上位であっても復帰できず、ほぼ同じ家格なのに、養子に選ばれなかった旧皇族は不満が残る。

 630日の有識者ヒアリングで表明された意見について (案)という資料では八木秀次氏や百地章氏は養子縁組でも直接復籍でもどちらもありという意見とされているが、両氏の見解には不満を持つ。養子案は次善策とみる私の意見とは違う。

 この点、11宮家の総数51名の臣籍降下という異常な措置を、現政府をして溯つ

て撤回せしめるべきとした小堀桂一郎氏や独立の宮家当主として旧皇族を遇されるべきとし養子に反対する中川八洋氏といったヒアリングに呼ばれてない論客からたぶん批判の出そうな展開になっている。筆者も小堀桂一郎氏や中川八洋氏と大筋では同じ意見で、それが礼儀だと思う。養子にとってやるよ式で復帰されるのは大変失礼ではないか。勿論現存宮家の養子縁組は、女性宮家よりずっとましだが、次善の選択とする見解である。

 要するに女系にならなければ良いというのは消極的にすぎ、皇統嫡系(天皇家)の皇統と、もともと持明院統の嫡流だった伏見宮系の皇統(完全なる傍系化を回避した)が併存した550年間の在り方が望ましいということで、積極的に旧皇族復籍を望むものである。

 421日のヒアリングで中世史家の本郷恵子氏が「男系男子優先というのを改めて、男女を区別せず直系長子優先で継承していく」べきとされ、中世史家では今谷明氏も呼ばれ、一応永代宮家との由緒に言及されているが、もっと伏見宮家の皇統上の格別の由緒を強調してくれる専門家を呼ぶべきだった。

 それ以前の問題として討議資料によれば女性宮家とは言ってないが、女性皇族の意向いかんで、結婚後も皇族に残る措置を特例として認める方向性が出される可能性も残っている。これには強く反対するが、理由はブログ「川西正彦の公共政策研究2021/7/19意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その一)」 http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-8e31a1.htmlで詳細に説示しているので、御笑覧いただければ幸いです。

 また421日のヒアリングで古川隆久教授が述べた見解「もう既に旧皇族の方も皇籍離脱後長期間経っており、もともと直系の方々と比べると相当縁が遠い方々になる」として旧皇族復帰は排斥する見解に強く反対し、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を無視するものとして容認できないので、この反論一点のみにしぼって、ブログ「川西正彦の公共政策研究2021/7/24意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)」http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-f9783d.htmlに説示しております。

意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)

意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)  

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 意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その一)  : 川西正彦の公共政策研究 (cocolog-nifty.com)

第3章 伏見宮御一流には後深草院以来の皇統嫡流という皇統上格別の由緒があり、完全なる傍系化を回避された皇統であるゆえ、復籍は当然である

 

 

目次

第3章 伏見宮御一流には後深草院以来の皇統嫡流という皇統上格別の由緒があり、傍系化を回避された皇統であるゆえ、復籍は当然である... 1

第1節    小論の目的... 2

第2節    伏見宮には後深草天皇以来の正嫡(嫡流)という格別の由緒がある... 4

第1項 持明院統嫡流の全財産は崇光上皇が相続した... 4

第2項 『椿葉記』は崇光院流=伏見宮を正嫡とする... 5

第3項 『椿葉記』によれば貞治2年(1363)光厳法皇置文に「‥‥正統につきて伏見殿の御子孫御管領」とある    7

第4項 持明院統皇統文庫の相続と維持... 8

第5項 嫡流の証しとしての琵琶の伝習... 8

第6項 皇位を継承しなくても伏見宮が嫡流を引くといえる理由... 9

第3節    伏見宮は永続が約されている由緒が複数以上ある... 10

第4節    伏見宮は持明院統皇統文庫を相続し、その一部を昭和22年まで維持したことは嫡流たる証左たりうる    10

第1項 持明院統文庫の伏見宮への伝来... 11

第2項 蓮華王院宝蔵の経巻、書籍の伏見宮への伝来の立証... 12

第3項 伏見宮蔵書の変容と現存する伏見宮旧蔵本の評価... 13

第4項 贈答品としての書物... 16

第5項 飯倉晴武氏の伏見宮旧蔵本の評価について... 17

第6項 絵巻物について... 18

第5節    後崇光院は本格的な太上天皇だった... 18

第6節    伏見宮は近世以降の宮家と比較して格式が断然上... 19

第1項 中世の皇室領を家領とした由緒、しかも「永代」安堵の勅裁を得ているのは伏見宮だけ... 19

第2節 応仁文明の乱以降戦国時代の伏見宮家のステイタスは高く、天皇家と非常に親密だった... 20

 

 

第1節  小論の目的

 

 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議の討議資料をみると、皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすることについて、 法律改正で対応するには難しい面があり、国民感情の面からも抵抗があるのではないかとの意見が書かれており、現存宮家の養子縁組に傾いているが、養子縁組を認めても、皇位継承者とするか否かは次の会議で議論するので、皇位継承者となりうるかは不透明な面も残っている。

 私は養子縁組に限定する案に強く反対する。もし、養子縁組に限定すると、宮家の当主が財産や祭祀の承継等で養嗣子は必要ないと言われれば、結局女系しかないということになり、皇統に属する男系男子を直接宮家の当主としてする案を残さないと非常にまずい結果といえる。

 旧皇族が直接、宮家当主として皇籍復帰していただくべき。伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒により、旧皇族の方々には矜持があるはずであり、宮家を再興され当主として戻っていただくのが筋である。コンセプトは旧皇族の復籍、伏見宮御一流の宮家再興とすべきである。

 養子縁組といっても最大4家程度になるが、それでは弥縫策に思えるし、選定相続となると、皇籍離脱前に皇位継承順位で上位であっても復帰できず、ほぼ同じ家格なのに、養子に選ばれなかった旧皇族は不満が残る。

 630日の有識者ヒアリングで表明された意見について (案)という資料では八木秀次氏と百地章氏は養子縁組でも直接復籍でもどちらもありという意見とされているが、だとすれば両氏に不満が残る。

 この点、11宮家の総数51名の臣籍降下という異常な措置を、現政府をして溯つて撤回せしめるべきとした小堀桂一郎氏や独立の宮家当主として旧皇族を遇されるべきとし養子に反対する中川八洋氏といったヒアリングに呼ばれてない論客からたぶん批判の出そうな展開になっている。筆者も小堀桂一郎氏や中川八洋氏と大筋では同じ意見で、それが礼儀だと思う。養子にとってやるよ式で復帰されるのは大変失礼ではないか。もちろん現存宮家の養子縁組は、女性宮家よりずっとましだが、次善の選択とする見解である。

 なお動画で竹田恒泰氏が養子縁組でよいと言う意見を言っていたが、当事者でもあり謙虚すぎる意見のように思え、反対である。

 要するに女系にならなければ良いというのは消極的にすぎ、それはあたりまえのことで、皇統嫡系(天皇家)の皇統と、もともと持明院統の嫡流だった伏見宮系の皇統(完全なる傍系化を回避した)が併存した550年間の在り方が望ましいということで、積極的に旧皇族復籍を望むものである。

 421日のヒアリングで中世史家の本郷恵子氏が「旧宮家の離脱以来 70 年以上が経過しているわけで、そういう方たちに戻っていただいても、単に皇統に属する男子というだけでは、現在いらっしゃる女性皇族を上回る説得力を持つとはちょっと思えない‥‥男系男子優先というのを改めて、男女を区別せず直系長子優先で継承していく」べきとされ、中世史家では今谷明氏も呼ばれ、一応永代宮家との由緒に言及されているが、もっと伏見宮家の皇統上の格別の由緒を強調してくれる専門家を呼ぶべきだった。伏見宮の由緒に詳しい歴史家はたくさんいるし、国文学系、芸能美術史系も悪くない。貞成親王の『看聞御記』は室町時代の基本的史料なので専攻の学生ならよく知っており学生でもよいくらいで、人選に問題があったと思っている。

 それ以前の問題として討議資料によれば女性宮家とは言ってないが、女性皇族の意向いかんで、結婚後も皇族に残る措置を特例として認める方向性が出される可能性も残っている。これに反対する見解はすでに第2章で述べたとおりである。。

 ここでは421日のヒアリングで古川隆久教授が述べた見解「もう既に旧皇族の方も皇籍離脱後長期間経っており、もともとが直系の方々と比べると相当縁が遠い方々になる」として旧皇族復帰は排斥する見解に強く反対し、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を無視するものとして容認できないので、以下この論点の一点のみにしぼって、反論する意見を具申します。

 

 昭和22年に昭和天皇と大正天皇の直宮三方を守るために、皇籍を離脱したとされる11宮家は、実系ではすべて崇光14世王の伏見宮20代・23代邦家親王の御子孫であり、伏見宮御一流である。

 平成17年皇室典範に関する有識者会議の報告書では、旧皇族の復籍を排除する理屈として、「旧皇族は、既に60年近く一般国民として過ごしており、また、今上天皇との共通祖先は約600年前の室町時代に遡る遠い血筋の方々である」とし、女性宮家推進論者小林よしのり氏は「‥‥600年も血筋が離れた旧宮家の子孫を皇族になどという意見はもってのほか‥‥」と言っている [小林よしのり, 2010]。さらに令和2825日河野太郎防相(当時)は記者の質問に対し、旧宮家(昭和22年に臣籍降下した11宮家)というのは1428年に践祚した後花園天皇の弟君(貞常親王)が伏見宮を継承し、600年前に皇室と枝分かれした男系であり、国民の理解を得られるのか疑問を呈し、旧宮家復籍に難色を示す発言があった。

 要するに、旧皇族伏見宮御一流は、男系継承といっとも、血筋が遠く、国民の納得を得られないから切り捨てよという見解である。

 それは以下述べる、伏見宮が永続を約されている由緒、『椿葉記』等に示される後深草院以来の嫡流たる皇統上の格別の由緒、世襲親王家として公認され、代を重ねて天皇家と血縁的に疎隔しても親王家としてのステイタスは劣化せず、皇族の身位からフェードアウトすることもない、別格の宮家としての特別のステイタスが付与されていた歴史的経緯を無視するもので、全く不当であるからです。その理由を明らかにするのが小論の目的であります。

 なぜなら、国民の理解を得られないなどとケチをつけている女性宮家推進派のプロハガンダを明確に否定しないことには、旧皇族も気分良く復籍してしただけない懸念があるからである。

 復籍していただくために、お膳立てとして適切な専門家による伏見宮御一流の格別の由緒をまとめ、とくに『椿葉記』に示される後深草院以来の正統との由緒、後崇光院は本格的な太上天皇であったこと、伏見宮は永続が約され、復籍の権利性を有すること。天皇家と550年併存してきた理由、戦国時代には天皇家と非常に親密だったこと、世襲親王家の意義、幕末維新以降の展開、明治22年皇室典範は世襲親王家を廃止したが、伏見宮御一流の世襲親王家は閑院宮、小松宮を含め三家あったことなどを含めて国民に説明するための「続椿葉記」PTを首相直属で立ち上げ、国民向けに崇光院流=伏見宮御一流の正当性をわかりやすく示す文書を作成することを提案する。

 近年の出版界の室町時代ブームもあり、伏見宮の由緒の研究は著しく進捗しているので、容易なことである。人選さえ間違いなければ成功することを確信している。

 菅首相が専門家を呼びだして面接し、あんた本郷恵子氏と同意見じゃないだろうね、「看聞御記」をネタに論文書いてメシ食ってるのに、女系とか言うの。もしそうでなれれば、伏見宮に有利な材料を全部出してまとめてこい、と言えば、あっという間にできると思う。

 ただ筆者は、都立園芸高園芸科出身で農業教育しか受けてないので歴史や文学は全く素人、社会的地位も全くない人間であり、業界部外者なので、具体的に誰が良いか思想的なことはわからない。

 しかし伏見宮御一流の由緒はこういうものとなるだろうという常識論を示したいと考えた。それがこの意見書の目的である。

 なお、上記のプロハガンダに対して母方では、貞建親王の御生母が霊元皇女福子内親王であり、朝香宮に允子内親王、竹田宮に昌子内親王、東久邇宮に聡子内親王、北白川宮に房子内親王と明治天皇皇女4方が嫁し、さらに東久邇宮には昭和天皇皇女成子内親王が嫁し、天皇家と近親の旧皇族の男系男子がおられるとことや、そもそも上皇陛下御生母の香淳皇后は久邇宮邦彦王女であるから、血筋と疎隔というネガティブな評価を切り返す手法もありうるが、小論はそのような見解とは違うので、伏見宮御一流の男系男子を当主として宮家を再興していただくのが筋であり、天皇家と近親者に絞ることも反対で、現存の宮家の養嗣子として旧皇族を迎えるのは次善の選択との考えなので、多くの女性宮家反対論者とも見解を異にする。

 

第2節  伏見宮には後深草天皇以来の正嫡(嫡流)という格別の由緒がある

 

第1項 持明院統嫡流の全財産は崇光上皇が相続した

 

  崇光院流=伏見宮である。『椿葉記』の歴史記述は、崇光廃位から突然始まる。

 観応2年(1351)尊氏は南朝に降伏し、崇光天皇(18歳)廃位、神器は南朝が接収した。正平7/観応3年(1352)南朝軍が京都を一時占領、光厳・光明・崇光三上皇と直仁廃太子を吉野に連行する。幕府は同年8月崇光弟の後光厳天皇(15歳)を擁立する。後鳥羽践祚等の先例により群臣義立により正当化されたが、後光厳践祚には譲国の詔宣(太上天皇詔命)がなかった。光厳上皇は「御時宜不快」として認めていない [家永遵嗣, 2013]

 崇光上皇は文和4年(1355)~延文元年(1356)河内国天野金剛寺で抑留中、持明院統の惣領である光厳法皇より、持明院統嫡流歴代の帝器である琵琶の最秘曲(啄木・両流泉・揚真操)を直接伝受されている『秘曲伝授月々例』 [池和田有紀, 2020]

 これを後村上の琵琶の秘曲伝受に対抗したとの見方があるが、正嫡認定とみてよい。琵琶の秘曲は嫡流の天皇に必ず伝綬されているからである。

 延文2年(1357)光厳法皇、崇光上皇と僧体の直仁廃太子は解放され、崇光上皇は伏見殿に還御なる。光厳生母の広義門院が保全していた、持明院統の嫡流所領である、光厳法皇の承認により、長講堂領、法金剛院領等を相続し(『椿葉記』)。40年以上管領した。また持明院統相伝の文書・記録類も相続したことは次のように目録学的に立証されている。

 光厳上皇は、正平7/観応3年(1552222日持明院統文庫に収蔵する書籍・文書を仁和寺と洞院家に預けた]。文和4年(1355)他の場所(土御門東洞院殿説と伏見の寺院説がある)に移され、この時の点検目録は「仙洞御文庫目録」(『群書類従』巻495)として今日まで伝存している。

 文和4年以降、この蔵書群はこの後、崇光院が還御された伏見の大光明寺、即成院、法安寺といった寺院に預け置かれるようになっていた。伏見宮3代貞成王の『看聞御記』紙背文書にある、応永241417)年、同29年の「即成院預置御文書目録」、応永27年、32年「法安寺預置文書目録」等が、「仙洞御文庫目録」の書目と一致するため、持明院統文庫が光厳院崇光院栄仁親王貞成王と伏見宮家に伝来したことは立証されている [田島公, 2004] [酒井茂幸, 2009]。ゆえに、崇光院が嫡流である。

 一方、光厳法皇は後光厳に冷淡な対応で、良く言っても緊急避難的な即位、中継ぎの扱いだった。崇光皇子(伏見宮初代の栄仁)はこの年7歳、しかし翌年に後光厳皇子が誕生したため、皇位継承をめぐって確執が深まる展開になった。

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第2項 『椿葉記』は崇光院流=伏見宮を正嫡とする

 

 伏見宮の嫡流たる由緒を記す実物の証拠は多数あるが、そもそも『椿葉記』で伏見宮を嫡流とする由緒が書かれていることは、大きなアドバンテージといえる。

 永享6年(1434)奏進された『椿葉記』1巻は伏見宮第3代貞成親王(のち後崇光院太上天皇)が、後小松院の御猶子として践祚した後花園天皇に、正統は崇光院流であることを悟っていただくため、叡覧に供せられた手記である [三木太郎, 1953]

『椿葉記』によれば応安3年(1370)「伏見殿(崇光上皇)より栄仁親王(崇光皇子・伏見宮初代)践祚の事、後深草院以来正嫡にしてまします御理運の次第を、日野(武者小路)中納言教光卿を勅使にて武家に仰らる」。管領細川頼之の返答は「聖断たるへきよし」と申し、拒否された [村田正志, 1954初刊、1984]

 近年の研究では、応安3年(1370)後光厳天皇は、光厳天皇七回忌宸筆御八講を清涼殿で盛大に営むことにより、光厳院の継承者であることを顕示したうえ [三島暁子, 2012] 、同年8月天皇は皇子緒仁(後円融)への譲位の内意を幕府に伝えた。これを知った崇光近臣の勧修寺経顕が、上皇に報告し、上皇は11月巻き返しのため、崇光院流を「正統」、後光厳院流を「庶子」とする宸筆折紙を記して使者を頼之に遣わしたが、頼之は宸筆を拝見したことがないと言って、折紙を手に取り懐にしまいこ込んでしまったという(『後光厳天皇日記』応安3113 [家永遵嗣, 2013]。崇光院流はこのことを長く遺恨としたが、後光厳近臣の正統化戦略が一枚上手だったとの心証を持つ。

 この後足利義満は、崇光上皇の近臣を制圧して、皇位競望を許さず、崇光崩後、嫡流所領の長講堂領等が収公され、崇光院流天皇家は宮家(伏見宮)に転落する。

 後光厳院流は4代実系で皇位を継承したが、正長元年(1428)後嗣のない称光天皇が重篤となり、伏見宮にとって一陽来復のチャンスが到来する。

 後小松上皇と足利義宣(のち義教)の合意により、称光崩御の3日前に伏見若宮(10歳)が仙洞御所に迎えられ、後小松上皇の御猶子とする儀式の後、若宮は新内裏にて践祚した。後花園天皇である。実父伏見宮貞成親王は、「天日嗣を受させ給事、天照大神、正八幡大菩薩の神慮とはいえ、ふしきなる御果報、幸運眉目にてあらすや」(草本乙巻) [村田正志, 1954初刊、1984]と喜びを隠さないが、若宮が院の御子となり、実父と他人の関係にされたことには納得するはずがなかった。

 『椿葉記』は事実上、猶子という親子関係の擬制により直系継承として後光厳院流の万歳継帝に道筋をつけた後小松院に対抗する言論であった。親王は、崇光天皇廃位以降の歴史を記述し、「御猶子は一代の御契約にて、誠の父母の御末にてこそわたらせ給へ」という皇統観にもとづき、後高倉院の先例に拠り太上天皇尊号を受ける意向を奏上し、尊号拝受の一点突破で、猶子関係を終了させ、正統たる崇光院流の皇胤再興(皇統の付替え)としたい実父の思いを伝えている。

 しかし、天皇は国を譲られた重恩のある後小松院遺詔を重んじ、崇光院流を継承すること事実上、拒否した。しかしながら、伏見宮を世襲親王家とする提案や、皇室と伏見宮が過去のように不仲とならず、親睦にして将来疎隔なきようとする趣旨、崇光院以来奉公してきた廷臣等に御慈愛をかけられんことを述べた趣旨は受け容れ、実家の伏見宮と宥和策をとった。後土御門や後柏原といった戦国時代の天皇も伏見宮と親しい交流があったことから『椿葉記』の趣旨は生かされたといえる。

 勿論『椿葉記』は朝廷公認の歴史書ではない。しかし親王は文安4年(1447)歴史上2例しかない非登極皇族でありながら「至尊」たる太上天皇尊号を拝受された方であるから、尊重されてしかるべきである。

 なお『椿葉記』には君徳涵養や学芸修養に関する記述があり帝王学の趣もある書物だが、『椿葉記』が聖主と仰いでいるのは一条、後朱雀、後三条といった王朝時代の天皇であり、「洪才博覧にましてこそ政道もよく行はれんすれ、雑訴などの大事は、関白大臣以下の臣下の然へき人に勅問ある事なり、法家の勘状なとめされて、道理にもとづいて御さたあれは、君の御あやまりはなき也」と述べ、天皇は大局から道理にもとづいた判断を下すために、学問に通じなくてはならないという。これはこの後の天皇の在り方を示唆していて、さすがに太上天皇尊号を拝受するにふさわしい人物といいうる。

 この格別の由緒を、正統たる崇光院流の再興に執念を持ち続け、永続を祈願した後崇光院太上天皇の存念を、現代に生かすことこそ、日本国にとって望ましい。これが本意見書の核心となる意見であります。

 

 

第3項 『椿葉記』によれば貞治2年(1363)光厳法皇置文に「‥‥正統につきて伏見殿の御子孫御管領」とある

 

 光厳法皇置文の正文・案文とも現存しないが要旨は『椿葉記』が伝えている。

「おほよそ長講堂領・法金剛院領の事は光厳院置文に、親王(栄仁)践祚あらば直に御相続あるへし。もししからずば禁裏(後光厳)御管領あるへし。ただし末代兩方御治天あらば、正統につきて伏見殿(崇光院)の御しそん御管領あるべきよし申をかる」 [村田正志, 1954初刊、1984]

 さらに伏見荘はいずれの場合も崇光院流の所領とし、花園院の管領していた旧室町院領は、先坊直仁親王一期の後、宗領に返付というものである。

 つまり、光厳法皇は、貞治2年になって考えを改め長講堂領・法金剛院領という、崇光院が相続した持明院統嫡流に伝わる基幹所領について、崇光院の後の処置を定めた。崇光皇子栄仁が皇位を継承できなかった場合は後光厳に譲られる内容で、後光厳に有利なものである。

 これは後光厳皇子(後円融)と同年齢の足利義満が母方で従兄弟であり、その成長を見たうえ、幕府の支持が崇光院に移行する可能性が低いという現実政治の情勢を踏まえ、無益な紛争を避けるための趣旨と考える。

 従って、この置文は崇光法皇崩後約百日後、応永5年(1398)、足利義満により崇光院が相続し約40年間管領していた持明院統嫡流所領、長講堂領等を没収され後小松天皇に付与された根拠になっている。『椿葉記』は「あまりになさけなき次第」としながら、「光厳院の置文」により収公の正当性を認めている。

 一方で、朝廷の実権者足利義満は、伏見宮に後嵯峨院御分国を後深草院が相続した由緒のある播磨国衙領と萩原宮直仁親王遺領(室町院領)7か所の相続を認め、さらに、萩原宮遺領の庶流の所領(室町院領)すべてについて、応永23年(1416)後小松上皇により伏見宮に「永代」安堵され [白根陽子, 2018]、伏見宮の存続は確定した。

 重要なことは、この置文は崇光院流のメンツを潰すものではなく、「末代兩方御治天あらば、正統につきて伏見殿の御しそん御管領あるべきよし」と「正統」は崇光院流を示しており、嫡流所領を奪われても、なお嫡流を主張できるところが伏見宮のすごいところといえる。

 従ってこの置文は嫡流転換を意味しない。皇位を奪還すれば旧領を回復しうる解釈すら可能である。

 勿論『椿葉記』は二次史料であり、正文、案文も失われて、「正統」の記述の裏付けはないとの見方もありうるが、『椿葉記』の歴史記述は正確であり、叡覧に供する目的の手記なので、話を盛っているとは思えない。「至尊」たる太上天皇になられた方の著作であるから信用すべきというほかない。

 

第4項 持明院統皇統文庫の相続と維持

 

 治天の君光厳上皇が管理していた持明院統皇統文庫は、光厳院→崇光院→栄仁親王→貞成王と、嫡流の伏見宮家にすべてが伝来したことは、目録学的に立証されており、蓮華王院宝蔵から伝来した経巻なども伏見宮に伝来したことがわかっている [田島公, 2004] [田島公, 2006] 、伏見宮第3代の貞成王が相続し管理下に置いたのは213合あったとの説がある [飯倉晴武, 2002] ]

 もっともその後、天皇家に進献されたり、失われたものもあるが、昭和22年まで文庫は維持され、伏見宮が戦後特権を失って蔵書を手放し、宮内庁書陵部で購入した。伏見宮旧蔵本には中世の皇統文庫のリストにあったものも少なくからず、現存しており実物の証拠があるわけである。

 貴族社会では古記録を伝えている家が嫡流であるから、中世の皇統文庫を維持してきた伏見宮は重んじられてしかるべきである。この論点は重要なので第4節で詳しく述べる。

 

第5項 嫡流の証しとしての琵琶の伝習

 

 順徳天皇の『禁秘抄』は天皇が学ぶべき学芸の第二を管弦としているように、中世において管弦は、学問に続く帝王学の要であり、管弦に秀でることが有徳の君主の証とされ、多くの天皇が特定の楽器を熱心に習得した [豊永聡美, 2017] [相馬真理子, 1997]

 鎌倉時代の累代楽器の権威構造は累代御物「玄上」-清暑堂御神楽-琵琶の秘曲伝授と琵琶が中心で、したがって亀山、後醍醐、後村上も琵琶の秘曲を伝授されており、持明院統嫡流の後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光-栄仁親王-治仁王は、最秘曲の啄木を伝授されている。 [猪瀬千尋, 2018] 、貞成親王以降は啄木の伝授は受けてないようだが、貞常親王、邦高親王、貞敦親王は楊真操、両流泉といった秘曲の伝授を受けた。

 後深草院は亀山天皇に秘曲伝授で先を越されたことを後悔され、巻き返しのため立て続けに秘曲の伝授を受けた、以降持明院統嫡流の天皇は琵琶の伝習が必須となった。琵琶にこだわったのは、後鳥羽、順徳が名器「玄上」を弾いた由緒から [五味文彦, 2006]、帝王の管弦主座として、皇統の正統性にかかわるものと認識されていたためである。

 持明院統の庶流の天皇、花園や光明の帝器は笛で、琵琶を習得していないし、秘曲の伝授も受けておらず嫡庶で差別化されていた。帝王学として琵琶を相承し、秘曲を伝授されることが、持明院統正嫡の証しなのである。

 『椿葉記』は持明院統の帝王学である琵琶の習練を勧めているにもかかわらず、後花園天皇は足利義教の方針で、後光厳院流の笙を習得し、後土御門にも相伝され、伏見宮貞常親王は琵琶を継承したので、相馬万里子や豊永聡美は、後花園は後光厳院流の流儀が継承されたとの見解である。

 したがって琵琶の伝習、秘曲の伝授により伏見宮が嫡流の流儀を継承した王統といえるのである。

 

第6項 皇位を継承しなくても伏見宮が嫡流を引くといえる理由

 

 近年、文安4年(1447)11月伏見宮第3代貞成親王(道欽入道親王)への太上天皇尊号宣下の詔書が解明され、天皇実父としてではなく、傍親(兄)への厚意としての尊号宣下であることが明らかにされた [田村航, 2018]。

 後花園天皇は後小松上皇の御猶子とされたうえ践祚したことから、後光厳院流の継承者であることを表明していたことが明らかになったのである。ゆえに天皇家も伏見宮も崇光院流御一統とする村田正志説の従来説は否定された。

 貞成親王は後小松院の猶子として親王宣下されたことから実父であっても兄とされたのである。

 よってこの皇統重要問題は、天皇家は「本朝皇胤紹運録」の系図のとおり後光厳院流、伏見宮だけが崇光院流ということで決着したのである。

 北朝は正平一統により一時消滅した。後光厳践祚は『園太暦』に「非受禅、非太上天皇詔、又不可有被渡霊器之儀‥‥」『椿葉記』に「父の御譲にもあらす、武将(等持院)のはからひとして申をこなふ。此宮は、妙法院の門跡へ入室あるへきにさため申さるゝところに、不慮の聖運をひらかせ給て‥‥」と記すとおりであり、血統では繋がっていても譲位受禅ではないため切断がある。また後光厳は崇光の猶子ではないので、崇光院流と後光厳院流は別の皇統であり、後光厳院践祚を持明院統天皇家の惣領光厳上皇が認めていない以上、当時はよく言っても緊急避難的即位、中継ぎにすぎなかったとみることができる。

 後光厳院流が公武合体構造の国家体制を築いて政治的に優位に推移したとはいえ、それは正理、正統の証とはいえない。ではどうして皇統嫡系といえるのか。またそのことは崇光院流=伏見宮を嫡流とする見解と矛盾しないかという批判があるかもしれないが、それは次のように説明したい。

  私は後光厳院流は以下の史実によって正統性を顕示、確保したゆえ皇統嫡系たりえたと考える。

(1)光厳、後光厳、後円融といった歴代天皇の追善供養(崇光院を除いて)を国家的仏事として盛大に営んだこと [三島暁子, 2012]] [久水俊和, 2011]。一方、崇光の追善は「イエ的」仏事にとどまったこと。

(2)応永5年(1398)崇光院崩後、崇光院近臣を制圧していた足利義満の政治力により、崇光院が40年管領していた持明院統主要所領の長講堂領等を後小松天皇は没収できたこと。

(3)後小松上皇は応永23年(1416)伏見宮栄仁親王より「天下名物至極重宝」名笛「柯亭」を伏見宮より進献させたこと(椿葉記・看聞御記) [植木朝子, 2009]。

(4)後小松上皇へ応永31年(1424)『寛平御記』『延喜御記』(二代御記)という皇統文庫のなかでも特に重要で象徴的なものが伏見宮貞成王が進献されたこと(看聞御記)。

(5)伏見若宮を猶子として践祚させたゆえ、永享2年(1430)後深草院より三代の『大嘗会記録』『神膳御記』が伏見宮道欽入道親王(貞成親王)より後小松上皇へ進献されたこと(看聞御記)。

(6)天文4年(1535)伏見天皇宸記2合が伏見宮第6代貞敦親王より後奈良天皇に進献された(後奈良天皇宸記)こと。

 私の考えでは、歴史家のいう追善仏事を公家沙汰とした意義を認めつつも、しかしそれは後付けの論理ともいえるので、後光厳院流が皇統嫡系(正流)たりえたのは、崇光院流=伏見宮より持明院統嫡流の財産、なかでも荘園群の大部分と、象徴的な重宝、皇統文庫のなかでも象徴的に重要なものを切り取ったことによると考える。

 後小松上皇は皇統文庫や重宝は法的根拠がないので収公できなかった。しかし上皇は、1416年准累代御物級の「天下名物至極重宝」名笛「柯亭」を室町院領永代安堵の院宣と引き換えに伏見宮より進献させ、1424年『寛平御記』『延喜御記』という重宝が表向きは訴訟に便宜を図ってもらうため伏見宮より上皇に進献されており、その翌年に貞成王が親王宣下されている。また後花園は伏見宮貞成の実子である以上、相当量の宸筆宸記等が天皇家に進献されたと推定されている。

 しかし、『後奈良天皇宸記』天文4年(1535)7・4条に「自竹園伏見院御記二合給之喜悦也」とあり、伏見宮第6代貞敦親王が伏見天皇宸記二合をこの時点で進献していたということは(なお、伏見宮旧蔵本では伏見天皇日記宸筆8巻その他が現存するのですべてではない)、伏見宮家からの宸筆宸記等の天皇家への進献は断続的で長期にわたっていたことがわかる。

 第5代邦高親王まで、持明院統嫡流の天皇である伏見院宸記を天皇家に進献してなかったのは嫡流の証左として維持していたともいえるし、この時点で、すでに第7代邦輔親王は親王宣下を受けており、世襲親王家としてのステイタスは確立していたゆえ貞敦親王は手放したともいえる。

 これについては裏事情がありそうで、同時期に貞敦親王の妹玉姫が嫁した義弟の一条房冬(土佐一条家)は近衛大将の任官を望み朝廷に銭一万疋の献金が用意されたが、後奈良天皇は拒否、伏見宮貞敦親王の懇請によって任官されたが、売官になるため献金は突き返された。この借りがあったとも考えられる。

 しかし一万疋は1500万円くらいの価値があるが、書聖である伏見院御記二合はかけがえのない価値があり、得をしたのは天皇家のように思える。

 貴族社会では家記・古記録を伝える家が嫡流なので、伏見院宸記二合が伏見宮第6代貞敦親王より善意で進献されたことにより、天皇家は皇統嫡系としての体裁、面目を整えることができたというべきである。ゆえに伏見宮をぞんざいに扱えない義理は今日もあるというべきではないのか。

 しかし天皇家に進められたのは財産のすべてではない。皇統文庫の残余の部分は伏見宮が相続したし、持明院嫡流の流儀である琵琶の伝習は伏見宮が継承したこと。なによりも、光厳院置文は嫡流の皇統を付替えたとは全く言っておらず、正統は伏見殿の御子孫としており、再び崇光院流が皇位を奪還すれば、嫡流所領も奪還しうると解釈できる内容である。このことから、たとえ財産を後小松が切り取って、皇統正流は後光厳院流になったといっても、崇光院流の正当性、嫡流の由緒はどうしても伏見宮に残るのである。それゆえ伏見宮家は、完全に傍系化せず、天皇家と併存して永続する別格の宮家となった。

 

第3節  伏見宮は永続が約されている由緒が複数以上ある

 

  これについては第1章第9節と同文なので省略する リンクは

意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その一)  : 川西正彦の公共政策研究 (cocolog-nifty.com)

第4節  伏見宮は持明院統皇統文庫を相続し、その一部を昭和22年まで維持したことは嫡流たる証左たりうる

 

  第1項 持明院統文庫の伏見宮への伝来

 

  貴族社会では家記、古記録を伝えている家が嫡流である。伏見宮家は嫡流ゆえ持明院統皇統文庫が伝来した・家記の自筆原本・古記録の蔵書が嫡流の証しになる。

  持明院統に伝来した文庫は、延文2年(1357)以降、崇光上皇の管理下に置かれた。(応永24年(1417)伏見宮初代栄仁親王の王子第2代治仁王頓死(中風)により、弟の貞成王が遺跡を継承した。伏見宮第3代貞成王は親王ですらなかったが、嫡流ゆえ本来なら治天の君に伝えられるべき皇室の重宝といえる豊富な古記録を相続していたことは以下のとおり明白なことである。

  そもそも天皇ゆかりの宝物や貴重図書は、原則として大内裏内の倉や文庫にあり、典籍・文書は校書殿、内御書所、一本御書所に保管されていたのである。

  しかし院政期以降は、歴代御記などは院が管理して、天皇は借覧するあり方になった [井原今朝男, 1995]

皇室の蔵書は後嵯峨院崩御の時に両統に分割され、日記や政務文書は後深草院に譲られ「和歌并鞠文書」は亀山院に譲られたと伏見院自身が認めているという [小川剛生, 2017]

 持明院統の典籍・文書は、冷泉富小路殿を経て土御門東洞院殿に収蔵され、大覚寺統に伝えられた文書は冷泉万里小路殿に収蔵され、親王時代の後醍醐天皇に一期相続で贈与された。

 元弘元年(133110月、笠置山陥落による後醍醐天皇の六波羅遷幸に際し、光厳天皇はぬかりなく後醍醐皇子の尊良親王に大覚寺統文庫の明け渡しを要請したが、接収できたのは一部だけだった。後高倉、後鳥羽、順徳の宸記や後宇多、後醍醐ゆかりのものは後宇多皇女の禖子内親王(崇明門院)に伝えられ、これは動乱期に失われたようである。

 光厳上皇は、南朝軍が京都に進入し、八幡に遷幸された翌日正平7年閏222日持明院統文庫に収蔵する書籍・文書を仁和寺と洞院家に預けた [酒井茂幸, 2009]

 文和4年(1355)他の場所(土御門東洞院殿説と伏見の寺院説がある)に移され、この時の点検目録は「仙洞御文庫目録」177合(『群書類従』巻495)として今日まで伝存している。

 文和4年以降、この蔵書群はこの後、崇光院が還御された伏見の大光明寺、即成院、法安寺といった寺院に預け置かれるようになっていた。

 後崇光院太上天皇(伏見宮貞成王)の『看聞御記』紙背文書にある、応永241417)年、同29年の「即成院預置御文書目録」(155合)、応永27年、32年「法安寺預置文書目録」等が、「仙洞御文庫目録」の書目と一致することため、持明院統文庫は光厳院崇光院栄仁親王貞成王と伏見宮家に伝来したことは立証されている。

 加えて尾張大須文庫の「御記惣領目録」が14世紀末から15世紀初めの伏見宮が所蔵していた持明院統に伝えられた、歴代天皇の日記や、史書、法制書、諸家の日記の目録であり、「仙洞御文庫目録」と「即成院預置御文書目録」の中間に位置するものであること明らかにされている。

 なお、伏見宮の蔵書は、飯倉晴武氏の計算では213合ほどあった。一合とはどのくらいの量かよくわからないが、『玉勝間』が一合50巻と言っているので、かなりの分量といえる [飯倉晴武, 2002]

 応永5年(13988月に栄仁親王は長講堂領・法金剛院領等の嫡流所領を没収されたけれども、都合がよいことに、親王は、萩原宮遺領の室町院領の7箇所と萩原殿を相続でき、播磨国衙領も返還されたが、しかし、義満は山荘を造営するため伏見殿を接収した。

 このため、応永5年栄仁親王は萩原殿(現在の妙心寺玉鳳院)に移ったが、義満は引越し費用として銭二万疋を給付している。結局伏見に山荘は造営されずに翌年12月に伏見に戻されたが、応永8年(1401)に伏見殿の火災で累代御記、文書、楽器の過半が焼失したとされ、詳細は不明である。その後、嵯峨、有栖川と居所を転々とする [桜井栄治, 2009]

 義満薨後の応永15年(1408)管領斯波義将の沙汰で伏見荘が返還され、翌年栄仁親王は伏見に還御され、宝厳院という尼寺を仮御所としている。

 ところで、義満の申請により崇光流の「御文書」はことごとく後小松に譲与されたとされたとの見解もある [松永和浩, 2020]。『満済准后日記』にそのような記述があるのは知っているが、義満薨去は応永15年だが、先にも述べたように応永2432年の伏見の寺の預置文書目録により、伏見宮が光厳院仙洞御文庫より伝来した文書を管理していたことは立証されていることである。

 応永241417)年「即成院預置御文書目録」、応永27年「法安寺預置文書目録」によると、伏見宮の蔵書として、寛平・延喜御記(宇多・醍醐)、天暦御記(村上)、林鳥(後鳥羽御記)、後深草・伏見御記・心日御記(後伏見)があった。

 なお後光厳天皇が光厳院より御記を相続できなかったことは、『後光厳院宸記』応安3113が、後深草院御記の書写を崇光上皇に申し込んだが断られたとみられる趣旨の記事があるため明白なことである [松園斉, 1997]

 

第2項 蓮華王院宝蔵の経巻、書籍の伏見宮への伝来の立証

 

 田島公が伏見宮近臣の三条西実隆『実隆公記』延徳2年(1490)八月条にある、伏見宮第5代邦高親王から借用した歴代天皇宸筆や皇族御筆、三蹟など平安時代の「古筆」のリストを検討され、このうち弘法大師御筆の法華経、称讃浄土経、無垢清光陀羅尼等、智証大師(円珍)筆の転女成仏経、三蹟の一人藤原行成卿筆の心経、諸仏集会陀羅尼経といった経巻が、近世の写本だが東山御文庫にある蓮華王院宝蔵目録と一致することを明らかにしている [田島公, 2004]

 蓮華王院宝蔵とは後白河院の蒐集品の宝蔵で、書物は御経や漢籍のほか、官庫(天皇家ゆかりの朝廷文庫)の重要な蔵書を含む。元弘の変以降に什物は流出し、絵巻・絵画は仁和寺に移され、経巻や典籍は持明院統に継承されたと想定されていたが、伏見宮に少なくも一部は伝来したことが立証された。

 要するに、本来なら天皇家が管理すべき蓮華王院宝蔵の蔵書は、嫡流だが皇位を回復できなかった伏見宮に伝来し、伏見宮の蔵書だったということである。

 なお現存する伏見宮旧蔵本で最も古いものとして延喜19年(919)漢詩人として著名な大江朝綱筆の『紀家集』(紀長谷雄の漢詩集を書写したもの)。東山御文庫にある伝醍醐天皇筆「自題山草亭」は、明治5年に伏見宮邦家親王が明治天皇に献上したもので、伏見宮家に伝わっていたものである [田島公, 2004]

 

 第3項 伏見宮蔵書の変容と現存する伏見宮旧蔵本の評価

 

 とにかく、伏見宮第3代貞成王は皇統のすべての文庫を相続しているから嫡流といえることはいうまでもないが、このセクションでは、貞成王の親王宣下の時期から伏見宮蔵書の経過、変容と、現存する伏見宮旧蔵本の評価という問題をとりあげる。

 伏見宮家の蔵書は、明治5~7年にかけて、宮家の命によって家従の浦野直輝が宮家蔵の古記録・古文書を書写した、『伏見宮記録文書』という副本が作成されたので、早くから知られており、研究や史料に引用されてきた。

 戦後、宮家は特権が剥奪され、財産税によって資産を失い、蔵書を全て手離さざるを得なくなったが、皇室にゆかりのある蔵書を市中に散乱させるのは忍びがたいとして、昭和2212月宮内庁書陵部に788部1666点が寄託され、後に国費で宮内庁が購入した [飯倉晴武, 2002]

 現在宮内庁書陵部にある伏見宮旧蔵本の評価は、中世の天皇家の蔵書をよく伝えており、伏見院日記8巻、花園院日記36巻等の鎌倉時代後期宸筆宸記のほか記録類も貴重な自筆原本や古写本のほか、琵琶を中心とした楽書もあり充実している。古典の伝承の世界では、古筆、古写本が重んじられるので史料的価値が高いことはいうまでもない。現存する伏見宮旧蔵本で最も古いものとして延喜19年(919)大江朝綱筆の『紀家集』である。今上陛下が大学卒業時に深い感銘を覚えましたと仰った花園天皇の『誡太子書』や『学道の御記』も伏見宮旧蔵本にある。

 問題はこれで嫡流たる由緒を示すだけのものがあるかというかなり重要な論点である。

 結論を先にいうと、肯定的な評価でよいと思う。

 伏見宮本には南北朝時代の持明院統皇統文庫のリストと一致する書籍は少なからず現存している。進献、贈与、流失したものが少なくないとはいえ、中世の皇統文庫が伏見宮において一貫して維持されてきたとはいいうる

 例えば伏見宮旧蔵本で現存する『水左記』の自筆原本4巻は、これは元々蓮華王院宝蔵の蔵書だが、文和4年(1355)光厳院の仙洞御文庫目録、伏見宮貞成王の応永24年(1417)年即成院預置目録に『堀河左府記』として同じタイトルがリストにある。

 伏見宮旧蔵本の『御産部類記』19巻は醍醐天皇以降の皇子女の誕生に関する貴重な逸文が多く、重要史料だが、鎌倉中期に西園寺家が所蔵していたもので、鎌倉末期から南北朝頃に他の御産関係史料とともに西園寺家より持明院統皇統文庫にまとめて移管されたことが明らかにされている。仙洞御文庫目録や即成院預置目録にもあり、昭和22年まで伏見宮の蔵書だったわけである。

 とはいえ嫡流に伝えられた皇統文庫は南北朝時代頃のリストを集計し200合以上あった量からすると、天皇家に進献されたもの、贈答品等で流失したり、戦乱の移動の際失われた等、散逸した部分も大きいように素人目には思う。

 伏見宮の蔵書は、伏見宮家伝来と称する手鑑が各地でみられるため江戸時代に分散したものも少なくないという意見もある [末柄豊, 2011]

 一方、光厳院から皇統文庫の相続とは別に萩原宮直仁親王遺領を伏見宮が相続した関係だと思うが、花園天皇宸記36巻は全体の7割が現存し、中世の天皇の日記としては分量的にまとまっており最もよく残っている。但し萩原宮からの相続は、花園院の絵画のコレクションもあったようだが、穿った見方をすれば持明院統庶流の財産の位置づけになるので、嫡流の証明にはならないともいえる。

 伏見宮蔵書は室町時代以降、後崇光院(貞成親王)の『看聞御記』42巻、他家の日記・記録、朝儀関係の記録、宮家当主の筆跡や作品、歌会の記録なども加わり、増加した部分はもちろんある。例えば鎌倉時代の写本で最も古い時期の写本として貴重な「野府記」(「小右記」)や平戸記は皇統文庫のリストに見当たらないので、宮家になってから室町時代以降入ってきたと考えている。

 現在国立民俗博物館にある高松宮家旧蔵「伏見殿文庫記録」は1682年前後に霊元天皇が書写のため伏見宮より借用したリストであるが、「本朝世紀」がかなり散逸したとはいえ、ざっと見た限りでは、その後大きく目減りはしてないように思える。

 とはいえ鎌倉時代後期の天皇の宸筆宸記で現存している分量は、当初伏見宮にあった分量よりかなり少ないのであるが、この時期のもので現存しているのは、柳原本のほか主として伏見宮本なのであって、東山御文庫に現存してるのは後深草院の「八幡御幸記」のほか、伏見院の「大嘗会御禊御幸御覧記」「後深草院落飾記」くらいしかないのではないか。

 誤解がないようにいっておけば、東山御文庫には伝嵯峨天皇宸筆『李嶠雑詠』、宇多天皇宸筆の『周易抄』、『後鳥羽天皇詠三十首和歌色色紙』という名品があるが、これは近衛家凞が明治天皇に献上したもので、来歴は新しい [北啓太, 2016]

 この点、禁裏文庫で現存しているものとの比較という観点が重要に思える。

 京都御所に東山御文庫がある。これは皇室の御文庫で、天皇陛下の御物であり、侍従職が管理しているが、天皇家に伝来した古記録や典籍は、文明8年(1476)後土御門天皇の新造の御所が消失し、「御物」「累代御器」「御記」が悉く消失した。後柏原天皇の前後から積極的な書写蒐集が始まり、後水尾天皇が収書や文庫の整理を行ったが、禁裏御本の古筆は万治41661)年大火ですべてを焼失したとされている。

 しかし後西天皇がこの事態を予見し、バックアップとして朝儀に関連した記録類の副本を作成していたため、譲位後に禁裏に納められた。その後も火災はあったが、焼失することなく副本が現在まで伝えられている。その親本は応仁の乱以降、蒐集、書写された古典籍、古記録の写本に遡る可能性があるので貴重なものであるが、したがって近世禁裏文庫は近世の写本が中心なのである [田島公, 1997]

 田島公によれば「現在、東山御文庫に継承された近世禁裏文庫に残っている史書・古記録・古記録・漢籍など史料の残存状況を調べると応仁文明の乱以前に遡る写本・古文書の原本は少ないので、禁裏収蔵文書の継承の断絶性という意味では応仁・文明の乱の被害が最も大きかったといえよう。すでに説かれているように、中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された書籍・文書・絵画などの一部は、むしろ伏見宮家によって近代まで伝えられたといえよう。」 [田島公, 2004]という。

 この評価にもとづき伏見宮家は昭和22年まで中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された書籍・文書の一部を伝えていたと断言できるので、総合的に判断して、しかるべき古記録を伝えてきた嫡流を引く由緒を認定してよいように思える。だからこそ完全なる傍系化が回避され永続されるべき宮家といえるのである。要するに、正統とか嫡流というのはたんに名分論でなく、たとえ今は国有財産になっても古記録、書物を伝えてきたという、物証があるということである。

 以下具体的に伏見宮家から流出した文書をみていくことする。

『看聞日記』によると応永24年(1417)伏見宮貞成王より後小松上皇に『後深草天皇文永三年御移徙記』の書写、『御移徙記分類記』を進献された[園部寿樹, 2015]。応永29年には『宮瀧御幸紀』という重宝が進献されている。

 応永31年(1424)伏見宮貞成王は、訴訟事に便宜をはかってもらうため後小松上皇に後深草院以来の相伝の『寛平御記』『延喜御記』、『朝覲行幸記』三合、『諸社諸寺御幸記』の御記五合を進献しているが、文庫のなかでもかなり重要なものといえる。宇多、醍醐の二代御記は、上皇から特に感謝されたと記されている [古藤真平, 2018]

 さらに後伏見院御記の進覧の依頼も受けている。翌年にも後伏見院御記の書写の依頼もあったが [松園斉, 1997]、応永32年に貞成王は親王宣下を受けたことと二代御記の進献は関連性があるかもしれない。

 なお、伏見宮貞成親王の『看聞日記』は応永32年以前の分が、全面改稿されているので批判的にみておく必要はある。

 永享2年(1430)貞成親王より後小松上皇に代々秘蔵の後深草院より三代の『大嘗祭記録』『神膳御記』が進献されている。これは後花園天皇の大嘗会に際してである

 こうした古記録は主上御作法や院御作法を知るための天皇家に必要なものであるから、進献されたのはある意味当然ともいえる。

 後花園朝の天皇家の蔵書に関しては『建内記』永享11年(143922日条によると歴代天皇の日記は、室町土御門の浄華院に預け置かれており、万里小路時房は天皇の下問に答え延喜天暦御記、後円融御記に言及しているが、それ以外何があったのかはっきりしない。天暦御記は伏見宮から進献されたものかどうかも不明である。

 現在、平安時代の天皇の日記は原本も写本もなく、逸文が残ってるだけで、禁裏の蔵書は文明8年(14761113の火災で失われたと思う。

 一方、後南朝小倉宮に伝えられた重宝があり、勝光明院宝蔵に納められていた後朱雀天皇と後三条天皇の後二代御記である。これは政務・儀式の亀鏡として重宝とされていた。

『看聞御記』永享7年(1435)8・25によると、小倉宮聖承より足利義教に進められ、義教はこれを後花園天皇に献上された。その後『看聞御記』嘉吉元年(1441627によると天皇は、後二代御記を、父貞成親王に預け置くべしとされ、伏見の蔵光庵に預け置かれたが、その後どうなったのかが不明である。

 伏見宮旧蔵本を最も高く評価されているのが、書陵部主席研究官として、著者の確定、書名の決定等調査にあたっていた飯倉晴武氏で、同氏によれば伏見宮第3代貞成親王は後花園嗣立後も持明院統正統文庫そのまま管理下におき、第二王子貞常親王が伏見宮を嗣ぎ、宮家が天皇家と併存することを確信したので、持明院統正統文庫は伏見宮で維持することにしたとする [飯倉晴武, 2009]

 飯倉氏とは異なる見解として、第4代貞常親王が相続した文庫は後花園天皇に進献された御記を除いた残余の部分とする見方もある [松園斉, 1997]。つまり文安5年(1448 66日付後崇光院譲状で代々の天皇の日記だけを禁裏に進められ、他の記録文書は貞常親王に相伝することを指示しているためである。

 この説では、皇統文庫の中核である歴代天皇の日記は、禁裏に進められているので分割相続というニュアンスになる。

 しかしながら『後奈良天皇宸記』天文4年(153574条に「自竹園伏見院御記二合給之喜悦也」という記事があり、この時、伏見宮第6代貞敦親王が伏見天皇宸記二合を進献したということは、それまでは伏見宮の蔵書だったということである。

 伏見宮初代栄仁親王が崇光院から相続したリストと考えられる「御記惣目録」に伏見宮の蔵書として、後深草院御記が七合、伏見院御記が二合、心日御記(後伏見)が五合と記されており [田島公, 2004]、江戸時代「長忠卿記」元文4年(1739628条に霊元天皇の仰せによると、後水尾院文庫に伏見院御記70巻があったが、焼亡して5冊が伝わっているとの記録と符合する。これは万治4年(1661)の禁裏火災で失われたと考えられる。なお、書陵部の伏見宮旧蔵本には伏見天皇宸記の原本8巻その他の宸筆宸記があるため、全体の量からすれば少ないが、伏見宮の蔵書としても残してあったということになる。

 従って後花園天皇に進められた御記の全容は不明で、飯倉説と松薗説の両論併記とする。

 

第4項 贈答品としての書物

 贈答品的な趣旨で流失したものについても言及しておきたい

 足利義満には時期不明だが、伏見宮初代栄仁親王から京極流の勅撰和歌集『風雅集』(正本とみられる)、伏見宮3代貞成親王から足利義教には永享7年(1435)同じく京極流の『玉葉集』奏覧正本一合(191巻欠)のほか [前田雅之, 2018]、伏見殿御所を訪れた義教の引き出物として伏見院宸筆三帖(『春草集』『周防内侍集』『赤染衛門集』を書写した伏見院による書写)が贈られている [小川剛生, 2017]。伏見院は書体を縦横無尽に書きわけ「書聖」と称され人気が高かった。また宝徳元年(1449)院参した足利義政に、後崇光院太上天皇より『和漢朗詠集』等が下賜されている [田村航, 2018]

 『風雅集』は、応永3年(1396)に崇光院が義満の杯を取って呑むという珍事による、一万疋の経済援助、もしくは応永5年の室町院領7箇所の安堵の報謝を想定できる。『玉葉集』は一条東洞院伏見殿御所造営の報謝である。

 前田家の尊経閣文庫『旧武家手鑑』の永享7年(1435827付、従一位左大臣足利義教の御礼の手紙は伏見宮から散逸した文書と考えられ、これは現代語訳があり「‥‥この間はゆったりとお過ごしいただき、非常に結構なことでした、さて玉葉和歌集の正本をいただき、恐縮しながらも、うれしさに限りがありません。大事にいたします‥‥誠恐謹言」とある。書止め文言は同格者のもので、当時は親王家と大臣家が同格であるが、足利義教は朝廷の実権者で准摂関家ともいえるから、丁重な御礼といえる。

 小川剛生によると応仁の乱以降私家集の二大コレクションは伏見宮第5代邦高親王と足利義政所蔵の歌集だったという。とくに伏見宮の蔵書は中古の歌人と鎌倉中期までのものを有しており、質量ともに優れていたという。「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしづめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生, 2017]というのは言い過ぎではない。

 しかし仙洞御文庫目録に三合あったはずの私歌集は現存の伏見宮旧蔵本には一点しか残ってない。第6代貞敦親王以降、戦国時代に今川氏親ら大名や武家に贈答品として散逸したとみられている。

 そういうと伏見宮が財産の切り売りで存続してきた言い方になるが、中世の宮家はことごとく消えていったのに伏見宮だけが永続したのも嫡流の財産がものをいったというべきである。

 

第5項 飯倉晴武氏の伏見宮旧蔵本の評価について

 

 飯倉晴武は伏見宮旧蔵本の価値の高いことを強調している専門家である。「伏見宮旧蔵の記録類はですね。たとえば『水左記』の平安時代の原本が含まれていたり、あるいは鎌倉時代の写しになります『小右記』『中右記』『平戸記』という著名な現在伝えられている古記録のもっとも古いといわれている写本がほとんど伏見宮旧蔵の本でございます。‥‥」。「で、この伏見宮家の文書のなかには伏見天皇の日記や、『花園天皇日記』‥‥持明院統の天皇の日記も入っております。‥‥持明院統の正統はこちらだということを暗に主張していたと思うわけです。‥‥‥(江戸時代には四親王家となり)伏見宮家という宮家の存在が薄くなったかにみえます。でも実際には皇位の正統を伝えるべくこういう皇室の記録文書は伏見宮家にある。‥‥江戸時代朝儀が復活されるころにあわせて‥‥後西天皇が記録類の筆写をはじめます。‥‥公家たちを動員してやるのですけれども、それが東山御文庫といわれるものですね。‥‥後西天皇、霊元天皇、東山天皇‥‥たくさん写本を作り出してます。どういう写本かといいますと、やはりですね近世の公家が写したように『小右記』『中右記』『権記』『平戸記』等伏見宮家で持っているものと同じものの写本を作り出していきます。‥‥ありきたりの各公家が持っている古記録の写本と同じです。」 [飯倉晴武, 『日本中世の政治と史料』, 2002, ページ: 223228]

 伏見宮旧蔵本に贔屓めの見解に思えるが、かなり重大なことを言っているので引用した。ただ「ありきたり」の部分は誤解がないよう補足しておきたい。

 「小右記」(伏見宮本のリストでは「野府記」)は原本はなく、最も古い写本が、鎌倉時代の書写で、前田家本(三条西家旧蔵本)37巻と書陵部にある伏見宮旧蔵本33巻、九条家本12巻ということである。古典の世界では古い写本の価値が高いのである。

 「小右記」の写本は、内閣文庫、国立民俗博物館、静嘉堂文庫、京大、学習院、関西大学などあっちこっちに数多くあるが、いずれも江戸時代の書写である。東山御文庫の「小右記」64冊も江戸時代の書写であるが、これは後西天皇が、三条西家本と、伏見宮本系の写本である勧修寺家本を底本として校合して書写し、「小右記」の諸本に詳本と略本があるのを見極め、良質の写本を作り上げており、丁寧な仕事をしているから、「ありきたり」の写本というわけにはいかないように思え、この点は公正な評価として強調したい。

 

第6項 絵巻物について

 

 伏見宮の絵巻物コレクションの消長や、貞成親王と絵巻物等とのかかわりについては、近年高岸輝の業績があるので若干引用しておきたい [高岸輝, 2017] [高岸 輝, 2020]

 伏見宮ゆかりの絵画では、高階隆兼「名筆」の宝庫といわれる萩原殿コレクションがある。これは嫡流でなく、花園院-萩原宮直仁親王からの伝来で、鳴滝殿方丈(直仁親王王女)、智観(治仁王王女)を経て、一部が貞成親王に吸収された。

 後花園天皇と貞成親王は、しばしば絵巻の賃借が行われ、足利義教が加わり、絵画愛好サロンを形成していた。嘉吉年間以降の貞成親王の新作は、親王の嗜好を基調とした「数奇」の世界だった。

 太上天皇拝受の後の制作としては文安5年(1448)土佐広周筆の「天稚彦草紙絵巻」(ベルリン国立アジア美術館蔵)、下巻は七夕伝説の絵巻として現存する最古のもので、詞書は後花園宸筆、法皇が奥書を記した。後花園の注文だが法皇がかかわっている。

 文安6年(1449)の「放屁合戦絵巻」(サントリー美術館蔵)は後崇光法皇が平安末期の原本を気に入って転写させたもの。

 

第5節  後崇光院は本格的な太上天皇だった

 

 永享7年(14358月足利義教は、一条東洞院後小松院仙洞御所を破却し、その東隣に移築して道欽入道親王(伏見宮貞成親王)の御所が造営され、同年12月親王は伏見より洛中御所に移徙された [高橋康夫, 1983]。永享8年には後小松院御所跡地も伏見宮領となる。後小松院仙洞御所は、応永23年(14167月焼亡し、諸国守護に一万疋を拠出させて再建されているので、院御所にふさわしい建築だったに違いない [秦野裕介, 2020]。後小松院御遺詔は足利義教により事実上反故にされた。

 嘉吉3年(1443)禁闕の変で土御門東洞院内裏が焼亡、再建されるまで伏見殿御所は後花園天皇の仮御所となり、親王は、土御門高倉の転宝輪三条実量邸に移徙された。

 文安2年(14453月伏見宮第二王子は関白二条持基を加冠役として元服し、6月に親王宣下を受けた。貞常親王である。時に21歳、文安33月任式部卿、文安43月二品に叙せられたのは厚遇といえる。同年8月に家領を譲られて第4代伏見宮当主となった。

 父貞成王は応永31年、後深草院以来の皇統文庫のなかでも重宝の寛平・延喜二代御記を後小松上皇に進献し歓心を買い、応永32年父栄仁親王と皇位継承を争った後円融院33回忌の写経供養に参加したことで、54歳でやっと親王宣下を受けたのであるが、この後、伏見宮家は第5代邦高親王が19歳(元服加冠役は准后前左大臣足利義政)、第6代貞敦親王は17歳で順調に親王宣下を受けている。)

 文安4年(1447)伏見宮貞成親王は後小松崩後13年も待たされたとはいえ熱望していた太上天皇尊号拝受が実現した(非登極皇族としては当時の認識では三例め)。

 なお、ウィキペディアでは横井清説に拠って親王は太上天皇尊号宣下を辞退したと書かれている。文安5年(1448222日尊号辞退の報書を提出したのは事実だが、近年では尊号宣下は拝受するのが前提で、形式的に辞退するのが慣例で、内実は尊号の拝受だったとする説により明確に否定されている。。
 

 [久水俊和, 『中世天皇家の作法と律令制の残像』, 2020] [田村航, 「伏見宮貞成親王の尊号宣下後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」, 2018]によるとそれは以下の史実による。

 〇院庁は開庁された。執事(別当)は権大納言三条西公保、、年預に庭田政賢。

〇布衣始(ほうしはじめ)が行われた。これは、天皇の冠姿装束から上皇の烏帽子狩衣姿に移行する儀礼で、いわば天皇退位儀礼なので、非登極で法体だった後崇光院には必要なかったが、変則的な形で強行された。 [近藤好和, 2019]

〇元日の「院拝礼事」が毎年行われた、関白一条兼良、五摂家の近衛教基以下、公家衆より拝賀を受けた。また正月十日の将軍足利義政の院参も恒例行事として行われた。

〇宝徳2年の仙洞歌合と、享徳2年の和歌御会始において上皇たることを示した

〇伏見御所の公事は御所の室礼と扈従公卿の行粧が整えられ、後崇光は繧繝畳に着座し、晴儀で執行され、親王時代と比較して院中の威儀が大いに正された。

 後花園天皇は尊号宣下の時点で29歳で天皇親政、すでに嘉吉の変や、禁闕の変といった危機をくぐり抜けており、先例の後高倉院のように、後堀河天皇が10歳であったため院政をしいた状況とは異なるが、後崇光院は正真正銘の太上天皇であり、例えば大覚寺殿と称された後亀山院は、院庁が開庁されたという史料がなく、名目的な事例といえるかもしれないが、後崇光院は礼式と作法において本格的な太上天皇であった。このことは伏見宮の威信を高めた。

 久水俊和は太上天皇尊号宣下の意義について「‥尊号宣下は、崇光院流の正当かつ正統化への指向を含むものだったが、実態は‥‥伏見宮の礼式・作法の再興が帰結点である。‥‥後花園に崇光院流を継承することはできなかったが、崇光院流は少なくとも傍流ではなかったとの正当化には成功した‥‥」

 伏見宮家が完全なる傍系化を免れ、別格の宮家となった理由とされている。

 後崇光院太上天皇は、最晩年に一条東洞院伏見殿御所に還御されているので、同所を仙洞御所といってよいと思う。

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第6節  伏見宮は近世以降の宮家と比較して格式が断然上

 

(第1章第6節第2項と重複)

 

第1項 中世の皇室領を家領とした由緒、しかも「永代」安堵の勅裁を得ているのは伏見宮だけ

 

 第4代貞常親王は一条東洞院御所を相続し伏見殿御所とし、少なくとも第6代貞敦親王までは陣中の同所を居所としていたことは史料上確認されている(『二水記』 [高橋康夫, 1983])。旧仙洞御所を相続した宮家であるから格式は高い。

 伏見宮家の家領は、播磨国衙領(後嵯峨院の御分国を後深草院が相続した由緒)、萩原宮遺領の室町院領(後高倉院由来の皇室領で伏見院が三方相論のうえ一部を獲得)江州山前荘、塩津荘、今西荘、若州松永荘など、熱田社領(後白河准母上西門院領由来)、伏見御領などである。室町院領については応永23年(1416)に後小松上皇より「永代」安堵の勅裁を得ている(『椿葉記』『看聞日記』 [白根陽子, 2018])。永享8年に足利義教の差配で、新たに「昆布干鮭公事」が伏見宮に付与された。蝦夷地産昆布等の専売権で、年収五百余貫で、宮家の収入の三分の一を占めるほど大きかった [秦野裕介, 2020]

 なお伏見宮には萩原宮遺領を相続した関係で花園院ゆかりの絵巻物も伝わっていた。嘉吉元年には伏見宮家の所領若州狭松永荘(小浜市)の新八幡宮に伝来した「彦火々出見尊絵巻」「伴大納言絵巻」(国宝・出光美術館蔵)「吉備大臣入唐絵巻」(ボストン美術館蔵)を帝に進覧するため借出している(『看聞日記』) [高岸 輝, 2020]

 1415世紀は限嗣単独相続の日本的家制度の成立期といえるが、天皇家も限嗣単独相続となり天正17年(1589)豊臣秀吉の奏請により知行地三千石を得た八条宮智仁親王(後陽成皇弟-後の桂宮)が親王家を創立するまで、天皇家から分出する宮家はなかった。秀吉は諸公家、諸門跡の中世の知行を収公し再給付することより、知行充行権を掌握した [山口和夫, 2017]。徳川幕府は全領主階級を統合し、知行充行権を掌握、公家も幕府より知行を付与される近世的領主となった。高松宮(後の有栖川宮)や閑院宮は幕府が与えられた知行により創立された。

 伏見宮家も幕末期は表向き千二百石、実収は四百石程度の小領主にすぎず、中世のような格式は備えてない。しかし伏見宮というのは皇統上の格別の由緒があり、中世の皇室領を家領として「永代」安堵もされていたのであるから、秀吉や幕府が付与した知行により創立した近世の宮家とは断然違う格式といってよいのである。

 長享元年(1487)閏11月伏見殿御所において宗祇の『伊勢物語』講釈があり、聴講者は伏見宮第5代式部卿邦高親王、常信法親王(勧修寺門跡)、道永法親王(仁和寺脇門跡)、慈運(竹内門跡)、禅僧宗山等貴(万松軒)、以上の四方は竹園連枝(伏見宮当主の実弟)、庭田雅行、今出川公興、三条西実隆、勧修寺経茂、海住山高清、姉小路基綱、綾小路俊量、園基富、田向重治、中院通世、冷泉永宣、五辻富仲.、綾小路有俊、宗巧(五条政仲)

なお一日だけだが、勝仁親王(のちの後柏原天皇)が聴講されている。

 出席者の多くは伏見宮近臣と考えられる。今出川家は清華家で、伏見宮を後見していた。公興女が邦高孝親王妃。、三条西実隆は大臣家、父公保が、伏見宮貞成親王家の勅別当、後崇光院庁の執事。庭田、田向、綾小路は伏見宮家譜代の家司だった。後柏原、伏見宮貞常親王、邦高親王の御生母が庭田家で天皇家と共通する外戚である。

 小規模とはいえ、廷臣を伺候させ、家礼を従えており摂関家と同じ権門だったのである。

 

第2節 応仁文明の乱以降戦国時代の伏見宮家のステイタスは高く、天皇家と非常に親密だった

 

 後崇光院太上天皇は『椿葉記』で天皇家と伏見宮は「相構て水魚のことくおほしめして」と水魚の如く親睦し、将来永く疎隔あるまじきこととしていたが、実際その通りになったことはすごいとことだと思う。

 主として東山時代以降、後土御門、後柏原の宮廷で催行された文芸・遊興的活動等における伏見宮が頻繁に召されているので、列挙する。

 後土御門天皇が出御される遊興的な活動では、儲君たる勝仁親王(のちの後柏原天皇)、二宮、伏見宮家側では伏見宮第5代邦高親王(式部卿贈一品、後土御門猶子)のほか実弟の道長法親王も常信法親王もよく参内している。同じく実弟の禅僧就山永崇(聯輝軒)、宗山等貴(萬松軒)は将軍家猶子で将軍側近でもあったが、竹園連枝の立場で宮中に参仕しているケースが数多く、とくに宗山が社交的で、天皇の無聊を慰める格好の相手だったと考えられている [朝倉尚, 1990]

 後土御門天皇は伏見宮家で養育されたことなどから、崇光院流に親近感を持っていたと考えられている。また後花園と貞常親王の御生母敷政門院は庭田経有女であり、邦高親王御生母も庭田重有女、後柏原御生母も庭田長賢女(贈皇太后)で、庭田家が天皇家と伏見宮共通の外戚という結びつきもあった。伏見宮連枝はそろって和歌・連歌に堪能で文才があり、勝仁親王(後柏原)とも親密な交流があった。

〇連歌

 後土御門は連句文芸を愛好され、禁裏において5種類の御会が33年間に約1500回、崩御の3日前まで連句文芸御会が張行されていた。 [小森崇弘, 2008]が、邦高親王が参加したのは2種類である。

 文明10年(1478)以降の晴の月次連歌会では天皇が常に発句を詠んだ、座衆は、勝仁親王、伏見宮邦高親王、中・下級の公家10数名が恒常的メンバーで、勧修寺流の禁裏小番衆が多く召されている [廣木一人, 2001]

 『椿葉記』に「勧修寺故内府(経顕卿)、光厳院の寵臣にしてありし、其子孫当時中納言経成卿に至まて御心さしを存する人也」と勧修寺家は崇光院流に忠実と評価され、たぶんこの趣旨から勧修寺流が重視される一方、日野一門は極力排除された。

 勝仁親王主催の月次連歌会では、天皇は恒常的に出御、伏見宮邦高親王も定期の連衆だった。勝仁親王に仕えた家司、内衆が参仕し、常信法親王や道永法親王のほか、延徳元年以降法中衆が多くなり禅僧の就山永崇、宗山等貴は頭役も務めた。

 後柏原天皇の治世では連歌会は低調になったが、伏見宮は毎回参加している。曼珠院で永正18年(1521410日催行の和漢連句の出詠者と出句数は以下の以下のとおり [稲田利穂, 1989]

 後柏原天皇11、知仁親王(後奈良)7、伏見宮貞敦親王7、宗山等貴12、宗清(冷泉為広)10、甘露寺元長8、中御門宣秀6、東坊城和長9、冷泉永宣6、高辻章長7、中山康親6、万里小路秀房5、春湖壽信3、庭田重親3

〇和歌

 後土御門天皇の文明年間の点取和歌御会では、邦高親王、道永法親王、常信法親王、両山のほか覚胤入道親王(妙法院門跡)や堯胤法親王(梶井門跡)が詠進している。

 長享3年(14893.5の庚申和歌御会は、皇族だけの内々の会で、天皇、勝仁親王、邦高親王、道永法長、常信法親王、宗山が約60首を詠じている。

 勝仁親王は和歌の稽古に熱心であり伏見宮第6代貞敦親王(後柏原猶子)と竹園連枝は鍛錬を目的した着到和歌に参加している。

 後柏原天皇の「公宴御会」は限られた近臣だけが参会した。詠進は毎月なされるが、参集、披露する御会を年始だけとする持続可能な在り方とし、この行事は現在の皇室でも続いている。伏見宮邦高親王や貞敦親王が主要な出詠者であることはいうまでもない [森田大介, 2020] [山本啓介, 2013]

〇遊興・遊戯等

 後土御門の宮廷では多くの遊興、遊戯が開催された。正楽(雅楽)、申楽(謡、能、曲舞)茶(嗅茶、十種茶)香(香嗅、十種香)、弓(雀小弓、揚弓)、扇合、栗打、類句の校合、囲碁観戦など。講釈活動等も含め、多くの催しに伏見宮当主や連枝が参加している。

 文明9年禁裏持仏堂で弁財天法楽月次を邦高親王主催で催し、勝仁親王もこれに加わった。

 文明10年(1448)の御楽始は天皇の笙、勝仁親王の筝、伏見宮邦高親王の琵琶を筆頭に、22名の演奏で行われた [豊永聡美, 2020]

 禁裏での講釈、例えば文明1210月の一条兼良の江家次第講釈、吉田兼倶の日本書紀講釈などを伏見宮が聴聞されている。

 揚弓は7間半の距離の的を坐って射て勝負する。明応年間に宮中で大流行し、『御湯殿上日記』明応6年(14976.5によれば勝仁親王、二宮、伏見宮、伏見宮連枝が参加している。22名が11名ずつ別れ、天皇と勝仁親王のチームが勝、伏見宮のチームが負と記されている [朝倉尚, 1990]

 延徳元年(14896.4小御所で専門棋士の重阿弥と伊予法橋泰本の囲碁対局があり『実隆公記』によれば「簾中に於て叡覧(後土御門)有り。親王御方(勝仁)・伏見殿(邦高)・連輝軒・万松軒・予‥‥」が観戦したと記されている [増田忠彦, 2013]。囲碁観戦はこれ以外にも記録がある。

 後柏原の宮廷では貝覆を女中衆と男衆で争ったが、『二水記』によれば永正14年(15105.8伏見宮貞敦親王、常信法親王、慈運、宗山が参加しているが男衆が負けてしまい、負態を負った [朝倉尚, 1990]

 後柏原天皇の観桜御宴は毎年恒例となっており、『実隆公記』によれば、永正4年(1507226日召された方々は、中書王(伏見宮貞敦親王)が筆頭で、尼門跡の女性皇族が多く召されている。永正5年(1508)の観桜御宴には37日に中書王(貞敦親王)、10日に式部卿宮(邦高親王)が召されている。また同年 後柏原天皇は邦高親王を召し「毛詩」を講じさせている。

 永正8年(1511 329日の観桜御宴では申楽が催され、宮御方(のちの後奈良)と三宮が御出座された。『実隆公記』によれば召された方々は、中書王(伏見宮貞敦親王)、円満院宮(後土御門皇子)、仁和寺宮(後柏原三宮の覚道か貞常親王息の道永)、大慈光院宮(後土御門皇女)、安善寺宮(後土御門皇女)、大慈院宮(後土御門皇女)、大聖寺新宮(後土御門皇女)、曇花院、三時知恩院御附弟、二位、三位禅尼等、以下公家衆で、三献中書王(伏見宮)御酌、七献天酌とある。

                   

 応仁文明の乱で、朝儀は退転、衰微し、16世紀中葉に皇室の年間収入は室町時代前期の十分の一に激減し、後柏原以降大嘗会も行われなくなったが、朝廷が沈滞したわけではない [酒井信彦, 2002]

 摂関家は次第に伺候しなくなり、朝廷の規模が小さくなった分、伏見宮とその連枝、禁裏小番の内々衆など近臣を参集した文芸、遊興的行事は頻繁に行われており、後土御門は実弟がいないこともあり伏見宮系皇族は宮廷文化の中心的位置にあったといえる。

『実隆公記』永正5年(15088.1条に八朔の進上品が記されている

禁裏(後柏原天皇) 硯・唐墨一廷 十帖

宮御方(皇子知仁のちの後奈良天皇) 金覆輪

伏見殿(邦高親王)金

室町殿(足利義尹)金

 伏見殿と室町殿は進上品も同等で横並びの認識であり、伏見宮のステイタスは高かった。三条西実隆は邦高親王より権跡を下賜され、大永3年(1523)から5年にかけて伏見殿にて源氏物語を講釈するなど伏見殿に伺候することが多かった。゜

 後奈良天皇と伏見宮第6代貞敦親王も親しかった。永正15年(15183.19知仁親王(のち後奈良)はお忍びで源氏物語ゆかりの石山寺に参詣、貞敦親王と竹内門跡が扈従している(『二水記』)。貞敦親王(入道宮)は天文19年(1550)の禁裏における伊勢神宮法楽千句和漢連句御会、天文22年閏正月2.22の禁裏における歓喜天法楽千句和漢連句御会に参会している(『言継卿記』)。いずれも貞敦親王、曼殊院宮と近臣のみの参集である。

 新年の賀詞を述べるために書状を送ること習慣について、16世紀前半には天皇と宮家、門跡との間で賀状を交わす習慣が定着していた。書陵部にある伏見宮旧蔵文書に正親町天皇の返事が伝えられているが、年賀状は郵便制度以降に国民に一般に定着したものだが、伏見宮と天皇が賀状を交わしたことがその起源なのかもしれない。 [末柄豊, 2018]

 

 後崇光院の著書、嫡流たる由緒を語った『椿葉記』があることは伏見宮御一流にとって大きなアドバンテージであるが、後崇光院のいう「水魚の如く」とは切り離せない関係のことだが、本当に500年、600年たっても親しい関係だったというのはすごいことである。今日でも菊栄親睦会があるとのことである。

 サリカ法によりフランスの王位継承法は男系継承であるが、ブルボン朝のアンリ4世は、カペー朝のルイ9世の男系13世孫である、世界にもそのように説明して、皇籍に復帰すれば納得する。ここで旧宮家が復籍すれば『椿葉記』は伝説的名著となりうるである。600近く前のこの著作の由緒を重視すべきというのが私の意見である。

 

〇伏見御寺般舟三昧院

 

 後土御門天皇は文明年間に伏見の指月の地に仏閣を建て「般舟三昧院」の勅額をかけた。伏見宮家の菩提所大光明寺の塔頭のあったところである。このことは後土御門が崇光院流を強く意識していたものと解釈されている。後花園の追善仏事が行われたことにより「御寺」となった。しかし豊臣秀吉は伏見築城のため、宇喜多秀家と豪姫の女を養女としたうえ伏見宮第10代貞清親王の側室とするなど工作したうえ、伏見を接収、このため般舟三昧院は京都西陣に移転したが、歴代天皇の位牌は明治維新以降泉涌寺に移されるまでは般舟三昧院にあった。現在も後花園、後土御門、後奈良の分骨所と後土御門御生母嘉楽門院、後奈良御生母豊楽門院の墓所があるが、寺は競売により現在は別の寺になっている [秦野裕介, YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」, 2020]

 文明14年(1482)後花園院13回忌の御懴法講では後土御門天皇の笙の御所作に、邦高親王が琵琶を合わせた [三島暁子, 2012]

 長享2年(148810月勝仁親王(後柏原)が般舟三昧院の参詣に、伏見宮邦高親王、就山永崇、宗山等貴が扈従 [朝倉尚, 1990]

 後土御門、後柏原、正親町の中陰仏事(四十九日)も伏見御寺般舟三昧院で行われた。後光厳院流系の「御寺」泉涌寺との追善仏事をめぐる主導権争いもみられたが、結局、泉涌寺をしのぐ地位を得られず崇光院流の巻き返しはならなかったとされている [久水俊和, 2020b]

 

 

引用参考文献は2021/07/19意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その一)の文末

 

 

2021/07/22

伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき(その一)補遺1

 これは719日付意見具申「 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その一)」本文の付け足し

http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2021/07/post-8e31a1.html

 これは「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議で議論されている事柄についての筆者の意見の補足である。

 

補遺 第2章第2節第1項

第2 女帝は基本的に皇后権に由来するので、皇統を形成できない

 

補遺1 女帝中継論について

 

 女帝中継ぎ論とは井上光貞によって体系化された通説で、古代の女帝を「皇太后が皇嗣即位の困難なとき、いわば仮に即位したもの」で「権宜の処置」としてとらえ、女帝出現の背景・事情を「中継ぎ」という観点から説明したものであるが [井上光貞, 1985初出は1964]

 佐藤長門が指摘するように井上説は60年近く前のもので今日の研究水準からみて容認できない部分があるにせよ、王位継承上の文脈において「中継ぎ」論を支持してよいと思う [佐藤長門, 2009]

 近年の研究でも桜田真理絵が元正と孝謙は明確に中継ぎだと論じている [桜田真理絵, 2016]

 近世の女帝についても一応言及しておく。

〇明正女帝

 明正女帝のケースは践祚の時点で後水尾上皇に皇子がなく異例だが、官務家小槻孝亮の日記に後水尾天皇譲位の覚書が記載されており、、数年来の疾病が悪化し腫れ物もできており治療に専念したいので譲位したいこと「女一宮に御位あづけられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」 [荒木敏夫, 1999]とあり、実際弟の後光明天皇に譲位されているので、中継ぎである。紫衣事件や、春日局参内事件等、後水尾天皇の幕府への憤りの表明とされるので、父帝に退位する理由があって女帝が即位した特殊な例といえる。

〇後桜町女帝

 最後の女帝、後桜町女帝の即位は、桃園天皇の遺詔により、桃園皇子英仁親王(のちの後桃園)が5歳の幼さであったため、10歳になるまで中継ぎとして、桃園皇姉の緋宮智子内親王が即位した。公家たちの反発が強かったが、親王が13歳になるまで8年間在位した。

 智子内親王は将軍世嗣家治との縁談があったが、父帝桜町天皇が拒否し、非婚独身のままだった。 [久保貴子, 2009]

 幼帝には摂政で対応できるし、後桃園御生母一条兼香女富子も健在であり、皇太后より女院宣下(恭礼門院)されている。准母的な女帝をはさむ必要はなかったが、この時期の歴代天皇が早世が続いたことと、宝暦事件で天皇近臣が追放され、桃園天皇は摂関家と折り合いが悪かったことにより、女帝を中継ぎにはさんだものと考えられる。

 このケースも幼帝が成長するまでの中継ぎなので、太后臨朝型のバリエーションと理解してよい。

(参考文献 高埜利彦「近世の女帝ふたり」『別冊文藝・天皇制』河出書房新社、辻達也「徳川政権確立過程の公武関係」『日本の近世2天皇と将軍』中央公論者1991

 

補遺2 女帝に不婚は強制されないという説への反論

 

 要するに、女帝は皇后の政治的権能に由来し、皇女や内親王は、皇后となりうる身位ゆえ、天子の嫡妻としての皇后は6世紀以降16方、皇女以外の皇親を含めると19方。非婚内親王でも准母皇后が11方おられたし、女帝にもなりえたのだが、皇親女子は配偶者が世にある限り、天皇にはなれない鉄則がある以上、皇位継承順位に内親王等を加えることは困難であり論理性に乏しい。

 しかし令制は明文で女帝が即位後配偶者をもつことを禁止はしていないとする見解が多くの歴史家が指摘しているところである。しかし現実には全て不婚であり、前例がない以上論理性に乏しい。仮にありうるとしても、「夫帝優先の原則」により女帝が天皇より皇后に身位は異動することになると思う

 というのは、『霊異記』に「是れ道鏡法師の皇后と枕を同じくして交通ぐ」(仁藤敦史「皇位継承と宣命」平川・沖森・栄原・山中編『文字と古代日本1』吉川弘文館2004年所収)との表現があり、女帝は皇后とされている。つまり性的関係ないし配偶関係があった場合はもはや天皇ではなく、皇后であるとの認識を示しているからである。

 配偶関係では常に男性が天皇、女性が皇后ということである。

 仁藤敦史は、『女帝の世紀-皇位継承と政争』角川選書2006年、第三章「ミオヤ」と「ワガコ」139~140頁)によると孝謙女帝には聖武天皇の遺言で皇太子とされた道祖王(一品、新田部親王息)は、配偶者として想定されていたするが、阿倍内親王(孝謙・称徳)は21歳で立太子、32歳で即位、道祖王立太子の時点で孝謙女帝は39歳。道祖王が立太子した時点(天平勝宝8年)の年齢については渡辺晃宏(『日本の歴史04巻平城京と木簡の世紀』講談社2001年281頁)は少なくとも40歳としている。年齢的に近いとはいえ、39歳は当時の女性の婚期としては遅いように思う。

 仮に、奇想天外だが、皇太子道祖王が孝謙の配偶者という含みがあったとしても、天皇は道祖王、皇后が孝謙である。天皇が皇后の身位に異動するというべきである。。

 皇位継承候補者の年齢もみていくこととする。天平勝宝9年の道祖王廃太子後の皇嗣策定会議で、召集された貴族から推薦された皇位継承候補者であるが、まず塩焼王(父新田部親王、聖武皇女不破内親王の夫)は当時推定45歳、池田王(父舎人親王)は43歳、船王(父舎人親王)は51歳。これらの候補者を退けて皇太子に立てられた大炊王(のち淳仁天皇-父舎人親王)は25歳(渡辺前掲書282頁)。

 仁藤敦史によると女帝は不婚を強制されていたのではない「即位後(あるいは即位前)における婚姻および出産の可能性」があり「つまり女帝は婚姻により新たな女系を創出できる」と言う。だとするならば15歳年下の大炊王を別にして、塩焼王・道祖王・池田王・船王は阿倍内親王(孝謙)の結婚相手として年齢的には釣り合いがとれており、とっくに結婚しているはず。

 しかし、女帝即位は不婚が前提であるからこそ、立太子された阿倍内親王とこれらの皇親との結婚はなかったというのが常識的な見方である。仁藤説に論理性はない。

2019/05/01

新奇で味気なかった皇位継承儀式その他の感想

 用事で外出していたので退位礼は夜の報ステでみただけだが、国家社会主義者安倍の退位宣告からはじまった退位式は、臣下が君主にクビを宣告する不可解な儀式との感想をもった。あまり良い儀式とはいえない。

 伝統的な皇位継承は、譲位式は内裏の外で行われる。前例では仙洞御所(上皇御所)への行幸(パレード)、そのさい剣璽も伴に移動し、上皇御所で譲位式を行い、入れ替わりで皇太子が内裏へ行啓、剣璽が仙洞御所から内裏に渡御されてから新帝の受禅式という段取りである。今回は譲位ではなくやめさせられる儀式のうえ、きらびやかなバレードもなく寂しい儀式となった。

  高輪の上皇仮御所も改修が終わっていない。オリパラその他よりもこちらに費用をかけるべきだったと私は思う。

 譲位式から受禅式までの一連の流れが皇位継承儀式であるから、今回のように午前0時を皇位継承、改元とするのも疑問とはいえる。光格譲位仁孝受禅は、仁孝天皇の受禅が午前1時とされるので日をまたいでいるが、基本的は1日のうちにすませてよいのであって、また退位の日と、即位の日を分けたのは儀式が間延びした感がいなめず、また剣璽を承継してないのに即位というのも釈然としない。

  また今回は明らかに改元が国家社会主義者安倍によって政治利用された。そもそも元号制定権は朝廷のものであり、今では元号法は政令によるとしているが、慣習を維持するために内閣が制定する制度になったことをいいことに、安倍は「令和」の出典の万葉集は貴人から庶民の歌まで採録され、一億総活躍という政策に合致するなどといい、元号の示す国家理念と自己の政策が一致すると言い。元号制定者としてまるで君主のようにふるまった。

  臣民であるから元号を使用するという趣旨から、天皇が制定するなら元号はありがたいといっていいが、今の天皇に元号制定権は剥奪されている状態で、「令和」という元号をありがたがっている国民は、決定者である安倍を皇帝のようにあがめることになってしまったのである。元号制定権の簒奪は武家の権力者でも容易になしえなかったこと。それを事実上やってのけた安倍は恐ろしい独裁者のように思える

2019/04/30

前例に反する疑問だらけの退位礼

 3/21にも述べたが譲位式は内裏の外で行われるのが通例である。『儀式』ではそうなっているはず。天皇は禁裏御所から仙洞御所へ行幸し、剣璽も伴に移動し、仙洞御所(上皇御所)に遷御された後に譲位式がなされるのが筋。

  ところが今回は皇居正殿を行われるので異例。安倍は上皇御所を造営整備することもせず、伝統的な譲位受禅ではない異例の儀式にしてしまったことから勤王家とはとてもいえない。むしろいじめに近いのに「令和」を決めたのは俺様と威張っているのはちゃんちゃらおかしい。

 もっとも上皇御所でなく内裏紫宸殿で譲位式がなされた例外はある。寛平九年七月三日の宇多譲位醍醐受禅は異例なことに、皇太子の元服加冠の儀と同日にセットされた。清和、陽成の元服は正月であり、七月というのも異例であるが、敦仁親王は当日東宮より内裏清涼殿に入り元服を加えたのち、異例なことに譲位式が紫宸殿で行われた。譲位の詔で新帝の奏請宣行は時平と道真の輔導によれと命令を下すというきわめて特徴的な儀式になった(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館 1986)

  これには政治的な理由がある。『九暦逸文』(藤原師輔)によると皇位継承当日七月三日の夜、皇太夫人班子女王は娘の為子内親王(醍醐の伯母)とともに参内した際、藤原穏子(基経女、13歳醍醐と同年齢)がともに参入してきたので、班子女王の命により宇多上皇が穏子の参入を停めたという。穏子は寝所近くまで進入してきたので、班子女王が弘徽殿で待機状態にあった上皇を呼びだし、上皇御自ら実力阻止行動に出るというドタバタ劇があったようだ。要するに、元服の夜の添臥をめぐって、摂関家を嫌っている宇多御生母班子女王は為子内親王とすることで譲らず、にもかからず藤原氏側は藤原穏子の参内を強行したので、それを阻止する目的など(これ以外にも醍醐養母藤原温子の居所をめぐる政治的駆け引きもあったと考える)で、上皇が内裏にとどまる必要があったという特殊事情である(なお宇多上皇はこの後、八月九日に母后班子女王とともに東院(もしくは洞院)に遷御されている)

  しかし今回はそういう特殊事情はないのに上皇御所で譲位式が行われないのは先例無視も甚だしいということである。

  産経新聞や保守系の論客が退位ではなく譲位と言っているのも疑問。政府は公式的に譲位を認めてないはず。退位と報道している新聞が正確だろう。保守派論客で今回の儀式を批判しているのは中川八洋氏がいるが、譲位受禅でなく退位即位としたこと。伝統を重んじ一日のうちに譲位受禅を終えるようにすべきともっと異議をとなえるべきだった。

   おことばが譲位なのか退位になるのかは儀式をまだ見てないので不明だが、もし「譲位」とされるならば強い天皇と歴史的に評価されると思う。

 ついでに云うと、民間の改元に便乗した商売にけちをつける趣旨ではないが、改元カウントダウンのような大晦日に擬したセレモニーは新奇なもので違和感がある。重大事は皇位継承であって、改元はそれに附随して行われただけだろ。

 なお天皇は行幸だが、院(上皇)は御幸と表現するようだ。これを間違えると恥ずかしいので注意したい。

2009/11/15

小林よしのり「ゴー宣」天皇論追撃篇の感想その1

 発売中の『サピオ』2009年11月25日号(21巻20号)で小林よしのりが男系尊重派を罵倒しているという情報を得て買いましたが、疑問点を挙げます。

まず単純な事実の誤記がある。58頁(引用-赤)

そして男系絶対主義者の言う
「女系」とは「天皇の母親が天皇」
ということだが、
今のところ一例も存在しない。
日本の皇位はこれまで全て「男系」で継承されている

しかし天皇生母が女帝のケースは三例あります。

天智天皇・天武天皇(舒明皇子、生母斉明女帝)

元正女帝(父草壁皇子、生母元明女帝)

なお文武天皇も生母は元明女帝だが、文武崩御の後に生母皇太妃阿閇皇女が即位した。 

 生母が女帝だが、父系で天皇に繋がらない(母方のみ皇室と直接繋がっている)ケースは一例もないというなら、ナンセンスな文章とはいえ一応意味は通じるが、そうは書かれていないので事実に反し意味不明な記述になっている。
 
 飛鳥・奈良時代の先帝皇后等が即位するケースの女帝は、皇親内婚を大前提としており父母ともに皇親であるから、男系継承に変わりないのであって、男系継承という観点で女帝の子が即位するのは問題はなかった。むしろたんに后腹という一点だけで有力な皇位継承候補者だったといえるのではないか。
 もっとも敏達皇子で推古女帝所生である竹田皇子については、早世により皇位継承者とならなかった。崇峻天皇即位時、推古天皇即位時には竹田皇子が未だ成年に達していなかった為即位が見送られた等諸説ある。
 天智天皇がなかなか即位しなかった問題もある。これについては瀧浪貞子(『女性天皇』集英社新書/2004年)の竹田皇子が皇位継承しなかったことと関連して女帝の子皇位継承忌避説がある。なるほど皇極女帝の次は女帝の同母弟の孝徳天皇が即位し、直系の中大兄皇子ではなかったのである。瀧浪説は面白いし、なぜ中大兄皇子がなかなか即位できなかったかの説明にはなるが、通説ではそういう見方はしない。いずれにせよ中大兄皇子をはじめ男系継承という観点ではなんら問題はない。天武皇子で持統女帝所生の草壁皇子は皇位継承予定者だった。岡宮御宇天皇という称号が追贈されている。早世により即位できなかっただけである。
 敏達-推古は異母兄妹婚、舒明-斉明は伯父-姪、天武-持統も伯父-姪、草壁皇子-元明(阿閇皇女)のケースは従兄妹でもあり甥-叔母でもあるといういずれも近親婚である。内親王・女王(二世~四世)つまり皇親女子の皇親内婚(配偶者は親王・王(二世~四世)に限る)は継嗣令王娶親王条で定められている。継嗣令王娶親王条は女帝即位でも男系継承を維持する安全弁として機能していたともいえる。
 なお皇極・斉明女帝は、舒明天皇とは再婚であり、前婚の高向王は用明天皇の孫で、高向王とのあいだに漢皇子(三世王)をもうけている。
 このほか女帝の子としては元明女帝所生である吉備内親王(左大臣長屋王妃)のケースもありますが、すべて皇親であり、男系で天皇と繋がっている。

 母方のみ前王朝と繋がっているケースはイギリスでよくあります。イギリスの場合男系が途絶すると女系をたどって後継者を見つけてきた。例えばヘンリー七世の父方祖父オウエン・チューダーは王太后付納戸係秘書官にすぎなかったが、父であるリッチモッド伯エドマンド・チューダーがエドワード三世の王子だったジョンの曾孫で、サマーセット公の娘マーガレットと結婚し、ヘンリー・チューダーが生まれ、ヘンリー六世と皇太子エドワードが殺害された事によリ即位している。エリザベス一世の後はヘンリー七世の娘マーガレットの曾孫に当たるジャームス一世が即位し、名誉革命でジェームス二世が追放された後は、娘のメアリーと夫君でオランダ人のウィリアム三世の共同統治としたといった具合である。イギリスの場合でも男系が途絶すれば姓が変わるから、プランタジネット朝、チューダー朝、スチュアート朝というように王朝名が変わる訳です。我が国は英国王室とは原理原則が異なることは言うまでもないことであります。

 女系を論じるなら当ブログで再三述べているように、右大臣藤原師輔への醍醐皇女の三方、勤子内親王・雅子内親王(以上母は更衣源周子)・康子内親王(母は太皇太后藤原穏子)降嫁の例を取りあげるのがわかりやすい。
 継嗣令王娶親王条による皇親女子の皇親内婚規則は『日本紀略』延暦十二年(793年)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」により大きく変質することになる(註1)。
 任大臣及び良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて有力貴族との結婚が可能となった。 藤原氏への二世女王降嫁の初例は承和期に式部大輔、蔵人頭、大宰大弐を歴任した藤原衛への恒世親王女の降嫁である。次の事例が藤原基経への人康親王女の降嫁である。嵯峨一世源氏潔姫の藤原良房への降嫁は違法すれすれ。同様の例として、藤原忠平が宇多皇女源順子を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けている。
 しかしながら、藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず村上天皇の勅許により許された。
 師輔は天慶二年に皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同三年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(村上)の室に入れ(安子は皇后となり冷泉・円融生母である)権勢の基礎を築き(註2)、同七年四月成明親王が皇太弟に立てられ、師輔は東宮大夫に転じるが、策士的政治家師輔の裏面工作があったとみてよいだろう。要するに師輔の殊遇は村上にとって立皇太弟の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景にある。
 康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかったというのは有名である。そのため内親王は「御前のきたなさに〔前が汚れている〕」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』)(註3)などと伝えられており公然周知の醜聞だった。このほか平安時代では藤原師氏、源清平、源清蔭、藤原兼家、顕光、教通などが内親王を妻としたため継嗣令王娶親王条は実質守られなくなってしまっている(註4)。もしこれが奈良時代なら違法婚が政権を不安定化させる要因になると思われるが、九世紀末から十世紀に源・藤二氏を頂点とする門閥体制のヒエラルキー的秩序が確立したし、十世紀に季禄の崩壊、位禄の変質があって、多くの皇親を支える財政的基盤がなくなったことも、そうした風潮を促したと考えられる。

 雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光、康子内親王の御子が閑院流藤原氏の祖である太政大臣藤原公季である。為光や公季が太政大臣にまで昇進したのは、母が醍醐皇女しかも内親王であるという尊貴性によるところが大きいと思うが、いかに女系で皇室の近親であっても、父が藤原氏だから、「王」名号を得られないし、皇親となることはありえない。皇親が女系を排除した親族概念で、「親王」「王」名号も女系を排除していることしは自明の事柄であり常識である。
 私は別に小林よしのりが言うように、「男系絶対主義」が「ファナティック」(狂信者との意味か)であるとは考えない。それは常識を守るというだけで、それ自体が中道穏健な思想であるにすぎない。
 女系容認論というのは、母が内親王である藤原為光や、藤原公季のようなケースでも皇位継承権を与えるものであるが、それは全く常識に反するものである。安易に常識を覆し規範的秩序を失った社会は怖い。私は一過性の女子差別撤廃やフェミニズムに迎合して常識的な規範をくずしてしまうのは全く馬鹿げているという認識にもとづいて女系に反対しているだけのことであり、狂信者ではない。

 小林よしのりがこのように馬鹿げた意味不明の見解を述べているのは、同氏の女系容認の見解は神道学者の高森明勅の女系容認説が下敷きになっているためだと考えられる。(『天皇論』の「あとがき」にチェックを高森明勅がお願いしたと書かれており、小林よしのりが高森明勅の紹介で女系容認説の大御所田中卓博士と面会していることなどから、監修者とは言えないとしても両者が協力関係にあることは間違いない)
  つまり高森明勅は『養老令』は双系主義を採用していたとという馬鹿げた主張を保守系論壇誌で発表しているのだ。「女帝の所出が親王としての皇族の地位を認められてゐたのであれば、おのづと女系による皇位継承の可能性もあったことにならう。ならば『養老令』は男系だけでなく、場合によっては女系も機能しうる余地を制度上、公認してゐたことになる。」(「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号)というものであるが、それは継嗣令皇兄弟条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」(註5)の本註〔女帝子亦同。〕「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親王と為よ〈女帝の子も亦同じ〉」の全く勝手に解釈した新奇な説だが、最大の難点は律令の公定注釈である『令義解』の注釈をから全く逸脱していることである。
  義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」つまり女帝子」とは四世王以上との婚姻の結果、生んだ子である。その根拠は下条、継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」である。この意味は諸王は(内)親王を娶ることができる。臣下は五世(女)王を娶ることを許すが、ただ五世女王のみ。五世王は二世(女)王を娶ることができるが、(内)親王を娶ることはあってはならないという皇親女子の皇親内婚規定であり、よって内親王、女王(二世~四世)は臣下への降嫁は違法とするものである。なお、継嗣令皇兄弟条は五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れないとしているのだが、慶雲三年の格制で皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとしたが、延暦十七年に令制に復帰している。
 慶雲三年の格制をとりあげると議論が錯綜するので、ここでは無視すると、そもそも皇親の範囲にない五世女王の即位は想定不可能である。よって令制が緊急避難的に女帝の即位を想定しているとしても、女帝として即位を想定できるのは「内親王」「女王」(二世~四世)名号の皇親女子であり、その配偶者は「親王」「王」(二世~四世)名号の皇親男子しか許されないから、女帝の子は「皇統に属する男系男子」から逸脱するものでは全くない。よって高森明勅の言う「女系も機能しうる余地を制度上、公認してゐた」という説には無理があるし、継嗣令が双系主義などというのは虚構の奇説である。
 実際、奈良時代は王娶親王条の令意がよく守られていた。 今江広道(「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館1983)によると奈良時代に明確に令条に反し皇親女子が臣下に嫁した例としては、藤原仲麻呂の息男久須麻呂と舎人親王系の三世女王加須良女王の結婚だけである。天下の政柄を握った仲麻呂にとっては問題ではなかったのだろうが、違法婚といっても三世女王である。もっとも斉明女帝は宝皇女と申すが令制概念で三世女王にあたる。したがって前例がある以上、令制においては三世女王の即位もありうることになる。しかし斉明女帝は母方も皇親で純血種皇親であること。聖徳太子の世代が即位しなかったため、舒明天皇も二世王であることから三世女王である皇極即位は違和感がない。しかしながら、三世女王でも藤原氏に降嫁した加須良女王の即位は想定できるものでは全くないのである。

  これは私の考えですが、皇位継承の規則性は、徹底した父系規則であり、傍系親も含めた単系(父系)出自系譜、しかもその血縁関係は「皇胤一統」というように生理学的に貫徹し、双系親や姻族をイデオロギー的に擬制することは徹底的に排除されている点が特徴と思いますが、女系を排除した親族概念を宗という。教育勅語の皇祖皇宗の皇宗は単系(父系)出自系譜であることは自明の事柄であると私は思う。ローマ法のアグナチオに類比さるべき概念であり、ただし中国の宗法制度のような外婚制や昭穆制をともなわない。
  実際我が国では、「親王」「王」名号は称しうるのは皇親のみである。 皇親概念は単系(父系)出自の自然血統主義の親族概念なので男系と言っても良い(百済王氏は別)。漢王朝においては帝室一族のみに「王」号を称しうるが、「王」は帝室一族のみならず、外夷の君長にも王号が与えられた。そうしたことで、中国では「王」は皇帝によってあたえられる最高の爵位となり、我が国とは意味が違っている。吉田孝『歴史のなかの天皇』 岩波新書(新赤版987)2006年が唐制との違いに言及している(60頁)。唐制では「王・公・侯・伯・子・男」の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の「王」(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの「王」名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて「王」名号を称するのである。但し、「王」族の急増をもたらした。その結果、「賜姓」による臣籍降下が日常化し、「王」も「姓」の一種とみなされるようになる。」と吉田孝は説明している。いかに高森明勅が継嗣令が双系主義と強弁しても、男系で天皇に繋がらない皇親女子の子が「王」名号を称した例はない。

続く

註1)安田政彦「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』吉川弘文館1998、米田雄介「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』塙書房2004
(註2)角田文衛「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』法蔵館1985、25頁 初出1966
(註3)保立道久『平安王朝』岩波新書469 1996 81頁
(註4)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936「皇親の御婚嫁」名著普及会1982復刊
(註5)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991 209頁、但し初出は1970によると、その意味は天皇(女帝を含む)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とし、そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)とし、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れない。

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