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カテゴリー「性・精神医学」の28件の記事

2018/06/17

東京都「人権尊重条例」に反対する下書き(2)同性愛を道徳的に承認しない市民を攻撃し、市民的自由を奪おうとする悪法

承前

(3)同性愛行為が自然法に反するというのは西洋文明規範なので否定することはできない

 

ユダヤ・キリスト教2500年の伝統にやいて次の夫婦が一体となるという思想もかなり重要であるが、これは同時に反自然的な性行為を悪とする根拠にもなっていた。

 

創世記2.23-24

 

これこそついに私の骨と骨、

わたしの肉と肉

彼女は女とよばれることになろう。

彼女は男より取られたのだから。

それゆえ男は彼の父母を離れて、彼の妻に結びつき、彼らはひとつの肉となるのである。

 

 

西洋文明の夫婦斉体思想の根拠は創世記だった。

それだけでなくユダヤ教のラビは、のこれらの数行を性的ふるまいの基準とした。「彼の父母を離れて」は近親相姦の禁止、たぶん父の後妻を娶ることの禁止の根拠に。

ラビ・アキバ(紀元後135年頃)「彼の妻に結びつき」の解釈として、それは隣人の妻でも男でも、動物でもないとして、姦淫、同性愛、獣姦禁止に決着をつけた。

ラビ・イシ(145年頃)は「彼らはひとつの肉となる」という婉曲な表現から、受胎を抑制する不自然な性行為や体位の禁止の根拠とした。[ぺイゲルス1988 55頁]。

 

 さらに私が反同性愛は西洋文明規範の核心と確信をもったのが、Bowers v. Hardwick (1986)のバーガー主席判事の補足意見に感銘したことである。 ジョージア州異常性行為処罰法(通称ソドミー処罰法)は1816年にコモン・ローの自然に反する罪という用語で制定され、1933年、1968年に自然に反する方法による性交等の文言が漠然性により無効との批判をかわすため具体的文言に修正され、一方の性器と他の人間の口または肛門とによる性行為を行なうか、合意した者を1年~20年の懲役刑と規定する。ただし州裁判所の解釈では、クリニングスについては異性愛者もレズビアンにも適用されないとされていた。全米では、1986年当時同様のソドミー処罰法が25州で存在していた。

 事案は大略して次のとおりである。アトランタ在住のハードウィックは別の容疑でベッドルームに侵入してきた警官に同性愛行為を発見され、ソドミー処罰法違反として逮捕された。州地方検事は、証拠不十分だとして不起訴処分としたが、同人が常習であったことから、将来逮捕の危険性を恐れ、同州法の違憲確認を求めて、訴えを提起した。1985年の第11巡回区連邦控訴裁判所判決は、私的な場所で成人が合意とてなされる同性愛行為は、憲法に明文の条文はないが、憲法修正9条と修正14条のデュープロセス条項に根拠をもつプライバシー権によって保障されていると判示した。

 連邦最高裁は54の僅差で控訴審の違憲判決を破棄した。ホワイト判事による法廷意見は、含羞国憲法は男色行為を基本的人権として承認していない。過去のプライバシー権判例で承認された権利は、家族関係・結婚・生殖に関するものが中心で、本件と類似性がない。被上告人の主張を承認することは我々が最もやりたくにいことである。男色行為が、アメリカの伝統と歴史に深く根ざしたものである、秩序ある自由の概念に黙示的に包含されるという被上告人の主張は『笑止千万お笑い草』であると述べた。

 ホワイト法廷意見には同性愛者に対する軽蔑を看取できるが、判決の日の夜、全米各地で虹旗を掲げる自然発生的なデモが起こったのである。

 バーガー主席判事と、パウエル判事の単独の補足意見がある。ブラックマン判事が反対意見を記し、ブレナン、マーシャル、スティーブンス各判事が同意し、スティーブンス判事は単独でも反対意見を記した。

 この判決は17年後のLawrence v. Texas539 U.S. 558 (2003))で判例変更されているが、裏話があり実は多数意見に賛同しているパウエル判事は、当初ブラックマンの陣営に与し違憲判決となるところだったが、決定票を握っていたパウエル判事が後悔し、主席判事に投票のやり直しを要請し、ひっくり返ったのである。

 私は、妥当な判決であり、国家・社会の擬集力となる道徳・倫理を重んじた共和主義的憲法理論として評価する。ホワイト法廷意見の論旨に問題はなく、判例変更した2003年の判決にかなり問題があると考えている。

 しかし、感銘を受けたのは、ユダヤ・キリスト教の伝統を継承する西欧文明諸国家の歴史においては、一貫して、男性同性愛行為は自然に反する忌まわしい醜悪行為と看倣され、宗教的、道徳的、法的規制の対象とされてきたのであって、同性愛行為を憲法上の人権として承認することは、西欧文明の至福千年の道徳的教訓を破棄するに等しいと断じた、バーガー主席判事の補足意見である。

 バーガー主席判事は、ニクソン任命の共和党員であり、ウォーレンコートの左傾化を正す期待から起用されたものの、ロー対ウエード判決の多数意見に与したため保守派からは期待外れと評される。しかし、私は同判事の「秩序を重んじたうえでの自由」という理念は賛同するものであり、特にアーミッシュやエホバの証人といった宗教上の少数派の思想の自由を擁護した判決を高く評価してよく、良心的な穏健保守派の裁判官といってよい。

 歴史と伝統を重視した見解は、国教樹立禁止条項が争点となった、クリスマスのキリスト生誕シーンの人形への公金支出、議会の牧師による祈祷を合憲としたて判決にもみられるが、この補足意見も同様であるが、もっとも強い印象をもつ。

 

バーガー主席判事(連邦最高裁長官)の凄みのある補足意見

「男性同性愛行為に関する個人の決定は西欧文明の歴史を通じて常に国家の規制に服してきた。その種の行為に対する非難はユダヤ・キリストの道徳的・倫理的規範に強固に根ざしている。男性同性愛行為は、ローマ法においても死刑に相当する犯罪だった。‥‥イギリス法でも、教会法の管轄権が国王裁判所の管轄権に移された宗教改革の時代に、男性同性愛行為をを刑法上の犯罪と定めた。最初のイギリス制定法(1533)が議会で制定されている。W・ブラックストンによれば、この男性同性愛行為という自然に反する破廉恥な行為"the infamous crime against nature"強姦よりも重大な悪行"deeper malignity"であって、その行為に言及することですら人間の本性に羞恥となるような極悪な行為"the very mention of which is a disgrace to human nature,"最も卑劣な犯罪"a crime not fit to be named."である。と述べられている。[ W. Blackstone4, Commentaries *215. The common law of England(179569)]イギリスのコモン・ローは、この男性同性愛行為

処罰を含めて、ジョージア州その他のアメリカの植民地の法として継受され‥‥‥そのような歴史的意味有する男性同性愛行為を、連邦最高裁判所が、ここで、合衆国憲法上の基本的権として保障されるのだと判示することは、至福千年の道徳的教訓aside millennia of moral teachingを棄て去ることになるだろう。‥」[松平光央1987]

 

(続く)

 

 

CHIEF JUSTICE BURGER, concurring.

 

I join the Court's opinion, but I write separately to underscore my view that in constitutional terms there is no such thing as a fundamental right to commit homosexual sodomy.

 

As the Court notes, ante, at 192, the proscriptions against sodomy have very "ancient roots." Decisions of individuals relating to homosexual conduct have been subject to state intervention throughout the history of Western civilization. Condemnation of those practices is firmly rooted in Judeao-Christian moral and ethical standards. Homosexual sodomy was a capital crime under Roman law. See Code Theod. 9.7.6; Code Just. 9.9.31. See also D. Bailey, Homosexuality [478 U.S. 186, 197] and the Western Christian Tradition 70-81 (1975). During the English Reformation when powers of the ecclesiastical courts were transferred to the King's Courts, the first English statute criminalizing sodomy was passed. 25 Hen. VIII, ch. 6. Blackstone described "the infamous crime against nature" as an offense of "deeper malignity" than rape, a heinous act "the very mention of which is a disgrace to human nature," and "a crime not fit to be named." 4 W. Blackstone, Commentaries *215. The common law of England, including its prohibition of sodomy, became the received law of Georgia and the other Colonies. In 1816 the Georgia Legislature passed the statute at issue here, and that statute has been continuously in force in one form or another since that time. To hold that the act of homosexual sodomy is somehow protected as a fundamental right would be to cast aside millennia of moral teaching.

 

This is essentially not a question of personal "preferences" but rather of the legislative authority of the State. I find nothing in the Constitution depriving a State of the power to enact the statute challenged here.

 

引用

 

イレイン・ペイゲルス.

1993『アダムとエバと蛇―「楽園神話」解釈の変遷』絹川・出村訳 ヨルダン社.

 

松平光央

1987「西欧文明,同性愛,バーガー・コート--アメリカ連邦最高裁判所の同性愛処罰法合憲判決を中心に」法律論叢(明大)

」60巻23

2018/06/10

東京都「人権尊重条例」に反対する下書き(1)同性愛を道徳的に承認しない市民を攻撃し、市民的自由を奪おうとする悪法

1. 「人権」よりも近代市民的自由が重要、特に、「人権」尊重政策として私人間の契約(雇用判断や住宅の賃貸等)の自由を規制、制約していこうとする指向の政策に強く反対する。

 (1) LBGTの人権という思想の過ち
 東京都は人権という概念をむやみに拡大しすぎる。東京都が非常にずるいのは人権それ自体が不確定概念、人格権をいっているのか人格的尊厳をいっているのか、厳密な定義もなく用い、たんに雰囲気でなんでも人権に祭り上げ、けっして憲法上の権利とはいわないところだ。憲法上の権利といってしまうと、私人間効力が否定されるので、都民や事業者に差別を禁止したり責務を課すことしが困難になるためと思われる。
 問題は、LBGTの人権尊重という思想のうちに、同性愛を道徳的に承認しない西洋文明の伝統的な規範意識をもつ人や、反同性愛の根拠となっている聖書思想やギリシャ哲学、保守的なクリスチャン等への敵意が看取でき、そうした人々、伝統的には正統的な立場にあるまともな人々の意識を変革しようという思想統制、全体主義の側面があるだけでなく、雇用判断(採用、昇進、解雇等)やその他契約の自由(大家さんが自由に賃貸人と契約する権利)をに干渉し、近代自由主義経済の原則である契約の自由の侵害を正当化させ、人権尊重の名のもとで近代的市民自由が規制、制約されていくことである。
 声を大にしていいたいのは、市民には、同性愛を道徳的に不承認とする価値観、信念をもつ自由があり、そのために市民的自由(契約の自由)が制約されるべきではない。小池都知事や都議会に、都民に道徳的選好を強要する権利などないということだ。
 文明規範の危機として憂う事態である。
 小池都知事や都民ファーストはLBGT運動が時流とみてたぶんロビー攻勢もあり、票になると踏んでやりたいのだろうが、競技スポーツで同性愛者を差別しないとことをオリンピックの政策とするのは運営者の勝手であるが、そのために一般社会も巻き込んでいくのはやり過ぎである。こんなことなら、オリンピックは招致しないほうがよかった。
 近年、残業時間規制や女性活躍のためのポジティブアクションなどもそうだが、雇用契約という本来自由主義では政府が干渉してはならない領域に干渉する準社会主義政策がはやっているが、近代市民的自由、自由企業体制の危機と訴えたい。
 票になることが正しい政治なのではない。一般に、真性に近い男性同性愛者は、人口の5~10%、女性は3~5%、バイセクシャルはその倍とされているので、選挙を左右するほどの勢力を有し、LBGT運動は近年急速に発言権を強くしているが、人権尊重と称して同性愛を道徳的に承認しない伝統規範を信奉する人々が攻撃されたり、多数者である異性愛者が肩身の狭い思いをさせられり、市民的自由を制約されるいわれはなく、ノイジーマイノリティに踊らされる政治ほど不愉快なものはない。
もとより、私は1980年代に広まったエイズ保菌者はすべて同性愛者であるというような誤解に与することはしないし、軽蔑するようなことはしない、むしろ有能な人物が多いことも知っている。合意のもとでの同性愛行為それ自体実害のないものであり、敵意もない。むしろその噂で歌手が紅白出場を降ろされたりするのは気の毒とさえ思った
 しかし東京都のような地方自治体であれ中央政府であれ、国民に特定の道徳的選好を強いることは全体主義であり許されない。同性愛が不道徳であるとい人々の信念を変えさせられたり、少数者によって多数者の価値観を覆させられるいわれはない。絶対反対である。

(2)欧米と比較して同性愛タブーの乏しい我が国で深刻な問題はない
 西洋文明圏では、ソドミー、男性同性愛行為は神の定め給う自然法の掟に反し、「自然に反する罪」「自然に反する性行為の罪」とされ、キリスト教徒にとっては異端であり、あるいは社会の存続にとって危険な行為とされてきた。
 欧米諸外国ではソドミー(男色行為)は刑罰の対象とされてきたが、見直しが行われるようになったのは、1954年英国のウォルフェンデン卿委員会の勧告がきっかけである。これは売春も含めて被害者なき犯罪の非犯罪化の提唱であった。道徳に対する罪と法律上の罪を区別するという基本哲学であるが、道徳の罪の非犯罪化は社会的・道徳的紐帯を崩壊させるという反対論も有力で 白熱した学術的論争がなされた。しかし英国では1967年に同性愛行為を合法化 (但しスコットランドは1980年)し、その後1980年代までに西欧諸国のの大多数が同性愛行為を合法化している(勿論バチカンは反対)。
 米国においてもアメリカ法曹協会が合意による男色行為は実害のない犯罪として、諸州の異常性行為(ソドミー)処罰法の廃止が提言されたが、連邦最高裁は Bowers v. Hardwick (1986)で5対4の僅差で、肛門性交(アナルセックス)、口腔性交(フェラチオ)といった異常性行為(適用の対象は男色行為)を処罰する州法を合憲として、男色行為はいわゆるプライバシー権によって憲法上保護されないことを明らかし、西欧の非犯罪化の趨勢とは一線を画した。米国は欧州ほど世俗化されておらず、社会の道徳的紐帯を重視する共和主義憲法理論を示した名判決である。
 ところが、連邦最高裁はLawrence v. Texas、539 U.S. 558 (2003))で先例を覆し、私的な空間での合意による性行為はそれが男色行為でれ、憲法の実体的デュープロセスによって保護されるという6対3の判決で、男色行為処罰州法を違憲としたので、全米で同性愛行為の非犯罪化がなされた。
 一方、我が国では、西洋と違って同性愛を自然に反する性行為として処罰するという法文化に乏しく、院政期より近世初期まで「待童」「小姓」「念友」といった男色行為の盛行がみられる。とくに室町から戦国時代が男色の極盛期とされる。左大臣藤原長が『台記』で同時精液発射は至高との快楽と記したように罪悪感は微塵もみられない。徳川時代に衆道禁止令、明治期に「鶏姦スル者ハ懲役九十日」等の処罰法の存在が指摘されているが、大筋において我が国には欧米諸国なら普通だったソドミー処罰法は存在していなかったといってよいだろう。米国では21世紀に入っても男色行為処罰法が生きていたという状況とは全然違うのであり、我が国は性的快楽追求を否定せず、オーラルセックス(フェラチオ、クリニン具すにも、アナルセックスにもそれが同性であっても罪悪感に乏しく寛容な文化といえるのである。
 要するに、アメリカ合衆国は2003年まで、同性愛行為を行う権利を憲法上の基本的人権と承認していなかったが、我が国はそうではない、同性愛行為を行う権利を認めていた。だからことさら同性愛者の人権を法制化する理由はないのである。
同性愛者に雇用、社会生活上の便宜供与や優先処遇を与えるとなれば、一般市民の私法上の権利、契約の自由といったものとバッティングすることになり、契約の自由を制限してまで同性愛者を厚遇しなければならない根拠というものも乏しいのである。
 実際、我が国は、西洋と違って同性愛タブーに乏しく格別同性愛者に憎悪や敵意をかきたてる文化的背景がないのが特徴といえる。実例ちとては、「おねえ系」タレントが人気がありメディアで活躍しているをあげてよいと思う。例えばカルセール麻紀、美川憲一、池畑慎之介、おすぎとピーコ、KABA.ちゃん、KINYA、 假屋崎省吾、クリス松村、IKKO、はるな愛、マツコ・デラックス。『2011ユーキャン新語・流行語大賞』でトップ10になった楽しんごの「ドドスコスコ‥‥ラブ注入」というギャグは肛門性交を連想させるが、賞を受けるたけでなく大手企業のCMにも起用されるタレントで、我が国では偏見がないことを証明している。
 私は、ウォルフェンデン卿委員会のリベラルな刑事政策に賛成であるゆえ、売春や賭博の非犯罪化も妥当と考えるから、もとより私的空間での合意による性行為の自由という価値判断も妥当と考えるものであるが、我が国には男色行為を処罰するという発想はもともとなかったので、この点で欧米の前世紀の状況のような深刻な問題はない。ことさら同性愛者の人権を強調する必要はないというべきである。
 もっとも、東京都教委は、青年の家利用拒否事件で同性愛団体から訴えられたことがある。府中青年の家利用申込不承認事件・東京地裁平6・3・30判決判タ859号163頁は、平成2年2月、動くゲイとレズビアンの会は、府中市是政にある府中青年の家(東都の条例により設置され、利用にあたっては教育委員会の承認を要する)において勉強会合宿を行った際、他の利用者から嫌がらせを受けたため、青年の家に対し善処を求め、更に5月にも宿泊使用すべく申込みをし、館長及び都教育長担当課長と交渉を重ねたが、教育委員会は最終的に東京都青年の家条例八条一号(「秩序を乱すおそれがある」)、及び二号(「管理上支障がある」)に該当するとして利用不承認処分とした。なお、青年の家は一室に複数の利用者が宿泊する形態であった。
 動くゲイとレズビアンの会は、不承認無処分が憲法21条、26条から導かれる施設利用権を違法に侵害しているその他の主張により損害賠償を請求した。
 判決は、都教育委員会にも職務を行うにつき過失があったものといわざるをえないとして損害賠償を認めた。
 東京都教育庁担当課長は、団体側の弁護士に対して、「まじめな団体だといってるけど本当は何をしている団体か分かりませんよね」「何のために青年の家を利用するか疑わしいですよね」「同性愛者がいっしょにいるというだけで、子供たちは悪い影響を受けますよ」などと発言していたが、初めからこの利用申込み者を軽蔑していたようにも思える。これは過失があったと指弾される心証を与えている。裁判所は教育委員会が、性的行為が行われるという具体的可能性もないのに、誤った予断にもとづいて不承認の判断を行ったとみたようだ。
 この問題は決着がついて、控訴審東京高判平9・9・16判例タイムズ986号206頁は、同性愛者の利用権を不当に制限し、結果的、実質的に不当な差別的取扱いをしたものであり、処分の裁量権の範囲を逸脱したものであって,違法であるなどとしたが,原判決を変更して、弁護士費用を認めず認容額を減縮して、請求の一部を認容した。都教委は上告せず確定判決となっている。判例によって同性愛者の公共施設利用が不当に侵害されることは違法であることは明白であり、東京都も反省していることだから、ことさら同性愛者の人権を強調する必要性はないというべきである。 
 
 (3)同性愛者に「人間の尊厳」は該当しない

 東京都は人格的尊厳という概念を勝手に人権としているようだが、「人間の尊厳」という思想は「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られているからだ」(創世記9・6)人間の生命の相互不可侵性の宗教的根拠づけに由来する。
 つまり人間の尊厳とは人間(男性)が神の似姿として造られたという神学的フィクションにすぎない。そんなものは虚構だ。その聖句がなければ所詮人間なんていうものは「糞が詰まった革袋」以外の何物でもないというほかない。
 勿論私は、イエスが人間の神的創造の基準だった完全な神の似姿であると言う新約聖書の思想、男性こそ神の似姿であり、女性より優位にあるという思想を否定することは絶対にしない。神の似姿性は、人間が自己の身体、能力を他者に侵害されることなく自由に処分するという自由主義の源泉でもあるから尊重するのである。
 しかし一方で、人間は原罪によって倫理性は致命的に腐敗しているというのも西洋文明1500年の正統的な思想であるから、「人間の尊厳」とか東京都が勝手に「人権」と称している思想それ自体懐疑的である。人間性やヒューマニズムを全く信用しないというのが正しい思想と考える。米国のバイブルベルトの保守的クリスチャンが「世俗的ヒューマニズム」を悪としていることに私は共鳴するものである。
  一方、人格とは理性的本姓をもつ個体のことで、人間を理性的動物 とするギリシア思想に由来するとする見方もあるが、古典古代の異教思想はキリスト教的に克服されなければならないというのが西洋文明の正統的な脈絡である。人格権概念のもとは聖書思想に由来するとみてよいのである。
 私が、同性愛を道徳的に承認しない理由の第一は、西洋文明2500年の伝統である。
 レビ記20章13節「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」同性愛を明確に悪とする根拠である。
 聖書思想は人格権の根拠でもあるが、男色行為を憎むべきことと教えているので、同性愛者に人間尊厳を認めることは神学的に論理矛盾でありえないことである。
(続く)
引用・参考 
W.パネンベルク
1990 佐々木勝彦訳『信仰と現実』日本基督教団出版局
東野治之
1979「日記にみる藤原頼長の男色関係―王朝貴族のウィタセクスアリス」ヒストリア84号
松平光央
1987「西欧文明,同性愛,バーガー・コート--アメリカ連邦最高裁判所の同性愛処罰法合憲判決を中心に」法律論叢(明大)
」60巻2・3号

2017/04/29

熟女好きになる要因とは

 後白河法皇の『梁塵秘抄』巻二394番「女の盛りなるは、十四五六歳、廿三四とかや、三十四五にし成りぬけば、紅葉の下葉に異ならず」は歌謡研究者にはあまりにも有名な今様だが、結婚適齢期の女ざかりは14~16歳とするのである。
 女性の肉体が輝いているのはこの年代にほかならない。たとえジェイケービジネスを規制しようとも真実はかわりない。この今様では三十四五は大年増という評価である。「もみじの下葉」の扱いである。
 ところが大統領当選が有力視されているマクロンは24歳年上の妻がいるというのである。政略結婚でもありえないような年齢差のように思える。
 夕刊フジ4月28日付の脳科学者中野信子のコラムによれば、鼻唇溝のある顔を好む人が熟女好きである。彼らを産んだときの母親の年齢は30歳以上だという。つまり、高齢出産は熟女好きを生み、悪循環に陥る危険を指摘している。
 若くて美しい女をえり好みするのは人間ならではの特徴である。なぜならば、サルや類人猿は人間のようなえり好みはしないということである。ニホンザルには閉経はない。したがって、年増のメスも好まれる。むしろ子育て経験の豊富なほうが、遺伝子を遺しやすい。類人猿のオランウータンは遊動域で偶然遭遇したメスが発情していればえり好みせずレイプする。もっとも発情しているのを確かめるので正確にいえばレイプではない。ゴリラは一夫多妻の集団をつくるが、ハーレムに参加の選択権はメスにある。人間のように二足歩行はできないので。メスを誘拐できないのだ。
 年増好きが増えたら人類はサルに退化していくことになると考えられるのである。

2015/06/27

西洋文明2500年の道徳的教訓の崩壊

  月曜日かとおもってたら金曜日だったんだな。予測されていたとはいえショックである。6月26日全ての州で同性婚を認める5対4の連邦最高裁判決であるが、同性愛が悪であるというのは聖書的根拠がある。旧約聖書のレビ記20章13節。  「女と寝るように男と寝るのは、ふたりとも憎むべきことをしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰することになるであろう」それが西洋文明2500年の規範的価値といえるのである。つまりこの判決で文明規範は崩壊したといえる。人間は野蛮に回帰していくのか。非常に困ったことになった。

 アメリカ合衆国は至福千年の道徳的教訓を捨て去ったことなるが、神学的にも同性婚は受け容れられない。

 今日の西洋人の結婚観の基本は12世紀の古典カノン法、合意主義婚姻理論である。これはペトルス・ロンバルトゥスの見解とも、教皇アレクサンデル3世自身の持論とも云われるが、グラティアヌスらの合衾主義理論との論争に決着をつけたものである。合意主義とは処女であったマリアもヨゼフとの真正の結婚があったとする立場から、合衾に至らずとも男女の合意で婚姻は成立するというものである。西洋人の結婚観、それは現代日本も基本的には同じだが、両性の合意の重視、恋愛結婚が許容されているのはこのためである。しかし合衾主義との折衷がロンバルトゥスとあれ教皇アレクサンデル3世の理論であって合衾(肉体的結合)により結婚は完成することになっている。つまり肉体的結合がなければ離婚は可能という理論であったから、合衾の意義も重視されていた。

 しかも肉体的結合は神聖なものであって、花婿キリストと花嫁教会の結びつきを意味するサクラメントとされたのである。これが伝統的結婚観念であるが、だから男女の結合は神聖だ。

 しかし同性婚には神聖な結合などありえない。なぜならば、そのアナルセックスは憎むべきものであり、凹凸のないレズビアンにはそのような結びつきはありようがないと考えられるからである。であるから同性の真正の結婚など認めるわけにはいかないのである。

 合衆国憲法の平等保護条項と日本国憲法は違うし、明文で両性の合意とあるとはいえ、ノイジーマイノリティが騒ぐこととなる。これはオバマの勝利かもしれない、連邦裁判所下級審にリベラルな裁判官が送りこますぎた。ケネディ判事がもっと慎重な判断ができなかったのか非常に遺憾な結果だといわなければならない。

2014/10/20

刑法176条・177条改正反対 その2

自民党に出した600文字以内のバージョン

松島法相の政策である強姦罪について親告罪の見直しと、同意であっても強姦とみなすいわゆる「法定強姦罪」を13歳未満とする(刑法176条・177条)規定を見直し年齢の引き上げる方針に反対である。
 刑法以前の定律例第260条は、12歳以下との同意性交を違法としていることから一貫して同じで変える必要など全くない。成熟した女子、土俗的にいえば赤い腰巻をした娘と合意性交は犯罪と考えるべきではない。
 
先進的な立法も13歳を基準としているからである。
 近年米国では法定強姦罪年齢が、特に良家の娘の貞操を守るというバターナリズムよって、近代になって18歳等高い年齢を設定する方向で法改正されたことが批判され、改革されている。1974年のミシガン州法改正が強姦罪見直しのモデルとされているが、第一級性行為罪(性的挿入)は13歳未満とされている。[1]最も先進的な性犯罪法のモデルとなっている1974年ミシガン州第一級性行為罪は、我が刑法とほぼ同じことである。
 松島法相は、強姦より強盗の罪が重いはおかしいという議論をしているが近代市民法の基本原理が所有権、財産権。契約の自由であるから、強盗の罪が重くて不自然だとは全然思わない。しかも強姦は我が国では減少している。

註(1)斉藤豊治「アメリカにおける性刑法の改革」『大阪商業大学論集』5(1)200

刑法176条・177条改正反対


 松島法相辞任のニュースをみて法務省と首相官邸にメールを送りました


松島法相の政策である強姦罪について親告罪の見直しと、同意であっても強姦とみなすいわゆる「法定強姦罪」を13歳未満とする(刑法176条・177条)規定を見直し年齢の引き上げる方針に反対である。松島法相が「うちわ」の問題で辞任されたのだからこの際この政策もやめてもらいたい。。
 刑法以前の定律例第260条「十二年以下ノ幼女ヲ姦スモノハ和ト雖モ強ト同ク論スル」により、12歳以下との同意性交を違法としていることから一貫して同じでありこれを変える必要など全くない。。成熟した女子、土俗的にいえば赤い腰巻をした娘と合意性交は犯罪と考えるべきではないのである。
 養老令の女子婚姻適齢が数えの13歳、持統女帝の結婚年齢も13歳である(唐の永徽令も同じ)。これは西洋でも基本的には同じことである。ローマ法、古典カノン法、コモンローの女子婚姻適齢が12歳だからである。つまり12歳が古今東西女性の成熟の世界の標準なのである。
(なお教会法は成年期を満20歳と定められているが、これと別に成熟年齢があり男子14歳、女子12歳であり、未成熟者の7歳以下を幼児と区別するのである[1]。1918年成文の教会法典では婚姻適齢を男子16歳、女子14歳としているが、古くから教会法は、ローマ法を継受し男子14歳、女子12歳を婚姻適齢とし、将来の婚姻約束は7歳から可能としたのである。(コモンローも教会法と全く同じ14-12歳である)。教会法学者はローマ法の婚姻適齢をさらに緩和した。婚姻適齢未満でも成熟に達していれば婚姻適齢とみなすとしたのである。生理学的成熟(初潮・精通)ではなく、同衾に耐えられる大人っぽさであり心理学的成熟を含む概念とされる。
合意性交でも処罰する法定強姦罪はイギリスでは13世紀の制定法で、12歳未満であったが、16世紀に10歳に引き下げられ、その後13歳に引き上げられ、1885年に16歳となったとされる[2]。)

要するに私は、養老令、唐永徽令、ローマ法、古典カノン法、コモンローの基準である12~13歳を変える必要はないと思う。それは古いのではないかというかもしれないがそれはあたらない。先進的な立法も13歳を基準としているからである。。

 

 近年アメリカでは法定強姦罪(合意性交でも強姦とみなす)の年齢が、か弱き女性を保護する、特に良家の娘の貞操を守るというバターナリズムよって、近代になって18歳等高い年齢を設定する方向で法改正されたこと[3]が批判され、法定強姦罪は改革されている。1974年のミシガン州法改正が強姦罪見直しのモデルとされているが、第一級性行為罪(他人に対する性的挿入)は13歳未満とされている。ただし13歳以上16歳未満については、親族や被害者の通学する学校の教師が性行為を行った場合市は第一級性行為罪とされるのである[4]アメリカで最も先進的な性犯罪法のモデルとなっている1974年ミシガン州の法定強姦罪に相当する第一級性行為罪を13歳未満としていることからすれば、我が刑法177条とほぼ同じことであり、教会法やコモン・ローの成熟年齢と大きな隔たりはない、我が刑法は先進立法と合致し、現代にも通用するのである。
松島法相は、強姦より強盗の罪が重いはおかしいという議論をしているが近代市民法の基本原理が所有権、財産権。契約の自由であるから、強盗の罪が重くて不自然だとは全然思わない。しかも強姦は我が国では減少しており、性欲を人間性の重要な一部分として重視する立場なので厳罰化には反対である。
 女性の特殊生理的感覚や、ラディカルフェミニストの男性の性欲敵視思想に乗って刑法を改正するのは筋の悪い法改正と考える。

註(1)ルネ・メッツ著 久保正幡・桑原武夫訳『教会法』ドン・ボスコ社1962年 107頁
(2)中村秀次「アメリカにおける Statutory Rape Laws をめぐる平等保護論争とフェミニスト法学」『 熊本法学』 57 1988
(3) 例えば、マイケルM判決Michael M. v. Superior Court of Sonoma County, 450 U.S. 464 (1981)で問題になったカリフォルニア州法は1850年に10歳未満の法定強姦罪を制定し、1889年に14歳となり、1897年に16歳、1913年に18歳に引き上げられた。州によっては21歳にまで引き上げられた。(中村前掲論文)
(4)斉藤豊治「アメリカにおける性刑法の改革」『大阪商業大学論集』5(1)200

2014/06/16

児童ポルノ法改正18日にも参院可決を目前にして猛反省の弁

 私にとってヒーローというか最も尊敬していたのは実は左派(人権派)の大御所ブレナン判事だった。表現の自由ではなんといっても1989年の星条旗焼き捨て処罰違憲判決の法廷意見、プライバシー権では同年の死ぬ権利容認をする反対意見。終身任官のため大統領よりもアメリカ社会に絶大な影響力を行使した男である。ブレナン判事のすごいところは、保守派をとりこんでしまうところである。多くの人権判例で元来は保守的なブラックマンを味方につけ、星条旗焼き捨ていではスカリアとケネディを味方につけた。
 児童ポルノ単純所持処罰についても1990年のオズボーン判決(6対3)では反対意見を記している。
 ブレナン判事マンセーと言っている以上、児童ポルノ単純所持処罰反対は当然のことであったが、このような重大な表現権、プライバシーの危機にほとんど抵抗することもせず、言行不一致もはなはだしい、死んでお詫びをするのが筋だが、残念ながら、自分は歳を食って、人間が少し汚くなったので反省の弁を述べるとどめます。
 今後は、当面職場改革に専念し、実績を挙げたうえで国政の問題にも取り組みたいと考えます。
 

2014/06/03

児童ポルノ法改正単純所持処罰に強く反対

いまさら遅すぎて話にならないじないかとの非難があってやむをえない。何もしないで悪法が成立してしまうと、ショックが大きく手立ち直れなくなるので自分の精神衛生のため、ほとんど自慰行為かもしれないが、一応三党に意見をおくりました。

日本維新の会が3000字の字数制限なのでかなり長文のものが書ける。それが次のとおりです。

単純所持処罰となると思想の制約を課し、家庭内のプライバシーの重大な侵害となる。深刻な問題と認識している。

I たんにヌード写真、たんに女子の乳首の露出した写真は性的虐待・搾取と無関係であり、過度に広汎な規制といえる

 現行の児童ポルノ法は児童に対する性的搾取及び性的虐待の防止を規制目的としながら、「三号ポルノ」規定により規制目的とは密接な関連のないたんにヌード写真、女子の乳首の露出した写真まで規制の網にかけているため過度に広汎な規制といえる。
 アメリカ判例では、チャイルドポルノは猥褻、喧嘩言葉などの範疇と同じく憲法によって保護されない範疇に加えられてはいるが、規制が合憲であるためには、規制にはやむにやまれぬ利益が存在すること、さらに、規制している行為と未成年者の福祉という州の規制利益に密接な関連が存することを要するのである[NEW YORK v. FERBER, 458 U.S. 747(1982)]
 また、アメリカの判例理論には表現の自由の規制は、規制目的を達成するのに必要最小限度において認められるとする「過度に広汎性ゆえに無効の法理」があるが、たんにヌード写真、女子の場合は乳首が露出した写真ですら摘発の対象としているのは、過度の広汎性の基準を満たすものではない。むろん外国の判例理論ではあるが表現権の最先進国の基準に照らせば、我が国の児童ポルノ法はアウトといえるのである。
問題となる事例をいうと、例えば篠山紀信『神話少女 栗山千明』(新潮社1997年)12歳の少女の半裸写真を含む写真集である。栗山千明は女優として成功しており、この写真集は「クールビューティ」という彼女のイメージをつくり芸能界での成功のステップといえる。が性的虐待であるとは到底思えないのであるが、法改正で廃棄しなければ、刑罰に処される危険性がある。性的虐待とは無関係と主張しても警察は許さないだろう。到底納得できるものではない。またこれほどの美しい写真集を国会議員の淫欲敵視思想により焚書にするのはとても惜しい。

 またセクスティングは現行児童ポルノ法でも単純製造罪で有罪とされている。交際中の男女間で自撮りのヌード写真や思わせぶりな画像を送信する行為を「セクスティング」というが、IT機器が普及した今日においては相当広汎に行われているはずだ。単純所持処罰となればより深刻さは増す。
 私はたんにヌード写真はむろんのこと、俗に言う「くぱぁ画像」(性器開帳)であっても、それが無邪気なお遊びにすぎないものである以上、性的虐待、性的搾取とは関連がないから、児童ポルノ法の規制対象からは外すべきであると思う。とりわけ、性的にも成熟し大人っぽい年齢の「児童」が被写体である場合は。
 なぜならば、刑法176条・177条により、性的行為性交が合意のものであれば強姦とされない年齢が13歳とされており、性的に成熟した女子とみなされ、これは我が国の民俗的慣行と一致するだけでなく、教会法の成人は20歳であっても、成熟年齢はローマ法と同じく男子14歳・女子12歳としている考え方とも類似しているが、13歳以上の女子は法的に慣習としても性的行為を受容して性交に同意する能力(性的自己決定権)があるものと解釈されるのであって、また、民法731条法定婚姻年齢も女子は16歳であることから、親密な人間関係を築き、結婚し家庭を持つことが、幸福追求権のなかでも核心的な価値である以上、セクスティングのある男女交際から結婚にいたるケースも想定しうることを考慮するならば、英米法とくに表現権を専門とする紙谷雅子学習院大学教授も、児童ポルノ法でのセクスティング訴追は疑問[紙谷雅子「セクスティングとチャイルド・ポルノグラフィ」『学習院大学法学会雑誌』46巻1号2010年]としており、私もそう思う。被害者なき犯罪の拡大と非難されるべきである。

II 児童ポルノ法単純所持処罰を許せないのは「児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」する立法趣旨が、異常な性欲敵視思想であり、事実上の全体主義的思想統制になるためだ

 ここでいう「児童」とは「児童の権利条約」の「児童」(18歳未満)であるが、性的行為の自己決定権を有する13歳以上も含むものである。正常な男性ならば第二次性徴期ないし破瓜期以降の女性は性的魅力があり性欲の対象となるものであり、それは自然である。土俗的には赤い腰巻きをした思春期以降の女子は成女とされたのである。18歳未満を性的対象とする風潮の防止とする公定イデオロギーは、ストア主義者顔負けの異常な性欲敵視思想であり、それは、性を人間性の重要な一部分のみなす、精神医学の考え方にも反するものである。
 しかし、仮に私が『神話少女』を所持し、法改正後も廃棄せず、家宅捜索され発見されたとする。モデルの性的虐待・性的搾取にかかわった者として刑罰に処されるのは全く不合理である。にもかかわらず児童ポルノ法は「児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」する立法趣旨もあるので、あなたが性的虐待にかかわってないとか規制目的と関連してないと主張しようとそんなのは関係ない、18歳未満のヌード写真の所持を取り締まることが「児童を性的対象とする風潮の助長」を防止する効果があるので、あなたはこの公定イデオロギーにさからったから刑罰に処されて当然ですと警察は言うはずだ。
 これは事実上の全体主義的思想統制になるし、むろんプライバシーの重大な侵害である。
 アメリカ判例ではOsborne v. Ohio, 495 U.S. 103 (1990)が思わせぶりなポーズをとった少年のヌードの単純所持処罰を6対3で合憲としているが、ホワイト判事の法廷意見は、見る人に対する道徳的倫理的観点からの規制ではなく、あくまでも未成年の身体的精神的健全性を保護し、子どもに対する搾取と虐待を処罰するというチャイルドポルノグラフィ規制であるのため合憲とされたのである。(ただし私は反対意見を期したブレナン判事が正しいと考えている) つまりこの判決は、パターナリスティックな立法目的、特定の価値観を強制するようなものであれば、先例であるStanley v. Georgia 394 U.S. 557(1969)が猥褻物件の単純所持処罰について、この州法の立法目的がわいせつ作品がそれを見る者にとって有害であるがゆえに規制する必要性があるというパ夕一ナリスティックなものであったが、そうした規制は思想の自由の制約として合憲 とはいえないとして猥せつを規制する州の権限は、個人が自己の住居内で私的に所持しているにすぎない場合まで拡張されるものではないと違憲判断を下したこととの整合性から合憲判断にはならないということを言っているのであって、そうすると、この理論からすると明らかに立法目的がパターナリスティックな日本の児童ポルノ法は、国民に思想の制約を課すものであるから単純所持処罰まで拡大することはなじまないと明確にいえる。
(詳論は、川西正彦のブログをご笑覧いただければ幸甚に損します)

2014/06/02

国会議員へ 児童ポルノ法改正単純所持処罰導入に強く反対する意見(下書き)

 私は、現行の児童ポルノ法が表現権を侵害していると考えるが、さらに単純所持処罰となると思想の制約を課し、家庭内のプライバシーの侵害となり、思想の自由、プライバシーの重大な危機となるので強く反対である。

 

 

Ⅰ たんにヌード写真、たんに女子の乳首の露出した写真は性的虐待・搾取と無関係であり、過度に広汎な規制といえる

 

 現行の児童ポルノ法は児童に対する性的搾取及び性的虐待の防止を規制目的としながら、「三号ポルノ」規定により規制目的とは密接な関連のないたんにヌード写真、女子の乳首の露出した写真まで規制の網にかけているため過度に広汎な規制といえる。

  アメリカ判例では、チャイルドポルノは猥褻、喧嘩言葉などの範疇と同じく憲法によって保護されない範疇に加えられてはいるが、規制が合憲であるためには、規制にはやむにやまれぬ利益が存在すること、さらに、規制している行為と未成年者の福祉という州の規制利益に密接な関連が存することを要するのである[NEW YORK v. FERBER, 458 U.S. 7471982]

 また、アメリカの判例理論には表現の自由の規制は、規制目的を達成するのに必要最小限度において認められるとする「過度に広汎性ゆえに無効の法理」があるが、たんにヌード写真、女子の場合は乳首が露出した写真ですら「三号ポルノ」の解釈から摘発の対象としているのは、過度の広汎性の基準を満たすものではない。むろん外国の判例理論ではあるが表現権の最先進国の基準に照らせば、我が国の児童ポルノ法はアウトといえるのである。

  具体的に問題となる事例をいうと、例えば篠山紀信『神話少女 栗山千明』(新潮社1997年)12歳の少女の半裸写真を含む写真集である。栗山千明はチャイドル美少女と評判だったが、ハリウッドに進出し準主役に抜擢されるなど女優、タレントとして成功したおり、この写真集は「クールビューティ」という彼女のイメージをつくり芸能界での成功のステップといえるものである。これが性的虐待であるとは到底思えないのであるが、法改正で廃棄しなければ、刑罰に処される危険性がある。性的虐待とは無関係と主張しても警察は許さないだろう。到底納得できるものではない。またこれほどの美しい写真集を国会議員の淫欲敵視思想により焚書にするのはとても惜しい。

 またセクスティングは現行児童ポルノ法でも単純製造罪で有罪とされている。交際中の男女間で自撮りのヌード写真や思わせぶりな画像を送信する行為を「セクスティング」というが、携帯やIT機器が普及した今日においては相当広汎に行われているとみるのが自然である。単純所持処罰となればより深刻さは増す。

 私はたんにヌード写真はむろんのこと、俗に言う「くぱぁ画像」(性器開帳)であっても、それが無邪気なお遊びにすぎないものである以上、性的虐待、性的搾取とは関連がないから、児童ポルノ法の規制対象からは外すべきであると思う。とりわけ、性的にも成熟し大人っぽい年齢の「児童」が被写体である場合は。

 なぜならば、刑法176条・177条により、性的行為性交が合意のものであれば強姦とされない年齢が13歳とされており、青少年保護育成条例でたぶん大多数の自治体がみだらな性行為を禁止しているとしても、国の法律は13歳未満でなければ性的に成熟した女子とみなされ、これは我が国の民俗的慣行と一致するだけでなく、教会法の成人は20歳であっても、成熟年齢はローマ法と同じく男子14歳・女子12歳としている考え方とも類似しているが、13歳以上の女子は法的に慣習としても性的行為を受容して性交に同意する能力(性的自己決定権)があるものと解釈されるのであって、また、民法731条法定婚姻年齢も女子は16歳であることから、親密な人間関係を築き、結婚し家庭を持つことが、幸福追求権のなかでも核心的な価値である以上、セクスティングのある男女交際から結婚にいたるケースも想定しうることを考慮するならば、英米法とくに表現権を専門とする紙谷雅子学習院大学教授も、児童ポルノ法でのセクスティング訴追は疑問[紙谷雅子「セクスティングとチャイルド・ポルノグラフィ」『学習院大学法学会雑誌』46巻1号2010年]としており、私もそう思う。被害者なき犯罪の拡大と非難されるべきである。

 

Ⅱ 児童ポルノ法単純所持処罰を許せないのは「児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」する立法趣旨が、異常な性欲敵視思想であり、事実上の全体主義的思想統制になるためだ

 

 ここでいう「児童」とは「児童の権利条約」の「児童」(18歳未満)であるが、性的行為の自己決定権を有する13歳以上も含むものである。正常な男性ならば第二次性徴期ないし破瓜期以降の女性は性的魅力があり性欲の対象となるものであり、それは自然である。土俗的には赤い腰巻きをした思春期以降の女子は成女とされたのである。18歳未満を性的対象とする風潮の防止とする公定イデオロギーは、ストア主義者顔負けの異常な性欲敵視思想であり、それは、性を人間性の重要な一部分のみなす、精神医学の考え方にも反するものである。

 しかし、仮に私が『神話少女』を所持し、法改正後も廃棄せず、なんらかの口実で家宅捜索されて、それが発見されたとする。モデルの性的虐待・性的搾取にかかわった者として刑罰に処されるのは全く不合理である。にもかかわらず児童ポルノ法は「児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」する立法趣旨もあるので、あなたが性的虐待にかかわってないとか規制目的と関連してないと主張しようとそんなのは関係ない、18歳未満のヌード写真の所持を取り締まることが「児童を性的対象とする風潮の助長」を防止する効果があるので、あなたはこの公定イデオロギーにさからったから刑罰に処されて当然ですと警察は言うはずだ。

 これは事実上の全体主義的思想統制になるし、むろんプライバシーの重大な侵害である。

 アメリカ判例ではOsborne v. Ohio, 495 U.S. 103 (1990)が思わせぶりなポーズをとった少年のヌードの単純所持処罰を6対3で合憲としているが、ホワイト判事の法廷意見は、見る人に対する道徳的倫理的観点からの規制ではなく、あくまでも未成年の身体的精神的健全性を保護し、子どもに対する搾取と虐待を処罰するというチャイルドポルノグラフィ規制であるのため合憲とされたのである。(ただし私は反対意見を期したブレナン判事が正しいと考えている)

 つまりこの判決は、パターナリスティックな立法目的、特定の価値観を強制するようなものであれば、先例であるStanley v. Georgia 394 U.S. 5571969)が猥褻物件(8ミリフィルム)の単純所持処罰について、この州法の立法目的がわいせつ作品がそれを見る者にとって有害であるがゆえに規制する必要性があるというパ夕一ナリスティックなものであったが、そうした規制は思想の自由の制約として合憲 とはいえないとして猥せつを規制する州の権限は、個人が自己の住居内で私的に所持しているにすぎない場合まで拡張されるものではないと違憲判断を下したこととの整合性から合憲判断にはならないということを言っているのであって、そうすると、この理論からすると明らかに立法目的がパターナリスティックな日本の児童ポルノ法は、国民に思想の制約を課すものであるから単純所持処罰まで拡大することはなじまないと明確にいえる。

 

 以上が私の反対意見の概要であるが詳論は、川西正彦のブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-7bb7.htmlをご笑覧いただければ幸甚に存じます。

 

2014/06/01

児童ポルノ法改正単純所持処罰導入に対する反対意見(その7完)

承前

(各論)

 

 

Ⅲ 写真集『神話少女 栗山千明』単純所持処罰絶対反対

 

児童ポルノ法が規制目的と密接な関連のない存しないものまで網にかけている例として、ここでは写真集『神話少女 栗山千明』を一つの例にして取りあげたい。

 

篠山紀信の『神話少女 栗山千明』(新潮社1997年)という11歳の美少女を被写体とした上半身ヌードを含む写真集が出版されているが、その後、たぶん児童ポルノ法制定との関連で出版社が自主回収し、絶版となり、たぶん現在では古本としても流通していない。

栗山千明(1984年生)は5歳のころからファションモデルであったが、日産ステージアのCМ(1996年)で美少女と評判となり、「チャイドル」ブームを巻き起こした。深作欣二監督の「バトルロワイヤル」(2000年)が女優としての出世作で、ハリウッドに進出、『キル・ビル Vol.1』(2003年)で準主役に抜擢されるなど、女優、モデル、タレントとして成功している。

篠山紀信は芸術的と評されるのが嫌いな写真家で、ヌード写真とは美しく、見ていて気持ちよく想像力を刺激するものを追求しているとされる[i]。オーソドックスな手法で見る人に喜ばれるものを提供してくれる写真家であるが、クールビューティと称される栗山千明を魅力的に撮っている。これはたんに美しい写真で、3号ポルノにあたらないという解釈もありうるが、3号ポルノとされる可能性ももちろんある。

篠山紀信は『少女館』というヌードのないチャイドルの集合写真集も出版しているが、モデルの中で最も魅力的なのが栗山千明であった。むろん親の身上統制権による承認のもとで撮影されたものであろうし、この撮影が少女に生理的、感情的、精神的な面での悪影響があったとは到底思えない。こうした芸能活動を規制することが未成年者の福祉と密接に関連するものとはいえないのである。むしろ栗山千明が女優・タレントとして成功するステップとなっている。児童ポルノ法はこうした芸能活動を規制し、表現活動を委縮させる効果をもたらしているが、それは子供の虐待防止と無関係だ。

仮に、私が『神話少女 栗山千明』を所持していたとする。法改正にもかかわらず廃棄せず、そのために捜索を受け、発見されたとする。それによって私は栗山千明の性的虐待に性的搾取にかかわった者として刑罰に処されるのは全く不合理である。にもかかわらず児童ポルノ法は「児童を性的対象とする風潮が助長されることを防止」する立法趣旨もあるので、あなたが性的虐待にかかわってないとか規制目的と関連してないと主張しようとそんなのは関係ない、18歳未満のヌード写真の所持を取り締まることが「児童を性的対象とする風潮が助長」を防止する効果があるので、あなたは刑罰に処されて当然ですということになる。そうなると非常におそろしい社会といえる。

 

 

  セクスティング処罰絶対反対

 

 

セクスティング(sexting)とは、近年、アメリカの青少年の間で流行している性的行動であり、携帯電話などで自分のヌード写真や動画を恋人や友人などに送信する行為である。アメリカの非営利団体であるInternet & American Life Projectが行った調査ではアメリカのティーンエージャーの15%はセクスティングの経験があると報告されている。

我が国ではセクスティングは、現行児童ポルノ法でも単純製造罪とされている[ii]

東京高裁平成22.8.2判決の事案は大略次の通りである。被告人は、A子(当時13歳)にメールや電話を通じて、グラビアのモデルの仕事であるなどと甘言を弄して、A子にその乳首を露出させる姿態をとらせ、これをA子の携帯電話機付属のカメラにより静止画として撮影させた上、画像を電子メール添付ファイルとして送信させ、その画像データを被告人の携蒂電話機により受信して同機に挿入されたマイクロSDカード内に記録・蔵置させたというものであり、一審静岡地裁平成21.12.25判決は、児童ポルノ法7条3項の単純製造委罪の成立を認め罰金100万円に処した。

東京高裁平成22.8.2判決は控訴棄却。判旨は「法73項が設けられた趣旨は、「他人に提供する目的を伴わない児童ポルノ製造であっても、被害児童に法23項各号に掲げる児童ポルノに該当する姿態をとらせ、これを写真撮影等して児童ポルノを製造する行為は、強制によるものでなくても、被害児童の心身に有害な影響を与える性的搾取行為にほかならず、かつ、流通の危険性を創出する点でも非難に値し、可罰性があると解されたところにあるといえる。」

 「本件では、被害児童の行為が被告人によって利用された部分があるとしても、それは、『姿態をとらせ』といった構成要件に沿うものである。また、前記原判示の罪となるべき事実中、被告人が被害児金童の姿態を電磁的記録媒体に描写する過程で被害児童による撮影や送信という行為が介在しているのも、犯罪構成要件である『描写』の手段方法を原判決がより具体的に説示したことによるものであると解され、しかも、被害児童がそのような行為をしたのは、(略)児童ポルノの製造という真意を秘した被告人が、甘言を弄して判断能力の未熟な被害児童を錯誤に陥れたためであるから、被告人が本罪の単独正犯であることに疑問が生じることにはならない。」[iii]

 

この事件は交際していた男女の例でないようであり、被写体も13歳と比較的年少者といえるが、しかし性的にも成熟し、大人っぽく判断能力も備わっている女子高校生の場合はどうか。女子高生なら大抵携帯を所持しているし、交際している男性に対し、自らを被写体とした写真は当然のこととして、場合によってはヌードや思わせぶりな画像等を携帯電話等で送信しているケースは、公式の調査はないとしても相当広範に行われていると考えられる。勝手にポーズをとったのか、勝手に露骨な写真を送ってきたのかにかかわりなく、性的虐待とは思えない単なる「お遊び」、無邪気なヌード写真であるにもかかわらず、所持したことにより、犯罪者としてのレッテルと貼られたうえ刑罰に処すのは行き過ぎであると考える。

国会議員の大多数はセクスティングなんか処罰してしまえと考えているのもしれないが、私はそれが、それが愚かなことであるとか不純異性交遊とか、非行であるときめつけるのは正しくない。それはむしろ親密さの証しと考える。

親しい人間関係を築き、結婚し家庭を持つことは幸福追求権にかかわる基本的権利である。セクスティングの交際が合法な婚姻関係に進展することもありうることを考慮しなければならない。英米法とくに表現権を専門とする紙谷雅子学習院大学法学部教授は児童ポルノ法でのセクスティング訴追は疑問[iv]としており、私もそう思う。被害者なき犯罪の拡大と非難されるべきである。

法改正が審議入りするとなれば、営利目的のそれと親しい人間関係のなかで無邪気に撮影されたものとどう区別するのかしないのか、恋人どうしのセクスティングも単純所持適用不可避と国会議員と考えているのか当然議論されるとは思うが、私は、既に死語となった「不純異性交遊」「桃色遊戯」という言葉が復権し、警察が男女交際をとりしまる社会を望んでいないがゆえに、法改正に反対なのである。

 


[i]「写真家篠山紀信の世界」『週刊現代』561420144/26

[ii]園田寿「いわゆるセクステイングと児童ポルノ単純製造罪東京高裁平成2282日判決(公刊物未登載)」『甲南法務研究』7 2011年大林啓吾「所持規制をめぐる憲法問題-児童ポルノの単純所持規制を素材として-」『千葉大学法学論集』283号 2014

[iii]園田前掲論文

[iv]紙谷雅子「セクスティングとチャイルド・ポルノグラフィ」『学習院大学法学会雑誌』46巻1号2010年

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