意見具申
伏見宮御一流(旧皇族)男系男子を当主とする宮家を再興させるべき 伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒について(その一)
これは「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議で議論されている事柄についての筆者の意見である
目次
第1章 はじめに..令制皇親制度の変容と伏見宮家が550年天皇家と併存してきた意義... 2
第1節 継嗣令皇兄弟条の原意と男系継承について... 4
第2節 皇親の待遇(古代)... 5
第3節 親王位の9世紀における変容... 6
第4節 13~14世紀における親王位の変容... 6
第5節 14~16世紀における親王宣下の意義... 8
第6節 皇室も限嗣単独相続となる... 9
第1項 天皇家(皇統嫡系=後光厳院流)... 9
第2項 伏見宮... 10
第3項 木寺宮... 12
第4項 常磐井宮... 13
第7節 応永26年(1419)後二条五世王親王宣下の画期的意義... 13
第8節 猶子による親子関係の擬制について... 14
第9節 伏見宮は永続が約されている由緒が複数以上ある... 16
第1項 伏見宮は後小松上皇より室町院領の「永代」安堵の勅裁を得ている... 16
第2項 『椿葉記』(永享5年1433)は伏見宮を世襲親王家とする構想を示す... 17
第3項 康正2年(1456)「永世伏見殿御所」号勅許の所伝について... 17
第10節 伏見宮邦房親王と近衛龍山は横並びの序列だった... 20
第11節 近世四親王家で実系相続で一貫しているの伏見宮だけ... 21
第12節 世襲親王家の否定的評価は公正なものではない... 22
第13節 片山哲首相の皇籍離脱の理由を絶対視するのは間違い... 23
第2章 有識者会議の設問に対する私の見解... 24
第1節 問4 男系男子に限定していること、女性皇族が婚姻に伴い皇族の身分を離れる制度の意義 25
第1項 皇室典範が男系男子に限り、女子を排除しているのは論理的に分析すると「夫帝優先の原則」によるもので妥当である 25
第2項 英国王室の模倣はありえない... 31
第3項 内親王・女王が、天皇、皇族以外と結婚する場合皇族の身分を離れる制度は維持すべきで変更に反対 32
第4項 夫が世にある限り女性当主はない家族慣行を否定する文化破壊... 34
第2節 問5 女性天皇を認めるか... 35
第3節 問6 女系継承を認めるか... 36
第1項 男系継承は歴史的に一貫している... 36
第2項 異姓簒奪を合法化するのでありえな... 36
第3項 男帝優先原則に反する... 36
第4項 旧皇族の伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を無視している... 37
第4節 問7 女性宮家を認めるか... 37
第1項 内親王の本来的性格を無視している... 37
第2項 女性宮家は、右大臣藤原師輔も、太政大臣藤原公季、太政大臣藤原為光を皇族にしてしまうので、歴史の常識が否定されてしまう。... 37
第3項 夫が世にある限り女性当主はない家族慣行を否定する文化破壊... 38
第4項 幕末の淑子内親王の桂宮相続は女性宮家の先例とはいえない... 38
第5節 問9 皇統に属する男系の男⼦を皇族にすることについて... 39
第1項 現⾏の皇室典範により皇族には認められていない養⼦縁組を可能とすること... 39
第5項 皇統に属する男系の男⼦を現在の皇族と別に新たに皇族とすること。... 40
第6節 問10その他安定的な皇位継承確保のためのアイデア... 42
第1章 はじめに
令制皇親制度の変容と伏見宮家が550年天皇家と併存してきた意義
筆者は旧皇族(伏見宮御一流)の宮家の再興、養嗣子ではなく独立した当主として復籍するあり方が望ましいと見解で、令制の皇親制度と、中世以降の変容、世襲親王家成立の意義等について概略を述べ、近代皇室典範と11宮家皇籍離脱の何が問題だったかについて時系列に説示する。
(要旨)
報道によれば有識者会議の4月21日のヒアリングに呼ばれた古川隆久教授が「旧宮家の皇籍復帰は好ましくない。今の天皇ご一家とは非常に離れた血筋だ」(産経2021・4・21)との見解を述べたとされていますが、このようなネガティブな評価は間違っており、皇統上格別の由緒により復籍の正当性があるだけでなく、応永23年(1416)後小松上皇による室町院領「永代」安堵の勅裁や、康正2年(1456)の後花園天皇による「永世伏見殿御所」号勅許の所伝等により永続が約されてといたと解釈できるので皇籍復帰の権利性すらあるという意見を具申いたします。
昭和22年(1947)に昭和天皇と大正天皇の直宮三方を守るために、皇籍を離脱したとされる11宮家は、実系ではすべて崇光14世王の伏見宮20代・23代邦家親王の御子孫であり、伏見宮御一流である。
崇光院流=伏見宮は『椿葉記』にある「後深草院以来、正嫡にてまします」嫡流を引き、歴史上2例しかない非登極皇族の太上天皇尊号宣下を拝受した後崇光院の例など、皇統上の格別の由緒があり、永続も約されていたとする由緒もある。
伏見宮家所伝の「永世伏見殿御所」号勅許は、裏付ける史料がないため慎重に扱うが、近年これを伏見宮家の永続を約したものとして積極的に評価する歴史家が多くなっているのは、当時世襲親王家を伏見宮に限り公認する客観的条件が整っていたことから、仮に所伝を史実と確定できないとしても、伏見宮家が、天皇家と血縁的に疎隔しても宮家としてのステイタスは劣化せず、皇族からフェードアウトすることもない自立した世襲親王家という特別のステイタスを獲得していたことはまぎれもない史実と言って差し支えないのである。
ゆえに第3代の後崇光院太上天皇(貞成親王)以来第22・24代貞愛親王(崇光15世王・内大臣・元帥陸軍大将)まで、歴代当主は親王宣下を受けている。
明治22年の皇室典範で天皇の猶子として皇子に准じた礼遇を受ける世襲親王制度は廃止され、第25代伏見宮博恭王(元帥海軍大将・軍令部総長)以降、伏見宮は王号を称するが、昭和22年に第26代第博明王(崇光18世王)が皇籍を離脱するまで、統祖崇光崩御より約550年、しかも他流を交えず(例外17代貞行親王)、実系継承で皇族の崇班を継承した意義は甚大である。
にもかかわらず皇籍離脱したときに伏見宮の由緒が全く顧みられなかったのは、明治44年以降、南朝が正統とされ、光厳・崇光が歴代天皇から外された影響が大きい。伏見宮は嫡流を引いているといっても、『神皇正統記』では偽主とされる光厳院の皇統であり、しかも伏見宮の統の祖といえる崇光上皇は、南朝軍に拉致されて子孫の皇位継承を断念する起請文を書かされている。もちろん虜囚の身で窮余認めたのであって、その効力は否定できるが、戦前において支配的だった国民の南朝忠臣賛美と、伏見宮系皇族とはイデオロギー的に結びつかない捻じれがあったのである
しかし今日では皇国史観にとらわれる理由はなく、近年は室町時代ブームで伏見宮の由緒に関する研究でも大きな進展がみられ、公正で実証主義的な史学にもとづいて現代的見地から、第3章(未登載)で述べる伏見宮の由緒を重んじ再評価していくならば、当然、安定的な皇位継承のために、旧皇族の復籍が妥当という結論である。
なお旧皇族の復籍という場合、男系男子の方々を独立した宮家の当主として宮家を再興していただくことを基本とすべきで、現存宮家の養嗣子に限定する案には反対します。このことは第2章で述べます。
第1節 継嗣令皇兄弟条の原意と男系継承について
養老律令(天平宝字元年757施行)の継嗣令皇兄弟条「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親王と為よ。〔女帝の子も亦同じ。〕以外は並に諸王と為よ。親王より五世は、王の名得たりと雖も、皇親の限りにあらず」 [『律令』, 1976]。
その意味は天皇(女帝を含む)の皇兄弟(皇姉妹をふくむ)および天皇から数えて四世(皇子・皇孫・皇曾孫・皇玄孫)までの男女を皇親とし、そのうち皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とし、それ以外を諸王(王・女王)とし、五世は王・女王を称することをえても、皇親には入れない。但し五・六世王は皇親と同じく不課の特典あり、七世王は揺が免じられ、皇親の特権特典は徐々にフェードアウトする制度設計になっていた [藤木邦彦, 1991]。
親王号、王号を称する皇親とは、父系で天皇に繋がる。父系帰属主義であることはいうまでもない。
中国において春秋時代に「王」とは最高の君主を意味したが、戦国時代に有力な諸侯が「王」を自称したので地位が相対化した。漢王朝においては帝室一族は「王」号を称しうるが、外夷の君長にも「王」号が与えられた。それゆえ、中国では「王」は皇帝によってあたえられる最高の爵位となり、我が国とは意味が違っている [西嶋定生, 1999]。
吉田孝 [『歴史のなかの天皇』 , 2006]が唐制との違いを説明している。
「唐制では『王・公・侯・伯・子・男』の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の『王』(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである。但し、『王』族の急増をもたらした。その結果、『賜姓』による臣籍降下が日常化し、『王』も『姓』の一種とみなされるようになる。」。
以下の言辞は皇位の男系継承を裏付けるともいえる。
花園上皇の『誡太子書』に「 吾朝は皇胤一統なり」」 「異姓簒奪の恐無し」とある。洞院満季が後小松上皇の勅命を奉じ撰進した皇室の系図か『本朝皇胤紹運録』というように、皇位継承資格者は皇胤(男系)である。
同趣旨の見解として『愚管抄』巻七に「日本ノ国ノナライハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国」「コノ日本国ハ、初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノマゝニテイカナル事イデクレドモ、ケフマデタガハズ‥‥」 [村井章介, 2005] 。神武天皇より王胤によって皇位が継承されてきた。自明の事柄である。
『神皇正統記』は、「唯我国のみ天地ひらけし初より、今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓のなかにをきても、をのずと傍より伝給しすら、猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。」という。
吉田定房奏状には「異朝は紹運の躰頗る中興多し。蓋し是れ異姓更に出ずる故のみ。本朝の刹利天祚一種なるが故に、陵遅日に甚だしく、中興期なし」 [村井章介, 2005] とある。異姓に帝位が継承されない天祚一種が日本であるとする。
それゆえわが国の皇親とは、女系を排除した親族概念である宗、ローマ法のアグナチオに類比できる。ただし中国の宗法制度のような外婚制や昭穆制をともなわない。
比較文化的にいうと男系継承についてはサリカ法のフランス王権の方が徹底している。フランスは女王や女子相続は不可。我が国は女帝が歴史上存在し、院政期より鎌倉時代において非婚内親王(女院)が膨大な御願寺領(皇室領荘園群)の本所であったことから、サリカ法との相違点がある。。
フランス王権はユーグ・カペーの989年の即位から、男系継承で、復古王政のブルボン朝最後のフランス王シャルル10世(在位1824~30)まで一貫しているのだ。七月王政のルイ・フィリップ(在位1830~48)もオルレアン家という傍系だが、カペーの系譜につながるという [福井憲彦, 2019]。
カペー朝は直系男子に恵まれ、15代341年続き、カペー朝の奇跡といわれる。続くヴァロア朝は傍系の男系男子で、1374年シャルル5世のヴァンセンヌ勅令で男系継承の王位継承法を成文化した。これはゲルマン部族法典のサリカ法典で「ただ土地に関しては、いかなる相続財産も女に帰属するべはきではなく、全ての土地は兄弟たる男なる性に帰属すべし」を法源としている。ヴァロア朝はアンリ3世で途絶したため、1589年に末流のブルボン公家の分家でヴァンドーム伯家(後に公家)のアンリ4世が即位したが、十代遡ってカペー朝に繋がる傍系である。当時の人々はヴァロア朝が絶えた時は、ブルボン公家が王位に就くときちんと認識していたため混乱することはなかった [佐藤賢一, 2014]。
フランス王権は単婚婚姻非解消主義の文化圏でありながら、欧州では血縁との疎隔によって王位継承権を失うものではないので、男系継承でも約一千年間、王位継承者が枯渇していない。
第2節 皇親の待遇(古代)
位階は親王は一品から四品の品位、諸王は一位から五位。親王は格別で諸王は礼遇では劣る。
皇親には多額の田地や禄が支給され、親王の品田は一品に80町、二品60町、三品50町、四品40町、食封は親王一品に800戸、二品600戸、四品300戸で内親王は半減である。このほか時服、有品親王に月料などの特典があり、皇親が官職につくと官職に応じて職田、食封、季禄などがつく
親王は令制では特に、文学・家令・扶・従の職員が附く。文学は経書を教授する教育係で内親王には附かない。このほか帳内(近侍して雑用に当たる者)が、一品親王なら160人、品位によって差がある。
貞観5年(862)に二世から四世に至る諸王の数は5600人、夏冬の時服料を賜う人数が400余人とされ、季禄は4分の1減じられた。[藤木邦彦, 1991]。貞観12年(870年)、豊前王の建議をいれて、王氏で禄を賜う者を429人に限定した。
とはいえ九世紀末には位禄、王禄、時服、月料等財源不足となっていた。藤原冬緒による財政改革にもかかわらず、王禄の財源不足は解消しない [西別府元日, 2002]。季禄や節禄は10世紀中葉に崩壊 [吉川真司, 1998]、12世紀初頭には、太政官の受領監察制度が形骸化して、位禄も支給されなくなり [佐々木宗雄, 1994]、令制の収取体系は崩壊した。
第3節 親王位の9世紀における変容
親王宣下の初例は傍系から皇位を継承したケース、天平宝字3年(759)、淳仁天皇の兄弟、池田王と船王の親王格上げである。これは継嗣令皇兄弟条の規定どおりである。
皇子でありながら臣籍降下した初例は光仁皇子広根朝臣諸勝で、次いで桓武皇子の長岡朝臣岡成と良峯朝臣安世であるが、母はいずれも女嬬(堂上の掃除、灯油等の雑仕)だった。。
嵯峨朝以降親王宣下制が通例となった。親王宣下の範疇は明瞭ではないが、生母が后妃や女御所生の皇子等に限定される傾向になり、嵯峨皇子の場合母が卑姓氏族の場合は賜姓により臣籍降下している。
嵯峨天皇(在位809~823)の皇子
仁明天皇(正良親王) 御生母 皇后橘嘉智子
秀良親王(二品) 皇后橘嘉智子
業良親王 妃高津内親王
基良親王 女御百済王貴命
忠良親王 女御百済王貴命
源信(左大臣) 母広井弟名女
源弘(大納言) 母上毛野氏
源常(左大臣) 母飯高岳足女
源寛(宮内卿) 母安倍楊津女
源明(参議) 母飯高岳足女
源定(大納言) 母尚侍百済王慶命 淳和猶子
源融(左大臣) 母大原全子
以下11名略
宣下を必要とせずに生得的に親王位を規定した継嗣令皇兄弟条は変質した。嫡庶男女を問わずすべて皇子女は親王という制度では財政上支えきれず修正されたという見方でよいと思う。
第4節 13~14世紀における親王位の変容
院政期以降、土地制度が荘園公領制に移行し、皇子の多くは入寺得度し法親王あるいは入道親王となった。梶井、青蓮院、妙法院等の山門や門跡寺院には多くの所領が付随しており、門主は国家的な法会、修法に参仕し、天皇や将軍の護持僧として身近に侍することにより、ミウチとして天皇を囲繞する存在であった [松薗斉, 2010]。僧籍であっても宮と称され皇族であることに変わりはない。皇族が入寺し門跡となれば子孫を残すことはできないから、皇親は減少傾向になる。
13~14世紀において親王位の授与は治天の君の権限であり、皇族個人一代限りの授与である。庶流の皇族の身位は、治天の意向次第でコントロールされる立場にあり、中世の宮家といっても、永続したのは14世紀末から15世紀初期に持明院統皇統嫡流天皇家であった崇光院流が主要所領を政治的に優位にあった庶流天皇家(後光厳院流)に没収されるも、代替所領を永代安堵されて宮家としての家領が成立し、その後、後花園より特別の厚意により実父(ただし傍親という名目で)に太上天皇親王宣下があり、永続が約されたとされる伏見宮だけであり、それ以外の皇統は最終的には子孫は出家して消えていった。
従って13~14世紀に関していうと、在俗親王は、皇位継承予定者か、有力な皇子、所領を相続できる皇子(例えば宣陽門院の猶子となって長講堂領の相続が見込めた雅成親王)、嫡流としての由緒があり格式があり、皇位を競望した経緯がある事例(常磐井宮)、鎌倉将軍などに限られると概括できる。。
在俗親王は皇位継承者御一方という限嗣単独相続で、他の皇子はすべて入寺得度した典型的な事例として、後光厳天皇の皇子を以下例示する。
後光厳天皇(在位1352~1371)の皇子
後円融天皇(緒仁親王) 御生母 紀仲子(崇賢門院)
亮仁法親王 (妙法院) 右衛門佐
行助入道親王(円満院)二品
覚叡入道親王(梶井) 左京大夫局
永助入道親王(仁和寺)一品 紀仲子(崇賢門院)
堯仁法親王 (妙法院)二品
道円入道親王(青蓮院) 伯耆局
覚増法親王 (聖護院)
寛守法親王 (上乗院)
明承法親王 (梶井)
聖助法親王 (本覚院)
堯性法親王 (妙法院)
道寛内親王 (大覚寺)
二世王(天皇の孫)の親王宣下の初例は、寛仁3年(1019年)三条二世王の敦貞親王であるが、父小一条院敦明親王は、前皇太子で上皇に准じた院号宣下を受けているので特例とはいえない。
実質的な二世王親王宣下の初例は、弘安10年(1287)後嵯峨二世王鎌倉7代将軍源惟康の親王宣下で、これは平頼綱執政下の幕府の要請による。14世紀には後深草二世王や、光厳の皇太子康仁親王(後二条二世王)、その弟の邦世親王のほか、常磐井宮二世王の法親王などを含めると多くの例があるといえる。
14世紀において三世王(天皇の曽孫)の親王宣下は例外的で、初例は文保 3(1319)順徳三世王の源忠房である。母方が二条家のため関白二条兼基の猶子として摂関家の子弟と同様に権中納言に昇進したところで辞し、後宇多上皇の猶子として親王宣下されており [松薗斉, 2010] 、この事例は平安時代は母が摂関系の皇子は親王宣下が通例だったことをふまえており、不自然とはいえない。
亀山三世王常磐井宮満仁王は後光厳天皇の猶子とされたが、後光厳院宸記によれば三世王の立親王は原則禁止ゆえ、親王宣下の要望は拒否された [松薗斉, 2010]。しかし満仁王は足利義満に愛妾(小少将)を贈って取入ったことが功を奏し(『後愚昧記』) [小川剛生, 2005]、後円融の治世の応安元年(1381)に親王宣下を受けた。
第5節 14~16世紀における親王宣下の意義
在俗の親王の親王宣下で重要なのは勅別当の補任と家政機関が組織されることにある。親王家の格式は中世まで維持された。平安中期以後になると、摂関家のように別当・家司が附属する親王庁が組織された。『江家次第』によれば公卿のうちから勅別当が指名され、その指示で本所の儀が執行され、家司・御監・職事・侍者・蔵人が補されるならわしであり、応安元年(1368)の栄仁親王(崇光皇子、伏見宮初代)までは、親王庁の構成員を任命する儀が行われていた。従って、中世まで、親王家とは廷臣を伺候させ、家礼を従える権門であった [小川剛生, 2009]。
従って中世の親王家は、幕府によって旗本クラスの知行を充行されて存続した近世の世襲親王家より格式ははるかに高い。
応永32年(1425)崇光二世王貞成王は後小松上皇の御猶子として親王宣下を受けたが、勅別当に三条西公保が補された。伏見宮家の場合は先代から引き継いだ家司等がいたので、特に本所の儀は必要なかったと考えられている。
伏見宮家は小規模ながらも廷臣を伺候させ、家礼を従えていた。一例として長享元年(1487)閏11月伏見殿御所における宗祇の『伊勢物語』講釈の出席者を以下列記する [朝倉尚, 1990]。
聴講者は伏見宮第5代二品式部卿邦高親王、常信法親王(勧修寺門跡)、道永法親王(仁和寺脇門跡)、慈運(竹内門跡)、禅僧宗山等貴(万松軒、将軍猶子)、以上の四方は竹園連枝(伏見宮当主の実弟)、庭田雅行、今出川公興、三条西実隆、勧修寺経茂、海住山高清、姉小路基綱、綾小路俊量、園基富、田向重治、中院通世、冷泉永宣、五辻富仲.、綾小路有俊、宗巧(五条政仲)
一日だけだが、勝仁親王(のちの後柏原天皇)が聴講されている。
この事例で出席者の多くは伏見宮近臣と考えられる。今出川家は清華家で、元々伏見宮を後見する立場にあった。琵琶道の伝授でも伏見宮家とかかわりが深い。公興妹が邦高親王妃で第6代貞敦の母。三条西実隆は大臣家、父公保が、伏見宮貞成親王家の勅別当、後崇光院庁の執事である。庭田、田向、綾小路は伏見宮家譜代の家司だった。後柏原、伏見宮貞常親王、邦高親王の御生母が庭田家(羽林家)で天皇家と共通する外戚だった。
長禄元年(1457)の後花園第一皇子(諱成仁、のち後土御門天皇)の親王宣下では、勅別当に伏見宮とかかわりの深い今出川教季が補された人事はそれなりに意味がある。この皇子が伏見宮家で養育されたためだろう。御生母の嘉楽門院が国母のため最終的に大炊御門家の猶子とされたが、実は地下楽人藤原孝長の女で、伊予局という下級女官であり [松薗斉, 2016]、伏見宮との縁故で和気氏の猶子となって後宮に入った女性とみられている(日本史オンライン講座で秦野裕介氏の見解)。
後土御門天皇は文明年間に伏見に御寺般舟三昧院を建立し後花園の追善仏事を行ったり、『椿葉記』で崇光院流に忠実と評価されていた勧修寺流を重用し、将軍近臣の日野一門を疎外したり親崇光院流であることは明らかで、連句文芸御会をはじめ後土御門の宮廷では多くの遊興、遊戯等世俗的行事が催行されたが、正楽(雅楽)、申楽(謡、能、曲舞)茶(嗅茶、十種茶)香(香嗅、十種香)、弓(雀小弓、揚弓)、扇合、栗打、類句の校合、囲碁観戦など、多くの催しに伏見宮当主や連枝が参仕しており [朝倉尚, 1990]、この時代の天皇家と伏見宮家及び竹園連枝は非常に親しかった。このことは伏見宮が永続した要因の一つと考えている。
文明12年(1480)の後土御門第一皇子(諱勝仁、のち後柏原天皇)の親王宣下では、勅別当に今出川公興、家司に山階言国、甘露寺元長という後土御門近臣が補され、職事は綾小路俊量だった [井原今朝男, 2014]。
16世紀においても親王宣下は略式でなく、官宣旨が史奉宣旨として作成されていた。文亀4年(1504)の伏見宮6代貞敦親王の親王宣下の儀式では、上卿侍従権大納言三条西実隆が吉書を下し、続いて大高檀紙に、天皇が貞敦という名字を勅筆で書く。原本は奉行の蔵人甘露寺伊長が留め、奉行弁が書写し、この写しにより官務小槻宿禰(大宮)時元に宣旨下知状が下されている [井原今朝男, 2014]。
第6節 皇室も限嗣単独相続となる(その経済基盤)
皇統嫡系(天皇家)は14世紀中葉の後光厳天皇即位以降、16世紀後半の陽光院誠仁親王まで限嗣単独相続であり、皇位継承予定者以外、入寺得度しない在俗の親王家は立てられなかった。天皇家は、後小松上皇以降、相応の所領を有していたが分割相続できる余裕はなかったと言ってよい。
皇位継承予定者ではない天皇家から分出した親王家は、豊臣秀吉より知行を得た八条宮智仁王の天正19年(1591)の立親王までなかったのである。14~15世紀は貴族社会は限嗣単独相続に移行し日本的「イエ」制度が成立するが、天皇家も同じことである。
15世紀においては親王位を授与されているのは皇統嫡系(天皇家)以外3つの宮家(常磐井宮、木寺宮、伏見宮)であり、以下のような経済基盤があったからこそ親王位が授与され宮家も存続できたのだろう。
第1項 天皇家(皇統嫡系=後光厳院流)
後光厳天皇は、幕府と二条良基を盟主とする公家によって擁立され、太上天皇詔命がなく践祚は群臣義立で正当化された。当時光厳上皇は、「御時宜不快」として認めておらず、庶流の扱いだったので、相続できたのは祖母の広義門院領だけだった [家永遵嗣, 2013]。このほか南朝との戦闘で獲得した没官領があったとの見解もある [井原今朝男, 2014]。
永徳2年(1382)足利義満は、前年に後円融天皇から崇光院管領の所領の収公について指示を受け「義満がいる限り、上皇を恐れることはありません」と大見得を切ったので、左大臣に昇進した [家永遵嗣水野圭士ほか, 2019]。
義満は多くの廷臣を家司、家礼に組織し、崇光上皇の影響化にある廷臣を制圧し、崇光院に治天の君の権限を与えず、応永5年(1398)崇光院崩後、崇光院が40年支配していた二大皇室領の一つ長講堂領等持明院統嫡流所領を没収し、後小松天皇に付与するという難事を達成した [家永遵嗣, 2013]。
ただ、『梅松論』で180か所あったとされる巨大荘園群だった長講堂領だが、応永20年(1413)の目録では過半が守護らに押領されており、のち年貢を運上する荘園は、越前国坂北荘・美濃国伊自良荘・備前国鳥取荘などにすぎない(『国史大辞典』)との見解がある。
しかしながら、後小松院より後花園が相続したのは「禁裏へ長講堂領、法金剛院領、丹州山国庄、灰方、濃州多芸、御月宛、出雲国横田庄等被進之」(『看聞日記』永享5・12・12)とされ、ボリュームとしては小さくないともいえる。丹州山国庄は禁裏御領として有名だが、もとは修理職領であって、応永32年には後小松院領となっていたのである [末柄豊, 2012]。
禁裏御領は戦国時代に肥大化したという見解もある。応仁文明の乱を契機にして、半済令が復活し、公家や門跡が禁裏渡領や殿下渡領として幕府に半済令の適用除外を申請した。
明応8年(1499)細川政元近江出陣の半済令のケースでは、後土御門天皇は伝奏を通じて細川政元と交渉のうえ、門跡領、禁裏女房領、摂家領、清華家領、羽林、名家近臣領、実務官人の諸司寮領、禁裏とかかわりの深い寺社領など一括して「公家門跡領」の名で半済全面免除にした。諸司寮領は年貢公事の禁裏への上納も行われており、これらを広義の禁裏御領として保全できるシステムにした [井原今朝男, 2014]。それゆえ朝廷は下級官人まで含めて財源を維持できた。
第2項 伏見宮
伏見宮の皇統の祖である崇光上皇は、文和4年~延文元年、南朝によって河内国天野金剛寺に抑留されていたが、光厳法皇から直接、琵琶の最秘曲(両龍泉、揚真操、啄木)を伝受した(『秘曲伝月々例』) [池和田有紀, 2020]。持明院統嫡流の天皇はみな皇統の正統性にかかわるものとして琵琶の秘曲を伝授されていることから、これを嫡流認定とみなしてよいだろう。
延文2(1357)に解放され伏見殿に還御。持明院統の嫡流に伝わる皇室領、長講堂領、法金剛院領、播磨国衙領、熱田社領を皇統の惣領である光厳法皇の承認のもと相続した [家永遵嗣, 2013]。持明院統皇統文庫の古記録等も全て相続した [飯倉晴武, 2002] [田島公, 2006] [飯倉晴武, 2009] [酒井茂幸, 2009]。
応安3年(1370)後光厳天皇が、皇子へ譲位の内意を幕府に伝えたため、この情報を得た崇光上皇が巻き返しのため幕府に使者を遣わした。
「伏見殿(崇光上皇)より栄仁親王(崇光皇子・伏見宮初代)践祚の事、後深草院以来正嫡にしてまします御理運の次第を、日野(武者小路)中納言教光卿を勅使にて武家に仰らる」(『椿葉記』)。管領細川頼之の返答は「聖断たるへきよし」 [村田正志, 1954初刊、1984]。
幕府にはねつけられて皇位を回復できず、崇光院流はこのことを長く遺恨とした。
応永5年(1398)崇光院崩後、足利義満により、嫡流荘園群を没収され、これは後小松天皇に付与された。ただし、崇光皇子伏見宮初代栄仁親王には萩原宮直仁親王遺領の室町院領7箇所(江州山前荘、塩津荘、今西荘、若州松永荘など)の相続が認められ、不知行地が多かったとはいえ後嵯峨院の御分国を後深草院が相続したという由緒のある播磨国衙領も返還されたため、崇光院流天皇家(仙洞御所)は宮家に転落する形で存続が可能になった。それが伏見宮である。
応永23年(1416)伏見宮栄仁親王は、所領経営が不安定で、実効知行地の拡大のため所領安堵を上皇に懇望していたところ、勾当内侍の助言により「天下名物至極重宝」という名笛「柯亭」(これは准累代御物で天皇家の象徴ともいえる重宝だった)を進献することにより [植木朝子, 2009]、室町院領のすべてについて後小松上皇より永代安堵され(応永23年1416『椿葉記』『看聞御記』) [白根陽子, 2018]、後小松崩後に足利義教の差配により熱田社領も返還された。
永享7年(1435)8月足利義教は、一条東洞院後小松院仙洞御所を破却し、その東隣に移築して道欽入道親王(伏見宮貞成親王)の御所が造営され、同年12月親王は伏見より洛中御所に移徙された [高橋康夫, 1983]。永享8年には後小松院仙洞御所跡地も伏見宮領となる。
永享8年(1436)さらに足利義教は、称光天皇御生母光範門院から強権的に剥奪したといういわくつきの「干鮭昆布公事」が伏見宮に進められた [秦野裕介, 2020]。この年収は現金換算で五千万円~八千万円と「日本史オンライン講座」で秦野裕介氏が発言しており(著書では五千万円)、全体の3分の1を占めるほど大きかった。つまり15世紀中葉の伏見宮家の年収はざっと現金換算一億五千万~二億円程度と推測できるのである。今日の秋篠宮家でも一億三千万程度の皇族費はあるので、比較しても小さいとはいえる。
しかし伏見宮は嫡流を引く皇統であり。本来治天の君が管理する蔵書等を相続していた。伏見宮貞成王が相続した蔵書は、飯倉晴武氏の計算では213合ほどあった [飯倉晴武, 2002]。一合は『玉勝間』によれば50巻収納できるので相当な量である。
ただし、『看聞日記』によれば、天皇家に進献したものも少なくない。応永31年(1424)訴訟事に便宜をはかってもらうため後小松上皇に『寛平御記』『延喜御記』、『朝覲行幸記』『諸社諸寺御幸記』計五合(翌年貞成王が親王宣下を受けているので関連があると思う)、永享2年(1430)代々秘蔵の後深草院より三代の『大嘗会記録』『神膳御記』が進献されている(これは後花園の大嘗会のため)。
足利義満には時期不明だが、伏見宮初代栄仁親王から京極流の勅撰和歌集『風雅集』(正本とみられる)、伏見宮3代貞成親王から足利義教には永享7年(1435)同じく『玉葉集』奏覧正本一合(19巻1巻欠)のほか [前田雅之, 2018] [末柄豊, 2011]、伏見殿御所を訪れた義教への引出物として伏見院宸筆三帖(『春草集』『周防内侍集』『赤染衛門集』の書写)が贈られている 。これは、事前の打合わせで義教近臣からの要望による。「書聖」と称される伏見院宸筆は人気があり喜ばれたのである [小川剛生, 2017]。また宝徳元年(1449)院参した足利義政に、後崇光院太上天皇より『和漢朗詠集』等が下賜されている [田村航, 2018] 。
『風雅集』は、応永5年の室町院領7箇所の安堵の報謝を想定できる。『玉葉集』は一条東洞院伏見殿御所造営の報謝である。
このように流出したものがあったとはいえ、持明院統文庫は伏見宮家で維持され、萩原宮からの相続で、花園院宸記や花園院由来の絵画も加わったと考えられている。
比較的近年分かったこととして、田島公が、『実隆公記』延徳2年1490八月条にある三条西実隆が伏見宮第5代邦高親王から借用した歴代天皇宸筆や皇族御筆、三蹟など平安時代の「古筆」のリストを検討され、このうち弘法大師御筆の法華経、称讃浄土経、無垢清光陀羅尼等、智証大師(円珍)筆の転女成仏経、藤原行成卿筆の心経、諸仏集会陀羅尼経といった経巻が、近世の写本だが東山御文庫にある蓮華王院宝蔵目録と一致することを発見し、伏見宮家には蓮華王院宝蔵の書物の一部が伝来したことを立証した [田島公, 2004] [田島公, 2006]。
蓮華王院宝蔵とは後白河院の蒐集品の宝蔵で、書物は御経や漢籍のほか、官庫(朝廷文庫)の重要な蔵書を含む。こうした皇室の重宝は、天皇家ではなく、嫡流を引く伏見宮家に伝来したのである。
(実隆公記 国会図書館デジタルコレクション公開分より転載)
「書物はたしかに贈答品としての機能があり、室町社会をあたかも通貨のようにやりとりされていた。‥‥歴代の宸筆に富む伏見宮などはさしづめ銀行のようなものかも知れない」 [小川剛生, 2017] というのは言い過ぎではないだろう。
『後奈良天皇宸記』天文4年(1535)7・4条に「自竹園伏見院御記二合給之喜悦也」とあり、伏見宮第6代貞敦親王が伏見天皇宸記二合をこの時点で進献していた。江戸時代に後水尾院文庫に伏見院宸記70巻があったが焼亡して5冊が伝わっているいう記録があり [米田雄介, 1992]、概ね分量は符合する。現在書陵部にある伏見宮旧蔵本には伏見院日記8巻が現存しているので、全てを進献したということではないが、伏見宮家からの宸筆宸記等の天皇家への進献は断続的であったということである。
貴族社会において家記、古記録の原本を伝える家が嫡流なので、第5代邦高親王まで、持明院統嫡流の天皇である伏見院宸記を天皇家に進献してなかったのは、伏見宮が皇統の正統性にかかわる嫡流の証左として蔵書を維持していたと考えられるのである。
もっともこの時点で第7代邦輔親王が親王宣下を受けており、伏見宮は世襲親王家としてのステイタスを確立し、例えば永正15年(1518)3.19知仁親王(のち後奈良)がお忍びで源氏物語ゆかりの石山寺に参詣、貞敦親王と竹内門跡が扈従している(『二水記』)などのエピソードから親王と天皇とは親しかった。といえるが、なぜこの時点で貞敦親王が重宝を差し出したのか、裏事情がありそうだ、
同時期に貞敦親王の妹玉姫が嫁した義弟の一条房冬(土佐一条家)が近衛大将の任官を望み、朝廷に銭一万疋の献金が用意されたが、後奈良天皇は在京してない者を任用できないとして拒否した事件があった。義兄の貞敦親王の懇請により任官されたが、献金は突き返された。この借りがあったとも考えられるのである。
(実隆公記 国会図書館デジタルコレクション公開分より転載)
第3項 木寺宮
木寺宮とは双ヶ岡近くにあった殿邸に由来する宮号、大覚寺統後二条院流邦良親王直系、光厳天皇の皇太子康仁親王の皇統であり、鎌倉幕府に大覚寺統の後嗣として支持されていた。後醍醐天皇の復僻により、皇太子ではなかったことにされ、『神皇正統記』では後二条流は傍系にされているが、後二条流の立場ではこちらこそ嫡流で後醍醐は一代の主、中継ぎだったはず。それゆえ北朝に参仕した。
木寺宮の所領としては歓喜光院領の一つである大和国波多荘があり、大覚寺統の王家領と外戚家からの所領贈与で荘園群を確保していたとみられる [金井静香, 1999]。
第4項 常磐井宮
亀山院末子、一品式部卿恒明親王の皇統。嘉元3年(1305)亀山法皇はすでに後宇多院政で孫の後二条天皇が即位しているにもかかわらず、末子の恒明親王を鍾愛し、大覚寺統の後嗣とした。譲状によると、大覚寺統の主要所領は、大筋で成人するまで母昭訓門院の管領の後、恒明親王が相続することになっていたが、同年亀山法皇が崩御し、後宇多院は遺詔を反故にする一方、昭訓門院は持明院統の伏見院と提携し、幕府に恒明親王の立坊を働きかけたが、幕府は後宇多院を支持する形で介入、ただし八条院領のうち安楽寿院領という部分が恒明親王の所領とされた [金井静香, 1999]ので経済基盤を有した。徳治3年(1308年)尊治親王(後醍醐)立坊により恒明親王の皇位継承の可能性は低くなり、その後皇位を競望しても有力候補にはならなかった。持明院統が恒明親王を嫡流認定した経緯があるゆえ北朝政権に参仕、宮家は16世紀まで存続することになる。
第7節 応永26年(1419)後二条五世王親王宣下の画期的意義
15世紀は親王位授与の在り方に大きな変容があった。
後円融、後小松の実子が少なかったうえ、称光は皇女のみ。さらに言うと、後小松の猶子として践祚した後花園も皇子は御一方だけで、皇子が払拭して持明院統側に門跡に入る人材が払拭していた時期が長くあった。
このため、末流の皇胤でも親王宣下されることが慣例化した。15世紀には大覚寺統後二条流の木寺宮や亀山法皇遺詔で嫡流認定された常磐井宮出身の皇族の五世王や六世王が親王宣下されるに至った。 [松薗斉, 2010]。
五世王親王宣下の初例は、応永26年(1419) 12月21日妙法院新宮と称された明仁法親王と17世御室(仁和寺門跡)承道法親王の親王宣下である。御二方とも木寺宮世平王実子、後二条五世王、後小松院猶子である(『看聞日記』、『薩戒記』)。
妙法院新宮明仁法親王は、入室し法親王となったのが11歳、ところが永享6年(1434)突然幕府への謀反の嫌疑を受け逐電した(『看聞日記』) [稲葉伸道, 2019]。後継者探しで足利義教は、伏見宮貞成親王に入室できる男子はいないか尋ねたが、宮家の後継者となる貞常以外男子がいなかったため、異例だが清華家の徳大寺家出身の教覚が足利将軍家の猶子とされたうえ門主となった。その次の門主も伏見宮貞常親王息、後土御門猶子の覚胤法親王で、それくらい皇子がいない時代だった。
世襲宮家は、天皇家に皇子が少ないときに、天皇の周囲に配置される宮門跡に入室する人材のプールになるという意味でも必要だったということである。
後小松院と明仁法親王、承道法親王は13世離れている猶子だが、門跡寺院側は、格付けにかかわるので親王宣下を望んだ [松薗斉, 2010]]。
それは便宜的だというかもしれない。しかし中世の律令法は「准的」等の法技術によって、令義解の原意にこだわらず現状追認的に合法化できるのであって [保田卓, 1997], 、猶子という親子関係の擬制で血縁の疎隔を穴埋めすることは、准的「乙は甲と比べてみて、甲と釣り合うもの、同格のものと価値づける」というテクニックで合法になると思う。従って継嗣令皇兄弟条との整合性は説明がつく事柄なのである。
応永26年(1419)の五世王親王宣下の画期的意義は、本来親王の身位、称号は天皇の距離に依存し、継嗣令にあるとおり天皇の兄弟か「一世皇子」の身位であり、嫡系から離れてはそのステイタスを維持できず、世代を経るごとに劣化コピーとなって、やがてフェードアウトしていくあり方を修正したことに意義がある。
また継嗣令皇兄弟条では五世王は皇親の範疇に入らないとしているが、それでも親王宣下を可能にしたのである。。
継嗣令の原意はあくまでも律令国家の封禄制度が機能していることが前提とすれば、すでに14世紀より限嗣単独相続である以上、皇親は当然血縁的に疎隔する。しかも親王宣下されているのは嫡流の由緒のある皇統であり、親王位は家政機関が附く以上、家領と家臣を引き継ぐことのできる世襲宮家が適合的だったといえる。
後崇光院太上天皇(伏見宮貞成)が在世されている時期に立て続けに五世王や六世王の親王号授与がなされていることにも注目したい。
宝徳元年(1449)10月23日、『康富記』に常磐井宮直明王の第二王子勧修寺宮恒弘法親王が後崇光院の猶子として親王宣下を受けた。亀山五世王である [秦野祐介, 2020]。五百年来の大学者、一天無双の才人という一条兼良が関白現任で認めている以上どう考えても合法なのである。
享徳2年(1453)18世御室、静覚(法深)法親王が親王宣下されている。木寺宮世平王の孫で、後二条六世王、後花園猶子である。血縁的には17親等離れているが皇子に准じた礼遇である。。
後花園の皇子は後土御門だけ、貞常親王には邦高王が誕生していたが、次男はまだ生まれてない。したがって、持明院統側に人材はなかったので木寺宮のポストになった。
また享徳4年(1455)には木寺宮世平王の末子邦康王が後崇光院の猶子として親王宣下を受け(後二条五世王)、さらに、後崇光院崩後のことであるが、後崇光院の猶子とされる常磐井宮全明王(亀山五世王)が親王宣下を受けている。
常磐井宮と木寺宮はともに持明院統とは友好関係にあっただけでなく、北朝政権に参仕した。後南朝の後亀山の孫、小倉宮聖承は足利義教の猶子として勧修寺に入室、聖承の子息教尊も将軍家の猶子として勧修寺に入室しており、面倒をみているのは将軍家だった。親王位授与はあくまでも北朝側にあった皇統に限られた。この点は明確に差別化されていた。
第8節 猶子による親子関係の擬制について
近年、文安4年(1447)11月23日伏見宮貞成親王の太上天皇尊号宣下の詔書が解明され、後花園天皇は後光厳院流の継承者であることを表明していることが明確となり皇統問題は決着した [末柄豊, 2012], 2012] [田村航, 2018] 。
天皇家も伏見宮家も実系の崇光院流御一統とする従来説( [村田正志, 1954初刊、1984])が否定された意味は重い。
「本朝皇胤紹運録」のとおり後小松の下に後花園を釣る系図が正しい。宮内庁のHPにある実系の系図は学問的には正しくないといえる。
(本朝皇胤紹運録 国会図書館デジタルコレクション公開分より転載)
田村航 [2018]によると、尊号宣下の詔書は唐橋在豊が作成した。天皇の意向を内々に確認したうえ、貞成親王を後花園の「厳親」実の親とするもの、「傍親」同族とするものの二通を叡覧に供し、天皇は後者を採択した。また康正2年(1456)の後崇光院(伏見宮貞成)の葬礼で後花園天皇が錫紵装束であったのは「御兄弟分」としての特例であった 。
つまり応永32年(1425)貞成王(崇光二世王)は後小松上皇の猶子として親王宣下され、正長元年(1428)7月、後嗣のない称光天皇不予の状況で、伏見若宮御歳10歳(後花園)は仙洞御所に入御され「後小松院の御所生の如く御父子の儀を契約せられ」たのち新内裏で践祚した(『建内記』)。ゆえに、実父であっても「御兄弟分」にされたのだ。
安永8年(1780)世襲親王家の閑院宮家から入って大統を継いだ光格天皇も後桃園女御(正妃)近衛維子の猶子として皇位を継承しているので、皇統正流(嫡系)とは、後光厳を嚢祖として猶子という親子関係の擬制を数回重ねた直系継承といってよいと思う。
つまり南北朝時代より以前は、頻繁な皇統の移動、皇統の付替えがあったが、後花園以降は、猶子という親子関係の擬制で直系継承されることにより、皇統移動がなくなったのである [新田一郎, 2011]。
『建内記』文安4・3・23条によれば後小松院御遺詔(永享5年1433年)は①実父伏見宮に尊号を与えることは、後光厳院流の断絶を意味するので、実父に尊号を与えてはならない。②仙洞御所を伏見宮の御所としてはならない、③追号は後小松院とするという三箇条だった。それは後光厳院流皇統の万歳継帝を望み、伏見宮が実の父子関係から崇光院流の皇胤再興を主張することを阻止するためである [村田正志, 1983(初出1944)]。
強い正統意識を持ち続け、天皇実父でありながら新帝とは他人の関係にされた伏見宮貞成親王は納得しておらず、巻き返しを図るべく、後小松が在世している永享3年においても長講堂と石清水八幡宮に太上天皇尊号拝受の本気の祈願を行った [秦野裕介, 2020]。
伏見宮貞成親王は、叡覧に供する目的で執筆した『椿葉記』(永享6年1434奏覧)において、非登極皇族であっても天皇実父が太上天皇尊号を受けた先例(後高倉院-後堀河実父)に拠って、尊号を受けたい意向を奏上した。これは崇光院流=伏見宮が後深草院以来の正統、嫡流であり、太上天皇尊号宣下の一点突破で、猶子関係を一代の契約として終了させ、後花園登極を正統たる崇光院流の皇胤再興、皇統の付替えにしたい実父の想いを読み取っていただく意図で書かれたものであり、「御猶子は一代の御契約にて、誠の父母の御末にてこそわたらせ給へ」と述べ、御猶子関係は、一代限りの契約でその子孫には及ばず真実の父母の御子孫が皇統となるとしている点、近現代の皇室典範が養子できないものとし、実系のみの存続としているので、現代人にはわかりやすい考え方を示しているが、後小松院遺詔に対抗する言説であった。
しかし後花園天皇は実父の意向である皇統転換を拒否し、国を譲られた重恩により後小松院御遺詔を重んじた。但し遺詔と整合性が取れる範囲で実父の要望にも応え、太上天皇尊号宣下が実現したと理解してよいだろう。
御遺詔で禁止されていた尊号宣下が実現する鍵となったのは、明徳5年(1394)後亀山院の太上天皇尊号宣下の先例である。当時の朝廷は、南朝を公式の朝廷とは認めておらず、後亀山院は不登極帝の扱いだった。後小松近臣の万里小路時房は伏見宮への尊号宣下に最後まで強硬に反対したが、実父への尊号宣下の先例である後高倉院と、親族への厚意としての尊号宣下である後亀山院の中間の位置づけなら容認することで折り合った [田村航, 2018]。
中世において「猶子になると擬制的な親子関係が形成されるため、親は猶子に対して権力を行使することができた。反対に猶子になった者は親の家の一員に准ずる存在として、その家の格式・礼遇がおよそ適用された」 [水野智之, 2014] 。
これは一般論であるが、後花園が実系継承を拒否した理由の一つとして指摘されていることは、室町将軍家の猶子では、擬制的親子関係がもたらす親権により、猶子に対し強力な権限をもつ強固な親子関係であった ことから [水野智之, 2005]、皇室もその影響を受け、後小松と後花園の猶子関係も強固な家督的親子関係だったという [久水俊和, 2020a]。
なお院政期以降皇位継承に関わる猶子として(1)近衛天皇の養母が崇徳天皇の中宮藤原聖子とされた。(2)花園が兄後伏見の猶子。(3)光明が兄光厳の猶子。(4)崇光の皇太弟花園皇子直仁親王が光厳の猶子。(5)後花園が後小松上皇の猶子。(6)霊元が後光明の猶子、(7)光格が後桃園女御近衛維子の猶子。
(1)は近衛実母の藤原得子は中級貴族のため、近衛を嫡流に位置づけるためである。(2)は後伏見を嫡流として院政をしく前提となるもの。花園は院政をしくことができない中継ぎとして皇統分裂を避けた。(3)も同様の例、(4)はトリッキーといわれるが、春日大神の託宣により公式には花園皇子(実は光厳胤子)の直仁を嫡流認定し、崇光を中継ぎとした。但し、直仁親王は正平一統破綻後の廃太子により、皇位継承を放棄したので、後に崇光が嫡流認定されるにいたる。(5)と(7)は実系では途絶した皇統を、猶子という親子関係の擬制で直系継承とするもの、(6)は花町宮家当主から皇位を継承した後西天皇を中継ぎとして、霊元を嫡流認定するもの。
ところで、今日この問題を考えるならば皇室典範では養子してはならないため、秋篠宮皇嗣殿下は今上陛下の猶子とはされなかった。兄弟継承の前例として後光明天皇が実弟識仁親王(霊元)を猶子として擬制的に直系としている。そのようなことはなされなかった。もっとも、皇統移動のニュアンスの強い立皇太弟とはせず、立皇嗣としたのは何等かの配慮だろうが、猶子的含みがあるともないともいえず、はっきりしないのである。
第9節 伏見宮は永続が約されている由緒が複数以上ある
第1項 伏見宮は後小松上皇より室町院領の「永代」安堵の勅裁を得ている
『椿葉記』『看聞御記』によれば伏見宮栄仁親王は、室町院領(萩原宮遺領)について応永23年(1416)に後小松上皇より「永代」安堵の勅裁を得ている [白根陽子, 2018]。『看聞日記』によれば「室町院領永代可有御管領之由載勅裁(中略)殊更永代字被載之条、御本望満足珍重也」とあり、直接的には萩原宮遺領の紛争の解決手段だったとはいえ、治天の君より後高倉皇統系の皇室領である室町院領の永代安堵の勅裁を得た以上、永続を約された皇統と解釈しうる。
伏見宮側は、勾当内侍の助言により、崇光院秘蔵の「天下名物至極重宝」という天皇家の象徴ともいえる准累代御物級の名笛「柯亭」を上皇に進献したうえで得たものである。
第2項 『椿葉記』(永享5年1433)は伏見宮を世襲親王家とする構想を示す
「崇光院・後光嚴院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中惡く成て、御子孫まで不和になり侍れは、前車の覆いかてか愼さるへき、いまは御あらそひあるへしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉るへけれは、相構て水魚の如くにおほしめして、御はこくもあるへきなり」
『椿葉記』は後花園実父貞成親王が、歴史書の体裁をとりつつ核心部分は太上天皇尊号拝受の希望とその理由を天皇に奏上することだったが、論点は多岐に及び、皇室も伏見宮も(実系では)崇光院流一統になったのだから、過去のように不仲となることなく親睦にして、将来永く疎隔あるまじきこと。そのために伏見宮の若宮を始終御猶子となし奉ることを提案されている [村田正志, 1954初刊、1984]。
14世紀に上皇や天皇の権限により猶子となしたうえで二世王と例外的に三世王の皇族、15世紀には五世王以降の末流の皇族でも親王宣下が慣例化されてり、「御猶子となし奉る」とは親王宣下を意味するゆえ、これは、伏見宮家の世襲親王家構想と解釈されるのである [小川剛生, 2009] [田村航, 2018] 。
要するに、『椿葉記』は後花園天皇に実系の崇光院流を継承すべきと要請しているが、伏見宮も存続させ、崇光院流二皇統併存の構想を示した。実際には後花園は後光厳院流を継承したので、両皇統の両立併存となったのである。
「水魚の如く」としているのがポイントである、離れられない関係にしたのである。ゆえに皇統嫡系と伏見宮家は500年以上併存してきたし、今日でも菊栄親睦会がある。。
貞成親王は一皇族に過ぎないのではない。「至尊」たる太上天皇尊号宣下を受けているゆえ、『椿葉記』は朝廷が公式に認めた歴史書ではないが、その趣旨が伏見宮の永続の論拠となる。後崇光院は強い正統意識を持ち続けた。崇光院流の永続という存念を生かして、今こそ旧皇族復籍を実現すべきである。
第3項 康正2年(1456)「永世伏見殿御所」号勅許の所伝について
後崇光院法皇崩後、康正2年(1456)10月伏見宮系譜「貞常親王御記」にある「永世伏見殿御所」号勅許という所伝(伏見宮系譜「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門(庭田長賢)來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申‥‥」)について、その意味は伏見宮が世襲親王家として公式に認められたと解釈されているが、近年の研究者は(田村航など)後光厳院流と崇光院流を両立させ、伏見宮家の永続を約したものという積極的解釈がなされている点は注目してよい。
ただし、国文学系だが歴史家より実績のある小川剛生氏が、裏付ける史料がないことから慎重に扱いたいとしており、複数の史料がない以上実証主義的には史実と断定しにくいので、あくまで参考として提示するにとどめる。
世襲親王家とは、歴代当主が天皇もしくは上皇の猶子となり、この親子関係の擬制により、皇子に准じた礼遇を受けることにより親王宣下されることが慣例となり、自立的に親王を再生産できる特別のステータスとして始まったもので、伏見宮家を嚆矢とするが、第4代貞常親王以降といってよい。。
文安2年(1445)3月伏見宮第二王子は関白二条持基を加冠役として元服し、6月に親王宣下を受けた。貞常親王である。時に21歳、文安3年3月任式部卿、文安4年3月二品に叙せられたのは厚遇といえる。同年8月に家領を譲られて第4代伏見宮当主となった。父貞成は応永32年父栄仁親王と皇位継承を争った後円融院33回忌の写経供養に参加したことで、54歳でやっと親王宣下を受けたのであるが、この後、伏見宮家は第5代邦高親王が19歳(元服加冠役は准后前左大臣足利義政)、第6代貞敦親王は17歳で順調に親王宣下を受けている。
木寺宮家や常磐井宮家は、親王宣下が断続的で、永続しなかったので、世襲宮家であっても、世襲親王家ではない。世襲親王家以前は、親王位を授与されるか否かは基本的に治天の君の意向次第だった。
近世では、世襲親王家は、幕府に充行されてた知行を相続する近世的領主に変質する。
以下、歴史家等の「永世伏見殿御所」号勅許の所伝のコメントを引用する。
〇新田一郎氏(法制史)のコメント
「親王たるステイタスを長期にわたり安定して継承する本格的な世襲親王家は伏見宮家を以て嚆矢とする。貞常が後花園天皇から永世にわたり「伏見殿御所」と称することを勅許された、とする所伝があり、これによって、伏見宮家が皇統嫡系との距離に依存せずに自立し継承される世襲親王家してのステイタスを確立した、とする解釈が示される場合がある。こうして天皇家直系と伏見宮家は皇統の内部で画然と分かたれ、それぞれ継承されるべき役割を異にする家として成型される。伏見宮家はその家産とステイタスを継承する世襲親王家として成型され、皇位の正統の所在は擬制的な直系へと固定されたわけである。」 [新田一郎, 2011]。
上記の見解は、皇統嫡系の天皇系と伏見宮家が併存して500年以上続いた由来を示すものである。
〇田村航氏(中世史)のコメント
「伏見宮は『故院』すなわち貞成の生前の異紋を、そのまま位袍などに使用することが許可された。これは貞常親王以降の伏見宮が、後崇光院=貞成親王をよりどころにするということである。同時に「伏見殿御所」の「永世」にわたる存続も約された。これは貞成が後小松院の猶子として受けた親王宣下をふまえ、貞常王、邦高王、貞敦王、邦輔王がそれぞれ後花園・後土御門・後柏原・後奈良の歴代天皇の猶子として親王宣下を受け、以降同様に継承されていったことをさす。かくして伏見宮は親王の再生産をつづける特別の地位を得たのである。
‥‥後崇光院=貞成から伏見宮が得られる正統性を制度的に裏付けたもので、伏見宮の当主が世代を重ねても天皇家と疎遠となる事態が避けられた。‥‥‥伏見宮は代々の親王宣下で皇位継承権を担保され、ここに崇光院皇統のある種の再興が果たされた」 とする [田村航, 2018]]。
上記の見解は、後花園が後光厳院流を継承したので、実家の伏見宮と宥和政策をとったという脈絡での説示である。
後花園は実家の伏見宮に好意的であったとされる。例えば、皇子成仁王を伏見宮で養育させ、寛正3年(1462)皇儲に確定した皇子成仁王(後土御門)を説諭する『後花園院御消息』でことに伏見殿に対して敬意を表することを説き [田村航, 2020]、応仁元年(1467)7月後花園上皇は、関白再補の一条兼良と二品式部卿伏見宮貞常親王を勅使として、応仁の乱の調停のため幕府に派遣するなど、伏見宮は信頼されていた [田村航, 2013]。ゆえに「永世伏見殿御所」号勅許は史実であってもおかしくないとの認識をもつことはできるだろう。
〇秦野裕介氏(中世史)のコメント
「後花園は、弟の貞常に伏見宮家の継承と、その『永世』にわたる存続を約した。そして伏見宮家の当主は代々天皇の猶子となって親王宣下を受けるという特殊な形がとられるようになった。ここに後光厳皇統と崇光皇統の両立が完成したのである。」 [秦野祐介, 2020]]
田村論文の参照指示があるが、秦野氏の著書やブログを読むと後花園は後小松を慕っており、従来考えられていたほど、後花園は実父に協調的ではなかったとの見方で、むしろ実弟の貞常親王を信頼していたとのニュアンスである。
〇松薗斉氏(中世史)のコメント
「貞常親王が「永世伏見殿御所」と後花園から許可されたという伏見宮も、代々天皇の猶子となって親王宣下を受けなければならないわけで、基本的には‥‥中世の他の宮と同じである。むしろ持明院天皇家の家記・文書を継承し、現天皇家の「家」の機能を補完する側面が「家」としての継続を可能にした」 。中世の皇統文庫を維持、継承していたことが伏見宮家の強みだったという見解 [松薗斉, 2010]。
〇小川剛生氏(中世和歌史)のコメント
「この御記の内容はいまのところ他に裏付がないので、当面この説の信憑性には慎重にならざるを得ないが、ここで後崇光院の紋を使用すること。また、「御所」の号を永代にわたり許されたというのは、これをもって世襲親王家の存在を公式に認めたということになるだろう」 [小川剛生, 2009] 。
なお、「永世伏見殿御所」号の所伝のコメントではないが、久水俊和(中世史)の見解を引用する。
天皇家と伏見宮が併存した意義について「崇光院流の流儀は王家のなかでは別格であり」、伏見宮家は「崇光院流の正当性を担保し」「皇位継承への一縷の望みを遺す世襲親王家に転成した」、「別格の宮家」「准天皇家」とされる [久水俊和, 2020a] 。伏見宮は完全なる傍流化を回避された別格の宮家ということを言っている。
以上引用した、専門家の見解は、多くが「永世伏見殿御所」号の所伝もしくは念頭において、積極的に評価しており、伏見宮御一流にとって有利な見解となっている。
史料の信憑性の問題については、第7節で示したとおり、15世紀中葉に、伏見宮家の世襲親王家が成立する客観的条件は整っていたということでかなりクリアできる事柄と考えている。
つまり15世紀に継嗣令の原意では皇親から外れている五世王以降の末流の皇族でも親王宣下が慣例となり、五世王以降の皇族でも皇族の身位からフェードアウトすることのない「世襲親王家」が制度化を可能にしていた。
信憑性を疑問視するとしても、現実に、崇光三世王の第3代貞成親王から(後崇光院法皇)から崇光17世第24代貞愛親王(元帥・陸軍大将・内大臣)まで、皇室典範で世襲親王制度が廃止されるまで、例外なく歴代当主が親王宣下を受けており、事実上、慣例として天皇と血縁の疎隔にかかわらず、劣化することのない親王家のステイタスを維持し、皇族の身位よりフェードアウトしない特別のステイタスを獲得していたと理解するほかない。この論点を補強する意味で、後土御門、後柏原、後奈良といった15~16世紀の天皇が伏見宮と非常に親しかったことは、第5節で言及したとおりである。。
ちなみに、明治皇室典範制定前の時点では、伏見宮以外に、実系で伏見宮系の世襲親王家として閑院宮家と、維新の功労により格上げされた小松宮家と三家あった。当時の当主はいずれも国葬であった。
「永世伏見殿御所」号勅許の所伝により永続が約されたことを仮に史実とすれば、伏見宮系皇族切り棄てという女性宮家推進派の理屈は、後花園天皇の叡慮を否定することとなる。そもそも皇籍を離脱させたことも好ましくなかったということになる。史実でないとしても、世襲親王家は事実上公認され慣例であったこと。第5節の令制皇親制度の変容と、第9節第1項、第2項の由緒から大筋で「永世伏見殿御所」所伝相当のステイタスを獲得していたことは間違いない。
第10節 伏見宮第9代邦房親王と近衛龍山は横並びの序列だった
戦国時代の伏見宮のステイタスが高かったことは、天正15年(1587)の座次相論でもよくわかる。。
7月13日秀吉は関白任官披露のため前例のない公家、門跡が一同に会する禁中能会を開催したが、親王と准后との間で座次相論となり、不満を持つ方々、伏見宮家出身の宮門跡らが欠席したという。
当時の親王は、儲君たる誠仁親王を別格として、伏見宮第9代中務卿邦房親王、御室(仁和寺)、青蓮院、妙法院、梶井の宮門跡はいずれも伏見宮出身の法親王だった。准后は前関白近衛龍山(前久)と、聖護院、大覚寺、三宝院、勧修寺の門跡准后で、摂家出身者であった。
関白秀吉は当事者より意見を聴取したうえ直ちに裁定を下し、正親町天皇の認可を受けた(『親王准后座次三ヶ条之事』)。
7月15日の裁定は、親王と准后は同格、門跡准后、法親王、前関白は同格とし、それぞれの席次はくじ引きという曖昧さを残すものだった。ただし伏見宮邦房親王と近衛龍山は別格で、常に並んで上座を占めるとされた [谷口研語, 1994] [神田裕理, 2019]。従って伏見宮邦房親王は、前関白であるが准后宣下を受けてない九条兼孝、一条内基、二条昭実より上座とされていたのである [谷口研語, 1994] 。
鎌倉時代末期、親王家は大臣家と同格だったともいわれ、親王家の位地は上昇しており、これは戦国時代の伏見宮のステイタスが高かったことの影響とみてよい。一方、摂関家の地位が低下したともいえる。
同年10月7日関白豊臣秀吉は前例のない公家衆、門跡総出の禁中茶会を開催した。千利休の茶会覚書は次のとおり [仲隆裕・浅野二郎・藤井英二郎, 1995]
禁中様菊見の間
一 上段 三畳敷 東同
正親町院様 親王様 若宮様
御相伴衆 下段 六畳敷
近衛殿龍山ニ 伏見殿 菊亭殿
上段三畳敷に天皇、誠仁親王、和仁王(のちの後陽成)、下段六畳敷に御相伴衆として伏見宮邦房親王、准后近衛龍山、取次役の右大臣菊亭晴季が着座、伏見宮は近衛龍山と横並びなので一応面目を保ったと思う。
ところが元和元年 (1615) 禁中並武家諸法度であいまいだった座次が序列化され、皇太子以外の親王は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より下位の座次と決められた。
家康は親王が大臣や准后より上位との見解を示したが、関白九条尚栄や摂家は、これを修正し、奈良時代、舎人親王より右大臣の藤原不比等が上席だったことを根拠として親王は三公の下とされたが、天正の座次の取り決めより親王の地位が著しく下降しているのは釈然としないものがある。
第11節 近世四親王家で実系相続で一貫しているの伏見宮だけ
公家門跡領について大きな転換期となったのは、豊臣政権である。秀吉は諸公家、諸門跡の中世の知行を収公したうえ、再給付することより、公家の知行充行権を掌握した [山口和夫, 2017]。ついで徳川幕府も、知行充行権を掌握、公家は幕府より家格に応じた知行を充行され収入は安定したが、幕府の麾下にある近世領主となったのである。
秀吉は伏見築城のため伏見宮と交渉する必要があった。宇喜多秀家と豪姫の女を養女としたうえ伏見宮第10代貞清親王の側室とするなど工作をした。
徳川時代伏見宮家の知行は表向き千二百石、実収は少なかったと考えられ、知行は旗本クラスで、中世の宮家の格式は維持できない。とはいえ近世創立の世襲親王家は、秀吉や徳川幕府により付与された知行で創立されたのに対し、伏見宮はもともと中世の皇室領を家領としていたのだから、格式においては断然上というべきである。
伏見宮は四親王家とは別格の扱いを受け、他の親王家はしばしば断絶し、当代天皇の実子が継承して宮家が存続されたが、伏見宮家だけは実系の相続を維持したことは著名な史実である [武部敏夫, 1960]。
すなわち伏見宮家は第4代贈一品式部卿貞常親王から第22・24代貞愛親王まで世襲親王家だったというるが、実系が一時途絶した経緯がある。桃園皇子で後桃園皇弟貞行親王が伏見宮を継承した一例である。宝暦9年(1759)伏見宮16代邦忠親王(桜町天皇猶子)は継嗣となる王子なく薨去され、宮家では同年五月発喪に先立ち一書を朝廷に上った。
「邦忠親王無息男、相続之事去月廿五日附書於勾当内侍請天裁、其趣崇光院巳来実子連続之間、不断絶系統相続之事被冀申云々、家系無比類之由含後崇光院道欽之述椿葉記之趣意於心底被望申云々」(『八塊記』 宝暦9・6・2)とあり、その趣旨は伏見宮は崇光天皇以来実系継承で、後崇光院法皇の『椿葉記』にあるように、皇統にとって格別由緒ある家柄であるから、実系の断絶することのないよう血脈に当る者を以て相続せしめられたいと云うにあった。
しかし、桃園皇子で後桃園皇弟貞行親王が伏見宮を継承した。御生母は後桃園御生母(国母)であり、皇太后に冊立のうえ院号宣下された恭礼門院(関白一条兼香女藤原富子)である。その貞行親王は安永3年(1774)後嗣なく薨去、また空主となった。朝廷では、次期当主として後桃園天皇の皇子の出生を待っていた。一条兼香は鷹司家から入った養嗣子なので、女院の実家は皇別摂家ではなくなったとはいえ、江戸時代は五摂家の権威が強くなったこともあり、恭礼門院は伏見宮家を見下していたのではないかと憶測する。
しかし、伏見宮家は紀州徳川家と代々姻戚関係があり、大奥経由で将軍を介入させる奥の手を使って巻き返した。徳川吉宗は紀州藩主時代に伏見宮貞致親王女真宮理子女王を正室に迎え、徳川家重も将軍世子時代に伏見宮邦永親王女比宮増子女王を正室に迎え、産褥で薨ぜられたが、この姻戚関係から、将軍家治乳母大奥御年寄松島局を通じて将軍に働きかけ、朝廷は将軍家治の申し入れを容れて、勧修寺門跡に入道していた43歳の邦頼親王を還俗・相続させた。
注目すべきは『椿葉記』の崇光院流の格別の由緒を実系相続維持の理由としていることであり、今日でもこの考え方を踏襲するべきである。
第12節 世襲親王家の否定的評価は公正なものではない
1889年の皇室典範は、結果的に永世皇族制がとられたが、世襲親王家が廃止されたのは、皇室典範起草者の柳原前光が世襲親王家について封建時代の因習という否定的な評価をとったためである [山田敏之, 2018]、この評価は間違っていたと思う。一方、井上毅は、欧州諸国では王族の子孫はいつまでも王族で人民に降ることはないとしてプロイセンの王家の2分家の例を挙げ、両家は家格も王家と同じで世襲親王家に相似しているとして、世襲親王家廃止に疑義を呈したという。
むろん江戸時代の四親王家についていえば、他の公家と同様に、幕府より充てられた知行を相続する近世的小領主ともいえるが、伏見宮家は、皇統上の嫡流の由緒により崇光院流の正当性を担保する含みのある趣旨で特別のステイタスが付与されていた歴史的意義があり、豊臣秀吉により諸公家の所領が収公されて、再給付される以前から、後小松上皇により室町院領という皇室領を永代安堵されていた由緒があり、武家から知行を付与されて創立された他の親王家と同列に扱えない正当性があるのに、分家と同列の宮家にされてしまったことは問題があったというべきある。
天皇の御猶子という親子関係の擬制により皇子に准じた礼遇を受けるというのは、中世律令法の「准的」という法技術により合法であり、皇室典範は、天皇家と血縁的に疎隔しても親王家としてのステイタスが劣化しないこの理屈を排除したため、大正9(1920)「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」のような永世皇族制度が否定されてしまう結果をもたらした。
養子なしの永世皇族制という皇室典範の枠組みを基本的に是認するとしても、伏見宮家が崇光院流の正当性を担保し永続が約され特別のステイタスが付与されていた歴史的意義を踏まえるならば、離脱にしむけたこと自体が間違いである。
近世四親王家は、桂宮と有栖川宮が途絶し、祭祀を継承した高松宮も廃絶、閑院宮は東山天皇系の宮家として実系で5代続いた後、1871年伏見宮邦家親王息の載仁親王(元帥陸軍大将)が継承し、伏見宮系になった。同じく伏見宮系の東伏見宮(のち小松宮)彰仁親王は、明治維新以降、軍事総裁、奥羽征討総督等の功労により1881年に世襲親王家とされており [山田敏之, 2018] 、1889年の旧皇室典範以前に、伏見宮系の世襲親王家は三家あったのであるから、安定的な皇位継承のため、550年維持された天皇家(後光厳院流皇統)と伏見宮(崇光院流皇統)の両存の体制に復帰すべきである。
15世紀から20世紀中葉まで、天皇家(後光厳院流皇統、分枝含む)と世襲親王家としての伏見宮(崇光院流皇統、分枝含む)の両存の体制というのは、中世前期のような、皇位を競望する争いがなく、安定的であった。それは限嗣単独相続の日本的家制度の成立期からといってもよい。
後崇光院太上天皇が『椿葉記』で述べたとおり、天皇家と伏見宮は「水魚のごとく」切り離すことのできない関係になっていた。この体制を取り戻すのが、安定的な皇位継承のために必要であるとの認識である。
以上、伏見宮御一流は皇統上の格別の由緒と、永続が約されている歴史的経緯から、男系男子は復籍して当主として宮家を再興する方向性での議論の収束を望む。
第13節 片山哲首相の皇籍離脱の理由を絶対視するのは間違い
女性宮家推進論者の600年前に枝分かれしたのが伏見宮で血筋が離れているという論難の論拠として昭和22年10月13日の皇室会議における片山哲議長(首相)の説明がある。
「皇籍離脱の御意思を有せられる皇族は、後伏見天皇より二十世乃至二十二世を隔てられる方々でありまして、今上陛下よりしましては、男系を追いますと四十数世を隔てていられるのであります。‥‥戦後の国外国内の情勢就中新憲法の精神、新憲法による皇室財産の処理及びこれに関連する皇族費等諸般の事情から致しまして‥皇籍離脱の御意思を実現致しますことが適当である」とされている。だから今更復帰させることはできないというのが、女性宮家推進論者の主張である。
しかしながら、今日の実証主義的な史学の進展に鑑みると、血縁の疎隔が臣籍離脱してもやむをえない事情の一つとしていることは、伏見宮の皇統上格別の由緒(『椿葉記』の後深草院以来の嫡流を引く、永続が約されている等の)を無視した理由付けとして批判してよいと思う
この論点については、戦前の皇国史観では、光厳天皇は偽主とされ、それゆえ、歴代天皇外とされた光厳上皇が嫡流と認定し皇統の財産を相続した崇光上皇の直系である伏見宮の由緒は不当にも顧みられなかった影響が大きいのではないかと考える。これは今日の安定期皇位継承の議論についても尾を引いている問題であると専門家も認識していることである [野村玄, 2019]。
明治44年(1911)明治天皇の勅裁ではあるが、事実上は山県有朋や桂太郎による南北朝正閏論の世論を抑える政治判断に消極的に同意され南朝が正統とされ、光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の北朝の天皇は 歴代天皇から外された。現在の皇統譜においても光厳以下五代が歴代に数えられておらず、北朝天皇として別冊にまとめられている。
後崇光院以来の皇統上の格別の由緒を誇りとしていた伏見宮御一流にとっては、南朝正統論や皇国史観は痛手になっていたとも考えられる。
もとより、皇統嫡系(天皇家)とて光厳院系であることは伏見宮と同じことだが、伏見宮御一流の皇族は、戦前の日本において多くが陸軍、海軍の武官に任ぜられ、臣民に「義勇奉公」の範を示す役割を担うなど大きな存在だった。
「特旨」により国葬を賜った伏見宮系皇族は、北白川宮能久親王(1895)、小松宮彰仁親王(1903)、伏見宮貞愛親王(1923)、閑院宮載仁親王(1945)と四方おられるにもかからわらず、戦前は南朝忠臣が賛美されたといっても『神皇正統記』が偽主とする皇統の伏見宮とは直接結びつなかったのである。イデオロギー的ねじれといってもよい。
私は、後醍醐の天皇親政を本来の国体とする南朝正統論の思想運動が明治維新に果たした意義が大きいことを認めつつ、皇国史観を引きずる必要はないと考える。
今日の実証史学では光厳上皇の15年間の院政は、院宣を活発に発給し、院評定が開かれ、政務の中心となる文殿が整備され、公家法を完成させた暦応雑訴法が制定され、雑訴興行の充実した政治機構が存在し「公家政務の到達点」とされ [伊藤喜良, 1997]、勅撰和歌集『風雅集』等の宮廷文化を含め、京都朝廷の意義は認められているのであって、北朝は幕府と結びつき公武合体的な構造の政権に進展したが、亡命政権規模にまで縮小した南朝中心の議論は公正さを欠くものである。
後崇光法皇の御著作『椿葉記』や『看聞日記』は戦前も研究されてはいたが、伏見宮の由緒についてはとくに戦中からの村田正志の業績によるところが大きい。
『看聞日記』は室町時代を研究している人なら基本史料なので必ず読んでいるはず。近年では、『椿葉記』や『看聞日記』の諸々のエピソードやその周辺については歴史家だけでなく、国文学系や、芸能、美術史まで詳しく研究されており、私は、現代の研究の進展を踏まえ、伏見宮御一流が、550年間天皇家と併存してきた意義を再確認し、皇統上の格別の由緒を重んじていくべきと考える。
後崇光院太上天皇(伏見宮貞成王当時)は、応永28年(1421)8月17日に石清水八幡宮に代参を立て、奉納祈願した願文には、無位無官を脱すること、旧領の相伝の本復、自らが「皇統」の「嫡流」「正嫡」であり、「小児息災安穏にして一流万代に相続せしめ給へ」と念じ、嫡流が不遇の境界に置かれるのは道理に合わぬことという懸命の祈請立願であった [横井清, 2002]。
この6年後に、御年10歳の伏見若宮が践祚した。
ちょうど600年前、後崇光院が崇光院流皇統の永続を祈念した。この存念を今こそ生かすべきである。
貞成親王はたんに一皇族にすぎないのではない、「至尊」たる太上天皇となられた方であるから、尊重されてしかるべきである。
第2章 有識者会議の設問に対する私の見解
「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議」に関する有識者会議のヒアリングと設問の一部について私の見解を述べる。
第1節 問4 男系男子に限定していること、女性皇族が婚姻に伴い皇族の身分を離れる制度の意義
問4.皇統に属する男系の男⼦である皇族のみが皇位継承資格を有し、⼥性皇族は婚姻に伴
い皇族の⾝分を離れることとしている現⾏制度の意義をどのように考えるか。
〇男系男子の限定を維持し、女性皇族は皇族以外との婚姻の場合は皇族の身分を離れる皇室典範12条も維持すべきで以下の理由で現行制度の改変に強く反対する。
第1項 皇室典範が男系男子に限り、女子を排除しているのは論理的に分析すると「夫帝優先の原則」によるもので妥当である
第1 「夫帝優先の原則」とは
歴史上十代八方の女帝が即位しているにもかかわらず、皇室典範が男系男子に皇位継承者を限定しているのは、相当な理由があり妥当なものである。
皇位が男系継承で、令制で天皇の親族を皇親というが、親王、諸王といった『王』名号が一律父系継承されていること。父系帰属主義であることは第1章、第1節で述べたとおりなので繰り返さない。
継嗣令王娶親王条は皇親女子の皇親内婚を定めている(内親王・女王二世~四世の配偶者は親王・諸王二世~四世に限るとする。延暦12年詔以降二世女王以下の規制緩和がなされたが、内親王を臣下が娶ることは一貫して違法である。
ゆえに内親王は天皇か親王、諸王と結婚するのが本来の在り方である。奈良時代以降では光仁天皇-皇后井上内親王、淳和天皇-皇后正子内親王、冷泉天皇-皇后昌子内親王、後朱雀天皇-皇后禎子内親王など、皇后が皇族女子のケースが昭和天皇-香淳皇后まで10例、天皇が皇女を妃とするのは25例ほどあるが、いうまでもなく、皇親男子が天皇、皇親女子の嫡妻は皇后、后位にのぼせられない場合は妃である。(表-1参照)
皇親内婚はすべて天皇は男子、皇后・妃が女子で例外はない。
嫡系皇統の内親王と傍系皇親が結婚するケースはしばしばあるが例外はない。
「夫帝優先の原則」とは古代史の佐藤長門 [2009, ページ: 286]とが提示した概念で、元明女帝の即位の説明する文脈で次のようにの述べた。
「‥‥王妻から即位した持統の場合、所生子は母親の即位前よりすでに、大王・天皇の子であるため、女帝の子の身分は問題とならず、それが問題化するのは夫が即位しなかった元明のようなケースであり、しかもその場合には配偶者が存命中の女帝の即位はないという”夫帝優先の原則”が適用されるため、その即位時には夫は死去していなければならず、むしろ『不婚の女帝』という属性がここからもあらわになる‥‥」
皇親内婚ではたとえ嫡系の内親王であれ、皇親の男性配偶者が世にある限り、即位するのは男帝、皇親女子の御配偶は皇后もしくは妃なのでありこれは歴史的に一貫した規則性があり、歴史上の女帝で、配偶者のあった四方の女帝はすべて御配偶の天皇の崩御、もしくは御配偶の皇太子の薨去の後に不婚で即位していることを、「夫帝優先の原則」というのである。
女帝は、本源的に不婚が強制されていると主張される。佐藤長門 [2009]や遠藤みどり [2015]「不婚の女帝」論がそうである。桜田真理絵 [2018]は「非婚・未婚」と言っているが、「夫帝優先の原則」と裏返しの意味でもあり、妊娠・出産の役割は皇后・妃で、天下知らしめす君主の役割ではないという見方もあるが、それは女帝は皇統を形成できないということである。それは次節で示すとおり女帝即位が皇后権に由来しているからである。
「夫帝優先の原則」により不婚が強制される女性天皇は、皇位継承順位が規則的にふられ、政治的に皇位継承者が左右されることのない近代の皇室典範になじまない。皇位継承順位に組み込むことは不可能である。
つまりこの規則性が、近代の皇室典範が皇位継承者から女子を排除する理由と論理的に指摘することができる。
第2 女帝は基本的に皇后権に由来するので、皇統を形成できない
我が国では皇后の政治的権能を「しりへの政」というが、日本の女帝は、漢代の太后臨朝(先帝皇后による皇帝代理執政)との類似性を指摘できる。
帝嗣未定で皇帝が崩御したとき、帝が未成年の時に、皇帝に代わり、皇帝の祖宗たる王朝創始者の徳を皇帝の血統・姓の人間に伝える。これは正統的な皇帝嫡妻の機能・性格であり、先帝皇后は帝嗣廃立を含む絶大な権力を有することになる [谷口やすよ, 1978]。基本的役割は日本の女帝も類似している。
中国では宗法により同姓不娶でだから、王権簒奪を意味する先帝皇后の即位はありえない(例外=武則天)。我が国では、6~7世紀の皇后(大后)は全て皇親(大王の近親)であるから即位できる。天皇(大王)と輔政者・共治者としての性格も推定され、敏達朝に私部という皇后(大后)の経済基盤も整えられ [岸俊男, 「光明立后の史的意義」, 1957]、光明皇后までキサイ宮は独立し、独自の経済基盤を有していた [三崎裕子, 1988] [橋本義則, 1996]。その点、皇帝在位のうちは、後宮を統率する権限しかない中国王朝の皇后とは性格が異なる面はあるにせよ、後段で述べる推古女帝の即位への経緯からみて女帝とは皇后権に由来するものとみてよい。
なお、通説では皇后という称号は鸕野讚良皇女(持統)からで、それ以前の令制前大后(オオキサキ)と区別してもよいが、ここでは、令制前大后も皇后と区別しないこととする。
漢代は前漢で3度、後漢で8度、帝嗣未定で皇帝崩御があり、後漢で皇太后の臨朝称制が多く、幾度も外戚政権が立ち現われては「専権」をはたらき誅滅を繰り返していた [藤田高夫, 1990]。
後漢では女性が最高権力を有していた時期が長いのである。漢代の皇后権の根拠は、『儀禮』『禮記』同書祭統において、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえることにあるとしてていることにある。
後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた [保科季子, 2002]。
ただし、夫婦一体といっても「夫者婦之天也」(名例律六条)というように、あくまでも夫の人格に妻が包接されるという意味での一体であって、夫が生存する限りは妻の存在は夫の陰に隠れてみえない。ようやく寡婦になったときには夫の代位者として夫の有していた諸権利をもつことができる‥‥ [梅村恵子, 2000]。
この点、我が国の皇后権は中国的な嫡妻の諸権利というよりも、「大化前代の大后・前大后は、「皇祖母=スメミオヤ」と表現されるような、王族内部の尊長として、皇位継承をめぐる紛争を解決し、王権を安定させるような役割を期待されていた」という見方もあるけれども、我が国の国制にも太后臨朝の統治形態は継受されていたと考えるのが自然である。
実際、呂后に比擬される鸕野讚良皇女(持統)の皇后臨朝称制がそうであるし、光明皇太后の附属職司である紫微中台政権も「皇太后朝」と称されており、天皇大権を掌握したとされるので、変則的な太后臨朝型の統治形態とみてよい。ただ則天武后と違うのは、孝謙を譲位させたのは皇太后であり、天平宝字3年(759)皇太后の決裁で淳仁天皇の先考舎人親王に崇道尽敬皇帝号の謚号を贈り、生母当麻山背に大夫人号、淳仁の兄弟である船王、池田王を令制の規定どおり親王に昇格させた。これは、舎人親王皇統の創成であり、男系王統に帝位を継承させる、太后の正統的役割を果たしたことになる [木本好信, 2004、初出2002]。
貞観18年(876)清和天皇は皇太子貞明親王(9歳)への譲位に際し、右大臣藤原基経に幼主を輔け天下の政を摂行させる詔を出した。基経は二度目の辞表で、太上天皇が世にある時は臣下の摂政を聞かず、幼主が即位したときは皇太后臨朝が行われるとしている [神谷正昌, 2020]。太后臨朝が正統的な統治形態とする認識があったのは確かだ。
しかし、9世紀末には源藤二氏を頂点とする門閥のヒエラルキーが形成され、摂関家が太政官機構を統率、実務官人を掌握し摂関政治が確立したので、太后や女院が皇位継承や摂関の人事に干与したり、美福門院のように宮廷で求心力を有したケースはあっても、太后臨朝の統治形態はなくなった。
以下の古代女帝の即位への経緯をみると、女帝はあくまでも皇后の政治的権能に由来し、皇帝の代理執政で事実上、皇帝と同じ権力を有した、太后臨朝と性格上大差はない。
「皇后 謂、天子之嫡妻也」という令意である。嫡妻が天子をさしおいて、即位はできないというのは当然のことであり、この論点でも「夫帝優先の原則」を補強できると思う。中継ぎの非婚内親王の即位についても、「夫帝優先の原則」により配偶者の存在により、皇后以上にはなれないため非婚という結論になる。以下、古代の女帝が基本的には皇后権に由来していることを具体的に説示する。
〇推古女帝
最初の女帝とされる御食炊屋姫尊(推古女帝)は異母兄の敏達天皇の皇后(大后)であり敏達崩御の後8年後(593)の即位である。つまり敏達の次に即位した同父母兄の用明天皇が1年半で崩御。その次の異母弟の崇峻が殺害されるという王権の危機に、群臣に要請されて御食炊屋姫尊(推古)が即位。同世代では男帝即位が優先されている。
女帝誕生は皇后権から説明するのが適切である。「皇后(大后)が国政に関与するのは、天皇(大王)権が不在か不安定な場合である」。用明崩後、御食炊屋姫尊が物部氏と結んだ穴穂部皇子、宅部皇子を誅殺する詔を出し「御炊食屋姫尊と群臣の推挙によって崇峻が即位していることから、新大王が即位するまでの間の前大后の中継ぎ的な統治権と皇位継承者の決定権が認められる」 [井山温子, 1995]。という指摘は妥当なものといえる。
〇皇極・斉明女帝
皇極女帝(宝皇女、敏達三世孫)は舒明天皇の皇后で。642年舒明崩後の即位。所生の中大兄皇子は当時16歳。大化元年(645)に弟の孝徳即位、中大兄は皇太子、譲位した皇極は皇祖母尊と称された。655年の皇極重祚の時点で、中大兄は30歳で即位しないのは、皇祖母尊が世にある限り即位しないとのマエツキミとの合意があったのか [篠川賢, 2013]、孝徳后間人皇女を政治から遠ざけ、有馬皇子を排除するために、女帝重祚が無難だったのか。
〇持統女帝
持統女帝(鸕野讚良皇女、天智皇女)は天武天皇の皇后で、天武崩後の朱鳥元年 (686)9月皇后臨朝称制、10月大津皇子の謀反が発覚したとして逮捕、死罪に処す。689年4月皇太子草壁皇子急死。690年正月即位。呂后に比擬される典型的な太后臨朝称制である。
〇元明女帝
元明女帝(阿閇皇女、天智皇女)は御配偶の皇太子草壁皇薨去の18年後の慶雲4年(707)所生の文武天皇が25歳で早世し、阿閇皇女は皇太妃という身位で后位ではないが、実質皇太后といってよいし、皇嗣として有力な首皇子は7歳のため、緊急避難的に即位した。子から母への皇位継承は異例だが、天智天皇の「不改常典」によって正当化が図られた。
〇元正女帝
元正即位は、通説では中継ぎであるが、文武が皇后を立てなかったので、文武の姉である非婚独身の氷高内親王が先帝皇后に代わる太后臨朝型の即位という理解でもよいと思う。非婚内親王でも太后臨朝のバリエーションとみなす。
和銅7年(714)首皇子(のち聖武天皇)が立太子、元服を加えたが、15歳でまだ幼稚なため元明は元正に譲位、譲位詔によれば「‥‥神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼く稚くして深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷高内親王は、早く祥符に叶ひ、夙に徳音を彰せり。天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り、謳訟帰くところを知る。今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉く祗み奉りて、朕が意に称ふべし」とのたまふ [早川庄八, 1993] 。元明女帝は政務に疲れたので、皇太子に譲りたいが、まだ幼稚であり、聡明であり沈着冷静な内親王に、皇太子が成長するまで中継ぎとして、皇位を継承させるとという趣旨である。
なお、聖武御生母の藤原宮子は夫人位であり皇后ではないし、重い気鬱症なので代理執政はそもそも無理だった。
〇孝謙女帝
同じく生涯非婚独身の孝謙女帝(阿倍内親王)の天平10年(738)に立太子については、元正上皇や左大臣橘諸兄は反対だったとされ [中村順昭, 2019]、推進したのは光明皇后と考えられるが、史上唯一の女性立太子の意義を解明しなければならない。
それは聖武天皇はこれに先立つ天平6年に「身を全くして命を述べ、民を安みし業を存するは、経史の中、釈教を最上」とし、「三宝に憑り一乗に帰依」することを表明しているように、出家を望む傾向があったということである [川崎晃, 2004]。
一方、光明皇后は東大寺・国分寺創建の発意者であり、天皇より積極的だった。膨大な写経・勘経事業など国家的仏教事業を推進。貧窮民救済のための施薬院や悲田院にも深くかかわった。皇后は皇権の共治体制の一翼を担っていたのである。のみならず、附属職司の皇后宮職の規模が大きかった [中林隆之, 1993 1994]。従って天皇が出家した後、代理執政できる強力な皇后なのである。
問題は、6~7世紀皇后(大后)はすべて皇親で、臣下の女が皇后に立てられたのは、約200年以上昔の仁徳天皇の皇后、葛城襲津彦女磐之媛以来だった。光明子の天皇大権掌握を正当化するには、光明子所生の阿倍内親王の即位が前提となるだろう。
聖武が出家され、国政を投げ出すとなれば、共治体制の執政者、光明皇后に国政が委ねられたのは政策の継承という観点からも安定的で自然の成り行きで、出家による変則的太后臨朝に移行するためには阿倍内親王立太子が必要だったと解釈する。
天平感宝元年(四月改元-749年)の閏5月20日に聖武天皇は大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺などに、あらゆる大乗・小乗の経典を読誦させ、衆生の救済を願う詔を発しているが、その願文中に「太上天皇沙弥勝満」と称し、『続日本紀』は「天皇、薬師寺宮に遷御して御在所としたまふ」とある。
沙弥とは出家者を意味し出家した身で天皇として政務をとれないから宮中から薬師寺宮に遷御され、このことが孝謙の即位を導き出したとふつう理解されている
聖武天皇は天平勝宝元年(七月改元-749年)7月2日に阿倍内親王に譲位した。『続日本紀』に、譲位宣命とそれを承けた孝謙の即位宣命があることから明白であるが、このケースでは譲位の前に既成事実として出家が先行している。
ところが孝謙太上天皇は、大事小事分離宣言の天平宝字6年(762)6月3日詔で「岡宮御宇天皇(草壁皇子の追尊号)直系の皇位継承者が絶えようとしているので、女子ではあるが皇位を継がせよう」という「朕が御祖大皇后の御命」を引き、この命を承けて天皇として政治を行ったとしており、聖武天皇から譲りを受けたとはしてないのだ。これは一見不可解であるが、上皇が在世されているにもかかわらず代理執政者の光明皇后の命で即位したというのは、孝謙が本当の意味での皇嗣でないことを物語っている。
孝謙上皇が草壁皇統嫡系を強弁しているにもかかわらず、女帝には草壁皇統のシンボルたる草壁皇子の佩刀が譲られていない。瀧浪貞子 [1991]によれば、佩刀は草壁皇子-藤原不比等-文武-不比等-聖武と伝えられたが、聖武崩後の天平勝宝8年に光明子により東大寺に献納されている。女帝は皇統を形成できないのである。佩刀の授受に終止符が打たれたことは草壁嫡系がいなくなったことを物語る。
天平16年(744)聖武皇子安積親王が急死し、男子のない草壁皇統が血統的袋小路に入った以上傍系への皇位継承は必定だった。
聖武天皇は遺詔により傍系の新田部親王の子、道祖王を皇太子としたが、天平勝宝9歳(757)孝謙女帝により廃位され、皇嗣策定会議の後、舎人親王の子、大炊王(淳仁)を皇位継承者としているから当然孝謙は中継ぎという認識だった。
光明皇太后の紫微中台の職掌は「居中奉勅、頒行諸司」(『続日本紀』天平宝字二年八月甲子条)、光明皇太后の大政を輔佐し、太政官の中務省に代って、その詔勅奏啓を吐納することにあったといわれる [岸俊男, 1969]。
孝謙女帝の治世は表向き「皇帝皇太后、如日月之照臨並治萬国」(『続日本紀』天平宝字元年壬寅条)とあるように日と月にたとえられる皇太后との共同統治体制ということだが、32歳の成人で即位しながら天皇のぜ執政権は事実上制約されていた。
近藤毅大 [1997]によれば皇権のシンボルである鈴璽(鈴印契)を孝謙女帝が掌握したことは一度もない。即位当初は聖武上皇、後に光明皇太后が鈴璽を掌握しており、孝謙女帝にかわって皇権を行使していたということである。
つまり、孝謙女帝とは、出家願望の強かった聖武天皇が退位後の、光明皇太后の代理執政と、天皇大権掌握を正当化するための、立太子であり即位であった。非婚内親王であるが、あくまでも光明皇太后との共同統治を前提とした即位なので、太后臨朝のバリエーションと評価するものである。
長文になるため、孝謙太上天皇の奪権闘争と重祚の評価は略す。
第3 皇統嫡系の内親王であっても、配偶者がいる限り皇后以上にはなれない
ここでは、皇統嫡系でしかも、皇子がいない状況での内親王について、井上内親王、昌子内親王、欣子内親王について取り上げる。
例えば聖武皇女井上内親王は嫡系の皇統だが、皇后であって、御配偶の傍系皇親である。大納言白壁王が光仁天皇。なお皇后井上内親王は光仁崩後、太后臨朝称制型の中継ぎの女帝として即位する可能性があり、宝亀2年(772)廃后事件はそれを阻止するための謀略である蓋然性が強い [近江昌司, 1962] [榎村寛之, 2007]。
重要なことは、井上内親王は聖武皇女で嫡系皇統(草壁皇統)であり斎王でもあったが、天智二世孫白壁王と結婚した以上、皇后に冊立されても、「夫帝優先の原則」により配偶者の白壁王をさしおいて即位することはできないということである。
10世紀の朱雀皇女昌子内親王も嫡系の内親王といえるが、皇后であって、御配偶の憲仁親王が冷泉天皇。憲仁親王の元服当日、昌子内親王(13歳、満11歳)が入内した [河村政久史, 1973]。
このイトコどうしの結婚は天暦太后藤原穏子の既定方針による婚姻だが、冷泉天皇は奇行で知られ、わずか2年で譲位しているが、だからといって昌子内親王が即位するというジェンダー役割の代替はありえないのである。
イトコどうしといえば、敬宮愛子内親王殿下と悠仁親王殿下が仮に結婚した場合は、令制の慣例にあてはめても、やはり「夫帝優先の原則により」敬宮愛子内親王殿下は皇后であり、悠仁親王殿下が天皇であることは自明である。そのために冷泉天皇の前例を示した。
近世では後桃園天皇が後嗣なく早世し、遺児である皇女欣子内親王を皇后に立てることを前提として、傍系の閑院宮典仁親王息祐宮(光格天皇)が大統を継承しているが、嫡系の欣子内親王が女帝となり、祐宮がプリンスコンソートになるということは「夫帝優先の原則」により全くありえないのである。ゆえに嫡系内親王が、配偶者となる傍系の男性皇族より優先して皇位継承資格を認めることはあってはならない。
この規範性により、皇室典範が男系男子に皇位継承者を限定していることに論理性があるということである。
第2項 英国王室の模倣はありえない
有識者会議のヒアリングで英国王室に詳しい君塚直隆関東学院大教授が、男女を問わず長子(初生子相続)、女系容認と主張されたというが、英国は近年そうなったことは知っている。しかし、そもそも14世紀の英仏百年戦争というのは王位継承戦争で、エドワード三世が、母方でカペー朝直系の血統を継いでいるので、男系だが傍系のヴァロア家のフィリップ6世よりフランス王にふさわしいと主張し宣戦布告し始まったものであり [福井憲彦, 2019]、英国王室というのは昔から、女系でも王位継承の正当性ありという思想なのである。
イギリスの場合男系が途絶すると女系をたどって後継者を見つけてきた。例えばエリザベス一世の後はヘンリー七世の娘マーガレットの曾孫に当たるジャームス一世が即位し、名誉革命でジェームス二世が追放された後は、娘のメアリーと夫君でオランダ人のウィリアム三世の共同統治とした。イギリスの場合でも男系が途絶すれば姓が変わるから、プランタジネット朝、チューダー朝、スチュアート朝というように王朝名が変わるが、我が国は英国王室とは原理原則が異なるのであって、英国王室など初生子相続にしている外国に合わせよなどという意見は棄却されるべき。
第3項 内親王・女王が、天皇、皇族以外と結婚する場合皇族の身分を離れる制度は維持すべきで変更に反対
〇明治皇室典範44条、現皇室典範12条は、令制の内親王・女王の皇親内婚を規定する継嗣令王娶親王条(延暦12年詔で規制緩和され、藤原氏は二世女王を、任大臣及び良家の子孫は三世女王を娶ることも合法としたが、内親王を諸臣が娶ることは一貫して違法)の趣旨を大筋で継受しており、妥当なものである。
そもそも令制(継嗣令王娶親王条)は 天皇の血縁女子の臣下への婚出を禁止し、内親王は天皇、親王号、王号の四世までの皇族の婚姻のみ合法としており、これは記紀に皇親女子と臣下との婚姻事例が一例もないことから、皇室においては令制前の5世紀頃より一貫した規範だとされる [栗原弘, 2002]、実証史学にもとづいて1600年の規範といえるのである。
もっとも、延暦12年(793)詔で規制緩和され、藤原氏は二世女王を、任大臣及び良家の子孫は三世女王を娶ることも合法としたが、内親王を諸臣が娶ることは一貫して違法である。
私は、継嗣令王娶親王条が王権の異姓簒奪を防ぐ役割も担っていると考える。内親王は皇族以外結婚できないので、内親王の所生子は必然的に男系の皇族となるからである。
とはいえ10世紀以降違法だが勅許により内親王が臣下に降嫁した事例は少なからずある。内親王降嫁は村上皇女皇女勤子内親王から、皇女としては嵯峨皇女源潔姫から、養女を除いて、臣下(皇族以外)への降嫁は28方、婚約内定の眞子内親王殿下を加えると29方となる。
藤原師輔への勤子内親王・雅子内親王・康子内親王降嫁は明確に違法である。にもかかわらず勅許された。
これは醍醐崩後、朱雀朝、村上朝においてである。
藤原師輔は摂関家中興の祖である。天慶2年(939)師輔の伯母にあたる皇太后藤原穏子の中宮大夫となって、同3年皇太后に取り入って娘の安子を成明親王(のち村上天皇)の室に入れ(皇后に立てられ冷泉・円融御生母)、権勢の基礎を築き、同7年4月成明親王が朱雀天皇の立皇太弟で、師輔は東宮大夫に転じる。要するに師輔の殊遇は皇太后藤原穏子に贔屓にされ、中宮大夫として仕えていたこと。村上天皇にとって立坊の功労者であり、外戚でもあったという事情が背景にある [角田文衛, 1985初出1966]。
康子内親王が内裏に居住していたときに密会し、村上天皇の怒りをかった。そのため内親王は「御前のきたなさに(前が汚れている)」とか「九条殿〔師輔〕はまらの大きにおはしましければ、康子はあはせ給ひたりける時は、天下、童談ありけり」(『大鏡』『中外抄』) [保立道久, 1996] [中村みどり, 2002] などと伝えられており公然周知の醜聞だったという。
実際統計的にざっくりいうと6世紀の宣化皇女以降から現代まで、天皇・皇族と結婚した皇女(夭折された方含む)約12%、臣下に降嫁した例は約5%程度、8割以上は生涯非婚である
明治皇室典範44条と現皇室典範12条はほぽ同趣旨で、皇族女子は臣籍の者との婚姻によって皇族からの身分を失うと規定したことにより、臣下との婚姻それ自体を違法とはしないが、王娶親王条の主旨を大筋で継受したものといえる。千六百年の法規範は一貫しているのだ。
特に、明治皇室典範のもとでは、婚期まで無事に成長した明治皇女4方、常宮昌子内親王・房子内親王・允子内親王・聡子内親王は、明治41年から竹田宮恒久王(明治41年)・北白川宮成久王(明治42年)・朝香宮鳩彦王(明治43年)・東久邇宮稔彦王(大正5年)に嫁し、昭和皇女1方照宮成子内親王は、東久邇宮盛厚王(昭和18年)に嫁しており、臣下に降嫁した例はない。内親王は皇族内婚の令制の主旨どおりである。
南北朝時代から江戸時代、皇女の大多数(光明皇女より光格皇女までおよそ70方)が尼寺に入寺された。尼門跡(比丘尼御所、御宮室)は寺領経営体の小領主であり、幕末期に皇女が減って、空主となる門跡が相次ぎ荒廃していった。明治維新により皇族の出家が禁止され、皇女を処遇するポストが失われたこともあり、皇室典範では、臣下への婚出それ自体違法としないが、皇族の列から離れるものとしたと私は理解している。
6世紀の宣化天皇から幕末まで史料上検出される皇女が494方(夭折した方含む)あり、このうち天皇及び皇族と結婚した例が58方、臣下に降嫁した例24方(うち内親王は21方)である。明治以降の内親王を加えると、天皇及び皇族と結婚した例63方、臣下に降嫁した例28方となる。内親王の降嫁は令意に反するといえるが、9割5分以上大多数は合法的な皇族との結婚か、非婚だったのである。
江戸時代については、13歳まで無事に成長した皇女50方のうち、結婚した皇女は14方もあり、ほとんど大多数非婚だった中世とは違う。(服藤早苗編著『歴史のなかの皇女たち』. 小学館の2002参照)
内訳は皇后が1方、摂家9方、世襲親王家3方(伏見宮2方、閑院宮1方)、徳川家1方、生涯非婚は36方、内訳は尼門跡28方、女帝2方、女院1方、宮家相続1方などでり、特に在俗のままの非婚内親王で厚遇された方としては次の三方があげられる。
第一に後光明皇女孝子内親王(一品、准后、女院宣下)は、後光明天皇の唯一の子で、後水尾院の意向で、生涯手許に留めて厚遇する方針をとった。御殿が造営されて生母と同居し、御領300石が与えられた。[久保貴子2009]
第二に桜町皇女智子内親王(一品、後桜町女帝)である。寛延元年(1748)幕府から将軍世子家治との密々の縁組の申し入れがあったが、桜町天皇が拒否。桜町崩後に御領300石。なお女帝即位は、弟の桃園天皇の遺詔で、後桃園天皇が5歳だったため、10歳になるまで中継という趣旨である。[久保貴子2009]
第三に仁孝皇女淑子内親王(一品、准后)である、閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料300石を得たが、 11年後親王が薨去、御殿を持たず婚姻先も失い、住まいを転々としたが、長期にわたって空主が続いていた、桂宮の諸大夫たちが、仁孝皇女淑子内親王の桂宮相続を願い出て、幕府に承認され、、幕府は道具料500石を進上されている。[久保貴子2009]
在俗のまま厚遇される内親王は非婚であることが大前提ということである。
全歴史を通じて、皇女が臣籍に降嫁した29方の内訳は、10世紀~11世紀初期に12例、17世紀に9例、戦後4例と特定の時期に集中しているが、それぞれ理由がある。
藤原氏への降嫁が22方(戦後の鷹司平通氏含む)、源氏2方、橘氏1方、徳川将軍家1方、戦後の旧華族2方、旧華族ではない方1方である。なお、皇女ではないが内親王1方の婚約内定を加えると、戦後の内親王降嫁の5例はすべて非皇族ということになる。
以上のことから、昭和18年の照宮成子内親王と東久邇宮盛厚王の結婚までは、令制の主旨にも合致する内親王は皇族と結婚するのが基本と認識があったとみられる。
ところが戦後は内親王が民間に嫁ぐのが通例になった。これは全歴史を通じてきわめて異例なことなのである。
昭和20年代の、孝宮和子内親王・順宮厚子内親王の結婚においても、「平民」性が強調され、カップルの「仲睦まじさ」、「恋愛」感情が注目されていた。鷹司平通氏は旧華族、摂関家への降嫁は、17世紀以来のことだった。日本交通公社(交通博物館)に勤務され月給 6 千円、天皇の娘が「一平民サラリーマン」の妻となる出来事として受け止められた [森暢平, 2014]。皇室の民主化をアピールするうえで、若い内親王が「象徴天皇制が民衆に近づいたことを実感させる存在」だった [河西秀哉, 2008]。
以降、内親王は民間への降嫁が続いており、皇族との結婚がなくなり、一般国民に近い存在となることが通例となっている。
そもそも内親王の臣下の降嫁は元来違法だった。戦後の在り方は本来の在り方ではない。上流貴族の清華家ですら降嫁の前例がないのである。地下官人クラスに降嫁などありえない。我が国では中国王朝の「公主」号を採用せず、独自の「内親王」号を創出した。「内親王」は皇室から皇室へという「内に向いた性格」を有しているので [文殊正子, 1986] [中村みどり, 2002]、本来の意義をわきまえてない、
この設問もそうだが、誤解がないだろうか、戦後は内親王の6方が皇族以外の方との結婚されているため、皇族の身分を失っているが、戦後の在り方は本来の在り方ではなく、たぶんに皇室の民主化をアピールする政策的な傾向があったように思える。
本来内親王は結婚するなら、皇族か天皇である。でなければ非婚である。
明治皇室典範44条「皇族女子ノ臣籍ニ嫁シタル者ハ皇族ノ列ニ在ラス但シ特旨ニ依リ仍內親王女王ノ稱ヲ有セシムルコトアルヘシ」、現皇室典範12条「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる。」とあるが、南北朝時代より江戸時代、皇女は尼門跡として遇されるケースが多かった。明治以降皇族の出家が禁止され、内親王を含め皇族以外との婚姻を合法化したと考えられる。皇族の身位のままの婚姻を否定したことにより、令制の王娶親王条の主旨と整合性をもたせているので、原理原則には反しておらず、この制度を維持すべきというのが、私の意見であり皇室典範12条の変更は絶対反対である。
第4項 夫が世にある限り女性当主はない家族慣行を否定する文化破壊
今日の女性天皇や女性宮家の議論は、不婚であること前提としておらず、英国王室のような女性当主、プリンスコンソート類似の新しい身位の創出を前提としてことが問題だ。
我が国の家族慣行では入婿は家長予定者(次期当主)として迎えられるのであり、配偶者の婚家の娘は主婦予定者となるので、女性当主というものはない。寡婦が中継ぎとして家長を代行することはあるが、夫が世にある限り当主とはならない。婚姻制度というのは性的役割分担があって成立しているものであり、家長、当主となれない入婿というものに価値はない。そのような男性の処遇は侮辱であり屈辱であり容認できない。
戦前戦中の北支、中支の民族学調査で、実は中国では後嗣のない家では、娘と単に子孫をつくるための社会的地位のない配偶者がいたという。これは宗法に反するので軽蔑の対象となった。皇室と庶民の家とは性格が異なる面があるとはいえ、当主とならない入婿という我が国にはなかった男性を侮辱する制度を肯定することの国民に与える影響は大きく、家族規範を混乱させることとなる。それゆえプリンスコンソート類似の身位を創設することに反対であり、結果として女性天皇も女性宮家にも反対である。
第2節 問5 女性天皇を認めるか
問5.内親王・⼥王に皇位継承資格を認めることについてはどのように考えるか。その場合、
皇位継承順位についてはどのように考えるか。
〇内親王・女王の皇位継承資格(女性天皇)は全面的に反対する
この設問については問4ですでに男系男子に限る理由を述べており、内親王・女王の皇位継承資格の否定は裏返しの議論なので、同じ内容になる。
付け加えるなら、歴史上の女帝は八方のうち七方が漢代の太后臨調称制の役割と基本的には概ね同じである。非婚内親王も一例を除きそのバリエーションと理解する。つまり帝嗣未定で皇帝が崩御したとき、帝位継承者が未成年の時、先帝皇后による皇帝の代理執政を太后臨朝という。日本の女帝は男帝の皇位継承予定者ないし候補者が若年の時になる。特殊な例としては孝謙が、聖武の出家に伴う光明皇后の代理執政(太后臨朝と類似)を正当化する共同統治者としての即位と評価できる。
例外は、後水尾が譲位するために即位した明正であるが、近現代の皇室典範は、皇嗣継承順位が定められているため、皇嗣が未定ということはなく、未成年の場合は摂政の制度で対応でき、譲位は制度化されてないので、中継ぎとしての女帝は不要であるほか、女帝では神事が安定的に十分な形で行えない懸念がある
女帝が在位中非婚でなければならない理由について、妊娠出産という女性生理が宮中祭祀に抵触すると観念されていたとする見解を述べる専門家は少ないが、無視できない論点なので引用する。神祇令散斎条の「不預穢悪之事」に対する古記「問。穢悪何。答。生産婦女不見之類」とあり、「仮に、女帝が妊娠し出産することとなれば、この禁忌に触れ、宮中祭祀に支障が生じることにより重大な問題となる」とする [成清弘和, 1999]。
近世の女帝、明正女帝は在位中に、四方拝、小朝拝を行うことはなかった。後桜町女帝は、成人にもかかわらず、多くの儀式や神事に出ていない。四方拝と新嘗祭の場は設けられたが出御されていない [藤田寛, 2011]。
「血穢」が意識されているようであり、この前例からみて女帝では神事が十分な形で行えない何か理由があるのではないか。
第3節 問6 女系継承を認めるか
問6.皇位継承資格を⼥系に拡⼤することについてはどのように考えるか。その場合、皇位継承順位についてはどのように考えるか。
〇女系拡大に反対する。
第1項 男系継承は歴史的に一貫している
男系継承は令制の継嗣令皇兄弟条の継受である。それを否定することはありえない。令制で天皇の親族を皇親という。親王、諸王であるが、一律父系継承であることは以下の専門家の見解のとおり。
「日本律令の『王』(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの『王』名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて『王』名号を称するのである。但し、『王』族の急増をもたらした。その結果、『賜姓』による臣籍降下が日常化し、『王』も『姓』の一種とみなされるようになる。」 [吉田孝, 2006]
第2項 異姓簒奪を合法化するのでありえない
花園院の『誡太子書』に「吾が朝は皇胤一統」 「異姓簒奪の恐無し」 とあり。 皇胤一統とは男系継承のことであり、 皇女と他の姓の者が婚姻してその所生子(皇胤に非ず)が、即位すれば他姓による皇位の簒奪となり、易姓禅譲革命となる。日本国号を棄て去るほかない。..
第3項 男帝優先原則に反する
皇親内婚で男性皇親をさしおいて女性皇親が即位することは絶対ないという原則である。第1節第1項の男系男子に限られるのは「夫帝優先の原則」によると同趣旨のため略す。
第4項 旧皇族の伏見宮御一流の皇統上の格別の由緒を無視している
そもそも伏見宮家の由緒については、『椿葉記』により後深草院以来の正嫡という皇統上の格別の由緒のが記されているほか、近年、室町時代ブームで伏見宮の由緒について研究が進展しており、近年の成果は伏見宮に有利な展開である。永続が約され、特別のステイタスを獲得してきた過程からみて、これを無視して女系に走ることは到底容認できない。
第4節 問7 女性宮家を認めるか
問7.内親王・⼥王が婚姻後も皇族の⾝分を保持することについてはどのように考えるか。
その場合、配偶者や⽣まれてくる⼦を皇族とすることについてはどのように考えるか。
〇いわゆる女性を当主とする宮家は全面的に反対である
第1項 内親王の本来的性格を無視している
令制では皇親内婚を規定し、本来内親王と臣下の婚姻は違法であり許されないものだった。
違法だが勅許により臣下に内親王降嫁の事例は少なからずあるが、歴史を通じて一貫している父系帰属主義により、所生子や配偶者が皇族とされることは絶対ない。この規則性を否定する女性宮家は容認しがたい。
今日の女性宮家の論議は、令制では内親王は臣下が娶ることができない本来的性格を無視した議論なので棄却されるべきである。
ただし院政期以降、非婚内内親王が立后11例や、女院宣下26例があり、厚遇されていた時代もあり、皇室中世より近世に70例以上ある尼門跡が内親王のポストであった時期も長い。そうした伝統から、生涯非婚内親王が、相応の待遇を受けることは検討されてもよい。
しかしながら、今日の女性宮家は、非婚であることをコンセプトにしておらず、女系継承を正当化している英国王室のように王女が婚入配偶者を迎える在り方の模倣である。そして女系の皇族ないし准皇族を生み出そうとするもので、それは令制のと継嗣令王娶親王条の主旨に反し、王権の異姓簒奪を許容する方向性を示すもの故到底容認できない。。
第2項 女性宮家は、右大臣藤原師輔も、太政大臣藤原公季、太政大臣藤原為光を皇族にしてしまうので、歴史の常識が否定されてしまう
10世紀以降右大臣藤原師輔に醍醐皇女の内親王三方の降嫁をはじめとして、違法だが勅許により臣下には降嫁した例を、女性宮家の雛形にはできない。
内親王の配偶者の藤原師輔は冷泉・円融の外祖父であり、摂関家の中興の祖であるが、もちろん内親王三方の降嫁によって皇族になるなどということはない。
右大臣藤原師輔に降嫁した康子内親王所生の太政大臣藤原公季は清華家の閑院流藤原氏の祖であるが、父系帰属主義なので皇族でありうるはずがなく、同じく師輔に降嫁した雅子内親王所生子が太政大臣藤原為光、右近衛少将藤原高光であるが、藤原氏であって皇族にはなりえない。
ただ天皇と近親の貴種であるから、公季や為光は天皇の師範たる太政大臣になれたということである。
女性宮家を認めると藤原師輔を皇族としたうえ、藤原公季も皇族することになり、摂関家も閑院流藤原氏も皇族になってしまい、日本史を否定することになる。
第3項 夫が世にある限り女性当主はない家族慣行を否定する文化破壊
女性宮家の所生子を一般国民に戻すなら男系を維持できるから問題ないとする見解にも反対である、主たる理由として一、第1節第4項と同趣旨である。我が国の家族慣行では入婿は家長予定者(次期当主)として迎えられるのであり、皇室も嫡系の内親王が皇后、傍系皇族で大統を継承する男性皇族が天皇であるから、家族慣行の一致している。プリンスコンソートのような歪な制度は好ましくなく、仮にそうした場合、所生子は准皇族、藤原公季や為光のように貴族になれるのか、厄介な問題をかかえるだけで、非婚を前提をとしない女性宮家にはどのような形でも反対である。
第4項 幕末の淑子内親王の桂宮相続は女性宮家の先例とはいえない
幕末の淑子内親王の桂宮相続が女性宮家の先例という主張に反論しておくと、近世の世襲親王家は、他の公家と同じように、幕府より知行を充行された近世的領主で、事実上幕府の麾下にあった。中世の伏見宮家の家領であった室町院領や播磨国衙領といった皇室領というものとは違う。秀吉は諸公家、諸門跡の中世の知行を収公し再給付することより、知行充行権を掌握し [山口和夫, 2017]、これが徳川幕府に引き継がれたからである。
近世では、皇位継承予定者以外の皇子は入寺得度して宮門跡(法親王)が通例だが、世襲親王家が空主となった場合は皇子が宮家を相続する。
文化7年(1810)桂宮を相続した光格皇子盛仁親王は2歳で夭折し、天保7年(1836年)仁孝皇子節仁親王が桂宮を相続したが4歳で夭折、長期にわたって桂宮は空位だった。しかし家領の経営は諸大夫により続いており、皇子が誕生したときのポストとしてとっておかれた。
そうしたところ文久2年(1862年)10月桂宮家に仕える諸大夫たちが仁考皇女敏宮淑子内親王の桂宮家相続を願い出、幕府も承認したため、非婚内親王の当主は異例だが、文久3年(1863年)淑子内親王は宮家を相続した [久保貴子, 2002]。幕府は道具料500石を進上、時に35歳で生涯独身、慶応2年(1866)准后、一品、明治14年(1881)薨去により宮家は断絶した。。
敏宮淑子内親王は天保11年(1840)閑院宮愛仁親王と婚約し、化粧料300石を得たが、二年後に親王が薨ぜられたため結婚に至らず、朝廷は淑子内親王の住居を用意できず、住まいを転々としていた。江戸時代の皇女の多くは尼門跡(御宮室)となったが、幕末は尼門跡が荒廃したとされ、入寺することはなかったと考えられる。
文久元年(1861)江戸への出立が近づいた和宮親子内親王は、姉宮敏宮淑子内親王の処遇を憂い、御殿造営を幕府に命じられるよう天皇に願い出たとされている。よくできた話であり、降嫁を控えて幕府も拒否できなかったのである。文久の公武関係では孝明皇姉を粗略に扱えないから、宮家当主として非婚内親王を厚遇したものであって、今日考えられているプリンスコンソートを前提とした女性宮家とは性格が異なる。
江戸時代で同様に在俗のまま厚遇された嫡系の内親王としては、後光明天皇の遺児、孝子内親王の例があり、准后、一品、御領300石、女院宣下(礼成門院) [久保貴子, 2009]、この方も生涯非婚内親王であった。
第5節 問9 皇統に属する男系の男⼦を皇族にすることについて
伏見宮御一流、旧皇族の方々の復籍が望ましいその理由は第3章(未登載)で述べるが、すでに第1章を大筋のことは説示していることである。
問9.皇統に属する男系の男⼦を下記①⼜は②により皇族とすることについてはどのように
考えるか。その場合、皇位継承順位についてはどのように考えるか。
〇旧皇族男系男子を現存宮家の養子縁組とするか、独立した宮家の当主として、宮家の再興とするのかという問題について、後者がベストである。但し双方の組合わせなら前者も次善の選択としてありうる
第1項 現⾏の皇室典範により皇族には認められていない養⼦縁組を可能とすること
〇独立した宮家の当主として復籍していただくのが望ましい。次善の選択と考える
後嗣のない現存宮家当主が望んでおられるのか、選定相続か、機械的にあてはめるのか、一宮家に複数以上養子縁組もあるのか、私は旧皇族の矜持を配慮するべきであって養子ではなく、男系男子を独立した当主として宮家を再興、復籍とすることを軸にすべきだと思う。
財産を相続し、祭祀を承継するという前提なら、現存宮家当主がしかるべき方を選ぶことなるのだろうが、かならずしも皇位継承順位が上位の方とは限らず、はじかれた方の不公平感、復籍するなら旧宮号の復活を望んでおられるかもしれない。また養嗣子を猶子程度の形式的な意味であるならば、宮家でなくても、天皇家でもよいわけで、事実上旧宮家の再興にしてもよいと思う。
ただし現存宮家当主が望んでおられるのなら養子縁組も、独立宮家としての復籍との組み合わせもありうるのではないかというのが私の意見である。
現存宮家の養子縁組による皇位継承順位については、二通りの考え方がありうる。男系男子の実系の属性による場合は皇籍離脱前の皇位継承順位、つまり伏見宮→山階宮→賀陽宮→久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮→東伏見宮の順になる。
現存宮家の皇位継承順であれば秋篠宮→常陸宮→三笠宮→高円宮となるが、養子することを認めるとなると、後者の家格順という考え方もありうる。つまり実系の皇位継承順位が低くても養子縁組する現存宮家の家格が高ければ皇位継承順位が高くなる案だが、仮に秋篠宮が3方養子として、御一方が秋篠宮を継承し、他の二方が旧宮号等とするような形になると、3方の順位は実系での順位ということになるだろう。
なお、明治天皇皇女4方や昭和天皇皇女1方が嫁している旧宮家があること。天皇家と比較的近親である男系男子もおられることはネットや出版物の情報として知ってはいるが、私の意見は、そもそも伏見宮は天皇家と血縁的に疎隔しても親王家としてのステイタスが劣化することがなく、皇族からフェードアウトしない特別のステイタスが付与され、永続が約されていたという見解なので、血縁の疎隔は問題にならず、皇族復籍の要件としては、伏見宮御一流の男系子孫であるだけでよく、天皇家との姻戚関係で比較的近親である方にしぼって、現存の宮家の養嗣子として迎える案は反対である。この点、女性宮家反対論者の一部と私の意見は違う。
第5節 皇統に属する男系の男⼦を現在の皇族と別に新たに皇族とすること
〇宮家の再興、復籍をコンセプトとして男系男子を独立の当主として復籍していただくのがベスト
もっとも妥当な案である。小堀桂一郎氏のおっしゃていたように宮家の再興というコンセプトが望ましい。便宜的に皇位継承者が足りないから補充するのでなく、そもそも昭和22年の離脱が問題だったという観点である。中川八洋氏は「旧皇族のなかに若い男系男児は、旧四宮家だけだが今も七~八名おられる。この方々に独立の宮家当主になって頂くだけで、これから百年近く、安定的皇位継承は大丈夫。」 [中川八洋, 2019]とされており、独立した宮家とする点はこの意見に賛成してもよいが、問題はかつての世襲親王家のように形式的にでも当主について天皇の猶子とする手順を踏む必要があるのか。将来、伏見宮系が大統を継承することも想定できるので、その時点でもよいだろう。過去の例で伏見宮貞成親王が実父の後花園天皇が後小松上皇の御猶子となってうえでの践祚であり、実父が閑院宮典仁親王の光格天皇は後桃園女御藤原維子の猶子となった。猶子という親子関係の擬制で直系継承にしているので、皇統の付替えにしない方法が無難と考えるが、その問題にこだわると話が複雑になるので、この際、コンセプトは昭和22年に離脱した11宮家の再興として、昭和22年の離脱が適切でなかった。できるだけ多くの宮家を再興させ、できるだけ多くの旧宮号を復活させるべきである。
- 臣籍降下した11宮家、1920年から1943年にかけ、1907年の皇室典範増補に従い、臣籍降下された12名の旧皇族の末流も含め調査し、男系男子の方々を嫡流、庶流も含め全員皇胤認定する。
。
- 皇胤認定された方々に、復籍いかんにかかわらず暫定的に皇位継承順位を付与する。
- 皇胤認定された方のうちどの方に皇族に復帰していただくのか、当主は成人のみとするのか。宮家の数の適正規模は政治判断になる。辞退される方も想定しうるので、場合によっては三顧の礼を尽くす必要があるかもしれない。10家以上が望ましいが、最低でも3家、その理由は、明治22年の皇室典範制定時に伏見宮系の永続する世襲親王家が3家あったことである。一方皇胤認定された旧皇族が多人数に及んだ場合調整が必要になる。
(第一案)皇籍離脱前の皇位継承順位を優先して復籍していただく。つまり伏見宮→山階宮→賀陽宮→久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮→東伏見宮の順になる。
(第二案)第一案だと宮家の数をしぼった場合、特定の家系が優先され、順位下位の旧皇族がはじかれる可能性があり、各家系で員数をしぼるとか調整が必要ではないか。旧皇族の協議を軸とし、場合によっては養嗣子を望む現存宮家当主も加わって調整する。調整の方法は当事者の考え方が全くわからないので微妙な問題ともいえるが、政府が介入せず内々で調整されてもかまわないと思う。
(第三案) 男系男子のない旧宮家もできる限り尊重して復籍者を指名できるものとする。
11宮家の再興をコンセプトとし、旧皇族の当主もしくは代表の方が御一方ずつ復籍する男系男子を指名できる方法である。
伏見宮→山階宮→賀陽宮→久邇宮→梨本宮→朝香宮→東久邇宮→北白川宮→竹田宮→閑院宮→東伏見宮の順で現当主もしくは各家の代表者がドラフト会議のように指名していく。むろん自薦、御自身を指名してもよいのである。辞退者が多かったら一巡、二巡とやっていく。
旧宮家当主で実子の男系男子がいない場合でも、皇胤認定された方の伏見宮御一流のなかから指名して、旧宮号も再興できるものとする。指名行使を辞退してもよい。指名行使が7方だったら7方が宮家当主となり、さらに現存宮家当主も加えて養子縁組の指名もできるようにしてもよい。3方あったなら合計10家となるというやり方である。
宮号については、花町宮、高松宮、常磐井宮、桂宮など、しばしばかつてあった宮号が復活することがあるので、当事者の御意向次第で、旧宮号でもよいし、新宮号でもよいと思う。
第6節 問10その他安定的な皇位継承確保のためのアイデア
.問10安定的な皇位継承を確保するための⽅策や、皇族数の減少に係る対応⽅策として、
そのほかにどのようなものが考えられるか
〇 皇統の男系男子と認定された方は、全員候補者と認定し末流まで皇位継承順位を付与する(皇族に復帰せず民間人のままでも継承順位をつける)
百年安泰でなく、千年安泰の制度設計となれば、旧宮家の再興、皇族復籍というだけでなく皇統の男系男子として皇胤認定された方は、潜在的皇位継承候補者と認定し、この後宮家が途絶した場合の補充要員とすることがあってもよい。
臣籍降下した11宮家、1920年から1943年にかけ、1907年の皇室典範増補に従い、臣籍降下された12名の旧皇族の末裔も含め調査し、男系男子の方々を全員皇胤認定し、皇位継承順位を付与する。
伏見宮御一流だけでよい。さしあたり宮家の数に適正規模があるので、皇籍復帰をはじかれたとしても、あるいは辞退したとしても、その御子孫を含めて、予備役のような補充要員とする案である。
つまり家格としては、復籍した皇族と概ね同等の方々をただの民間人にしておく手はないということである。
この場合、准皇族とせず、国家的給付のない民間人のままとする。これについては、左翼から上級国民をつくると反発はありそうだが、安定的皇位継承者の確保を第一に考えれば検討すべきだ。
明治皇室典範の起草の過程で、井上毅は、欧州諸国では王族の子孫はいつまでも王族で人民に降ることはないとしてプロイセンの王家の2分家の例を挙げ、両家は家格も王家と同じで世襲親王家に相似しているとして、世襲親王家廃止に疑義を呈したという。
明治22年の皇室典範で、養子が禁止され、天皇猶子として親王宣下される世襲親王制度が廃止された [山田敏之, 2018]。それ自体問題があったと考えている。皇室典範起草者の柳原前光は世襲親王家について封建時代の因習という否定的な評価をとったがこれは間違いである。確かに江戸時代の宮家とは幕府が充行した知行を相続する近世的小領主だったのである。
しかし、世襲親王家とはそもそも伏見宮家だけの特別のステイタスだったのであり、崇光院流が後深草院以来の正統の由緒があること、持明院統皇統文庫を相続していること、琵琶など持明院統嫡流の流儀を継承した皇統上格別の由緒があること。、崇光院流御一統が久しく栄えなければならないと、天皇家と伏見宮は、水魚の如く親睦していくべきという後崇光院太上天皇の親王時代の著作『椿葉記』の趣旨にもとづいている。
伏見宮家は、皇統上の嫡流の由緒により崇光院流の正当性を担保する含みのある趣旨で特別のステイタスが付与されていた歴史的意義があり、豊臣秀吉により諸公家の所領が収公されて、再給付される以前から、応永23年(1416)後小松上皇により後高倉院由来の皇室領室町院領を永代安堵されていた由緒があり、清華家、大臣家クラスが後見し、廷臣を伺候させ、家礼を従えている点では小規模といえ、権門であった。武家から知行を付与されて創立された他の親王家と同列に扱えない正当性があるというべきである。
もっとも皇室典範は永世皇族制度をとったが、天皇と血縁が疎隔しても宮家のステイタスが劣化しない根拠となっている、猶子制度、つまり、親王とは本来天皇の兄弟が皇子の身位だが、天皇の猶子として皇子に准じた礼遇を受けるとがゆえに親王宣下という理屈が捨てられたので、大正9(1920)「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」のように永世皇族制度を実質否定するような問題を惹起してしまったということである。この世襲親王家の意義をを十分踏まえたうえでの永世皇族制とすべきであった。
今日的観点では井上毅の欧州諸国では王族の子孫はいつまでも王族で人民に降ることはないというアイデアを生かすべきだと考える。
つまりフランス王権はユーグ・カペーの989年の即位から、男系継承で、復古王のブルボン朝最後のフランス王シャルル10世(在位1824~30)まで一貫している。七月王政のルイ・フィリップ(在位1830~48)もオルレアン家という傍系だが、カペーの系譜につながるという [福井憲彦, 2019]。
フランス王権は単婚婚姻非解消主義の文化圏でありながら、男系継承でも王位継承者が枯渇することはなかったのである。
カペー朝は直系男子に恵まれ、15代341年続き、カペー朝の奇跡といわれる。続くヴァロア朝は傍系の男系男子で、1374年シャルル5世のヴァンセンヌ勅令で男系継承の王位継承法を成文化した。これはゲルマン部族法典のサリカ法典で「ただ土地に関しては、いかなる相続財産も女に帰属するべきではなく、全ての土地は兄弟たる男なる性に帰属すべし」を法源としている [佐藤賢一, 2014]。ヴァロア朝はアンリ3世で途絶したため、1589年に末流のブルボン公家の分家でヴァンドーム伯家(後に公家)のアンリ4世が即位したが、十代遡ってカペー朝に繋がる傍系である。当時の人々はヴァロア朝が絶えた時は、ブルボン公家が王位に就くときちんと認識していたため混乱することはなかった。
欧州のように、王位継承順位が、男系の論理なら男系で末流まで王位継承順位がふられていくあり方と同じにするということである。。
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