川西正彦
(掲載 平成17年8月27日-その③)
第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由
Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する
5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
(承前-今回の目次)
(5)律令国家は双系主義という高森明勅氏の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
〔1〕令義解及び明法家の注釈
〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(5)律令国家は双系主義という高森明勅氏の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
継嗣令王娶親王条で明白なことは律令国家は女帝の子が即位しても易姓革命にならない制度になっていたということである(なお論旨が錯綜するので小幅の修正である慶雲三年の格制などについては無視して論じたい)。
女系継承論者の高森明勅氏は、継嗣令皇兄弟子条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」が、皇兄弟皇子は親王となす。の本註で〔女帝子亦同〕と規定しているから、『養老令』は双系主義を採用していたなどといういうとんでもない解釈で世論を誘導している(特に断らない限り同氏の論文「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号78頁のからの引用)。なお、まことに不勉強で恐縮しますが高森明勅氏の神道学、律令国家祭祀研究の業績についても筆者は関心がありますが、引用されたものは読んでいても直に読んでいません。ここでは前記ボイスNo.321の論文と有識者会議の発言だけを問題とします。
高森明勅氏は皇統と男系はイコールではないという、史実に反する論理を展開するが、既に述べたとおり花園天皇の『誡太子書』において「吾朝は皇胤一統なり」とあり、北畠親房などの「一種姓」という表現にもみられるように皇統と男系がイコールであることは自明で、厳然たる男系の万世一系の皇統譜を無視するのはひどすぎる。
あたりまえのことだが、例えば生母が皇親であることから女系とはいえないのである。宇多天皇は光孝の継嗣、桓武-嵯峨-仁明-光孝という男系系譜で皇位継承資格を有したのであって、生母班子女王は政略家であり陽成退位の策動を後押ししていたかもしれないが(註19) 、桓武-仲野親王-班子女王という女系は皇位継承資格に決定的な意義はない。仲野親王(桓武皇子)は、頗る典礼旧儀礼に通じた博識の才幹で、親王は奏壽宣命之道を致仕の左大臣藤原緒嗣に学び、勅により藤原基経、大江音人に授けたほどだったが(註20-式部卿在職14年、貞観九年薨じた時点で二品大宰帥、贈一品太政大臣)、あくまでも女系で皇統に繋がっているだけなので、天皇の母方祖父として贈一品太政大臣にすぎない(光孝の母方祖父の紀伊守藤原朝臣総継の贈一位太政大臣と同じ礼遇)。もし高森明勅が女系と言い切るなら、宇多-醍醐-村上以後の歴代天皇が「嵯峨-仁明-光孝系皇統」ではなく「仲野親王系皇統」ということを立証してください。もし仲野親王系であるなら、贈太政大臣でなくて、追尊天皇になるんじゃないですか。それは全く論理矛盾というほかない。
同様の事例としては母が三条皇女禎子内親王である後三条天皇であるが、後三条は、あくまでも円融-一条-後朱雀という男系の世系で皇位を継承したのであって、藤原道長に抵抗した三条天皇を意識しつつも母方祖父であるから、冷泉系の皇統を継承するものではないのである。、
歴史上の女帝は皇親内婚の皇親女子(前代以往の天皇の妻后か先帝生母)か生涯非婚独身の内親王であり、先帝皇后等のケースも即位後不婚であることが前提である(註21)。また皇親内婚では皇親男子が嫡系であれ、傍系であれ男帝絶対優先である。持統のように先帝皇后が臨朝称制の後即位することがありますが、配偶者となる皇親男子をさしおいて即位することは絶対ない。元明のように御配偶の草壁皇子薨後18年たって即位したケースがありますが、これについても正統の皇位継承者とされていた草壁皇子が早世し、さらに所生の文武天皇も早世したので子から母への継承はきわめて異例だが、緊急避難的に即位したもので、皇親男子をさしおいての即位ではない。だから女帝が存在しても男系主義なんです(なお、阿倍内親王(孝謙)立太子の特異性については後に掲載します)。
決定的には王娶親王条が皇親女子の内婚を明文で規定している以上、女帝の子が即位しても、それが男系継承となるシステムに自動的になっている。
ところが高森明勅は「女帝の所出が親王としての皇族の地位を認められてゐたのであれば、おのづと女系による皇位継承の可能性もあったことにならう。ならば『養老令』は男系だけでなく、場合によっては女系も機能しうる余地を制度上、公認してゐたことになる。」と述べるが、そんなばかなことはない。それは継嗣令の下条つまり王娶親王条の意義をふまえることもなく、たんに皇兄弟子条の特定の字句だけをとらえて意図的にねじ曲げた令条の解釈である。
〔1〕令義解及び明法家の注釈
継嗣令皇兄弟子条「女帝子亦同」の本註については成清弘和の専論(註22)があるが、『令義解』と『令集解』所引の、穴太氏の「穴記」、編者不明の「朱記」の注釈についてコメントされていますが、成清氏の見解を引用しつつも、私なりにコメントしたいと思います。
まず『令義解』の注釈は天長十年(833)右大臣清原夏野以下の編纂による律令公定注釈書であるから、基本的に重視されてしかるべきである。
義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」
成清弘和によると「女帝子」を四世王以上との婚姻の結果、生んだ子と解釈する。その根拠として下条つまり継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」を引く。義解の注釈は明快であり、女帝の子であっても四世王以上の子になることは王娶親王条の皇親女子の内婚規定により明白で、よって男系主義から逸脱することはないから、高森明勅のいう女系継承はありえない。
高森明勅は「女帝の配偶者はもっぱら皇族であることが想定されていた」と説明しているが、女帝は即位の時点で独身でなければならず、不婚の原則にふれておらず、誤解を招きやすい表現である。また結婚相手については想定されていたのではない。明確に明文で四世王以上と定められていた。王娶親王条は公法上皇親女子の内婚が明文で明確に定めている。『令義解』の注釈からも明白なことであり、皇親内婚における男帝優先原則からみても、女系継承はありえない。
穴記は「女帝子者。其兄弟者兼文述訖。故只顕子也。孫王以下皆為皇親也。」
成清弘和はたんに記述形態についての注釈にすぎないとなにげなくコメントするのみだが、重要な論点を含んでいると思う。たんに女帝の子を親王となすというだけでなく、女帝の兄弟姉妹を含む意味である。つまり藤木邦彦(註23)の次の読み方でよいのである「天皇(女帝をふくむ)‥‥皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とする」。
孝謙女帝のように皇女、内親王が女帝に即位するケースは兄弟姉妹はもともと親王だが、皇極・斉明女帝(敏達曾孫)即位の前例から二世女王や三世女王が即位した場合に女帝の兄弟姉妹を諸王から親王に格上げすることを意味する。
敏達曾孫の皇極・斉明や天武孫の元正のケースがあるので、歴史上の女帝は皇女とは限らない。もっとも斉明女帝も宝皇女と申しますが、父は茅渟王で敏達曾孫であり、令制の概念でいうと三世女王に相当する。しかし母が吉備姫王で女系でも欽明の曾孫であり、純血種皇親である。推古、持統、元明の母方が蘇我氏であるのと違った意味で女帝即位の意義が認められるだけでなく、斉明女帝は百済遺臣の要請により、百済復興のために朝鮮半島への大規模派兵を決断し、陣頭指揮を執るため高齢にもかかわらず筑紫に遷られたが、崩御になられた。男帝でも朝鮮半島出兵で天皇親征の例がなく、斉明は天智・天武の母でもあることからやっぱり偉大な存在であり、三世孫の女帝即位は斉明女帝以外の例がなくても前例として無視できない。
つまり、敏達曾孫で令制概念では三世王の孝徳天皇(軽皇子)のようなケースでは、皇極女帝の弟なので三世王から親王に格上げということである。
なお、漢皇子のようなケースの想定説は、筆者が不勉強で有識者会議5月31日の八木秀次氏の発言、6月8日の所功氏の発言(註24)で初めて知ったが、なるほどと思った。令制の概念でいう二世王の高向王が父、母が宝皇女であるから、漢皇子は三世王ということになるが、女帝の子としてこのようなケースでは親王に格上げという趣旨であるが、宝皇女が高向王との既婚歴があったうえ、30歳で田村王(舒明)と再婚したこと、漢皇子の存在は知っていたが、既婚歴のある女性が后位にのぼせられることがきわめて異例という固定観念をもっていたのでそういう事例を想定しにくく思いつきもしなかった。
それで思ったことですが、筧敏生(註25)が継嗣令皇兄弟子条は、唐の封爵令というよりも、『隋書』巻二八百官志下に、「皇伯叔昆弟・皇子為親王」とあるように、隋の制度を継承したものだと述べている。親王号は隋制継受となると皇極女帝の時代には知られていた可能性があるのではないか。
また筧敏生(註26)は『古事類苑』『皇室制度史料』が諸王の身分から、即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げを、弘仁五年以後の親王宣下制度の嚆矢とみなしている点を批判され、大宝令の注釈書で天平十年(738)に編纂された「古記」の注釈で「未知。三世王即位、兄弟為親王不。答。得也」とあることから、傍系二世王から即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げ(つまり淳仁の兄弟、船王と池田王が船親王、池田親王に格上げ、光仁の兄弟姉妹、湯原王、榎井王、衣縫女王、難波女王、坂合部女王の親王・内親王への格上げ、光仁の皇子女、他戸王、酒人女王、山部王、早良王、能登女王、稗田王、弥努摩女王の親王・内親王への格上げ)は、継嗣令皇兄弟子条の適用であるとされる。
そうするとバランスのうえでも、女帝がもともと内親王でなく女王であったケースは、諸王から即位した男帝の兄弟姉妹と同様、親王格上げは当然のように思えるのである。
傍系から皇位を継承した男帝の兄弟は親王に格上げして、女帝の兄弟は格上げしないということでは軋轢を生じかねないから。
要するにこういうことです。皇親の待遇(後に掲載する補説皇親概念参照)については親王と諸王ではかなり違う。君主制国家において、君主と血縁でつながりをもつ者が、その尊貴の故をもって国家・社会から特別の待遇をうけることは君主を重んずる所以であって、当然の現象であるが(註23の藤木邦彦の著書からの引用)、位階は親王は一品から四品の品位が与えられ、諸王は一位から五位の区別が立てられた。大宝律令から親王と諸王・諸臣の区別になったのことは親王の地位を高めた。その他経済的待遇でも親王と諸王は違うが、待遇において、律令の父系帰属原則の例外にはなってしまうが、皇親内婚で単系出自の男系血族であることは同じである以上、つまり女帝の子が男系出自系譜で皇親であることは間違いないのだから、女帝の兄弟、子女ということで、男帝の兄弟、子女と待遇の面で差別化される理由は格別ないように思える。
諸王が親王に格上げされることの意義は大きい。皇親としての序列や経済的待遇の違いだけでなく、親王が諸王より有力な皇位継承候補になるのはいうまでもない。しかし、それは、男系継承か女系継承かという問題にはならない。男系主義という観点では親王が皇位継承しようが、淳仁や光仁のように諸王が皇位継承しようが論理的には男系継承で一貫しているのである。
朱記は「朱云。女帝子亦同者。未知。依下条。四世王以上可娶親王。若違令娶。女帝生子者。為親王不何。古記云。謂。父雖諸王猶為親王。父為諸王。女帝兄弟。男帝兄弟一種。」
義解と同じように下条を引きつつ、王娶親王条の四世王以上の規定に違反した場合の問題を提起し、違反しても女帝の子は親王となす。その根拠として古記が引用され諸王の子であっても女帝所生なら親王ということであるが、成清弘和の専論によると、古記のいう諸王が四世王なのか、五世王以下なのかまったく不分明とされているが、慶雲三年の格制(延暦十七年まで有効だった)が継嗣令皇兄弟子条で五世王が王号を称するが、皇親籍から除かれ、臣下の籍に入れられるのは気の毒だから五世王まで皇親とし、その子の六世王も王号を称することができるとした規定と関連しているのだろうか。いずれにせよ王娶親王条を引いて、親王格上げは諸王であることが前提としているで、男系継承から逸脱するものではない。
〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
実態面からも検討してみよう。大宝令以後、女帝の所出といえる皇親は、天武孫で元明の娘、氷高内親王(元正)と吉備内親王(左大臣長屋王の正妻-神亀六年自経)だけである。氷高内親王と吉備内親王は「女帝子亦同」の本註がなくても、文武と兄弟姉妹であるという資格で内親王なのであり、「女帝子亦同」の適用により親王に格上げされた皇族はいない。
但し、成清弘和(註27)が指摘するように霊亀元年(和銅八年)二月勅により天武曾孫にあたる吉備内親王所生の諸王(膳夫王、葛木王、鉤取王)が皇孫の例に入れられていることは「女帝子亦同」の影響を看取してもよい。これは三世王を蔭位等の面で二世王の扱いにして厚遇することを意味するが、私はその限りにおいて「女帝子亦同」本註は生きていたということを認める。
つまりこういうことです。倉本一宏(註28)が指摘しているように長屋王生母の御名部皇女は元明の実母姉で、つまり長屋王は元明の甥であるのみならず娘婿でもあった。つまり二重の結びつきがある近親なのだ。長屋王はもともと慶雲元年に選任令の二世王の蔭階を三階上回る正四位上に初叙されるなど「別勅処分」による親王扱いを受けている。
和銅五年に任式部卿、郡司の試練実施など式部省の権限が強化されているが、これだけの指導力を発揮でき、式部卿-大納言-台閣首班右大臣という昇進も、元明が後見者であったからこそ、王の特別待遇は元明の恩顧に基づくものであったとみてよいだろう。元明女帝にとって皇太子首皇子(聖武)は孫であるが、吉備内親王を母とする膳夫王、葛木王、鉤取王も元明女帝の孫にあたるから膳夫王らの厚遇は当然のことであり、不測の事態で皇太子を失うような万一のケースで皇位継承候補であった可能性すらある。
いずれにせよ、本来三世王である吉備内親王所生諸王の二世王扱いは、男系では天武曾孫であっても女系で元明の孫にあたり、女帝の近親であることを理由としていることを認める。しかし私が「女帝子亦同」本註の影響を認めるのは、ただそれだけ。このことから令制が女系継承も認めていたなどという途方もない解釈を導く論理性などない。仮に神亀六年の長屋王の変(註29)で自経した膳夫王、葛木王、鉤取王の即位を想定しても、それはあくまでも天武-高市皇子-長屋王という男系出自系譜での即位資格になるから、高森明勅説は論証不可能である。
〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
史料上、元正女帝が内親王と称されているのは『続日本紀』元明女帝の和銅七年正月条の「二品氷高内親王」が最初の例であるが、女帝の子として内親王なのではなく、継嗣令皇兄弟子条が天皇の兄弟は親王とされている以上、元正は文武皇姉という資格で内親王とされるのが論理的であると私は思う。しかし高森明勅氏は女帝の子として内親王だと強弁している。これは些末なことではない。有識者会議で堂々と発言されている以上、一応疑問点として挙げておきたい。6月8日の有識者会議の席上、高森氏は次のように述べた(註30)。
「形式上明治初期まで存続しました養老令に女系の継承を認める規定があった。これは継嗣令、皇兄弟子条。天皇の御兄弟、お子様は親王という称号が与えられるという規定がございまして、その際、女帝の子もやはり親王であるという本注が付いてあるわけでございます。 これによりまして、女帝と親王ないし王が結婚された場合、その親王ないし王の子どもであれば、その子は王でなければならないわけです。ところが、女帝との間に生まれた場合は王とはしないで親王とするということでありますから、その女帝との血統によって、その子を位置づけているということでございます。「女帝の子」と。具体例といたしましては、元明天皇と草壁皇子が御結婚されまして生まれました、氷高内親王。この方は草壁皇子のお子様という位置づけであれば、これは氷高女王でなければならないわけですけれども、内親王とされておるわけで、この方が皇位を継承されまして、元正天皇ということで、女帝の子が過去に皇位を継承した実例をここに1つ指摘することができるわけでございます。」
正確には草壁皇子と阿閇皇女(のち元明女帝)の結婚というべきである。結婚時期については神田千紗の見解を引用する(註31)。初生子の元正天皇(氷高皇女)は天武九年生(680年)である。よって草壁と阿閇の結婚は天武八年以前である。天武八年に阿閇皇女は19歳であるが、阿閇皇女の同母姉である御名部皇女と高市皇子の結婚は、御名部皇女所生の長屋王が天武五年生であるから天武四年以前である。これを参考にして天武五年~八年頃とみなされる。つまり阿閇皇女は16~19歳で結婚した。草壁皇子は持統三年(689年)薨去されたので結婚生活は実質10~12年である。
史実は持統-文武-元明-元正-聖武という順です。継嗣令皇兄弟子条の「凡皇兄弟皇子。皆為親王。」により氷高皇女は、元明が即位しなくても天皇の姉妹という資格で、文武皇姉という資格で内親王です。女帝の子だから内親王なのではない。氷高内親王にとって女帝子亦同の本註がなくても内親王である。高森明勅がいう女帝の子の実例としては不適切である。
元正は天武の孫、「日並知皇子尊の皇女」という世系での即位であり、天武-草壁皇子-文武-聖武という男系主義の脈絡での中継ぎになる。甥にあたる皇太子首皇子(聖武)が幼稚なので太子が成長するまで伯母の元正が中継ぎ的に即位したものです。高森がいうように女系継承であるはずがないですね。
女系継承というのは例えばこういう想定です。継嗣令王娶親王条に反し明確に違法であるが勅許により、内親王が臣下に降嫁した例が少なからずあります。一例だけあげると醍醐皇女雅子内親王が藤原師輔に降嫁して、雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光です。藤原為光は母方の祖父が醍醐天皇ということになり、醍醐の「外孫」ともいえますが、あくまでも藤原氏の一員であって、太政大臣に昇進しても皇親になれないし、皇位継承資格もない。もし、藤原為光の登極となれば女系継承ですが、そもそも内親王降嫁が違法であり、父系単系出自系譜で天皇に繋がらない以上、皇室とは近親であっても藤原為光のようなケースでは皇位継承者にならない。あたりまえのことですが、だから高森氏は女系継承を強弁するなら、藤原為光のようなケースでも登極できることを論証してください。それができていない以上、令制が女系も是認していたとはとてもいえないです。
(註19)参考-角田文衛「陽成天皇の退位」『王朝の映像』東京堂出版1970、202頁
(註20)参考-萩谷朴『平中全講』同朋舎(京都)1978 初版は1959
(註21)歴代女帝を類別すると
第一 先帝皇后(前代以往の天皇の妻后を含む)が即位のケース‥‥推古(欽明皇女、御配偶の敏達とは異母兄妹)、皇極=斉明(敏達曾孫、孝徳皇姉)、持統(天智皇女)
第二 皇太妃(先帝生母)が即位のケース‥‥元明(天智皇女)
第三 生涯非婚独身の内親王が即位のケース‥‥元正(天武孫、文武皇姉)、孝謙=称徳(聖武皇女)、明正(後水尾皇女、後光明・後西・霊元皇姉)、後桜町(桜町皇女、桃園皇姉)
女帝即位の年齢は、推古は39歳、皇極は49歳、退位して皇祖母尊(すめみおやのみこと)と称され、斉明女帝として重祚が62歳。持統は42歳で臨朝称制、即位が46歳。元明の即位は47歳。
元正は36歳で即位、45歳で譲位、69歳崩御。孝謙は21歳で歴史上唯一の女性立太子、32歳で即位、41歳で譲位、47歳で称徳女帝として重祚、53歳崩御。明正は7歳で践祚、21歳で譲位、74歳崩御。後桜町は23歳で践祚、41歳で譲位、74歳崩御。
第一のタイプは、御配偶の天皇崩後であり(推古女帝のケースは、敏達崩後、用明、崇峻の兄弟継承を経たうえでの即位であるが)、女帝即位は独身であることが大前提である。
第二のタイプ、元明女帝(諱阿閇皇女、天智皇女、母蘇我倉山田石川麻呂女姪娘)のケースは、文武天皇の早世により子から母への緊急避難的な継承でありきわめて異例であるため文武天皇の「遺詔」と、天智天皇の「不改常典」によって正当化が図られた。藤原京の文武朝における阿閇皇女の身位は皇太妃であって厳密には后位ではない。しかし皇太妃には皇太妃宮職という附属職司があり、皇太后に准じた身位とみなしてもよい(春名宏昭「皇太妃阿閉皇女について-令制中宮の研究-」『日本歴史』514参照 )。御配偶の皇太子草壁皇子薨後18年後の即位であるが、草壁皇子が岡宮御宇天皇と追号されたのは薨後約70年後の天平宝字二年であり、阿閇皇女が后位にのぼされてない以上、第一の先帝皇后の範疇とは区別した。
いずれにせよ、即位後は不婚独身である。
(註22)成清弘和『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999 131頁
(註23)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991但し初出は1970 209頁
(註24)高森明勅氏の継嗣令皇兄弟子条の解釈については有識者会議において名指ししないものの下記の専門家が批判している。
有識者会議平成17年5月31日の八木秀次氏の発言。短時間とはいえ王娶親王条の意義に触れておらず不満が残る。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai6/6siryou3.html
なお、女帝-女系容認論者だが、所功氏もさらに具体的に批判している。所氏の女帝-女系容認論には全面的に反対だが、この論点に関しては王娶親王条と言及してないが、内親王は四世王以上との結婚と規定されている内容に言及され、女系継承の論拠になりえないと説明されている点、大筋で同意する。有識者会議平成17年6月8日の所功氏の発言。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.html
(註25)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第二章太上天皇尊号宣下制の成立 校倉書房 2002(初出1994)160頁以下
(註26)筧敏生 前掲書 157頁
(註27)成清弘和 前掲書 133頁
(註28)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53 1998 51頁
(註29)倉本一宏 前掲書参照 。元明上皇崩御当時、長屋王は台閣首班右大臣であったが、権力基盤が脆かった。上皇という絶大な後楯を失って宮廷で次第に孤立していくのである。神亀六年二月十日、謀反の密告があり、誣告であるかの審査すらなくその日のうちに三関を封鎖、六衛府の兵で長尾王邸が包囲され、翌日、舎人親王、新田部親王、大納言多治比池守以下による窮問があり、その翌日に左大臣長屋王自刃、正妻吉備内親王と所生の膳夫王、葛木王、鉤取王に石川夫人所生の桑田王は自経であったが、不比等女長娥子所生の安宿王、黄文王、山城王らは不問に付され、石川夫人その他の配偶者も不問に付されていることから、この事件の標的は明らかで、皇太子基王の夭折で、膳夫王らが皇位継承候補者に浮上することから警戒されたものという見方もとれる。
(註30)平成17年6月8日有識者会議における高森明勅氏の発言
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou2.html
(註31)神田千砂「白鳳の皇女たち」『女性史学』6 1996
つづく
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