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カテゴリー「イギリス研究」の17件の記事

2011/12/03

不満の冬と比較すればたいしたことはなかった英国公共部門スト

  イギリスで11月30日年金改革に抗議するため学校、病院、裁判所、交通機関など公共部門の24時間ストがあり、教師・看護婦らがラリーに参加した云々というニュースサイトをいくつか見てみたが、3分の2の学校が閉鎖したと報道されているものの、キャメロン首相は不発に終わった爆竹と表現している。

Read more: http://www.dailymail.co.uk/news/article-2067941/Public-sector-strikes-40-schools-open-ambulance-service-Heathrow-running-like-dream.html

 公共部門のストで最も深刻な影響を与えたのは、近年では1978~79年の「不満の冬」である。ロンドンがごみだらけになるひどいことになった。
 不満の冬についてはこのブログでも解説しているので見てくださいhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/right-to-work-3.html
 当時は労働党政権で、二次的争議行為、大量動員ピケッティング、フライングピケットが制定法で禁止されていなかったので社会が麻痺する事態となった。。サッチャー・メジャー政権ではこれらを違法化したうえ、ストライキに参加しない被用者の権利も定めたこともあり、不満の冬ほどひどくはならない歯止めは一応あるとはいえる。
 

2010/11/08

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(10)完

  前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-0dc7.html

 ワッピング争議におけるストライキの態様は後述する二次的争議行為を除くと、主としてワッピングの新社屋の入構阻止のためのピケッティングと、連日行われた50~200人のデモ、水曜と土曜にワッピング周辺で行われた行進や大集会である。水曜・土曜はスト支援者も含めて700~7000人が参加し、同様の行進と集会が、旧社屋のあるグレイズイン通りとブーブリー通りでも行われた。またピケッティングは新聞のトラックによる配送業務を行っていたTNT運送会社の新聞集配所でも行われた。
 しかし、サン及びタイムズ新聞社が用意周到なスト対策の準備を行っていたこともあり、新聞を休刊に追い込むことはできなかった。警察の介入も早く1月24日のスト開始以前にはすでに関連地域一帯の道路封鎖が許可され、23日にはタイムズ社周囲は車が移動させられ、警官がとり囲んでいた。マスピケッティングやデモの逮捕者はのべ1370名に及んだ。1986年末までに警察の費用は530万ポンドがスト取締に使われ、15万労働日というロンドン警察の3分の2の警察力を投入したのである。炭鉱ストでは警官は通常の制服だったが、完全武装の機動隊やガス弾を発射する騎馬隊が投入された。組合員18万の1984-85年の炭鉱ストが21万3千労働日の警察力投入であったから、組合員6千人の一企業のためになされた警察力の投入としては大きい。厳格なクローズドショップで、労働市場と作業工程を支配していてた印刷工組合を粉砕するサッチャー政権の意気込みのほどがうかがえられる。
 また新聞社がサッチャー政権の労働法改正で免責から除かれた違法争議行為については 素速く提訴し、差止請求を行い、損害賠償をも求めたのもそのストライキの特徴である。
 裁判所も迅速に対応し、差止命令-差止命令拒否-法廷侮辱罪による罰金刑、資産差し押さえというという一連の司法介入により労働組合の戦術は身動きがとれなくなった。
 最終的に半熟練印刷工組合は、大量動員ピケの差止命令に従い、ピケ6人以下に限定する指令を出したが、解雇された組合員はピケをやめようとせず、コントロールを失った。それにもかかわらず、配送のトラックドライバーはピケを振り切ったし、代替労働者はピケ隊の暴言や小競り合いを振り切って就労したので、新聞を休刊に追い込むことなどできず、労働組合は差止命令拒否により成立する法廷侮辱罪による罰金刑の累積と、違法行為をやめない解雇された組合員のコントロール不能で窮地に陥った。ストは1年近く続いたが、損害賠償請求を取り下げるという妥協を引き出しただけで収拾されることとなった。炭鉱ストに続いて労働組合の完全敗北である。【*1】
 このストはコレクティブレッセフェールの終焉を意味する。労働争議に法的に干渉しない、国家は干渉しないという体制ではなくなったのである。マードックは不法行為に対し可能な提訴はたいてい行ったし、争議を収拾するために警察介入、司法介入は当然だという新しい時代の経営者の立場を明確にした。
 ワッピング争議組合敗北の最大の意義は、代替労働者が暴言や小競り合いを振り切り就労し、配送のトラックドライバーがピケを振り切り輸送し新聞の生産と販売を維持したことにある。炭鉱ストは組合の中の反ストライキ派によるスト破りだったが、ワッピング争議でではサウサンプトンで募集した新入社員(非組合員)だったし、配送のドライバーも新規契約の運送会社で組合とのしがらみが少なかったとはいえ、自己の就労する権利を行使したことに、国民からの「スト破り」との非難などなかったのである。労働組合主義や階級的団結という立場からすれば、彼らは裏切り者で卑怯者との悪罵が浴びせられるところだが、そういう価値観はこの争議で否定されたといってよい。むしろ全英平均の二倍の給与を取り、タクシー通勤、ホテル住まいの印刷工組合員こそ国民の反感を買っていたのであった。解雇されても同情しないのである。
 
 組合のとった二次的争議行為と違法ピケッティング戦術は殆ど差止請求が認められた。それはいずれもサッチャー政権での労働立法により可能となったものと考える。
 
1980年雇用法ではピースフルな合法的ピケッティングの権利(1974年法15条)は労働者自身または組合員の就労の場所またはその近くで行われる場合に限定されるものとした。組合員の就労場所以外の事業所や他社で出向いて行われるピケは違法となる。また行為準則(code of  practice)でピケ人数を六人以下に限定している。
また争議当事者たる使用者と取引関係にある使用者に向けられる二次的争議行為に対する不法行為の免責を排除した。(二次的ボイコットともいう)
またウィルソン政権の1974年法では労働争議を「使用者と労働者」もしくは「労働者と労働者」との間の紛争と定義され、「労々争議」、縄張り争議、組合員資格に関する争議も含まれていたが、サッチャー政権の1982年法では「労働者と労働者」の文言を削除し「使用者と労働者」を修正し「労働者とその使用者」とした。これにより「労々争議」は免責から外され、「企業内争議」に限定して免責の範囲とした。
 
   
○卸売業で働く組合員へ新聞販売ボイコット指令

半熟練印刷工組合は、印刷工だけでなく出版関連の多くの職種を含んでいた。これは二次的争議行為であるため、差止命令が出され、命令に従わなかった法廷侮辱罪で2万5千ポンドの罰金が課された。
 
○タイムズ別刷の印刷ボイコット指令

タイムズ紙には教育新聞版があって、ノーサンプトンマーキュリーで印刷されていたが、二次的争議が当たるため差止命令が出された。従わなかった熟練印刷工組合には法廷侮辱罪により2万5千ポンドの罰金刑が課された。

○トラック配送会社事業所のピケッティング

サン及びタイムズ新聞社は、新聞のトラックによる配送業務をTNT運送会社と契約していたが、同社の全国各地の事業所でデモやピケッティングは二次的争議行為であり違法ピケであるので差止命令が出された。財産差し押さえで身動きがとれなくなった半熟練労働組合は、差止命令に従うこととなり、TNT社の事業所でピケッティングをしないこと。いかなる方法であれ、TNT社の被用者、事業所、妨害を行わない指令を組合員に出した。

○通信労働者組合のビンゴカード配達ボイコット

 郵便労働者がワッピング争議支援のため、ザ・サン紙のビンゴカードの配達をボイコットしたが、二次的争議行為であるため差止命令が出された。

○運輸一般労組のピケラインを越えない指令
 

運輸一般労組は、TNT社に雇用されている組合員に対し、ワッピングとグラスゴーでピケラインを越えないように指令したが、これも二次的争議行為であるため差止命令が出された。実際にはほとんどのトラックドライバーは組合の指令に従わず仕事を行った。
   

○熟練印刷工組合と半熟練組合によるワッピングでのピケッティング

労働組合はワッピングの新社屋で印刷された新聞を配送するトラックをはじめ新社屋に出入りする者の入構を大量動員ピケッテイングで封じ込めようとした。これについては新聞社だけでなく配送会社、関連会社より違法ピケッテッングによる不法妨害などの差止を求めて提訴し認められた。また損害賠償請求も併せて行われた。
  召喚令状はTNT社の被用者(トラックドライバー)及びその他の労働者で原告と雇用契約を結んでいる者に対する「雇用契約を破棄せよ」との「脅し」の中止を求め、原告の事業所に物品を供給するのを妨げるために、被告の組合員を「扇動」したり、「脅し」たり「励まし」たり「援助」したり、経済的支援を行うことを一切禁じ、ピケッティングを行う場合にはピケット自身の職場で6人以下の要員で行うことを命じた。
  高等法院の7月31日の差止を認める判決は、「ワッピングにおけるピケッティングと毎日行われるデモはハイウェイの不法妨害であり、被告は公的ニューサンスの責任を問われるべきである。またワッピングでの週2回の行進と大衆集会はコントロールを失った時は不法妨害に当たり、労働者のバス輸送や追加警備の費用のために損害を被った原告は、この責任を被告に問うことができる。また原告の従業員の中にはピケッティングやデモにより深刻な脅迫を受けて離職したものであり、これらの行為は脅迫の不法行為を含んでいる」と判示、「ワッピングでピケッティングに参加しているものは、平和的に情報を得よう、あるいは交換しようとするためにのりみそこにいるのではなく、また、労働の提供をしないようにと説得するためにのみそこにいるともみとめられない。ワッピングでは暴力を伴うピケッティングがおこなわれている」という原告の主張が認められ、ピケッティングに伴う「脅し」(intimidation)や契約違反誘因(Inducement)の存在が認定された。
 裁判官は大量動員ピケッティングに差止め命令を出した。「デモを含みピケットは6人以下とする。ワッピングへの道路上でのピケッティング及びデモの組織の禁止、グレイズイン通りとブーブリー通りの旧社屋前でのピケットも六人以下に限る」としたが、行進と集会については平和的である限りピケッティングとみなさないとした。【*1】
 
 
○大量動員ピケッティング差止命令はどう評価されるべきか

 イギリスにおけるピケッティング規制の範囲であるが、小宮文人はメージャー政権の1992年法(1980以降の雇用法を進展させたもので)のピケッティングについて次のような説明をしている。
 そもそもピケッティングは、コモンロー上、不法行為を構成する。その理由はピケッティングを成功させるためには契約破棄の誘致又は違法手段による営業妨害が必要だからであると述べ、また不法妨害(ニューサンス)、脅迫、不法侵害(トレスパス)に該当する場合がある。
 1992年法220条は次の場合に、ピケッティングを不法行為責任から免責する。つまり、そもそも不法行為だが、次の範囲で制定法で免責という意味での適法性である。1986年の段階でも基本的には同じことである。
 免責される範囲は、「労働争議(219条で規定する範囲に限定)の企図または推進のため、その者の職場またはその付近、その者が失業しており、かつその最後雇用が争議行為に関連して終了せしめられ、または、その終了が争議行為の原因の1つとなった場合には、その元の職場またはその付近、その者がある一定の場所で労働しないか、または、その者が通常労働している場所がピケッティングの参加が不可能な場合には、その者がそこを起点として労働している、あるいは、その者の労働を管理しているなんらかの使用者の不動産において、または、その者が労働組合の幹部である場合は、その者が付き添いかつ代表している組合員の職場または元の職場その付近で、平和に情報を得または伝えあるいは平和的に他人に労働するようまたは労働しないよう説得するだけの目的で参集すること。」【*2】
 より具体的には行為準則で示され、一般に1つの出入り口に6人以上のピケットを置くべきではないとしている。行為準則はそれ自体法的拘束力はないとされる。
 しかし訴訟上考慮されるのであり、炭鉱ストの Thomasv.N.U.M(S.Wales Area)[1985]ICR886(Ch.D1)で行為準則で定められている人数より多いピケットを組織することを差止めた。(ワッピング争議もそれと同じである。)
 違法ピケッティングからの使用者の救済として、使用者は違法なピケッティングが、その不動産の外側で行われたと確信する場合、その行為が1992年法219条および220条の範囲外の場合には、高等法院に差止を求めるか、選択的または一緒に、損害賠償訴訟を行うことができ、さらに、公道を妨害し、人身または財産の危険を生じせしめるときには、警察に訴えることができる。ピケッティングは場合によっては刑事責任を生じさせる。(241条) 
 
 1980年の行為準則が翻訳されているので一部を引用すると次の通りである。
 「平和的に情報を得または伝播し人を説得することは、合法的ピケッティングの唯一の目的である。例えば、暴力的、脅迫的、妨害的行為を伴うピケッティングは違法である。ピケッティング参加者はできるだけ説得的に自己の行為について説明しなければならない。他の者を説明を聞くようににおしとどめ、強制し、自分達が求めている通り行動するよう要求してはなない。人がどうしてもピケットラインを越えようとする場合には、それを認めなければならない。
 何者かに脅威を与えもしくは威嚇し、または何者かが職場に入ることを妨げるピケッティングは刑事罰の対象になる。規則に従わないピケッティングによって、その利益が損なわれる使用者または労働者は、民事上の法的救済を受けることができる。彼はこの行為に責任を有する者を相手どって損害賠償を求めることができるし、裁判所に違法はピケッティングの差止命令を求めることもできる。」【*3】
 またワッピング争議の2年後、サッチャー政権の労働改革の総仕上げとなったた1988年雇用法は、労働組合の団体的権利に対して、組合員個人の権利(自由)を擁護するかたちで裁判所、労働審判所あるいは労働組合関係に関して一定の公的事務を行う認証官等が労働組合の内部事項に国家が介入を行いうる途を大幅に開放しただけでなく、労働組合員により不当に懲戒されない権利が規定された。これは批判者が「スト破りの権利章典scab,s charter」と呼んだものだが労働改革の一つの到達点を示すものである。
 1988年雇用法はストライキを実施しようとする組合が1984年労組法および88年雇用法のの規定している厳しい投票実施要件を適正にクリヤーして多数の賛成を取得し、ストライキに入ろうとするとき、そのストライキに参加することを拒否する組合員がいても、彼らを統制違反として制裁の対象としてはいけないとした。この立法の思想は、そもそもストライキは組合員にとっては収入が減少し、成りゆき次第では職業を失いかねない危険なものである。したがって、それに参加するか、しないかの決定権は労働組合によりも組合員にあると考えるべきである。つまり労働組合の団結する権利よりも個人の自由な決定権が優越的価値をもつものだというものだ。
 イギリスの労働組合は、統制違反の著しい組合員に対してしばしば反則金(1000ポンドぐらい)を課したり組合員の地位に伴う一定の権利や利益の享受を一時的に剥奪し、著しい統制違反に対しては除名処分も行う。もちろん、スト指令が制定法上、労組規約上、あるいはコモンロー上違法とされる場合にはそのストライキに参加したことを理由に制裁できないことは1971年労使関係法以来確率されていた法理であるが、1988年雇用法はストライキがあらゆる点で適法であっても、それへの参加、不参加は個人の自由な決定に委ねられるべきだとしたことである。
 しかもそれだけにはとどまらなかった。①ストライキ指令のみだけでなく、②ストライキの支援、支持行動の指示に従わないこと、③ストライキに反対の表明をしたこと、④ストライキに対する不支持を表明すること、⑤労組役員が労組規約にら違反していると主張し続けること、⑥労働協約に違反したストライキであると主張すること、⑦執行部が法定の投票要件に従ってないと主張することなど19種類の行為を揚げて制裁理由としてはいけないこととした。つまり、指令に反しストライキを途中でやめてスト脱落者を励まし支援しても制裁の対象とならないというものである。【*4】
 なお、1988年雇用法は事前に投票が必要なストライキを「労務の集団的停止」と定義し、任意の職務、時間外労働の禁止もストライキ投票に付さなければならないとしているが、ピケット権というものは「ストライキ」の定義から外れるものとみてよい。制定法がストライキに参加しない権利を擁護しているのであり、この脈絡においても、ピケッティングの態様にはおのづと限界があるとみなしてよい。
 
 以上の保守党政権の制定法による規制は、ブレア政権でも変更されなかった。国民も労働組合の統制より個人の権利自由を支持しているので、政権交代でも替えられなかったとみることができる。
 
 こうしたイギリスのピケッティング対応をどう評価すべきかだが、私は満足できない。その理由は行為準則が「平和的に情報を得または伝播し人を説得することは、合法的ピケッティングの唯一の目的である。」としているが、これは、ダイシーやポロック卿などが悪法と非難し、民事免責と争議権を確立したとされる1906年労働争議法の第二条「単に情報を平和的に獲得ないし伝達する目的でなされるか、あるいは、ある人に労働するか労働を棄てるかを平和的に説得する目的でなされるのであれば、合法的である」【*5 225頁】としているのと同じであることである。
 労働組合の刑事免責を確立したとされる1875年共謀罪・財産保護法第7条ではその者が居住し、労働し、事業を行いもしくは偶然居合せた家屋その他の場所またはそれへの通路を監視または包囲することを禁止したが、但し書きで。
単に情報を授受する目的で他人の居住し、労働し、事業を行いもしくは偶然居合わせた家屋その他の場所またはそれらの通路に待機する(ateend)」ことは「監視・包囲」とみなさない【*6 227頁以下】として、一応ピ-スフルピケッティングを容認したかみえる規定を置いたが、実は平和的説得によるピケッティングを規制しうるものだったのである。
 容認したのは単に情報の授受であるから、ストライキをやっていることを伝達できるが、労務提供をやめるよう説得はできないのである。
 1876年のR.V.Bauld判決は、1875年共謀罪・財産保護法が情報の授受以外に何事も規定しておらず、平和的に他人を説得してストライキに加入せしめるためのピケッティングは犯罪と判示した。【*6 229頁】
 1896年のリヨンズ対ウィルキンス訴訟Lyons V.Wilkins Caseは仕事をしないように人々を説得する目的でなされたピケッティングは、単に情報の取得または交換と見なされないものと考えられるべきで、1875年法に反し違法である」とされたのである。【*5 5頁】この判例によると人を「スト破り」blacklegと 呼ぶことは脅迫行為と考えられている。第七条にあるように、他人に合法的なことをするよう、あるいはしないよう強制する目的で、監視・包囲することは違法行為とされた【*5 129頁】
 平和的説得まで容認している点で、保守党政権の労働改革は本当の意味で1906年法体制を否定してはいない。1906年以前のあり方と比べれば、労働組合に有利な性格を有しているといえるだろう。
 アメリカでも1917年のヒッチマン判決Hitchman Coal & Coke Co. v. Mitchell, 245 U.S. 229  が「ピケ・ラインをはること自体脅迫であり違法である」としている。1921年のアメリカン・スチール・ファンダリーズ対三都市労働評議会判決AMERICAN STEEL FOUNDRIES v. TRI-CITY CENTRAL TRADES COUNCIL, 257 U.S. 184 (1921)「グループでやるピケットの人数が脅迫を構成する。ピケットという言葉そのものが戦争的目的を含んでいて平穏の説得とは両立しがたいのである。」とし、ピケットは工場、事業場の出入口ごと一人に限定されるべく、その一人も悪口、脅迫にわたってはならず、嫌がる者に追随してはならない。また工場などの近くでぶらぶら歩きをしてはならないという判例法が成立した【*7】
 1932年ノリス・ラガーディア法以前のアメリカ・スチール・ファンダリーズ判決つまり1921年のタフト長官(元大統領)による判例がピケットは辛うじて出入り口に1人なら認めるが悪口も許さないものであったから、これとの比較でも6人まで認めるイギリスの行為準則はそれでも労働組合に有利なものといえるのである。
 
 というわけで、私は平和的説得も反対なのであって、決して最善の法改正ではないことを断ったうえで、にも関わらず、先進的立法として評価して良いと思うのは、ワッピング争議でも「脅し」(intimidation)や契約違反誘因(Inducement)があればそれは合法的なものではない歯止めが示された。1980年雇用法行為準則にも
 「暴力的、脅迫的、妨害的行為を伴うピケッティングは違法である。ピケッティング参加者はできるだけ説得的に自己の行為について説明しなければならない。他の者を説明を聞くようににおしとどめ、強制し、自分達が求めている通り行動するよう要求してはなない。人がどうしてもピケットラインを越えようとする場合には、それを認めなければならない。」として、1988年雇用法ではたとえ合法的ストであっても、ビケラインを越える組合員個人の権利を明定したのであるから、他人の権利侵害は否定し、消極的団結(団結否認)権を認めていることは評価してよいのである。
 これが考えられる妥協の最低ラインだろう。つまりイギリスの場合はあくまでも個人の権利の総和としての団結であって、労働組合に組合員や他の労働者の自己決定を否定し、団体行動を強制する全体主義的な威力をもたせないあり方にしている点で健全なあり方と考えるのである。
 翻ってわが国のピケッティングをめぐる状況は、労働省がピケ通達(〈労働関係における不法な実力の行使の防止について〉1954年11月6日)を出して、平和的説得の範囲を越えるピケは違法であると警告していたが、プロレーバー労働法学者が猛反発して平和的説得論は労働者側を敗北させる理論として、実力阻止を認める、説得のため実力阻止を認める、説得の限界を超えたスクラムなどの防衛を認める、階級的団結として強制力を認める等々の非情に悪質な学説が流布された結果、非情に労働組合に有利な解釈が説かれることが多い。
 戦後労働法学批判が十分なされていないことに強い懸念がある。明らかにわが国の労働法制は、。消極的団結権を明定している英米よりもずっと労働組合に有利で左翼的な体制なのである。ここに問題がある。
 しかし憲法28条は労働組合に他人の権利を侵害し強制力をもつ権利を与えているという解釈は疑問であり、私は、英米法の理論を調べた感想からすれば団結というものも個人の権利の総和以上の団体の強制力としてとらえることには反対であり、そのような観点から「ピケット権」のあり方も根本的に見直すべきである考える。民主党菅直人政権が公務員に争議権を含めた、労働基本権付与を政治日程にのせた以上、ピケットの態様は大問題であり、労働協約改定期に公務員が長期ストを構えた場合の危機管理も必要であるから、この点を煮詰めて具体的な提案を行いたい。

   
【*1】家田愛子「ワッピング争議と法的諸問題の検討(1) : 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらした,イギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」名古屋大學法政論集. v.168, 1997, p.105-150  http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/dspace/handle/2237/5752家田愛子「ワッピング争議と法的諸問題の検討(2)完 : 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらした,イギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」名古屋大學法政論集. v.169, 1997, p.153-195 http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/dspace/handle/2237/5761
【*2】小宮文人『現代イギリス雇用法-その歴史的展開と政策的特徴』信山社出版2006年
【*3】小島弘信「海外労働事情 イギリス 雇用法の成立とその周辺-二つの行為準則と労働界の反応を中心として」『日本労働協会雑誌』22巻11号 1980.11
【*4】渡辺章「イギリスの労働法制とその変遷(講苑)」『中央労働時報』804号 1990
【*5】松林高夫『イギリスの鉄道争議と裁判-タフ・ヴェイル判決の労働史』ミネルヴァ書房2005
【*6】片岡曻『英国労働法理論史』有斐閣1952  
【*7】有泉亨「物語労働法第11話レイバー・インジャンクション(2)『法学セミナー』188号 1971

2010/10/31

イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(9)

○ワッピング争議の発端とストライキ参加者即時解雇

 家田愛子論文【*1】に依存するが、ストライキの発端について述べる。
 大衆紙のサン及びニュースオブザワールド(日曜紙)及び高級紙のタイムズ及びサンデータイムズ(日曜紙)を発行するニューズ・インターナショナルは、ロンドン東部ドックランド再開発地区のワッピングに土地を取得、1986年3月から夕刊紙のロンドンポストを創刊する計画を建て、またサン及びニュースオブザワールドの編集印刷も新社屋で行う計画を公表した。これはサンデーテレグラフのスクープで暴露されたためだった。
 
 1985年会社側が提示した創刊紙のロンドンポストの労働協約案は、クローズドショップの廃止、経営者による労働管理、ストライキ参加者の解雇を骨子としており、従来の労働組合による印刷工程の管理、職場支配を否定するものであり、協約締結は難航したが、労働組合はダイレクトインプットを認めるなどの妥協案を示した。しかし現在のニューズインターナショナル社における新聞記者以外の労働者6000人のうち数百人しか必要としない人員計画が明らかになった。組合員はワッピングでサン、ニューオブザワールド、タイムズ、サンデータイムズの朝刊及び日曜紙四紙を印刷できる体制が完備されていることは誰ひとり知らなかったらしい。会社にとって夕刊紙の創刊はさほど重要なことではなく、真の目的がタイムズを含む四紙をダイレクトインプットにより植字工程を省く最新技術による設備を備えた印刷拠点への移転により労働組合を排除することにあることに気づいてなかったようである。
 組合は交渉による状況の打開が望めないしとて、ストライキ賛否投票を行い、半熟練印刷工組合が3534対754、熟練印刷工組合が843対117でストライキ突入が支持された。一方、会社は記者編集者労組に対して年二千ポンドの賃金上積みと私的健康保険の加入を条件にワッピングへの移転の協力を取りつけた。さらに会社は印刷工組合に知られないように、代替労働者の募集を1985年夏からサウサンプトンで行っていた。さらに、運輸関係労組の同情ストを警戒して、鉄道や従来の卸売のルートでないトラックによる配送手段も確保した。ストを見越して周到な準備がなされていたのである。
 こうして1986年1月24日(金)より、半熟練印刷工組合、熟練印刷工組合等がストに突入し、24日はサンもタイムズも印刷できなかった。25日(土)日曜紙の労働者もストに入った。ところが日曜紙のサンデータイムズとニュースオブザワールドは、ワッピングの新社屋で印刷され、配送された。27日(月)のサンとタイムズも新社屋で生産された。ストに突入すれば全紙を停刊に追い込めると楽観していた組合にとって大きな誤算になった。
 ロンドンポスト創刊のための新社屋という触れ込みは罠だったという解説もあるが、罠にはまってストに突入した労働組合の認識が甘かったといえるだろう。
 ストライキに入った記者以外の6000人の労働者は即時解雇された。こうして解雇された労働者6000人と新聞社の争議が開始され一年近くの長期に及ぶこととなった。

 実は、ストライキ中に解雇するのが整理解雇手当を支払わずに済み、もっとも安上がりだったのである。つまり弁護士は会社に対し次のように助言していた。①ストライキは一方的契約破棄にあたり、即時解雇の対象となる。②ストライキ開始前に正式に解雇通知が出されない限り、整理解雇手当の請求権はない。③ストライキ参加者が全員解雇され、選択的再雇用がない限り、不当解雇の訴えが認められない。④唯一の問題は解雇した者がストライキ中であったかどうかであるが、使用者は解雇理由を明らかにしなくてよい。
 
 
 ○イギリスとアメリカの違い
 
 ワッピング争議により、「積極的ストライキ権」のないイギリスの法制においてはストライキ参加者にリスクがあることを浮き彫りにしたといえるだろう。だから問題だと労働組合主義者はいうが、私は反対に優れていると考える。
 アメリカでは1935年全国労働関係法の下で、マッケイルールが知られている。ストライキは不当労働行為ストライキと経済ストライキとに区分されている。前者は全国労使関係法第7条の保護を受ける団体行動に当たり、スト参加者の解雇、懲戒処分は認められないが、後者は恒久的代替者がストライキ中に雇用された場合、スト参加者は恒久代替者を押しのけて職場復帰することはできないというものである。
 連邦最高裁判決NLRB v. Mackay Radio & Telegraph Co. 304 U.S. 333 (1938)  http://caselaw.lp.findlaw.com/scripts/getcase.pl?court=US&vol=304&invol=333は、ストライキ参加者は全国労使関係委員会の保護する「被用者」にあたらないという連邦高裁の判断を覆し、スト参加者も被用者であるとした。
 判旨は① スト参加者も「被用者」に含まれる。
②使用者がストライキ中の事業継続のため代替者を使用することは禁じられない。
③スト代替者の採用にあたり、恒久的雇用を約束することも許される。
④ストライキ終了後、使用者はスト参加者の職を確保するために恒久的代替者を解雇する義務を負わず、恒久的代替によって占められていない空職の人数分しか復帰を認めないことも適法である。
⑤しかし、スト参加者のうち誰を復職させるかの決定について、組合活動を理由とする差別を行うことは許されない。
 ①と⑤が判例の核心で、②~④が傍論だが、②~④をマッケイルールとして定着し現在まで維持されている。
 連邦最高裁判決トランスワールド航空対客室乗務員組合TWA V. FLIGHT ATTENDANTS, 489 U. S. 426 (1989)  http://caselaw.lp.findlaw.com/cgi-bin/getcase.pl?friend=nytimes&court=us&vol=489&page=441は、スト脱落者もマッケイルールの適用を受け、復帰してくるスト参加者より優先することを明らかにした。労働組合はスト脱落者憎しと言っても、たとえ先任権順位がスト参加者が高いとしても、スト脱落者をおしのけて職場に復帰する権利はない。なぜならばタフト・ハートレー法がストに参加しない権利が保障されているからであるとした。またストライキはギャンブルであり、労働組合はその失敗のつけを不参加者に押しつけるなとまで言った。
 この判決はスト参加のリスクを高め、スト脱落者にインセンティブを高めたと労働組合から批判されているが、私は妥当な判決と評価する。
 トランスワールド航空事件とマッケイルール批判の高まりにより下院は1991年に経済的ストライキにおいて恒久的代替労働者の雇用を禁止する法案を通過させたが、上院を通過せず、法改正は失敗している【*2】。この法案が上院を通過するような事態は考えにくいが、もしそうなると、ストライキにおいて労働組合が有利になりすぎる懸念が強く、保守系・自由主義系シンクタンクはこの法案を非難している。
 このようにアメリカでも、ストライキ中に恒久的雇用の代替労働者を雇用しスト参加者が戻ってくる空職を埋めてしまえば、事実上ストライキにより解雇は可能である。しかし、それをやると、労働組合がその企業を敵対視し、労組の支援を受けて当選している議員も黙っていないから、なかなかそこまで踏み込めないだけである。
 しかし、マッケイルールは、ストライキ参加により「被用者」の地位を保持することになっており、「解雇」されるわけではない。空職がある限り優先的に職場復帰することができ、臨時雇用者をそのまま使用することは許されないこととなってるので、労働組合とスト権を保護しているルールなのである。
 シカゴ大学ロースクールのエプステイン教授は労働組合活動を広く法認した1932年ノリス・ラガーディア法以降の労働立法はあくまでも大恐慌という非常時のもので、多くの点で誤りであり、スクラップして、不法行為法と契約法に依拠した賢明なコモンロー制度にとって変わられるベきとする【*3】が、あくまでも、スト参加労働者も「被用者」としたのは1935年のニューディール立法の枠組においてであり、反ニューディールという立場では赤い30年代の労働法を一網打尽に廃止していまうのがもっとも望ましいと私は思う。

 

註1家田愛子「ワッピング争議と法的諸問題の検討(1) : 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらしたイギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」『名古屋大學法政論集』 v.168, 1997, p.105-150 http://hdl.handle.net/2237/5752
註2中窪裕也『アメリカ労働法』第2版弘文堂2010年 154頁以下
註3水町勇一郎『集団の再生-アメリカ労働法制の歴史と理論』有斐閣2005年 120頁

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(8)

 メディア王ルパード・マードック氏のニューズコーポレーションは、イギリスにおいて大衆紙ザ・サン(発行部数約300万部)、高級紙ザ・タイムズ(60万部)、サンデー・タイムズ(180万部)、サンの日曜版のニューズオブザワールド(320万部)、無料紙ロンドンペーパー(50万部)を発行している。
 アメリカでは20世紀フォックス、FOXテレビジョン、ニューヨークポスト、ウォールストリートジャーナルさらに、大リーグのドジャース、SNSのマイスペースなどもニューズコーポレーションの傘下にある。その時価総額は380億ドル、売上高は140億ドルに達しているが、私はマードック氏を尊敬に値する実業家と評価する。
 その第一の理由は1986年イギリスにおけるワッピング争議Wapping dispute(タイムズ、サンデータイムズ、サン、ニュースオブザワールドの四紙を発行するニューズインターナショナル社における新社屋移転をめぐる熟練印刷工組合、半熟練印刷工組合等の5つの印刷関連労働組合のストライキ)でフリート街からワッピングの新社屋へ移転拒否を就業違反として、新聞記者以外の6000人の従業員を解雇し、熟練印刷工労組等を屈服させ労使関係を変革したその実績によるものである。6000人解雇は非情ではない。これができたからこそ、他の新聞社も人員削減と技術革新を可能にした。自社のみならず業界の発展に貢献したのである。ワッピング争議は20世紀最後のドラスティックな労使紛争になった。もちろんそれはサッチャー政権の労使関係・労働組合改革立法の土台のうえで可能だったといえる。炭鉱ストの敗北も踏まえたうえでサッチャー改革を生かしたのである。周到な準備で印刷工労組に立ち向かったのである。それはイギリスの法律がなんたるかを理解していたからこそできたことではないだろうか。やはりマードックは業界を牽引し先見性のある人物として評価できるのである。
 サンやタイムズなどニューズコーポレーション傘下の新聞社ではワッピング争議以来今日まで記者組合以外の労働組合は承認されていない、印刷工関連組合に加わっている者は採用しない反労働組合人事を行っている。このことを高く評価したいのである。
 既に述べたように、1980年雇用法は、団体交渉を支援する制度を廃止した。 労働党政権による1975年雇用保護法は助言・調停・仲裁委員会(ACAS)による労働組合承認(union registration )制度は廃止された。http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/right-to-work-l.htmlイギリスでは使用者が組合に団体交渉の席を認めることを組合承認(registration)というのであるが、政府がこれを経営者に強要させるための制度はなくなったのである。これによって経営者が労働組合を承認するか否かは全く任意であり(元々イギリスはそのようなボランタリズムだった)、組合を否認しても差し支えない、経営権の自由であることが明確になった。サッチャー、メージャー保守党政権下で、労働組合否認が多くなり、もし2010年まで保守党政権が続いていれば労働組合は駆逐される消滅するともいわれたほどである。組合承認の法的手続きはブレア政権の1999年に復活し【*1】、労働組合は存続することとなったが、イギリスではアメリカや日本のような不当労働行為制度はない。日本の制度はそのような意味では労働組合に有利にできている。
 従って、サッチャ-政権時代、新聞社が印刷工組合を承認するか否認するかは経営者の判断である。ロンドン東部のドックランド再開発地区にあるワッピングの新社屋では植字による印刷工程をなくしたハイテク技術で新聞を編集・印刷できる。従って熟練工は不要であり、伝統的に職場を支配しクローズドショップで労働市場を独占していた高コストのクラフトユニオンは全く不要となったのである。
 
 金融の中心地シティーにあるセントポール大聖堂より少し西側の地域をフリート街という。 ここにはかつてフリート監獄があり、フリート街といえば18世紀前半は秘密結婚で有名だった。当時カップルでこの街に行くと四方八方から石炭かつぎあがりの悪質な客引きが寄ってきて、強引に居酒屋などの結婚媒介所に連れて行かれた。その後フリート街といえば新聞街として知られている、しかし1986年のワッピング争議を契機としてガーディアンやデーリーエクスプレスなど新聞各社もフリート街を撤退し、郊外に移り、実質新聞街としてのフリート街は消滅した。ただ在ロンドンメディアの代名詞として使われてはいる。
 なお、ニューズコーポレーションは2008年、22年間印刷の拠点としていたワッピングにも別れを告げ、大ロンドンの北側に隣接するハートフォードシャーのプロックスバーンに世界最大の新聞印刷所を建設して移転し、自社新聞のみならず、デーリーテレグラフも委託により印刷している。http://ukmedia.exblog.jp/8699631/ 

 1980年代イギリスで大規模な警察介入のあったストライキが、3件ある。第一が1984-85年の炭鉱スト、第二が1986年のワッピング争議、第三が1988年のP&Oヨーロッパフェリー争議であるが、炭鉱ストは国営企業であり、政府とアナルコサンディカリスト(スト指導者のキャラクターに特徴があった)の戦いとなったが、ワッピング争議は20世紀最後のドラスティックな労使紛争と評価され、サンやタイムズなどを発行するニューズインターナショナル社という私企業で、熟練印刷工労働組合等を完全に屈服させたことは労使関係のパラダイム転換として、ワッピング争議がより重大であるとも指摘されている。ワッピング争議の詳細についてはネットでも公開されている家田愛子の専論「ワッピング争議と法的諸問題の検討(1) : 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらした,イギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」『名古屋大學法政論集』 v.168, 1997, p.105-150 http://hdl.handle.net/2237/5752「ワッピング争議と法的諸問題の検討(2)完 : 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらした,イギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」『名古屋大學法政論集』 v.169, 1997, p.153-195 http://hdl.handle.net/2237/5761があるのでここでは、その歴史的意義を整理しておくこととする。

(1)タイムズ新聞社(ニューズインターナショナル)は記者組合以外の労働組合を否認し、結果的に印刷工等の労働組合は排除された。人員削減だけでなく従前の制限的労働慣行をなくし技術革新をなしとげた。実質的に労働組合を打倒したことの意義が大きい。

(2)メッセンジャー争議や炭鉱ストでも違法ピケッティングなどの差止訴訟はなされたが、違法争議行為については差止請求-差止命令-命令拒否による法廷侮辱罪-組合資産差し押さえという司法介入が避けられないことがより明確になった。

(3)炭鉱ストでは石炭公社は炭鉱労組に損害賠償請求を提起しなかったが、タイムズ聞社(ニューズインターナショナル)は熟練印刷工労組に提起した。ただし、損害賠償請求を取り下げることで妥協が図られ争議を収拾させた。

(4)労働組合を排除する目的でストライキ中の組合員の解雇がなされ6000人の労働者の首を斬った。既に述べたように1982年雇用法は、労働党政権の1978年雇用保護(統合)法の次の規定「使用者はストライキ参加者の全員を仕事に戻っている労働者とストを継続している者の全員を解雇できるが、選択的解雇は労働審判所の管轄権とする」を廃止し、ストライキ中の選択的解雇をも可能にしていた。http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/right-to-work-2.html、ワッピング争議ではスト参加全員解雇という無難な方を選択したが、解雇はやりやすくなっていた。

 そもそもイギリスでは「積極的ストライキ権」がない。それは1906年労働争議法とそれを確認した1974年労働組合労使関係法による不法行為の免責(起訴されない)という「消極的権利」にすぎないわけである。コモンロー上ストライキは「拒絶的契約違反」とされ【*2】、雇用契約を終了させるという断絶理論が支配的であり、停止理論をとらない。したがってイギリス法上は、予告期間を遵守せずにストライキに参加することが重大な契約違反であり、即時解雇事由になる【*3】。つまりストは「自己解雇」であるから本質的にはリスクを伴う行為だった(ストライキはギャンブル)、だからイギリスでは争議中にストライキ参加者が解雇されるのことは決して珍しいことではなく、むしろ争議のプロセスの一環であり【*2】、争議収拾後職場に復帰することは正確に言うと再雇用なのである。ただ従来は労働組合の力が強く、世論も労働者に同情的だったことから、スト収拾後の職場復帰は暗黙の了解とされていたのであるが、悪しき慣行を破ってこれだけの大量解雇に踏み切ったことを評価したい。

(5)フリート街の熟練・半熟練印刷工組合はクローズドショップの弊害の縮図であり、イギリスの産業の中でも評判が悪く、進歩から取り残されていた(クローズドショップで労働市場を独占しているため、100年前から組合の強力な統制力による制限的労働慣行が行われ、組合内には熟練・半熟練・非熟練で職域が区分されカーストのようなランクが暗黙に存在し、技術革新を阻み古い技術に固執し能率的でない仕事をしながら高い労働条件を維持し、全英平均の2倍の給料を稼ぎ、印刷工はホテルに泊まりタクシー通勤で仕事をやっていた)。ストを支持する世論に乏しく労働組合が孤立したこともストの敗北の要因である。
(6)スト参加者の大量解雇をやってのけた背景として、家田愛子氏が重要な指摘を行っている。「マスピケッティングやデモ隊の群衆の罵倒を振り切ってピケラインを越える労働者が多数いたことも見逃せない。ストライキの代替要員として雇い入れたにしろ、組合のストライキ決定に反して戦列から外れたにせよ、彼らにとっては伝統的な労働組合主義は通用しないものであった。そこにはサッチャー政権下で、「個人の自由」、「選択の自由」を全面に押し出してなされた法改革の必然性がうかがえる」【*2 181頁】。
 社会史的文脈では第6の点がもっとも重要な意義である。これは、サッチャー政権の労使関係改革の仕上げとなった1988年雇用法でストライキに参加しない個人の権利を具体的に明示したことに結実するに至った【*4】。表題の反コレクティビズムの勝利とはこのことである。
 

註1田口典男「ブレア労働政策における組合承認の法的手続きの位置づけ」『Artes liberales』 第70号, (2002)http://hdl.handle.net/10140/2719
註2家田愛子「ワッピング争議と法的諸問題の検討(2)完 : 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらした,イギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」Wapping Dispute and British Labour Laws in 1980's (2)名古屋大學法政論集 169, 153-195, 1997-06-30 【ネット公開】 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000296231
註3山田省三「イギリスにおける一九八二年雇用法の成立」『法学新報』90巻2号
註4渡辺章「イギリスの労働法制とその変遷(講苑)」『 中央労働時報』804号 1990

2010/10/26

イギリスのピケットはやはり6人だけ

 1980雇用法もにおけるピケッティングに関する行為準則http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/right-to-work-l.htmlで、ピケットは6人までとしている。これは今日でも守られているようだ。その証拠となる写真が、中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)のサイトで出てきた。http://www.zenshin.org/blog/2010/03/27-9.html
 2010年3月8日PCS(公務・民間サービス労組)の48時間ストの写真である。ピケを張っているのは6人であることが明らかである。行為準則は「暴力的、脅迫的、妨害的行為を伴うピケッティングは違法である。ピケッティング参加者はできるだけ説得的に自己の行為について説明しなければならない。他の者を説明を聞くようににおしとどめ、強制し、自分達が求めている通り行動するよう要求してはならない。人がどうしてもピケットラインを越えようとする場合には、それを認めなければならない」としている。
 平和的説得に限定され、通過したい人の権利を侵害できないこととしており、6任那以下が合理的人数としているのである。大量動員ピケは警察の介入を招き、民事上の不法行為責任を免れない。

2010/10/24

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(7)

10 ストライキの崩壊

 1984年12月29日それまで石炭備蓄の見込みについて発表を控えていたピーター・ウォーカーエネルギー大臣が「貯炭量は、これからさらに1年間ストが続いても電力制限をする必要が全くないほど十二分ある」と言明した(*1)ことにより、石炭需要が増大する厳寒期までストを継続すれば停電が続出し勝利できるというNAMの目論見は崩れてしまった。早くも1985年1月1日には、南ウェールズの指導者による、スカーギル批判が表面化した。このままではひどい敗北になるという見方だった。南ウェールズNUMは団結の強い左派の牙城であり、スト遂行派圧倒的優勢の地域からの批判は執行部にとって衝撃だった。(*2)
 全国石炭公社はなお、手紙と新聞広告によるスト参加者に対する職場復帰の呼びかけを行ったが、1985年1月半ばには就労者は7万5千に達し、下記のように職場復帰者数は増大していった。
 
  12月29日~1月4日   705人
  1月5日~1月11日   2269人
  1月12日~1月18日  2870人
  1月19日~1月25日  3386人  (*3)
 
 交渉を再開するための予備交渉を再開すると1月21日報じられた。しかし歩み寄りはなかった。1月24日イアン・マクレガー全国石炭公社総裁はスト脱落者の増大を背景として譲歩抜きの終結の道を選択し「石炭公社が非経済的な炭坑と判断した炭坑の閉鎖を認めると組合が文書で明らかにしない限り、いかなる交渉のテーブルにもつかない」という声明を出した。(*4)
 2月1日サッチャー首相は全国石炭公社の経営権を確保しなければならないこと。。非経済炭坑の閉鎖の必要性について組合が文書で同意しなければならないとの石炭公社の要求を強く支持した。(*3)
 2月26日全国石炭公社は2月25日1日としては最大の3600人が職場復帰し就労者は9万1千人になったこと、27日には就労者は50%を越えたと発表した。
 全国ストの賛否投票なくストに突入したが、50%の職場復帰で事実上、これが組合員の賛否を示したこととなり、大勢が決したのである。(*4)
 1985年3月3日NUM全国特別代議員大会がロンドンで開催され、無協定のまま、ストライキを中止し、組織的に職場復帰しようという動議がサウスウェールズNUMから提出され、98対91で可決。3月5日にデモ行進の形で組織的に職場復帰した。(*5)、1984年3月12日から全国ストライキに突入したので、358日(それ以前のヨークシャーにおける部分ストも含めると362日)の長期ストだったが、スト終結にあたって、何の協定も合意もなく組合の敗北である。
 ストが長期に及んだのはサッチャーがストの長期化により労働組合を混乱と分裂に導き、弱体化させる目的があったためだともいわれるが、このストにより政府は1兆2000億円の損失となった。(*6)
 
11.ストライキ敗北の意義

 ただし、全国石炭公社は法的には可能であるのに、民事損害賠償訴訟を提起していない。提訴したのは、就労派の組合員や、ピケッティングで不利益を被った他の業者であった。そこまで追い詰めると、関連産業の同情ストが広がる危険性があったためだと考えられる。それでも1兆2000億円を損しても、NUMを決定的な敗北に追い込んだということで、それ以上の価値のあることだったと私は思う。 
 サッチャー政権は、それまでは譲歩せずにはイギリスでは政治が行われないといわれた労働組合、なかでも最強といわれる全国炭鉱労組NUMと対決して勝利した。労働組合とは正面から戦って政治はできないという「戦後コンセンサス」を破壊したことの意味が大きい。(*7)
 それより重大なことは、田口典男のいうように「団体主義的労使関係からな個別主義的労使関係」へのパラダイム転換の契機となったことである。(*8)
 サッチャー政権の労働政策は、従来の労働政策と異なり、スト規制、ピケット規制、組合登録などの労働組合に対する外部的規制にとどまらず、組合民主主義の推進ののために組合投票の公費支出、組合執行部の選挙などに関する内部的規制によって、労働組合を事実上弱体化させる立法を行った。
 つまり労働組合の団体の力を削いで、組合員個人もしくは非組合員を含む労働者個人の権利を尊重、保護、明文化する立法政策を行った。労働団体による統制より個人の権利、選択の自由を重視する価値観である。
 マスメデイアは就労労働者が何人、スト脱落者が何人ということを、連日のように報道しただけでなく、ピケットラインの暴力行為や、警察の介入に焦点をあてて報道したが、総じて炭鉱ストライキに批判的だった。既に述べたように比較的労働組合に好意的な『ガ-ディアン』ですら、スト賛否投票なく全国ストに突入したことを批判した。
 わが国では、プロレーバーはピケットラインの暴力ないし物理的妨害はストライキ維持のため必要なものとする見解が強くあるが、イギリス人は炭鉱ストの暴力的なピケットラインの報道をみて、スト支持の国民もストライキに批判的な意見を変えていったという。(*9)
 またサッチャー首相は節目、節目で、「ピケラインを突破して戦場に赴く人々の勇気には、心からの賛辞を贈ります。」というようにスト破りの就労派組合員の賛辞を述べ、暴力や脅迫にもめげずにがんばるその家族を励ました。
 労働組合主義からすればスト破りは卑怯者ということになるが、そういう価値観を否定して、就労する個人の権利の尊重を前面に出し、国民もそれを支持したし、労組が暴力と脅迫で組合員を支配することは許さないということを示したことに決定的な意義、パラダイム転換があると私は考える。
 労働立法を知らない人でも、フライングピケット戦術が違法であり、それが悪質なもので、二次ピケや大量動員ピケも違法で警察の介入を招くことは報道により多くの国民が知ったはずだ。そしてそれを政権交代により再び合法化することの愚を学習したと思う。当時の労働党党首キノックですらピケットラインの暴力に批判的になった。
 結果的にこののちブレアの登場で労働党は政策変更し、組合承認制度の廃止など保守党の政策の一部を変更したものの、サッチャー政権の労働立法の根幹部分は改変されなかった。フライングピケや不満の冬でロンドンの町がゴミだけになるのはこりごりということで学習した成果だと私は思う。
 

*1 風間 竜「358日間のイギリス炭鉱ストライキについて 」『経済系』(通号 144) 1985.07
*2早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 126頁以下
*3早川征一郎 前掲書133頁
*4山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年  190頁
*3早川征一郎 前掲書 128頁
*4早川征一郎 前掲書 132~133頁
*5早川征一郎 前掲書 135頁
*6風間 竜 前掲論文
*7梅川・阪野・力久編著『イギリス現代政治史』小堀眞裕 第7章「戦後コンセンサスの破壊 サッチャー政権 一九七九~九年-」ミネルヴァ書房2010年
*8 田口典男『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』ミネルヴァ書房2007年 第3章
*9 田口典男 前掲書 第7章213頁

2010/10/16

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(6)

今回は、1984年7月から12月までの展開を時系列的に記述する。私が強調したいのはストライキ反対就労労働者への脅迫、暴力の問題である。ストライキというのはこれほどの残虐なことが起きるものであること。

(1)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-4385.html
(2)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-6d81.html
(3)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-0f35.html
(4)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-84c6.html
(5) http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-22a0.html

8 夏より10月末の交渉決裂まで

 主として、組合主流派(ストライキ)と就労派との暴力抗争や警察の介入をみていくこととする。
ノッティンガムシャー、ミッドランドなどの4~5万人の炭坑夫ははじめからストライキに参加しなかった。人身攻撃から身を守るための反ストライキ派のオルガナイザー“Silver Birch”(白樺派)が活動していた。Silver Birchは新聞であって反ストライキ派のスポークスマンだったのである。1984年5月25日正式にノッティンガムシャー就労炭鉱労働者委員会を結成し就労派の組織的結集を行っていたが、7月24日には各エリアからの反ストライキ派が結集してストを早く終了させるための秘密集会を開き、ストライキ派を職場復帰させるべく会合を持ち始めた。*1

 1984年7月25日にサッチャー首相は、発電所の石炭備蓄について、スト反対派炭坑夫により操業されているノッティンガムシャーそのほかの炭鉱から供給が続けば1985年6月まで安全だとの極秘情報を得た。ノッティンガムシャーからの供給量が増加すれば発電所の持久力は跳ね上がるとのことだった。サッチャーは石炭輸送さえ止まらなければ有利な形勢と読み、鉄道組合員には賃上げ交渉で譲歩する分断戦略を立てた。
このように4万人が当初から反ストライキ派で警察の介入もあり操業を確保したことと関連産業の同情ストが広がらなかったことはストライキの帰趨に決定的な影響を与えていたのである。
 サッチャーは7月31日下院で次のように演説した。「労働党は、ストライキとあれば、その根拠が何であろうと、一切構わず支援する政党です。とりわけ見逃してはならないのは、わが国の働く人々の真の利益を代表するとしながら、スト中の炭鉱労働者をけしかけて、ストに参加しないほかの労働者を攻撃させるという、自らの主張を完全に汚してしまったことです。」*2
 7月30日サウスウェールズNUMに対し裁判所は5万ポンドの罰金を課した。Richade(Transport)Ltd v.N.U.M(S.Wales Area)これは4月10日にサウスウェールズの運輸業者が違法なピケッティングにより業務を妨害されたとして、提訴し、裁判所は二次的ピケッティングの差止命令を無視したため法廷侮辱罪に問われたためである。組合は罰金を拒否したため、8月16日に裁判所により任命された資産差し押さえ人によりサウスウェールズの組合資産のうち70万7千ポンドを凍結した。*3

 大規模ピケの警察による制圧により、夏場過ぎになると組合活動家の要求不満は、スト不参加者の労働者およびその家族に対する暴力行為の増加という形で表れた。個人や企業への威嚇を中心としたゲリラ戦法に切り替わっていったのである。ノッティンガムシャーは秩序が保たれ平穏になったが、ダービーシャーでは分裂が深く事態が悪化したため、警察が炭鉱労働者の保護に積極的に乗り出し。多数の刑事が脅迫取り締まりに投入され、パトロールも行われた。*2

 8月7日南ウェールズの約1000名が、就労派の拠点であるノッティンガムシャーのシルバーヒル炭坑とハーワース炭坑を襲撃し、就労派炭坑夫200名の自動車を破壊、他に全国石炭公社の輸送車車庫などを襲撃した。
 8月9日南ウェールズの炭坑町で、就労をめざす一炭坑夫モンティー・モルガンの戦闘を宣言した300名のうち7人を逮捕した。
 8月20~24日ダーラムのイージントン炭坑で一炭坑夫の就労を目的とする警察と5日間対峙した。
8月22日南ヨークシャー、アームソープで炭坑夫の就労をめぐり衝突があり、警察はアームソープを包囲した。*4
 8月28日裁判所はヨークシャーのストライキを不法ストとしてヨークシャー地域の組合およびNUMを名宛人とし組合員にスト支援やピケ・ラインを横切ってはならないとのよびかけをおこなうことを禁止する差止命令を出した。これは8月7日にヨークシャーの2人の組合員が白樺派の支援により、支部がストライキ賛否投票なしにストに突入したのは規約違反で不法であるとして提訴を行ったものである。Taylor v.N.U.M(Yorkshire Area)[1984]IRLR445
 裁判所の判断は、ヨークシャー地域のストが「全国スト」の よびかけ以前に開始しているとしても、地域のストは規約違反の「全国スト」の一部に他ならないこと。また、そのストを「地域スト」と見た場合でも、スト権を確立した地域スト投票(1981年)はあまりにも間隔が開き過ぎている」という理由から、ストは「全国スト」としても「地域スト」としても不法であると判断された。NUMは差止命令を無視したので、これは法廷侮辱罪により罰金が課され、組合資産の凍結=差し押さえとなるのは当然の成り行きだった。*5
 9月1日ポートタルボー鉄鋼工場の43時間の座り込みで、南ウェールズの炭坑夫101名を逮捕。
 9月3日ブライトンで開催のTUC大会に向かう5千人の炭坑夫に対し5000人の警官が対峙した。*4
 
 9月に入ってサッチャー首相はダウニング街でスト反対派の「職場復帰を求める労働者の妻の会」のメンバー、家族が脅迫にさらされながら勇敢に闘っていること婦人達に
会見した。それによると炭鉱町の商店街は、就労派労働者の家族には商品を売らないようストライキ派に脅されていること。管理職がNUM側に立って、職場復帰を阻害しているという情報にサッチャーは衝撃を受けたと語っている。*2
 9月11日ノッティンガムシャーの組織が発展して全国就労炭坑夫委員会が結成される。*7

 9月21日南ヨークシャーのモートルビー炭坑で6000名のピケと4時間にわたり衝突、空気銃も発射された。*4
 10月2日労働党大会でキノック党首は警察を非難したが、(ピケットバイオレンスを含む)あらゆる暴力を非難する演説を行った。これは警察の暴力を非難するNUMの立場とはことなっていた。*6
 10月5日全国就労炭坑夫委員会はピケットバイオレンスを告発する25頁のレポートを発表した。*7
 10月10日ヨークシャーの不法スト事件Taylor v.N.U.M(Yorkshire Area)[1984]IRLR445の禁止命令に従わなかった法廷侮辱罪により、NUMに20万ポンド、スカーギル委員長に1万ポンドの罰金が判決された。*2
 10月半ばから11月半ばにかけてヨークシャーでスト破りの就労をめぐって対立。*4
10月25日裁判所はNUMの20万ポンドの罰金支払い拒否により、NUMの全組合資産の凍結を発令した。金額にして1千万7千ポンドであった。もっとも、流動資産のかなりの部分がアイルランドのダブリン、スイス、ルクセンブルクの銀行に避難していたため、凍結が全て成功したわけではないが、組合には打撃となった。*8
 10月28日『サンデータイムズ』がNUMの執行部がリビアのカダフィ大佐に資金援助を求めたと報じた。15万ポンドといわれる。このほかアフガニスタン経由でソ連からも資金提供があった。*2
 10月31日イアン・マクレガー全国石炭公社総裁はアーサー・スカーギルNUM委員長の10時間半に及ぶ交渉を持ったが決裂した。争点は「炭鉱閉鎖をするかどうかは独立した調査機関の調査結果に従う」とするNUMと、「最終的判断は全国石炭公社にある」とするとして合理化を推進しようとするマクレガーの対立だった。*9
 サッチャー政権は「トンネルの終わりのみえない」炭坑ストに妥協を許さない政治的意思を固め、早期解決を模索しなかった。石炭公社幹部も炭坑合理化計画に対して経済的必要性の観点から妥協しなかった。政府・全国石炭公社の妥協しない方針はNUMを追い詰めた。過去の経験から妥協案が出てくるだろうと考えていたNUMとスカーギルの判断が甘かったとされている。*10ナショナルセンターのTUCは仲介に入って妥協も模索されたが、そもそもTUCも労働党もNUMの強硬路線を修正する能力はなかったのである。

9 クリスマスボーナスによる切り崩し攻勢

 11月2日とマクレガー全国石炭公社総裁はこのままではスカーギルといかなる交渉もしないと宣言した。またクリスマスシーズンを最大限活用し、「職場復帰キャンペーン」による切り崩し攻勢を仕掛けた。石炭公社の広報誌をダイレクトメールで送り、11月19日までに職場復帰者には650ポンドのクリスマスボーナスを支給することを発表し、新聞・テレビでも報道された。さらに11月23日には15ポンドの上積みにして11月30日までの職場復帰者へのボーナスを支給するというという奨励策をとった。組合の頭越しに直接組合員に訴える手法はマクレガーらしいやり方でこの手法は評価できる。その成果は、次の通りである。
 
各週別の職場復帰者数
 11月4日~10日    2200人
 11月11日~17日   5019人
 11月18日~24日   5952人
 11月25日~12月1日 2158人
 12月2日~8日      667人
 12月9日~15日     477人
    計        16473人 *11

 なお、11月末の時点で、組合員18万6千人のうち、スト参加者12万3千人に対して就労中の組合員は6万3千人であり、このうち5万人近くは当初からストライキ反対で就労している。従って、1万6千人のスト脱落は決して大きいものではなかった。 しかし、脅迫と暴行という極めて危険な状態、後述するように、死亡事件も起きたように命がけでのもスト破りにもかかわらず、最強の組合とされるNUMで脱落者が続出したことは大きかった。*12
  
 11月5日シェフィールドにおいてNUM特別代議員大会が開かれたが、一人の反対もなくストライキ続行が決定され、戦闘的な強硬路線の継続が確認された。
 全国石炭公社は11月5日過去1日では最高の802人が職場に復帰し、18万人の炭坑労働者のうち、就労者は5万3千人、ストライキ中のものは12万3000人と発表し、この後石炭公社は頻繁に職場復帰者数を発表した。
*13

 11月9日コートンウッド炭坑で一炭坑夫の就労をめぐって対立し、警察がレンガなどによって投石された。*4
 11月12日南ヨークシャーの警察、全国石炭公社等25カ所がガソリン爆弾で襲撃され、45人ガ逮捕された。*14

 11月12~13日 南ウェールズで就労をめぐりピケ隊と警察が衝突、警察は暴動鎮圧装備を使用した。*4
11月12日全国石炭公社はこの日だけで1900人の職場復帰を発表したがロンドン市長の晩餐会でサッチャーは次のように演説した
「政府の立場は揺らぐことはありません。石炭公社はこれ以上譲歩することはできません。日に日に、ストから遠ざかる責任感のあふれた人々の数が増加しています。炭坑労働者は、自分の仕事場に赴く自由を主張しています。他の労働組合も、このストを率いたグループの本質とその真の目的を十分に理解できたでありましょう。これは悲劇的なストではありましたが、成果もありました。仕事を続けた労働者とその家族の勇気と忠誠心は、いつまでも人々の記憶に残るでしょう。‥‥ストライキの中止が、彼らの勝利を意味することになります。」*2
 
 職場復帰の動きに対して、暴力沙汰はいっこうにやむ気配はなかった。それは警察の取り締まりが難しい、坑口から離れた場所で行われる恐喝や暴力行為であった。
 11月23日ヨークシャー出身の、マイケル・フレッチャーと言うスト破りの労働者が、自宅で炭鉱労働者の一群に襲われ殴られ、19名の逮捕者が出た。*2
 
 11月24日西ヨークシャーの15家族が保護を求め、警察が出動。一就労炭坑夫スチュワート・スペンサーの自宅が完全に破壊された。*4 
 11月30日今回のストでもっとも痛ましい事件が起きた。南ウェールズのマーサ-・ヴェイルで、仕事に向かう炭坑夫を乗せたタクシーをめがけて、高速道路の橋の上から3フィートのコンクリートの柱が落とされ、タクシー運転手デーヴィッド・ウィルキーが死亡した。*2 *4 これまで、ピケ隊が2人死亡しているが、今回のストライキで3人目の死者である
 12月13日ナショナルセンターのTUCはピーター・ウォーカーエネルギー相に石炭産業再建計画を提案し、交渉再開と争議解決を模索したが、エネルギー相も石炭公社総裁もTUCの提案に懐疑的であり、17日にTUCは交渉再開を断念した。*15
 12月29日これまで電力予測に触れるのを避けてきたピーター・ウォーカーエネルギー相は、「貯炭量は、これからさらに1年間ストが続いても電力制限をする必要が全くないほど十二分ある」と言明することにより、交渉再開の見通しをつぶした。*2*16
 厳寒期の石炭需要期までストを継続できれば、停電が続発し勝てると踏んでいたNUMの見通しは甘かったのである。

*1早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 99頁以下
*2山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月) http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.htm
*3早川征一郎 前掲書 114頁
*4松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991
*5古川陽二「イギリス炭鉱ストの一断面(外国労働法研究)」『日本労働法学会誌』(通号 69) 1987.05
*6早川征一郎 前掲書 112頁
*7早川征一郎 前掲書 101頁
*8早川征一郎 前掲書 114頁 119頁以下
*9山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年  190頁
*10田口典男『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』ミネルヴァ書房2007年第7章「労使関係のパラダイム転換の契機となった1984-895年炭坑ストの再評価」
*11早川征一郎 前掲書 117頁
*12内藤則邦「イギリスの炭鉱ストライキ」『日本労働協会雑誌 』27(2) 1985.02

*13早川征一郎 前掲書 115頁
*14松村高夫 前掲論文 早川征一郎 前掲書116頁
*15早川征一郎 前掲書 121頁
*16風間 竜「358日間のイギリス炭鉱ストライキについて 」『経済系』(通号 144) 1985.07

2010/09/26

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(5)

前回http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-84c6.html

7 Battle of Orgreave
 
 ストライキは泥沼化し、多くの炭坑夫が当初のような熱意を失い、発電所の持久力はたいしたことはないと言うスカーギルの予想に疑問を抱くようになった。そこでNUMの指導者はピケ手当を増額するとともに非炭鉱労働者までかき集めて、目標を定め、大量のピケ隊をそこに集中してあっといわせる作戦を展開することととなった。〔註1〕
 1984年5月29日南ヨークシャー、シェフィールド郊外にあるオーグリーヴ・コークス工場の貯蔵所から、スカンソープの鉄鋼工場へのロ-リーによるコークス輸送を阻止するピケ隊7000人が集結し、National Reporting Centreにより全国10のカウンティから集められた警官隊8000人と激突、煉瓦や石、投げ矢をはじめ、ありとあらゆる物が警官に向かって投げられ、逮捕者82名、負傷者69名(うち警官41名)。5月30日にも衝突は続いてスカーギル委員長を含む35名が逮捕された。力の激突では装備され訓練されていた警官隊が優位となり、ピケ隊を排除した。〔註2〕

当時の映像
Orgreave-29th May 1984
http://www.youtube.com/watch?v=ZsRmDLD089M
Barton's Britain: Orgreave
http://www.youtube.com/watch?v=AvoDGnSHizs
ECE-5: The Battle of Orgreave: On Re-enactment and Protest
http://www.youtube.com/watch?v=3gRgaXib0Sc:

Miners and police clash at Orgreave
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/may/29/newsid_2494000/2494793.stm

 5月30日サッチャー首相はバンバリーで演説を行った。「昨夜の事件は皆さんもテレビでご覧になったでしょう。いま行われているのは、法の支配に代えて、暴徒による支配を持ち込む行為です。これは絶対に成功させてはなりません。自分の意思に従わない相手を、暴力と脅迫で強要する一派がいますが、彼らは二つの理由で失敗するでしょう。第一には、優秀な警察が控えているからです。警察はよく訓練され、勇敢かつ公平に任務を遂行しています。第二は国民の圧倒的多数は、立派な人格を備え法律を遵守する、尊敬すべき人々であるからです。こうした人々は、法律の順守を望み、威嚇には屈しません。ピケラインを突破して戦場に赴く人々の勇気には、心からの賛辞を贈ります。‥‥法による支配は暴力による支配に、必ず打ち勝ちます」これは、ピケを破って就労する労働者に賛辞を贈ったことで、名演説だと思う。〔註3〕
 6月8日8000名の炭坑夫がロンドンでデモ中、警官隊と衝突100名を逮捕。
 6月15日西ヨークシャーのフェリーブリッジ発電所で、ピケ隊の一人がローリーの車輌に巻き込まれて死亡。
 6月15-16日炭鉱街モールトビーでの2晩の衝突により45名逮捕。うち炭坑夫20名
 6月18日再び、7000~8000人のピケ隊がオーグリーヴにはられて、警官隊と衝突、投石と3台の車が放火され、逮捕者93名、負傷者80名(うち警官28名)。スカーギルも負傷し一晩入院した。警察指揮官が「ひとりの死者も出なかったは奇跡である」と語った。〔註4〕
 5月末から6月のオーグリーヴ攻防戦がピケ隊と警官隊の激突のヤマ場になった。新聞・テレビは3月から連日のようにストの行方を報道していた。警官はよく訓練され勇敢だった。スカーギルのフライングピケットを繰り出す戦術も今回は成功しなかった。

The Battle of Orgreave, June 18 1984 http://www.historicalfilmservices.com/orgreave_account.htm
[PDF] A PHOTO-ESSAY BY JOHN HARRIS臨場感のある写真
http://www.coldtype.net/Assets.07/Essays/0507.MinersFinal.pdf
The iconic Orgreave photograph
http://news.bbc.co.uk/local/sheffield/hi/people_and_places/history/newsid_8217000/8217946.stm

〔註1〕山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月) http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.html
〔註2〕松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991 山崎勇治 前掲論文 早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 93~94頁
〔註3〕山崎勇治 前掲論文
〔註4〕松村高夫 前掲論文

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(4)

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5 鉄鋼労組同情スト拒否、発電所組合同情ストせず

 『ジ・エコノミスト』1984年12月8日号は、もし電力労働者と輸送労働者が固く団結してNUMを支援していれば勝っていただろうと言う〔註1〕。1972年1974年の炭坑ストは関連産業労組の同情ストによって、石炭供給を止め、深刻な電力供給危機をもたらし、大幅な賃上げを勝ち取ったのであり、74年はヒース保守党政権を打倒とした。しかし1984-85ストでは同情ストが広がらなかった。その要因のひとつは1980年雇用法や1982年雇用法で二次的争議行為を免責から排除したことである。従って同情ストはリスクのある行為となっていたことである。
 同情ストは1926年ゼネストの翌年のボールドウィン保守党政権の労働争議労働組合法で違法とされたが、1946年アトリー労働党政権で廃止された。1971年ヒース保守党政権は1971年労使関係法において二次的争議行為を不公正労働行為と規定したがね実効性に乏しく1974年ウィルソン労働党政権によって廃止された。
 しかしサッチャー保守党政権において、1980雇用法によって合法的ピケッティングの権利は労働者自身または組合員の就労の場所またはその近くで行われる場合に限定され、二次的ピケッティングを禁止し、争議当事者たる使用者と取引関係にある使用者に向けられる二次的争議行為に対する不法の免責を排除した。1982年雇用法においては免責の対象となる「労働争議」を「労働者とその使用者」等と規定して、「企業内争議」に限定して免責の範囲の規定したほか、1974年の労働組合労働関係法14条を廃止して1980年法により違法とされた二次的争議行為や二次的ピケッティングは、労働組合により承認されたと認定されれば労働組合は免責を失い、自己の名において差止を課せられ、組合基金から損害賠償を求償されることを明確にした。
 1984年3月29日運輸関係の海員、港湾、トラック、鉄道など6つの労働組合は、炭坑ストを支持し石炭・コークスの輸送をボイコットすることとした。しかしランクアンドファイル、つまり一般組合員の反応は執行部と異なり、必ずしも全面的支持というわけではなかった。〔註2〕とくにトラック運転手組合は、港湾労働者その他による威嚇、妨害を断固としてはねつけた。〔註3〕鉄鋼労組は1980年13週間のストで敗北し、鉄鋼公社は5万人の人員削減が実施され組織は弱体化していたこともあり、コークスが供給されなければ操業不能となり職場を失う危険のある同情ストを拒否、製鉄所に輸送される石炭運搬列車を阻止しようとしたNUMのピケットを妨害し対立姿勢を明確にした。〔註4〕
 鍵を握っていたのが発電所の労働者である。政府は石炭の備蓄を強化していただけでなく、石油への転換も進めていた。原子力発電も14%をしめており、炭坑ストで電力危機に陥った1974年とは状況は異なっていた。
 電力公社は1984年3月末にオランダ、ロッテルダムの重油買いつけで5千万ポンドを使って事態に備えていていることを発表している。
 発電所の労働者に炭坑ストを支援する意思はなく、組合指導者も同情ストに賛成しなかった。
 このように、鉄道や港湾労働者に炭坑スト連帯の動きがあったが、同情ストは拡大しなかった。NUMは9月にナショナルセンターTUCの全面的支持決議支援を取りつけることに成功しているが、その実効性は従来と異なり余りなかったとされている。その理由はTUCや大労組幹部が指示してもランク・アンド・ファイルにはそれだけの指示がとおらなくなった労働運動の現実があった〔註5〕。このことは、もはやイギリスの労働者階級が階級闘争で一枚岩になるような社会ではなくなったし、保守党政権が、組合の集団的権利よりもランク・アンド・ファイルの個別的権利と組合民主主義を強調した労働政策の成果ともいえるだろう。

6 マスメディア報道は政府・石炭公社に好意的

 3月末までにノッティンガムシャーへのフライングピケットは警察の介入に抑えられつつあり、ピケッティングの重点は石炭生産のできる限りの阻止とともに発電所や鉄鋼工場への石炭輸送の阻止に移っていった。サッチャー首相は4月9日議会において、仕事に就くことを希望する炭坑夫を守ることにおいて、警官隊は多大の成果を上げたと述ベた。保守党と大多数のマスコミは、警察介入よりピケッティングバイオレンスを非難した。〔註6〕ピケットラインの暴力行為は報道価値があったし、過去の事例、1974年炭坑スト、1977年グランウィック写真処理工事用ストのピケットから投げられた瓶で警官が負傷した事件、1980年鉄鋼ストに置けるピケットと非組合員の対立なども報道された。マスメディアの多数が政府・石炭公社寄りの報道だったことが1984-85ストの特徴といわれている。〔註7〕また、スカーギル委員長が、炭坑ストが階級闘争であり、資本主義国家を打倒するため法律を超えた行動も容認されると発言したことは、一部の炭坑夫を鼓舞しても、世論は支持していなかった。NUMに同情的なメディアとしては『ガーディアン』が挙げられるが、労働組合寄りの『ガーディアン』ですら、スト突入の3月12日に、勝てるストライキと思えないとして全国投票なしのスト突入に批判的だったのである。〔註8〕

 4月17日セント・ジェームズ広場にあるリビア大使館から発泡がありデモ行進の警備にあたっていた婦人警官が殺された。NUM幹部はストライキの資金援助のためカダフィ大佐と会見までしていたのだ。5月23日石炭公社とNUMの幹部はスト突入以来初めての会合をもったが、石炭公社の説明に対し、スカーギルは埋蔵石炭の枯渇という理由以外の閉山は討議する必要はない。採算性の観点など論外だとまくしたて、閉山計画の全面的撤回以外話し合いには応じないとして決裂した。〔註9〕

〔註1〕中村靖志『現代のイギリス経済』九州大学出版会1999 208頁
〔註2〕田口典男『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』ミネルヴァ書房2007年198頁
〔註3〕山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月) http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.htm
〔註4〕田口典男 前掲書 199頁
〔註5〕元山 健「サッチャー主義--社会民主主義的コーポラティズムの終焉--覚え書き」『奈良教育大学紀要. 人文・社会科学』34(1) 1985.11
〔註6〕早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 93頁
〔註7〕田口典男 前掲書 213頁
〔註8〕早川征一郎 前掲書 90頁
〔註9〕山崎勇治 前掲論文
   

2010/09/20

反コレクティビズムの勝利-イギリス1984-85年炭鉱スト、1986年ワッピング争議における労働組合敗北の歴史的意義について(3)

前回 http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-6d81.html

2 ナショナル・リポーティング・センターの役割

 3月13日にロンドン警視庁のナショナル・リポーティング・センター(NRC)の 機能が再開された。*1NRCは全国の二次的ピケッティング、大量動員ピケッティング(1980年雇用法で違法)を監視する。内務大臣には1964年警察法によって各管区警察の相互援助を行う権限が与えられ、各管区の警察はその10%の警察官をNRCを通じて相互援助することが義務づけられており、*2管区間の協力活動を調整し、フライング・ピケットに対抗する警官隊の派遣・移動を指示する指令本部がNRCである。内務省と密接な連絡をとりながら独自の判断で警官隊を派遣する組織である。
 警察は1981年 に起きた都市暴動を教訓に、必要な準備と訓練が行われていただけでなく、すでに1983年11月のメッセンジャー争議において、出社を望む従業員を数の力で阻止するようなことはさせないという、断固とした態度を示し、ピケ隊が目的地につく前に押し戻し混乱を防いだ実績もあり、*3炭坑ストを迎え撃つ態勢は整っていた。

3 ノッティンガムシャーにおける攻防戦

 反ストライキ派の中心がノッティンガムシャーである。マクレガー石炭公社総裁自身「ストライキ全体の鍵を握るのはノッティンガムシャーとそこの3万1千人の炭坑夫である」 *4と述べたように、ノッティンガムシャーの25の炭抗の石炭産出量は全国の4分の1にあたり、この地域で就業を望む労働者の威嚇を目指す大規模ピケ隊に対し、警察隊を介入ささせ、ここの就労を確保する必要があった。
 事実上の全国ストに突入した3月12日に早くも、既に9日からストに突入しているヨークシャーから、ノッティンガムシャーの反ストライキ派労働者を威嚇し就労を妨害するためのフライングピケット300人が送り込まれ、3月中旬から下旬はノッティンガムシャーにおいてピケット隊と警察隊の衝突が繰り返された。
 3月14日にピケ隊と警察の最初の衝突がノッティンガムシャーのオラートン炭坑で起こった。200名の炭坑夫のうち10名が逮捕され、3人の警官隊が負傷を負った。*5
 ノッティンガムシャーとダービーシャーでストライキ賛否投票がなされる予定となっていた。 *6規約の55%以上に達することは困難であり、否決されれば、NUM主流派にとって不利になるため、ピケッティングは投票の妨害も目的となっていた。投票に向かう労働者がピケ隊によって阻止される恐れがあり、サッチャー首相は働く意思のある労働者を助けること、暴力による脅迫を阻止することを強く訴えた。*7
 3月15日はピケ隊223人を逮捕。ノッティンガムシャーのオラートン炭坑でピケ隊の26歳の労働者が死亡した。死因ははっきりしないが、ピケ隊と警察の衝突のなかで発生した死亡事故だったとの説*8 のほか、就労派を5000人のストライキ派がの取り囲み押し合いになっている時に死亡との説*9がある。まさに死闘である。
 サッチャー側近のレオン・ブリタン内務大臣はピケ隊の人数が限度を超えた場合に押し戻し解散させる権限を含めて必要な権限があること。政府は暴徒に屈する意思はなく、働く権利は守られなれればならないことを国民に訴えたが、*10内務大臣が警察に指示する権限は制約があるため、マイケル・ヘイヴァーズ法務総裁より1980年雇用法行為規範(施行規則)に基づき大量動員ピケを規制し、どのような抗口でも6人を越えてはならないと指示が出された。 *11また、警察の実力行使の権限には判例法(コモン・ロー)に基づき乱闘が十分予想される場合は現場に向かうピケ隊を阻止する権限も含まれることも示された。 *12
 3月16日にノッティンガムシャーの組合員はスト賛否投票を決行した(投票の時だけピケを解除したという説もある) *13反対票が73%であった。17日には中部、北西部、北東部の炭鉱地帯でも投票が行われ、スト反対が圧倒的多数をしめ、投票者総数七万人のうち五万人がスト反対で操業を求めた。 *14
 このことは労-労対立の構図がいっそうクリアになったことを意味する、ノッティンガムシャーなどイングランドミッドランドの炭鉱地帯、ランカシャーでは民主的な手続きを経てストを否決しているにもかかわらず、スト投票も行わずストに突入し、反対派の地域に押しかけ暴力・威嚇・脅迫によって就業を阻もうとするNUM主流派という構図である。
 3月18日に警官隊の大量動員が開始され、3000人の警官隊が、ヨークシャーからのフライングピケットを防ぐためにノッティンガムシャーに派遣された。またケント州の炭坑夫が16台の車でノッティンガムシャーに向かう途中、ダートフォードトンネルで警察にブロックされた。 *1519日までに8000人の警官がノッティンガムシャーの就労保護の警備を行った。ピケ隊1に対し警官3の割合であるので警官隊がピケを抑えるのは時間の問題となった。 *16 
 この時期の労-労抗争について山崎勇治のインタビュー記事によると、4000~5000人のピケ隊が事務所を取り囲み占領したが、1万2000人のスト反対派組合員がピケをはね除けて入坑したという。 *17装備で実力が上回っている警官隊の投入は効果があった。ピケも強化されたが、高速道路等の検問も行われて、ノッティンガムシャーの炭田地帯州内に進入してくるピケ隊を乗せた車輌をブロックし、抵抗いる組合員を逮捕した。
 3月22日にはノッティンガムシャーなどミッドランド(イングランド中央部)の42の炭坑で生産が維持された。 *18
 3月23日警察はノッティンガム全州を包囲し、フライングピケットの同州の出入りは不可能となる。 *19 なおノッティンガムシャーは大阪府より少し大きい面積である。外部から侵入するピケ隊から就労派組合員を守るための警備であった。
 全国197の炭坑のうち3月末の時点で大半の炭坑はスカーギル率いるNUM主流派が掌握していたが、警官隊の大規模介入もあって、ノッティンガムシャーなど重要な炭田地帯の操業を維持することができた。これはスカーギルにとって誤算だったといわれている。

4 ノッティンガムシャーに車で移動中のピケ隊の通行阻止、抵抗した組合員を逮捕する警察権限について
 
 
  英米法学者の戒能通厚は道路遮断、検問によって現場に向かうピケ隊を乗せた車を阻止する警察の権限を批判している *20。ウィキペディアによると戒能通厚は元民主主義科学者協会法律部会理事長ということだが、私はそのように労働組合に好意的な立場には反対なので一言批判しておきたい。
   1984年11月にNUM弁護団は、ピケラインから1.5マイル以上も離れた制止地点で「平和の破壊」breach of the peaceが切迫した状況にあるという理由で、車の進行を阻止し、抵抗した組合員を逮捕した事件で、ノッティンガムシャー警察長官を違法な警備活動として訴えた。Moss V. Mclachlan[1985]IRLR76争点は「切迫したimmitent平和の破壊」が存在したか否かであったが、判決は「暴行が発生する実質的危険」があり、当該場所に「一団の者たちが出現していたというだけで、警官の採った阻止行動は十分に正当化されると判示し、NUM側の「警官には他の場所での経験、またはテレビや新聞で見聞きしたことを考慮する権限はない」という主張を退けた。 *21
    実際には20マイル離れたところでピケ隊を乗せたトラックを阻止した例があり、戒能通厚は平和の破壊がさし迫っているとはいえない状況での道路遮断と非難しているが、私は裁判所の判断で良いと思う。
  ピケラインが暴力的な状況でピケ隊の方に死者も出ていること。山崎勇治氏が当時のノッティンガムシャー組合員ロイ・リンク氏のインタビューを行っているがそれによると、「働きたかった人々に対する暴力が非常にあった。家は攻撃され、家族も攻撃され、人々は入院を余儀なくされた。子供は殴られ、家族も攻撃され、妻は攻撃された。」としている。凄惨なリンチがあった。リンク氏自身、岩が投げ込まれて事務所の机を直撃し壁に穴をあけた。岩に当たっていたら即死だったろうと言っている。 *22
  スト突入まもない時期なので、フライングピケットも「スト破り」憎しで感情も高ぶっているだろうし、殺気だった状況において、彼らが現地に向えば、乱闘が起こす実質的に危険があったとする裁判所の判断で正しいと考える。
  歴史的にみれば労-労抗争で悲惨な出来事は枚挙にいとまない。1825年の国会の特別調査委員会によると、1824年 団結禁止法撤廃のおかげで「多数のストライキがおこり、そしてそれらのストライキには暴力と抑圧が伴った」調査によるとダブリンでは2名が殺された。スターリングシャーのある鉱夫は殴られてほとんど殺されかかった。アイルランドで70~80人が負傷し、そのうち30~40人が頭蓋骨を打ち砕かれた。硫酸をあびせることは、スコットランドでは少なくとも1820年頃からはじまり、多くの人が火傷をうけて、生涯の盲となった。またスコットランドのある炭坑夫組合では組合に五ポンド払うまでは、炭坑夫として働くことを許されないなかった。海員組合の一つも、乗組員がすべて組合員でないと航海しないことを宣言したという *23   ことが報告されている。
   1866年のシェフィールド事件は組合を脱退した労働者が、ストライキされている使用者のところで働いたために、眠っている部屋を火薬で爆破された事件で、警察は1100ポンドの懸賞金をかけて情報を求めたが、この事件は研磨工組合の書記ウィリアム・ブロードヘッドが計画し、実行犯は、組合の基金から200ポンドを支払ったことが明らかになった。   *24。この事件をきっかけとして、世論は労働組合を激しく非難した。
   歴史は繰り返しており、今回ももし、このようなフライングピケットに対する警備がなされないなら、ピケラインの暴力化と迫害でもっと悲惨なことになっていたと考えられるのである。  従って、道路遮断、ピケ隊移動の検問を批判する戒能通厚の見解はスト指令に従わない者は威嚇され脅迫されるのは当然だという労働組合主義思想を前提とするものではないかと私は疑問に思ったのである。
     
   
  私のピケットに対する基本的な考え方は19世紀の尊敬すべきアール卿やプラムウェル判事といった良識的な裁判官の見解の認識と同じであり、つまり労働組合主義は個人の自由に反し、ピケッティング(監視)は恐喝の一形式という認識である。 *25 よって、平和的説得、ピースフルピケッティングであってもそれ自体脅迫であり、あるいは他者の権利を侵害する共謀(コンスピラシー)として違法とすべきであると考える。ピースフルピケッティングであっても本来は共謀法理により犯罪とすべきなのである。
   アール卿は「労働者が団結し他の労働者をその労務から去らしめる場合は、たとえ平和的説得もしくは金銭の供与によってなされたとしても、そして何ら契約違反を生じせしめないとしても、使用者に対する害意をもってなされる限り犯罪である」 *26  と述べている。つまりピケッティングの外形的行為いかんにかかわらず相手方の取引行為や労働力処分を妨害するという害意に基づく共謀でなされている以上犯罪とされるべきなのである。共謀法理が適用されないのは政治家が労働組合に迎合した制定法によるものであって、私は判例法が正しいという考え方である。
  従って私は、1980年雇用法(Employment Act 1980)を優れた立法政策と評価するものの6人以下でのピースフルピケッティングを是認していること自体、最善のものとは考えてない。http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/right-to-work-l.html
  しかし、にもかかわらずEmployment Act 1980の意義を賞賛するのは次の理由である。同法はピケット自身の就労場所またはその付近にピケッティングの対象を制限し、その行為規範(施行規則Code of Practice)において、ピケッティングの区域は、ピケット自身の通常使用出入り口付近に限定し、それ以外の出入り口でのピケッティングや事業所施設の無許可立入は禁止され、民事責任を負うと定め、さらに脅迫的侮辱的言動、暴力的行動、脅迫行為、交通妨害、凶器所持を伴うピケッティングは、刑事上の犯罪とされ、警察官はピケットの人数を制限できるとした。 *27またピケットの人数については6人以下と明記し、制限されるものとしたが、決定的には、交通妨害を犯罪としたことである。我が国の労働組合法では暴力の行使を違法としているが、脅迫・妨害については言及がない。そこに大きな欠陥があるが、イギリスの1980年法の行為準則は、脅迫と妨害を違法とし、大量動員ピケッティング警察で排除できる内容である点で、これで満足はしないが、就労したい労働者にと最低限の権利性が示されたこということである。
  我が国のプロレイバー学者には、スクラムを組んで立ちふさがることを容認する学説もあるわけだか、それに比較すれば交通妨害を犯罪とし、行為規範(施行規則Code of Practice)において他人の干渉されることなく、合理的日常の事業を行う権利の保護。全ての者にピケットラインを越える権利を有すると記されていることで、個人の就労の権利を擁護する方針が明確に示したからである。 *28
   実際、法の趣旨に沿ってサッチャー首相は1984年5月30日にバンバリ-において次のような演説を行った。
    「‥‥自分の意思に従わない相手を、暴力と脅迫で強要する一派がいますが、彼らは二つの理由で失敗するでしょう。第一には、優秀な警察が控えているからです。警察はよく訓練され、勇敢かつ公平に任務を遂行しています。第二は国民の圧倒的多数は、立派な人格を備え法律を遵守する、尊敬すべき人々であるからです。こうした人々は、法律の順守を望み、威嚇には屈しません。ピケラインを突破して戦場に赴く人々の勇気には、心からの賛辞を贈ります。千‥‥法による支配は暴力による支配に、必ず打ち勝ちます」 *29
   サッチャー政権は組合民主主義を推進する立場であるが、ここでは組合民主主義に反するスト指令も当然非難されるべきことだが、端的にスト破りを賞賛したことで価値のある発言である。つまり。労働組合主義者からは「スト破り」と悪罵が投げつけられる、就労派組合員であるが、サッチャー首相は最大級の賛辞を贈ったのである。
   このサッチャー演説はコレクティビズムの終焉と、個人の自由と権利が尊重される時代への転換を意味したことで、私はベルリンの壁崩壊以上の意義をもつ演説として高く評価する。
    要するにパラダイム転換である。サッチャーは規範提示者とになった。スト指令に従わない者は、裏切り者として、暴力や脅迫、迫害におよぶのは当然という、それは労働組合主義の価値観にすぎないのであって、市民法的には、他人に干渉されることなく合理的日常の事業を行う権利があり、当然就労の権利がある、それな正常なあり方であり、その権利を擁護したのがサッチャーの労働法改革であった。
  我が国においても、プロレイバー労働法学者には労働者は労働者階級という集合的人格に吸収されるのであって、個人の自己決定の自由は否定されるべきものだ。スト指令に従うのが労働者階級の倫理であると高説を述べる人がいる。要するに労働者個人の労働力処分の自由を完全に否定して組合の指示に拘束されなければならないという思想、つまりコレクティビズムであるが、それは19世紀~20世紀に流行した一つの特定の思想に価値相対化されるべきであって、この思想は個人の選択の自由、財産権、個人主義と相容れない。またアダム・スミスが、国富論において『各人が自らの労働のうちに有する財産は、他のすべての財産の根源であり、それ故にもっとも神聖であり侵すべからずものである。貧者の親譲りの財産は、彼自身の手の力と才覚に存するのであり、彼がこの力と才覚とを彼が適当と思う方法で隣人に害を与えることなく用いることを妨げるのは、この神聖な財産に対する明らかな侵害である。それは、労働者と、彼を使用しようとする者双方の正しき自由に対する明白な干渉である。[そのような干渉]は、労働者が彼が適当と思うところに従って働くことを妨げるものである』という契約自由の思想と明確に対立するものである。
   私が思うに、利他主義としての集団主義や同胞の結びつきや連帯を、利己主義より美しいという考えからコレクティビズムを正当化するのは過ちである。宗教的、倫理学的な隣人愛とは、私とは全く面識も利害関係もない無関係の他者にする無償の愛、つまりカリタスであって、仲間内での結びつきのことではない。
     サッチャー主義はコレクティビズムを葬り去る、労働法改革(実はメージャー政権でもっと徹底された) を行ったこととしいうことが大きな業績なのである。

*1 早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 91頁
*2松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991
*3山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)
http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.html*4小川晃一『サッチャー主義』木鐸社2005年 118頁
*5 松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991
*6山崎勇治 前掲論文

*7 前掲論文
*8 早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 91頁
*9山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年 
*10 山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)
*11元山 健「サッチャー主義--社会民主主義的コーポラティズムの終焉--覚え書き」『奈良教育大学紀要. 人文・社会科学』34(1) 1985.11

*12山崎勇治 前掲論文
*13山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年 241頁
*14山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)
*15松村高夫 前掲論文
*16松村高夫 前掲論文
*17 山崎 勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年 243頁

*18早川征一郎 前掲書 92頁
*19松村高夫 前掲論文
*20戒能通厚 『土地法のパラドックス-イギリス法研究、歴史と展開』日本評論社2010年「現代イギリス社会と法--炭鉱ストライキを中心として395~396頁
*21古川陽二「イギリス炭鉱ストの一断面(外国労働法研究)」『日本労働法学会誌』(通号 69) 1987.05
*22山崎勇治 前掲書  239頁、241頁。
*23佐藤昭夫『ピケット権の研究』勁草書房1961 135頁
*24浜林正夫『イギリス労働運動史』学習の友社2009年 137頁
*25A.V.ダイシー 清水金二郎訳『法律と世論』法律文化社1972年」 210頁

*26片岡曻『英国労働法理論史』有斐閣1952 198頁 

*27家田愛子「ワッピング争議と法的諸問題の検討(1) 一九八六年タイムズ新聞社争議にもたらした,イギリス八〇年代改正労使関係法の効果の一考察」『名古屋大學法政論集』. v.168, 1997,  141頁   http://hdl.handle.net/2237/5752
 
*28小島弘信「海外労働事情 イギリス 雇用法の成立とその周辺-二つの行為準則と労働界の反応を中心として」『日本労働協会雑誌』22巻11号 1980.11

*29山崎勇治 「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月)73~74頁

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