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カテゴリー「皇室典範」の1件の記事

2009/11/15

小林よしのり「ゴー宣」天皇論追撃篇の感想その1

 発売中の『サピオ』2009年11月25日号(21巻20号)で小林よしのりが男系尊重派を罵倒しているという情報を得て買いましたが、疑問点を挙げます。

まず単純な事実の誤記がある。58頁(引用-赤)

そして男系絶対主義者の言う
「女系」とは「天皇の母親が天皇」
ということだが、
今のところ一例も存在しない。
日本の皇位はこれまで全て「男系」で継承されている

しかし天皇生母が女帝のケースは三例あります。

天智天皇・天武天皇(舒明皇子、生母斉明女帝)

元正女帝(父草壁皇子、生母元明女帝)

なお文武天皇も生母は元明女帝だが、文武崩御の後に生母皇太妃阿閇皇女が即位した。 

 生母が女帝だが、父系で天皇に繋がらない(母方のみ皇室と直接繋がっている)ケースは一例もないというなら、ナンセンスな文章とはいえ一応意味は通じるが、そうは書かれていないので事実に反し意味不明な記述になっている。
 
 飛鳥・奈良時代の先帝皇后等が即位するケースの女帝は、皇親内婚を大前提としており父母ともに皇親であるから、男系継承に変わりないのであって、男系継承という観点で女帝の子が即位するのは問題はなかった。むしろたんに后腹という一点だけで有力な皇位継承候補者だったといえるのではないか。
 もっとも敏達皇子で推古女帝所生である竹田皇子については、早世により皇位継承者とならなかった。崇峻天皇即位時、推古天皇即位時には竹田皇子が未だ成年に達していなかった為即位が見送られた等諸説ある。
 天智天皇がなかなか即位しなかった問題もある。これについては瀧浪貞子(『女性天皇』集英社新書/2004年)の竹田皇子が皇位継承しなかったことと関連して女帝の子皇位継承忌避説がある。なるほど皇極女帝の次は女帝の同母弟の孝徳天皇が即位し、直系の中大兄皇子ではなかったのである。瀧浪説は面白いし、なぜ中大兄皇子がなかなか即位できなかったかの説明にはなるが、通説ではそういう見方はしない。いずれにせよ中大兄皇子をはじめ男系継承という観点ではなんら問題はない。天武皇子で持統女帝所生の草壁皇子は皇位継承予定者だった。岡宮御宇天皇という称号が追贈されている。早世により即位できなかっただけである。
 敏達-推古は異母兄妹婚、舒明-斉明は伯父-姪、天武-持統も伯父-姪、草壁皇子-元明(阿閇皇女)のケースは従兄妹でもあり甥-叔母でもあるといういずれも近親婚である。内親王・女王(二世~四世)つまり皇親女子の皇親内婚(配偶者は親王・王(二世~四世)に限る)は継嗣令王娶親王条で定められている。継嗣令王娶親王条は女帝即位でも男系継承を維持する安全弁として機能していたともいえる。
 なお皇極・斉明女帝は、舒明天皇とは再婚であり、前婚の高向王は用明天皇の孫で、高向王とのあいだに漢皇子(三世王)をもうけている。
 このほか女帝の子としては元明女帝所生である吉備内親王(左大臣長屋王妃)のケースもありますが、すべて皇親であり、男系で天皇と繋がっている。

 母方のみ前王朝と繋がっているケースはイギリスでよくあります。イギリスの場合男系が途絶すると女系をたどって後継者を見つけてきた。例えばヘンリー七世の父方祖父オウエン・チューダーは王太后付納戸係秘書官にすぎなかったが、父であるリッチモッド伯エドマンド・チューダーがエドワード三世の王子だったジョンの曾孫で、サマーセット公の娘マーガレットと結婚し、ヘンリー・チューダーが生まれ、ヘンリー六世と皇太子エドワードが殺害された事によリ即位している。エリザベス一世の後はヘンリー七世の娘マーガレットの曾孫に当たるジャームス一世が即位し、名誉革命でジェームス二世が追放された後は、娘のメアリーと夫君でオランダ人のウィリアム三世の共同統治としたといった具合である。イギリスの場合でも男系が途絶すれば姓が変わるから、プランタジネット朝、チューダー朝、スチュアート朝というように王朝名が変わる訳です。我が国は英国王室とは原理原則が異なることは言うまでもないことであります。

 女系を論じるなら当ブログで再三述べているように、右大臣藤原師輔への醍醐皇女の三方、勤子内親王・雅子内親王(以上母は更衣源周子)・康子内親王(母は太皇太后藤原穏子)降嫁の例を取りあげるのがわかりやすい。
 継嗣令王娶親王条による皇親女子の皇親内婚規則は『日本紀略』延暦十二年(793年)九月丙戌の詔「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」により大きく変質することになる(註1)。
 任大臣及び良家の子孫は三世四世の女王を娶ることを許し、特に藤原氏は累代執政の功に依り、二世女王を娶り得るとされ、内親王を除いて有力貴族との結婚が可能となった。 藤原氏への二世女王降嫁の初例は承和期に式部大輔、蔵人頭、大宰大弐を歴任した藤原衛への恒世親王女の降嫁である。次の事例が藤原基経への人康親王女の降嫁である。嵯峨一世源氏潔姫の藤原良房への降嫁は違法すれすれ。同様の例として、藤原忠平が宇多皇女源順子を娶り実頼を儲け、文徳孫の源能有女を娶り、師輔、師氏を儲けている。
 しかしながら、藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず村上天皇の勅許により許された。
 師輔は天慶二年に皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同三年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(村上)の室に入れ(安子は皇后となり冷泉・円融生母である)権勢の基礎を築き(註2)、同七年四月成明親王が皇太弟に立てられ、師輔は東宮大夫に転じるが、策士的政治家師輔の裏面工作があったとみてよいだろう。要するに師輔の殊遇は村上にとって立皇太弟の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景にある。
 康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかったというのは有名である。そのため内親王は「御前のきたなさに〔前が汚れている〕」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』)(註3)などと伝えられており公然周知の醜聞だった。このほか平安時代では藤原師氏、源清平、源清蔭、藤原兼家、顕光、教通などが内親王を妻としたため継嗣令王娶親王条は実質守られなくなってしまっている(註4)。もしこれが奈良時代なら違法婚が政権を不安定化させる要因になると思われるが、九世紀末から十世紀に源・藤二氏を頂点とする門閥体制のヒエラルキー的秩序が確立したし、十世紀に季禄の崩壊、位禄の変質があって、多くの皇親を支える財政的基盤がなくなったことも、そうした風潮を促したと考えられる。

 雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光、康子内親王の御子が閑院流藤原氏の祖である太政大臣藤原公季である。為光や公季が太政大臣にまで昇進したのは、母が醍醐皇女しかも内親王であるという尊貴性によるところが大きいと思うが、いかに女系で皇室の近親であっても、父が藤原氏だから、「王」名号を得られないし、皇親となることはありえない。皇親が女系を排除した親族概念で、「親王」「王」名号も女系を排除していることしは自明の事柄であり常識である。
 私は別に小林よしのりが言うように、「男系絶対主義」が「ファナティック」(狂信者との意味か)であるとは考えない。それは常識を守るというだけで、それ自体が中道穏健な思想であるにすぎない。
 女系容認論というのは、母が内親王である藤原為光や、藤原公季のようなケースでも皇位継承権を与えるものであるが、それは全く常識に反するものである。安易に常識を覆し規範的秩序を失った社会は怖い。私は一過性の女子差別撤廃やフェミニズムに迎合して常識的な規範をくずしてしまうのは全く馬鹿げているという認識にもとづいて女系に反対しているだけのことであり、狂信者ではない。

 小林よしのりがこのように馬鹿げた意味不明の見解を述べているのは、同氏の女系容認の見解は神道学者の高森明勅の女系容認説が下敷きになっているためだと考えられる。(『天皇論』の「あとがき」にチェックを高森明勅がお願いしたと書かれており、小林よしのりが高森明勅の紹介で女系容認説の大御所田中卓博士と面会していることなどから、監修者とは言えないとしても両者が協力関係にあることは間違いない)
  つまり高森明勅は『養老令』は双系主義を採用していたとという馬鹿げた主張を保守系論壇誌で発表しているのだ。「女帝の所出が親王としての皇族の地位を認められてゐたのであれば、おのづと女系による皇位継承の可能性もあったことにならう。ならば『養老令』は男系だけでなく、場合によっては女系も機能しうる余地を制度上、公認してゐたことになる。」(「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号)というものであるが、それは継嗣令皇兄弟条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」(註5)の本註〔女帝子亦同。〕「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親王と為よ〈女帝の子も亦同じ〉」の全く勝手に解釈した新奇な説だが、最大の難点は律令の公定注釈である『令義解』の注釈をから全く逸脱していることである。
  義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」つまり女帝子」とは四世王以上との婚姻の結果、生んだ子である。その根拠は下条、継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」である。この意味は諸王は(内)親王を娶ることができる。臣下は五世(女)王を娶ることを許すが、ただ五世女王のみ。五世王は二世(女)王を娶ることができるが、(内)親王を娶ることはあってはならないという皇親女子の皇親内婚規定であり、よって内親王、女王(二世~四世)は臣下への降嫁は違法とするものである。なお、継嗣令皇兄弟条は五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れないとしているのだが、慶雲三年の格制で皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとしたが、延暦十七年に令制に復帰している。
 慶雲三年の格制をとりあげると議論が錯綜するので、ここでは無視すると、そもそも皇親の範囲にない五世女王の即位は想定不可能である。よって令制が緊急避難的に女帝の即位を想定しているとしても、女帝として即位を想定できるのは「内親王」「女王」(二世~四世)名号の皇親女子であり、その配偶者は「親王」「王」(二世~四世)名号の皇親男子しか許されないから、女帝の子は「皇統に属する男系男子」から逸脱するものでは全くない。よって高森明勅の言う「女系も機能しうる余地を制度上、公認してゐた」という説には無理があるし、継嗣令が双系主義などというのは虚構の奇説である。
 実際、奈良時代は王娶親王条の令意がよく守られていた。 今江広道(「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館1983)によると奈良時代に明確に令条に反し皇親女子が臣下に嫁した例としては、藤原仲麻呂の息男久須麻呂と舎人親王系の三世女王加須良女王の結婚だけである。天下の政柄を握った仲麻呂にとっては問題ではなかったのだろうが、違法婚といっても三世女王である。もっとも斉明女帝は宝皇女と申すが令制概念で三世女王にあたる。したがって前例がある以上、令制においては三世女王の即位もありうることになる。しかし斉明女帝は母方も皇親で純血種皇親であること。聖徳太子の世代が即位しなかったため、舒明天皇も二世王であることから三世女王である皇極即位は違和感がない。しかしながら、三世女王でも藤原氏に降嫁した加須良女王の即位は想定できるものでは全くないのである。

  これは私の考えですが、皇位継承の規則性は、徹底した父系規則であり、傍系親も含めた単系(父系)出自系譜、しかもその血縁関係は「皇胤一統」というように生理学的に貫徹し、双系親や姻族をイデオロギー的に擬制することは徹底的に排除されている点が特徴と思いますが、女系を排除した親族概念を宗という。教育勅語の皇祖皇宗の皇宗は単系(父系)出自系譜であることは自明の事柄であると私は思う。ローマ法のアグナチオに類比さるべき概念であり、ただし中国の宗法制度のような外婚制や昭穆制をともなわない。
  実際我が国では、「親王」「王」名号は称しうるのは皇親のみである。 皇親概念は単系(父系)出自の自然血統主義の親族概念なので男系と言っても良い(百済王氏は別)。漢王朝においては帝室一族のみに「王」号を称しうるが、「王」は帝室一族のみならず、外夷の君長にも王号が与えられた。そうしたことで、中国では「王」は皇帝によってあたえられる最高の爵位となり、我が国とは意味が違っている。吉田孝『歴史のなかの天皇』 岩波新書(新赤版987)2006年が唐制との違いに言及している(60頁)。唐制では「王・公・侯・伯・子・男」の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の「王」(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの「王」名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて「王」名号を称するのである。但し、「王」族の急増をもたらした。その結果、「賜姓」による臣籍降下が日常化し、「王」も「姓」の一種とみなされるようになる。」と吉田孝は説明している。いかに高森明勅が継嗣令が双系主義と強弁しても、男系で天皇に繋がらない皇親女子の子が「王」名号を称した例はない。

続く

註1)安田政彦「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』吉川弘文館1998、米田雄介「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』塙書房2004
(註2)角田文衛「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第六巻平安人物志下』法蔵館1985、25頁 初出1966
(註3)保立道久『平安王朝』岩波新書469 1996 81頁
(註4)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936「皇親の御婚嫁」名著普及会1982復刊
(註5)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991 209頁、但し初出は1970によると、その意味は天皇(女帝を含む)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とし、そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)とし、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れない。

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