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カテゴリー「皇室典範問題」の38件の記事

2012/12/23

不快な東京新聞社説

 先日、女性宮家創設を検討するパブリックコメントについて約26万7千件の多くを反対意見が占め、安倍自民党総裁は反対の立場で、政府が年明けの通常国会で目指していた皇室典範改正案の提出は見送られると報道された。http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS18025_Y2A211C1PP8000/
 私のパブリックコメントは締め切り日の12月10日に出した。http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-fbcb.html もちろん反対であるが、要旨は、我が国の家族慣行(「家」制度)では、婿養子は、家長予定者、家督相続者として迎えられるのであって、婿を迎える長女というのは主婦であって当主になるわけではない。このことは人類学者も明らかにしていることである。「女性宮家」というのは配偶者となる男性が当主にならないという点で我が国の慣行からみて異常なものであり、もちろん前例もない。男子の沽券にかかわる問題で、このようないびつな制度をつくるべきではないというものである。
 それはともかく、キオスクで左派色が強いと評判の東京新聞を買い電車の中で、本日の社説「天皇誕生日に考える 女性宮家が遠くなる」を読んだ。要するに社説は安倍新政権がこの問題を白紙に戻すというのはよろしくないということを言っているのだが、歴史認識において首をかしげざるをえなかった。
 この部分である。
「初代の神武天皇から百二十五代の今上天皇までの歴史には八人十代の女性天皇が含まれます。そして、天皇は国民の安寧や国の発展さらには世界の平和を祈る存在です。そこに男女の別はなく、皇位もまた千数百年一系の天子によって引き継がれてきた歴史事実こそが尊く、男系か女系かではないと思われるのです。」
 言い換えると、天皇は国民の安寧を祈ってくださる有り難い存在だが、そこに男女の区別はなかったと言っている。
 
 神事を執り行うことが天皇の存在意義であるという見解を否定しない。しかし、男女の区別はないはずだというのは間違っている。
 昨年刊行された藤田寛(日本近世史-東大名誉教授)の『天皇の歴史6 江戸時代の天皇』講談社の196頁以下によると「大事な神事が、女性天皇であるがゆえに安定的に、あるいは十分な形でおこないかたちで行いえないという問題がある。その理由は女性であるがゆえの「穢れ」である」と言う。
 明正女帝は数え七歳で即位され14年間の在位中に、四方拝や、小朝拝を行うことはなかったという。元旦の早朝からはじまる四方拝は重要な神事であり、欠けることなく江戸時代まで続いていたにもかかわらずである。
 後桜町女帝は大嘗祭こそ挙行されたが、数え二十三歳で即位され8年間の在位中、その場を設けるものの四方拝に出御されることはなく、御所内で行われていた新嘗祭に一度も出御されることはなかったという。
 結論として、「江戸時代にたしかに女性天皇が二人存在したが、その本質は「つなぎ」役であり、政務は摂政が代行し、神事もきわめて不十分にしか行うことができなかった。いわば「半天皇」でしかなかった」と述べる。
 宮中祭祀や儀礼を重視すればするほど、女性天皇は困難な問題があるといえるのではないか。そういうと奈良時代の女帝は神事を執り行ったのではないかとの反論もあろうが、幼くして特殊な事情で即位された明正はともかく、成人になって即位され、譲位後、上皇として政治力も有していた後桜町ですら、在位中、四方拝も新嘗祭も一貫して出御されていないという史実は前例としてみると重いと思う。無視できないのである。少なくとも東京新聞の言うように男女に区別がないとはいえない。

2012/12/10

女性宮家についてのパプリック・コメント

締め切り日になったがメールで内閣官房皇室典範改正準備室に送った。内容は以下のとおり。

「皇室制度に関する有識者ヒアリングを踏まえた論点整理に対する意見」

1.Ⅰ-A案女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持し、配偶者や子に皇族の身分を付与する-反対2.Ⅰ-B案女性皇族が婚姻後も皇族の身分を保持し、配偶者や子に皇族の身分を付与しない-反対 
3.国家公務員案-賛成 
4.民間人となっても尊称保持案-反対
5.旧皇族男子の養子・復帰案-賛成 

(理由)

  1と2は内親王が婚入配偶者を得たうえ宮家当主となる制度だが、三点の理由で反対する。
第1に皇室において前例がない。
第2に男子が跡継ぎ、家長予定者にならない入婿というのは日本の一般的な家族慣行の規範にも著しく反する点で家族倫理を否定するものとして放置できない。
第3に内親王は伝統的にいえば、継嗣令王娶親王条において、皇族以外(臣家)と婚姻できないのが規範で、女皇親(内親王以下四世女王まで)は臣下に降嫁するを得ずとされ、内親王は令制において天皇、親王、二世~四世王のみ結婚相手として適法である。この皇親女子の内婚規定は延暦十二年詔において二世女王が藤原氏ないし大臣家への降嫁を認め緩められたが、内親王は従前と同じである。よって、村上皇女内親王三方の藤原師輔の降嫁以降、内親王の臣家の降嫁がみられるが、違法であるが、勅許により例外的に許されたものと認識すべきである。つまり、歴史的にいえば、内親王という身位を保持するには皇族に婚嫁するか、生涯非婚であるのいずれかであることが大原則なのであるから、その意味で皇室典範12条は、伝統規範に沿ったもので、これを改正することは容認しがたい。
4に反対する理由は、なるほど江戸時代において宮家や摂関家などに婚嫁した皇女は、内親王宣下のうえ結婚した。しかしそれは、家政組織を附置するためか婚家においても皇女としての体面を失わないためのものだろう。静寛院宮親子内親王にしても婚嫁した以上徳川家に従っており、皇族としての活動を行うものではない。黒田清子さんが神宮の臨時祭主に就任されたというが、現代においては尊称がなくてもこうした役目を果たすことは可能である。諸機関の名誉総裁等も尊称がなくても可能ではないのか。
それでも政府が内親王殿下に公務を負っていたただきたいというなら、対案として、結婚されないことを選択した場合に、生涯非婚であることを前提にして、「女院」宣下相当の手続きのうえ、独身でも内親王家の家政機関を設け相応の歳費を支給して、公務を分担していただく。院政期から鎌倉時代まで非婚内親王が天皇准母としての皇后や女院として皇族の活動を行ったのは伝統的なものであるから、それが妥当であると考える。

 理由第2の補足 (日本の一般的な家族慣行の規範にも著しく反する)
 皇室・皇族と民間の家・同族の成員交替過程はルールが違うので同列には論じられない。しかし皇室は家族のモデルとして多くの国民が受けとめていることが多い。それ故国民的規範から逸脱するようなモデルの宮家創設には反対だ。我が国の民間の家族慣行では「家」の跡継ぎは、男子がいない場合婿養子、娘もいなを・い場合養子が選択される。人類学者の清水昭俊国立民族学博物館名誉教授は日本の家・同族を準父系と定義する。中国や韓国の伝統的な宗族・門中では婿養子は宗法に反するのでありえない。父と同じ父系出自の宗族・門中の男子を養子するのである。ただし中国は厳密には準父系で、入贅により娘の男子を系譜の継承者とする実態もある。戦前の北支慣行調査でも知られていることである。しかしそれは日本の婿養子と違って、その男性は宗法に反する非正規の家族成員として軽蔑の対象となるのである。
 現在の皇室典範では、民間出身の后妃も含め皇族の範疇としているが、令制の皇親の範疇(親王号や王号を称することのできる皇族の範疇といってよい)が人類学でいう単系父系出自の親族であり、よって皇室・皇族においては、民間の異姓の婿養子のような家の跡取りはルール違反である。しかし、にもかかわらず民間の家族慣行として一致している点がある。若夫婦はつねに男性が当主の跡つぎになり、父(義父)の地位を継承するということである。皇親内婚で入婿的な皇位継承がいくつかある。嫡流の皇女と傍系の皇族が結婚したケース、光格后欣子内親王(後桃山皇女)が嫡流の皇女だが、即位せずに中宮となる。父の地位をつぐのは常に男子なのだ。
 民間でも同じことで、男子がない場合娘が婿を迎えるが、実子の娘が当主になるわけでなくあくまでも主婦である。婿養子は家長予定者、家督相続者として迎えられるのだ(清水昭俊「<家>と親族 : 家成員交替過程(続) : 出雲の<家>制度・その二」『民族学研究』 38巻1号1973)。この家族慣行により男性の尊厳は維持されるし、婿養子による家職・家業の継承もうまくいっている。しかし「女性宮家」に招婿(入贅)する男性は義父の地位を相続できないだけでなく、一代限りとなれば、父の地位も子に継承できない、中国の入贅のような男子の尊厳を維持できない非常にいびつな制度で社会規範を混乱させる。

理由1の補足 (前例なし)
 所功氏などが前例としている文久二年に非婚の敏宮淑子内親王(仁明皇女)が桂宮の当主となったケースは、住まいを転々としていた敏宮が、火事により一時、長期にわたって空主となってた桂宮邸に避難され、屋敷が老朽化していたため、妹の和宮親子内親王が姉のために幕府に御殿の新造を願出た。公武合体政策により幕府は和宮の願いを拒否できず、その後桂宮家に仕えていた諸大夫たちが敏宮の桂宮家相続を願出、幕府が了承したという経緯によるものだ。敏宮に与えられていた三百石の化粧料に加えて、道具料五百石が進献されており(服部早苗編『歴史のなかの皇女たち』小学館2002)桂宮家相続は内親王を厚遇するとともに、朝廷側が幕府から御殿改築の費用を調達させる口実にしたものと考えられる。内親王は閑院宮愛仁親王と婚約したが親王が早世されたため独身だった。江戸時代の内親王は宮家や摂関家に婚嫁するか、出家して比丘尼御所となるかが大半である。非婚内親王では後光明皇女孝子内親王が女院宣下により厚遇されているが、そのケースに類似したものと認識してよい。淑子内親王は宮家の当主となった後も婚姻しておらず、女性当主といっても、今日の高円宮妃が当主であるケースと同様独身であるから、(Ⅰ-A)案の前例とはいえない。

 最後に旧皇族男子の養子・復帰案-賛成の理由を簡単に述べる。先頃陛下が宮内庁書陵部を訪れ、崇光天皇の書などをご覧になったという「皇室アルバム」を視聴したがうれしく思った。旧宮家は伏見宮系であるが、その由緒というものは後崇光院伏見宮貞成親王の『椿葉記』に書かれているように、伏見宮家の祖とされる栄仁親王の父、崇光上皇が持明院統の正嫡とされ、文庫のほか長講堂領、法金剛院領、熱田社領などの主要所領を相続しており皇位継承の正統性を有する。その由緒や歴史的経過については書陵部の研究者を使ってアピールすべきではないか。最近の研究でも栄仁親王は土岐頼康の支援を得て、一時は皇位継承の最有力者だったことも判明しているし、その由緒のすごさというものを国民にアピールしたうえで復籍が望ましい。『椿葉記』でも書かれているように、皇室と伏見宮家は魚と水のように親しくあるべきだということである。

2012/03/04

女性宮家ヒアリング 識者意見の疑問点 今谷明帝京大特任教授(第一回)

 2月29日から始まった内閣官房皇室典範改正準備室による「皇室制度に関する有識者ヒアリング」(第一回今谷明帝京大学特任教授とジャーナリストの田原総一朗)について疑問点を述べる。(私は皇室典範十二条改廃に反対。女性宮家創設ももちろん反対なので、その観点から批判する)

 一 今谷明帝京大学特任教授の意見に対する疑問
 
 

 首相官邸のホームページで現在(3月4日)公開されている今谷明のヒアリングの資料の一部が下記のとおり
 
 皇室の御活動と女性宮家 (私説と簡略な回答)
 現皇室の御活動
①憲法で規定の国事行為
②祭祀行為
③象徴としての公的行為
※天皇の藩屏は必要。陛下の御高齢、御負担を勘案

 これより詳しい内容が発表されるのか知らないが、上記の資料では具体的な発言が不明であり、3月1日付産経新聞のヒアリング要旨http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120229/plc12022921220021-n1.htmに拠って今谷氏の発言について批判することとする。

 
 
 (一) 「幕末以前にも例があり、女性の方を宮家に立てることはありうべきことだ」と言う発言
 
 

 幕末以前の例とは、文久二年十二月二三日(1863年2月11日)仁孝皇女・孝明皇姉の淑子内親王が、天保七年(1836年)以来、30年近く空主であった桂宮(近世四世襲宮家の一つ)を継承し第12代当主となった例を指すと考えられる。
 しかしながら、このケースは、形式的には内親王が宮家当主であったことはまぎれもないが、淑子内親王は閑院宮愛仁親王と婚約されたにもかかわらず、結婚の前に天保一三年(に親王が薨ぜられたため生涯非婚であり、独身であることを前提とした一期分相続という特殊な事例である。これは、桂宮御殿を居所とし所領と宮家の家政機関を附置することにより非婚の内親王を厚遇するための宮家当主という性格が強い
 室町時代以降、朝廷においては皇儲、宮家を創立、継承する親王、あるいは婚嫁する皇女、王女以外は、皇子であれぱ門跡寺院、皇女であれば比丘尼御所に入室されるのが通例であった。
 江戸時代では、皇女のうち13歳以上まで無事に成長された五十方のうち、結婚されたのは十四方(皇后は1例、その他摂関家や世襲宮家当主との結婚)であり、三十六方が非婚であった。その大半は御宮室(皇女のみが入室される比丘尼御所-註1)に入室されるケースであるが、例外として出家されずに生涯独身だったケースとして、後光明皇女孝子内親王が嫡流の皇女として厚遇され、一品、准三宮、女院号宣下(礼成門院)された前例がある。
 むしろ、淑子内親王も一品に叙位されており、孝子内親王のケースに類似しているとみるべきだろう。たまたま桂宮が空主であったので、宮家の当主として遇し、孝子内親王のように女院号宣下はなされなかったというものと理解できる。
 また、内親王が桂宮を継承したのは、公武合体派と尊攘派の政治対立が激しかった文久期であったという特殊な背景もある。
 仁孝皇女和宮親子内親王の徳川家茂への降嫁が勅許されたのが万延元年(1860年)、江戸に下向されたのが翌年の文久元年のことである。淑子内親王は宮家を継承する前から旧桂宮邸を居所とされていて、和宮も一時淑子内親王と同居されていた。和宮は旧桂宮邸から江戸に下ったのである。その時、和宮が姉宮である淑子内親王の屋敷が荒れているのを憂い、幕府の財力で修復を願い出た。幕府としては「手元不如意」で断ろうとするが、天璋院の指示で修築がなされた。内親王の宮家継承は御殿の修築費用を引き出す口実であったとも考えられる。つまり幕府としても和宮降嫁勅許で助かったのだから、孝明皇姉を粗略に扱うことはできなかったし、和宮の姉宮への配慮によって幕府の費用で御殿が修復されたことから、異例なことではあるが内親王でありながら宮家の当主とされたという事情があったものと推察できるのである。
 
 桂宮家は江戸時代の四世襲宮家では、伏見宮についで古く、後陽成皇弟智仁親王(豊臣秀吉猶子)が初代であり、はじめは八条宮、のちに京極宮と称した、主な所領が平安京近郊の桂周辺にあり石高三千石であるが、公仁親王が明和七年(1770年)に薨ぜられて世襲が途絶したので、これより後は、直宮のために確保されていた宮家(所領)とみてよい。下記の系図にもあるように、光格皇子盛仁親王と仁孝皇子節仁親王が宮家を継承したが夭折により空主の期間が長いのである。節仁親王が薨ぜられてなければ、淑子内親王は「定員外」なので、宮家の継承はありえなかった。
 世襲宮家の世襲が途絶して空きがあれば、皇子が門跡寺院に入室せず宮家を「定員内」で継承できる江戸時代の制度と、今日の世襲の継承者がなければ途絶する宮家とは性格が異なり、淑子内親王の例は空主の期間の宮家を上記に述べた政治的事情から内親王の一期分相続でうめたものと理解することができる。
 
 そうしたことから、今日内閣府が想定している女性宮家とは、内親王ないし女王が生涯独身であることを前提とするものでないし、所領の一期分相続という意味での宮家ではないので、この例を前例とみなすことは問題があるし、「ありうべきこと」という結論を安易に導いた今谷明氏の発言は著名な学者に対し僭越だが軽率に思えるし、妥当なものではない。
 
 通史的にみると内親王を厚遇するための身位としては、院政期以降11例ある非婚内親王の皇后(註2)や、30例ある非婚内親王の女院号宣下がある。
 皇統の控えと言う意味での宮家ではなく、もっと広い意味で附属職司・家政機関を有し皇族としての活動を行うという点で、それも「宮家」というなら、非婚内親王の女院も広い意味での宮家である。そのような趣旨なら「女性宮家」も前例があるとはいえる。もっとも室町時代以降は内親王宣下が途絶しただけでなく、先に述べたように皇女は比丘尼御所入室が通例となったので、内親王が厚遇された時期は膨大な王家領荘園群の経済的基盤があった院政期から鎌倉時代である。
 この時代の非婚内親王女院の皇族としての活動は、王家領荘園群の管領(註3)のほか、院宮給(年官年爵)による叙位、官職推挙もあると思うが、いずれにせよ皇族としての活動が認められるのは非婚内親王であった。
 したがって非婚でない女性宮家というのは全く伝統に反するといえるのである。 
 
 つづく
 

Photo_5


 (註1)御宮室 - 大聖寺、宝鏡寺、曇華院、光照院、霊鑑寺、圓照寺、林宮寺、中宮寺 

    荒川玲子「比丘尼御所における御所号勅賜の意義」『書陵部紀要』38 1986参照

(註2)皇后とは本来は天子の嫡妻のことであるが、我が国特有の制度として院政期から鎌倉時代に非婚の内親王が皇后に立てられたケースが11例ある。初例は白河皇女令子内親王であり、鳥羽准母としての立后であった。鳥羽は五歳で即位したが、生母藤原苡子は生後まもなく薨ぜられたため、幼帝の行幸を扶持し同輿する准母が必要だったので、伯母にあたる内親王が准母とされたのである。しかし准母は名目的でたんに内親王を厚遇するための立后も少なくない。なお、非婚内親王の皇后11例のうち10例が女院宣下されているので、非婚内親王の女院宣下30例のうち20例が后位を経ることなく女院宣下された例である。

 (註3)とくに鳥羽皇女八条院暲子内親王、後白河皇女の宣陽門院覲子内親王が膨大な王家領荘園群を相続したことで知られているが、八条院は富豪中の富豪であるのにおおらかな性格で、蔵はからっぽ、埃っぽい御所でもかまわずのんびりと暮らしていた。院庁は鳥羽院近臣や美福門院近臣で固められ。つまり女院領は院近臣の利権ともなり、女院が荘園群を管領したことは院政のシステムにマッチしていたものと考えられる。なお鳥羽院と美福門院により集積した二百数十カ所といわれる八条院領は春華門院昇子内親王(実質は後鳥羽院が管領)→順徳→後高倉院→安嘉門院→亀山院と伝えられて大覚寺統の基幹所領となった。一方、待賢門院の法金剛院領を相続したのが上西門院統子内親王をへて後白河院へ、後白河院により集積した長講堂領を加えたものが宣陽門院領で、これは、後深草院が相続し持明院統の基幹所領となった。

2011/12/25

チャンネル桜の女性宮家討論をちょっと見た感想

 【討論!】女性宮家創設論に隠されたもの[桜H23/12/24] の最初のパートをみたが、一つ気になったことがある。http://www.youtube.com/watch?v=WdVJJxAxDBY&feature=youtube_gdata
 司会の水島氏が「女性宮家」は前例がないと言ってるが、そうともいえない面もある。仁孝皇女淑子内親王が異母弟桂宮節仁親王薨後、桂宮家を継承とし宮家当主となったケースがある。もちろん内親王は閑院宮愛仁親王と婚約されたが親王が薨ぜられたため独身であり、弟の代理として宮家を一期相続したものにすぎず、今日考えられている「女性宮家」とは性格は違う。
 例外的に淑子内親王が宮家を相続したのは次のような事情があったようだ。
 桂宮家の御殿には、徳川氏に降嫁する前の和宮親子内親王も居所とされていたが、屋敷が荒れており、幕府の財力で修復された、幕府から淑子内親王への経済的援助を引き出す口実でもあったと考えられる。
 前例がないとか言い切ってしまうと女系派の所功教授あたりから、桂宮の例があるじゃないかとか切り返されるから注意したほうがよいと思うよ。

2009/11/29

小林よしのり 天皇論追撃篇批判3

1 易姓革命の認識について

 小林よしのり『天皇論』小学館2009年の歴史認識でひとつ疑問に思ったのは、281頁(小林から引用-赤)

「皇帝が自ら徳を失ったことを悟り、位を譲ることを「禅譲」というが、事実上その事例は伝説の時代しか存在しない。 新たな徳を備え、天命を受けたとする一族が、徳を失った現在の皇帝を武力で追放し、新たな王朝を建てるというのがほとんどであり、これを「放伐」といった。 シナ史はこれを繰り返していく。」 小林から引用-赤)という中国史の説明である。

 「禅譲」が伝説の堯から舜へ、舜から禹への例に限られるわけではない。現実にも禅譲形式をとる易姓革命の例は多いので、小林よしのりの歴史認識は偏っている。
 『世界歴史体系中国史2-三国~唐-』山川出版社1996年窪添慶文「補説2禅譲」19頁によると「禅譲」は前漢末の王莽を嚆矢として、五代後周の恭帝と宋の太祖趙匡胤の例まで14の実例(ただし王莽の場合は前皇帝からの禅譲ではなく、高祖の神霊からの伝授であり、禅譲を受けてまもなく敗死した桓玄を含めると15例)があるという。
 前漢から新、後漢から魏、魏から西晋、東晋から宋、宋から斉、斉から梁、梁から陳、西魏から北周、北周から隋、隋から唐、唐から梁といった例であるが、基本的モデルは周到な手順を踏んで実現した漢の献帝から魏の曹丕への禅譲で、これが「魏武輔漢の故事」という先例となり、以後、これを手順として王朝交替を正当化した。

動画人形劇-曹丕に帝位を禅譲すhttp://www.youtube.com/watch?v=wxCKXOegnPM動画東アジア歴史地図http://www.youtube.com/watch?v=xwYq_27E5Gs

 実際には力による政権の奪取であっても、無私の君主の自発的意志による政権委譲という形式をととのえて禅譲されるのである。漢魏革命においても準備段階では抵抗勢力を排除するなどしたが、禅譲の段階では流血はなく献帝は余命をまっとうした。しかし晋の恭帝などは譲位後殺されており、南北朝時代は流血の例も少なくない。
 とはいえ禅譲形式が15例もある以上、王朝交替の基本的な在り方は、「魏武輔漢の故事」にもとづく禅譲であって、無道な暴君や暗君を討伐する放伐を主流とするとする見方「皇帝を武力で追放し、新たな王朝を建てるというのがほとんど」 と言う小林の見解は誇張していると思う。

2 小堀桂一郎批判について
 
 『正論』12月号の小堀桂一郎が「共感と違和感と」も私も読んだが小林よしのり『天皇論』批評は概ね適切と考える。「女系天皇の出現が即ち無血革命の仮面をつけた易姓革命を意味する」と述べたのは基本的に正しい。「女系天皇」というがそれは簒奪王朝であるから天皇という君主号を称するに値しないとも考える。

 小林よしのりは、次のように小堀桂一郎を批判する。
「わしは田中卓と新田均氏の議論も読んだし、小堀氏が紹介している論文はもちろん、皇族に関する本はすべて入手した」と豪語したうえで
「全部読んで見当〔検討?〕してみたところ、有識者会議を経て出された改正案「直系長子優先」で問題ない、という結論に達した‥‥‥‥小堀氏に言っておかなければならない。将来、女性天皇が結婚することとなれば、男(皇婿)は戸籍が消滅し「姓」がなくなるのだから、「易姓革命」など起こるわけがないではないか! 誰が誰を放伐すると言うのか? そもそも「苗字」は姓ではないし小堀氏は「易姓革命」の意味すら全然わかっていないのではないか。」と一読して理解しがたいことを言っている。

(中国における「姓」概念)

 小林よしのりが皇婿の「姓」はなくなるから易姓にはならないという見解が奇妙である。そこで中国における「姓」の定義を検討してみる。官文娜(国際日本文化研究センター共同研究員・武漢大学客員教授)が比較的厳密な説明を行っている。
「中国において宗族は父系単系出自集団であり、宗姓は父系単系から伝承していく‥‥ゆえに姓は父系単系出自集団のしるしである。本来、血統そのものは内在的であって、外部からは観察できないが、宗姓はあたかもそれを外在化させて、血縁関係を観察・識別させるようにさせた」(註1)
 「中国の「姓」は中国宗族構造に応ずるものであり、父子・男性一系の宗族集団の標識である。「姓」とは、もともと内在的で観察できない血縁関係を外在化し、ある父系宗族集団とほかの父系宗族集団を区別するものである」(註2)
「姓」とは父系単系出自の標識と認識できる。
 文化人類学的には「出自とは集団の構成員資格に対する系譜的基準であり‥‥系譜の辿り方は単系でなければならず、出自集団の構成員資格に単系的な系譜基準のみが出自を構成するものである」(註3)
 とすれば本来の「姓」概念はその人の社会的地位の異動で変化する性質のものではないことがわかる。なぜならば「姓」とは生理学的血縁関係の識別の記号であるから。むろん宗族には同宗から養子を迎え入れることがあるわけだが、父祖が同一なので社会的地位の異動で姓は変化しない。そしてそれは、特定の身位に上昇することで消えるという性格のものではない。
 宗法制において宗族がなぜ父系単系出自集団であり異姓不養になるかというと、春秋左氏伝に「神不歆非類、民不祀非族」とあるごとく、中国古代における祭祀なるものが、祖先以来「父系単系」の血を受ける子孫によって捧げられるのでなければ祖霊はこれを享受しないからである(註4)。儒教的祭祀が普及しなかった我が国ではこの意味がなかなかわかりにくいのである。宗法制度の理念型は異姓不養、正確にいうと異宗不養なのであるから、社会学的父と生物学的父が異なる場合においても父系出自で祖先は共通することになる。

(我が国における姓氏)

 もちろんわが国における「姓氏」の成り立ちは中国とは異なる面が多分にある。大化改新以前の「姓」は、ほとんど天皇から各ウジの居住地と古い部の職名に基づいて賜ったものであるが、職掌や地位を継承した一族の代表のみに継承されたので、血縁集団としての姓氏制度ではなかった。
 中国的な父系継承の「姓」が導入されたのは大化元年の男女の法「良民の男女に生まれた子は父に配ける」である。
 良民の姓の父系継承という原則に基づいて天智天皇九年に全国的に戸籍が作成され、豪族はウジ名、カバネを姓とし、庶民は○○部、○○族という呼び名を姓として、すべての子に継承され、戸籍に記録された。天武天皇十三年ニ「八色姓」制定され旧来の臣・連の中から。皇室と関係の深いものを、真人・朝臣・宿禰として上位におき、その他を下位にとどめ、身分秩序の再編成を行った。また律令で「嫡子制」「養子法」を中国から継受し父系出自集団としての親族に再編する努力は行った。
 改賜姓は天皇大権であり、功績に応じたり、天皇との関係の親疎によってとくに九世紀ごろまで多くの事例がみられる。例えば応神裔坂田朝臣は永河が弘仁14年に南淵朝臣を改賜姓される。菅原氏の場合は、土師連-土師宿禰-菅原宿禰-菅原朝臣と改賜姓された。続日本後紀の編纂者で貞観期に従三位参議式部大輔であった春澄善縄の父は従八位下周防国大目猪名部造豊雄であるが、善縄は文章博士都宿禰腹赤に能力を認められ天長5年文章得業生のころ春澄宿禰、さらに春澄朝臣に改賜姓された。このように天皇の改賜姓権能によって姓が政権との関係から政治的、随意的に変えられる性格を有しているといえる。しかし十世紀以降天皇の改賜姓権能は有名無実化していく。

 十世紀以降においては姓氏は血族概念ではなくなったといわれている。(註5)
  例えば局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる舎人親王裔系王氏の清原真人と系譜的につながるものではなく、その前身は海宿禰で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿禰広澄が清原真人姓に改姓したものである。同様の例は多い。また十一世紀には諸道博士家で養子形式の門弟が違法に姓を継承したことが指摘されている。史や外記などの実務官人の姓は、十一世紀中葉を境とした時期に三善・中原・清原などの姓が増加する。これらは、それらの一族が血縁者を飛躍的に拡大させた結果ではなく官司請負制のもとで請負の主体となった博士家の姓を名のった官人が増加した現象だった。その実態は十一世紀中葉までと同じく地方豪族出身の有能な官人だったが違法であったが実務官人の能力を維持するために黙認された(註6)。

 また中世以降、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために、姓氏は必ずしも父系出自集団を意味しない。官位を天皇から賜わるには朝臣として由緒のある特定の尊貴な姓氏を持っていることが前提条件であるが、武家領主たちは、自らの系譜を由緒づけ、京都の権門勢家に画策して官位を得んと努めた。

 例えば家康は、三河の一土豪にすぎない松平氏を由緒づけるために、清和源氏の嫡流である上野国新田氏の支族得川氏の系図を借り受け、「徳川」に改姓し、それを前提にして、誓願寺の慶岳、吉田兼右、近衛前久らの仲介により「従五位下三河守源家康」宣下を得た(註7)。従って徳川氏が生理学的血縁関係で清和源氏に繋がるとはいえないというのが歴史家の常識である。

  また家名・爵位はヨーロッパの貴族においても、女子相続人による継承、婿養子型の継承があるので、姓のように父系血族を意味しない。鎌倉時代以降の武家の家名(名字)は女系継承や非血縁継承があるので父系出自を意味しない。例えば室町幕府管領の畠山氏は、元々桓武平氏の秩父氏を祖としているが、畠山重忠が敗死すると、未亡人の北条時政女が足利義純と再婚して、義純の子が畠山の所領と名跡を継承したことから、畠山氏の血筋は平氏から源氏に切り替わっている(註8)。
  また日本的家制度は室町・戦国時代に公家が嫡子単独相続となって成立したものと考えるが、婿養子や非血縁養子などがあるので、単系出自の同族ではありえない。
  また我が国は江戸時代以前は、天皇の賜与認定による古代的姓氏と、院政期ごろから自然発生した名字(苗字)の姓氏の二元システムになっていた特徴もある。朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土浦藩主の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職「土屋能登守」但し官職が侍従であったときのみ居城+官職「土浦侍従」になる。要するに天皇との君臣関係は公式的には王朝風の古代的姓氏(本姓)。将軍との君臣関係は名字(苗字)であった(註9)。
  近世についていえば古代的姓氏、名字(家名)いずれも単系出自ではない。
  ただし、我が国で一貫して単系出自の(同族)集団といえるのがが皇親である。

                                         *   *



  わが国の姓氏が単系出自でないことを述べてきた。しかしながら、ここでは易姓革命の姓の意味を論じているのであるから、中国の宗法制における父系出自を区別する標識としての姓の概念、純粋な理念型で議論すればよいわけである。
  つまり姓とは、家名・爵位・身分・地位・組織への帰属あるいは小林よしのりの言う戸籍といった外部から観察できるものに付随した称号ではなく、内在的な血縁関係を外在化したものを本来意味する。血縁関係の標識が姓である。今日民主党議員の一部が戸籍制度廃止を唱えている。私は強く反対だが、人為的制度である戸籍制度とて絶対のものではない。

 戸籍が消滅するから姓が消えるというものではなく、人為的制度いかんにかかわらず、姓とはその人の自然血統の父系出自を区別する意味になる。従って小林よしのりの戸籍云々の議論は正しくない。

  我が国においては大宝令に規定される「皇親」が天皇の親族の定称であった。中国の宗法制と日本の皇親の制は厳密にはかなり違う面がある。例えば継嗣令王娶親王条で皇親女子の内婚制が規定されているが、中国は外婚制である。
  しかしながら、皇親の制における構成員資格(親王号、王号を称すると資格といってもよい)は平安時代以降親王宣下の制度により皇親の制度が変質した後においても父系単系出自(自然血統)であることは一貫している。后妃や親王妃は、出生の時点で「皇親」でなければ、婚姻によって新たに「皇親」身分を取得することはできない。
  明治22年の皇室典範で、臣下出身の后妃も含めて「皇族」とされ、内親王、女王は臣下に嫁すと身位を失うため近現代においる「皇族」という語が令制の「皇親」のように父系単系出自集団を意味しなくなった。しかしそれは、三后、親王妃という身位ゆえ、たぶん嫡妻として婚姻家族的な意味での成員性により皇族とされているのであって、臣下出身の后妃は当然のことながら皇位継承資格を有さないことは、令制と同じである。
  天皇、皇親に姓はないが、九世紀から数世紀にわたって王氏爵という巡爵の慣行があった。「王氏」は歴史家が例えば在原氏のような皇別賜姓氏族を指して用いることもあるが、この場合の対象者は親王を除いた諸王である。十世紀において推薦者は氏長者に相当する任式部卿など筆頭格親王であった。このケースでは、皇親も源平藤橘と同列の親族集団と把握されていることがわかる。よって姓がなくても姓の概念に近いのである。
  そもそも、律令制は中国から導入したわけだが、天皇の制度も中国の皇帝制に倣ったシステムを構築したものである。ただ天皇は中国の皇帝ほど強く自らの意思に基づいて権力を行使し国家を統治することが比較的なかった。太政官との二極体制であるが、少なくとも単系出自で一貫して帝位が継承されている点においては、宗法を鉄則とする一姓の業としての中国の王朝と大きな差異はないように思える。    
 

 また近年、近世の天皇が強い皇統意識を有していう説が発表されている。例えば、後陽成は「自神武天皇百余代末孫周仁(かたひと)」「従神武天皇百数余代孫太上天皇」等の署名を多く残している。霊元は「従神武天皇百十三代孫識仁(さとひと)」、桜町は「人皇百十六代昭仁(てるひと)」、光格は「神武百二十世(花押)」「神武百二十世兼仁(ともひと)合掌三礼」「百二十統兼仁三礼」等の署名を残している(註10)。
 こうした署名について 山口和夫(東京大学史料編纂所准教授 )は「嫡出男子による一系相続はなかったが、一貫して神武天皇の皇孫を自称した。易姓革命を拒否する自意識・主張を共有・相伝した」と解釈している(註11)。神武天皇の皇孫とは父系単系であることは皇統譜により明白なことである。
 中世から近世の移行期は王権の危機だった。信長の神格化構想、秀吉の東アジア征服指向にみられる天皇を超える権力構想、天海の天皇より東照大権現を優越させる仏教思想などである。光格が傍系から即位したため皇統意識が強いのはよくわかるが、後陽成の皇統意識の強さは危機感の現れと解釈できる。そして現代も女系容認論により危機である。
 

 小林よしのりが明確に支持を表明した直系長子優先を受け容れ、たとえば、これはひとつの喩え、仮定にすぎませんが、仮に直系長子内親王の皇位継承予定者の皇婿を李王家から迎えるとする。 その場合、皇婿を父とするプリンスは、単系的な系譜基準に基づいていた皇孫にはあたらず、もはや神武天皇の皇孫とはいえないのだ。
  皇婿が事実上、新王朝の太祖という立場になる。李氏の皇婿を父とするプリンスが即位することにより事実上、全州李氏の無血簒奪王朝となるのである。
一姓の業としての王朝は終焉するから、日本国の終焉である。イングランドは地名であるが日本は王朝名であるから、事実上の易姓革命により国号も改めなければならない。
  そうした女系プリンスが神武天皇第百二十八代を称して問題なしとするのが女系容認論者だが、ではそのようなことを、後陽成や光格のように神武天皇皇孫を自署した天皇が認めるだろうかと問いたい。
  例えばこれも仮定の話だが小泉進次郎とか妻夫木聡などのイケメンタレントを皇婿に迎える。あるいは女系宮家に入った場合はどうか。大衆は歓迎し皇室や女系宮家の人気は高まるだろう。しかしその場合、女帝もしくは女系宮家の女性当主を母とするプリンスは、神武天皇の皇孫とはいえない。主観的には悪意や簒奪する意思がないとしても、客観的には簒奪になる。
 
  つづく
 
 

1 官文娜『日中親族構造の比較研究』思文閣出版2005年 119頁
2 官文娜 前掲書128頁
3 渡邊欣雄「出自」「出自集団」『文化人類学事典』弘文堂1987年 358頁
4  官文娜 前掲書 364頁
5 宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して宇根俊範「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』(広島大)147 1980
6 曽根良成「官司請負下の実務官人と家業の継承」『古代文化』37-12、1985
7 大藤修『近世農民と家・村・国家-生活史・社会史の視点から-』吉川弘文館1996 169頁以下
8 明石一紀「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下
9 大藤修 前掲書 172頁
10 藤田覚 「近世王権論と天皇」、山口和夫「近世の朝廷・幕府体制と天皇・院・摂家」大津透編『王権を考える-前近代日本の天皇と権力』山川出版社2006年
11 山口和夫 前掲論文

2009/11/25

小林よしのり 天皇論追撃篇批判

『サピオ』2009年12月16日号(21巻21号)を早速買いましたが、今回の「ゴー宣」もひどい内容だった。

 今回も単純な事実の誤記がある。

 70頁 引用-赤

 「だが、旧宮家は全て、今から600年も前の、北朝第3代崇光天皇の子、栄仁親王までさかのぼらないと、今上陛下とつながらないのだ!」

 これは正しくない。今上陛下と旧宮家(伏見宮系)の共通の祖先は血縁関係では後崇光院貞成親王である。

 600年云々はたいしたことではない。後花園天皇は後小松天皇の猶子として皇位を継承したとはいえ、実父は伏見殿と称され、後小松上皇の遺詔では太上天皇尊号を許さないとされていたが、実際には文安四年に太上天皇の尊号を贈られた(翌年辞退)貞成親王だから、今の皇室の祖系は伏見宮家ともいえるのである。伏見宮家には『椿葉記』の由緒によリ持明院正嫡としての正統性があリ、後小松天皇の柳原流は正平七年の南軍の京都一時占領に伴う混乱により、武家や北朝の公家によって事実上擁立された緊急避難的な皇統にすぎないという見方もできるのであって、しかも、康正二年十月に後花園天皇の仰せにより皇弟貞常親王(伏見宮家の継承者)に、後崇光院の紋を使用すること。「御所」の号を永代にわたり許された(伏見宮系譜「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申」『皇室制度史料 皇族四』の64頁)。これは『伏見宮系譜』に引用される『貞常親王御記』が原資料で、小川剛生氏は学者らしく、他に裏付けがないのでこの説に慎重だが、これをもって世襲親王家の存在を公式に認めたということになると肯定的に論じている(小川剛生「伏見宮家の成立」松岡心平編『看聞日記と中世文化』森話社2009)。その後の伏見殿の遇され方でも明らかなように、貞常親王の子孫に同等の身位、天皇の猶子として歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される世襲親王(定親王)家としての地位を明確にされたとみてよいだろう。要するに貞常親王の子孫である伏見宮系の男系男子が皇位継承者たりうる由緒は明確なのだ。
 フランスでは、アンリ3世の末弟アランソン公が亡くなると,王には子どもがなくヴァロア系の男子が枯渇したため傍系で遠縁だが、サリカ法(男系主義の王位継承ルール)により筆頭親王家ともいえるブルボン家のアンリが王位継承人となった。アンリ3世と4世は22親等の遠縁になります(もっとも女系では近縁だが王位継承のルールとは無関係)。いかに遠縁でも男系継承のフランス王権の王位継承はそのようになっていたわけです。

2008/05/18

感想 根本猛「女性天皇と法の下の平等に関する小論」

 根本猛という憲法学者の最大の業績は鉛の被曝を避けるための胎児保護ポリシー(間接的母性保護)を性差別と断定し違法としたジョンソンコントロールズ判決の論評を書いた数少ない学者だということだと思います。当ブログでも引用させていいだいてます。「反女性・女性敵視主義宣言(2)」http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_f099.html我が国でも女性差別問題は関心が高いのに、ニューヨークタイムズが賞賛する重要判決が全くといっていいほど無視されている。母性保護の否定がフェミニストの意向にそわない判決だからですが。
 ただ私はこの人の思想傾向には反対します。労働基本権が人権だなどとばかなことを言ってますから。これです。http://jinken.pref.shizuoka.jp/meeting/nemoto2.htm大学の労働組合の書記長を務め、20年間で100万円の組合費を払ってますとか書かれています。
 それでも比較的まともな学者であるということは「<論説>女性天皇と法の下の平等に関する小論」 『静岡大学法政研究』3巻3・4号1999年http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/handle/10297/1344(フルテキスト)の結論が「男系主義を違憲とする根拠として憲法14条の法の下の平等は不適切」としていることである。
 論旨は、違憲論者はことさら男系主義を問題視するが、長系主義も生まれつきの属性による差別であり、平等な相続権を認める新民法の原則にも反している。
男系主義が違憲なら長系優先も違憲だ。長幼の序はそれ自体差別思想だから。皇位継承を平等原則と合致させるとすると、皇位継承の法定自体が不可能というもの。
 ここから私の意見だが、選定相続なら平等なのだろうか。これは政治的に決定されることから、平等とはいえないだろう。有資格者のなかから国民投票で選出するか、もっとも平等なのはくじ引きによる選出だろう。
 平等原則にこだわるなら、くじ引きで、男女長幼直系傍系の差別をいっさいなくすべきであるということになる。むろん私はこういう考え方にも反対する。
 

2006/09/23

コメントについて

「乙武さんのページに書き込だら」

 いま敵地に乗り込む度胸も元気もない。カッとなって口が滑って怪我しそう。

「貴族制度(后供給集団)や側室制度なき王制はいずれ消滅」
 
 貴族制度の復活 
  
 中川八洋教授の『皇統断絶』ビジネス社2005年161頁以下で、旧皇族だけでなく、皇后を輩出しうる五摂家、清華家九家などを早急に復活させるべきだ。さらに大臣家、羽林家、名家も復活させて公家の公的制度により皇室の藩屏を形成すべき。日本文化の再生のためにも必要と述べておられるが、私も賛成です。中川教授によると憲法14条を改正しなくても可能なことだということです。
 
 
 側室制度の復活

 椿葉記の趣意から伏見宮系旧皇族の復活のほうが最優先と考えますが、側室制度も賛成ですよ。キリスト教を公定イデオロギーにしていない以上、重婚を否定する西洋文明への迎合という以外に単婚制にこだわる理由はない。いろいろなバリエーションが考えられますが、後宮女官が側妾となるケースは古くからあリ、特に室町・戦国時代は天皇に正配なく皇后や女御が立てられなくなったから、それで皇位継承者を確保した。それも伝統だし悪くない。皇后不冊立でもかまわないと思ってます。もっとも公的公家制度が復活すれば、令制の夫人、嬪、平安時代の女御、更衣の制、御息所などの称号による配偶者としてのキサキを復活させやすくよろしいのではないかと。
 帝王が多くのキサキを持つ理由はたんに内寵を好むというだけでなく、複数の有力貴族と姻戚関係をもって政権基盤を安定させる。突出した外戚勢力が形成されないよう政治的バランスをとる時代もあったわけです。今日的な意味では元高級官僚のような政治力を有する外戚の策動を封じ、皇室の伝統継承への悪影響を回避するために複数の妃でバランスをとってもよいのではないかとも思います。后妃の父が隠退しているか政治的なポジションにないケースは問題ないですが、現実に報道を読む限り外戚の影響が排除されてないから。
 ただ、側室制度がないと「いずれ消滅」とは思ってない。フランス王権が単婚男系主義でけっこう永く続いた。宮家を5~6家復活させればそう簡単に皇位継承者は枯渇しないと思う。

川西正彦

2006/09/17

くどいぞ愛子内親王擁立派(2)

 乙武洋匡ブログにコメント

 炎上騒ぎになっている乙武洋匡ブログ9月7日から引用します。乙武洋匡氏は女系派というわけではありませんが、本題に入る前にとりあげたいと思います。

「世間は昨日から「めでたい、めでたい」と騒いでるけど…… ひとつの命が誕生したことがめでたいの?それとも誕生した命が「男児だったから」めでたいの? 」

「‥‥少なからず「男の子でよかった」という風潮が感じられました。そのことに、僕は抵抗を感じてしまったのです。男であろうが、女であろうが、皇室であろうが、民間人であろうが、命の重さは等しく、尊ばれるもの。そう思っていた僕には、内親王がご誕生した時よりもはるかに舞い上がった今回の慶事ムードに違和感を覚えてしまったのです。‥‥‥」

 せっかく著名人からの問いかけですからコメントしておきたいです。一般論としていえば、男でも女でも出産はめでたく、仮に女児であってもないがしろにされることはありえない。しかし、性別に強い関心をもたれるのは当然のことでこの出産は皇位継承という国家最重大事にかかわりますから、男子が誕生された以上よりめでたい慶事である。普通の人は女子だったらがっかりとか残念とか内心では思います。しかし皇室の慶事だから抑制が働いて表向きにはめでたいと言って本心は口に出さない。敬宮愛子さま誕生のときがそうでした。内親王誕生なら冷淡な反応になり親王誕生なら舞い上がった慶事ムードになってあたりまえじゃないですか。乙武氏に訊きますが「男の子でよかった」と言っちゃいけないの。それが常識だとでも思ってるの。
 このブログの記事ではそこまで言ってないが、「男の子でよかった」は偏向思想で性差別表現でよくない。時代の進歩でポリティカル・コレクトネスとして「男の子でよかった」を禁句にしたい。さらにすすんで人間は生まれながらにして平等とか、憲法14条のような価値観に反するので、こういう思想を抹殺したいという含意があるとすればかなり問題です。もしそうだとすると強硬に反対します。私はポリティカル・コレクトネスによる差別的表現・集団誹謗的表現規制には明確に反対です。ウィキペディア「呂后」では注意深く「呂后は戚氏の両手両足を切り落とし目玉をくりぬき薬で声をつぶし、その後便所に置き人彘(人豚)と呼ばせたと史書には書かれる」と書かれてますが、歴史的事件の記述で特定個人を嘲っているわけでもないのに「唖にして盲にして聾にして」と書くと障害者差別と勝手にラベリングして刺しちゃうぞなんていう社会になったらむしろ怖いですね。同じく「女でも男でも喜ばしい」と言わないとジェンダーハラスメントで刺しちゃうぞという社会がよっぽど怖いです。そこまで女性に卑屈になる必要もないし、女が男性と等価値などというのが許せない思想です。男性優位でいいんですよ。

 昔から皇女誕生では冷淡、がっかりするのが普通

川西正彦

 そこで、皇女誕生時の宮廷の反応がどうだったを検証します。ここからが本題ですが、結論を先を言います。皇女誕生では、心苦しくもあり周囲もがっかりするか冷淡なのが普通です。昔からそうだった。それでいいんですよ。くだらない女性尊重フェミニズムのために、男子出産のプレッシャーから解放するために女系推進などという、高橋紘その他の女系論者の主張に与する必要など全くないです。
 
 摂政藤原道長女で天皇もしくは東宮の后妃となった四方所生の皇子女は次のようになってます。 

 彰子(一条后)
 後一条天皇、後朱雀天皇

 妍子(三条后)
 禎子内親王(後朱雀后、後三条生母)
 

 盛子(三条妃)委細不詳

 威子(後一条后)
 章子内親王(後冷泉后)、馨子内親王(斎院・後三条后)
 
 嬉子(敦良親王のち後朱雀天皇の東宮御息所、贈皇太后)
 後冷泉天皇

1 禎子内親王の誕生

 三条天皇の中宮藤原妍子の出産について『小右記』長和二年七月七日条によると「小選資平帰云フ、相府(道長)已ニ卿相・宮殿ノ人等ニ見エ給ハズ、不悦ノ気色甚ダ露ナリト。女ヲ産マシメ給フニ依リテカ」とあり、左大臣道長はひどく機嫌が悪かったようだ。もしここで皇子誕生となれば、一帝二妻后といっても正后といえるのは中宮藤原妍子だから皇后藤原娍子(大納言済時女)所生の敦明親王以下四人の親王を押さえて次の皇太子候補の筆頭となることができたはずだ。それゆえに機嫌が悪いのである。
 一方『栄華物語』は「‥‥世になくめでたき事なるに、ただ「みこ何か」という事といふ事聞え給はぬは、女におはしますにやと見えたり。殿(道長)の御前いと口惜しくおぼしめせど、「さはれ、これをはじめたる御事ならばこそあらめ、又もおのづから」とおぼしめすに、これも悪からずおぼしめされて‥‥」と記されている。
 世にたぐいなくめでたいことなのに「御子はどちらか」ということが人の口にのぼらないのは、皇女であると思われた。道長は大層残念にお思いであるが、「ままよ。これが一家にとってはじめての御産というならともかく、またそのうち皇子の生まれることもあるだろう」と思われるとこれも悪いことではない‥‥。
『栄華物語』は摂関家寄りの記述で、道長を礼賛しても悪口はいわないので、すでに長女の皇太后藤原彰子が皇太子敦成親王と敦良親王の母であることもあり、またそのうちという穏やかな表現になっている。
 なお中宮藤原妍子は寛弘元年十一月尚侍、寛弘七年正月、従二位、同年二月東宮に入侍17歳、同八年八月女御、同九年二月十四日立后(中宮)、寛仁二年皇太后、万寿四年九月崩御34歳。所生の皇子女は禎子内親王のみ。立后の背景については(註1)のとおり

2 親仁親王(後冷泉天皇)の誕生
 
 万寿二年八月敦良親王の東宮御息所藤原嬉子の出産について『栄華物語』は「‥‥まづ「なにぞ」と、内にも外にもゆかしうおぼす程に、男みこにぞおはしましける。その程、殿(道長)御けしきよりはじめ、そこらの内の人思ひたる有様、ただ我身一つの喜びに思ひたる。御かげにもかくれ奉るべきその殿のうちの人、ともかくもおぼし思はん、ことわりいみじ。これは何のものの数にもあらぬあやしの賤の男さへ、笑みまけ嬉しげに思ひたるさま、いへばおろかに。‥‥」
 皇子誕生当日、大殿道長以下喜びを爆発させているが、藤原嬉子は産後の肥立ちが悪く出産の二日後に容態が急変し薨逝された。19歳であった。道長は涙が枯れて前後不覚の体になったという。一昨日は世間をあげて大騒ぎをしてめでたいことだと帝までお聞きになって羨しそうにお思いだったのに、今日は予想もしないような夢のような出来事と『栄華物語』は記している。

3 章子内親王の誕生

 万寿三年十月後一条天皇の中宮藤原威子の出産について『栄華物語』は「‥‥殿(道長)の御前、「平かにおはしますよりほかの事なし。物のみ恐ろしかりつるに、命延びぬる心地こそすれ」とて、いと嬉しげにおぼしめしたり。内にも聞しめして、「同じうは」とはいかでかおぼしめさざらん。されど平におはしますを、返す返すも聞えさせ給て御剣もて参りたり。さきざきは女宮には、御剣は持て参らざりけれど、三条院の御時、一品宮の生まれさらせ給へりしよぞかかめる。内の女房などの「あな口惜し」など申すを聞しめして「こは何事ぞ。平かに給へるこそ限なき事あれ。女といふも烏滸の事なりや。昔かしこき帝帝、皆女帝立て給はずはこそあらめ」と宣はするに、かしこまりて候ふべし‥‥」
 道長は皇女にもかかわらず安産でこれ以上の喜びはないとしている。帝にもお聞きになられて「同じことなら皇子であってほしかった」とはどうして思し召されぬことがあろうか。しかし御無事でいらっしゃることを、繰り返し仰せなさって、御剣ををお届けになられた。(中略)内の女房たちが「ああ残念」などと申すのをお聞きになられて、帝は「何という事を言うか。無事にお産をなさったことでもこの上ないことだ。女で残念というのも笑うに堪えたことだ。昔の聖帝方が、皆女帝をお立てなさらなかったならばともかくだが」とおっしゃるにつけて、恐れつつしんでひかえているだろう。

 すでに弟の東宮敦良親王に王子が誕生していることもあって、内裏女房たちは「あな口惜し」女でああ残念などと申していた。後一条天皇は九歳も年長の后や外祖父に気を遣っておられたのか、安産というだけでこのうえない。女で残念だなどというものではないと女房たちをたしなめている。

4 馨子内親王の誕生

 『小右記』長元二年二月一日に「只今中宮御産成リ畢ンヌ。其ノ後資房来タリ云フ、御産遂に畢ヌ、女子テヘリ、宮人ノ気色太(はなは)ダ以テ冷淡ト」とある。
 中宮藤原威子の第二子も皇女だった。宮廷でははなはだ冷淡な反応だったと記されている。『栄華物語』には馨子内親王誕生時の記事はなく、姉の章子内親王の着袴の記事に「中宮(威子)には、女宮が二人おはしまして、男宮のおはましまさぬことを口惜しう、内(後一条)も宮(威子)にも殿ばらもおぼしめす」とあり、天皇も中宮も女宮二人で残念、心苦しく思われていたことが記されている。藤原威子は皇子出生をみることなく長元九年九月崩御38歳。天然痘の流行による。

5  祐子内親王の誕生
 

 長暦二年四月廿一日、後朱雀天皇の中宮藤原嫄子(関白頼通養女、実は敦康親王女嫄子女王)の第一子出産について『栄華物語』は「‥‥女宮ぞ生れさせ給へる。口惜しとおぼせしめせど、御乳母さるべき人人数多参る。程なく入らせ給ひぬ。姫宮も入らせ給ひぬれば、内(後朱雀)には、さきざきの宮達のよそおはしますに、珍しくうつくしと見奉らせ給ふ」とあり、やはり残念とお思いなさるが、帝におかれては、すでに親仁親王、尊仁親王の出生をみている余裕からか姫宮を見て可愛いがったとのことである。
 中宮嫄子は寵愛され長暦三年八月にも第二子女子を出産されたが、九日後に崩御になられ、養父関白頼通が期待していた皇子出生をみることはできなかった。

 以上、数例をみてきたが、昔から皇女誕生では冷淡な反応、がっかりしていたんですよ。昔から后妃にとって皇子出生がないことは心苦いことではあった。それでいいんじゃないですか。むしろ無理に女系容認にして男子が出生しても素直に喜べない。女性尊重フェミニズムの公定イデオロギー化のほうがよっぽど怖い社会になりますよ。そういうと女系派はスウェーデンはオランダはベルギーはとか言うんだろ。なんで大国の日本が格下の外国の制度を模倣しなきゃいけないのさ。

(註1)藤原妍子立后の背景

 三条天皇(居貞親王)の東宮時代の最初のキサキは外祖父兼家の三女尚侍藤原綏子で永延元年東宮に入侍し(太子12歳、綏子15歳)寵幸渥かったが、後に源頼定との密通事件により東宮を去った。
 第二のキサキが藤原娍子である。正暦二年、太子は宮中に出入していた夜居の僧から世間の話を聞かれていたが、談たまたま箏のことに及んで、村上天皇がかつて箏を藤原済時に伝えられ、済時の女娍子が父よりこれを伝授して、秘曲を究めているとのことを聞かれた太子の意は動き、志を通じせしめた。栄達の道が閉ざされていた如くのようだった大納言済時は東宮の旨を受けて大いに喜び、命を奉じて娍子を東宮に納れた。これは全く皇太子の発意による結婚で、皇太子が勝手に結婚した政治色が希薄な結婚ともいえる。時に太子16歳、娍子19歳。娍子は宣耀殿に住し寵を得てときめいた。
 娍子の父大納言済時は関白忠平の孫だが、摂関を狙える立場ではなかった。娍子の祖父が安和の変の首謀者とみなされる師尹である。師尹は源高明を追い落として左大臣に昇進するものの摂関を継承することがなく、摂関継承は小野宮流か九条流になったためである。娍子の結婚の四年後、長徳元年済時は流行の疱瘡により薨去され娍子は後ろ楯を失う一方、同年関白道隆は二女原子(中姫君)を太子の宮に入れた。時に太子20歳、原子15歳。娍子は関白娘の威光に押され気味であったが、原子は後に頓死する。娍子にとっては運が良かったといえる。
 しかし寛弘七年、伊周が薨じて道長が権勢を独占したため、道長二女妍子が東宮に入った。太子36歳、妍子17歳。寛弘八年三条天皇が即位して、天皇は既に敦明親王以下6人の皇子女をもうけていた娍子立后を左大臣道長に打診したが、露骨に妨害されたうえ、妍子を中宮に冊立した。それでは収拾がつかなくなったので、一条朝の例に倣い一帝二妻后として娍子も皇后に立てることとなった。しかしそれでも道長はいやがらせを行った。立后宣命から「しりへの政」等の皇后の政治的権能にかかわる文句を削除させただけでなく、娍子立后儀当日に、中宮妍子の立后後初の入内の儀式をぶつけ、ほとんどの公卿は天皇の召しにもかかわらず娍子立后儀に参入しなかった。道長の東三条殿に候じていた公卿は、内裏からの立后儀への参入を促す使に対し「手を打ち同音に咲ひ」嘲笑して憚らなかったという。
 しかし、中込律子によると娍子立后は従来いわれていた天皇の同情によるものではないという。父済時の不在や生前の官位から当時の通念では娍子は立后できる立場になかった。にもかかわらず立后というのは天皇の権力意思によるものであり、娍子は皇太子時代に御自らの発意で結婚した妃だったしこだわったのだろう。娍子の最大の後ろ楯が天皇であったことを示している。結局天皇の皇后決定を道長は直接制止できなかったので、間接的な妨害で現実の力関係を示威したにすぎないという。また従来のイメージでは道長主導で受領等の人事がなされていたようにみられていたが、決してそうではなく、娍子の兄弟の為任が大国の伊予守になっているほか5人は天皇の意向による人事であり、その他の人事でも天皇と左大臣内覧道長とで鍔迫り合いがなされていた。そうすると三条朝の政治はある意味で律令国家の天皇と太政官の二極構造が浮き彫りになったともいえるだろう。
 藤原妍子の第一子が皇女であったことに、道長はひどく機嫌を悪くした。もっとも皇女でもそれなりの意味があったという見方もある。道長の父摂政兼家は三条天皇に多くの所領を献上していて、天皇は経済的には恵まれていた。道長はいやらしくもこれを摂関家に取り返そうとしたらしい。出所を明示できないが読んだ記憶がある。実際これらの所領群は、三条天皇-藤原妍子-禎子内親王と伝領され、実際には道長の管領となった。そういう意味では皇女であってもこの出生は摂関家にとって有益だったといえるのである。
 以上縷々述べてはきたが、私がいいたいことは藤原娍子のようにたとえ四人の親王があって、所生の敦明親王が立太子したにもかわらず、摂関家の圧力で皇太子を辞退せざるをえなくなるケースもあった。皇子が誕生せず心苦しい方も多くあった。御産のため早世された后妃もある。藤原娍子のようにいやがらせを受けたり、政治的な後ろ楯の弱さに悩むこともある。まさに小泉首相がいうように人生いろいろなのである。だから、特定の后妃に感情移入して同情するのもどうかと思う。ましてや、男子出産のプレッシャーから解放するために女系推進などもってのほかだということ。

主要引用参考文献
松村博司『栄花物語全注釈三』角川書店1972 191頁
松村博司『栄花物語全注釈五』角川書店1975 193頁以下、413頁以下
松村博司『栄花物語全注釈六』角川書店1976 201頁以下、427頁以下
但し口語訳は正確に引用していない。
龍粛『平安時代-爛熟期の文化の様相と治世の動向 』春秋社1962
223頁以下「皇太子成婚の歴史」
中込律子「三条天皇」元木泰雄編『古代の人物6 王朝の変容と武者』清文堂出版(大阪)2005

2006/09/10

くどいぞ愛子内親王擁立派(1)

高橋紘は親王誕生でも愛子さま

 産経(9月7日-インターネットでは6日)の記事です。
女系賛成を主張してきた高橋紘静岡福祉大教授の話 「男の子がお生まれになったが、皇位継承が安定的でない実態は変わらない。有識者会議があれだけエネルギーをかけて結論を出した以上、皇室典範を改正して、皇位継承は男女を問わず第1子優先とし、女系も皇統と認めるべきだ。つまり愛子さまを皇位継承者にすべきだ。そうでないと、将来、今回のお子さまのお妃も雅子さまのように『男の子を産まなければいけない』というプレッシャーに悩まされることになる」
 そんなことをやっていいとでも思っているのか。新宮さまが誕生したその日から、事実上、皇位継承権剥奪せよというのはひどすぎる。高橋紘はあっちこっちのテレビ番組に出て女系を力説していたらしいが、新宮さまの順位を3位から6位におとすというのは、部長を課長に降格させるのとわけがちがう。
 新宮さまは、今後、東宮家に親王が誕生されないかぎり、確実に皇位継承者となる立場にあります。しかし愛子内親王の即位だと限りなく可能性はなくなる。おまけに秋篠宮の継承者ですらなくなり、姉宮二方の下風に立つことになる。ふんだりけったりです。大きな怨を残す結果になるというか、そういうことがあって絶対にならないです。
 結論を先に述べます。前例からみて新宮さまの皇位継承の正統性が100だとすると、愛子内親王はゼロ。皇位を継承する論理性は全くありません。
 
川西正彦(9月10日)

 前例がないからいくらわめいてももうダメです。容認できないはずです。そもそも朝廷の運営というのは局務家・官務家など実務的官人の前例勘申が政策審議の前提になっていたわけです。前例を重視しましょう。
 親王が誕生する前の段階でいえば、嫡嫡継承ないし直系継承で皇子がなく血統的袋小路になって非婚女帝が即位した前例として、奈良時代に聖武天皇が陸奥産金の報せに狂喜して衝動的に出家され国政を投げ出した状況で、孝謙女帝が即位した前例がありました。
 愛子内親王のポジションを孝謙女帝のケースに比擬できたんです。この前例から女帝即位の可能性を模索する考え方はありえたのです。だから私は2005年9月19日前後のブログで孝謙女帝即位の変則性・特異性とか、史上唯一の阿倍内親王の立太子はきわめて異例、「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識とか、草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど縷々述べて、孝謙女帝の前例は適切でないことを強調しました。そしてなによりも生涯非婚内親王でなければ前例に反すると述べてきた。切羽詰まった1月25日になると、愛子内親王の将来に比擬される日本の称徳女帝は皇親の殺戮と追放に関してローマ帝国のネロ帝、大唐帝国の則天武后と並び称される存在で、崩御の日まで強大な権力をもった手のつけられぬ女帝であったこと。つまり孝謙=称徳女帝の治世において天武系皇親は廃太子道祖王、黄文王が奈良麻呂の変で杖死(拷問で殴り殺し)。塩焼王(臣籍降下して中納言氷上真人塩焼)は仲麻呂の乱で今帝に偽立されたため斬殺。淡路廃帝の兄弟である船親王隠岐配流、池田親王土佐配流、淡路廃帝の後背勢力である舎人親王系皇親で健在だった30名中29名が道鏡政府の下に配流、臣籍降下等の処断で失脚。仲麻呂謀反を密告し淳仁天皇の在所を包囲するなどの功績により、功田五十町を賜った参議和気王も「男女」(女帝と道鏡)の死を祈願した謀反が発覚して死を賜った(伊豆配流途中絞め殺される)。塩焼王の妻で聖武皇女不破内親王(称徳女帝の異母妹)が巫蠱によって厨真人厨女という姓名に貶められ京外追放。その一味の忍坂女王、石田女王、河内女王も追放されたことを述べ、とにかくイメージを悪くしようと躍起になっていましたが、その状況は変わりました。
 皇孫殿下が誕生したので皇統は血統的袋小路ではなくなった。従って、愛子内親王を孝謙女帝に比擬することができなくなりました。
 
毎日記事「血筋重んじ愛子さま」という三段抜きの見出し-そんなばかなことはない

 親王誕生により現在の愛子内親王のポジションに類似した前例といえるのは、

朱雀皇女昌子内親王(冷泉后)、

後一条皇女章子内親王(後冷泉后・院号宣下により二条院)、

後一条皇女馨子内親王(後三条后)、

後光明皇女孝子内親王(礼成門院)

ということになりました。
 下記のように 弟宮に皇統が移ったケース、兄弟で皇位継承があり、弟の皇子に皇位が継承された事例はかなり多数ありますが、そのなかでも、兄に皇子がなく皇女だけだったケースです。いずれのケースも内親王は厚遇されており、昌子内親王、章子内親王、馨子内親王は中宮(后位)に立てられていますが、皇位継承候補者では全くありません。ですから、前例から愛子内親王が皇后に立てられる可能性がありますが、皇位継承候補とする論理性など全くありません。
 
毎日新聞9月6日夕刊に街の声として、名古屋市の29歳の女性の声「血筋重んじ愛子さま」というのが三段抜きの見出しで踊っていて、ばかなこというなよと怒り心頭にきましたが、皇太子も秋篠宮も后腹で血筋は同じ、もしも皇太子が秋篠宮より長命だった場合は、新宮さまが即位した時点で秋篠宮は追尊天皇か追尊太上天皇になるでしょうし、紀子さまが皇后にのぼせられる前に薨じたというケースでも新宮さまが即位した時点で、紀子さまは贈皇太后となるでしょうから、血筋、后腹という点でも同じになりますよ。小和田家と川島家の家格を云々することは憚れるほどのことではないが私はよくわからない、同格とみてよいでしょう。従って正確には血筋ではなく家筋、嫡流という意味ではないかと思いますが大きな間違いです。
 例えば後光明皇女孝子内親王は、唯御一方の皇女で一品に叙せられ、准三宮より女院宣下され厚遇されましたが、後光明天皇(後水尾天皇の第4皇子)に皇子がないため、後水尾天皇の第19皇子の識仁を養子に定め、その皇嗣に定められました。霊元天皇ですが、次の世代で皇統は霊元皇子の東山天皇ですから、弟宮に皇統が移ったケースです。
 このケースでは皇太子を後光明天皇、秋篠宮を霊元天皇、新宮さまを東山天皇に類比することができます。
 
 ですから毎日新聞が名古屋市の女性の「血筋重んじ愛子さま」という声を三段抜きにして共感するというならと、霊元天皇や東山天皇でなく孝子内親王が皇位を継承すべきだった。冷泉天皇でなく昌子内親王が、後冷泉天皇ではなく章子内親王が、後三条天皇でなく馨子内親王が即位すべきだったという理屈を示してください。そんなばかなことはないわけです。絶対にありえません。ですから毎日の見出しにある「血筋重んじ愛子さま」は全く論理性はありません。

弟宮に皇統が移った前例(10世紀以後)

第1例 A朱雀-B村上-C冷泉
第2例 A後一条-B後朱雀-C後冷泉
第3例 A後冷泉-B後三条-C白河
第4例 A崇徳-近衛-B後白河-C二条
第5例 A安徳-B後鳥羽-C土御門
第6例 A土御門-B順徳-C仲恭
第7例 A後深草-B亀山-C後宇多
第8例 A後二条-B後醍醐-C後村上
第9例 A崇光-B後光厳-C後円融
第10例 A後光明-後西-B霊元-C東山
(参考)A花山-B三条-C敦明親王(小一条)

*Aが兄、Bが弟、Cが弟の皇子です

  兄弟で皇位が継承され、兄には皇子がなかった、もしくは皇子があっても弟の皇子が皇位を継承したケースは多くの例がありますが、ここでは検討を10世紀以後にしぼりたいと思います。というのは壬申の乱や薬子の変に言及するとかえって誤解を招く。兄に皇子があるにもかかわらず皇統が弟の皇子にいったケースは、皇位継承問題で紛糾しています。しかし兄に皇子がなく、皇女だけだった場合は、紛糾の要因にはなっていません。
Aを皇太子、Bを秋篠宮、Cを新宮さまに類比することができます。もちろん今後、東宮家に親王誕生の可能性は残っています。また皇太子が秋篠宮より長命だった場合は秋篠宮は不即位で追尊天皇もしくは追尊太上天皇になるという可能性もありますが、ここでは順当に皇太子-秋篠宮-新宮さまを想定したいと思います。

  第1例 A朱雀-B村上-C冷泉

  醍醐天皇の皇太子には関白基経女、女御藤原穏子所生の保明親王(文献彦太子)が立ったが、21歳で薨去、この時点で女御藤原穏子は39歳で妊娠していたけれども性別は不明である。そこで保明親王の王子で、左大臣時平女藤原仁善子所生の慶頼王2歳の立皇太孫となった。七人の醍醐皇子をさしおいての立皇太孫である。次妻格の女御源和子(光孝皇女-醍醐の伯母)には三人も皇子があった。このため、皇太孫の祖母であり母方でも叔母でもある藤原穏子を皇后に立てて正当化が図られたが、藤原氏の権勢から順当なものだったといえる。
寛明親王(朱雀天皇)は母皇后藤原穏子、醍醐天皇の第11皇子で、慶頼王立皇太孫の年に誕生されたが、 慶頼王が5歳で薨去されたため、三歳で皇太子になった。相次ぐ皇太子、皇太孫の死は菅原道真の祟りとの風評により、寛明親王は怨霊を恐れて過保護に育てられたこともあり病弱だった。さらに藤原穏子は42歳で成明親王(村上天皇)を出産する。
朱雀天皇には皇子がなく、皇太子には弟の成明親王を立てた、承平天慶の乱が出来し、治安が乱れ、天慶六年に早々と譲位されたが、譲位後天暦四年八月十日に女御凞子女王が昌子内親王を出産した。凞子女王の父が保明親王で、母は藤原仁善子、朱雀天皇の姪だった。そうしたことから昌子内親王は厚遇され、成女式に相当する裳着が応和元年十二月十七日(10歳)、三品に叙せられ、応和三年二月廿八日村上天皇の第2皇子の皇太子憲平親王(のち冷泉天皇)は元服加冠の儀当日に昌子内親王を納れて妃とされた。ときに太子14歳、東宮妃昌子内親王13歳(満11歳)であった。康保四年立后(中宮職附置)、但し、天皇と殆ど同殿せず里第の三条院に籠居されていた。天禄四年皇太后、寛和二年太皇太后、長保元年十二月崩御50歳。
栄華物語によれば、昌子内親王は朱雀上皇のただ一人の皇女であったので、上皇は望みを皇女に嘱されていた。村上天皇は兄朱雀上皇の意を知って、特に東宮の妃とされたという。
愛子内親王のポジションが昌子内親王に類比できることから、新宮さまの妃となることも一つの選択肢である。

第2例 A後一条-B後朱雀-C後冷泉

 後一条天皇は一条天皇の第2皇子で、母は摂政藤原道長長女彰子(上東門院)。いわゆる摂関極盛期の天皇である。冷泉系と円融系の両統迭立で、三条天皇の皇太子から即位。天皇は当初三条皇子の敦明親王を皇太子としていた。それは三条天皇に譲位を迫った左大臣道長が交換条件として応諾したものだったが、三条上皇崩後に工作を講じ圧力をかけて自発的に辞退させた。但し、廃太子のような手荒な措置はとられず、寛仁元年院号(小一条院)を授け、上皇に準ずる待遇を与えた。後一条天皇は10歳にすぎず皇子がなかったので、同母弟の敦良親王(のち後朱雀天皇)を皇太弟(歴代天皇年号事典では皇太子)とした。
 道長は摂政を頼通に譲って、太政大臣も辞退したが、実権を維持し、寛仁二年には11歳の後一条天皇に九歳も年長で天皇の母方叔母にあたる三女威子を納れ中宮に立てることを企て、威子は里内裏の一条院に入内した。『栄華物語』が20歳(19歳は誤り)の威子が、11歳の天皇の夜の大殿に入ったいたたまれない恥ずかしさを委しく描いている。大納言藤原実資は、『小右記』に、「一家立三后、未曾有なり」と記している。その威子立后の日に、道長の邸宅で酒宴が開かれ、道長は実資に向かって、即興の歌「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだエピソードはよく知られていることである。
 しかし中宮藤原威子は二方の内親王(章子内親王と馨子内親王)を出産したが皇子をもうけることができなかった。のみならず、中宮威子は嫉妬心が深く他の后妃を納れることを肯ぜず、このために天皇は一夫一妻を忠実に守られたのである。もっとも角田文衛によると、『中納言』という女房名で上東門院に仕えていた女性が後一条天皇の落胤で、命婦ないし、女蔵人級の内裏女房に手をかけられたものと推定されているが、いずれにせよ後一条天皇は皇子出生をみることなく、長元九年29歳で崩御になられ、後朱雀天皇が28歳で受禅した。
 後朱雀天皇は、資質英明、先帝より厳格で天皇の責を果たすのに努めた天皇として知られている。外叔父の関白頼通とは即位当初から確執があり、とりわけ長久の荘園整理令の発布の議では政策をめぐって頼通と厳しく対立した。もちろん最終政務決裁者は天皇である。しかし政治家としての実力において頼通が勝っていて結果的に妥協せざるをえなくなった。天皇の心労と苦悩は切実なものがあって、政治改革の成果がみられないことに悩んだし絶望したとも伝えられる。しかし50年に及ぶ頼通政権は今日の歴史家の評価では令制の人頭税的収取を改革し、段別米三斗を基本額とする公田官物率法の成立など関白頼通は合理主義的な改革者と評価されており、天皇が絶望するほど悪い政治だったとはとても思えない。
 後朱雀天皇の后妃としてはまず、東宮時代に藤原道長四女嬉子が太子妃となり東宮御息所と称された。ときに敦良親王13歳、御息所19歳、嬉子は親仁親王(のち後冷泉天皇)の御産に際して薨逝された。親仁親王は後朱雀
即位後の長暦元年に元服、皇太子となる。
 次に東宮妃として太皇太后藤原彰子が養育されていた三条皇女禎子内親王(母は道長二女中宮藤原きよ子)が冊立された。敦良親王19歳、東宮妃15歳。禎子内親王は尊仁親王(のち後三条天皇)の誕生をみることになり、内親王は後朱雀天皇即位により中宮に冊立された。
 ところが関白頼通は養女のもと子を入内させ后位(中宮)に立てたため、中宮より皇后に転上した禎子内親王はもと子の入内について頼通や上東門院を怨み、天皇に召されても参内せず枇杷殿に籠居されたのである。中宮藤原もと子は寵愛されたが早世され、頼通が期待する皇子をもうけることができなかった。
 後朱雀天皇の皇太子は親仁親王(後冷泉天皇)で長暦元年立太子ときに13歳であったが、同年の十二月に一品章子内親王(後一条皇女)12歳が裳着の儀を行って、太子の宮に入った。龍粛によると後一条天皇は皇太弟に譲位して内親王を配されんとし、側近に命じて裳着の用意をさせられたのだが、図らずも崩御によって実現されず、ここに至って太子妃となられたということである。
 東宮妃章子内親王は永承元年(1048)後冷泉天皇即位により中宮に冊立されたが皇子女をもうけることができなかった。しかし聡明で温順な性格で祖母の上東門院藤原彰子に愛されとても恵まれていたと思います。長元三年十一月僅か5歳で一品、准三宮です。京極院(上東門院)という邸宅も女院より譲られました。治暦四年皇太后 延久元年落飾、太皇太后、同六年院号宣下(二条院)〈非帝母女院の初例〉。長治二年崩御、享年80歳。
 愛子内親王のポジションに章子内親王が類比できる。従って内親王は新宮さまの妃となるのも前例に従った一つの選択肢といえるのである。

馨子内親王の立后については第3例でとりあげることとします。

つづく

主要引用参考文献

角田文衛『日本の後宮』学燈社1973 限定版
    附録の歴代后妃表からも引用してます。
龍粛『平安時代-爛熟期の文化の様相と治世の動向 』春秋社1962
223頁以下「皇太子成婚の歴史」
河村政久「昌子内親王の入内と立后をめぐって」『史叢』17 1973
古代学協会・古代学研究所編『平安時代史事典』角川書店1994
米田雄介編『歴代天皇年号事典』吉川弘文館2003
これ以外の参考文献、槇道雄「藤原頼通政権論」などもありますが、かなり前に読んだ記憶だけなので正確な引用ができませんでした。

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