カテゴリー「日本史」の16件の記事

2009/12/19

小沢一郎氏の韓国講演で述べた事実に反する見解と偏った歴史認識

 今月訪韓した小沢一郎幹事長のソウル市内の大学における講演の動画をみました。
http://www.youtube.com/watch?v=uX7xFMvCly8
 考古学で否定的な見解が大勢を占める「騎馬民族征服説」を「たぶん歴史的事実であろうかと思っております」と述べています。また、桓武天皇生母に言及し「桓武天皇の生母は百済の王女様だったということは天皇陛下自身も認めておられます」と発言してます。
 陛下のおことばというのは「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」というものであり、小沢一郎氏は異なったことを述べている。

 桓武生母皇太夫人高野朝臣新笠(大同元年追贈太皇太后)の父は和史乙継、母は土師宿禰真妹である。もともと和史新笠であったが宝亀年間に光仁天皇より「高野朝臣」姓を賜った。これは夫人の新笠個人だけの姓だった。
 瀧浪貞子京都女子大学教授の『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版1991年は高野新笠の出自について

 「父方の和氏は『新撰姓氏録』に「和朝臣、百済国の都慕王の十八世孫、武寧王自り出づ」と記すように、百済系の渡来氏族であり、武烈天皇の時に帰化したという。(『日本書記』)。和(倭)氏を名のるようになった時期は不明であるが、一族が大和国城下郡大和郷に住んでいたことによるものであろう。」と説明している。

  渡来の卑姓氏族であるが、武寧王の治世は502~523年と古く、和氏が渡来した武烈天皇の治世は498~507年で、桓武天皇の出生が737年であるからこの間230年以上経過している。むろん百済王女ではないから、事実に反する見解を述べている。

 また江上波夫氏の「騎馬民族征服説」については、橋本義彦(宮内庁書陵部編修課長・正倉院事務所長を歴任した大正13年生まれの歴史家)が『平安の宮廷と貴族』.吉川弘文館平成8年「皇統の歴史-その正統と異変-」で次のように述べている。

 「戦前、皇統の「万世一系」が「国体の精華」と謳われた反動であろうか、戦後になると、『古事記』『日本書紀』の伝える古代天皇の系譜に疑いをさしはさみ、様々な古代王朝交替説が唱えられた。いわく葛城(かつらぎ)王朝、いわく近江王朝、いわく難波王朝など、種々の憶説が提示されているが、なかには「殆どナンセンス」に近いと評されているものもあり、まだ確説の域に達しているものはないようである。考古学者が提唱し、一時世上に喧伝された「騎馬民族説」(征服王朝説)も、現在の考古学界では否定的見解が大勢を占めていると聞く」

 小沢一郎氏は、自民党時代のことか江上波夫氏から応神・仁徳天皇陵を調査したいので宮内庁にかけあってくれともちかけられたエピソードも講演で語っているが、「騎馬民族説」(征服王朝説)は考古学者はほとんど否定的見解ということである。それを「たぶん歴史的事実であろうかと思っております」というのはセンスが悪すぎるし、偏った歴史認識を持った政治家といえるだろう。

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2009/11/01

WILL12月号小林よしのり「廃太子論」反論は不愉快だし非論理的

 結局日本解体法案阻止請願書は6通のみとなった。というのは外国人参政権とか国立追悼施設等も反対だが、深く研究したことがないので、もっとも危機に思っているのが民法改正に積極的な千葉景子法相の姿勢であり今回は夫婦別姓等民法改正、女子差別撤廃条約選択議定書、人権救済擁護機関の設置だけの請願書になった。

 小林よしのり「西尾・橋本氏への御忠言『廃太子論』はレベルが低すぎる」を読みましたが、不愉快で非論理的な内容でした。

1  皇室に「徳」は関係ないなんてそんなバカな

 まず疑問に思うのが小林よしのりが断定的に言う特徴的見解「皇室は「皇道」であり万世一系の血統によるもので「徳」は関係ありません。この点で「徳」を基準とするシナの「王道」とは全く違う」としている点。

 劉権敏は古くから我が国に受容されていた受命(天命)思想が、万世一系の非革命哲学と共存できるようになった過程について次のように説く(「日本古代における天命思想の受容-祥瑞思想の和風化」『哲学・思想論叢』筑波大学24号 2006年)。

 継体・欽明期に五経博士が渡来しており『書経』により中国の天命(受命)思想は受容され、積極的に利用された。『日本書紀』は武烈を悪帝、継体を聖帝として扱っているのがその現れである。天命思想は、為政者が善政を行えば、天はそれを嘉して祥瑞をくだすという祥瑞思想を随伴しているが、『日本書紀』では推古紀以下の諸巻に集中的に祥瑞の記事がみられる。祥瑞は聖王が天下を治める際に天が顕したもので、祥瑞思想が飛鳥・白鳳時代に鼓吹されたことは当時の政界に天命思想が深く浸透していたことを示す。
 むろん天命思想は、支配権を下す主体が「天」であるため、貴族や平民でも「天命」により支配者になる可能性から、天皇の統治形態を脅かす思想にもなりうるが、天武・持統朝に天孫降臨神話を基盤とする万世一系の思想やアキツカミ思想が宣伝され、支配権を下す主体が天つ神であると同時に、天皇は天つ神の御子であるという絶対的な血脈関係により権威付けられ、非革命の哲学を構築した。さらに和銅以後、祥瑞の主体が中国思想の「天」ではなく、日本の天つ神国つ神と皇祖神に置き換えられる変容(祥瑞思想の「和風化」)によって天命思想が万世一系の思想と共存できるようになったという。

 劉権敏が武烈・継体を王朝交替とみなしている点につき疑問をもつが、祥瑞思想の「和風化」によって受命思想が先鋭化することがなかったとついてはく理解できる。

 天譴思想も古代から受容されている。儒教的徳治主義はわが律令国家の統治理念である。 とくに八~九世紀の律令国家では天譴思想や徳治思想は常套句であり、天皇は天変災異があれば自らの徳の無さを責める詔勅が出され、君主に政治責任が求められた。
 十一世紀においても長暦四年(1040年)七月二十六日大風のため伊勢外宮の正殿や東西の宝殿等が顚倒する事件が起きた。『春記』によると祭主大中臣永輔の解状を八月初めに奉覧した後朱雀天皇は大いに驚きこう述べたという。

 非常之甚、古今無此事。以徴眇身莅之尊位之徴也。不徳之故也。

 同様の発言は八月九日にもある。

不徳之故、天下凶災不絶、遠近不粛。是以非拠登尊位之咎也

長暦四年には大風が吹いて田畠の被害もあった。後朱雀は自身の不徳、天下を治めるという責務を果たしていないゆえに、大風や伊勢神宮顛倒が生じたと考えている。

明らかに自らの不徳が災異を招くという天譴思想を認識している。

この為に八月十五日から二十七日に伊勢神宮遙拝を行っている(註1)。

 また統治者である天皇が徳をもって人民を教化して仁政を施すことの社会政策上の必要性は一貫として認められるところである。

 嘉祥三年正月、仁明天皇の冷泉院(太皇太后橘嘉智子の御所)朝観行幸では天皇が北面して跪いたことが記されている。これはありえないことであり、中国でもそういう事例をきかない。しかし、孝子・順孫という儒教的家族倫理を普及されるために、あえて君主が父母を敬う姿勢を示したということである。
 律令国家の統治理念である儒教道徳による民衆教化はさまざまな形で行われていた。 儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序確立と維持が行われた(註2)。
 従って私は、天皇をたんに祭祀王と定義したり、昔から象徴だったという説に反対ですす。律令国家は天皇と太政官の二極構造になってますが、幼帝ともかく統治者たる君主であるから当然有徳である事を前提としているわけです。

 王朝が一姓の業であることは、我が国も基本的には同じことであって、王朝創始者は別としても中国の王朝でも血統原理で帝位を継承するから、中国でも受命思想と血統原理のダブルスタンダードである。我が国がシナと異なるのはシナのように「民をもって国を簒い、臣をもって君を弑す」伝統がないとされていること。わが国の国柄が「天地人民有りてより以来、君臣上下、一定して渝らず、子孫、承襲ね、万世絶えず、天命永固、民意君を知り、淳化惇風、久しくもって俗となる。維城盤石、揺がず、動かず(註3)」といったことだろう。むしろシナよりも儒教的徳治主義が成功した国家といえる。

 中国であれ日本であれ君主に「徳」が求められるのは当然の事であって、「徳」は関係ないと断言する見解にはかなり違和感がある。

 花園上皇の『誡太子書』は帝王学として皇太子殿下も学ばれていることだが、要旨は日本においては外国のように禅譲放伐の例はなく、異姓簒奪はないという観念(それは諂諛の愚人にしても常識的な観念であるが)に安住することなく君徳涵養の必要を当時の東宮量仁親王(のち光厳天皇)に説いたものだが、それが基本ではないか

 故に孟軻、帝辛を以て一夫となし、武発の誅を待たず。薄徳を以て神器を保たんと欲ふ(ねがふ)とも、あにその理の当たる所ならんや・・・たとへ吾が異姓の窺ゆなしといふとも、宝祚の修短多く以てこれによれり、しかのみならず、中古以来兵革連綿、皇威遂に衰ふることあに悲しまざらんや。太子宜しくつらつら前代の荒廃する所以を観察せよ

 (訳)だから孟子は暴虐な商の帝辛(殷の紂王)は帝ではなくて只の一夫となったので、周の武王は只の男を攻め滅ぼしたに過ぎない(だから王を倒しても罪ではない)と説いた。人徳を修めないで、神器を保ったとしても(皇位を嗣ぐ)、暴虐をなせばたとえ我が国であっても殷周革命のようなことが起きないとは言い切れない・・・たとえ我が国に於いては皇位を異性が狙うことがなかったとしても、天子の位を順調に勤め上げられたかどうか(途中で引きずり下ろされたりしなかったかどうか)は、天子が徳の修養に努めたかどうかにかかっている。それどころか、ここ二百年ほど戦争が続き、王家の威光が衰えているのはなんと悲しいことであろうか。皇太子は何故朝廷の威光を衰えさせてしまったのか、その理由をよく観察しなさい
 引用(一部略)http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_0c47.html

 後水尾上皇宸筆教訓書は後光明天皇宛とみられているが。「慎み」を要求し、「帝位」にある者として驕ることなく、短慮な行動をいましめ、普段は柔和な表情で人と接し、「敬神」と「和国の風儀」に努める。「私」を抑えることが正しい「政道」につながるととし(註4)、徳の修養が求められていることは基本的に同じことである。

 
 
 又、西尾幹二氏について皇室に敵意を持っているなどとしてののしっているがそんなバカなことはないでしょう。私は一度だけ間近に西尾氏を見たことがある。平成17年1月の通常国会前の皇室典範改正反対のデモで日比谷公園から、外堀通り-常盤橋公園までデモでしたが、けっこう雨が降っていて大変だったんですが解散場所の常磐橋公園に西尾氏がいて車内からマイクで「皆様雨の中大変ご苦労様でした」と声をかけてくれましたよ。だから、皇室を守るために必死にやっておられたと思います。
 さらに『天皇論』を読めだの厚かましい態度はなんなんだ。

2 廃太子の前例でも皇太子の資質が問われたことはある

 歴史上の廃太子とみなされる例8例、この他に、寛仁元年(一〇一七)八月九日摂関家の圧力によって皇太子を辞退した敦明親王(三条皇子)の例、弘仁十四年(823年)四月十八日父淳和天皇から皇太子に指名されたが上表して固辞した恒世親王の例、又、廃太子未遂に終わったが文徳天皇が惟仁親王(のち清和天皇)の皇太子辞譲、惟喬親王立太子を企てたが、左大臣源朝臣信に諫止されたとされる説がある。
 歴史上の廃太子は奈良時代から平安時代の初期と、南北朝時代にみられます。八~九世紀の皇太子は後見となる天皇、上皇、有力貴族を失うと脆かった。皇太子の資質それ自体が問われたケースは、奈良時代の道祖王で、孝謙女帝の侍童との密通等の喪中に相応しくない行状があったケースですが、又、他戸親王廃太子のケースについては、皇太子の資質が問われたわけではないが、異母兄の山部親王(のち桓武天皇)が外戚が渡来系という弱点にもかかわらず、漢学の素養があり武勇にも優れた資質を有力貴族が評価したうえでの擁立とみる事もできるわけです。 

廃太子の前例[括弧内はその背景]

1 道祖王(天武孫、父新田部親王) 天平勝寶九歳(757年)三月二十九日廢[聖武上皇の遺詔により立太子、11か月後に、喪中に相応しくない行状(孝謙女帝の侍童と密通など)があり孝謙女帝が大納言藤原豊成以下に諮問したうえで廃位、のちに橘奈良麻呂の乱に連座し拷問により杖死]

2 他戸親王 (光仁皇子)寶龜三年(772年)五月二十七日廢[皇后井上内親王厭魅呪詛事件により母后の廃后とともに廃位、庶人に貶められる。藤原百川の計略である蓋然性が高いとされる事件。左大臣藤原永手薨去で後見者を失ったことが大きい。幽閉され宝され寶龜六年母と共に急死]

3 早良親王 (光仁皇子)延暦四年(七八五)九月二十八日以降十月八日以前廢[藤原種継暗殺事件に連座して廃位、淡路国配流の途中、無実を訴え絶食し憤死。延暦一九年追尊 崇道天皇。光仁天皇崩御で後見者を失っていた。]

4 高岳親王 (平城皇子)大同五年(810)九月十三日廢[嵯峨天皇の東宮だったが薬子の変で平城上皇の敗北により廃位]

5 恒貞親王 (淳和皇子)承和九年(842年)七月二十三日廢[仁明天皇の正嗣とし皇太子に立てられたのは、仁明が淳和天皇の皇太子であった経緯にもよる。恒貞親王生母皇太后正子内親王が仁明の妹であるから嵯峨の孫、仁明の甥にあたる。恒貞親王伝によると親王と嵯峨上皇・仁明天皇は親交があり対立関係はなかった。嵯峨上皇崩御とほぼ同時に東宮坊帯刀舎人伴健岑の謀反が発覚(承和の変)、当初天皇はひとり伴健岑の凶逆として優答を与え皇太子辞退を許さなかったが、結果的には太皇太后の意向もあって廃位とされた。廃太子詔によると「其事乎波皇太子不知毛在女止‥‥」とされ皇太子が謀反に関わっていないことを明らかにしている。淳和上皇近臣の大納言民部卿藤原愛発、中納言藤原吉野、参議東宮大夫文屋秋津ら60余人の官人が左遷されているが、東宮坊官は右大臣東宮傅源常を除き全員が左遷されており、恒貞親王を支える勢力は一掃された。]

6 康仁親王(後二条孫、父東宮邦良親王) 元弘三年(1333年)六月五日/七日[[元弘の変により、光厳天皇が即位し後伏見院政となったが、東宮は両統迭立の方針で大覚寺統の康仁親王が立てられたが、鎌倉幕府滅亡、後醍醐復辟により廃位]

7 成良親王 (後醍醐皇子)建武三年(1336年)十二月二十三日以降、廢[足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、建武三年に京都に入ると光明天皇が即位し光厳院政がしかれたが、東宮は両統迭立の方針での皇太子として大覚寺統から成良親王が立てられた。しかし後醍醐天皇が吉野に逃れたため廃され、持明院統から興仁親王(のち崇光天皇)が皇太子に立てられた]

8 直仁親王(花園皇子-実は光厳胤子)正平七年(1352年)閏二月二十日事実上廃位[北朝崇光天皇の皇太弟であった。足利尊氏が南朝に降伏したため、観応二年/正平六年十一月七日崇光天皇廃位、光厳院政は停止、神器は接収され、二条良基の関白も停止となった(正平一統)。京都では洞院公賢が左大臣に指名され政務が行われたがこの時点では直仁親王は廃位とされていない。翌正平七年(1352年)閏二月二十日北畠顕能率いる南軍が京都に突入、警戒を怠っていた足利義詮が七条大宮の市街戦で大敗し、三上皇皇太子(光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王)を置き去りにしたまま、近江に敗走したため、南軍が一時京都を占領した。この時点で春宮坊の職員が停止されている(註5)。この後、親王は南軍により光厳・光明・崇光上皇とともに大和賀名生に連れてこられるが、正平七年閏二月二十日の時点が事実上の廃位とみてよいだろう]

 
(註1)有富純也『日本古代国家の支配理念』東京大学出版2009 210頁以下

(註2)増尾伸一郎「孝子〈衣縫造金継女〉伝承考」『史聚』24号1989-12
 関連して戸令二十八の七出・三不去の制も婦人道徳にかかわるものだが、凡そ妻棄てむことは七出の状有るべしとされるのである。子無き。間夫したる妻。舅姑に事へず。心強き妻。ものねたみする妻。盗みする妻。悪疾。であるけれども子無きはさしたる咎にあらずともされている。
 このなかで最も重視したいのが「舅姑に事へず」である。この趣旨からいって現代のフェミニストは伝統的道徳に反逆するものである。夫にも服従しない対等を要求。のみならず舅姑に仕えるのはまっぴらごめん。舅姑と同じ墓に入りたくない。それでいて夫婦別姓導入で法定相続で夫家の家産は分捕りたい。このような我が儘を許すべきではない。
 近世の女子教訓書の代表作『女大学宝箱』(享保元年)には「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁いりを゛帰る″という。わが家にかえるという事なり」とあり、また「女は、我が親の家をば継がず、舅・姑の跡を継ぐゆえに、わが親より舅・姑穂大切に重い、孝行を為すべし」と説かれていた。それが婦人道徳の根幹であるとすれば、夫婦別姓論者の主張は、律令国家以来の1300年の伝統的規範を否定するもので許し難いわけである。
(註3)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 94頁~100頁
(註4)野村玄『日本近世国家の確立と天皇』清文堂出版(大阪)2006 57頁以下

(註5)小川剛生『二条良基研究』笠間書院2005 39頁

 
参考 阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ東宮表http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/touguu/touguu1.html#boutou

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2009/09/29

感想ETV特集 シリーズ「日本と朝鮮半島2000年」第6回 蒙古襲来の衝撃 ~三別抄と鎌倉幕府~

 27日放送を見た感想を述べます。NHKのホームページでは番組の概要をこう説明してます。
「13世紀後半、日本を震撼させた蒙古襲来。その3年前に朝鮮半島から救援を求める謎の国書が届いていた。送り主は、高麗王朝に反旗を翻し蒙古に徹底抗戦を唱えた軍事集団、三別抄。近年の研究で三別抄の激しい抵抗が日本攻撃を大幅に遅らせるなど、蒙古軍の敗因のひとつになったことがわかってきた。チンド(珍島)からの救援要請に、日本はどう応じたのか?東アジア全体に視野を広げ、日韓双方の視点から空前の危機を読み直す。」

 江華島や珍島の遺跡のロケは初めて見たが、内容は特に新味はない。
村井章介『中世日本の内と外』ちくまプリマーブックス128(筑摩書房1999)を読み直しましたが、番組の趣旨と類似したことは書かれてます。三別抄の反乱について詳しく説明され「三別抄の反乱が元の対日本作戦をおくらせ、また征討軍を疲れさせて日本に向かう勢いを弱めたことはまちがいありません」と書かれてます。
 石井正敏が約30年前に発見したという1271年の高麗牒状不審の条々及び『吉続記』(吉田経長)の文永八年九月条の意味についても書かれてました。
 村井によれば牒状の文意を正確に読んだ人はいなかったということです。しかし、番組の趣旨はことさら、対日戦争の妨害もした、高麗反政府勢力の抵抗を讃え、救援要請に冷淡だった日本の態度に同情的なトーンというのも少し一面的な取り上げ方のように思えます。
 だいたい高麗は我が国の朝貢国でもなく救援する義理などない。
 この番組のシリーズでは朝鮮半島側からみて都合のよい歴史観が強調されているようにも思え、八世紀の対新羅との関係の冷却化、九世紀の対新羅危機はスルーになってますが、日本の排外主義イデオロギーの起点となった問題を無視しており不満です。
 735年に新羅使は我が国の許しなく国号を「王城国」と改める無礼により追い返され、743年の新羅使は、それまでの朝貢国への献上品を意味する「調」ではなく「土毛」と称したみやげを携えてくる無礼がありました。
 渤海とは明確な君臣関係ではなかったが、我が国を上位国とする名分関係でしたので許せますが、新羅の無礼は容認できません。九世紀には張宝高事件、文屋宮田麻呂事件というのがあり新羅人への猜疑心は強まります。承和の変の頃の大宰大弐藤原衛の四条起請も対新羅の警戒心によるものです。869年には新羅賊船二艘が筑前国那珂郡荒津で豊前国貢納物運搬船を襲撃して絹綿を奪われましたが、この年に九州に居住していた新羅人を陸奥の空地に移してます。逆謀を懐いて内応すること恐れていたからです。そういう険悪な関係になった歴史というものも説明しておかないと、一面的な歴史観になりかねない。

 

 
 

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2009/08/30

女子法定婚姻適齢引上げ絶対反対シリーズ「 明治11年の東京評判美人番付」

 江戸では明和期と寛政期に美人ブームがあった。明和の三美人は笠森お仙(谷中笠森稲荷鍵屋)・柳屋お藤(浅草楊枝見世柳屋)・蔦屋およし(浅草大和茶屋)または堺屋おそでであるが、最大級のアイドルとして爆発的ブームになったのが谷中笠森稲荷の水茶屋鍵屋のお仙である。鍵屋は父親の五兵衛が建てた単にお茶と菓子を出すだけの純喫茶、社務所直営の健全な水茶屋であるから、講談などの色恋沙汰は創作なのであって、本物の清純派アイドルといえる。鈴木春信の画いた錦絵は三十種に及び、双六、手ぬぐい・人形などのグッズも売れたのである。11~12歳頃父の店を手伝うようになった。既に明和元年13歳時に評判の美人娘だったが人気絶頂の明和七年に19歳で姿を消した。武家の養女となったうえ、幕府御休息御庭者支配の倉地政之助と結婚、役人の妻として桜田門外の御用屋敷で77歳まで幸福な生涯を送った。
 寛政の三美人は浅草寺随身門前難波屋おきた、薬研堀高島屋おひさ、芝神明町菊本おはんである。おきたは寛政五年の『水茶屋娘百人一笑』によると16歳で、14~15の頃から見世に出ていたとみられている。おひさは両国米沢町の煎餅屋の内儀であるがおきたより1歳年長だった。従って寛政の三美人とは16~17歳である。喜多川歌麿が三美人を画いているが、おきたは18歳が最後なので、寛政7年18歳で姿をかくしたとみられている。(佐藤要人『江戸水茶屋風俗考』三樹書房 平成5年)
 従って娘盛りは16~17歳という認識をもってよいと思う。
 
 江戸および明治東京の庶民史研究者の小木新造氏(元江戸東京博物館長)によると、1870~80年代明治前半期の東京が離婚率が高く早婚であったということを指摘している(『東京庶民生活史』日本放送協会1979の287~330頁参照)
 
 明治民法(明治31年、1898年施行)は法定婚姻適齢男子17歳、女子15歳としているが、それ以前は婚姻適齢の成文法はなかった。だたし改定律例第260条「十二年以下ノ幼女ヲ姦スモノハ和ト雖モ強ト同ク論スル」により、12歳以下との同意性交を違法としていることから、内務省では12年を婚嫁の境界を分かつ解釈とされていた。

東京現住結婚年齢者対象表
『東京府統計書』
明治17年
       男    女
14年以下   11  128
15年以上  604 2740
20年以上 1880 2691
25年以上 2679 1496
30年以上 1607  811
35年以上  871  442
40年以上  略    略

 小木前掲書309頁

 この統計書を見る限り明治17年の東京は早婚の傾向をみてよいと思う。つまり女子は20~24歳の結婚より15~19歳の方が多い。14歳以下が128例、内訳が12歳7、13歳34、14歳87と決して多くないが、公式文書にこれだけの数値が記録されていることは重要であると小木は述べており、統計上現れない実態もあるとすれば12歳を婚姻年齢の境界とする解釈はぼ実態に即したものといえる。
 また松村操『東京穴探』明治14年第二篇九頁では東京における中等以上の資産を有する者の子弟は「大抵男子二十歳前後、女子十四歳ニシテ結婚スルヲ以テ常トス」とあり、14歳を標準的婚姻年齢とする見解がある。

 小木新造は東京における娘盛りが15歳から17歳と認識されていたことを示す資料として番付『東京箱入娘別品揃』を挙げている。これは朱引内六大区のうち三大区までの評判美人娘を番付にしたもので、年齢が記入されている。
これによると「日本橋品川町十六年二ヶ月佃屋おひさ」から「赤坂一ツ木十九年三ヶ月荒物屋おとき」まで96名に張出2名を加えて98名の娘が登場するがその内訳は

13歳  5人
14歳 11人
15歳 24人
16歳 19人
17歳 31人
18歳  2人
19歳  5人
20歳  0人
21歳  1人

 小木前掲書310頁以下

 98名のうち90名、92%が17歳以下である。美人・別嬪娘とは15~17歳をおおむねさしたのである。俗に娘十八番茶も出花と言うが十八歳は娘盛りを過ぎており、二十歳では年増との認識とみてよいだろう。現代でも山口百恵などの中三トリオをはじめとして15~17歳でデビューするアイドルが成功することが多い。例えば広末涼子は第1回クレアラシル「ぴかぴかフェイスコンテスト」でグランプリ獲得が14歳でタレントとなった。爆発的人気はNTTドコモポケベルのCMであるが15~16歳である。吉永小百合も『キューポラのある街』でヒロインとなり、『いつでも夢を』でレコード大賞を獲り清純派女優として人気を得たのが17歳である。
 15~17歳を娘盛りとする認識は実は現代もさほど変わらない。よって女性がもっも魅力的な16~17歳が婚姻適齢から外すことは自然に反したものであり18歳に引き上げることは適切なものではない。 

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三后皇太夫人等の婚姻成立年齢等の検討

①御配偶②御父③母④親族関係⑤所生の皇子皇女⑥生年⑦身位の変遷等)⑧婚姻成立時期と当該年齢(数え年)若干のコメント
  
 (これは女子法定婚姻適齢引上げ絶対反対シリーズの一つの資料としてかなり前に書いたもので法制審議会が改正を迫る危険な情勢で抵抗していかなければならないので未完成だが出していくことにします。)

令義解巻二、戸令に「凡男年十五、女年十三以上、聴婚嫁」とあり養老令に定める婚姻適齢が 男15歳、女13歳であった事は疑いなく、大宝令も同一、飛鳥浄御原令も一応同一だったというのが通説である。
 養老の戸婚律は散逸して伝わらないが、唐の戸婚律には早婚者を罰する条文なく、わが養老戸婚律も同様であったことは間違いない。仁井田陞博士は「唐令拾遺」において、司馬氏書儀及び文公家家令の文を引いて、「諸男年十五。女年十三以上、並聴婚嫁、」なる条文が、唐開元二十五年令にあったものと推定し、同条文はわが律令の藍本となった唐永徽令にもあったと推定されている。。
 

 要するに律令国家の婚姻適齢は唐令の模倣である。しかしそれだけの意味ではない。ローマ法の法定婚姻適齢が男子14歳女子12歳で、これは教会法に継受された、英国のコモンローマリッジも教会法を継承しているので同じである。現在教会法は男子16歳女子14歳で、英国は男女とも16歳であるがこれは20世紀になってからであって、従って西洋の婚姻適齢法制スタンダードはローマ法-教会法-コモンローの男子14歳、女12歳なのである。しかしそれは西洋だけのものではなかった。日本・中国・朝鮮半島・ベトナムでは伝統的に年齢は数え年のため、唐永徽令、日本養老令の男子15歳、女子13歳もだいたい同じことである。ローマ法-教会法-コモンローと唐永徽令-日本養老令の婚姻適齢が洋の東西を問わずグローバルスタンダードでほぼ同一だったということである。
   奇しくも持統女帝(ウノノ皇女)の婚姻年齢が13歳だった。光明皇后(藤原安宿媛)が16歳であるが、共同統治型の最強皇后というと、呂后に比擬される持統と、則天武后に比擬される光明皇后だ。16歳以下のケースは多い。それが基本であると認識すれば、法定婚姻適齢を18歳に引き上げてしまおうというのは歴史的脈絡を無視したものである
。なお歴代皇后で最年少のの婚姻年齢は崇徳后藤原聖子(
皇嘉門院-関白忠通女)の八歳で、最高齢は三十九歳の藤原泰子(高陽院-関白忠実女)だと思う。
 

 律令成立期(天武朝)より、摂関期(後冷泉朝)までの正号皇后、皇太后、太皇太后、皇太妃、皇太夫人は全てリストアップ。后位に上ってない妃、女御の一部もリストアップしている。但し、光仁生母紀橡姫、醍醐生母藤原胤子、花山生母藤原懐子、三条生母藤原超子など追尊皇太后等の一部をリストに加えなかった。下記の多くは孫引きで推定も含む。筆者が直接史料に当たったのは一部分にすぎない。
 身位の変遷等についての主な引用は橋本 義彦「中宮の意義と沿革」『書陵部紀要』22号1970、角田文衛『日本の後宮余録』学灯社1973、一応記述は誤記のないように気をつけているが、身位の変遷等はウィキペディアも詳しいので参照してください。

持統天皇(鸕野讚良皇女 、兎野皇女) ①天武后②天智③蘇我越智娘④天武の姪⑤草壁皇子(皇太子)⑥大化元年⑦天武天皇二年立后、朱鳥元年臨朝称制、持統天皇四年即位46歳、持統天皇十一年譲位、大宝二年崩御58歳 ⑧斉明天皇三年 13歳

元明天皇(阿閇皇女) ①草壁皇子妃②天智③蘇我姪娘④草壁からみて父方従姉妹、母方おば⑤文武天皇、元正天皇、吉備内親王⑥斉明天皇七年⑦文武即位後皇太妃(皇太妃宮職附置)、慶雲四年即位、和銅八年譲位、養老五年崩御61歳⑧初生子の元正天皇(氷高皇女)は天武天皇九年生である。よって草壁と阿閇皇女の結婚は天武八年以前である。天武八年に阿閇皇女は19歳であるが、阿閇皇女の同母姉である御名部皇女と高市皇子の結婚は、御名部皇女所生の長屋王が天武五年生であるから天武四年以前である。これを参考にして神田千紗は天武五年~八年頃。つまり16~19歳とみなしている。*1

藤原宮子①文武夫人②右大臣藤原朝臣不比等③加茂朝臣比売⑤聖武天皇⑥生年不詳⑦文武天皇元年八月夫人、養老七年従二位、神亀元年二月勅、生母正一位藤原夫人を尊んで大夫人と称する。同三月詔、先勅を改め、皇太夫人、口語は大御祖(おほみおや)と称する。この後中宮職附置、孝謙即位後大皇太后(中宮省附置)⑧文武天皇元年八月 

光明皇后(藤原安宿媛)①聖武后②右大臣藤原朝臣不比等③県犬養橘三千代④聖武と同年齢だが母方おば⑤孝謙天皇、基王(皇太子-夭折)⑥大宝元年⑦霊亀二年六月入内16歳、聖武即位後夫人24歳、天平元年立后29歳(皇后宮職附置)、孝謙即位後に皇太后49歳(紫微中台-附属職司、天平宝字二年坤宮官に改称)、天平宝字四年崩御60歳⑧霊亀二年六月16歳。これは首皇子立太子の二年後である。霊亀元年、長親王・穂積親王が薨じ、この時点で天武皇子で健在なのは舎人親王と鎌足女を母とする新田部親王だけとなり、元明が精力の減退を理由に元正に譲位した。霊亀二年には吉野盟約の最後の生存者志紀親王が八月に薨じ、左大臣石上麻呂は老齢で翌年三月薨じている。ほぼ右大臣不比等が太政官の決裁権を握ったとみられるから*2、霊亀二年六月の入内は政治的タイミングだろう。天平元年の立后宣命に「我が王祖母天皇(元明か元正かで議論のある問題だがたぶん元明をさす)の、此の皇后を朕に賜へる日に勅りたまひつらく、其の父と侍る大臣の皇が朝をあななひ奉り輔け奉りて、其の父は夜半暁時休息ふこと無く,浄き明き心を持ちて……我が児、我が主、過ち无く罪なくあらば、捨てますなと負せ賜ひ宣り賜ひし大命によりて」とあるが、元明上皇が「捨てますな」と皇太子に命じたことは、元明と県犬養橘三千代が親しかったことから事実だろう。共同統治型の強力な皇后。東大寺・国分寺創建の発意者であり、膨大な写経・勘経事業など国家的仏教事業を推進。貧窮民救済のための施薬院や悲田院といった福祉的事業にも深くかかわった。聖武天皇が陸奥産金の知らせに喜び衝動的に出家され国政を投げ出したため、皇太后朝=紫微中台政権では天皇大権を掌握したとされる。

当麻山背①舎人親王②当麻老⑤淳仁(淡路廃帝)⑥生年不詳⑦天平宝字三年大夫人(中宮職附置)、天平宝字八年淡路配流

井上内親王①光仁后②聖武③夫人県犬養宿禰広刀自⑤他戸親王(皇太子-廃位)、酒人内親王⑥養老元年説あり⑦養老五年斎宮に卜定、神亀四年群行、天平十六年退下(離任)、天平十九年二品直叙、宝亀元年立后、宝亀三年廃后、宝亀六年歿(変死)、延暦十九年詔して皇后の称を追復し墓を山陵と称する。⑧伊勢斎宮二十年以上の在任から帰京されたのは天平十六年。同十九年正月内親王が無品から二品に特叙されたのは、斎宮の任務をとげたことによる。この前後に天智の孫の白壁王との婚姻が成立したとみられている*3。内親王の生年が不確定だが30歳前後か。

高野新笠(和史新笠-宝亀年中高野朝臣賜姓)①光仁夫人②和朝臣乙継③土師宿禰真妹-延暦九年追尊して大枝朝臣賜姓⑤桓武、早良親王(皇太弟-廃位)⑥生年不詳⑦天応元年皇太夫人(中宮職附置)、延暦八年崩御、同九年追贈皇太后、大同元年追贈太皇太后

酒人内親王①桓武妃②光仁③皇后井上内親王④桓武の異母妹⑤朝原内親王⑥天平勝宝六年⑦宝亀元年三品直叙、宝亀三年斎宮に卜定、宝亀五年群行、宝亀六年退下、後に二品、天長六年薨76歳⑧伊勢斎宮から帰京してまもなく宝亀七~八年頃、桓武の東宮時代。22~24歳。容貌艶麗。

藤原乙牟漏①桓武后(天皇より20年以上年少の皇后)②内大臣藤原朝臣良継[式]③阿倍朝臣古美奈⑤平城、嵯峨、高志内親王⑥天平宝字四年⑦延暦二年正三位に叙せられ夫人、同年四月立后(皇后宮職附置)。延暦九年閏三月崩御31歳、大同元年追贈皇太后、弘仁十四年追贈太皇太后⑧林陸朗によると安殿親王(平城)が宝亀五年生であるから、宝亀四年正月の山部親王(桓武)立太子前後に婚姻が成立と推定。結婚年齢は13-14歳。滝浪貞子は、他戸廃太子-山部立太子-乙牟漏入内が良継のバックアップにより百川の策動により進められたとみる。*4

藤原旅子①桓武夫人②参議式部卿中衛大将藤原朝臣百川[式]③藤原朝臣諸姉⑤淳和(延暦五年生)⑥天平宝字三年⑦延暦五年夫人、延暦七年薨30歳、贈妃、正一位。後贈皇太后⑧後宮に入ったのは延暦の初期、20歳代。帝より22歳年下。

*1神田千紗「白鳳の皇女たち」『女性史学』6 1996
*2井上亘「元正政権論」『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館 1997
*3林陸朗「県犬養家の姉妹をめぐって」『國學院雑誌』62-9 1961-9
*4 滝浪貞子日本古代宮廷社会の研究』 思文閣1991史学叢書

藤原帯子①平城②参議式部卿中衛大将藤原朝臣百川[式]⑥生年不詳⑦延暦十三年五月薨。大同元年六月追贈皇后。⑧平城の東宮時代。子をもうけていないのに贈皇后とは不可解で、兄の藤原朝臣緒嗣は再三辞退するが天皇は許さず。

朝原内親王①平城妃②桓武③妃酒人内親王④平城の異母妹⑥宝亀十年生⑦延暦元年斎宮に卜定、延暦四年群行、延暦十五年退下、三品直叙18歳、寵愛薄く弘仁三年妃を辞職。弘仁八年薨39歳⑧帰京された延暦十五年以後であることは間違いないが不詳。

大宅内親王①平城妃②桓武③女御橘朝臣常子③平城の異母妹⑦延暦二十年加笄。弘仁三年妃を辞職。四品直叙。嘉祥二年薨

高津内親王①嵯峨妃②桓武③女御坂上大宿禰又子④嵯峨の異母姉とする説あり⑤業良親王、業子内親王⑥生年不詳⑦延暦二十年加笄、大同四年三品を授けられ、妃とされるが、ほどなく妃を廃される。理由不明。藤原冬嗣の陰謀説*1、姦淫説等諸説あり不確定。外戚の坂上氏は武官の枢要を歴任し有力な軍事官僚で、有力公卿の藤原内麿や嵯峨側近の藤原三守とも姻戚関係があるので不可解な事件だが、冬嗣の異母弟三人の母が坂上氏である。冬嗣にとって高津内親王が後宮で権勢を有する事は具合が悪い。もしこれが陰謀なら冬嗣か坂上氏とライバル関係とみられる巨勢野足あたりが怪しい。⑧不詳

橘嘉智子  ①嵯峨后②内舎人橘朝臣清友⑤仁明天皇、正子内親王、秀良親王、秀子内親王、俊子内親王、繁子内親王、芳子内親王⑥延暦五年生⑦大同四年為夫人従四位下、翌年従三位、弘仁六年立后(皇后宮職附置)、弘仁十四年 皇太后、天長十年 太皇太后、嘉祥三年五月崩御65歳⑧結婚時期不詳。そもそも橘嘉智子は敏達裔九世孫とはいえ、謀反を起こした奈良麿の孫娘で、后位にのぼされうる女性だったとは思えない。嵯峨側近の南家巨勢麿流藤原三守が橘嘉智子の姉を妻としており、三守は蕃邸の旧臣であるから、婚姻は嵯峨の在藩時代とみられている。橘嘉智子立后は冬嗣の策動とみられており、その狙いは有力な皇位継承候補者だった恒世王の立太子阻止にあったのだろう。 

高志内親王①淳和②桓武③皇后藤原乙牟漏④淳和の異母妹、平城・嵯峨の同母妹⑤恒世親王(皇太子に指名されるが辞退)、氏子内親王、有子内親王、⑥延暦八年または宝亀十年生⑦延暦二十年加笄、同二十三年三品、大同四年五月薨(贈一品)弘仁十四年贈皇后⑧『紀略』では大同四年享年二十一歳とあるので、延暦二十年加笄が13歳、恒世王が誕生した延暦二十四年は17歳であり、結婚年齢を14-16歳と推定できる。但し『紀略』の記事は三十一歳の誤写である可能性もあり、断定できない。

正子内親王①淳和后②嵯峨③橘嘉智子④淳和の姪、⑤恒貞親王(皇太子-廃位)恒統親王、基貞親王⑥弘仁二年生(仁明天皇と二卵性異性双生児とみられる)⑦天長四年立后(皇后宮職附置)17歳、天長十年皇太后(固辞)、仁寿四年太皇太后(固辞)、元慶三年三月崩御70歳、御陵なし。⑧17歳以下 立后が17歳であるため。
淳和太后は承和の変の敗者だが、慈仁の心甚だ深く、行き場を失った僧尼を保護するため淳和院を尼の道場となし、嵯峨院は、宮を捨てて精舎となし、大覚寺を創建、僧尼の病の治療をなすため、済治院を設けた。また、封戸の五分の二をさいて、京中の棄児を収拾し、乳母をつけて養育した。*2太皇太后尊号を頑強に固辞されているが、朝廷が容れるはずがなく、『管家文章』に淳和院太皇太后令旨が数件見られ、終身后位にいらされたとみるべきである。

藤原貞子①仁明女御②右大臣藤原朝臣三守〈南〉③不詳④三守の妻が仁明生母の橘嘉智子の姉妹の安万子であるが、もし母が橘氏なら仁明とは母方従姉妹⑤成康親王、親子内親王、平子内親王⑥生年不詳⑦天長十年十一月従四位下、承和六年正月、従三位、嘉祥三年七月、正三位、貞観六年八月薨。贈従一位、仁明天皇の深草山稜兆域内に葬られる。⑧薨伝に「風容甚だ美しく、婉順なりき。仁明天皇、儲弐と為りたまふや、選を以て震宮に入り、寵愛日に隆し」と見え、仁明の東宮時代。年齢は不明。
文徳実録仁寿元年二月丁卯条に「正三位藤原朝臣貞子、出家して尼となる。貞子は先皇の女御なり、風姿魁麗にして、言必ず典礼なり。宮掖の内、その徳行を仰ぎ、先皇これを重んず。寵数は殊に絶える。内に愛あるといえとせも、必ず外に敬を加う。先皇崩じて後,哀慕追恋し、飲食肯わず。形容毀削し、臥頭の下、毎旦、涕泣の処あり。左右これを見、悲感に堪えず、ついに先皇のために、誓いて大乗道に入る。戒行薫修し、遺類あることなし。道俗これを称す」とあり*3、天皇のキサキで崩後出家し尼となった先例として桓武女御橘朝臣常子の例があるが、貞子は筆頭女御なので(女御としては東宮生母の藤原順子より上位)女性史的にも重要な意義がある。

藤原順子(五条后)①仁明女御 ②左大臣藤原朝臣冬嗣[北]③藤原朝臣美都子[南]⑤文徳天皇⑥大同四年生⑦天長十年、従四位下、承和十一年従三位、嘉祥三年、皇太夫人(中宮職附置)、仁寿四年皇太后(中宮職継続、天安二年十一月二十五日より皇太后宮職)、貞観六年太皇太后(太皇太后宮職附置)、貞観十三年九月崩御63歳。⑧崩伝、三代実録貞観十三年九月十四日辛丑条「仁明天皇儲貳たりし日、聘して宮に入り給ひき」と見え、正良親王立太子とほぼ同時期、弘仁十四年15歳頃

藤原沢子①仁明女御 ②紀伊守藤原朝臣総継〈北家傍系魚名流〉贈太政大臣③藤原朝臣数子⑤宗康親王、光孝天皇、人康親王、新子内親王⑥生年不詳⑦承和六年六月卒後従三位、最も寵愛される。光孝即位により贈皇太后。⑧仁明の東宮時代

*1芦田耕一「高津内親王の歌をめぐって」『平安文学研究』61 1979                                    
*2大江篤「淳和太后正子内親王と淳和院」大隅和雄・西口順子編『シリーズ女性と仏教1尼と尼寺』平凡社1989
*3同上

藤原明子(染殿后)①文徳女御②太政大臣藤原朝臣良房③源朝臣潔姫[嵯峨一世源氏]④文徳からみて父方またいとこ、母方従姉妹⑤清和天皇、儀子内親王⑥天長六年⑦天安二年十一月七日皇太夫人(中宮職は天安二年十一月二十五日まで藤原順子と明子の御二方に奉事。幼帝清和擁護のため祖母と母が東宮雅院に同殿されていたため。順子が藤原良相邸に移御され皇太后宮職附置により、中宮職が独立。但し『中台の印』は順子が終身所持した後、皇太夫人藤原高子が所持、貞観六年皇太后(皇太后宮職附置)、元慶元年太皇太后(太皇太后宮職附置)、昌泰三年五月崩御73歳⑧文徳の東宮時代。『今昔物語』で知られるように物の怪気味で気鬱症に悩まれていたようだ。

藤原古子①文徳女御 ②左大臣藤原朝臣冬嗣④文徳の母方おば⑥生年不詳⑦嘉祥三年七月女御、仁寿三年従三位、天安二年十一月従一位

藤原多賀幾子①文徳女御②右大臣藤原朝臣良相④文徳の母方従姉妹⑥生年不詳⑦嘉祥三年七月女御、斉衡元年従四位下、天安二年卒

藤原多美子①清和女御②右大臣藤原朝臣良相④清和生母藤原明子と従姉妹⑥生年不詳⑦薨伝は概ね次のとおり「性安祥にして、容色妍華、婦徳を以て称さらる。貞観五年十月従四位下、貞観六年正月清和天皇元服の夕選を以て後宮に入り、専房の寵有り、少頃して女御、同年八月従三位、同九年三月正三位、元慶元年十一月従二位、同七年正月正二位、仁和二年十月薨。徳行甚だ高くして中表の依懐する所と為る。天皇重んじ給ひ、増寵他姫に異なり。天皇入道の日(清和上皇の出家に従う-元慶三年五月)、出家して尼と為り、持斎勤修す。晏駕の後、平生賜りし御筆の手書を収拾して紙を作り、以て法華経を書写し、大斎会を設けて恭敬供養しき。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉りしなり。即日大乗会を受く。聞きて聴者感嘆せざる莫し。熱発して奄ち薨じき」帝最愛の寵姫であるのに子をもうけることができなかったのは結果論だと思う。清和天皇は九歳で即位して十六歳まで生母明子と東宮雅院で同居状態だったが貞観七年に内裏に遷御され、明子は東宮に止まり母と離れたののだが、応天門の変の後、皇太后藤原明子が後宮正殿常寧殿に移御されている。これは良房が内裏をミウチで固めて帝を取り込み(当時後宮を差配していたのが尚侍源全姫で、良房の義妹、皇太后のおば)筆頭女御の多美子を牽制する意図があったとみてよい。尚侍源全姫がやたらと多くの女御更衣を後宮に送り込んだのも多美子に里第へ退下を余儀なくするいやがらせとみてよいだろう。*1
         
藤原高子(二条后)①清和女御②中納言藤原朝臣長良③藤原朝臣乙春④清和生母藤原明子と従姉妹、良房の養嗣子基経の同母妹⑤陽成天皇、貞保親王、敦子内親王⑥承和九年生⑦貞観八年十一月頃に入内、十二月女御、貞観十三年従三位、貞観十九年皇太夫人(中宮職附置)、元慶六年皇太后(皇太后宮職附置)、寛平八年廃后(前皇太后職附置)、延喜十年薨、⑧貞観八年十一月入内26歳(帝より八歳年長)兄藤原基経が七人抜きで中納言に昇進し右大臣左近衛大将藤原良相が辞表を上ったほぼ同時期。応天門の変の背景に太政大臣良房の養女格であった高子の入内問題があった。『伊勢物語』等の二条后と在原業平の恋愛事件について、多くの学者は消極的な姿勢で史実性を認めているが、角田文衛*1は物語文学を精査したうえ、貞観元年十二月~二年正月皇太后宮東五条第西の対に業平が忍び通いをしたと断定しているが納得できる見解で、大略次のとおりである。高子は清和天皇の大嘗祭で五節舞姫に選ばれ、清和祖母皇太后藤原順子の里第東五条第に預けられていたのだが、当時皇太后は弟の良相邸(西三条第)に長期逗留、仮御所とされていた。皇太后宮は警備が手薄になっていた。しかも貞観元年八月九月の猛烈な台風で『伊勢物語』第五段のように築垣が崩れていたらしい。事件発覚後高子は良房の指示により異母兄国経と兄基経によって別の邸宅に移された。業平が『月やあらぬ‥‥』という有名な歌を詠んだのは貞観三年正月十五日頃である。いかに隠したって業平は人気者だから、極限された貴族社会では忽ち電波のように知れわたったに違いないとする。当時の太政官符の類を見れば明白なように、左大臣源朝臣信は名のみで、実際の政治は主として右大臣良相が施行していた。政権の主軸である良相が難色を示せば、いかに良房と雖も持駒の高子入内を強行できなかった。あるいは皇太后藤原順子が帝より八年も年長で派手な性格の高子を嫌って、行儀正しい多美子を推薦したとみられている。
 さて、貞観八年応天門の変直前の状況について武野ゆかり*2は太皇太后藤原順子-右大臣藤原朝臣良相-大納言伴宿禰善男(国家財政担当の要職である民部卿と太皇太后大夫を兼官)の三者がむすびついていたとしているが、良相と伴善男は仁明の寵臣で同時期に参議に列し、民政重視で相通じる仲だった。しかも良相の嫡子常行は有能で、応天門焼失の直前に基経より上席で参議に列していた。むろん大納言平朝臣高棟や権大納言藤原朝臣氏宗は良房派で、両派閥は拮抗していたとみてもよいが、なんといっても良相女多美子は帝の寵姫で皇子誕生となれば、北家嫡流は良房-基経ではなく良相-常行に移行する可能性があった。しかし策謀において長じていた良房は貞観八年閏三月の応天門炎上〈真相は不確定〉を奇貨として巧妙な陰謀を企て一気に巻き返しを図った。伴善男を斃すとみせかけて、弟良相の失勢を図り、常行を挫折させ、無能だが嵯峨源氏長者たる源信を庇ってみせて賜姓源氏の信頼感を繋ぎ留め、人臣初の摂政となった。しかしこの事件は北家嫡流の権力抗争に還元できない。伴善男は嘉祥三年の任中宮大夫から貞観八年伊豆配流まで十六年間(母の服喪期間を除く)一貫して藤原順子の附属職司の長官であり御願寺安祥寺の造営などで信任されていたのである。上皇不在の状況では太后の啓令を吐納し命令を下達する職掌は重大であり、かれの貞観期における昇進と権勢は太后の政治力をバックにしていたことが大きい。従って太皇太后の発言権を封じる狙いもあったとみられている。太皇太后は仏教に帰依され(貞観三年二月出家)温厚な女性であった。しかしたんに憶測にすぎないが順子は文徳朝における良房の政治手法(文徳は内裏に常住できず、天皇親臨の政治体制ではなかった、良房は近衛府と弁官を掌握して権力を牛耳った)に疑念を持ち、行政手腕のある良相-伴善男-常行を台閣の主軸として天皇親政の構想であったのかもしれない。その気にさえなれば兄良房追放もありえたのであって、伴善男は武官を兼ねてないが良相と結託して軍事力を動員し源信邸を包囲しており、良房にとっても脅威となっていた。

班子女王(洞院后、院ノ太后)①光孝女御②二品太宰師仲野親王(桓武皇子)③当宗氏⑤是忠親王、是貞親王、宇多天皇、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王(陽成上皇妃)、為子内親王(醍醐妃)⑥天長十年説が有力であるが異説あり⑦元慶三年二月、従三位、同年四月、女御、仁和三年皇太夫人(中宮職附置)寛平九年七月廿五日皇太后(皇太后宮職附置)昌泰三年四月崩御⑧時康親王(光孝)との結婚年齢は不明。昌泰三年崩御の年齢について日本紀略、扶桑略記、大鏡裏書等は48歳と伝えており、宇多(定省王)は貞観九年生で当時15歳になる。しかし宇多には二人の同母兄がいて、さらに忠子内親王という姉がいた可能性がある。しかも宇多の兄、是忠親王は元慶元年に次男をもうけており、班子女王は25歳で二人の孫を有していたことになり、不自然である。萩谷朴*3は68歳崩御説で、その論拠として西宮記皇后御賀事、伏見宮御記録母后賀例で寛平四年三月内裏后町(常寧殿)において中宮班子女王の六十の賀が行われたという記事を挙げているが、48歳崩御説を採る歴史家はこれを四十の賀とみなしている。父仲野親王(桓武皇子)は、頗る典礼旧儀礼に通じた博識の才幹で、親王は奏寿宣命の道を致仕の左大臣藤原緒嗣に学び、勅により藤原基経、大江音人に授けたほどだった(式部卿在職14年、貞観九年薨じた時点で二品太宰帥、贈一品太政大臣)。后は反摂関強硬路線の主導者とみられ、後述するように藤原穏子の入内を執拗に阻止しようとした。后は外祖母こそ京家流藤原氏(桓武女御藤原朝臣河子)だが北家藤原氏とは血縁関係がない。

藤原温子(東七条后)①宇多②関白藤原基経③操子女王⑥貞観一四年⑦仁和四年十月入内、ついで従四位下、女御。寛平五年、正三位。寛平九年七月廿五日皇太夫人(中宮職附置)、延喜七年六月崩御⑧仁和四年十月六日に入内が決まり、九日に女御となった。17歳。阿衡の紛議が急転直下落着する直前。この時点で藤原基経は宇多が「朕の博士」として重用した参議左大弁橘広相を厳罰に処す方針だったが*4、尚侍藤原淑子の裏面工作により事態の収拾が図られた。たぶん温子に皇子誕生となれば皇位継承者とし、橘所生の親王は皇位継承候補から明確に外すという取引により基経を妥協させたのだろう。亭子院は温子の里第である。

為子内親王①醍醐②光孝③班子女王④醍醐の伯母、宇多の同母妹]⑥生年不詳⑦寛平九年七月三日醍醐践祚及び元服当日に入内、七月廿五日三品を授けられ、妃とされた。昌泰二年女子を出産するがまもなく薨(贈一品)。

藤原穏子(「天暦太后」)①醍醐②関白藤原基経③人康親王王女④醍醐のまたいとこ、つまり醍醐の父帝宇多と穏子の母はともに仁明天皇と贈皇太后藤原沢子の孫である⑤保明親王(皇太子)、朱雀天皇、村上天皇、康子内親王⑥仁和元年⑦延喜元年三月、女御。延喜九年、従二位。延喜二十三年四月立后(中宮職附置)、承平元年皇太后(中宮職)、天慶九年太皇太后(中宮職)、天暦八年崩御 
⑧正式に女御になったのは延暦三年三月で穏子は17歳であるが、それ以前に次のような経過があった。
 宇多天皇の『寛平御遺誡』によると敦仁親王(醍醐)立坊も譲位のことも菅原道真一人と相談して決めたいう内幕を開かしている(但し敦仁立坊については尚侍藤原淑子も加わっていた可能性がある)。寛平九年七月三日の宇多譲位醍醐受禅は異例なことに、皇太子の元服加冠の儀と同日にセットされた。清和、陽成の元服は正月であり、七月というのも異例であるが、『儀式』では内裏の外で譲位式が行われるものだが、敦仁親王は当日東宮より内裏清涼殿に入り元服を加えたのち、譲位式が紫宸殿で行われ、譲位の詔で新帝の奏請宣行は時平と道真の輔導によれと命令を下すというきわめて特徴的な儀式になった*5。新帝醍醐は清涼殿に入御され(但し新帝の遷本宮は十月廿二日であるから、この後いったん東宮に還御されたようだ)、譲位後宇多は後宮の弘徽殿に入御された。奈良時代には元正上皇が中宮西院を居所とされた例があるけれども、平安時代は上皇が内裏に入御されるのは異例である。しかし長くとどまることはできないので、八月九日に母后班子女王とともに東院(もしくは洞院)に遷御されている。この特徴的な皇位継承はたんに摂政不設置の口実づくりだけが目的だったということではない。為子内親王入内のタイミングはこのやり方が最善だったということである。なぜならば、もし藤原温子の皇太夫人に上った「七月廿五日」後だと、後宮の第一人者は后位に准じた温子ということになり、皇太夫人藤原高子や班子女王が帝の後楯となって常寧殿を居所とした慣例からみて温子を移御させる口実が難しくなるが、醍醐養母温子が宇多筆頭女御にすぎない時点で新帝伯母の為子が後宮に入ったので、温子に移御せざるをえないようにし向けたとと考えられる。そして最大の目的は藤原穏子入内強行の阻止にあった。宇多と班子女王はたぶん東宮大夫を兼ねる藤原時平が新帝としめしあわせている疑いをもっていた。宇多天皇はそのために譲位式後にわざわざ清涼殿に隣接する殿舎(弘徽殿は温子の直廬であるから、温子は当日別の殿舎に移っていたか、里第に退下していた)に入御されたと思われる。
 『九暦逸文』(藤原師輔)によると皇位継承当日七月三日の夜、皇太夫人班子女王は娘の為子内親王とともに参内した際、穏子(13歳醍醐と同年齢)がともに参入してきたので、班子女王の命により宇多上皇が穏子の参入を停めたという。どうやら穏子は寝所近くまで入ってきたので、班子女王が待機状態にあった上皇を呼びだし、上皇御自ら実力阻止行動に出るというドタバタ劇があったようだ。また昌泰二年妃為子内親王が薨じた際、皇太后班子女王は「為子の産褥死は穏子の母にあたる人康親王女の怨霊が祟りをなした」という浮説を理由に執念深く穏子入内を禁じたという。その後穏子の兄、左大臣藤原時平が謀をめぐらして穏子を参入させてしまった。宇多法皇は怒気をあらわしたという。記者の藤原師輔は皇太后藤原穏子の中宮大夫を歴任しており、太后に取り入って娘の安子を成明親王(村上)に納れることに成功していることからみて、これは伝承というよりも后本人か近侍する女官から直接きいた可能性もあり疑う余地のない事実である。
 結果論でいえば、妃為子内親王が昌泰二年に薨じたことが、穏子にとって幸いだった。この年の二月、時平・道真左右大臣二頭体制がしかれたが、道真の奏請宣行は他の公卿が公事をボイコットする事態を招いた。焦った宇多法皇は昌泰三年正月の朱雀院朝覲行幸の折、天皇と談合のうえ道真に関白の任を授けんとしたが、道真が固辞して実現しなかった。同年四月睨みをきかしていた班子皇太后も崩御になられ、同年十一月三好善行が道真に辞職勧告の書状を送っている。そこで問題となる翌延喜元年正月の菅原道真と右近衛中将源善の追放事件だが、戦前は道真は忠臣であるから冤罪とされてきたが、近年では法皇の側近源善が醍醐退位斉世親王擁立の企てに道真を誘ったというのは事実とみるのが普通になっているようだ。法皇の影響力は決定的に低下し、同年三月穏子は晴れて女御となったのである。
 この一連の事件をどう解釈するか。敦仁親王(醍醐)立坊、宇多譲位の目的についても議論の分かれる問題で単純ではない。醍醐の生母は藤原高藤女胤子で寛平八年に薨じているが、外祖父の高藤は北家冬嗣流の傍系(良門流-勧修寺流)で権勢家でなく無難な人物である。基経薨後の藤氏長者は良房の異母弟の良世で、長く藤原明子の皇太后大夫の職にあり、良房に追従し警戒されることもなく長命でもあったので、傍系でありながら廟堂首座左大臣にまで昇進したという人物である。北家嫡流の時平は有能だがまだ若年で「摂関権力」の中だるみ状況がみられる。そうしたことから、多数説は反摂関路線とみなす見解であり、女御藤原温子に皇子が誕生しないうちにさっさと譲位したいとという宇多天皇の思惑があったのかもしれないが、そうではなく摂関家との協調体制とみる角田文衛説の方が無難な見解だと思う。藤氏としても敦仁立坊は温子に皇子が生まれない以上次善の選択であり、およそ摂関家の協力なくして安定政権は望めないし、そのために東宮大夫に時平を任じたものとみてよい。たぶん角田文衛の推測するように敦仁立坊の時点でパイプ役の尚侍藤原淑子を通じて元服後の穏子入内が了解されていたと思う。ところが、班子女王がこれを反故にして娘の為子内親王を強く推した。たぶん中宮班子女王が反摂関復古維新強硬路線の主導者で宇多や道真は中宮の意向に引きづられていったのだろう。寛平八年、唐突にも皇太后藤原高子が八年も前の御願寺東光寺僧善祐との密通の疑いを口実にして后位を廃され、くすぶっていた陽成上皇の復僻運動あるいは貞数親王の擁立運動を封じたことにより、中宮は俄然強気になった。(もっともこの事件は空位をつくるための便宜的なもので、皇室と藤氏の思惑が一致した-宇多上皇は温子の皇太夫人号に当初反対したようだが、藤原氏としては醍醐養母温子の皇太夫人号中宮職附置は譲れない一線で、高子の側近、皇太后宮大夫国経は「お人好し」でもあったため后位を退いてもらった-のかもしれない)藤原氏側はまさか年長の伯母を妃となすとは思いもよらなかったが、穏子は13歳といっても聡明な女性であり摂関家の命運にかかわる事の重大さを承知していて、それゆえ果敢にも副臥をめぐって為子内親王と張り合おうとしたのだろう。

*1角田文衛「藤原高子の生涯」「良房と伴善男」『王朝の映像』東京堂出版 1970
*2武野ゆかり「中宮職補任-藤原順子・明子・高子の場合」『神道史研究』29-3 1981
*3萩谷朴『平中全講』
*4目崎徳衛「関白基経」『王朝のみやび』吉川弘文館 昭和53年所収
*5 河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』吉川弘文館 1986 

藤原穏子については角田文衛「敦仁親王の立太子」『王朝の明暗』東京堂出版1977、「太皇太后藤原穏子」『角田文衛著作集第6巻』法蔵館 昭和60等からも引用している。

藤原安子①村上后②右大臣藤原師輔③藤原盛子⑤冷泉天皇、円融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王⑥延長五年⑦天慶三年四月婚儀(成明親王立太子より前)、同年八月、従五位下。同九年五月、女御、従四位下。天暦十年、従二位。天徳二年立后(中宮職附置)、康保元年四月崩御38歳⑧天慶三年14歳

昌子内親王(三条太皇太后・観音院太后)①冷泉后②朱雀③女御凞子女王④冷泉の従姉妹⑥天暦四年八月十日『類聚符宣抄』  ⑦袴着-天暦六年十一月廿八日『吏部王記』  裳着-応和元年十二月十七日『日本紀略』 三品に叙せられる。入内-応和三年二月廿八日東宮憲平親王の元服加冠の儀当日*1、康保四年立后(中宮職附置)、但し、天皇と殆ど同殿せず里第に御す。天禄四年皇太后(皇太后宮職附置)、寛和二年太皇太后(太皇太后宮職附置)、長保元年十二月崩御50歳⑧応和三年二月皇太子が元服を加えた当日13歳(満11歳)
 
藤原媓子(堀河中宮)①円融后 ②関白藤原兼通③昭子女王⑥天暦元年⑦天延元年二月、入内。天禄四年立后(中宮職附置)、天元二年六月崩御33歳⑧天延元年27歳

藤原遵子(四条宮、「素腹后」)①円融后②関白藤原頼忠③厳子女王⑥天徳元年⑦天元元年、入内、女御。天元五年立后(中宮職附置)、永祚二年中宮より皇后宮(この時点で円融上皇は在世。太上天皇妻后でも皇后。実資は「往古聞かざる例」としているが、帝母でない前代以往の天皇の妻后は皇后と称するのが令意に叶ったあり方なのである。これは嫡妻権限の明確な中国、近代日本の制度と異なる。)、長保二年皇太后、寛弘九年太皇太后、寛仁元年六月崩御61歳⑧天元元年17歳

藤原詮子①円融女御②摂政藤原兼家③藤原時姫⑤一条天皇⑥応和二年⑦天元元年、入内、女御。寛和二年三月正三位、同年七月立皇太后〈女御から直接皇太后に上った初例、中宮藤原遵子と地位逆転、遵子は詮子の口さがない女房から「素腹后」とあざけられた『大鏡』〉、正暦二年后位を退き院号宣下・東三条院〈女院制度の初例。初期の女院は帝母に限られ太上天皇に准じ后位に勝るとも劣らぬ顕位で宮廷で求心力を有した〉。長保三年閏十二月崩御40歳。⑧天元元年17歳

藤原定子①一条后②関白藤原道隆③高階貴子⑤脩子内親王、敦康親王、もう一方内親王⑥貞元二年⑦永祚二年正月入内、同年二月女御、従四位下、同年十月立后(中宮)〈四后宮並立の初例〉、長保二年二月皇后宮〈転上と記すのが通例だが、中宮より非帝母の班位でもある皇后宮へ異動させられた〉長保二年十二月崩御24歳⑧永祚二年14歳、琵琶、歌をよくし、『枕草子』著者清少納言の景仰せし女性。

藤原彰子①一条后②摂政藤原道長③源倫子④一条の母方いとこ⑤後一条、後朱雀⑥永延二年⑦長保元年二月従三位、十二月入内して女御、長保二年二月立后(中宮)〈一帝二妻后の初例〉、寛弘九年皇太后、寛仁二年太皇太后、万寿三年院号宣下・上東門院、承保元年十月崩御87歳⑧長保元年十二月女御12歳

藤原妍子(枇杷太后)①三条后②摂政藤原道長③源倫子④三条の母方いとこ⑤禎子内親王⑥正暦五年⑦長保五年二月著裳、寛弘元年十一月尚侍、寛弘七年正月、従二位、同年二月東宮に入侍、同八年八月女御、同九年二月十四日立后(中宮)、寛仁二年皇太后、万寿四年九月崩御34歳⑧寛弘七年17歳

藤原娍子(宣耀殿女御)①三条后②大納言藤原済時③源延光女⑤小一条院敦明親王、敦儀親王、敦平親王、師明親王、当子内親王、⑥天禄三年⑦正暦二年十二月一日東宮に入侍、寛弘八年八月女御、従四位下寛弘九年四月廿七日立后(皇后宮)、万寿二年三月崩御54歳 ⑧正暦二年19歳。三条天皇居貞親王の最初のキサキは外祖父兼家の三女尚侍藤原綏子で永延元年東宮に入侍し(時に太子12歳、綏子15歳)寵幸渥かったが、後に源頼定との密通事件により、東宮を去った。第二のキサキが藤原娍子である。正暦二年、太子は宮中に出入していた夜居の僧から世間の話を聞かれていたが、談たまたま箏のことに及んで、村上天皇がかつて箏を藤原済時に伝えられ、済時の女娍子が父よりこれを伝授して、秘曲を究めているとのことを聞かれた太子の意は動き、志を通じせしめた。栄達の道が閉ざされていた如くのようだった済時は東宮の旨を受けて大いに喜び、命を奉じて娍子を東宮に納れた。これは太子の発意による成婚で、時に太子16歳、娍子19歳であった。娍子は宣耀殿に住し寵を得てときめいたが、長徳元年、関白道隆は二女原子中姫君を太子の宮に入れた。時に太子20歳、原子15歳。娍子は関白娘の威光に押され気味であったが、原子は後に頓死する*2。
 寛弘七年、伊周が薨じて道長が権勢を独占したため、二女妍子が東宮に入った。太子36歳、妍子17歳。寛弘八年三条天皇が即位して、天皇は既に六人皇子女をもうけていた娍子立后を左大臣道長に打診したが、露骨に妨害されたうえ、妍子を中宮に冊立した。それでは収拾がつかなくなったので、一条朝の例に倣い一帝二妻后として娍子も皇后宮に立つることとなった。

*1 河村政久史「昌子内親王の入内と立后をめぐって」『史叢』17 1973
*2  竜粛 『平安時代』春秋社1962

藤原威子(大中宮)①後一条后②摂政藤原道長③源倫子④後一条の母方おば⑤章子内親王(後冷泉后)、馨子内親王(後三条后)⑥長保元年⑦寛仁二年立后(中宮)、長元九年九月崩御⑧寛仁二年19歳 帝より九歳年長

藤原嬉子①後朱雀(東宮妃)②摂政藤原道長③源倫子③後朱雀の母方おば⑤後冷泉天皇⑥寛弘四年⑦寛仁二年尚侍、同三年従三位、治安元年東宮に入侍、万寿二年八月に19歳の若さで薨、贈正一位、のち贈皇太后 ⑧治安元年15歳

禎子内親王①後朱雀后②三条③中宮藤原妍子④母方いとこ⑤後三条天皇、良子内親王、娟子内親王⑥長和二年⑦長和四年准三宮、治安三年裳着、一品に叙される11歳、万寿四年東宮妃、長元十年二月十三日立后(中宮)、長元十年三月一日中宮より皇后宮へ、永承六年二月十三日皇太后、治暦四年四月十七日太皇太后、治暦五年二月十七日院号宣下・陽明門院、寛治八年正月崩御82歳⑧万寿四年16歳

藤原嫄子(もと嫄子女王、弘徽殿中宮)①後朱雀后②関白藤原頼通養女、実父敦康親王③具平親王王女⑦長暦元年入内、女御、従四位下、長元十年三月一日立后(中宮)、長暦三年八月崩御24歳、殊寵あり。⑧17歳

章子内親王①後冷泉后②後一条③中宮藤原威子④父方も母方もいとこ⑥万寿三年⑦長元三年十一月、一品、准三宮、長暦元年十二月東宮妃、永承元年立后(中宮)、治暦四年四月十七日皇太后、延久元年太皇太后、延久六年院号宣下・二条院〈非帝母女院の初例〉、長治二年九月崩御80歳⑧長暦元年11歳

藤原寛子(四条后)①後冷泉后②関白藤原頼通③藤原祇子⑥長元九年⑦永承五年十二月入内、女御、従四位下、永承六年二月立后(皇后宮)〈頼通は中宮を望んでいたが、聡明な章子内親王が中宮を譲らなかった『栄花物語』〉、治暦四年四月十七日庚午海やより中宮へ、延久元年皇太后、延久六年太皇太后、大治二年八月崩御92歳⑦15歳

藤原歓子(小野皇太后)①後冷泉后②関白藤原教通③藤原公任女⑥治安元年⑦永承二年十月入内、同三年七月女御、同六年頃から参内せず、小野山荘に籠居、治暦四年四月十七日立后(皇后宮)『扶桑略記』に宣命によらず宣旨によったとされ変例。承保元年皇太后、康和四年八月崩御82歳、容姿艶麗にして琵琶、画に巧み。白河上皇の雪見行幸は歓子の心尽くしの饗応で世に著聞す⑧27歳

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2009/08/02

「別居」「離婚」「廃太子」以外の選択肢として立后せずに妃位・夫人位にとどめる案はどうか(1)

 国家最重大事とは皇位継承である。「廃太子」にまで踏み込んだ橋本明氏の提言について週刊朝日などのメディアが取りあげていますが、基本的には所功教授の言うように、皇太子本人に決定的な不都合がない以上、妃の病気を理由とする廃太子はありえない(ウィル9月号の橋本明氏の記事)というのが一応無難な見解のようには思える。しかしながらせっかく橋本氏が国民的議論をと呼びかけているので無視はしないし、このブログでも意見を述べることとしたい。
 これまで男帝でも子孫が皇位継承していない一代限りの天皇は多くの例があるし、朱雀・後一条・後冷泉・後光明のように、皇子がなかったために、弟の村上、後朱雀、後三条、霊元に皇統が移ったケースがありますが、皇太子と秋篠宮の関係もこれに類比してよいわけです。近世では後光明天皇の皇子女が孝子内親王御一方だったために、皇弟の高貴宮(霊元)を養嗣子としたケースがあります、このケースに類比しても良いわけです。また後伏見天皇皇弟の富仁親王(花園)が後伏見の猶子として皇位継承者とされた(これは伏見院政ののち後伏見が院政をしく立場であることを明確にするものだが)例もあります。
 
 弟宮に皇統が移った前例(10世紀以後)
第1例 A朱雀-B村上-C冷泉
第2例 A後一条-B後朱雀-C後冷泉
第3例 A後冷泉-B後三条-C白河
第4例 A崇徳-近衛-B後白河-C二条
第5例 A安徳-B後鳥羽-C土御門
第6例 A土御門-B順徳-C仲恭
第7例 A後深草-B亀山-C後宇多
第8例 A後二条-B後醍醐-C後村上
第9例 A崇光-B後光厳-C後円融
第10例 A後光明-後西-B霊元-C東山
(参考)A花山-B三条-C敦明親王(小一条)
*Aが兄、Bが弟、Cが弟の皇子です
 
 恒貞親王(承和の変で廃太子)は嵯峨天皇の甥にあたります。正確にいうと母正子内親王が嵯峨皇女ですから孫にもあたるので、皇太子殿下と悠仁親王殿下の血縁関係よりずっと濃いのですが、嵯峨天皇が恒貞親王を愛されていたことは恒貞親王伝で知られているとおりで、恒貞親王とは従兄弟の関係にある仁明天皇の正嗣として皇太子に立てられた。これは嵯峨上皇の意向によるものと考えられている。仁明皇子道康親王(文徳)は恒貞親王と年齢差はほとんどなかったはずだが、直系の孫ではなく、甥の方が優先順位が高かった例である。240年前の光格天皇から皇太子殿下まで八代直系の嫡嫡継承が続くこととなりますが兄弟継承や叔父-甥継承があってもなんの不可解なことはないから、あえて直系継承の継続にこだわって廃位とする必然性はないのである。
 しかし一般論として妃として不都合な事情があれば、むろん廃妃・妃辞職の前例があるからそれを検討しても良いと思う。
 

廃后・廃妃事件等
 
 和銅6年 嬪石川 刀子娘【とねのいらつめ】紀 竈門娘【かまどのいらつめ】 嬪位剥奪

 文武天皇には聖武生母夫人藤原宮子のほかに、嬪として石川刀根娘と紀竈門娘というキサキが知られており、文武崩後に 嬪位を剥される事件が起きている。角田文衛氏によると、首皇子の立太子の前年であること、石川刀根娘所生の広成皇子・広世皇子も連座して皇族の身分を剥奪されることからら、橘三千代又は藤原不比等の謀略である蓋然性の高い事件とされている。
 
 宝亀3年 井上内親王(光仁后・聖武皇女)廃后
 巫蠱厭魅の容疑で皇后を廃される。次いで所生の他戸親王も皇太子を廃される。大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉される。藤原百川及びその周辺の謀略である蓋然性の高い事件と言われている。宝亀六年没(変死)、延暦十九年詔して皇后の称を追復し墓を山陵と称する。
 
 弘仁3年 平城妃朝原内親王(異母妹)・大宅内親王妃辞職
 薬子の変で平城上皇敗北のため。
 
 弘仁初期 嵯峨妃高津内親王(異母姉)廃妃

 理由不明。藤原冬嗣の陰謀説、姦淫説等諸説あり不確定。外戚の坂上氏は武官の枢要を歴任し有力な軍事官僚で、有力公卿の藤原内麿や嵯峨側近の藤原三守とも姻戚関係があるので不可解な事件だが、冬嗣の異母弟三人の母が坂上氏である。冬嗣にとって高津内親王が後宮で権勢を有する事は具合が悪かったとはいえる。
 
 参考芦田耕一「高津内親王の歌をめぐって」『平安文学研究』61 1979   

 清和天皇譲位後の女御藤原多美子以下の辞職

 これは、当時財政難で、清和上皇が封戸の半分を返上したことでも明らかであるが、女御藤原多美子は父右大臣藤原良相が応天門の変で失脚したことから政治的敗者である。
薨伝「徳行甚だ高くして中表の依懐する所と為る。天皇重んじ給ひ、増寵他姫に異なり。天皇入道の日(清和上皇の出家に従う-元慶三年五月)、出家して尼と為り、持斎勤修す。晏駕の後、平生賜りし御筆の手書を収拾して紙を作り、以て法華経を書写し、大斎会を設けて恭敬供養しき。太上天皇の不眥の恩徳に酬い奉りしなり。即日大乗会を受く。聞きて聴者感嘆せざる莫し。熱発して奄ち薨じき」。
 
 寛平八年 廃后 皇太后藤原高子(陽成生母)廃位
 
 角田文衛によれば藤原高子の御願寺東光寺座主善佑との八年前の情事がむしかえされ、それを理由に皇太后尊号を奪った事件であり、当時高子は55歳だった。但し、前皇太后職が附置され、上皇生母たる体面を保つ生活は保障された。これは陽成上皇の復辟運動を抑止するための政治的な事件とみて良いだろう。なお名誉回復はかなり後のことである。
 参考 角田文衛『二条后 藤原高子』幻戯書房2003
 
 居貞親王(三条)の東宮に入侍藤原綏子の例
 
 居貞親王の最初のキサキは外祖父藤原兼家の三女尚侍藤原綏子が永延元年東宮に入侍し(太子12歳、綏子15歳)寵幸渥かったが、後に源頼定との密通事件により東宮を去った。
 
 
 (つづく)

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2009/05/16

感想 松岡心平編『看聞日記と中世文化』(2)

 承前
 
 小川剛生 「伏見宮家の成立」-貞成親王と貞常親王
 
 (親王宣下が切望された意味)
 
 つまり常磐井宮満仁親王の愛妾を差し出すという足利義満に阿諛した行動は評判が悪いとしても一面的な見方をとるべきではない。[当時の「公武統一政権」では義満が実力者であった]。それほどまでして親王号に固執した心情こそ着目すべきと言う。
 経済的基盤さえあれば、所領を媒介として家臣団が形成され、宮家は存続する。常磐井宮は安楽寿院領がある[亀山法皇の遺詔では大覚寺統の主要所領は恒明親王に相続されるべきものだったが、後宇多法皇によって反古にそれたために、鎌倉幕府が介入して安楽寿院領を取り戻した]。しかしそれだけではなく、大覚寺統嫡流という意識を捨ててない。実際に格式も高かった。満仁元服の歳の加冠の役は内大臣正親町三条実継、加冠が万里小路嗣房でいずれも後光厳朝の実力者である。木寺宮には洞院家、伏見宮には今出川家というように、宮家の後見は大臣家クラスの上級廷臣であって、このような廷臣を祗候させるには当主の身分も考慮されなければならなかった。
 親王宣下が切望される理由をわかりやすく説明していると思う。『江家次第』によると親王に対しては家政機関として親王庁の設置が認められる。親王宣下と同時に公卿のうちから勅別当が指名され、親族拝以下の本所の儀が執行され、親王庁の構成員、家司・御監・職事・侍者・蔵人が補任されるならわしだった。伏見宮の初代とされる栄仁の親王宣下では、ならわしどおり本所の儀が執行されたと著者は述べている。持明院統正嫡であるから当然のことだろうが。
 宮家の勅別当はほぼ閑院流の清華家・大臣家の公卿に限られた。常磐井宮満仁の親王宣下では正親町三条実音が指名されたが本所の儀は省略され、伏見宮貞成の親王宣下も満仁親王の例に倣って、勅別当に三条西公保を指名したが、本所の儀は略されたという。略式であっても親王と無位無官のたんに某王の皇親では全然違うのである。
  
 (文安二年「不思議の荒説」事件)
 
 ところで、貞常親王について、文安二年(1445年)三月十六日、関白二条持基を加冠役として21歳で元服し、翌日親王宣下の予定だったが、六月二十七日まで延期された理由である「不思議の荒説」事件に言及されている。
 この事件は酒井紀美『中世のうわさ-情報伝達のしくみ』吉川弘文館平成9年に詳しい。『師郷記』によると、この年の三月に禁裏・竹園之間[天皇と皇族]についての不思議荒説がどこからともなく言いふらされてさまざまな影響を及ぼし、翌日の親王宣下が実現されなかった。『師郷記』及び『高倉永豊卿記』によると伏見宮貞成親王の「御訴訟」により五月、万里小路時房と松木宗継の二人が伏見殿に派遣され、訴えを聴取した。結果六月のはじめに、雑説の張本として日野中納言(広橋兼郷)が流罪、噂を広めた神祇伯二位(白川雅兼王)が京外追放処分とされた。
 この時期の『看聞日記』は欠落しているので記事はない。伏見殿に派遣された時房の『建内記』もこの時期のものがない。さらに伏見宮家の侍読で貞常親王の学問の師である中原康富の『康富記』にも記事はなく、真相は不明である。酒井紀美は史料の欠落に作為を看取しているが、それだけ深刻な噂がいいふらされたとみるべきだろろう。
 小川剛生によると、流罪は「云口」では前例のない厳しい処分だという。広橋兼郷は日野重子の口入で流罪を免れたが、辺土に蟄居し名誉回復もなく、毒殺説もあることから悪質な噂とみなしている。噂の中味はたぶん、貞成が不自然なかたちで、後花園を退位させ、貞常の登極を企てたというようなものだったろうと推定している。厳しい処分は後花園院による伏見宮貞成・貞常父子に対する配慮と考えられている。
 貞成親王は後花園院の実父であるが、後花園は後小松の猶子として即位したので名分としては父ではない。後小松崩御においては名分が重んじられ実父でないが諒闇とされた。さらに後小松上皇の遺詔で伏見宮貞成親王への太上天皇尊号を禁じていたわけであるから、禁裏と伏見殿を離間させる悪質なたくらみがあったのかもしれない。
 これに類した事件は近世以降にもあるだろうが、伏見殿をおとしいれる悪口だけで流罪という厳しい処分の前例があることは記憶しておきたい。
 
 つづく

 

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 [ ]内は筆者のコメントで引用ないし言い換えではない。

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2009/05/15

感想 松岡心平編『看聞日記と中世文化』(1)

 森話社2009年3月刊の論文集。編者の松岡心平氏はこのブログの「『椿葉記』の由緒は重んじられるべきである-旧宮家復帰待望論(2)」
http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_4569.htmlで「椿葉のフェティシズム-朗詠「徳是」から-」『文学』季刊10巻2号1999という論攷を引用していることもあって興味があり、買いました。
 ふつう伏見宮の初代は栄仁親王とされるが、世襲親王家としては貞常親王からである。小川剛生「伏見宮家の成立」-貞成親王と貞常親王」によれば、『椿葉記』の「若宮をば始終君の猶子なし奉るべければ、相構へて水魚の如くにおぼしめして御はごくみもあるべきなり」が、若宮を猶子とするつまり親王宣下を望んでいるものと説明されている。貞常は文安二年(1445年)三月十六日、関白二条持基を加冠役として21歳で元服したのち、同年六月二十七日に親王宣下、翌三年三月二十八日に二品式部卿、八月二十七日に家領が譲られた。翌四年に貞成親王に太上天皇尊号という経過をとる。
 しかし、よく考えると、貞常親王は崇光曾孫四世王といっても、後花園院の弟であることから、令制に忠実なら継嗣令皇兄弟子条の「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」により自動的に親王であるはずである。
 先例としては、淳仁即位により兄弟の船王・池田王の親王格上げがそうである。
 もちろん皇親概念は嵯峨天皇の弘仁期に大きく変化し、親王・内親王は宣下をうけてのち称しうることとなったのであって、奈良時代の例は参考にもならなかったのだろう。
 親王は、天皇の意思により授受される性格の身位に変質した。皇子・皇女でも親王でないケースは少なくない。なお、後堀河、後嵯峨、後光厳、後小松は親王宣下なく即位している 。
  平安後期になると諸王でも宣下をうければ親王・内親王になりうることとなった。三条皇孫で敦明親王(小一条院)の御子である二王、二女王の親王宣下がそうした例である。 鎌倉時代には後鳥羽の皇子・皇孫が相次いで親王宣下をうけて六条宮を称し、後嵯峨の皇子・皇孫、後深草の皇子・皇孫が親王宣下をうけ鎌倉将軍宮となったケースがあるが、三世王の伏見宮貞成王の親王宣下の先例として重要なのは亀山曾孫四世王の常磐宮満仁王の親王宣下であるということを小川剛生氏は述べている。
 『後愚昧記』にある足利義満に小少将という愛妾を譲って、首尾良く宿願(親王宣下)を達したというエピソードが面白いので強調されるきらいがあるが、そもそも満仁親王の祖父、常磐井宮恒明親王は亀山法皇の遺詔で皇位継承者に指定されたことから、大覚寺統嫡流としての認識がある。にもかかわらず政治的事情で即位できなかったが、安楽寿院領という所領を有し嫡流としての意識を捨てず自ら恃むところ頗る厚かった。このへんの事情を小川剛生は適切に説明している。

 つづく

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2009/04/19

感想 佐藤長門『日本古代王権の構造と展開』その2

2 女帝中継ぎ論批判を明確に否認

 274頁以下。著者は近年の荒木敏夫・義江明子・仁藤敦史の女帝論を批判している。特に歴史学が検証可能な学問を標榜する以上、史実よりも実際には起こらなかった「可能性」を優先させるかのような姿勢はとるべきでないとして仁藤敦史を痛烈に批判している点を評価するものである。
 著者によれば女帝中継ぎ論とは井上光貞によって体系化されたもので、古代の女帝を「皇太后が皇嗣即位の困難なとき、いわば仮に即位したもの」で「権宜の処置」としてとらえ、女帝出現の背景・事情を「中継ぎ」という観点から説明したものであるが(井上光貞著作集一『日本古代国家の研究』所収1985岩波書店-初出は1964)、井上光貞説が45年前のもので今日の研究水準からみて容認できない部分があるにせよ、王位継承上の文脈において「中継ぎ」論を支持している。

 著者は結論として、「女帝であることによって不婚が強要されたのは未婚の内親王のみでなく、既婚者であっても即位後は不婚を維持したのであり‥‥すなわち『不婚』とは子孫を残さないことであり、この点が男帝と女帝の決定的な違いであって、結婚制限や産児制限のない男帝を『中継ぎ』とみることはできない一方、八世紀以降の女帝は「『中継ぎ』的役割を徹底するため不婚が強要された」と述べ、中継ぎ的役割であるがゆえに「不婚の女帝」であり、男帝との決定的な違いを論理的に説明している。女帝を「中継ぎ」と断定した点で評価できる。

男帝は中継ぎとみなせないという説はどうか

 ただ「結婚制限や産児制限のない男帝を『中継ぎ』とみることはできない」いう断定はどうだろうか。私が思うに光孝・後白河・花園・後醍醐・後西が、中継ぎ的役割として即位した、あるいはそのようにふるまった事例とみることはできる。しかしこの点についても著者は反論を用意していて、「たとえ即位以前『中継ぎ』役割が期待されたとしても、所生子が存在する男帝に他律的意思によって決まった皇嗣への継承を強制することはできなかった。」とする。
 しかしこの点については文徳天皇が惟仁親王(清和)の皇太子辞譲、惟喬親王立太子を望んでいたにもかかわらず、外祖父太政大臣良房との隠微な権力抗争に敗北した文徳は、自らの意思で皇位継承者を定めることができなかった。他律的意思によって皇位継承者が決まってしまった例であり、王権の権力構造いかんでは中継ぎに甘んじるケースを否定できない。
 一般庶民の家における中継ぎと皇室を安易に類比すべきではないが、例えば本家当主が亡くなったが、長男が幼いため家業を指揮できないので、一時的に当主の弟夫婦が中継ぎとして家業を継承するが(複合家族による軋轢を回避するために中継ぎを設けず後家が長男の成人まで家長を代行して家業を指揮することも少なくない)、長男が成人となった時点で弟夫婦は分家分出して退き、本家の系譜には加えないような在り方に類似した中継ぎを否定できないのでないかと私は考える。

中継ぎとみなされる歴代男帝

 光孝天皇
 例えば仁明皇子一品式部卿時康親王(光孝)は陽成遜位という異例の事態により、皇親のなかでも長老格であるために藤原基経ら有力貴族に推戴され即位した。結果的には皇子源定省(宇多)が橘広相や尚侍藤原淑子の奔走によって即位したとはいえ、齋王・齋宮を除くすべての皇子女を臣籍に降下させたことから、それは権力を掌握していた基経を憚ってのものであろうが、中継ぎ的役割に甘んじる態度を示した。
 摂関家と姻戚関係のない源定省が基経の意中の候補だったとは思えない。しかしいかに基経と雖も、実際に陽成と生母藤原高子を口説いて退位させた後宮実力者で異母妹でもある尚侍藤原淑子の推す源定省の即位に異論することができなかったというのが角田文衛説だったと思いますが、つまり源定省を後押ししたのは父帝光孝ではなく、宇多生母班子女王と親しかった尚侍藤原淑子だった。陽成復辟がありえないとしても、基経にぬかりなければ清和系の親王に皇位継承される可能性もあったわけで光孝は中継ぎという見方もできるのである。

 

後醍醐天皇
 徳治三年(1308)の大覚寺統後二条天皇の早世により、両統迭立で持明院統花園即位に伴い、大覚寺統から後二条の異母弟の尊治親王(後醍醐)を立坊。これは後二条皇子の嫡子邦良親王が病弱であったこと。さらに、亀山法皇末子で法皇の遺詔で皇位継承者に指定された恒明親王の即位の可能性を潰す意図があったとみられている。
 後宇多法皇は大覚寺統正嫡を後二条皇子邦良親王と定めていた。延慶元年(1308)閏八月の法皇の宸翰によれば、その御領をすべて尊治親王(後醍醐)に譲与せられ、親王一期の後は、悉く邦良親王の子孫に伝へ、尊治親王の子孫は賢明の器済世の才あるとも臣下として之に仕へよと特に誡められている(註1)。つまり尊治親王は一期相続の中継ぎ的即位で大覚寺統ではあくまでも傍流の扱い、「一代の主」と引導を渡されていた。
 文保二年(1318)花園譲位により後醍醐即位、邦良親王立坊。二代続けて大覚寺統とされた。幕府の斡旋案にもとづく「文保譲国」いわゆる「文保御和談」の結果である。持明院統にとって甚だ不利益な結果となったが、これは正和四年(1315)の京極為兼第二次配流事件の影響がある。西園寺実兼が伏見上皇と為兼が幕府に異図を抱いていると讒し、為兼土佐配流後も伏見上皇が幕府を敵視しているとの噂が囁かれ、上皇は必死の弁明を試みたという経緯があるが、幕府の実力者金沢貞顕が大覚寺統廷臣と親しかったこともある。幕府首脳部は邦良親王が後宇多法皇により正嫡と定められていたので法皇の意向を尊重したのである。つまり後醍醐は即位の時点でも一期相続の中継ぎの位置づけだった。
 元享四年(1324)後宇多法皇が崩御になられると、東宮邦良親王は不安を感じ、皇位継承の速やかならんことを熱望し、しきりに使者を遣わして鎌倉幕府に説かしめ、催促した(つまり後醍醐の譲位を促すよう幕府が圧力をかけるよう熱望)。それがために後醍醐天皇との間がはなはだしく疎隔し、険悪となった。後醍醐は邦良親王の運動を阻止するため吉田定房を鎌倉に下向させ、対幕府工作を行った。後醍醐の政権維持には定房が貢献している。邦良親王は嘉暦元年(1326)三月二十日東宮のまま病により薨じた。薨後、東宮候補には大覚寺統から三人、邦良親王の同母弟邦省親王、亀山皇子恒明親王、後醍醐皇子尊良親王が推薦され、東宮ポストを争った。つまり大覚寺統が三派に分裂したことを意味するが、「文保御和談」の線で持明院統嫡流量仁親王立坊となった。
  量仁親王(光厳天皇)の次が問題になるが、幕府が後二条-邦良親王流が大覚寺統正嫡という認識をとる以上、後醍醐系は疎外されることになる。ということで、後醍醐がみずからの子孫の皇統を形成するには倒幕という選択肢しかなかった。
 大覚寺統の正嫡はあくまでも邦良親王系と言うと皇国史観から反論があるだろう。つまり神皇正統記は、後宇多が「若し邦良親王早世の御事あらば、この御末(後醍醐の子孫)継体あるべし」と御遺勅された旨載せているが、それは微妙な問題であると思う。穏健な見解を述べておけば、恒明親王の常磐宮系も亀山法皇の遺詔により正統性を主張できるし、後醍醐天皇も倒幕、建武政権を樹立し、光厳天皇廃位、邦良親王の子である康仁親王を廃太子としたことにより、後二条系の正統性を否認し、建武元年(1334)後醍醐皇子の恒良親王立太子で、嫡流たる立場を固めたと解釈することはできる。それは後宇多法皇が父帝亀山法皇の恒明親王を正嫡とする旨の遺詔を反故にし、邦良親王を正嫡に定めたことと同じことである。

 

 花園天皇
 一方、花園は中継的性格が明確な例だと思う。持明院統正嫡は後深草-伏見-後伏見-光厳-崇光であり、持明院統の主要所領である長講堂領、法金剛院領、琵琶の秘曲は代々正嫡に伝えられたのであって、後伏見の弟である花園は傍系であるので相続したのは旧室町院領の半分だけあった。
 天皇在位は正嫡の後伏見が在位が永仁6年7月22日(1298年8月30日)- 正安3年1月21日(1301年3月2日)で3年に満たない短期である。一方、中継ぎの花園が延慶元年11月16日(1308年12月28日)- 文保2年2月26日(1318年3月29日)で9年以上に長期に及ぶ。しかしながらこれは後伏見が幕府の圧力で、大覚寺統の後二条に譲位せざるをえなくなったためである。在位の長さは正嫡・中継の性格とは無関係だといわなければならない。
 正嫡である後伏見や光厳が治天の君として院政をしいたが、傍系である花園は院政をしいてないし、その資格もなかったとみてよいと思う。
 もっとも貞和四年(正平三年1348)に崇光天皇の皇太弟に花園皇子直仁親王が光厳上皇の猶子となったうえで皇太弟に立てられており、困難な時期に持明院統を支えてくれた花園院の恩義に報いようとしたとされていたがそれは表向きの理由であった。
 実は、康永三年(1344)の時点では光厳上皇(当時は、光明天皇・東宮興仁親王)は、花園皇子直仁親王を正嫡に定めていたのである。それは、康永三年四月の置文と譲状により、直仁親王を将来継体とし、荘園群のなかでももっとも重要な長講堂領は光明天皇から直仁に伝領されるように定められ、興仁(のち崇光天皇)には因幡国と法金剛院領を譲るが、一期ののちは直仁に伝領するよう定めたことで明確なのである(註2)。
 持明院統の正統長嫡路線からみて、第一皇子の興仁親王の皇子は必ず仏門に入れよとされ、興仁親王(崇光)が中継ぎの扱いで、光厳の従兄弟にあたる直仁が正嫡とされたのは不可解というほかない。ところが直仁親王の母宣光門院(正親町実明女藤原実子)は花園院最愛の寵人であるから、花園皇子とされているが、実は直仁親王は光厳胤子であり、宣光門院が懐妊する前に春日大明神のお告げがあり、その霊験によって出生した。このことは光厳上皇と宣光門院以外他人は全く知らないことと置文に記されていた。つまり不義の交際があったことを上皇御自ら告白されているのである(註3)。春日大明神のお告げにより実は第二皇子の直仁親王を正嫡に定めたということらしい。(この文書は事の性質上戦後になって明らかになった)
 直仁親王は南北朝動乱で事実上廃太子となり即位することはなく、持明院統正嫡も崇光天皇系とされたたのであるが、仮に直仁親王が即位したとしても光厳の猶子とされ真実は実子でもあることから、やはり花園は中継ぎであったとみなしてよいのである。

 

後西天皇
 承応三年(1655)後光明天皇(後水尾第4皇子)は体調をくずし、皇子がなかったため、廷臣達と相談し異母弟で後水尾第16皇子で当歳の高貴宮(のち親王宣下により識仁親王-後の霊元天皇)を養嗣子に迎え儲君とされた。当時目ぼしい親王が全て宮家を継承するか寺院に入ってしまったために唯一将来が定まっていなかった男子皇族が高貴宮以外にいなかったためである。後光明天皇はその年に天然痘により急崩。しかし当歳の高貴宮の即位は困難であり、後水尾第八皇子の花町宮良仁親王が高貴宮が成長するまでの中継ぎとして即位した。後西天皇である。良仁親王は後陽成天皇の第七皇子高松宮好仁親王の養嗣子となり、花町宮をなのり宮家(後の有栖川宮家)の第二代当主であった。寛文三年(1663)10歳に成長した識仁親王に譲位。
 ウィキペディアによると後西天皇は仙台藩主と従兄弟にあたる血筋であることから幕府から警戒されていたこと。院政をしいていた後水尾院が識仁親王の早期即位を望んでいたため、早期の譲位となったと言うが、中継ぎの役割に徹したといえるだろう。
 後西天皇は多くの皇子女をもうけているが、第1皇子の長仁親王が八条宮(後の桂宮)を継承し、第2皇子の幸仁親王が高松宮を継承有栖川宮をなのった。第3~第16皇子は法親王、入道親王となり寺院に入っており、後西院の系統は皇位を継承することはなかった。
 従って後西天皇は中継ぎの性格が明確である。

 このように男帝に中継ぎはないとは言い難い面がある。しかしながら佐藤長門は、古代王権の構造を検討しているのであって、摂関期以降あるいは中世以降の展開は別問題とするならば、摂関や武家政権の皇位継承問題への干渉を議論の対象から除外すれば大筋において佐藤説も誤りではないかもしれない。

(註1)今井林太郎「中世の朝幕関係」歴史科学協議会編「歴史科学大系17巻天皇制の歴史(上)」校倉書房1987所収 173頁
(註2)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 185頁以下
(註3)飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』吉川弘文館歴史ライブラリー2002 139頁

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2009/04/18

感想 佐藤長門『日本古代王権の構造と展開』その1

412rdtftgl__sl500_aa240__2  吉川弘文館2009年2月刊。この人は特徴的な見解の先行学説を批判し、比較的破綻のない無難な結論を述べている点、面白みにかけるが、堅実であるとの心証をもった。

1 9世紀初期の王統迭立状況出現の意味 233頁以下

  河内祥輔は平城が朝原内親王(母方祖母聖武皇女井上皇后)との婚姻により直系皇統(聖武)の権威を継受したとしたが、では平城即位、神野親王(嵯峨)立皇太弟はなぜなのか。もちろん、平城皇子の高岳親王は幼少で母方が有力貴族ではないことがある。早良親王立皇太弟の前例はあるし、嵯峨生母は平城と同じく皇后藤原乙牟漏であり、立后が皇太子を引き出す政治行為とみなすと母が皇后であるというその1点だけで有力な皇位継承資格を有するといえるし、保立道久説でも一応説明はできる。桓武皇子で式家所生の三子(平城・嵯峨・淳和)にそれぞれ異母姉妹が配されて優越的王位継承資格に認定されたとするものであるが、福井俊彦だったか神野親王が無視できない政治力を有していたという説明のほうがわかりやすいと思う。
 私が思うに嵯峨妃高津内親王の外戚が軍事官僚の坂上大宿禰氏で、坂上氏を妻としていた藤原内麿とも繋がりがあったのは嵯峨にとってメリットがあったと思う。一方、平城妃朝原内親王を支えていたのが生母桓武妃酒人内親王だが、異母兄妹婚の連続という特殊な事例で、外戚の支援がないのである。従って、平城にとって妃朝原内親王の存在は、今さら聖武との繋がりといっても政治的なメリットはなかったと考えられる。
 著者は、河内祥輔や保立道久の皇統形成原理の説明を批判し、もっと単純にいって皇位継承者に八世紀後半以来の人格的資質を問題とする傾向が継続したためだと言う。「文章経国」を重視する文化的・政治思想的風潮が影響して、理想的天子像の追求がなされたことにより、若年皇太子より、王弟立坊による成年皇太子が選択され、それに王位を先帝の系統に戻そうとする謙譲的な観念が重なって王統迭立状況が現出したとする。なるほどこの見解なら淳和即位、恒世親王立太子指名-辞退、正良親王立坊も破綻なく説明できる。
 しかしこの見解は単純化しすぎた感もある。弘仁元年薬子の変による皇太子高岳親王廃位、大伴親王(淳和)立皇太弟について検討すると、嵯峨皇子の正良親王(仁明)や業良親王が弘仁元年~二年の誕生であり、正良親王生母橘嘉智子は勝気な女性だが、当時高津内親王より地位の低かった夫人位にあり皇后ではない。橘氏が弱かったことからみて当歳での立太子はまずありえない。従って恒世王の父でもある大伴親王立坊は順当な結果であり、特に成年皇太子が望ましいとされていたという説明は不要。また、成年皇太子が望ましいというなら、承和の変で皇太子恒貞親王廃位なら、道康親王(文徳)がすでに元服をすませていたとはいえ、仁明天皇の同母弟である秀良親王が皇位継承候補に浮上してもおかしくないだろう。

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