前回の補足
くだらないことを書きすぎたのか
「東スポの記事を本気にしているような奴が何を言ってんだかwww」
との批判的なコメントがつきました。
ごもっともですが、くどいようだが、背景について若干補足しておきます。
崔宏の「魏」国号の建議については翻訳があります。
北史二十一巻 列伝第九 崔宏
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/8364/translate/north021c-1.html
「代」を国号とすべきという群臣の意見はついても翻訳があります。
北史巻一 魏本紀第一 太祖道武帝 - 2
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ango/8364/translate/N01-10/north001b-2.html
「拓跋、魏を興す」というサイトに 398年に平城(山西省大同)に遷都し始めて宮室を造り、宗廟を建て、社稷を立てたこと。皇帝位に即き、天興と改元したこと。朝野の全員に髪を束ねて冠をつけるよう命じたことが書かれている。
http://www2.ktarn.or.jp/~habuku/takubatu.htm
ところで、398年鄴(現在の河北省最南部)周辺は北魏の支配下に入った。鄴は曹操の魏公国の都で市来弘志氏(「魏晋南北朝時代の鄴城周辺の牧畜と民族分布」鶴間和幸編著『黄河下流域の歴史と環境』東方書店2007年に収録)によると、魏・西晋を通じて首都に準じた要地だった。後趙、冉魏、前燕,東魏、北斉の首都でもあり政治経済上の重要拠点で、とくに後趙時代に繁栄したが、350年の内乱などでこの周辺で数百万人が難民化した。
北魏の首都は平城だから「代」でもよさそうだが、かつての魏公国の領土を支配したことで、魏王から魏皇帝となっても不自然ではない。
北魏は華北平原地域から36万を平城に徙民(しみん)し、その代わり鮮卑拓跋部の軍団を鄴周辺に駐屯させたので民族が入れ替わったのである。
なお市来氏は漢魏晋時代の中国の主要都市はどこかを列挙してます。
前漢期の長安を除く中国五大都市とは、洛陽、臨瑙(山東省)、邯鄲(河北省)、宛(河南省南陽)、成都(四川省)
魏(三国時代)成立後の五都は、洛陽、長安、許昌(河南省)、鄴(河北省)、譙〈現在の安徽省北部亳州〉
西晋時代の四都は洛陽、長安、許昌(河南省)、鄴(河北省)
*松下憲一氏の国号に関する論文の初出は「北魏の国号「大代」と「大魏」」『史学雑誌』113-6 2004年
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