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カテゴリー「宗教」の3件の記事

2010/05/23

入手資料整理 茂木健一郎『クオリア立国論』

9716茂木健一郎『クオリア立国論』2008年 ウェッジ

 クオリアとか、ミラーニューロンというのは茂木の著書で初めて知ったわけですが、ミラ-ニューロンが脳のなかで「鏡」に相当する働きをして、「他人という「鏡」に映った自分の姿を通して、私たちは自らの姿を知る」(同所前書き)という。
 ここからは私の意見ですが、ミラーニューロンが他者の行動の理解、自己認識、内省の根拠だとすれば、ミラーニューロンから得た自己認識は結局バーチャルリアリティーにすぎない。他者を通して自己と認識しているものを錯覚しているだけ。結局、自己認識の自己は他者のアナロジーにすぎないから他者の範疇に含めてよいと考える。結論は状況的認知の自己とは他者だったと云うことである。
 というのは、自己認識の自己それ自体、状況的認知にすぎず、傾向的存在として動態的に把握している訳ではない。ハビトゥス、構造的存在として直感的に認識している訳ではないからである。真実の自己は別の世界にあると考えている。
 次にクオリア(感覚質)の集合が心の内容であるとすれば、それはトランスパーソナルと言える。例えば私が1983年頃に経験したことですが、歌舞伎町のノーパン喫茶で初めて指名して、確か指名料が7千円でルイちゃんだと思いますが、結構美人だった訳ですが、あの狭い部屋でその太ももの内側をいやらしくなで回した皮膚感覚それ自体は忘れているが、そのときワクワクした感覚がクオリアとして想起できる。他者もワクワクするに違いないから。しかし赤旗を見て、私は嫌悪する。排除したいと考える。赤旗(組合旗、平家や運動会の赤い旗ではない)を見て不愉快に思う感覚もクオリアとすれば、組合旗を何とも思わない人や好む人とはクオリアを共有していないから別物であり、逆に言うと、別の世界に住んでいる人でもクオリアの集合が殆ど同じなら、「自己」と認識できる。

 この本の感想は、脳科学から日本文化論に飛躍するのがとってつけた印象。143頁でドイツのザルツブルグとあるのはオーストリアに訂正すべきでしょう。

2008/09/28

感想 林成之〈勝負脳〉の鍛え方

 講談社現代新書2006年。通俗的な本だが、著者は脳神経外科医、日大大学院教授。人間の心の生まれる場所はドーパミン系神経群とされ、意識・心・記憶は海馬回でつながっていて、連動しながら機能しており、三者の調節機能をモジュレータ神経群とよび、このモジュレータ理論が著者の持論とのことである(24頁)。ドーパミン系神経群はこの三者の連動を適切に調節するという。海馬回をはじめとするドーパミン系神経群をモジュレータ神経群とよんでいる。
 心とは内意識によってもたらされる刺激や情報によって何を思ったり感じたたりするかという動きのことと著者はわかりやすく説明しているが一口に言えば感性だろう。
 感性と知能が結びついて、倫理観・世界観・イデオロギーがあり思想があるのだから、心と記憶の連動は当然のことだろう。
 そうすると、記憶の部分で私は個体的唯名論的な自己自身を知っているだけだから、それをカットしても人格は人格であり、心と記憶の一部である知能・知識はトランスパーソナルな構造的存在と仮定できる。しかしトランスパーソナルというのは不安な概念である。自己自身の心が揺らぐようなニュアンスがあるが、実はそうではない。心と知能が連動しているとするモジュレータ理論により、個体的唯名論的自己と結びつかない自己規定認識。自己はこうあるべきであるという認識--まさにそれが知能--知能で規定された心の在り方・人生観・世界観といっても良い---により自己規定されるとすれば、つまり、私は都立園芸出身の川西正彦と言っても、私の思想自体は引用の編集・合成であり、つまり私は18世紀のマンスフィールド卿と同じく労働運動は弾圧したい。20世紀初期のベッカム判事と同じようにロックナー事件は違憲判断である。あるいはそれに共感する。そのような人格があって私自身が満足できる心とキャラクターならそれは別の意味での自己なのだ。私自身がこう自己規定して満足できる心の持ち主が構造的に存在するとすれば、狭義の自己概念とは別の自己が構造的に存在することになる。私は、独身聖職者と同じく生殖活動は行ってない。子どもにより複製しないが、私の肉体は滅びても、構造的な存在として自己規定されているものとしてあると認識できる。

 精神現象は物理化学過程にすぎないと思うが、にもかかわらず、エジワーズの神学、構造的存在論のハビット概念を援用して、自己自身をトランスパーソナル、もしくは自己自身の構造的存在としての存在性、もしくは自己自身に満足できないとするなら自己自身を他者として消去というのが私の思想である。

2008/08/16

構造的存在-私はバーチャルリアリティー以下の「非存在」か

   私は、毎日のように神に喜ばれる善行をなすことができず、むしろ反対のことを行っていることで悩んでます。それは深刻です。けれども、人間は善意があっても善を実行できなくて普通だという見方があります。「望む善を行わず、望まない悪を行っている(ロマ7:18~19)」という聖句が慰めになる。つまりパウロも悩んだ。アウグスティヌスも悩んだ。そしてルターも悩んだのである。要するに善をなす心的傾向性があっても、その人の行動様式、知力、素質、実行力と、状況、他者の予測不可能な思惑に影響される。政治や悪法により反倫理的な行為を強要されることもあるでしょう。人間は客観的条件がなければ、善意があっても反対のことをしてしまうものだ。そもそもやる気とか心的傾向性などの精神現象は、物理化学的過程ですし、人間の心も複合多元的な構造で、意思で制御できるものでもないから。
 
 しかし神の恩寵以外に救済はないという思想では、物足りない。救済の実質がみえない議論のように思える。そこで、この点で優れた救済論、存在論としてジョナサン・エドワーズの構造的存在論((バーチャル・リアリティー))を挙げたいと思います。決定的な意味で慰めになります。---森本あんりの『ジョナサン・エドワーズ研究』1995年(著者による概略 PDF http://subsite.icu.ac.jp/people/morimoto/Texts/Sobun95.pdf) 参照。
 エドワーズによると、バーチャルとは「あるものが実際に十全な意味で存在していないが、機会 が与えられれば必ず現実化するであろうような可能的潜勢的存在のことを意味している。」、神学者の森本あんりが、バーチャルリアリテイーを「構造的存在」と訳してますが適訳だと思いました。
 ウィキペディアによるとバーチャルリアリティーは、「形は異なるかも知れないが、機能としての本質は同じであるような環境を、ユーザの感覚を刺激することにより理工学的に作り出す技術およびその体系。 日本語では、『仮想現実』、『人工現実感』、『疑似体験』等と訳される」としており、もっと通俗的に言うと、ディズニーランドの疑似体験アトラクションのような現実とは違う虚構の空間の意味にも使われます。
 しかし、神学におけるバーチャルリアリティーは虚構ではなく、可能的潜勢的存在を言います。

 森本はエドワーズの救済論をひとくちにいって「存在の成就としての救済」と説明します。存在の成就を生物学的にどう定義できるでしょうか。
 そもそも生物とはどう定義され、構造的にいかなる存在なのか。
 あるブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/under_the_shiny_sky/55205881.htmlによると
・自己増殖能力、
・エネルギー変換能力(呼吸・エネルギー摂取・老廃物の排出、等の代謝能力)
・恒常性(ホメオスタシス)
・維持能力

と説明してますが、この定義もかなり不満です。環境に適応して繁栄するという進化生物学的な事柄が説明されてません。生物は何を指向して何をなすために生きているのでしょうか。
 恒常性の維持は自己保存本能を満足させるものです。ホメオスタシスの三大機能は「自律神経系」「内分泌系」「免疫系」ですが、ホメオスタシスが快適さストレスのなさ健康と関連する概念とすれば人間的に言えばカンフォタブルな人生を指向するものと定義しても良いと思います。もちろん何がカンフォタブルかは個体がどのような価値観を持つか、あるいは性格で差異があります。リスクのない安定志向の人と、たくましく何かに賭ける人生、ギャンブルを好む人と様々でしょう。
 自己複製能力を有するということは、個体としては恒常性の破綻により死ぬが、動態的構造的には不滅の存在として解釈できます。個体は死にます。死の本能タナトスもあるから。しかしそれはドーキンスが個体を自己複製子の乗り物と言ったように、車の買い換えと同じことで、動態的構造的には耐用年数超過の生体を物理化学的に全面的に更新する自己保存欲求のためと解釈します。
 人間が存在を成就するということは、カンフォタブルな人生を維持し、自己保存欲求を満たすものと考えられます。以上のような構造を有しているのが生物としての人間だとすれば、非常に楽観的な世界観になりますが、バーチャルリアリティーとして構造的には救済が予定されていると理解することができる。

 ピューリタンにとってカンフォタブルな人生とは、快楽主義的人生や、金儲けのことではありません。神に喜ばれ、非難の余地のない正しい生活を送ることです。職業労働に励むこともそうです。宗教的・道徳的・審美的な価値観で満足できることです。
 
 ところで私はカンフォタブルな人生を送っていません。私は毎日不快で満足するようなことは全くありません。もっとも人生に楽しみはあります。ブログによって意見を伝達できます。ストリートビューで京都の名所を見て楽しんだり、アダルトビデオで美人の肛門を見てマスターベーションもできるわけです。だから自殺はしないわけです。

 しかしそれは私生活の自由という狭い領域のことであって、宗教的道徳的審美的価値に関する欲求、仕事と成果、公的生活、職業労働、自己の価値観に基づく行動様式を取っていないこと、性的欲求などは全く満足していません。であるから私は十全な意味での存在ではない。  
 
 例えば私は、法が誠実な労働と勤勉さを奨励するあり方でなければカンフォタブルではありません。エプステイン教授の言う自己自身の労働力処分の自由「何人も自分自身を所有し、自らの労働を自らの望む条件で自由に利用する権原を有する」法規範でなければカンフォタブルではありません。労働協約や労働基準法のような団体主義的労働関係(労働時間や業務遂行方法のジョブコントロール)の不当な共謀と圧力によって、自己自身の労働力処分の自由、黙示的誠実労働義務を遂行する自由、倫理的に正しい行動をする自由、財産権が侵害され耐えられない。そもそもコモンローでは労働組合は、「取引を制限するコンスピラシー」(doctrine of restraint of trade)ないし「他人の取引を侵害するコンスピラシー」(conspiracy to injure of another)の概念構成を利用し、労働者の団結というものが、コンスピラシー(共謀罪)の要件に該当するものとして把握され違法だった。制定法でも団結禁止法があったわけです。イギリス法では労働協約に法的拘束力という考え方はなじまず(それは個人の営業制限になリ本来違法)、あくまでも紳士協定です。労働基本権と言う最悪の制度により常に「取引を制限するコンスピラシー」(doctrine of restraint of trade)ないし「他人の取引を侵害するコンスピラシー」(conspiracy to injure of anotherの不当な圧力にさらされているわけです。
 さんざん書いていることですが、ニュージーランドの1991年雇用契約法(Employment Contracts Act)のように個人は企業と直接雇用条件を定め、労働協約や集団的労働関係に束縛されない個人の雇用契約(代理人を自由に選べる)が可能なようなありかた(その後政権交代で制定法は変更)でないとカンフォタブルではありません。
 つまり私にとって救済とは、労働組合と労働三法は駆逐し、自己自身の労働力処分の自由を他者や政府から害されない法規範の社会に居住することによってカンフォタブルな人生が歩めることです。他人の取引を侵害すること、階級立法を憎む社会に生きるということです。そしてその文化的社会的規範が維持される行動様式の社会を保存していくことです。
 現実にはそうなっていないわけですから、十全な意味で存在していない。自己は十全な意味で存在していない。バーチャルリアリティー以下の「非存在」なのです。     
 「非存在」と自虐的に言うのは、可能的潜勢的存在としても準備不十分だからです。つまり私は真の自己ではない、自己形成、自己実現にほど遠いので自虐的に言いました。もちろんニュージーランドの1991年雇用契約法は我が国でも、相当なエネルギーを要しますが、可能性はある。心的傾向性故にバーチャルな潜勢的存在とはいえるかもしれません。しかし、自己が自己であることを実感しにくい故に、真の存在ではないということです。
 


 

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