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カテゴリー「日本史」の24件の記事

2012/05/10

火葬場の事例

 ブログを書くために上島亨『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会2010年という本を買ったのだが、「第四章〈王〉の死と葬送」に、鳥羽法皇など平安後期の葬送について比較的詳しく書かれている。火葬の例として一条、後一条、白河、堀河のケースに言及されている
 山作所(火葬場)の詳しいものとして『吉事略儀』の後一条天皇の長元九年(1036)五月一九日の事例である。それによると、場所は神楽岡(平安京の東北、吉田山)東辺、周囲は切懸を立てた方三六丈・高六尺の荒垣で巡らされ、切懸の上部に白布をめぐらす。南面に鳥居が建てられ、荒垣の内側にも切懸を立てた内垣が設けられ南面に鳥居が建てられた。内外の垣内に白砂が敷かれて清浄な空間とされていた。荒垣鳥居に西脇に「葬場殿」内垣の中央に「貴作所」が建てられる。その中央にある荼毘所は「貴所屋」と呼ばれ、清く貴い空間とされていた。これを火葬当日に造るのである。荼毘の際、念仏が唱えられ、火葬後は「貴所」の板敷壁等を破却し、酒で火を消す。さらに僧が真言を唱えながら土砂をまき、そののち権大納言藤原能信、源師房以下数名が御骨を拾った。
 棺を乗せた御輿が山作所に向かう時は、関白藤原頼通以下公卿が付き添うが、御骨を拾うのはゆかりのある人々、比較的小人数に限られる(白河法皇のケースは8名)のが通例のようだ。
 「天皇の遺骸は神聖なものとして荼毘にふされる」と著者は述べている。
 火葬を検討しているとのことだが、中世以降の例は知らないが、この山作所をどこに造ろうとしているのだろうか、酒をかけて火を消すことができるのか。御骨を拾うのはどのような人々が呼ばれるのかとの感想を持った。

2011/03/21

保立道久ブログの感想など

 日本中世史の専門家の保立道久東大史料編纂所教授がアップツーデイトな記事を連日書いている。9世紀に東北で今回と似たプレート間巨大地震があったことは理科年表にも書かれていたと報告している。http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/9-f828.html

「 869 7 13(貞観11 5 26) M8.3
三陸沿岸:城郭・倉庫・門櫓・垣壁など崩れ落ち倒潰するもの無数。津波が多賀城下を襲い、溺死約1千。流光昼のごとく隠映すという。」

 貞観陸奥国地震の津波は地質科学で事実と立証されており、石巻・仙台平野の津波被害は、時期は特定出来なくとも、ありうるということは専門家が指摘していたこと。

 さらに、米国と我が国では原子力安全のため規制機関の位置づけが違うことも指摘している。http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/10-3342.html

 「アメリカの「原子力規制委員会」(NRC)は、独立機関として全権を掌握しており、職員数は3961人。予算は年853億円ほど。日本の原子力安全委員会は11年度予算では7億余。10分の一どころか、100分の一である。それも10年度予算より1億円以上削減されている。」とのこと。

 チャンネル桜の討論番組を見ていたら、出演者が航空自衛隊松島基地の被害状況を新聞やテレビが報道したのは国家機密をばらすようなものと非難していたが、今後議論になるかもしれない。

2011/02/15

寛平三年の右大臣は藤原良世だろ

 講談社の天皇の歴史第三巻佐々木恵介『天皇と摂政・関白』2011年2月14日刊行第1刷を買いましたが、いきなり誤字を発見しました。揚げ足をとるようなことは言いたくないが、目立つところでもあるので、指摘しておきたいと思います。60頁の2行目です。
 「寛平三年(八九一)正月太政大臣藤原基経が五六歳で没すると、公卿の上位には
 左大臣源融(嵯峨天皇の皇子、七0歳)・右大臣藤原良相(冬嗣の子、七九歳)という長老がのこった
」とありますが、当時の右大臣は藤原良世である
 良相は貞観期の右大臣、応天門の変で辞任、貞観九年(867)薨である。なるほど藤原良世はパッと出てこない。私もネットで調べてやっと思い出したほどだ。藤氏長者でありながら、これといった政争に絡むこともなく、ただ良房-基経体制に忠実で、長命でもあったため左大臣にまで昇進したという人物だからである。
 しかし全体的な感想は、比較的わかりやすい内容で有益であった。
 著者は寛平の治をを宇多天皇の意欲的な国政への関与があったと評価していて、『寛平御遺誡』の十九か条全文と逸文の抜粋の口語訳も記載されている。68頁以下。
 次の条文が気に入った。
 「衛府の舎人で精勤の者には、先例にかかわらず昇進や褒賞を行え。ただし婦人・小人の評判に惑わされてはならない」
 私なんか泊まり込みを含む57日間無休連続出勤で粉骨砕身働いたつもりなのに、労働協約違反だのまるで非行扱いで怒鳴りつけられて虐められるから割に合わない。
 精勤した者は制限的労働慣行に反し叩かれるというのはばかげている。「婦人・小人に惑わされるな」は女性差別的なのが良いと思う。
 

2010/11/29

「治承寿永の内乱」でいいんでないの

 再来年の大河ドラマが『平清盛』で壇ノ浦までやるらしい。『龍馬伝』は関心がないので見なかったが(蒼井優の芸者の回だけ熱心に見ただけ)。再来年まで生きていればこれは見ると思う。
 ところで保立道久東大史料編纂所教授がブログをやっているので、のぞいてみたが、「治承寿永の内乱」という用語を使うのはやめて「1180年代内乱」を使用しようとか書いている。http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-6bab.html
 一般には「源平合戦」で通用している。年号をとって「治承寿永の内乱」と歴史家がつくった言葉のようだ。年号を覚えさせるのは余計なことで、歴史教育を暗記ものにしている悪弊をやめようという趣旨のようである。
 なるほど治承は「じしょう」が正しいが、「ちしょう」と間違えやすく恥をかくことになりかねない。
 私は「源平合戦」とか書くのがいかにも素人っぽいので、わざと歴史家の論文で使われる「治承寿永の内乱」と書きたがるたち。そもそも承和の変、承平天慶の乱、安和の変、保元の乱、平治の乱、承久の乱、宝治合戦と元号で政変や内乱をよぶことになっているので、これだけ西暦でよぶのは気がひける。

本郷和人にはがっかりした

 日本中世政治史研究者で、権門体制論、龍粛の西園寺家中心史観、網野史学、皇国史観などを斬りまくっている本郷和人が、また新書判の本を出した。『天皇はなぜ万世一系なのか』文春新書である。
 196頁以下で保守論客の女系天皇反対論批判をやっていて、「結果としての男系天皇にすぎない」と言う。その理由の一つとして高群逸枝説の古代における招婿婚の盛行を取り上げて、「天皇の相承は男系で、という強烈な意識があったのは想定しがたく」などと書いている。こういう言い方は暗に女系論者を応援しているかのごとくである。藤原氏が外戚として権力を握ったのは招婿婚ゆえであるというのも理解しがたい見解である。たとえば清和天皇は母藤原明子の里第である染殿もしくは、良房邸で育てられていたかもしれないがも東宮雅院という大内裏の内の敷地を居所としていた可能性もある。その場合も母と同居していたのだろうが、いずれにせよ外戚の庇護のもと育てられるという問題と皇位継承のルールとは直接関係ない。
 東大史料編纂所准教授だから影響力はある。それが小林よしのりと似たような理屈を書いていて不愉快だし、ばかげている。
 前にも書いたことだが、天皇の親族であるところの皇親の制における構成員資格(親王号、王号を称する範疇といってもよい)は平安時代以降親王宣下の制度により皇親の制度が変質した後においても父系単系出自(自然血統)であることは一貫しており、男系を意識しないなどということは論理的にありえない。平安時代になると藤原基経の妻に人康親王女とか、藤原師輔に康子内親王や雅子内親王が降嫁した事例があるので、男系を意識しないと論理的に皇親と王氏(皇別氏族)とその他の氏との区別ができないからである。
 再三言うが、違法であるが村上天皇の勅許により、康子内親王(醍醐皇女、母は皇后藤原穏子)が藤原師輔に降嫁し、産褥のため薨ぜられたが、遺児が太政大臣藤原公季(閑院流藤原氏の祖)である。一品、准三后康子内親王は后腹で村上の同母姉であったこと、皇后藤原安子が師輔長女であることから公季はミウチ同然として宮中で育てられ皇子に等しい扱いをされたが、いかに天皇の甥という近親であれ、父方が藤氏なので皇親ではないし、皇位継承資格はない。もちろん当時においては多くの皇親を支える財政状況になかったので、男系の二世王あるいは賜姓源氏より藤原氏のほうが有益だったかもしれない、実際公季は右大臣から太政大臣まで昇進したが、皇親が男系であることは自明である。

 また、中世政治史・古文書学が専門で家族史が専門外であるとはいえ本郷和人が高群逸枝説ないし高群の影響を受けた女性史学を無批判に受容しているかのごとき記述は軽率に思える。妻問婚、婿取婚から嫁取婚へという図式は通説ともいわれるが、反対説や厳しい批判も少なくないからである。
 例えば鷲見等曜、歴史人類学の江守五夫の嫁取婚古代起源説、近年では栗原弘が、高群逸枝は『招婿婚の研究』で史料を改竄していると厳しく批判し、実際には高群が主張するほど平安時代に婿取婚が一般的ではなかったことを示している。
 私はより広い視野で歴史人類学の立場から高群系女性史学批判をやっている江守五夫の嫁入婚古代起源説を基本的に支持する。(なお私は1980年頃都立大学の事務局に勤務したことがあって、民青が自治会を支配していた大学で、学生が校門の近くで江守の『愛の復権』という道徳の教科書みたいな著作を宣伝したのを知っている。同氏は共産党に近い立場だったのだろう。同氏は『母権と父権』で「婚姻を真に夫婦相互の人格的愛情の上に築きあげ……対等な地位と権利を実際に享受せしめるためには……私有財産制を止揚する以外に」http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/915.htmlと論じているから共産主義者のように思える。しかし、私はその人の政治的イデオロギーがどうあろうと純粋に学問的業績は業績として評価する考え方である。)
 都立大といえば図書館で中山太郎の『日本婚姻史』を読んだ記憶があるので、基本的に土俗研究や人類学は好きなほうである。日本民族文化の生成に関する問題を体系化したのが戦後都立大の教授だった岡正雄である。岡は日本の基層文化は次の五つの文化複合であるとした。。
1 母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化 (アジア沿岸南方地域より渡来)
2 母系的・陸稲栽培=狩猟民文化(縄文末期 南方より渡来)
3 父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化(弥生時代初期、満州・朝鮮より渡来 ツングース系の種族)
4 男性的・年齢階梯制的・水稲栽培=漁労民文化゛(弥生中期紀元前4・5世紀、揚子江河口より南の沿岸地域、呉と越の滅亡に伴う民族移動の余波として渡来)
5 父権的・「ウジ」氏族的・支配者文化(3・4世紀頃、満州南部アルタイ系騎馬遊牧民が朝鮮半島を南下して、南部にとどまり、3・4世紀頃、列島渡来)
 この業績は戦前のものである。この説から進展した騎馬民族制征服説は今日ではあまり評価されていないのもで疑問点もあるが、単一民族といっても、わが国の基層文化は複合的、重層的なものであり、単一の文化に還元すべきではないという点では正しい説である。婚姻に関しても、江守が言うように古くから南方系の一時的訪問婚と北方系の嫁入婚の融合と併存した文化と理解すべきである。(江守五夫『家族の歴史民俗学』弘文社 1990 25頁)
 江守はこのうちの1と2の「母系的」親族組織は現代の学問水準では「双系的」と改めるべきであり、1と2は本来同じものだったかもしれず、4との関連が問題と述べている(前掲書序説 )。
 もっと単純化すれば、戦前の民俗学者中山太郎の言うように、わが国の基層文化は南方系と北方系から成り立っている。
 南方系基層文化(江南より南部、東南アジア方面に由来)としては、年齢階梯制、若者宿、一時的訪妻婚、歌垣である。中国南部から東南アジア方面から耕作文化とともに伝播したと考えられている。現代においても中国雲南省の少数民族に歌垣などわが国の基層文化と類似した土俗を見いだすことができる。(つまり妻問い婚とかヨバヒ、歌垣に見られる若者と娘の集団見合というのは南方系基層文化であり、現代においても集団見合型の合コンがこの文化の進展と私は思う、歌の掛け合いが王様ゲームに変わっただけ)。
 一方、北方系基層文化(東北アジアから内陸アジアに由来)は嫁入婚を基本(ただし婿養子型招婿婚もあり父系的親族体系と入婿は共存する文化である、共存しないと考えるのは中国の宗法制度を基準とする固定観念である)としているが、江守五夫の東北アジア民族の嫁入婚と日本の嫁入婚習俗との類似点を明らかにしている(前掲書)。
 レヴィレート婚(亡夫の弟が寡婦となった嫂を娶る-わが国の戦争未亡人の多くの再婚がそうである)寡婦相続婚、姉妹型一夫多妻婚や婚姻儀礼にまつわる呪術的習俗である。特に日本海沿岸地帯に見られる「年季婿」(妻家での一定期間の労役を条件とする婚姻)と東北アジアに見られる「労役婚」との類似性を指摘している(前掲書)。
 これは放送大学の講演で聴いたことだが、東日本にみられる見かけ上の初生子相続、「姉家督(民俗用語)」も長男が成長するまでの「労役婚」のバリエーションとしてとらえむしろ姉夫婦が分家独立することから、「姉家督(民俗用語)」は母系的親族関係を意味せず、むしろ父系的親族関係に由来するみなしたことなど優れた着眼点に思える。
 また江守五夫は柳田国男が「結納」について、贈物が些細で初婿入りの酒肴にすぎないとしているのを批判し、これは酒食の提供ではなく花嫁代償的な財貨の提供としての性格を看取できるとしている。
 現代では一般に100万、70万、50万といわれる「結納」相場とされるが、どうだろうか。私は結論を出せないが、もし花嫁代償なら嫁入婚の慣習だと言わなければならない。「結納」に類似した慣習が蒙古族や南ブリヤート族にもみられる。『日本霊異記』中巻33話にに鏡作造の美貌の娘の求婚のために美しく染めた絹布車三台分を送る男が現れたという話がある。江守は絹布車三台分は虚構であるとしても、このエピソードは相当の婚資を贈る慣習(嫁入婚)が前提となっていると解説する。
 さらに重要なことは江守は古代における嫁入婚の例証を「天皇家」に見いだしていることである。(前掲書22頁以下)
『日本書紀』巻三神武天皇即位前己未年九月二四日条   
 「媛蹈鞴五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ」
『日本書紀』安康天皇元年二月条
 「爰に大草香皇子の妻中蒂姫を取りて、宮中に納れたまふ」
納れて(めしいれて)、宮中に納れたまふとは、呼び入れることで妻問いではない。
ただし、すでに述べたように、《一時的妻訪婚》文化と《嫁入婚》文化の特殊な融合と併存が実態であったという。
 「嫁迎えではなく、求婚としての「よばひ」を一、二回行ったあと、ただちに妻を夫家に移させたり(神武天皇と伊須気余理比売の婚姻伝承)‥‥‥《一時的妻訪婚》の習俗にもとづいて婚約のしるしとして“つまどいのもの”を相手の女に与える場合(雄略天皇と若日下部王との婚姻)‥‥「納采」(あとうること)と称する花嫁代償の授受が行われたりした(履中天皇が皇太子時代に黒媛を妃にしようとして贈る)」
  「天皇家に関しては《嫁入婚》が婚姻の基本形態をなしていた」「平安時代中期でも。『宇津保物語』に描かれているかぎりでは、天皇家の婚姻形態は《嫁入婚》であった」としている。
 さらに江守は考古学者の白石太一郎説を引き『古事記』・『日本書記』・『新撰姓氏録』』などに記載された「古代豪族の厖大な同祖・同族系譜」の形成が古墳時代-とくに五世紀後半から六世紀前半-にまで遡るとしていることを根拠として、五世紀後半から六世紀前半に既に父系出自集団が成立していたことは社会考古学上動かしえぬ事実と断言し、父系出自集団たるウジを国家の社会機構に組み入れた制度こそが氏姓制度であるとする(前掲書30頁)。
 もちろんウジの性格については議論のある問題だが、厳しく批判されている高群系女性史学を過大に評価して、わが国はもともと双系ないし無系社会で、シナの制度の移入により父系親族制度に再編されたなどと単純な見方は誤りである。わが国では古くから父系的、ないし準父系、双系的な親族関係の複合的ないし併存した基層文化があったとみるのが真実に近いものと考える

2010/10/11

小林よしのり批判と 中野高行「天智朝の帝国性」の感想

 小林よしのりが天皇号や日本国号が女帝の時代に成立したと言うことを『サピオ』連載の天皇論追撃篇でさかんに吹聴している。しかし、天皇号が推古朝から慣用されていたと言う説を全面的に否定するものではないが、女帝を画期とみなすのはどうか。君主号や国号の成立期の先行学説は諸説あって、確定的なことはなかなかいえないはずである。それと、古代において女帝の統治時代が長く、その治績を強調しているが、だからといって我が国固有の特徴とみなすわけにはいかないし、ましてや女系を容認する論拠にはならない。
 なぜなら中国においても、女帝は武則天の一例だけだとしても、女性が統治権力のトップとなる太后臨朝(漢代)あるいは垂簾聴政(宋代)という統治形態がある。例えば後漢であるが、最高統治者が太后であった時期が長い。女性を最高統治者とするのは日本古代に固有の特徴では決してなく東アジア王権に共通していると言ってもよいのである。後漢の皇帝の多くは短命で、和帝以降は幼帝が続きました。太后臨朝による外戚政治の時代が長かったのです。むろんシナも男系主義であるが、女性の統治を排除していなかったという点で我が国と異なることはない。
 もっとも中国における平時における皇后の政治的権能は、内治つまり後宮の統率に限定され、それほど大きくはない。しかし、帝嗣未定で皇帝が崩じた場合、帝嗣決定の決裁権は皇帝の嫡妻たる皇后にある。それが伝統になっているわけで、非常時に権力の空白を補う意味で絶大な政治的権能を有するのである。なお、先帝皇后は皇帝の生母ではなくてもよい。生母ではなく嫡妻たる皇后が皇帝の公式の母となる制度である。(註)

後漢の太后臨朝の例

四代和帝 10歳で即位 竇太后が臨朝
五代殤帝 生後まもなく即位 鄧太后が臨朝
六代安帝 13歳で即位 鄧太后が臨朝
九代冲帝 2歳で即位 梁太后が臨朝
十代質帝 梁太后が臨朝
十一代桓帝 15歳で即位 梁太后が臨朝
十二代霊帝 12歳で即位 竇太后が臨朝
十三代廃帝 17歳で即位 何太后が臨朝

http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chu901.html

 太后臨朝は実質最高権力者が女性となる統治形態なのである。鄧太后が名君とされるが、後漢の太后臨朝はあまりにも長すぎて外戚と宦官との権力闘争を収拾できず王権を衰退させた。ただ宋代の垂簾聴政もそうだが、王権というのはしばしば女性が権力の重心となることによって安定装置としているのである。
 日本の場合は、中国のように同姓不娶でなく、皇族内婚で皇后も皇族である。したがって太后称制だけではなく即位が可能だった。その違いがあるだけで、従って日本の古代の女帝も、皇帝の権能を代行する太后臨朝のアナロジーで説明できるのである。四例が先帝皇后かそれに類似するケースであり、元正女帝の場合は、聖武天皇の生母藤原宮子が臣下の出身で夫人位であり、皇后にのぼせられなかったし、しかも重い気鬱症で能力を欠いていたことから、非婚伯母である元正が母后に擬されての即位という見方ができます。平安時代の藤原摂関家の政治も中国の太后臨朝のシステムの応用であったと考えます。

 さて、中野高行「天智朝の帝国性」『日本史研究』2010年8月号(通巻747号)を読んだが、天智朝天皇号成立説をとっているようだ。この人は1960年生、埼玉県東松山の東京農大第三高校の教師だが、『日本古代の外交制度史』という著書も出している。
 天皇号成立期については東野治之の天武朝説がある。これを補強する文字資料として、平成10年に飛鳥池遺跡で出土した「天皇」を記した木簡があり、天武天皇六年のものと推定されている。第二に天武天皇四年の675年に唐の高宗が「天皇」号を称したことから、これを日本の君主号としたことから少なくとも675年以降の成立という説である。
 しかし中野氏によると、天皇号は中華思想を倭国の支配層が咀嚼・受容されるなかで、小帝国の最高権力者の称号・地位として案出されたもので、天智朝において「百済王権」を配下に従えたことから、倭王を中国皇帝に擬した「天皇」号は天智こそふさわしいと述べ、河内春人(「天智「称制」考」あたらしい古代史の会編『王権と信仰の古代史』吉川弘文館平成17年)の天皇号天智朝成立の仮説を引用している。
 河内春人説というのはこうである。〔〕は私の意見。中大兄皇太子が斉明崩後、即位もせずに「称制」し称制七年目に即位したと『日本書紀』は記しているが、①当時は皇太子という地位が成立してなかった〔つまりそれ以前は君主は郡臣に推戴され即位するものであり、君主に継承者を決定する大権を明確にしたのは天智天皇の不改常典以降ということか〕②『日本書紀』では称制が素服と関連しているように記されているが服喪期間が長すぎる。③中大兄を後見する人物が存在しない。④天智称制元年の豊璋の百済王冊立は倭王として行ったという疑問を呈したうえで、河内春人は斉明崩御直後の天智称制元年に中大兄が「治天下王」として即位し、称制七年(668年)にあらためてて「治天下天皇」として二度目の即位を行ったとの仮説を提示した。
 この仮説は説得力があると中野氏は述べている〔私はコメントできないが、なぜ称制が長かったのかという解釈としてはおもしろいと思う〕。
 そのうえで、中野氏は我が国は天智朝において帝国としての実質を備え、小帝国の創設者は天智だったとし、その画期性は重大だとする見解である。
 次に日本国号であるが、「事実上の異姓簒奪・易姓革命なら日本国号を捨て去るのは当然という私の主張を「電波」とみなす見解への反論(1)」というエントリーでも書いたことだが本居宣長の孝徳朝成立説は今日の学問的水準では否定されている。http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/post_6489.html日本国号の成立時期は斉明朝~天武・持統朝、大宝律令成立期の範囲で諸説がある。天武朝成立説(東野治之、吉田孝)も有力とされるが、天智朝成立説もある。根拠としては、『三国史記』新羅本紀第六文武王一〇年一二月条(670年)「十二月、(中略)倭国更号日本自言近日所出以為名」という新羅に対し倭国が日本と号したと言う記事である。確定的なことはいえないとしても、天智朝成立説も有力とはいえる。
 ではなぜ、正史において天皇号案出やその始用、日本国号の諸事績が欠落しているのか、その意味について中野氏は正史編纂にかかわった天武系皇親や群臣にとって天智天皇の事績としてしまうとことを受け入れられなかったため、意図的に削除させた可能性を指摘している。

  要するに天智天皇を偉大な君主とすることは、壬申の乱の意義を否定することになりかねないので、好ましくなかったという事情である。
 もちろん、この人の見解も一つの考え方にすぎないし、私は元明・元正朝の富国貨殖政策が我が国の経済繁栄の基礎として女帝の治績も評価するが、小林よしのりのように、女帝が歴史の画期という見方は少し偏っていると思う。
 天皇号や、日本国号についても、天智朝、あるいは天武朝を成立期とする説も有力なのであるから、もう少しバランスをとった見方を示すべきだろう。

(註)我が国では伝統的に天皇生母が国母とされ、生母の地位が高い。生母が上流貴族でない場合でも女院宣下により厚遇され尊重されてきた。嫡妻と妾の身分格差を明確にする伝統的な中国のシステムとはかなり違うシステムだったが、明治以降中国と同じシステムになった。つまり大正天皇の公式の母は昭憲皇太后であって生母ではない。幕末期の徳川将軍家が類似したシステムで、前将軍の嫡妻である天璋院が大奥を統率するのであって、将軍生母の実成院にはなんの権限もないのと同じ。なお、清朝末期の先帝皇后は東太后であり、席次上位はあくまでも東太后、西太后の垂簾聴政は中国の伝統に反したものである。

2010/04/03

NHK大阪放送局制作「古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」」を見た感想

最後のほうで藤原仲麻呂を藤氏の棟梁とかとか言っていたが、天平12年当時の氏上は藤原豊成であるはず。仲麻呂の任参議は天平15年、政権で重きをなしたのは文官人事を牛耳るようになった任式部卿の天平18年以降なのではないか。ドラマの冒頭で島を見て「にっぽん」と叫んでいたが、日本の音読みは平安時代以降のはず。最初のナレーション、奈良時代の日本は「人口500万の小さな国」というのも疑問、8世紀で500万の規模は大国なんじゃないのか。
重い気鬱症だった皇太夫人藤原宮子と聖武天皇の36年ぶりの対面のシーンだが、平安時代の仁明天皇が母后橘嘉智子に北面して跪いてた例があるとはいえ、それ自体が異例のことであって、いかに生母とはいえ天皇があんなに頭を下げるのは疑問に思った。
また藤原仲麻呂は旧貴族を排斥しようとしていたという筋書きだが、なるほど後に橘諸兄を失脚させるが、紫微中台政権では藤原氏を重用しておらず、バランスのある人事である。例えば蘇我氏系の石川年足を重用したように古い貴族を排斥しようとしたわけではないと思う。
 なお、真備の任東宮大夫兼東宮学士までドラマはすすんでいないが、NHKのサイトであらすじを読むと、 たぶん安積親王は登場しない、横田健一の仲麻呂による暗殺説もあるが、それはやらないようだ。
 
阿倍内親王の立太子は背景説明がいっさいなく、それはそれで無難であったかもしれないが、女性天皇問題があるのでひと言言うと、女性立太子は前例がなく空前絶後で異例である。

通説は光明皇后(右大臣藤原不比等女)が当時38歳で、皇子を生む見込みが乏しくなる状況で、藤原氏所生の唯一の皇族である内親王立太子により藤原氏の権勢を維持するためという見方だが、それほど物事は単純ではなく、私の考えは天然痘流行により政権を主導してきた藤四卿薨去による社会的動揺と台閣首脳部の実力低下への対応、つまり太政官決裁者に橘宿禰諸兄(敏達裔)を起用し、台閣第二席、第三席級も鈴鹿王(天武孫)、多治比朝臣広成(宣化裔)と王氏に偏った政権になっために、一種のバランス感覚で、母が藤原氏である内親王を立てたというような均衡人事と解釈する。なお、この問題について私はかつてブログに書いているので誤解がないように再掲しておく。

阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)2005年9月掲載

 内親王立太子の前例は歴史上唯一、天平十年(738年)正月の聖武皇女阿倍内親王立太子(のち孝謙女帝-当時21歳)のみである。このきわめて異例な立太子は、瀧浪貞子(註73)が論じるように阿倍内親王の生母光明皇后(右大臣藤原朝臣不比等女安宿媛)の異母兄弟(右大臣藤原朝臣武智麻呂、参議民部卿房前、参議式部卿兼大宰師宇合、参議兵部卿麻呂)が天平九年の大疫癘、天然痘の猛威により相次いで薨じたことによる社会的動揺と関連する。藤四卿が不測の事態で薨じたことは朝廷にとって大きな痛手になった。政権首脳部が次々に亡くなるということは異常なことであり、それ自体大事件なのである。
 また瀧浪氏は阿倍立太子の時点で光明皇后が38歳であり、后腹皇子誕生が難しくなったこと、夫人県犬養宿禰広刀自所生の安積親王が11歳(但し天平十六年に急逝)となり、成長した安積親王を抑える意味もある(註73)とされているが、以上の見解についてはほぼ賛同できる。
 先行説もあげておくと、岸俊男は、光明皇后あたりの意見が相当強く働いたと推測され、機先を制したという見方である、大納言橘諸兄は複雑な血縁環境で微妙な立場にあり、反藤原氏の旗色を鮮明にする暇もなく押し切られたとの推測である(註74)。
 須田春子の見解は明快で「皇后光明子を立てて自家勢力の伸張と維持を期する藤原氏一族の、強い執念とも云うべき意図のもとに阿倍内親王は東宮に立ち‥‥阿倍皇女は誕生以来決して際だった特別の存在ではなく、当時藤原氏所生の唯一の皇族であるために推されて皇太子となり、やがて皇位に登る廻り合わせとなったまでのことで、端的に云うならば藤原一族の私的事情を除いては、当時必ずしも内親王立坊の決定的理由乃至根拠はなかったと思われる。なぜならば、その頃皇族諸王には天智・天武の皇子・皇孫が幾人も実在した。いやそれよりも聖武第二皇子安積親王は天平十年には已に十一歳に達している」(註75)とされているが、安積親王の天平十六年急逝は藤原仲麻呂の毒殺とみなす見解(横田健一説)があることはこの間の情勢を反映している。
 しかし瀧浪氏は、聖武天皇の皇位継承構想が、阿倍内親王から安積親王であったと推定されている(註76)。瀧浪説の特徴は、阿倍立太子が光明皇后や藤原氏の意向をふまえたというよりも、あくまでも聖武天皇の意思決定とみなしている点、安積親王への皇位継承のためにも阿倍立太子が必要だった。「不改常典」の嫡系相承の論理から、阿倍内親王の立太子は不可欠な手続きであったとし、それなりの意義を認めている点だが、聖武天皇による意思決定については異存はない。参議兵部卿藤原豊成が策略家タイプでないので藤原氏策略説をとる必要はない。それはもっともである。
 しかし瀧浪氏が聖武天皇も光明皇后もたとえ女子でも后腹で年長の阿倍をさしおいて、安積の立太子は考えられなかったという見方をとっているのは問題だ(註77)。この見解は通時代史的にいえば常識的とはいえない。少なくとも同世代では后腹皇子が非后腹皇子より皇位継承候補として勝っていることは当然の理屈だが、皇女にまで拡大するのは他の時代にはみられない理屈である。
 光仁皇女酒人内親王(母は廃后井上内親王)や鳥羽皇女暲子内親王(母は皇后藤原得子-美福門院)が女帝候補に浮上したことはある。しかし結局、非后腹の桓武、后腹という条件は同じで後白河が登極したのである。一般的にいえば后腹の内親王は厚遇されるのは当然のこととして、后妃候補、斉宮候補、平安末期以降では准三宮から、非婚准母皇后、非婚の女院候補になるとしても、皇子をさしおいてまで女帝候補に浮上するということはない。
 例えば、三条皇女禎子内親王は后腹で、藤原道長を外祖父とするゆえ、同じく后腹とはいえ藤原済時を外祖父とする三条皇子小一条院敦明親王より政治力学的に有利な立場にあったということは、ここで当時の藤原道長の権勢の説明する必要はないだろうし、禎子内親王は道長存命のうちは大変厚遇されていた。しかし皇子ではないから敦明親王をさしおいて立太子ということはならない。禎子内親王は後朱雀后となっても女帝候補にはならないのである。後鳥羽后藤原任子所生の昇子内親王(春華門院)は、膨大な八条院領を相続したが、たとえ外祖父九条兼実の関白罷免事件がなくても、非后腹の為仁(土御門)をさしおいて皇位継承者となるということは考えにくい。
 従ってこれは光明立后の史的意義と関連する問題としてとらえたい。光明皇后は、持統以前の皇親皇后を別問題として、人臣女子では共知型(天皇・上皇と並び立つ執政者)といえる史上最強の皇后であり、施薬院や悲田院(貧窮・病者への福祉事業)を設立し、国家的仏教事業(膨大な写経・勘経事業・造仏事業など)を推進した。附属職司の皇后宮職は、天皇の内廷に類比しうる規模を有し実務官人の養成機関としての性格も有していた(註78)。後に附属職司が紫微中台に改組され、太政官機構と並ぶあるいはそれを凌ぐ政治拠点となったことからも明らかなように、元正上皇が在世されているうちはありえないことだが、聖武天皇が政治に飽きてしまえばいつでも太后臨朝称制もしくは皇太后摂政という形式で国政を委任できるような態勢にあったと考える。
 もし、もうこの時点で聖武天皇はいずれは国政を光明皇后に委ねて出家する意向があったとすれば、阿倍内親王が即位したほうが皇太后摂政、皇太后称制はスムーズに移行できるのであり、そのような長期構想から阿倍立太子の意思決定がなされた蓋然性もあると私は考える。
 藤原氏からすれば、もちろん后腹皇子の皇位継承が最善であったが、皇太子基王は夭折した。光明皇后は38歳になった。次善策は藤原氏女腹の皇子誕生だが、入内した武智麻呂女も房前女も皇子女をもうけていない。阿倍内親王立太子は次の次の善処策ということであろう。
 天平六~九年前後に武智麻呂女と房前女が夫人として入内しており、天平十年の時点では藤原氏女腹皇子が誕生する可能性はまだあった。ただ藤原腹皇子の誕生を見込むとしても年齢差からみて中継ぎは必要であり、阿倍内親王が皇太子である限り、安積親王を担ぐ不穏な動きを封じられるので政治的安定にとっても好ましいと判断されたのだと思う。
 もう少し無難な見方を示しておくならば、阿倍立太子と同日に橘宿禰諸兄が右大臣に昇進していることからみて、これは、社会的動揺を抑え政局の安定化を図るためのバランス人事とみることはできるだろう。
 太政官決裁者は藤原不比等-長屋王-藤原武智麻呂と推移してきた。藤原氏は議政官の半数を占め、藤四卿体制といわれるように政権を主導してきた。しかし四卿薨後、藤氏で参議に昇進したのは豊成(兵部卿を兼ねる)だけで、又、文官人事を掌握する式部卿は、武智麻呂、宇合と歴任し20年近く藤氏がおさえていたポストであったが、天平十年正月の中納言多治比真人広成の任用により、政権における藤氏の比重は大きく後退した。しかし政権変動に伴う動揺は最小限に抑えなければならない。
 
 そもそも聖武天皇の母と妻后は藤原不比等を父とする異母姉妹で、光明子とは同年齢で霊亀二年16歳で結婚したが、もともと不比等邸で一緒に育てられていたので非常に絆の強い天皇と皇后である。東宮傅として皇太子時代の養育責任者が叔父の武智麻呂であった。聖武朝が外戚藤原氏を主軸として支えられ、光明皇后が皇権の一翼を担う共同統治者としての性格を有している以上、太政官決裁者に橘宿禰諸兄(敏達裔)を起用し、台閣第二席、第三席級も鈴鹿王(天武孫)、多治比朝臣広成(宣化裔)と王氏に偏った政権になってしまったからには、異例ではあるが藤氏を近親とし后腹でもある阿倍内親王の立太子により政治的なバランスをとる必要があったといえる。要するに聖武天皇がこの時点で安績立太子のような外戚の利害を無視し、政治的に不安定な状況をもたらす人事を強行することはありえない。聖武上皇の遺詔で道祖王が立太子されたが、道祖王の父新田部親王の母が藤原鎌足女でやはり藤氏と縁のある傍系皇親を選んだことでも明らなことである。聖武天皇と藤原氏のむすびつきは強いのである。
   本題に戻ると、阿倍立太子の時点では異母弟の安積親王が健在であること(既に述べたように瀧浪氏はこの時点で阿倍-安積という皇位継承を想定されている)、光明皇后が皇子を儲けるのは38歳(聖武と同年齢)という年齢的に難しくなったが、藤原氏女腹皇子誕生の見込みがまだあったので、阿倍内親王は立太子の時点で中継ぎを想定してよいと思う。
   いずれにせよ、天平十年の立太子例は特異な事例であること。天平九年の大疫癘にともなう社会的動揺と政権変動に対する対応、光明皇后という強力な皇后の存在という政治的背景があり、この特異な先例をもって現代において女性立太子を正当化できるものではない。阿倍内親王立太子の時点では、安積親王のほか、まだ皇子誕生の可能性があったほか、傍系皇親は多数実在しているから、現今のような皇位継承候補者が枯渇し血統的に袋小路の状況とは異なっており、そのような意味でも中継ぎと理解してさしつかえない。

(註73)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「第一章光明子の立后とその破綻」29頁
(註74)岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館人物叢書 新装版 1987(初版1969)72頁
(註75)須田春子『律令制女性史研究』千代田書房1978「高野天皇」492頁
(註76)瀧浪氏の見解「‥(藤氏)四兄弟の急死という不測の事態のなかで、成長する安積を抑えるために取った措置であったとみるべきである。それはいつか安積の皇位継承を期待する聖武にとっても不都合でなかったと思われる」前掲書29頁
(註77)瀧浪氏の見解「‥嫡系相承にこだわる聖武にとって、安積よりも年長の阿倍を差し置いて、安積を皇位継承者とすることは到底考えられなかった。それは光明子とても同様であった」、『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社選書メチエ199 2000 
(註78)光明皇后の政治活動につき 井上薫「長屋王の変と光明立后」『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館1978 中林隆之「律令制下の皇后宮職(上)(下)」『新潟史学』31、32号 1993、1994

2010/03/11

小林よしのり天皇論追撃論批判3.31号その1

 時間が限られてるのでツイッター式に短いことを書いていく。
 私は『椿葉記』などの伏見宮家の由緒を重んじるべきだ。当然旧皇族の復籍を望むわけだが、小林よしのりは、旧宮家は復籍に値しないと攻撃をしているきわめて不愉快な漫画であります。
 明らかに誤解を招く表現としては、前にも書いたが、系図の栄仁親王を矢印で指して、ここから分かれたのが旧宮家と書かれているところ(69頁)。栄仁親王の孫に当たる後花園天皇は後小松上皇の猶子として即位したといっても、自然血統では伏見宮貞常親王の兄が後花園天皇ということであるから、血縁関係で分かれたという言い方は正しくなく、血統的には皇室と伏見宮は後花園の実父である後崇光院貞成親王を共通の祖先としているという言い方の方が良い。また幕末頃の時点で伏見宮家は400年も天皇を出していないと書かれているが、後桃園崩後の皇位継承者で有力だったのが伏見宮邦頼親王の第一王子の嘉禰宮(のち貞敬親王)であったことは知られている。後桜町上皇と前関白近衛内前は嘉禰宮を推していたのである。ところが奇っ怪な浮説が流れたためか、結果的に閑院宮典仁親王の第六王子だった祐宮(光格天皇)に皇位を継承した。しかし上皇と前関白が推していたのだから伏見宮が大統を継いでもなんらおかしくないことである。http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post_5900.html

 ところで平安時代以降、生母が皇親(皇族)である天皇の例は少ない。

 宇多天皇(母は仲野親王女、班子女王)
 後三条天皇(母は三条皇女、禎子内親王)
 今上陛下(母は久邇宮邦彦王女、良子女王)

 つまり香淳皇后は久邇宮家だから陛下の母方は伏見宮系である。なのに恋闕の尊皇心を抱くという小林よしのりは伏見宮系をけなす言動をしてよいのか。
 貞明皇后が意見書を提出した久邇宮邦彦王に激怒したと書かれてますが、この事件は浅見雅男の『闘う皇族 ある宮家の三代』でも書かれてますが、しかし皇太子と良子女王の結婚を承認したのも貞明皇后なのである。

2009/12/19

小沢一郎氏の韓国講演で述べた事実に反する見解と偏った歴史認識

 今月訪韓した小沢一郎幹事長のソウル市内の大学における講演の動画をみました。
http://www.youtube.com/watch?v=uX7xFMvCly8
 考古学で否定的な見解が大勢を占める「騎馬民族征服説」を「たぶん歴史的事実であろうかと思っております」と述べています。また、桓武天皇生母に言及し「桓武天皇の生母は百済の王女様だったということは天皇陛下自身も認めておられます」と発言してます。
 陛下のおことばというのは「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」というものであり、小沢一郎氏は異なったことを述べている。

 桓武生母皇太夫人高野朝臣新笠(大同元年追贈太皇太后)の父は和史乙継、母は土師宿禰真妹である。もともと和史新笠であったが宝亀年間に光仁天皇より「高野朝臣」姓を賜った。これは夫人の新笠個人だけの姓だった。
 瀧浪貞子京都女子大学教授の『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版1991年は高野新笠の出自について

 「父方の和氏は『新撰姓氏録』に「和朝臣、百済国の都慕王の十八世孫、武寧王自り出づ」と記すように、百済系の渡来氏族であり、武烈天皇の時に帰化したという。(『日本書記』)。和(倭)氏を名のるようになった時期は不明であるが、一族が大和国城下郡大和郷に住んでいたことによるものであろう。」と説明している。

  渡来の卑姓氏族であるが、武寧王の治世は502~523年と古く、和氏が渡来した武烈天皇の治世は498~507年で、桓武天皇の出生が737年であるからこの間230年以上経過している。むろん百済王女ではないから、事実に反する見解を述べている。

 また江上波夫氏の「騎馬民族征服説」については、橋本義彦(宮内庁書陵部編修課長・正倉院事務所長を歴任した大正13年生まれの歴史家)が『平安の宮廷と貴族』.吉川弘文館平成8年「皇統の歴史-その正統と異変-」で次のように述べている。

 「戦前、皇統の「万世一系」が「国体の精華」と謳われた反動であろうか、戦後になると、『古事記』『日本書紀』の伝える古代天皇の系譜に疑いをさしはさみ、様々な古代王朝交替説が唱えられた。いわく葛城(かつらぎ)王朝、いわく近江王朝、いわく難波王朝など、種々の憶説が提示されているが、なかには「殆どナンセンス」に近いと評されているものもあり、まだ確説の域に達しているものはないようである。考古学者が提唱し、一時世上に喧伝された「騎馬民族説」(征服王朝説)も、現在の考古学界では否定的見解が大勢を占めていると聞く」

 小沢一郎氏は、自民党時代のことか江上波夫氏から応神・仁徳天皇陵を調査したいので宮内庁にかけあってくれともちかけられたエピソードも講演で語っているが、「騎馬民族説」(征服王朝説)は考古学者はほとんど否定的見解ということである。それを「たぶん歴史的事実であろうかと思っております」というのはセンスが悪すぎるし、偏った歴史認識を持った政治家といえるだろう。

2009/11/01

WILL12月号小林よしのり「廃太子論」反論は不愉快だし非論理的

 結局日本解体法案阻止請願書は6通のみとなった。というのは外国人参政権とか国立追悼施設等も反対だが、深く研究したことがないので、もっとも危機に思っているのが民法改正に積極的な千葉景子法相の姿勢であり今回は夫婦別姓等民法改正、女子差別撤廃条約選択議定書、人権救済擁護機関の設置だけの請願書になった。

 小林よしのり「西尾・橋本氏への御忠言『廃太子論』はレベルが低すぎる」を読みましたが、不愉快で非論理的な内容でした。

1  皇室に「徳」は関係ないなんてそんなバカな

 まず疑問に思うのが小林よしのりが断定的に言う特徴的見解「皇室は「皇道」であり万世一系の血統によるもので「徳」は関係ありません。この点で「徳」を基準とするシナの「王道」とは全く違う」としている点。

 劉権敏は古くから我が国に受容されていた受命(天命)思想が、万世一系の非革命哲学と共存できるようになった過程について次のように説く(「日本古代における天命思想の受容-祥瑞思想の和風化」『哲学・思想論叢』筑波大学24号 2006年)。

 継体・欽明期に五経博士が渡来しており『書経』により中国の天命(受命)思想は受容され、積極的に利用された。『日本書紀』は武烈を悪帝、継体を聖帝として扱っているのがその現れである。天命思想は、為政者が善政を行えば、天はそれを嘉して祥瑞をくだすという祥瑞思想を随伴しているが、『日本書紀』では推古紀以下の諸巻に集中的に祥瑞の記事がみられる。祥瑞は聖王が天下を治める際に天が顕したもので、祥瑞思想が飛鳥・白鳳時代に鼓吹されたことは当時の政界に天命思想が深く浸透していたことを示す。
 むろん天命思想は、支配権を下す主体が「天」であるため、貴族や平民でも「天命」により支配者になる可能性から、天皇の統治形態を脅かす思想にもなりうるが、天武・持統朝に天孫降臨神話を基盤とする万世一系の思想やアキツカミ思想が宣伝され、支配権を下す主体が天つ神であると同時に、天皇は天つ神の御子であるという絶対的な血脈関係により権威付けられ、非革命の哲学を構築した。さらに和銅以後、祥瑞の主体が中国思想の「天」ではなく、日本の天つ神国つ神と皇祖神に置き換えられる変容(祥瑞思想の「和風化」)によって天命思想が万世一系の思想と共存できるようになったという。

 劉権敏が武烈・継体を王朝交替とみなしている点につき疑問をもつが、祥瑞思想の「和風化」によって受命思想が先鋭化することがなかったとついてはく理解できる。

 天譴思想も古代から受容されている。儒教的徳治主義はわが律令国家の統治理念である。 とくに八~九世紀の律令国家では天譴思想や徳治思想は常套句であり、天皇は天変災異があれば自らの徳の無さを責める詔勅が出され、君主に政治責任が求められた。
 十一世紀においても長暦四年(1040年)七月二十六日大風のため伊勢外宮の正殿や東西の宝殿等が顚倒する事件が起きた。『春記』によると祭主大中臣永輔の解状を八月初めに奉覧した後朱雀天皇は大いに驚きこう述べたという。

 非常之甚、古今無此事。以徴眇身莅之尊位之徴也。不徳之故也。

 同様の発言は八月九日にもある。

不徳之故、天下凶災不絶、遠近不粛。是以非拠登尊位之咎也

長暦四年には大風が吹いて田畠の被害もあった。後朱雀は自身の不徳、天下を治めるという責務を果たしていないゆえに、大風や伊勢神宮顛倒が生じたと考えている。

明らかに自らの不徳が災異を招くという天譴思想を認識している。

この為に八月十五日から二十七日に伊勢神宮遙拝を行っている(註1)。

 また統治者である天皇が徳をもって人民を教化して仁政を施すことの社会政策上の必要性は一貫として認められるところである。

 嘉祥三年正月、仁明天皇の冷泉院(太皇太后橘嘉智子の御所)朝観行幸では天皇が北面して跪いたことが記されている。これはありえないことであり、中国でもそういう事例をきかない。しかし、孝子・順孫という儒教的家族倫理を普及されるために、あえて君主が父母を敬う姿勢を示したということである。
 律令国家の統治理念である儒教道徳による民衆教化はさまざまな形で行われていた。 儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序確立と維持が行われた(註2)。
 従って私は、天皇をたんに祭祀王と定義したり、昔から象徴だったという説に反対ですす。律令国家は天皇と太政官の二極構造になってますが、幼帝ともかく統治者たる君主であるから当然有徳である事を前提としているわけです。

 王朝が一姓の業であることは、我が国も基本的には同じことであって、王朝創始者は別としても中国の王朝でも血統原理で帝位を継承するから、中国でも受命思想と血統原理のダブルスタンダードである。我が国がシナと異なるのはシナのように「民をもって国を簒い、臣をもって君を弑す」伝統がないとされていること。わが国の国柄が「天地人民有りてより以来、君臣上下、一定して渝らず、子孫、承襲ね、万世絶えず、天命永固、民意君を知り、淳化惇風、久しくもって俗となる。維城盤石、揺がず、動かず(註3)」といったことだろう。むしろシナよりも儒教的徳治主義が成功した国家といえる。

 中国であれ日本であれ君主に「徳」が求められるのは当然の事であって、「徳」は関係ないと断言する見解にはかなり違和感がある。

 花園上皇の『誡太子書』は帝王学として皇太子殿下も学ばれていることだが、要旨は日本においては外国のように禅譲放伐の例はなく、異姓簒奪はないという観念(それは諂諛の愚人にしても常識的な観念であるが)に安住することなく君徳涵養の必要を当時の東宮量仁親王(のち光厳天皇)に説いたものだが、それが基本ではないか

 故に孟軻、帝辛を以て一夫となし、武発の誅を待たず。薄徳を以て神器を保たんと欲ふ(ねがふ)とも、あにその理の当たる所ならんや・・・たとへ吾が異姓の窺ゆなしといふとも、宝祚の修短多く以てこれによれり、しかのみならず、中古以来兵革連綿、皇威遂に衰ふることあに悲しまざらんや。太子宜しくつらつら前代の荒廃する所以を観察せよ

 (訳)だから孟子は暴虐な商の帝辛(殷の紂王)は帝ではなくて只の一夫となったので、周の武王は只の男を攻め滅ぼしたに過ぎない(だから王を倒しても罪ではない)と説いた。人徳を修めないで、神器を保ったとしても(皇位を嗣ぐ)、暴虐をなせばたとえ我が国であっても殷周革命のようなことが起きないとは言い切れない・・・たとえ我が国に於いては皇位を異性が狙うことがなかったとしても、天子の位を順調に勤め上げられたかどうか(途中で引きずり下ろされたりしなかったかどうか)は、天子が徳の修養に努めたかどうかにかかっている。それどころか、ここ二百年ほど戦争が続き、王家の威光が衰えているのはなんと悲しいことであろうか。皇太子は何故朝廷の威光を衰えさせてしまったのか、その理由をよく観察しなさい
 引用(一部略)http://seisai-kan.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_0c47.html

 後水尾上皇宸筆教訓書は後光明天皇宛とみられているが。「慎み」を要求し、「帝位」にある者として驕ることなく、短慮な行動をいましめ、普段は柔和な表情で人と接し、「敬神」と「和国の風儀」に努める。「私」を抑えることが正しい「政道」につながるととし(註4)、徳の修養が求められていることは基本的に同じことである。

 
 
 又、西尾幹二氏について皇室に敵意を持っているなどとしてののしっているがそんなバカなことはないでしょう。私は一度だけ間近に西尾氏を見たことがある。平成17年1月の通常国会前の皇室典範改正反対のデモで日比谷公園から、外堀通り-常盤橋公園までデモでしたが、けっこう雨が降っていて大変だったんですが解散場所の常磐橋公園に西尾氏がいて車内からマイクで「皆様雨の中大変ご苦労様でした」と声をかけてくれましたよ。だから、皇室を守るために必死にやっておられたと思います。
 さらに『天皇論』を読めだの厚かましい態度はなんなんだ。

2 廃太子の前例でも皇太子の資質が問われたことはある

 歴史上の廃太子とみなされる例8例、この他に、寛仁元年(一〇一七)八月九日摂関家の圧力によって皇太子を辞退した敦明親王(三条皇子)の例、弘仁十四年(823年)四月十八日父淳和天皇から皇太子に指名されたが上表して固辞した恒世親王の例、又、廃太子未遂に終わったが文徳天皇が惟仁親王(のち清和天皇)の皇太子辞譲、惟喬親王立太子を企てたが、左大臣源朝臣信に諫止されたとされる説がある。
 歴史上の廃太子は奈良時代から平安時代の初期と、南北朝時代にみられます。八~九世紀の皇太子は後見となる天皇、上皇、有力貴族を失うと脆かった。皇太子の資質それ自体が問われたケースは、奈良時代の道祖王で、孝謙女帝の侍童との密通等の喪中に相応しくない行状があったケースですが、又、他戸親王廃太子のケースについては、皇太子の資質が問われたわけではないが、異母兄の山部親王(のち桓武天皇)が外戚が渡来系という弱点にもかかわらず、漢学の素養があり武勇にも優れた資質を有力貴族が評価したうえでの擁立とみる事もできるわけです。 

廃太子の前例[括弧内はその背景]

1 道祖王(天武孫、父新田部親王) 天平勝寶九歳(757年)三月二十九日廢[聖武上皇の遺詔により立太子、11か月後に、喪中に相応しくない行状(孝謙女帝の侍童と密通など)があり孝謙女帝が大納言藤原豊成以下に諮問したうえで廃位、のちに橘奈良麻呂の乱に連座し拷問により杖死]

2 他戸親王 (光仁皇子)寶龜三年(772年)五月二十七日廢[皇后井上内親王厭魅呪詛事件により母后の廃后とともに廃位、庶人に貶められる。藤原百川の計略である蓋然性が高いとされる事件。左大臣藤原永手薨去で後見者を失ったことが大きい。幽閉され宝され寶龜六年母と共に急死]

3 早良親王 (光仁皇子)延暦四年(七八五)九月二十八日以降十月八日以前廢[藤原種継暗殺事件に連座して廃位、淡路国配流の途中、無実を訴え絶食し憤死。延暦一九年追尊 崇道天皇。光仁天皇崩御で後見者を失っていた。]

4 高岳親王 (平城皇子)大同五年(810)九月十三日廢[嵯峨天皇の東宮だったが薬子の変で平城上皇の敗北により廃位]

5 恒貞親王 (淳和皇子)承和九年(842年)七月二十三日廢[仁明天皇の正嗣とし皇太子に立てられたのは、仁明が淳和天皇の皇太子であった経緯にもよる。恒貞親王生母皇太后正子内親王が仁明の妹であるから嵯峨の孫、仁明の甥にあたる。恒貞親王伝によると親王と嵯峨上皇・仁明天皇は親交があり対立関係はなかった。嵯峨上皇崩御とほぼ同時に東宮坊帯刀舎人伴健岑の謀反が発覚(承和の変)、当初天皇はひとり伴健岑の凶逆として優答を与え皇太子辞退を許さなかったが、結果的には太皇太后の意向もあって廃位とされた。廃太子詔によると「其事乎波皇太子不知毛在女止‥‥」とされ皇太子が謀反に関わっていないことを明らかにしている。淳和上皇近臣の大納言民部卿藤原愛発、中納言藤原吉野、参議東宮大夫文屋秋津ら60余人の官人が左遷されているが、東宮坊官は右大臣東宮傅源常を除き全員が左遷されており、恒貞親王を支える勢力は一掃された。]

6 康仁親王(後二条孫、父東宮邦良親王) 元弘三年(1333年)六月五日/七日[[元弘の変により、光厳天皇が即位し後伏見院政となったが、東宮は両統迭立の方針で大覚寺統の康仁親王が立てられたが、鎌倉幕府滅亡、後醍醐復辟により廃位]

7 成良親王 (後醍醐皇子)建武三年(1336年)十二月二十三日以降、廢[足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、建武三年に京都に入ると光明天皇が即位し光厳院政がしかれたが、東宮は両統迭立の方針での皇太子として大覚寺統から成良親王が立てられた。しかし後醍醐天皇が吉野に逃れたため廃され、持明院統から興仁親王(のち崇光天皇)が皇太子に立てられた]

8 直仁親王(花園皇子-実は光厳胤子)正平七年(1352年)閏二月二十日事実上廃位[北朝崇光天皇の皇太弟であった。足利尊氏が南朝に降伏したため、観応二年/正平六年十一月七日崇光天皇廃位、光厳院政は停止、神器は接収され、二条良基の関白も停止となった(正平一統)。京都では洞院公賢が左大臣に指名され政務が行われたがこの時点では直仁親王は廃位とされていない。翌正平七年(1352年)閏二月二十日北畠顕能率いる南軍が京都に突入、警戒を怠っていた足利義詮が七条大宮の市街戦で大敗し、三上皇皇太子(光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王)を置き去りにしたまま、近江に敗走したため、南軍が一時京都を占領した。この時点で春宮坊の職員が停止されている(註5)。この後、親王は南軍により光厳・光明・崇光上皇とともに大和賀名生に連れてこられるが、正平七年閏二月二十日の時点が事実上の廃位とみてよいだろう]

 
(註1)有富純也『日本古代国家の支配理念』東京大学出版2009 210頁以下

(註2)増尾伸一郎「孝子〈衣縫造金継女〉伝承考」『史聚』24号1989-12
 関連して戸令二十八の七出・三不去の制も婦人道徳にかかわるものだが、凡そ妻棄てむことは七出の状有るべしとされるのである。子無き。間夫したる妻。舅姑に事へず。心強き妻。ものねたみする妻。盗みする妻。悪疾。であるけれども子無きはさしたる咎にあらずともされている。
 このなかで最も重視したいのが「舅姑に事へず」である。この趣旨からいって現代のフェミニストは伝統的道徳に反逆するものである。夫にも服従しない対等を要求。のみならず舅姑に仕えるのはまっぴらごめん。舅姑と同じ墓に入りたくない。それでいて夫婦別姓導入で法定相続で夫家の家産は分捕りたい。このような我が儘を許すべきではない。
 近世の女子教訓書の代表作『女大学宝箱』(享保元年)には「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁いりを゛帰る″という。わが家にかえるという事なり」とあり、また「女は、我が親の家をば継がず、舅・姑の跡を継ぐゆえに、わが親より舅・姑穂大切に重い、孝行を為すべし」と説かれていた。それが婦人道徳の根幹であるとすれば、夫婦別姓論者の主張は、律令国家以来の1300年の伝統的規範を否定するもので許し難いわけである。
(註3)保立道久『黄金国家』青木書店 2004 94頁~100頁
(註4)野村玄『日本近世国家の確立と天皇』清文堂出版(大阪)2006 57頁以下

(註5)小川剛生『二条良基研究』笠間書院2005 39頁

 
参考 阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ東宮表http://www.geocities.jp/ahmadjan_aqsaqal/touguu/touguu1.html#boutou

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