朝まで生テレビの高森明勅発言批判
うちのテレビはBS・CS放送が映らないので先日の所功Vs竹田恒泰の討論番組は見てません。11日土曜の朝に所功教授が出演したらしいがこれも迂闊なことに見逃しましたが、25日未明の「朝まで生テレビ 激論“天皇”」(テレビ朝日)を見たので感想を述べます。
川西正彦(平成18年2月26日)
13人のパネリストで明確に男系維持を主張していたのは八木秀次と中丸薫だけ。田原総一朗が高橋紘や高森明勅といった女系推進の急先鋒を持ち上げるだけでなく女系容認論者の声が大きくて、いらいらする内容だった。
日曜日は田中卓反駁第3回の作文をしなければならないので、ここでパネリストの問題発言を逐一反論しませんが、高森明勅がかなり偏った発言をしており、看過できないので早速批判しておきたい。
高森は側室制度とセットで男系は維持されたのであって、側室制度を肯定しない以上、女系容認しかないという趣旨で次のような発言があった。
庶系継承がないと傍系の宮家ももたないという奇妙な説
高森明勅の発言「‥‥60年のあいだに11の宮家がですね。男子の跡継ぎがいる系統が4つしかなくなっているんですね。庶系がないと傍系ももたないんです」
仮に、11宮家の臣籍降下がなかったとしても、側室がなければ宮家の数は減っていくと言ってますが、昨年の5月31日の有識者会議のヒアリング八木秀次の意見陳述資料PDF最終頁にある文藝春秋2005年3月号から引用した旧宮家の略系図をみますと、昭和22年で臣籍降下した旧11宮家当主の子孫のうち旧宮家の枠組みを1流という単位で数えると11流のうち4流に32歳以下の男系男子がおられる。45歳以下の男系男子が全体で17人、37歳以下では14人、独身者が10人となってます。これが正確な数字かどうかは知りませんが、男子の員数それ自体は増加している。
フランスのカペー朝が単婚制でも結構規則正しく男子継嗣が誕生している例もありますし、単婚でも12月26日ブログで述べたように、養取であれ、復籍であれ、遺跡継承であれ仮に5人の男系男子の宮家が復帰すると、確率論では、曾孫の世代で男系男子は7.48人に増加すると試算できる。、養取、遺跡継承、あるいは跡継ぎ以外の男系男子も皇籍を離脱せず他の宮家を継承する又はあらたに宮家を創設することとすれば、宮家の数は減らないし、増加する可能性のほうが高い。
明治皇室典範は、宗系紊乱を防ぐなどという趣旨で、第42条で養子を迎えて継嗣とすることができなくなったのですが、これはいわゆる側室制度があって、天皇が病弱でない限りそう容易に直系の後嗣が絶えることが想定できないうえに、傍系の宮家の数が多かったことがあった。現在の皇室典範でも第九条で、天皇及び皇族は、養子をすることはできないとなっているが、明治39年に皇女を妃とする東久邇宮、朝香宮、竹田宮が創設されて、宮家の数が増加していった状況と現在は異なるので、これを改正して、例えば明治5年に継嗣のいなくなった閑院宮家は、伏見宮家の易宮(後の載仁親王)により継承されたように、後嗣のない宮家に他の宮家から養取または、遺跡を継承していけば、宮家の数は減らない。
要するに男子継嗣の存在する宮家が5~6家あれば、側室制度がなくてもそう簡単には男系継嗣は枯渇しないと考えます。それでも皇族女子の誕生が9人も連続したじゃないかいう反論があるかもしれないが、有識者会議は確率論で割り切る考え方なので、ある一族に女子が9人連続するという稀にしか起きない事例にこだわらず、同じ土俵で論じてよいと思います。
男系限定というならば側室復活といわなければ現実的でないという奇妙な説
高森明勅の発言「私が125代の系図、側室からお生まれになった天皇をずうっとチェックをしてきました。そうすると正妻である皇后からお生まれになったのがですね。四方続いたのが最高です。四方続いた例がですね。おそらく二例か三例しかないですもう。あとは一代でとだえたり二代でとだえたりよくて三代ですね。あとはもうずうっと側室ばかりで続いていると。十代、十五代続いていると。こういうケースなんです。で今現実を考えてみると、大正天皇は側室の出でいらっしゃいます。そして‥‥(「明治天皇も」-田原と高橋が発言)もちろんそう。その前もずうっとそうです。江戸時代の最初まで、ですから大正天皇までずうっと側室がずうっととだえなく続いているんです。江戸時代の最初から。で、考えるとですね。皇后からお生まれになったは昭和天皇、そして今の天皇陛下、そして皇太子、そしてここでとだえようとしているんです今。これは日本の歴史ふりかえって(「三代続くのが珍しいんだ」田原が発言)珍しいんです。(「ほう」)これは別に突飛なことでもなんでもない‥‥要するに男系限定というのは側室とセットで機能してきた。」
男系継承に固執するなら側室制度の復活を主張しなければならないとして、側室否定なら女系容認しかありえないという主張だが、パネリストは感心して拝聴していたがかなりインチキなレトリックといえる
まず事実問題ですが、江戸時代のはじめから大正天皇まで非后腹というのは正しくない。明正女帝(践祚寛永6年)の生母が中宮源和子(徳川秀忠女)ですから后腹です。女帝推進論者が女帝の生母をミスカウントしている。
又、明正女帝以外でもひとくちに非后腹とひとくくりにしてしまうのはかなり問題がある。明治天皇生母中山慶子典侍や大正天皇生母柳原愛子権典侍のように後宮女官の典侍クラスが生母であるケースは側室、側妾と称してさしつえないが、後水尾生母女御-准三宮藤原前子(関白近衛前久女-中和門院)クラスの上流貴族のケースは非后腹といっても側室と称するのは憚られるように思える。
南北朝時代から立后も女御を立てることもなくなった。摂関家が凋落していて経済的にも女御を立てられなかったこともあるが、天皇に正配なく、後宮女官が側妾の役割を果たしてきた。我が国の慣例では中級貴族は后位にのぼせられることは原則としてありえない。上流貴族が入内しなくなると立后はないということになる。
天正14年豊臣秀吉の猶子として後陽成天皇(16歳)に藤原前子(12歳)が女御として入内して、久しぶりに正規の配偶者ともいえる女御の制が復活した。后位ではないが側妾とみなすことには問題があるといえる。
同様に摂家の女御が生母であるケースとして中御門女御桜町生母藤原尚子(近衛家煕女-新中和門院)は天皇御誕生二十日後病没、贈皇太后である。桜町女御後桜町生母の藤原舎子(二条吉忠女-青綺門院)は、桃園天皇養母として皇太后にのぼせられ、女院として宮廷において求心力を有したのであるから、側室などと称するのは憚られることである。
そもそも江戸時代の男帝14代 (後陽成・後水尾・後光明・後西・霊元・東山・中御門・桜町・桃園・後桃園・光格・仁孝・孝明 )のうち現天皇の嫡妻としての立后例は四例、後水尾后中宮源和子(徳川秀忠女)、霊元后中宮藤原房子(鷹司教平女)、東山后中宮幸子女王(有栖川宮幸仁親王女)、光格后欣子内親王(後桃園皇女)だけ。従って、江戸時代の天皇のほとんどが后腹でありえないのはあたりまえである。
后腹天皇が多くないときいて「ほう」と感心するほどのことはないですよ。
また長期に及ぶ皇后不冊立期があることも念頭に置きたい。南北朝時代から近世初期(後水尾后源和子)まで長期の皇后不冊立期がありますが、律令成立期の文武天皇が皇后不冊立ですし、九世紀の仁明天皇から十世紀の朱雀天皇までの八代のうち七代が皇后不冊立です。但し、仁明女御文徳生母藤原順子、文徳女御清和生母藤原明子、清和女御陽成生母藤原高子、光孝女御宇多生母班子女王は、女御より皇太夫人、さらに皇太后、藤原順子と藤原明子は太皇太后にまでのぼせられているがこのようなケースは后腹にカウントしているのか。東宮妃で薨ぜられたケースはどうなのかなど、非后腹をどのように数えているのか判然としていないこともある。
円融后中宮藤原遵子は女御より直接皇太后にのぼせられた藤原詮子(一条生母)の女房から「素腹后」と嘲られましたが、東三条院藤原詮子は厳密にいうと皇后でなかったから嫡妻でない。円融天皇の嫡妻はあくまでも藤原遵子です。しかし嫡妻たる藤原遵子をさしおいて皇太后にのぼせられたのは藤原詮子であるから、詮子を側妾などと称するのは全く憚られることです。つまり女御所生の親王は有力な皇位継承候補者たりうるのであって、この意味では皇后と女御にはさほど大きな格差がないともいえます。この在り方は嫡妻権が明確な厳密な意味での婚姻家族ではない。例えば光明皇后は聖武践祚の6年後、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては醍醐践祚の26年後の立后ですから、立后は婚姻家族概念でなく政治行為とみなしてよい。政治的な理由で一帝二妻后の例もある。また政治的理由で皇后が里第で籠居を余儀なくされるようなケースもあり、近代の婚姻家族とはかなり違うと思います。むしろ前近代の天皇制の特徴は嫡妻たる皇后を冊立しなくても、正配たる配偶者がなくても後宮女官が側妾の役割を果たして続いていくような柔軟性があることだろう。この点は近代の皇后のように嫡妻権の明確なあり方、嫡妻権が明確で皇后と妾の格差が明確な中国王権のあり方とも違う制度です。だから婚姻家族的な性格の明確な近代の皇室との比較で前近代を論じてもさほど意味がないと考える。
私の考えでは、側室制度を肯定しようと否認しようと男系継承という皇位継承原理をかえることはない。例えばフランス王権はキリスト教の単婚制であっても女王女系を拒否して、男系男子で継承されてきたわけです。
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