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2025/10/27

PDF版 天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議に関する懸念について意見具申

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天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議に関する懸念について意見具申

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                                                                    令和 7 年 10 月29日

 

国会議員へ

 

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議に関する懸念について意見具申

 

                                 川西正彦 (元都水道局職員65歳・都立園芸高校園芸科卒)

             

 取るに足りない者が恐る恐る謹んで上申します。軽輩でありながら不躾にも長文を送り付ける無礼をお許し願います。大詰めですが、本件は、たんに国制の根幹にかかわるだけでなく、皇室が模範的存在である以上、国民の家族倫理にかかわる事柄ゆえであります。この意見書は一部の国会議員に4月末に出した内容を修正したものです。取りまとめの方向性に批判的な内容ですが、ご笑覧いただければ幸甚に存じます。

 

要旨(要望および国会協議の論点批判)

 

  • 一 ①案を恒久的制度としないこと。皇室典範 12 条は絶対改正しない
  • 二 ①案の主たる目的は、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員等を担う皇族を確保するため 、当面の皇族減少期の特例として実施すること。 
  • 三 ①案の配偶者や御子息の身分について、旧皇族なら②案の現存宮家の養子として、即独立生計の皇族待遇とし、内親王や女王が嫁す先例どおりとすること。(4月24日自民党の提案を実施する場合は、旧皇族を養子として復籍させたうえ、女性皇族が新宮家に嫁する先例通りにすべき)
  • 四 ①案実施にあたり、御用地に居邸を造営することに反対。内親王降嫁の先例は夫方居住である。
  • 五 ①案実施にあたり、納采の儀、入第の儀等、嫁取(嫁入)婚儀礼の形式を変えないこと。
  • 六 ①案実施にあたり、女性皇族の墓所は婚家の廟所とすること(17・18 世紀の前例は全て婚家の廟所)
  • 七 女性皇族の配偶者・子息の准皇族化(維新の提案)に反対
  • 八 後宇多上皇の猶子として順徳曽孫源忠房が親王宣下を受けており、養子となって皇籍に復帰した先例はある
  • 九 養子案について天皇との血縁の疎隔・親等は全く問題にしなくてよい

   補遺 女性宮家の前例とされる淑子内親王の桂宮相続をどう評価すべきか

(註①案内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する②案皇統に属する男系男子を皇族の養子とする③案皇統に属する男系男子を法律により皇族とすること)

 

 令和3年12月有識者会議報告には強い不信感をもっている。内閣官房参与の山崎重孝の以下の7年2月17日の国会協議の答弁で、法制的には宮家という言葉はないとして、宮家という言葉は使わない。実質的に①案が女性宮家であると言っています。宮家について議論しろと言っているのに、法制的にはないからと一蹴し、憲法24条などの結婚観で皇室の結婚を制度設計してしまっていることに危惧がある。

 「附帯決議に女性宮家という言葉がありましたので‥‥、宮家というものが法的にどういう位置付けになるのかという議論から始めたわけでございます。ところが、現行の民法も、それから皇室典範も、家という制度を取っておりません。家ということを前提にせずに、両性の平等の中で婚姻が行われていく、そのお二方の協力義務によって婚姻関係というのは継続していくという宮内庁とも議論をしまして、宮家というのは‥‥独立の生計を営む皇族の方に天皇陛下からその呼称を賜る、宮号を賜るというようなものであって、法的な位置付けはない‥‥そうすると、婚姻をされても内親王、女王の身分といいますか、ポジションを保持されることというのが女性宮家ということの本質なんではないか‥‥。ただ、法制的には宮家という言葉はありませんので、この報告書では、宮家という言葉を使わずに、内親王、女王様がその婚姻後も身分を保持されるということで議論を進めてまいりました。」

 しかし「宮家」「家」という離接単位はリアルに存在しており、「家」を無視すると婚入配偶者としての親王妃、王妃、婚出する内親王、女王という婚姻の実質についての議論ができなくなる。社会の慣習は、婚入配偶者は、嫁であれ婿であれ婚家に帰属し、生家を離れる。死後も婚家の仏となって末代まで供養されるというもので、皇室であれ旧華族であれ基本的なパターンは同じです。

 法制上ないことになっているから「宮家」「家」は捨象した議論という点で大きな欠陥があるのです。

 実際明治皇室典範 39 条では「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」と皇族の婚嫁の規定があり[i]、嫁入婚を前提としたものであり、この条文がなくなっても婚嫁としての婚姻の実態に違いがあるわけではない。

 実質①案が女性宮家だと山崎は言っている。それなのに女性宮家に反対していた日本会議系議員の多い自民党でも、実質女性宮家を安易に是認してしまっている。むろん自民党案は配偶者や子息を皇族とはしないと言っても、御用地内の居邸も可能という山崎重孝の答弁も安易に是認している(417日の森山幹事長の発言)。

 そもそも有識者会議は①案には前例があるとして、事務局調査資料では醍醐皇女勤子内親王以下六方を例示し、皇室の伝統と整合性があると言っているが、六例はすべて違法婚である。継嗣令王娶親王条で内親王が臣下と結婚できないルールは一貫しており、10世紀の右大臣藤原師輔は、内裏で内親王三方と密通、事後的に勅許されたとはいえ、反律令行為でありとくに康子内親王との結婚は村上天皇の天気を害し、左大臣実頼などは批判的だった[保立道久 1996][米田雄介 2004]。令制が想定していない婚姻を皇室の伝統と言う詭弁がある。

 御用地内に居邸を造営するとなると、有識者会議事務局が前例だと言っている事例は夫方居住なので前例に従うものでもないので著しく矛盾する。

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 有識者会議は内親王、女王の婚姻について伝統を無視し両性の平等の中で婚姻が行われていくという現代的な価値観で、安易に皇族女性の結婚を制度設計してしまっている。

 私個人の意見は、有識者会議の案女性皇族(内親王・女王)が皇族以外と結婚しても皇族の身位を失わず保持する案は、皇室制度を破壊するので反対、皇統に属する男子直接復帰の一択、の皇統に属する男子の養子案は現存宮家が養嗣子を望む場合の次善策という評価である。

  有識者会議事務局資料31130日配布は案を恒久的制度としたいとしている点で悪意がある。案に好意的な自民党案にも反対。男系さえ維持できれば良いというものでは全くない。

  最善策は案の一択。後崇光院太上天皇の親王時代の著書『椿葉記』にある伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒(崇光院流=伏見宮が正統という由緒が記されている)、後小松上皇(室町院領について応永 23 1416 に永代安堵の勅裁を得ている [白根陽子, 2018] これは史実)、後花園天皇(康正2年 1456「永世伏見殿御所」号勅許の所伝-複数の史料がなく裏付けなし)の叡慮により永代存続が約され、天皇と血縁が離れても、ステイタス が劣化することのない別格の宮家(准天皇家)、完全な傍流化が回避され、 550 年、天皇家と併存してきた歴史的経緯、意義を重んじ、宮号の再興、旧皇族の復籍をコンセプトとすべきであるとの見解である。 

  特に反対なのは有識者会議の事務局が、案実施のため皇室典範 12 条「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは皇族の身分を離れる」を改正し、特例ではなく恒久的な制度とする方針を打ち出していた。皇室典範 12 条の改正は制度の大きな変革になり恒久的制度とすることは強く反対する。 

  有識者会議は案皇統に属する男子を養子とする案と併行もしくは案を先行して実施することをにじませているが、案は破棄すべきというのが私自身の意見であります。

 

 ただし、生涯非婚内親王については、女院宣下や非婚内親王の准母立后(11 例)として厚遇された歴史があり、院庁や附属職司、家礼を従えていた。たんに内親王であっても、例えば後鳥羽皇女昇子内親王は当歳(満 0 歳)で内親王宣下され、政所家司として職事、家司、蔵人、侍者 、御監 、庁年預 が補任され、家礼を従える身分である。また御給(年官年爵)という、毎年一定数の官職や位階を与えるべき者を推薦し、その任料・叙料を推薦者の所得とした制度もあった。しかし皇室領の実効知行地が大きく減少した室町・戦国時代は皇女のすべてが入寺得度し尼門跡(比丘尼御所)となったが、門跡領は広義の皇室領で幕府が保護していたので寺領経営体のトップとして相応の収入があった。 例えば後土御門皇女渓山が住持の大慈院の永正 7 年(1510)~14 年(15177 年間の主な収入が 1867 貫7文[菅原正子(2002)]で、現代の貨幣価値に換算して 2 億円近くしかも黒字で、つまり年収 3 千万円弱の住持が皇女のポストであった。

  このように、生涯非婚内親王が厚遇されていた歴史的経緯をふまえ、内親王(女王であっても)が皇族の身位で残っていただくために、生涯非婚を前提として独立居邸、家政機関を附置する宮家があってもよく、これは皇室典範を改正することもなくできることなのでの代替案である。実際9月30日皇室経済会議で彬子女王殿下は独立の生計を営む女王とされ、三笠宮家の当主となったと報道されております。 皇室経済法第六条三項五号によれば女王も当主となることが想定されていたことではあったが、未婚女性皇族が宮家当主となったのは江戸時代以来との報道ですが、前例仁孝皇女淑子内親王の桂宮相続の経緯は文末で述べる。

  しかしながら、案はほぼすべての政党が、賛成していること。案は合意を得ていないが、多くの政党が支持していることから、 とりまとめは、の併行もしくは先行実施の可能性が強い状況になってきた。 私としてはきわめて遺憾だが、意見を改め、①、②の併行もしくは①先行実施を積極的には是認しないが、ここまで議論が進んできた以上、受け容れたうえで、よりましな制度設計を要望するとともに、国会での協議で出てきた見解で疑問点を以下のとおり、上申するものである。

 

一  ①案を恒久的制度としないこと。皇室典範 12 条は絶対改正すべきでない

 皇室典範 12 条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)は、明治 22 年皇室典範 44 条と同趣旨で、旧典範を継受したものである。 

 帝国憲法皇室典範義解によれば旧皇室典範 44 条の趣旨は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス」とされ婚出した女子(出嫁女)は夫の身分に従うゆえ、皇族の列から離れるとしている。 

 つまり夫婦同一身分、婚入配偶者(嫁・婿)の婚家帰属、死後は婚家の仏となるという、侯爵夫人なら、夫に従って侯爵家の成員、公爵夫人なら公爵家の成員というように我国の常識的な家族慣行に即した合理的な判断をとっているのである。 

 にもかかわらず有識者会議は、表向き女性皇族を皇室に留める方策として旧皇室典範 44 条の趣旨を顧みることもなく、それを継受した皇室典範 12 条を安易に棄て去る判断をとっていることは大きな過ちである。

 この点については、有識者会議や事務局が現行の民法も、それから皇室典範も、家という制度を取っていないので婚嫁、婚入配偶者としての嫁。婿、家の成員の帰属変更としての日本社会の家族慣行としての婚姻の結婚の意義を全く無視、捨象した議論になってしまっている。

 例えば昭和18年に昭和天皇長女の成子内親王は、東久邇宮盛厚王と結婚し、王妃内親王となったわけですが、この場合東久邇宮家に嫁したのであって、皇族どうしの変更でも、婚家への帰属変更というものがある。

 「宮家」は「家」は法制上のものではないか無視してよいので、皇室典範12条はいらないものとするというのは到底納得のいくものではない。

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 戦後の皇族女子の婚姻がすべて臣下、皇族以外だが、皇女内親王については歴史的には例外的事象であり、内親王と臣下との婚姻は10世紀と17世紀と20世紀後半以降以外はほとんどみられない事象なのである。令制(継嗣令王娶親王条)において内親王は皇族と結婚するのが大原則だが、17世紀末期以降の以下の9例は原則どおりといえる事例。この場合、欣子内親王を除いて天皇家から離れて世襲親王家や新宮家等への嫁入婚(嫁娶婚)なのであって、皇族女子が結婚した場合、皇后、親王妃、王妃以外は皇族の身分から離脱する皇室典範12条を破棄するのは皇室制度の重大な変更で看過できない問題なのである。

 

(元禄11年~昭和18年の内親王の皇族内婚9例)

 元禄 11 年(1698)霊元皇女 綾宮 福子内親王 伏見宮邦永親王妃、宝永 7 年(1710)東山皇女 姫宮 秋子内親王 伏見宮貞健親王妃、寛延 2 年(1749)、中御門皇女 籌宮 成子内親王 閑院宮典仁親王(慶光天皇)妃、寛政6年(1794)後桃園皇女欣子内親王 光格后、明治 41 年(1908)、明治皇女 常宮 昌子内親王 竹田宮恒久王妃、明治 41 年(1908)明治皇女 周宮 房子内親王 北白川宮成久王妃、明治 43 年(1910)明治皇女 富美宮 允子内親王 朝香宮鳩彦王妃、大正 5 年(1915)  明治皇女   泰宮 聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃  、昭和 18 年(1943)昭和皇女 照宮 成子内親王 東久邇宮盛厚王妃。

 

 むろん離接単位としての「家」制度は戦後否定され、限嗣単独相続より分割相続、戸主の統制、長男の威信は喪失したとされるが、しかしながら慣習としての「家」、家長と主婦の連鎖で永続する「家」が我が国の家族慣行、社会構造として現に存在し、社会人類学の大御所清水昭俊は60年代のフィールドワークに基づいて日本の「家」を分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的と定義している。家督相続も慣行として存在し、結納、白無垢、色直しといった嫁入婚の習俗も失われていない。世界的にファミリー企業の平均寿命は 24 年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜 2010 ]。老舗企業が健在なのは家職を継承する「家」制度が社会構造であるためである。

 皇室でも納采の儀と入第の儀は嫁取婚に相当する儀式である。「民法の父」明治民法起草者梅謙次郎は夫婦同氏制度の立法趣旨の一つに妻が夫家に入ることが家族慣行を挙げている。

 有識者会議事務局は本質的に左翼体質だから12 条改変を主張していると考えている。この目論見は、男女いかんにかかわらず初生子が王位継承者になる北欧・西欧の王室の制度に容易に転化できるためである。マルキストのいう古典的一夫一婦制の止揚、ジェンダー差別を廃し家父長制を敵視する共産主義者の意向に沿ったものとなるからである。

 ここさえ一点突破すれば、男女共系へ移行は先送りでも左翼陣営の大勝利といえる。

 清水昭俊によれば、日本的「家」とは家連続者一名(跡継ぎ、実子長男が通例だが、家付き娘、非血縁養子の場合もある)だけが家に残り、婚入配偶者(主婦予定者としての嫁、家長予定者としての婿)を迎えて「家」を継承する。その他の家成員は婚出、養出、分家設立により生家から離れるのが、日本の「家」のルールである。個人が帰属する家は一つ 、両属はありえない[清水昭俊1970,1972,1973] 

 むろん令制の「天皇家」は少なくとも戦国時代まで嫡妻は確立していなかったし、宮門跡、尼門跡という天皇の諮問に答えることで国政にも参与しうる生涯独身のポストが用意されていることは、一般の「家」とは違うが、天皇家も少なくとも 14 世紀以降「家」制度的な家督相続の性格となっている。

 分割相続から嫡子単独(限嗣)相続に移行した日本的「家」は 1415 世紀に成立した。 

 皇室も 14 世紀の後光厳天皇より、嫡子(限嗣)単独相続で、猶子という親子関係の擬制により日本的家制度の直系継承となった(伏見宮出身の三世王後花園天皇は後小松天皇の猶子、閑院宮出身の三世王光格天皇は後桃園天皇の養子なので皇統転換はしていない建前)であり、幕末まで儲君以外の皇子は宮門跡として入室し法親王となり、儲弐以外在俗でありうるのは世襲親王家が空主となったケースのみが通例である。

 皇室が限嗣単独相続となった経緯は、後光厳は相続した所領が乏しく、後小松は崇光院崩後、伏見宮から持明院統の基幹所領を没収したことなどから、禁裏御料の収入が 15 世紀中葉に現金換算で年収 7 5千万円程度あったが[久水俊和 2021]、実効知行地の減少から分割できる余裕などないこと。猶子が貴族武家社会で実質的意味を有していたこと。猶子による万歳継帝を望み、実系の伏見宮への皇統転換を否定した後小松院の遺詔に猶子の後花園が忠実だったことによる。

 室町以降の皇女には独自の知行はなく、それゆえ室町戦国時代は十代前半で寺領経営体のトップとなる尼門跡となった。17 世紀になると皇女が増加し、尼門跡のポストが不足したことから、摂家への降嫁(後述するように嫁取婚)、17 世紀末からは霊元上皇の復古政策で世襲親王家に嫁する皇族との結婚がみられる。

 後光明 天皇に皇子がなく、異母実弟の高貴宮を養嗣子とした。男子がない場合養嗣子をとるという家制度的な家督相続がなされているのであり、皇室典範 12 条は家族慣行に沿って妥当な立法趣旨があるのでこれを改変することは、たんに皇室の問題でなく、皇室が国民に慕われる存在ゆえ、国民の家族慣行に与える影響が大きく、いかに皇族数を確保する理由であるとしても反対である。 

 私が旧皇室典範 44 条義解「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ」とは、出嫁女の婚家帰属性を意味していると解釈しているのは、明治 8 年内務省「夫婦同氏」案の趣旨と合致するからである。

 明治8年 11 月9日妻の氏について未だに成例がないために内務省は、腹案を示しつつ伺出を太政官に提出している。

「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候ヘ共、右ハ未タ成例コレナキ事項ニ付決シ兼候ニ付、仰上裁候‥‥[廣瀬隆司(1985)][近藤佳代子(2015)]

 夫ノ身分ニ従フ筈ノモノという文面からみて皇室典範義解と内務省の夫婦同氏腹案の趣旨は同じである。

 要するに内務省案は、華士族平民いずれであれ、婦女は他の家に婚嫁した後は、夫の身分に従うはずのもの。婚家に帰属するのであるから、夫家の苗字を終身称するのが穏当というものである。

 夫の身分に従うというのは、夫婦同一身分、嫁取婚(嫁入婚)、大化元年の男女の法に遡ることができる父系帰属主義といずれの見方も可能であるが、我が国の家族慣行の常識である。

 江戸時代の婦人道徳の教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』貝原益軒)とあり、1 世紀の白虎通を典拠として、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、婦人道徳の規範であり[柴桂子(2004)]。それは歴史的に一貫した道徳なのである。

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 中国の宗法においても出嫁女は夫の宗に属するので朝鮮・韓国の門中も含めて、東アジア共通の古くからの文化ともいえるのでその意味は深い。

 このことは、同戸異姓の禁止、氏を統一した明治政府の政策とも合致している。実際今日においても夫婦同氏の 96%が夫家姓であるのも、日本が準父系の社会構造であることを示す。

 つまり日本的家族慣行に合致させた意義といえる。それを否定し、婦人は婚家を継ぐものという伝統的婦人道徳を粉砕してしまう危険性の強い提案が有識者会議事務局の皇室典範 12 条改正提案である。このようなリスクのある提案は断乎回避すべき。

 男系継承さえ守ればよいなどというものではない。皇室典範12条を守らなければ保守主義の敗北である。

 ところで、4 17 日の国会協議では、恒久的制度を前提として、現在の女性皇族の方々は、紀宮清子内親王や、眞子内親王と同様、従前どおり一般国民と結婚後、皇族から離脱する選択肢を残すべきとの大勢だという。それならば、そちらを特例とせず、皇室典範 12 条は維持したうえ、皇族以外と結婚後も身位を維持するのは、皇族減少期の当面の特例として実施すべきというのが私の提案である。

 

 

二  ①案の主たる目的は、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員等を担う皇族を確保するため 、当面の皇族減少期の特例として実施すること

 

 皇室典範12条の改変は皇室制度の破壊となるゆえ反対。ゆえに①案を恒常的制度とすることに反対である。しかし皇室を維持するために摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員を担う皇族は最低必要という有識者会議の見解は、それ自体説得力はあるので、その限りにおいて、当面①案を実施するものとすべき。案の配偶者や御子息を皇族とするか、女性皇族を皇位継承者とするかという議論は、悠仁親王殿下が結婚する時期まで先送りするというのが有識者会議の見解であり、私も先送りで良いと思うが、一方立憲民主党の野田代表のように先送りせず、皇室会議で皇族の身分を付与できるとすべきとの提案もある。

 

 一番懸念しているのが①案の恒久制度化であるため、皇室典範12条を改変しない確約があり、かつ②案も確実に実施していくということなら、当面(長期であってもよい)の措置として野田代表提案に乗っても悪い展開とはいえないとさえ思う。

 

 国会協議で立憲民主党が②養子案の実施に期限を設けるべきとする議論がある。期限を設けていいと思う。しかし①案もそれとの見合いで当面の特例措置でいいはず。②案は期限を設けても万一芳しくない状況でも再開は可能である、しかし皇室典範12条を改変してしまうと戻せない。

 

 この議論は悠仁親王殿下のお妃選びと男子が誕生するか、②案実施により順調に男子が誕生するかが鍵になってくるが、伏見宮系皇族は初代栄仁親王(観応 2 1351 生、応安元年 1358 親王宣下、応永 23 1416 薨)から 26 代博明王まで 600 年近く実系が途絶えることもなく皇族の崇班を継承し(16 代薨後空主となり、桃園皇子17 代貞行親王が継承いったん血筋は中切れになったが、親王は早世され、『椿葉記』の由緒、持明院統の正統を自認、仙洞御文庫や仙洞御所を相続し、琵琶の秘曲伝授など正統の流儀を継承してきた矜持から実系維持を望む伏見宮家の嘆願で、邦忠親王の弟の勸修寺門跡寛寶法親王が還俗し 18 代邦頼親王となる[武部敏夫 1960]700 年近く実系で続いていて、異なる家筋から養子をとらずに続いているのは貴重な家系といえる。

 五摂家は、近世初期の段階で二条晴良の子孫だけが残り(当時の鷹司、九条、二条家)、四家の実系は途絶した[木村修二 1994]。公家は養子相続が多く、江戸時代の四世襲親王家も三家の実系は途絶したことと比較して、伏見宮系旧皇族の御子孫は実績からみて男子が誕生する確率が高いのではないか。

 皇族女子の配偶者や御子息が皇位継承者たりうるか現段階では不透明なのに、すべての女性皇族を皇族以外と結婚しても身位を保持し、恒久的制度としたうえ御用地内に居邸も可能としているのは、そちらにリソースをとられてしまうので②案実施の負担になるという意味でも反対だ。

 

 

三  ①案の配偶者や御子息の身分については、旧皇族なら②案の現存宮家の養子として、即独立生計の皇族待遇とし、内親王や女王が嫁す先例どおりとすること

(4月24日自民党の新案を実施する場合は、旧皇族を養子として復籍させたうえ、女性皇族が新宮家に嫁す先例通りにすべき)

 

  424日自民党と立憲民主党の非公式協議での新案について

 天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議は、417日の会議で議論を打ち切り、衆参両院正副議長がとりまとめ案を提示する段階に入ってから424日に自民党の麻生太郎最高顧問と立憲民主党の野田佳彦代表が会談し、女性皇族が結婚しても皇族の身分を保持する案につき自民党は、女性皇族の相手が旧皇族御子孫なら、皇族とする新しい案を提示し、野田氏は女性皇族の配偶者と子に皇族の身分を付与するかどうかについて、皇室会議で判断する案で応答した、この折衷案について麻生氏は持ち帰り、今後断続的協議が行われたが、まとまらず、先送りとなっているが、新案について意見を述べる。

 

(一)自民党 麻生氏提示の新案について

 自民党は②案皇統に属する男子を養子とする案については、自民党は養子には皇位継承資格は付与せず、後に生まれた男子から皇位継承資格を付与する案だが、①案は女性皇族が結婚しても皇族の身分を保持する案は認めるが、配偶者や子は皇族身分を有せず一般国民としての権利・義務を保持し続けるとしているが、立憲民主党との妥協案として自民党麻生氏は、424日非公式に立憲民主党首野田氏と会談し、①案女性皇族の配偶者が旧皇族御子孫なら、男系男子なので皇族とする案を提示したとされる。

 週刊誌で、敬宮愛子内親王殿下のお相手候補として旧宮家のK家御子孫が取り上げられる報道は何回かあった。その場合は、有識者会議の①案ではなく、②の養子案のバリエーションとするのが筋であると思う。

 つまり、結婚相手とされる方は、②案を前提とすれば即養子となり現存宮家の承継予定者となり、独立生計の皇族としてそこに内親王が嫁す。この場合結婚相手は皇族待遇で宮号も称するが、自民党原案に従えば皇位継承資格は付与されず、生まれた男子から皇位継承資格を有するということである。この場合内親王は内廷皇族から外れることになるが、それこそが先例である。

 女性当主の宮家は寡婦か独身であり、夫婦の場合は必ず男性皇族が当主となるのが先例で例外はないので、あくまでも皇族待遇の旧皇族に嫁するという②養子案の中に取り込むパターンとすべきである。山崎重孝は制度上宮家はないとしているのでこういう発想はないかもしれないが、以下のとおり内親王が世襲親王家や旧11宮家のうち4宮家に婚嫁し親王妃内親王、王妃内親王となる。それが先例である。

世襲親王家に婚嫁した内親王

 霊元皇女 綾宮 福子内親王 伏見宮邦永親王妃 元禄11年1698

 東山皇女 姫宮 秋子内親王 伏見宮(さだ)(たけ)親王妃 宝永7年1710

 中御門皇女 籌宮(かずのみや) 成子(ふさこ)内親王 閑院宮典仁親王妃 光格実父として明治時代に追諡された慶光(きょうこう)天皇の妃 寛延21749

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 明治皇室典範制定後に宮家に婚嫁した内親王

明治天皇第6皇女 常宮    昌子内親王 竹田宮恒久王妃 明治41年1908

明治天皇第7皇女 周宮(かねのみや)   房子内親王 北白川宮成久(なるひさ)王妃 明治42年1909

明治天皇第8皇女 富美宮 允子(のぶこ)内親王 朝香宮(やすひこ)王妃 明治43年1910

明治天皇第9皇女  泰宮(やすのみや)   聡子(としこ)内親王 東久邇宮稔彦王妃  大正5年1915

昭和天皇長女   照宮  成子(しげこ)内親王 東久邇宮盛厚(もりひろ)王妃 昭和18年1943

 竹田宮、朝香宮、東久邇宮は内親王を迎えるために新たに宮家を立てたのだからそれと同じことをなすべきであるということです。先例どおりとするのが、一番おさまりがよいというのが私の意見である。

 ところが事務局は民法上も皇室典範でも 「家」は制度上ないとして、先例に沿った議論を好まないのである。戦後「家」制度は法的にはないから考えなくてよいなどというのは暴言です。

 あくまでも①案は、有識者会議によれば令制での前例があるから実施するということなのだから、前例を踏襲すべきである。なお内親王が天皇家から婚出しないで結婚した前例は、後桃園皇女欣子(よしこ)内親王のように皇后に立てられるケースである。22歳で早世されたが、後桃園天皇の唯一の子女です。

 閑院宮典仁親王の第六王子祐宮(さちのみや)(東山三世王)を公卿会議をへて皇位継承者とした。安永8118日(17791215日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)とウィキペディアには書かれていますが、後桃園天皇の女御藤原(近衛)維子(これこ)の養子ないし猶子とされる場合もあります。そのため前頁の系図では養子で継承した形で直系にしています。

 江戸時代中期より、武家においては生母よりも、嫡妻の権限が上昇しており、当時の認識では皇后ではないが嫡妻格の近衛維子の養子であれば、直系継承の継嗣として正当化されるものと考える。

 この前例が踏襲できるのは敬宮愛子内親王殿下が悠仁親王殿下と結婚される場合です。父方いとこ婚としては10世紀の冷泉天皇と昌子内親王があります。平安時代に伯父-姪(淳和-正子内親王)、甥-伯母(醍醐-為子内親王)、異母兄妹婚(平城-朝原内親王)とか近親婚は結構ありますから全然問題ないです。その場合、直系継承とするため、悠仁親王殿下を今上陛下の養子とすれば、前例どおりとなります。

 ということで自民党新案が養子案のバリエーションとして制度設計するなら反対はしませんが、今の事務局ではとても不安です。

 

(二)立民党野田代表の提案について

 次に野田代表の提案、女性皇族の配偶者と子に皇族の身分を付与するかどうかについて、皇室会議で判断する案ですが、これは内規として 11宮家の御子孫なら皇族に、それ以外なら皇族にしないという前提なのでしょうか。それともその時々の皇室会議構成員の良識で判断するということなのでしょうか。

 もし内規なしにやると次のようなケースの判断が問題になります。皇族の臣籍降下を可能にした明治40年皇室典範増補第一条により、大正9年以降昭和18年まで次男以下の王で12方が情願によって家名を賜り臣籍降下し華族に列した、私はこの時期に臣籍降下した以下の家系の御子孫の方々も復帰の対象にしてよいと思いますが、これまでの国会協議では大正9年まで遡る合意形成はされていないように思う。この場合は、華頂宮家も含め12宮家の御子孫になるからです。

 大正9年 山階宮菊麿王次男 芳麿王→山階侯爵 、大正12年 久邇宮邦彦王次男 邦久王→久邇侯爵 、大正15年 伏見宮博恭王三男 博信王→華頂侯爵、 昭和3年 山階宮菊麿王三男 藤麿王→筑波侯爵 、昭和3年 山階宮菊麿王四男 萩麿王→鹿島伯爵、 昭和4年 山階宮菊麿王五男 茂麿王→葛城伯爵、 昭和6年 久邇宮邦彦王三男 邦英王→東伏見伯爵、 昭和11年 朝香宮鳩彦王次男 正彦王→音羽侯爵、 昭和11年 伏見宮博恭王四男 博英王→伏見侯爵 、昭和15年 東久邇宮稔彦王三男 彰常王→粟田侯爵 、昭和17年 久邇宮邦彦王甥 家彦王→宇治伯爵 、昭和18年 久邇宮邦彦王甥 徳彦王→龍田伯爵

 4月17日の会議の報道では、養子案は11宮家の御子孫に限定という意見が趨勢とされていますが、上記の家系との縁談の場合、皇族に復帰できるかという問題がございます。

 それから皇別摂家の問題についても言及しますが、ネットで公開されている論文で木村修二の「近世公家社会の「家」に関する一試論養子縁組をめぐって」史泉 79 1994年がございます。五摂家について近世、幕末まで、実系で家督相続されているか養子なのか逐一記述されていますが、まず近衛家は近世初期に後陽成皇子の近衛信尋が養子となって以降、幕末まで実系で続いています。一条家も後陽成皇子の一条昭良が養子となっていますが、三代実系で続いたが途絶し、鷹司家から養子を迎えたのが一条兼香ですが、近世初期の段階で、鷹司、九条、二条の三家はすべて養子相続で准后関白二条晴良(戦国・信長時代の公卿)の子孫でした。純粋藤原氏の血筋といえますが、一条家は兼香から数代実系が続きますがこの血筋も中切れになり、醍醐家から養子を迎えています。醍醐家というのは、後陽成皇子一条昭良の子が曩祖なので皇別の一条家の傍系、それも一代で終わったので醍醐家の分家四条家から養子を迎え、明治維新に至っています。養子相続で幕末まで純粋藤原氏の血筋は、九条家と二条家だけです。鷹司家も二条晴良系の実系が五代続くが、近衛家から養子を迎え、それも途絶したので、また二条晴良の実系子孫である一条兼香の子を養子としたが一代で終わり、閑院宮直仁親王の王子を養子に迎えます。鷹司輔平ですが数代実系がつづいたが、幕末に九条家から養子を迎えています。ということから旧華族で男系で遡ると後陽成天皇となる方もいらっしゃる。そのような方々が女性皇族と縁談があった場合はどうなるのか。

 私は、もともと伏見宮の家筋は光厳法皇により持明院統正嫡とされたという矜持のある(こちらこそ嫡流とする)根拠となる『椿葉記』の皇統上の格別の由緒があり、天皇と血縁が離れても、ステイタスが劣化することのない別格の宮家(准天皇家)として550年、天皇家と併存し、皇族の崇班を継承してきた伏見宮系御子孫に限定すべきで、藤原氏の養子に迎えられた家系から復帰することに論理性がないので、八幡和郎氏が旧皇族に限定しなくていいなどと言っていますが、私は反対です。生理的血筋で男系ならよいというものではありません。ということで、皇室会議で異論がでたりすることがあると考えます。

 ところで皇室会議は異論なく決定されるのが通例で、「カトリック問答」は岸総理のやらせともいわれ、異論が出て紛糾することはない。しかし今後は皇族の身分付与の問題で紛糾する可能性があり、予測不可能に思える。野田代表案は、内規で結婚相手を限定する考えはないように思え、私はもちろん皇族以外の女性皇族の配偶者と御子息に皇族の身分を付与することは前例がなく反対であり、旧皇族がお相手なら、養子案か直接復帰案として実施すればよいことだと思います。

 とはいえ、今となっては最大の懸念は、皇室典範12条改変なので、①案を恒久的制度にせず、一時的な特例とすることを確約したうえ、②案も確実に実施していくこととすれば、この際、皇室会議の良識にまかせ野田代表提案に乗っても良いと思う。そういうとお前は女系移行を認めるのかといわれるかもしれないが、ぶっちゃけた話、仮に男系でない男子の皇族が一時的であれ出現する事態になっても、有識者会議①案を恒久的制度にしたほうが、男女共系に移行するリスクがずっと大きいという相対的判断である。恒久的制度にしてしまうと戻せないから。

 

四 ①案実施にあたり、御用地を居邸とすることに反対、内親王降嫁の先例どおり夫方居住であるべき

 

 (一)内親王・皇女が臣下に降嫁した17世紀以降の10例はすべて夫方居住

 内閣官房参与の山崎重孝は、217日の会議で、女性皇族が、皇族以外と結婚した場合、独立生計の費用は皇族費として出せる。配偶者が一般の民間人であれ御用地に居住でき、皇宮警察がお守りすることも可能と述べており、①案が前例とされる6例より女性宮家のイメージに近いものということが分かった。

  有識者会議議事で言及のあるアン王女を案のモデルとするならば、コッツウェルズのマナーハウスは、エリザベス女王が結婚祝として購入し、ロンドン滞在時はセントジェームス宮殿が居所とされているから、王室側が用意している。  しかし、有識者会議事務局の調査資料が前例としている、婚約したが家継急逝により江戸に下向せず、 3 歳で未亡人となった八十宮吉子内親王を除く 6 例を含め、内親王や皇女が臣下に降嫁したケースは、少なくとも 17 世紀の摂家に降嫁した9 例と、18 世紀の将軍家に降嫁した 1 例はすべて夫方居住、嫁取婚、墓所も婚家の廟所で、内親王は婚入配偶者として婚家に帰属するものとなっている(私が調べた皇女・内親王と臣下との婚姻事例は、1213頁の一覧表を参照されたい)。

 先例重視とするなら、やはり夫方居住、墓所も婚家とすべきであり、内閣官房参与は御用地内に居邸は可能としているが、強く反対する。

  以下の表はすべて夫方居住である。ここでは史料上記録のあるもの限って記載する。

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 (二) 和宮(静寛院宮親子内親王)について

 上記の康子内親王、常子内親王とともに有識者会議事務局の調査資料が案の前例としているので、ドラマなどに登場し知られていることであるけれども一応 言及しておく。

 徳川将軍家茂に降嫁した仁孝皇女和宮は嘉永 6 年(18516 歳で有栖川宮熾仁親王と婚約。親王妃となる皇女として 300 石の化粧料が充行われた[久保貴子 2009]。しかし幕府は万延元年(1860)朝幕間の緊張緩和、公武一和を目的として、和宮の将軍家茂への降嫁を奏請することを決し、朝廷は孝明天皇のご希望でもある鎖国攘夷の措置を講ずればこの要請を拒否しないこととなり、熾仁親王との婚約は棄破されて、内親王宣下の後、文久元年(18614 月、同年 10 月に桂宮邸を出立、11 15 日江戸到着、文久 2 年(18622 11 日婚儀をあげられた。大奥では姑の家茂養母天璋院と「御風違い」の反目があつた。慶応 2 年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。院号は天皇が選んでいるが将軍正室としての院号である。 

 静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視されたうえ、婚家が天皇の名をもって討伐を受ける最悪の事態となった。  

 慶応 4 年(1868)静寛院宮は慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。 

 2 月 26 日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。3 月には帰順した者の宥免を求め、大総督府はこれを承諾することになった。明治 2 年~7 年まで京都に帰住され、7 年より東京麻布市兵衛町を居邸とされたが、脚気の発病で明治 10 年湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨ぜられた。洋行中の徳川家達の留守居、旧津山藩主松平確堂(徳川家斉十五男)を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫(1987)]。ということで和宮も夫方居住(ただし明治維新の後の居所は夫方とはいえなくてもそれは政治的事情)、嫁入婚、徳川家の家名存続と慶喜寛大処分のため尽力され、葬儀も徳川家で執り行われて、墓所も徳川家の菩提寺ということである。

 

(三)10 世紀康子内親王は夫方居住、保子内親王と盛子内親王は訪妻婚だが、御用地に居邸造営は前例がなく容認しがたい

 次節で述べるとおり、公家の嫁取婚儀礼は戦国時代に確立しており、江戸時代の内親王降嫁はすべて嫁取婚夫方居住である。後水尾皇女女二宮や賀子内親王の摂家への降嫁で大きな御殿が造営されたのは、母が東福門院源和子で外祖父が秀忠、徳川の縁者であるためで、婚姻に際して幕府より三千石が献上されている。

  嫁取婚ではなかった 10 世紀の藤原師輔への内親王三方の降嫁は、いずれも内裏で密通し、違法婚だが事後的に承認された例だが、一品准后康子内親王は師輔の私邸である坊城第を居所とされていたことは史料上明らかである。[栗原弘(2004)][杉崎重遠 1954

 ただし村上皇女の保子内親王は、摂政兼家が通っていたがつまらない女だとして途絶えてしまった事例で訪妻婚である。盛子内親王の居所広幡第は、祖父・源庶明、母・計子を経て継承し、夫である藤原顕光を経て僧・仁康に施入され、広幡寺とされた。これも訪妻婚だが、妻の財産を夫が相続している事例。

  今回、事務局が案のように臣下と結婚する場合、御用地の邸宅を認めていることについて先例はないといってよい。むろん、女性皇族の配偶者については、さほど裕福でない民間人のケースもありうる。女性皇族には独立生計の費用分は皇族費として支出されるが、セキュリティ上しかるべき高級住宅を居所とするためそれでも足りない場合は、持参金などとして工面しても良いと思う。実質内親王・女王の財産であってもよいが、先例どおり、名目的にでも夫方居住を原則とすべきである。御用地の居邸造営は、女性宮家と同じことになり、将来、初生子相続、男女共系の北欧、ベネルクス、英国と同じ方向性に傾きやすくなるため反対である。

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五 ①案実施にあたり、納采の儀など嫁取(嫁娶、嫁入)婚儀礼の形式を変えないこと

 有識者会議や事務局は、民法でも現皇室典範でも「家」はないなどとして、婚姻儀礼には全く無関心ですが、私は重要な問題と考えている。

 脇田晴子[1992]によれば、中世における嫁取婚の一般的成立は、「家」の成立を意味し、嫁取婚形式の「家」とは一夫一婦制と正妻の確立であるとする。

 公家の嫁取婚の成立時期の通説は鎌倉時代だが、後藤みち子[2014]は公家日記を厳密に検討し、嫁取儀礼の確立は戦国時代と言う。

 嫁取儀礼とは家長が嫡子に正妻を本邸で迎える儀式のことである。儀式の後、正妻は夫方の父母や親族と対面し三献で祝うことにより、夫家の親族となり、家司たちとの祝いの宴により夫家の一員と認められたこととなる。戦国時代より婚礼後は父子二世代同一屋敷別棟居住となった。戦国時代の公家は、戦後の民法改正まで続く、嫡子単独相続日本的「家」の雛形といえるだろう。

  17 世紀に内親王・皇女が摂家に降嫁した 9 例と、幕末の将軍家に降嫁した 1 例はすべて嫁取婚といえる。

 天和3年(1683)近衛家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は母の品宮常子内親王が日記に詳しく記されている。「御里の御所へまず中務卿を先に参らす‥‥‥女一宮ねもじ(練絹の白)、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、近衛基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している[瀬川淑子(2001)]。嫁迎え、嫁入婚の儀礼である。御所を御里と言っていること。白無垢・色直しは現代の婚礼・披露宴においても、和装花嫁衣装の定番である習俗と同じである。

  令和 3 年眞子内親王の婚儀では納采の儀、告期の儀、賢所皇霊殿神殿に謁する儀、参内朝見の儀、皇太后に朝見の儀、内親王入第の儀がなされた。 

 納采の儀は、婚約、結納にあたる。賢所皇霊殿神殿に謁するの儀は、内親王が三殿の外陣で拝礼念するもので、五衣唐衣裳に正装し、他家へ嫁ぎ、姓が変わる前に皇祖神ほか神々へのお別れのご挨拶を申し上げるものとされる。入第の儀というのは嫁迎えの儀式で、嫁入婚の形式である。案では賢所皇霊殿神殿に謁するの儀の位置づけが大問題となるが、婚入配偶者と位置づけで、変更しなくてもよいと思う。納采の儀・内親王入第の儀を変更する必要はない。

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六  ①案実施にあたり、女性皇族の墓所は婚家の廟所とすること(17・18 世紀の前例は全て婚家)

 

 臣下に降嫁した内親王の墓所について、先例は少なくとも 17 世紀以降 10 例は全て婚家の廟所となっており、宮内庁の管理ではない。昭和天皇次女鷹司和子も鷹司家の廟所二尊院が墓所である。案においても先例どおり豊島岡墓地ではなく婚家の墓所とすべきある。女性皇族の配偶者や御子息も同様である。

 

(一)康子内親王の仏事について

  まず臣下に降嫁した内親王の先例について、藤原師輔が内裏で密通のうえ、事後的に勅許された 10 世紀の醍醐皇女准后一品康子内親王について、四十九日は法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳元年七月二二日条)一周忌も法性寺で行っている(『日本紀略』天徳二年六月四日)[栗原弘(2004)]。 墓所は不詳である。

 法性寺とは関白藤原忠平が京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺でもあった。寺域は広大で現在の東福寺や泉涌寺のある地域を含む。 

  平安時代を通じて藤原氏の氏寺として繁栄し、藤原忠通は法性寺で出家し、法性寺入道前関白太政大臣と称される。九条兼実も後法性寺殿と称された。  しかし鎌倉時代九条道家が東福寺を建立し浸食される形で縮小、応仁の乱で衰退した。

 栗原弘[2004]によると。法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子(伊尹・兼通・兼家・安子母)の一周忌、忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光の四十九日、また村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤藤原忯子(為光女)の四十九日、藤原安子と円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が執り行われている。小野宮流の仏事も行われていることから、法性寺は忠平一門の氏寺的性格とみてよいだろう。なお康子内親王の仏事が法性寺で執り行われたことについては、皇族が母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、母方の氏寺で執り行われたという解釈を栗原弘氏がとっており、仮に康子内親王が生涯非婚であったとしても、官寺である法性寺で法要が執り行われた蓋然性は高い。

 この時期は日本的「家」は確立されていない。したがって婚家の氏寺での仏事と解釈されないのである。

 栗原弘によれば、藤原師輔や兼家、源雅信の妻は夫方の寺院や邸宅で法要がなされているが、一方、道長の妻源倫子の追善法要は不明で墓所は仁和寺であり、道長は木幡であるから夫婦別墓である。頼通の妻隆姫女王の四十九日は、三井寺の常行堂で、葬式も実家の甥源俊房が執り行っていて、夫方が関与していない。11世紀の時期の妻の追善仏事は、夫方か実家のいずれか、夫方と実家と双方で行われ、夫方か実家かは遺族が選択していると栗原弘は解説している。過渡期なのである。

 

 

(二)17世紀以降の内親王は全て婚家の廟所

 しかし、17 世紀以降の内親王・皇女が臣下に降嫁した 12 例はすべて、墓所が婚家の廟所であり、葬儀、追善仏事も婚家とみなしてよい。

以下の表は筆者がネットで調べたものである。

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明治皇女・昭和皇女

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上記の表にないが、東山天皇の皇后、中宮皇后幸子女王(女院宣下承秋門院・父有栖川宮幸仁親王)は、月輪陵である。リストから除いた多くの尼門跡については門跡寺院が墓所となり、宮内庁治定陵墓である。分類すると以下のとおりとなる。

1 非婚内親王すべて宮内庁治定陵墓

〇泉涌寺(御寺・皇室菩提寺-月輪陵・後月輪陵)

明正女帝、後桜町女帝、淑子内親王 

〇般舟院(御寺・皇室菩提寺) 孝子内親王(礼成門院)

〇光雲寺(母后ゆかり)昭子内親王 

〇知恩院(徳川家ゆかり)吉子内親王(婚約者徳川家継夭折により江戸に下向せず、将軍家の寡婦待遇)

 

2 皇后に冊立された女王・内親王(宮内庁治定)

 〇泉涌寺(御寺-月輪陵・後月輪陵)東山后中宮幸子女王、光格后中宮欣子内親王

 

 3 皇族に婚嫁した内親王

〇相国寺内伏見宮墓地  福子内親王、秋子内親王(宮内庁治定) 

〇蘆山寺(閑院宮家墓地)籌宮 成子内親王(宮内庁治定)

〇豊島岡墓地  昌子内親王、允子内親王、房子内親王、聡子内親王、照宮成子内親王

 

 4  臣下に降嫁した内親王・皇女

  〇二尊院(鷹司家・二条家廟所)

清子内親王、貞子内親王、賀子内親王、栄子内親王、和子内親王

(二条家の賀子内親王御殿の御化粧之間が二尊院に元禄年間に移築され、非公開だが茶室とて現存)

〇東福寺塔頭海蔵院 女二宮

 (海蔵院には近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。女二宮が改葬されていない理由は不明)

〇大徳寺(近衛家廟所)

常子内親王、憲子内親王 

〇東福寺(九条家廟所)益子内親王

〇増上寺(徳川家廟所)親子内親王

 このとおり、臣下に降嫁した内親王江戸時代の 10 例と、戦後、鷹司平通氏に降嫁した昭和天皇次女の和子内親王も含め、すべて婚家の廟所で、宮内庁治定陵墓ではない。内親王案が皇族以外と結婚した場合は、先例どおりとすべき。

 

 

七  女性皇族の配偶者・子息の准皇族化に反対

 

(一) 准三宮(准后)宣下は有力貴族個人の実績による特別待遇、もしくは天皇しない近親の皇族等を厚遇する措置、摂家出身等の門跡名誉的地位で、准皇族を意味しない

◇准皇族という範疇は歴史的にない

  日本維新の会から、女性皇族の配偶者に称号を与えるとか、准皇族とする案が出されている。称号を与えたうえ,御用地内に宮殿を造営するとなると、待遇上皇族に近く容認しがたい。

   維新の会は准三宮(准后)が准皇族との見解だが、鎌倉時代初期の著名な史論書「慈円」の『愚管抄』では、皇族(皇親)と臣下以外の身分はないとはっきり言っていることである。

 従三宮(准后)の初例は、貞観 13 年(871 年)、初の人臣摂政である藤原良房であり、三宮に準じて年官・封戸・随身兵仗を与えたことである。次いで藤原基経が、摂政在任中に三宮に准じて随身兵杖、年官・年爵(叙位・任官の推薦権、実質売官制度。院、三后だけでなく親王、内親王にも推薦権があった)を与えられたことで、朝廷の正式な制度として定着し、以後、皇族、公家、将軍家、高僧に与えられた。年官・封戸等は早くに実質を失い、もっぱら身分上の優遇を意味する称号に変化していったとウィキペディアが説明している。准后宣下は明治初期までおよそ 170 例ある。

 つまり朝廷実力者個人に対する特権待遇(封戸や叙位任官推薦権、護衛の武官を三后に准じる)から始まった制度である。配偶者が皇族だから与えられるものでは全くないし、例えば藤原良房・基経・兼家・道長・頼通・忠実・九条道家・二条良基・足利義満・一条兼良・足利義政・義昭が准三宮宣下を受けているが、朝廷の実権を掌握した実力者、もしくは業績顕著な公家、武家である。個人一代に与えられる朝廷の待遇で、特別の家系を意味するものではない。あえて例えていうなら、首相より上席の大勲位相当者のような位置づけ。

生涯非婚内親王を厚遇するために准后宣下するケースは非常に多い。后となっていない天皇生母を厚遇する根拠として准后宣下するケースも多い。室町戦国時代に多い摂家や将軍家出身等の門跡准后は三宝院満済のように幕府の実力者のケースもあるがほぼ名誉的地位といえる。摂家の正妻も准后宣下されるケースがある。

  繧繝縁は最も格の高い畳縁で、天皇・三宮・上皇が用いるが、准后も繧繝縁を用いることが出来るとの見解もある。

ただし朝廷での序列、座次に変遷があることは(四)で述べるが、北朝の盟主准后二条良基により、書札令で准后は親王より上と定めた故実の意義は大きいと思う。ところが秀吉時代には忘れられ親王と同格の裁定、法親王と門跡准后と前関白が同格とされたこともある。

令制は天皇と太政官二極による統治体制なので、臣下が親王・諸王より上席となるのはよくあることである。

ただ准后がいかに高い地位だとしても、義満が皇族になれないように、准后だから皇族になれるというものでは全くない。

とにかく准三宮が個人一代の処遇で、家筋に与えられるものではなく、皇族、公家、後宮、門跡と対象も広範で、准皇族との理解は間違いである。

 

 むろん案女性皇族の配偶者については身辺警備の対象とし、筆者は夫方居住とすべきとの見解なので、財政的支援があってよいが、配偶者に格別称号、准皇族という特別の地位を創出すべきでない。それは女性宮家に転化の口実になるという意味でも反対である。

    むしろ、歴史的には、非婚内親王が准后とされた例が、参考になる。嫡流の非婚内親王の後光明皇女孝子内親王(後光明天皇の唯一の皇子女で、後水尾院の意向で、手許に留める方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領 300 石が与えられた[久保貴子 2009])。桂宮を相続した仁孝皇女淑子内親王(天保 11 年(1840)閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料 300 石を得たが、2 年後に親王が薨ぜられたため結婚に至らず、朝廷は淑子内親王の御殿を用意できず、住まいを転々としていた[久保貴子 2009])が准后宣下されている。

 敬宮愛子内親王殿下については悠仁親王殿下と結婚し皇后となるケースもありうるが、非婚の孝子内親王の先例にもとづき准后として特別待遇することはありうると思う。

 

    准后良房は嵯峨皇女源潔姫を妻とし、准后基経は人康親王女(二世女王)を妻とし、准后兼家は保子内親王(村上皇女)を妻としたが、皇女や二世女王を妻としていることと准后宣下は全く無関係である。

    二世女王降嫁の初例は承和期に蔵人頭、式部大輔を歴任した右大臣内麿の十男藤原衛(淳和皇子恒世親王女を妻)は良吏タイプだが、淳和上皇近臣のためか参議に昇進できず、二世女王降嫁が必ずしも有益でなかった事例である。

村上皇女盛子内親王を妻とした左大臣藤原顕光は准后宣下されてない。

   三条皇女禔子内親王を妻とした関白藤原教通も准后宣下されておらず、外戚か格別の実力者でなければ准后宣下はされないともいえる。

  内親王降嫁は継嗣令王娶親王条では違法であり、とくに初期の右大臣藤原師輔と密通の上、事後的に承認された康子内親王のケースは、村上天皇の天気を害し、左大臣実頼などは批判的だった[保立道久 1996][米田雄介 2004]。令制が想定していない勅許による殊遇であるが、それによって准皇族化されるわけでは全くないわけである。

   令制では親王号、王号を称する皇親(天皇の親族)と、氏姓のある臣下に区別があり、院政期以降、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家といった家格によるヒエラルキーが形成されたが、皇族と臣下の中間に准皇族という範疇を歴史家は認めていない。

  僅かに岡野友彦が村上源氏の清華家久我氏を准皇族と言うが、孤立した見解にすぎず、村上源氏中院流が源氏長者及び淳和奨学両院別当を輩出する資格等を有していたとしても、王氏の班位だとしてもそれが准皇族とはいいにくい。

臣籍に降下した古代、中世の皇別氏族は、歴史家は「王氏」と称するのが通例で、准皇族とはされないし、賜姓源氏は 9 世紀に藤原氏と横並びだが、摂関期以降は摂関より下位の家格とみなすほかない。

 

(二)内親王を妻としたことで准三宮の殊遇を得るわけでは全くない

 17 世紀に摂家に皇女・内親王 9 方、将軍家に 1 方が降嫁されているが、内親王の配偶者 10 名のうち 8 名が摂関、藤氏長者だが、准后宣下を受けているのは近衛家熙だけであり、将軍家宣の正室が家熙の姉で、

 母が常子内親王でもある。たんに内親王の配偶者というだけで特典を受けることはない。

 

従一位関白 鷹司信尚(後陽成皇女清子内親王降嫁)

従一位摂政 二条康道(後陽成皇女貞子内親王降嫁)

従一位左大臣 鷹司教平(後水尾皇女文智女王室、離別)

従一位左大臣 近衛尚嗣(後水尾女二宮降嫁)

従一位関白 二条光平(後水尾皇女賀子内親王降嫁)

従一位関白 近衛基熙(後水尾皇女常子内親王降嫁)

従一位関白 九条輔実(後西皇女益子内親王降嫁)

従一位関白准后 近衛家熙(霊元皇女憲子内親王降嫁)母は常子内親王

従一位関白   二条綱平(霊元皇女栄子内親王降嫁)

従一位右大臣 贈太政大臣 徳川家茂(仁孝皇女親子内親王降嫁)

 

 

(三)内親王を母とする公卿が必ずしも准后となるわけではない  

  臣下で内親王を母とするケースをピックアップする。

  10~11 世紀の為光と公季は太政大臣まで昇進したが准后宣下は受けてない。江戸時代では近衛家熙と家久が准后宣下されているが、二条吉忠は贈准后である。母が内親王なので准后宣下を受けるという慣例はない。

 

藤原為光(父右大臣藤原師輔・母醍醐皇女雅子内親王)   右大臣より太政大臣(関白道隆の推挙)に昇進したが准后ではない。

藤原公季(父右大臣藤原師輔・母醍醐皇女准后一品康子内親王)右大臣より太政大臣に昇進したが准后ではない。

 藤原重家(父左大臣藤原顕光・母村上皇女盛子内親王)   左近衛少将、五位蔵人、若くして出家。

 藤原(鷹司)教平(父関白鷹司信尚・母後陽成皇女清子内親王)   左大臣

 藤原(二条)光平(父摂政二条康道・母後陽成皇女貞子内親王)   関白

 藤原(近衛)家熙(父関白近衛基熙・母後水尾皇女常子内親王)   関白、太政大臣、准后

藤原(大炊御門)信名(実父関白近衛基熙・実母後水尾皇女常子内親王)   左近衛中将 大炊御門家に養子に出されるが早世。

藤原(九条)師孝(父か関白九条輔実・母後西皇女益子内親王)   左近衛大将、26 歳で薨去

 藤原(近衛)家久(父関白近衛家熙・母霊元皇女憲子内親王)   関白、太政大臣、准后

藤原(二条)吉忠(父関白二条綱平・母霊元皇女栄子内親王)   関白 贈准后

 

(上記のデータは母が内親王であっても皇族となった前例はないことを示すものでもあるので掲載した)

 

 

 (四)准后と親王の座次相論

  ここでは准后の朝廷での序列の変遷について説示し、准后宣下の価値を検討するが結論を先にいうと、室町時代の准后の身分は高く、明らかに親王より上だったが、秀吉時代は例外的に親王と同格となり地位が低下、徳川時代は摂関家の地位が上昇し、摂関の下、太政大臣より上との位置づけとされている。時代的に変遷がある

結論として、准后二条良基が、書札礼を改め、准后は親王より上と定めた故実を重んじると、もし女性皇族の配偶者を准后相当の准皇族などとしてしまうと、皇位継承権のある親王、王より格上になってしまい好ましくない。

 

1 室町時代は親王より准后が上

内裏歌会で准后左大臣足利義政(寛正 5 年准后宣下)と二品式部卿貞常親王(伏見宮第 4 代)の上下が問題になり、『親長卿記』文明五年七月二十二日条によれば、宇治殿(藤原忠実)が准后の時、親王より上位とした先例、永徳3年(1383年)左大臣足利義満の准后宣下の先例が回顧されている。室町時代は、親王より准后が上位であった。後光厳院擁立の盟主で足利義満を指南し公家化させたとされる准后二条良基は書札礼を改め、義満のために准后は親王の上に位置すると明確に定めたからである[小川剛生 2005]

 

2  天正 13 年の座次相論 伏見宮邦房親王と准后近衛龍山は横並び 

天正 13 年(15857 13 日秀吉は関白任官披露のため前例のない公家、門跡が一同に会する禁中能会を開催したが、親王と准后との間で座次相論となり、不満を持つ方々、伏見宮家出身の宮門跡らが欠席したという。 

当時の親王は、儲弐誠仁親王を別格として、伏見宮第九代中務卿邦房(くにのぶ)親王以下、御室(仁和寺)、青蓮院、妙法院、梶井の宮門跡はいずれも伏見宮家出身の法親王だった。准后は前関白近衛龍山(前久)と、聖護院、大覚寺、三宝院、勧修寺の門跡准后で、摂家出身者であった。 

関白秀吉は当事者より意見を聴取したうえ直ちに裁定を下し、正親町天皇の認可を受けた(『親王准后座次三ヶ条之事』)。 

7 月 15 日の裁定は、親王と准后は同格、門跡准后、法親王、前関白は同格とし、それぞれの席次はくじ引きとした。

ただし伏見宮邦房親王と近衛龍山は別格で、常に並んで上座を占めるとされた [谷口研語 1994] [神田裕理 2019]。従って伏見宮邦房親王は、前関白で准后宣下を受けてない九条兼孝、一条内基、二条昭実より上座ということになる [谷口研語, 1994]  

室町期は、親王より准后が上位とする見方が有力であり、親王は摂関に優越するとはみられていなかった[小川剛生 2009]。親王と准后が同格とされているので、戦国時代の伏見宮のステイタスが高かった影響がある。摂家出身門跡の准后宣下は、法親王が入室する門跡より格下とみられないために必要な地位といってよいのではないか。室町時代は、二品伏見宮貞常親王より十年ほど年下の准后左大臣足利義政が上座とされたので、この前例は忘れられてしまっている。

 

3 天正 13 年禁中茶会 伏見宮邦房親王と准后近衛龍山は横並び 

 同年 10 7 日関白豊臣秀吉は前例のない公家衆、門跡総出の禁中茶会を開催した。千利休の茶会覚書は次のとおり [仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 1995]  

  禁中様菊見の間 

一 上段 三畳敷 東同   正親町院様 親王様 若宮様 

御相伴衆 下段 六畳敷 

近衛殿龍山ニ 伏見殿 菊亭殿 

上段三畳敷に天皇、誠仁親王、和仁王(のちの後陽成)、下段六畳敷に御相伴衆として准后近衛龍山、伏見宮邦房親王、取次役の右大臣菊亭晴季が着座、伏見宮は近衛龍山と横並びなので面目を保ったといえる。

 

4 天正 16 年 聚楽第行幸 伏見宮は前関白より上位 

 次に天正 16 年(1588)後陽成天皇の聚楽第行幸の天皇行列の順番である[中川和明 1991]。 

烏帽子着の侍 

後陽成御生母 (新上東門院勧修寺晴子)

女御 (近衛前子- 正妻格)

大典侍御局  匂当御局

女中衆御輿 30 丁余 

御輿添 100 余人 ・御供の人々 ・童姿  塗輿 145  

六宮 (皇弟、のちの八条宮智仁親王

伏見宮邦房親王 

九条兼孝(前関白)

一条内基(前関白)

二条昭実(前関白)

菊亭晴季(右大臣)

徳大寺公雄(前内大臣)

飛鳥井雅春(前権大納言)

四辻公遠(前大納言)

勧修寺晴豊(権大納言) 

中山親綱(権大納言)

大炊御門経頼(前権大納言) 

白川雅朝王(非参議) 

 以下略この序列では前関白より伏見宮が上、前年の裁定のとおりである。現任公卿より年長者上位といえる。なお左大臣近衛信輔は関白の行列の筆頭となっている。

 

5 慶長 16 年二条城参賀  親王が准后や摂関家当主より上位 

 徳川時代では、慶長 16 年(16114 2 日の二条城の家康のもとへ後水尾受禅の御礼参賀が行われた時、伏見宮邦房親王と准后前関白二条昭実との間で座次相論があり、家康はとりあえず親王が上と裁定したため、座次は次のようになった[杣田善雄(2003)]。 

八条宮智仁親王(一品)

伏見宮邦房親王(二品)

一条内基(従一位前関白)

二条昭実(准后従一位前関白 

近衛信尹(従一位左大臣)

 慶長期に伏見宮が准后より上座というのは、家康は朝廷のしきたりをよく知らず、二条昭実は不満が残る結果である。

 

6  元和元年 禁中並武家諸法度 現官大臣が伏見宮より上位 

 ところが元和元年 (1615) 禁中並武家諸法度であいまいだった座次が序列化され、関白九条尚栄や摂家は、奈良時代、舎人親王より右大臣の藤原不比等が上席だったことを根拠として、儲弐以外の親王は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より下位の座次と決められた。また従来の現官大臣より、年長の前官大臣が上座だったあり方は否定され大きな変更なのである。 

鎌倉時代後半、大臣と親王は同格であることからすると、大臣が親王より上というのは摂関家の地位が上昇したといえる。天正の座次の取り決めより皇位継承予定者を除く親王の地位が著しく下降した。

ウィキペディアによれば江戸時代の准后は摂関より下、太政大臣より上だとしている。

 つまり秀吉が伏見宮に有利な裁定をし、家康も親王を上位として裁定したが、摂関家から巻き返しがあり、幕府も摂家を通じて朝廷を制御しようとしたので、江戸時代は摂関家上位、世襲親王家当主は、大臣より座次下位が定着した。明治以降は皇族の地位が上昇し、朝廷の座次、序列は時代によって変遷があるといえます。

 

八 後宇多上皇の猶子として順徳曽孫源忠房が親王宣下を受けており、養子となって皇籍に復帰した先例はある

◇権中納言源忠房⇒弾正尹忠房親王(順徳曽孫)  

3月10日会議で立憲民主党の馬淵澄夫氏が「少なくとも歴史上養子として皇族に迎えたという形でのいわゆる皇族ではなかった方々は先例にはございませんということを私どもも確認をさせていただきたいというふうに思います」と述べ皇籍を持たなかった者が、養子縁組で皇族となった先例がないということが、立憲民主党が養子案を承服しない理由の一つとなっておりますが、事務局側も、鎌倉時代の源忠房を皇籍復帰の例をあげているにもかかわらず、後宇多上皇の養子ないし猶子としての親王宣下ということ(源忠房は、順徳二世王の彦仁王の子で、父は時期不詳だが源賜姓により臣籍に降下しているので、その時点で出生していたか不明だが、父が臣籍に降下した後は皇族ではない)をまったく触れずに、「一般人に初めからなっている方が誰かの養子になって戻った例があるわけではありません。」と断言し、忠房親王を先例と認めていない応答をしていますが、事務局の説明としては大きなミスだと思います。

 忠房親王に言及している論文としては、松薗斉 2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」人間文化 (25) 3 頁の表に後宇多上皇の養子とあり、大智院宮忠房親王については 10 頁に説明があり、この論文はネット公開なので容易に閲覧できます。

またウィキペディアにも文保3年(1319年)忠房は後宇多上皇の猶子となり親王宣下を受けた。と記載があります。

ネット界隈では忠房親王の例は、旧皇族が皇籍復帰するにあたって有力な先例と重視されているわけです。

  すなわち従二位権中納言源忠房は、順徳曽孫(三世王)。父彦仁王は時期不詳だが源氏賜姓で臣籍降下、母方が摂関家であり外伯父・二条兼基の猶子となる。乾元元年(1302 年)公卿に列し、徳治元年(1306 年)権中納言叙任。後宇多院政の後二条朝では摂関家の子弟に準じた官歴をたどり急速に昇進したが、花園天皇即位(伏見院政)により官職を辞す。後醍醐天皇即位後(後宇多院政)、文保 3 年(1319 年)忠房は後宇多上皇の猶子となり親王宣下を受けて、無品ながら弾正尹に任ぜられた。後宇多上皇の猶子となったことにより皇籍に復帰した事例といえます。

  源忠房は母方が摂家で摂家の猶子となったことが、摂家の子弟に准じた昇進となり恵まれていたといえる。後宇多院政期に異例の出世をとげたのは後宇多上皇の引き立てとみられている。持明院統の治世約十年間(伏見院政と後伏見院政期)は干された。再び後宇多院政となったことにより文保 3 年に皇籍に復帰

した。醍醐寺塔頭の大智院宮と称された。出家された後に隠棲し後宇多院と関係が深い寺でもある。

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◇賜姓源氏⇒承鎮法親王

  なお、忠房親王とは兄弟の承鎮法親王についてコトバンクに「天台宗三千院門跡の尊忠について出家。正和 6 (1317)後宇多法皇の猶子となり、親王となった。正中 3 年天台座主」とあり、父が源彦仁なので法皇の猶子となることによって源氏から皇族に復帰した先例といえる。

当時三世王相当の臣下の皇籍復帰は異例といえるし、三世王相当の親王宣下も当時としては異例である。

ただし、14 世紀以降常磐井宮満仁王(後光厳猶子)が三世王ながら親王宣下され、15 世紀になると、宮門跡に入室する皇子がいなくなり、五世王、六世王でも親王宣下が慣例化されたが、いずれも 14 世紀以降は、天皇か上皇の猶子として、皇子に准じた礼遇を受ける者として親王宣下を受けるのが通例となった。

24頁の表のとおりであるが、忠房親王等のように源氏から親王宣下される例は異例なのであり、それら以外は諸王が親王宣下を受ける先例である。

  なお、臣籍から皇族に復帰した政治史的には重要な事例も補足しておきたい。

 

 ◯事務局が例示してないが政治史的には知られている皇籍復帰事例

◇勲二等の叙勲にもかかわらず流罪とされた皇族

 和気王⇒岡真人和気⇒和気王

天武三世王、祖父が舎人親王、天平勝宝 7 歳(755 年)兄弟の細川王とともに岡真人姓を賜与され臣籍降下し、伯父の淳仁即位により皇親に復帰、機を見るに敏な和気王は仲麻呂の乱では反乱計画を事前に孝謙上皇に伝えた。兄弟の多くは淡路廃帝・仲麻呂の陣営に与し処罰されたが、兵部卿として数百の兵を率いて淳仁天皇を包囲したのである。その功績により従三位に昇叙され公卿に列し勲二等を叙勲される。しかし皇位を望む謀反が露見して称徳女帝の逆鱗に触れ、伊豆国流罪、途中で絞殺される。

   奈良時代には、和気王同様、淳仁即位時など臣籍から皇籍に復帰した例は多数ある。

 

◇元寇当時の鎌倉将軍

惟康王→源惟康→惟康親王

7 代鎌倉将軍惟康王は、後嵯峨二世王で、父宗尊親王。文永 7 年(1270 年)源姓を賜与され、源惟康と名乗ったが、弘安 10 年(1287 年)に幕府の要請で皇籍に復帰して後宇多天皇より親王宣下がなされた。 [青山幹哉 1988

 臣籍降下は、幕府の実権者安達泰盛が将軍は源氏であるべきとの主張によるとされている。しかし霜月騒動で泰盛が討たれ、将軍の親王化は平頼綱の方針、その他の説がある。

  親王宣下は亀山院政の停止、後宇多譲位の強行とのセットで東使の意向を呑んだ政治色の強いものであった。しかし 執権北条貞時が惟康親王の在任を嫌い、正応2年(1289年)には将軍職を解任され、京に送還された。

 

九  養子案について天皇との血縁の疎隔・親等は全く問題にしなくてよい

 

 天皇家との血縁の近さ(親等-女系含み)を優先順位としたり、制限したりすることに反対である。親等の近さとなると、明治皇女聡子内親王、昭和天皇長女の成子内親王が嫁した東久邇宮が有利となり、次いで、香淳皇后の御実家久邇宮、久邇宮系でも明治皇女允子内親王が嫁した朝香宮が賀陽宮より有利となる。  竹田宮は明治皇女昌子内親王が、北白川宮は房子内親王が嫁しているので天皇家と近親であるが、香淳皇后の御実家である久邇宮系の方が近い。皇位継承順でも下位になるので、後回しにされると不公平感がある。

 明治皇室典範で世襲親王家は否定されたので、宗家は伏見宮家であるとしても 11 宮家に皇位継承順以外家格差はなく横並びであるから、基本的には対等の資格とすべきである。公平で失礼のない対処となると、特定の家系にかたよらないようすべきと考える。久邇宮系をとるなら、北白川宮系もとるという形にすべき。むろん優先順位とは言わず、秘密会議で内々に決めてしまうことがあってもそれはかまわない。

 

 筆者はそもそも直接復帰案が良いと考えており、優先順位を(皇位継承順で、伏見宮山階宮賀陽宮久邇宮梨本宮朝香宮東久邇宮北白川宮竹田宮閑院宮)の末流の男系男子(養嗣子含む)に加えて、戦前に華族に列し宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見伯爵家の御子孫を加え、12 宮家の御子孫のすべて。さらに大正 9 年以降昭和 18 年まで次男以下の王で 12 方(皇族の臣籍降下を可能にした明治 40 年皇室典範増補第一条により、情願によって家名を賜り降下し華族に列している方々)の御子孫も復帰の対象とする。本家の子孫が優先、次に分家の御子孫、他家に養子となった方々は優先順位を下げる案、それでは多すぎるなら秘密会議や、天皇・皇后両陛下、成人皇族の推薦によって絞っていく案であったが、養子案は現存宮家当主が望まれる場合など次善策と考えていたが、養子案を支持する政党が多いのでとりまとめは養子案となるものと思われる。

 私の提案は 12 宮家の末流の男系男子なら、男系での疎隔、女系での近親関係では優先順位をつけなくてよいと考える。それは以下のように 15 世紀に皇親の範囲が継嗣令原意から変化し、以降、北朝に帰属し、大覚寺統正統の由緒がある木寺宮、初代が亀山法皇より正嫡とするとの遺詔(後宇多上皇が反故にした)の由緒のある常磐井宮[松薗斉 2010]、『椿葉記』で持明院統正嫡との由緒のある伏見宮が、[秦野裕介 2019a]五世王以降でも親王宣下され、特に伏見宮は代々、天皇の猶子となって親王宣下を受ける世襲親王家となった経緯から、15世紀以降は天皇との血縁の疎隔より、しかるべき格別の由緒のある皇統に属しているかが重要になったと考えられるからである。後南朝の皇族に親王宣下はなく差別化されたといえる。

◇14世紀~16世紀初期の二世王以降の親王宣下

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◇15世紀に五世王、六世王でも親王宣下が合法化された意義

  継嗣令皇兄弟条では、天皇の兄弟と四世王(皇玄孫)までが皇親という世数制限があり、王号を称するのは五世王まで、ただし五世王・六世王は皇親と同じく不課の特典あり、七世王は揺が免ぜられ、徐々にフェードアウトしていく制度設計になっているが、男系なら嫡流、庶流、男女いかんにかかわらず皇親になるため、皇親が増加しやすい制度設計になっている。

 そのため奈良時代から臣籍降下が常態化した。しかし院政期以後は多くの皇子が宮門跡に入室することとなったので、皇族は増加しなくなり、15 世紀には宮門跡に入室する皇子も払拭したので、応永 26 年に後小松上皇は、北朝に帰属した後二条五世王で大覚寺統正統(木寺宮)世平王の子息 2 名を猶子としたうえ、親王宣下(妙法院新宮明仁法親王と 17 代御室承道法親王)された[稲葉伸道 2019]。

 以降、五世王、六世王という末流の皇胤でも上皇や天皇の猶子として、皇子に準じた礼遇を受ける者として、親王宣下が合法化された。

 中世律令法は明文改正をいっさいしないが、明法家の「准的」等のテクニックで既成事実を合法にできる法制度なのである[保田卓 1997]。

 継嗣令の原意では皇親の範疇から外れる五世王、六世王でも親王宣下が合法化された意義が大きい。

 伏見宮第3代貞成王(のち親王宣下、太上天皇尊号宣下後崇光院)は応永26年の親王宣下を日記に記している。『椿葉記』永享 5 年(1433)では、「崇光院・後光嚴院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中惡く成て、御子孫まで不和になり侍れは、前車の覆いかてか愼さるへき、いまは御あらそひあるへしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」[村田正志 1954 初刊、1984] 

 崇光院流御一統が久しく栄えなければならないとして、天皇家と伏見宮は、不和な時があったが、将来疎隔することなく水魚の如く親睦していくべきという趣旨で始終伏見宮家の若宮を天皇の猶子とする構想を天皇に奏上している。これは伏見宮を世襲親王家にするブランと解釈されており[小川剛生 2009] [田村航 2018]、それが実現したゆえ、天皇家と伏見宮家は 550 年併存したのである。

 在俗皇族では、後二条五世王の木寺宮邦康王は公家社会では無名の存在だったにもかかわらず、享徳 4 年(14557 月に後崇光院法皇の猶子として親王宣下を受け、同年(康正元年)10 月に 40 歳で元服、同日三品、中務卿に任ぜられた。加冠役は准后前関白一条兼良だった[小倉慈司 2010]。親王の加冠役に決まりはなく大臣・大納言でもよいはずで、厚遇されている。五百年来の大学者が五世王親王宣下を認めているのだから合法というほかない。

 なお、第 4 代貞常親王は猶子とされた記録はないが、天皇の実弟であるので、継嗣令皇兄弟条では親王格上げとなる。過去の淳仁や光仁の兄弟姉妹と同じこと。第 5 代二品式部卿邦高親王(後土御門猶子)から第 22 代および第 24 代元帥陸軍大将貞愛親王(孝明猶子)まで天皇の猶子と親王宣下を受けている。

 天皇と血縁的には疎隔しても猶子という擬制的親子関係によりステイタスを劣化させることなく親王位を再生産できる制度が世襲親王家であるが、明治4年に閑院宮を伏見宮邦家親王第16王子の載仁親王が継承し、明治14年に第8王子の東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮)が維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家としたので、この時点で伏見宮系は3家が世襲親王家だった。しかし柳原前光が世襲親王家は封建遺制であるとして明治皇室典範で廃止された。また皇族の世数制限も復活する方針だったが、最終的に皇室典範は永世皇族制をとったため、養子することはできなくなったが、血筋が続く限り永続可能な制度となっている。

 永世皇族制は、15世紀以降の展開、令制原意の世数制限を実質修正した五世王、六世王の親王宣下、世襲親王家の成立という歴史的経緯をみれば妥当なものである。

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補遺 女性宮家の前例、幕末の淑子内親王の桂宮相続をどう評価すべきか  

 

 内閣官房参与の山崎重孝が、民法も、それから皇室典範も、家という制度を取っていないので、有識者会議では宮家という言葉を使わないのだと言い、有識者会議は女性宮家を議論するはずたったのに、この理由で一蹴しているのは誠実ではありません。宮家とは独立の生計を営む皇族の方に天皇陛下からその呼称を賜る、宮号を賜るというようなものであって、法的な位置付けはないとしている。

 しかし、現実にわれわれは、秋篠宮家とか、常陸宮家等、離接単位の宮家がリアルに存在していることは疑う必要はないと思う。

 

 所功氏[2012]が、皇室経済法第633号で未婚内親王が独立生計を営むことは想定されていることと指摘され、男性皇族については未婚の桂宮宜仁親王が昭和63年に独立生計を営む皇族となった前例があり、未婚内親王なら女性宮家が可能だと主張していた。

 ただ、世間に流布している女性宮家とは、プリンスコンソート、配偶者を迎える性格のものであり、これは現行皇室典範では不可能であるので、これを議論するということだった。

 令和7930日三笠宮妃百合子さまが昨年11月に亡くなられたことに伴う皇室経済会議(議長・石破茂首相)が宮内庁で開かれ、百合子さまが務めていた三笠宮家の当主は孫の彬子さま(43)が継承。寛仁親王妃信子さま(70)は「三笠宮寛仁親王妃家」の当主として独立することになったと報道されている。

 彬子女王殿下の独立生計については皇室経済法第635号で想定されているものだったということができる。そして未婚の宮家当主は、幕末期の淑子内親王の桂宮相続以来のことなのであるが、この前例がどういう性格をもつものかも、有識者会議は検討していないので、私の見解を述べることとする。 

 中世・近世の宮家と今日の宮家と違うのは経済基盤である。

 15世紀中頃の伏見宮の財務状況は、秦野裕介「伏見宮家領における鮭昆布公事についての基礎考察」研究論集歴史と文化4 2019が詳しい。播磨国衙領260貫、同別納229貫、室町院領160貫(若狭国松永荘、近江国塩津荘、今西荘、日向国大嶋保)以上649貫、後花園践祚の後、足利義教の差配で、室町院領の近江国山前荘(350貫)と熱田社領(450貫)、同別納(100貫)が返還された。以上は中世の王家領そのものである。さらに「干鮭昆布公事」(504546貫)が新たに加わり、約2000貫(現金換算して約2億円)旧仙洞御所跡地の地子収入等もあったとはいえ、禁裏御料の現金換算75千万円と比較すれば2億円はたいしたことはないといえる。しかし伏見宮家は嫡流として仙洞御文庫を相続したため、文庫の膨大な貴重な書物があった。「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]というのは言い過ぎではない。

 家領が実効支配できず維持できなければ宮家は消えて行くしかない。中世の宮家では格別のステイタスがあった伏見宮家だけが残ったのである。

 荘園公領制は戦国時代に崩壊し、豊臣秀吉が公家の家領と洛中の地子収入を収公して再給付したことにより中世の所領とは全く違うものになった。近世では知行充行権は江戸幕府にあり[山口和夫 2017『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館]、公家の知行は京都近郊に付け替えられ、幕府の麾下にあった。それゆえ近世において山城国では零細な公家領の錯綜した入組支配になっていた。例えば乙訓郡今里村は幕府領60石、禁裏増御料50石、伏見宮家269.495石、大聖寺58石、花山院家105石、西園寺家104石、大炊御門家100石、松木家100石、万里小路家90石、転法輪三条家50石、葉室家50石‥‥15の領主に配分されている[井ケ田良治1978、コトバンク]。幕末期の伏見宮家は京都近郊に表向き1022石、実収四百石程度の近世領主にすぎないといわれる。但し宮家出身法親王の門跡領の経営にも関与していたので、それ以外の収入もあったと考えられる。

 

 そこで幕末の仁孝皇女敏宮淑子内親王の桂宮相続について筆者の見解を述べる。周知のとおり、江戸時代は伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮の世襲親王家が4家あった。桂宮とは天正14 年(1586)、豊臣秀吉の猶子だった陽光院誠仁親王の皇子一品式部卿智仁親王を初代として創設され、八条宮と称したが、知行は秀吉より三千石付与された。

 近世は、古代のように皇親各々に封禄が給付されたり、現代のように皇族各々に皇族費が給付されるのとは違う。宮家に知行が充行われ家領の継承者が宮家当主である。

 近世では、皇位継承予定者以外の皇子は入寺得度して宮門跡(法親王)となるのが通例だが、世襲親王家が空主となった場合は皇子が宮家を相続する。 すべての宮家で実系が途絶し空主となったことがあり、皇子が宮家を継承した例がある。但し、伏見宮は桃園天皇第二皇子の貞行親王が 17 代当主と続いたが、親王が早世されたため、勧修寺門跡寛宝親王の還俗(18 代伏見宮邦頼親王-15 代貞建親王の二男)により実系相続に復帰したので、戦後の臣籍降下というか今日まで皇統の曩祖崇光天皇より700年近く一貫して実系を維持した。

 一方、頻繁に空主となり、実系の世襲が長くても三代までだったのが桂宮であり、このため宮号も八条宮、常磐井宮、京極宮、桂宮と変遷している。

 それゆえ桂宮は、皇位継承者以外の皇子が、宮門跡とならずに在俗親王となるためのポストのような状況になっていた時期が長い。特に 19 世紀は、宮家を相続した親王の夭折が相次ぎ空主となった時期が長い。

 霊元三世孫の京極宮公仁親王は後継者がなく明和7年(1770)薨御。寛政元年(1789)後室で紀州徳川家から嫁した寿子妃が薨ぜられて宮家は空主となった。

 文化 7 年(1810)、光格皇子盛仁親王は天皇の命により京極宮の継承者となり、桂宮の宮号を賜る。幕府より山城国葛野郡川勝寺村、下桂村、徳大寺村、夙村、御陵村及び乙訓郡開田村3006 6 余の領有を認められたが2歳で夭折し、宮家は空主となる。三千石の知行は他の世襲親王家、五摂家と比較しても規模が大きい。

 天保7 年(1836 年)仁孝皇子節仁(みさ ひと)親王が桂宮を相続したが 4 歳で夭折、長期にわたって桂宮は空主だった。しかし家領の経営は諸大夫により続いており、皇子が誕生したときのポストとしてとっておかれた。

 そうしたところ文久 2 年(186210 月桂宮家に仕える諸大夫たちが仁考皇女敏宮淑子内親王の桂宮家相続を願い出、幕府も承認したため、非婚内親王の当主は異例だが、文久 3 年(1863)、淑子内親王は宮家を相続した [久保貴子 2002]。幕府は道具料500石を進上、時に35歳で生涯独身、慶応2年(1866)准后、一品、明治14年(1881)薨御により宮家は断絶した。

  敏宮淑子(すみこ)内親王天保11年(1840)閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料300石を得たが、2年後に親王が薨ぜられたため結婚に至らず、朝廷は淑子内親王の御殿を用意できず、住まいを転々としていた。江戸時代の皇女の多くは尼門跡(御宮室)となったが、近世後期になると尼甘門跡は相次いで無住となり、幕末の慶応年間に無住でない御宮室は、霊鑑寺と圓照寺のみであった。幕末は尼門跡が荒廃したようで、入寺することはなかったと考えられる。

 敏宮淑子内親王と和宮は同居していた時期があり、文久元年(1861)江戸への出立が近づいた和宮親子内親王は、輪王寺宮里坊を居所としていた姉宮敏宮淑子内親王の処遇を憂い、御殿造営を幕府に命じられるよう天皇に願い出たとされている。よくできた話であり、降嫁を控えて幕府も拒否できなかったのである[久保貴子2002]

 公武一和という文久の政治的事情で、孝明天皇や和宮の姉宮を粗略に扱えない幕府側の事情もあり、宮家当主として非婚内親王を厚遇したものであって、婚入配偶者と結婚することを前提とした今日取りざたされる女性宮家とは性格が異なる。

 淑子内親王の宮家相続は、弟宮の節仁親王が前当主であったことからすれば、姉宮の相続は意外なものとはいえない。女二夫に見えずという趣旨では愛仁親王という婚約者がおられた以上、再婚の選択肢もなかったか配偶者を迎えることは考えられていない。だからこそ相続できた。宮家は空主が長期続いていたこともあり、宮家の中継ぎともいえる。表向きは和宮の計らいと諸大夫の願い出があって、姉宮に御殿と知行が付与されたということになる。

 以上の特殊な事情から、淑子内親王は、長期間空主だった桂宮当主として遇された。しかし宮家が空主でなければ、非婚内親王最後の女院、後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下により礼成門院)のような遇され方になったのではないか。

 在俗非婚内親王の厚遇の前例の孝子内親王は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、手許に留める方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられた[久保貴子2009]。このケースは東福門院(徳川秀忠女)の計らいがあったのではないかとみられている。

 

引用参考文献 ★はネット公開

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森暢平2022 『天皇家の恋愛』中公新書

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[i] 内親王は令制では皇女だが、明治皇室典範では四世女王、現典範で二世女王までと範疇が変更され、近代皇室典範では継嗣令王娶親王条が明示する皇親内婚を規定しておらず、明治皇室典範 39 条では皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ルとし、明治33皇室婚嫁令と同時に検討された皇室婚嫁内規で具体的には皇后、皇太子妃、親王妃、王妃には規定があり、婚出する女性皇族もそれに准じた嫁ぎ先という解釈は可能である。

令制でも延暦 12 年詔で二世女王は藤原氏、三世女王は見任大臣、良家(三位以上、それに准じた家と解釈できる)との婚姻が可能となり(内親王の臣下との婚姻は一貫して違法)、皇親内婚原則は緩和されており、内親王が令制の四世女王まで拡大された以上、延暦 12年詔とさほど変わらないという見方は可能である。

皇室婚嫁内則 [森暢平2022 『天皇家の恋愛』中公新書41頁]

第一条‥‥皇室に於いて華族と婚嫁を為すは‥‥

第二条 皇后、皇太子妃、皇太孫妃は左の家を選ぶ九条侯爵家、近衛侯爵家、一条侯爵家、二条侯爵家、鷹司侯爵家、

以上の家に於いてその選に膺るべき者なきときは、左の家を選ぶ。徳川侯爵家、三条侯爵家、家、岩倉侯爵家、島津侯爵家、毛利侯爵家、久我侯爵家、西園寺侯爵家、徳大寺侯爵家、徳大寺侯爵家、花山院侯爵家、大炊御門侯爵家、菊亭侯爵家、広幡侯爵家、醍醐侯爵家、清棲伯爵家。

第三条 親王妃は伯爵以上の家を選ぶ。王妃は子爵以上の家を選ぶ。

おわりに、別件ですが 東京都水道局における対組合活動労務管理等の是正要求(32項目包括的改善策提案)(附録・第Ⅲ部で東京メトロの私鉄総連春闘ワッペン取締り要望)という意見書もほぼ同時に都議会議員あてに郵送してますが、長文で50万字ほどあるためブログ「川西正彦の公共政策研究」にも掲載しているのでご笑覧いただけると幸甚に存じます。この意見書もブログに掲載予定。

 

2025/05/15

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議 4月17日議事録の批判的感想 台本 冒頭部分

私の当初の意見

一 有識者会議の案は日本的「家」の婚姻慣習、婚入配偶者の婚家帰属性を否定し、夫婦、

親子で身分を異にする歪な婚姻の在り方であり、性的役割分担の流動化をもたらす

最悪な案なので断固として排斥するべき。②案との並行実施も強く反対する。皇室典

12 条の制定趣旨は正当であり改変に強く反対する。最悪をとるとしても臨時的

当面の措置とし、恒久的制度にしない。

案を実施する。案は現存宮家の方々が養嗣子への承継を望まれた場合にのみ

案と並行して実施する。

 

 私の修正意見

一 ①女性皇族身分維持案を恒久的制度にしないこと。皇室典範12 条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)改正に強く懸念を持ちます。絶対的に反対です。

 立憲民主党のいう②養子案の実施に期限を設けるなら、それとの見合いで特例措置でいいはず。あくまで摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員等を担う皇族を確保するため 、当面の皇族減少期の特例とすること

 二 ①身分維持案実施にあたり、御用地に居邸を造営することに反対。内親王降嫁の先例は夫方居住である。納采の儀、入第の儀等、嫁娶婚儀礼の形式を変えないこと。女性皇族の墓所は婚家の廟所とすること(1718世紀の前例は全て婚家の廟所)。

三 女性皇族の配偶者・子息の准皇族化(維新の提案)に反対

四 ①案で報道されている自民党のお相手が旧皇族の御子孫だった場合皇族身分付与案は、結婚が決まった段階で、養子とするか直接復帰で皇族とし、先例に準拠して現存宮家承継家か新しい宮家の当主とし女性皇族は婚嫁して王妃内親王、王妃女王とすべきです。明治皇女三方の婚嫁のために新たに宮家を創設した下記の結婚の事例が参考になります。

 明治四一年 竹田宮恒久王妃 昌子内親王(まさこないしんのう)

 明治四三年 朝香宮鳩彦王妃 允子内親王(のぶこないしんのう)

 大正五年 東久邇宮稔彦王妃 聡子内親王(としこないしんのう)

議事録を読んだ感想

 

 流れは1案の恒久的制度、皇室典範12条改正で、ただし現在の女性皇族は皇族を離れる選択肢も経過措置とする方向性に強い懸念。

 1案先行実施か、12案併行実施のとりまとめになりそう。

 恒久的制度、御用地内に居邸は、皇室典範1条を改正にして女性皇族に皇位継承権付与や、男女共系長子優先への布石になるはず。

 2案の養親は傍系宮家に限定する発言が多く、多くても34方を想定しているようだ。

 旧皇族復帰の方便としての養子でなく、養嗣子のイメージだが、養子案の子息に皇位継承権を付与する場合旧皇室典範の皇位継承順、伏見宮→山階宮→賀陽宮→久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮→東伏見宮とすれば養親を限定する理由はない。 養親の序列を皇位継承順にすると皇室典範2条に手をつけることになるので不安もある。

2025/05/08

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議 大詰めで断続的に麻生最高顧問、野田代表が会談している状況でもしつこく意見します。

 報道によると、①案で麻生さんは相手が旧11宮家御子孫なら皇族としてもよいという新しい案を提示したのに対し、野田さんは、配偶者を皇族とするかいなかは皇室会議で決める。また②案は時期を区切って恒久的制度にしないなら認めるとの折衷案で応答したが、意見に隔たりあり調整できていないとのことですが、この土壇場で、しつこいですが、簡潔に600字以内で意見を出しました。

 取るに足りない者が大変恐縮しますが以下の四点要望します。

一 女性皇族身分維持案を恒久的制度にしないこと。皇室典範12 条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)改正に強く懸念を持ちます。反対です。
 養子案の時期を区切るならそれとの見合いで特例措置に、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員等を担う皇族を確保するため 、当面の皇族減少期の特例とすること。
二 身分維持案実施にあたり、御用地に居邸を造営することに反対。内親王降嫁の先例は夫方居住である。納采の儀、入第の儀等、嫁娶婚儀礼の形式を変えないこと。女性皇族の墓所は婚家の廟所とすること(17・18世紀の前例は全て婚家の廟所)。
三 女性皇族の配偶者・子息の准皇族化(維新の提案)に反対。
四 報道されている自民党のお相手が旧皇族の御子孫だった場合皇族身分付与案は、結婚が決まった段階で、養子とするか直接復帰で皇族とし、先例に準拠して現存宮家承継家か新しい宮家の当主とし女性皇族は婚嫁して王妃内親王、王妃女王とすべきです。明治皇女三方の婚嫁のために新たに宮家を創設した下記の結婚の事例が参考になります。
 明治四一年 竹田宮恒久王妃 昌子内親王(まさこないしんのう)
 明治四三年 朝香宮鳩彦王妃 允子内親王(のぶこないしんのう)
 大正五年 東久邇宮稔彦王妃 聡子内親王(としこないしんのう)

2025/04/28

女性皇族が結婚しても皇族の身位を失わない案の自民党と立憲民主党の非公式協議のニュースについて

 前回のエントリーをYouTubeにアップする予定。近日のニュースについて冒頭触れることとし、以下はその台本です。  天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議は、四月一七日の会議で議論を打ち切り、次回会議(連休明けとみられる)衆参両院正副議長がとりまとめ案を提示する大詰めの状況にある。報道によれば四月二十四日に自民党の麻生太郎最高顧問と立憲民主党の野田佳彦代表が会談し、女性皇族が結婚しても皇族の身分を失わない案につき自民党は、女性皇族の相手が旧皇族御子孫なら、皇族とする新しい案を提示し、野田氏は女性皇族の配偶者と子に皇族の身分を付与するかどうかについて、皇室会議で判断する案で応答した、この折衷案について麻生氏は持ち帰り、今後断続的協議をすると伝えられているが、私の意見を述べる。

 自民党の新案について

 そもそも私は、女性皇族が皇族以外と結婚しても身分を失わないという有識者会議案に反対なので、これを容認している自民党案にも反対である。女性宮家に反対していた日本会議系の保守派議員もこの案に賛成しているのは釈然としない。配偶者や所生子は皇族とせず、皇位継承資格付与は議論を先送りするのが有識者会議案で、自民党は有識者会議の判断をなぞったものである。しかし政府事務局は夫方の私邸でなく、御用地を居邸としてよいとの考えである。御用地に宮殿が建ってしまえば、外形上女性宮家と認知されやすい。容易に北欧、英国、ベネルクスの男女いかんにかかわらず長子が王位継承する制度に改変しやすい。
 自民党は、女性皇族の配偶者が旧皇族御子孫なら、男系男子なので皇族とする案を、野田氏に提示したということだが、この案は養子案のバリエーションとすべきだある。皇統に属する男子を養子とする案については、自民党は賛成で、ただし養子には皇位継承資格は付与せず、その御子息から皇位継承資格を付与する案です。立憲民主党が総じて消極的であるが選択肢の一つとはしている。
 週刊誌報道で、噂レベルであれ女性皇族のお相手として旧宮家御子孫が取り上げられるの報道はこれまであった。その場合は、有識者会議の①案ではなく、②の養子案のバリエーションとするのが筋であると思う。
 つまり、結婚相手となる方は、養子となり宮家の継承者となり(もちろん直接復帰でもよい)、そこに女性皇族が嫁す。もしくは夫婦で養子となり、この場合は、御子息からではなく配偶者にも皇位継承資格を付与する皇族とすればよい。 前例は内親王が世襲親王家や旧11宮家のうち4宮家に婚嫁し親王妃、王妃となるものでその類比で先例とすべきである。

世襲親王家に婚嫁した内親王


 霊元皇女 綾宮 福子内親王(ふくこないしんのう)伏見宮邦永親王妃 元禄11年1698
 東山皇女 姫宮 秋子内親王 伏見宮貞建親王妃(さだたけしんのうひ)宝永7年1710
 中御門皇女 籌宮(かずのみや)成子内親王(ふさこないしんのう)閑院宮典仁親王妃 明治時代に追諡(ついし)され、慶光天皇(きょうこうてんのう)の妃 寛延2年1749

 

 明治皇室典範制定後に宮家に婚嫁した内親王

 

 

明治天皇第6皇女 明治41年(1908)明治皇女 常宮 昌子内親王 竹田宮恒久王妃 明治41年1908
明治天皇第7皇女 周宮(かねのみや) 房子内親王 北白川宮成久王妃(なるひさしんのうひ)明治42年1909
明治天皇第8皇女 富美宮 允子内親王(のぶこないしんのう) 朝香宮鳩彦王妃(やすひこおうひ)明治43年1910
明治天皇第9皇女 泰宮(やすのみや)聡子内親王(としこないしんのう) 東久邇宮稔彦王妃(なるひこおうひ)大正5年1915
昭和天皇長女 照宮 成子内親王(しげこないしんのう) 東久邇宮盛厚王妃(もりひろおうひ) 昭和18年1943

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訂正 栄子内親王は二条綱平に降嫁

 このように内親王が宮家に婚嫁して親王妃・王妃となるのが通例であったわけであるから、この前例を踏襲すればよいことで、要するに婚約した段階で、結婚のお相手をに復帰していだく。宮家当主か継承者として皇族に復帰していただく案のほうがよいと思う。内親王といっても天皇家から婚出して宮家に嫁していることになります。
 戦後「家」制度は法的にはないから考えなくてよいなどというのは暴言です。

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 なお内親王が天皇家から婚出しないで結婚した前例は、後桃園皇女欣子内親王(よしこないしんのう)のように皇后になるケースである。22歳で早世された後桃園天皇の唯一の子女です。
 それで、閑院宮典仁親王の第六王子祐宮(さちのみや)(東山三世王)を公卿会議をへて皇位継承者とした。安永8年11月8日(1779年12月15日)に危篤の後桃園天皇の養子となり、儲君に治定される(実際には天皇は前月中既に崩御しており、空位を避けるために公表されていなかった)と光格天皇のウィキペディアには書かれてますが、後桃園天皇の女御藤原(近衛)維子(これこ)の養子ないし猶子とされる場合もあります。それでこの系図では養子で継承した形で直系にしてます。
 この前例があてはまめることができるのは敬宮愛子内親王が悠仁親王殿下と結婚される場合です。
 父方いとこ婚としては10世紀の冷泉天皇と昌子内親王があります。平安時代に伯父-姪(淳和-正子内親王)、甥-伯母(醍醐-為子内親王)、異母兄妹婚(平城-朝原内親王)とか近親婚は結構ありますから全然問題ないです。昨年の大河ドラマに登場した一条天皇と藤原定子は母方のイトコですしね。
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 その場合、直系継承とするため、悠仁親王殿下を今上陛下の養子とすることも前例どおりとなります。

 したがって自民党新案が養子案のバリエーションなら私はあえて反対はしません。

 

 野田代表の提案について

 

 次に野田代表の提案、女性皇族の配偶者と子に皇族の身分を付与するかどうかについて、皇室会議で判断する案ですが、これは内規として 11宮家の御子孫なら皇族に、それ以外なら皇族にしないという前提なのでしょうか。それともその時々の皇室会議構成員の良識で判断するということなのでしょうか。
 もし内規なしにやると次のような問題が生じると思います。私は大正9年以降昭和18年まで次男以下の王で12方(皇族の臣籍降下を可能にした明治40年皇室典範増補第一条により、情願によって家名を賜り降下し華族に列している方々)の御子孫も復帰の対象とするという考え方です。
 四月一七日の会議の報道では、養子案は11宮家の御子孫に限定という意見が趨勢とされてますが、これは昭和22年皇籍離脱以降の御子孫なのか、大正9年までさかのぼるかという問題はございます。
 それから皇別摂家ですね。ネットで公開されていた論文で木村修二の「近世公家社会の「家」に関する一試論養子縁組をめぐって」史泉 79 1994年という論文がございます。五摂家について近世、幕末まで、実系で家督相続されてるか養子なのか逐一記述されてますが、まず近衛家は近世初期に後陽成皇子の近衛信尋が養子となって以降、幕末まで実系で続いています。一条家も後陽成皇子の一条昭良が養子となってますが、三代実系でしたが、鷹司家から養子を迎えたのが一条兼香ですが、、近世初期の段階で、鷹司、九条、二条の三家はすべて養子相続で准后関白二条晴良の子孫でした。この人は信長時代に関白でした。純粋藤原氏の血筋といえますが、数代続きますがこの血筋も中切れになり、醍醐家から養子を迎えてます。醍醐家というのは、後陽成皇子一条昭良の子が曩祖なので一条家の傍系、それも一代で終わったので醍醐家の分家四条家から養子を迎え、明治維新に至ってます。養子相続で幕末まで純粋藤原氏の血筋は、九条家と二条家だけです。鷹司家も二条晴良系の実系が五代続くが、近衛家から養子を迎え、それも途絶したので、また二条晴良の実系子孫である一条兼香の子を養子としたが一代で終わり、閑院宮直仁親王の王子実子を養子に迎えます。鷹司輔平ですが数代実系がつづいたが、幕末に九条家から養子を迎えてます。
 ということで旧華族で男系でさかのぼると後陽成天皇となる方もそこそこいらっしゃる。そのような方々が女性皇族と縁談があった場合はどうなるのか。
 私は、『椿葉記』の皇統上の格別の由緒があり、天皇と血縁が離れても、ステイタスが劣化することのない別格の宮家(准天皇家)として550年、天皇家と併存し、皇族の崇班を継承してきた、伏見宮系御子孫に限定すべきで、藤原氏の養子に迎えられた家系から復帰することに論理性がないので、八幡和郎氏が旧皇族に限定しなくていいなどと言ってますが、私は反対です、生理的血筋で男系ならよいというものではありません。
 ということで、皇室会議で異論がでたりすることがあると考えます。
 ところで皇室会議は異論なくしゃんしゃんと決定されることが多いように思います。「カトリック問答」は岸総理のやらせともいわれ、異論で紛糾する話は聞いたことがない。今後は異論が出たりすることも想定し、皇族の身分付与の問題で納得いかない国民もいるかも知れないので、野田代表案でまとまるかは私にはわかりません。
 いずれにせよ私は 皇族以外の女性皇族の配偶者と子に皇族の身分を付与することに反対で、旧皇族がお相手なら、養子案か直接復帰案のバリエーションとすればよいことなので反対です。

2025/04/26

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議に関する意見具申

 

                                                                                               令和7430

  

 衆参両院議長・副議長・国会議員へ

 

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議に関する意見具申

                    

  取るに足りない者が厚かましくも、上申する無礼をお許しください。大詰めですが、本件は、たんに国制の根幹にかかわるだけでなく、皇室が模範的存在である以上、国民の家族倫理にかかわる事柄ゆえであります。

  要旨(要望および国会協議の論点批判)

一 ①案を恒久的制度としないこと。皇室典範12 条は絶対改正しない

 

二 ①案の主たる目的は、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員等を担う皇族を確保するため 、当面の皇族減少期の特例として実施すること。

 

三 ①案の配偶者や御子息の身分、女性皇族に皇位継承権を付与するか否かは、議論を先送りとする。

 

四 ①案実施にあたり、御用地に居邸を造営することに反対。内親王降嫁の先例は夫方居住である。

 

五 ①案実施にあたり、納采の儀、入第の儀等、嫁取(嫁娶、嫁入)婚儀礼の形式を変えないこと。

 

六 ①案実施にあたり、女性皇族の墓所は婚家の廟所とすること(17・18世紀の前例は全て婚家の廟所)

 

七 女性皇族の配偶者・子息の准皇族化(維新の提案)に反対 

 

八 後宇多上皇の猶子として順徳曽孫源忠房が親王宣下を受けており、養子となって皇籍に復帰した先例はある 

九 養子案について天皇との血縁の疎隔・親等は全く問題にしなくてよい

 

 私自身の意見は、有識者会議の案女性皇族(内親王・女王)が皇族以外と結婚しても皇族の身位を失わず保持する案は、皇室制度を破壊するので反対、皇統に属する男子直接復帰の一択、の皇統に属する男子の養子案は現存宮家が養嗣子を望む場合の次善策という評価である。

 有識者会議とくに当時の事務局には①案を恒久的制度としたいとしている点で悪意がある。有識者会議①案に好意的な自民党案にも反対。男系さえ維持できれば良いというものでは全くない。

 最善策は③案の一択。後崇光院太上天皇の親王時代の著書『椿葉記』にある伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒、後小松上皇(室町院領について応永231416に永代安堵の勅裁を得ている [白根陽子, 2018]これは史実)、後花園天皇(康正2年1456「永世伏見殿御所」号勅許の所伝-複数の史料がなく裏付けなし)の叡慮により永代存続が約され、天皇と血縁が離れても、ステイタス が劣化することのない別格の宮家(准天皇家)として550年、天皇家と併存してきた歴史的経緯、意義を重んじ、宮号の再興、旧皇族家の復帰・復籍をコンセプトとすべきであるとの見解である。

 特に反対なのは有識者会議の事務局が、①案実施のため皇室典範 12 条「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは皇族の身分を離れる」を改正し、特例ではなく恒久的な制度とする方針を打ち出していた。皇室典範 12 条の改正は大きな変革であり恒久的制度とすることは反対である。

 有識者会議は②案皇統に属する男子を養子とする案と併行もしくは①案を先行して実施することをにじませているが、①案は破棄すべき。

  ただし、生涯非婚内親王については、女院宣下(多数)や非婚内親王の准母立后(11例)として厚遇された歴史があり、院庁や附属職司、家礼を従えていた。たんに内親王であっても、例えば後鳥羽皇女昇子内親王は当歳(満0歳)で内親王宣下され、政所家司として職事、家司、蔵人、侍者 、御監 、庁年預 が補任され、家礼を従える身分である。また御給(年官年爵)という、毎年一定数の官職や位階を与えるべき者を推薦し、その任料・叙料を推薦者の所得とした制度もあった。皇室領の実効知行地が大きく減少した室町・戦国時代は皇女のすべてが入寺得度し尼門跡(比丘尼御所)となったが、門跡領は広義の皇室領で幕府が保護していたので寺領経営体のトップで相応の収入があった。 例えば後土御門皇女渓山が住持の大慈院の永正7年(1510)~14年(15177年間の主な収入が1867貫7文[菅原正子(2002)]で、現代の貨幣価値に換算して2億円近くしかも黒字で、年収3千万円弱の住持が皇女のポストであった。

  このように、生涯非婚内親王が厚遇されていた歴史的経緯をふまえ、内親王(女王であっても)が皇族の身位で残っていただくために、生涯非婚を前提として独立居邸、家政機関を附置する宮家があってもよく、これは皇室典範を改正することもなく、できることなのでの代替案である。

 しかしながら、①案はほぼすべての政党が、賛成していること。②案は合意を得ていないが、多くの政党が支持していることから、 とりまとめは、の併行もしくは①先行実施の可能性が強い状況になってきた。 私としてはきわめて遺憾だが、意見を改め、よりましな制度設計を要望するとともに、国会での協議で出てきた各党の意見で明らかに間違っていると思う点を以下のとおり、上申するものである。

 

一 ①案を恒久的制度としないこと。皇室典範12 条は絶対改正すべきでない

   皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)は、明治22年皇室典範44条と同趣旨で、旧典範を継受したものである。

  帝国憲法皇室典範義解によれば旧皇室典範 44 条の趣旨は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス」とされ婚出した女子(出嫁女)は夫の身分に従うゆえ、皇族の列から離れるとしている。

  つまり夫婦同一身分、婚入配偶者(嫁・婿)の婚家帰属、死後は婚家の仏となるという、侯爵夫人なら、夫に従って侯爵家の成員、公爵夫人なら公爵家の成員というように我国の常識的な家族慣行に即した合理的な判断をとっているのである。

  にもかかわらず有識者会議は、表向き女性皇族を皇室に留める方策として旧皇室典範 44 条の趣旨を顧みることもなく、それを継受した皇室典範12条を安易に棄て去る判断をとっていることは大きな過ちである。

  むろん「家」制度は戦後否定され、戸主の統制、長男の権威が喪失したが、家長と主婦の連鎖で永続する「家」が我が国の家族慣行、社会構造(清水昭俊は「家」分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的と定義)で現に存在し、家督相続も慣行として存在し、結納・白無垢・色直しといった嫁入婚の習俗も失われていない。世界的にファミリー企業の平均寿命は 24 年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜 2010 ]。老舗企業が健在なのは家職の継承「家」制度が社会構造であるため。皇室でも納采の儀と入第の儀は嫁取婚に相当する儀式である。「民法の父」明治民法起草者梅謙次郎は夫婦同氏制度の立法趣旨の一つに妻が夫家に入ることが家族慣行を挙げている。

  有識者会議事務局は12条を改変したい。この目論見は、男女いかんにかかわらず初生子が王位継承者とする北欧・西欧の王室の制度に容易に転化できる、マルキストのいう古典的一夫一婦制の止揚、ジェンダー差別を廃し家父長制を敵視する共産主義者の意向に沿ったものとなるからである。

  ここさえ一点突破すれば、西欧の王室のような男女共系へ移行は先送りでも左翼陣営は大勝利といえる。

  社会人類学の大御所清水昭俊によれば、日本的「家」とは家連続者一名(跡継ぎ、実子長男が通例だが、家付き娘、養子の場合もある)だけが家に残り、婚入配偶者(主婦予定者としての嫁、家長予定者としての婿)を迎えて「家」を継承する。その他の家成員は婚出、養出、分家設立により生家から離れるのが、日本の「家」のルールである。個人が帰属する家は一つ、両属はありえない[清水昭俊1970,1972,1973] 。

  .むろん令制の「天皇家」は少なくとも戦国時代まで正妻は確立していなかったし、宮門跡、尼門跡という天皇の諮問に答えることで国政にも参与しうる、生涯独身のポストが用意されていることは、一般の「家」とは違うが、天皇家も少なくとも14世紀以降「家」制度的に運用されていた。

  分割相続から嫡子単独(限嗣)相続に移行した日本的「家」は1415世紀に成立した。

  つまり皇室も 14 世紀の後光厳天皇より、嫡子(限嗣)単独相続で、猶子という親子関係の擬制により日本的家制度の直系継承となった(伏見宮出身の三世王後花園天皇は後小松天皇の猶子、閑院宮出身の三世王光格天皇は後桃園天皇の養子なので皇統転換はしていない建前)であり、幕末まで儲君以外の皇子は宮門跡に入室し法親王となり、儲弐以外在俗でありうるのは世襲親王家が空主となったケースのみである。

  皇室が単独相続となったのは禁裏御料の収入が15世紀中葉に現金換算で年収7億円程度ほどあったが[久水俊和 2021]、分割できる余裕はないこと。14世紀は貴族社会が限嗣単独相続の移行期だったこと。猶子が貴族武家社会で実質的意味を有していたこと。猶子による万歳継帝を望み伏見宮への皇統転換を否定した後小松院の遺詔に後花園が忠実だったことによる。

  皇女には独自の知行はなく、それゆえ室町戦国時代は十代前半で寺領経営体のトップとなる尼門跡となった。17世紀になると皇女が増加し、尼門跡のポストが不足したことから、摂家への降嫁、17世紀末からは霊元上皇の復古政策で皇族との結婚がみられる。

  皇室典範 12 条は家族慣行に沿って妥当な立法趣旨があるのでこれを改変することは、たんに皇室の問題でなく、皇室が国民に慕われる存在ゆえ、国民の家族慣行に与える影響が大きく、いかに皇族数を確保する理由であるとしても反対なのである。

  前記引用の旧皇室典範 44 条義解「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故ニ」とは、出嫁女の婚家帰属性を意味しているというのは、明治 8 年内務省「夫婦同氏」案の趣旨と合致するからである。

  明治8年 11 月9日妻の氏について未だに成例がないために内務省は、腹案を示しつつ伺出を太政官に提出している。

「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又

ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候ヘ

共、右ハ未タ成例コレナキ事項ニ付決シ兼候ニ付、仰上裁候‥‥」[廣瀬隆司(1985)][近藤佳代子(2015)]

  夫ノ身分ニ従フ筈ノモノという文面からみて皇室典範義解と内務省の夫婦同氏腹案の趣旨は同じである。

  要するに内務省案は、華士族平民いずれであれ、婦女は他の家に婚嫁した後は、夫の身分に従うはずのもの。婚家に帰属するのであるから、夫家の苗字を終身称するのが穏当というものである。

  夫の身分に従うというのは、夫婦同一身分、嫁取婚(嫁入婚)、大化元年の男女の法に遡ることができる父系帰属主義といずれの見方も可能であるが、我が国の家族慣行の常識である。

  江戸時代の婦人道徳の教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』貝原益軒)とあり、1世紀の白虎通を典拠として、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、婦人道徳の規範であり[柴桂子(2004)]。それは歴史的に一貫した道徳なのである。

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中国の宗法においても出嫁女は夫の宗に属するので朝鮮・韓国の門中も含めて、東アジア共通の古くからの文化ともいえるのでその意味は深い。

  このことは、同戸異姓の禁止、氏を統一した明治政府の政策とも合致している。実際今日においても夫婦同氏の 96%が夫家姓であるのも、日本が準父系の社会構造であることを示す。

  つまり日本的家族慣行に合致させた意義といえる。それを否定し、婦人は婚家を継ぐものという伝統的婦人道徳を粉砕してしまう危険性の強い提案が有識者会議事務局7の皇室典範12条改正提案である。このようなリスクのある提案は断乎回避すべき。

  ところで、417日の国会協議では、紀宮清子内親王や、眞子内親王と同様、従前どおり一般国民と結婚後、皇族から離脱する選択肢を残すべきとの意見が出たとされている。それならば、皇室典範 12 条は維持したうえ、皇族以外と結婚後も身位を維持するのは当面の特例として実施するのとすべきというのが私の提案である。

 

二 案の主たる目的は、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員等を担う皇族を確保するため 、当面の皇族減少期の特例として実施すること

 

  皇室を維持するために摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員を担う皇族は最低必要というのは有識者会議の表向きの見解であり、それ自体説得力はあるので認める。ただし①案の配偶者や御子息を皇族とするか、女性皇族を皇位継承者とするかという議論は、悠仁親王殿下が結婚する時期まで先送りする。これは自民党案と大筋で同じ見解である。

  この議論は悠仁親王殿下のお妃選びと男子が誕生されるか鍵になってくるが、伏見宮系皇族は初代栄仁親王(観応21351降誕、応安元年1358親王宣下、応永231416薨)から26代博明王まで600年近く実系が途絶えることもなく皇族の崇班を継承し(16代薨後空主となり、17代貞行親王は桃園皇子でいったん血筋は中切れになったが、親王は早世され、『椿葉記』の由緒、持明院統の正統を自認、仙洞御文庫や仙洞御所を相続し、琵琶の秘曲伝授など正統の流儀を継承してきた矜持から実系維持を望む伏見宮家の嘆願で、邦忠親王の弟の勸修寺門跡寛寶法親王が還俗し18代邦頼親王となる[武部敏夫 1960])700年近く実系で続いていて、異なる家筋から養子をとらずに続いているのは貴重な家系といえる。五摂家は、近世初期の段階で二条晴良の子孫だけが残り(当時の鷹司、九条、二条家)、四家の実系は途絶した[木村修二1994]。公家は養子相続が多く、江戸時代の四世襲親王家も三家の実系は途絶したことと比較して、伏見宮系旧皇族の御子孫は実績からみて男子が誕生する確率が高い。③案が最善だが②案実施なら旧皇族の御子孫で男子が多くご誕生になるケースもありうる。

  皇位継承者たりうるか現段階では不透明なのに、すべての女性皇族を皇族以外と結婚しても身位を維持していくのは、かえって負担になる。①案は恒常的制度とせず、当面の特例として実施すべきである。

 

 四 ①案実施にあたり、御用地を居邸とすることに反対、内親王降嫁の先例どおり夫方居住であるべき

 (一)内親王・皇女が臣下に降嫁した17世紀以降の10例はすべて夫方居住

  女性皇族が、皇族以外と結婚した場合でも、御用地を居邸をすることも可能と、事務局がしている点については反対である。

 アン王女を①案のモデルとするならば、コッツウェルズのマナーハウスは、エリザベス女王が結婚祝として購入し、ロンドン滞在時はセントジェームス宮殿が居所とされているから、王室側が用意している。

 しかし、有識者会議事務局の調査資料が前例としている、婚約したが家継急逝により江戸に下向せず、3歳で未亡人となった八十宮吉子内親王を除く6例を含め、内親王や皇女が臣下に降嫁したケースは、少なくとも17世紀の摂家に降嫁した1例と、18世紀の将軍家に降嫁した1例はすべて夫方居住、嫁取婚、墓所も婚家の廟所で、内親王は婚入配偶者として婚家に帰属するものとなっている。

 以下の例はすべて夫方居住である。ここでは史料上記録のあるもの限って記載する。

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(二)前例 和宮(静寛院宮親子内親王)について

上記の康子内親王、常子内親王とともに有識者会議事務局の調査資料が①案の前例としているので言及しておく。

  徳川将軍家茂に降嫁した仁孝皇女和宮は嘉永6年(18516歳で有栖川宮熾仁親王と婚約。親王妃となる皇女として300石の化粧料が充行われた[久保貴子2009]。しかし幕府は万延元年(1860)朝幕間の緊張緩和、公武一和を目的として、和宮の将軍家茂への降嫁を奏請することを決し、朝廷は孝明天皇のご希望でもある鎖国攘夷の措置を講ずればこの要請を拒否しないこととなり、熾仁親王との婚約は棄破されて、内親王宣下(親子内親王)の後、文久元年(18614 月、同年 10 月に桂宮邸を出立、1115日江戸到着、文久2年(1862211日婚儀をあげられた。姑の家茂養母天璋院と「御風違い」の反目があつたことはドラマなどで描かれている。慶応2年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。院号は天皇が選んでいるが将軍正室としての院号である。

  静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視されたうえ、婚家が天皇の名をもって討伐を受ける最悪の事態となった。 

  慶応4年(1868)静寛院宮は慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。

  2月26日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。3 月には帰順した者の宥免を求め、大総督府はこれを承諾することになった。明治2年~7年まで京都に帰住され、7年より東京麻布市兵衛町を居邸とされたが、脚気の発病で明治10年湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨ぜられた。洋行中の徳川家達の留守居、旧 津山藩主松平確堂(徳川家斉十五男)を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫(1987)]。ということで和宮も夫方居住、嫁入婚、徳川家の家名存続と慶喜寛大処分のため尽力され、葬儀も徳川家でなされ、墓所も徳川家の菩提寺である。

(三)10世紀康子内親王は夫方居住、保子内親王と盛子内親王は訪妻婚だが、御用地に居邸造営はありえない

 次節で述べるとおり、公家の嫁取婚儀礼は戦国時代に確立しており、江戸時代の内親王降嫁はすべて嫁取婚夫方居住である。後水尾皇女女二宮や賀子内親王の摂家への降嫁で大きな御殿が造営されたのは、母が東福門院源和子で外祖父が秀忠、徳川の縁者であるためで、婚姻に際して幕府より三千石が献上されている。

 戦国時代に荘園公領制は衰退したため、豊臣秀吉は、諸公家、諸門跡の中世の知行を収公し再給付することより、知行充行権を掌握した [山口和夫2017]諸公家の収入は安定したが、それぞれ由緒のある公家の所領であった中世の荘園公領制とは違って、知行は再給付した秀吉の麾下におかれることとなった。この知行充行権は徳川幕府に引き継がれ皇室、宮家、公家は幕府より御領、家領の知行を充行われる近世的領主となったのである。

 徳川幕府は皇女に冷たく、17世紀に独自の知行を与えていない。後水尾皇女梅宮(女一宮・母は典侍四辻公遠女与津子)は 13 歳で鷹司教平に降嫁したが数年後に離縁、その後剃髪し、法諱を文智という。文智女王に独自の知行はない。東福門院(秀忠女源和子)が文智の円照寺のために幕府に寺領寄進を依頼したため、寛文8年に家綱からやっと寺領200石の朱印状が発せられたのだという[久保貴子200)]

 嫁取婚ではなかった10世紀の藤原師輔への内親王三方の降嫁は、いずれも内裏で密通し、違法婚だが事後的に承認された例だが、一品准后康子内親王は師輔の私邸である坊城第を居所とされていた。ただし村上皇女の保子内親王は、摂政兼家が通っていたがつまらない女だとして途絶えてしまった事例で訪妻婚である。盛子内親王の居所広幡第は、祖父・源庶明、母・計子を経て継承し、夫である藤原顕光を経て僧・仁康に施入され、広幡寺とされた。これも訪妻婚だが、妻の財産を夫が相続している事例。

 今回、事務局が①案のように臣下と結婚する場合、御用地の邸宅を認めていることについて先例はないといってよい。むろん、女性皇族の配偶者については、皇族同様、VIPとして身辺警備に政府が関与すべきだし、セキュリティ上しかるべき高級住宅を居所とするため持参金などとして皇室側が支出し、名目的には内親王・女王の財産であってもよいが、先例どおり、夫方居住を原則とすべきである。御用地の居邸造営は、女性宮家と同じことになり、将来、初生子相続、男女共系の北欧、ベネルクス、英国と同じ方向性に傾きやすくなるため反対である。

 

 五 ①案実施にあたり、納采の儀など嫁取(嫁娶、嫁入)婚儀礼の形式を変えないこと

 

 脇田晴子[1992]によれば、中世における嫁取婚の一般的成立は、「家」の成立を意味し、嫁取婚形式の「家」とは一夫一婦制と正妻の確立であるとする。

 公家の嫁取婚の成立時期の通説は鎌倉時代だが、後藤みち子[2014]は公家日記を厳密に検討し、嫁取儀礼の確立は、戦国時代とした。

  嫁取儀礼とは家長が嫡子に正妻を本邸で迎える儀式のことである。儀式の後、正妻は夫方の父母や親族と対面し三献で祝うことにより、夫家の親族となり、家司たちとの祝いの宴により夫家の一員と認められたこととなる。戦国時代より婚礼後は父子二世代同一屋敷別棟居住となった。戦国時代の公家は、戦後の民法改正まで続く、嫡子単独相続日本的「家」の雛形といえるだろう。

 17世紀に内親王・皇女が摂家に降嫁した9例と、幕末の将軍家に降嫁した1例はすへて嫁取婚といえる。夫方居住の表で示したとおり、近衛家熙に降嫁した霊元皇女憲子内親王の嫁取儀礼は、家熙の母常子内親王の日記无上法院殿御日記と父の基煕公記に記録されており、他の事例も同様と考えられる。

 なお八十宮吉子内親王は、幕府より江戸下向までの御殿が築造され、納采の儀の後、婚約者の家継が夭折したので僅か3歳で未亡人となった。江戸に下向されてないので、婚礼はないが、将軍正室の寡婦扱いなので、幕府は合力500石の道具料を進献、享保14年(1729)毎年合力銀200両で厚遇されたのである。[久保貴子2009]。

 令和3年眞子内親王の婚儀では納采の儀、告期の儀、賢所皇霊殿神殿に謁するの儀、参内朝見の儀、皇太后に朝見の儀、内親王入第の儀がなされた。 

  納采の儀は、婚約、結納にあたる。賢所皇霊殿神殿に謁するの儀は、内親王が三殿の外陣で拝礼念するもので、五衣唐衣裳に正装し、他家へ嫁ぎ、姓が変わる前に皇祖神ほか神々へのお別れのご挨拶を申し上げるものとされる。入第の儀というのは嫁迎えの儀式で、嫁入婚の形式である。①案では賢所皇霊殿神殿に謁するの儀の位置づけが大問題となるが、婚入配偶者と位置づけで、変更しなくてもよいと思う。納采の儀・内親王入第の儀を変更する必要はない。

  内親王が皇族と結婚する場合でも、宮家への嫁入婚であるから、以下の婚礼の先例研究も必要となるだろう。

元禄11年(1698)霊元皇女 綾宮 福子内親王 伏見宮邦永親王妃

宝永7年(1710)東山皇女 姫宮 秋子内親王 伏見宮貞健親王妃

寛延2年(1749)中御門皇女 籌宮 成子内親王 閑院宮典仁親王(慶光天皇)妃

明治41年(1908)明治皇女 常宮 昌子内親王 竹田宮恒久王妃

明治41年(1908)明治皇女 周宮 房子内親王 北白川宮成久王妃

明治43年(1910)明治皇女 富美宮 允子内親王 朝香宮鳩彦王妃

大正5年(1915)  明治皇女   泰宮 聡子内親王 東久邇宮稔彦王妃

昭和18年(1943)昭和皇女 照宮 成子内親王 東久邇宮盛厚王妃

六 ①案実施にあたり、女性皇族の墓所は婚家の廟所とすること(1718世紀の前例は全て婚家)

   臣下に降嫁した内親王の墓所について、先例は少なくとも17世紀以降10例は全て婚家の廟所となっており、宮内庁の管理ではない。昭和天皇第三皇女鷹司和子も鷹司家の廟所二尊院が墓所である。案においても先例どおり豊島岡墓地ではなく婚家の墓所とすべきある。女性皇族の配偶者や御子息も同様である。

(一)康子内親王の仏事について

 まず臣下に降嫁した内親王の先例について、藤原師輔が内裏で密通のうえ、事後的に勅許された10世紀の醍醐皇女准后一品康子内親王について、四十九日は法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳元年七月二二日条)一周忌も法性寺で行っている(『日本紀略』天徳二年六月四日)[栗原弘(2004)]。 墓所は不詳である。

 法性寺とは関白藤原忠平が京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺でもあった。寺域は広大で現在の東福寺や泉涌寺のある地域を含む。

 平安時代を通じて藤原氏の氏寺として繁栄し、藤原忠通は法性寺で出家し、法性寺入道前関白太政大臣と称される。九条兼実も後法性寺殿と称された。

  しかし鎌倉時代九条道家が東福寺を建立し浸食される形で縮小、応仁の乱で衰退した。

 法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子(伊尹・兼通・兼家・安子の母)の一周忌のほか忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光の四十九日が執り行われている。また村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤藤原忯子(為光女)の四十九日、また藤原安子と円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が行われている[栗原弘(2004)]。

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 小野宮流の仏事も行われていることから、法性寺は忠平一門の氏寺的性格とみてよいだろう。

なお康子内親王の仏事が法性寺で執り行われたことについては、皇族が母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、母方の氏寺で執り行われたという解釈を栗原弘氏がとっており、仮に康子内親王が生涯非婚であったとしても、官寺である法性寺で法要がなされた蓋然性は高い。

  この時期は日本的「家」は確立されていない。したがって婚家の氏寺での仏事と解釈できない。

栗原弘によれば、藤原師輔や兼家、源雅信の妻は夫方の寺院や邸宅で法要がなされているが、一方、道長の妻源倫子の追善法要は不明で墓所は仁和寺であり、道長は木幡であるから夫婦別墓である。頼通の妻隆姫女王の四十九日は、三井寺の常行堂で、葬式も実家の甥源俊房が執り行っていて、夫方が関与していない。11世紀の時期の妻の追善仏事は、夫方か実家のいずれか、夫方と実家と双方で行われ、夫方か実家かは遺族が選択していると栗原弘は解説している。過渡期なのである。

(二)17世紀以降の内親王は全て婚家の廟所

  しかし、17世紀以降の内親王・皇女が臣下に降嫁した12例はすべて、墓所が婚家の廟所であり、葬儀、追善仏事も婚家とみなしてよい。

以下の表は筆者がネットで調べたものである。

Bochi1 

明治皇女・昭和皇女

Bochi2

 上記の表にないが、東山天皇の皇后、中宮皇后幸子女王(女院宣下承秋門院・父有栖川宮幸仁親王)は、月輪陵である。リストから除いた多くの尼門跡については門跡寺院が墓所となり、宮内庁治定陵墓である。分類すると以下のとおりとなる。

1 非婚内親王 すべて宮内庁治定陵墓

 〇泉涌寺(御寺・皇室菩提寺-月輪陵・後月輪陵)

明正女帝、後桜町女帝、淑子内親王

 〇般舟院(御寺・皇室菩提寺) 孝子内親王(礼成門院)

 〇光雲寺(母后ゆかりの寺)昭子内親王 

 〇知恩院(徳川家ゆかりの寺)吉子内親王(婚約者徳川家継夭折により江戸に下向せず、将軍家の寡婦待遇)

2 皇后に冊立された女王・内親王(宮内庁治定)

 〇泉涌寺(御寺-月輪陵・後月輪陵)東山后中宮幸子女王、光格后中宮欣子内親王

 3 皇族に婚嫁した内親王

 〇相国寺内伏見宮墓地 福子内親王、秋子内親王(宮内庁治定)

 〇蘆山寺(閑院宮家墓地)籌宮成子内親王(宮内庁治定)

 〇豊島岡墓地 昌子内親王、允子内親王、房子内親王、聡子内親王、照宮成子内親王

 4 臣下に降嫁した内親王

 〇二尊院(鷹司家・二条家廟所)

清子内親王、貞子内親王、賀子内親王、栄子内親王、和子内親王

(二条家の賀子内親王御殿の御化粧之間が元禄年間に移築され、非公開だが茶室とて現存)

 〇東福寺塔頭海蔵院 女二宮

 (海蔵院には近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。女二宮が改葬されていない理由は不明)

   〇大徳寺(近衛家廟所)常子内親王、憲子内親王

 〇東福寺(九条家廟所)益子内親王

 〇増上寺(徳川家廟所)親子内親王

このとおり、臣下に降嫁した内親王江戸時代の10例と、戦後、鷹司平通氏に降嫁した昭和天皇第三皇女の和子内親王も含め、すべて婚家の廟所で、宮内庁治定陵墓ではない。

内親王案もが皇族以外と結婚した場合は、先例どおりとすべき。

七 女性皇族の配偶者・子息の准皇族化に反対

(一)准三宮(准后)宣下は有力貴族個人の実績による特別待遇、もしくは天皇近親の皇族等を厚遇する措置、摂家出身等の門跡を名誉的地位というべきで、准皇族を意味しない

◇准皇族という範疇は歴史的にない

 日本維新の会から、女性皇族の配偶者に称号を与えるとか、准皇族とする案が出されている。称号を与えたうえ,御用地内に宮殿を築造するとなると、待遇上皇族に近く容認しがたい。

 維新の会は准三宮(准后)が准皇族との見解だが、歴史学者はそのような見解をとっていない。

  従三宮(准后)の初例は、貞観13年(871年)、初の人臣摂政である藤原良房であり、三宮に準じて年官・封戸・随身兵仗を与えたことである。次いで藤原基経が、摂政在任中に三宮に准じて随身兵杖、年官・年爵(叙位・任官の推薦権、実質売官制度、院、三后だけでなく親王、内親王にも推薦権があった)を与えられたことで、朝廷の正式な制度として定着し、以後、皇族、公家、将軍家、高僧に与えられた。年官・封戸等は早くに実質を失い、もっぱら身分上の優遇を意味する称号に変化していったとウぃキペディアが説明している。准后宣下は明治初期までおよそ170例ある。

  つまり朝廷実力者個人に対する特権待遇(封戸や叙位任官推薦権、護衛の武官を三后に准じる)から始まった制度である。配偶者が皇族だから与えられるものでは全くないし、例えば藤原良房・基経・兼家・道長・頼通・忠実・九条道家・二条良基・足利義満・一条兼良・足利義政・義昭が准三宮宣下を受けているが、朝廷の実権を掌握した実力者、もしくは業績顕著な公家、武家である。個人一代に与えられる朝廷の待遇で、特別の家系を意味するものではない。あえて例えていうなら、首相より上席の大勲位相当者。

  生涯非婚内親王を厚遇するために准后宣下するケースは非常に多い。后となっていない天皇生母を厚遇する根拠として准后宣下するケースも多い。室町戦国時代に多い摂家や将軍家出身等の門跡准后は三宝院満済のように幕府の実力者のケースもあるがほぼ名誉的地位といえる。摂家の正妻も准后宣下されるケースがある。

 准三宮(准后)は、朝廷での序列(座次)や書札礼で高い位置づけとなる身分といえる。繧繝縁は最も格の高い畳縁で、天皇・三宮・上皇が用いるが、准后も繧繝縁を用いることが出来るとの見解もある。ただし朝廷での序列、座次に変遷があることは(四)で述べるように、太政大臣より上と考えられるが、二条良基により室町時代に明確に親王より上と定められたが、秀吉時代には忘れられ親王と同格の裁定、法親王と門跡准后と前関白が同格とされたこともある。

 とはいえ序列・身分の高さ=准皇族なのではない。令制は天皇と太政官二極による統治体制なので、臣下が親王・諸王より上席となるのはよくあることである。

 とにかく准三宮が個人一代のもので、家筋に与えられるものではなく、皇族、公家、後宮、門跡と対象も広範で、准皇族との理解は間違いである。

  むろん①案女性皇族の配偶者については身辺警備の対象とし、筆者は夫方居住とすべきとの見解なので、高額の持参金等、女性皇族を通じて財政的支援があってよいが、配偶者に格別称号、准皇族という特別の地位を創出すべきでない。それは女性宮家に転化の口実になるという意味でも反対である。

 むしろ、歴史的には、皇族の肩書、例えば嫡流の非婚内親王の後光明皇女孝子内親王(後光明天皇の唯一の皇子女で、後水尾院の意向で、手許に留める方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領 300 石が与えられた[久保貴子 2009])。桂宮を相続した仁孝皇女淑子内親王(天保 11 年(1840)閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料 300 石を得たが、2 年後に親王が薨ぜられたため結婚に至らず、朝廷は淑子内親王の御殿を用意できず、住まいを転々としていた[久保貴子 2009])が准后宣下されている。

  敬宮愛子内親王殿下については悠仁親王殿下と結婚し皇后となるケースもありうるが、非婚の孝子内親王の先例にもとずき准后として特別待遇することはありうると思う。

 江戸時代の皇女の多くは尼門跡(御宮室)となったが、幕末は尼門跡が荒廃したようで、入寺することはなかったと考えられる。淑子内親王が准后宣下されているように、非婚内親王を厚遇する趣旨なら前例どおりということである。

  准后良房は嵯峨皇女源潔姫を妻とし、准后基経は人康親王女(二世女王)を妻とし、准后兼家は保子内親王(村上皇女)を妻としたが、皇女や二世女王を妻としていることと准后宣下は全く無関係である。

  二世女王降嫁の初例は承和期に蔵人頭、式部大輔を歴任した右大臣内麿の十男藤原衛(淳和皇子恒世親王女を妻)は良吏だが、淳和上皇近臣のためか参議に昇進できず、二世女王降嫁が必ずしも有益でなかった事例である。

  村上皇女盛子内親王を妻とした左大臣藤原顕光は准后宣下されてない。

  三条皇女禔子内親王を妻とした関白藤原教通も准后宣下されておらず、外戚か格別の実力者でなければ准后宣下はされないともいえる。

 内親王降嫁は継嗣令王娶親王条では違法であり、とくに初期の右大臣藤原師輔と密通の上、事後的に承認された康子内親王のケースは、村上天皇の天気を害し、左大臣実頼などは批判的だった。令制が想定していない勅許による殊遇であるが、それによって准皇族化されるわけでは全くないわけである。

  令制では親王号、王号を称する皇親(天皇の親族)と、氏姓のある臣下に区別があり、院政期以降、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家といった家格によるヒエラルキーが形成されたが、皇族と臣下の中間に准皇族という範疇を歴史家は認めていない。

 僅かに岡野友彦が村上源氏の清華家久我氏を准皇族と言うが、孤立した見解にすぎず、村上源氏中院流が源氏長者及び淳和奨学両院別当を輩出する資格等を有していたとしても、皇位とは無関係で、それが准皇族とはいいにくい。

 臣籍に降下した古代、中世の皇別氏族は、歴史家は「王氏」と称するのが通例で、准皇族とはされないし、賜姓源氏は9世紀に藤原氏と横並びだが、摂関期以降は摂家より下位の家格とみなすほかない。近世では五摂家のうち三家が血筋では皇別摂家となり幕末まで純粋に藤原氏の血筋は、九条家と二条家だけだが、摂関就任資格で五摂家は対等で、家格が重要で実系の血筋は問題外。まして個人の特典にすぎない従三宮が准皇族という理解はありえない。

(二)内親王を妻としたことで准三宮の殊遇を得るわけでは全くない

 17世紀に摂家に皇女・内親王9方、将軍家に1方が降嫁されているが、内親王の配偶者10名のうち8名が摂関、藤氏長者だが、准后宣下を受けているのは近衛家熙だけであり、将軍家宣の正室が家熙の姉で、母が常子内親王でもある。たんに内親王の配偶者というだけで特典を受けることはない。

 従一位関白 鷹司信尚(後陽成皇女清子内親王降嫁)

従一位摂政 二条康道(後陽成皇女貞子内親王降嫁)

従一位左大臣 鷹司教平(後水尾皇女文智女王室、離別)

従一位左大臣 近衛尚嗣(後水尾女二宮降嫁)

従一位関白 二条光平(後水尾皇女賀子内親王降嫁)

従一位関白 近衛基熙(後水尾皇女常子内親王降嫁)

従一位関白 九条輔実(後西皇女益子内親王降嫁)

従一位関白准后 近衛家熙(霊元皇女憲子内親王降嫁)母は常子内親王

従一位関白   二条綱平(霊元皇女栄子内親王降嫁)

従一位右大臣 贈太政大臣 徳川家茂(仁孝皇女親子内親王降嫁)

 

(三)内親王を母とする公卿が必ずしも准后となるわけではない

 臣下で内親王を母とするケースをピックアップする。1011世紀の為光と公季は太政大臣まで昇進したが准后宣下は受けてない。江戸時代では近衛家熙と家久が准后宣下されているが、二条吉忠は贈准后である。母が内親王なので准后宣下を受けるという慣例はない。

 

 1 藤原為光(父右大臣藤原師輔・母醍醐皇女雅子内親王)

  右大臣より太政大臣(関白道隆の推挙)に昇進したが准后ではない。

 2 藤原公季(父右大臣藤原師輔・母醍醐皇女准后一品康子内親王)

右大臣より太政大臣に昇進したが准后ではない。

 3 藤原重家(父左大臣藤原顕光・母村上皇女盛子内親王)

  左近衛少将、五位蔵人、若くして出家。

4 藤原(鷹司)教平(父関白鷹司信尚・母後陽成皇女清子内親王)

  左大臣

5 藤原(二条)光平(父摂政二条康道・母後陽成皇女貞子内親王)

  関白

6 藤原(近衛)家熙(父関白近衛基熙・母後水尾皇女常子内親王)

  関白、太政大臣、准后

7 藤原(大炊御門)信名(実父関白近衛基熙・実母後水尾皇女常子内親王)

  左近衛中将 大炊御門家に養子に出されるが早世。

8 藤原(九条)師孝(父か関白九条輔実・母後西皇女益子内親王)

  左近衛大将、26歳で薨去

9 藤原(近衛)家久(父関白近衛家熙・母霊元皇女憲子内親王)

  関白、太政大臣、准后

10 藤原(二条)吉忠(父関白二条綱平・母霊元皇女栄子内親王)

  関白 贈准后

  

(四)准后と親王の座次相論

 ここでは准后の朝廷での序列の変遷について説示し、准后宣下の価値を検討するが結論を先にいうと、室町時代の准后の身分は高く、明らかに親王より上だったが、織豊時代に親王と同格となり低下、徳川時代は摂関家の地位が上昇し、摂関の下、太政大臣より上との位置づけとなったが、現官大臣が前大臣より地位が高くなったので、名目的地位になった感がある。

 

1 室町時代は親王より准后が上

 内裏歌会で准后左大臣足利義政(寛正5年准后宣下)と二品式部卿貞常親王(伏見宮第4代)の上下が問題になり、『親長卿記』文明五年七月二十二日条によれば、宇治殿(藤原忠実)が准后の時、親王より上位とした先例、永徳3年(1383年)左大臣足利義満の准后宣下の先例が回顧されている。室町時代は、親王より准后が上位であった。後光厳院擁立の盟主で足利義満を指南し公家化させたとされる准后二条良基は書札礼を改め、義満のために准后は親王の上に位置すると明確に定めたからである[小川剛生2005]。

2  天正13年の座次相論 伏見宮邦房親王と准后近衛龍山は横並び

 天正13年(15857 13日藤原秀吉は関白任官披露のため前例のない公家、門跡が一同に会する禁中能会を開催したが、親王と准后との間で座次相論となり、不満を持つ方々、伏見宮家出身の宮門跡らが欠席したという。

 当時の親王は、儲弐誠仁親王を別格として、伏見宮第九代中務卿邦房親王以下、御室(仁和寺)、青蓮院、妙法院、梶井の宮門跡はいずれも伏見宮家出身の法親王だった。准后は前関白近衛龍山(前久)と、聖護院、大覚寺、三宝院、勧修寺の門跡准后で、摂家出身者であった。

 関白秀吉は当事者より意見を聴取したうえ直ちに裁定を下し、正親町天皇の認可を受けた(『親王准后座次三ヶ条之事』)。

 7 月15日の裁定は、親王と准后は同格、門跡准后、法親王、前関白は同格とし、それぞれの席次はくじ引きとした。

 ただし伏見宮邦房親王と近衛龍山は別格で、常に並んで上座を占めるとされた [谷口研語 1994] [神田裕理 2019]。従って伏見宮邦房親王は、前関白で准后宣下を受けてない九条兼孝、一条内基、二条昭実より上座ということになる [谷口研語, 1994]

 室町期は、親王より准后が上位とする見方が有力であり、親王は摂関に優越するとはみられていなかった[小川剛生2009]。親王と准后が同格とされているので、戦国時代の伏見宮のステイタスが高かった影響がある。摂家出身門跡の准后宣下は、法親王が入室する門跡より格下とみられないために必要な地位といってよいのではないか。室町時代は、二品伏見宮貞常親王より十年ほど年下の准后左大臣足利義政が上座とされたので、この前例は忘れられてしまっている。

3 天正13年禁中茶会 伏見宮邦房親王と准后近衛龍山は横並び

 同年107日関白豊臣秀吉は前例のない公家衆、門跡総出の禁中茶会を開催した。千利休の茶会覚書は次のとおり [仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎 1995]  

禁中様菊見の間

一 上段 三畳敷 東同 

正親町院様 親王様 若宮様

御相伴衆 下段 六畳敷

近衛殿龍山ニ 伏見殿 菊亭殿

上段三畳敷に天皇、誠仁親王、和仁王(のちの後陽成)、下段六畳敷に御相伴衆として准后近衛龍山、伏見宮邦房親王、取次役の右大臣菊亭晴季が着座、伏見宮は上流貴族のトップ近衛龍山と横並びなので面目を保ったといえる。

 

4 天正16年 聚楽第行幸 伏見宮は前関白より上位

 次に天正16年(1588)後陽成天皇の聚楽第行幸の天皇行列の序列である[中川和明1991]。

烏帽子着の侍

後陽成御生母 (新上東門院勧修寺晴子)

女御 (近衛前子- 正妻格)

大典侍御局

匂当御局

女中衆御輿30丁余

御輿添100余人 ・御供の人々 ・童姿

塗輿145

六宮 (皇弟、のちの八条宮智仁親王)

伏見宮邦房親王 

九条兼孝(前関白)

一条内基(前関白)

二条昭実(前関白)

菊亭晴季(右大臣)

徳大寺公雄(前内大臣)

飛鳥井雅春(前権大納言)

四辻公遠(前大納言)

勧修寺晴豊(権大納言)

中山親綱(権大納言)

大炊御門経頼(前権大納言)

白川雅朝王(非参議)

以下略

 この序列では前関白より伏見宮が上、前年の裁定のとおりである。現任公卿より年長者上位といえる。なお左大臣近衛信輔は関白の行列の筆頭となっている。

5 慶長16年二条城参賀  親王が准后や摂関家当主より上位

 徳川時代では、慶長16年(161142日の二条城の家康のもとへ後水尾受禅の御礼参賀が行われた時、伏見宮邦房親王と准后前関白二条昭実との間で座次相論があり、家康はとりあえず親王が上と裁定したため、座次は次のようになった[杣田善雄(2003)]。

八条宮智仁親王(一品)

伏見宮邦房親王(二品)

一条内基(従一位前関白)

二条昭実(准后従一位前関白

近衛信尹(従一位左大臣)

 慶長期に伏見宮が准后より上座というのは、家康は朝廷のしきたりをよく知らず、二条昭実は不満が残る結果である。

 

6  元和元年 禁中並武家諸法度 現官大臣が伏見宮より上位

 ところが元和元年 (1615) 禁中並武家諸法度であいまいだった座次が序列化され、関白九条忠栄や摂家は、奈良時代、舎人親王より右大臣の藤原不比等が上席だったことを根拠として、儲弐以外の親王は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より下位の座次と決められた。また従来の現官大臣より、年長の前官大臣が上座だったあり方は否定され大きな変更なのである。

 鎌倉時代後半、大臣と親王は同格であることからすると、大臣が親王より上というのは摂関家の地位が上昇したといえる。天正の座次の取り決めより皇位継承予定者を除く親王の地位が著しく下降した。

 ウィキペデアによれば江戸時代の准后は摂関より下、太政大臣より上だとしている。

 つまり秀吉が伏見宮に有利な裁定をし、家康も親王を上位として裁定したが、摂関家から巻き返しがあり、幕府も摂家を通じて朝廷を制御しようとしたので、江戸時代は摂関家上位、世襲親王家当主は、大臣より座次下位が定着した。明治以降は皇族の地位が上昇し、朝廷の座次、序列は時代によって変遷があるといえます。

 

八 後宇多上皇の猶子として順徳曽孫源忠房が親王宣下を受けており、養子となって皇籍に復帰した先例はある

◇権中納言源忠房⇒弾正尹忠房親王(順徳曽孫)

 三月十日会議で立憲民主党の馬淵澄夫氏が「少なくとも歴史上養子として皇族に迎えたという形でのいわゆる皇族ではなかった方々は先例にはございませんということを私どもも確認をさせてただきたいというふうに思います」と述べ皇籍を持たなかった者が、養子縁組で皇族となった先例はないことが立憲民主党が養子案を承服しない理由の一つとなっておりますが、事務局側も、鎌倉時代の源忠房が皇籍復帰の例をあげているにもかかわらず、後宇多上皇の養子ないし猶子としての親王宣下ということ(源忠房は、順徳二世王の彦仁王の子で、父は時期不詳だが源賜姓により臣籍に降下しているので、その時点で出生していたか不明だが、父が臣籍に降下した後は皇族ではない)をまったく触れずに、「一般人に初めからなっている方が誰かの養子になって戻った例があるわけではありません。」と断言し、忠房親王を先例と認めていない応答をしていますが、事務局の説明としては大きなミスだと思います。

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 忠房親王に言及している論文としては、松薗斉 2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)3頁の表に後宇多上皇の養子とあり、大智院宮忠房親王については10頁に説明があり、この論文はネット公開なので容易に閲覧できます。

 またウィキペディアにも文保3年(1319年)忠房は後宇多上皇の猶子となり親王宣下を受けた。と記載があります。

 ネット界隈では忠房親王の例は、旧皇族が皇籍復帰するにあたって有力な先例と重視されているわけです。

 すなわち従二位権中納言源忠房は、順徳曽孫(三世王)。父彦仁王は時期不詳だが源氏賜姓で臣籍降下、母方が摂関家であり外伯父・二条兼基の猶子となる。乾元元年(1302年)公卿に列し、徳治元年(1306年)権中納言叙任。後宇多院政の後二条朝では摂関家の子弟に準じた官歴をたどり急速に昇進したが、花園天皇即位(伏見院政)により官職を辞す。後醍醐天皇即位後(後宇多院政)、文保3年(1319年)忠房は後宇多上皇の猶子となり親王宣下を受けて、無品ながら弾正尹に任ぜられた。後宇多上皇の猶子となったことにより皇籍に復帰した事例といえます。

 源忠房は母方が摂家で摂家の猶子となったことが、摂家の子弟に准じた昇進となり恵まれていたといえる。後宇多院政期に異例の出世をとげたのは後宇多上皇の引きたてとみられている。持明院統の治世約十年間(伏見院政と後伏見院政期)は干された。再び後宇多院政となったことにより文保3年に皇籍に復帰した。醍醐寺塔頭の大智院宮と称された。出家された後に隠棲し後宇多院と関係が深い寺でもある。

 

◇賜姓源氏⇒承鎮法親王

 なお、忠房親王とは兄弟の承鎮法親王についてコトバンク「天台宗三千院門跡の尊忠について出家。正和6(1317)後宇多法皇の猶子となり、親王となった。正中3年天台座主」とあり、父が源彦仁なので法皇の猶子となることによって源氏から皇族に復帰した先例といえる。

 当時三世王相当の臣下の皇籍復帰は異例といえるし、三世王相当の親王宣下も当時としては異例である。ただし、14世紀以降常磐井宮満仁王(後光厳猶子)が三世王ながら親王宣下され、15世紀になると、宮門跡に入室する皇子がいなくなり、五世王、六世王でも親王宣下が慣例化されたが、いずれも14世紀以降は、天皇か上皇の猶子として、皇子に准じた礼遇を受ける者として親王宣下を受けるのが通例となった。以下の表のとおりであるが、忠房親王等のように源氏から親王宣下される例は異例なのであり、それら以外は諸王が親王宣下を受ける先例である。

 

九 養子案について天皇との血縁の疎隔・親等は全く問題にしなくてよい

 

 天皇家との血縁の近さ(親等-女系含み)を優先順位としたり、制限したりすることに反対である。親等の近さとなると、明治皇女聡子内親王、昭和天皇長女の成子内親王が嫁した東久邇宮が有利となり、次いで、香淳皇后の御実家久邇宮、久邇宮系でも明治皇女允子内親王が嫁した朝香宮が賀陽宮より有利となる。竹田宮は明治皇女昌子内親王が、北白川宮は房子内親王が嫁しているので天皇家と近親であるが、香淳皇后の御実家である久邇宮系より離れており、皇位継承順でも下位になるので、後回しにされると不公平感がある。

 明治皇室典範で世襲親王家は否定されたので、宗家は伏見宮家であるとしても11宮家に皇位継承順以外家格差はなく横並びであるから、基本的には対等の資格とすべきである。公平で失礼のない対処となると、特定の家系にかたよらないようすべきと考える。久邇宮系をとるなら、北白川宮系もとるという形にすべき。むろん優先順位とは言わず、秘密会議で内々に決めてしまうことがあってもそれはかまわない。

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 筆者はそもそも直接復帰案が良いと考えており、優先順位を(皇位継承順で、伏見宮→山階宮→賀陽宮→久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮)の末流の男系男子(養嗣子含む)に加えて、戦前に華族に列し宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見侯爵家の御子孫を加え、12宮家の御子孫のすべて。さらに大正9年以降昭和18年まで次男以下の王で12方(皇族の臣籍降下を可能にした明治40年皇室典範増補第一条により、情願によって家名を賜り降下し華族に列している方々)の御子孫も復帰の対象とする。本家の子孫が優先、次に分家の御子孫、他家に養子となった方々は優先順位む下げる案、それでは多すぎるなら秘密会議や、天皇・皇后両陛下、成人皇族の推薦によって絞っていく案であったが、養子案は現存宮家当主が望まれる場合など次善策と考えていたが、養子案を支持する政党が多いのでとりまとめは養子案となるものと思われる。

 私の提案は12宮家の末流の男系男子なら、男系での疎隔、女系での近親関係では優先順位をつけなくてよいと考える。それは以下のように15世紀に皇親の範囲が継嗣令原意から変化し、以降、北朝に帰属し、大覚寺統正統の由緒がある木寺宮、初代が亀山法皇より正嫡とするとの遺詔(後宇多上皇が反故にする)の由緒のある常磐井宮[松薗斉2010]、『椿葉記』で持明院統正嫡との由緒のある伏見宮が、[秦野裕介2019a]五世王以降でも親王宣下され、特に伏見宮は代々、天皇の猶子となって親王宣下を受ける世襲親王家となった経緯から、15世紀以降は天皇との血縁の疎隔より、しかるべき格別の由緒のある皇統に属しているかが重要になったと考えられるからである。後南朝の皇族に親王宣下はなく差別化された。

◇14世紀~16世紀初期の二世王以降の親王宣下 

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◇15世紀に五世王、六世王でも親王宣下が合法化された意義

 

 継嗣令皇兄弟条では、天皇の兄弟と四世王(皇玄孫)までが皇親という世数制限があり、王号を称するのは五世王まで、ただし五世王・六世王は皇親と同じく不課の特典あり、七世王は揺が免ぜられ、徐々にフェードアウトしていく制度設計になっているが、男系なら嫡流、庶流、男女いかんにかかわらず皇親という増加しやすい制度設計のためである。

 そのため奈良時代から臣籍降下が常態化した。院政期以後は多くの皇子が宮門跡に入室することとなったので、皇族は増加しなくなり、15世紀には宮門跡に入室する皇子も払拭したので、応永26年に後小松上皇は、北朝に帰属した後二条五世王で大覚寺統正統(木寺宮)世平王の子息2名を猶子としたうえ、親王宣下(妙法院新宮明仁法親王と17代御室承道法親王)された[稲葉伸道 2019]。

 以降、五世王、六世王という末流の皇胤でも上皇や天皇の猶子として、皇子に準じた礼遇を受ける者として、親王宣下が合法化された。

 中世律令法は明文改正をいっさいしないが、明法家の「准的」等のテクニックで既成事実を合法にできる法制度なのである[保田卓 1997]。

 継嗣令の原意では皇親の範疇から外れる五世王、六世王でも親王宣下が合法化された意義が大きい。

 伏見宮第3代貞成王(のち親王宣下、太上天皇尊号宣下後崇光院)はこのことを日記に記している。『椿葉記』永享5年(1433)では、「崇光院・後光嚴院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中惡く成て、御子孫まで不和になり侍れは、前車の覆いかてか愼さるへき、いまは御あらそひあるへしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」[村田正志 1954初刊、1984]

 崇光院流御一統が久しく栄えなければならないとして、天皇家と伏見宮は、不和な時があったが、将来疎隔することなく水魚の如く親睦していくべきという趣旨で始終伏見宮家の若宮を天皇の猶子とする構想を天皇に奏上している。これは伏見宮を世襲親王家にするブランと解釈されており[小川剛生 2009] [田村航 2018]、それが実現したゆえ、天皇家と伏見宮家は550年併存したのである。むろん伏見宮家が存続したのは、家領として播磨国衙領、熱田社領、室町院領、干鮭昆布公事等、実効知行地と上納金の現金換算で年収2億円程度に過ぎないが収入があり[秦野裕介2019b][横井清2002、]、小さくても庭田家、田向家など家礼を従える権門で仙洞御所も相続している。

 嫡流として持明院統の仙洞御文庫を相続したことは大きな財産で[飯倉晴武2002,2009]、「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]ともいわれ、戦国時代の伏見宮家は、土佐一条家との姻戚関係とか今川氏親など大名・国人への贈答品などで荘園公領制の衰退による収入減をしのいでいたという推測ができる。

 在俗皇族では、後二条五世王の木寺宮邦康王は公家社会では無名の存在だったにもかかわらず、享徳4年(14557月に後崇光院法皇の猶子として親王宣下を受け、同年(康正元年)10月に40歳で元服、同日三品、中務卿に任ぜられた。加冠役は准后前関白一条兼良だった[小倉慈司2010]。親王の加冠役に決まりはなく大臣・大納言でもよいはずだが、支持する公家のいない末流の皇胤にすぎない木寺宮に朝廷首班クラスは厚遇されている。五百年来の大学者が五世王親王宣下を認めているのだから合法というほかない。

 なお、第4代貞常親王は猶子とされた記録はないが、天皇の実弟であるので、継嗣令皇兄弟条では親王格上げとなる。過去の淳仁に光仁の兄弟姉妹と同じこと。第5代二品式部卿邦高親王(後土御門猶子)から第22代および第24代元帥陸軍大将貞愛親王(孝明猶子)まで天皇の猶子と親王宣下を受けている。

 天皇と血縁的には疎隔しても猶子としてステイタスを劣化させることなく親王位を再生産できる制度が世襲親王家であるが、明治皇室典範で廃止された。しかし皇室典範は永世皇族制をとったため、養子はできなくなったが、血筋が続く限り永続可能な制度となっている。

十 事務局が例示してないが政治史的には知られている皇籍復帰事例

 

 なお、事務局は例示していない、臣籍から皇族に復帰した政治史的には重要な事例も補足しておきたい。

 

◇勲二等の叙勲にもかかわらず流罪とされた皇族

和気王⇒岡真人和気⇒和気王

 天武三世王、祖父が舎人親王、天平勝宝7歳(755年)兄弟の細川王とともに岡真人姓を賜与され臣籍降下し、伯父の淳仁即位により皇親に復帰、機を見るに敏な和気王は仲麻呂の乱では反乱計画を事前に孝謙上皇に伝えた。兄弟の多くは淡路廃帝・仲麻呂の陣営に与し処罰されたが、兵部卿として数百の兵を率いて淳仁天皇を包囲したのである。その功績により従三位に昇叙され公卿に列し勲二等を叙勲される。しかし皇位を望む謀反が露見して称徳女帝の逆鱗に触れ、伊豆国流罪、途中で絞殺される。

 奈良時代には、和気王同様、淳仁即位時など臣籍から皇籍に復帰した例は多数ある。

 

◇元寇当時の鎌倉将軍

惟康王→源惟康→惟康親王

 第7代鎌倉将軍惟康王は、後嵯峨二世王で、父宗尊親王。文永7年(1270年)源姓を賜与され、源惟康と名乗ったが、弘安10年(1287年)に幕府の要請で皇籍に復帰して後宇多天皇より親王宣下がなされた。[青山幹哉1988

 臣籍降下は、幕府の実権者安達泰盛が将軍は源氏であるべきとの主張によるとされている。しかし霜月騒動で泰盛が討たれ、将軍の親王化は平頼綱の方針、その他の説がある。

 親王宣下は天皇や上皇の猶子ではなく、亀山院政の停止、後宇多譲位の強行とのセットで東使の意向を呑んだ政治色の強いものであった。

 執権北条貞時は惟康親王の在任を嫌い、正応2年(1289年)には将軍職を解任され、京に送還された。

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引用参考文献 ★はネット公開

 

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松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)★

村田正志 (1983(初出1944) 「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出

保田卓 1997 『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)』 教育・社会・文化研究紀要4

安田政彦 1998 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館

山口和夫 2017 『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館

山﨑雅稔2001「承和の変と大宰大弐藤原衛4 条起請」歴史学研究751号、(2001

山崎雅稔 2012 「藤原衛の境涯」 帝京大学外国語外国文学論集(18)

湯川俊治2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

横井清2002『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫 旧版『 看聞御記 「王者」

と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979

吉田孝 2006 『歴史のなかの天皇』  岩波新書

米田雄介 2004 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』 塙書房

脇田晴子1992『日本中世女性史の研究』東京大学出版会

2025/04/05

天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議の疑問点

 三月十日の議事録を見ましたが立憲民主党の馬淵澄夫氏が「皇籍を持たなかった者が、養子縁組で皇族となった例はない」との発言ですが、間違いです。◆源忠房→忠房親王の例があり、ウイキペディアに書かれてます。また松薗斉 2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)openaccessでは大智院宮として説明があります。(天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた国会での協議)

 従二位権中納言源忠房は、順徳曽孫(三世王)。母方が摂関家であり外伯父・二条兼基の猶子となる。乾元元年(1302年)公卿に列し、徳治元年(1306年)権中納言叙任。後二条朝では摂関家の子弟に準じた官歴をたどり急速に昇進したが、花園即位により官職を辞す。後醍醐即位後、文保3年(1319年)忠房は後宇多上皇の猶子となり親王宣下を受けて、無品ながら弾正尹に任ぜられた。後宇多上皇の猶子となったことにより皇籍に復帰した事例といえます。
 諸王が天皇や上皇の猶子となることにより、親王宣下される例は、14世紀以降多数あります。猶子(養子に近い概念)という、擬制的な親子関係により、皇子ではないが、それに准じた礼遇、待遇を受けるという趣旨です。

 

○臣籍に降下した皇族でも、皇族に復帰した例は多く存在する。

 

 宇多天皇は仁明皇子一品式部卿時康親王の第7皇子で母は桓武皇子仲野親王女班子女王。二世王であり定省王と称したが、光孝即位臣籍に降下し源定省となった。仁和3年、立太子・践祚直前に親王宣下され、皇族に復帰した。
 醍醐天皇も源維城であったが父の即位とともに皇族に列し、親王宣下のちに敦仁親王に改めたことはよく知られているが、それ以外にも多くの事例がある
◆惟康王→源惟康→惟康親王
第7代鎌倉将軍惟康王は、後嵯峨二世王で、文永7年(1270年)源姓を賜与され、源惟康と名乗ったが、弘安10年(1287年)に幕府の要請で皇籍に復帰して後宇多天皇より親王宣下がなされた。
 臣籍降下は、安達泰盛が将軍は源氏であるべきとの主張によるとされている。霜月騒動で泰盛が討たれたので幕府の方針は変更される。親王宣下は平頼綱の方針、その他の説がある。なお二世王の親王宣下の先例として、三条二世王、小一条院敦貞親王らのケースがあるが、小一条院は上皇に准じた待遇であり不自然ではないの。
◆源忠房→忠房親王
(前述のとおり)
 三世王の親王宣下は前例がなく後宇多院の引き立てによる殊遇といえる。
 源(四辻)善成は順徳曽孫(三世王)で源賜姓により臣籍に降下するが、四辻宮と称され、従一位左大臣まで昇進し、晩年親王宣下を望んだが、斯波義将の反対で果たせなかった。
 亀山三世王の常磐井宮満仁王は後光厳天皇に親王宣下を奏請したが拒否された。しかし愛妾小少将を足利義満に差し出す裏面工作により、後円融天皇により親王宣下を受けた。
 なお15世紀になると宮門跡となる皇族が不足して、五世王、六世王でも親王宣下が慣例化されるに至った。

 

○臣籍に降ったケースでも皇位継承候補者たりうる

 

 定省王が源定省だった期間が3年間で宇多天皇は例外的との見解はある。しかし、安田政彦が「奈良時代後半における皇位継承には出家や皇親賜姓された者が有力候補として名を挙げられており出家や皇親賜姓が皇位継承資格の喪失とはみられていない」と述べているとおりとおり、皇親男子の候補者が少ない状況や特殊な事情においては臣籍に降下した者でも皇位継承候補者たりうると考える。
 文室真人浄三・文室真人大市については臣籍に降下しても有力な候補者であった。称徳女帝は皇太子を立てることなく不予に陥り厳戒態勢がしかれた。『日本紀略』宝亀元年(770)八月癸巳条は「百川伝」を引いてそのときの皇嗣策定会議は激論紛糾したことを伝えられている。右大臣吉備真備が、天武孫で長親王の子、前大納言文室真人浄三(もと智努王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓、智努はのちに浄三と改名)を推薦したが、「有子十三人」を理由に排除されると、今度は浄三の弟の参議文室真人大市(もと大市王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓)を擁立したが固辞された。一方左大臣藤原永手と宿奈麻呂、百川が天智孫の白壁王(光仁天皇)を擁立するため立太子の当日宣命を偽作する非常手段をとったとされている。これを史実として確定できるかについては批判的な見解があり、左大臣藤原永手が称徳朝を支えた実力者であるから白壁王立太子で順当だと思うが、仮に史実とは違うとしても称徳女帝のブレーンとして活躍し右大臣にまで昇進した吉備真備が浄三・大市を推薦し候補者として急浮上したという話が伝えられているということは、当時の貴族が臣籍に降下しても属籍を復して、立太子という手続きをとることもありうるという認識を示している。
 また天武曾孫、新田部親王の孫であり、臣籍に降下した氷上真人志計志麻呂と氷上真人川継の兄弟が、天武系王氏、しかも母が聖武皇女不破内親王で聖武とも近親であるため皇位継承者に担がれようとしたこと。とくに桓武天皇の治世の初期、延暦元年閏正月の川継の謀反については藤原浜成・大伴家持・大伴伯麻呂といった参議クラス、武官長老の坂上刈田麻呂をはじめ大量の連坐者を出したこと、さらに理由不明だが、左大臣藤原魚名の左降追放も川継の謀反との関連を想定する説もあり、相当な企画性を有した深刻な事件であった可能性がある。当時の貴族は第一に血統を重視しており臣籍に降下したことが、皇位継承資格を喪失するものではないとみることができる。
 陽成天皇遜位の後、『大鏡』が伝える左大臣源融(嵯峨源氏仁明猶子)が「いかがは。近き皇胤をたずねば、融らも侍は」と皇位継承に意欲をみせたところ、関白太政大臣藤原基経は「皇胤なれど、姓たまはりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例ある」と一蹴したエピソードについては、必ずしも賜姓源氏は皇位継承者たりえないという解釈をとる必要はない。当時は親王の数が多く、賜姓源氏まで候補者を拡大する必要はなかったし、政治家としての実力は基経が断然上であり、基経の意中は時康親王(光孝天皇)であったと考えられるから、源融の軽口を一喝したということだろう。
 引用・参考
瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「四章藤原永手と藤原百川」小川剛生『二条良基研究』笠間書院2005「附章 四辻善成の生涯」578頁の註(9)〔初出「四辻善成の生涯」『国語国文』69巻7号 2000〕
倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53、1998 174頁参照
青山幹哉「鎌倉将軍の三つの姓」『年報中世史研究』13,1988
安田政彦「皇位継承と皇親賜姓-『大鏡』の記事をめぐって」『古代文化』53巻3

2025/02/09

安定的な皇位継承・皇族数確保を巡る協議に関する意見-「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する」案は当面の特例とし皇室典範12条改変により恒久的制度としない旨要望

                                                                                                                                                                令和7213

    国会議員へ

安定的な皇位継承・皇族数確保を巡る協議に関する意見

「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する」案は当面の特例とし皇室典範12条改変により恒久的制度としない旨要望

                                                                                                                                               川西正彦

 取るに足りない軽輩でありながら、厚かましくも送り付ける無礼をお許しください。

私の意見は昨年一部の国会議員に送付したとおり、有識者会議の案「内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する」に反対、皇室典範12条改変に強く反対 、案「皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすべき」というもので、案「養子縁組を可能とし皇統に属する男系の男子を皇族とする」、現存宮家当主より承継の要望があった場合の選択肢とする。でしたが、衆参両院の協議では、案は大筋で各党の合意を得ており、②案支持の政党は少なくないが合意を得ていないとの中間報告でありました。

強く不満でありますが、趨勢は①案実施の方向性ということなら、実施を前提として、やむをえず次善の策として以下の3つの条件を要望します。

一 ①案実施はあくまでも、当面の措置、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員の担い手となる皇族が不足する事態を避ける目的とすること。

二 皇室典範12条改変は行なわない。恒久的制度にせず、当面の皇族減少期の特例措置として実施する。

三 ①案を実施したとしても、17世紀に四摂家に降嫁した内親王・皇女の九例は、摂家の嫁取婚であり、嫁迎えの儀式(※1)、夫方居住(※2)、婚家の墓所(※3)で共通している。墓所は宮内庁治定とされていないのでこの前例を踏襲すること。

つまり納采の儀を行うこと。夫家の私邸居住で、豊島岡墓地に埋葬されない。勿論、女性皇族には摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員、その他の公務をなされる以上、相当の皇族費が支給されるうえ、結婚時には相当に高額の化粧料、道具料(持参金)を用意するものとなる。

入婿や現存宮家同様の御料地での居邸は前例がなく強く反対する。

 モデルとしては後水尾皇女で近衛基熙正室の常子内親王、霊元皇女で近衛家熙正室の憲子内親王とする。

 一 当面の特例として恒久的制度とすべきでない理由

(一) 有識者会議①案は基本的に皇族数確保のための案

そもそも、有識者会議は仮に①案を実施しても女性皇族に皇位継承権を付与せず、配偶者、所生子も当面皇族としないで将来身分を検討するものとし、②案も当事者は皇位継承資格を付与しないことを示し、悠仁親王殿下の次の皇位継承者を、男系男子か男女共系に変革するかという問題は殿下の結婚の時期頃まで先送りとする趣旨のものであった。

つまり殿下は健康であっても、事故や疾患に陥るリスクは想定外ではないから摂政となる皇族が必要。病気療養や外国訪問の際の国事行為臨時代行は頻繁にあるので、その担い手となる皇族も必要。皇室会議議員も必要なので、皇室を支えるため、女性皇族に結婚後も皇族の身分を維持とするという趣旨に限定し、配偶者や所生子を皇族とするか、西欧のような男女共系初生子相続に移行するかは、親王が結婚する時期まで先送りとすべきである。

にもかかわらず、事務局資料は、恒久的制度とする、そのために12条改正を強く示唆する内容で、先送りとする趣旨と矛盾する。典範12条さえ改変すれば、北欧、ベネルクス、英国と同様、男女いかんにかかわらず初生子の王位継承へ移行することは容易であるし、以下の難点があるので反対する。

 

(二) 皇室典範 12 条は趣旨は正当で改変は大変革になり好ましくない

皇室典範12条改変は家族道徳、規範を根本的に破壊する。 婚入者の婚家帰属性という日本の基本的な親族構造の否定になるので反対である。

皇室典範 12 条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)は、旧皇室典範44条を継受したものである。 帝国憲法皇室典範義解によれば 44 条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス‥‥以下略)は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨である。

夫の身分に従うとは、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、主婦予定者として婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすることで、婚入者(嫁・婿)の婚家帰属性という日本の家族慣行を意味しており、これは華士族平民同じことで、侯爵家に嫁すならば侯爵夫人となり婚家を継いでいくゆえ、皇族の列を離れる。

明治8年11月9日妻の氏について内務省が太政官に提出した伺出では、「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候‥‥」(内務省案-夫婦同苗字)[廣瀬隆司(1985)「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究 28 12 号][近藤佳代子(2015))「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要 49 openaccess]とあり、これは旧皇室典範44条の立法趣旨と同じであるし、異姓戸籍を認めない戸籍制度を前提とした制度ともいえるだろう。したがって皇室典範 12条改変は夫婦同姓(氏)の立法趣旨の否定になる。夫婦別姓(氏)反対の立場から容認しがたい。

明治民法起草者の一人、法典調査会で梅謙次郎は、夫婦同氏であるべき理由として、妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致していると述べた[江守五男19900『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂 1 57]

人類学の大御所によれば日本の「家」は離接単位であり、人は複数の家に両属することはない。婚入者(嫁・婿)は婚家の成員であり、不縁とならない限り死後婚家の仏となる[清水昭俊 1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3)openaccess, 1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3),  1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二(続)」『民族學研究』 38(1) ]。

新奇な家族モデル、夫妻と嫡子とで戸籍と皇統譜、身分の異なる歪な制度を創出すること自体不快なのであって当面の措置とする理由である。

女の道として最も普及した教訓書『女大学宝箱』では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰る」という。享保元年(1716)から明治初年まで11版を重ねたものである。 この見解は1世紀後漢の『白虎通』に「嫁(えんづく)とは家(いえづくり)なり。婦人は外で一人前になる。人は出適(とつぐ)ことによって家をもつ」とあるように儒教に由来し、正当な価値である。

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また、12条改変は、天皇、親王、王が男性、皇后、親王妃、王妃が女性という性的役割分担を流動化させ好ましくない。

現行では、内親王や女王が結婚する場合は、皇后、親王妃、王妃以外の身位以外はなく、それを変える必要はない。

明治皇女の内親王にしても、下記のとおり王妃内親王殿下と称される。

明治神宮サイトのデータベースより引用

大正14(1925)年4月9日

竹田宮故恒久王妃昌子内親王殿下、北白川宮故成久王妃房子内親王殿下、東久邇宮稔彦王妃聰子内親王殿下御参拝

また第二に令制では継嗣令王娶親王条に内親王より四世女王は、五世王以下および臣下との婚姻は違法である。ただし延暦12年詔で、二世女王は藤原氏への降嫁を合法とし、三世女王以下は、現任大臣、良家への降嫁を合法とし、皇族女子の内婚は規制緩和されているが、令制では内親王の臣下への降嫁は一貫して違法なのであり、勅許により承認されたとはいえ、10世紀に9方、11世紀に1例のほか、しばらくなく17世紀に9例(内親王宣下の記録がない1例含)、18世紀1例で時期が偏っており、内親王は天皇か皇族と結婚するか、生涯非婚であるのが通例である。

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ところが有識者会議事務局調査研究資料では藤原師輔が内親王と密通のうえ、事後的に承認され降嫁した醍醐皇女勤子内親王ほか6例の違法婚(違法だが勅許による)を根拠にして①案を「皇室の歴史と整合的」としているが、令制が想定していない婚姻であり、反律令行為、イレギュラーな事例が歴史と整合的というのは詭弁である。

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前例も特例としてのものであるから、今回も特例として実施すべき。

二 前例と同じく、納采の儀等嫁入婚、夫方居住、墓所は婚家とし、宮内庁治定陵墓にはしない理由

(一)嫁迎えの儀式(※1

寛文4年(1664年)近衛基熙に降嫁した後水尾皇女常子内親王は自身の結婚の記録が残ってないが、天和3年(1683)長男の家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は「无上法院殿御日記」に詳しく記していて、「女一宮ねもじ、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、白無垢、色直しという嫁入婚の現代でも和装婚礼の定番である習俗と同じである。

 基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している。嫁迎えの儀式である。公家は1516世紀に嫁取婚は確立していたので他の内親王も同様に嫁入婚の儀礼がなされたとみてよい。

 なお霊元院の第十三皇女八十宮吉子内親王(母は右衛門佐局)は 2 歳で徳川家継と縁約した。この縁談は将軍家の要請に応じたもので、納采の儀までなされたが、家継夭折で、八十宮は3歳で寡婦となり、江戸に下向されてないので嫁取婚は未遂といってよいが、将軍正室の寡婦扱いで、経済的には恵まれた。

 そうした前例から、①案実施の場合前例踏襲でこれまでどおり納采の儀を行い、嫁入婚とするべきである。

(二)夫方居住(※2)と墓所(※3

1 10世紀の醍醐皇女康子内親王について

一品康子内親王は村上天皇の同母姉で、右大臣藤原師輔と内裏で密通、天気を害したが、事後的に勅許された例。師輔は「九条殿」とか「坊城右大臣」と称されたように、九条殿や坊城第、桃園第といった邸宅があった。

結婚した康子内親王は、坊城第が居所であったことは史料上確認されている。

坊城右大臣歌合(伝宗尊親王筆歌合巻、類聚歌合) 天暦十年八月十一日、坊城殿にきたの宮おはしますに、つきのいとおもしろきに、をとこかたをむなかた、おまへのせざいをだいにてよめる[杉崎重遠 1954「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (910)openaccess] 。また内親王は坊城第で薨ぜられた(『日本紀略』天徳元年六月六日条)。[栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2 openaccess

 墓所は不詳だが、四十九日は一周忌は法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳元年七月二二日条。天徳二年六月四日場)[栗原弘 2004「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史学会 編 (19)openaccess]。法性寺とは、関白藤原忠平が、京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺であり、今日の東福寺、泉涌寺を含む広い寺域を有した。法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子の一周忌のほか忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光、村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤原忯子(為光女)の四十九日、円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が執り行われている[栗原弘2004]。 皇族でも母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、仮に康子内親王が生涯非婚でも法性寺で法要がなされた可能性が高いが、師輔の先妻同様、藤原忠平一門の氏寺ということである。

2 摂家に嫁した皇女・内親王について

(1)後水尾皇女東福門院所生の女二宮と女五宮賀子内親王

江戸幕府京都大工頭の中井家伝来の図面によると、寛永 13 年(1636)後水尾皇女の女二宮が、近衛尚嗣に降嫁の際、今出川の近衛家本邸に「奥方御殿(女二宮御殿)」が造営整備された[藤田勝也 2012「近世近衛家の屋敷について」日本建築学会計画系論文集675 openaccess]。

正保 2 年(1645)に後水尾第五皇女の賀子内親王は二条光平に降嫁し、当時新在家町の二条家本邸敷地内に御殿があり、ここが万治 4 年(1661)大火の火元だった。二条光平本邸は今出川通の北に移転し、敷地の東側半分が「女五宮御殿」だったことが当時の指図でわかっている[藤田勝也 「近世二條家の屋敷について : 近世公家住宅の復古に関する研究113 日本建築学会計画系論文集 6361 2009openaccess

女二宮と賀子内親王は外祖父が徳川秀忠で、徳川の縁者であることから、化粧料等経済的に恵まれ御殿が造営されたが、いずれも、婚家の敷地内ということである。徳川の縁者でない皇女は、知行がないので、1214歳で尼門跡に入るか、摂家に降嫁するかいずれかが通例だったが、次節の常子内親王は在俗の独身期間が長く異例といえる。

近衛尚嗣に降嫁した後水尾皇女女二宮の墓所は東福寺海蔵院にある。近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。なぜ女二宮が改葬されていないか不明だが、海蔵院は近衛家の墓所があった寺である。二条光平正室の賀子内親王、二条綱平正室の栄子内親王は、嵯峨二尊院の二条家墓所。賀子内親王邸の御化粧之間は元禄年間に二尊院に移築され、非公開だが茶室として現存する。在俗で生涯非婚だった後水尾皇女昭子内親王は、岩倉御所と称されるが、東福門院ゆかりの光雲寺が墓所である。

(2)後水尾皇女品宮(常子内親王)について

寛文4年(166411月に満22歳で6歳年下の権大納言近衛基煕(のち関白)に降嫁した品宮(級宮)常子内親王は、後水尾院の第15皇女で、母は新広義門院(典侍園国子-羽林家)、霊元御生母である。後水尾院は皇子が19方、皇女が17方もおられたが、なかでも鍾愛された皇女である。『无上法院殿御日記』記主。結婚当初正室としての役割に拘束されない自由な社交生活がみられるのは異例といえる。後水尾院の文化サロンのメンバーであったこと。仙洞御所だけでなく遊興のため公家町の門跡の里坊など御幸されることが多く、品宮は結婚当初、後水尾法皇の御所で夜遅くまで過ごすことが多かった。後水尾院の近衛邸の御幸は105回と頻繁にあり、修学院離宮への御幸にもお供されており、また岩倉の山を法皇より賜っていた。

なお品宮の内親王宣下は正規のものではなく延宝5年(1677)に諱が常子と定まったことにより、公認されたと解釈されている。結婚後の皇室とのかかわりで重要なのは、後水尾院より、延宝5年(1677)門跡宮方の深草の知行の監督、宰領を命じられたことである。新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた[瀬川淑子 2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』]。皇族男子が宮門跡となる門跡領は広義には皇室領ともいえるので、宰領は内親王という身位ゆえといえる。品宮には独自の知行がないので、もともと生母の権益だったから法皇の配慮だろう。

品宮は独身時代から、法皇より院参町に御殿が与えられていた。万治 4 年(1661)大火の後、寛文4 年に中筋の法皇別邸の隣に御殿が建てられ、なぜかその半年後に結婚している[久保貴子 2008『後水尾天皇』]。 居住形態についていうと瀬川氏によれば寛文 4 年(1664)結婚当初は別居だった。品宮は独身時代からの御所の品宮御殿、基煕は桜御所(旧本邸)とあり、寛文 6 年(1666)に新宅の陽明殿(今出川邸)で同居した。寛永 13 年(1636)後水尾皇女の女二宮が、基煕の父尚嗣に降嫁の際、今出川邸に「奥方御殿」が造営整備されており、この前例からみて、品宮も近衛家本邸の今出川邸が居所とされて当然である。

1_20250209212001   万治 4 年(1661)の大火で内裏・仙洞御所や多くの公家屋敷が焼亡したが、後西天皇は類焼を免れた近衛家本邸を仮内裏とされ、寛文3年正月に霊元天皇に譲位、寛文48月新造の仙洞御所へ移徒されるまで、後西上皇の仮御所とされた経緯がある。その間、近衛基煕は別邸の桜御所を居所としたのだろうが、なんらかの事情で本邸に戻るまで再整備が必要であったのだろう。 結婚のタイミングは、後西上皇の移徒とみられる。品宮も 23 歳で、姉宮 3 方の摂家への降嫁が 1214歳であることから、当時の婚姻年齢としては遅いため結婚を急いだのが真相かもしれない。品宮が結婚した寛文4年ころの日記がないため、なぜ結婚初期別居の真相が不明なのである。しかし近衛家本邸が居所であり夫方居住といえる。近衛家の寝殿の修復、茶室と物見の格子の構築は法皇の出費であり[瀬川淑子2001]、岩倉の山と地続きの幡枝の山荘も近衛家に下賜されている。また品宮は、紫竹の別邸を購入するため、法皇に無心し、法皇は銀子五百枚を支出している[久保貴子2008『後水尾天皇』]。 さらに常子内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村 300 石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行 3000 石の一部ということであり、幕府が認めたもので、これは内親王薨去により幕府に返却されたとみられる[瀬川淑子2001]

法皇から賜った品宮御殿や岩倉の山、紫竹の別荘のほか、近衛家は女煕子が徳川家宣の正室であるため、この姻戚関係から比較的裕福だった。粟田にも花見のための別荘を購入していたが、内親王の財産は嫡子の近衛家煕が相続し、これらは近衛家領となった。 以上の考察から、品宮は国家的給付に相当する皇女御料を得ていないが、法皇からの経済支援のほか、門跡領の経営を任され、実質皇室領からの収入はあったとはいえる。また墓所は大徳寺近衛家廟所である。①案のモデルとしては常子内親王というこしになる

3)仁孝皇女 親子内親王について

和宮親子内親王については、ドラマなどで江戸城での舅姑の天璋院との軋轢が描かれ著名であるから、結婚の経緯は省略するが、有栖川宮熾仁親王と縁約を破棄したうえでの、江戸下向であり、直前に内親王宣下を受けている。

慶応 2 年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。号は天皇が選んでいるが将軍正室としての法号である。静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視された。慶応 4 年(1868)慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。

 2 26 日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。明治 2 年~7 年まで京都に帰住されたが、7 年より東京麻布市兵衛町(のちに東久邇宮邸)を居邸とされた。明治 10 年湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨去、洋行中の徳川家達の留守居、松平確堂を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫『和宮』吉川弘文館(1987)]。

和宮(静寛院宮親子内親王)は、徳川氏の家名存続と慶喜の寛大処分のために尽力、徳川氏の存亡に従う決心、死を潔くする覚悟さえ示されたのである。葬儀も墓所も徳川氏であり、宮内庁治定陵墓ではないので、この前例を踏襲し、夫方居住、皇族のままであっても豊島岡墓地でなく、夫家の墓所とすべき。

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表の訂正 栄子内親王は二条綱平の室

4)江戸時代皇女の陵墓について補足

後光明皇女で嫡流の皇女として一品、礼成門院孝子内親王は生涯非婚だったが、文明年間に後土御門天皇が伏見に建立し戦国時代に泉涌寺と並んで御寺とされていた般舟三昧院(後花園、後土御門、後奈良の分骨所でもあり、秀吉の伏見築城により西陣に移転した)が墓所。幕末に桂宮を相続した非婚内親王の淑子内親王の墓所は泉涌寺である。

したがって非婚内親王は皇室の菩提寺といえる御寺かもしくは母后ゆかりの寺だが、摂家に降嫁した内親王は、近衛家なら東福寺海蔵院や大徳寺、二条家や鷹司家は二尊院、九条家は東福寺というように婚家の廟所に葬られているのは婚家の嫡妻ゆえであるし、また江戸時代、摂家に降嫁した内親王の墓所は宮内庁治定陵墓のリストにはない。非婚内親王の昭子内親王や孝子内親王の墓所はリストにあり宮内庁が管理している。一方、霊元院の復古政策で17世紀末期から、内親王は摂家でなく皇族に嫁す原則に戻しているが、伏見宮家に嫁した福子内親王や秋子内親王は、相国寺内伏見宮家の墓所、閑院宮家に嫁した成子内親王は閑院宮家の墓所のある蘆山寺、非婚女帝や非婚内親王の陵墓は御寺(泉涌寺・般舟院)である。八十宮吉子内親王は、納采の儀は行われたが家継薨去により3歳で寡婦となり、江戸に下向されなかった。浄琳院も将軍正室としての法号であり、墓所も徳川家ゆかりの知恩院である。ただし、実質結婚生活がなかったためか、宮内庁治定陵墓で宮内庁が管理している。とはいえ御寺の泉涌寺や般舟院ではない以上、皇室から離れたとみなしてよいと思う。

以上述べた前例から①案実施の場合は、夫家の私邸居住、墓所も夫家とすべきである。

三 臣下に降嫁した内親王の所生子は資料に記載がなく隠蔽されている 

なによりも、113日配布の事務局調査資料例示の一品准三宮康子内親王は太政大臣藤原公季の母で、常子内親王は関白藤原(近衛)家煕、の母で、栄子内親王は関白藤原(二条)吉忠の母である。

異母兄兼家と出世を競った藤原為光は、父藤原師輔、母雅子内親王である。雅子内親王は伊勢斉宮から帰京後、師輔と密通したケースで、結婚生活は長かった。

前例では臣下に降嫁した内親王の所生子は皇族には絶対ならないことはいうまでもない。

藤原為光は、外戚が弱い花山天皇を支えていた。しかし弘徽殿女御の女忯子は懐妊したが出産前に急逝。花山天皇を見限って、ライバルだった異母兄兼家と協調、一条朝では右大臣、名目的地位となった太政大臣にまで昇進したという人物。

藤原公季は、閑院流藤原氏(清華家の三条・西園寺・徳大寺・今出川家など)の祖、母一品康子内親王が産褥死されたため、皇后藤原安子に引き取られ、宮中で育てられたがが、親王とは膳の高さで格差がつけられていたという。弘徽殿女御の女義子が一条天皇に入内したが寵幸薄く皇子女がなかったゆえ、警戒されることもなく、道長政権を支える立場で結果的には太政大臣にまで昇進したという人物である。

為光と公季は主として陣定の場面であるが、大河ドラマ「光る君へ」に登場し、知名度は高くなったのであるから、母が内親王でも父が臣下なら皇族になれないことは容易に理解できることである。

ところが「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」には内親王の所生子の記載がなく隠ぺいしているのは不可解。受ける印象が違うためだろう。

しかも①案は当面、配偶者と所生子を皇族とはしないと言いつつ、将来的に皇族とすることも検討されうるというのは、前例の枠におさまらないのである新奇な案だといわなければならないのである。

7 月 9 日議事録に「イギリス王室では、アン王女は王族であるが、御家族は王族ではなく、それによって問題が生じているわけではない。このような海外の例を見ても、御本人は皇族であるが、御家族はそうではない、という形も、それほど無理なく成立するのではないか。 女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」との発言があるが、単純核家族社会の英国モデルを取り入れるのは反対である。コッツウェルズのマナーハウスはエリザベス女王が購入したものであり、ロンドン滞在時はセント・ジェームズ宮殿を居邸としており、江戸時代摂家に降嫁した内親王のように夫方居住ではない。

この発言から知名度が高いアン王女を①案のモデルと想定し、将来的には女系容認の本音を看取できる

英国王室はもともと女系容認で、2013 年に英国は王位継承法をあらため長子相続による男子優先を撤廃しており、①案は、従来、男性皇族が、天皇、親王、王、女性皇族は皇后、皇太后、太皇太后、親王妃、王妃という役割と決められた在り方を流動化させる隠された意図があり、英国など共系に移行した国々のモデルに移行しやすいので、警戒すべきである。

四  生涯非婚前提なら女性宮家があってもよい

伝統に即したという女性皇族厚遇の在り方としては、あくまでも生涯非婚に限定して、独立した居邸とする「女性宮家」が妥当と考える。非婚内親王が中世において、天皇准母として非婚皇后に立てられたこと、院号宣下により女院となり、皇室領荘園の本所であった等の厚遇されていた歴史を踏まえてのものである。 

 

参考資料 

服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』小学館2002の皇女一覧表、ウィキペディア、コトバンク.結婚の年、右の欄に所生子等備考

内親王は令制は皇女、天皇の姉妹の身位であるが、明治皇室典範は四世女王まで、現皇室典範は二世女王まで

17世紀は皇女が多く、尼門跡のポストも不足したため、摂家への降嫁が9例あるが、霊元院の復古政策により17世紀末より、内親王は皇族または天皇と結婚する原則に戻している。

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2024/04/10

国会議員の先生方へ意見具申(皇位継承の安定的確保問題) 決定版 有識者会議①案、皇室典範12条改変に強く反対③案に絞り旧皇族(伏見宮御一流)が直接復帰すべき「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告の批判-

pdfのダウンロードもできます。エバーノートで公開 皇室典範問題私の見解

https://www.evernote.com/shard/s605/sh/e507f65e-cf29-244f-dac7-c734187077aa/wbsUomeip0N6Kg5QPOXJIxFRofI2tjGL1y3h4V3GC2mJvOfNvfLguUy9Wg
https://www.evernote.com/shard/s605/sh/d746a8c4-1881-2d9c-b940-f6f8ced3d1fb/34e309c6ac42aabc1bd45606537dd8c4   

 取るに足らない者が恐る恐る謹んで上申します、軽輩でありながら、不躾にも長文の文書を送りつける無礼をお許しください。保守系の先生方でも有識者会議の①案を支持している状況に危機感を覚えるため有識者会議の新奇な制度の提案は皇室制度を破壊するだけでなく、国民の家族慣行に影響が大きく、千古の国体たる「家」制の否定であり、深刻な問題と受けとめており、この際厚かましく恐縮ですが、秩序と古典的価値を重んじる思想的立場による見解です。もし時間に余裕があるのなら、ご笑覧いただければとても幸甚に存じます。

 この意見具申の目的は、令和31222日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告が悪質なものであり、この計略にはまらないよう、国会議員の先生方に訴えるものであります。

 とりわけ①案を恒久的制度とするため皇室典範12条を改変する方向性を強く打ち出している点、女子は婚家を継ぐものという婦人道徳を破壊するため絶対的に反対。

 令和31222日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議報告は、下記の案と案を検討すべきとしました。

 仮に①案を実施しても女性皇族に皇位継承権を付与せず、配偶者、所生子も当面皇族としないで将来身分を検討するものとし、②案も当事者は皇位継承資格を付与しないことを示し、悠仁親王殿下の次の皇位継承者を、男系男子維持か男女共系に変革するかという問題は先送りとする趣旨の報告でした。

①内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持することとすること

②皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系の男子を皇族とすること

③皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること

①案は、皇室典範12条の立法趣旨を否定して婚入配偶者の婚家帰属性という日本の家族慣行の全面的否定となるから、重大な変革である。天皇と皇后、親王と親王妃といった皇族の性的役割分担を流動化させる目論見がある。

 それゆえ皇室典範12条改変を狙いとする案先行実施及び②案との並行実施は絶対回避すべきである。将来的には英国・北欧・ベネルクスと同様、男女共系の長子相続への移行を見据えた案であり、改変の反対理由の説示が意見書の第一の目的である。

 正しい政策は、旧宮家の再興、旧皇族の復籍をコンセプトとして、伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒にもとづき、『椿葉記』に説示される王統の正当性、永続が約された王統として、男系男子の方々を独立の当主として奉戴申し上げるのが筋であり、できるだけ多くの旧宮号を復活させるべきである。未婚者に限らず、親子ともども家族全員が復籍するあり方が望ましい。

 つまり有識者会議が推奨していない「③ 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすること」が「継嗣を広め、皇基を固くする」正しい選択であり、その理由を説示するのが、意見書の第二の目的です。

 

目次

 

結論        3

一 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する①案に強く反対する            5

(一)皇室典範12条改変は家族道徳、規範を根本的に破壊する      5

1 婚入者の婚家帰属性という日本の基本的な親族構造の否定         5

2 夫妻は尊卑を同じくするのは儒教文化圏の文明の基本理念         5

3 令制では皇女・内親王と臣下の23例の婚姻は違法婚 6

(二) 生涯非婚前提なら女性宮家があってもよい       15

(三)リヒテンシュタインモデルを強要されるいわれはない           16

(四) 小括 皇室典範12条の改変に強く反対する     16

二 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすべき理由    16

(一)宮家再興、創設に消極的になる必要はなく、復帰されるべき正当な理由がある          17

(二)『椿葉記』が伏見宮の由緒となった経緯                17

(三)南朝正統史観によるダメージは克服できる          21

(四)崇光院流は完全なる傍系化が回避されるステイタスを得た    22

(五)『椿葉記』に込められた意味を忖度すべき            22

(六)伏見宮の永代存続は世数制限のある令制においても合法で正当                22

(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について   24

(一)伏見宮家が正統・嫡流たる由緒、その証拠もある 23

1 延文2年に崇光上皇が嫡流所領の全てを相続した     25

2  貞治2年(1363)光厳法皇の置文に伏見殿の御子孫が正統とあること          27

3 持明院統皇統文庫の伏見宮家への伝来    26

4 琵琶の習得、秘曲の伝受という嫡流の流儀の継承     28

5 伏見宮家は18世紀後半においても『椿葉記』の由緒により嫡流を自認していた             29

(二)後崇光院が本格的な太上天皇であった決定的意義 29

1 伏見宮貞成親王は太上天皇尊号宣下の一点突破で皇統の付替えを画策(略) 29

2 実父でなく兄とされた太上天皇尊号宣下詔書と皇統問題             29

3 後崇光院は本格的な太上天皇であり伏見宮の威信を高めた        30

(三)伏見宮の永続性には合法的な根拠がある              31

1 応永23年後小松上皇より室町院領永代安堵の勅裁   31

2 『椿葉記』の伏見宮家当主を永代天皇の猶子となし奉る構想の奏上              31

3 康正2年の「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝         31

(四)幕末維新期以降 伏見宮系皇族の繁栄の意味       32

(五)旧皇室典範の問題点         34

1 世襲親王家の廃止                  34

2 小松宮と華頂宮の養嗣子の臣籍降下      35

3 明治2539年創設の5宮家と明治40年皇室典範増補               35

(五)大正9年の永世皇族制放棄政策の問題点(略)   36

(六)「準則」の背景として南朝正統史観の影響とその克服の方途(略)          36

(七)宮家の数の適正規模         36

 

 

結論

一 有識者会議の①案は日本的「家」の婚姻慣習、婚入配偶者の婚家帰属性を否定し、夫婦、親子で身分を異にする歪な婚姻の在り方であり、性的役割分担の流動化をもたらす最悪な案なので断固として排斥するべき。②案との並行実施も強く反対する。皇室典範12条の制定趣旨は正当であり改変に強く反対する。最悪①をとるとしても臨時的当面の措置とし、恒久的制度にしない。              

二 ③案を実施する。②案は現存宮家の方々が養嗣子への承継を望まれた場合にのみ③案と並行して実施する。

三 ③案の実施方法は以下のとおりとする

(一)皇籍復帰の対象者は伏見宮御一流のみとする

 皇統に属する男系男子(皇胤)を幅広く調査、公式に認定し、暫定的に皇位継承順位を付与、適正規模の範囲で、認定された皇胤の御家族が皇籍に直接復帰されるようなし奉るべきである。

対象者は、皇統上の格別の由緒、永続を約されている由緒にもとづき一品式部卿伏見宮邦家親王の御子孫(伏見宮御一流)にしぼる。皇別摂家の末流など藤氏となった方々が復帰するのは論理的でない。

(二)調査対象と優先順位

第一範疇 

 12宮家(祭祀承継家を含む)の末流の男系男子と養嗣子(但し第一~第三範疇の男系男子に限る)を第一範疇として全員が皇籍に直接復帰することを原則とする。員数が適正規模を超える場合には調整する。

この範疇の調査対象は、昭和22年に皇籍離脱した11宮家のうち離脱時に皇位継承資格者のいない東伏見宮家を除く10宮家(皇位継承順では、伏見宮→山階宮→賀陽宮→久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮)の末流の男系男子と養嗣子に加えて、戦前に華族に列し宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見伯爵家の御子孫を加えたカテゴリーになる。

 華頂宮は第4代博忠王が独身で薨ぜられ、大正13年に断絶したが、実弟の博信王が家名を賜り臣籍降下し華頂侯爵として祭祀を承継しており、伏見宮博恭王の御子孫であって血筋としては伏見宮家に近く皇室典範が実弟の養子相続さえ認められていれば存続していたことを考慮し、11宮家と同列に遇するのが妥当であり第一範疇とする。

 また東伏見宮依仁親王は大正13年に継嗣なく薨去し断絶が決定したが、宮家自体は周子妃殿下により昭和22年まで存続した。事実上の養子だった久邇宮邦彦王三男の邦英王が祭祀を継承し昭和6年に家名を賜り東伏見伯爵として華族に列しているので、10宮家と同列に遇するのが妥当であり第一範疇とした。

 優先順位は、①旧宮家(祭祀承継家を含む)の本家を継承した男子、②実系の子孫が途絶した旧宮家であっても養嗣子もしくは当主の推挙で第一~第三の範疇の男系男子である場合、③分家分出した男系男子、④旧皇族以外の他家の養子となった方も優先順位を下げるが皇胤認定するものとする。

 以上に加えて第二範疇以下で、皇室、皇族方から推挙のあった男系男子も第一範疇に加える。

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第二範疇 

大正9年以降昭和18年まで次男以下の王で12方が、皇族の臣籍降下を可能にした明治40年皇室典範増補第一条により、情願によって家名を賜り降下し華族に列しているが、第一範疇の宮家の祭祀を承継した華頂侯爵家と東伏見伯爵家を除く10家の御子孫で男系男子の方々を第二範疇の皇籍復帰の対象者とする。

優先順位は第一範疇の次とするが、皇室や現皇族に推挙された方、第一範疇で実系が途絶した宮家の養嗣子か当主に推挙された方は第一範疇に加える。

大正 9 年 山階宮菊麿王次男 芳麿王→山階侯爵

大正12年 久邇宮邦彦王次男 邦久王→久邇侯爵

大正15年 伏見宮博恭王三男 博信王華頂侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王三男 藤麿王筑波侯爵

昭和3年 山階宮菊麿王四男 萩麿王鹿島伯爵

昭和4年 山階宮菊麿王五男 茂麿王葛城伯爵

昭和6年 久邇宮邦彦王三男 邦英王→東伏見伯爵

昭和11年 朝香宮鳩彦王次男 正彦王→音羽侯爵

昭和11年 伏見宮博恭王四男 博英王伏見侯爵

昭和15年 東久邇宮稔彦王三男 彰常王→粟田侯爵

昭和17年 久邇宮邦彦王甥 家彦王→宇治伯爵

昭和18年 久邇宮邦彦王甥 徳彦王→龍田伯爵

第三範疇 

明治時代に家名を賜り臣籍降下し華族に列した方々の御子孫で男系男子。小松侯爵家や清棲伯爵家。

 

(三)秘密会での決定や、推挙権による決定など別の方法があってもよい

 筆者は部外者であり、上記の類別で男系男子の員数はメディアで流布されている大雑把なことしか知らない。

 旧皇室典範の皇位継承順としなかったのは、久邇宮系末流が上位となり北白川宮系末流が下位となるので、全員復帰でならよいが、適正規模が少なめに判断された場合、不公平感があるためである。そのため12宮家の本家嫡流と、養嗣子を優先して復帰するプランを結論としている。

 ウィキペディアによれば閑院家は絶家と書かれているが、実系が途絶した旧宮家でも養嗣子又は当主の推挙者を加え、旧宮号をできるたけ復活させるべきである。優先順位とか堅苦しいことはいわないで、非公式の協議や、秘密会で皇籍復帰者を決定してもそれには反対しないし、皇室側の推挙があったほうが収まりがよいということなら、天皇皇后両陛下、成人皇族の方々に推挙権を行使していただく

一 内親王・女王が婚姻後も皇族の身分を保持する①案に強く反対する

(一)皇室典範12条改変は家族道徳、規範を根本的に破壊する

1 婚入者の婚家帰属性という日本の基本的な親族構造の否定

 皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)は、旧皇室典範44条を継受したものである。

 帝国憲法皇室典範義解によれば44条(皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス‥‥以下略)は「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨である。

 夫の身分に従うとは、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、主婦予定者として婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすることで、婚入者(嫁・婿)の婚家帰属性という日本の家族慣行を意味しており、これは華士族平民同じことで、侯爵家に嫁すならば侯爵夫人となり婚家を継いでいくゆえ、皇族の列を離れる。

 明治8年11月9日妻の氏について内務省が太政官に提出した伺出では、「華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚嫁シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候‥‥」(内務省案-夫婦同苗字)[廣瀬隆司(1985)「明治民法施行前における妻の法的地位」愛知学院大学論叢法学研究 28 巻 1・2 号]「[近藤佳代子(2015))「夫婦の氏に関する覚書(一)」宮城教育大学紀要 49 巻openaccess]とあり、これは旧皇室典範44条の立法趣旨と同じであるし、明治の戸籍制度を前提とした制度ともいえるだろう。したがって皇室典範12条改変は夫婦同姓(氏)の立法趣旨の否定になる。夫婦別姓(氏)反対の立場から容認しがたい。選択的夫婦別姓(氏)に先鞭をつけることになる。

 明治民法起草者の一人、法典調査会で梅謙次郎は、夫婦同氏であるべき理由として、妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致しているという趣旨を 述べている[江守五男19900『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂 1 57]

 人類学の大御所によれば日本の「家」は離在単位であり、人は複数の家に両属することはない婚入者(嫁・婿)は婚家の成員であり、不縁とならない限り死後婚家の仏となる清水昭俊 1970「<家>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<家>制度・その一」『民族學研究』 35(3)openaccess, 1972「<家>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<家>制度・その二」『民族學研究』 37(3),  1973「<家>と親族 : 家成員交替過程(続) : 出雲の<家>制度・その二(続)」『民族學研究』 38(1) ]。

 新奇な家族モデル、夫妻と嫡子とで身分の異なる歪な制度を創出し、日本の社会構造に合致した皇室典範12条を否定することによって、伝統的家族規範を崩壊させる強い懸念がある。

 我が国の家族慣習では婚入者である入婿は家長予定者として迎えられ、婚家に帰属する。

 我が国の「家」は家長-主婦の性的役割分担の地位構成が各世代続いていくことにより永続する(前掲清水説).婿取りの場合、長女の地位は嫁と同様主婦予定者。家長、当主は長男であれ入婿であっても男性である。
 伝統中国の入婿は宗法に反し妻家に質となって労力を提供する存在にすぎないが、わが国の家族慣行では、家長(当主)予定者でない入婿というのは考えられず、有識者会議①案がそのような歪な制度を作ってしまっているのは、男性を女性皇族の添え物にしてしまうのは男性に対する侮辱だ。

2 夫妻は尊卑を同じくするのは儒教文化圏の文明の基本理念

 夫妻なのに皇統譜と戸籍、嫡子は戸籍という、家族であっても尊卑を同じくしないこと。夫妻と嫡妻と嫡子がバラバラの身分としている違和感は相当に不愉快なものである。

 夫妻は尊卑を同じくした身分という秩序観念は儒教の最も基本的な経書に由来する。

『儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである[谷口やすよ1978 「漢代の皇后権」 史学雑誌 87(11)openaccess]。

後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」『績漢書』禮儀志劉昭注引蔡質「立皇后儀」)という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた[保科季子2002 「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』61 巻 2 号 東洋史研究 61 巻 2 号]

したがって①案により夫妻、母と嫡子でバラバラの新奇な制度を創出することは、道理に反するので却下されるべきである。

3 令制では皇女・内親王と臣下の23例の婚姻は違法婚

 令制では継嗣令王娶親王条により内親王と臣下の婚姻は違法であるが、有識者会議報告は、違法婚であるが勅許により例外的に臣下に降嫁した事例(仁孝皇女和宮親子内親王など)有識者会議事務局調査研究資料(令和3年11月30日配布)では藤原師輔に降嫁した醍醐皇女勤子内親王ほか6例を根拠にして①案を「皇室の歴史と整合的」としているが、反律令行為、イレギュラーな事例が歴史と整合的というのは詭弁である。

 違法婚は特定の時期に集中してみられることで、原則は崩れていないことを述べるともに、それでも前例はあるというかもしれないが、前例の江戸時代摂家への皇女の降嫁9例と、徳川家の1例は、いずれも嫁取婚、夫方居住、墓所も婚家の廟所で、婚家に帰属し皇室を離れたと理解でき、皇室に残って摂政、国事行為臨時代行等を担うとされる有識者会議案とは整合しないモデルである。

1) 令制と近代皇室典範では皇族の概念が異なる

 本題に入る前に令制皇親(「親王」「王」名号の天皇の親族)と近代の皇族は概念が違うという前提がある。令制皇親は、単系出自リネジ(血統)の概念であり、自然血統(男系)で生理的に貫徹する親族になる。

 神護景雲3年(769)に巫蠱事件に連座して内親王位を剥奪された例(不破内親王)などあるけれども謀反や陰謀にかかわらない限り親王位が剥奪されることはない。ただし嵯峨朝以降、親王宣下制となり、親王位、内親王位は生得的身位ではなくなったが、賜姓されて臣籍に降下しない限り皇親として生涯身位を保持する。宮門跡も皇親としての身位であり、摂家・清華家貴族と同じく天皇の諮問に答え国政に参与しうる。つまり親王位は女叙位等の宛名、源平藤橘等の天皇の賜与・認定による古代的姓氏が婚姻によって改姓されるものではないことと同じである。

 しかし明治以降の姓氏は苗字に一元化され、古代的姓氏は公文書に用いてはならないこととなった。有識者会議が突然、前近代の天皇賜与の姓と自然発生的な家名である苗字の姓氏二元システムの時代の概念をふりまわした議論をしていることに問題がある。

 一方、皇室典範は后妃が臣下出身であれ皇后、親王妃、王妃の身位ゆえ皇族の身分とされる。天皇の正配や親王妃が臣下出身の場合は、皇親ではない令制とは概念が異なる。

 自然血統概念と、正配も含む「家」、ファミリーの概念との違いである。

 論理的に考えて令制と近代では皇族の概念が異なるから、令制における臣家に降嫁しても皇族の身分を維持した先例をもって、①案を正当化できないのである。

(2)内親王の歴史的由来を否定する

 ①案は令制(継嗣令王娶親王条)において皇親内婚のみを適法とする内親王の歴史的性格規定を全面的に否定するので、皇室制度を根本的に破壊する。

〇継嗣令王娶親王条

「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」

 文殊正子[1986  「『内親王』号について 『公主』号との比較 」古代文化 38(10)]によれば、中国では皇帝の娘や姉妹は「公主」号を称する。「公主」が臣下に嫁ぐことで皇帝と臣下との親密化を図る役割を担っていたのに対し、日本の「内親王」は皇族のみに嫁ぐことで皇室の血の尊貴性を守る役割を担っていたのであり、その役割が異なっていることから、我が国では「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した[中村みどり2014による文殊説の要約]

 有識者会議①案は、皇族女子と一般国民と結婚しても皇室に残る制度であるから、「内親王」号のて特徴的な歴史的由来を否定するもので伝統破壊そのものである。

 令制では延暦129月詔で二世女王以下が条件付で臣下への降嫁が認められたが、臣下が内親王を娶ることは一貫して違法である。

 [今江広道 1983 「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館、安田政彦 1998 「延暦十二年詔」『平安時代皇親の研究』 吉川弘文館、栗原弘 2002 「皇親女子 と臣下の 婚姻史一 藤原 良房 と潔姫の 結婚の 意義の 理解の た め に一」 名古屋文理大学紀要2openaccess、中村みどり 2002 「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編(1)openaccess 2014 「延暦十二年の詔- 皇親女子の婚制緩和の法令」 京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編 (13))]
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〇延暦12年(793)九月丙戌詔

「見任大臣良家子孫。許娶三世已下王。但藤原氏。累代相承。摂政不絶。以此論之。不可同等。殊可聴娶二世已下王者」

 旧皇室典範は内親王の範疇を令制の四世女王まで拡大し、現皇室典範も二世女王まで内親王の範疇である。近代皇室典範では、内親王の範疇が変更していることもあり、継嗣令王娶親王条が明示する皇親内婚に限定していない。明治皇室典範39条では皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ルとしている。

 令制でも延暦12年詔で二世女王は藤原氏、三世女王は見任大臣、良家(三位以上、それに准じた家)、皇親内婚原則緩和されており、明治典範では内親王が令制の四世女王まで拡大された以上、延暦12年詔とさほど変わらないという見方は可能である。なお、藤原氏の二世女王降嫁の初例は承和期の藤原衛への恒世親王女降嫁である。これは淳和上皇による殊遇である。藤原基経に降嫁した人康親王女も二世女王であり、時平・仲平・忠平と醍醐后穏子の母であり、この緩和は藤原氏にとって有益だったと考えられる。しかしそれは二世女王であって、内親王の降嫁は違法であることに変わりない。 

 実際、旧皇室典範44条のもとで明治41年常宮昌子内親王から昭和18年照宮成子内親王まで内親王5方すべてが皇族と結婚されており、令制の内親王は皇族との結婚が大原則であることが意識されていたとみてよいからである。(一覧表参照)

 それゆえ大局的にみて、旧皇室的典範を継受した皇室典範12条も伝統と整合的と認識してよいと思う。

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(3)内親王と臣下の婚姻23例との比較で有識者会議案を正当化できない理由

 皇族以外と結婚しても女性皇族は皇族の身位にとどまる案につき、有識者会議事務局資料は 6 方(うち 1 方は婚約のみ)を例示しているが、臣下が内親王を娶るのは、継嗣令王娶親王条に反し違法であるが、事後承認ないし勅許された結婚である。正確には表に示したように6例でなく22例ある。

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事務局例示の霊元皇女八十宮吉子内親王は徳川家継と婚約し納采の儀も行われたが、家継夭折のため3歳で寡婦となり江戸に下向していない。しかし道具料500石や毎年銀200両、徳川の正室としての待遇を受けているので、事務局と同じ観点で、八十宮もカウントして23例としておく。

 内親王に限ると19 例、20 世紀後半以降を含めると 28 例(令制では二世女王にあたる眞子内親王殿下まで含めても 31例)。

 6世紀の宣化皇女から19世紀の仁孝皇女まで臣籍に降下した皇女をのぞくと446方(服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』 小学館 2002 の皇女一覧表参照)おられるが、そのうち、欽明后石姫から光格后欣子内親王まで皇女 56 方(源賜姓を含むと58 方)、昭和18条の東久邇宮盛厚親王妃成子内親王まで 63 方が皇親内婚である。華族との婚姻を合法とした旧皇室典範のもとでは内親王五方がすべて皇族と結婚されており令制の原則は意識されていた。

 皇親内婚(合法婚)56 例対臣下との婚姻 (違法)23例 である。非婚も含めて全体では5%程度なのであり、統計的にみても有識者会議の言う「皇室の伝統と整合的」というのは間違いである。

 しかも大多数が10世紀と17世紀に集中しているので、歴史的に一貫しているわけでない。皇親内婚原則は崩壊していない。その根拠として、17世紀末の霊元皇女福子内親王が伏見宮邦永親王に嫁してから、内親王三方が世襲親王家に嫁し、婚約の事例も含めると内親王五方が世襲親王家との縁組であり、御一方が皇后に立てられている。内親王と摂家との婚姻は、昭和25年まで途絶するのだ。東山天皇の皇后に有栖川宮家の幸子女王を立てたのも、大嘗祭再興等と同じく霊元上皇の復古政策で原則に戻したという見方ができる。

 なお生涯非婚の内親王が大多数をしめることには相応の理由があり、令制では、 食封が親王一品に800戸、二品600戸、四品300戸と規定され内親王は半減だが、それでも大きな収入があった。八世紀の内親王は結婚するのが通例だが、生涯非婚が成り立つ制度設計であって平安時代以降生涯非婚の例が増加した。院政期から鎌倉時代に天皇准母という名目での立后が11例あり、また多くの非婚内親王が院号宣下され皇室領荘園群の本所として経済的に恵まれていた。室町・戦国時代の皇女は尼門跡(比丘尼御所)となるのが通例になるが、これは男性皇族の宮門跡と類比できる。寺領経営体のトップであり、寺領荘園は広義の皇室領であり幕府により保護され相応の収入があった。江戸時代は婚姻する皇女が増加するが、礼子内親王のように知行を得て在俗で非婚の例もあるが、非婚の多くは御宮室(尼門跡)であるけれども、幕末に荒廃した。

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A 10世紀に違法婚が多い理由

 臣下が内親王を娶る違法婚の初例は藤原師輔と勤子内親王。醍醐第四皇女で母は更衣源周子(嵯峨三世孫)であり、源順に『和名類聚抄』を編纂させた才媛である[岡部明日香2012)「秋好中宮と勤子内親王・雅子内親王の史実:―絵画と斎宮―」中古文学 90openaccess]

 承平 4 年(934)当時蔵人頭だった藤原師輔(27 歳)は、本来律令では許されない内親王の降嫁を実現するために、勤子内親王(31 歳)と密通し、後から承認を受ける形を取った。

 内親王は承平 6 年叙四品。この密通が大目に見られた背景として、後宮を統率する皇太后藤原穏子が甥に甘かった。密通当時朱雀天皇は 12 歳、摂政は師輔の父忠平だった。

 天慶元年(938)勤子内親王薨後、同じく母が源周子で、伊勢斎宮から帰京した雅子内親王と密通のうえ、事後承認された。太政大臣藤原為光の母である。

 天暦 9 年(955)の師輔(48 歳)村上天皇の同腹の姉宮康子内親王(37 歳)の密通についてはさすがに天気を損じたと伝えられている。母は太皇太后藤原穏子、天慶 9 年(946)叙一品、穏子が崩御になられたあと、天暦 8 年(954)准三宮宣下、格別尊貴な内親王であった。太政大臣藤原公季の母だが天徳元年(957)産褥により薨去。

 この結婚は評判がよくない。

 師輔は康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなきに(前が汚れている)」(『大鏡』)とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『中外抄』) などと伝えられている[保立道久 (1996) 『平安王朝』 岩波新書]

 内親王の御前が汚れていると言ったのは師輔の兄左大臣実頼である。

 ただ『中外抄』は、約200年後の関白藤原忠実の口述記録である。反律令行為である以上、内親王との密通は好ましくない行為と認識されていたとはいえる。実際12世紀には内親王が臣下に降嫁した事例がないのである。

次の史料では村上天皇及び世間はこれを許さなかったとも伝えている。

『大鏡』三 裏書

一品康子内親王事(中略)

天暦八年三月廿八日勅賜年官年爵。本封外加一千戸。准三宮。同九年配右大臣師輔公。帝及び世不許之。

天徳元年六月六日生仁義公。即薨。同十日乙丑葬礼

[米田雄介 2004 4 「皇親を娶った藤原氏」続日本史研究会『続日本紀の諸相』 塙書房486 頁

 天気を損じたこと。世間も肯定的でなく異常な事態とみなしていた。

勅許されたというのは、事の性質によるもので、しかも師輔は外舅であり、皇后藤原安子の父、春宮大夫として皇太弟時代から村上天皇を支えた近臣でもあったからである。

 ただこれが前例になって令制では違法であっても 10 世紀には師輔の例を含めて 9 方、11 世紀に御一方の内親王が臣下に降嫁した事例がある(表参照)。

 11世紀の三条皇女禔子内親王の教通の降嫁は、天皇が勧めた縁談で、摂関家との関係修復を意図したもの。しかしこの後、内親王の臣下への降嫁は途絶するので、臣下への内親王の降嫁は一時的な流行とみなしてよい。

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B 17世紀における摂家への降嫁9例の理由

 

 17 世紀の皇女 9 方(うち内親王宣下 7 方)の摂家への降嫁については、この時期に集中的しているが、摂家とはいえ継嗣令王娶親王条において内親王は四世王まで男性皇親以外と結婚できないのであるから違法であるが勅許された婚姻と評価できる。

 室町・戦国時代の皇女は入寺得度し比丘尼御所(尼門跡)となり、全て非婚で内親王宣下もなくなった。

 江戸時代においても皇女が御宮室(尼門跡)となるケースは多く、例えば後水尾皇女 17 方のうち 8 方は入寺得度されているが、御所であるけれども、結婚するケースも少なくないのである。

 嫁ぎ先が摂家とされた理由について久保貴子[2009 「近世天皇家の女性たち (シンポジウム 近世朝廷の女性たち)」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 2openaccess]の見解は、「中世までは、皇女の臣下への降嫁は好ましくないとの意識が強かったと言われる。近世に入って、その意識が突然消えたとは思われず、降嫁開始は、前代における天皇と摂家との疎遠を解消する一策だったのではないか‥‥徳川家康が朝廷における摂家重視の方針を打ち出したこと、天皇の正妻が摂家の娘を迎えることで復活したこととも無縁ではないであろう。‥一七世紀は皇女が多く、経済力が十分でなかった天皇家にとって、その処遇は頭の痛い問題でもあった。」と言う。

1 7世紀の皇女は国家的給付にあたる皇女御料はなかった。ただし中宮源和子(将軍秀忠女・東福門院)所生の近衛尚嗣に嫁した女二宮と二条光平に嫁した女五宮賀子内親王は厚遇された。婚姻に際して幕府より三千石が献上されている。

 これは徳川の縁者のため特別であり、皇女が多かった時期なので、寺領領主である尼門跡のポストが不足していたことが摂家への降嫁例が多い要因とみてよいと思う。皇女御料がなかったというのは、皇女は、入寺し、結婚するのは十代前半が通例だったこともある。

 後水尾皇女梅宮(女一宮・母は典侍四辻公遠女)は 13 歳で鷹司教平に降嫁したが数年後に離縁、その後剃髪し、法諱を文智という。東福門院が文智の円照寺のために幕府に寺領寄進を依頼したため、寛文 8 年に家綱からやっと寺領 200 石の朱印状が発せられたのだという。

 第八皇女の緋宮(後西天皇皇姉、母は勾当内侍・御匣殿、櫛笥隆子)は、院参町に緋宮御殿が建設されているが、後水尾法皇崩後に落飾、法皇旧御料から 300 石が緋宮に贈られ、これが御宮室林丘寺の寺領となった[久保貴子『後水尾天皇』ミネルヴァ書房2008 『源和子』吉川弘文館2008]。

 上記の見方に加え、禁中並公家諸法度により、皇位継承予定者以外の親王は現任三公の下の座次となった。事実上、世襲親王家当主より摂関家当主が上位となったこともあるだろう。

 天正13年の座次相論で(伏見宮系宮門跡と、摂家出身の門跡准后の相論)は715日関白秀吉が裁定した(『親王准后座次三ヶ条之事』)。裁定は、親王と准后は同格であり、二品伏見宮邦房親王は、准后近衛龍山と同格、横並びだったことからすると、伏見宮の座次が低下し、五摂家の座次が上昇したのである。[神田裕理 2019 『朝廷の戦国時代-武家と公家の駆け引き』 吉川弘文館]

 しかし先に述べたとおり、17世紀末期以降、内親王の婚姻政策は、皇后が御一方、世襲親王家三方、婚約を含めると五方の縁組(幕末の淑子内親王は生涯独身だが、閑院宮愛仁親王と婚約したが親王が早世した例、和宮親子内親王は、有栖川宮熾仁親王と婚約していた)が世襲親王家であることから、原則通り、皇親内婚となったのである。

 やはり違法婚は定着せず、原則回帰しているので、臣下と内親王の婚姻は異例という評価をとってよいのである。

 徳川家への降嫁も婚姻も異例とみなしてよい。

 霊元院の第十三皇女八十宮(母は右衛門佐局)は 2 歳で徳川家継と縁約した。この縁談は将軍家の要請に応じたもので、霊元法皇は幕府との関係修復をはかりたいという趣旨[久保貴子 『近世の朝廷運営 - 朝幕関係の展開』 岩田書院1998]、もしくは、法皇が月光院と天英院の対立に乗じて、政敵である近衛基煕に楔を打ち込む狙いとも言われる[Wikipedia]。ただし家継夭折で、八十宮は3歳で寡婦となり、江戸に下向されなかった。

 江戸時代の皇室、宮家、門跡、公家の経済基盤である家領は徳川幕府が知行充行権を掌握していたから、幕府と関係修復のための違法婚はやむをえないものといえる。但し桜町天皇は皇女智子内親王(のちに後桜町女帝として非婚で即位)と徳川家治との縁談を断っている。

 19世紀の和宮は、幕府が公武一和を目的として、将軍家茂への降嫁を奏請、朝廷は鎖国攘夷の措置を講ずればこの要請を拒否しないという政治的駆け引きがあった。有栖川宮熾仁親王との婚約は棄破、内親王宣下の後、江戸へ下向、文久 2 年(18622 11 日婚儀。特殊な事例と評価する。

C 江戸時代の前例は嫁取婚、夫方居住、婚家の墓所であり、有識者会議メンバーがモデルとしているアン王女とは整合しない

 有識者議事録ではモデルとしてアン王女に言及している有識者会議のメンバーがいるが、ロンドンの居邸はセント・ジェームズ宮殿であり、ふだん居住しているコッツウェルズのマナーハウスは、エリザベス女王が結婚祝いとして購入した物件で、そもそも英国が単純核家族社会なので、日本の家族慣行と違う面があり夫方居住とはいえない。

 モデルとされるアン王女の居邸が王室側で用意された在り方にならうといれば、有識者会議の①案は女性宮家に近いものといえる。

 女性皇族に皇族費がどのような形で支給されるか、夫方の私邸に居住するのか、宮家と同じく皇族の居邸が用意されるのか、納采の儀など婚儀のありかた。墓所について宮内庁管理になるのか、夫方墓所か不明である。そこが問題なのだが明らかにされていない。

 江戸時代以前、内親王が臣下に降嫁した23例のうち実際に結婚生活のない八十宮は別として、墓所が判明している江戸時代の10方はすべて、婚家の廟所、墓所であり、宮内庁治定陵墓ではないということは皇室から離れ、婚家に帰属すると考えてよい。居住形態も10世紀の一品康子内親王の例も含め夫方居住である。17世紀は嫁取婚の形式であることは後述する。

 したがって、従って有識者会議が前例とするものと、アン王女をモデルとする考え方とは整合性がないといえる。

C-1 後水尾皇女常子内親王の評価がすべて

 江戸時代の10例についていうと近衛基煕に降嫁した後水尾皇女品宮常子内親王が、特に結婚した後も皇室とのかかわりが深い内親王といえるので、常子内親王が 有識者会議案のモデルたりうるかを検討する。というのは、日記が残っていて、宮廷社交の実態がわかっているからである。常子内親王は摂家の正室となった後も、正室としての役割に拘束されない自由な社交生活がみられる。

 品宮(級宮)常子内親王とは、後水尾院の第15皇女で、母は新広義門院(典侍園国子-羽林家)、霊元御生母である。後水尾院は皇子が19方、皇女が17方もおられたが、なかでも鍾愛された皇女である。

 寛文4年(166411月に満22歳で6歳年下の権大納言近衛基煕(のち関白)に降嫁。親幕派、霊元上皇の政敵として知られている。

 なお品宮の内親王宣下は正規のものではなく延宝5年(1677)に諱が常子と定まったことにより、公認されたと解釈されている。以降常子内親王と署名されている。結婚後の皇室とのかかわりの2点は、まず常子内親王は宮門跡、尼門跡なども含む後水尾院の文化サロンのメンバーであったこと。これは摂家正室となっても続けられたこと。晩年の後水尾院のサロンは遊興といわれているが、仙洞御所だけでなく公家町の門跡の里第など御幸されることが多く、品宮は結婚当初、後水尾法皇の御所で夜遅くまで過ごすことが多かった。後水尾院の近衛邸の御幸は105回と頻繁にあり、品宮は修学院離宮への御幸にもお供しており、また岩倉の山を法皇より賜っていた。

 第2に後水尾院より、延宝5年(1677)門跡宮方の深草の知行の監督、宰領を命じられていたこと。新広義門院(霊元生母園国子)が預かっていたものの経営をまかせられた[瀬川淑子2001『皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』]

 門跡領は広義には皇室領ともいえるので、宰領は内親王という身位ゆえといえる。

 まず、宮廷社交については、摂家正室の立場であってもサロンから排除される理由はないから皇室の公務を担ったと評価しなくてもよい。門跡領の経営についても、内親王ゆえ宰領といっても、実務としては院別当の役割に近いものと理解でき、東福門院所生で徳川と縁戚の内親王は経済的に恵まれていたが、品宮は独自の知行がないので、もともと生母の権益だったから法皇の配慮とみなす。

  有識者会議案は、摂政、国事行為臨時代行という天皇に代わる役割、その他の皇室の中心的公務を結婚後も女性皇族に担っていただくというもので、門跡領の経営を担った役割があったとはいえ常子内親王は前例にならないと考える。

 品宮は独身時代から、法皇より院参町に御殿が与えられていた。万治 4 年(1661)大火の後、寛文4 年に中筋の法皇別邸の隣に御殿が建てられ、なぜかその半年後に結婚している[久保貴子 2008『後水尾天皇』]

 近衛家の寝殿の修復、茶室と物見の格子の構築は法皇の出費であり、[瀬川淑子2001 皇女品宮の日常生活『无上法院殿御日記』を読む』]。岩倉の山と地続きの幡枝の山荘も近衛家に下賜されている。また品宮は、紫竹の別邸を購入するため、法皇に無心し、法皇は銀子五百枚を支出している[久保貴子2008『後水尾天皇』]

 さらに常子内親王は、父の後水尾院崩御の際、遺言により修学院村 300 石の知行が与えられていた。これは、後水尾院が崩御によって幕府に返却する知行 3000 石の一部ということであり、幕府が認め所司代より報知されたもので、これは内親王薨去により幕府に返却されたとみられている[瀬川淑子2001]

 品宮御殿や岩倉の山、紫竹の別荘等、内親王の財産は嫡子の近衛家煕が相続し、これらは近衛家領となった。

 以上の考察から、品宮常子内親王の事例は、アン王女をモデルとする有識者会議①案の前例にはならないと考える。品宮は国家的給付に相当する皇女御料を得ていないのである。内親王の財産は嫡子が相続しており、それゆえ婚家に帰属しているといえる。

 後水尾法皇より賜った財産があり、遺詔より 300 石の知行を一期相続的に幕府が認めたとはいえ、それは内親王固有の知行ではない。 大徳寺近衛家廟所に葬られ、アン王女のイメージや皇室に残るというイメージとは違うのである。

 居住形態についていうと瀬川氏によれば寛文4年(1664)結婚当初は別居だった。品宮は独身時代からの御所の品宮御殿、基煕は桜御所(旧本邸)とあり、寛文6年(1666)に新宅の陽明殿(今出川邸)で同居したと述べている。

 しかし結婚初期は変則的だった理由が不確定である。寛永13年(1636)後水尾皇女の女二宮が、基煕の父尚嗣に降嫁の際、今出川邸に「奥方御殿」が造営整備されており、この前例からみて、品宮も近衛家本邸の今出川邸が居所とされて当然である。

 万治4年(1661)の大火で内裏・仙洞御所や多くの公家屋敷が焼亡したが、後西天皇は類焼を免れた近衛家本邸を仮内裏とされ、寛文3年正月に霊元天皇に譲位、寛文48月新造の仙洞御所へ移徒されるまで、後西上皇の仮御所とされた経緯がある、その間、近衛基煕は別邸の桜御所を居所としたのだろうが、なんらかの事情で本邸に戻るまで再整備が必要であったのだろう。

 結婚のタイミングは、後西上皇の移徒とみられる。品宮も 23 歳で、姉宮 3 方の摂家への降嫁が 1214歳であることから、当時の婚姻年齢としてはかなり遅いため結婚を急いだのが真相かもしれない。品宮が結婚した寛文4年ころの日記がないため、なぜ結婚初期別居という変則的なものだったのか詳細が不明なのであるが、近衛家本邸が居所であり夫方居住といえる。

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C-2 夫方居住
常子内親王以外の違法婚の内親王の居住形態につき検討する

〇10世紀の康子内親王

 右大臣藤原師輔は「九条殿」とか「坊城右大臣」と称されたように、九条殿や坊城第、桃園第といった邸宅があった。康子内親王は内裏に居住していた時に、師輔と密通したが、勅許され師輔の邸宅である坊城第に居住していたことは確認されている。

 坊城右大臣歌合(伝宗尊親王筆歌合巻、類聚歌合)

 天暦十年八月十一日、坊城殿にきたの宮おはしますに、つきのいとおもしろきに、をとこかたをむなかた、おまへのせざいをだいにてよめる

 北宮と称されるのが康子内親王である[杉崎重遠1954「北宮考 -九条右大臣師輔室康子内親王-」國文學研究 (9-10)openaccess]

 康子内親王は坊城第で薨ぜられた(『日本紀略』天徳元年六月六日条)[栗原弘 2004前掲]。

夫方居住であり、師輔に降嫁した以上、皇室からは離れたという見方をとってもよいと思う。ゆえに有識者会議の①案の先例とはならない。

 

〇江戸時代に摂家に嫁した皇女・内親王について

 江戸幕府京都大工頭の中井家伝来の図面によると、寛永 13 年(1636)後水尾皇女の女二宮が、近衛尚嗣に降嫁の際、今出川の近衛家本邸に「奥方御殿(女二宮御殿)」が造営整備された[藤田勝也2012「近世近衛家の屋敷について」日本建築学会計画系論文集675]

 正保 2 年(1645)に後水尾第五皇女の賀子内親王は二条光平に降嫁し、当時新在家町の二条家本邸敷地内に御殿があり、ここが万治 4 年(1661)大火の火元だった。二条光平本邸は今出川通の北に移転し、敷地の東半が「女五宮御殿」だったことが当時の指図でわかっている[藤田勝也 「近世二條家の屋敷について : 近世公家住宅の復古に関する研究1」日本建築学会計画系論文集 636号1 2009]

 女二宮と賀子内親王は外祖父が徳川秀忠であることから、御殿が造営されたがいずれも、婚家の敷地内ということである。

 他の摂家に降嫁した内親王も夫方居住であることはいうまでもない。しかし有識者会議案は夫方居住とは言っておらず、先例とは違うわけである。

C-3 嫁取婚

 公家社会では少なくとも史料上戦国時代から嫁取婚の婚儀が通例となった。[後藤みち子 2014『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館、 2014「室町戦国時代の婚姻」高橋秀樹編『婚姻と教育』竹林舎]。

 天和 3 年(1683)家煕と霊元皇女の憲子内親王(女一宮)との婚儀は母の品宮常子内親王が日記に詳しく記されている。「御里の御所へまず中務卿を先に参らす‥‥‥女一宮ねもじ(練絹の白)、色直しの時大納言より紅梅に改めらるる」とあり、基煕の日記にも、女一宮の轅は七人の公家を前駆者として、近衛邸の寝殿に乗り入れたこと、所司代の家来数百人が禁裏からの路を轅に供奉し、近衛家の諸太夫が松明を持って轅を迎えたことなど記している[瀬川淑子2001前掲]。明らかに嫁迎え、嫁取婚の儀礼である。御所を御里と言っていること。白無垢・色直しは現代においても和装花嫁衣装の定番である。

〇 白無垢・色直しについて

 嫁入は、古くは嫁取(よめどり)と言い、嫁入婚の成立儀礼を「嫁娶」とよんでいるように、儀礼の基本は、嫁を夫家に迎い入れる「嫁迎え」にあった。[江守五夫『日本の婚姻』弘文堂 1986 294 ]つまり、出嫁女の婚家帰属が嫁入婚であるが、端的に「白無垢・色直し」だけを切り取ってもその意味が込められていると言ってよいのである。

 色直しは本来、嫁迎えから三日目に行われ、その後、嫁が舅姑、親族と対面披露されたが、明治以降では祝言の盃が済むとすぐに色直しの儀式を行うようになり、大きな披露宴では主要な儀式となった。

 歴史人類学者の江守五夫によれば「白無垢が死装束であって、花嫁が生家を出るときにいったん死ぬとみなされ、また、婚家に入ってから、赤色の衣装に色直しすることが再生をあらわしているということは、日本各地の人々が語っている」とする[江守五夫「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房 1993 51 頁]。

 色直しについて「婚礼には披露宴の際、花嫁が白無垢から色打掛などに着替える色直しと言う習俗が見られます。色直しには、白無垢によって死の状態にあるとされる花嫁が、色のついた衣装に着替えることによって、 あらたに嫁いだ家の人間として生まれ変わったことを示す」[徳島県立博物館企画展図録 2001『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』 2001]。

 17世紀の摂家への降嫁は常子内親王に限らず、憲子内親王と同様のものであったと考えられる。

 婚家に帰属する婚入配偶者であれ、生家とかかわりをもつことはありうるが、摂政、国事行為臨時代行、皇室会議議員のような重要な公務を一般国民の婚家に帰属する方がなさるというのはかなりの違和感がある。百歩譲って世襲親王家より座次上位の17世紀の摂家ならともかく、常子内親王を含め 17 世紀の摂家への降嫁例を前例とし、有識者会議案を正当化できない。

 和宮親子内親王は、慶応 2 年(1866)家茂薨後、薙髪し静寛院と称される。号は天皇が選んでいるが将軍正室としての法号である。

 静寛院宮は将軍慶喜に対し、攘夷の継続遵守と、邦人の洋風模倣を禁止するよう求めたが、返事がなく、攘夷の叡慮は全く無視されたので江戸にとどまる意味を失ったが、慶応 4 年(1868)慶喜と天璋院の懇請により、嘆願書の周旋を依頼された。

 2 月 26 日官軍東海道先鋒総督橋本実梁に徳川家滅亡に至った場合の進退についての所見を求め、徳川家断絶の場合は「家は亡び、親族危窮を見捨て存命候て、末代迄も不義者と申され候ては、矢はり御父帝様へ不孝」と徳川氏の存亡に従い、死を潔くする覚悟が示されている。

その後明治 2 年~7 年まで京都に帰住され、7 年より東京麻布市兵衛町を居邸とされたが、明治 10 年湯治のため滞在された箱根塔ノ沢の旅館で薨去、洋行中の徳川家達の留守居、松平確堂を喪主として葬儀が行われ、ご遺骸は生前のご希望により、芝増上寺の夫君家茂と相並んで葬られた[武部敏夫『和宮』吉川弘文館(1987)]

 以上のことから、和宮(静寛院宮親子内親王)は、徳川氏の家名存続と慶喜の寛大処分のために尽力、徳川氏の存亡に従う決心すら示された。これは婦人道徳として当然のことである。

 しかし有識者会議案は、嫁入婚とは言っておらず、先例とは違うのである。

D  墓所等
〇康子内親王

 師輔に降嫁した醍醐皇女康子内親王の墓所は不詳だが、四十九日は法性寺(『日本紀略』天徳元年七月二二日条)一周忌も法性寺で執り行っている(『日本紀略』天徳二年六月四日)[栗原弘2004「藤原道長家族の追善仏事について」比較家族史学会 編 (19)openaccess]

 法性寺とは藤原忠平が興福寺でなく京都に氏寺を建てる目的で建立され、定額寺、朱雀天皇の御願寺でもあった。

 法性寺では師輔の先妻、武蔵守藤原経邦女盛子の一周忌のほか忠平、師輔、師尹、実頼、伊尹、頼忠、為光、村上女御藤原述子(実頼女)、村上后藤原安子(師輔女、冷泉・円融生母)、花山女御藤原忯子(為光女)の四十九日、円融后藤原媓子(兼通女)の一周忌が執り行われている[栗原弘2004]

 皇族が母方ゆかりの寺で法要がなされる前例があるので、仮に康子内親王が生涯非婚でも、官寺である法性寺で法要がなされると思う。日本的家制度限嗣単独相続の成立は1415世紀であり、法性寺だから婚家帰属と論じることはできない。

〇江戸時代の皇女・内親王

 品宮常子内親王は大徳寺の近衛家廟所に墓所がある。近衛尚嗣に降嫁した後水尾皇女女二宮は東福寺海蔵院にある。近衛前久と信尹の墓があったが大徳寺に改葬されている。なぜ女二宮が改葬されていないか不明だが、二条光平室、賀子内親王、二条常平の室、栄子内親王は、嵯峨二尊院の二条家墓所。賀子内親王邸の御化粧之間は元禄年間に二尊院に移築され、非公開だが茶室として現存する。在俗で生涯非婚だった後水尾皇女昭子内親王は、岩倉御所と称されるが、東福門院ゆかりの光雲寺が墓所である。

 なお後光明皇女で嫡流の皇女として一品、礼成門院孝子内親王は生涯非婚だったが、文明年間に後土御門天皇が伏見に建立し戦国時代に泉涌寺と並んで御寺とされていた般舟三昧院(後花園、後土御門、後奈良の分骨所でもあり、秀吉の伏見築城により西陣に移転した)が墓所。幕末に桂宮を相続した非婚内親王の淑子内親王の墓所は泉涌寺である。

 したがって非婚内親王は皇室の菩提寺といえる御寺かもしくは母后ゆかりの寺だが、摂家に降嫁した内親王は、近衛家なら東福寺海蔵院や大徳寺、鷹司家や二条家は二尊院、九条家は東福寺というように婚家の廟所に葬られているのは婚家の嫡妻ゆえであり、生家を離れていると解釈してよいのである。

 また江戸時代、摂家に降嫁した内親王の墓所は宮内庁治定陵墓のリストにはない。非婚内親王の昭子内親王や孝子内親王の墓所はリストにあり宮内庁が管理している。

 宮内庁治定陵墓ではないということは端的に皇室からは離れているとみなしてよい。

 八十宮吉子内親王は、納采の儀まで行われたが、家継薨去により3歳で寡婦となり、江戸に下向されなかった。浄琳院も将軍正室としての法号であり、墓所も徳川家の拠点である知恩院である。ただし、宮内庁治定陵墓で宮内庁が管理している。とはいえ御寺の泉涌寺や般舟院ではない以上、皇室から離れたとみなしてよいと思う。

 しかし①案は婚出し夫方居住とするとは述べておらず、婚入配偶者となって天皇家から離れるものとは述べていないので、これらを前例とみなすことに強い疑問がある。

 有識者会議案は、墓所の問題ははっきりしていない、夫妻で別々の墓所となれば異例であり好ましくない。

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E 内親王の所生子は資料に記載がなく隠蔽されている

 なによりも、事務局調査資料例示の一品准三宮康子内親王は太政大臣藤原公季の母で、常子内親王は関白藤原(近衛)家煕、の母で、栄子内親王は関白藤原(二条)吉忠の母である。

 大河ドラマ「光る君へ」にも登場し、異母兄兼家と昇進を競った藤原為光は、父藤原師輔、母雅子内親王である。父系帰属主義(大化元年男女の法)により所生子は藤原氏である。前例では臣下に降嫁した内親王の所生子は皇族には絶対ならない。

 母が内親王である藤原為光や藤原公季は太政大臣まで昇進したが、皇族になることはありえない。しかし有識者会議案は同様のケースで将来的には皇族とすることも検討するとしているので前例とは違うというべきである。

 ところが「事務局における制度的、歴史的観点等からの調査・研究資料」には内親王の所生子の記載がなく隠ぺいしているのは不可解。

 しかも①案は当面、配偶者と所生子を皇族とはしないと言いつつ、将来的に皇族とすることも検討されうるということは、前例の枠におさまらないのである新奇な案だといわなければならないのである。

 7 月 9 日議事録に「イギリス王室では、アン王女は王族であるが、御家族は王族ではなく、それによって問題が生じているわけではない。このような海外の例を見ても、御本人は皇族であるが、御家族はそうではない、という形も、それほど無理なく成立するのではないか。 女性皇族のお子様については、皇位継承権とは別の問題として、将来的に皇族になっていただくという道もあるのではないか。」との発言がある。

 この発言から知名度が高いアン王女を①案のモデルと想定し、将来的には女系容認の本音を看取できる

 英国王室はもともと女系容認で、2013 年に英国は王位継承法をあらため長子相続による男子優先を撤廃しており、①案は、従来、男性皇族が、天皇、親王、王、女性皇族は皇后、皇太后、太皇太后、親王妃、王妃という役割と決められた在り方を流動化させる隠された意図があり、英国など共系に移行した国々のモデルに移行しやすいので、警戒すべきである。

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(二) 生涯非婚前提なら女性宮家があってもよい

 伝統に即したという女性皇族厚遇の在り方としては、あくまでも生涯非婚に限定して、独立した居邸とする「女性宮家」が妥当と考える。非婚内親王が中世において、天皇准母として非婚皇后に立てられたこと、院号宣下により女院となり、皇室領荘園の本所であった等の厚遇されていた歴史を踏まえてのものである。

(三)リヒテンシュタインモデルを強要さいれるいわれはない

 令和3年11 30 日議事録に「我が国と同様、男系男子継承制を採るリヒテンシュタインにおいては、女性皇族が婚姻後も公族の身分を保持しつつ、その配偶者と子は公族とならないという制度であることや、継承者が不在となった際に継承養子を迎えることとしている制度があることは、緩やかに皇族数を増加させようと考えている今後の検討において参考となるのではないか。」との意見がある。

 清家座長は会合後、記者団に対しリヒテンシュタインの継承養子が今後の検討で参考になると語っているとの記事があり(2021/11/30 産経ニュースウエブサイト「年内に最終答申へ 皇位継承有識者会議」)、有識者会議①と②案は、リヒテンシュタイン公国モデル。両方同時にあるいは皇室典範 12 条法改正だけで容易な案の先行実施をにじませ、意図的な狙いがある。

 フランスや神聖ローマ帝国、ドイツ領邦はフランク王国のサリカ法典に依拠して男系継承であり女性君主を認めない。一方、英国や北欧の国々やロシアは女性君主を容認している。

 1970 年代から 2010 年代にかけて、北欧、ベネルクスといった欧州の君主国が男女いかんにかかわらず初生子相続・共系に王位継承法を変更し、2013 年に英国も王位継承法を変更している状況で、リヒテンシュタイン公国は欧州では数少ない男系継承墨守国とされる。あえて同国を前面に出してきたのは、男系維持論者に①案を呑ませやすいと意図である。

 しかし我国は大宝養老の儀制令で「 天子、祭祀所称、 天皇、詔書所称、 皇帝、華夷所称、 陛下、上表所称」とされ、対外的には皇帝号を使用していた時期があり、日清戦争や日露戦争の宣戦詔書は皇帝号であった。また条約においてはEmperor of Japan とされた[島善高 1992「近代における天皇号について」早稲田人文自然科学研究(41)openaccess]。格の違いがある。小国の模倣を皇室に強要させるいわれはない。

(四) 小括 皇室典範12条の改変に強く反対する

 有識者会議は①案を恒久的制度とするため皇室典範12条(皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる)を改変する方向性を強く打ち出している。

 皇室典範12条の趣旨は、同条は旧皇室典範44条を継受したものであり、皇室典範義解によれば「女子ノ嫁スル者ハ各々其ノ夫ノ身分ニ従フ故」という趣旨のものであって、相応正当な理由がある。

 夫の身分に従うとは、夫と尊卑を同じくした同一の身分、夫が侯爵なら嫡妻も侯爵家の身分という意味であり、妻は夫の家に入る。出嫁女は生家から離れ、婚家の成員となるゆえ夫と身分を同じくすること婦人は婚家を継ぐもの、妻は夫の家に入って婚家の成員となるので、生家からは離れる我が国の常識的な家族慣行、婦人道徳にもとづいており、加えて夫婦が尊卑を同じくするという価値観は、儒教の基本的な経書にある文明理念であり、これを否定するのは性差、男性が天皇、親王、女性が皇后、親王妃といった性的役割分担を否定する共産主義イデオロギー、ジェンダー平等論に毒された考え方なので断乎容認できない。

 世界的にファミリー企業の平均寿命は24年にすぎないが、我国には二万社近くが百年以上の歴史を有している[官文娜2010 2「日中伝統家業の相続に関する歴史的考察--北京同仁堂楽家と三井家との比較において」立命館文學 617openaccess]。戸主権により統制される「家」制度は廃止されても家族慣行としての「家」は、日本の親族構造として厳として存在しているのであって、それを否定する①案、皇室典範12条の改変は恐るべき文化破壊をもたらすゆえ容認できない。

 夫妻でありながら皇族女子が皇統譜、夫と嫡子は戸籍であり、尊卑を同じくしないのは、家族慣行にない奇妙で歪なあり方でる。家長たりえない入婿など男性に対する侮辱であり、実質夫婦別姓の先行実施のようできわめて不愉快な制度になるので強く反対する。

 皇室典範 12 条潰しさえ済ませば、①案が「女性宮家」や女系容認に転換するのはきわめて容易である。

 私は文化戦争の天王山が、皇室典範 12 条と夫婦同氏制度の維持にあると考えるので、12 条改変は絶対反対。

 日本的「家」制度、家族慣行、婚出した女性は夫の身分に従う、夫婦同一の身分、出嫁女の婚家帰属性という慣行は守られるべきと考えているので、当面男系維持で大きな変更はしたくないといいながら、しらっと左翼側の性別役割分担の撤廃の主張につながる 12 条改変に迎合していく①案は、かなり策略的な意図を感じる。

 最悪でも女性皇族が結婚しても皇室に残る措置は緊急避難的なものとして恒常的措置とせず、皇室典範12条は維持することを伏して願います。

 

 皇統に属する男系の男子を法律により直接皇族とすべき理由

 そもそも養子相続を否定し、実系の皇統のみが存続する皇室典範9のもとで現存宮家当主の方々が養嗣子を求めておられるのか不透明であるし、9条のコンセプトをあえて変更する理由はない。

 養子というと次男以下が他家に養出するイメージだが、旧宮家の方々には矜持があるはずで、本家継承者が旧宮号で復帰してしかるべきで、現存宮家の承継者となる必要はない。次男以下の男系男子は、継嗣のない旧宮家の養嗣子か当主の推薦があれば旧宮号、他の方は新宮号やかつての宮号を復活させる形で、旧宮家末流の方々を奉戴申しあげるべき。

 

一) 宮家再興、創設に消極的になる必要はなく、復帰されるべき正当な理由がある

 養子縁組案は皇族費など増やさず、現存する宮家の邸宅を継承する案で、財政的支出を極力控える趣旨といえるが、そこまで支出を惜しむ理由がないというのが結論である。

 昭和22年皇籍離脱した11宮家は実系(血筋)ではすべて第2023代一品式部卿伏見宮邦家親王(18021872)の御子孫であるのでここでは伏見宮御一流と記す。

 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒、『椿葉記』が説示する嫡流を引く王統であること。家領の永代安堵、永代伏見殿御所号等、永続を約された由緒が複数以上ある以上、伏見宮御一流12宮家は、やむをえざる事情により臣籍に降下したのだから、今上陛下の次世代の皇位継承資格者が乏しい状況に鑑み、旧皇族の方々を奉戴申し上げ、宮家を再興していただくべきである。養子縁組ではなく直接当主として復帰していただくのが筋であり、もし現存宮家の方々が養嗣子を迎えるご希望があるなら別途検討するものとすることでよいと思う。

 旧皇族復帰の大義名分として、皇室典範第1条の男系継承が語られることが多いが、それだけではなく、この意見具申では、伏見宮御一流=崇光院流皇統に正当性がある、数々の根拠を強調し、それゆえ皇籍復帰をなし奉るべきであるとの見解である。

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 (二)『椿葉記』が伏見宮の由緒となった経緯

 崇光院流=伏見宮御一流にとって後深草院流の正統(嫡流)と主張され、伏見宮が永代存続する由来のわかる『椿葉記』(永享51433-貞成親王(道欽入道親王)のちの後崇光院法皇著があるということは、皇籍復帰に向けて大きなアドバンテージといえるだろう。この皇統の正当性を示す書物がばっちりあるわけである。

 (『椿葉記』については、南北朝史の大家村田正志『村田正志著作集第四巻證註椿葉記」 (1954 初刊、1984)思文閣出版に詳しく、背景については村田正志「後小松天皇の御遺詔」『村田正志著作集第二巻続南北朝史論』 思文閣出版(1983(初出 1944)のほか、近年では秦野祐介「室町時代における天皇論-室町時代の皇族による「正統」思想-」日本思想史研究会報35 2019が『椿葉記』の趣旨を要領よく解説している。このほか三木太郎 1953 「椿葉記」より見たる持明院統分裂の原因─長講堂領以下の所領を中心としてー」 駒沢史学 2openaccess)

 『椿葉記』がある以上、皇位継承の正当性が担保されている伏見宮御一流をないがしろにして、北欧や西欧の王室のように直系長子男女共系に走るのはあり得ないものと考える。

 伏見宮家は初代栄仁(なかひと)親王(親王宣下-応安元年/正平231368)より昭和22年(1947)第26代博明王が皇籍を離脱するまで実系の男系子孫で継承され、600年近く皇統正系と併存し皇族の崇班を継承している意義は甚大で、完全に傍系化してフェードアウトしないのは理由がある。

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 但し、実系継承については例外が1例あり、宝暦9年(1759)後嗣のない16代邦忠親王が29歳で薨去、伏見宮家は『椿葉記』等格別の由緒があるゆえ入寺得度した皇族を還俗させ実系に復すことを嘆願している。しかし宝暦10年桃園天皇の第二皇子(17貞行(さだもち)親王)が伏見宮を継承されたため一旦は血筋が中切れとなったが、明和9年(177213歳で早世されたため再び空主となる(次頁に系図)。

 結果的に安永3年(177415貞建(さだたけ)親王の次男で勧修寺に入室した寛宝入道親王が還俗して18代邦頼親王となり実系に復している[武部敏夫 「世襲親王家の継統について-伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」 書陵部紀要 12 1960]

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『椿葉記』の由緒は決定的であり、全く同じ趣旨を強調したい。

『椿葉記』とは、永享5年の後小松院御遺詔(血筋としては途絶した後光厳院流皇統の万歳継帝を望まれ、伏見宮へ尊号宣下してはならない、仙洞御所を居所にはさせないとした)の対抗言論である。

 すなわち正長元年(14287月後嗣のない称光天皇が御発病あらせられ、崩御の3日前に伏見若宮御歳10歳が仙洞御所に入御、後小松上皇と対面し「後小松院の御所生の如く御父子の儀を契約せられ」たのち新内裏で践祚あそばされた(『建内記』[村田正志1983 初出1944])。後花園天皇である。

 強い正統意識を持ち続けた実父道欽入道親王(伏見宮第3貞成(さだふさ)親王-称光天皇の勅勘を蒙り薙髪入道)は新帝と他人の関係にされたことに納得してはいなかった。

 永享3年(1431)より後花園登極を崇光院流の皇胤再興と位置付けるため、太上天皇尊号を拝受する意向を後花園天皇に上奏する計画をもち、その実現のため長講堂や石清水八幡宮などに奉納祈願のうえ、叡覧に備える目的で起草したのが『正統廃興記』であり、途中で後嵯峨天皇の故事を由来とするタイトルに改め永享5年に完成し、翌年奏進されたのが『椿葉記』である[秦野裕介『乱世の天皇』東京堂出版2020]。

 内容は①崇光天皇廃位から後花園元服までの約80年間の史実とその意義、とくに所領の問題、総じて崇光院流が後深草院以来の正統であることを悟っていただくよう記述され、皇位から離れて凋落したが後花園登極による皇胤再興にいたる歴史、全体の三分の二を占める。天皇実父が無品親王であってよいはずがない。承久の後高倉院の先例にもとづいて太上天皇尊号拝受の意向があること。猶子は一代かぎりのことで真実の父母が皇統を形成する。君徳涵養、学芸見識の修養心得、模範となる賢帝とは一条・後三条・後朱雀としている。若宮を始終御猶子となし奉ることにより、天皇家と伏見宮が将来永く疎隔あるまじきこと親しい関係であるべきとする。伏見宮家の世襲親王家構想と解釈されている。⑤崇光院以来奉公してきた廷臣らに御慈愛をかけられんこと。核心部分は②であり、後小松崩後に尊号宣下の一点突破で、後小松院と後花園の猶子関係を実質解消する意図である。

 しかし天皇は実父の熱望を黙殺し続け、後小松崩後13年も経過した文安4年(144711月の太上天皇尊号の詔書によれば実父としてでなく傍親への格別の厚意としてのものだった(貞成王は後小松院より年長だが上皇の猶子として親王宣下されているため「兄」とされた)[田村航2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)openaccess]。天皇は国を譲られた重恩により後小松院御遺詔を重んじ、筋を通したことになる。

 この詔書の趣旨により天皇家は崇光院流を継承していないことが明瞭になった。後小松上皇が自らの系統の正統性を主張するため編纂された『本朝皇胤紹運録』(洞院満季編、応永331426成立)のとおり後光厳院流が正系ということになるが、逆に言うと後花園の実弟で伏見宮を継承した貞常親王の御子孫だけが持明院統嫡流の流儀を継承した崇光院流であり、崇光院流の正当性を記している『椿葉記』は伏見宮家の由緒になったといえるのである。

 『神皇正統記』のような日本全史ではないので広く知られてはいないが、皇統の正統性をテーマにしている著作として『椿葉記』はそれに匹敵する価値があると現代的に評価すべきだ。もちろん朝廷公認ではないし執筆時は無品親王といっても太上天皇尊号が勅定され、至尊とされた方の著作だから尊重されてしかるべきである。

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(三)南朝正統史観によるダメージは克服でき

 終戦後の特殊な事情があったとはいえ格別の由緒のある伏見宮御一流があっさり皇籍を離脱され、永続を約されている由緒などが全く顧みられることがなかったのは理由がある。

 明治44年の南朝正統の勅裁の影響と、それ以降の教科書が北朝抹殺論の記述になったことでダメージが大きかったのである。

 崇光院流が後深草院以来の正統という『椿葉記』の主張が意味をなさない時代背景である。

 伏見宮は北朝の崇光天皇(133498、在位134851)の御子孫で、皇子の栄(なか)仁(ひと)親王(13511416 )が初代とされるが、大正~皇籍離脱時まで旧宮家は、崇光が歴代天皇から外れたため、鎌倉時代の後伏見天皇(12881336、在位12981301)の末流と称さざるをえなくなっていたのである。

 南北朝正閏論争とは、明治43年(1910)喜田貞吉が編修する国定の教師用教科用図書が、宮内省が南北朝正閏を決定していない状況から、南北朝の対立につき軽重をつけない論旨としたことが、教育界から反発があり、犬養毅が大逆事件と絡めて激烈な弾劾演説してこの問題を政争にした。激昂した山縣有朋が教科書改訂を断行しない桂太郎内閣の緩慢を非難、明治44227日喜田定吉は休職処分となり[千葉功2019 「南北朝正閏問題再考」学習史学 57openaccess]、桂首相は南朝正統を閣議決定したうえ、228日明治天皇に歴代について上奏、仰裁、3月諮詢された枢密院も南朝正統の奉答書を可決した。

 明治44年(191133日の勅裁とは、天皇が内閣総理大臣からの上奏、枢密院からの奉答、宮内大臣からの上奏を容れる形で侍従長より「後醍醐天皇より後小松天皇に至る間の皇統は、後醍醐天皇・後村上天皇・後亀山天皇・後小松天皇なることを認定したまへる旨を内閣総理大臣並びに宮内大臣に達せしめたまふ」とされたことをいう。

 また、宮内大臣が天皇に「北朝の天皇に対する宮中の取扱方」について伺ったところ、天皇は宮内大臣に「光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては尊崇の思召により尊号・御陵・御祭典等総て従来の儘たるべき旨を命じたまふ」とされた。

 したがって、皇統譜においても光厳・光明・崇光・後光厳・後円融は歴代天皇から外された。今日でも、尊号、御陵、御祭典は維持しつつも、北朝天皇として別冊にまとめられている。

 明治44年の国史教科書の修正では、北朝抹殺論により北朝側は「逆賊」とされ、「南北朝」は「吉野の朝廷」に改められた。以後、田中義成などが両朝併立説を主張したが、一般には南朝正統説、南朝忠臣賛美が終戦時まで支配していた。

 しかしながら野村玄[2019  「安定的な皇位継承と南北朝正閏問題 明治天皇による「御歴代ニ関スル件」の「聖裁」とその歴史的影響」 大阪大学大学院文学研究科紀要(59)]によれば、明治天皇の南朝正統とする聖裁(勅裁)は消極的同意であるとする。。

 この聖裁は、国家の大事であるのに、公式令の詔による詔書の形式を避け、勅書の形式をも採られず国民に宣誥されていない。文書的裏付けである内閣総理大臣と宮内大臣への伝宣書は侍従長名・侍従長印で発出され、事務連絡文書に近く、官報にも告示されず、詔書の形式を避けた宸意が消極的同意とみなされている。

 いうまでもなく、後期水戸学、藤田幽谷『正名論』(寛政 3 1791)の神がかり的な文章により、天皇の権威が強調され、会沢正志斎の『新論』(文政 8 1825)によれば、足利時代以降失われた「国体」を回復する運動が尊王攘夷だった[兵藤裕己 『後醍醐天皇』2018]。王政復古とは、後醍醐天皇が企てた新政の再現であったという歴史的脈絡における南朝正統史観の意義は理解するが、南朝忠臣を賛美する教育や皇国史観は過去のものである。今日の実証的な史学では、弁官、局務、官務が機能している京都朝廷の意義を否定する北朝抹殺論は行き過ぎであることはいうまでもない。南朝正統はある程度価値相対化した議論が今日あってよいわけである。

 近世期の朝廷では、北朝方の後小松上皇が自らの系統の正統性を主張するため編纂された『本朝皇胤紹運録』(洞院満季編、応永331426成立)が勅撰の皇室系譜として宮中で重んじられ、公家の間では北朝正統論が絶対視されていた[森安雅子2011「『池の藻屑』における南北朝史観をめぐって」岡大国文論稿 39openaccess]。後村上天皇は義良親王、後亀山天皇は熙成王で、帝に非ざる皇親の扱いであり、朝廷は南朝を公認していないのである。

 『続神皇正統記』壬生晴富(15世記後半)、幕府編修『本朝通鑑』(寛文10年 1670)林羅山・鵞峰編纂、『池の藻屑』荒木田麗女(安永41774)も北朝正統論である。

 今日では伏見宮の由緒にかかわる研究成果も多く、多くの出版物、最新の研究成果をふまえるなら、『椿葉記』の論理をふくらますことが容易にできるので、政府が伏見宮御一流の格別の由緒を重んじる方針を示せば、南朝正統論によるダメージは容易に克服できる事柄である。

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(四)崇光院流は完全なる傍系化が回避されるステイタスを得

 ということで、村田正志の皇室も伏見宮も崇光院流とする説は否定されたが、このことは伏見宮の由緒にとって不利な材料にはならない。

 第一に、とにかく歴史上類例の少ない、帝に非ざる皇族が、生前に太上天皇尊号を拝受し後崇光院法皇となった意義が大きい。関白以下公家衆より拝礼される本格的な法皇だった[田村航2018「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)openaccess,久水俊和2020『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店]。伏見宮の威信は高まり崇光院流の正当化に少なくとも成功した。

 第二に『椿葉記』の趣旨は部分的に実現した。

「若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」[村田正志 1954初刊、1984]写真次頁-群書類従. 第貳輯 椿葉記 国立国会図書館デジタルコレクション公開分)伏見宮の若宮を始終猶子とし、天皇家と伏見宮家は将来疎隔することなく水魚の如き親しい関係であるべきとする構想は実現し、実際そのとおりとなった。

 親王位は継嗣令皇兄弟条で、皇子か天皇の兄弟の身位であるが、始終天皇の猶子とするということは、皇子に准じた礼遇として、親王宣下を受けるという意味で『椿葉記』のこの部分は伏見宮の世襲親王家構想と解釈されている[小川剛生2009 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社][田村航2018]

 中世では一般論として猶子とは「猶子になると擬制的な親子関係が形成されるため、親は猶子に対して権力を行使することができた。反対に猶子になった者は親の家の一員に准ずる存在として、その家の格式・礼遇がおよそ適用された」 [水野智之, 2014 『名前と権力の中世史 室町将軍の朝廷戦略』 吉川弘文館]と解説されているとおりで、その意義は大きい。

 後崇光院太上天皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」にある所伝「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申」は裏付けがないため慎重に扱いたいが[小川剛生2009 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社]、天皇は伏見宮を継承した第4代貞常親王に「永世伏見殿御所」号と後崇光院の生前の異紋をそのまま位袍などに使用することが許可されたとされる。また牛車での参内も許された。

「永世伏見殿御所」とは世襲親王家の公認を意味し『椿葉記』の趣旨を実現したものと解釈されている。

 伏見宮家の宮家継承者は必ず天皇の猶子となって、親王位を維持できるので、皇統嫡系との距離に依存せずに自立し継承される宮家となり、天皇と血縁的に疎隔しても(猶子という擬制で穴埋めし)、親王家としてのステイタスは劣化せず、皇親からフェードアウトしない地位を確立したのである[新田一郎 2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社]

 但し、「永世伏見殿御所号」勅許は裏付けがないといっても、後花園が実弟の伏見宮4代貞常親王を信頼していたことは、『後花園院御消息』で成仁親王(後土御門)に伏見宮の申されたことはないがしろしてはならない旨訓戒し、応仁元年7月には一条兼良と貞常親王を調停のために幕府に派遣していることなどから確実であるので[田村航2018 「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)openaccess]、否定する材料もない。

 皇室典範で養子が否定されるまで、伏見宮家は、第3貞成(さだふさ)親王より第24代元帥陸軍大将貞愛(さだなる)親王まで、歴代当主が親王宣下を受けているので、それが慣例だったともいえる。

 世襲親王家は、15世紀に成立の客観的条件が整っており、伏見宮が「別格の宮家」「准天皇家」として完全なる傍系化が回避された[久水俊和2020 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店]特別の地位を占めることになったのである。

(五)『椿葉記』に込められた意味を忖度すべき

 『椿葉記』に込められた意味をわれわれは忖度すべきである。「おほよそ称光院の絶たる跡に皇胤再興あれは、後嵯峨院の御例とも申ぬへし。八幡の御託宣に、椿葉の陰ふたゝひ改としめし給へは其ためしを引て椿葉記と名付侍ることしかり」というのが書名の意味で、土御門皇子(のちの後嵯峨天皇)が、出家しようか悩んでいたとき、石清水八幡宮を参詣し、そこで「椿葉影再改」との神託を得たので学問に励んでいたところ、四条天皇が12歳で急逝し、後高倉皇統が途絶、北条泰時の推薦により、図らずも皇位を継承した『増鏡』や『古今著聞集』にある故事に拠っている。

 「皇胤再興」がキーワードだが、「椿葉影再改」とは『和漢朗詠集』の大江朝綱の漢詩「早春内宴賦聖化万年春詩序」(承平2年932)より採られており、天子となって徳高く久しく栄えるだろうとの句である[秦野裕介2020 『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版]

 つまり「荘子 逍遙遊」によれば、椿葉の影再び改まる八千年をもって一春とする。大昔、大椿という木があって、八千年を春、八千年を秋としていた。椿葉とは永続性のたとえとみてもよい。

 『椿葉記』には「皇位の正統性を承認・守護する神」である八幡神の御託宣により皇位を継承した後嵯峨院の皇子後深草院の正嫡の皇統(崇光院流)の永続の願いが込められている

 後崇光院法皇の存念を現代に生かすべき。この意見書の核心である。だから③案一択しかない。

 

六)伏見宮の永代存続は世数制限のある令制においても合法で正当

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親王位は、継嗣令皇兄弟条にあるとおり天皇の兄弟姉妹か皇子女の身位で格別の礼遇であったし、同条では五世王は王号を称するが皇親の範疇にあらずとし皇親には世数制限がある。とはいえ五世王と六世王は不課の特典があり、令制皇親は天皇から血縁が疎隔するとフェードアウトしていく制度設計である。このことと、中世後期以降の世襲親王家が代を重ねても、フェードアウトせず、親王位を再生産するステイタスを維持できる制度であることとは矛盾するのではという疑問を持つ人がいるが、これは矛盾せず、全く合法であると申し上げたい。

 13~14世紀には継嗣令では親王位ではない二世王の親王宣下の例は少なくないが、14世紀まで四世王以降の親王宣下はない。上皇や天皇の猶子として三世王の親王宣下の例もあるが後光厳天皇は亀山三世王常磐井宮満仁王の親王宣下の奏請を三世王であることを理由に拒否しているため[松薗斉2010「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)openaccess]。のちに満仁王が親王号欲しさに義満に愛妾を譲り首尾よく願いが叶えられた[小川剛生2005『二条良基研究』 笠間書院 100頁]三世 王の親王宣下は特例だったのである。親王宣下は治天の君の意向次第であり、14世紀には自立的に親王位を再生産できる世襲親王家は存在していない。

 しかし、15世紀には、親王宣下は継嗣令皇兄弟条では皇親ですらない五世王、六世王でも親王宣下が慣例化した。末流の皇胤でも親王位が勅定されうる展開になったのたである。

 嵯峨朝には、親王宣下制となり親王位は生得的身位ではなくなった。土地制度が荘園公領制に移行した院政期以降は、大多数の皇子は入寺得度して法親王もしくは入道親王となった。法親王は院権力による顕密仏教統制を目的として白河院によって創出された制度とされるが、天皇の周囲に配置され、法力によって王権を護持する。門跡寺院には寺領が付随しており経済的基盤がある。宮門跡は一代皇族であるから皇統を形成できないので、皇親を大幅に減らした。

 中世においては皇親が出家して寺に入ることで多くの皇統が消えていった。天皇家は、観応3年(1352)践祚の後光厳より、9世代にわたって限嗣単独相続である。

 分割できる御料がないので当然のことである。天正17年(1589)後陽成皇弟智仁親王に豊臣秀吉より知行三千石が宛行われて、八条宮家が創立されるまで、天皇家に分家はなかった。、

 従って在俗皇親は当然血縁的に疎隔する。親王位は勅別当が補され、政所、家政機関が附く以上、家領と近臣を引き継ぐことのできる世襲宮家は適合的な制度だったといえる。15世紀の皇親制度の変容は以上のような歴史的脈絡から必然的なものだった 。

 つまり、15世紀になると、後円融、後小松の実子が少なかったうえ、称光は皇女のみ。後花園も皇子は御一方だけで、辛うじて皇位継承者は持明院統で確保できたが、天皇の周囲に配置される門跡に入室する人材が払拭していた時期が長かった。

 この事情から、天皇から数えて五世孫以降の末流の皇胤でも上皇や天皇の猶子とされたうえで、親王宣下されることが慣例化した。いずれも大覚寺統の木寺宮か常磐井宮出身の皇族で、北朝に参仕した宮家である(一覧表参照)。

 五世王親王宣下の初例は、後小松院政の応永26(1419) 1221日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞御記』『薩戒記』)。世襲宮家は、天皇家に皇子が少ないときに、宮門跡に入室する人材のプールでもあったのだ[松薗斉 2010]

 応永26(1419)後小松上皇の猶子の後二条五世王の明仁法親王や17世御室の承道法親王の親王宣下は『看聞御記』に記されており『椿葉記』の執筆は永享3年(1431)以降であるから、伏見宮家世襲親王家構想は、五世王の親王宣下が合法化、既成事実化したことをみて、着想されたことは間違いない。

 継嗣令皇兄弟条は五世王以降を皇親の範疇としてないのに、門跡側が親王宣下を望むのは、それは便宜的だというかもしれない。しかし中世の律令法は「准的」等の明法家の法技術によって、令義解の原意にこだわらず現状追認的に合法化できるのであって [保田卓 1997『日本における規範について その状況依存性の歴的考察(後編)』 教育・社会・文化研究紀要4]openaccess、 猶子という親子関係の擬制で血縁の疎隔を穴埋めすることは、准的「乙は甲と比べてみて、甲と釣り合うもの、同格のものと価値づける」というテクニックで合法になるだろう。

 従って応永26(1419)の五世王親王宣下以降の展開は、継嗣令の原意である皇親が嫡系から離れてはそのステイタスを維持できず、世代を経るごとに劣化コピーする制度を修正し、皇統の正当性が重要というあり方になったのであり、世襲親王家の成立を可能にしたのである。

 宝徳元年(14491023日、常磐井宮直明王の第二王子勧修寺宮恒弘法親王が後崇光院太上天皇(伏見宮貞成)の猶子として親王宣下を受けた。亀山五世王である『康富記』  [秦野祐介 2020前掲書]。五百年来の大学者、一天無双の才人と尊称される一条兼良が現任関白で認めている以上合法である 。

 天皇・上皇の猶子となることによって、末流の皇胤でも親王位が勅定されうる展開は、現代の永世皇族制の皇室典範の考え方に接近している。しかるべき皇統に属する男子であれば、世数で天皇と疎隔した皇胤末流でも皇子に准じた礼遇になりうるということである。木寺宮は後宇多院の譲状により大覚寺統正統、常磐井宮は亀山院遺詔で正嫡とした由緒があるからこそ親王宣下を受けたとも考えられ、将軍家の庇護のもとにあった後南朝皇胤とは明らかに差別化されていた 。

 しかし木寺宮や常磐宮は世襲親王家ではない、あくまでも天皇や上皇の意向次第で親王宣下される存在にすぎないが、後崇光院が亀山院系でも格別の由緒のある木寺宮や常磐宮出身の皇族を猶子として庇護している以上、天皇家と親しい伏見宮の優位は明白で、伏見宮が本当の意味での世襲親王家なのであった。

 

(補遺)中世皇統崇光院流=伏見宮御一流の正当性、皇統上の格別の由緒、永続が約されている意義と、皇室典範以降の諸問題について

(一)伏見宮家が正統・嫡流たる由緒、その証拠もある

 伏見宮御一流には、皇統上の格別の由緒がある。『椿葉記』(永享51433道欽入道親王著)が説示しているとおり崇光院流=伏見宮家は後深草院以来の正嫡、嫡流を引く由緒を有する。ゆえに永続してしかるべきでなので、旧皇族の方々を奉載申し上げるべきである。

 伏見宮が持明院統の嫡流を引く、正統たる由緒は、次節以下の主として4点である。

 鎌倉時代の皇位継承において、三種神器だけではなく、太刀契、玄上(琵琶の名器)、鈴鹿(和琴の名器)などが累代御物として伝領されていた。しかし歴代天皇であっても嫡流と、中継ぎ(一代主)とでは差別があった。王家惣領の太上天皇に皇位継承者、所領等経済基盤や両統に分割された文庫等の財産の継承者を決定する権限がある。

 摂関家において殿下渡領という氏長者に相伝する所領、五摂家それぞれの家領があるように、皇室においても皇位継承により相伝される御物と、両皇統の惣領が管理し皇統の正嫡に伝えられる財産に分かれていた。中継ぎの天皇は子孫の皇位継承の見込みがないし、皇統の財産を差配する権限もない。

 直系子孫が皇位継承し、院政を敷くことができるのは原則として正嫡に指定された天皇に限られる。後醍醐のように中継ぎに指定された天皇が全財産を継承しても一期相続なのである。花園や光明は中継の役割に徹したため、持明院統は、14世紀中葉まで分裂せずにすんでいた。しかし大覚寺統では前代以往の治天の君の遺詔や譲状が反故にされ、鎌倉末期には4つの王家に分裂し(大覚寺統正統康仁親王、邦省親王、後醍醐系、恒明親王)が、それぞれ皇位継承の正当性を主張し競望する事態となった。それゆえ中世においては嫡流か傍流かという判別は重要な指標である。

1 延文2年に崇光上皇が嫡流所領の全てを相続した

 観応の擾乱の最終局面(正平7/観応31352)、南朝軍が京都に進攻、北朝三上皇、皇太子花園皇子(光厳猶子)直仁親王が拘引され南朝拠点に連れ去られたが延文2年(1357)光厳法皇は深草金剛寿院、崇光上皇(伏見宮の流祖13341398)は城南離宮伏見殿に還御なる。

王家惣領の光厳法皇は、観応3年譲国の詔宣なく勝手に幕府が擁立した後光厳天皇を「御時宜不快」として認めていなかった。廃太子直仁親王は法体で帰洛し皇位継承を放棄していたため、光厳法皇の承認のもと崇光上皇が、光厳御生母広義門院(西園寺寧子)が保全していた治天の君が管領する全ての財産を相続した[家永遵嗣 2013 「室町幕府と「武家伝奏」・禁裏小番」 近世の天皇・朝廷研究大会成果報告集 5openaccess]

『椿葉記』は「抑長講堂領・法金剛院領・熱田社領・同別納・播磨国衙・同別納等は、後深草院以来正統につたはる。然は法皇の御譲を受け上皇御管領あり。御堂御領知行する諸家みなこの院に奉公す」と記し、これが崇光院流を「正統」とする第一の理由である。講堂領は後白河院追善仏事料所巨大所領群であった。

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 なお崇光上皇は文和4年(1355)~延文元年(1356)抑留されていた河内国天野金剛寺で、琵琶の秘曲を光厳法皇より伝受され(『秘曲伝授月々例』 [池和田有紀 2020崇光天皇-北朝皇統分裂の始まり 久水俊和・石原比伊呂編『室町・戦国天皇列伝』, 戎光祥出版][秦野裕介2020前掲書]、治天の君となる嫡流の天皇は秘曲を伝授されており、崇光院を正統とみなす第二の理由となる。しかし、後光厳天皇は、応安3年(1370)光厳天皇7回忌宸筆御八講を清涼殿で盛大に営み、光厳院の継承者たることを顕示したうえで [三島暁子 2012『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版]、皇子(後円融)へ譲位する内意を幕府に伝えた。崇光上皇は巻き返しのため幕府に使者を遣わし『椿葉記』によれば「後深草院以来、正嫡にてまします御理運の次第」を説き、皇子栄仁親王20歳(伏見宮初代)の践祚を申し入れたが管領細川頼之は拒否、後光厳皇子の皇位継承を支持する(『椿葉記』[家永遵嗣2013])。

 崇光院は正理・正統の皇位継承を求めたが、後光厳及び近臣による幕府と結びつく戦略が上手だった。伏見宮家ではこのことを長く遺恨とする。

 その後、政治力、廷臣の掌握力で勝る足利義満によって崇光院近臣は制圧され、皇位競望は困難になった。

 応永5年(1398)崇光院崩後、長講堂領等嫡流所領等は没収され、後小松天皇の禁裏御領に編入された[i]。栄仁親王は義満により出家を強いられた。

 但し、栄仁親王は、足利義満より萩原宮直仁親王遺領(室町院領)7箇所(伊賀国長田荘、江州山前荘、塩津荘、今西荘、若州松永荘、越前国磯部荘栗田嶋、備中国大嶋保)の相続と、播磨国衙領の返還が認められた。義満に京極流勅撰和歌集『風雅集』正本を贈ったのはその報謝とみられる。義満薨後に一時接収された伏見も幕府により返還され、最晩年には後小松院の所望で天皇家の象徴たる重宝(准累代御物級)である横笛の「柯亭」*を進献することにより、室町院領全ての永代安堵の院宣等などが下され、世襲宮家として存続できることになった。

 栄仁親王は応永231120日(1416)薨ぜられたが、皇位を傍系から奪還できず、天皇家から宮家に転落したのが伏見宮家であった。

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*後宇多天皇御愛用の楽器で、御筥にお入れになり、常に座右に置かれたとある(増鏡)[今井通朗1962]「平安文学に現れた楽器」東洋音楽研究 16・17]「准累代御物級」「天皇家の象徴」というのは、上記の記録から、玄上や鈴鹿と同じく、皇位継承により伝領されていたと推定できるからである。

2 貞治2年(1363)光厳法皇の置文に伏見殿の御子孫が正統とあること

『椿葉記』によれば貞治2年光厳院置文(1363)に「正統につきて伏見殿(崇光院)の御しそん御管領あるべきよし‥‥」とあり、光厳院は崇光の子孫を嫡流と認定している [村田正志 1984初刊1954]。ゆえに嫡流所領が没収されても嫡流の由緒はどうしても残るのである。

 もっとも置文の正本、案文は現存せず二次史料だが、『椿葉記』の歴史記述は正確であり、叡覧に供される目的で執筆されたので、話を盛っているとは考えにくい。これが、伏見宮が嫡流を引く第三の理由である。

3 持明院統皇統文庫の伏見宮家への伝来

 貴族社会では家記、古記録を伝えている家が嫡流なのである[高橋秀樹19966『日本中世の家と親族』吉川弘文館]。家記の自筆原本・古記録の蔵書が嫡流の証しになる。伏見宮家は嫡流ゆえ持明院統皇統文庫が伝来した。これは14世紀中葉に光厳院が管理した仙洞御文庫目録と15世紀前期に伏見宮が管理した即成院預置目録等の書目が一致するため書誌学的に立証されている[飯倉晴武 2002 『日本中世の政治と史料』 吉川弘文館, 2009 「伏見宮本の変遷-書陵部での整理と書名決定-」 禁裏・公家文庫研究第三輯 思文閣出版,田島公 2004「典籍の伝来と文庫 古代中世の天皇家ゆかりの文庫・宝蔵を中心に」石上英一『歴史と素材』所収 吉川弘文館4,酒井茂幸 2009 『禁裏本歌書の蔵書史的研究』 思文閣出版]。伏見宮家が嫡流を引く王統といいうる第五の理由である。

 昭和2212月伏見宮の蔵書は宮内府に788部1666点が寄託され、後に国費で宮内庁書陵部が購入した[飯倉晴武 2002]。現存する最も古いものは延喜19年(919)大江朝綱筆の『紀家集』である[ii]

 伏見宮旧蔵本は、中世の天皇家の蔵書をよく伝え[小川剛生2017 『中世和歌史の研究』 塙書房]、鎌倉時代後期宸筆宸記のほか記録類も貴重な自筆原本や古写本のほか、琵琶を中心とした楽書もあり充実していると評価され、書誌学的に総合的に判断し中世天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された古文書の一部を伝えてきた以上、嫡流を引く由緒を認めるべきである。

 そもそも、天皇ゆかりの宝物や貴重図書は、原則として大内裏内の倉や文庫にあり、典籍・文書は校書殿、内御書所、一本御書所に保管されていた。

  しかし院政期以降は、歴代御記などは院が管理して、天皇は借覧するあり方になった[井原今朝雄1995] 『日本中世の国政と家政』 校倉書房]皇室の蔵書は後嵯峨院崩御時に両統に分割され、日記や政務文書は後深草院に譲られ「和歌并鞠文書」は亀山院に譲られたと伏見院自身が認めているという [小川剛生 2017 『中世和歌史の研究』 塙書房]

 応永24年(1417)伏見宮第2代治仁王は中風で頓死、弟の貞(さだ)成(ふさ)王が伏見宮を継承した。無位無官だったが嫡流ゆえ、本来は持明院統の治天の君が管理する文庫推定213合の膨大な古記録・典籍を相続した[飯倉晴武 2002]。応永8年(1401)の伏見殿の火災で、累代御記文書が焼失したとされるが詳細は不明で、この教訓により即成院、法安寺、大光明寺といった伏見の寺に分散して預置するようになったようである。

 近年では、伏見宮第5代邦高親王より三条西実隆が借用した(『実隆公記』延徳2年(1490)八月条)の、歴代天皇宸筆や皇族御筆、三蹟など平安時代の「古筆」のリストが検討され、このうち弘法大師御筆の法華経、称讃浄土経、無垢清光陀羅尼等、智証大師(円珍)筆の転女成仏経、三蹟藤原行成卿筆の心経、諸仏集会陀羅尼経といった経巻が、写本だが東山御文庫にある後白河院蓮華王院宝蔵の蔵書目録と合致し、宝蔵の蔵書の一部は伏見宮家に伝来したことが立証されている[田島公 2004前掲書]

 本来天皇家が管理すべき皇室の重宝級蔵書は伏見宮に伝来していたということである。

 伏見宮の蔵書は後小松院政期以降、宸筆宸記等[松薗斉 1997『日記の家』 吉川弘文館]、重宝級が天皇家に断続的に進献されており、室町殿への報謝[前田雅之 2018 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館]や将軍来訪時の引出物として、貴族や大名、国人等へ下賜、贈答品とされたもの[小川剛生2017前掲書]、戦乱時の移動等により散逸等、失われたものは少なくない。

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[前田雅之 2018 『書物と権力 中世文化の政治学』 吉川弘文館、古藤真平 2018 『日記で読む日本史 3 宇多天皇の日記を読む』 臨川書院、小川剛生 2017 『中世和歌史の研究』 塙書房、松薗斉 1997 『日記の家』 吉川弘文館、伏見宮実録6巻]

 

「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]ともいわれ、戦国時代の伏見宮家は、土佐一条家との姻戚関係のほか今川氏親などへの贈答品などで荘園公領制の衰退による収入減をしのいでいたという見方もできる。

 一方、禁裏文庫は嘉吉3年(1443)禁闕の変で内裏が放火され被害があったほか、応仁文明の乱での被害が大きく、文明8年(1476)の新造内裏類焼で悉く焼失した。その後も歴代天皇は書写、収書活動を続けていく。天文4年(1535)伏見天皇宸記2合が伏見宮第6代貞敦親王より後奈良天皇に進献され(『後奈良天皇宸記』)、後水尾院の文庫に伏見天皇宸記70巻があったという記録があるが[米田雄介 1992 『歴代天皇の記録』 続群書類従完成会]、万治4年(1661)正月に内裏が焼亡し、禁裏文庫の古筆は悉く焼失しているので、この時失われたと考えられる。幸いにも朝儀に関して後西天皇が書写した副本は難を免れ、親本は失われたが、古典籍、古記録の良質の写本を中心に禁裏文庫は再建され、今日の東山御文庫に伝えられている。

 東山御文庫は、天皇陛下の御物であり、侍従職が管理しているが、霊元天皇以降の禁裏文庫は近世の写本が中心なのである。誤解がないように言っておくと、東山御文庫には伝嵯峨天皇宸筆『李嶠雑詠』、宇多天皇宸筆の『周易抄』、『後鳥羽天皇詠三十首和歌色色紙』という名品があるが、これは近衛忠凞が明治天皇に献上したもので、来歴は新しい [北啓太 2016 「禁裏文庫と近衛家」田島公編『近衛家名宝からたどる宮廷文化史』 笠間書院]。また東山御文庫にある伝醍醐天皇筆「自題山草亭」は、明治5年に伏見宮邦家親王が明治天皇に献上したもので、伏見宮家に伝わっていたものである [田島公 2004]

 そうしたことから中世の天皇家の文庫・宝蔵の収蔵された書籍・文書絵画の一部はむしろ伏見宮家によった近代に伝えられたといえる[田島公2006 「中世天皇家の文庫・宝蔵の変遷」『禁裏・公家文庫研究 第二輯』 思文閣出版]。

 持明院統の皇統文庫には、王権の荘厳なレガリアともいうべき宇多、醍醐、村上、後朱雀、後鳥羽、順徳の日記があった。後南朝小倉宮より足利義教に進められ、さらに後花園に進献された後三条、後朱雀の日記といった平安時代の天皇の日記は室町時代まで現存したが、今日、平安時代の天皇のものは原本も写本もなく、逸文だけが伝わっているだけである。

 そうした諸事情から、もともとあった量からすればかなり少ないとはいえ、伏見宮家で維持された持明院統の天皇の日記は比較的よく残っている。伏見院日記8巻、花園院日記36巻等である。今上陛下が大学卒業時に深い感銘を覚えましたと仰っられた花園天皇の『誡太子書』や『学道の御記』も伏見宮旧蔵本にある。

 永享2年(1430)後花園天皇の大嘗会に際して伏見宮より後小松上皇に代々秘蔵の後深草院より三代の『大嘗会記録』『神膳御記』が進献されている。これは失われたとみられるが、伏見宮で維持されたもので、「建暦二年十月供神膳秘記」があり、後鳥羽上皇が順徳天皇に作法を教申せしめたものだが、後深草天皇が抄録して書写したものを伏見天皇が後伏見天皇のために書写したものが現存しているのである[米田雄介 1992前掲書]。

伏見宮旧蔵本の『御産部類記』19巻は醍醐天皇以降の皇子女の誕生に関する貴重な逸文が多い史料だが、鎌倉中期に西園寺家が所蔵していたが、鎌倉末期から南北朝頃に持明院統皇統文庫に移管された[詫間直樹2003「伏見宮本『御産部類記』について」『禁裏・公家文庫研究 第一輯』思文閣出版]14世紀中葉の光厳院が管理する仙洞御文庫目録や15世紀前期に伏見宮が管理する即成院預置目録にもある。

 同様に仙洞御文庫目録、即成院預置目録にある書物で、伏見宮旧蔵本として現存するものとして、わたくしが調べたところでは、東宮元服部類記、白河朝の左大臣源俊房『水左記』の自筆原本4巻は、もともと蓮華王院宝蔵の蔵書であった[田島公2004]。堀河左府記という書名であった。また現存の行成卿記(権記)全22巻も仙洞御文庫、即成院預置の双方のリストにある。また双方のリストある『本朝世紀』は19巻散逸したが現存している。中右記1巻と、台記(鎌倉写)8巻は、宇治左府記という書名で即成院預置目録にある。

 このように光厳院の仙洞御文庫の書物は伏見宮に伝来し、その文庫の一部は昭和22年まで維持され、現存していることが確認できるので[飯倉晴武2009]、嫡流を引く家系である物的証拠といえるのである。

 現存する古記録が伏見宮の嫡流の由緒を物語り、書誌学的に証明されていることであり、伏見宮家・伏見宮御一流の旧皇族の皇統の正当性を主張できる。嫡流を主張かする第四の理由である。

4 琵琶の習得、秘曲の伝受という嫡流の流儀の継承

 中世において管弦は帝王学の要であり、儒教の礼楽思想により管弦に秀でることが有徳の君主の証とされ、天皇は特定の楽器を熱心に習得した [豊永聡美 1995「中世における天皇と音楽 : 御師について(下)」研究紀要19(東京音楽大学)openaccess 2001「平安時代における天皇と音楽」研究紀要 25openaccess,2017 『天皇の音楽 古代・中世の帝王学』 吉川弘文館] [相馬真理子 1997「琵琶の時代から笙の時代へ--中世の天皇と音楽」 書陵部紀要 (49)]

 器物として平安中期より笛が天皇の習得すべきものとされていたが、二条天皇が琵琶を好まれ、後鳥羽、順徳が琵琶の累代楽器「玄上」を弾奏した由緒から [五味文彦 2006『中世社会史料論』 校倉書房,坂井孝一2018『承久の乱』中公新書]、累代楽器の権威構造は累代御物「玄上」-大嘗会の清暑堂御神楽-琵琶の秘曲伝授が中心となり[猪瀬千尋 2018『中世王権の音楽と儀礼』笠間書院]、琵琶が管弦首座として重視されるに至った。

 後深草上皇は亀山天皇に琵琶の秘曲伝受で先を越されたことを悔やまれ、立て続けに秘曲の伝授を受けた[阿部泰郎 2018『天皇の歴史 10 天皇と芸能』渡部泰明、鈴木健一、松澤克行共著 講談社学術文庫]。その甲斐あって、御遊では後深草院が琵琶を弾き、亀山院は笛の吹奏が慣例化したので、持明院統では琵琶の弾奏は譲れない。皇統の正統性にかかわるものとして後深草院流嫡流の天皇は琵琶の習練が必須となった。中継ぎに指定された花園院や光明院の帝器は笛であり、嫡流の天皇とは明確に差別化されていた。

 持明院統嫡流の後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光-栄仁親王-治仁王は、最秘曲の啄木を伝授されている。貞成親王以降は啄木の伝授は受けてないが、貞常親王、邦高親王、貞敦親王は楊真操、両流泉といった秘曲の伝授を受けた[猪瀬千尋 2018]

 つまり、伏見宮家は、琵琶の秘曲を伝承する家でもあり、それが持明院統正嫡の流儀なのであった。

 一方後光厳院流の帝器は笙であり、後花園は実父が琵琶を強く勧め、練習用の楽器も進献されたにもかかわらず笙を帝器とし嫡流の流儀を継承しなかった。

 文明14年(1482)後花園院13回忌の御懴法講では後土御門天皇の笙の御所作に、伏見宮邦高親王が琵琶を合わせていた [三島暁子 2012『天皇・将軍・地下楽人の室町音楽史』 思文閣出版]。後深草院流以来の流儀を継承していることが、完全に傍系化しない「別格の宮家」であるゆえんである。

5 伏見宮家は18世紀後半においても『椿葉記』の由緒により嫡流を自認していた

 伏見宮16代邦忠親王は病を得て宝暦9年(176062日に薨去する。継嗣とすべき男子のいなかった親王は、伏見宮家は「崇光院已来嫡流格別之家筋」であるので「系脈無断絶速相続被仰出」て欲しいと、亡くなる前に御内儀へ願い出ていた(広橋兼胤公武御用日記525日の条)[松澤克行・荒木裕2008「 刊行物紹介 大日本近世史料 広橋兼胤公武御用日記 九」東京大学史料編纂所報第 44 openaccess]。

 嫡流を絶やさないために実系継承にこだわり、伏見宮家は『椿葉記』の由緒などを理由に邦忠親王弟で勧修寺に入寺得度した寛宝入道親王の還俗を嘆願したにもかかわらず、桃園皇子で後桃園天皇の同母弟が伏見宮を相続し血筋は中切れになるが、17代貞行親王は13歳で薨ぜられたので再び空主となる。しかし朝廷は、幕府が新立の在俗親王家を認めないことから、空主のままにして皇子が降誕された時のポストとする考え方だった。

 伏見宮一門は奥の手を使う。伏見宮は紀州徳川家と代々姻戚関係があって、吉宗、家重の正室は早世したが、御三卿清水重好の室が邦忠親王の妹貞子女王で、親しかった大奥取締松島に嘆願する裏面工作を行った。将軍徳川家治が朝廷に伏見宮の実系相続を要請したことで、安永3年(1774)寛宝入道親王が還俗して18代邦頼親王となり実系相続が継続された[武部敏夫 1960「世襲親王家の継統について-伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」 書陵部紀要 12]

 血筋の中切れを嫌い、実系継承を続行させる矜持は、嫡流の自認にあり、流祖の崇光院崩御から380年近くたった時のことであるが、現在は630年近く経過しているが、400年たっても嫡流を意識されているということは、600年たっても同じことである

(二)後崇光院が本格的な太上天皇であった決定的意義

1 伏見宮貞成親王は太上天皇尊号宣下の一点突破で皇統の付替えを画策(略)

2 実父でなく兄とされた太上天皇尊号宣下詔書と皇統問題

 後花園は実父の太上天皇尊号拝受の要望を黙殺し続けた。この後、後花園親政で嘉吉の変、禁闕の変を乗り切った後、文安4年(144711月になって道欽入道親王(伏見宮貞成)はやっと太上天皇尊号宣下を拝受することができた。

 時に77歳。後小松崩御から14年は待たされ過ぎである。万里小路時房のような強硬に反対する公家の存在もあったが、なによりも後花園天皇が後小松院を慕っていて[秦野裕介2020『乱世の天皇 観応擾乱から応仁の乱まで』 東京堂出版]、国を譲られた重恩により御遺詔を重んじたゆえ、尊号宣下には慎重だったと推測されている。

 帝に非ざる皇族の太上天皇尊号宣下は当時の認識では(後高倉、後亀山)に続いて3例めであるが、最後まで強硬に反対していた万里小路時房が後高倉の例と同族への厚意としての後亀山の例(明徳51394)の中間の位置づけなら反対しないと折り合ったので実現した(朝廷は南朝を公式に認めていないので、後亀山の尊号は不登極帝の特例としての扱い、南朝による正平の光明・崇光の扱いと同じ)。

 近年、文安4年の太上天皇尊号宣下の詔書が解明され、後崇光院は天皇の実父であるのに傍親とされ、傍親への格別の厚意としての尊号宣下とし、この巧妙な術策により後小松院御遺詔との整合性が図られたことがわかっている。康正2年(1456)の後崇光院(伏見宮貞成)の葬礼で後花園天皇が錫紵装束であったのは「御兄弟分」としての特例であった[田村航2018「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)openaccess]。

 貞成王は応永32年後小松上皇より年長だが、上皇の猶子となって親王宣下を受けており、それゆえ「兄」にあたるとされたのである。従って天皇家とは、猶子という親子関係の擬制による継承も含む、後光厳院流の直系の皇統なのであり、18世紀後半の光格天皇も後桃園の養子とされたので、後光厳以降皇統転換はなされず直系継承なのである。そして伏見宮だけが崇光院流ということになり、通説の天皇家も伏見宮も崇光院流とする村田正志説が否定され、皇統問題は決着した。

 結局『椿葉記』は天皇家を正統たる崇光院流とする目的で執筆されたが、そうならず、伏見宮家が永代存続する皇統上の格別の由緒として伝えられることになったといえる。

 重要なことは、後花園が後小松院御遺詔を重んじたことは、実家の伏見宮を蔑ろにしたわけではないことである。後花園が実弟の伏見宮貞常親王を信頼していたことは、寛正3年(1462)皇儲に確定した皇子成仁王(後土御門)を説諭する『後花園院御消息』で、ことに伏見殿(貞常親王)に対して敬意を表することを説き [田村航 2020]、応仁元年(14677月後花園上皇は、関白再補の一条兼良と式部卿伏見宮貞常親王を勅使として、応仁の乱の調停のため幕府に派遣したことなどのエピソードで明らかである [田村航 2013『一条兼良の学問と室町文化』 便誠出版]

 他方、後花園より親崇光院流(伏見宮)とみなされているのが、伏見宮家で養育された後土御門である。伏見宮や竹園連枝(伏見宮の実弟、宮門跡、禅僧)は宮廷の文芸、遊戯、遊興的行事の多くに召され参仕しており、例えば長享335日の庚申和歌御会は、皇族だけの内々の徹夜行事で、天皇、勝仁親王(後柏原)、伏見宮邦高親王、道永法親王、常信法親王、宗山等貴といった天皇家と伏見宮とその実弟が約60首を詠じている[朝倉尚 1990『就山永崇・宗山等貴』 清文堂]。後土御門が和漢連句文芸を好んだのも伏見宮家で養育された影響だった[小山順子2021後土御門天皇と連句文芸―文芸を導く天皇―芳澤元編『室町文化の座標軸―遣明船時代の列島と文事』]。後土御門は、伏見宮家の菩提寺大光明寺に近接する伏見指月に般舟三昧院を建立し、後光厳院流の泉涌寺に対抗した天皇家の第二の御寺とったとなった[久水俊和, 2020『中世天皇葬礼史――許されなかった〝死〟』 戎光祥出版] [秦野裕介, YouTube「京都のお寺の歴史 泉涌寺(御寺)天皇家の葬礼と変遷」, 2020] [川上貢1960「般 舟 三 昧 院 に つ い て「1本建築学 会論文報告集66 」[伊藤唯真1982「知 恩 院 周 誉 珠 琳 と 浄 厳 坊 宗 真」鷹陵史学 8openaccess]

 後柏原天皇も御生母が庭田家で外戚が伏見宮と共通したことからやはり伏見宮や連枝と親しく、後柏原、後奈良は先帝の中陰仏事を般舟三昧院としていることなどから、少なくとも三代の天皇は伏見宮と非常に親しい交流があったといえるから、後花園の判断と別に皇統問題はなお検討の余地があるようにも思える。

 なお般舟院は、豊臣秀吉の伏見築城により西陣に移転。皇室歴代の尊牌を安置していたが、皇室の下付金がなくなったので明治4年に泉涌寺に移された。近年競売され、別の寺になっているが、後花園、後土御門、後奈良の分骨所や高仁親王等の墓所は宮内庁が管理している。

3 後崇光院は本格的な太上天皇であり伏見宮の威信を高めた

 名目上、実父でなく兄弟分で直系尊属にされなかったが、太上天皇尊号拝受は明らかに伏見宮の威信を高めたのである。当時旧三条実量邸が仙洞仮御所(最晩年に一条東洞院伏見殿御所に還御)であるが、御所の室礼と扈従公卿の行粧が整えられ、後崇光は繧繝畳に着座し、晴儀で公事が執行された[久水俊和 2020『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店]

文安5年より元旦には「院拝礼事」が毎年行われ、関白一条兼良、五摂家の近衛教基以下、公家衆より拝賀を受けた。正月十日の将軍足利義政の「院参」も恒例行事として定着するようになった。同時代人より「仙洞」「法皇」「院御所」と称され[田村航2018]、正真正銘の至尊たる太上天皇であった。

 院拝礼事で関白以下の拝賀を受けたことは、伏見宮が別格の宮家となった理由の一つだろう。

 康正2年(1459)後崇光院崩後、伏見宮家の所伝によれば、第4代伏見宮二品式部卿貞常親王に「永代伏見殿御所」号、後崇光院の紋の使用、牛車による参内が勅許された。それはたんに、実弟ゆえの厚遇ではなく、崇光院流=伏見宮は、格別の由緒と嫡流の流儀を継承している正当性ゆえとみてよいと思われる。

 久水俊和[2020  『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店]によれば「崇光院流の流儀は王家のなかでは別格であり」、伏見宮家は「崇光院流の正当性を担保し」「皇位継承への一縷の望みを遺す世襲親王家に転成した」、「別格の宮家」「准天皇家」とされる  。伏見宮は完全なる傍流化を回避されたということを言っている。

 4代貞常親王の元服加冠役は関白二条持基で後花園天皇と同じ。5代邦高親王の元服加冠役は准后前左大臣足利義政で後年の後柏原天皇(勝仁親王)と同じで将軍家が後見者とされた[小倉慈司2010 0「親王・王成年式表」『書陵部紀要』61]

 この後、伏見宮は、天皇家と血縁的に疎隔しても親王家としてのステイタスは劣化せず、皇親の身分からフェードアウトしない自立した世襲親王家という特別のステイタスを獲得した。

 第3代の後崇光院太上天皇(貞成親王)以来第2224代貞愛親王(崇光15世王・元帥陸軍大将)まで、歴代当主は親王宣下を受けている。

 明治22年の皇室典範で世襲親王制度は廃止され、第25代伏見宮博恭王(元帥海軍大将・軍令部総長)以降、伏見宮は王号を称するが、昭和22年に第26代博明王(崇光18世王)が皇籍を離脱するまで、流祖崇光院崩御より約550年、式部卿や中務卿等に任用され、しかも他流を交えず(例外、桃園皇子17代貞行親王)、実系継承で皇族の崇班を継承した意義は甚大である。

 

三)伏見宮の永続性には合法的な根拠がある

 中世皇統である伏見宮に永続性の由緒があることを強調したい。柱は次の3点である。

1 応永23年後小松上皇より室町院領永代安堵の勅裁

 伏見宮初代栄仁親王は、室町院領(後高倉皇統追善仏事料所荘園群-萩原宮遺領)について応永23年(1416)に後小松上皇より「永代」安堵の院宣を得ている。これは白根陽子[ 2018「伏見宮家領の形成」『女院領の中世的展開』 同成社]の専論で詳しく研究さ れている。『看聞御記』応永2393条によれば「室町院領永代可有御管領之由載勅裁(中略)殊更永代字被載之条、御本望満足珍重也」。永代安堵については、植田真平・大澤 泉2015「伏見宮貞成親王の周辺『看聞日記』人名比定の再検討」書陵部紀要 66]が『看聞御記』のほか『後小松院御消息類』、後小松上皇書状案 図書寮文庫所蔵 伏-七九四 『後崇光院御文類』栄仁親王書状案 図書寮文庫所蔵 伏-七六五を史料として参照指示しているので史実である。

 伏見宮家は、皇室領の一部を治天の君により永代安堵されたのだから、この由緒を重んじ、政府は伏見宮に永代存続の意義を認めるべきだ。

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2 『椿葉記』の伏見宮家当主を永代天皇の猶子となし奉る構想の奏上

 『椿葉記』(著者・道欽入道親王=伏見宮貞成)は、後光厳院流天皇家も崇光院流伏見宮も実系では崇光院流一統になったのだから、過去のように不仲となることなく親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉るべきことを実父からの要望として奏上している[村田正志 1984初刊1954]。これは、伏見宮を世襲親王家とする構想である[小川剛生2009 「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社][田村航 2018]。

 『椿葉記』は朝廷が公認した歴史書でないが、至尊たる太上天皇になられた方の著作である以上、政府は『椿葉記』の由緒に基づく伏見宮の永続性を認めるべきだ。

3 康正2年の「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝

 後崇光院法皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」にある伏見宮第四代二品式部卿貞常親王が、後花園天皇より「永世伏見殿御所」号を勅許されたという所伝(「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申‥‥)[小川剛生2009][田村航2018]について、裏付ける史料がなく慎重に扱うが、近年、世襲親王家の公認であり、あるいは、実父の意向に天皇が応えたものとして、後光厳院流と崇光院流を両立させ、伏見宮家の「永世」にわたる存続したものという積極的に評価する歴史家が多いことは注目してよい[iii]

当時、世襲親王家が成立する客観的条件が整っており辻褄が合うからである。天皇や上皇の猶子という親子関係の擬制により、准的に皇子に准じた礼遇とされることにより、五世王、六世王の親王宣下が15世紀に慣例化、合法化(一覧表「五世王、六世王の親王宣下」参照)されたことにより皇親概念に世数制限が事実上なくなったことがある[松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25][iv]

 令制では五世王、六世王は不課の特典が認められていたが、継嗣令皇兄弟条の原意では皇親の範疇にはない。にかかわらず、親王宣下された。

 従って、仮に「永世伏見殿御所」勅許の所伝を疑うとしても、伏見宮家は永続性のある世襲親王家であることが事実上公認されていたことに変わりないし、15世紀に天皇や上皇の猶子と親子関係の擬制により血縁の疎隔を穴埋めして、しかるべき皇統の御子孫ならば世数制限を問題にしなくなった歴史的経緯により、合法的な制度として説明できる。

 それゆえ550年間、皇族の崇班を継承し、皇統嫡系の後光厳院流天皇家と併存してきた。

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(四)幕末維新期以降 伏見宮系皇族の繁栄の意味

 幕末維新期に、皇室の脱仏教化がトレンドとなって伏見宮系の門跡が続々と還俗、宮家が創設された。勧修寺門跡だった山階宮晃親王が元来仏教に批判的で、文久以降慶応年間にかけて、島津久光らに対して宮門跡の還俗を主張し、皇族の出家や門跡寺院の制度そのものの廃止を盛んに訴えていた[藤田大誠2006綜合仏教研究所年報 (36)]。そして明治元年に皇族の出家が禁止された。晃親王は律令体制を理想としており、還俗を促した目的は、皇族を政治勢力として成長させることにあったという見方もある

 15世紀以降、天皇家に皇子が少ない時期がしばしばあって、世襲宮家が宮門跡に入室する人材を供給した。伏見宮家では15世紀から19世紀まで宮門跡を多数輩出した実績が認められる。

 東山時代に御室は木寺宮出身だが、梶井、上乗院(仁和寺脇門跡)、勧修寺、妙法院、竹内(曼殊院)、聖護院が伏見宮邦高親王の実弟で占められていた。とくに道永法親王(仁和寺脇門跡)や常信法親王(勧修寺門跡)が後土御門天皇の宮廷で文芸、遊戯的行事に多く参仕している[朝倉尚 1990]。

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 天正15年の秀吉の関白就任時は、御室、青蓮院、妙法院、梶井が伏見宮出身者で占めていた。幕末期も同様に伏見宮系の門跡が多かった時期にあたる。

 近世門跡の研究では、宮門跡の実父や養父にあたる天皇家や親王家は門跡の運営にも関与し、門跡寺院組織構成員が親王家当主に伺いを立て、門跡は皇室や宮家の統制を受けていた。

 したがって、幕末維新期に在俗親王家が多数創立されたことは、明治になって突然伏見宮系皇族が増えたというわけではない。時代によっては伏見宮連枝が法親王として多くを占めていたわけである。

 幕末期に青蓮院門跡であった中川宮(文久31863、その後賀陽宮、久邇宮)、勧修寺門跡であった山階宮(文久41864)、30世御室仁和寺宮(慶応2年/その後、東伏見宮、小松宮と改称)が還俗。

 王政復古を契機に慶応4年(明治元年/1868)に聖護院宮(慶応 4 8 月に嘉言親王の薨去により消滅)、知恩院門跡より華頂宮、梶井門跡より梶井宮(その後、梨本宮と改称)、聖護院に入寺した信仁入道親王が照高院宮(その後、聖護院宮、北白川宮を改称)としてそれぞれ還俗して創立され、明治4年に三宝院門跡から還俗した伏見宮出身の載仁親王が継嗣のない世襲親王家、閑院宮家を継承し、明治14年(1881)に東伏見宮嘉彰親王(のち小松宮彰仁親王)が世襲親王家に格上げされ、永代存続する伏見宮系の世襲親王家は三家となっている。山階宮と久邇宮は二代皇族とされ、華頂宮は特旨により、梨本宮は養子によって、北白川宮も兄の能久親王が後嗣となって宮家が継承され存続、さらに明治皇室典範により永世皇族制を前提として存続することとなった。

 報道では久邇宮系と、北白川宮系末流に男系男子がおられるということだが、全体のイメージを掴むため、幕末維新期の国政にかかわる皇族として久邇宮、山階宮、小松宮、北白川宮と、閑院宮のプロフィールを簡潔に記し華頂宮については、後段で言及する。

〇久邇宮

 幕末期の最初の還俗の例は、青蓮院門跡だった中川宮朝彦親王(伏見宮邦家親王第4王子、その後、一会桑政権と連携していた時期に賀陽宮と改称、一時宮号の停止後、久邇宮と称する。)であるが、文久2年還俗以前に国事御用掛に任命されており、文久3年(1863年)一橋慶喜の建白により還俗し、公武合体(親幕)派として、同年の818日の政変(尊皇攘夷過激派を京都から追放した)で宮廷を動かし、孝明天皇、慶喜を陰で支えるなど大きな影響力があった[徳田武2011『朝彦親王伝』]。しかし第二次長州征伐失敗で失脚状態になり、尊攘派から「陰謀の宮」と憎まれ、明治元年には親王位を剥奪されるが、明治8年に久邇宮として復位。京都のかつて親子内親王所有だった下立売門内の土地を宮邸とする。伊勢神宮の祭主に就任、明治15年に神宮皇學館を設置した。梨本宮守正王、皇室典範以降新立の賀陽宮、朝香宮、東久邇宮は久邇宮朝彦親王の御子孫である。

〇山階宮

 勧修寺門跡だった山階宮晃親王(伏見宮邦家親王第一王子)の還俗は、雄藩が朝廷改革を志向し、提携できる皇族とみなされたためである。一橋慶喜、松平慶永、松平容保、伊達宗城、島津久光の連署による願出によるもので、孝明天皇が不快感を抱いたため朝廷の抵抗があったが、薩摩藩が主体となった運動により還俗の道が開かれた。慶応元年以降は、幕府と結びついた中川宮や二条斉敬の朝廷主流派に対抗し、正親町三条実愛ともに朝廷内の王政復古派を形成、孝明天皇により国事御用掛を罷免、蟄居に追い込まれたが、孝明天皇崩御で復権した[高久嶺之介1981「近代皇族の権威集団化過程その 1 近代宮家の編成過程」社会科学(27openaccess、熊野秀一2014]。王政復古後、議定・外国事務総督に就き、明治政府の外交トップとなった。

〇小松宮

嘉彰親王は、邦家親王の第8王子で仁和寺門跡から還俗し、仁和寺宮東伏見宮小松宮彰仁親王と改め、明治新政府議定、軍事総裁、奥羽征討総督等の維新以来の功労が認められ、明治14年に家格を世襲親王家に改められる。明治23年陸軍大将、31年元帥。36年薨去、国葬を賜る。

〇北白川宮

 邦家親王第13王子の初代智成親王は17歳で明治5年に薨去。邦家親王の第9王子の兄能久王を後嗣と遺言したため、第2代能久王とは輪王寺宮門跡公現入道親王であった。戊辰戦争で奥羽列藩同盟の盟主として擁立され「東武天皇」だったという説がある。仙台藩が降伏し新政府により処分を受け親王位を解かれていた。明治11年親王位に復位、日清戦争では近衛師団長として出征。戦後、台湾守備の命令を受け、台湾征討軍の指揮にあたったが、明治28年現地でマラリアに罹り薨去。国葬を賜る。竹田宮は能久親王の御子孫である。

〇閑院宮

 閑院宮は東山天皇皇子の直仁親王から五代実系で継承された世襲親王家だが、第5代愛仁親王25歳の若さで薨去。後嗣が無かったため、孝仁親王の妃で愛仁親王の生母の鷹司吉子(初代直仁親王の曾孫)が当主格とされ、三宝院門跡だった伏見宮邦家親王第十六皇子の易宮が明治4年に第6代として継承、明治11年に載仁親王と称し伏見宮系の血筋の宮家となった。元帥陸軍大将、貴族院議員、昭和206月国葬を賜った。

 

五)旧皇室典範の問題点

1 世襲親王家の廃止

 明治22年(1889)旧皇室典範によって、歴代が天皇の猶子という親子関係の擬制により、血縁が疎隔しても皇子に准じた礼遇として親王宣下を受け、ステイタスが劣化することのない世襲親王家は廃止されることとなり宮家の格差をなくし、養子相続も否定されることになった。世襲親王家であるこの伏見宮、閑院宮が親王号でなく王号を称するようにしたのは明らかに格下げといえる。

 令制では親王家には親王庁(政所)が附属し廷臣を従える格別の待遇だった。『江家次第』などによれば、公卿のうちから勅別当が指名され、家司・御監・職事・侍者・蔵人が補された。応安元年(1368)栄仁親王(伏見宮初代)の親王宣下では本所の儀という親王庁の構成員を任命する、王朝時代の習わしがまだ行われていた[小川剛生 2009]。それだけ格式のある親王家が500年以上続いてきた(例外第2代治仁王)伏見宮がたんに王号を称することになったのは明らかに格下げである。

 とはいえ旧皇室典範31条は「永世皇子ヨリ皇玄孫ニ至ルマテハ男ヲ親王女ヲ內親王トシ五世以下ハ男ヲ王女ヲ女王トス」とされ実系で男子が続く限り永世皇族制とされたのであり、当時、実子のなかった小松宮も含めれば、伏見宮系7つの宮家が永世皇族制のもとに存続することとなった。

 世襲親王家家の制度は否定されたが、伏見宮系7家のうち6家は男子が続くかぎり存続することとなったことは一応良しとしてもよいだろう。

 ただし、皇室典範起草の過程で皇族永世主義とされるまで以下のような紆余曲折があった。内規規取調所案は世襲親王家を廃止し世数制限するものとしていたが、井上毅は親王宣下と天皇の養子廃止に反対し、世襲親王家は「継嗣を広め、皇基を固くする」ものとしてその存続を主張した。また、欧州諸国では王族の子孫はいつまでも王族で人民に降ることはないとしてプロイセンの王家の2分家の例をあげ、両家は家格も王家と同じで世襲親王家に相似しているとして、世襲親王家廃止に疑義を呈したが、柳原前光が世襲親王家について封建時代の因習という否定的な評価をとったがゆえに廃止した[山田敏之2018 「旧皇室典範における男系男子による皇位継承制と永世皇族制の確立」 レファレンス(808)openaccess]。

 さらに、柳原前光は、伏見宮の血統が皇位から遠く、五世以下の皇族は皇系疎遠なるものから逓次降下させる案を伊藤博文に問い、伊藤の賛成を得た。

 柳原の見解は伏見宮の由緒を無視しているといえるだろう。先祖の柳原資明は観応擾乱後の崇光上皇の別当なのに。

 井上毅は、五世以下を皇族としないのならば継体天皇の継承に差支えを生じるなどとして反論したという。

 ところが、枢密院諮詢案では、伊藤博文により五世以下の皇族を臣籍降下可能として、疎遠の皇族より適用するという臣籍降下規定が削除され、永世皇族主義が適用されていた。枢密院に諮詢される前に突然、方針が変更されたのだ。

 最終的には皇室繁栄のために井上毅や宮内書記官の三宮義胤が言及していた永世皇族主義となったのである[西川誠2019 9「皇室典範の制定-明治の皇位継承」歴史学研究会編『天皇はいかに受け継がれたか』績文堂]

2 小松宮と華頂宮の養嗣子の臣籍降下

 明治36年の小松宮彰仁親王薨去の際、養子であった弟の依仁親王の継嗣が停止された。養子相続が皇室典範で否定されたからである。小松宮は一代で断絶したが、依仁親王は新たに東伏見宮家を創設する。これは小松宮の旧宮号である。小松宮家の祭祀を承継したのは北白川宮能久親王第4王子輝久王で臣籍降下し小松侯爵となる。

 また華頂宮家は、知恩院より還俗した博経王が初代。明治16年第2代博厚王が8歳で薨ぜられたため、伏見宮貞愛親王の庶子博恭王が華頂宮を相続したが、明治37年伏見宮家の嫡子邦芳王が不治の病を理由とした請願により廃嫡とされたため、博恭王は伏見宮家に復帰した。このため第4代華頂宮は勅命により博恭王の第二王子博忠王が入った。しかし博忠王は大正13年嗣子なく23歳で薨ぜられたで、宮家は途絶えたが、博恭王の第三王子で博忠王の実弟博信王が、大正15年祭祀を承継し臣籍降下し華頂侯爵となる。

 実弟の養嗣子さえ認めていれば華頂宮は存続できた。

3 明治25~39年創設の5宮家と明治40年皇室典範増補

 とはいえ皇室典範施行以後も伏見宮系宮家は増加した。賀陽宮邦憲王(明治25年)は、久邇宮の家督を継承する予定だったが、病身のため弟の邦彦王に家督を譲り、病状が回復し、久邇宮邦彦王が伊藤博文と明治天皇に情願して宮家が創立された。賀陽宮は、朝彦親王が一会桑政権と連携した時期に称した宮号である。東伏見宮(明治36年)は小松宮の継嗣を停止して創立した。明治39年には三家が創立、竹田宮、朝香宮、東久邇宮であるが、図表のとおり明治天皇の皇女が嫁している。いずれも永世皇族制のもとで創立された。伏見宮系は12宮家となったのである。

 しかし明治40年以降は伏見宮系の宮家は増加しなくなった。

 明治40年皇室典範増補第一条により、王(旧皇室典範では5世王以降)ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムルコトアルヘシとされた。

 大正9年以降宮家の次男以下の男子は情願により臣籍降下が慣例となったため、この後、伏見宮系の宮家は減少(華頂宮が途絶)することはあっても創設されなくなった。

 皇室典範以降の問題点は、永世皇族制となったとはいえ世襲親王家が廃止され、天皇の猶子という親子関係の擬制により血縁の疎隔を埋め合わせする准的な制度、それは中世公家法の法技術により正当であるのそれを排したこと。それは、『椿葉記』天皇家と伏見宮は親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉るべきことした由緒を顧みなかったことの問題がある。

 後崇光院が「始終御猶子」というのは、永代親王家ということで、この由緒を無視してしまったことは非常にまずかったと思う

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(五)大正9年の永世皇族制放棄政策の問題点(略)

(六)「準則」の背景として南朝正統史観の影響とその克服の方途(略)

(七)宮家の数の適正規模

 伏見宮は中世皇統であるが、以上述べた皇統上の格別の由緒、歴史的脈絡から、国家的給付を受けて永続すべき権利性があるというべき。伏見宮と分家にあたる宮家は皇室典範によって格差がなくなったため、伏見宮の由緒は横並びになった御一流の方々の由緒でもあるから、皇族が少なくなっていることが問題なのだから、皇籍復帰のために財政支出を惜しむ必要などない。

 応永23年(1416)伏見宮初代栄仁親王は後小松院より室町院領を永代安堵され、康正2年(1456)第4代二品式部卿貞常親王にの「永世伏見殿御所号」と後崇光院太上天皇の異紋の勅許、牛車による参内の勅許の所伝等により伏見宮は別格の宮家として永続が約されているので、当事者から仰らないとしても、永続を約されている由緒を政府は客観的に認めるべきである。

 宮家の数の適正規模については、中川八洋[1918 『徳仁新天皇陛下は最後の天皇』 ヒカルランド]は皇統護持に必要な宮家1415としている。明治39年の段階で皇太子を含め永世皇族制のもとで1415前後、親王家、宮家が存在していたのだから、それを基準にしているようだが、わたくしは別の観点で伏見宮系は412宮家復活、創設という提案である。

 中川氏より渋ちんな考えだが、最低でも15世紀の伏見宮家の実効知行地経済規模分を復活させる徳政と言う観点である。プラスアルファ分を含めて、412宮家という提案である。

1440年頃の伏見宮の家領[v]の年収は二千貫相当で現金換算で約2億円相当[秦野裕介YouTube2022「戦国大名 47-7 足利家Ⅶ 天皇家と足利将軍家」日本史オンライン講座 55分過ぎの発言]に対して、当時の禁裏御料等、天皇家の収入は75千万円[vi]と試算されているが、令和4年常陸宮家の皇族費が4575万円、三笠宮家が5856万円、高円宮家3690万円余と比較すると、一つの宮家で皇族三方だと五千万円以上になるから、15世紀の伏見宮の年収は、現代の宮家4家分の経済規模にすぎないとはいえる。年収2億円はたいしたことはないともいえるが、それゆえ従える廷臣はの庭田、田向、綾小路等に限られてはいる。

 具体的には、秦野裕介「伏見宮家領における鮭昆布公事についての基礎考察」研究論集歴史と文化4 2019に、伏見宮の財務状況に詳しい。

後花園天皇践祚以前は、後嵯峨の御分国を後深草が相続したという由緒のある播磨国衙領260貫、同別納229貫、室町院領160貫(若狭国松永荘、近江国塩津荘、今西荘、日向国大嶋保)以上649貫、後花園践祚の後、足利義教の差配で、室町院領の近江国山前荘(350貫)と熱田社領(450貫)、同別納(100貫)が返還されたうえ、「鮭昆布公事」(504546貫)が新たに加わり、約2000貫(現金換算して約2億円)となる。しかし推定2億円というのはあくまでも実効知行地と足利義教の差配により永享8年以降伏見宮の権利となった年収500貫以上あった「干鮭昆布公事」の上納金と旧仙洞御所跡地の地子収入等の合計なので、名目上の家領は、不知行地も含めるとかなりの規模になるはず。プラスアルファとは、不知行地を含めた名目的所領と財産を含めた総合的観点である。

 伏見宮初代栄仁親王が、後小松上皇に、崇光院が秘蔵していた天皇の象徴たる累代御物に准じた「天下名物至極重宝」という名笛「柯亭」[vii]を進献したことと引き換えに永代安堵された室町院領とはもともと百か所以上の巨大荘園群を両統で分割相続したもので[viii]、不知行地の権利も含めると経済規模は数億円からもっとあるはず。

 また伏見宮家の財産には文庫の膨大な貴重な書物があった。「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしずめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生 2017]というのは言い過ぎではない。

 小川氏のような博識で評判の専門家が伏見宮は銀行のようなものと言っている。年収2億円どころではない財産があった。

 荘園公領制は戦国時代に崩壊過程となり、豊臣秀吉が公家の家領と洛中の地子収入を収公して再給付したことにより中世の所領とは全く違うものになった。近世では知行充行権は江戸幕府にあり、知行は幕府の麾下にあった[山口和夫 2017『近世日本政治史と朝廷』 吉川弘文館]。伏見宮家領は表向き一千石実収四百石程度の近世領主にすぎないといわれるが、そこを見ていただけではだめだ。かつては後高倉皇統追善仏事料所荘園群とか後嵯峨院の御分国だった播磨国衙などの本物の皇室領を家領としていたというべらぼうな由緒のある伏見宮家が昭和22年まで存在していたのだ。秀吉や幕府に知行を充行われて創立された近世以降の宮家とは格式が違うのである。最低でも4家~12家の再興、創設が妥当という結論になる。現代における本領回復に相当する徳政があってよいと考えるものである。

 以上、伏見宮御一流ができるだけ多く、直接皇族に復帰すべきであり、それは皇統上の格別の由緒、永代存続が約され、皇室領荘園の永代安堵の院宣、後深草院流の正統、正嫡を引くゆえ完全に傍系化してフェードアウトしない皇統との位置づけがあったこと。格別の宮家、准天皇家としての由緒を重んじてのことであることを述べました。

 以上。別バージョンの草稿が多数ありhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-f03e6e.html

筆者のブログからエバーノート公開リンクに入りご覧いただけます。テーマ、内容は概ね同じもの。

 

[i]  光厳院は晩年の貞治2年(1363)の置文で、栄仁親王が践祚するか、両統迭立ならば崇光院流が長講堂領・法金剛院領を相続するが、そうでなければ後光厳天皇が相続するものとしたので、『椿葉記』では所領没収を正当なものとして認めている[飯倉晴武2000 0 『地獄を二度もみた天皇 光厳院』 吉川弘文館]

但し、置文には崇光院流を正統とする記述があり、所領の没収は嫡流転換を意味せず、没収されても嫡流と主張できる。天皇家と伏見宮家が550年間併存したという理由の一つは、光厳院置文にもあったのである。

[ii] ちなみに『椿葉記』の書名の由来である「椿葉影再改」とは『和漢朗詠集』の大江朝綱の漢詩「早春内宴賦聖化万年春詩序」(承平2年932)より採られており、天子となって徳高く久しく栄えるだろうとの句である[秦野裕介2020]。大江朝綱自筆が残っていることはすごいことである。

[iii] 後崇光院法皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」「永世伏見殿御所」号勅許という所伝(「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申‥‥」) 勅使庭田長賢は伏見宮近臣でもあり、後柏原天皇生母の典侍庭田朝子の父である(贈内大臣)。

ただし、国文学系の小川剛生[2009「伏見宮家の成立 貞成親王と貞常親王」松岡心平編『看聞日記と中世文化』 森話社]が、裏付ける史料がないことから慎重に扱いたいとしており、複数の史料がない以上史実と断定しにくい難点があるが、にもかかわらず歴史家が積極的に評価するのは理由がある。

 崇光三世王の貞成王は応永18年に40歳で元服、服装はそれまで「半尻」姿だった。応永32年父栄仁親王と皇位継承を争った後円融院33回忌の写経供養に参加したことで、後小松院猶子として54歳でやっと無位無官から脱し、親王宣下を拝受できたのだから、この時点では伏見宮は世襲親王家ではない。

伏見宮第二王子、第4代貞常親王は、文安2年(14453月関白二条持基を加冠役として元服し、6月に親王宣下を受けた。時に21歳、文安33月任式部卿、文安43月二品に叙せられたのは厚遇といえる。同年8月家領を譲られて第4代伏見宮当主となった[小川剛生2009]。もっとも継嗣令では天皇の兄弟は親王と規定されているから親王宣下は当然ともいえる。

「永世伏見殿御所」号勅許の後、伏見宮家は文明6年(1474)に第5代邦高親王が後土御門猶子として19歳(元服加冠役は准后前左大臣足利義政)、文亀2年(1502)に第6代貞敦親王は後柏原猶子として17歳で元服と同時に順調に親王宣下を受けている。したがって、この所伝がなかったとしても、事実上、歴代当主の親王宣下が慣例となったことはいうまでもない。実質邦高親王以降が世襲親王家といってよいだろう。

 以下、歴史家等の「永世伏見殿御所」号勅許の所伝のコメントを引用する。

 

A 新田一郎氏(法制史)のコメント

「親王たるステイタスを長期にわたり安定して継承する本格的な世襲親王家は伏見宮家を以て嚆矢とする。貞常が後花園天皇から永世にわたり「伏見殿御所」と称することを勅許された、とする所伝があり、これによって、伏見宮家が皇統嫡系との距離に依存せずに自立し継承される世襲親王家してのステイタスを確立した、とする解釈が示される場合がある。こうして天皇家直系と伏見宮家は皇統の内部で画然と分かたれ、それぞれ継承されるべき役割を異にする家として成型される。伏見宮家はその家産とステイタスを継承する世襲親王家として成型され、皇位の正統の所在は擬制的な直系へと固定されたわけである。」 [新田一郎 2011 『天皇と中世の武家』河内祥輔共著 講談社]

 

B 田村航氏(中世史)のコメント

「伏見宮は『故院』すなわち貞成の生前の異紋を、そのまま位袍などに使用することが許可された。これは貞常親王以降の伏見宮が、後崇光院=貞成親王をよりどころにするということである。同時に「伏見殿御所」の「永世」にわたる存続も約された。これは貞成が後小松院の猶子として受けた親王宣下をふまえ、貞常王、邦高王、貞敦王、邦輔王がそれぞれ後花園・後土御門・後柏原・後奈良の歴代天皇の猶子として親王宣下を受け、以降同様に継承されていったことをさす。かくして伏見宮は親王の再生産をつづける特別の地位を得たのである。

‥‥後崇光院=貞成から伏見宮が得られる正統性を制度的に裏付けたもので、伏見宮の当主が世代を重ねても天皇家と疎遠となる事態が避けられた。‥‥‥伏見宮は代々の親王宣下で皇位継承権を担保され、ここに崇光院皇統のある種の再興が果たされた」 とする [田村航 2018「伏見宮貞成親王の尊号宣下-後光厳院流皇統と崇光院流皇統の融和 」 史学雑誌 127(11)]

 上記の見解は、後花園が後光厳院流を継承したので、実家の伏見宮と宥和政策をとったという脈絡での説示である。

 

C 秦野裕介氏(中世史)のコメント

「後花園は、弟の貞常に伏見宮家の継承と、その『永世』にわたる存続を約した。そして伏見宮家の当主は代々天皇の猶子となって親王宣下を受けるという特殊な形がとられるようになった。ここに後光厳皇統と崇光皇統の両立が完成したのである。」 [秦野裕介2020『乱世の天皇』東京堂出版225]とする。田村航説の参照指示ありそれをふまえた見解。

 

D 松薗斉氏(中世史)のコメント

「貞常親王が「永世伏見殿御所」と後花園から許可されたという伏見宮も、代々天皇の猶子となって親王宣下を受けなければならないわけで、基本的には‥‥中世の他の宮と同じである。むしろ持明院天皇家の家記・文書を継承し、現天皇家の「家」の機能を補完する側面が「家」としての継続を可能にした」 。中世の皇統文庫を維持、継承していたことが伏見宮家の強みだったという見解 [松薗斉 2010「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)openaccess]

 

E 小川剛生氏(中世和歌史)のコメント

「この御記の内容はいまのところ他に裏付がないので、当面この説の信憑性には慎重にならざるを得ないが、ここで後崇光院の紋を使用すること。また、「御所」の号を永代にわたり許されたというのは、これをもって世襲親王家の存在を公式に認めたということになるだろう」 [小川剛生 2009]

 

[iv] 五世王親王宣下の初例は、応永26(1419) 1221日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞御記』『薩戒記』)。後小松院と明仁法親王、承道法親王は13親等離れている猶子だが、門跡寺院側は、威信にかかわるので親王宣下を望んだ [松薗斉 2010]。 

[v] 伏見宮第3代貞成親王(道欣入道親王)より4代貞常親王への御譲状「後崇光院院御分類」第四巻十五[横井清2002『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫 旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて 1979 389頁]

相伝御領以下目録在別紙譲進之候、永代可有御管領候也

文安三年八月廿七日 (御花押)

追伸

記録文書以下同可有御管領候、代々御記禁裏へ進之候、可得御意候、御領之中男女御恩不相替可有御扶持候也

譲進

  • 伏見御領

五ヶ加納

一、播磨国衙

別紙十カ所 但当時七カ所管領

  此地御祈 伊和西 玉造保 粟賀加納

  石見郷 市余田 佐土余部

  • 熱田社領

付藪郷

  • 江州山前南庄

同七里村、八里村 北庄役

  • 昆布干鮭月俸
  • 若州松永庄一円
  • 江州塩津庄、同今西庄
  • 丹波草野 同戸野谷
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已上

右管領所々、式部卿親王所譲与如件、此内人給寄進等有之、不可有相違者也、

文安参年八月廿七日 (御花押)

[vi] 久水俊和 2020 『中世天皇家の作法と律令制の残像』 八木書店

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2023/05/26

皇位継承は天皇の男系子孫であることが伝統

 ツイッターで男系主義をカルトと言う方への返信の転載

 男系継承は継嗣令皇兄弟条の継受である。明文で男系と書かれてなくても事実のうえで皇親たる親王、諸王は男系であり規則性は明確。
 令制で天皇の親族を皇親という。親王、諸王(内親王、女王を含む)のことだが、一律父系継承であることは吉田孝『歴史のなかの天皇』岩波新書2006の以下の見解のとおり。
 「日本律令の『王』(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである。但し、『王』族の急増をもたらした。その結果、『賜姓』による臣籍降下が日常化し、『王』も『姓』の一種とみなされるようになる。」
 日本史の学者は左翼が多いので男系継承の論理を知っていても積極的には発言しないか傍観しているが、岩波新書には父系で一律に継承されたと断言しているわけである。
 
 ところで、令制は四世王までが皇親で世数制限があるとされるが、五・六世王は皇親と同じく不課の特典あり、七世王は揺が免じられているので徐々にフェードアウトしていく制度といえる。
 しかし、15世紀以降は事情が異なる。後円融、後小松、後花園は皇子が少なく、称光は皇女のみ。持明院統側に男性皇親が払拭していた時期があり、宮門跡に入室しうる皇子が御一方もいなくなった。
  この事情から大覚寺統の末流の皇胤でも親王宣下されることが慣例化(合法化)した。後二条流の木寺宮や亀山法皇遺詔で嫡流認定された常磐井宮出身の皇族の五世王や六世王が親王宣下されるに至った。 [松薗斉2010 「中世の宮家について-南北朝・室町期を中心に」 人間文化 (25)オープンアクセス]。

 五世王親王宣下の初例は、応永26年(1419) 12月21日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞日記』、『薩戒記』)。
 後二条直系廃太子康仁親王流は大覚寺統正統を鎌倉幕府と持明院統により認められてた。後醍醐と敵対関係にあったため北朝に帰属していた。常磐井宮も伏見上皇が後宇多上皇を追い詰める狙いで恒明親王立坊を支持した経緯があり、その義理もあってか北朝に帰属していた。
 伏見宮貞成親王が後花園天皇に永享6年に奏進した『椿葉記』に伏見宮歴代を天皇の御猶子として永続させる提案があり、世襲親王家構想と解釈されている。血縁で天皇と疎隔しても、しかるべき皇統の末流なら天皇の猶子として親王宣下を受け、親王位を再生産することによりステイタスを劣化させることのない世襲親王家の嚆矢が伏見宮家である。
 世襲親王家は男系が続く限り世襲、途絶した場合は、皇子が家領を相続して在俗皇族となるためのポストになった。伏見宮以外の八条宮(のち桂宮)、頻繁に実系が途絶、高松宮(のち有栖川宮)も2回実系が途切れている。閑院宮は幕末期に実系が途絶し、明治になって伏見宮系に継承された。とはいえ、継承者がすべて男系なので世襲親王家も男系継承である。。
 伏見宮も16代で後継者がいなくなり空位となったことがある。17代は桃園皇子の貞行親王が伏見宮を継承したが、早世されたので、また空位となり、宮家側では『椿葉記』にある皇統上の格別の由緒にもとづき血脈に当たる者の相続を嘆願した。
 朝廷は皇位継承者以外の皇子のポストにするため難色を示したが、前代将軍徳川家重の正室が伏見宮邦永親王の第四王女増子女王だった義理で、徳川家治の支持を得たため、異例だが、勧修寺に入寺得度としていた伏見宮貞建親王の第二皇子寛宝法親王が還俗、相続して18代邦頼親王となり以降、26代博明王まで伏見宮は実系継承であり、皇族の崇班を継承してきた意義は大きい。
 伏見宮が実系(男系)継承にこだわったのは後深草院流の嫡宗家を自認し完全なる傍系化を回避された「准天皇家」としての矜持だろう。
 伏見宮御一流の弱点をあえていえば南朝正統論で流祖の崇光が歴代天皇から外れたため、戦前は鎌倉末期の後伏見の末流とされてしまったことである。しかし今日皇国史観や南朝忠臣賛美の教育はされておらず、近年室町時代ブームで伏見宮の由緒にかかわる研究成果に事欠かないので容易に克服できる事柄である。
 以下は筆者の見解。
 太政大臣藤原為光の母は雅子内親王(醍醐皇女)だが父が右大臣藤原師輔なので藤原氏
 太政大臣藤原公季の母は康子内親王(醍醐皇女)だが父が藤原師輔なので藤原氏
 公季は母が産褥で薨ぜられたことから、異母姉の皇后藤原安子に引取られ、宮中で養育されたので貴種といえるが、膳の高さで親王とは差別化されていたという。天皇と近親であっても女系の子どもは差別化される。
 近世では准后関白近衛家熙は母が品宮常子内親王(後水尾皇女)だが、父が関白近衛基熙だから藤原氏。
 もっとも皇別摂家であり血筋のうえでは家熙は後陽成玄孫の男系だが、父が摂関家である以上、皇親にはならない

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意見具申 伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その二)