今回は、1984年7月から12月までの展開を時系列的に記述する。私が強調したいのはストライキ反対就労労働者への脅迫、暴力の問題である。ストライキというのはこれほどの残虐なことが起きるものであること。
(1)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-4385.html
(2)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-6d81.html
(3)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-0f35.html
(4)http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-84c6.html
(5) http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-22a0.html
8 夏より10月末の交渉決裂まで
主として、組合主流派(ストライキ)と就労派との暴力抗争や警察の介入をみていくこととする。
ノッティンガムシャー、ミッドランドなどの4~5万人の炭坑夫ははじめからストライキに参加しなかった。人身攻撃から身を守るための反ストライキ派のオルガナイザー“Silver Birch”(白樺派)が活動していた。Silver Birchは新聞であって反ストライキ派のスポークスマンだったのである。1984年5月25日正式にノッティンガムシャー就労炭鉱労働者委員会を結成し就労派の組織的結集を行っていたが、7月24日には各エリアからの反ストライキ派が結集してストを早く終了させるための秘密集会を開き、ストライキ派を職場復帰させるべく会合を持ち始めた。*1
1984年7月25日にサッチャー首相は、発電所の石炭備蓄について、スト反対派炭坑夫により操業されているノッティンガムシャーそのほかの炭鉱から供給が続けば1985年6月まで安全だとの極秘情報を得た。ノッティンガムシャーからの供給量が増加すれば発電所の持久力は跳ね上がるとのことだった。サッチャーは石炭輸送さえ止まらなければ有利な形勢と読み、鉄道組合員には賃上げ交渉で譲歩する分断戦略を立てた。
このように4万人が当初から反ストライキ派で警察の介入もあり操業を確保したことと関連産業の同情ストが広がらなかったことはストライキの帰趨に決定的な影響を与えていたのである。
サッチャーは7月31日下院で次のように演説した。「労働党は、ストライキとあれば、その根拠が何であろうと、一切構わず支援する政党です。とりわけ見逃してはならないのは、わが国の働く人々の真の利益を代表するとしながら、スト中の炭鉱労働者をけしかけて、ストに参加しないほかの労働者を攻撃させるという、自らの主張を完全に汚してしまったことです。」*2
7月30日サウスウェールズNUMに対し裁判所は5万ポンドの罰金を課した。Richade(Transport)Ltd v.N.U.M(S.Wales Area)これは4月10日にサウスウェールズの運輸業者が違法なピケッティングにより業務を妨害されたとして、提訴し、裁判所は二次的ピケッティングの差止命令を無視したため法廷侮辱罪に問われたためである。組合は罰金を拒否したため、8月16日に裁判所により任命された資産差し押さえ人によりサウスウェールズの組合資産のうち70万7千ポンドを凍結した。*3
大規模ピケの警察による制圧により、夏場過ぎになると組合活動家の要求不満は、スト不参加者の労働者およびその家族に対する暴力行為の増加という形で表れた。個人や企業への威嚇を中心としたゲリラ戦法に切り替わっていったのである。ノッティンガムシャーは秩序が保たれ平穏になったが、ダービーシャーでは分裂が深く事態が悪化したため、警察が炭鉱労働者の保護に積極的に乗り出し。多数の刑事が脅迫取り締まりに投入され、パトロールも行われた。*2
8月7日南ウェールズの約1000名が、就労派の拠点であるノッティンガムシャーのシルバーヒル炭坑とハーワース炭坑を襲撃し、就労派炭坑夫200名の自動車を破壊、他に全国石炭公社の輸送車車庫などを襲撃した。
8月9日南ウェールズの炭坑町で、就労をめざす一炭坑夫モンティー・モルガンの戦闘を宣言した300名のうち7人を逮捕した。
8月20~24日ダーラムのイージントン炭坑で一炭坑夫の就労を目的とする警察と5日間対峙した。
8月22日南ヨークシャー、アームソープで炭坑夫の就労をめぐり衝突があり、警察はアームソープを包囲した。*4
8月28日裁判所はヨークシャーのストライキを不法ストとしてヨークシャー地域の組合およびNUMを名宛人とし組合員にスト支援やピケ・ラインを横切ってはならないとのよびかけをおこなうことを禁止する差止命令を出した。これは8月7日にヨークシャーの2人の組合員が白樺派の支援により、支部がストライキ賛否投票なしにストに突入したのは規約違反で不法であるとして提訴を行ったものである。Taylor v.N.U.M(Yorkshire Area)[1984]IRLR445
裁判所の判断は、ヨークシャー地域のストが「全国スト」の よびかけ以前に開始しているとしても、地域のストは規約違反の「全国スト」の一部に他ならないこと。また、そのストを「地域スト」と見た場合でも、スト権を確立した地域スト投票(1981年)はあまりにも間隔が開き過ぎている」という理由から、ストは「全国スト」としても「地域スト」としても不法であると判断された。NUMは差止命令を無視したので、これは法廷侮辱罪により罰金が課され、組合資産の凍結=差し押さえとなるのは当然の成り行きだった。*5
9月1日ポートタルボー鉄鋼工場の43時間の座り込みで、南ウェールズの炭坑夫101名を逮捕。
9月3日ブライトンで開催のTUC大会に向かう5千人の炭坑夫に対し5000人の警官が対峙した。*4
9月に入ってサッチャー首相はダウニング街でスト反対派の「職場復帰を求める労働者の妻の会」のメンバー、家族が脅迫にさらされながら勇敢に闘っていること婦人達に
会見した。それによると炭鉱町の商店街は、就労派労働者の家族には商品を売らないようストライキ派に脅されていること。管理職がNUM側に立って、職場復帰を阻害しているという情報にサッチャーは衝撃を受けたと語っている。*2
9月11日ノッティンガムシャーの組織が発展して全国就労炭坑夫委員会が結成される。*7
9月21日南ヨークシャーのモートルビー炭坑で6000名のピケと4時間にわたり衝突、空気銃も発射された。*4
10月2日労働党大会でキノック党首は警察を非難したが、(ピケットバイオレンスを含む)あらゆる暴力を非難する演説を行った。これは警察の暴力を非難するNUMの立場とはことなっていた。*6
10月5日全国就労炭坑夫委員会はピケットバイオレンスを告発する25頁のレポートを発表した。*7
10月10日ヨークシャーの不法スト事件Taylor v.N.U.M(Yorkshire Area)[1984]IRLR445の禁止命令に従わなかった法廷侮辱罪により、NUMに20万ポンド、スカーギル委員長に1万ポンドの罰金が判決された。*2
10月半ばから11月半ばにかけてヨークシャーでスト破りの就労をめぐって対立。*4
10月25日裁判所はNUMの20万ポンドの罰金支払い拒否により、NUMの全組合資産の凍結を発令した。金額にして1千万7千ポンドであった。もっとも、流動資産のかなりの部分がアイルランドのダブリン、スイス、ルクセンブルクの銀行に避難していたため、凍結が全て成功したわけではないが、組合には打撃となった。*8
10月28日『サンデータイムズ』がNUMの執行部がリビアのカダフィ大佐に資金援助を求めたと報じた。15万ポンドといわれる。このほかアフガニスタン経由でソ連からも資金提供があった。*2
10月31日イアン・マクレガー全国石炭公社総裁はアーサー・スカーギルNUM委員長の10時間半に及ぶ交渉を持ったが決裂した。争点は「炭鉱閉鎖をするかどうかは独立した調査機関の調査結果に従う」とするNUMと、「最終的判断は全国石炭公社にある」とするとして合理化を推進しようとするマクレガーの対立だった。*9
サッチャー政権は「トンネルの終わりのみえない」炭坑ストに妥協を許さない政治的意思を固め、早期解決を模索しなかった。石炭公社幹部も炭坑合理化計画に対して経済的必要性の観点から妥協しなかった。政府・全国石炭公社の妥協しない方針はNUMを追い詰めた。過去の経験から妥協案が出てくるだろうと考えていたNUMとスカーギルの判断が甘かったとされている。*10ナショナルセンターのTUCは仲介に入って妥協も模索されたが、そもそもTUCも労働党もNUMの強硬路線を修正する能力はなかったのである。
9 クリスマスボーナスによる切り崩し攻勢
11月2日とマクレガー全国石炭公社総裁はこのままではスカーギルといかなる交渉もしないと宣言した。またクリスマスシーズンを最大限活用し、「職場復帰キャンペーン」による切り崩し攻勢を仕掛けた。石炭公社の広報誌をダイレクトメールで送り、11月19日までに職場復帰者には650ポンドのクリスマスボーナスを支給することを発表し、新聞・テレビでも報道された。さらに11月23日には15ポンドの上積みにして11月30日までの職場復帰者へのボーナスを支給するというという奨励策をとった。組合の頭越しに直接組合員に訴える手法はマクレガーらしいやり方でこの手法は評価できる。その成果は、次の通りである。
各週別の職場復帰者数
11月4日~10日 2200人
11月11日~17日 5019人
11月18日~24日 5952人
11月25日~12月1日 2158人
12月2日~8日 667人
12月9日~15日 477人
計 16473人 *11
なお、11月末の時点で、組合員18万6千人のうち、スト参加者12万3千人に対して就労中の組合員は6万3千人であり、このうち5万人近くは当初からストライキ反対で就労している。従って、1万6千人のスト脱落は決して大きいものではなかった。 しかし、脅迫と暴行という極めて危険な状態、後述するように、死亡事件も起きたように命がけでのもスト破りにもかかわらず、最強の組合とされるNUMで脱落者が続出したことは大きかった。*12
11月5日シェフィールドにおいてNUM特別代議員大会が開かれたが、一人の反対もなくストライキ続行が決定され、戦闘的な強硬路線の継続が確認された。
全国石炭公社は11月5日過去1日では最高の802人が職場に復帰し、18万人の炭坑労働者のうち、就労者は5万3千人、ストライキ中のものは12万3000人と発表し、この後石炭公社は頻繁に職場復帰者数を発表した。
*13
11月9日コートンウッド炭坑で一炭坑夫の就労をめぐって対立し、警察がレンガなどによって投石された。*4
11月12日南ヨークシャーの警察、全国石炭公社等25カ所がガソリン爆弾で襲撃され、45人ガ逮捕された。*14
11月12~13日 南ウェールズで就労をめぐりピケ隊と警察が衝突、警察は暴動鎮圧装備を使用した。*4
11月12日全国石炭公社はこの日だけで1900人の職場復帰を発表したがロンドン市長の晩餐会でサッチャーは次のように演説した
「政府の立場は揺らぐことはありません。石炭公社はこれ以上譲歩することはできません。日に日に、ストから遠ざかる責任感のあふれた人々の数が増加しています。炭坑労働者は、自分の仕事場に赴く自由を主張しています。他の労働組合も、このストを率いたグループの本質とその真の目的を十分に理解できたでありましょう。これは悲劇的なストではありましたが、成果もありました。仕事を続けた労働者とその家族の勇気と忠誠心は、いつまでも人々の記憶に残るでしょう。‥‥ストライキの中止が、彼らの勝利を意味することになります。」*2
職場復帰の動きに対して、暴力沙汰はいっこうにやむ気配はなかった。それは警察の取り締まりが難しい、坑口から離れた場所で行われる恐喝や暴力行為であった。
11月23日ヨークシャー出身の、マイケル・フレッチャーと言うスト破りの労働者が、自宅で炭鉱労働者の一群に襲われ殴られ、19名の逮捕者が出た。*2
11月24日西ヨークシャーの15家族が保護を求め、警察が出動。一就労炭坑夫スチュワート・スペンサーの自宅が完全に破壊された。*4
11月30日今回のストでもっとも痛ましい事件が起きた。南ウェールズのマーサ-・ヴェイルで、仕事に向かう炭坑夫を乗せたタクシーをめがけて、高速道路の橋の上から3フィートのコンクリートの柱が落とされ、タクシー運転手デーヴィッド・ウィルキーが死亡した。*2 *4 これまで、ピケ隊が2人死亡しているが、今回のストライキで3人目の死者である
12月13日ナショナルセンターのTUCはピーター・ウォーカーエネルギー相に石炭産業再建計画を提案し、交渉再開と争議解決を模索したが、エネルギー相も石炭公社総裁もTUCの提案に懐疑的であり、17日にTUCは交渉再開を断念した。*15
12月29日これまで電力予測に触れるのを避けてきたピーター・ウォーカーエネルギー相は、「貯炭量は、これからさらに1年間ストが続いても電力制限をする必要が全くないほど十二分ある」と言明することにより、交渉再開の見通しをつぶした。*2*16
厳寒期の石炭需要期までストを継続できれば、停電が続発し勝てると踏んでいたNUMの見通しは甘かったのである。
*1早川征一郎『イギリスの炭鉱争議(1984~85年)』お茶の水書房2010年 99頁以下
*2山崎勇治「サッチャー元首相の『回顧録』に見る炭鉱ストライキ(1984年-85年)」『商経論集』北九州市立大学第42巻2・3・4合併号(2007年3月) http://www.kitakyu-u.ac.jp/gkj/2007_sr42_2-4.htm
*3早川征一郎 前掲書 114頁
*4松村高夫「イギリス炭坑ストにみる警備・弾圧態勢(1984-85年)」『大原社会問題研究所雑誌』通号390 1991
*5古川陽二「イギリス炭鉱ストの一断面(外国労働法研究)」『日本労働法学会誌』(通号 69) 1987.05
*6早川征一郎 前掲書 112頁
*7早川征一郎 前掲書 101頁
*8早川征一郎 前掲書 114頁 119頁以下
*9山崎勇治『石炭で栄え滅んだ大英帝国-産業革命からサッチャー改革まで-』ミネルヴァ書房2008年 190頁
*10田口典男『イギリス労使関係のパラダイム転換と労働政策』ミネルヴァ書房2007年第7章「労使関係のパラダイム転換の契機となった1984-895年炭坑ストの再評価」
*11早川征一郎 前掲書 117頁
*12内藤則邦「イギリスの炭鉱ストライキ」『日本労働協会雑誌 』27(2) 1985.02
*13早川征一郎 前掲書 115頁
*14松村高夫 前掲論文 早川征一郎 前掲書116頁
*15早川征一郎 前掲書 121頁
*16風間 竜「358日間のイギリス炭鉱ストライキについて 」『経済系』(通号 144) 1985.07
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