カテゴリー「皇室典範問題 高森明勅 批判」の7件の記事

2006/02/26

朝まで生テレビの高森明勅発言批判

 うちのテレビはBS・CS放送が映らないので先日の所功Vs竹田恒泰の討論番組は見てません。11日土曜の朝に所功教授が出演したらしいがこれも迂闊なことに見逃しましたが、25日未明の「朝まで生テレビ 激論“天皇”」(テレビ朝日)を見たので感想を述べます。

川西正彦(平成18年2月26日)

 13人のパネリストで明確に男系維持を主張していたのは八木秀次と中丸薫だけ。田原総一朗が高橋紘や高森明勅といった女系推進の急先鋒を持ち上げるだけでなく女系容認論者の声が大きくて、いらいらする内容だった。
 日曜日は田中卓反駁第3回の作文をしなければならないので、ここでパネリストの問題発言を逐一反論しませんが、高森明勅がかなり偏った発言をしており、看過できないので早速批判しておきたい。
 高森は側室制度とセットで男系は維持されたのであって、側室制度を肯定しない以上、女系容認しかないという趣旨で次のような発言があった。

庶系継承がないと傍系の宮家ももたないという奇妙な説

 高森明勅の発言「‥‥60年のあいだに11の宮家がですね。男子の跡継ぎがいる系統が4つしかなくなっているんですね。庶系がないと傍系ももたないんです」
 

 仮に、11宮家の臣籍降下がなかったとしても、側室がなければ宮家の数は減っていくと言ってますが、昨年の5月31日の有識者会議のヒアリング八木秀次の意見陳述資料PDF最終頁にある文藝春秋2005年3月号から引用した旧宮家の略系図をみますと、昭和22年で臣籍降下した旧11宮家当主の子孫のうち旧宮家の枠組みを1流という単位で数えると11流のうち4流に32歳以下の男系男子がおられる。45歳以下の男系男子が全体で17人、37歳以下では14人、独身者が10人となってます。これが正確な数字かどうかは知りませんが、男子の員数それ自体は増加している。
 フランスのカペー朝が単婚制でも結構規則正しく男子継嗣が誕生している例もありますし、単婚でも12月26日ブログで述べたように、養取であれ、復籍であれ、遺跡継承であれ仮に5人の男系男子の宮家が復帰すると、確率論では、曾孫の世代で男系男子は7.48人に増加すると試算できる。、養取、遺跡継承、あるいは跡継ぎ以外の男系男子も皇籍を離脱せず他の宮家を継承する又はあらたに宮家を創設することとすれば、宮家の数は減らないし、増加する可能性のほうが高い。
 明治皇室典範は、宗系紊乱を防ぐなどという趣旨で、第42条で養子を迎えて継嗣とすることができなくなったのですが、これはいわゆる側室制度があって、天皇が病弱でない限りそう容易に直系の後嗣が絶えることが想定できないうえに、傍系の宮家の数が多かったことがあった。現在の皇室典範でも第九条で、天皇及び皇族は、養子をすることはできないとなっているが、明治39年に皇女を妃とする東久邇宮、朝香宮、竹田宮が創設されて、宮家の数が増加していった状況と現在は異なるので、これを改正して、例えば明治5年に継嗣のいなくなった閑院宮家は、伏見宮家の易宮(後の載仁親王)により継承されたように、後嗣のない宮家に他の宮家から養取または、遺跡を継承していけば、宮家の数は減らない。
 要するに男子継嗣の存在する宮家が5~6家あれば、側室制度がなくてもそう簡単には男系継嗣は枯渇しないと考えます。それでも皇族女子の誕生が9人も連続したじゃないかいう反論があるかもしれないが、有識者会議は確率論で割り切る考え方なので、ある一族に女子が9人連続するという稀にしか起きない事例にこだわらず、同じ土俵で論じてよいと思います。
 
 
 男系限定というならば側室復活といわなければ現実的でないという奇妙な説
 
 高森明勅の発言「私が125代の系図、側室からお生まれになった天皇をずうっとチェックをしてきました。そうすると正妻である皇后からお生まれになったのがですね。四方続いたのが最高です。四方続いた例がですね。おそらく二例か三例しかないですもう。あとは一代でとだえたり二代でとだえたりよくて三代ですね。あとはもうずうっと側室ばかりで続いていると。十代、十五代続いていると。こういうケースなんです。で今現実を考えてみると、大正天皇は側室の出でいらっしゃいます。そして‥‥(「明治天皇も」-田原と高橋が発言)もちろんそう。その前もずうっとそうです。江戸時代の最初まで、ですから大正天皇までずうっと側室がずうっととだえなく続いているんです。江戸時代の最初から。で、考えるとですね。皇后からお生まれになったは昭和天皇、そして今の天皇陛下、そして皇太子、そしてここでとだえようとしているんです今。これは日本の歴史ふりかえって(「三代続くのが珍しいんだ」田原が発言)珍しいんです。(「ほう」)これは別に突飛なことでもなんでもない‥‥要するに男系限定というのは側室とセットで機能してきた。」
 男系継承に固執するなら側室制度の復活を主張しなければならないとして、側室否定なら女系容認しかありえないという主張だが、パネリストは感心して拝聴していたがかなりインチキなレトリックといえる
 
 まず事実問題ですが、江戸時代のはじめから大正天皇まで非后腹というのは正しくない。明正女帝(践祚寛永6年)の生母が中宮源和子(徳川秀忠女)ですから后腹です。女帝推進論者が女帝の生母をミスカウントしている。
 又、明正女帝以外でもひとくちに非后腹とひとくくりにしてしまうのはかなり問題がある。明治天皇生母中山慶子典侍や大正天皇生母柳原愛子権典侍のように後宮女官の典侍クラスが生母であるケースは側室、側妾と称してさしつえないが、後水尾生母女御-准三宮藤原前子(関白近衛前久女-中和門院)クラスの上流貴族のケースは非后腹といっても側室と称するのは憚られるように思える。

 南北朝時代から立后も女御を立てることもなくなった。摂関家が凋落していて経済的にも女御を立てられなかったこともあるが、天皇に正配なく、後宮女官が側妾の役割を果たしてきた。我が国の慣例では中級貴族は后位にのぼせられることは原則としてありえない。上流貴族が入内しなくなると立后はないということになる。
 天正14年豊臣秀吉の猶子として後陽成天皇(16歳)に藤原前子(12歳)が女御として入内して、久しぶりに正規の配偶者ともいえる女御の制が復活した。后位ではないが側妾とみなすことには問題があるといえる。
 同様に摂家の女御が生母であるケースとして中御門女御桜町生母藤原尚子(近衛家煕女-新中和門院)は天皇御誕生二十日後病没、贈皇太后である。桜町女御後桜町生母の藤原舎子(二条吉忠女-青綺門院)は、桃園天皇養母として皇太后にのぼせられ、女院として宮廷において求心力を有したのであるから、側室などと称するのは憚られることである。
  そもそも江戸時代の男帝14代 (後陽成・後水尾・後光明・後西・霊元・東山・中御門・桜町・桃園・後桃園・光格・仁孝・孝明 )のうち現天皇の嫡妻としての立后例は四例、後水尾后中宮源和子(徳川秀忠女)、霊元后中宮藤原房子(鷹司教平女)、東山后中宮幸子女王(有栖川宮幸仁親王女)、光格后欣子内親王(後桃園皇女)だけ。従って、江戸時代の天皇のほとんどが后腹でありえないのはあたりまえである。
 后腹天皇が多くないときいて「ほう」と感心するほどのことはないですよ。
 また長期に及ぶ皇后不冊立期があることも念頭に置きたい。南北朝時代から近世初期(後水尾后源和子)まで長期の皇后不冊立期がありますが、律令成立期の文武天皇が皇后不冊立ですし、九世紀の仁明天皇から十世紀の朱雀天皇までの八代のうち七代が皇后不冊立です。但し、仁明女御文徳生母藤原順子、文徳女御清和生母藤原明子、清和女御陽成生母藤原高子、光孝女御宇多生母班子女王は、女御より皇太夫人、さらに皇太后、藤原順子と藤原明子は太皇太后にまでのぼせられているがこのようなケースは后腹にカウントしているのか。東宮妃で薨ぜられたケースはどうなのかなど、非后腹をどのように数えているのか判然としていないこともある。
 円融后中宮藤原遵子は女御より直接皇太后にのぼせられた藤原詮子(一条生母)の女房から「素腹后」と嘲られましたが、東三条院藤原詮子は厳密にいうと皇后でなかったから嫡妻でない。円融天皇の嫡妻はあくまでも藤原遵子です。しかし嫡妻たる藤原遵子をさしおいて皇太后にのぼせられたのは藤原詮子であるから、詮子を側妾などと称するのは全く憚られることです。つまり女御所生の親王は有力な皇位継承候補者たりうるのであって、この意味では皇后と女御にはさほど大きな格差がないともいえます。この在り方は嫡妻権が明確な厳密な意味での婚姻家族ではない。例えば光明皇后は聖武践祚の6年後、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては醍醐践祚の26年後の立后ですから、立后は婚姻家族概念でなく政治行為とみなしてよい。政治的な理由で一帝二妻后の例もある。また政治的理由で皇后が里第で籠居を余儀なくされるようなケースもあり、近代の婚姻家族とはかなり違うと思います。むしろ前近代の天皇制の特徴は嫡妻たる皇后を冊立しなくても、正配たる配偶者がなくても後宮女官が側妾の役割を果たして続いていくような柔軟性があることだろう。この点は近代の皇后のように嫡妻権の明確なあり方、嫡妻権が明確で皇后と妾の格差が明確な中国王権のあり方とも違う制度です。だから婚姻家族的な性格の明確な近代の皇室との比較で前近代を論じてもさほど意味がないと考える。
 私の考えでは、側室制度を肯定しようと否認しようと男系継承という皇位継承原理をかえることはない。例えばフランス王権はキリスト教の単婚制であっても女王女系を拒否して、男系男子で継承されてきたわけです。

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2005/09/19

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第10回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月19日-その2
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
    イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
            明正女帝
       後桜町女帝
(以上第7回掲載)
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)
 (第8回掲載)
    ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性
     ホー1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識
     ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
        ①譲位より出家が先行の変則性
        ②政務を託されたのは光明皇后
        ③光明皇后の指示による孝謙即位
 (以上第9回掲載)
 ホ-3 天皇大権を完全に掌握できなかった孝謙女帝
 ホ-4 草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
                     (今回掲載)

ホ-3 天皇大権を完全に掌握できなかった孝謙女帝
 
 聖武の突然の出家によって国政の庶事は光明皇后に委ねられた。天平勝宝元年〔749年〕八月皇后の附属職司である皇后宮職を紫微中台(史上最大の令外官司)に改組し、孝謙を即位(同年七月)させたうえで、太后臨朝称制に准じるかたちの統治体制としたものとみる。岸俊男によると紫微中台の職掌は「居中奉勅、頒行諸司」〔『続日本紀』天平宝字二年八月甲子条-758年〕といわれるように光明皇太后の大政を輔佐し、太政官の中務省に代って、その詔勅奏啓を吐納することにあったといわれる。また皇権のシンボルたる鈴璽も皇太后に置かれていた(『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条)(註89)。このためにその長官である紫微令大納言藤原朝臣仲麻呂が、事実上、太政官決裁者たる左大臣橘朝臣諸兄よりも政治的求心力と実権を有することになった体制として語られることが多い。。
 紫微中台官人の構成であるが、紫微令仲麻呂以外に、藤原氏から起用されていないので、藤原政権では全くない。発足当初のメンバーは、紫微大弼に参議大伴友宿禰兄麻呂、参議治部卿石川朝臣年足、紫微少弼に百済王孝忠、式部大輔巨勢勢朝臣堺麻呂、中衛少将背奈王福信である。人事官庁と衛府の官人が兼官しているが、紫微令大納言仲麻呂は前式部卿(孝謙即位後の式部卿は紀朝臣麻呂)であり、紫微少弼の式部大輔巨勢朝臣堺麻呂は仲麻呂に近い官人で、人事官庁は仲麻呂が掌握していたとみてよいのである。
 紫微中台というネーミングは諸説あるが、則天武后時代に三省のひとつである尚書省が中台と改称した例がある。また玄宗皇帝初世に中書省を紫微省と改称した例があり、唐の中書省と尚書省を合体した強力なものだった(註90)。
 太后臨朝称制は中国では漢代から正統な政治形態として確立されているが、紫微中台が特異な変則的体制とみなされている理由は、本来、天皇と太政官の二極体制である律令国家のシステムであるのに実質的に令外官司が太政官と並び立つもしくはそれを凌ぐ求心力を有する政権になったこと。孝謙女帝が32歳で即位し成人であるにもかかわらず完全な執政権が付与されず、皇太后が大きな実権を掌握している体制というところにある。

 ただし冒頭に述べた岸俊男の見解はかなり問題がある。『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条に橘奈良麻呂の変を語る記事で「皇太后宮を傾けて鈴璽を取らむ」とあり、皇権のシンボルたる鈴璽(鈴印契)が皇太后宮にあったことが知られている。しかしそれは聖武上皇崩後のことである。また当初から皇太后が紫微中台単独の署名で勅書が作成されていたわけではないという説がある。
 近藤毅大によれば孝謙即位後も鈴璽は聖武上皇がもち、上皇崩御前後の時期に皇太后の手元に移ったのだという。又、当初、光明皇太后は「令旨」を発給していたが〔これは公式令の規定どおり〕、ある時期から紫微中台と侍従の連署で皇太后の意思を「勅」とするようになり、仲麻呂が紫微内相になると紫微中台単独の署名で光明皇太后の勅書が作成されたという(註91)。なお、孝謙女帝の詔は太政官ルートで中務卿により宣せられている。
 聖武崩後の体制は「皇帝皇太后、如日月之照臨並治萬国」(『続日本紀』天平宝字元年壬寅条)といわれているように日と月にたとえられる皇太后との共同統治体制ということにはなっている。しかし、近藤説によれば皇権のシンボルである鈴璽(鈴印契)を孝謙女帝が掌握したことは一度もない。即位当初は聖武上皇、後に光明皇太后が鈴璽を掌握しており、孝謙女帝にかわって皇権を行使していたということである。皇太后の意思も「詔」「勅」とされていることはある意味で上皇と同じ(例えば天平十六年二月二十六日難波を皇都と定めた勅は元正上皇とみなす歴史家が多い)ともいえるが、鈴璽(鈴印契)を掌握していない以上、孝謙女帝が完全な執政権を有していないということである。それは皇嗣とはみなされない女帝の限界であったと考えられる。
 さらに天平宝字元年五月の大納言藤原仲麻呂の任紫微内相であるが、岸俊男は次のように説明する。紫微内相は待遇上大臣相当官で、内外諸兵事を掌る軍事総監として置かれた。一般に統帥権は行政権とは平行的に終局的にはともに天皇の掌握するところで、太政官に属する太政大臣、左右大臣、大納言に通常絶対的な軍事権はない。紫微内相は仲麻呂が本来直接天皇が掌握する軍事権を手中にするための令外官とされている(註92)。大臣相当官で軍事も掌握するから強力なポストであるが、これは不穏な情勢(奈良麻呂の変)が察知されていたこともある。そうすると紫微内相は皇太后の直属の部下であっても、女帝の直属の部下ではないから、女帝の腹心である藤原永手が中納言に昇進しバランスをとっているとはいえ、孝謙女帝は軍事権を掌握していないことになる。
 

 ホ-4草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
 
 前回述べた天平宝字六年六月三日詔で、孝謙上皇が草壁皇統嫡系を強弁しているにもかかわらず、女帝には草壁皇統のシンボルたる草壁皇子の佩刀が譲られていないことである。瀧浪貞子によれば、佩刀は草壁皇子-藤原不比等-文武-不比等-聖武と伝えられたが、聖武崩後の天平勝宝八年六月二十一日に光明子により東大寺に献納されている。佩刀の授受に終止符が打たれたことは草壁嫡系がいなくなったことを物語り、聖武上皇の遺詔により天武孫の道祖王(孝謙女帝によって廃位)が皇太子に立てられたことによって草壁皇統は終焉した(註93)。瀧浪氏はまた次のようにも述べておられる「『不改常典』の論理は‥‥嫡子が男子に限られた皇位継承=嫡系相承を実現するためには、女子は単なる皇位の保持者=中継ぎに徹せざるを得なかったのである。黒作の太刀が女帝を経ず、草壁-文武-聖武という、いわゆる草壁皇統に伝授され、それで終わったことの意味も、あらためて理解されよう。これが、孝謙が皇位を継承できても皇統の継承者として認められなかった理由であり‥‥‥」(註94)。
 私の考えは、『不改常典』の解釈いかんにかかわらず、端的に、女帝は皇位を継承できても皇統の継承者としては認められないと言い切ってさしつかえないと思う。

 次に淳仁天皇(大炊王)は前の聖武天皇の皇太子と定められていたことである。淳仁天皇の光明皇太后に対する言葉「『前聖武天皇乃皇太子』と定めていただき即位させていただいた」(『続日本紀』天平宝字三年六月庚戌条)であるが、『前聖武天皇乃皇太子』は光明皇太后が事実上定めたものであることがわかる。大炊王立太子は聖武崩後であり、しかも皇嗣策定会議(天平宝字元年四月四日条)で大炊王立太子を切り出し決裁したのが孝謙女帝であリ、孝謙の譲位により即位したにもかかわらず、それでも、前聖武天皇の皇太子である。瀧浪貞子は、大炊王を聖武の正統な後継者とするために擬制的に聖武の嫡子に仕立てようとしたとされ、皇統が孝謙を飛び越えて聖武から継承されたということにほかならないとされている。(註95)、皇統が孝謙を飛び越えた、それはそうだが、先考舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号で舎人親王系皇統を創成したのであるから、前代が女帝でないかぎり、ことさら『前聖武天皇乃』とされる必要はなかったと考える。このことは直系継承の擬制というよりはむしろ聖武天皇即位詔「此食国天下者、掛畏藤原宮天下所知、美麻斯父坐天皇美麻斯賜天下之業」を連想させる(第7回のロ参照)。この理屈では女帝からの継承性がないのである。女帝が皇統から外されており、大炊王の『前聖武天皇乃皇太子』は男系継承の論理性を示すものであり、端的に女帝は皇統を形成できないことを示している例であると思う。
 また木本好信(註96)は孝謙の譲位に光明皇太后は重大な役割を演じているとしている。天平宝字二年八月庚子条で、孝謙女帝は譲位の理由として、大政を聴くことは労苦の多いことで、長く在位していることは力の弱い自分には荷が重すぎて堪えられないこと。母光明皇太后に対して、今は人の子として孝養を尽くせないので、退位してゆっくりと子として仕えたいとしているが、この前後に皇太后の病気などのこともみえないから不自然として、光明皇太后が政治的理由で譲位を望んだ結果と論じている。
 木元説の新味は、従来、淳仁天皇は仲麻呂の権勢獲得の手段として語られる傾向が強かったのだが、光明皇太后が天武系皇統の存続を思慮した結果であるとされていることである。例えば、先に触れた天平宝字三年六月庚戌条でも「太皇太后(光明)の御命以て朕(淳仁)に語らひ宣りたまはく、‥‥吾が子(淳仁)して皇太子と定めて先ず君の位に昇げ奉り畢へて」とある。
 光明皇太后は則天武后に比擬されることが多い、国分寺創建と東大寺廬舎那大仏造営は、光明皇后が推進したものだが、国分寺は則天武后が全国にもうけた官寺の大雲寺、大仏は龍門奉先寺の廬舎那大仏に範をとったものであり、四字年号も則天武后の影響とされている(註97)。しかし決定的に異なるのは、則天武后は李氏唐室を簒奪し武周を建国したのであるが、光明皇后は、孝謙上皇の反対にもかかわらず、舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号など舎人親王系皇統の創成に尽力されたのである。草壁皇統が血統的袋小路に入った以上、新しい皇統を創成しなければならない。スムーズに草壁皇統から舎人親王系皇統への継承させるために、木本説は光明皇太后が政治的に孝謙女帝を帝位から下ろした、実質的には退位を命じたという解釈である。そのような意味でも孝謙は中継ぎであったのである。ということは当初から孝謙女帝は執政権を完全に掌握する本格政権は想定されていなかったということになる。 
 以上述べたように孝謙は即位したが皇位継承の正当性に乏しく天皇大権を掌握できない中途半端な存在だった。上皇としても理屈のうえでは、淳仁に親権を行使できない立場にあった。保良宮から平城京に還御されたとき上皇は出家されたにもかかわらず怒りを爆発させ、奪権闘争に突入、実力で仲麻呂や氷上真人塩焼の斬殺、淳仁の廃位により敵対勢力を打倒することによって真に執政権を有する女帝となったのであった。
 光明皇太后の意図は、望まない退位を強要された孝謙上皇の権勢の執着に発した重祚と淳仁の廃位で台無しになったのである。
 にもかかわらず私は称徳女帝を高く評価したい。筧敏生か誰だったか出所を明示できないが、孝謙上皇の重祚は「もはや天皇でなければならないという意思のあらわれ」と述べているのを読んだ記憶がある。藤原京と奈良時代は、天皇と上皇の共治体制の例が多かったが、天皇に権力が収斂されたのは通説では薬子の変であるが、孝謙の重祚を重視する見解である。称徳朝には上皇・三后・皇太子が不在で天皇に権力が収斂されたのである。このことは天皇を中心とする律令国家体制を固めた意義のあるものと評価してよいのである。
 一方保立道久のような称徳女帝=平和主義論もある(註98)。新羅出兵計画を推進したのは淳仁天皇と藤原仲麻呂としたうえで、孝謙上皇がブレーキ役になり、淳仁の外交大権の回収で解消したというのである。称徳女帝は神護景雲二年十月に新羅交易物を購入するため八万五千屯の綿を左右大臣以下政権首脳部・皇族に賜与しているが、舶来品は需要があるのであって、国家間の緊張関係は別として現実主義的な政策といえる。当時の新羅は国力が充実しており、新羅征討に突入するのは軍事的冒険になる。この点で女帝は現実主義的な政策判断をとったと評価してよいのかもしれない。 

 以上、歴史上の女帝、生涯非婚内親王四方の即位の経緯を逐一検討したが、結論は全て男系主義的脈絡における中継ぎであり、女帝は皇権を継承するが皇統を形成することはできないことを各論で示した。女系継承などありえないのである。ところが男系も女系も認めようとか、男系も女系も皇統などという無茶苦茶な見解が世論を誘導しているとんでもないことである。

(註89)岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館人物叢書 1987新装版 初版は1969
112頁
(註90)愛宕元「補説23武則天と光明皇后」松丸・池田・斯波・神田・濱下編『世界歴史体系 中国史2-三国~唐』山川出版社1996
(註91)近藤毅大「紫微中台と光明太后の『勅』」『ヒストリア』No.155 (153)1997年6(註92)岸俊男 前掲書 198~201頁
(註93)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」79頁以下
(註94)瀧浪貞子 前掲書81頁
(註95)瀧浪貞子 前掲書70~72頁
(註96)木本好信『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう 2004、但し初出2002、181頁以下
(註97)愛宕元 前掲論文
(註98)保立道久『黄金国家』青木書店2004 71頁以下

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女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第9回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月19日
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
   イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝
(以上第7回掲載)
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性) 
(第8回掲載)
    ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性
     ホー1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識
     ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
        ①譲位より出家が先行の変則性
        ②政務を託されたのは光明皇后
        ③光明皇后の指示による孝謙即位
                (今回掲載)
     ホ-3天皇大権を掌握していない孝謙女帝
     ホ-4草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
               
(次回掲載予定)

ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性

 女帝は皇統を形成できない。前回述べたとおり、皇統が血統的に袋小路になって直系継承が不可能で、いずれ傍系皇親へ継承することがわかっていながら、あえて非婚女帝が即位した例は、聖武天皇が陸奥産金の報らせに狂喜するあまり衝動的に出家され太上天皇沙弥勝満と称し国政を投げ出したともいわれる状況で即位した、孝謙天皇だけである(明正天皇は践祚の時点で父帝後水尾の皇子がいなかったが、若宮誕生後に譲位する中継ぎであったことは第7回で述べたとおり)。あってはならないことだが、もし現今の状況で女帝が即位するとすれば、直系継承が不可能なのに時間稼ぎ的な皇位継承になり、孝謙即位のケースが現今の状況に類似しているといえるだろう。そういうわけで、現今の女帝論議においても孝謙女帝をどう評価するかが、生涯非婚であることは絶対条件としても女帝を容認しうるか否かの判断において重要であると考えるので、ここで孝謙女帝論を述べることとする(長文になるため今回は途中までである)。
 
  もちろん現今の状況とは異なる面も多分にある。天平十年の阿倍内親王立太子の時点では中継ぎが想定されていた可能性がある(阿倍内親王と10年の年齢差のある異母弟聖武皇子安積親王が健在だった。次妻格以下の藤原氏女腹皇子の誕生の可能性もあった)。決定的には草壁皇統は袋小路になったが、孝謙即位の時点で皇親がかなり多数実在していたことである。有力なのは律令国家成立以降功績がある天武系の舎人親王系と新田部親王系であり、舎人系では船王・池田王・守部王・大炊王、三世王の和気王、新田部系では塩焼王・道祖王、このほか高市皇子系では長屋王の子、安宿王・黄文王・山背王、長親王系は智努王、大市王、奈良王がいた。結果論をいうと、称徳朝までに天武系で臣籍に降下していない有力皇親が殺戮や追放によって除かれてしまったために、称徳女帝不予の際の皇嗣策定会議で天武系にこだわった右大臣吉備真備が、臣籍に降下したうえ出家していた、天武孫の文室真人浄三(智努王)や文室真人大市(大市王)を皇位継承者に推薦せざるをえなくなっているが(註79)、それはともかく、藤木邦彦によると孝謙女帝の治世で皇親から臣籍に降下した例が、敏達裔、舒明裔、天智裔、天武裔、出自不明を含めて72例あることからみても(註80)、皇位継承資格を有する諸王はかなり多数実在していたのであるから、現今の枯渇的状況とは異なる。
 
 結論を先に述べます。いずれ傍系へ継承することがわかっているのに即位した孝謙のケースは特異で変則的な在り方である。孝謙即位の皇位継承の論理性・正当性はかなり弱い。光明皇太后の「皇太后朝」ないし皇太后摂政ないし皇太后称制ないし紫微中台政権を正当化させるための役割をふられた感がある。
 しかし私は柔軟な考え方をとる。光明皇太后は東大寺や国分寺創建の発意者であり仏教事業や福祉政策に偉大な治績を有するだけでなく、いわゆる仲麻呂政権№2の石川年足は能吏タイプと評価され、「皇太后朝」は善政との評価があり、三后は政治的権能をもともと有しておりそれもありうる体制だった。「皇太后朝」紫微中台政権は必ずしも特異な体制とみなす必要はなく、正統な政治形態である太后臨朝称制の変態とみなすことができ、結果的には紫微中台政権は、草壁皇統から舎人親王系皇統へ過渡的政権となり、皇権の危機をもたらしたものでもない。逆説的にいうと太政官権力を掣肘していることから、実質的には君主の政治的権威をなお一層高めたと評価もできるし、天皇を中心とする律令国家体制を固めるために有意義だったという見方もできるかもしれない。そうした脈絡で光明皇太后の天皇大権掌握を正統的政治形態とみなし好意的な見方を示すこともできる。その観点から、傍系皇親へのつなぎ期間の共同統治者の一人として、かろうじて孝謙が皇位を継承した意義を認めてもよい。
 
 しかし現今の女帝論議は傍系皇族への皇位継承への時間かせぎということでもなく、皇太后称制による安定的強力政権で律令国家体制を成熟させていく国家的課題があるわけでもなく、女帝即位の絶対条件である非婚独身を貫くということでもない。孝謙即位の条件とはかなり異なるのである。プリンスコンソートを迎えての女系継承が前提とされており、事実上の皇朝の廃止、易姓禅譲革命、日本国の終焉の合法化になるもので到底容認することができない。
 現今の状況-直系継承が袋小路で傍系皇族も否定されている状況ではたとえ、時間かせぎの観点で生涯非婚内親王の即位であってもその次の皇位継承者に不安があり、容認しがたい。私は生涯非婚内親王の即位ですら反対だから、表題のとおり絶対反対論です。歴史上の女帝の意義は認めても、現今の女帝論議は、女帝は非婚でなければならないことが絶対条件にされてないので、無茶苦茶な理屈になっている。プリンスコンソートなんてもってのほか。傍系皇親が多数実在していた状況での孝謙即位のケースでも正当性に乏しいのに、傍系男子皇族への皇位継承の見込みを否定して、易姓革命を是認し国を滅ぼす政策を合法化するなど、絶対的に容認できるはずがない。以下孝謙即位の異常性を挙げるとともに、女帝が皇統を形成できないという意義についても考察していきたい。
 
  ホ-1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識

 第一に天平宝字元年七月に橘奈良麻呂の変により喚問を受けた陸奥国守佐伯宿禰全成の自白に、「去る天平十七年先帝陛下(聖武)は難波行幸中に重病になられた。このとき橘奈良麻呂は自分に語って『陛下枕席安からずして、殆んど大漸に至らんとす。然れども猶皇嗣を立つること無し、恐らくは変有らん乎。願はくは多治比国人・多治比犢養・小野東人を率い、黄文を立てて君となし、以て百姓の望に答へよ‥‥』と誘った‥‥」という。「猶皇嗣立つることなし」とは、瀧浪貞子が論じているように当時の貴族の一般的な考え方であった。立太子後七年も経っていながら、阿倍内親王が結局は皇嗣=嫡子とは認められていないことを示している(註81)。皇嗣すなわち皇統の継承者は男子である以上、女性立太子の論理性はかなり弱いものと断じてよいと思う。ヒツギノミコという言葉はあるがヒツギノヒメミコという言葉はありえない。どう考えても女性立太子はヘンだと云わなければならない。当時においても女性立太子は特異と認識されていたのである。
 
  ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
 
 論点は次の三点である。
①聖武が孝謙即位より一ヶ月余り前に既に出家の身で薬師寺宮に遷御され、太上天皇と称していたことは奇妙である。
②聖武天皇は光明皇后に政務を托したのであって孝謙即位は形式的な実現とみられること
③天平宝字六年六月三日詔で孝謙上皇は、父帝聖武ではなく母光明皇后の命で即位したとされているのは奇妙である。
 結論を先に述べますと、聖武天皇は政務を光明皇后に托し出家した。聖武が在世されているのに皇后称制というのは奇妙で特異な在り方となること、聖武天皇の出家という既成事実が先行してしまったので、光明皇后の主導によって形式的に聖武譲位、皇太子阿倍内親王即位が実現した。聖武上皇崩後は形式上、「皇帝皇太后、如日月之照臨並治萬国」(『続日本紀』天平宝字元年壬寅条)といわれる共治体制となった。と私は考える。光明皇后の存在の大きさもさることながら、この変則的な皇位継承の在り方は、阿倍内親王が皇太子でありながら結局は皇嗣=嫡子と認められていないこと。皇統を形成できない女帝即位の論理性、正当性の弱さを物語っていると解釈する以外にないのである。
 
 
 ①譲位より出家が先行の変則性
 
 聖武天皇は天平勝宝元年(七月改元-749)七月二日に阿倍内親王に譲位した。『続日本紀』に「皇太子、禅りを受けて大極殿に即位きたまふ」とあり、譲位宣命とそれを承けた孝謙の即位宣命があることから明白である。ところが、天平感宝元年(四月改元-749)の閏五月二十日に聖武は大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺などに種々の品々と墾田地を施入し、あらゆる大乗・小乗の経典を読誦させ、聖武自信の延命と衆生の救済を願う詔を発しているが、その願文中に聖武はみずからを「太上天皇沙弥勝満」と称し、『続日本紀』は閏五月二十日条に続いて「天皇、薬師寺宮に遷御して御在所としたまふ」とある。
 沙弥とは十戒を受持した出家者(見習い僧)を意味するので、出家した身で天皇として政務をとれない(もっともこの点は称徳女帝が先例を破っているが)から宮中から薬師寺宮に遷御され、このことが孝謙の即位を導き出したとふつう理解されている。
 聖武が孝謙即位より一ヶ月余り前に既に出家の身で薬師寺宮に遷御され、太上天皇と称していたことは奇妙である。
 川崎庸(註82)が先行説を検討しているが、孫引きになるが、ほぼそのまま引用する。
 中川収説(「聖武天皇の譲位」『奈良朝政治史の研究』高科書店1994 初出1983)は、聖武は元正天皇や藤原夫人・行基といった近親・関係者の死没による精神的打撃と不祥事連続のさなかに、陸奥国から産金の報がもたらされるとその歓びの衝動で仏道専念を決意、政務を光明皇后に託して閏五月二十日の時点で皇位を離れ、出家して「太上天皇沙弥勝満」と称し、譲位と阿倍内親王の即位を七月二日に形式的に実現したとされた。
 遠山美都男説(『彷徨の王権聖武天皇』角川書店は183~187頁)聖武の譲位は衝動的なものではなく、『扶桑略記抄』の記事に従い、天平二十一年(749)正月十四日に出家、廬舎那仏造立を通じて国家内的権力の頂点にある天皇を超越する立場として「太上天皇沙弥勝満」と称したとされ、聖武の自称に積極的な意味をもたせた。
 瀧浪貞子説(『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社2000 240~247頁)は、聖武の譲位は7月2日であり、「太上天皇沙弥勝満」は聖武のあくまで自称にすぎず、聖武の願望、強烈な意思表示であり、実際にはないものとされた。
 川崎庸の見解は、『扶桑略記抄』の記事は信憑性に乏しい。聖武の受戒は天平十六年の甲賀寺廬舎那大仏造立の時点も考えられ、授戒は行基でなく玄昉である。神格化した天皇の出家が前例のないものであったなどの理由から出家が遅れたとする。聖武は陸奥産金の報に四月一日東大寺に行幸「三宝の奴と仕へ奉る天皇」と自称したが、その後出家(沙弥戒)して譲位の意思を固め、閏五月二十日に「太上天皇沙弥勝満」と称したとされる。
 中川説、黄金産出の報に歓んで衝動的に出家したというのはスト-リーとして面白いし、出家の動機の一つになっていると思うが、川崎説などを勘案するとそれは計画的なものであったかもしれない。川崎庸によると、聖武天皇は早く天平六年の時点で「身を全くして命を述べ、民を安みし業を存するは、経史の中、釈教を最上」とし、「三宝に憑り一乗に帰依」することを表明しているように、かなり以前から出家を望む傾向があったとみてよい。
 一方、瀧浪説であるが、奈良時代においては、平安期において慣例化した天皇が内裏を出て、後院に天皇が遷御し譲位する在り方(『儀式』)を基準に論じる理由はないということはわかる。元正上皇が中宮西院という平城宮内を居所とされていたように、平安期のように上皇が後院に遷御されることが必然ではなかった。しかし「薬師寺宮に入ったからといってただちに出家したというわけではない」というのは空位を否定するための苦しい見解のように思える。既成事実として譲位より出家が先行してしまったという見方でさしつかえないのではないか。
 
 ②政務を託されたのは光明皇后
  
 次に聖武天皇は国政を光明皇后に委ねたとみられる点である。
 天平宝字元年七月の橘朝臣奈良麻呂の謀反が密告された際の光明皇太后の詔であるが、
 詔畢りて、更に右大臣(藤原豊成)以下の群臣を召し入れて、皇太后(光明子)、詔して曰はく、「汝たち諸は吾が近き姪なり。また竪子卿は天皇(聖武)が大命以て汝たちを召して屡詔りたまひしく、『朕が後に太后に能く仕え奉り助け奉れ』と詔りたまひき。また大伴・佐伯の宿禰等は遠天皇の御世より内の兵として仕へ奉り来、また大伴宿禰等は吾が族にも在り。諸同じ心にして皇が朝を助け仕へ奉らむ時に、如是の醜事は聞えじ。汝たちの能すらぬに依りて如是在るらし。諸明き清き心を以て皇が朝を助け仕へ奉れと宣りたまふ」とのたまふ
 群臣(特に大伴、佐伯氏)の不能を激しく糺し、厳しい態度で群臣の仕奉を要求しているが、聖武が群臣に対し、自分の崩後は光明子によく仕奉せよとの詔をしばしば発していたことが示されている(註83)。女帝によく仕奉せよではなく、皇太后によく仕奉せよである。よく知られていることを述べるだけだが、王権の掌握者、実質的な統治者、最終政務決裁者が女帝でなく皇太后であるということである。
 このことは、聖武譲位の経緯でも同じことだと思う。持統以前の皇親皇后を別として、少なくとも人臣女子では光明皇后が共知型の史上最強の皇后であることは、前回述べたとおりである。天平元年八月の光明立后宣命に「‥天下の政におきて、独知るべき物に有らず。必ずもしりへの政有るべし。此は事立つに有らず。天に日月在る如、地に山川在る如く、並び坐して有るべしといふ事は、汝等王臣等、明らけく見知られたり‥」とある。
 光明皇后は文字どおり「並び坐して有るべし」というように、天皇・上皇と並び立つ執政者であった。「天下政‥‥必母斯理倍乃政有倍之」は『儀式』立皇后儀に載せる宣命に継承されているが、「しりへの政」の意義(註84)については諸説あり、嵯峨后橘嘉智子以降は後宮及び皇族女性の統率といった限定的な概念に後退したという見方もある。この問題に深入りしないが、私は不確定概念だと思う。状況如何によっては拡大解釈が可能な余地がある。いずれにせよ三后は皇太子に准じて令旨を発給し、政治的権能を有するけれども、実態面で天皇と並び立つ共治者・執政者といえる皇后は奈良時代以降では光明皇后だけだろう。
 例えば九世紀の三后皇太夫人の附属職司の活動についていえば、文徳生母藤原順子の御願寺安祥寺の造営、陽成生母藤原高子の御願寺東光寺の造営が知られている。御願寺は官寺であるからこうした仏教事業も三后皇太夫人の政治活動なのである。また淳和太后正子内親王は承和の変の敗者だが、慈仁の心甚だ深く、封戸の五分の二をさいて、京中の棄児を収拾し、乳母をつけて養育した。行き場を失った僧尼を保護するため淳和院を尼の道場となし、嵯峨院は、宮を捨てて精舎となし、大覚寺を創建、僧尼の病の治療をなすため、済治院を設けた(註85)。太皇太后尊号を頑強に固辞されているが、朝廷が容れるはずがなく、『管家文章』に淳和院太皇太后令旨が数件見られ、終身后位にいらされたとみるべきで、こうした事業も太后の政治活動とみなしてよいわけである。
 しかし国政にしめるウエイト、事業規模からみて、光明皇后の事業に比べたら小さな活動だといわなければいわない。なんといっても光明皇后は東大寺・国分寺創建の発意者であり『続紀』の崩伝によると天皇より積極的だったとみられている。膨大な写経・勘経事業など国家的仏教事業を推進。貧窮民救済のための施薬院や悲田院といった福祉的事業にも深くかかわった。
井上薫(註86)が皇后の事業を論じているが、光明子は藤原不比等の封戸を相続し、天平十三年正月国分寺の丈六仏像を造る料に不比等の食封三千戸が施入されている。光明の皇后宮職は大和の国分尼寺とされ、唐にない尼寺を僧寺と並べたことも光明皇后の指図である。写経事業を推進したのも皇后宮職である。初期の活動は他官司の能筆の官人が動員されたが、天平八年九月二十八日から一切経5048巻の書写が開始され14年たっても完了しない膨大なものだった。また皇后宮職の官人は金光明寺(のち東大寺)写経所、金光明寺造仏所、造東大寺司の官人が任命されていることからみて、東大寺の創建というものは光明皇后が勧めた政策なのであった。
仏教指向が強いのは聖武天皇も同じことであり、政策を共有している皇后は皇権の共治体制の一翼を担っていたのである。のみならず、附属職司の皇后宮職の規模が大きかった。中林隆之(註87)によると皇后宮職の下級官司として政所、縫製所、掃部所、勇女所、染所、主薪所、浄清所、泉木屋所、写経司(天平十四年以降は金光明寺写経所となる)、造仏所、施薬院、悲田院、酒司、嶋院、外嶋院、法華寺政所のほかに蔵を管理しており、内供奉、舎人長、蔵部という奉仕組織があった。天皇の内廷に類比しうる規模が備えられたのである。
 要するに、聖武が出家されるとなれば、もう一人の執政者、光明皇后に国政が委ねられたのは政策の継承という観点からも安定的で自然の成り行きとみてよいのである。
 孝謙女帝は執政権を委任しうる光明皇后という強力な存在によって異例であるが即位することができたとみることもできる。

  ③光明皇后の指示による孝謙即位

 天平宝字六年六月三日の、孝謙上皇が保良宮から平城京に還御されたときの詔。いわゆる奪権闘争宣言の冒頭の意義が問題になる。
‥‥朕が御祖太皇后の御命以て朕に告りたまひしに、『岡宮に御宇しし天皇の日継は、かくて絶えなむとす。女子の継には在れども嗣がしめむ』と宣りたまひて、此の政行ひ給ひき‥‥
 であるが、孝謙上皇の詔で、草壁皇統が淳仁天皇の舎人親王系皇統より圧倒的に優位にあるという主張はそれなりに理解できる。そもそも舎人親王は新田部親王とともに養老三年十月の元正女帝の詔により皇太子首皇子の補佐を受け持つこととされたのだから。しかし、女子であるにもかかわらず、光明皇后の命により岡宮御宇天皇(草壁皇子)の日嗣=皇統を絶やさないために即位したとする点が論理矛盾であり、ひどく苦しい強弁である。重大なのは孝謙は父帝聖武からの譲位であるはずなのに、母光明皇后の命だとされていることであるが、倉本一宏は「孝謙の即位自体が、光明皇太后の指示によって行われた」(註88)との解釈であり、私は国政が委ねられた光明皇后の執政を正当化するために孝謙が即位したことを裏付けていると解釈する。聖武譲位それ自体も光明皇后の主導とみなすべきかは精査はしなければなるまいが、私の結論はこうである。
 要するに、天平勝宝元年(七月改元-749)七月二日の聖武譲位孝謙即位は形式的であり、実質的には光明皇后に政務が委ねられた。孝謙は「皇太后朝」を正当化するための役割をふられた。前代天皇が在世されているにもかかわらず、皇后の指示で即位したというきわめて特異な皇位継承例である。ストレートに孝謙が執政権を掌握できないのは、孝謙即位の正当性の弱さ、立太子のうえ即位したにもかかわらず、結局は皇嗣=嫡子と認められない、皇統を形成できない女帝であるからである。

 
(註79)『日本紀略』宝亀元年八月癸巳条
(註80)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991但し初出は1970 219頁
(註81)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」75頁
(註82)川崎晃「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』慶応義塾大学出版会2004
(註83) 倉本一宏『日本古代国家成立期の政権構造』吉川弘文館 1997 436頁
(註84)井山温子「しりへの政」その権能の所在と展開 『古代史研究』13 1995
田村葉子「『儀式』からみた立后儀式の構造」『國學院雑誌』99-6 1998
木下正子「日本の后権に関する試論」『古代史の研究』3 1981-11
(註85)『日本三代実録』元慶三年三月二十三日条
(註86)井上薫「長屋王の変と光明立后」『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館1978
(註87)中林隆之「律令制下の皇后宮職(上)(下)」『新潟史学』31、32号 1993、1994
(註88) 倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53 1998、95頁

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2005/09/11

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第8回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月11日
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
    イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝
(以上第7回掲載)
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)
      (今回掲載)

 二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)

 内親王立太子の前例は歴史上唯一、天平十年(738年)正月の聖武皇女阿倍内親王立太子(のち孝謙女帝-当時21歳)のみである。このきわめて異例な立太子は、瀧浪貞子(註73)が論じるように阿倍内親王の生母光明皇后(右大臣藤原朝臣不比等女安宿媛)の異母兄弟(右大臣藤原朝臣武智麻呂、参議民部卿房前、参議式部卿兼大宰師宇合、参議兵部卿麻呂)が天平九年の大疫癘、天然痘の猛威により相次いで薨じたことによる社会的動揺と関連する。藤四卿が不測の事態で薨じたことは朝廷にとって大きな痛手になった。政権首脳部が次々に亡くなるということは異常なことであり、それ自体大事件なのである。
 また瀧浪氏は阿倍立太子の時点で光明皇后が38歳であり、后腹皇子誕生が難しくなったこと、夫人県犬養宿禰広刀自所生の安積親王が11歳(但し天平十六年に急逝)となり、成長した安積親王を抑える意味もある(註73)とされているが、以上の見解についてはほぼ賛同できる。
 先行説もあげておくと、岸俊男は、光明皇后あたりの意見が相当強く働いたと推測され、機先を制したという見方である、大納言橘諸兄は複雑な血縁環境で微妙な立場にあり、反藤原氏の旗色を鮮明にする暇もなく押し切られたとの推測である(註74)。
 須田春子の見解は明快で「皇后光明子を立てて自家勢力の伸張と維持を期する藤原氏一族の、強い執念とも云うべき意図のもとに阿倍内親王は東宮に立ち‥‥阿倍皇女は誕生以来決して際だった特別の存在ではなく、当時藤原氏所生の唯一の皇族であるために推されて皇太子となり、やがて皇位に登る廻り合わせとなったまでのことで、端的に云うならば藤原一族の私的事情を除いては、当時必ずしも内親王立坊の決定的理由乃至根拠はなかったと思われる。なぜならば、その頃皇族諸王には天智・天武の皇子・皇孫が幾人も実在した。いやそれよりも聖武第二皇子安積親王は天平十年には已に十一歳に達している」(註75)とされているが、安積親王の天平十六年急逝は藤原仲麻呂の毒殺とみなす見解(横田健一説)があることはこの間の情勢を反映している。
 しかし瀧浪氏は、聖武天皇の皇位継承構想が、阿倍内親王から安積親王であったと推定されている(註76)。瀧浪説の特徴は、阿倍立太子が光明皇后や藤原氏の意向をふまえたというよりも、あくまでも聖武天皇の意思決定とみなしている点、安積親王への皇位継承のためにも阿倍立太子が必要だった。「不改常典」の嫡系相承の論理から、阿倍内親王の立太子は不可欠な手続きであったとし、それなりの意義を認めている点だが、聖武天皇による意思決定については異存はない。参議兵部卿藤原豊成が策略家タイプでないので藤原氏策略説をとる必要はない。それはもっともである。
 しかし瀧浪氏が聖武天皇も光明皇后もたとえ女子でも后腹で年長の阿倍をさしおいて、安積の立太子は考えられなかったという見方をとっているのは問題だ(註77)。この見解は通時代史的にいえば常識的とはいえない。少なくとも同世代では后腹皇子が非后腹皇子より皇位継承候補として勝っていることは当然の理屈だが、皇女にまで拡大するのは他の時代にはみられない理屈である。
 光仁皇女酒人内親王(母は廃后井上内親王)や鳥羽皇女暲子内親王(母は皇后藤原得子-美福門院)が女帝候補に浮上したことはある。しかし結局、非后腹の桓武、后腹という条件は同じで後白河が登極したのである。一般的にいえば后腹の内親王は厚遇されるのは当然のこととして、后妃候補、斉宮候補、平安末期以降では准三宮から、非婚准母皇后、非婚の女院候補になるとしても、皇子をさしおいてまで女帝候補に浮上するということはない。
 例えば、三条皇女禎子内親王は后腹で、藤原道長を外祖父とするゆえ、同じく后腹とはいえ藤原済時を外祖父とする三条皇子小一条院敦明親王より政治力学的に有利な立場にあったということは、ここで当時の藤原道長の権勢の説明する必要はないだろうし、禎子内親王は道長存命のうちは大変厚遇されていた。しかし皇子ではないから敦明親王をさしおいて立太子ということはならない。禎子内親王は後朱雀后となっても女帝候補にはならないのである。後鳥羽后藤原任子所生の昇子内親王(春華門院)は、膨大な八条院領を相続したが、たとえ外祖父九条兼実の関白罷免事件がなくても、非后腹の為仁(土御門)をさしおいて皇位継承者となるということは考えにくい。
 従ってこれは光明立后の史的意義と関連する問題としてとらえたい。光明皇后は、持統以前の皇親皇后を別問題として、人臣女子では共知型(天皇・上皇と並び立つ執政者)といえる史上最強の皇后であり、施薬院や悲田院(貧窮・病者への福祉事業)を設立し、国家的仏教事業(膨大な写経・勘経事業・造仏事業など)を推進した。附属職司の皇后宮職は、天皇の内廷に類比しうる規模を有し実務官人の養成機関としての性格も有していた(註78)。後に附属職司が紫微中台に改組され、太政官機構と並ぶあるいはそれを凌ぐ政治拠点となったことからも明らかなように、元正上皇が在世されているうちはありえないことだが、聖武天皇が政治に飽きてしまえばいつでも太后臨朝称制もしくは皇太后摂政という形式で国政を委任できるような態勢にあったと考える。
 もし、もうこの時点で聖武天皇はいずれは国政を光明皇后に委ねて出家する意向があったとすれば、阿倍内親王が即位したほうが皇太后摂政、皇太后称制はスムーズに移行できるのであり、そのような長期構想から阿倍立太子の意思決定がなされた蓋然性もあると私は考える。
 藤原氏からすれば、もちろん后腹皇子の皇位継承が最善であったが、皇太子基王は夭折した。光明皇后は38歳になった。次善策は藤原氏女腹の皇子誕生だが、入内した武智麻呂女も房前女も皇子女をもうけていない。阿倍内親王立太子は次の次の善処策ということであろう。
 天平六~九年前後に武智麻呂女と房前女が夫人として入内しており、天平十年の時点では藤原氏女腹皇子が誕生する可能性はまだあった。ただ藤原腹皇子の誕生を見込むとしても年齢差からみて中継ぎは必要であり、阿倍内親王が皇太子である限り、安積親王を担ぐ不穏な動きを封じられるので政治的安定にとっても好ましいと判断されたのだと思う。
 もう少し無難な見方を示しておくならば、阿倍立太子と同日に橘宿禰諸兄が右大臣に昇進していることからみて、これは、社会的動揺を抑え政局の安定化を図るためのバランス人事とみることはできるだろう。
 太政官決裁者は藤原不比等-長屋王-藤原武智麻呂と推移してきた。藤原氏は議政官の半数を占め、藤四卿体制といわれるように政権を主導してきた。しかし四卿薨後、藤氏で参議に昇進したのは豊成(兵部卿を兼ねる)だけで、又、文官人事を掌握する式部卿は、武智麻呂、宇合と歴任し20年近く藤氏がおさえていたポストであったが、天平十年正月の中納言多治比真人広成の任用により、政権における藤氏の比重は大きく後退した。しかし政権変動に伴う動揺は最小限に抑えなければならない。
 
 そもそも聖武天皇の母と妻后は藤原不比等を父とする異母姉妹で、光明子とは同年齢で霊亀二年16歳で結婚したが、もともと不比等邸で一緒に育てられていたので非常に絆の強い天皇と皇后である。東宮傅として皇太子時代の養育責任者が叔父の武智麻呂であった。聖武朝が外戚藤原氏を主軸として支えられ、光明皇后が皇権の一翼を担う共同統治者としての性格を有している以上、太政官決裁者に橘宿禰諸兄(敏達裔)を起用し、台閣第二席、第三席級も鈴鹿王(天武孫)、多治比朝臣広成(宣化裔)と王氏に偏った政権になってしまったからには、異例ではあるが藤氏を近親とし后腹でもある阿倍内親王の立太子により政治的なバランスをとる必要があったといえる。要するに聖武天皇がこの時点で安績立太子のような外戚の利害を無視し、政治的に不安定な状況をもたらす人事を強行することはありえない。聖武上皇の遺詔で道祖王が立太子されたが、道祖王の父新田部親王の母が藤原鎌足女でやはり藤氏と縁のある傍系皇親を選んだことでも明らなことである。聖武天皇と藤原氏のむすびつきは強いのである。
   本題に戻ると、阿倍立太子の時点では異母弟の安積親王が健在であること(既に述べたように瀧浪氏はこの時点で阿倍-安積という皇位継承を想定されている)、光明皇后が皇子を儲けるのは38歳(聖武と同年齢)という年齢的に難しくなったが、藤原氏女腹皇子誕生の見込みがまだあったので、阿倍内親王は立太子の時点で中継ぎを想定してよいと思う。
   いずれにせよ、天平十年の立太子例は特異な事例であること。天平九年の大疫癘にともなう社会的動揺と政権変動に対する対応、光明皇后という強力な皇后の存在という政治的背景があり、この特異な先例をもって現代において女性立太子を正当化できるものではない。阿倍内親王立太子の時点では、安積親王のほか、まだ皇子誕生の可能性があったほか、傍系皇親は多数実在しているから、現今のような皇位継承候補者が枯渇し血統的に袋小路の状況とは異なっており、そのような意味でも中継ぎと理解してさしつかえない。
   しかし即位の時点では聖武皇子はなく、聖武は出家されたので草壁皇統が血統的に袋小路の状況になった。いずれ傍系皇親へ継承することがわかっていながら、聖武天皇が陸奥産金の知らせに喜ぶあまり衝動的に出家され太上天皇沙弥勝満と称し国政を投げ出した状況で即位した。これが現今の状況に類似している。
 あってはならないことだが、現代で女帝即位となれば、現今の状況にもっとも類似しているのが、孝謙即位のケースである。したがって、女帝即位は生涯非婚独身が絶対条件、であることは当然として、女帝即位の是非は、孝謙女帝即位の評価の一点にかかっている。孝謙女帝の評価が全てである。結論を先に述べるとたとえ生涯非婚独身であっても現今の状況で女帝即位の正当性、論理性は全くない。この問題は長文になるので次回に回すこととする。
 
(註73)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「第一章光明子の立后とその破綻」29頁
(註74)岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館人物叢書 新装版 1987(初版1969)72頁
(註75)須田春子『律令制女性史研究』千代田書房1978「高野天皇」492頁

(註76)瀧浪氏の見解「‥(藤氏)四兄弟の急死という不測の事態のなかで、成長する安積を抑えるために取った措置であったとみるべきである。それはいつか安積の皇位継承を期待する聖武にとっても不都合でなかったと思われる」前掲書29頁
(註77)瀧浪氏の見解「‥嫡系相承にこだわる聖武にとって、安積よりも年長の阿倍を差し置いて、安積を皇位継承者とすることは到底考えられなかった。それは光明子とても同様であった」、『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社選書メチエ199 2000 
(註78)光明皇后の政治活動につき 井上薫「長屋王の変と光明立后」『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館1978 中林隆之「律令制下の皇后宮職(上)(下)」『新潟史学』31、32号 1993、1994

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2005/09/10

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第7回

川西正彦(掲載 平成17年9月10日) 
 5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
    イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝(以上今回掲載)
   

 次回予定
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)

〔6〕皇親内婚の男帝優先
 
 既に述べたとおり、皇親女子は配偶者となる皇親男子をさしおいて即位することは絶対にない。皇親内婚における男帝優先は自明である。つまり、草壁皇子が早世し、所生の文武も早世したから元明が即位したのであって、草壁をさしおいて元明が即位することありえない。皇女を后妃とする傍系皇親が即位するケースは少なからず例があるが、傍系の継体(応神五世孫)が皇位を継承したのであって仁賢皇女の手白香皇女はあくまでも皇后である。傍系の光仁(天智孫白壁王)が皇位継承したのであって、聖武皇女井上内親王はあくまでも皇后である。近世でいえば傍系の光格(閑院宮典仁親王第六王子祐宮)が皇位を継承したのであって、前代の後桃園皇女欣子内親王はあくまでも皇后です。傍系皇親男子と、前代の直系卑属皇親女子との結婚では、男子皇親が皇位を継承し、直系卑属の内親王は皇后でなければならない。
 内親王を后妃とすることは皇位継承を正当化する決定的なものとは断定しない。しかし皇位継承を正当化しやすいとはいえる。光仁天皇が前斉王聖武皇女の井上内親王を皇后に立て、桓武天皇は井上内親王を母とする前斉王酒人内親王を妃(異母兄妹婚)とし、平城天皇が酒人内親王を母とする前斉王朝原内親王を妃(異母兄妹婚)した例は、継体、安閑、宣化がそれぞれ仁賢皇女を皇后に立てたことと類比する意義を有するとも考えられるだろう。又、内親王の立后が皇位継承の前提になっているケースも少なくないと思う。冷泉天皇、堀河天皇、二条天皇がそうだろうし、ほかにもあるだろう。なお冷泉天皇は傍系ではないが、皇太子時代に元服式の時点で朱雀天皇の唯一の皇子女である昌子内親王を東宮妃とされたのは、この皇統の正統化という意義があったとみてもよいのである。
 いずれにせよ、皇親内婚では皇親男子が傍系であれ直系であれ男帝優先である。いうまでもないことである。現今の女帝論議では、内親王が女帝として即位しても、結婚相手を王姓者(皇親)に限定すれば男系継承上問題ないという意見もあるようだが、私は大反対です。あくまでも伝統は男帝優先であり、前代の直系卑属が優先するわけではありません。この場合は、傍系王姓者(皇親)が即位し、内親王は皇后です。皇后というは、もともと皇女が原則であった、「しりへの政」(註61)という不確定概念ではあるが政治的権能を有し、持統や光明皇后にみられるように、皇権の一翼を担う、共同統治型の強力な皇后も歴史上存在したことからみて、皇后という身位で不足ということは絶対ありません。女性当主・女帝即位にしなければ気が済まないという考え方は大きな誤りです。
 継嗣令王娶親王条の皇親女子の内婚規則の趣旨から女系継承はありえないと再三述べましたが、男帝優先原則から、皇親女子の結婚相手である皇親男子をさしおいて皇親女子が即位することは絶対あってはならない。それが皇室の伝統です。
 
 〔7〕女帝は皇統を形成できない
 
 女帝は皇統を形成できない。この細節では生涯非婚内親王の女帝四方の即位の意義と問題点を考察し、私の意見を述べたい。なお聖武天皇即位詔と次回の孝謙女帝については瀧浪貞子説(註62)を主として引用したうえ私の意見を述べる(もっとも瀧浪貞子は毎日新聞2005年1月24日の「論点女性天皇どう考える」で古代女帝に関する持論を要約して述べ歴史に学ばない安直な議論を避けるべきだしとしつつも、女性天皇に賛同するというのである。瀧浪氏の持説からすれば女系継承に反対してよさそうだが、とてもがっかりした)。

 我が国の経済繁栄の基礎は奈良時代、元明・元正朝の貨殖富国政策にある(現今の状況で女帝即位は絶対的に反対であるということと歴史上の女帝の治績を讃えることは決して矛盾するものではない)。
 
  イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義

 元正女帝(霊亀元年即位-715年)の詔勅「国家の隆泰は、要ず、民を富ましむるに在り。民を富ましむる本は、務、貨食に従ふ。故に、男は耕運に勤め、女はジム織を脩め、家に衣食の饒有りて、人に廉恥の心生ぜば、刑錯の化け爰に興り、太平の風到るべし‥‥」(霊亀元年十月七日条)。民を富ませることが国政の基本方針であることを述べ、人民に貨殖に励むよう諭し、勤勉に働くよう命じた。日本人が勤勉であるとされるのはたぶんそのためである。又、徹底した文書主義による律令国家収取体系が確立したのは元正女帝の養老年間とみなされているから、国家財政を確立したのは元正女帝である。百万町歩開墾計画や三世一身法を施行したうえでの譲位であるから、私のような素人目にみても経済・財政重視の政策を遂行し、ぶれのない統治者と高く評価できる。素人目からみて仏教依存傾向が強く、陸奥産金の報らせに狂喜して衝動的に出家され国政を投げ出したともいわれる聖武天皇よりも安定的で堅実な統治者と評価できるだろう。
 律令国家は天譴思想や徳治思想により天皇に政治責任を要求する。そのような意味では現代の「象徴」という在り方とは違った意味で、君主に厳しい試練がある。元正朝においてはとくに元明上皇崩後、政権の動揺があったが、女帝はそれを乗りきった。井上亘によれば、元正女帝は、天意に自己を向き合わせて刻苦自勉し、人事においては「万方辜有らば、余一人に有り」「向隅の怨、余一人に有り」という深い自責をもって「仁恕之典」を施行した。また「面従して退き、後言有ること無かれ」と政治批判にも耳を傾け、実情を把握すべく「極諫」を求めた(註63)。国家のトップであれ企業のトップであれ、耳にしたくない悪い情報も把握しなければ裸の王様だ。当然のことだと思います。元正女帝は統治者の資質として優れていたことは明白であります。また春名宏昭によれば元正は譲位後も太上天皇として国政の総覧者、天皇大権の掌握者だった(註64)とされる。
 
しかしながら元正朝の基本的性格は、あくまでも甥にあたる皇太子首皇子(聖武)が成長するまでの中継ぎであることは、自明なのであります。むろん聖武即位後も上皇として国政の総覧者であったから、聖武の後楯としての位置づけもあったかもしれないが、中継ぎにすぎないことは自明であります。

 元明女帝の和銅七年(714)六月に首皇子(のち聖武天皇)が立太子、元服を加えた、翌霊亀元年正月一品を授けられ、九月二日(庚辰)元明女帝の譲りをうけて即位した。

天皇、位を氷高内親王に禅りたまふ。詔して曰はく「乾道は天を統べ、文明是に暦を馭す。大いなる宝を位と曰ひ、震極、所以に尊に居り。(中略)今、精華漸く衰へてむくいわく耄期斯に倦み、深く閑逸を求めて高く風雲を踏まむとす。累を釈き塵を遺るること、脱シに同じからむとす。因てこの神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼く稚くして深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷高内親王は、早く祥符に叶ひ、夙に徳音を彰せり。天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り、謳訟帰くところを知る。今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉く祗み奉りて、朕が意に称ふべし」とのたまふ。(註66)

 元明女帝は政務に疲れたので、皇太子に譲りたいが、まだ幼稚であり、一日に万機ある政務決裁能力に疑問ということだろうが、聡明であり沈着冷静、政務決裁能力のある元正に、皇太子が成長するまで中継ぎとして、皇位を継承させるという趣旨であろう。

 当時、皇太子首皇子が15歳で、文武天皇が15歳で即位した例からみて、年齢的に支障はないはずという見解があるが、そう思わない。文武即位は、持統上皇との