カテゴリー「労働の自由」の15件の記事

2008/06/23

感想 リチャード・エプステイン『公用収用の理論』(1)

 ロックナー判決マンセーと言いながら、恥ずかしながらこの著書(松浦好治監訳 木鐸社 2000年)も読んでなかったのですが、偶々丸の内丸善でアメリカ法の棚にあったので買いました。
 私がシカゴ大学ロースクールのエプステイン教授を好む理由は、20世紀社会立法を歯切れ良く違法、違憲として叩き斬っていくところにあります。
  著者の主張を簡単に言うと、緒言に、「憲法の公用収用条項(「正当な補償なしに私有財産を公共の用のために収用されることはない」)とそれに並行する条項は‥‥土地利用規制・家賃統制・労働災害補償法・所得移転給付・累進税などを根拠の薄いものあるいは違憲の疑いにあるにとする」と言ってますが、327頁以下にさらに重要な事が書かれていた。
  労働時間や賃金の規制立法は契約自由の実体的デュープロセスの法理でなくても、公用収用条項でカバーできるとする。雇用契約における労働時間や賃金の制限は「疑いなく部分収用である‥‥どこから見ても階級立法であり、憲法上全面的に無効にされることが求められる」つまりロックナー判決は実体的デュープロセスの法理でなく別の理由で違憲にできたということのようです。

 さらに「連邦労働関係法は契約自由と私有財産の排他的占有に対して複雑な制限を伴うのだから、公用収用法上の根拠から当然違法とされなければならない」
 つまりワグナー法以降の団結・団体交渉権を労働組合に付与する立法自体が違法という主張であり、ニューディール立法の全面否定である。
 この論理からすれば失業者へのワークシェアリングを立法趣旨とする所定時間外の割増賃金を定める公正労働基準法も違法・違憲になってしかるべきだろう。我が国では共産党も産経新聞も同じ穴の狢で、残業代支払い訴訟に好意的な論評をやってますが、とんでもない。もうこういう訴訟はなくして、企業の財産を剥奪するのを止めましょうと言うべきだ。労働基準法自体が契約自由、個人の労働の自由侵害と言うだけでなく、財産権の侵害という角度からも問題だと言わなければならないわけです。エプステイン教授は公民権法タイトル7のような雇用差別禁止法にも批判的ですが、コモンローの不法行為法だけでいいんだっちゃーのという考えですね。
 我が国にはエプスタイン教授のような自由主義の復権のために20世紀的社会立法の大部分を無効にするという壮大な構想を持つリバータリアンの学者に乏しいと思う。若い人にはそういうタイブの出現を期待している。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/06/07

感想 井村真己「アメリカにおける雇用差別禁止法理の再考察」(1)

 『日本労働法学会誌』100号2002年、これはシカゴ大学のリチャード・A・エプステイン(エプスタイン)Richard Epstein教授(不法行為法のコモンロー学者、政治哲学的にはリバータリアンの論者)の主張、1964年公民権法タイトル7をはじめとする雇用差別禁止立法は、契約の自由を侵害し、自由で競争的な市場に対して荷重な費用を課すものであるがゆえに廃止すべきであるという見解の論評である。
 著者の井村は弱者救済立法は必要だとしてエプステインを批判する立場であるが、私は基本的にエプステイン教授の見解に賛同したい。
 つまり雇用差別禁止立法は「彼が満足した相手と取引することを許容する契約の自由に対するアンチテーゼ」(井村論文157頁)であり、契約の自由を不当に制限するものとして単純明快に斬っているが賛同する。我が国の男女雇用機会均等法は差別禁止の厳格さという点で疑問があり、合衆国のタイトル7とは性格が異なりますが、男女雇用機会均等法その他実質女性厚遇立法については、エプステインの言うように契約の自由を不当に制限する単純にただそれだけの理由だけでも全面的に廃止すべきだと思う。
 結婚退職を前提として高卒女子を多く採用するか、ワーキングマザーも雇用保障するかは、経営者の裁量権であるべきで、政府が干渉することが大きな間違いだった。政府が女子の採用や昇進という雇用判断に干渉することがそもそも間違いだったと思います。
 ワーキングマザーを厚遇したり雇用保障する政策は、雇用主に高卒女子採用の意欲を弱めて、高卒女子に不利益になっただけでなく、結婚して男に頼らなくてもやっていけるという幻想を働く女性に懐かせ、女性に対する結婚圧力を弱め、初婚年齢の高齢化と未婚化を促していると考える。その観点からすれば、結婚退職が前提で、育休もないが、昔のように高卒女子を多く雇用し良い仕事を与える雇用主の方がましだと思います。その方が少子化対策になりますよ。冗談になりますが、銀行に行っても面白くないんだ。80年代は、若くて愛想の良い美人が窓口に坐っていたのでどきどきときめいた。未だに脳裏にこびりついて忘れられないが、今は女性が雇用保障されておばはんばっかで楽しみがなくなった。
 そもそも、雇用機会均等法が本当に女性のための利益になったのかは疑問です。よくいわれていることは、短大卒女子は雇用機会均等法の被害者になりました。というのは、法施行当時、企業は均等法対策として、ニューメディア戦略と称して、事務職の採用を短大から四大にシフトさせましたが、就職実績で学生を集めていた短大には痛手になった、短大離れを加速させたと言われております。当時は好況期で求人数は減ってないのですが、、短大女子の75%がOL志望なのにはしごをはずされてしまったわけですよ。
 ざっくり言ってしまえば昔は女子は高卒、短大卒で大企業事務職に就職でき、教育費用も少なくすんだが、四大進学率が高くなって、女子の教育費もかかるようになったので、教育投資分を回収するために結婚より働くことが優先するようになってますます、婚姻年齢が高くなるということです。
 少子化の原因がフェミニズムの政策なのですから、それをやめればよいというのが私の意見です。
 エプステインはそもそも雇用における平等の実現は必要ないと言ってます。「長期間における人的関係である雇用契約においては、その組織管理の効率性の観点から、ある種の差別を行うことは、企業の競争力を改善できるとして、認められるべきである」(井村論文160頁)。ワーキングマザーを厚遇する政策は、それが企業の競争力を改善する効率性がないのならやめるべきだし、経営者の雇用判断、裁量であるべきで、政府が干渉すべきではない。
 というより、私は差別禁止立法というだけでなく、労働組合の団体協約であれ、労働基準法のような政府による労働者保護立法であれ、個人の自由な労働力取引に第三者が干渉し労働力の自由な使用を規制、圧力を加えるものの全てに反対である。
 労働組合が強かった時代のイギリスでも、労働協約にはあくまでも紳士協定程度のものであって、法的拘束力はなかったのである。なぜなら、コモンローにおいては団体協約は営業制限の法理に反し、営業の自由のコロラリーとしての個人の労働力取引の自由を侵害するので違法であるから、違法であるが法的拘束力のない紳士協定として存在したというだけである。
 イギリスにおいては、労働協約に法的拘束力という概念は馴染まない。それは本質的に違法であるからである。再三引用してますが、1992年保守党メージャー政権の白書『人、仕事および機会』では次のように述べてます。「‥‥団体交渉と労働協約に基づく労使関係の伝統的な形態は益々不適切になり、衰退してきた。多くの使用者は時代遅れの労務慣行を捨てて新たな人的資源管理を採用しつつある。それは個々の労働者の才能や能力の開発に力点を置くものである。使用者の多くは、労働組合や公式の労使協議会を仲介とするよりも、その被用者との直接のコミュニケーションを求めている。個々人の個人的技能、経験、努力及び成果を反映する報酬を個別交渉する傾向が増しているのである」(小宮文人『現代イギリス雇用法』信山社2006年 28頁)
 もうはっきり団体交渉と労働協約に基づく労働関係をやめようと言っているわけです。再三繰り返してますが、イギリスの15年の好景気の要因は80~90年代の保守党政権の反労働組合立法の効果ですよ。 

 私がエプステイン説を好む理由の一つのは、労働の自己所有のシステムを提唱していることだ。その前提となっているのが、ロックの所有権理論であるが、ロックを持ち出さなくても、少なくとも16世紀から18世紀に遡ることのできる営業の自由のコロラリーとしての個人の労働力処分の自由を主張してもよいだろう。
「人間は自己の身体について排他的な独占権を持つ‥‥このことは、自己の身体を用いて行われる労働についても、同様に自己によって所有されることを意味する‥‥労働の自己所有のシステムにおいては、人々に他人の労働を支配する権利は認められず、労働を所有している個人が、自分がふさわしいと考える方法で、他人に対して自己の労働を支配する独占的な権利を与えるものである」(井村論文159頁)
 労働の自己所有のシステムを構築には労働組合の駆逐が必要だろう。
実際、エプステインは労働組合活動法認政策である1932年ノリス・ラガーディア法、1935年ワグナー法を柱とする労働法の構造を徹底的に批判し、個人の自由から「ニューディール立法は多くの点で誤りであり、可能ならばこれをスクラップして不法行為法と契約法に依拠した賢明なコモン・ロー制度にとって代わられるべきである」とする見解(水町勇一郎『集団の再生―アメリカ労働法制の歴史と理論』有斐閣2005 120頁以下)を示している。
 つまり労働組合の職務統制は、他者の労働を支配し、労働の自己所有を否認し、競争的でなく、横並び、効率的でない働き方を強要するものである。結局労働組合の職務統制の支配を受けていると、雇用される能力を伸ばすことができず、個人にとっても不利益になる。
 東京都水道局では超過勤務拒否闘争や時限ストライキを今年もやってます。仕事をさせない圧力が加わりますが、それ自体が個人の労働力処分の自由を侵害するものであるといえる。
 労働基本権が個人の労働力取引の自由の侵害を前提としている以上、それは個人の自由にとって最大の敵であるということである。

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008/05/25

やっぱり労働権州がビジネスに適している

1月のニュースで古い記事ですが、
「Chief Executive」誌が毎年行う、「ビジネスに適した州」ランキング(各企業のCEOに対する調査)http://www.chiefexecutive.net/ME2/dirmod.asp?sid=&nm=&type=Publishing&mod=Publications%3A%3AArticle&mid=8F3A7027421841978F18BE895F87F791&tier=4&id=825A023151814D3080CA036D026E6E69によると、1位テキサス、2位ネバダ、3位ノースカロライナ、4位バージニア、5位テネシーでベスト10のうち、8位のインディアナを除いて9州がRight to Work States労働権州(雇用条件として労働者に組合加入と組合費の支払いを義務づける組合保障協定を定めた労働協約の交渉を禁止する)です。

労働権州の地図http://www.nrtw.org/rtws.htm

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/02/03

レイバー・インジャンクションの端緒となった1877年大鉄道ストライキについて

 極保守派主導による1895年判決の意義シリーズの続編としてプルマン・ストライキへのレイバー・インジャクションを支持した判決の決定的意義を取り上げるところであったが、その前史も重要であることがわかったので今回はその関連記事として1877年大鉄道ストライキを中心に論評する。
 
  州裁判所のレイバー・インジャンクションのリーディングケースは1888年Sherry. v.Perkins,147Mass.212である。ストライキに入った靴工組合が工場前で仲間に操業しないように呼びかけた旗を使用者の営業に対する、不法、有害な行為として差止命令を許した。又同じ年のBrance Bros.r.Svansで二次的ボイコットに対する差止命令が発給された(註1)。
  しかし、レイバー・インジャンクションそのものではないが、端緒は1877年大鉄道ストの連邦軍出動にあった。
 アメリカの鉄道は1830年に始まり、1869年には大陸横断鉄道が完成し、全国的な鉄道網が成立、1880年に営業マイル数は8万4千マイルに達した。
 重要な事は70年代以降になると競争により経営の悪化するケースも少なくなかった。1877年には、85社約1万4千マイル(全体の18%)が破産中で裁判所の管財下におかれていた。鉄道労働争議抑圧の直接的法的根拠になったのが、連邦裁判所の財産管理命令だった(註2)。
 1877年は日本では西南戦争が勃発した明治10年だが、アメリカでは7月に大鉄道ストが勃発したhttp://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/khronika/1871-80/1877_5.html。これはいかなるものだったか。このストは7月16日ボルチモア&オハイオ鉄道に始まり、他社(ペンシルベニア鉄道、イリー鉄道、ニューヨーク・セントラル鉄道など)各地に飛び火、ピッツバーグとシカゴなどで罷業者及び住民が州民兵と衝突し百名以上の死者と重軽傷者数百名が発生している。全米で貨物列車の半分が止まったとされている。全米的規模の最初のストライキであり、平時の労働争議に連邦政府が介入し軍が出動した最初の事件でもあった。背景は1873年恐慌による産業の沈滞と、大鉄道の競争激化で、賃下げが合理的経営の主要な手段とされたことだが、当時の大量の浮浪者、失業問題、都市問題が絡んでいた。
 当時の車掌組合、機関車機関助手組合、機関士組合は共済互助団体のようなものであって、指導者はストに反対していた。セントルイスのケースを除くとストは突発的、無計画で指導性が欠如しており、鉄道労働者のストに付和雷同して浮浪者、失業者等の群衆が加わり、あるいは10代の青少年が暴徒となって騒乱になるのが殆どだった。ストライキの途中で食糧等の略奪が起きている。いわゆる一揆、パン寄こせ運動のような様相も呈していたのである。警察や州軍が対応している間はストが持続しているケースが多い。州軍の民兵はストに同調したり寝返るケースも少なくなかったが、ウェストバージニア、メリーランド、ペンシルベニア、インディアナ、イリノイ等の各州に連邦軍が出動して暴徒を制圧し、ペンシルベニアの炭坑地域を除いて8月3日までに多くのストライキは解消している。このストの全容については小澤治郎の著書等(註1)に詳しいが、ここでは数例を取り上げるにとどめる。

ウェスト・バージニアとボルチモアの情勢

 7月16日のストの勃発は、ボルチモア&オハイオ鉄道の10%賃下げの通告により、ウェストバージニア州のマーチンズバーグで始まっている。労働者は機関車を列車から切り離して車庫の中に入れて賃下げを取り消すまで列車は出発させないと声明を出し、多くの群衆が集まった。警察の無力化で逮捕されたストライキ指導者を実力で奪還するなど無法状態となった。鉄道側はウェストバージニア州に軍隊の出動を要請、列車が州兵に守られて突破を試み、脱線させようとするスト参加者の1人とそれを阻止しようとした1名の兵士との間で一寸撃ちあいになっただけで、州軍の民兵は発砲を拒否したため、マシュウズ知事は法の支配を維持するためヘイズ大統領に連邦軍の派遣を要請した。20日にはスト参加者を駅構内から排除し、スト側はなお列車通行を妨害したが連邦軍が制圧した。
 騒乱はボルチモアに移った。ボルチモアでは群衆(暴徒=モッブ)が州軍本部を包囲し圧倒した。暴徒の投石に対して州軍の発砲で十数人が死亡、22人の重傷者が発生した。群衆が駅を包囲し、客車三輌、プラットフォーム、機関車から火の手が上がったが、メリーランドのカロル知事は連邦軍の出動を要請したため放火も小規模に止まり、警察と自警団の協力で事態は沈静化、30日にはボルチモア&オハイオ鉄道は新規採用者で放棄された仕事を埋めストライキは解消した。

ビッツバーグの惨状

 次に7月19日に始まったペンシルベニアセントラル鉄道ストにおける、ピッツバーグの情勢である。州軍が到着してもスト側は彼等に発砲の権限がないことを知って動揺はなく、嘲笑をもって迎え、逆にスト側が州軍を説得する場面が多くみられたという。夜になって、浮浪者を含むスト参加者の群れでごった返した。21日にフィラデルフィアからの州軍増援により事態が変わった。同じビッツバーグ市民の民兵では制圧が難しかったのでわざわざフィラデルフィアからやってきたのである。
 州軍は女・子どもを含む5千人の大群衆に一斉射撃を行った。10人ほど死んだがいずれも鉄道に関係のない労働者だった。もっともこれは命令ではなく司令官は発砲したくなかった。群衆側からの投石、嘲笑、散発的なピストルの射撃があり、偶発的にそうなった。これに対して市民が憤激し、ゼネスト状態となったためビッツバーグの州軍は解散、群衆(暴徒=モップ)は興奮状態になって鉄砲店に押し入り、数千丁の銃、ピストルが暴徒の手に渡ったため、増援部隊の州軍は群衆に圧倒されて機関車庫にたて籠もる羽目となった。
 今度は群衆が州軍に一斉射撃を行い24人ほどが死んだ。22日には放火がなされ、車庫、ユニオン駅など鉄道会社の施設に放火されたほか、79の建物、125両の機関車と3500両の車輌が放火され、数千の暴徒が貨車の積み荷を略奪、巨大な穀物倉庫も炎に包まれたが、ゼネストで消防の出動も抑えられていたのである。
 フィラデルフィアから来た州軍は逃走したが暴徒に追撃され、アルゲニー武器庫にたどり着いたが襲撃を恐れる指揮官から滞在を拒否され、12マイル離れた村にまで逃走する始末だった。
 しかし、死者53人、重傷者109人、火災発生で恐怖心を持った市民が、ストライキ支持を反省し、自警団が組織され、暴力反対の立場をとった。警察も力を得るようになって暴徒の武器も没収され、連邦軍の出動をみることなく平静に戻っていった。
 この事件は教訓になるだろう。州軍が一斉射撃の後、群衆を制圧していたなら、武器略奪、放火の惨状にまでに至らなかった。暴徒(モッブ)に対する州軍の弱腰が事態をいっそう悪化させたのである。

シンシナティの情勢

 シンシナティでは7月23日からオハイオ&ミシシッピ鉄道の列車乗務員がストに入ったが、大半のオハイオ州軍がニユーワークヘ出動中で、不穏な情勢となり午後からストの主導権が13~21歳の青少年の手に移った。彼らは駅を包囲し、機関士やレール工場の労働者を追い出した。鉄橋放火や食糧運搬馬車の略奪もあったが、市民が自警的方策をとり、鉄道労働者が武装して列車の運行を護衛した。労働者が暴徒と行動をともにすることを拒否した事例である。

セントルイスの情勢

 ここでは、自然発生的騒乱となった他の都市とは異なり、指導的で酒場など閉鎖するなど規律のあるストライキが一貫して行われた。セントルイスでゼネストを指導したワーキング゜メンズ・パーティというのはシカゴの第一インターナショナルとも関係があり社会主義者だった。23日にイーストセントルイスの執行部が貨物列車の全面停止を命ずる指令1号が出されたが、暴徒による騒乱は起きてない。何とミズーリ・パシフィック鉄道が25%の賃上げで妥結する(実は連邦軍の搬送のための策略だった)。しかしスト執行部は24日の指令第2号でどの鉄道も妥結すべきではないとした。鉄道以外でストが広がり、午後遅くに群衆が駅に集まってきた。すでにヘイズ大統領はシンシナティとセントルイスへの連邦軍の派遣を考慮しており、午後6時には陸軍400人がユニオン駅に到着、州知事の要請はなくただ単に連邦政府の公的財産を守るために出動したとされた。夜、鋳型工と機械工のデモがあり、ルーカス・マーケットで1万人集会がなされた。対して公安当局は、陸軍長官に1万挺のライフル銃、2000挺のピストル、1砲兵中隊の派遣を要請。25日商品交換所は閉鎖して従業員を州軍に参加できるようにするとともに、自警団の組織化と州軍の増強がはかられた。労働側もストを拡大させ示威行進を行い不穏な情勢は続いたが、26日には南北戦争で活躍した前将軍たちが州軍の指揮をとることとなり、野戦病院まで準備され、鉄砲店は在庫をすべて市当局に提供した。労働側との戦争準備は整った。27日小競り合いが起きたが、騎馬警官隊が群衆を蹴散らした。スト側の執行部でいざこざがあり、組織力は低下していくことになる。あと数日ストが続くと、石炭不足でセントルイスの全産業の操業が不可能になり、騒動がおきかねない情勢だった。
 ミズーリ州側は厳戒態勢だったが、問題はミシシッピ川を隔てたイリノイ州側のイーストセントルイスである。鉄道労働者の町であり労働者がリレー駅を占拠し、セントルイス・ユニオン駅との通信も労働者が支配しており、市政も労働者の手中にあった。イリノイ州軍は非力なので、連邦軍の出動が必要だった。干渉の良い口実があった。イーストセントルイスでストにより列車が止まった鉄道のいくつかが破産中で連邦法廷の管財下にあったのである。財産管理命令というかたちでの連邦政府の干渉を行うことになったのである。ここで大活躍したのがセントルイスの連邦地方判事サミュエル・トリートとシカゴの連邦巡回区控訴裁判所判事ドラモンドである。
 29日朝、連邦軍はイ-ヅ鉄橋を占拠し、イーストセントルイスのリレー駅に軍隊は向かった。労働者は逃げたものの、なお貨物列車停止の抵抗が続いたが、多数の労働者が逮捕されるに及びストは崩れていった。31日秩序は回復しセントルイスの州軍は解散した。
 セントルイスのケースも良い教訓になるだろう。労働者評議会型のゼネストに対し公安当局、反労働者の陣営は決然たる姿勢で武器を準備し野戦病院を準備し南北戦退役軍人部隊まで動員して労働者との戦争に備えた。モッブ(暴徒)による放火、略奪のような無法状態は回避することができた。
 

連邦軍出動の法的根拠

 1877年大鉄道ストの連邦軍出動の法的根拠は、(1)州内反乱の抑圧援助(修正法律5297条)、(2)武器庫等連邦財産の保護、(3)連邦裁判所の管財命令である。郵便逓送妨害や、州際通商の妨害は根拠とされていない。インディアナ、イリノイ、カリフォルニアに出動した(3)のケースが直接労働争議の抑圧のためのものであるが、、最初にストが勃発したウェストバージニアやメリーランドのケースは(1)に該当し、平たく言えば暴徒を鎮めることであって、労働争議を直接抑圧することを目的とはしていない。にもかかわらず(1)(2)の根拠で、罷業者など群衆によるピケを排除・防止するとともに会社側のスト破り等の列車の運行を確保しており、実質的に労働争議抑圧の手段になった。この場合1894年のプルマン・ストライキのように、郵便逓送の妨害や、州際通商の妨害を根拠としたインジャンクションのほうが理屈としてはわかりやすいとはいえるだろう。
  
 (3)のケースがレイバー・インジャンクションの端緒とされる。King V.Ohio & Ry.,14Fed.539であるが、これは会社の管財人の財産管理命令である。管財人は裁判所の職員であり、その職務執行妨害は法廷侮辱罪を構成し、略式手続により科罰の対象とされたのである。
ドラモンド巡回区判事による判決は、管財人の占有におかれた財産は裁判所に属する財産であり、裁判所が使用する総ての手段によって保護をうけるとし、被告たちを含む群衆は、駅を占拠し、会社の被用者を脅迫して列車の運行を妨害した。会社財産に直接の損害はないが、数日にわたって列車の運行が停止した。列車運行に対する直接の妨害は、本廷の命令不服従を構成し、法廷侮辱罪が成立する。そしてそれは「個人および公共の利益に対する重大な侵害である」列車の妨害は公共の権利に対する侵害であり、彼等が自ら労働を放棄するにとどまらず暴力や脅迫により、他人の労働を侵害していると述べた(註2)。
 私は、他人の労働を侵害していることを不法としていることを重視したい。これは他人の権利を侵害するコンスピラシーの法理を想起させる。説得活動・ピケッティングの抑制の重要な論拠だろう。
 1848年ハント判決により刑事共謀法理がすたれたわけではないのである。辻秀典によると団結活動それ自体は、目的・適用の両面にわたって厳しい制約の下にあったのである。ピケッティングや説得活動であるが、適法とされるのは「個別的自由の集合ないし総和」と認められる限りの行為であって、いささかでもこれを超える要素があると判断されれば違法とされたのであって裁判所の許容する範囲は極めて狭かった。共謀法理の適用でなく、管財妨害を論じている判決でも受け継がれており、不法な妨害行為とされたのである(註2)。私は平穏なピケッティングを認めた1941年のソーンヒル対アラバマ事件それ自体批判的なのであって(註4)、1920年代以前のピケッティングの評価が正しいと考える。

 鉄道管財制度によって連邦政府は初めて、鉄道争議に直接的に介入したのが、この事件であった。鉄道会社は、管財下の鉄道会社の財産管理命令だけでなく、管財下におかれてない鉄道会社の争議抑圧にも適用されることを望んだ。1888年に至って、バーリントン鉄道争議事件で管財下の会社の枠を超え、レイバー・インジャンクションが発給されるに至る。
 
 引用文献その他
(註1)秋田成就 『公企労センター調査研究資料第40号 違法争議行為抑制措置としてのレイバー・インジャンクションについて-諸外国における実情を中心として』公共企業体等労働問題研究センター 1975-77
(註2)辻秀典「アメリカ労働法における団結権思想の一齣」前田達男・萬井隆令・西谷敏編『労働法学の理論と課題』有斐閣1988年
(註3)小澤治郎『アメリカ鉄道業の展開』ミネルヴァ書房1992年。このほか1877年ストに言及している著作として、ハワード・ジン著猿谷要監修富田・平野・油井訳世界歴史叢書『民衆のアメリカ史上巻-1492年から現代まで』明石書店2005年、辻秀典「アメリカにおける連邦鉄道労働政策の起源--アメリカ鉄道労働法の研究緒論」『広島法学』6巻2号1982年からも引用している。

(註4)アメリカでは、いうまでもないが、労働基本権などというものは憲法で保障されているわけではない。だからエプステイン教授の言うように、1932年ノリス・ラガーディア法も、1935年ワグナー法という悪法もその気になれば廃止できる。私は1925年以前に時計の針を戻すべきだと考えるが、ただ1941年のソーンヒル対アラバマ事件THORNHILL v. STATE OF ALABAMA, 310 U.S. 88 (1940) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=310&invol=88という連邦最高裁判決がある。労働者が労働争議の事実について平穏なピケッティングに訴えることは、憲法修正第一条の「表現の自由」に含まれるとし、かかる事件にアラバマ州のピケッティング禁止法を適用することは違憲と判示したものであるが、表現権の範疇として平穏なピケッティングを容認することにより、実質的に争議権を法認したものとされている。(田島裕『アメリカ憲法』信山社2004年)
 判決文起草者はマーフィー判事である。カトリック教徒の博愛主義者で人権派の裁判官ですね。日系アメリカ人の強制収容を合憲としたコレマツ判決TOYOSABURO KOREMATSU v. UNITED STATES, 323 U.S. 214 (1944)323 U.S. 214 http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=323&invol=214ではデュープロセスに反するとして強硬な反対意見を記し、日本人の血が流れている者の人権を擁護した。山下奉文陸軍大将の死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を却下したヤマシタ判決APPLICATION OF YAMASHITA, 327 U.S. 1 (1946) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=327&invol=1でもマニラ軍事裁判は無効として反対意見を記している。日本人の一人として敬意を表すべき事柄かもしれないが、私はマーフィー判事の平穏なピケット容認論には反対なんです。ストライキはリスクの大きいギャンブルです。単なる職場放棄、ウォーキングアウトでは協約締結の圧力にはならない。スト破りに、ピケラインを突破されたらストは敗北ですから、ピケッティング、哨戒行為は殺気だった状況であらゆる手段を使ってくる。威嚇、脅し、暴力はつきものです。平穏なストライキなるものは幻想にすぎない。
 平穏なピケッティングを表現権として容認するなら、トップレスバーのダンサーの裸踊りを表現の自由に含ませた方がよっぽどまし。ストーカーを規制するならピケット規制すべきだというのが私の考えです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008/01/14

英国近世における反独占、営業の自由の確立の意義(7) 

(要旨)17世紀から18世紀のコモン・ローの反独占の法理、営業制限の法理とシャーマン法は直結するものではないが、その精神は受け継いでいるといって差し支えないだろう。シャーマン法は労働組合に適用されるに至りその真価をいかんなく発揮した。私が反トラスト法に好意的な理由-それは労働争議抑圧に絶大な効果があったという歴史的意義からである。反トラスト法が労働争議に適用されることはなんら不可解なことはない。本来、営業の自由と団結禁止は不可分一体のものだったから。

 1890年シャーマン法の立法過程とコモン・ローの関係がわかりにくいが、谷原修身によると、シャーマン上院議員はトラスト問題の解決のため取引制限や独占に関するコモン・ローの法理を継承することを提案した。連邦議員のメンバーは好意的だったが、合衆国憲法通商条項が連邦議会にトラスト問題を規制する権限を授与しているのか、関税法との関連などで意見の対立があり、結局シャーマン法は、多くの妥協案が取り入れられ、コモン・ローのアプローチを採用しながら、違反者に罰金、禁固刑などの刑事罰を科したこと、違反行為を停止する差止命令を求めうること。損害を蒙った者に私的訴訟を許し、三倍額の賠償を認めた点で、コモン・ローの範囲を超えたと説明されている(註1)。[なお、差止命令(インジャンクション)は衡平法にもとづく、元々イギリスにおいて財産権が不法に侵害され、回復不能な損害が生じるおそれがある場合に、侵害の継続を禁止することから出発したが、合衆国で適用範囲が拡大された。1890年代からのレイバー・インジャンクションが発令されるようになリ、労働争議の抑止に大きな効果があった。]
 しかし谷原氏はスチュアート朝の反独占抗争は独占特許の国王大権が、議会による統制権に姿を変えただけと言っている(註2)。ジェームズⅠ世の治世の1624年独占大条例は、第九条で都市や町村に与えられた特権、すべての団体、会社、組合、商品取引の維持、拡大、調整を目的として設立された商人の団体は
適用除外とされていて、独占を消滅させるものではなかった。ダーシー判決で無効となったトランプの独占権も数年後にカード製造業者に与えられているという。コモン・ロー上、独占を保護することは続いた。コモン・ローでは資本主義の発展に伴って発生した独占化現象に防波堤にはならないとの結論のようである。
 岡田与好によると、1624年の独占条例は、同業組合に付与した特権を適用除外としたため骨抜きにされ、むしろ独占特権が単独の個人から、同業組合に拡大していった。再編ギルドとしてのカンパニーが収縮して、少数組合員による多数同業者による専制支配が強化されたという。事実、チャールズ1世の手によって、小親方層の公認同業組合への組織化がなされ、小営業主の団結が助長され、独占特許が濫発された。これが内乱直前の状況であった。内乱期には、ギルド的独占は廃止されず、むしろ助長されたので、ギルド団体の産業統制を拒否するレッセフェールの浸透は1660年以後のことと述べている(註3)。
 
 いずれにせよ、17世紀の反独占とは性格が違うのでシャーマン法とは直結しない。が、反独占、営業制限の法理あってのシャーマン法であるとはいえる。
 
独占禁止法を営業の自由の制限とみなす見解は通俗的自由主義の偏った見方である

 ところで我が国の独占禁止法は、農地改革、労働組合の公認とともに1947年に戦後「経済民主化」の三大政策と一つとして創出されたが、岡田与好は1979年の著作で(註4)、独占禁止法が自由競争体制を維持発展させる目的であるのに、自由主義を標榜する財界や自民党がつねに消極的で、社会主義を標榜する革新諸政党・団体が主観的意図はともかく独禁法に積極的であるという捻れを指摘している。
 我が国では明治政府の主導のもと生み出された政商支配の資本主義が発達し、政商型独占資本の急速な発展と同業組合的統制の強化・拡大がなされた。このような風土においては、独禁法は経済力の低下をもたらす、統制立法のように受けとめられたのである。
 自由主義なるが故に独禁法に反対だという主張さえみられるが、ここに自由主義に対するいわゆる一つの誤解がある。岡田氏は、独禁法を営業の自由の制限立法として経済統制法の一形態とみなす、わが法律学界に有力な見解を痛烈に批判され、これは「独占放任型自由主義」の立場であるにすぎない。それは通俗的自由主義というもので、古典的自由主義の国家不干渉主義の一面的強調であるという。我が国では経済的自由主義といえばそのように理解されているが、英国の反独占抗争のような歴史をもたないことから偏った理解になりがちだと言うことだろう。
 もっとも、独占放任も経済的自由主義の一類型としてみることができるだろう。しかし古典的自由主義は英国の近世史をみても明らかなように、反独占の精神が基本にある。「独占放任型自由主義」は個人あるいは個別企業の自由の保障の無関心を特徴にしており、極論すると国家と個人の中間団体がいかに個人に対して抑圧的であるとしても、私的結合である限り自由であるという思想では、独占保護的全体主義になだれ込む危険性を有するという重大な問題点がある。
 その例証として岡田氏は19世紀末以来のドイツでは、わが法律学界と同じく「営業の自由」をもっぱら「国家からの自由」として解釈することによって、「営業の自由」の名において「カルテルの自由」=「独占の自由」が法的に承認・強制され、その結果個人〈および個別企業〉の自由-本来の営業の自由-の犠牲のうえに、独占資本の組織的=強権的な私的統制〈カルテル網〉が「自由な」発展を遂げ、ナチズムの前提になった。としている。具体的には1869年の北ドイツ営業令は「カルテルの自由」を保障するものと解され、1897年2月4日ライヒ最高裁判所において、カルテルの諸義務は法的拘束力をもつことが認められ、カルテルは権利とされ、企業の団結が確立され、ドイツの異常に組織的な統制力をもたらし〔それは労働組合の組織強制についてもいえるかもしれないが〕、「営業の自由」を「国家からの自由」とすることによって換骨奪胎して、「個人の自由」を失うこととなったとされている(註3)。だから法理念は重要なんですよ。それが国を破滅に導くことがある。
 逆に反トラスト法は独占放任型自由主義に反するが、反自由主義的経済統制ではない。むしろ「営業の自由」の原理に基づきうるものであり、「反独占型自由主義」と類型化できるものである。
 つまり「営業の自由」という理念に忠実であるとするならば私の考えでは、それが国家の統制であれ、企業の結合による統制であれ、労働組合による統制であれ、取引=営業制限を内容とする、統制、団結、協定、共謀にはつねに敏感に意識するものでなければならないと考えます。
 翻って考えてみるならば、営業の自由と団結禁止を不可分一体とするマンスフィールド卿の原理原則が営業の自由の理念としては明快なのである。同業者の団結も労働の団結も営業の自由にとって有害であり犯罪だという思想である。この類型の自由主義は独占放任主義と対立することになるだろう。
 原理原則論として、営業の自由は本来、独占と結合(団結)から免れる自由。取引を他者(政府・企業・組合)によって制限されることのない自由として把握されなければならない。

シャーマン法が労働組合に適用されたのは道理だ

 そうした意味で私は、シャーマン法が、起草者のシャーマン上院議員は意図していなかったが、労働組合にも適用され、鉄道ストや二次的ボイコットのような労働争議の抑止力となった点を高く評価したいのである。労働組合の本質が、本来は不法な取引=営業の制限と競争の抑止にある以上、コモン・ローのアプローチを採用したシャーマン法に適用されたのは道理で不可解な事では全くないと解釈するものである。
 
 シャーマン法第1条は「州際、外国との間の取引あるいは通商を制限する全ての契約、トラストその他の形態の団結、共謀を不法とする」ものだが、「契約」「団結」「共謀」という文言が労働組合を包含するのかという問題について、労働組合を本法の適用外におくという修正条項も検討された。ところが法案提出の最終段階で修正条項が脱落したといわれている。それは労働組合も脅威と認識されていたことを示す。
 シャーマン法が労働組合に適用された最初の事件は1893年3月25日のニューオーリンズの荷馬車馭者組合の同盟罷業と他の組合の同情罷業が、州際ないし国際間の取引商品の輸送を完全に遮断したという理由で検察側のインジャンクションを許した事例であるが(註5)、1895年のデブス判決IN RE DEBS, 158 U.S. 564 (1895) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=158&invol=564 

は前年のプルマン・ストライキの差止命令を最高裁が゜支持したことで重要な事件です。シャーマン法の適用も消極的ながら支持されている。
 これはプルマン・ストライキ、あるいはシカゴ・ストライキとして知られる、各地で暴力と混乱が生じた著名な事件である。シカゴのプルマン寝台車会社は寝台車や展望車を製造し、シカゴに集まるすべての鉄道会社と契約して、会社の車両を旅客列車に連結して料金を徴収し営業を行っていた。1894年5月、20%賃下げの提案をめぐって労働争議となり、労使交渉は進捗せずストライキが続いていたが、6月26日からデブスを組合長とする産業別組合のアメリカ鉄道従業員組合が、プルマン車の連結した列車の取り扱いを拒否する、一種のボイコットを行った。このためプルマン車と契約関係にあるすべての鉄道会社が紛争に巻き込まれ、当時はまだ自動車輸送が発達していなかったので、州際取引商品の輸送が止まり、郵便も止まった。6月30日にシカゴ駐在の連邦司法検事は首都の検事総長に次のように報告した。「29日夜ストライキ参加者によって郵便車が止められ、機関車が切り離されて動かなくなった。情勢は次第に切迫し、あらゆる列車がとまるおそれがある。執行吏に、列車に乗り込んで郵便を守り、妨害者を逮捕し、執行代行者を雇い入れる権限を与えることが望ましい」。検事総長はこの提案を認め、時のクリーブランド大統領はインジャンクションを裁判所に申請した。その根拠は第一に憲法及び普通法の下において郵便および州際取引は連邦政府の専管に属するものであり、その保護には連邦裁判所が差止命令によって干渉する権能を有する。第二に1890年7月2日に成立したシャーマン法が州際間の営業または取引を制限する共謀は違法であると宣言され、連邦巡回裁判所にこの種の共謀を防止し差止める権限が付与されていることであった。
 全般的差止命令は7月3日に送達された。
 内容は大略して被告デブス、ハワード…ならびにかれらと団結し共謀するすべてのものに下記の行為を禁止するものあった。
 州際の旅客並びに貨物の運送人としての業務、郵便車、州際取引に従事する列車、機関車、車輌、鉄道会社の財産につき業務を妨げ、阻止しまたは停止する行為。鉄道の構内に上記の目的で立ち入る行為、信号機に対する同様の行為、鉄道会社の従業員の何人に対してでも、従業員としての義務の履行を拒みまたは怠る
よう、威嚇、脅迫、説得、力または暴力を用いて強要しまたは勧誘し、あるいはそれを企てる行為、従業員になろうとする者を同様の手段で妨げる行為、州際輸送を妨害するための共謀、団結の一環をなすすべての行為、上掲のいずれかの行為を行うよう命令、指令。幇助、助成する行為。
 しかし7月3日の状況は、ロック・アイランドの連絡駅で、2千から3千人の暴徒の群れが占拠していて、郵便車を転覆させ、すべての車輌の通過を妨害した。解散命令には応じず、嘲笑と怒声になった。さらに暴徒は数台の手荷物車を横倒しにしたため、軍隊の出動が要請された。夜9時には陸軍司令官の出動命令を出され、軍隊が到着したが、鉄道施設の破壊や焼打ちが行われ、連邦裁判所の差止命令に公然たる挑戦がなされた。しかし6日に逮捕が進行し、8日に大統領より市民は暴徒に近づかないよう告示が出された。10日にはデブスら組合幹部が逮捕され、20日には軍隊が去りストライキは終息した。
 本件のインジャンクションは妥当なものと考える。本件はシカゴという重要都市のみならず南太平洋鉄道系統がほとんど完全に止まってしまった、大きなストライキだった。鉄道の運行を妨げる行為は州際取引の自由を保護するシャーマン法に違反するとされたことでも鉄道に限らず、大ストライキに適用される可能性が明らかになったのである(註6)。 続く

(註1)谷原修身『現代独占禁止法要論』六訂版 中央経済社 2003 45~46頁
(註2)前掲書 28頁
(註3)岡田与好編『近代革命の研究』上巻 東京大学出版会1973 岡田与好「Ⅴ市民革命と『経済民主化』」
(註4)岡田与好『自由経済の思想』東京大学出版会1979 39頁以下
(註5)田端博邦「アメリカにおける「営業の自由」と団結権 」東京大学社会科学研究所研究報告 第18集
『資本主義法の形成と展開  2』東京大学出版会1972年
(註6)有泉亨「物語労働法12第11話レイバー・インジャンクション」『法学セミナー』1971年8月号

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2008/01/06

英国近世における反独占、営業の自由の確立の意義(6)

 (第5回とは脈絡で繋がっていません)

 岡田与好(経済史)、谷原修身(経済法)の著作を読んでわかったことだが、「経済的自由主義」には2つのタイプがある。18世紀型(第一類型)と19世紀型(第二類型)、マンスフィールド卿型とアダム・スミス型という言い方もされるが、この二類型の違いを理解しておくことが、19世紀における、労働の自由、団結禁止から団結放任、団結法認、コレクティブ・レッセフェールという政策の変化を理解するうえで重要と考えた。
 二つのタイプを分けるものは一言でいえば「営業の自由」と「契約の自由」のどちらに原則をおくかである。2つの類型があるということで経済的自由主義=アダム・スミス信者という単純な図式にはならないのである。私はそれ以前のコモン・ローの反独占・営業の自由と商業革命の意義を重視したいわけです。

 谷原修身は契約法の著名な研究者P.S.Atiyahの所説をを引いて説明している。アダム・スミスの出現以前に「経済的自由主義」と呼ばれる確立した思想体系はなかった。しかし、コーク卿の時代に既に「経済的自由主義」に相当する考え方が存在し、コモン・ローに関係する法律家が強く支持していた。それは、以下のような自由を唱えるものである。財産所有、取引および営業、利子をとること、独占および結合から免れること、自己の意思決定、政府および法令の規制を受けないこと。(註1)

 プロレーバーではあるが大沼邦博(註2)を引用する。
 絶対主義的な産業規制をはねのけることに重要な役割を果たしたのはコモン・ロー裁判所であった。E.コークはあらゆる「独占」に強い敵意を示し、熱心に経済的自由を擁護した。この傾向は、市民革命によって「コモン・ロー優位」が確立し顕著となる。実際、国王の勅許による営業独占はあらかた廃止され、ギルドの職業規制は崩壊した。18世紀になるとコモン・ロー裁判所はいくつかの判例を通じて「コモン・ローの政策は企業の自由、営業の自由、労働の自由を奨励することにある」という立場を宣明した。
 1563年エリザベス1世の職人規制法の体系も法律として存在しても、実効性を伴わなくなり空文化していく。ブラックストーンは1765年に次のように述べた。「裁判所の判決は、規制を拡大したのではなく、それを一般に制限してきた」。強制的徒弟制度や治安判事の賃金裁定条項は衰退していくのである。17世紀末には既に同条項の適用を年雇労働者や農業奉公人にされていたのである。

 アダム・スミスも同職組合の特権や、徒弟制度の入職規制に強く反対していたので、彼の思想の影響もあって治安判事による賃金裁定は1813年に、徒弟制は1814年に廃止されているが(直接的には労働者が治安判事の裁定を求め、徒弟制を支持していたため、団結の口実を与えないための廃止である)、アダム・スミスが仮に実在せずともこの流れに変わりなかったとも考えられる。
 反独占がなぜ営業の自由になるのかもう少し詳しく述べる。

反独占の古い起源-穀物取引等の経済統制

 中世においては、市場の価格機構における需給調整機能は未だ十分認識されておらず、商品の「買い占め」とそれによる価格吊り上げは倫理的非難の対象とされた。イギリスにおける買占規制の最初の法令1226年法で違反者は晒し台に晒されるのである。これは一般的慣習の法典化である。コモン・ローの下では自由な価格ではなく、低価格が重要視され、買占めは極端に嫌われた。(註3)
 中世末期から絶対王政期になると無制限な営利追求、仲介人の独占価格操作への激しい非難が社会的規模で行われた。1349年穀物取引に関して、合理的価格で適度な利潤に満足する限りで穀物商の合法性を認め、1489年には毛織物生産者の先買期間を設置し、羊毛商の介入を禁止、1552年には食料品取引を主要対象とし、先買、再販、買占に対して一般的法的規定を設け、穀物が限界価格以下の場合、許可をうけた場合のみ仲介商の介入を認める方法が採用された。現在各国の独占禁止法の母体をなす合衆国のシャーマン法は1552年法の規定を継承するといわれているが、先買(販売のため市場に来つつある商品をその途中で購入する行為、人為的価格操作のもっとも単純な形態)の禁止はアングロサクソン時代から法的禁止の対象となっていたものである(註4)。反独占というのは「経済民主化」とか現代の価値観にもとづくものではない。慣習を明文化したような中世の古い法、倫理的価値観に由来するといえるだろう。
 小林栄吾は「反独占法は労働を価格追加の唯一の合理的根拠たらしめるという理念」に導かれ「市場価格が『合理的価格』に収斂するような方向にのみ制限し組織化すること」により「技倆にもとづく労働に基礎をおく、新たな生産諸力発展の展望を打ち出した」と評価する。
  ウェーバーテーゼ(ピューリタンの宗教的価値観-隣人愛実践として神与の使命としての職業労働義務という行動様式と近代資本主義の成立とを相関させる)を否認しませんが、その前提としての反独占の法理も重視したいのです。
 しかし、18世紀には穀物取引の公的規制に反対したアダム・スミスの思想に影響されて、1772年に買占め規制の諸法令は廃止されたのである。裁判所は1800年までコモン・ローの下で買占めを有罪としたが、自由放任主義の浸透により訴追されなくなり、1844年に議会は買占めをコモン・ローの下で訴追することを禁止するに至った。(註3)

国王大権(特許状)による独占の廃棄
 
 16世紀末からの展開については2007/12/23記事http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_468b.htmlで言及しているので若干重複になる。
 エリザベス1世の治世の後期、財政悪化により女王の独占特許状が濫発されていた。特許状発行に伴う上納金を財政上の手段としたのである。これは国王大権事項のため議会の承認は不要だった。また廷臣に与えるべき利権が少なくなり、廷臣への報酬としても特許状が発行されていた。1597年及び1601年議会は、王室の特許状による40種にあまる産業独占、商業独占を果敢に攻撃し、その合法的根拠を追求した。「反独占論争」は王室当局に甚大なショックを与え、1601年11月エリザベス女王自身その非を認め、「独占に反対する布告」により、塩、酢、酒、澱粉、鯨油などの独占特権を無効とし、その他についてはコモン・ロー裁判所により詮議されるものとした(註5)。但し、臣民の自由に対する国王大権の優越を明言して反独占論争に終止符を打った。
 

 1602年のダーシ-対アレン事件Darcy v.Alleinは、女王の開封勅許状によるトランプの輸入・販売・製造の独占を無効としたものだが、王座裁判所の全員一致の意見は「トランプの独占権を原告に付与したことはコモン・ロー、及び臣民の利益と自由に反する」とした。
 どうして娯楽用品にすぎないトランプ(プレイングカード)の輸入・販売・製造独占がコモン・ロー史上の著名な事件になったのかというと、エリザベス女王は独占批判をかわすために議会に譲歩し、1601年の詔勅で多くの独占特権を無効とすると宣言したほか、特許独占によって不利益・損害を被った臣民が損害賠償請求訴訟を提起する自由を認める旨付言したため、特許権について民事訴訟が認められるようになった経緯がある。原告ダーシーは1588年に英国内におけるトランプの輸入・販売・製造の特許権を得た。毎年100マルク支払うことが義務だった。特許権を侵害した、ロンドンの小間物商アレンを訴えたのがこの事件である。

 ダーシーはトランプ遊びは「空虚な事」、時間と財産を失い、臣民の勤労意欲を失わせる機会を与えるため、その濫用を防止し適当で手頃な使用を命ずる事は女王の役目であるとして、特許独占の正当性を主張したが、裁判所は、トランプを製造することは「空虚な事」にあらずと述べた。コモン・ローの下で無効とする理由として、臣民に対して雇用の機会を準備し、怠惰を回避させるすべての営業はコモンウェルスにとって有益である。そのような営業に対する排他的な特許権の付与は臣民の自由と利益に反する。独占は価格を吊り上げ、品質を低下させ、閉め出された取引者を貧しくする弊害がある。女王は詔勅の前文で公共の利益のために付与したにもかかわらず、特許権者の私益に利用され、公共の利益に反するということを述べた。

参考 石井正「産業社会と知的財産」講義メモhttp://www.oit.ac.jp/ip/ishii/MEMO/index3f.htm
 

 コーク卿は後にマグナ・カルタ29条「自由人は,その同輩の合法的裁判によるか,国法によるのでなければ,逮捕,監禁され,その自由保有地,自由,もしくはその自由な習慣を奪われ,法外放置もしくは追放をうけ,またはその他いかなる方法によっても侵害されることはない」を注釈し、「自由」および「諸自由」を示すlibertates libertiesをに言及し、これらが「王国の法」「イングランド臣民の自由」「国王から臣民に与えられた諸特権(privileges)を意味するとことを明らかにし、その上でダーシー事件にふれ、トランプの単独の製造権あるいは他の営業の独占権を特定の人に付与することは、それ以前に営業をしていたか、それを合法的に利用しであろう臣民の自由に反し、それゆえに大憲章に反することを明記した(註6)。
 これは非解釈主義的解釈であって、原意に沿ったものではないだろう。谷原氏がボーディンの所説を引いているように、コモンローの成立期に営業(trade)は殆どなく、「営業の自由」の概念もなかった。外国との貿易は国王の大権に属し、その権利を特別に臣下 に与えない限り、営業権を有するのは国王だった。コーク卿が「営業の自由」と表現しているものも、営業の特権を意味するから、原意に従えば、女王から特権を付与された、独占権者が保護されるべきところ、コーク卿の巧妙な注釈よりマグナ・カルタがイングランド臣民の自由の原理とされた。
 
 しかし私は、コーク卿の非解釈主義的解釈を批判しない。それは道理だったと考える
 12世紀前半に淵源をもつコモン・ロー裁判所は自由人の自由保有地保全を目的としていた。慣習法をベースにしているので、王権から発せられる統治技術としての法体系とは全く違う。自由人の安全と所有を確固とするために優れていた。隷農制が15世紀までに崩壊した。純粋核家族社会であり、土地に縛られず、流動性があり、元々資本主義的な社会特性を有していた。また17世紀初期に制定法により服装が自由になった、身分に応じた衣装に拘束されなくなった。自由人の特権の保護という概念が臣民の自由という原理にされても、とりわけ営業の自由が高唱されても違和感はないのである。
 新刊書(註7)H.ベイカー(川添美央子訳)「1200年から1600年におけるイングランドのコモン・ローにおける個人の自由」を読みました。それによるとイギリスでは隷農階級は遅くとも15世紀末までに消滅した。イギリス人は1600年には全て「自由人」になっていた。それはコモン・ローが自由を支持してきた帰結だったというのである。既に13世紀の『ブラクトン法令集』に隷農制を脅かす理論的前提があった。その指導原則は法は自由を支持するゆえに、隷農は領主に対してのみ隷属的なのであって、この世の他の人々に対しては自由だと主張した。領主によって隷農身分から解放されれば血統の定めから完全に自由になる。そのうえ、隷農は国王裁判所において領主以外のどの人間も訴える権利があったいう。

 フランスの歴史家マルク・ブロックがフランスとイングランド領主・小農関係の相違を指摘し、イングランドでは親族関係の古い枠組みが早期に解体し、イングランドの小農が個人主義的なのに対し、フランスは共同体のままにとどまった。フランスの農奴制とイギリスの隷農とは完全に異なるという指摘は、法制度的な背景の違いにもよる。
 15世紀の国王裁判所主席裁判官であるフォーテスキューは次のように述べた。「……隷属は人間にとって邪悪な目的によって導入されるが、しかし自由は神によって人間本性に刻み付けられているからである。……自由を支持しない者は神をも恐れぬ残酷者と見なされるであろう。こうしたことを考えると、イングランドのもろもろの法はいかなる事例においても自由を支持するのである」(註7)。フォーテスキューはいかなる事例においても法は自由を支持すると断言した。私は教会法の結婚の自由の理念も重視したいが、近代個人主義的自由は中世の法思想から発展したものだったと理解できる。
 マクファーレンはイギリスは既に16世紀に既に豊かな社会だったとを説明している。フォーテスキューがフランスに亡命したさい1461年の著作で、フランスとイングランドの違いをわかりやすく説明している。フランスはすべての法が国王から発し、人々は臣民だった。イングランドは国民の自発的黙従による制限君主制だった。イングランドには拷問はなかった。フランスのように国王の軍隊による農村の略奪もなかった。塩税のような厳しい取り立てがフランスにあった。フランスでは人々は災難に悩まされ、きわめて悲惨のうちに暮らし、水を飲む毎日である。質の低い酒さえ飲むことはない。かれらのシャミュウズは麻製でまるでズダ袋のようだ。かれらは、上着の下に着るコートとしてきわめて粗末な毛織物を身につける以外に毛織物を知らない。かれらは、長ズボンをはかず、膝下は裸である。女は祝祭日以外裸足である。男も女も新鮮な肉は食べず、ラードないしベーコンのみである。それを少量加え、ポタージュやブロースといったスープにこくを加えるだけであると、フランスの貧しさが強調され、他方イングランドは重税、兵隊の宿営、内国税が欠如しており、住民は土地、家畜が生み出すすべての果実を、かれの努力と他の者の労働によって、陸運・水運双方から得るすべての利潤と商品を、思うがままに使用し享受する。金・銀および人間の生命の維持に必要な者を豊富にもっている。あらゆる種類の魚と肉をたくさん食べる。すべての衣服にすばらしい毛織物を用い……あらゆる器具、道具、農具を……落ち着いたゆたかな生活の成就に必要とされる他のあらゆるものを、大量に所有しておリ、通常判事の前以外で法に訴えられることはなく、その土地の慣習的な法によって正しくあつかわれるのである。
 イングランドが豊かであったからこそ、営業の自由が高唱されたともいえるだろう。

 ジェームス1世の治世には反独占運動は激烈なものとなり、1604年国王は個人に与えられていた全ての特許状を廃止、議会で次のように演説した。
「すべての自由な臣民は、かれらの土地に対するのと同様に、かれらみずからそれに従事し、かつそれによって生活しなければならない営業(trades)に自由に精励するという〔権利を〕承継して生まれている。商業は‥‥重要であるので、現状のようにそれを少数者の手中にとどめておくことは、イギリス臣民の自然権と自由に反する」(註9)
 しかし王室財政の窮迫と廷臣の金融支配の擁護のため独占特許が濫造されたため、再び反独占運動が昂揚し、1624年には独占大条例が成立した。それは「すべての独占、委託、認可、許可状、特許」の廃止、コモン・ローによるそれらの審査を条文に明記した。しかし、法の適用の免除があり徹底したものではなかった。ロンドンその他自治都市、印刷、硝石、火薬、鉄砲、明礬、ガラス、鉄の鋳造、ニューカッスルの石炭などである。
 チャールズ1世は無謀にも独占特許を増加させたため1640年の「長期議会」では国王への攻撃のるつぼとなった。独占企業家が議会から追放され、いわゆる内乱に突入することとなる。結果的には1688年の王室鉱山条例で金属の鉱業権が王室から剥奪され鉱業独占が一掃されることにより、名誉革命により「初期独占」は解体され、イギリスでは経済的自由主義が確立したとされる。私企業は急激に簇生し、金属工業の繁栄は生産手段生産部門で、オランダ(前期資本の独占支配を維持していた)を追い抜くこととなり、18世紀後半には産業革命に到達することとなる。(註10)。
  経済史家の川北稔は、いわゆるウェーバー・テーゼ(清教徒の職業労働を隣人愛実践として神与の使命として誠実に励む行動様式を資本主義の精神と結びつける)を否定して、産業革命の本当の理由は、イギリス社会の特性と広大な海外市場を確保した商業革命と、ノーフォーク農法による農業革命だという(註11)。しかし、商業革命の前提として、16世紀末から議会の反独占抗争、独占特許状をめぐる国制論争があって、1641年の長期議会では独占企業家が追放され、経済史学でいう「初期独占」は次から次へと否認され、少数の私人に「独占」されていた諸産業部門が、社会全体に解放されていったという営業の自由の確立と、コモン・ロー裁判所が職人規制法に当初から敵対的態度をとり、徒弟の入職規制を骨抜きし(徒弟制度は1813/14年に廃止)、労働の自由の進展がその前提にあるわけで、従って営業の自由と産業革命に到達したこととは結びつけて考えてたい。
 

経済自由主義の2つのタイプの違い
 
 冒頭に述べた、18世紀型、19世紀型経済自由主義の二類型、それは取引制限的契約に対する態度の違いである。つまりパートナーシップにある者や被庸者に組合関係又は雇用関係を離脱した後にも競業禁止義務を課す契約、暖簾(good will)の売手ないし営業譲渡人に競業禁止義務を課す契約、製造業者ないし商人が生産量を制限するか又は価格を決定する契約であるが(註12)、コモン・ロー裁判所は「営業の自由」を重視し、できる限り取引制限的契約を無効にした。
 前者の立場にあるホールズベリーの『イギリス法』第三版第38巻によれば「ひとは欲するところに従い、また欲する場所で適法な営業または職業を営む権利をもつ、というのが、コモン・ローの一般原則であって、コモン・ローは、つねに契約の自由にたいする干渉の危険を冒してでも、営業にたいする干渉が行われないよう注意してきた。というのは、個人の行動の自由にたいする制限はすべて国家の利益にとって有害であるがゆえに、それらの制限に反対することが公序であるからである。」(註13)
 営業制限の法理の指導判例である1711年のミッチェル対レイノルズ判決Mitchel v.Reynolds(パン製造所賃借権の5年間の譲渡の条件として同一教区でのパン屋の営業をしない特約であるが、これは合法と判示されたが違法性を判断するルールを述べたことで指導判例となる)では、王国全域において営業を制限する一般的制限は常に無効、特定地域の部分的営業制限は有効とされたが、その場合でも営業制限は本来的に悪しきものであるがゆえに、営業制限の特約は制限を課した者が、その制限が合理的であることを立証しなければ違法とされたのである。(註12)
 ところが19世紀の後半からアダム・スミスの自由放任思想に影響されてコモン・ロー裁判所の態度が変化する。ミッチェル対レイノルズ判決の判旨とは逆になってしまうのだ。1853年のタリス事件Tallis v.Talliでは逆に制限を課された側が不合理であることを立証しない限り合法とされるようになったのである。1875年Printing and Numerical Registering Co.v.Sampson事件におけるジョージ・ジェッセル卿においては自由放任思想が高唱されている。「自由かつ自発的に締結した契約は神聖なものとして支持すべく司法裁判所はこれを強行すべきである。……この契約の自由に軽々しく干渉すべきではない、という至上の公序を考慮しなければならない。」(註14)
 契約が神聖不可侵という原則のもとでのひとつの問題点は「営業の自由」の名において、「営業を制限する自由」により独占やカルテルをも容認する概念となることだろう。
 ところでシャーマン法(Sherman Act)は、1890年に制定された米国の連邦法で、反トラスト法の中心的な法律のひとつであるが、シャーマン法第1条は、州際、外国との間の取引あるいは通商を制限する全ての契約、トラストその他の形態の団結、共謀を禁じ、労働組合にも適用された。ダンベリー帽子工事件LOEWE v. LAWLOR, 208 U.S. 274 (1908) 208 U.S. 274 は不買運動に参加したことについて北米帽子製造協会への3倍賠償の裁定を維持した例などが知られている。
 そもそも反トラスト法制定運動は、中西部や南部諸州の農民組織による鉄道トラストへの反感からはじまったものだが、当時のコモン・ローは取引制限的契約の違法性の根拠は契約当事者への強制もしくは排除であり、カルテル、価格協定や合併のように契約当事者が自発的な合意により相互の競争を排除する行為が違法とされることはなかったのであり、シャーマン法はコモン・ローの考え方を無視するものであり、オリバー・ウェンデル・ホームズはシャーマン法に明確に批判的であった。(註15)
 しかし、シャーマン法は、先買・再販・買い占め規制の1552年制定法を由来としている説もあることは既に述べた通りである。平林英勝のように「取引制限」や「独占」に関するコモン・ローを連邦法化するものであった http://www.hidekatsu.net/page009.htmlあるいは「コモン・ロー的制定法」という説明のされ方もある。それは17世紀の反独占の法理であり、先に説明した18世紀型の第一類型の経済自由主義に由来する。
 しかし、王権の独占特許状による営業独占と、近現代のトラストとは性格の異なるものである。
 合衆国最高裁UNITED STATES v. TOPCO ASSOCIATES, 405 U.S. 596 (1972) http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=us&vol=405&invol=596において「反トラスト法自由主義経済のマグナ・カルタである。反トラスト法が経済的自由と自由主義経済体制を保障している……」(註16)と述べられているが、ここでいう自由主義は反トラスト法は経済的自由主義の19世紀型第二類型(アダム・スミス型自由放任)の自由主義とは折り合いが悪く、むしろ18世紀型第一類型の思想に近いものと判断できるのである。
 
 
(註1)谷原修身「コモン・ローにおける反独占思想(三)」『東洋法学』38巻1号 [1994.09]
(註2)大沼邦博「労働者の団結と「営業の自由」--初期団結禁止法の歴史的性格に関連し近代資本主義の系譜 近代資本主義の系譜 近代資本主義の系譜 て」関西大学法学論集 38巻1号 [1988.04]
(註3)谷原修身「コモン・ローにおける反独占思想(一)」『東洋法学』37巻1号   [1993.09 ]
(註4)小林栄吾「資本主義発達史上における反独占運動の意義」高橋幸八郎,古島敏雄編
『近代化の経済的基礎』岩波書店1968年
(註5)田中豊治「独占体系の解体」 大塚久雄,高橋幸八郎,松田智雄編 『西洋経済史講座 : 封建制から資本主義への移行. 第4』 岩波書店1960年
(註6)谷原修身「コモン・ローにおける反独占思想(二)」『東洋法学』37巻2号 [1994.01]
(註7)(註1)J.H.ベイカー(川添美央子訳)「1200年から1600年におけるイングランドのコモン・ローにおける個人の自由」R.Wデイビス編鷲見誠一/田上雅儀監訳『西洋における近代的自由の起源』慶応義塾大学法学研究会2007年所収。
(註8)アラン・マクファーレン酒田利夫訳『イギリス個人主義の起源』リプロボート1993年 296頁以下
(註9)堀部政男「イギリス革命と人権」東京大学社会科学研究所編『基本的人権第2』東京大学出版会1968
(註10)『大塚久雄著作集. 第3巻』近代資本主義の系譜 岩波書店 1969年
(註11)川北稔編『新版世界各国史11イギリス史』山川出版社 1998年 247頁
(註12)谷原修身「コモン・ローにおける反独占思想(三)」『東洋法学』38巻1号 [1994.09]
(註13)岡田与好「経済的自由主義とは何か-『営業の自由論争』との関連において-」『社会科学研究』15頁
(註14)岡田与好『独占と営業の自由 ひとつの論争的研究 』木鐸社  1975東京大学社会科学研究所  37巻4号1985 23~24頁
(註15) 谷原修身「コモン・ローにおける反独占思想(五)」『東洋法学』 39巻1号 [1995.09] 
(註16)J.H.シェネェフィールド・I.M.ステルツァー 著、金子晃・佐藤潤訳 『アメリカ独占禁止法 実務と理論』三省堂2004年 1頁

にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2008/01/04

労働基本