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カテゴリー「皇室典範問題 高森明勅 批判」の7件の記事

2006/02/26

朝まで生テレビの高森明勅発言批判

 うちのテレビはBS・CS放送が映らないので先日の所功Vs竹田恒泰の討論番組は見てません。11日土曜の朝に所功教授が出演したらしいがこれも迂闊なことに見逃しましたが、25日未明の「朝まで生テレビ 激論“天皇”」(テレビ朝日)を見たので感想を述べます。

川西正彦(平成18年2月26日)

 13人のパネリストで明確に男系維持を主張していたのは八木秀次と中丸薫だけ。田原総一朗が高橋紘や高森明勅といった女系推進の急先鋒を持ち上げるだけでなく女系容認論者の声が大きくて、いらいらする内容だった。
 日曜日は田中卓反駁第3回の作文をしなければならないので、ここでパネリストの問題発言を逐一反論しませんが、高森明勅がかなり偏った発言をしており、看過できないので早速批判しておきたい。
 高森は側室制度とセットで男系は維持されたのであって、側室制度を肯定しない以上、女系容認しかないという趣旨で次のような発言があった。

庶系継承がないと傍系の宮家ももたないという奇妙な説

 高森明勅の発言「‥‥60年のあいだに11の宮家がですね。男子の跡継ぎがいる系統が4つしかなくなっているんですね。庶系がないと傍系ももたないんです」
 

 仮に、11宮家の臣籍降下がなかったとしても、側室がなければ宮家の数は減っていくと言ってますが、昨年の5月31日の有識者会議のヒアリング八木秀次の意見陳述資料PDF最終頁にある文藝春秋2005年3月号から引用した旧宮家の略系図をみますと、昭和22年で臣籍降下した旧11宮家当主の子孫のうち旧宮家の枠組みを1流という単位で数えると11流のうち4流に32歳以下の男系男子がおられる。45歳以下の男系男子が全体で17人、37歳以下では14人、独身者が10人となってます。これが正確な数字かどうかは知りませんが、男子の員数それ自体は増加している。
 フランスのカペー朝が単婚制でも結構規則正しく男子継嗣が誕生している例もありますし、単婚でも12月26日ブログで述べたように、養取であれ、復籍であれ、遺跡継承であれ仮に5人の男系男子の宮家が復帰すると、確率論では、曾孫の世代で男系男子は7.48人に増加すると試算できる。、養取、遺跡継承、あるいは跡継ぎ以外の男系男子も皇籍を離脱せず他の宮家を継承する又はあらたに宮家を創設することとすれば、宮家の数は減らないし、増加する可能性のほうが高い。
 明治皇室典範は、宗系紊乱を防ぐなどという趣旨で、第42条で養子を迎えて継嗣とすることができなくなったのですが、これはいわゆる側室制度があって、天皇が病弱でない限りそう容易に直系の後嗣が絶えることが想定できないうえに、傍系の宮家の数が多かったことがあった。現在の皇室典範でも第九条で、天皇及び皇族は、養子をすることはできないとなっているが、明治39年に皇女を妃とする東久邇宮、朝香宮、竹田宮が創設されて、宮家の数が増加していった状況と現在は異なるので、これを改正して、例えば明治5年に継嗣のいなくなった閑院宮家は、伏見宮家の易宮(後の載仁親王)により継承されたように、後嗣のない宮家に他の宮家から養取または、遺跡を継承していけば、宮家の数は減らない。
 要するに男子継嗣の存在する宮家が5~6家あれば、側室制度がなくてもそう簡単には男系継嗣は枯渇しないと考えます。それでも皇族女子の誕生が9人も連続したじゃないかいう反論があるかもしれないが、有識者会議は確率論で割り切る考え方なので、ある一族に女子が9人連続するという稀にしか起きない事例にこだわらず、同じ土俵で論じてよいと思います。
 
 
 男系限定というならば側室復活といわなければ現実的でないという奇妙な説
 
 高森明勅の発言「私が125代の系図、側室からお生まれになった天皇をずうっとチェックをしてきました。そうすると正妻である皇后からお生まれになったのがですね。四方続いたのが最高です。四方続いた例がですね。おそらく二例か三例しかないですもう。あとは一代でとだえたり二代でとだえたりよくて三代ですね。あとはもうずうっと側室ばかりで続いていると。十代、十五代続いていると。こういうケースなんです。で今現実を考えてみると、大正天皇は側室の出でいらっしゃいます。そして‥‥(「明治天皇も」-田原と高橋が発言)もちろんそう。その前もずうっとそうです。江戸時代の最初まで、ですから大正天皇までずうっと側室がずうっととだえなく続いているんです。江戸時代の最初から。で、考えるとですね。皇后からお生まれになったは昭和天皇、そして今の天皇陛下、そして皇太子、そしてここでとだえようとしているんです今。これは日本の歴史ふりかえって(「三代続くのが珍しいんだ」田原が発言)珍しいんです。(「ほう」)これは別に突飛なことでもなんでもない‥‥要するに男系限定というのは側室とセットで機能してきた。」
 男系継承に固執するなら側室制度の復活を主張しなければならないとして、側室否定なら女系容認しかありえないという主張だが、パネリストは感心して拝聴していたがかなりインチキなレトリックといえる
 
 まず事実問題ですが、江戸時代のはじめから大正天皇まで非后腹というのは正しくない。明正女帝(践祚寛永6年)の生母が中宮源和子(徳川秀忠女)ですから后腹です。女帝推進論者が女帝の生母をミスカウントしている。
 又、明正女帝以外でもひとくちに非后腹とひとくくりにしてしまうのはかなり問題がある。明治天皇生母中山慶子典侍や大正天皇生母柳原愛子権典侍のように後宮女官の典侍クラスが生母であるケースは側室、側妾と称してさしつえないが、後水尾生母女御-准三宮藤原前子(関白近衛前久女-中和門院)クラスの上流貴族のケースは非后腹といっても側室と称するのは憚られるように思える。

 南北朝時代から立后も女御を立てることもなくなった。摂関家が凋落していて経済的にも女御を立てられなかったこともあるが、天皇に正配なく、後宮女官が側妾の役割を果たしてきた。我が国の慣例では中級貴族は后位にのぼせられることは原則としてありえない。上流貴族が入内しなくなると立后はないということになる。
 天正14年豊臣秀吉の猶子として後陽成天皇(16歳)に藤原前子(12歳)が女御として入内して、久しぶりに正規の配偶者ともいえる女御の制が復活した。后位ではないが側妾とみなすことには問題があるといえる。
 同様に摂家の女御が生母であるケースとして中御門女御桜町生母藤原尚子(近衛家煕女-新中和門院)は天皇御誕生二十日後病没、贈皇太后である。桜町女御後桜町生母の藤原舎子(二条吉忠女-青綺門院)は、桃園天皇養母として皇太后にのぼせられ、女院として宮廷において求心力を有したのであるから、側室などと称するのは憚られることである。
  そもそも江戸時代の男帝14代 (後陽成・後水尾・後光明・後西・霊元・東山・中御門・桜町・桃園・後桃園・光格・仁孝・孝明 )のうち現天皇の嫡妻としての立后例は四例、後水尾后中宮源和子(徳川秀忠女)、霊元后中宮藤原房子(鷹司教平女)、東山后中宮幸子女王(有栖川宮幸仁親王女)、光格后欣子内親王(後桃園皇女)だけ。従って、江戸時代の天皇のほとんどが后腹でありえないのはあたりまえである。
 后腹天皇が多くないときいて「ほう」と感心するほどのことはないですよ。
 また長期に及ぶ皇后不冊立期があることも念頭に置きたい。南北朝時代から近世初期(後水尾后源和子)まで長期の皇后不冊立期がありますが、律令成立期の文武天皇が皇后不冊立ですし、九世紀の仁明天皇から十世紀の朱雀天皇までの八代のうち七代が皇后不冊立です。但し、仁明女御文徳生母藤原順子、文徳女御清和生母藤原明子、清和女御陽成生母藤原高子、光孝女御宇多生母班子女王は、女御より皇太夫人、さらに皇太后、藤原順子と藤原明子は太皇太后にまでのぼせられているがこのようなケースは后腹にカウントしているのか。東宮妃で薨ぜられたケースはどうなのかなど、非后腹をどのように数えているのか判然としていないこともある。
 円融后中宮藤原遵子は女御より直接皇太后にのぼせられた藤原詮子(一条生母)の女房から「素腹后」と嘲られましたが、東三条院藤原詮子は厳密にいうと皇后でなかったから嫡妻でない。円融天皇の嫡妻はあくまでも藤原遵子です。しかし嫡妻たる藤原遵子をさしおいて皇太后にのぼせられたのは藤原詮子であるから、詮子を側妾などと称するのは全く憚られることです。つまり女御所生の親王は有力な皇位継承候補者たりうるのであって、この意味では皇后と女御にはさほど大きな格差がないともいえます。この在り方は嫡妻権が明確な厳密な意味での婚姻家族ではない。例えば光明皇后は聖武践祚の6年後、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては醍醐践祚の26年後の立后ですから、立后は婚姻家族概念でなく政治行為とみなしてよい。政治的な理由で一帝二妻后の例もある。また政治的理由で皇后が里第で籠居を余儀なくされるようなケースもあり、近代の婚姻家族とはかなり違うと思います。むしろ前近代の天皇制の特徴は嫡妻たる皇后を冊立しなくても、正配たる配偶者がなくても後宮女官が側妾の役割を果たして続いていくような柔軟性があることだろう。この点は近代の皇后のように嫡妻権の明確なあり方、嫡妻権が明確で皇后と妾の格差が明確な中国王権のあり方とも違う制度です。だから婚姻家族的な性格の明確な近代の皇室との比較で前近代を論じてもさほど意味がないと考える。
 私の考えでは、側室制度を肯定しようと否認しようと男系継承という皇位継承原理をかえることはない。例えばフランス王権はキリスト教の単婚制であっても女王女系を拒否して、男系男子で継承されてきたわけです。

2005/09/19

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第10回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月19日-その2
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
    イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
            明正女帝
       後桜町女帝
(以上第7回掲載)
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)
 (第8回掲載)
    ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性
     ホー1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識
     ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
        ①譲位より出家が先行の変則性
        ②政務を託されたのは光明皇后
        ③光明皇后の指示による孝謙即位
 (以上第9回掲載)
 ホ-3 天皇大権を完全に掌握できなかった孝謙女帝
 ホ-4 草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
                     (今回掲載)

ホ-3 天皇大権を完全に掌握できなかった孝謙女帝
 
 聖武の突然の出家によって国政の庶事は光明皇后に委ねられた。天平勝宝元年〔749年〕八月皇后の附属職司である皇后宮職を紫微中台(史上最大の令外官司)に改組し、孝謙を即位(同年七月)させたうえで、太后臨朝称制に准じるかたちの統治体制としたものとみる。岸俊男によると紫微中台の職掌は「居中奉勅、頒行諸司」〔『続日本紀』天平宝字二年八月甲子条-758年〕といわれるように光明皇太后の大政を輔佐し、太政官の中務省に代って、その詔勅奏啓を吐納することにあったといわれる。また皇権のシンボルたる鈴璽も皇太后に置かれていた(『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条)(註89)。このためにその長官である紫微令大納言藤原朝臣仲麻呂が、事実上、太政官決裁者たる左大臣橘朝臣諸兄よりも政治的求心力と実権を有することになった体制として語られることが多い。。
 紫微中台官人の構成であるが、紫微令仲麻呂以外に、藤原氏から起用されていないので、藤原政権では全くない。発足当初のメンバーは、紫微大弼に参議大伴友宿禰兄麻呂、参議治部卿石川朝臣年足、紫微少弼に百済王孝忠、式部大輔巨勢勢朝臣堺麻呂、中衛少将背奈王福信である。人事官庁と衛府の官人が兼官しているが、紫微令大納言仲麻呂は前式部卿(孝謙即位後の式部卿は紀朝臣麻呂)であり、紫微少弼の式部大輔巨勢朝臣堺麻呂は仲麻呂に近い官人で、人事官庁は仲麻呂が掌握していたとみてよいのである。
 紫微中台というネーミングは諸説あるが、則天武后時代に三省のひとつである尚書省が中台と改称した例がある。また玄宗皇帝初世に中書省を紫微省と改称した例があり、唐の中書省と尚書省を合体した強力なものだった(註90)。
 太后臨朝称制は中国では漢代から正統な政治形態として確立されているが、紫微中台が特異な変則的体制とみなされている理由は、本来、天皇と太政官の二極体制である律令国家のシステムであるのに実質的に令外官司が太政官と並び立つもしくはそれを凌ぐ求心力を有する政権になったこと。孝謙女帝が32歳で即位し成人であるにもかかわらず完全な執政権が付与されず、皇太后が大きな実権を掌握している体制というところにある。

 ただし冒頭に述べた岸俊男の見解はかなり問題がある。『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条に橘奈良麻呂の変を語る記事で「皇太后宮を傾けて鈴璽を取らむ」とあり、皇権のシンボルたる鈴璽(鈴印契)が皇太后宮にあったことが知られている。しかしそれは聖武上皇崩後のことである。また当初から皇太后が紫微中台単独の署名で勅書が作成されていたわけではないという説がある。
 近藤毅大によれば孝謙即位後も鈴璽は聖武上皇がもち、上皇崩御前後の時期に皇太后の手元に移ったのだという。又、当初、光明皇太后は「令旨」を発給していたが〔これは公式令の規定どおり〕、ある時期から紫微中台と侍従の連署で皇太后の意思を「勅」とするようになり、仲麻呂が紫微内相になると紫微中台単独の署名で光明皇太后の勅書が作成されたという(註91)。なお、孝謙女帝の詔は太政官ルートで中務卿により宣せられている。
 聖武崩後の体制は「皇帝皇太后、如日月之照臨並治萬国」(『続日本紀』天平宝字元年壬寅条)といわれているように日と月にたとえられる皇太后との共同統治体制ということにはなっている。しかし、近藤説によれば皇権のシンボルである鈴璽(鈴印契)を孝謙女帝が掌握したことは一度もない。即位当初は聖武上皇、後に光明皇太后が鈴璽を掌握しており、孝謙女帝にかわって皇権を行使していたということである。皇太后の意思も「詔」「勅」とされていることはある意味で上皇と同じ(例えば天平十六年二月二十六日難波を皇都と定めた勅は元正上皇とみなす歴史家が多い)ともいえるが、鈴璽(鈴印契)を掌握していない以上、孝謙女帝が完全な執政権を有していないということである。それは皇嗣とはみなされない女帝の限界であったと考えられる。
 さらに天平宝字元年五月の大納言藤原仲麻呂の任紫微内相であるが、岸俊男は次のように説明する。紫微内相は待遇上大臣相当官で、内外諸兵事を掌る軍事総監として置かれた。一般に統帥権は行政権とは平行的に終局的にはともに天皇の掌握するところで、太政官に属する太政大臣、左右大臣、大納言に通常絶対的な軍事権はない。紫微内相は仲麻呂が本来直接天皇が掌握する軍事権を手中にするための令外官とされている(註92)。大臣相当官で軍事も掌握するから強力なポストであるが、これは不穏な情勢(奈良麻呂の変)が察知されていたこともある。そうすると紫微内相は皇太后の直属の部下であっても、女帝の直属の部下ではないから、女帝の腹心である藤原永手が中納言に昇進しバランスをとっているとはいえ、孝謙女帝は軍事権を掌握していないことになる。
 

 ホ-4草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
 
 前回述べた天平宝字六年六月三日詔で、孝謙上皇が草壁皇統嫡系を強弁しているにもかかわらず、女帝には草壁皇統のシンボルたる草壁皇子の佩刀が譲られていないことである。瀧浪貞子によれば、佩刀は草壁皇子-藤原不比等-文武-不比等-聖武と伝えられたが、聖武崩後の天平勝宝八年六月二十一日に光明子により東大寺に献納されている。佩刀の授受に終止符が打たれたことは草壁嫡系がいなくなったことを物語り、聖武上皇の遺詔により天武孫の道祖王(孝謙女帝によって廃位)が皇太子に立てられたことによって草壁皇統は終焉した(註93)。瀧浪氏はまた次のようにも述べておられる「『不改常典』の論理は‥‥嫡子が男子に限られた皇位継承=嫡系相承を実現するためには、女子は単なる皇位の保持者=中継ぎに徹せざるを得なかったのである。黒作の太刀が女帝を経ず、草壁-文武-聖武という、いわゆる草壁皇統に伝授され、それで終わったことの意味も、あらためて理解されよう。これが、孝謙が皇位を継承できても皇統の継承者として認められなかった理由であり‥‥‥」(註94)。
 私の考えは、『不改常典』の解釈いかんにかかわらず、端的に、女帝は皇位を継承できても皇統の継承者としては認められないと言い切ってさしつかえないと思う。

 次に淳仁天皇(大炊王)は前の聖武天皇の皇太子と定められていたことである。淳仁天皇の光明皇太后に対する言葉「『前聖武天皇乃皇太子』と定めていただき即位させていただいた」(『続日本紀』天平宝字三年六月庚戌条)であるが、『前聖武天皇乃皇太子』は光明皇太后が事実上定めたものであることがわかる。大炊王立太子は聖武崩後であり、しかも皇嗣策定会議(天平宝字元年四月四日条)で大炊王立太子を切り出し決裁したのが孝謙女帝であリ、孝謙の譲位により即位したにもかかわらず、それでも、前聖武天皇の皇太子である。瀧浪貞子は、大炊王を聖武の正統な後継者とするために擬制的に聖武の嫡子に仕立てようとしたとされ、皇統が孝謙を飛び越えて聖武から継承されたということにほかならないとされている。(註95)、皇統が孝謙を飛び越えた、それはそうだが、先考舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号で舎人親王系皇統を創成したのであるから、前代が女帝でないかぎり、ことさら『前聖武天皇乃』とされる必要はなかったと考える。このことは直系継承の擬制というよりはむしろ聖武天皇即位詔「此食国天下者、掛畏藤原宮天下所知、美麻斯父坐天皇美麻斯賜天下之業」を連想させる(第7回のロ参照)。この理屈では女帝からの継承性がないのである。女帝が皇統から外されており、大炊王の『前聖武天皇乃皇太子』は男系継承の論理性を示すものであり、端的に女帝は皇統を形成できないことを示している例であると思う。
 また木本好信(註96)は孝謙の譲位に光明皇太后は重大な役割を演じているとしている。天平宝字二年八月庚子条で、孝謙女帝は譲位の理由として、大政を聴くことは労苦の多いことで、長く在位していることは力の弱い自分には荷が重すぎて堪えられないこと。母光明皇太后に対して、今は人の子として孝養を尽くせないので、退位してゆっくりと子として仕えたいとしているが、この前後に皇太后の病気などのこともみえないから不自然として、光明皇太后が政治的理由で譲位を望んだ結果と論じている。
 木元説の新味は、従来、淳仁天皇は仲麻呂の権勢獲得の手段として語られる傾向が強かったのだが、光明皇太后が天武系皇統の存続を思慮した結果であるとされていることである。例えば、先に触れた天平宝字三年六月庚戌条でも「太皇太后(光明)の御命以て朕(淳仁)に語らひ宣りたまはく、‥‥吾が子(淳仁)して皇太子と定めて先ず君の位に昇げ奉り畢へて」とある。
 光明皇太后は則天武后に比擬されることが多い、国分寺創建と東大寺廬舎那大仏造営は、光明皇后が推進したものだが、国分寺は則天武后が全国にもうけた官寺の大雲寺、大仏は龍門奉先寺の廬舎那大仏に範をとったものであり、四字年号も則天武后の影響とされている(註97)。しかし決定的に異なるのは、則天武后は李氏唐室を簒奪し武周を建国したのであるが、光明皇后は、孝謙上皇の反対にもかかわらず、舎人親王の崇道尽敬皇帝号追号など舎人親王系皇統の創成に尽力されたのである。草壁皇統が血統的袋小路に入った以上、新しい皇統を創成しなければならない。スムーズに草壁皇統から舎人親王系皇統への継承させるために、木本説は光明皇太后が政治的に孝謙女帝を帝位から下ろした、実質的には退位を命じたという解釈である。そのような意味でも孝謙は中継ぎであったのである。ということは当初から孝謙女帝は執政権を完全に掌握する本格政権は想定されていなかったということになる。 
 以上述べたように孝謙は即位したが皇位継承の正当性に乏しく天皇大権を掌握できない中途半端な存在だった。上皇としても理屈のうえでは、淳仁に親権を行使できない立場にあった。保良宮から平城京に還御されたとき上皇は出家されたにもかかわらず怒りを爆発させ、奪権闘争に突入、実力で仲麻呂や氷上真人塩焼の斬殺、淳仁の廃位により敵対勢力を打倒することによって真に執政権を有する女帝となったのであった。
 光明皇太后の意図は、望まない退位を強要された孝謙上皇の権勢の執着に発した重祚と淳仁の廃位で台無しになったのである。
 にもかかわらず私は称徳女帝を高く評価したい。筧敏生か誰だったか出所を明示できないが、孝謙上皇の重祚は「もはや天皇でなければならないという意思のあらわれ」と述べているのを読んだ記憶がある。藤原京と奈良時代は、天皇と上皇の共治体制の例が多かったが、天皇に権力が収斂されたのは通説では薬子の変であるが、孝謙の重祚を重視する見解である。称徳朝には上皇・三后・皇太子が不在で天皇に権力が収斂されたのである。このことは天皇を中心とする律令国家体制を固めた意義のあるものと評価してよいのである。
 一方保立道久のような称徳女帝=平和主義論もある(註98)。新羅出兵計画を推進したのは淳仁天皇と藤原仲麻呂としたうえで、孝謙上皇がブレーキ役になり、淳仁の外交大権の回収で解消したというのである。称徳女帝は神護景雲二年十月に新羅交易物を購入するため八万五千屯の綿を左右大臣以下政権首脳部・皇族に賜与しているが、舶来品は需要があるのであって、国家間の緊張関係は別として現実主義的な政策といえる。当時の新羅は国力が充実しており、新羅征討に突入するのは軍事的冒険になる。この点で女帝は現実主義的な政策判断をとったと評価してよいのかもしれない。 

 以上、歴史上の女帝、生涯非婚内親王四方の即位の経緯を逐一検討したが、結論は全て男系主義的脈絡における中継ぎであり、女帝は皇権を継承するが皇統を形成することはできないことを各論で示した。女系継承などありえないのである。ところが男系も女系も認めようとか、男系も女系も皇統などという無茶苦茶な見解が世論を誘導しているとんでもないことである。

(註89)岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館人物叢書 1987新装版 初版は1969
112頁
(註90)愛宕元「補説23武則天と光明皇后」松丸・池田・斯波・神田・濱下編『世界歴史体系 中国史2-三国~唐』山川出版社1996
(註91)近藤毅大「紫微中台と光明太后の『勅』」『ヒストリア』No.155 (153)1997年6(註92)岸俊男 前掲書 198~201頁
(註93)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」79頁以下
(註94)瀧浪貞子 前掲書81頁
(註95)瀧浪貞子 前掲書70~72頁
(註96)木本好信『奈良時代の藤原氏と諸氏族』おうふう 2004、但し初出2002、181頁以下
(註97)愛宕元 前掲論文
(註98)保立道久『黄金国家』青木書店2004 71頁以下

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第9回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月19日
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
   イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝
(以上第7回掲載)
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性) 
(第8回掲載)
    ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性
     ホー1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識
     ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
        ①譲位より出家が先行の変則性
        ②政務を託されたのは光明皇后
        ③光明皇后の指示による孝謙即位
                (今回掲載)
     ホ-3天皇大権を掌握していない孝謙女帝
     ホ-4草壁皇子の佩刀が譲られていないことなど
               
(次回掲載予定)

ホ、孝謙女帝即位の変則性・特異性

 女帝は皇統を形成できない。前回述べたとおり、皇統が血統的に袋小路になって直系継承が不可能で、いずれ傍系皇親へ継承することがわかっていながら、あえて非婚女帝が即位した例は、聖武天皇が陸奥産金の報らせに狂喜するあまり衝動的に出家され太上天皇沙弥勝満と称し国政を投げ出したともいわれる状況で即位した、孝謙天皇だけである(明正天皇は践祚の時点で父帝後水尾の皇子がいなかったが、若宮誕生後に譲位する中継ぎであったことは第7回で述べたとおり)。あってはならないことだが、もし現今の状況で女帝が即位するとすれば、直系継承が不可能なのに時間稼ぎ的な皇位継承になり、孝謙即位のケースが現今の状況に類似しているといえるだろう。そういうわけで、現今の女帝論議においても孝謙女帝をどう評価するかが、生涯非婚であることは絶対条件としても女帝を容認しうるか否かの判断において重要であると考えるので、ここで孝謙女帝論を述べることとする(長文になるため今回は途中までである)。
 
  もちろん現今の状況とは異なる面も多分にある。天平十年の阿倍内親王立太子の時点では中継ぎが想定されていた可能性がある(阿倍内親王と10年の年齢差のある異母弟聖武皇子安積親王が健在だった。次妻格以下の藤原氏女腹皇子の誕生の可能性もあった)。決定的には草壁皇統は袋小路になったが、孝謙即位の時点で皇親がかなり多数実在していたことである。有力なのは律令国家成立以降功績がある天武系の舎人親王系と新田部親王系であり、舎人系では船王・池田王・守部王・大炊王、三世王の和気王、新田部系では塩焼王・道祖王、このほか高市皇子系では長屋王の子、安宿王・黄文王・山背王、長親王系は智努王、大市王、奈良王がいた。結果論をいうと、称徳朝までに天武系で臣籍に降下していない有力皇親が殺戮や追放によって除かれてしまったために、称徳女帝不予の際の皇嗣策定会議で天武系にこだわった右大臣吉備真備が、臣籍に降下したうえ出家していた、天武孫の文室真人浄三(智努王)や文室真人大市(大市王)を皇位継承者に推薦せざるをえなくなっているが(註79)、それはともかく、藤木邦彦によると孝謙女帝の治世で皇親から臣籍に降下した例が、敏達裔、舒明裔、天智裔、天武裔、出自不明を含めて72例あることからみても(註80)、皇位継承資格を有する諸王はかなり多数実在していたのであるから、現今の枯渇的状況とは異なる。
 
 結論を先に述べます。いずれ傍系へ継承することがわかっているのに即位した孝謙のケースは特異で変則的な在り方である。孝謙即位の皇位継承の論理性・正当性はかなり弱い。光明皇太后の「皇太后朝」ないし皇太后摂政ないし皇太后称制ないし紫微中台政権を正当化させるための役割をふられた感がある。
 しかし私は柔軟な考え方をとる。光明皇太后は東大寺や国分寺創建の発意者であり仏教事業や福祉政策に偉大な治績を有するだけでなく、いわゆる仲麻呂政権№2の石川年足は能吏タイプと評価され、「皇太后朝」は善政との評価があり、三后は政治的権能をもともと有しておりそれもありうる体制だった。「皇太后朝」紫微中台政権は必ずしも特異な体制とみなす必要はなく、正統な政治形態である太后臨朝称制の変態とみなすことができ、結果的には紫微中台政権は、草壁皇統から舎人親王系皇統へ過渡的政権となり、皇権の危機をもたらしたものでもない。逆説的にいうと太政官権力を掣肘していることから、実質的には君主の政治的権威をなお一層高めたと評価もできるし、天皇を中心とする律令国家体制を固めるために有意義だったという見方もできるかもしれない。そうした脈絡で光明皇太后の天皇大権掌握を正統的政治形態とみなし好意的な見方を示すこともできる。その観点から、傍系皇親へのつなぎ期間の共同統治者の一人として、かろうじて孝謙が皇位を継承した意義を認めてもよい。
 
 しかし現今の女帝論議は傍系皇族への皇位継承への時間かせぎということでもなく、皇太后称制による安定的強力政権で律令国家体制を成熟させていく国家的課題があるわけでもなく、女帝即位の絶対条件である非婚独身を貫くということでもない。孝謙即位の条件とはかなり異なるのである。プリンスコンソートを迎えての女系継承が前提とされており、事実上の皇朝の廃止、易姓禅譲革命、日本国の終焉の合法化になるもので到底容認することができない。
 現今の状況-直系継承が袋小路で傍系皇族も否定されている状況ではたとえ、時間かせぎの観点で生涯非婚内親王の即位であってもその次の皇位継承者に不安があり、容認しがたい。私は生涯非婚内親王の即位ですら反対だから、表題のとおり絶対反対論です。歴史上の女帝の意義は認めても、現今の女帝論議は、女帝は非婚でなければならないことが絶対条件にされてないので、無茶苦茶な理屈になっている。プリンスコンソートなんてもってのほか。傍系皇親が多数実在していた状況での孝謙即位のケースでも正当性に乏しいのに、傍系男子皇族への皇位継承の見込みを否定して、易姓革命を是認し国を滅ぼす政策を合法化するなど、絶対的に容認できるはずがない。以下孝謙即位の異常性を挙げるとともに、女帝が皇統を形成できないという意義についても考察していきたい。
 
  ホ-1 「猶皇嗣立つることなし」は貴族社会の一般認識

 第一に天平宝字元年七月に橘奈良麻呂の変により喚問を受けた陸奥国守佐伯宿禰全成の自白に、「去る天平十七年先帝陛下(聖武)は難波行幸中に重病になられた。このとき橘奈良麻呂は自分に語って『陛下枕席安からずして、殆んど大漸に至らんとす。然れども猶皇嗣を立つること無し、恐らくは変有らん乎。願はくは多治比国人・多治比犢養・小野東人を率い、黄文を立てて君となし、以て百姓の望に答へよ‥‥』と誘った‥‥」という。「猶皇嗣立つることなし」とは、瀧浪貞子が論じているように当時の貴族の一般的な考え方であった。立太子後七年も経っていながら、阿倍内親王が結局は皇嗣=嫡子とは認められていないことを示している(註81)。皇嗣すなわち皇統の継承者は男子である以上、女性立太子の論理性はかなり弱いものと断じてよいと思う。ヒツギノミコという言葉はあるがヒツギノヒメミコという言葉はありえない。どう考えても女性立太子はヘンだと云わなければならない。当時においても女性立太子は特異と認識されていたのである。
 
  ホ-2 聖武天皇譲位の変則性・特異性
 
 論点は次の三点である。
①聖武が孝謙即位より一ヶ月余り前に既に出家の身で薬師寺宮に遷御され、太上天皇と称していたことは奇妙である。
②聖武天皇は光明皇后に政務を托したのであって孝謙即位は形式的な実現とみられること
③天平宝字六年六月三日詔で孝謙上皇は、父帝聖武ではなく母光明皇后の命で即位したとされているのは奇妙である。
 結論を先に述べますと、聖武天皇は政務を光明皇后に托し出家した。聖武が在世されているのに皇后称制というのは奇妙で特異な在り方となること、聖武天皇の出家という既成事実が先行してしまったので、光明皇后の主導によって形式的に聖武譲位、皇太子阿倍内親王即位が実現した。聖武上皇崩後は形式上、「皇帝皇太后、如日月之照臨並治萬国」(『続日本紀』天平宝字元年壬寅条)といわれる共治体制となった。と私は考える。光明皇后の存在の大きさもさることながら、この変則的な皇位継承の在り方は、阿倍内親王が皇太子でありながら結局は皇嗣=嫡子と認められていないこと。皇統を形成できない女帝即位の論理性、正当性の弱さを物語っていると解釈する以外にないのである。
 
 
 ①譲位より出家が先行の変則性
 
 聖武天皇は天平勝宝元年(七月改元-749)七月二日に阿倍内親王に譲位した。『続日本紀』に「皇太子、禅りを受けて大極殿に即位きたまふ」とあり、譲位宣命とそれを承けた孝謙の即位宣命があることから明白である。ところが、天平感宝元年(四月改元-749)の閏五月二十日に聖武は大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺・東大寺などに種々の品々と墾田地を施入し、あらゆる大乗・小乗の経典を読誦させ、聖武自信の延命と衆生の救済を願う詔を発しているが、その願文中に聖武はみずからを「太上天皇沙弥勝満」と称し、『続日本紀』は閏五月二十日条に続いて「天皇、薬師寺宮に遷御して御在所としたまふ」とある。
 沙弥とは十戒を受持した出家者(見習い僧)を意味するので、出家した身で天皇として政務をとれない(もっともこの点は称徳女帝が先例を破っているが)から宮中から薬師寺宮に遷御され、このことが孝謙の即位を導き出したとふつう理解されている。
 聖武が孝謙即位より一ヶ月余り前に既に出家の身で薬師寺宮に遷御され、太上天皇と称していたことは奇妙である。
 川崎庸(註82)が先行説を検討しているが、孫引きになるが、ほぼそのまま引用する。
 中川収説(「聖武天皇の譲位」『奈良朝政治史の研究』高科書店1994 初出1983)は、聖武は元正天皇や藤原夫人・行基といった近親・関係者の死没による精神的打撃と不祥事連続のさなかに、陸奥国から産金の報がもたらされるとその歓びの衝動で仏道専念を決意、政務を光明皇后に託して閏五月二十日の時点で皇位を離れ、出家して「太上天皇沙弥勝満」と称し、譲位と阿倍内親王の即位を七月二日に形式的に実現したとされた。
 遠山美都男説(『彷徨の王権聖武天皇』角川書店は183~187頁)聖武の譲位は衝動的なものではなく、『扶桑略記抄』の記事に従い、天平二十一年(749)正月十四日に出家、廬舎那仏造立を通じて国家内的権力の頂点にある天皇を超越する立場として「太上天皇沙弥勝満」と称したとされ、聖武の自称に積極的な意味をもたせた。
 瀧浪貞子説(『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社2000 240~247頁)は、聖武の譲位は7月2日であり、「太上天皇沙弥勝満」は聖武のあくまで自称にすぎず、聖武の願望、強烈な意思表示であり、実際にはないものとされた。
 川崎庸の見解は、『扶桑略記抄』の記事は信憑性に乏しい。聖武の受戒は天平十六年の甲賀寺廬舎那大仏造立の時点も考えられ、授戒は行基でなく玄昉である。神格化した天皇の出家が前例のないものであったなどの理由から出家が遅れたとする。聖武は陸奥産金の報に四月一日東大寺に行幸「三宝の奴と仕へ奉る天皇」と自称したが、その後出家(沙弥戒)して譲位の意思を固め、閏五月二十日に「太上天皇沙弥勝満」と称したとされる。
 中川説、黄金産出の報に歓んで衝動的に出家したというのはスト-リーとして面白いし、出家の動機の一つになっていると思うが、川崎説などを勘案するとそれは計画的なものであったかもしれない。川崎庸によると、聖武天皇は早く天平六年の時点で「身を全くして命を述べ、民を安みし業を存するは、経史の中、釈教を最上」とし、「三宝に憑り一乗に帰依」することを表明しているように、かなり以前から出家を望む傾向があったとみてよい。
 一方、瀧浪説であるが、奈良時代においては、平安期において慣例化した天皇が内裏を出て、後院に天皇が遷御し譲位する在り方(『儀式』)を基準に論じる理由はないということはわかる。元正上皇が中宮西院という平城宮内を居所とされていたように、平安期のように上皇が後院に遷御されることが必然ではなかった。しかし「薬師寺宮に入ったからといってただちに出家したというわけではない」というのは空位を否定するための苦しい見解のように思える。既成事実として譲位より出家が先行してしまったという見方でさしつかえないのではないか。
 
 ②政務を託されたのは光明皇后
  
 次に聖武天皇は国政を光明皇后に委ねたとみられる点である。
 天平宝字元年七月の橘朝臣奈良麻呂の謀反が密告された際の光明皇太后の詔であるが、
 詔畢りて、更に右大臣(藤原豊成)以下の群臣を召し入れて、皇太后(光明子)、詔して曰はく、「汝たち諸は吾が近き姪なり。また竪子卿は天皇(聖武)が大命以て汝たちを召して屡詔りたまひしく、『朕が後に太后に能く仕え奉り助け奉れ』と詔りたまひき。また大伴・佐伯の宿禰等は遠天皇の御世より内の兵として仕へ奉り来、また大伴宿禰等は吾が族にも在り。諸同じ心にして皇が朝を助け仕へ奉らむ時に、如是の醜事は聞えじ。汝たちの能すらぬに依りて如是在るらし。諸明き清き心を以て皇が朝を助け仕へ奉れと宣りたまふ」とのたまふ
 群臣(特に大伴、佐伯氏)の不能を激しく糺し、厳しい態度で群臣の仕奉を要求しているが、聖武が群臣に対し、自分の崩後は光明子によく仕奉せよとの詔をしばしば発していたことが示されている(註83)。女帝によく仕奉せよではなく、皇太后によく仕奉せよである。よく知られていることを述べるだけだが、王権の掌握者、実質的な統治者、最終政務決裁者が女帝でなく皇太后であるということである。
 このことは、聖武譲位の経緯でも同じことだと思う。持統以前の皇親皇后を別として、少なくとも人臣女子では光明皇后が共知型の史上最強の皇后であることは、前回述べたとおりである。天平元年八月の光明立后宣命に「‥天下の政におきて、独知るべき物に有らず。必ずもしりへの政有るべし。此は事立つに有らず。天に日月在る如、地に山川在る如く、並び坐して有るべしといふ事は、汝等王臣等、明らけく見知られたり‥」とある。
 光明皇后は文字どおり「並び坐して有るべし」というように、天皇・上皇と並び立つ執政者であった。「天下政‥‥必母斯理倍乃政有倍之」は『儀式』立皇后儀に載せる宣命に継承されているが、「しりへの政」の意義(註84)については諸説あり、嵯峨后橘嘉智子以降は後宮及び皇族女性の統率といった限定的な概念に後退したという見方もある。この問題に深入りしないが、私は不確定概念だと思う。状況如何によっては拡大解釈が可能な余地がある。いずれにせよ三后は皇太子に准じて令旨を発給し、政治的権能を有するけれども、実態面で天皇と並び立つ共治者・執政者といえる皇后は奈良時代以降では光明皇后だけだろう。
 例えば九世紀の三后皇太夫人の附属職司の活動についていえば、文徳生母藤原順子の御願寺安祥寺の造営、陽成生母藤原高子の御願寺東光寺の造営が知られている。御願寺は官寺であるからこうした仏教事業も三后皇太夫人の政治活動なのである。また淳和太后正子内親王は承和の変の敗者だが、慈仁の心甚だ深く、封戸の五分の二をさいて、京中の棄児を収拾し、乳母をつけて養育した。行き場を失った僧尼を保護するため淳和院を尼の道場となし、嵯峨院は、宮を捨てて精舎となし、大覚寺を創建、僧尼の病の治療をなすため、済治院を設けた(註85)。太皇太后尊号を頑強に固辞されているが、朝廷が容れるはずがなく、『管家文章』に淳和院太皇太后令旨が数件見られ、終身后位にいらされたとみるべきで、こうした事業も太后の政治活動とみなしてよいわけである。
 しかし国政にしめるウエイト、事業規模からみて、光明皇后の事業に比べたら小さな活動だといわなければいわない。なんといっても光明皇后は東大寺・国分寺創建の発意者であり『続紀』の崩伝によると天皇より積極的だったとみられている。膨大な写経・勘経事業など国家的仏教事業を推進。貧窮民救済のための施薬院や悲田院といった福祉的事業にも深くかかわった。
井上薫(註86)が皇后の事業を論じているが、光明子は藤原不比等の封戸を相続し、天平十三年正月国分寺の丈六仏像を造る料に不比等の食封三千戸が施入されている。光明の皇后宮職は大和の国分尼寺とされ、唐にない尼寺を僧寺と並べたことも光明皇后の指図である。写経事業を推進したのも皇后宮職である。初期の活動は他官司の能筆の官人が動員されたが、天平八年九月二十八日から一切経5048巻の書写が開始され14年たっても完了しない膨大なものだった。また皇后宮職の官人は金光明寺(のち東大寺)写経所、金光明寺造仏所、造東大寺司の官人が任命されていることからみて、東大寺の創建というものは光明皇后が勧めた政策なのであった。
仏教指向が強いのは聖武天皇も同じことであり、政策を共有している皇后は皇権の共治体制の一翼を担っていたのである。のみならず、附属職司の皇后宮職の規模が大きかった。中林隆之(註87)によると皇后宮職の下級官司として政所、縫製所、掃部所、勇女所、染所、主薪所、浄清所、泉木屋所、写経司(天平十四年以降は金光明寺写経所となる)、造仏所、施薬院、悲田院、酒司、嶋院、外嶋院、法華寺政所のほかに蔵を管理しており、内供奉、舎人長、蔵部という奉仕組織があった。天皇の内廷に類比しうる規模が備えられたのである。
 要するに、聖武が出家されるとなれば、もう一人の執政者、光明皇后に国政が委ねられたのは政策の継承という観点からも安定的で自然の成り行きとみてよいのである。
 孝謙女帝は執政権を委任しうる光明皇后という強力な存在によって異例であるが即位することができたとみることもできる。

  ③光明皇后の指示による孝謙即位

 天平宝字六年六月三日の、孝謙上皇が保良宮から平城京に還御されたときの詔。いわゆる奪権闘争宣言の冒頭の意義が問題になる。
‥‥朕が御祖太皇后の御命以て朕に告りたまひしに、『岡宮に御宇しし天皇の日継は、かくて絶えなむとす。女子の継には在れども嗣がしめむ』と宣りたまひて、此の政行ひ給ひき‥‥
 であるが、孝謙上皇の詔で、草壁皇統が淳仁天皇の舎人親王系皇統より圧倒的に優位にあるという主張はそれなりに理解できる。そもそも舎人親王は新田部親王とともに養老三年十月の元正女帝の詔により皇太子首皇子の補佐を受け持つこととされたのだから。しかし、女子であるにもかかわらず、光明皇后の命により岡宮御宇天皇(草壁皇子)の日嗣=皇統を絶やさないために即位したとする点が論理矛盾であり、ひどく苦しい強弁である。重大なのは孝謙は父帝聖武からの譲位であるはずなのに、母光明皇后の命だとされていることであるが、倉本一宏は「孝謙の即位自体が、光明皇太后の指示によって行われた」(註88)との解釈であり、私は国政が委ねられた光明皇后の執政を正当化するために孝謙が即位したことを裏付けていると解釈する。聖武譲位それ自体も光明皇后の主導とみなすべきかは精査はしなければなるまいが、私の結論はこうである。
 要するに、天平勝宝元年(七月改元-749)七月二日の聖武譲位孝謙即位は形式的であり、実質的には光明皇后に政務が委ねられた。孝謙は「皇太后朝」を正当化するための役割をふられた。前代天皇が在世されているにもかかわらず、皇后の指示で即位したというきわめて特異な皇位継承例である。ストレートに孝謙が執政権を掌握できないのは、孝謙即位の正当性の弱さ、立太子のうえ即位したにもかかわらず、結局は皇嗣=嫡子と認められない、皇統を形成できない女帝であるからである。

 
(註79)『日本紀略』宝亀元年八月癸巳条
(註80)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991但し初出は1970 219頁
(註81)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」75頁
(註82)川崎晃「聖武天皇の出家・受戒をめぐる憶説」三田古代史研究会『政治と宗教の古代史』慶応義塾大学出版会2004
(註83) 倉本一宏『日本古代国家成立期の政権構造』吉川弘文館 1997 436頁
(註84)井山温子「しりへの政」その権能の所在と展開 『古代史研究』13 1995
田村葉子「『儀式』からみた立后儀式の構造」『國學院雑誌』99-6 1998
木下正子「日本の后権に関する試論」『古代史の研究』3 1981-11
(註85)『日本三代実録』元慶三年三月二十三日条
(註86)井上薫「長屋王の変と光明立后」『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館1978
(註87)中林隆之「律令制下の皇后宮職(上)(下)」『新潟史学』31、32号 1993、1994
(註88) 倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53 1998、95頁

2005/09/11

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第8回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
川西正彦-平成17年9月11日
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
    イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝
(以上第7回掲載)
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)
      (今回掲載)

 二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)

 内親王立太子の前例は歴史上唯一、天平十年(738年)正月の聖武皇女阿倍内親王立太子(のち孝謙女帝-当時21歳)のみである。このきわめて異例な立太子は、瀧浪貞子(註73)が論じるように阿倍内親王の生母光明皇后(右大臣藤原朝臣不比等女安宿媛)の異母兄弟(右大臣藤原朝臣武智麻呂、参議民部卿房前、参議式部卿兼大宰師宇合、参議兵部卿麻呂)が天平九年の大疫癘、天然痘の猛威により相次いで薨じたことによる社会的動揺と関連する。藤四卿が不測の事態で薨じたことは朝廷にとって大きな痛手になった。政権首脳部が次々に亡くなるということは異常なことであり、それ自体大事件なのである。
 また瀧浪氏は阿倍立太子の時点で光明皇后が38歳であり、后腹皇子誕生が難しくなったこと、夫人県犬養宿禰広刀自所生の安積親王が11歳(但し天平十六年に急逝)となり、成長した安積親王を抑える意味もある(註73)とされているが、以上の見解についてはほぼ賛同できる。
 先行説もあげておくと、岸俊男は、光明皇后あたりの意見が相当強く働いたと推測され、機先を制したという見方である、大納言橘諸兄は複雑な血縁環境で微妙な立場にあり、反藤原氏の旗色を鮮明にする暇もなく押し切られたとの推測である(註74)。
 須田春子の見解は明快で「皇后光明子を立てて自家勢力の伸張と維持を期する藤原氏一族の、強い執念とも云うべき意図のもとに阿倍内親王は東宮に立ち‥‥阿倍皇女は誕生以来決して際だった特別の存在ではなく、当時藤原氏所生の唯一の皇族であるために推されて皇太子となり、やがて皇位に登る廻り合わせとなったまでのことで、端的に云うならば藤原一族の私的事情を除いては、当時必ずしも内親王立坊の決定的理由乃至根拠はなかったと思われる。なぜならば、その頃皇族諸王には天智・天武の皇子・皇孫が幾人も実在した。いやそれよりも聖武第二皇子安積親王は天平十年には已に十一歳に達している」(註75)とされているが、安積親王の天平十六年急逝は藤原仲麻呂の毒殺とみなす見解(横田健一説)があることはこの間の情勢を反映している。
 しかし瀧浪氏は、聖武天皇の皇位継承構想が、阿倍内親王から安積親王であったと推定されている(註76)。瀧浪説の特徴は、阿倍立太子が光明皇后や藤原氏の意向をふまえたというよりも、あくまでも聖武天皇の意思決定とみなしている点、安積親王への皇位継承のためにも阿倍立太子が必要だった。「不改常典」の嫡系相承の論理から、阿倍内親王の立太子は不可欠な手続きであったとし、それなりの意義を認めている点だが、聖武天皇による意思決定については異存はない。参議兵部卿藤原豊成が策略家タイプでないので藤原氏策略説をとる必要はない。それはもっともである。
 しかし瀧浪氏が聖武天皇も光明皇后もたとえ女子でも后腹で年長の阿倍をさしおいて、安積の立太子は考えられなかったという見方をとっているのは問題だ(註77)。この見解は通時代史的にいえば常識的とはいえない。少なくとも同世代では后腹皇子が非后腹皇子より皇位継承候補として勝っていることは当然の理屈だが、皇女にまで拡大するのは他の時代にはみられない理屈である。
 光仁皇女酒人内親王(母は廃后井上内親王)や鳥羽皇女暲子内親王(母は皇后藤原得子-美福門院)が女帝候補に浮上したことはある。しかし結局、非后腹の桓武、后腹という条件は同じで後白河が登極したのである。一般的にいえば后腹の内親王は厚遇されるのは当然のこととして、后妃候補、斉宮候補、平安末期以降では准三宮から、非婚准母皇后、非婚の女院候補になるとしても、皇子をさしおいてまで女帝候補に浮上するということはない。
 例えば、三条皇女禎子内親王は后腹で、藤原道長を外祖父とするゆえ、同じく后腹とはいえ藤原済時を外祖父とする三条皇子小一条院敦明親王より政治力学的に有利な立場にあったということは、ここで当時の藤原道長の権勢の説明する必要はないだろうし、禎子内親王は道長存命のうちは大変厚遇されていた。しかし皇子ではないから敦明親王をさしおいて立太子ということはならない。禎子内親王は後朱雀后となっても女帝候補にはならないのである。後鳥羽后藤原任子所生の昇子内親王(春華門院)は、膨大な八条院領を相続したが、たとえ外祖父九条兼実の関白罷免事件がなくても、非后腹の為仁(土御門)をさしおいて皇位継承者となるということは考えにくい。
 従ってこれは光明立后の史的意義と関連する問題としてとらえたい。光明皇后は、持統以前の皇親皇后を別問題として、人臣女子では共知型(天皇・上皇と並び立つ執政者)といえる史上最強の皇后であり、施薬院や悲田院(貧窮・病者への福祉事業)を設立し、国家的仏教事業(膨大な写経・勘経事業・造仏事業など)を推進した。附属職司の皇后宮職は、天皇の内廷に類比しうる規模を有し実務官人の養成機関としての性格も有していた(註78)。後に附属職司が紫微中台に改組され、太政官機構と並ぶあるいはそれを凌ぐ政治拠点となったことからも明らかなように、元正上皇が在世されているうちはありえないことだが、聖武天皇が政治に飽きてしまえばいつでも太后臨朝称制もしくは皇太后摂政という形式で国政を委任できるような態勢にあったと考える。
 もし、もうこの時点で聖武天皇はいずれは国政を光明皇后に委ねて出家する意向があったとすれば、阿倍内親王が即位したほうが皇太后摂政、皇太后称制はスムーズに移行できるのであり、そのような長期構想から阿倍立太子の意思決定がなされた蓋然性もあると私は考える。
 藤原氏からすれば、もちろん后腹皇子の皇位継承が最善であったが、皇太子基王は夭折した。光明皇后は38歳になった。次善策は藤原氏女腹の皇子誕生だが、入内した武智麻呂女も房前女も皇子女をもうけていない。阿倍内親王立太子は次の次の善処策ということであろう。
 天平六~九年前後に武智麻呂女と房前女が夫人として入内しており、天平十年の時点では藤原氏女腹皇子が誕生する可能性はまだあった。ただ藤原腹皇子の誕生を見込むとしても年齢差からみて中継ぎは必要であり、阿倍内親王が皇太子である限り、安積親王を担ぐ不穏な動きを封じられるので政治的安定にとっても好ましいと判断されたのだと思う。
 もう少し無難な見方を示しておくならば、阿倍立太子と同日に橘宿禰諸兄が右大臣に昇進していることからみて、これは、社会的動揺を抑え政局の安定化を図るためのバランス人事とみることはできるだろう。
 太政官決裁者は藤原不比等-長屋王-藤原武智麻呂と推移してきた。藤原氏は議政官の半数を占め、藤四卿体制といわれるように政権を主導してきた。しかし四卿薨後、藤氏で参議に昇進したのは豊成(兵部卿を兼ねる)だけで、又、文官人事を掌握する式部卿は、武智麻呂、宇合と歴任し20年近く藤氏がおさえていたポストであったが、天平十年正月の中納言多治比真人広成の任用により、政権における藤氏の比重は大きく後退した。しかし政権変動に伴う動揺は最小限に抑えなければならない。
 
 そもそも聖武天皇の母と妻后は藤原不比等を父とする異母姉妹で、光明子とは同年齢で霊亀二年16歳で結婚したが、もともと不比等邸で一緒に育てられていたので非常に絆の強い天皇と皇后である。東宮傅として皇太子時代の養育責任者が叔父の武智麻呂であった。聖武朝が外戚藤原氏を主軸として支えられ、光明皇后が皇権の一翼を担う共同統治者としての性格を有している以上、太政官決裁者に橘宿禰諸兄(敏達裔)を起用し、台閣第二席、第三席級も鈴鹿王(天武孫)、多治比朝臣広成(宣化裔)と王氏に偏った政権になってしまったからには、異例ではあるが藤氏を近親とし后腹でもある阿倍内親王の立太子により政治的なバランスをとる必要があったといえる。要するに聖武天皇がこの時点で安績立太子のような外戚の利害を無視し、政治的に不安定な状況をもたらす人事を強行することはありえない。聖武上皇の遺詔で道祖王が立太子されたが、道祖王の父新田部親王の母が藤原鎌足女でやはり藤氏と縁のある傍系皇親を選んだことでも明らなことである。聖武天皇と藤原氏のむすびつきは強いのである。
   本題に戻ると、阿倍立太子の時点では異母弟の安積親王が健在であること(既に述べたように瀧浪氏はこの時点で阿倍-安積という皇位継承を想定されている)、光明皇后が皇子を儲けるのは38歳(聖武と同年齢)という年齢的に難しくなったが、藤原氏女腹皇子誕生の見込みがまだあったので、阿倍内親王は立太子の時点で中継ぎを想定してよいと思う。
   いずれにせよ、天平十年の立太子例は特異な事例であること。天平九年の大疫癘にともなう社会的動揺と政権変動に対する対応、光明皇后という強力な皇后の存在という政治的背景があり、この特異な先例をもって現代において女性立太子を正当化できるものではない。阿倍内親王立太子の時点では、安積親王のほか、まだ皇子誕生の可能性があったほか、傍系皇親は多数実在しているから、現今のような皇位継承候補者が枯渇し血統的に袋小路の状況とは異なっており、そのような意味でも中継ぎと理解してさしつかえない。
   しかし即位の時点では聖武皇子はなく、聖武は出家されたので草壁皇統が血統的に袋小路の状況になった。いずれ傍系皇親へ継承することがわかっていながら、聖武天皇が陸奥産金の知らせに喜ぶあまり衝動的に出家され太上天皇沙弥勝満と称し国政を投げ出した状況で即位した。これが現今の状況に類似している。
 あってはならないことだが、現代で女帝即位となれば、現今の状況にもっとも類似しているのが、孝謙即位のケースである。したがって、女帝即位は生涯非婚独身が絶対条件、であることは当然として、女帝即位の是非は、孝謙女帝即位の評価の一点にかかっている。孝謙女帝の評価が全てである。結論を先に述べるとたとえ生涯非婚独身であっても現今の状況で女帝即位の正当性、論理性は全くない。この問題は長文になるので次回に回すこととする。
 
(註73)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「第一章光明子の立后とその破綻」29頁
(註74)岸俊男『藤原仲麻呂』吉川弘文館人物叢書 新装版 1987(初版1969)72頁
(註75)須田春子『律令制女性史研究』千代田書房1978「高野天皇」492頁

(註76)瀧浪氏の見解「‥(藤氏)四兄弟の急死という不測の事態のなかで、成長する安積を抑えるために取った措置であったとみるべきである。それはいつか安積の皇位継承を期待する聖武にとっても不都合でなかったと思われる」前掲書29頁
(註77)瀧浪氏の見解「‥嫡系相承にこだわる聖武にとって、安積よりも年長の阿倍を差し置いて、安積を皇位継承者とすることは到底考えられなかった。それは光明子とても同様であった」、『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社選書メチエ199 2000 
(註78)光明皇后の政治活動につき 井上薫「長屋王の変と光明立后」『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館1978 中林隆之「律令制下の皇后宮職(上)(下)」『新潟史学』31、32号 1993、1994

2005/09/10

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第7回

川西正彦(掲載 平成17年9月10日) 
 5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定
 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との根本的な違い
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
(以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性
(以上第6回掲載)
  〔6〕皇親内婚の男帝優先
  〔7〕女帝は皇統を形成できない
    イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義
       ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)
     ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである
          明正女帝
      後桜町女帝(以上今回掲載)
   

 次回予定
    二、阿倍内親王の立太子(天平十年史上唯一の女性立太子の特異性)

〔6〕皇親内婚の男帝優先
 
 既に述べたとおり、皇親女子は配偶者となる皇親男子をさしおいて即位することは絶対にない。皇親内婚における男帝優先は自明である。つまり、草壁皇子が早世し、所生の文武も早世したから元明が即位したのであって、草壁をさしおいて元明が即位することありえない。皇女を后妃とする傍系皇親が即位するケースは少なからず例があるが、傍系の継体(応神五世孫)が皇位を継承したのであって仁賢皇女の手白香皇女はあくまでも皇后である。傍系の光仁(天智孫白壁王)が皇位継承したのであって、聖武皇女井上内親王はあくまでも皇后である。近世でいえば傍系の光格(閑院宮典仁親王第六王子祐宮)が皇位を継承したのであって、前代の後桃園皇女欣子内親王はあくまでも皇后です。傍系皇親男子と、前代の直系卑属皇親女子との結婚では、男子皇親が皇位を継承し、直系卑属の内親王は皇后でなければならない。
 内親王を后妃とすることは皇位継承を正当化する決定的なものとは断定しない。しかし皇位継承を正当化しやすいとはいえる。光仁天皇が前斉王聖武皇女の井上内親王を皇后に立て、桓武天皇は井上内親王を母とする前斉王酒人内親王を妃(異母兄妹婚)とし、平城天皇が酒人内親王を母とする前斉王朝原内親王を妃(異母兄妹婚)した例は、継体、安閑、宣化がそれぞれ仁賢皇女を皇后に立てたことと類比する意義を有するとも考えられるだろう。又、内親王の立后が皇位継承の前提になっているケースも少なくないと思う。冷泉天皇、堀河天皇、二条天皇がそうだろうし、ほかにもあるだろう。なお冷泉天皇は傍系ではないが、皇太子時代に元服式の時点で朱雀天皇の唯一の皇子女である昌子内親王を東宮妃とされたのは、この皇統の正統化という意義があったとみてもよいのである。
 いずれにせよ、皇親内婚では皇親男子が傍系であれ直系であれ男帝優先である。いうまでもないことである。現今の女帝論議では、内親王が女帝として即位しても、結婚相手を王姓者(皇親)に限定すれば男系継承上問題ないという意見もあるようだが、私は大反対です。あくまでも伝統は男帝優先であり、前代の直系卑属が優先するわけではありません。この場合は、傍系王姓者(皇親)が即位し、内親王は皇后です。皇后というは、もともと皇女が原則であった、「しりへの政」(註61)という不確定概念ではあるが政治的権能を有し、持統や光明皇后にみられるように、皇権の一翼を担う、共同統治型の強力な皇后も歴史上存在したことからみて、皇后という身位で不足ということは絶対ありません。女性当主・女帝即位にしなければ気が済まないという考え方は大きな誤りです。
 継嗣令王娶親王条の皇親女子の内婚規則の趣旨から女系継承はありえないと再三述べましたが、男帝優先原則から、皇親女子の結婚相手である皇親男子をさしおいて皇親女子が即位することは絶対あってはならない。それが皇室の伝統です。
 
 〔7〕女帝は皇統を形成できない
 
 女帝は皇統を形成できない。この細節では生涯非婚内親王の女帝四方の即位の意義と問題点を考察し、私の意見を述べたい。なお聖武天皇即位詔と次回の孝謙女帝については瀧浪貞子説(註62)を主として引用したうえ私の意見を述べる(もっとも瀧浪貞子は毎日新聞2005年1月24日の「論点女性天皇どう考える」で古代女帝に関する持論を要約して述べ歴史に学ばない安直な議論を避けるべきだしとしつつも、女性天皇に賛同するというのである。瀧浪氏の持説からすれば女系継承に反対してよさそうだが、とてもがっかりした)。

 我が国の経済繁栄の基礎は奈良時代、元明・元正朝の貨殖富国政策にある(現今の状況で女帝即位は絶対的に反対であるということと歴史上の女帝の治績を讃えることは決して矛盾するものではない)。
 
  イ、生涯非婚独身女帝-元正即位の意義

 元正女帝(霊亀元年即位-715年)の詔勅「国家の隆泰は、要ず、民を富ましむるに在り。民を富ましむる本は、務、貨食に従ふ。故に、男は耕運に勤め、女はジム織を脩め、家に衣食の饒有りて、人に廉恥の心生ぜば、刑錯の化け爰に興り、太平の風到るべし‥‥」(霊亀元年十月七日条)。民を富ませることが国政の基本方針であることを述べ、人民に貨殖に励むよう諭し、勤勉に働くよう命じた。日本人が勤勉であるとされるのはたぶんそのためである。又、徹底した文書主義による律令国家収取体系が確立したのは元正女帝の養老年間とみなされているから、国家財政を確立したのは元正女帝である。百万町歩開墾計画や三世一身法を施行したうえでの譲位であるから、私のような素人目にみても経済・財政重視の政策を遂行し、ぶれのない統治者と高く評価できる。素人目からみて仏教依存傾向が強く、陸奥産金の報らせに狂喜して衝動的に出家され国政を投げ出したともいわれる聖武天皇よりも安定的で堅実な統治者と評価できるだろう。
 律令国家は天譴思想や徳治思想により天皇に政治責任を要求する。そのような意味では現代の「象徴」という在り方とは違った意味で、君主に厳しい試練がある。元正朝においてはとくに元明上皇崩後、政権の動揺があったが、女帝はそれを乗りきった。井上亘によれば、元正女帝は、天意に自己を向き合わせて刻苦自勉し、人事においては「万方辜有らば、余一人に有り」「向隅の怨、余一人に有り」という深い自責をもって「仁恕之典」を施行した。また「面従して退き、後言有ること無かれ」と政治批判にも耳を傾け、実情を把握すべく「極諫」を求めた(註63)。国家のトップであれ企業のトップであれ、耳にしたくない悪い情報も把握しなければ裸の王様だ。当然のことだと思います。元正女帝は統治者の資質として優れていたことは明白であります。また春名宏昭によれば元正は譲位後も太上天皇として国政の総覧者、天皇大権の掌握者だった(註64)とされる。
 
しかしながら元正朝の基本的性格は、あくまでも甥にあたる皇太子首皇子(聖武)が成長するまでの中継ぎであることは、自明なのであります。むろん聖武即位後も上皇として国政の総覧者であったから、聖武の後楯としての位置づけもあったかもしれないが、中継ぎにすぎないことは自明であります。

 元明女帝の和銅七年(714)六月に首皇子(のち聖武天皇)が立太子、元服を加えた、翌霊亀元年正月一品を授けられ、九月二日(庚辰)元明女帝の譲りをうけて即位した。

天皇、位を氷高内親王に禅りたまふ。詔して曰はく「乾道は天を統べ、文明是に暦を馭す。大いなる宝を位と曰ひ、震極、所以に尊に居り。(中略)今、精華漸く衰へてむくいわく耄期斯に倦み、深く閑逸を求めて高く風雲を踏まむとす。累を釈き塵を遺るること、脱シに同じからむとす。因てこの神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼く稚くして深宮を離れず、庶務多端にして一日に万機あり。一品氷高内親王は、早く祥符に叶ひ、夙に徳音を彰せり。天の縦せる寛仁、沈静婉レンにして、華夏載せ佇り、謳訟帰くところを知る。今、皇帝の位を内親王に伝ふ。公卿・百寮、悉く祗み奉りて、朕が意に称ふべし」とのたまふ。(註66)

 元明女帝は政務に疲れたので、皇太子に譲りたいが、まだ幼稚であり、一日に万機ある政務決裁能力に疑問ということだろうが、聡明であり沈着冷静、政務決裁能力のある元正に、皇太子が成長するまで中継ぎとして、皇位を継承させるという趣旨であろう。

 当時、皇太子首皇子が15歳で、文武天皇が15歳で即位した例からみて、年齢的に支障はないはずという見解があるが、そう思わない。文武即位は、持統上皇との共治体制であり、文武天皇には強力な共同統治者が存在したからこそ15歳で即位できた。もし、元明から直接首皇子に継承されると、祖母から孫への継承となり一世代飛び越えてしまう。 これは、持統から文武への継承と同じことではあるが、結果的に元明が即位せざるをえなかったように、やはり一世代飛び越すのは皇位の安定的継承という観点から問題がある。
 もし首皇子が后腹なら先帝皇后が後見者であってもよいのだが、文武は皇后を立てなかった。首皇子の生母、夫人藤原宮子は后位にのぼせられてなかったし、「久廃人事」という重い鬱病で無力な存在であり、伯母にあたる元正女帝の中継ぎと後楯が必要だったということだと思う。聖武生母藤原宮子が宮廷における求心力がなく、皇太夫人として政治力を発揮することが全く期待できないこと。聖武のように非王姓腹の天皇は大友皇子を除けば崇峻以来であり王権の安定的継承という観点で、首皇子には母后の後楯がないに等しく、伯母にあたる元正の後見は必要だったと考える。そこで文武皇姉の氷高内親王が生涯非婚独身であることを前提として即位したのだろう。 むろん、舎人親王や新田部親王といった天武皇子が中継ぎとして即位してもよいわけだが、それでは軋轢を生じて、皇太子への直系継承路線が破綻しかねないし、王権の安定的継承という観点では伯母にあたる非婚内親王の中継ぎがベストという判断によるものだろう。
 
   
  ロ、聖武天皇即位詔の意義(「皇統」から除外されている元正女帝)

女帝は皇統を形成できない。それは神亀元年二月四日聖武天皇即位詔の論理で明白なことである。
二月甲午、禅を受けて、大極殿に即位きたまふ。天下に大赦す。詔して曰はく、「現神と大八洲知らしめす倭根子天皇が詔旨らまと勅りたまふ大命を親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆聞きたまへと宣る。
高天原に神留り坐す皇親神魯岐・神魯美命の、吾孫の知らさむ食国天下と、よさし奉りしまにまに、高天原に事はじめて、四方の食国天下の政を、弥高に弥広に天日嗣と高御座に坐して、大八嶋国知らしめす倭根子天皇の、大命に坐せ詔りたまはく、「此の食国天下は、かけまくも畏き藤原宮に天下知らしめししみましの父と坐す天皇の、みましに賜ひし天下の業」と、詔りたまふ大命を、聞きたまへ恐み受け賜はり懼り坐す事を、衆聞きたまへと宣る。
「かく賜へる時に、みまし親王の齢の弱きに、荷重きは堪へじかと念し坐して、皇祖母と坐ししかけまくも畏きは我が皇天皇に授け奉りき。此に依りて是の平城大宮に現御神と坐して大八嶋国知らしめして、霊亀元年に、此の天日嗣高御座の業、食国天下の政を朕に授け賜ひ譲り賜ひて、教へ賜ひ詔り賜ひつらく、『かけまくも畏き淡海大津宮に、御宇しめしし倭根子天皇の、万世に改るましじき常の典と立て賜ひ敷き賜へる法の随に、後遂には我が子に、さだかにむくさかに過つ事無く授け賜へ』と負せ賜ひ詔り賜ひしに、坐す間に去年の九月、天地のたまへる大き瑞物顕れ来り。また四方の食国の年実豊にむくさかに得たりと見賜ひて、神ながらにも念し行すに、うつくしくも皇朕が御世に当りて顕見るる物には在らじ。今嗣ぎ坐さむ御世の名を記して応へ来りて顕れ来る物に在るらしと念し坐して、今神亀の二字を御世の年名と定めて、養老八年を改めて神亀元年として、天日嗣高御座、食国天下の業を吾が子みまし王に授け賜ひ譲り賜ふ」と詔り賜ふ天皇が大命を、頂に受け賜はり恐み持ちて‥‥‥(後略)」(註66)

 早川庄八の口語訳(註67)は「高天原にまします皇祖の男神・女神が、わが子孫の統治すべき食国天下であると子孫に委ねられたままに、高天原に事をはじめて以来、四方の食国天下のマツリゴトをいよいよ高くいよいよ広く、皇孫として天皇位にあって大八嶋国を統治してこられた倭根子天皇、それが元正天皇です。その元正天皇が聖武天皇にこういいました。『この食国天下はかけまくもかしこき藤原宮で天下を統治していた、ミマシの父であられる天皇(文武天皇のことです)が、ミマシに賜った、神意に沿って治めるべき天下である』と。そのようにおっしゃるオオミコトを、自分(聖武)はお聞きなって恐懼していることをみんな聞け」というのが第一段。
 元正上皇が聖武天皇に語ることばはさらに続いて(ここからは直の引用ではありません)、「文武天皇はミマシ親王(首皇子-当時7歳)が年少で荷が重いことは堪えられないだろうと思って皇祖母(皇族女性尊長)の元明天皇さらに霊亀元年、朕(元正)に天つ日嗣高御座の業(天皇位)、食国天下の政(国土統治権)を授けられ譲られたのだが(この時点で首皇子は15歳)、そのとき母元明は『天智天皇の不改常典に従って法の随に、天皇位と統治権を吾が子(孫だけれども吾が子)に確実に過つなく授けなさい』とお命じになったので、朕が在位している間に、昨年の九月大瑞物(白亀)が顕れ、四方の食国(畿外の国郡)も実り豊かであることから、このめでたいことは、朕の御世にあたってあらわれたものでなく、これから天皇位を嗣ごうとなさっているかたの御世の名を記して応えようとしているものだろうと思って、いま神亀の二文字を御世の名と定め、養老八年を改めて神亀元年とし、天つ日嗣高御座(天皇位)、食国天下の業(国土統治権)を吾が子(甥であるが吾が子)であるミマシ王に授け譲る」

「此食国天下者、掛畏藤原宮天下所知、美麻斯父坐天皇美麻斯賜天下之業」(此の食国天下は、かけまくも畏き藤原宮に、天下知らしめしし、みましの父と坐す天皇の、みましに賜ひし天下の業)この食国天下はあなたの父である文武天皇があなたに賜った天下であるという元正上皇の仰せであります。
 「不改常典」の意義については諸説あり定説はないと思うが、瀧浪貞子は「不改常典」についてこう解説している。「一つは皇位の継承を大きく制約する結果をもたらしたことである。すなわち八世紀では嫡系継承は社会的な慣行ではなく、極端にいえば、皇位継承者は皇胤でさえあればよかった。兄弟継承や時には遠い皇親の即位がみられた理由である。それが皇位が草壁系に独占されたことにより、草壁系(皇統)以外は正統な継承者ではないという観念-皇統意識を生み出した。つまり皇位の継承に皇統という要素が加わってきたわけである。‥‥二つには、拠り所にされた「不改常典」の論理は、右にいう皇統から女性を排除し、女帝の立場を著しく制約する方向で作用したことである。‥‥文武以後の皇位は、文武-元明-元正-聖武へと継承されたにもかかわらず、元明は元正に対し、皇位(厳密にいえば皇統)は文武から聖武に継承されるのだ。と述べている。とくに元正は草壁の子でありながらその皇統から除外されている。けだし嫡子が男子に限られた皇位継承=嫡系継承を実現するためには、女子は単なる皇位の保持者=中継ぎに徹せざるをえなかったのである。黒作の太刀が女帝を経ず、草壁-文武という、いわゆる草壁皇統に伝授され、それで終わったことの意義もあらためて理解されよう」(註68)。
 
 つまり「不改常典」において女帝は皇権を継承できるが、皇統を形成できない。非婚内親王だから皇統を形成できないのは自明だが、「皇統」からも除外されているのであるから、女系継承がありえないのは明白なことである。「不改常典」については諸説あり、必ずしも嫡嫡継承、直系継承をさすものという固定観念を私はもっていないが、私は瀧浪氏が説明している「皇位(厳密にいえば皇統)は文武から聖武に継承される」という論理は「不改常典」の解釈に限定することもなく、「不改常典」の解釈いかんにかかわらず皇位継承における男系継承の論理とみなしても大きな誤りはないと思う。少なくとも実際には文武-元明-元正-聖武と継承されているにもかかわらず文武から聖武に継承されると言い切っているわけだから、女帝の中継ぎは男系主義的脈絡で理解する以外にない。
 要するに元正女帝は、天武皇子で皇親年長者の舎人親王と新田部親王を皇太子首皇子の輔政者と位置づけ首皇子を支える万全の態勢をしいて、元明上皇崩後の政権の動揺があったがこれも乗り切ったうえで譲位されたのですが、あくまでも元明の命令は中継ぎであるからその役割に徹したのだし、だからこそ、禁欲的な非婚独身の女帝であったのであります。皇統はあくまでも、草壁皇子(即位していないが正統の皇位継承予定者である)-文武-聖武と継承されたのであって、女帝は一時皇権を預かっていただけという解釈でよいと思います。

 ハ、生涯非婚内親王は全て中継ぎである

 生涯非婚の女帝の即位の経緯を分析すると、即位の時点で直系継承のための男帝への中継ぎとしての性格が明白なケースが三例(元正・明正・後桜町)である。
 元正天皇は、皇太子首皇子の成長までの期間、草壁皇統直系継承のための中継ぎとして即位したことは『続日本紀』神亀元年二月、聖武天皇即位詔などで明白であることは上記に述べたとおりである。焦点は孝謙女帝の評価になるが次回に回し、天平十年の阿倍内親王立太子は特異な例であるが、この時点では安績親王が健在だったことと、藤原氏女腹皇子誕生の見込みがまだあったので、中継ぎを想定してよい。その前に近世の女帝についても言及しておこう。
 
 
 明正女帝
 
 明正女帝のケース(寛永六年践祚 1629年)は父帝後水尾に皇子がない時点での譲位受禅でありきわめて異例の皇位継承だが、しかも幕府に無断で譲位を強行したことによる政治的波紋が大きくかなり特異なケースといえるが、結論としては中継ぎである。
 後水尾天皇は幕府の対朝廷強硬策への憤懣が募っていたようだ。天皇が即位して数年後元和元年「禁中並公家諸法度」が幕府によって作られましたが、天皇の御行動がそういうものによって拘束されるというのは未曾有のことであった。とりわけ寛永四年に徳川幕府が紫衣勅許と上人号勅許の事実上無効を決定した事件があり、寛永五年八月に譲位を表明したが、幕府は慰留した。しかし寛永六年(1629年)五月再び譲位の意思を公卿等に覚書として示した。それは小槻孝亮の日記に記載されているが、数年来の疾病が悪化し腫れ物もできており治療に専念したいので譲位したいこと「女一宮に御位あづけられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」とあり(註69)、そのとおり異母弟の後光明に皇位は継承されたので、やはり直系継承のための中継ぎとみるべきである(後水尾は譲位の時点で34歳)。譲位の意思は幕府に伝えられたが、大御所秀忠、将軍家光ともに時期尚早として認めていない。
 同年十月に将軍家光の乳母ふくが上洛し、これは譲位の理由となっている疾病が本当なのか偵察ともいわれているが、無位無官の身で拝謁し天盃が授けられ春日局の名号を許されている。荒木敏夫によれば、後水尾は屈辱的な対応を強いられ憤懣がピークに達したようだ(註70)。
 中宮源和子(徳川秀忠女)所生女一宮7歳は未定名号の状態だったが、春日局が上洛中の十月二十九日内親王とする宣下が下され興子内親王となった(中世以降、未定名号のままの皇子女も少なくなく、とりわけ南北朝時代以降、内親王位が消滅した時期があり、皇女は比丘尼として比丘尼御所に入室し身を処す時代となっていた。女一宮は后腹で、しかも徳川秀忠を外祖父としているから内親王宣下は当然なのだろうが、この時点で内親王践祚は予測されていない)。
 十一月八日早朝突如公家衆に束帯を着けて直ちに参内せよとの触れがまわり「俄の御譲位」が決行された。このことは中御門宣衡以外誰も事前に知らされておらず、幕府の同意もなく、しかも幕府の嫌悪する女帝践祚が強行されたことで異例中の異例であった。
 京都所司代板倉重宗が内親王践祚の情報を得たのは八日申刻であるが「不慮俄御譲位、中々廃亡、言語道断」と驚きを隠さず、九日急報の飛脚が発するとともに、江戸表の指示があるまで上皇を軟禁し、これ以上の皇位継承儀礼の凍結を暗に要請するが、上皇の決意は固く女院号定めなどが強行されたのである。
 十二月一日に所司代重宗は武家伝奏を召還し、「江戸両御所、何之故御譲位候哉、一端不審可被申候間、如何様御事にても御返答覚悟、公私共肝要事候」という、大御所秀忠、将軍家光の不快感と疑惑を告げ、幕府儒官林羅山の女帝践祚に否定的な見解が披瀝され、連日のように緊迫した朝幕交渉がなされた。今谷明(註71)によると幕府は自らの権威失墜となる無断践祚の女帝出現を阻止すべく、女帝践祚の既成事実を認めずに、後水尾の復位と、内親王を皇位から「おろし参らす」可能性を探るため、懸命の説得がなされたのだという。
 しかし、京都で情報を収集していた前豊前小倉城主細川三斎(忠興)の践祚取り消しが不可能という書状もあり、幕府は十二月下旬には復位工作を断念した。今谷明は明正践祚は近世の朝幕関係でも重大事件であり、「承久以来は武家より計らい申す」と言われて定着していた公武協議による皇位継承の伝統の明瞭な背反を是認したことにより、徳川秀忠が京都朝廷に全面的に屈服した政治的意義のあるものと評価されている。むろん後水尾天皇の腫れ物の持病については、毎朝暁、水ごりをとって神拝するという、天皇にとってが大切な神事がままならないほど悪化していたという見方もあるが、一方、単純に言ってしまえば、俄御譲位-明正践祚は幕府に対するあてつけというか意趣返しのような政治行為のようにも思える。

 後桜町女帝
 
 後桜町女帝のケース(宝暦十二年践祚 1762年)は、一歳年下の異母弟である桃園天皇が22歳の若さで崩御になられたうえ、忘れ形見の英仁親王(のち後桃園天皇)が5歳と幼少であるため「暫ク御在位在ラセラル様ニ御治定」と壬生知音の日記にあるように、儲君英仁親王が成長するまでの中継ぎとしての性格が明白である(註72)。皇位継承予定者の伯母が中継ぎという点では元正のケースに類似する。
 あえて女帝即位はそれなりの事情があった。ひとつは、中御門上皇が32歳、桜町上皇が31歳、桃園天皇が22歳と若くして崩御になられたため、上皇不在の状況で幼帝即位が連続することは朝廷運営において望ましいことではなかったこと。決定的には宝暦事件(竹内式部一件)の教訓である。宝暦六年、桃園天皇の近習徳大寺公城が天皇に竹内式部の進講を勧めたが、垂加流神道説に傾倒する天皇近習ら一部公家衆の行動は、摂家衆に多大な不安を与え、桃園養母青綺門院藤原舎子の諫めにより中止されたが、桃園天皇は漢学に造詣深く、向学心旺盛で、すこぶるこの神道説に傾倒されていたため、これが不満で、進講再開をめぐって状況は一転、二転し、宝暦八年七月、摂家衆は相計り、主立った近習(徳大寺公城、烏丸光胤、正親町三条公積、坊城俊逸、西洞院時名、高野隆古ら)が処罰された。徳大寺らは天皇に取り入り、朝儀を勝手気儘に運営しようとし、関白をはじめとする摂家や武家伝奏、議奏を天皇から遠ざけるよう画策したということが処罰理由とされているが、この事件は近習衆の台頭により、天皇と摂家の対立が先鋭化した事件といえるだろう。その三年後に天皇は急に崩ぜられたが、緋宮智子内親王践祚は、摂家衆の密議で決定され、関白近衛内前が摂家衆の総意として皇室の尊長である青綺門院藤原舎子に伝え、女院は英仁親王への皇位継承を望んだが、結局関白の説得で承認したものである。久保貴子は、宝暦事件により公家社会に動揺が残っていて、朝廷内が不安定な時期に英仁親王を天皇に立てた場合、その周囲の環境に自信がもてなかったのではなかろうかとの見解である(註73)。後桜町生母が関白二条吉忠女青綺門院藤原舎子で、明正女帝の先例もあり、暫くは智子内親王の中継ぎが政情安定のためには無難であるという政治判断によるものだろう。
 
   
(註61)井山温子「『しりへの政』その権能の所在と展開 」『古代史研究』13 1995
 田村葉子「『儀式』からみた立后儀式の構造」『國學院雑誌』99-6 1998
(註62)瀧浪貞子の次の著書を参照した。『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991のⅠ皇位と皇統、『最後の女帝孝謙天皇』吉川弘文館歴史ライブラリー44 1998、『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社選書メチエ199 2000、「孝謙・称徳天皇-「不改常典」に呪縛された女帝-」『東アジアの古代文化』119、2004・春(特集日本の女帝)、『女性天皇』集英社新書0262D  2004、
(註63)井上亘『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館 1998「元正政権論」85頁
(註64)春名宏昭「太上天皇制の成立」『史学雑誌』99編2号1990
(註65)『続日本紀 一』新日本古典文学大系岩波書店
(註66)高天原以下 早川庄八『続日本紀(古典講読シリーズ)』岩波セミナーブックス109 1993 143頁以下
(註67)早川庄八 前掲書 143頁以下
(註68)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「孝謙女帝の皇統意識」81頁。なお『帝王聖武 天平の勁き皇帝』講談社選書メチエ199 2000 94頁、『女性天皇』集英社新書0262D  2004 142頁にも同趣旨の見解を述べておられる。
(註69)荒木敏夫『可能性としての女帝』青木書店 1999 271頁
(註70)荒木敏夫 前掲書 275頁以下
(註71)今谷明「明正践祚をめぐる公武の軋轢」『室町時代政治史論』塙書房2000所収
(註72)荒木敏夫 前掲書 286頁
(註73)久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院1998「第五章上皇・天皇の早世と朝廷運営」215頁

つづく

2005/09/03

女帝即位絶対反対論 (皇室典範見直し問題)第6回

5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定 

 (1)継嗣令王娶親王条の意義
 (2)天武と持統の婚姻政策の違い
 (3)持統朝の政策転換にもかかわらず皇親女性の皇親内婚規則は不動
 (4)宗法制度との違い   
(以上第4回掲載)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ              
 (以上第5回掲載)
  〔4〕諸説の検討
  〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性

               (以上今回掲載)

川西正彦-平成17年9月3日

承前。悠長なことを言っている場合じゃないだろとお叱りを受けるかも知れないが、出遅れたのは仕方ないし、本心はかなり焦っているわけですが、自分としてはマイペースで先方の論点をひとつづつ潰していくしかないので、あまりのテンポの遅さにイライラさせて閲覧者の方には申し訳ないが、絶対反対論はほぼ予定どおり掲載していきたいと思います。

〔4〕諸説の検討

 継嗣令皇兄弟子条、「女帝子亦同」の本註について先行学説としては、成清弘和説(註32)米田雄介説(註33)しか読んでいなかったのですが、高森明勅説(註34)を受けた論説としては、最近、中川八洋氏の著書(註35)における高森明勅氏批判と、既に第5回の註24で触れていますが、名指ししないものの5月31日有識者会議に呼ばれた八木秀次氏、6月8日有識者会議に呼ばれた所功氏の見解(註36)を首相官邸のウェブサイトで読みました。所功氏は女帝即位女系論者である。高森氏の次に所氏の立論を批判することが肝要と考えるので、所氏の見解(特に皇室典範12条の改変に言及されている点重大なので)を批判しなければなりませんが、それは別途として、継嗣令皇兄弟子条の解釈に関する限りわかりやすいし、所功は女帝即位女系容認論者ではあっても継嗣令皇兄弟子条を女系継承の論拠とはできないことを明確に述べていますので、まず引用します。
 
「‥‥この「女帝の子」というものは何を意味するかということです。明治18年(1885年)に小中村清矩という先生が「女帝考」という論文を書かれまして、その中で「女帝未ダ内親王タリシ時、四世以上ノ諸王ニ嫁シテ……生レ玉ヒシ子アラバ、即位ノ後ニ親王ト為スコトノ義」と解釈されております。
  つまり、「女帝の子」と言っても、決して女帝になられてからのお子さんということではなくて、それ以前にお生まれになった方、具体的には皇極天皇が初め内親王として高向王(用明天皇の孫)と結婚されまして、その間に漢皇子という諸王が生まれています。そのような方も母の内親王が即位されることによって親王の扱いを受けるという意味に解しておられます。
 確かに、私も大宝前後の実情と照らし合わせてみれば、女帝が即位後に結婚もしくは再婚して御子をもうけられ、その御子が続いて即位するという、いわゆる女系継承まで容認した、もしくは予想したものとは考え難いと思っております。
  ただ、仮にそうだとしましても、この「継嗣令」の規定では、内親王が結婚できるのは4世以上の諸王、つまり皇族でありますから、それでも男系継承は維持されるということになろうかと思います。
 いずれにしましても、注記であれ、「大宝・養老令」に「女帝」の存在が明記されていることの意味は大きい。ただ、これを根拠にして、「女帝は男帝と何ら変わるところのないものとして日本律令に規定されてきた」とまでみる説は、やはり言い過ぎであろうと存じます」
 上記引用した部分に限定したうえで所氏の見解に同意する。(敏達曾孫の宝皇女は内親王ではないと思うがそれは些末なことである)。
  
 次に女帝問題とは無関係な論文だが、米田雄介説(註37)。正倉院事務所長などを歴任している歴史家です。
「「女帝子亦同」とあることから男帝・女帝の区別はなく、したがって男系・女系の区別がないと考えられるかもしれないが、もともとこの文言は日本令の元になった唐令には見えず、大宝令の制定当時のわが国の現実を踏まえて挿入されたもので、本質的には男系主義であったと考えられる」とする。
 結論に同意するが論拠を具体的に述べていない。
 
 次に中川八洋氏の見解ですが(註38)、細部において疑問点がないわけではありませんが、総じて賛同します。高森明勅のいう「明治以前における双系主義の制度的枠組みを確認した」という空前絶後の嘘、虚構の奇説と論じておられるなど、全く同感である。また平安時代以降、「親王宣下」が無ければ皇子ですら、親王になりえない制度になったこと。継嗣令の当該条文は無視されており、空文化していることを述べてますが重要な論点を突いている。筆者も同感です。高森明勅は意図的に皇親の範囲を四世王までに限定する皇兄弟子条を殊更強調する趣旨に出ているように思える。
 慶雲三年の格制は皇親の範囲を五世まで拡大し、五世王の嫡子は王を称しうるとし、さらに天平元年には五世王の嫡子が孫女王を娶って生んだ男女は皇親の中に入れることとした。但し延暦十七年に令制に復帰しているので問題としないが、弘仁五年に親王宣下、内親王宣下、源氏賜姓が創始され、親王位が生得的概念ではなくなり天皇の意思で授与される制度になったこと。平安後期には孫王でも親王宣下をうけて親王になれたこと。さらに中世以降の世襲宮家のように、代々親王宣下をうける例がある。一方中世においては未定名号のままの皇子女も少なくなかった。歴代天皇の親王宣下の年齢についても嫡流、有力な皇位継承候補者は1歳で宣下されるが、例えば後深草、亀山、後伏見、光厳は1歳で親王宣下されているが、傍流で当初は皇位継承候補でもなかった後醍醐(尊治親王)は15歳であった。また後嵯峨や後光厳などのように、践祚当日の元服まで未定名号で諱すらなく親王宣下もなく践祚の例もある。室町時代になると内親王位は消滅し皇女は「比丘尼御所」に入室した。このように皇親の概念は明らかに変化しており、皇親の範囲を大化前代より限定したものと解釈されている皇兄弟子条の皇親概念は決して通史的に一貫したものではなく、むしろ令意に反する時代のほうが長期に及んでいることも考慮しなければならない。


 次に成清弘和氏の見解ですが、現今の女帝問題とは基本的に無関係で、純粋に古代史の論文である。解釈というよりも、令の規定に女帝という語が唯一登場するのが継嗣令皇兄弟子条であることに着目され、朱説が古記を引用していることから大宝令にも本註が存在したことを述べたうえで、「文武というよりも持統太上天皇の影響力が強かったであろう律令政府は、女帝を間欠的で、かつ異常な政情を一時的に回避する不安定な制度ではなく、安定した制度として法規定に定着させようとした」(註39)とする意義があるという見解である。
 それはそうかもしれないから成清説を一概に否定はしない。中国でいえば、帝嗣未定で皇帝が亡くなると、帝嗣策定決裁者は、夫婦一体の原則から先帝の徳を分有する先帝皇后が有し、年少の皇帝が即位せざるを得ない場合は先帝皇后が権力を掌握する。漢代の太后臨朝(註40)、宋代の太后垂簾聴政(註41)がそうである。我が国の場合も藤原基経や忠平が摂政を辞するときの言上や上表からみて「太后臨朝」「太后称制」が一種の正統な政治形態と理解されていたのだろうが(註42)、日本の場合は中国的な意味での太后臨朝は根付かなかった。皇后が原則として皇女、皇親女子であるため、臨朝称制のみならず即位が可能なのである。後漢などは太后臨朝のケースが多く、外戚政治となったが、わが国は女帝即位が可能なので外戚政治に依存することもない利点があったし、たんに幼帝回避ではなく、皇位継承争いの権力抗争の緩衝剤としての意義も認められるので、女帝を法規定に定着させようとしたという見解を全面的には否定しない。
 しかし、後世においては摂関政治や院政によって、幼帝即位でも太后臨朝や女帝即位の必要もなく安定的に皇位継承が可能なシステムができたわけだし、近代国家においてはそもそも皇位継承争いを想定しておらず、権力抗争の緩衝剤として女帝が即位する理由はなく、仮に成清説を肯定するとしても、現今の状況で女帝を是認する理由にはならない。 
 
 また一方で、成清弘和は女帝が非婚でなければならない理由について妊娠出産という女性生理が宮中祭祀に抵触すると観念されていたと推定されていることは、参考になる意見である。その根拠として神祇令散斎条の「不預穢悪之事」に対する古記の「問。穢悪何。答。生産婦女不見之類」を例示している。「つまり、仮に、女帝が妊娠し出産することとなれば、この禁忌に触れ、宮中祭祀に支障が生じることにより重大な問題となる」(註43)。この趣旨からも、女系継承はありえないといえるだろう。

 この論点と関連していうと、所功は6月8日の有識者会議において原武史「女帝論議のために」朝日新聞2005年2月7日夕刊の見解を批判し「最近、もし女性天皇になったら、新嘗祭などの宮中祭祀ができないというようなことを言われる方があります。けれども、それは大変な誤解であります。現に、宮中では女性の内掌典などが奉仕しておられますし、また過去、新嘗祭以上に重要な大嘗祭がちゃんと女性天皇の下で行われてまいりました」と述べているが、重大な論点だが、質問もなかった。
 しかしこれは、所功が有識者会議に出した論文「皇位継承の在り方に関する管見」の13頁(26)を読むと「何となれば古代以来の「斉王」も戦後の「祭主」も、現に宮中三殿奉仕の「内掌典」も全て女性である‥‥」(註44)と述べているように、一般論と、不婚即位の歴史上の女帝の大嘗祭に言及しているだけで、女帝の妊娠・出産を想定した場合に踏み込んでの見解ではなく、所氏がこの問題を解決しているわけではない。
 私は素人ですが、非婚内親王の即位なら、祭祀に関しては問題ないかもしれないが、古記に「問。穢悪何。答。生産婦女不見之類」とある以上、結婚を前提した女帝即位はやはり支障があるのではないか。
 
 又、成清説は孝謙・称徳女帝は、中継ぎではなく、男帝と何ら異なることのない真の女性天皇と評価されるが(註45)かなり問題だ。称徳朝については敵対勢力を実力で打倒し排除したうえでの政権掌握であり、左大臣藤原永手が腹心で近親、右大臣吉備真備が阿倍内親王の東宮大夫兼東宮学士で、東宮時代から近臣でもあったように、左右大臣を近臣で固め、上皇も三后も皇太子も不在であったから、天皇に権力が収斂された強力な体制であることを認めるが、皇太后との共同統治であった孝謙女帝については、皇権のシンボルである鈴璽(鈴印契)を女帝が掌握していないことなどからみても真の意味での天皇大権を掌握したのは淳仁-仲麻呂派との奪権闘争に勝利した後であるから、そのような積極的な評価はできない。孝謙女帝の評価は後に詳しく検討する。
 総じていえば成清説は女帝を法規定に定着させようとしたという説であってそのような脈絡において、高森説のように女系継承を容認したという「虚構の奇説」とは違う
 以上、いずれにせよ、先行学説の引用としては少なかったが、高森説のような継嗣令の意図的に歪められた解釈はきわめて異色のものであるという認識でよいわけである。

 むしろ継嗣令の意義は傍系継承がスムーズに合理的に実現することにあったとみるべきではないかというのが私の意見である。「女帝子亦同」の本註問題から離れるが、、第5回に述べた筧敏生の見解(註46)を重視したい。『古事類苑』『皇室制度史料』が孫王(二世王)身分から即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げを、弘仁五年以後の親王宣下制度(註△)の嚆矢とみなしている(戦前の皇親制度の総括的研究である竹島寛の『王朝時代皇室史の研究』も同様)点を批判され、大宝令の注釈書で天平十年(738)に編纂された「古記」の注釈で「未知。三世王即位、兄弟為親王不。答。得也」とあることから、傍系二世王から即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げは、特別の措置ではなく、継嗣令皇兄弟子条の適用であるとされる。そうすると従来の研究者が古記を見落としていたことになり、重要な発見であったと思う。
 つまり、皇位が傍系に移っても自動的に諸王が親王に格上げになる制度であること。令制本来の在り方としては(たぶん、少なくとも実態面からみて)、傍系継承で傍系皇親が前代の猶子となる必要はない。そのような直系継承の擬制は本来必要なかったということである。ここでは傍系親の絡む皇位継承について奈良時代から南北朝まで要点のみ言及する。
 淳仁、光仁、光孝即位のケースで明らかなように直系継承の擬制はなされていないとみてよい。淳仁天皇(大炊王)の立太子は聖武上皇崩後にもかかわらず、聖武の皇太子とされていたのであるが(『続日本紀』天平宝字三年六月庚戌条)、孝謙上皇の反対にもかかわらず光明皇太后の決裁で淳仁天皇の先考舎人親王に崇道尽敬皇帝号の謚号を贈り、生母当麻山背に大夫人号など舎人親王系皇統の創成を図っている(註47)。つまり聖武の草壁皇統の猶子ではなく、あくまでも天武-舎人親王-淳仁という皇統を創成して皇位継承の正統化が図られている。先考舎人親王の皇帝号追号は、淳仁の兄弟姉妹、船王、池田王、室女王、飛鳥田女王の親王格上げの前提になっているようにも思えるので、直系継承の擬制がなくても皇位継承されるとみてよいだろう。孝謙上皇にしてみれば草壁皇統正統意識が強いし、そもそも舎人親王は新田部親王とともに養老三年十月の元正女帝の詔により皇太子首皇子(聖武)の補佐を受け持つこととされたのだから、一品親王といっても上皇にとってみれば家臣みたいなもので我慢ならないものがあったのだろうが、単純に草壁皇子系皇統から舎人親王系に移行としたと理解するほかない。
 関連して舎人親王の孫で天武曾孫(三世王)の和気王(父は御原王)が臣籍から皇親に復帰したことについても一応ふれておくと(註48)、天平勝宝七年、岡真人賜姓、任因幡掾、いったん臣籍に降下したが、天平宝字二年、舎人親王に崇道尽敬皇帝号が追号されたことにより、二世王として属籍を復し、従四位下、同八年参議従三位兵部卿にのぼりつめた。であるから追尊皇帝号による新たな皇統の形成は重要な意義がある。仲麻呂(恵美押勝)の乱の後、淳仁の兄弟、船親王は隠岐、池田親王は土佐配流となったが、和気王は、仲麻呂の謀反を密告するなどの功績により、天平神護元年功田五〇町を賜った。しかし謀反が発覚し、死を賜った(伊豆配流の途中絞殺)。角田文衛がいうように、「有力な皇親を殺戮したり、追放したりするのは古典帝国の皇帝の宿命であり(中略)称徳女帝に至っては、崩御の日に至るまで強大な権力をもった手のつけられない女帝であったのである」(註49)。

 次に光仁天皇(白壁王)即位であるが、宝亀元年十一月詔により先考施基皇子に天皇号を追贈(御春日宮天皇)、墓を山陵に改め、田原天皇とも称された。光仁生母紀橡姫は贈皇太后、光仁の兄弟姉妹皇子女は親王に格上げとなった。天智-施基皇子系皇統を正統化するものである。ただ聖武皇女井上内親王が皇后に立ち、天智系に移行しても女系で聖武に繋が他戸親王が立太子(翌年正月)されたが、宝亀三年に他戸は廃位され、異母兄山部親王(桓武)の立太子により、聖武とは女系でも繋がらなくなったが、むろん井上内親王を妻としていたことは、皇位継承に有利であったが、それが決定的ではなく、直系継承の擬制はないとみてよいだろう。いずれにせよ、たんに実態面からみても男系主義の脈絡からみて光仁の兄弟・姉妹と皇子女の親王格上げの意義は大きく、継嗣令皇兄弟子条は少なくとも男系への傍系継承をスムーズにする意義を認めてよいのである。
 光孝(仁明皇子時康親王)即位のケースは事実上藤原基経が陽成廃黜、光孝擁立を断行したもので、光孝は皇太子にも立っていないので直系継承の擬制はない。というより陽成上皇復辟の可能性を潰すために、あえて皇親長老格の一品式部卿仁明皇子時康親王が即位し(なお、この時点で最長老としては嵯峨皇子秀良親王が在世されているが、親王は承和の変で恒貞廃太子後皇位継承に意欲を示したため失脚したという説がある)、光孝天皇は承和の旧例に復すことを方針とした。
 光孝天皇は表向き皇子女が親王時代の所生であることを理由に44人すべて臣籍に降下した。このことから光孝が一代限りの即位という位置づけだったという説もあるが、たぶんあらたに44人の親王を支えるには財政的に苦しいことと、藤原基経を憚ってのものだろう。
 光孝皇子源定省が幸運にも後宮女官藤原淑子や橘広相の奔走により登極が実現した。宇多天皇即位により、光孝の皇子女は宇多と同母(皇太夫人班子女王-桓武皇子仲野親王女)兄弟姉妹(是忠親王、是貞親王、忠子内親王、簡子内親王、綏子内親王(陽成上皇妃)、為子内親王(醍醐妃))、桓武孫正躬王女所生の皇女8~9名が親王・内親王宣下された。なお醍醐天皇(諱は、敦仁)ももとは二世源氏、源維城である(註50)。本来なら継嗣令の適用で光孝即位の時点で光孝の皇子女はすべて親王・内親王とされてよいわけであるが、光孝の皇子女は母が不詳の例が多く親王位は、皇親女性所生の皇子女に限定されたといえる。 
 但し、傍系親の絡む皇位継承で直系継承の擬制がないわけではない。筧敏生(註51)は『神皇正統記』が仁明天皇について「此御門は西院の帝(淳和)の猶子の儀ましましければ、朝覲も両皇にせさせ給」(但し、西院への朝覲行幸は承和元年のみ-上皇の辞退による)、『皇年代略記』が淳和上皇は仁明の伯父にあたるが「父帝二擬ス」と記述を引用し、太上天皇・天皇間の猶子関係の先駆とみなされ、その由来を古代社会における族長権継承が傍系親に行われても、始祖と融合一体化した単線的継承に擬される系譜意識によるとされる。
 しかし私は、嵯峨-淳和-仁明-恒貞親王(承和の変で廃太子)という皇位継承路線が嵯峨系と淳和系の両統迭立であることから、傍系親が絡んでも皇位継承を軋轢なく安定的に推移させるための擬制とみてよいと思う。淳和后正子内親王は仁明の同母妹だが皇太后となし(但し内親王は皇太后尊号を辞退)、恒貞親王は仁明天皇の従兄弟でも甥でもあるが、仁明天皇の正嗣として皇太子に立てられた。実際、淳和上皇と仁明天皇は良好な関係であったと考えられている。淳和天皇は草書を善くし、仁明天皇は淳和天皇について書法を学ばれ、識別することの出来ない程になられた(註52)。恒貞親王伝によると承和十年七月春宮坊帯刀伴健岑の「謀反」により皇太子は恐懼して辞表を上ったが、天皇は独り健岑の凶逆にして太子の関はるべきにあらず、意を強うして介するなかれとの優答を与えている。
 しかし承和の変は教訓になった。仁明天皇と恒貞親王の関係がいかに良好であっても、藤原良房(源潔姫の婿)を主軸とする嵯峨系門閥の思惑は異なり、仁明天皇が健康面で不安を抱えていたこともあり、恒貞親王が即位するような事態を望んでいなかった。直系継承の擬制は有力貴族の力関係次第で容易に破綻してしまうのである。
 そういうことで、太上天皇と天皇が実の父子関係でない場合に猶子とされることは鎌倉時代以前はほとんどない。平城-嵯峨、嵯峨-淳和、朱雀-村上、冷泉-円融、後一条-後朱雀といった兄弟継承で猶子とはされていない。たんなる兄弟継承である(註53)。
 円融上皇は、甥にあたる花山天皇の政権には影響力がなく、皇子の一条天皇の政権には人事などで影響力を行使したことからも明らかなように(例えば院司の藤原実資を参議に昇進させるよう摂政兼家に圧力をかけた。一条天皇の春日行幸に難色を示し、いったんは延期を決定させたなど)、冷泉系と円融系の迭立では猶子関係はない。
 白河法皇が曾孫の顕仁親王(崇徳)を猶子とした特殊な例はあるが、兄弟継承で猶子関係の擬制があるのは鎌倉末期から南北朝では、後伏見と花園、光厳-光明のケースしかないのである(註54)。傍系継承が絡むケースで後小松上皇と-後花園天皇の猶子関係があるが(なお、後小松と後花園の猶子関係をめぐる後小松と伏見宮貞成親王との争いは、後小松崩後に貞成親王の太上天皇の称号が実現しているので最終的には伏見宮側が勝利したとみてもよい。後光厳-後円融-後小松系は武家政権に擁立された傍流であくまでも後花園の伏見宮家が持明院統の正嫡であると私は考えるが、この問題は複雑なので、後に「世襲宮家の成立」伏見宮家成立過程で改めて論じたい)、上記の三例はいずれも、院政を敷くための前提であった。直系尊属、実父や祖父であることが、逆に言えば治天の君として院政が敷かれるのは、直系卑属の皇子や皇孫が即位したケースに限られ、たんに前代の天皇ということでは院政を敷くことはできないというルールは歴史的に確立しており、後伏見-花園、光厳-光明、後小松-後花園の猶子関係は院政の前提として必要なものであるが皇位継承の正当化とは無関係に論じてもよいのである。
 逆説的にいえばこういうことです。直系継承の政治的意義は幼帝即位でも太后臨朝でなくても安定政権が維持できる摂関政治、とりわけ院政に適合的であるからであって、決定的に直系継承にこだわらなければならない根拠もない。例えば福井俊彦(註55)が、平城即位、神野親王(嵯峨)立皇太弟は自明のものではなく、平城天皇の政権基盤が強ければ、たとえ九歳でも平城皇子高岳親王を皇太子に立て、直系継承を指向したはずであるが、そうならないのは神野親王が政治力を有していたからであるとしているが、このようにバランス・オブ・パワーで直系継承ができないこともありうるのである。
 近世以後の展開は深入りしないこととして、いずれにせよ令制本来の在り方としては傍系親や兄弟の絡む皇位継承において直系継承の擬制の必然性はないのであって、直系継承の擬制がなくても、歴代天皇の全てが男系で天皇と繋がり、単系出自を貫徹していることにより、万世一系の皇位とされているものと考える。
 なお、令の規定では皇親の養子・猶子の規定はないが、竹島寛(註56)が、淳和天皇の養子に嵯峨皇子源定、仁明天皇の養子に嵯峨皇子源融。醍醐天皇に宇多天皇御薙髪後の皇子雅明、行明、冷泉上皇に花山天皇御薙髪後の皇子清仁、昭登、三条天皇に孫王で、敦明親王の御子、敦貞、敦昌、敦元、敦賢が、それぞれ御猶子として親王宣下された例をあげているが、后腹で皇位継承候補者だった敦明親王(小一条院)の御子の親王宣下は政治的意義をみとめてよいが、それ以外は、竹島寛がいうように御父帝が皇子の行く末を案じて当代の帝にの将来を御依嘱遊ばされたというで、平安時代に関する限り、養子というのは皇位継承の正当化と関連するものではない。
 傍系親(リネージ)が絡んだ複雑な皇位継承例は少なくないが無難なところで鎌倉末期を客観的にとりあげることとする。幕府は「両御流皇統は断絶してはならない」(『花園天皇宸記』元享元年十月一三日条裏書)(註57)という方針である。つまり後深草系と亀山系の皇統だが、亀山系は後二条系、後醍醐系、恒明親王〈常磐井宮〉と三派に分裂して、このために正中三年三月皇太子邦良親王薨後の、東宮候補に後深草系(持明院統)嫡流から一人、亀山系各派から三人計四人が推薦され、東宮ポストを争った(註58-大覚寺統が三派に分裂する経緯は後に掲載する補説皇親の概念について「世襲宮家の成立」をみてください)。亀山系各派もそれぞれが嫡流を主張し和解不能ともいわれる泥沼状態になったが(四人というのは各派から推薦者が一人にしぼられているので皇位継承資格者の実数になればもっと多い)、四流全てが嫡流を主張でき、後嵯峨を共通の父祖とした単系出自の親族(リネージ)と相互に認識していることにかわりはない。
 なお後深草系の分派として鎌倉将軍宮、さらに順徳系の四辻宮、岩蔵宮も存在したので、鎌倉末期 には少なくとも後鳥羽を起点とするリネージが少なく数えただけでも七流存在したこととなる。もっとも現実政治において、順徳系は皇位継承候補から排除されたがそれは幕府の方針であって、管領所領も有していたので皇統として存続した。
 このように鎌倉時代後半期は皇位継承者がリネージからリネージへの移行する例を繰り返しており、その調停者が武家政権となっているケースだが、単系出自系譜であることにかわりなく、直系継承にこだわることなく、万世一系の皇位なのである。
 そんなことで、結論を述べますと、継嗣令皇兄弟子条は、傍系親への皇位継承を想定したうえで、それがスムーズに継承できるための制度でもあり、いずれにせよ男系主義の脈絡で理解すべきであって、高森明勅説は有識者会議の論点整理でも「皇位継承制度の根本は、皇統に属する皇族による皇位の継承であり、女系も皇統に含まれる」(註59)の「女系も皇統に含まれる」に反映されているようだが、却下されなければならない。

 
 〔5〕継体が応神五世孫と認めながら女系継承と言い切る高森氏の非論理性

 だいたい、高森明勅の説明(註60)は論理的でなく混乱している。継体即位を女系継承と論じている点もそうである。私は欽明以後の歴代天皇が継体后手白香皇女を通じて、女系で仁賢天皇と繋がっていることを認める。また継体即位が手白香皇女立后を前提として王権を継承したことも認めるが、高森が肯定しているように継体が応神五世孫だから、明確に男系継承なのである。女系が皇統として機能していたとする高森説では、手白香が非王族と結婚しても皇位継承されることでなければならない。継体即位を女系継承と言い切ってしまうことは継体簒奪王朝説を認めたのと同じことで、日本書記の信憑性を否定する考え方になる。仮に継体の出自を疑問視する見方をとるとしても、イデオロギー的には男系継承なのである。

(註32)成清弘和『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999
(註33)米田雄介「皇親を娶った藤原氏」続日本紀研究会編『続日本紀の諸相』塙書房2004 473頁
(註34)高森明勅「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号 
(註35)中川八洋『皇統断絶』ビジネス社 2005 
(註36)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.html
    6月8日有識者会議における所功氏の発言
(註37)米田雄介 前掲論文
(註38)中川八洋 前掲書
(註39)成清弘和 前掲書 131頁
(註40)谷口やすよ「漢代の皇后権」『史学雑誌』87編11号1978
     谷口やすよ「漢代の『太后臨朝』」『歴史評論』359
(註41)秦玲子「宋代の后と帝嗣決定権」『中国伝統社会と家族』汲古書院1993
(註42)木下正子「日本の后権に関する試論」『古代史の研究』3 1981
(註43)成清弘和 前掲書141頁。
(註44)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.pdf
     所功「皇位継承の在り方に関する管見」〈 PDFです〉
(註45)成清弘和 前掲書 142頁以下
(註46)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第二章太上天皇尊号宣下制の成立  校倉書房 2002(初出1994)160頁以下
(註△)皇親概念は嵯峨天皇の弘仁期に大きく変化し、親王・内親王は宣下をうけてのちこれを称しうることとなった。令制はもともと生得的に親王、内親王たりえる制度であったが、そうではなく、天皇の意思により授受される性格の身位に変質した。親王宣下をうけて皇子女と、賜姓によって臣籍に降下する皇子女の分割方式である。つまり嵯峨天皇は内寵を好まれ49人の皇子女がいたが、卑母所生の皇子女は親王、内親王宣下されずに、未定名号の状態から姓を賜って臣籍に下った。源朝臣信、弘、常、明、貞姫、潔姫、全姫など32人である。親王宣下制度は九世紀を通じて慣例化した。

(註47)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53、1998 147頁
(註48)倉本一宏 前掲書174頁
(註49)角田文衛『律令国家の展開』「天皇権力と皇親勢力」塙書房1965、27頁
(註50)角田文衛「敦仁親王の立太子」『王朝の明暗 』 東京堂出版, 1977
(註51)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第四章中世王権の特質 247頁 注(19)
(註52)川上多助『平安朝史学』上 初版1930 昭和57年 国書刊行会1982
(註53)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第四章中世王権の特質 233頁
(註54)筧敏生 前掲書236~237頁
(註55)福井俊彦「平城天皇の譲位について」久保哲三先生追悼論集刊行会 『翔古論聚』真陽社 京都 1993 
(註56)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936、161頁
(註57)森茂暁『南朝全史-大覚寺統から後南朝へ』講談社選書 2005 217頁
(註58)森茂暁 前掲書 59頁以下
(註59)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai10/10siryou1.html
    平成17年7月26日皇室典範に関する有識者会議 今後の検討に向けた論点の整理
(註60) 高森明勅「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号

つづく。

2005/08/27

女帝即位絶対反対論(皇室典範見直し問題)第5回

川西正彦
(掲載 平成17年8月27日-その③)
 第一部 女帝・女性当主・女系継承・女系宮家に反対する基本的理由
   Ⅰ 事実上の易姓禅譲革命是認になり、日本国は終焉する
  5.女系継承がありえない一つの理由-皇親女子の皇親内婚規定

  (承前-今回の目次)
 (5)律令国家は双系主義という高森明勅氏の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
  〔1〕令義解及び明法家の注釈
  〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義
  〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ
  
(5)律令国家は双系主義という高森明勅氏の継嗣令皇兄弟子条の解釈は全く誤りだ
 
 継嗣令王娶親王条で明白なことは律令国家は女帝の子が即位しても易姓革命にならない制度になっていたということである(なお論旨が錯綜するので小幅の修正である慶雲三年の格制などについては無視して論じたい)。
 女系継承論者の高森明勅氏は、継嗣令皇兄弟子条「凡皇兄弟皇子。皆為親王。〔女帝子亦同。〕以外並為諸王。自親王五世。雖得王名。不在皇親之限。」が、皇兄弟皇子は親王となす。の本註で〔女帝子亦同〕と規定しているから、『養老令』は双系主義を採用していたなどといういうとんでもない解釈で世論を誘導している(特に断らない限り同氏の論文「皇位の継承と直系の重み」『Voice ボイス』(月刊、PHP研究所)No.321 2004年9月号78頁のからの引用)。なお、まことに不勉強で恐縮しますが高森明勅氏の神道学、律令国家祭祀研究の業績についても筆者は関心がありますが、引用されたものは読んでいても直に読んでいません。ここでは前記ボイスNo.321の論文と有識者会議の発言だけを問題とします。 
 
  高森明勅氏は皇統と男系はイコールではないという、史実に反する論理を展開するが、既に述べたとおり花園天皇の『誡太子書』において「吾朝は皇胤一統なり」とあり、北畠親房などの「一種姓」という表現にもみられるように皇統と男系がイコールであることは自明で、厳然たる男系の万世一系の皇統譜を無視するのはひどすぎる。
 あたりまえのことだが、例えば生母が皇親であることから女系とはいえないのである。宇多天皇は光孝の継嗣、桓武-嵯峨-仁明-光孝という男系系譜で皇位継承資格を有したのであって、生母班子女王は政略家であり陽成退位の策動を後押ししていたかもしれないが(註19) 、桓武-仲野親王-班子女王という女系は皇位継承資格に決定的な意義はない。仲野親王(桓武皇子)は、頗る典礼旧儀礼に通じた博識の才幹で、親王は奏壽宣命之道を致仕の左大臣藤原緒嗣に学び、勅により藤原基経、大江音人に授けたほどだったが(註20-式部卿在職14年、貞観九年薨じた時点で二品大宰帥、贈一品太政大臣)、あくまでも女系で皇統に繋がっているだけなので、天皇の母方祖父として贈一品太政大臣にすぎない(光孝の母方祖父の紀伊守藤原朝臣総継の贈一位太政大臣と同じ礼遇)。もし高森明勅が女系と言い切るなら、宇多-醍醐-村上以後の歴代天皇が「嵯峨-仁明-光孝系皇統」ではなく「仲野親王系皇統」ということを立証してください。もし仲野親王系であるなら、贈太政大臣でなくて、追尊天皇になるんじゃないですか。それは全く論理矛盾というほかない。
 同様の事例としては母が三条皇女禎子内親王である後三条天皇であるが、後三条は、あくまでも円融-一条-後朱雀という男系の世系で皇位を継承したのであって、藤原道長に抵抗した三条天皇を意識しつつも母方祖父であるから、冷泉系の皇統を継承するものではないのである。、

 歴史上の女帝は皇親内婚の皇親女子(前代以往の天皇の妻后か先帝生母)か生涯非婚独身の内親王であり、先帝皇后等のケースも即位後不婚であることが前提である(註21)。また皇親内婚では皇親男子が嫡系であれ、傍系であれ男帝絶対優先である。持統のように先帝皇后が臨朝称制の後即位することがありますが、配偶者となる皇親男子をさしおいて即位することは絶対ない。元明のように御配偶の草壁皇子薨後18年たって即位したケースがありますが、これについても正統の皇位継承者とされていた草壁皇子が早世し、さらに所生の文武天皇も早世したので子から母への継承はきわめて異例だが、緊急避難的に即位したもので、皇親男子をさしおいての即位ではない。だから女帝が存在しても男系主義なんです(なお、阿倍内親王(孝謙)立太子の特異性については後に掲載します)。
 決定的には王娶親王条が皇親女子の内婚を明文で規定している以上、女帝の子が即位しても、それが男系継承となるシステムに自動的になっている。 
 
 ところが高森明勅は「女帝の所出が親王としての皇族の地位を認められてゐたのであれば、おのづと女系による皇位継承の可能性もあったことにならう。ならば『養老令』は男系だけでなく、場合によっては女系も機能しうる余地を制度上、公認してゐたことになる。」と述べるが、そんなばかなことはない。それは継嗣令の下条つまり王娶親王条の意義をふまえることもなく、たんに皇兄弟子条の特定の字句だけをとらえて意図的にねじ曲げた令条の解釈である。

 〔1〕令義解及び明法家の注釈

 継嗣令皇兄弟子条「女帝子亦同」の本註については成清弘和の専論(註22)があるが、『令義解』と『令集解』所引の、穴太氏の「穴記」、編者不明の「朱記」の注釈についてコメントされていますが、成清氏の見解を引用しつつも、私なりにコメントしたいと思います。
 まず『令義解』の注釈は天長十年(833)右大臣清原夏野以下の編纂による律令公定注釈書であるから、基本的に重視されてしかるべきである。

義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」
 
 成清弘和によると「女帝子」を四世王以上との婚姻の結果、生んだ子と解釈する。その根拠として下条つまり継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」を引く。義解の注釈は明快であり、女帝の子であっても四世王以上の子になることは王娶親王条の皇親女子の内婚規定により明白で、よって男系主義から逸脱することはないから、高森明勅のいう女系継承はありえない。
 高森明勅は「女帝の配偶者はもっぱら皇族であることが想定されていた」と説明しているが、女帝は即位の時点で独身でなければならず、不婚の原則にふれておらず、誤解を招きやすい表現である。また結婚相手については想定されていたのではない。明確に明文で四世王以上と定められていた。王娶親王条は公法上皇親女子の内婚が明文で明確に定めている。『令義解』の注釈からも明白なことであり、皇親内婚における男帝優先原則からみても、女系継承はありえない。
 
 穴記は「女帝子者。其兄弟者兼文述訖。故只顕子也。孫王以下皆為皇親也。」

 成清弘和はたんに記述形態についての注釈にすぎないとなにげなくコメントするのみだが、重要な論点を含んでいると思う。たんに女帝の子を親王となすというだけでなく、女帝の兄弟姉妹を含む意味である。つまり藤木邦彦(註23)の次の読み方でよいのである「天皇(女帝をふくむ)‥‥皇兄弟・皇姉妹および皇子・皇女を親王・内親王とする」。
 孝謙女帝のように皇女、内親王が女帝に即位するケースは兄弟姉妹はもともと親王だが、皇極・斉明女帝(敏達曾孫)即位の前例から二世女王や三世女王が即位した場合に女帝の兄弟姉妹を諸王から親王に格上げすることを意味する。
 敏達曾孫の皇極・斉明や天武孫の元正のケースがあるので、歴史上の女帝は皇女とは限らない。もっとも斉明女帝も宝皇女と申しますが、父は茅渟王で敏達曾孫であり、令制の概念でいうと三世女王に相当する。しかし母が吉備姫王で女系でも欽明の曾孫であり、純血種皇親である。推古、持統、元明の母方が蘇我氏であるのと違った意味で女帝即位の意義が認められるだけでなく、斉明女帝は百済遺臣の要請により、百済復興のために朝鮮半島への大規模派兵を決断し、陣頭指揮を執るため高齢にもかかわらず筑紫に遷られたが、崩御になられた。男帝でも朝鮮半島出兵で天皇親征の例がなく、斉明は天智・天武の母でもあることからやっぱり偉大な存在であり、三世孫の女帝即位は斉明女帝以外の例がなくても前例として無視できない。
 つまり、敏達曾孫で令制概念では三世王の孝徳天皇(軽皇子)のようなケースでは、皇極女帝の弟なので三世王から親王に格上げということである。

 なお、漢皇子のようなケースの想定説は、筆者が不勉強で有識者会議5月31日の八木秀次氏の発言、6月8日の所功氏の発言(註24)で初めて知ったが、なるほどと思った。令制の概念でいう二世王の高向王が父、母が宝皇女であるから、漢皇子は三世王ということになるが、女帝の子としてこのようなケースでは親王に格上げという趣旨であるが、宝皇女が高向王との既婚歴があったうえ、30歳で田村王(舒明)と再婚したこと、漢皇子の存在は知っていたが、既婚歴のある女性が后位にのぼせられることがきわめて異例という固定観念をもっていたのでそういう事例を想定しにくく思いつきもしなかった。
 
 それで思ったことですが、筧敏生(註25)が継嗣令皇兄弟子条は、唐の封爵令というよりも、『隋書』巻二八百官志下に、「皇伯叔昆弟・皇子為親王」とあるように、隋の制度を継承したものだと述べている。親王号は隋制継受となると皇極女帝の時代には知られていた可能性があるのではないか。
 また筧敏生(註26)は『古事類苑』『皇室制度史料』が諸王の身分から、即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げを、弘仁五年以後の親王宣下制度の嚆矢とみなしている点を批判され、大宝令の注釈書で天平十年(738)に編纂された「古記」の注釈で「未知。三世王即位、兄弟為親王不。答。得也」とあることから、傍系二世王から即位した淳仁、光仁の兄弟姉妹の親王格上げ(つまり淳仁の兄弟、船王と池田王が船親王、池田親王に格上げ、光仁の兄弟姉妹、湯原王、榎井王、衣縫女王、難波女王、坂合部女王の親王・内親王への格上げ、光仁の皇子女、他戸王、酒人女王、山部王、早良王、能登女王、稗田王、弥努摩女王の親王・内親王への格上げ)は、継嗣令皇兄弟子条の適用であるとされる。
 そうするとバランスのうえでも、女帝がもともと内親王でなく女王であったケースは、諸王から即位した男帝の兄弟姉妹と同様、親王格上げは当然のように思えるのである。
 傍系から皇位を継承した男帝の兄弟は親王に格上げして、女帝の兄弟は格上げしないということでは軋轢を生じかねないから。
 要するにこういうことです。皇親の待遇(後に掲載する補説皇親概念参照)については親王と諸王ではかなり違う。君主制国家において、君主と血縁でつながりをもつ者が、その尊貴の故をもって国家・社会から特別の待遇をうけることは君主を重んずる所以であって、当然の現象であるが(註23の藤木邦彦の著書からの引用)、位階は親王は一品から四品の品位が与えられ、諸王は一位から五位の区別が立てられた。大宝律令から親王と諸王・諸臣の区別になったのことは親王の地位を高めた。その他経済的待遇でも親王と諸王は違うが、待遇において、律令の父系帰属原則の例外にはなってしまうが、皇親内婚で単系出自の男系血族であることは同じである以上、つまり女帝の子が男系出自系譜で皇親であることは間違いないのだから、女帝の兄弟、子女ということで、男帝の兄弟、子女と待遇の面で差別化される理由は格別ないように思える。
 諸王が親王に格上げされることの意義は大きい。皇親としての序列や経済的待遇の違いだけでなく、親王が諸王より有力な皇位継承候補になるのはいうまでもない。しかし、それは、男系継承か女系継承かという問題にはならない。男系主義という観点では親王が皇位継承しようが、淳仁や光仁のように諸王が皇位継承しようが論理的には男系継承で一貫しているのである。

朱記は「朱云。女帝子亦同者。未知。依下条。四世王以上可娶親王。若違令娶。女帝生子者。為親王不何。古記云。謂。父雖諸王猶為親王。父為諸王。女帝兄弟。男帝兄弟一種。」
 
義解と同じように下条を引きつつ、王娶親王条の四世王以上の規定に違反した場合の問題を提起し、違反しても女帝の子は親王となす。その根拠として古記が引用され諸王の子であっても女帝所生なら親王ということであるが、成清弘和の専論によると、古記のいう諸王が四世王なのか、五世王以下なのかまったく不分明とされているが、慶雲三年の格制(延暦十七年まで有効だった)が継嗣令皇兄弟子条で五世王が王号を称するが、皇親籍から除かれ、臣下の籍に入れられるのは気の毒だから五世王まで皇親とし、その子の六世王も王号を称することができるとした規定と関連しているのだろうか。いずれにせよ王娶親王条を引いて、親王格上げは諸王であることが前提としているで、男系継承から逸脱するものではない。

〔2〕吉備内親王所生諸王の厚遇の意義

 実態面からも検討してみよう。大宝令以後、女帝の所出といえる皇親は、天武孫で元明の娘、氷高内親王(元正)と吉備内親王(左大臣長屋王の正妻-神亀六年自経)だけである。氷高内親王と吉備内親王は「女帝子亦同」の本註がなくても、文武と兄弟姉妹であるという資格で内親王なのであり、「女帝子亦同」の適用により親王に格上げされた皇族はいない。
 但し、成清弘和(註27)が指摘するように霊亀元年(和銅八年)二月勅により天武曾孫にあたる吉備内親王所生の諸王(膳夫王、葛木王、鉤取王)が皇孫の例に入れられていることは「女帝子亦同」の影響を看取してもよい。これは三世王を蔭位等の面で二世王の扱いにして厚遇することを意味するが、私はその限りにおいて「女帝子亦同」本註は生きていたということを認める。
 つまりこういうことです。倉本一宏(註28)が指摘しているように長屋王生母の御名部皇女は元明の実母姉で、つまり長屋王は元明の甥であるのみならず娘婿でもあった。つまり二重の結びつきがある近親なのだ。長屋王はもともと慶雲元年に選任令の二世王の蔭階を三階上回る正四位上に初叙されるなど「別勅処分」による親王扱いを受けている。

 和銅五年に任式部卿、郡司の試練実施など式部省の権限が強化されているが、これだけの指導力を発揮でき、式部卿-大納言-台閣首班右大臣という昇進も、元明が後見者であったからこそ、王の特別待遇は元明の恩顧に基づくものであったとみてよいだろう。元明女帝にとって皇太子首皇子(聖武)は孫であるが、吉備内親王を母とする膳夫王、葛木王、鉤取王も元明女帝の孫にあたるから膳夫王らの厚遇は当然のことであり、不測の事態で皇太子を失うような万一のケースで皇位継承候補であった可能性すらある。
 いずれにせよ、本来三世王である吉備内親王所生諸王の二世王扱いは、男系では天武曾孫であっても女系で元明の孫にあたり、女帝の近親であることを理由としていることを認める。しかし私が「女帝子亦同」本註の影響を認めるのは、ただそれだけ。このことから令制が女系継承も認めていたなどという途方もない解釈を導く論理性などない。仮に神亀六年の長屋王の変(註29)で自経した膳夫王、葛木王、鉤取王の即位を想定しても、それはあくまでも天武-高市皇子-長屋王という男系出自系譜での即位資格になるから、高森明勅説は論証不可能である。

〔3〕天武孫、氷高皇女は文武皇姉という資格で内親王であるはずだ

 史料上、元正女帝が内親王と称されているのは『続日本紀』元明女帝の和銅七年正月条の「二品氷高内親王」が最初の例であるが、女帝の子として内親王なのではなく、継嗣令皇兄弟子条が天皇の兄弟は親王とされている以上、元正は文武皇姉という資格で内親王とされるのが論理的であると私は思う。しかし高森明勅氏は女帝の子として内親王だと強弁している。これは些末なことではない。有識者会議で堂々と発言されている以上、一応疑問点として挙げておきたい。6月8日の有識者会議の席上、高森氏は次のように述べた(註30)。
「形式上明治初期まで存続しました養老令に女系の継承を認める規定があった。これは継嗣令、皇兄弟子条。天皇の御兄弟、お子様は親王という称号が与えられるという規定がございまして、その際、女帝の子もやはり親王であるという本注が付いてあるわけでございます。 これによりまして、女帝と親王ないし王が結婚された場合、その親王ないし王の子どもであれば、その子は王でなければならないわけです。ところが、女帝との間に生まれた場合は王とはしないで親王とするということでありますから、その女帝との血統によって、その子を位置づけているということでございます。「女帝の子」と。具体例といたしましては、元明天皇と草壁皇子が御結婚されまして生まれました、氷高内親王。この方は草壁皇子のお子様という位置づけであれば、これは氷高女王でなければならないわけですけれども、内親王とされておるわけで、この方が皇位を継承されまして、元正天皇ということで、女帝の子が過去に皇位を継承した実例をここに1つ指摘することができるわけでございます。」
 正確には草壁皇子と阿閇皇女(のち元明女帝)の結婚というべきである。結婚時期については神田千紗の見解を引用する(註31)。初生子の元正天皇(氷高皇女)は天武九年生(680年)である。よって草壁と阿閇の結婚は天武八年以前である。天武八年に阿閇皇女は19歳であるが、阿閇皇女の同母姉である御名部皇女と高市皇子の結婚は、御名部皇女所生の長屋王が天武五年生であるから天武四年以前である。これを参考にして天武五年~八年頃とみなされる。つまり阿閇皇女は16~19歳で結婚した。草壁皇子は持統三年(689年)薨去されたので結婚生活は実質10~12年である。
 史実は持統-文武-元明-元正-聖武という順です。継嗣令皇兄弟子条の「凡皇兄弟皇子。皆為親王。」により氷高皇女は、元明が即位しなくても天皇の姉妹という資格で、文武皇姉という資格で内親王です。女帝の子だから内親王なのではない。氷高内親王にとって女帝子亦同の本註がなくても内親王である。高森明勅がいう女帝の子の実例としては不適切である。
 元正は天武の孫、「日並知皇子尊の皇女」という世系での即位であり、天武-草壁皇子-文武-聖武という男系主義の脈絡での中継ぎになる。甥にあたる皇太子首皇子(聖武)が幼稚なので太子が成長するまで伯母の元正が中継ぎ的に即位したものです。高森がいうように女系継承であるはずがないですね。
 女系継承というのは例えばこういう想定です。継嗣令王娶親王条に反し明確に違法であるが勅許により、内親王が臣下に降嫁した例が少なからずあります。一例だけあげると醍醐皇女雅子内親王が藤原師輔に降嫁して、雅子内親王の御子が一条朝の太政大臣藤原為光です。藤原為光は母方の祖父が醍醐天皇ということになり、醍醐の「外孫」ともいえますが、あくまでも藤原氏の一員であって、太政大臣に昇進しても皇親になれないし、皇位継承資格もない。もし、藤原為光の登極となれば女系継承ですが、そもそも内親王降嫁が違法であり、父系単系出自系譜で天皇に繋がらない以上、皇室とは近親であっても藤原為光のようなケースでは皇位継承者にならない。あたりまえのことですが、だから高森氏は女系継承を強弁するなら、藤原為光のようなケースでも登極できることを論証してください。それができていない以上、令制が女系も是認していたとはとてもいえないです。

(註19)参考-角田文衛「陽成天皇の退位」『王朝の映像』東京堂出版1970、202頁
(註20)参考-萩谷朴『平中全講』同朋舎(京都)1978 初版は1959
(註21)歴代女帝を類別すると
第一 先帝皇后(前代以往の天皇の妻后を含む)が即位のケース‥‥推古(欽明皇女、御配偶の敏達とは異母兄妹)、皇極=斉明(敏達曾孫、孝徳皇姉)、持統(天智皇女)

第二 皇太妃(先帝生母)が即位のケース‥‥元明(天智皇女)

第三 生涯非婚独身の内親王が即位のケース‥‥元正(天武孫、文武皇姉)、孝謙=称徳(聖武皇女)、明正(後水尾皇女、後光明・後西・霊元皇姉)、後桜町(桜町皇女、桃園皇姉)
 
 女帝即位の年齢は、推古は39歳、皇極は49歳、退位して皇祖母尊(すめみおやのみこと)と称され、斉明女帝として重祚が62歳。持統は42歳で臨朝称制、即位が46歳。元明の即位は47歳。
 元正は36歳で即位、45歳で譲位、69歳崩御。孝謙は21歳で歴史上唯一の女性立太子、32歳で即位、41歳で譲位、47歳で称徳女帝として重祚、53歳崩御。明正は7歳で践祚、21歳で譲位、74歳崩御。後桜町は23歳で践祚、41歳で譲位、74歳崩御。

 第一のタイプは、御配偶の天皇崩後であり(推古女帝のケースは、敏達崩後、用明、崇峻の兄弟継承を経たうえでの即位であるが)、女帝即位は独身であることが大前提である。
 第二のタイプ、元明女帝(諱阿閇皇女、天智皇女、母蘇我倉山田石川麻呂女姪娘)のケースは、文武天皇の早世により子から母への緊急避難的な継承でありきわめて異例であるため文武天皇の「遺詔」と、天智天皇の「不改常典」によって正当化が図られた。藤原京の文武朝における阿閇皇女の身位は皇太妃であって厳密には后位ではない。しかし皇太妃には皇太妃宮職という附属職司があり、皇太后に准じた身位とみなしてもよい(春名宏昭「皇太妃阿閉皇女について-令制中宮の研究-」『日本歴史』514参照 )。御配偶の皇太子草壁皇子薨後18年後の即位であるが、草壁皇子が岡宮御宇天皇と追号されたのは薨後約70年後の天平宝字二年であり、阿閇皇女が后位にのぼされてない以上、第一の先帝皇后の範疇とは区別した。
 いずれにせよ、即位後は不婚独身である。

(註22)成清弘和『日本古代の王位継承と親族』第一編第四章女帝小考「継嗣令皇兄弟条の本註について」岩田書院 1999 131頁 
(註23)藤木邦彦『平安王朝の政治と制度』第二部第四章「皇親賜姓」吉川弘文館1991但し初出は1970 209頁
(註24)高森明勅氏の継嗣令皇兄弟子条の解釈については有識者会議において名指ししないものの下記の専門家が批判している。
有識者会議平成17年5月31日の八木秀次氏の発言。短時間とはいえ王娶親王条の意義に触れておらず不満が残る。
    http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai6/6siryou3.html
なお、女帝-女系容認論者だが、所功氏もさらに具体的に批判している。所氏の女帝-女系容認論には全面的に反対だが、この論点に関しては王娶親王条と言及してないが、内親王は四世王以上との結婚と規定されている内容に言及され、女系継承の論拠になりえないと説明されている点、大筋で同意する。有識者会議平成17年6月8日の所功氏の発言。
    http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.html
(註25)筧敏生『古代王権と律令国家』第二部第二章太上天皇尊号宣下制の成立  校倉書房 2002(初出1994)160頁以下
(註26)筧敏生 前掲書 157頁
(註27)成清弘和 前掲書 133頁
(註28)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53 1998 51頁
(註29)倉本一宏 前掲書参照 。元明上皇崩御当時、長屋王は台閣首班右大臣であったが、権力基盤が脆かった。上皇という絶大な後楯を失って宮廷で次第に孤立していくのである。神亀六年二月十日、謀反の密告があり、誣告であるかの審査すらなくその日のうちに三関を封鎖、六衛府の兵で長尾王邸が包囲され、翌日、舎人親王、新田部親王、大納言多治比池守以下による窮問があり、その翌日に左大臣長屋王自刃、正妻吉備内親王と所生の膳夫王、葛木王、鉤取王に石川夫人所生の桑田王は自経であったが、不比等女長娥子所生の安宿王、黄文王、山城王らは不問に付され、石川夫人その他の配偶者も不問に付されていることから、この事件の標的は明らかで、皇太子基王の夭折で、膳夫王らが皇位継承候補者に浮上することから警戒されたものという見方もとれる。
(註30)平成17年6月8日有識者会議における高森明勅氏の発言
    http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou2.html
(註31)神田千砂「白鳳の皇女たち」『女性史学』6 1996

つづく

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