結局日本解体法案阻止請願書は6通のみとなった。というのは外国人参政権とか国立追悼施設等も反対だが、深く研究したことがないので、もっとも危機に思っているのが民法改正に積極的な千葉景子法相の姿勢であり今回は夫婦別姓等民法改正、女子差別撤廃条約選択議定書、人権救済擁護機関の設置だけの請願書になった。
小林よしのり「西尾・橋本氏への御忠言『廃太子論』はレベルが低すぎる」を読みましたが、不愉快で非論理的な内容でした。
1 皇室に「徳」は関係ないなんてそんなバカな
まず疑問に思うのが小林よしのりが断定的に言う特徴的見解「皇室は「皇道」であり万世一系の血統によるもので「徳」は関係ありません。この点で「徳」を基準とするシナの「王道」とは全く違う」としている点。
劉権敏は古くから我が国に受容されていた受命(天命)思想が、万世一系の非革命哲学と共存できるようになった過程について次のように説く(「日本古代における天命思想の受容-祥瑞思想の和風化」『哲学・思想論叢』筑波大学24号 2006年)。
継体・欽明期に五経博士が渡来しており『書経』により中国の天命(受命)思想は受容され、積極的に利用された。『日本書紀』は武烈を悪帝、継体を聖帝として扱っているのがその現れである。天命思想は、為政者が善政を行えば、天はそれを嘉して祥瑞をくだすという祥瑞思想を随伴しているが、『日本書紀』では推古紀以下の諸巻に集中的に祥瑞の記事がみられる。祥瑞は聖王が天下を治める際に天が顕したもので、祥瑞思想が飛鳥・白鳳時代に鼓吹されたことは当時の政界に天命思想が深く浸透していたことを示す。
むろん天命思想は、支配権を下す主体が「天」であるため、貴族や平民でも「天命」により支配者になる可能性から、天皇の統治形態を脅かす思想にもなりうるが、天武・持統朝に天孫降臨神話を基盤とする万世一系の思想やアキツカミ思想が宣伝され、支配権を下す主体が天つ神であると同時に、天皇は天つ神の御子であるという絶対的な血脈関係により権威付けられ、非革命の哲学を構築した。さらに和銅以後、祥瑞の主体が中国思想の「天」ではなく、日本の天つ神国つ神と皇祖神に置き換えられる変容(祥瑞思想の「和風化」)によって天命思想が万世一系の思想と共存できるようになったという。
劉権敏が武烈・継体を王朝交替とみなしている点につき疑問をもつが、祥瑞思想の「和風化」によって受命思想が先鋭化することがなかったとついてはく理解できる。
天譴思想も古代から受容されている。儒教的徳治主義はわが律令国家の統治理念である。 とくに八~九世紀の律令国家では天譴思想や徳治思想は常套句であり、天皇は天変災異があれば自らの徳の無さを責める詔勅が出され、君主に政治責任が求められた。
十一世紀においても長暦四年(1040年)七月二十六日大風のため伊勢外宮の正殿や東西の宝殿等が顚倒する事件が起きた。『春記』によると祭主大中臣永輔の解状を八月初めに奉覧した後朱雀天皇は大いに驚きこう述べたという。
非常之甚、古今無此事。以徴眇身莅之尊位之徴也。不徳之故也。
同様の発言は八月九日にもある。
不徳之故、天下凶災不絶、遠近不粛。是以非拠登尊位之咎也
長暦四年には大風が吹いて田畠の被害もあった。後朱雀は自身の不徳、天下を治めるという責務を果たしていないゆえに、大風や伊勢神宮顛倒が生じたと考えている。
明らかに自らの不徳が災異を招くという天譴思想を認識している。
この為に八月十五日から二十七日に伊勢神宮遙拝を行っている(註1)。
また統治者である天皇が徳をもって人民を教化して仁政を施すことの社会政策上の必要性は一貫として認められるところである。
嘉祥三年正月、仁明天皇の冷泉院(太皇太后橘嘉智子の御所)朝観行幸では天皇が北面して跪いたことが記されている。これはありえないことであり、中国でもそういう事例をきかない。しかし、孝子・順孫という儒教的家族倫理を普及されるために、あえて君主が父母を敬う姿勢を示したということである。
律令国家の統治理念である儒教道徳による民衆教化はさまざまな形で行われていた。 儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序確立と維持が行われた(註2)。
従って私は、天皇をたんに祭祀王と定義したり、昔から象徴だったという説に反対ですす。律令国家は天皇と太政官の二極構造になってますが、幼帝ともかく統治者たる君主であるから当然有徳である事を前提としているわけです。
王朝が一姓の業であることは、我が国も基本的には同じことであって、王朝創始者は別としても中国の王朝でも血統原理で帝位を継承するから、中国でも受命思想と血統原理のダブルスタンダードである。我が国がシナと異なるのはシナのように「民をもって国を簒い、臣をもって君を弑す」伝統がないとされていること。わが国の国柄が「天地人民有りてより以来、君臣上下、一定して渝らず、子孫、承襲ね、万世絶えず、天命永固、民意君を知り、淳化惇風、久しくもって俗となる。維城盤石、揺がず、動かず(註3)」といったことだろう。むしろシナよりも儒教的徳治主義が成功した国家といえる。
中国であれ日本であれ君主に「徳」が求められるのは当然の事であって、「徳」は関係ないと断言する見解にはかなり違和感がある。
花園上皇の『誡太子書』は帝王学として皇太子殿下も学ばれていることだが、要旨は日本においては外国のように禅譲放伐の例はなく、異姓簒奪はないという観念(それは諂諛の愚人にしても常識的な観念であるが)に安住することなく君徳涵養の必要を当時の東宮量仁親王(のち光厳天皇)に説いたものだが、それが基本ではないか
故に孟軻、帝辛を以て一夫となし、武発の誅を待たず。薄徳を以て神器を保たんと欲ふ(ねがふ)とも、あにその理の当たる所ならんや・・・たとへ吾が異姓の窺ゆなしといふとも、宝祚の修短多く以てこれによれり、しかのみならず、中古以来兵革連綿、皇威遂に衰ふることあに悲しまざらんや。太子宜しくつらつら前代の荒廃する所以を観察せよ
(訳)だから孟子は暴虐な商の帝辛(殷の紂王)は帝ではなくて只の一夫となったので、周の武王は只の男を攻め滅ぼしたに過ぎない(だから王を倒しても罪ではない)と説いた。人徳を修めないで、神器を保ったとしても(皇位を嗣ぐ)、暴虐をなせばたとえ我が国であっても殷周革命のようなことが起きないとは言い切れない・・・たとえ我が国に於いては皇位を異性が狙うことがなかったとしても、天子の位を順調に勤め上げられたかどうか(途中で引きずり下ろされたりしなかったかどうか)は、天子が徳の修養に努めたかどうかにかかっている。それどころか、ここ二百年ほど戦争が続き、王家の威光が衰えているのはなんと悲しいことであろうか。皇太子は何故朝廷の威光を衰えさせてしまったのか、その理由をよく観察しなさい
引用(一部略)http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_0c47.html
後水尾上皇宸筆教訓書は後光明天皇宛とみられているが。「慎み」を要求し、「帝位」にある者として驕ることなく、短慮な行動をいましめ、普段は柔和な表情で人と接し、「敬神」と「和国の風儀」に努める。「私」を抑えることが正しい「政道」につながるととし(註4)、徳の修養が求められていることは基本的に同じことである。
又、西尾幹二氏について皇室に敵意を持っているなどとしてののしっているがそんなバカなことはないでしょう。私は一度だけ間近に西尾氏を見たことがある。平成17年1月の通常国会前の皇室典範改正反対のデモで日比谷公園から、外堀通り-常盤橋公園までデモでしたが、けっこう雨が降っていて大変だったんですが解散場所の常磐橋公園に西尾氏がいて車内からマイクで「皆様雨の中大変ご苦労様でした」と声をかけてくれましたよ。だから、皇室を守るために必死にやっておられたと思います。
さらに『天皇論』を読めだの厚かましい態度はなんなんだ。
2 廃太子の前例でも皇太子の資質が問われたことはある
歴史上の廃太子とみなされる例8例、この他に、寛仁元年(一〇一七)八月九日摂関家の圧力によって皇太子を辞退した敦明親王(三条皇子)の例、弘仁十四年(823年)四月十八日父淳和天皇から皇太子に指名されたが上表して固辞した恒世親王の例、又、廃太子未遂に終わったが文徳天皇が惟仁親王(のち清和天皇)の皇太子辞譲、惟喬親王立太子を企てたが、左大臣源朝臣信に諫止されたとされる説がある。
歴史上の廃太子は奈良時代から平安時代の初期と、南北朝時代にみられます。八~九世紀の皇太子は後見となる天皇、上皇、有力貴族を失うと脆かった。皇太子の資質それ自体が問われたケースは、奈良時代の道祖王で、孝謙女帝の侍童との密通等の喪中に相応しくない行状があったケースですが、又、他戸親王廃太子のケースについては、皇太子の資質が問われたわけではないが、異母兄の山部親王(のち桓武天皇)が外戚が渡来系という弱点にもかかわらず、漢学の素養があり武勇にも優れた資質を有力貴族が評価したうえでの擁立とみる事もできるわけです。
廃太子の前例[括弧内はその背景]
1 道祖王(天武孫、父新田部親王) 天平勝寶九歳(757年)三月二十九日廢[聖武上皇の遺詔により立太子、11か月後に、喪中に相応しくない行状(孝謙女帝の侍童と密通など)があり孝謙女帝が大納言藤原豊成以下に諮問したうえで廃位、のちに橘奈良麻呂の乱に連座し拷問により杖死]
2 他戸親王 (光仁皇子)寶龜三年(772年)五月二十七日廢[皇后井上内親王厭魅呪詛事件により母后の廃后とともに廃位、庶人に貶められる。藤原百川の計略である蓋然性が高いとされる事件。左大臣藤原永手薨去で後見者を失ったことが大きい。幽閉され宝され寶龜六年母と共に急死]
3 早良親王 (光仁皇子)延暦四年(七八五)九月二十八日以降十月八日以前廢[藤原種継暗殺事件に連座して廃位、淡路国配流の途中、無実を訴え絶食し憤死。延暦一九年追尊 崇道天皇。光仁天皇崩御で後見者を失っていた。]
4 高岳親王 (平城皇子)大同五年(810)九月十三日廢[嵯峨天皇の東宮だったが薬子の変で平城上皇の敗北により廃位]
5 恒貞親王 (淳和皇子)承和九年(842年)七月二十三日廢[仁明天皇の正嗣とし皇太子に立てられたのは、仁明が淳和天皇の皇太子であった経緯にもよる。恒貞親王生母皇太后正子内親王が仁明の妹であるから嵯峨の孫、仁明の甥にあたる。恒貞親王伝によると親王と嵯峨上皇・仁明天皇は親交があり対立関係はなかった。嵯峨上皇崩御とほぼ同時に東宮坊帯刀舎人伴健岑の謀反が発覚(承和の変)、当初天皇はひとり伴健岑の凶逆として優答を与え皇太子辞退を許さなかったが、結果的には太皇太后の意向もあって廃位とされた。廃太子詔によると「其事乎波皇太子不知毛在女止‥‥」とされ皇太子が謀反に関わっていないことを明らかにしている。淳和上皇近臣の大納言民部卿藤原愛発、中納言藤原吉野、参議東宮大夫文屋秋津ら60余人の官人が左遷されているが、東宮坊官は右大臣東宮傅源常を除き全員が左遷されており、恒貞親王を支える勢力は一掃された。]
6 康仁親王(後二条孫、父東宮邦良親王) 元弘三年(1333年)六月五日/七日[[元弘の変により、光厳天皇が即位し後伏見院政となったが、東宮は両統迭立の方針で大覚寺統の康仁親王が立てられたが、鎌倉幕府滅亡、後醍醐復辟により廃位]
7 成良親王 (後醍醐皇子)建武三年(1336年)十二月二十三日以降、廢[足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、建武三年に京都に入ると光明天皇が即位し光厳院政がしかれたが、東宮は両統迭立の方針での皇太子として大覚寺統から成良親王が立てられた。しかし後醍醐天皇が吉野に逃れたため廃され、持明院統から興仁親王(のち崇光天皇)が皇太子に立てられた]
8 直仁親王(花園皇子-実は光厳胤子)正平七年(1352年)閏二月二十日事実上廃位[北朝崇光天皇の皇太弟であった。足利尊氏が南朝に降伏したため、観応二年/正平六年十一月七日崇光天皇廃位、光厳院政は停止、神器は接収され、二条良基の関白も停止となった(正平一統)。京都では洞院公賢が左大臣に指名され政務が行われたがこの時点では直仁親王は廃位とされていない。翌正平七年(1352年)閏二月二十日北畠顕能率いる南軍が京都に突入、警戒を怠っていた足利義詮が七条大宮の市街戦で大敗し、三上皇皇太子(光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王)を置き去りにしたまま、近江に敗走したため、南軍が一時京都を占領した。この時点で春宮坊の職員が停止されている(註5)。この後、親王は南軍により光厳・光明・崇光上皇とともに大和賀名生に連れてこられるが、正平七年閏二月二十日の時点が事実上の廃位とみてよいだろう]
(註1)有富純也『日本古代国家の支配理念』東京大学出版2009 210頁以下
(註2)増尾伸一郎「孝子〈衣縫造金継女〉伝承考」『史聚』24号1989-12
関連して戸令二十八の七出・三不去の制も婦人道徳にかかわるものだが、凡そ妻棄てむことは七出の状有るべしとされるのである。子無き。間夫したる妻。舅姑に事へず。心強き妻。ものねたみする妻。盗みする妻。悪疾。であるけれども子無きはさしたる咎にあらずともされている。
このなかで最も重視したいのが「舅姑に事へず」である。この趣旨からいって現代のフェミニストは伝統的道徳に反逆するものである。夫にも服従しない対等を要求。のみならず舅姑に仕えるのはまっぴらごめん。舅姑と同じ墓に入りたくない。それでいて夫婦別姓導入で法定相続で夫家の家産は分捕りたい。このような我が儘を許すべきではない。
近世の女子教訓書の代表作『女大学宝箱』(享保元年)には「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁いりを゛帰る″という。わが家にかえるという事なり」とあり、また「女は、我が親の家をば継がず、舅・姑の跡を継ぐゆえに、わが親より舅・姑穂大切に重い、孝行を為すべし」と説かれていた。それが婦人道徳の根幹であるとすれば、夫婦別姓論者の主張は、律令国家以来の1300年の伝統的規範を否定するもので許し難いわけである。
(註3)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 94頁~100頁
(註4)野村玄『日本近世国家の確立と天皇』清文堂出版(大阪)2006 57頁以下
(註5)小川剛生『二条良基研究』笠間書院2005 39頁
参考 阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ東宮表http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/touguu/touguu1.html#boutou
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