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カテゴリー「ロックナー判決論」の20件の記事

2011/05/24

財産権保護とアメリカ的制憲主義その1

 国家公務員に団体協約締結権付与6月3日閣議決定はまったく不愉快であるが、このような1960年代型の時代錯誤な政策が推進された事態を招いたことに未来の国民に申し訳なく思う。しかし冬の時代に力を蓄え、Right to Work (反団結)の立場で巻き返しの努力をしていきたい。こんな悠長なことで巻き返しできるのかと疑問をもたれるかもしれないが、ようやくやる気で出てきたのでやる。心臓病だなんだかんだと言っているのはそのいいわけだった。オーストラリアやニュージーランド、米国とイギリスとひとおり研究してから実践に入るという将棋でいえばまだ櫓を囲ってる状態で、戦争は準備が整ってから一気にやるつもり。

 広義のロックナー時代の判例理論をまとめて提示する趣旨だが、アメリカ的制憲主義と財産権は関連したテーマである。

 ブラックストンの『英法釈義』(1765~69)によれば「財産権ほど、かくも広く人類の想像力を喚起し、その心を魅了するものはない。それは1人の人が外界の事物に対して主張し行使する唯一の独裁的な支配であり、世界中の他の人々がその権利をもつことを全面的に排除するものてある」「第三の絶対的な権利、これはイングランドの人間なら誰もが生まれながらにして持っているものだが、この権利とは財産についての権利であり、それは、自分の取得したものは何であれそれを、自由に使用、収益、処分できるということである。そして、その制約を受けたり減らされたりすることは、唯一国の法律によるのでなければ、一切なしえないのである」と述べている【*1】。
 極保守派ブリューワ判事(David Josiah Brewer任1889~1908)は1891年のイェール大学の有名な講演で次のように述べた【*2】。
「イヴが禁断の果実さえ欲して占有をした、その記録に残る最初の時代から、財産の観念とその占有権の神聖さとは、一度も人類から離れたことはなかったのである。理想的人間性についていかなる空想が存在しえようとも‥‥歴史の夜明けから現代の時代にいたるまで、現実の人間の経験は、占有の喜びと一緒になった獲得の欲求が、人間活動の現実的な動機となっていることを明らかにしている。独立宣言の断定的な表現のなかで、幸福の追求は譲渡することのできない権利の1つであると断言されているとき、財産の獲得、占有、及び享有は、人間の政府が禁ずることができず、それが破壊することのない事柄であることが意味されているのである。‥‥永遠の正義の要請は、合法的に取得され合法的に保有されたいかなる私的財産も公衆の健康、道徳あるいは福祉の利益のために、補償なく略奪されあるいは破壊されることを禁ずるものである」

 偉大な少数意見裁判官と称されるハーラン判事(先代John Marshall Harlan任1877~1911)は「財産の正当な保護は、共和諸制度の死活的原理と見倣されてきた」Chicago, B. & Q. R. Co. v. Chicago, 166 U.S. 226 (1897)http://supreme.justia.com/us/166/226/case.htmlhttp://supreme.justia.com/us/166/226/case.html1887と述べたが、山口房司は財産権保護はアメリカ的制憲主義に全的に一致すると断言しているとおりである【*3】。違憲立法審査を確立したマーシャル主席判事がやった事は、全国的市場の創出と、財産所有者の権利保護であった。 

 そもそも独立戦争のスローガンはコーク卿が述べた憲法原理、マグナカルタまたはコモンローに基づく「イギリス人の権利」に反する議会制定法は、そのことによって無効であるという、憲法原理を利用したものだった。に反するから植民地人を拘束しないと主張したのである。
 第一に、歳入確保には(貴族)代表団の同意を必要とするものである。「代表なくして課税なし」というスローガンになった。つまりアメリカ植民地はイギリス本国議会に代表を送っていないから、また代表を送ることは事実上不可能であるから本国議会は植民地に課税する権限を持たないと主張し、印紙税法などの本国議会の制定法は植民地の同意なくして課税するものでありイギリス憲法に反するから植民地人を拘束しないと主張した【*4】。
 第二に1215年マグナカルタ39条「自由人は全て同僚の合法的判断及びこの国による法以外には、逮捕、投獄、財産の不法没収がなされることはない」であり、これが修正5条のデュープロセス原理の前身である。
 この文言はほとんどそのままの姿で各植民地に移植された。例えばマサチューセッツは「法と自由」にいわく「いかなる人の財物も不動産も-徳目またはこの国の法に明記された衡平法によらない限り奪われることしはない」。【*3】。
 1787年のフィラデルフィア制憲会議代表団には個々の利害対立はあるものの「疑いのない同意」があった。通商と商業は社会的善であり、州の警察権能(ポリスパワー)を抑制する制度や、商業は公権力を排除し、私的な取り決めで下支えされるとき最も良く育成されるという「強い信念」だった。サウスカロライナのJ・ラトレッジは、フィラデルフィア会議に次のような助言を寄せた。「財産こそが社会構成の主たる目的である」ハミルトンは「政府構成の最大目的の一つは個人の保護と財産の保全である」と繰り返し述べた。憲法制定の翌年J・アダムス曰く「財産は保有されなければならない。でなければ自由は存在しない」と【*5】。

【*1】リチャード・A.エプステイン 松浦 好治訳『公用収用の理論―公法私法二分論の克服と統合』 37頁
【*2】ラッセル・ギャロウェイ著佐藤・尹・須藤共訳『アメリカ最高裁判所200年の軌跡 法と経済の交錯』 八千代出版1994年 89頁

【*3】山口房司「アメリカにおける自由と生得の財産権との結合 : 植民地時代から連合規約にかけて」『山口大學文學會誌 』59号2009 http://www.lib.yamaguchi-u.ac.jp/yunoca/handle/B060059000008
【*4】西村裕三「アメリカの司法審査制に関する一考察-その歴史的発展過程と機能的分析-1-」『広島法学』3巻1号1979
【*5】山口房司「Imperium in Imperio: アメリカ連邦主義の進化と財産権の保護  合衆国憲法批准から好感情の時代にかけて」 『史学』 78巻4号 2009-12 機関リポジトリ-オープンアクセス

2011/05/12

バーンスタイン教授がロックナー判決復興のために活躍してます

 ジョージメイソン大学のバーンスタインのこのコラムhttp://volokh.com/2010/03/17/lochner-v-new-york-as-a-test-case/によると1902年にロックナーはシュミッターと言う従業員を週60時間就労させたとして告発したされたということです。
 しかし、シュミッターはケーキ作りを覚えるために自発的に遅くまで仕事をしていた。ロックナーとシャミッターはニューヨークに旅行に行っているように友好的な関係でした。また1941年にシュミッターが死ぬまで雇用されていた。従ってシュミッターが労働組合の代理人である可能性は低く、シュミッターの苦情はでっちあげであったというような事が書かれてます。 ロックナーの告発には陰謀があったように思えます。バーンスタインはロックナー判決研究の新しい論文を書いたようです。http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=1815221 4月29日のコラムにケイトー研究所でロックナーイベントの告知がありますhttp://volokh.com/2011/04/29/rehabilitating-lochner-event-at-the-cato-institute-monday-at-4-pm/ほとんどロックナー判決マンセー状態です。
 バーンスタインの業績はhttp://mason.gmu.edu/~dbernste/

2011/05/11

Lochner’s Bakeryの写真があった

 ニューヨーク州法に違反して、ビスケット・パン・ケーキの製造・製菓施設において60時間以上就労させたため起訴され有罪とされたロックナーは、1905年連邦最高裁により同州法が合衆国憲法修正14条に反し使用者と労働者が契約を結び労働内容を定めるの自由の侵害とされ違憲無効とされたため勝訴した。Josh Blackman's Blog.に有名なロックナー事件のベーカリーの広告の写真が掲載されている。http://joshblackman.com/blog/?p=3988
 ニューヨーク州のほぼ中央にあるユーティカにあった。広告にはニューヨークで最も信頼される最も古いパン屋の一つですと書かれている。このように小さなパン屋さんを虐めたのがニューヨーク州法でした。違憲判決は妥当だと思います。
 ロックナーとその家族の写真がこれです。http://www.pbs.org/wnet/supremecourt/capitalism/landmark_lochner.html
 ロックナーのパン屋ではないと思いますが、当時のパン焼き作業場の写真がこれ。http://www.answers.com/topic/freedom-of-contract

2008/10/13

感想 仲正昌樹『集中講義!アメリカ現代思想-リベラリズムの冒険』

 NHKブックス2008年9月刊。私はロールズとかドゥオーキンとか大嫌い。難解だし読みたくもない、なんでこんな本が売れているのかわからないが、リベラル派の反対陣営としてリバタリアニズムにも言及しているので買った。

 リバタリア二ズムを「あくまで『自由』それ自体を重視し、平等や正義といった別の要素を"自由主義"に持ち込むべきではないという立場」121頁と定義してます。つまり、階級的利益、社会正義なるものによって自由が侵害されることに反対の立場ですがら、私もリバータリアンです。ただリバータリタンのウィングが広くてアナルコキャピタリズムは支持しない。

 ロックナー判決マンセー論は、当然、反階級立法、反パターナリズムでありますが、ノージックの権原理論に好意的であり、リバタリアニズムに接近していくことになる。リバータリアンであるリチャード・A・エプステインがロックナー判決支持の立場で、「何人も自分自身を所有し、自らの労働を自らの望む条件で自由に利用する権原を有する」との権限理論を展開していますが、(水町勇一郎『集団の再生―アメリカ労働法制の歴史と理論』有斐閣2005年 120頁以下)私は全面的に支持します。ノージックの権限理論については仲正昌樹の本の125頁に解説されてます。「自然状態において、個々の物を自由に処分するもともとの資格=権原‥‥」という必要最小限の正義の原理。
 権原を侵しているのは労働組合の労働協約による労働力取引=処分の規制、統制であり、労働基準法などの立法や時短、ワークライフバランス政策であるから、私はリバータリアンの権源理論の立場で、労働組合や労働者保護法などを敵視しているわけです。

2008/10/12

ロックナー判決マンセー論(16)

  パソコンでダウンロードできる論文 中里見博の「合衆国最高裁判所における女性労働『保護』法理の成立(2)完 : 最高裁判所のジェンダー分析に向けて」名古屋大學法政論集. v.167, 1997http://hdl.handle.net/2237/5741 「合衆国最高裁判所における女性労働『保護』法理の展開 : 女性最低賃金法違憲判決のジェンダー分析名古屋大學法政論集. v.171, 1997,http://hdl.handle.net/2237/5781 について感想を述べます。

 中里見博は初めて知りましたがhttp://www.ads.fukushima-u.ac.jp/~souran/public_law/nakasatomi.htmlはジェンダー法学が専門で、ポルノ規制やドメスティックバイオレンス規制に関心があるフェミニストです。もちろん私は児童ポルノ規制も反対でリベラルですし、ドメスティックな領域に官憲が干渉することに反対ですから、中里見博の思想には反対しますが、上記論文は洗濯業女子の労働時間規制を合憲とした1908年Muller v. Oregon208 U.S. 412 ミュラー対オレゴン判決http://straylight.law.cornell.edu/supct/html/historics/USSC_CR_0208_0412_ZO.htmlや、女子労働者の最低賃金法を違憲とした1923年Adkins v. Children's Hospital 261 U.S. 525 アドキンズ対児童病院判決http://straylight.law.cornell.edu/supct/search/display.html?terms=adkins&url=/supct/html/historics/USSC_CR_0261_0525_ZO.htmlを比較的詳しく分析するだけでなく、直接ジェンダーとは関連ない、ユタ州の地下坑並びに製錬工及び鉱石精錬労働の雇用時間を原則として8時間に規制した州法を合憲とした1898年Holden v Hardy169 U.S. 366 ホールデン対ハーディ判決http://straylight.law.cornell.edu/supct/html/historics/USSC_CR_0169_0366_ZO.html、ビスケット、パン、ケーキ製造の労働時間を一日10時間、1週60時間に制限するニューヨーク州法を違憲とした1905年Lochner v. New York198 U.S. 45
ロックナー判決http://straylight.law.cornell.edu/supct/search/display.html?terms=LOCHNER&url=/supct/html/historics/USSC_CR_0198_0045_ZO.htmlの判例理論を分析して、その相違点を明らかにしていて有益なので取り上げます。
 

 感想としてはミュラー判決も基本的にはロックナー判決の枠組みであり、有名なブランダイスブリーフ(上告趣意書)は科学的・実証的でないと著者が断定しているのは新味があると思いました。ブランダイスブリーフは、革新主義者により高く評価されていたが、今日では時代錯誤のものであることはいうまでもない。公民権法タイトル7により性差別は禁止されているから、ブランダイスのように母性保護を強調して、女子労働保護立法を支持する考え方自体が違法である。この点で著者に偏見はないと感じた。

 また、ロックナー判決が、厳格審査とも、中間審査基準とも言われている意味、前回取り上げた木南敦の言う、ロックナー時代の裁判官の構想「ポリスパワーによる権限が及ばない領域を裁判所が画定し、そのような領域ではコモンローは立法によって修正されず、裁判所がコモンローの内容を確定して、コモンローによって自由が保障される」と述べている意味が上記論文を読んで若干理解できたのでまずその点を説明します。


 著者はロックナー判決の「契約の自由」法理について、次のように説明します。--「契約の自由」法理とは、強い自然権思想を背景に、使用者と労働者を、労働契約を結び、労働条件を取り決める対等な当事者と捉えて、「公共の健康、安全、福祉」の保護・促進を目的とした州の正統なポリスパワーの行使と認められる場合を除いては、州はその過程に介入してはならないという法理である。他方、1868年に成立した合衆国憲法修正第14条は、「いかなる州も、法の適正な手続きによらずに、何びとからも生命、自由、及び財産を奪ってはならない」と定めたが、これは立法上の手続のみならず、実体面での適正さ-「実体的デュープロセス」-をも要求するものと解釈された。「契約の自由の法理」は、この「実体的デュープロセス」法理と結合して、修正14条の「自由」または「財産」の中に「契約の自由」を読み込むことによって、憲法上明文の規定のない「契約の自由」を憲法上保障されたものとしたのである。‥‥具体的な審査基準が、「目的の正統性」及び「目的-手段の実質的関連性」の厳格審査である。‥‥--- v.167326頁

 ホールデン判決とロックナー判決の相違点ですが、ホールデン判決は立法府判断、権限を尊重し、司法部の介入の抑制を強調していたにもかかわらず、ロックナー判決がこの先例を覆さずに矛盾していないのは、著者の次の指摘が重要である。
 ホールデン判決は科学的・実証的事実なしに、「新鮮な空気と日光を奪われ、悪臭と高熱‥‥」に晒される地下坑内労働が労働者の健康にとって有害であることを認め、鉱工業業者と労働者とは経済的に不平等な立場にある事実を立法府が認めた(この論点は私は全く同意できない)ことを受入れ、労働者の健康を保護するために、労働時間規制を認めたものであった。ホールデン判決における立法府判断の尊重とは、坑内労働における健康保護と労働時間規制の合理的関連性について、科学的・実証的な事実に基づいて判断を下したことを尊重するという意味ではなかったのである。州政府が鉱工業を特別に危険な職業と見倣して立法府規制を行ってきた伝統である。加えて「これらの法律の幾つかの州で、繰り返し裁判所により執行されてきた」コモンローの存在が決め手になっている。(v.167335頁)坑内労働が立法府規制の伝統のある領域であったことから、すんなり合憲判断となった。(ただしブリューワとペッカムの2判事は反対)
 
 著者は、ロックナー判決の意義について第一に、「目的-手段」の合理的関連性の挙証責任の転換と言っている。つまり、「目的-手段」は著しい不合理がなければ合理性を推定するというのではなく、立法を支持する側が、積極的に「目的-手段」の関連性を立証しなければならない。それ自体は中間審査基準といわれるものだろうが、しかし次の点でロックナー判決は厳格なのである。
 ペッカム法廷意見の「労働時間が制限されなければ、公共の健康ないし労働者の健康に重大な危険が生じるといえる、公平で合理的な根拠がない限り」という文言は一見して、科学的実証的根拠を求めているように読めるが、証拠の列挙だけでは立法を支持されるものではないことが、次の文言で分かる。「自由を侵害する法律を支持するには、健康への幾らかの有害性がある可能性についての事実が単に存在する以上のものが必要である」。v.167343頁
 「事実以上のもの」とは著者によると「共通の認識」である。「当該規則(労働時間規制)は共通の認識knowlegeからして、製パン工場及び製菓工場における労働が健康に有害であると言うことができなければ、支持され得ない」「共通の理解からして、製パン業が労働者の健康を害する職業であるとは決して考えられてこなかった」としている。v.167342頁
 従って、著者は、ロックナー判決は、科学的・実証的立法事実に基づいた審査ではなく、伝統に基づく審査と述べている。ハーラン判事が証拠の列挙と外国立法の例を挙げて反対意見を記しているが、http://straylight.law.cornell.edu/supct/html/historics/USSC_CR_0198_0045_ZD.htmlそれだけでは駄目なのである。外国立法については問題外に思える。
 つまり、社会通念から見て、製パン工場及び製菓工場が、鉱山の坑内労働のように特別に危険で有害な仕事とは認識されていないのであるから、このような一般的職業では、労働時間規制を支持できないと言うことだろう。
 この司法審査は堅実に思える。というのは中間審査基準の「目的-手段」の実質的関連性については、証拠やデータ、公衆衛生について裁判官が主観的に解釈しがちになるので不安定になりやすいことを防止している。伝統に基づいた審査によって、安易に契約の自由が侵害されることを防止しているのである。それは伝統的な法秩序を安易にくずさないということであり、コモンローによって自由が保障されるという考え方に通じる。
 パン焼きは古代メソポタミアから始まっている。ポンペイ遺跡ではパン屋が発掘されている。製パンは古代から職業として存在しているが、鉱山坑内労働のような危険な職業と認識されてはいない。なるほど、ニューヨークの製パン工場はアパートの地下にあって不衛生であったかもしれない。しかし、作業環境を規制する州法を裁判所が潰しているわけではないわけである。

 ロックナー判決は、労働時間規制立法を「契約の自由」法理により違憲判決を下したものであるが、上記論文ではロックナー以前の1895年のイリノイ州最高裁Richie v.Pecopleを取り上げている。これは衣料品製造工場での女子労働時間を、1日8時間、州48時間に規制する州法を、デュープロセスを欠いて自由と財産を侵害するものとして違憲と判決した。「労働力はプロバディであり、いかなる他のプロバディ所有者とも同様に労働者は、自己の労働力を売り、それを結ぶ契約の権利を有する」v.167328頁と述べた。
 
 ひるがえって我が国の現状を考えてみるに、労働基準法や労働協約により、個人の雇用契約の自由や労働力処分の自由が大幅に侵害されているうえに、政府が適当な口実によって、かんたんに自由・財産の侵害を正当化されてしまう。ワークライフバランスや次世代育成支援のために、特に男性の労働時間を規制しようとしている。その目的が、男性も育児に参加させ、役割分担の定型概念を打破するというフェミニズム的な思想を社会正義としているためであり、あるいは少子化対策とされているが、立法目的自体が不純である。伝統的な家族観、男女役割に基づいた生活を営む自由を否定することが目的とされている。ライフスタイルの自由の否定である。仮に少子化対策を正統な立法目的と認めるとしても、男性の労働時間を規制することとの目的-手段の実質的関連の証拠はない。それでも休みを増やして早く自宅に帰ればセックスをやる気になって子供は増えるというかもしれないが、その程度の薄弱な根拠で、安易に自由・財産を侵害されるべきものではないのである。
 個人の労働力処分の自由がない社会に閉塞感が強い。よくいわれることですが、人の二倍・三倍勤勉に働かないと、なかなか人生で成功することはないでしょう。ハードワーク主義はワークライフバランスに反し悪であり、規制の対象になれば、人生に積極的な意義を見いだせない。それよりも、次世代育成、子育て支援、男女役割定型概念打破のために、男性は働くことを自粛し、競争を自粛し労働の自由を完全に放棄し、赤の他人である女性や赤の他人の次世代育成の利益に奉仕するだけの人生を歩むべきだとされる。つねに政府の労働者保護法や労働協約やこのようなフェミニズムに基づく労働規制によって自由と財産の侵害に晒されていることは、私は異常なことであると思う。野田聖子消費者担当相なんか、男性の働き方を規制したいんでしょう。
 アメリカではワークライフバランスは公定政策ではなく、業績の良い企業が、会社の評判と人的資源管理の一貫としてファミリーフレンドリーな政策をやっているだけ。しかもその基本は会社に託児所を設けることで、ワーキングマザーを支援するのが基本です。それならともかく、男性の働き方を標的にして、自由・財産の制限をねらっていることが、日本のフェミニズムの悪質なところです。
 のみならず、仕事に対するコミットメント(使命感)や誠実な勤勉さをワークライフバランス政策に反し悪とするような価値観の転倒した社会に未来はないし、原爆で潰されたほうがましかもしれない。

2008/10/05

ロックナー判決マンセー論(15)

 ロックナー判決はもはやアンチカノンではない
 
 シリーズ前回との脈絡はなく単発的な記事です。
 グーグルで「Lochner v. New York とは」で検索すると1位で京都大学の木南敦教授の平成20年度第1回学術創成セミナーの記事http://kaken.law.kyoto-u.ac.jp/gakuso/j/activity/20record_workshop.htmlが出てくるんですが、ロックナー判決は近年再評価されつつあり、もはやアンチカノンではないと書かれてます。アンチカノンとは、重要な判決であるが、憲法修正や判例変更で規範性が否定された悪名高い判決のことですが、ドレッド・スコット判決、プレッシー対ファーガソン判決などと並んで、司法部の過ちとして扱われ、憲法学者の主流はそういう見解でした。
 つまり従来はロックナー判決で反対意見(特定の経済理論、スペンサーの社会進化論を公定するようなものと批判した)を記したホームズ判事が圧倒的に支持され、適者生存の社会進化論に基づくレッセフェール社会を形成する(私は適者生存で良いと思ってる)ものだと批判されてたが、それはフランクファーターなどの左翼急進主義者、革新主義者が言ってきたことであって、そのような中傷は古くさい見解になりつつあるということだ。
 University of San Diego School of Law のBernard H. Siegan教授(故人)が1980年にロックナー判決は憲法の正当な解釈で復活すべきだと主張した経済的自由主義者として知られており、同教授の業績が大きいと思いますが、その影響によりロックナー判決擁護者・好意的な学者は増えている。ジョージメイソン大学の デビッドEバーンスタイン教授のVolokh Conspiracy blog記事http://volokh.com/posts/1144178362.shtml#searchsiteでも明らかなことで、同教授もロックナー判決はアンチカノンでなくなりつつある。ホームズ判事の評判は急落していると書いてます。
 
 若干インターネットをみただけだが、ロックナー判決再評価の傾向はリバータリアンだけではないようだ。つまり、ロックナー判決は自らのビジネス、雇用契約の自己統治を、政府、第三者からの干渉から守った判決なのであるが、それがあったから、子どもの教育に関する自己統治を守ったマイヤー判決や、ピアース判決があり、夫婦生活の自己統治を守ったグリズウォルド判決があったとみるならば、ガンサー教授が言うように実体的デュープロセス判決ということでパン焼き労働者の雇用契約の自由を守ったロックナー判決も、避妊具を販売し使用する自由を守ったグリズウォルド判決も同類と認識してよいのだ。ロックナー判決は立法府の横暴からビジネス、雇用契約の自由、自己統治を守った趣旨としてとらえることも可能なのである。
 1938年ストーン判事のキャロリーンドクトリン(註)の解釈から生じた、市民的自由と経済的自由のダブルスタンダード、憲法革命、ニューディール体制後の枠組みを自明の前提とする必要はない。
 
 ところで、いわゆるロックナー時代について木南敦は「その時代の構想では、ポリスパワーによる権限が及ばない領域を裁判所が画定し、そのような領域ではコモンローは立法によって修正されず、裁判所がコモンローの内容を確定して、コモンローによって自由が保障される」ものとしているが、この見解がよくわからない。実体的デュープロセスでなくて、コモンローは立法によって修正されないという法の支配を体現したのが、ロックナー時代の裁判官ということですか。いずれにせよデュープロセスであれ、何であれ、そのような司法積極主義を私は否定しない。(私がロー対ウエード判決を認めるのはブラックマン法廷意見が堕胎はコモンローでは犯罪ではないと述べ、古代ギリシャ・ペルシャから歴史を論じ、中世キリスト教でも柔軟な解釈で風穴は開けられていたとした趣旨が堅実と思えたからである。)
 
 そうすると従来、非経済的実体的デュープロセス判決として、ロックナー判決と区別して扱われてきたが、コモンローで長い間認められていた特権を個人は享受すると宣明した1923年のMeyer v. Nebraska, 262 U.S. 390

http://straylight.law.cornell.edu/supct/html/historics/USSC_CR_0262_0390_ZO.htmlの意義が重くなる。
 私はロックナー時代の黄犬契約の自由や、最低賃金法の否定も決して軽視せず高く評価しているが、マイヤー判決もロックナー時代を体現した同じ系列の判決である。それは一貫してロックナー維持の保守派であり、ニューディール立法に違憲判断をとったマクレイノルズ判事(ウィルソン任命でありながら大統領の期待に反し「頑固な保守派」のリーダーとなり「最も反動的な裁判官」とされた尊敬すべき裁判官)が判決文起草者であり、傍論で契約の自由に言及したことで明らかなことである。
 事案は1919年にネブラスカ州が公私立いずれの学校でも8年生までは近代外国語教育を許さないという州法を制定したが、福音主義ルター派教会の教派学校の教師でドイツ語で聖書物語を教えていた、ロバート・マイヤーが州法に違反しドイツ語を教えたため起訴され、同州法の違法性を訴えた事件である。マイヤーは口頭弁論で、子どもたちが教会の礼拝に出席するためにはドイツ語教育が必要があり、それを禁止するのは信教の自由をも奪うものであることを訴えた。この州法は第一次大戦参戦によるナショナリズム高揚が背景にあり、敵国だったドイツ系移民の多い中西部では感情的な迫害がみられた。不当にもドイツ語コミュニティが不穏とみなされたことである。
 マクレイノルズ判事による法廷意見は、ドイツ語教育自体の有害性はなく、同質な人民の育成を目的とする本件州法は州の権限を逸脱する。同州法は憲法修正第14条デュー・プロセス条項に反し、外国語教師の職業、生徒が知識を獲得しようとする機会、および自己の子どもの教育をコントロールする親の監護教育権を実質的に侵害すると判示したのである。職業を不当に奪われない権利、親の監護教育権の重要な先例として人権判例で多く引用される。しかしさらに重要なのは傍論で契約の自由とコモンローに言及したところである。
 すなわち修正第14条の自由とは「疑いなく、身体的拘束からの自由のみならず、契約の自由、生計を営むための職業に従事し、有益な知識の習得し、結婚し家庭を築き、子供の育てること、自らの良心の従った神への礼拝、自由人による秩序正しい幸福追求の権利にとって不可欠なものとしてコモンローが長い間認めたきたこれらの特権を享受する個人の権利」を含むことを明らかにした。
Without doubt, it denotes not merely freedom from bodily restraint, but also the right of the individual to contract, to engage in any of the common occupations of life, to acquire useful knowledge, to marry, establish a home and bring up children, to worship God according to the dictates of his own conscience, and generally to enjoy those privileges long recognized at common law as essential to the orderly pursuit of happiness by free men.
 この傍論はロックナー判決が引用する先例アルゲイヤー対ルイジアナ判決ALLGEYER v. STATE OF LOUISIANA, 165 U.S. 578 (1897)   http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=165&invol=578においてベッカム判事が「修正第14条にいう自由とはただ‥‥単なる身体の物理的拘束から自由であることを意味するだけでなく、市民が彼のすべての能力の享受において自由である権利をも含むのである。すなわち、彼の才能をすべての合法的方法によって自由に使用すること、彼の欲する所に居住し、勤労すること、合法的である限りどんな職業によってでも彼の生計を立てうること、およびどんな生活でもできまたどんな職業にでも従事することができ、そのために適当、必要かつ不可欠なすべての契約をなすこと、を含むのである」と述べていることに、付け加えて、結婚し家庭を築くこと、子供の育成や、神の礼拝といった、いわば信教の自由や、結婚の自由、家族と同居する権利といったプライバシー権の先駆となる意義を有するが、幸福追求に不可欠なコモンローで認められてきた特権を個人が享受するために司法部は砦となることを宣明した。つまりロックナー判決が「幸福追求の権利」を引き出したのである。
 ホームズ判事は実体的デュープロセスを是認しない立場なので反対意見を記し、立法部の判断を尊重してドイツ系移民迫害立法を是認した。
 
 1925年のPierce v. Society of Sisters, 268 U.S. 510 http://straylight.law.cornell.edu/supct/html/historics/USSC_CR_0268_0510_ZO.htmlは8歳から16歳までの子どもに公立学校の通学のみしか認めず、私立学校への通学を禁止した義務教育法を定めたオレゴン州法が問題となったもので、マクレイノルズ法廷意見は、同州法は、「自己の監督下にある子どもたちの養育と教育を管理する親および後見人の自由を不当に侵害する」、および「子どもは州の単なる被造物ではない。子どもを養育し、その運命を決定する者は、子ども自身が将来担うべき義務を認識させ、その準備をさせる高度の義務を伴う権利を有している」と述べた。
 ここに至って、憲法修正14条の自由は、契約の自由、不当に職業を禁止されない権利のみならず、私立学校で子供を教育させる親の監護教育権も自由に包含された。
 

 ロックナー判決で違憲とされたニューヨーク州法の規則は1日10時間、週60時間以上の労働を規制するものですが、1日10時間、週あたり60時間はやはり短いように思う。当時ベーカリーの工場は共同住宅の地下にあった。不衛生な作業環境といわれていますが、州法による作業環境の改善は認めているわけです。伝えられるところによれば、ニューヨークのベーカリー労働者は、一日12時間週休なしで働いていたとか、週100時間働くことこともまれではなかったといわれます。1920年頃まで鉄鋼労働者が一日12時間週休なしだったし、南部の繊維労働者は1日13~14時間労働だったとされてますから、決して長時間ではありません。住み込みで働いていたのですから、60時間とすると1日平均8~9時間にすぎなくなります。週休なしで働くほうが、毎日一定のペースで変わらず、健康的なのですよ。問屋制家内工業の時代は、労働と生活が未分離で労働時間で働く観念が希薄だったと同じように、零細企業のベーカリーで住み込みで働いていたのですから、時間規制そのものがナンセンスと言うほかない。
 第三者が干渉すべきことではないです。パン屋は、鉱山労働者のような消耗の激しい肉体労働とは違います。一般的職業です。1日8~9時間じゃものたりないし、勤勉とはいえないでしょう。慣行どおり毎日12時間働きたい労働者の雇用契約の自由を侵害するものである。
 ベッカム判事の法定意見では言及していませんが、コモンローは、営業の奨励と誠実な勤勉さの奨励をパブリックポリシーとしている以上、このような規制立法はパブリックポリシーに反するのです。個人の労働力処分、労働力取引の制限自体が、コモンローの営業制限の法理に反する余計なお節介です。立法府が社会改良のために労働時間を規制したいのかもしれませんが、このような設計主義的社会改革はろくなものはなく、個人の自由と、個人行動の正義を否定するものである。
 
 近代外国語を教えてはいけない。公立学校への強制と同じように、このような雇用契約の制限も立法府の横暴である。ビジネスで成功したした人は仕事中毒といえる人が多い。労働時間の制限は、より良き人生と誠実な勤勉さという倫理を否定し、、幸福追求に不可欠な自由を侵害するものである。
 
 引用参考文献
Answer.com「 Lochner v. New York」http://www.answers.com/topic/lochner-v-new-york 
 
宮下紘「プライヴァシーという憲法上の権利の論理」『一橋法学』4巻3号 2005-3http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/handle/10086/8665
山口亮子「親の権利についてアメリカにおける家族のプライバシー議論からの一考察」http://law-web.cc.sophia.ac.jp/LawReview/contents/4803_04/4803_04yamaguchi.htm

(註)1938年のカロリーヌ判決(混入ミルクの州際通商を禁止する法律違反で起訴された会社が当該法律のデュープロセス違反を争った事件で、ストーン判事は、経済規制立法に対する強度の合憲性の推定を前提とする合理性基準を打ち出した。)

2007/12/09

ロックナー判決マンセー論(14)

今回は技術的な議論に深入りせず、原理原則論にとどめます
 
法は自由を支持するという指導原則

 私が英米法の伝統を好む理由、法は個人的自由を支持してきたことが一つの理由である。直接的には経済的自由に関係するものではないが、新刊書(註1)でJ.H.ベイカー(川添美央子訳)「1200年から1600年におけるイングランドのコモン・ローにおける個人の自由」を読みました。それによるとイギリスでは隷農階級は遅くとも15世紀末までに消滅した。イギリス人は1600年には全て「自由人」になっていた。それはコモン・ローが自由を支持してきた帰結だったというのである。制定法によるものを除いてローマ法では奴隷身分を徹底的に固定するのに対し、コモン・ローは自由を確保するための訴訟手続きの多くを備えていたために、個人に対して平等な保護と近代的自由の形成を促し、17世紀の国制論争に教養的武器を与えたということが書かれている。臣民の自由(とりわけ営業の自由が重要だが)を擁護する基盤もそこにあったわけだ。
 既に13世紀の『ブラクトン法令集』に隷農制を脅かす理論的前提があった。その指導原則は法は自由を支持するゆえに、隷農は領主に対してのみ隷属的なのであって、この世の他の人々に対しては自由だと主張した。領主によって隷農身分から解放されれば血統の定めから完全に自由になる。そのうえ、隷農は国王裁判所において領主以外のどの人間も訴える権利があったいう。15世紀の国王裁判所主席裁判官であるフォーテスキューは次のように述べた。「……それが隷属が増加せしめ、人間本性が絶えず欲するところの自由を減少させるようであけば、必ず残酷だと見なされるであろう。隷属は人間にとって邪悪な目的によって導入されるが、しかし自由は神によって人間本性に刻み付けられているからである。……自由を支持しない者は神をも恐れぬ残酷者と見なされるであろう。こうしたことを考えると、イングランドのもろもろの法はいかなる事例においても自由を支持するのである」(註1)。
 いかなる事例においても法は自由を支持すると断言した。私は教会法の結婚の自由の理念も重視したいが、近代個人主義的自由は中世の法思想から発展したものだった。

中世の隷農より惨めな現代人

 私は現代における不法な隷属的状況を打開したいのである。やかましいほどの仕事の制限、業務遂行方法の統制、ジョブ・コントロール・ユニオニズムのために望んでもいないのに非能率的な働き方を強要される不自由。望んでもいないのに協約適用労働者にされてしまう不自由、働き方や人事管理が個別化しているのに集団的労働関係に束縛される不自由。望んでもいないのに労働時間を規制される不自由。
 男女役割分担の定型概念打破という(男も育児に参加せよとの-我が国ではワークライフバランスが著しくフェミニズム的に潤色されて理解されている)フェミニスト官僚の自己満足のために「ノー超勤ウィーク」で仕事の中断を強要される不自由。これは誠実な勤勉さという倫理的価値を否定し、ビジネスより家庭を重んじるばかげたライフスタイルを強要するもので個人の自由の完全な否定である。もはやソフトファシズムといってもよいだろう。
 そしてなによりも、労働組合の威圧、脅迫、強要、実力行使により就労、業務遂行を妨害される不自由。労働組合の本質は他者の労働力取引を威圧によって規制することにあるから、本質的に個人主義的自由の最大の敵なのであります。労働基準法などの労働者保護立法も同じことです。
 自らが自己自身を所有し自らの労働を自らの望む条件で、他者(労働組合の威圧、強要、暴力や政府の立法規制・命令)に干渉されることなく自由に自己自身を利用する権原がなければ自由とは言えないのです。この不自由な社会のありかたを正したいとという存念であります。なぜならば中世において隷農身分ですら、法的に領主以外のいかなる他者からも自由であったことを考えると、現代社会は他者からの強要、妨害が正当化されることが多過ぎる。隷農以下のみじめな状態になりさがっているとしかいいようがないからであります。法によって自由が擁護されない悪い社会である。
 しかし現代人の大多数は自由を欲しない。自由より隷属を欲するのである。私がロックナー判決を支持する一つの理由は、近代個人主義的自由のエートスを一定程度憲法化した意義である。それは個人の自由ないし選択の自由を増進すると予測された。自立した自己は、政府からの干渉から自由に、経済的、社会的欲求を追求できるいう価値観の体現でもあった(註2)。今日では大多数の人はロックナー判決を過ちとみなす。自由を欲しないのである。自由を否定して規制されなければ気が済まない。自恃の精神が何もない依頼心の強い腐った人たちというほかない。それは人間が悪辣になったのも一つの理由だろう。自由な精神-それは神律に従い、清く正しく善と社会的責務をなすことを第一義とする自由であります。自由とは放縦を意味するものではない。道義的に正しいことをなすことを妨げられない自由なくして、利害と打算でなく倫理的に正しい行動を妨げられない自由なくして「美しい国」はありえないのであります。その自由な精神を欲しないということは、もはや滅びの群れにふさわしい人間に値しない人々としか言いようがいない。
 銀河に輝く星のように数多くの聖人を出した中世のほうが偉大な時代だった。テクノロジーは現代が中世よりも進歩していることは間違いない。自由を欲しない現代人の文明の質は落ちている。堕落している。
 ロックナー判決はレッセフェール論を体現したものだともいわれる。それは倫理重視の思想であり。基本的に正しいものである。歴史家M.L.ベネディクトはレッセフェール論の倫理的主張を次のように説明する。「レッセフェール信奉者は……需要と供給の関係に基づき、自由な取引によって当事者が合意した価格は、その内容がどうであれ、公正な価格である。……自由な取引の結果を変更しようとする政府の行為は、政府の介入がなければよりよい結果が得られたはずの取引当事者の権利を侵害するものである。……とくに労働者にとっては、賃金のみならず労働条件や労働時間、賃金の支払方法も取引の対象となるのである。これらのどれであれ変更しようとする立法は、当事者の自由な取引に対する不当な介入となるのである。……この経済システムは、人々の自由に取引する権利を政府が保障してはじめてうまく機能する。したがって、ある会社が他の会社の市場参入を妨害したり、二つの会社が共謀して商品の供給を操作しようとすることは違法とされなければならない。同様に、労働者の団体が共謀して、他の労働者がより低い賃金で働こうとするのを妨害するのも違法とされなければならないのであった。レッセフェールを主張する人々は、このシステムの下では、才能があり、勤勉で、志操堅固な人は成功し、これらの美徳を欠く者は没落すると考えられていた。……レッセフェール論者によれば、民主主義には、無知で怠惰で非道徳な貪欲な連中が、政府の力を使って、自由な市場では得られない有利な取引をもくろむという重大な危険があった。『怠惰な』労働者は、一日の労働時間を八時間に制限する法律を制定させることによって、もっと長時間働こうとする人々から職を奪おうとしている。これは、同じ賃金でもっと多くの労働を得られたはずの使用者の権利と、自らの勤労意欲を十分発揮できなかった勤勉な労働者の権利を侵すものであった。したがって『八時間労働』法は、あるクラスの犠牲の下に他のクラスの利益を図る『特殊利益立法』ないし『クラス立法』なのである。このような立法は、政府は国民全員の利益を平等に保護しなくてはならない原則をないがしろにしていた」(註3)。
 労働組合や左翼はILO創設時の1号条約(工業における1日8時間・週48時間制)1930年ILO30号条約(商業・事務所の1日8時間・週48時間制)があり、1日8時間労働は労働運動の成果として、労働者の権利などと主張するだろうが、私は全く逆の見解である。労働時間規制は、特定の人々だけの利益にほかならず、それが間接的なものであれ、個人の労働力取引の自由を侵害するもので、勤勉で使用者に忠実、協力的な労働者の権利を侵す。法は営業・就労の自由と、誠実な勤勉さという公序良俗を支持すべきなのである。
 正直・勤勉・節制はアメリカ人の美徳であった。志操堅固で勤勉に努力した人が報われる社会の方が、他者の労働の自由を犠牲にして特定のクラスの利益を図る労働政策をとる社会より正しいのである。なによりも法の平等な保護を否定することは許し難いのである。
 
  

自由の復権のための方策

 私は自由の復権(現代は悪人への隷属と束縛が強化された悪い時代だと思っている)のために労働力取引の個人主義的自由を復権させる大義を目的として、その基礎となる理論について本ブログにおいて、中途半端ではあったが言及してきた。例えばコモンローの営業制限の法理及び共謀法理、合衆国憲法の実体的デュープロセス(契約の自由)、20世紀初頭から20年代の全米製造業者協会などのオープンショップ運動。現代法では労働組合にも不当労働行為を定めるタフト・ハートレー法や、労働組合員とならず組合費の支払いも強要されず雇用される勤労者の権利を定めた米国南部を中心とした23州とグァム島のの労働権法(Right to Work law)、組合自治への干渉を強め、労働組合の力をそいだ80~90年代の英国保守党による労働改革、さらに理想的にはニュージーランド国民党による1991年雇用契約法(Employment Contracts Act)のように個人は企業と直接雇用条件を定め、労働協約や集団的労働関係に束縛されない個人の雇用契約(代理人を自由に選べる)が可能なようなありかたについて言及(つまり理想は現実に実現されていることだ-我が国では90年代のニュージーランドにおける行政改革や郵政民営化は紹介されているものの本質的に重要な雇用契約法を見落としている)してきた。
 
 しかしあと二つ足りないものがあった。アメリカ法で発展した、反トラスト法による労働組合活動の規制とレイバー・インジャンクション(裁判所による争議行為の禁止命令)の研究である。これらをひっくるめて、体系化していきたい。現代の汚れた社会と対決し正義回復のために微力といえども尽くしたいとうのが私の人生目的であります。
 レイバー・インジャンクションに関しては、まず1895年のデブス判決の意義を明らかにすべきだろう。

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(註1)J.H.ベイカー(川添美央子訳)「1200年から1600年におけるイングランドのコモン・ローにおける個人の自由」R.Wデイビス編鷲見誠一/田上雅儀監訳『西洋における近代的自由の起源』慶応義塾大学法学研究会2007年所収。
(註2)スティーブン・フェルドマン著猪股弘貴訳『アメリカ法思想史』信山社出版2005年144頁参照
(註3)M.L.ベネディクト著常本照樹訳『アメリカ憲法史』北海道大学図書刊行会1994年 120~121頁

2007/11/18

ロックナー判決マンセー論(13)

 私は東京都副知事、水道局長あてに職場環境を適正良好に保持し規律のある業務の運営態勢を確保されていない現状を改め、庁舎構内の無許可集会の監視と解散命令を発出すること。旗、幟、幕、プラカード、はちまき、腕章、ゼッケン、拡声器を庁内管理規則で明文で禁止することを求めたいと思います。年内にやる予定です。たぶん管理職は労働組合の既得権を保持したいので叩き潰しにかかるかもしれませんが、それが脅迫者の威圧力を強め、いかに悪い職場環境を醸成してきたかということを具体的な事例を挙げ論証したいと思います。
 とりわけ旗の持ち込みにはこだわりたいです。組合旗(赤旗)ほど嫌悪するシンボルはないからです。11月15日に都労連の2時間ストライキが予定されていたわけですが、直前になって中止になった。時限ストライキを構えた争議行為は東京都水道局は毎年最低2回、多いときは3~4回ぐらい。最近では平成17年に水道業務手当闘争でストライキをやってます。
 そもそも私は平常時に組合掲示板にスローガンが書かれた組合旗の赤旗が掲示されているのも不快ですし、闘争宣言文やストライキで闘うぞ等の違法行為を煽る文言が掲示板に貼られても、管理職は何も注意することがないこと自体不快です。闘争期間中の集会やビラ貼り闘争でも組合旗の掲揚がありますが、必ず赤旗が掲揚されるのはストライキの時、庁舎敷地内に赤旗が掲揚されます。赤旗の掲揚がストライキ突入の標識にもなっているわけです。ストライキの態様というのはビラ貼りをしてピケを張って、庁舎構内の駐車場などを占拠して旗、幕、拡声器を持ち込み、はちまき、腕章を着用して集会をする。中に入った職員はパトロール隊が罵声をあびせにきます。庁内管理規則が徹底していれば組合の集会を庁舎敷地内から追い出すことが可能ですが、そもそも旗などをもちこんだ示威行為を明文で禁止してないし、監視も解散命令もやらない慣行なので、そうした態様が許容されている。

 新入職員で組合に加入していない人は、管理職からピケラインを突破せず、屋外のめだたない指定の場所で待機しているよう指示されます。私のような非組合員には事前に組合役員からストライキの指令に従うよう話しがありますが、やらないというとお前の行為は利敵行為だとかいって恫喝、威嚇をしてきます。当日パトロール隊が6~7人よってたかって罵声を浴びせてきますが、その前に組合役員が三六協定拒否なので8時半前に職場に入ってはいけないと釘をさされます。管理職は8時半前だから、超勤拒否闘争と同じように、職場から追い出す義務があるということを言うわけですが、非常に奇妙な理屈です。今回も15日のストライキ時に三六協定協定を締結してまらせんが。三六協定を争議行為に利用しているわけです。
 私の場合はストライキの時はいずれもピケを突破して職務に就いてます。庁舎管理規則でも正常な通行は妨害できないことになってますから、たとえ罵られようと、威嚇、恫喝、当然擦れ合いもあるだろう。場合によって殴り合いにもなっても誠実労働義務としてやりますよ。ところが三六協定拒否で8時半まで庁内に入らせないという名分で、組合は通行を妨害しようとするのです。つまりこれは庁内管理規則にいう正常な通行ではないと。そんな無茶苦茶な理屈があってたまるか。だから庁舎管理規則では「正常な」という解釈の余地を残す必要ないです。つまり私は、東京都の庁内管理規則は組合のストライキにも好意的に解釈する余地のあるものとして問題なのです。
 赤旗を嫌悪するのはそのためです。ストライキ設定の日に赤旗をみるということは、組合の威嚇、恫喝、罵倒、侮辱に屈することなく誠実労働義務を果たすということで、これから決闘に臨むような相当な緊張感を強いられますから。赤旗を見ると、それは示威行為のシンボルであり暴力、威嚇、威圧、恫喝、罵声、侮辱というものを連想しますから、これほど嫌悪するものはない。だから旗は庁内管理規則で規制すべきだ。よそでは規制していることだから、その気になれば東京都でも規制できないわけではないと申し上げたいと思います。
 管理職は違法な通行妨害、就労妨害がないか、監視しているわけでは全くない。集団で罵声をあびせられたって管理職は助けてくれませんよ。就労妨害・業務妨害是認ですからね。管理職はピケッティングで労働組合が最大限の威圧力(それは人格を否定するような暴力でないあらゆる恫喝・威嚇行為)を発揮しうるというプローレーバー法学に好意的なんですから。さらに三六協定拒否闘争ほを是認しているので組合の就労妨害に加担するのがコンプライアンスだ。非組合職員を職務に就かせないようにすることが管理職のお勤めということになってますから。さらに、管理職が動員されてストライキ中の1時間とか2時間のストライキ中、窓口業務や電話受付をするんですが、私が折角ピケライン突破して仕事に就いているのに、組合を刺激するから仕事してくれるなと言うんですね。管理職は普段やってない仕事をやっているわけですから、客の応対は私のほうがずっと慣れてるし、人手はたりないわけですから、仕事をさせないのがしきたりなんだとか恫喝するんでずが、こちらは黙示的協力義務がありますから、当然電話が鳴れば出るし、来客があれば応対します。仕事をしている真面目な人は不愉快だと言うのです。管理職が労働組合に忠実であることを強要しているわけです。アメリカの民間企業に適用されるタフト・ハートレー法では、使用者が被用者に労働組合員たること(例えば組合の指令に従うべきこと)を要求することは不当労働行為になりますが、東京都水道局は逆に職員を争議行為に巻きこませることが管理職の職務と考えられている。
 そういう組合の闘争が毎年最低2~3回、多い時が4~5回ありますから。本音を言ってしまえば、ストライキ設定当日登庁して、百メートルほど前で赤旗が掲揚されてないことがわかると本当にほっとします。予測される就労妨害に対して状況如何によっては殴り合いを覚悟します。プロレーバー法学では実力行使を是認してますから、組合がもしそう言う立場で、公務員にスト権が認められたら、人身拘束でも拉致でも何でもやってくるでしょう。ストライキの日は鞄を持たないのは擦れ合いを想定しているためです。最低限擦れ合いや恫喝・侮辱その他の危害を覚悟してますので、それを免れたというのは本当にほっとするわけですね。私自身喧嘩好きな人間じゃないから。管理職が争議行為に好意的だから一対多数で立ち向かうのですから、そう言う緊張感を強いる職場というのは本当に良くないなと思いますね。
 下町や工場街で育った人は、汚い言葉や、喧嘩にもなれているかもしれんないが、私は高井戸の上水学園-烏山北小-烏山中-都立園芸高校で教育を受けてますが、郊外住宅地で育っていて、人と喧嘩したこともないし、優等生だったからおっとり育ってますから。基本的に騒々しいことや、争いごとを嫌いますから。
 そんなわけで私は労働組合の示威行為を容認している東京都ってろくなもんじゃないと思ってます。後日書きますが、かなり苛められてますからね。でもオリンピック招致の署名は協力義務として書きましたよ。本当は実家に行って母に署名して貰いたかったんだけど、時間がなくて自分だけです。でもシカゴも大都会だし好きですよ。シカゴトリビューンは登録して、たまには見てますよ。シカゴは東京都では禁句なんだこの野郎叩きつぶされるぞいわれるかもしれませんが、私は石原知事みたいな反米主義じゃないから。組合の方がもっと無茶苦茶いってますよ。最初の年でしたか、勤務時間内の集会で組合の交渉にのこのこ知事が出てきた。石原みたいな高等遊民は世間知らずで大衆運動の力を何も知らないとか、完全に虚仮にしてましたよ。
 英米法ではコモンローのパプリックニューサンス(公的妨害)、衡平法のインジャンクション(差止命令)法理がありますが、私はアメリカのレイバー・インジャクションの法理に関心があります。衡平法の淵源については、神への崇敬と慈悲に訴えるキリスト教徒の本来の欲求である福音の救済という教会法理念から、衡平と善という自然的正義の請願に合流し訴訟分野で発達したものとされていますが(註1)、レイバー・インジャクションは、たんに経営者の事業の妨害から守るというだけの意味ではなく、個人の就労の自由を守るという意義もあるのです。アメリカでは事業の持続的運営の干渉(列車運行の妨害、ストライキ不参加者の就労妨害、ストライキの勧誘)も財産権の侵害とみなされて、1892年のコーダーレーン判決が組合からの圧力から保護される権利として雇用主と非組合労働者の個人的自由を明解に「財産権」と規定した。この財産権の擁護と、反トラスト法であるシャーマン法の労働組合への適用により、アメリカでは1880~1930年に4300件のレイバー・インジャンクション(争議行為の差止命令)が出されましたとりわけ1920年代にはストライキの25%に差止命令が出された秩序は維持されていたのです(註2)。アメリカでは先にのべたように30年代ノリス・ラガーディア法以降、労働組合活動が保護されることとなりますが、30年代以降の展開の問題点については別途取り上げたいと思います。
 19世紀の名裁判官 フィールド判事のBUTCHERS' UNION CO. v. CRESCENT CITY COの補足意見を想い出して下さい。
  「かの偉大なる文書[独立宣言]において宣言されたこれらの不可譲の権利のうちには、人間がその幸福を追求する権利がある。そしてそれは‥‥平等な他人の権利と矛盾しない方法でなら、いかなる合法的な業務または職業にも従事しうる権利を意味するのである‥‥同じ年齢、性、条件のすべての人々に適用されるものを除き、いかなる障害もなしに職業に従事する権利は、合衆国の市民の顕著な特権であり、彼等が生得の権利と主張する自由の本質的な一要素である。[アダム・スミスは国富論において]『各人が自らの労働のうちに有する財産は、他のすべての財産の根源であり、それ故にもっとも神聖であり侵すべからずものである。貧者の親譲りの財産は、彼自身の手の力と才覚に存するのであり、彼がこの力と才覚とを彼が適当と思う方法で隣人に害を与えることなく用いることを妨げるのは、この神聖な財産に対する明らかな侵害である。それは、労働者と、彼を使用しようとする者双方の正しき自由に対する明白な干渉である。[そのような干渉]は、労働者が彼が適当と思うところに従って働くことを妨げるものである』と述べているが、それはまことにもっともなことである」(註3)
 各人が自らの労働のうちに有する財産という考え方はジョン・ロックにもあります。当局は本音はともかく極めて形式的とは言え、ストライキは公務員として信頼を損なう行為として示達しているわけで、当然就労することは正しいんです。就労は義務であると同時に就労によって生計を得ているわけですから、就労妨害は私の財産権と幸福追求権の侵害であると主張することもできます。
 しかし、プロレーバー法学はそうではない。組合の指令に従わない個人を威圧・威嚇は当然のこととしてビケを突破する人は実力行使で逮捕してもよい。労働基本権というからにはストライキで実力行使を認めていいんだ。労働者は階級的集合人格に吸収されて、自律的自己決定は一切認めない。
 私とは180度対立する思想ですから、妥協の余地などない。私は複数の管理職から考え方を改めるべきだと言われたことがある。私が組合のビラが気になって仕事にならないと苦情を言うと、組合の示威行為も気にしないようにならなければならないというんですよ。郷に入れば郷に従えといわれたこともある。それはあなたの処世術でしょと言い返したい。
 東京都は業務妨害、就労妨害を認めちゃって、規律のある業務の運営態勢を定立していないのだから、そちらを改めるべきなのだ。

(註1)海原文雄「英国衡平法の淵源(二)『金沢法学』4巻1号
(註2)竹田有「アメリカ例外論と反組合主義」古矢旬・山田史郎編『シリーズ・アメリカ研究の越境第2巻権力と暴力』ミネルヴァ書房(京都)2007年 168頁
(註3)田中英夫『デュー プロセス 』東京大学出版 1987

2007/11/14

ロックナー判決マンセー論(12)

承前

 昭和63年12.08 最高裁 第一小法廷北九州市交通局三六協定拒否闘争事件判決〔民集42巻10号〕http://www.lios.gr.jp/hanrei/rouki/04058.htmlとの関連で三六協定拒否闘争が、争議行為ではないかと当局に質問したところ、当局は、この判例は超過勤務が平常勤務として組み入れられていたバス運転手の例であるとして、この事例とは違うという趣旨を言っていたが、しかし実際に昼休み時の窓口電話受付業務を拒否している。普段は実務をやらない管理職に不慣れな仕事をさせている。平常やっているこの仕事をやらないのだから、バス運転手の例と大差はないのである。
 というより、本質的に東京都というところは労働組合の示威行為を容認し、国労札幌地本ビラ貼り事件判決(最高裁第三小法廷昭和54・10・30『労働判例』329)の示すところの、「職場環境を適正良好に保持し規律のある業務の運営態勢を確保しうる」企業秩序の定立が全くなされていない。

 国労札幌地本判決の意義はプロレーバー学説の、受忍義務説と違法性棄却説を明確に否定したことにあるのだが、東京都はこの水準には全然達していないのだ。その実例をひとつひとつ挙げたいところだが、東京都の管理職が施設構内の労働組合活動について労働基本権が使用者の施設管理権を制約するというプロレーバーの受忍義務説に好意的だと思うのは、実際に管理職と話して「受忍義務」という言葉を発したからだ。庁舎構内における労働組合の無許可職場集会について監視せず、解散命令や就業命令はいっさいやりません。組合の示威行為を制度的に容認している。結果的に労働組合の威圧力を強め、規律ある行動をとりたいまじめな職員を萎縮させ、争議行為に加担している。
 制度的にというのは、東京都の庁内管理規則(「水道局の庁内管理規定も同じ)で、腕章・はちまき・ゼッケン・旗・幟・プラカード・拡声器の着用又は持ち込み。集会・演説を明文で禁止してないんです。http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/g1010033001.html
一 庁内において、拡声器の使用等によりけん騒な状態を作り出すこと。
二 集団により正常な通行を妨げるような状態で練り歩くこと。
三 前号に定めるもののほか、正常な通行を妨げること。
四 テント等を設置し、又は集団で座り込むこと。
五 清潔保持を妨げ、又は美観を損うこと。
六 凶器、爆発物その他の危険物を持ち込むこと。
七 庁舎その他の物件を損壊すること。
八 寄附金を募集し、又は物品の販売、保険の勧誘その他これらに類する行為をすること。
九 印刷物その他の文書を配布し、又は散布すること。
十 はり紙若しくは印刷物を掲示し、又は立札、立看板、懸垂幕等を掲出すること。
十一 面会を強要し、又は乱暴な言動をすること。
十二 前各号に定めるもののほか、庁内の秩序を乱し、公務の円滑な遂行を妨げること

「拡声器の使用等によりけん騒な状態を作り出すこと」という項目はありますが、拡声器の持ち込んだ集会自体を禁止してない。実際、東京都水道局では勤務時間内事務室内の頭上報告とよばれる集会でも拡声器が用いられています。立て看も撤去されずに放置された例を私は知っている。
 私は仕事で都第二本庁舎を訪れたとき、第二庁舎前のNSビルとの間にある半地下の広い空間での勤務時間内動員集会(水道局全水道東水労の集会)が終了し、ビルの中に入って、組合旗の赤旗を先頭にして、はちまき、ゼッケンを着用した態様でシュプレヒコールを叫びながら、デモ隊のように練り歩きエレベーターに乗り込んでいく長蛇の列と遭遇しました。監視も解散命令もなし。そもそも旗の掲揚、持ち込みは明文で禁止されてないのです。「集団により正常な通行を妨げるような状態で練り歩くこと」を禁止してますが、緩い解釈をすれば、集団練り歩きは、来庁者の通行を故意に妨害しないということて容認されうる文面になっている。

 東京都が制度的に示威行為容認というのは、上記の庁内管理規則の緩さからも明らかだと思います。私は、水道局品川営業所、江東営業所、千代田営業所などで勤務した経験で、ストライキ時には赤旗や幕などが掲揚され、闘争時の勤務時間内構内での職場集会でも赤旗などが掲揚されます。というのも敷地内で旗の掲揚を明文で禁止してないのです。たんにこの1点だけでも労働組合の示威行為容認であることは明らかでしょう。
 
 一方、これとは対照的なものとして国の九段第二合同庁舎(東京法務局・麹町税務署・中央労働基準監督署・関東運輸局東京分室等のある)正面玄関自動扉前に設置されている2個にある立て札について述べます。千代田営業所に勤務していたため、仕事上法務局の窓口に屡々訪問したので立て札のことをよく覚えているからです。庁舎構内において次の行為を禁止すると書かれています。
 1、凶器・危険物の持ち込み。2、腕章・はちまき・ゼッケン・旗・幟・プラカード・拡声器の着用又は持ち込み。3集会・演説・座り込み、及びこれに類する示威行為の禁止。4、面会の強要、・文書の頒布その他管理を妨げる行為。
 要するに国は、組合活動とは名指ししていないもののの庁舎構内での職場集会や示威行為は明確に禁止しているわけです。

「防衛省本省市ヶ谷庁舎の管理に関する規則」PDF  http://jda-clearing.jda.go.jp/kunrei_data/a_fd/1999/ax20000330_00038_000.pdfはこうです。

庁舎管理者は、庁舎に立ち入ろうとする者の人数、行動その他の事情から判断して、これらの者が示威運動その他庁舎における秩序を乱す行為をするおそれがあると認めるときは、庁舎への立入りを禁止するものとする。

(禁止又は退去命令)

庁舎管理者は、庁舎において次のいずれかに該当する行為をした者について、第22条庁舎の管理上必要があると認めるときは、その行為を禁止し、又は庁舎から直ちに退去することを命ずるものとする。

1)職員に面会を強要すること。
2)銃器、凶器、爆発物その他の危険物を庁舎に持ち込み、又は持ち込もうとすること。
3)旗、のぼり、幕、宣伝ビラ、プラカードその他これらに類する物又は拡声器、宣伝カー等を所持し、使用し、又は持ち込み、若しくは持ち込もうとすること。
4)庁舎管理者が立入を禁止した区域に立ち入り、又は立ち入ろうとすること。
5)建物、立木、工作物その他の施設設備を破壊し、損傷し、若しくは汚損し、又はこれらの行為をしようとすること。
6)文書、図面等を配布し、若しくは掲示し、又はこれらの行為をしようとすること。
7)多数集合し、放歌高唱し、練り歩き、その他これらに類する行為をし、又はこれらの行為をしようとすること。

8)座込みその他通行の妨害になるような行為をし、又はこれらの行為をしようとすること。

9)金銭、物品等の寄附を強要し、若しくは押売りをし、又はこれらの行為をしようとすること。

10)前各号に掲げるもののほか、庁舎における秩序を乱し、若しくは職員の安全を脅かすような行為をし、又はこれらの行為をしようとすること。

集会や演説、ゼッケンやはちまきを明文で禁止してない点につき疑問に思いますが、旗・のぼり。拡声器は禁止してます。

 「新潟県庁舎等管理規則」http://www.pref.niigata.jp/reiki/reiki_honbun/e4010323001.htmlでは
 座込み、立ちふさがり又はねり歩きをすること。放歌、高唱若しくは演説をし、又は拡声器を使用すること。物品の販売、宣伝、勧誘、寄付募集その他これらに類する行為をすること。はり紙、看板、プラカード、旗、幕その他これらに類する物を掲示し、又は掲出すること。その他の仮設物を設置し、又は定められた場所以外の場所に物件を置くこと。集会その他の催物を開催することを禁止しており、旗、幕、その他これらに類する物、集会は禁止しており明らかに東京都より細かく規制している。

2007/11/11

ロックナー判決マンセー論(11)

承前

 ロックナー判決マンセ-の含意は、労働者保護立法への敵意・憎悪、古典的自由主義を殺害した進歩主義、階級立法への敵意・憎悪の表明というだけではないです。多数者の横暴によって悪法を作りだす民主政体への不信感も含んでいる。
  混乱した記述になってますが、それは純粋に憲法理論や契約の自由の問題をとりあげてるわけではないからである。
 雇用契約における英国コモン・ローの被用者の黙示的義務条項は合衆国憲法判例であるロックナー判決とは直接的には関係ない。契約の自由の脈絡とは別の事柄であるが、しかし、ここでは労働時間規制、オーバータイムの問題を扱っているから被用者の黙示的義務も絡めて論じなければならない。
 例えば東京都水道局の三六協定拒否闘争(超過勤務拒否闘争)というものがあるわけですよ。年末とか年度末のような繁忙期に大きな闘争になると1週間とか10日とか設定されるわけですが、組合役員が大声で号令をかけて、定時退庁を指令し、デッドラインが迫っていても管理職も仕事を放り出しても止めろということで、退庁しろととか指示してくるわげてす。これは非情に不愉快だ。
 今年からやっているノー超勤ウイークもこれと基本的には同じです。管理職主導で争議行為類似行為をやっているわけです。残業といったって、営業所の徴収関係や庶務課の事務職は上司が命令して何時まで拘束して仕事させるということは私の経験ではないです。任意の自発的な残業なんですよ。超勤の予算は配分で決まってますから。私は8時間コアタイムの実質裁量労働制でいいと言って、超勤予算は組合員で分けて下さいということで営業所ではカラ超勤一律支給を止めてから超勤を請求してないです。庶務経理で係長がどうしても請求しろとか言うから気が進まないけどやったら、一旦超勤請求すると凄まじい毒気仕事させない攻撃をやってきますから、口実を与えることになるから止めたんです。
 要するに、残業は組織の一員として事業を円滑にすすめていく道徳的責任として、業務を遅滞させず遂行しているためのコモンローでいえば黙示的義務条項でいう協力義務、黙示的誠実労務提供義務としてやっている信頼関係を維持するための良心的なものです。指揮命令監督下の超勤ではないんですよ。
 仮に義務ではないとしても責任感、コミットメントとして良心的なものです。お前はペイペイの平で、スタッフではなくラインの人間だから義務感持つ必要ないと言ったってデッドラインを超えて、他部署に迷惑かけて、怒られるのは担当者だから、後始末のリカバリーに時間がかかるし、仕事が遅れるとツケを回すことになるから自己の立場も悪くなるし、顧客の苦情対応もあるんですよ。途中で放り出せない仕事も少なくない。仕事は後回しと指示する監督職員は最低です。繁忙期や育児休業者とかが出てそうした分のカバーも含めると月曜13時間、火曜12時間、水曜11時間といったペースでやっていかないと追っつかない時もある。仕事を先延ばしにして苦労するのは自己自身だから。
 私はペイペイの平ですが年収700万近くあります。これは全勤労者の上位20%の年収で、平均400万よりずっと良い収入ですから、献身的に働いて当然だ。そのうえ超勤手当請求をして東京都にコストをかけるようなことはしたくはないということもあります。良心的なのだから非難される理由はない。
 前にもブログで書きましたが、これは苦情でなくて、偶々、新入女子職員が、引っ越しの受付で水道番号を間違えて受付たために、よそ様の使っている水道料金を口座から引落としてしまったのを発見したケースですが、こういう場合はきちんと謝って、余計にいだだいたお金は即刻還付する。残業してもその日のうちに解決しておかないと、話がこじれて顧客を怒らせたりすると、局の信用にかかわりますから。
 顧客第一主義のウォルマートですが、サンダウンルールというのがあるんですよ。問題はその日のうちに解決して先延ばししない。そういうと東京都水道局の管理職はそんなの関係ねえこの野郎と組合の闘争に協力する(実例は次回としましょう)のが管理職のお勤めだ第一義だとたぶん言うでしょうが、それが東京都水道局の非情に悪い職場風土の要因になっている。
 三六協定拒否闘争というのは残業拒否だけでないんです。いわゆる昼の休息・休憩時間の窓口(料金支払等)、電話受付業務も拒否するので、その間、ふだん実務をやっていない管理職が動員されて、昼休みの実務をやるんです。経常業務である昼当番(輪番制)の業務を故意に阻害してます。昼当番の業務量は決して無視するほど少ないものではありません。少なくとも普段やっている仕事をやらないということは非協力的なものであるとはいえる。たぶん組合は昼当番は8時間を超えて拘束するから超勤対応で1時間分に値するという考えからだと思いますが、私は昼当番をしても超勤請求はしてません。
 唐津博のイギリスのコモン・ローの雇用契約における黙示的義務条項についての専論によると、1972年の遵法闘争の控訴院の判例から、争議行為の一環として就労しながら使用者の業務を故意に阻害する、もしくは使用者に非協力的行為をとること、業務がそのあるべきように運行しないほどの混乱を生み出すような手段を採るならば、つまり労務の不完全な遂行は、労働の〈提供〉とは言えず、契約違反の責任を負い、賃金に対しての権利を発生させないとする(註1)。
 つまり遵法闘争はコモンローでは黙示的義務条項の協力義務違反なのである。
 それは、イギリスの判例法だというかもしれませんが、理屈のうえでは正しいですよ。
 すなわち東京都水道局の管理職は、そのような遵法闘争を、昭和63年最高裁 第一小法廷北九州市交通局三六協定拒否闘争事件判決〔民集42巻10号〕は三六協定拒否闘争を争議行為とみなしていますが、当局は経常業務の昼休みの窓口受付業務拒否もある態様であるにもかかわらず争議行為でないとしています。
 争議行為であろうとなかろうと、非協力的行為は奨励されるべきものではなく、違法行為を是認しているわけですね。 
 そして私のように争議行為に反対する人間を叩こうとする。
 
(註1)唐津博「イギリス雇用契約における労働義務-労働義務の履行に関する若干の考察」同志社法学33巻5号

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