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カテゴリー「旧宮家の復籍をシリーズ」の4件の記事

2009/11/12

椿葉記の趣旨を重んじることが肝要ではないか

 本日は御即位20周年ということですので、あらためて申し上げますと、中川八洋氏の著書『悠仁[天皇]と皇室典範』清流出版2007年4~5頁で述べられているように、男系男子の皇胤が危機的に細くなっているということはない。これは現存されておられる旧皇族が復籍されれば簡単に解決する事柄であるから。問題はそういう常識的な結論に反対する、皇統が不動に安泰する、旧皇族の復籍を阻止する勢力の暗躍が、皇統の未来に暗い影を投げかけていることである。

 後崇光院貞成親王の著書『椿葉記』に「崇光院・後光厳院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中悪く成て、御子孫まて不和になり侍れは、前車の覆いかてか慎さるへき。いまは御あらそひあるへきふしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉へけれは、相構て水魚のことくにおほしめして、御はこくみあるへきなり。」(『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』261頁)とあります。

 意味は崇光院と後光厳院は同腹の兄弟でありながら、皇子の栄仁親王と緒仁親王(後円融)とで皇位継承を争って、仲が悪くなって、崇光院流と後光厳院流(伏見・柳原両流)の子孫まで不和となった。そういうようなことがないように。前人の過を見て後人の戒とすべきだとされております。そこで貞成親王はひとつの提案を行っています。後花園天皇が皇弟で伏見宮の継承者となる貞常親王をゆくゆくは御猶子になし奉るべきである。それによって崇光院御一統の間が親睦にして、皇室と伏見宮が水と魚のように親密に将来永く疎隔なきように相構えて心懸けてほしいということを言っているわけであります。

 要するに後花園天皇の皇室と、伏見殿を継承する貞常親王は親密にして将来永く疎隔無きよう心構えてほしいとのことですが、現在の皇室と伏見宮系は崇光院流皇統の双璧であるわけで、今日でも菊栄親睦会があるわけだが、本来は社交儀礼にとどまるべきでなく、水と魚のように親密であるべきことが『椿葉記』の趣旨であると理解できる。水と魚のように親密であるべきということは旧皇族の復籍以外にない。『椿葉記』の由緒は決定的なのである。

 実際、康正二年(1456)十月に後花園天皇の仰せにより皇弟貞常親王に、後崇光院の紋を使用すること。「御所」の号を永代にわたり許された(伏見宮系譜「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申」『皇室制度史料 皇族四』の64頁)。これは『伏見宮系譜』に引用される『貞常親王御記』が原資料で、小川剛生氏は学者らしく、他に裏付けがないのでこの説に慎重だが、これをもって世襲親王家の存在を公式に認めたということになると肯定的に論じている(小川剛生「伏見宮家の成立」松岡心平編『看聞日記と中世文化』森話社2009)。その後の伏見殿の遇され方でも明らかなように、貞常親王の子孫に同等の身位、天皇の猶子として歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される世襲親王(定親王)家としての地位を明確にされたとみてよいだろう。要するに貞常親王の子孫である伏見宮系が皇位継承者たりうる由緒は明確なのだ。
 元禄・享保頃に成立した『有職柚中抄』に「定親王トハ伏見殿ノ如キ永代不易ノ親王也、是ハ帝二御子ナキ時ハ位二ソナヘ玉ハン義也」(武部敏夫「世襲親王家の継統について伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』12号1960)とあるように伏見宮家の皇位継承候補の控えとしての性格は明確なのである。

 

2006/08/27

『椿葉記』の由緒は重んじられるべきである-旧宮家復帰待望論(2)

 松岡心平の「椿葉のフェティシズム-朗詠「徳是」から-」『文学』季刊10巻2号1999に椿葉の意味についてのさらに詳しい解説があったので引用する。

「徳は是れ北辰、椿葉の影再び改まり、尊は猶ほ南面、松花の色十かゑり」

 上記の朗詠「徳是」は、十世紀前半の漢詩人・文章家の大江朝綱が「聖化万年春」と題して作詩したもので『新撰朗詠集』に採られる十二世紀初頭あたりから、朗詠の代表曲、常用曲となった。
 ふつうめでたい席で謡われる朗詠の代表曲が「令月(嘉辰令月)」で「徳是(徳是北辰)」はこれとペアーで謡われることの多い、二番目の人気曲だったという。『看聞日記』でも貞成王の長男(後の後花園天皇)の魚味の儀(応永28年2月20日)、後花園天皇の大嘗会が終了した直後の伏見宮家の近臣の推参の郢曲尽くし(永享20年11月22日)で「令月」と「徳是」がペアーで謡われている。
 ところがこの曲には十三世紀の中頃、大きな付加価値がつく。「徳是」という朗詠の功徳で、後嵯峨院が後鳥羽院流の皇統の回復をなしとげたという物語が生まれた。『古今著聞集』によると土御門院の第三皇子であった後嵯峨院は、父院が寛喜三年(1231)阿波国で崩御した後は、大納言通方のもとに寄寓していたが、皇位回復の望みもなく、頼みとする大納言も亡くなったので、仁治二年(1241)の冬頃、石清水八幡宮に参籠して出家の意志を告げたところ、明け方「御宝殿のうちに、徳是北辰、椿影再改と、鈴の声のやうにて」神の声が聞こえてきた。出家を思いとどまり、都に戻った後嵯峨院は、翌年一月九日の四条天皇の急な崩御により、一月二十日、ついに天皇位に登った。
 「椿葉之影再改」という詩句が皇統の転換ないし回復を暗示するものだと松岡心平氏は述べている。この物語は皇統の回復をなしとげたというところに価値があるということである。もともと『椿葉記』は永享三年の起草段階では『正統廃興記』であった。そうすると『椿葉記』は直截的表現ではないが『正統廃興記』とはほとんど同じ意味ということになる。
 要するに後花園天皇が後小松上皇の猶子とされる儀を経て皇位を継承した。それは上皇の思召の重恩によるものであり、後光厳院流(柳原流)の継承者と位置づけられている、しかし貞成親王は『椿葉記』により、天皇はまことは崇光院流(伏見流)の子孫であり、現実的な血統上の事実として、これは持明院統正嫡たる崇光院流の再興であると主張しているのである。
 実際、『看聞日記』によると貞成王は「徳是」を自ら主唱者として謡っている三例など、相当なこだわりをみせているという。最初の例は応永23年7月24日で栄仁親王から治仁王に琵琶の秘曲を授かれる灌頂の際、これに先立つ管弦のなかで、琵琶の血脈相承を寿いでのもの。第二例は、応永24年正月11日、栄仁親王の喪中であったが、治仁王が年頭の佳例として祝言の謡いがあるべきだとして所望したケース。第三例が同年4月2日、治仁王が脳卒中で急に薨じたが、四十九日の翌日に、貞成王の代始めとして自ら謡ったケース。これは宮家の継承者として皇統再興への意欲をみせたものとも解釈できる。

後小松上皇の御遺詔とその問題点
 
 後小松上皇は後光厳院流(柳原流ともいう-これはたぶん後光厳上皇の仙洞御所が柳原亭であったことによる)の継承性にこだわった。岸田寛によると(註1)、後小松御落胤の大徳寺一休和尚に院宣を下したが一休は次のように辞退した。

「常磐木や木の梢つみ捨てよよをつぐ竹の末は伏見に」

「竹」は梁の孝王「修竹園」の故事から皇族をさす。称光天皇の御世を継承すべき御方は持明院統正嫡の伏見殿宮(彦仁)であるとしている。自らを梢にたとえて竹に接ごうとなさるのかと遠慮しているのは一休の母が南朝にゆかりのある藤氏の出身であることからとされている。とにかく一休は伏見流の皇位継承が妥当との見解であったので、一休還俗は実現しなかったのである。
 後小松上皇は永享5年10月20日に崩御、血統的には後光厳院御一流は断絶したが後花園天皇の皇統上の地位の解釈で継承性のあるものとした。
 御遺詔の勅書は『満済准后日記』』(10月23日)によると「‥‥勅書趣、後光厳院御一流不断絶之様能々可有申御沙汰云々(中略)又一通勅書、御追號事可為後小松院云々」とある。但し、後光厳院流の断絶せざる様取り計ふべきのほかにも、万里小路時房の『建内記』によると文安4年3月6日条に「‥‥不可有尊號之沙汰、舊院仙洞不可為伏見宮御所事」とあり、天皇の実父貞成親王に太上天皇の尊号あるべからず、旧院仙洞御所を伏見宮の御所たるべからずも含めて三箇条があったことが知られている(註2)。
 
 村田正志(註2)によると上皇の御考は「院如御所生、被契約御父子の儀」であり、貞成親王との御父子の関係の断絶を意味するものだったという。即ち後小松上皇は、崩御の後、伏見宮方が御遺志に反して後花園天皇を以て崇光院流を再興し給へる天皇として、貞成親王との親子関係を主唱するような事態を憂慮され、厳重な御遺詔を記したのである。
 しかし遺詔というものはしばしば反故にされている。聖武上皇の遺詔による皇太子道祖王の廃太子、桓武天皇が遺詔で皇位継承者に指名したともいわれる恒世王の例、後三条天皇は、白河天皇に実仁親王が皇太弟となり、実仁親王が即位した後には、輔仁親王を皇太弟とするよう遺言したが守られなかった。亀山法皇が恒明親王を皇位継承者に定めたにもかかわらず後宇多上皇が反故にした例などである。
 ここから私の意見も述べますが、上皇の御考は前例からみて異質のように思う。現実に血統が途絶していながら猶子の儀にもとづく擬制に前例がなく、天皇の実父が存命されているにもかかわらず太上天皇尊号がないというのは少なくとも律令成立期以後はない。
 前例として承久の乱で仲恭天皇廃位、三上皇島流しにより後堀河天皇践祚、後堀河の御父守貞親王(高倉皇子、後鳥羽皇兄)は出家されていたが、後堀河天皇の御父として太上天皇尊号を奉られ、院政をしいた例がある。後高倉院である。増鏡に「ちゝの宮をは、太上天皇になしたてまつりて、法皇ときこゆ」神皇正統記にも「入道親王、尊號ありて太上皇と申て世をしらせ給」(註3)とあるとおりである。 
 奈良時代においては、文武・元正天皇の御父草壁皇子は慶雲四年に薨日を国忌に入れ、天平宝字二年に岡宮御宇天皇の尊号が奉られた。淳仁天皇の先考舎人親王が、天皇の実父ゆえに崇道尽敬皇帝と追号され、光仁天皇の先考施基皇子が春日宮天皇と追尊されている。山稜の地により田原天皇とも称される。従って少なくとも奈良時代以後、天皇が実父が即位していないケースでは太上天皇尊号か天皇号、皇帝号が追号されているのである。
 『椿葉記』では、後高倉院、草壁皇子や施基皇子その他の例を引き、猶子の前例についても検討を加えたうえで次のように、太上天皇尊号宣下の御希望を記されている。
「されは上古より、帝王の父として無品親王にてはてたるためしなければ、御猶子の儀にはよるまし。舊例にまかせて院號の御さたもあるへき事に侍れとも、不肖の身、中々微望をいたすに及はす。つゐには又追號の沙汰はありもやせむすらむ。おなしくは存命のうちに尊號の儀もあらは、いかに本意ならむ。さてこそ君の聖運開ましますしるしも、いよいよ氣味はあらめと覺侍る。何事も人の偏執によりて、當座はとかく申なし侍るとも、昔の例は世のしる所なれは、今更申に及さる事也。」(註4)
 村田正志の註解を参考にすると上記の大意は次のとおり。
「上古以来天皇の実父で自分のように無品親王のままで果てた例はない。今上が後小松院の猶子となっているからといって、別段これに拘束されるわけはない。天子の御父に太上天皇の尊号宣下があったという旧例に従って、我身にも院号を賜る事があろうけれども、不肖の自分としては尊号宣下を申し出ることはできない(謙遜し婉曲な表現をとる)。終には薨去の後尊号追贈があるかもしれないが、同じ事なら存命のうちに尊号宣下があれば如何に満足だろう。もしそうなれば後花園院の御運が開けゆくような気分がする。どんなことでも片意地で当分はいろいろ難癖をつける人がいるが、前述のような古例があることは世人の知るところだから、今更いうに及ばず大丈夫だ。」
 これは親王の名誉欲とかそういう趣旨のものでは全くない。持明院統正嫡たる崇光院流の悲願が皇位回復であるから、太上天皇尊号宣下がなければ崇光院流の再興とはいえない。それゆえに、婉曲な表現ながら熱望されたということである。

 御猶子の前例も検討してみると、白河法皇が曾孫の崇徳天皇を猶子(実は実子)としている例は鳥羽上皇との父子関係(実は甥-伯父)を断絶する趣旨ではない。
 伏見上皇の第二子富仁親王(のち花園天皇)が皇兄後伏見上皇の猶子として大覚寺統の後二条天皇の皇太子に立てられた。これは伏見上皇が、将来後伏見上皇に皇子が生まれた時は、その皇子を富仁親王の猶子として皇統を継承させ持明院統を分裂させないで結束するための措置であるが、花園天皇践祚で伏見上皇の院政となった(上皇出家の後、後伏見上皇の院政)。実の父子関係を祖父-子の関係に擬しての院政ともいえるが、実の父子関係を断絶させるような性格のものではないように思える。
 これは、後伏見天皇が僅か在位三年で幕府の圧力で大覚寺統に皇位を譲ることになったため。持明院統としては甚だ不本意であったが、この時点で後伏見に嫡子なく、量仁親王(のち光厳天皇)は誕生していなかった。従って両統迭立で後二条の春宮には後伏見皇弟の富仁親王の立坊以外になかった。従ってあくまでも後伏見が正嫡であることを明確にしたものといえる。実際、持明院統の主要所領や琵琶の秘曲の伝授なども後伏見-光厳と相続され、花園上皇は傍系であるので室町院領しか相続できなかった。
 『椿葉記』ではこの事情を「又花園院は後伏見院の御弟なれとも、御子になし申されて御位に即しかとも、つゐには嫡孫光厳院こそ皇統にてましませ。されは御猶子は一代の御契約にて、誠の父母の御末にてこそわたらせ給へ。事あたらしく申へきにはあらす」(註5)と記されており、これは持明院統の公式見解のようなものだから、付け加える必要もないわけである。
 光明院が皇兄の光厳院の猶子とされたのは光厳院の院政をしく前提であると考えられる。そうしたことで、後小松-後花園の猶子関係というものは前例と趣旨を異にするの面が多分にあるといえる。
 
つづく

川西正彦
 
(註1)岸田 寛 「乱世の天皇像-後花園天皇の場合」 『日本文學論究』通号37 1977
(註2)『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1983 
「後小松天皇の御遺詔」
(註3)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版(京都)1984 239頁
(註4)前掲書 244頁  
(註5)前掲書 239頁

2006/08/20

『椿葉記』の由緒は重んじられるべきである-旧宮家復帰待望論(1)

発売中の『週刊現代』で9月6日に向けて「祝親王誕生カウント・ダウン」という見出しが踊ってます。性別を信じたいところだが、一部夕刊紙の記事を鵜呑みにしてばかじゃないのとのご批判もいただいているので、一応慎重な言動をとります。しかし、既に「9月初旬には親王御誕生」で先走った報道になってますので、このタイミングで旧宮家皇籍復帰待望論を書いておきたいと思います。
   
川西正彦

旧宮家復帰を待望する理由をひとくちに言ってしまえば、決定的な意味で後崇光院伏見宮貞成親王の御著作で後花園天皇の叡覧に備えられた『椿葉記』の由緒を重んじる。これを軽視して伏見宮系御一統切り捨てるべしという女系論者の主張は、皇室の歴史と伝統を侮辱するものであって到底容認できるものではないという一点につきるわけである。

『椿葉記』の概略

伏見宮貞成(さだふさ)親王(1372~1456)は、正平一統とよばれる足利尊氏の南朝降伏にともなう南朝による北朝政権の接収により皇位を廃され神器も回収された崇光天皇の孫、伏見宮初代の栄仁(よしひと・なかひと)親王の第二皇子で、応安五年三月二十五日、権中納言三条実治女(西御方)の御腹に御生まれになった。応永二十四年、皇兄治仁王薨去の後をうけて伏見宮を御継承になり、同三十二年親王宣下、同年出家して道欽と号された。文安四年十一月特に太上天皇の尊号を宣下せられ、康正二年八月二十九日崩御になった。御年八十五歳。後崇光院と謚せられた。 従って今年は後崇光院崩後550年ということになる。『看聞御記』全四十三巻などの著作で知られている(註1)。
 『椿葉記』は永享六年八月当時16歳の後花園天皇に奉覧せられた。その内容から、後小松上皇が在世のうちは天皇の叡覧に供することはできなかった。天皇に進献されたのは後小松崩後の翌年である。天皇には、御実父伏見宮貞成親王より、永享三年に唐鏡、一口物語、保元物語、平治物語、平家物語など同四年に増鏡、世継、宇津保物語、同五年に古今著聞集、九条相国伊通公奏書、水鏡、寶物集、玉藻物語など、同六年に明徳記、堺記、誡太子書などが進献され学芸の御修養をされていた(註2)。増鏡で後醍醐天皇までの皇室の歴史はカバーされていたが、『椿葉記』はこのうえに御実家である崇光院流(伏見宮)の歴史、崇光院廃位から、崇光院流が持明院統の正嫡でありながら皇位を継承できず沈淪した経緯、所領相続の経過、後花園天皇登極までの顛末と、御実父の立場から天子の御修養に関する御心得について、叡覧に供するために書かれたものである。
内容は第一に、崇光院の廃位より後花園院の元服まで、持明院統嫡流たる崇光院流の盛衰興廃の史実を主とした記事でこれが主要部分である。貞成親王は書名をはじめ正統廃興記或いは皇統廃興記と命名せられたのはそのためである。第二は貞成親王が太上天皇尊号宣下の御希望を述べた部分である。第三に君徳涵養に関する事項、その一は学芸の御修養を述べた部分、その二は今回最も強調したい部分だが、崇光院御一統の間が親睦にして、皇室と伏見宮が水と魚のように親密にして将来永く疎隔あるまじき事、相伝所領については、将来長講堂領、法金剛院領は後花園院の御管領に帰すぺき事、伏見荘・熱田社領・播磨国衙・同別納・室町院領は伏見宮家に相伝せらるべきことを詳説され、終に孝悌の徳の特に重んじられるべき本義について切言せられている。これは後花園院が御実家たる伏見宮(宮家の継承者は皇弟の貞常親王)に御慈愛を忘れるべからずことを訓へられたものと村田正志博士は解説している。その三は崇光院以来御一流に奉公する廷臣等に対し、御慈愛をかけられんことを説かれている。第四に後花園天皇は正式に後小松上皇の御猶子に迎えられ皇位を継承されているが、まことは崇光院の御子孫であるから、その歴史とこれに処すべき叡慮がなくてはならぬという結論。第五は後小松上皇崩後の事件の追記である(註3)。
『椿葉記』貞成親王の宸筆御草本二巻三本は伏見宮家に伝えられたが、現在は宮内庁書陵部にある。写本は14点現存している。この書の歴史的文学的価値が認識されるようになったのは比較的最近のことで、昭和になってからのことである。南北朝史の泰斗、村田正志博士により昭和29年に「證註椿葉記」という註解書が寶文館から刊行され、これは『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版1984刊行に収録されており、このブログも同書から多く引用しているが、村田正志博士が精魂を傾け苦労の限りを尽くしたといわれる同書は、こういう事態になって意味のあるものとなったのではないだろうか。

『椿葉記』成立の背景-後花園天皇即位の事情

 正長元年(1428)七月の後花園天皇の践祚までの経緯は実にスリリングでこれほど緊迫した新帝擁立劇は例をみないとされている(註4)。称光天皇が重病の状況で、七月六日後南朝小倉宮(後亀山天皇の孫)が突然、居所の嵯峨から姿をくらました。小倉宮出奔の背後には鎌倉公方足利持氏の反幕蜂起に呼応した伊勢国司北畠満雅の勧誘があり小倉宮はその決起行動の旗頭になるため伊勢に向かったこと。在京中の大名に与同者がいたことが後に判明している。事態は一刻の猶予もなかった。当時足利義宣(のち義教)が将軍家継嗣に決まっていたが、将軍宣下されてない。称光天皇が崩御となると、天皇も空位、将軍も空位となりその間隙に鎌倉公方が後南朝小倉宮を担いで反幕蜂起し、天下争乱を惹起する可能性があったのである。七月十一日管領畠山満家より幕府政治顧問の三宝院満済のもとに諮問事項が届いた。満済は称光天皇が死去した場合の対応、つまり新帝擁立のための手続きをかねての予定どおり抜かりなく行うよう指示した。十二日に幕府首脳部が協議し伏見宮彦仁王を内定、十二日夜中に満済の使者として世尊寺宮内卿行豊が伏見御所に馳せ参じ、貞成親王には彦仁王は明日十三日にも入京されたいと申し入れた。十三日夕方に管領畠山満家一隊四・五百人の出動で極秘裏に彦仁は女房出行の体で京都東山若王子社の坊に渡御された。御供に伏見宮家譜代の近習である、綾小路経兼、庭田重有、綾小路長資が従った。警護の任には隠密裡に赤松満祐がついた、これは敵方の彦仁の奪取を警戒したためである。十七日に彦仁は足利義宣が用意した牛車で仙洞御所に参じて後小松上皇と対面。二十日称光天皇崩御、彦仁は後小松上皇の猶子とされる儀を経て、二十八日に践祚という経緯であった。親王宣下も、立太子もないが猶子の儀がなされたのである。これは限定的に解釈すれば院政をしく前提ともいえるが、それだけの意味ではなかった。『建内記』によると後小松上皇の御遺勅では貞成親王の太上天皇尊号の沙汰あるべからず、旧院仙洞は伏見宮の御所たるべからずとされ、『満済准后日記』によると後光厳院流の断絶せざるよう取り計らうこととされた。すなわち後小松上皇の思召は、後花園天皇は実父との血縁関係を絶ち、恰も後小松の実子のように猶子として迎えられたのである。上皇は、後光厳-後円融-後小松-称光と皇位継承された「後光厳院御一流」(柳原流ともいう、研究者によっては新北朝ともいう)の「万歳継帝」を望まれたゆえに、後花園天皇は正式に猶子として帝位を継承された。このため後小松上皇の御意を奉ずる廷臣は、貞成親王が天皇の御実父であっても諫言申し上げることも憚りある事だとされたのである(註5)。そのようないやがらせは崇光院流の再興を望んでおられ崇光院流こそ持明院統正嫡たるを自認している貞成親王にとって内心は耐え難いものであった。
 『椿葉記』が後花園天皇は正式に後小松上皇の御猶子に迎えられ皇位を継承されているが、まことは崇光院の御子孫であるから、その歴史とこれに処すべき叡慮がなくてはならぬ(ひらたくいえば伏見宮等をないがしろにしないように)という趣旨を結論的に記しているのは以上のようないきさつによるものである。従って『椿葉記』はたんに崇光院流再興に関する史書ではない。後花園天皇に奏進された本旨は、実父貞成親王の期待と希望に関するウエイトが大きいのである。

 書名の由来とその決定的意義

 『椿葉記』に「崇光院は光厳院第一の皇子にて後嵯峨院以来正統にてまします」とあるようにこの書は、持明院統嫡流たる崇光院流の正統性を述べている。当初書名は「正統廃興記」と命名されていたのだが、最終段階で『椿葉記』と改名された。その理由は。「おほよそ称光院の絶たる跡に皇胤再興あれは、後嵯峨院の御例とも申ぬへし。八幡の御託宣に、椿葉の陰ふたゝひ改としめし給へは其ためしを引て椿葉記と名付侍ることしかり」であった。
 後嵯峨天皇の御例、八幡の御託宣とは、古今著聞集、増鏡にみえる石清水八幡宮参詣の際のエピソードのことである。
 土御門院の第三皇子(のち後嵯峨天皇)が二十歳を過ぎても元服もなく、城興寺宮僧正真性の御弟子になって御出家を思いたっていたころ、石清水八幡宮に参詣され、御念誦を心静かになされてまどまれたところ、神殿の中から、「徳是北辰、椿葉影再改、尊猶南面松花之色十廻」という朗誦が聞こえた。これは夢だったのかもしれないが、八幡宮の御託宣ということになっている。
 「椿葉影云々」とは『新撰朗詠集』後江相公(大江朝綱)の「聖化万年春」の句で、大意は「徳は、群星の中心である北斗星のごとくであり、その栄えは椿の葉が二度改まる一万六千載も続き、あなたの尊貴さは南面して天子の地位にあるのがふさわしく、松花が十度咲く一万年までも、限りないだろう」『荘子』逍遙遊に上古の大椿が八千歳を春とし、八千歳を秋としたとあり、また松花は千年に一度咲くという。天子になって久しく栄えるという意味である(註6)。
 八幡の御託宣は現実になった。仁治三年(1242)正月、四条天皇(十二歳)が殿舎で顛倒されことが原因で大事にいたり崩御になられ、後高倉院(守貞親王)-後堀河院-四条院と継承された皇統は途絶した。
  このとき朝廷の第一人者前関白九条道家、道家の娘婿の摂政近衛兼経以下の公卿は順徳上皇皇子(佐渡院宮)を強く推したが、順徳上皇が承久の討幕計画の密議に熱中し中心的存在であったことから、幕府は佐渡に島流しになっていた上皇の還京・復辟となるような事態を警戒していた。また九条道家が将軍頼経の父であることから道家の権勢が反北条勢力と結びつくことも警戒していた執権北条泰時はこれを容認することはできなかった。
そこで、討幕計画に一切関与せず父帝後鳥羽上皇に疎んじられていた、親幕的な天皇であった土御門上皇の第三皇子(阿波院宮)推戴の方針をとった。そうした経過から元服もせず諱すらなかった阿波院宮は、幕府の後押しと、機をみるに敏な西園寺公経が道家から離反したこともあって有力な皇位継承候補に急浮上し、仁治三年正月二十日急遽元服式が挙行され、邦仁と命名、同日に践祚という慌ただしさだった。
 後嵯峨上皇の治世は幕府と良好な関係にあり、嵯峨に亀山殿という離宮を造営し、吉野より桜を移植させ、嵐山の観光資源をもたらした天皇として知られているが、それだけの存在であるわけではない。中世においては訴訟制度を整備し摂関権力に掣肘されることのない真の院政を確立した後嵯峨上皇の治世が「聖代」と認識されこれに準拠することが繰り返し標榜されていた。
 つまり『椿葉記』の書名の趣旨は、後花園天皇の皇位継承が称光天皇の皇統が絶えた後の皇胤再興であることから、四条天皇が事故で急に崩御になられ、嗣子なく、入って大統を継がせられるようになった後嵯峨天皇の御例と類似しており、八幡宮の託宣にあやかったものと考えられる。実際、貞成親王は八幡宮に奉納祈願され八幡の神徳を詠んだ歌は非常に多いわけです。さらに深く解釈するならば「聖代」と認識されていた「後嵯峨院以来正統にてまします」のが崇光院流で、聖統の栄えは椿の葉が二度改まる一万六千載も続く。つまり永久に繁栄するというのが八幡宮の託宣であるということになります。
 それは皇室(後花園天皇の直系子孫)の繁栄だけをいっているのではないだろう。崇光院流御一統、伏見宮も含めて、永久に繁栄するという趣旨になると思います。
 つまり「椿葉記」は皇室と伏見宮が親密にして疎隔あるまじき事を強調してます。
「崇光院・後光厳院は御一腹の御兄弟にてましませ共、御位のあらそひゆへに御中悪く成て、御子孫まて不和になり侍れは、前車の覆いかてか慎さるへき。いまは御あらそひあるへきふしもあるまし。若宮をは始終君の御猶子になし奉へけれは、相構て水魚のことくにおほしめして、御はこくみあるへきなり。」(註7)
 崇光院と後光厳院は同腹の兄弟でありながら、皇子の栄仁親王と緒仁親王(後円融)とで皇位継承を争って、中が悪くなって、崇光院流と後光厳院流(伏見・柳原両流)の子孫まで不和となった。そういうようなことがないように。前人の過を見て後人の戒とすべきだとされております。そこで貞成親王はひとつの提案を行っています。後花園天皇が皇弟で伏見宮の継承者となる貞常親王をゆくゆくは御猶子になし奉るべきである。それによって崇光院御一統の間が親睦にして、皇室と伏見宮が水と魚のように親密に将来永く疎隔なきように相構えて心懸けてほしいということを言っているわけであります。
 実際、貞常親王は二品直叙、後花園天皇の御猶子とされ、江戸時代の貞教親王(仁孝天皇御猶子)まで伏見殿は天皇・上皇の御猶子とされており、近代の皇室典範成立まで歴代親王宣下され皇族の崇班を継承する、定親王家としての地位にあった。康正二年(1456)十月に皇弟貞常親王に永世伏見殿御所と称すべしとの後花園天皇の叡慮があったことが知られている(註8)。
 後花園天皇は、貞成親王への太上天皇尊号宣下をはじめとして、御猶子になし奉る提案も含めて『椿葉記』の趣旨は政策として実行されたわけである。
 要するに、『椿葉記』の趣旨から、崇光院流は千年も万年も久しく栄えていかなけれきばならないことになっている。
 宝暦九年(1759)五月伏見殿第十六代邦忠親王(桜町天皇猶子)は継嗣となる王子なく薨去された際、伏見宮では同年五月発喪に先立ち一書を朝廷に上って、同宮相続のことを願い出られた‥‥大納言広橋兼胤の日記に
 「邦忠親王無息男、相続之事去月廿五日附書於勾当内侍請天裁、其趣崇光院巳来実子連続之間、不断絶系統相続之事被冀申云々、家系無比類之由含後崇光院道欽之述椿葉記之趣意於心底被望申云々」(八塊記 宝暦九・六・二条)
とあり、その趣旨は伏見宮は崇光天皇の嫡流で、皇統にとって格別由緒ある家柄であるから、実系の断絶することのないよう血脈に当る者を以て相続せしめられたいと云うにあった(註9)。つまり伏見宮の実系相続の途絶する危機の際も『椿葉記』の趣意が持ち出されている。伏見宮は桃園天皇第二皇子の貞行親王が宮家を継承した時期があったが、貞行親王が早世されたため、勧修寺門跡寛宝親王の還俗(邦頼親王-貞建親王の二男)により実系相続に復帰したので、戦後の臣籍降下まで一貫して実系を維持している。それは崇光院流御一統が久しく栄えなければならないという『椿葉記』の趣意であったのである。であるから、菊栄親睦会を持ち出すまでもなく、皇室と伏見宮(御一統)は水と魚のように親密にして疎隔あるまじき事という『椿葉記』の趣意は、ペイペイの平の小身の立場で甚だ僭越な物言いになるが、いつまでも守っていくべき価値のある事柄なのではないかと思います。女系論者のように伏見宮系を切り捨てようとするのは『椿葉記』の趣意を否定するもので、皇室の歴史と伝統を侮辱するものであると考えます。

つづく
 
(註1)伝記的書物として横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002。
(註2)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版(京都)1984 75頁以下(註3)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』69~79頁の要約
(註4)森茂暁『満済-天下の義者、公方ことに御周章』ミネルヴァ書房(京都)2004 120頁以下
(註5)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』262頁
(註6)井上宗雄『増鏡(上)全訳注』講談社学術文庫1979 214頁
(註7)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』261頁
(註8)『皇室制度史料 皇族四』64頁
(註9)武部敏夫「世襲親王家の継統について伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』12号1960 43頁

2005/10/17

旧皇族の属籍を復す方向で男系継承を堅持すべきである

以下本日首相官邸の意見募集に送信した内容である(これまで述べてきたことを要約した内容)

川西正彦 平成17年10月17日

                  
 既に何回かメールを送ってますが、きわめて深刻な事態(有識者会議が男系継承を放棄する方向で結論を出そうとしている)なので改めて上申します。

 皇室典範に関する有識者会議の論点整理で示された見解「今上天皇との共通の祖先は約600年前にさかのぼる遠い血筋の方々である。このような旧皇族やその子孫を皇族とすることについて、国民の理解を得るのは難しいのではないか。」は伏見宮系の旧皇族を貶める暴論である。
 康正二年(1456)十月に後花園天皇が皇弟貞常親王に永世伏見殿御所と称すべしと定めた(『皇室制度史料 皇族四』の64頁)。これはその後の伏見殿の遇され方でも明らかなように、貞常親王の子孫に永久に同等の身位、天皇の猶子として歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される世襲親王(定親王)家としての地位を明確にされたとみてよいだろう。つまり後花園天皇の叡慮により貞常親王の子孫である永世伏見殿御所は皇位継承者たりうるのである。
 元禄・享保頃に成立した『有職柚中抄』に「定親王トハ伏見殿ノ如キ永代不易ノ親王也、是ハ帝二御子ナキ時ハ位二ソナヘ玉ハン義也」(武部敏夫「世襲親王家の継統について伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』12号1960)とあるように定親王家が皇位継承候補の控えとしての性格は明確なのである。今こそ後花園天皇の叡慮を重んじて、この危機に際して永代不易の親王家としての役割を復活させるべきである。終戦後の皇籍離脱が後花園の叡慮を無にするもので誤った政策だったのであって、今この過ちを正すべきなのである。この趣旨から伏見宮の御分かれで実系で男系を維持している家系が属籍を復すべきである。
 ところが、血筋としては遠いのではないかとケチをつける人がいますが大きな勘違いであって近い・遠いは全く問題ではない。南北朝史の第一人者である村田正志が後花園天皇即位の歴史的意義につき「かくて皇統は持明院統正嫡の崇光院御一流に定まるとともに寶祚愈御光を添へ、皇運益々固きを加へられた。これ偏へに皇祖天照大神の神慮、國體の精華と拝し奉る次第である」と述べておられる(『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版137頁)。
 持明院統正嫡崇光院御一流に定まった皇統で後花園天皇の系統が今日の皇室である。一方後花園皇弟貞常親王の系統が「永世伏見殿御所」つまり伏見宮の系統である。伏見殿は桃園皇子貞行親王が一時継承したが、実系に戻っており歴代天皇または上皇の猶子として歴代親王宣下を蒙っている。血脈連綿として相承け、他系を交えることがなかったことは、更に由緒を深らしめることとなったのであり、由緒正しく崇光院流の王統を維持しているがゆえに申し分のない皇位継承候補の控えなのである。
 昭和二十二年まで貞常親王から約五百年の王統が続いた。今日でも男系を維持している家系があるのにそれを活用しないのは大変勿体ないことで、もし女性天皇-女系継承で易姓革命是認という政策をとってしまうと、後花園天皇の叡慮を無にすることとなり、申し開きもできないことになる。教育勅語で「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と教えられてきたのではないですか。無節操にもフェミニズムに迎合するため、皇胤一統、万世一系の皇位を棄て、易姓革命を是認して内親王を日本王朝のラストエンペラーに仕立てるみたいなことをしたら、それこそ一億総懺悔せざるをえないではないですか。
詳論は私のブログの次を御覧いただければ幸いです。http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_f888_2.html

皇室典範12条の改変に絶対反対

女性天皇、女性当主、女系宮家は絶対反対です。12条は継嗣令王娶親王条の皇親女子の皇親内婚の趣旨を実質的には継承しており規範性を有している。詳論は素人作文ですが、私の次のブログを御覧いただければ幸いです。http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2005/09/post_61d8.html

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