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カテゴリー「皇室典範問題 所功 田中卓 批判」の6件の記事

2006/03/05

田中卓女系容認論反駁(3)-所功女系容認論反駁(2)

皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ(明治九年二月五日法制局議案)という太政官政府法制局の見解を田中卓や所功は否定するのか

川西正彦(平成18年3月5日)

 田中卓は、女系容認の立場から女性天皇の皇婿が民間の出身者でも婚姻関係から異姓簒奪、王朝交替、易姓革命にはならないという趣旨の奇妙な説をぶちあげている(『諸君』3月号「女系天皇で問題ありません」〔14〕皇室には「氏」がないという特色を理解せよ65頁)。
 「〈皇后の場合は周知の通り、正田家御出身の美智子様でも正田皇后とは申し上げない。女帝に対する皇婿の場合でも、皇族ならば当然、初めから「氏」はないから、氏名で呼ぶことはないが、民間の出身者でも、皇室に入られると、新しく『皇統譜』に記載されて、今までの戸籍は消滅して、「皇族」の一員としてお名前だけになられるから、謀叛者による革命が起これば別だが、婚姻関係から皇室とは別の「氏」の王朝が、将来も誕生される可能性はない。〉」 
 皇后陛下は正田家の戸籍を離れて、『皇統譜』に記載され「氏」はないのだから、皇婿もそれとの類比で、所生の氏を称することはないから、皇室とは別の「氏」の王朝になるとは認識されないので、異姓簒奪にはならないという趣旨を強弁しているが、姓氏と身位(あるいは「皇族」としての身分)を混同した屁理屈である。
 

 所功も同趣旨のことを述べている。『皇位継承のあり方』PHP新書2006、131頁で、朝日新聞編集委員岩井克己『週刊朝日』2005年11月11日号「有識者会議『女系天皇』の疑問符」を批判する脈洛で次のように言っている。
 「皇統系譜は、あくまで当代の天皇を中心に繋いでゆくのであるから、従来の男系男帝より男系女帝を経て女系子孫の天皇(男帝か女帝)となっても、皇配(天皇の配偶者)の家系は姻戚にすぎない(しかも元来“姓”のない皇室に入る際、入夫の姓=苗字は消える)。それゆえ、無闇に複雑化するとか、血筋に純粋姓や一貫性がなくなるというようなことは、ありえないのである。」
 姓のない皇室に入夫すると皇婿の出自の姓氏が消えてしまう、氏素性が清算された皇族になるというような奇妙な説で実質的に易姓革命の懸念を否認している。しかしそれは所功が11月7日の「たかじんのそこまで言って委員会」で「……愛子さまのお相手は、旧皇族や旧華族の方が優先的に対象にされる可能性が多いと思います。皇室に入るにふさわしい、条件に合った人が……」(ブログぼやきくっくり2005・11・7「たかじん委員会」是か非か“女性・女系”の天皇)と発言している事と矛盾します。皇婿の出自が異姓でも姓のない皇室に入夫すると氏素性が消えて、血筋に純粋姓や一貫性がなくなることはないと強弁するなら、皇婿は旧宮家や旧華族にこだわる必要は全くないはずだ。渡部昇一は、「例えば、李王家の血を引く方とご結婚なされば、日本は“朝鮮王朝の国”になる」と言ってますが(註1)、それでもいいんじゃないですか。所功説ではその場合でも李氏の王朝とは認識されないし、血筋の純粋性も全く問題ないという理屈になります。
 
 田中卓や所功は、○○家の男子が皇婿になって皇族の成員となればもはや○○家の成員ではない日本的家制度の婚入配偶者的な発想になっているが、私が想定している姓氏概念は婚姻いかんによって変わることのない単系出自(自然的血統にこだわらず、擬制を含む)概念としての姓氏である。近世以前の天皇の賜与認定による姓氏がそうである。例えばWikipediaをみたところ、将軍綱吉母桂昌院の従一位の位記では藤原宗子だそうだ。もとは京都堀河の八百屋の娘ともいわれるが、母が関白二条光平の家司である本庄資俊と再婚したため資俊の養女となる。養父の本庄氏の本姓が藤原氏だからである。そのように女性の叙位は男官の叙位と同じことだが、源平藤橘等の古代的姓氏で、父または養父の本姓が記される。桂昌院は妾として入った女性だが、姓は既婚・未婚を問わず一部の例外を除き父系帰属主義で一貫している。
 一方、家制度の成員概念は違う。嫁は婚家に帰属するのであって、生家と重複することはない。家制度は離在単位であるから。社会生活における標識ともいえる夫婦同氏の苗字も同じことだが、出嫁女は、生家を出て婚入配偶者として婚家の成員となる。
 庶民の婚姻習俗、白無垢-色直しの慣習がそうですね。生家で死に、婚家で再生することをあらわします。しかし婚家の成員に生まれ変わったとしても、その人自身の出自いわゆる氏素性が清算されるべきだという発想は、少なくとも皇室に適用するのは行き過ぎだ。例えば、伝統中国や韓国でも、婚入女性は夫の宗に帰属するが。既婚者も生家姓を冠称している。社会的な身分標識と、その人の出身、氏素性とは別の問題として分けて考えなければならないです。
 
 田中卓は「父母で一家をなすというのが日本古来の考え」(64頁)と云い、「何故、皇室に「氏」がないのかというと、古来、皇室は他の氏族と区別する必要がなく、建国以来、天皇(古くは大王)の家として断然隔絶されていたからである。」(65頁)というこれまできいたことがない新奇な歴史認識を示してますが、例えば光明皇后(藤原安宿媛)ですが、父藤原不比等の封戸を相続し、例えば天平十三年正月国分寺の丈六仏像を造る料に不比等の食封三千戸が施入されている。こうした財政支出が可能なのも藤原氏の成員であるからですし、『楽毅論』天平十六年十月三日の署名をみると「藤三娘」である。皇后は皇室の成員ですが、あたりまえのことですが皇后であっても自らを藤原氏と認識していたことがわかる。角田文衛「後宮の歴史」國文学編集部編『後宮のすべて』学燈社1988所収43頁に「藤三娘」の写真が載ってますからみてください。
 だから皇后であるから氏がなくなるということは歴史的認識としてはありえませんね。もし光明皇后が藤原氏から皇親になったと言い張るんでしたら、天皇大権の掌握どころか、即位してもよかったということになります。そんなばかなことはありません。現実にはありえないことでしたが、仮に光明皇后は則天武后のように即位(武周革命)したら、藤原氏の王朝になります。唐が周に国号をあらためたように、日本から別の国号に改めることとなったでしょう。
  
 田中卓や所功はあくまでも民間出身の皇后でも「氏」が消えるから異姓と認識されないと強弁するなら、次に引用する明治九年の太政官政府法制局の見解「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ皇后ヲ皇族部中ニ入ルゝハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ」(註2)を否定しますか。ここで王氏というのは令制の皇親概念の範疇でしょう。
 この見解では明治聖后藤原美子(昭憲皇太后-従一位左大臣一条忠香女)、皇太后藤原夙子(英照皇太后-孝明女御明治養母-関白九条尚忠女)はあくまでも藤原氏ということです。皇后はその身位ゆえに皇族部なのであって、族姓ゆえに皇族なのではないと言ってます。臣下の女子は、皇后に立てられることによって皇親ないし王氏に族姓が変更されるのではないという趣旨になります。
 田中説・所説では皇后の「氏」は消えるので藤原氏ではなくなりたんに皇族だということになりますが、太政官政府法制局の見解では皇族部中に入るが、姓は藤原ということになってます。田中、所両氏は持論を強弁するなら、この見解に反論して太政官政府の法制局はいい加減だったということを証明してください。それができなければ、女系継承でも異姓簒奪の懼れなしという奇妙な説は通用しません。 
   
 これは、明治八年十一月九日の内務省伺(要旨-妻は夫の身分に従うべきものであるから婚嫁したる後は夫家の苗字を終身称させるのが穏当と考える〈つまり夫婦同氏(苗)〉が成例ないので御指令を)に対する、明治九年三月十七日の太政官指令で、内務省の見解を覆し「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事、但、夫ノ家ヲ相続シタル上ハ夫家ノ氏ヲ称スヘキ事」とされたのである。
 太政官は下部機関の法制局に審議させた結果、次のような理由を付して指令案を作成した。
 
 別紙内務省伺嫁姓氏ノ儀審案候処婦女人ニ嫁シタル者夫家ノ苗字ヲ称スル¬不可ナル者三ツアリ
第一 妻ハ夫ノ身分ニ従フヲ以テ夫ノ姓ヲ冒サシムヘシト云ハ是ハ姓氏ト身分ヲ混同スルナリ
第二 皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ皇后ヲ皇族部中ニ入ルゝハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ
第三 今ニシテ俄カニ妻ハ夫ノ姓ニ従フトスレハ歴史ノ沿革実ニ小事ニアラス例ヘハ何々天皇ハ何々天皇ノ第幾子母ハ皇后〔王〕氏ト署セントスル歟 
 帰スル処今別二此制ヲ立テント欲スルヲ以テ一ノ大困難ヲ醸スナリ右等ハ都テ慣法ニ従ヒ別ニ制ヲ設ケサル方可然歟因テ御指令案左ニ仰高裁候也 (註2)
 

 誤解がないように言っておくと
 
 皇室典範問題と離れて、誤解がないようにしておきたい。「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」それ自体は全く異論はないが、私は夫婦別姓導入に絶対反対の立場なので、この法制局議案の内容はともかく政策判断については批判的な見方をとる(なお、フェミニストの主張する夫婦別姓旧慣習説を否定する有力な学説として大藤修『近世農民と家・村・国家』(吉川弘文館)1996と、山中永之佑「明治民法施行前における妻の氏」『婚姻法の研究上高梨公之教授還暦祝賀』有斐閣1976がある)。
 これまでのブログでも散発的に述べてきたが、令制の立后制度、後宮職員令は、嫡妻権の明確な中国の制度とも違うし、嫡妻権の明確な厳密な意味での婚姻家族とみなせない。皇后という身位はむしろ政治的な班位のように思えるから、民間の婚姻家族と同列に論じないで、皇室と民間の婚姻家族は区別して論じるのが妥当だったと考える。
 明治七年の左院議案と、明治八年の内務省が太政官に提出した伺文にみられる内務省の見解は夫婦同氏だったのです。ところが、太政官指令は「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」という皇室問題にかなりこだわったため、夫婦同氏(苗)案を潰したのですが、これは民間の政策を伺出ているのであって、皇室問題ではないです。言っていることは正しくても政策判断としては誤りだと思います。それはどういうことかというと、太政官指令の「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は実態としてほとんど大多数の国民の家族慣行と乖離し、現実の社会情勢とマッチしておらず実態をともなわない有名無実の政策になってしまったからである。 
 
 山中永之佑(註2)によると法制局議案の第一「妻ハ夫ノ身分ニ従フヲ以テ夫ノ姓ヲ冒サシムヘシト云ハ是ハ姓氏ト身分ヲ混同スルナリ」の「身分」とは「族称」だという。明治九年に井上毅が作製した婚姻絛例第三条に「華士族平民互二婚姻ヲ結ブト雖モ、婦ハ夫ノ身分二従フ者トス」あり、平民出身でも士族に嫁すと士族の身分という趣旨のようだ。身分=族称に皇族部を加えると意味がとおります。夫婦同氏は身分=族称と姓氏を混同しているとするのだが、これは妻を含まない狭義の家族概念といえる。
 また山中によれば、「徳川時代において、氏は原則として支配階級たる武士のものであった。被支配階級たる庶民は特に許された者でなければ、氏を公称することを禁じられていた。このように氏が武士のものであった徳川時代においては、男系親は同姓、女系親は異姓であったといわれるのである。すなわち同姓は親類(広義の)うちの男系血族のみをさすといわれるのである。そして、この同姓は同苗、すなわち同一の家名=氏を称することを前提とするのである」とされ、姓は男系血族概念とされるのである。この論点は精査が必要だろう。
 また山中によれば明治民法施行前の「家族」概念には「妻を含む広義の家族概念」、「妻を含まない狭義の家族概念」の両者が併存していて、この「狭義の家族概念を採用して妻に「所生の氏」を強制したのは「妻の血統=出身した『家』由緒を明らかにする役割を果させる」ためと論じられ、その意味では徳川時代の武士的な「氏」概念を継承するものだったと説明する(註3)。
 妻の血統=出身した『家』由緒の重視という観点でいえば、例えば徳川将軍家の正室は摂家か宮家クラスです。ドラマ「大奥」で菅野美穂が演じていた家定正室の天璋院ももとは島津斉彬の養女だが、右大臣近衛忠煕の養女になってから将軍家に入ってます。子どもを生まなくても、たんにその存在だけで、将軍家の権威実力に釣り合うしかるべき家格の女性が正室であるという、それ自体に意義があるのである。ところが、大多数の一般庶民の婚姻家族というものは、士族の家族慣習と異なるのです。もし法制局議案が士族の旧慣習に依拠した見解だとすれば、庶民レベルの家族慣行が無視されているともいえる。
 
 現実の社会情勢においては、夫婦の別氏を称することの不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられている。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態であり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。

 明治22年12月27日宮城県伺
 「婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」
 明治23年5月2日東京府伺
 「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」(註4)
 
 民法起草委員は帝国大学法科大学教授の穂積陳重、梅謙次郎、富井政章であったが、梅謙次郎は逆縁婚の取り扱いなどで士族家族慣行の採用を却下し、民法を庶民の家族慣習に合致させることを強調しようだ。夫婦同氏についても強く推進したのが梅謙次郎である。穂積陳重と富井政章も異論はなく、世間の実態を追認したものともいえる。梅謙次郎は法典調査会で「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信シラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ」と述べています。
 そうしたことで、夫婦同氏は断乎堅持されなければならないと私は思います。
 しかし、皇室と庶民の家は別次元の問題である。 

 つづく
 
 (註1)渡部昇一・中川八洋『皇室消滅』ビジネス社2006 48頁
 (註2)山中永之佑「明治民法施行前における妻の氏」『婚姻法の研究上高梨公之教授還暦祝賀』有斐閣1976 
 廣瀬隆司「明治民法施行前における妻の法的地位」『愛知学院大学論叢法学研究』28巻1・2号 1985.03
 (註3)江守五夫『家族の歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990「嫁女の家帰属」 55頁
 (註4)廣瀬隆司「明治民法施行前における妻の法的地位」『愛知学院大学論叢法学研究』28巻1・2号 1985.03 
 (註5)江守五夫 前掲書 57頁

2006/02/26

所功Vs竹田恒泰場外戦の所感

  今回は所功Vs竹田恒泰場外戦に関するコメントのみの軽い記事にします
2月17日にBS日テレ、及びCSch745日テレnews24、「デイリープラネット 金曜発言中」で皇室典範問題の討論番組があり、所功、西部邁、高森明勅、八木秀次、竹田恒泰、小林節らが出演したらしい。うちのテレビはBS・CS放送が映らないので見てませんが、この番組の収録が放映の数日前にあり、終了後の控え室で所功教授と竹田恒泰氏の間で口論があったことが、「竹田恒泰日記」ブログの2月14日の記事にあります。長文になりますが、要所を引用します。

 「竹田恒泰日記」2月14日

‥‥所氏の私に対する攻撃的な姿勢は、控え室に戻った後も続きました。
 所氏は、寛仁親王殿下のエッセイの話を持ち出し、そのエッセイに側室の復活について記されていることを述べて、私に意見を求めました。
 私は「少なくとも現代社会で側室の復活は現実性がありません。ただし、遠い未来においては価値観が変わる可能性はないでしょうか?所先生はこの価値観が300年先まで維持されるという確信がおありなのですか?」と、逆に質問を投げかけた。
 すると所氏は、鬼の首を取ったように「竹田さんは側室を肯定するのですね。分かりました、以降方々で私は、旧皇族の竹田氏が側室を肯定したと口外することにします。」
 この人は私に喧嘩を売ってきたのです。よほど私に個人的な嫌悪感を抱いているのでしょう。その控え室には、出演者6名、司会2名、その他関係者複数がいましたが、場が凍りつきました。
 私はすかさず所氏を強く非難しました。「私は、300年後に価値観が変わっていない確信があるか、ないか、尋ねただけであり、側室を肯定するなどとは一言もいっていない。私の側室に対する考え方は自分の本に記したとおりであり、それ以上でもなければ、それ以下でもない。揚げ足をとっておいて、しかも方々で口外するなどというのは何事か。なんて失礼な言い方をするのだ。」
 私が、所氏の質問に答えずに、逆に質問をしたということを述べると、所氏は「私の質問に答えなさい!」ときた。この人は私に命令するほど偉いのだろうか??私は次のように答えた。「私はあなたの問いに答える義務はないと思う。回答を強要される筋合いはない。」
 周囲は私と所氏との問答に釘付けになっていたのですが、さすがに所氏の横暴な態度と、揚げ足を取る卑怯な論法にうんざりしたのか、出演者の一人、西部邁先生が所氏にこう言いました。「いくらなんでも竹田さんに失礼だ。あなた(所氏)の話はひどすぎる。」周囲のスタッフもびっくりした様子でしたが、その内の一人は「すくなくともこの席の話はオフレコですので、口外するなどは控えてください」二人の助け舟をもらいました。‥‥

 
 所功教授が執拗に側室制度に関する質問をしたというのはたぶんこういうことです。
 
 昨年11月3日読売新聞に要旨が掲載された柏朋会発行の冊子の随想「とどのおしゃべり-近況雑感-」という寛仁親王のエッセーですが、原文では「④嘗ての様に“側室”を置くという手もあります。私は大賛成ですが、国内外共に今の世相では少々難しいか‥‥」とあるそうです。
 私は昨年11月19日(土)国士舘大学日本政教研究所の秋期シンポジウム「皇位継承をめぐって」を聴きにいきましたが所功京都産業大学教授がパネリストの一人で、読売新聞の要旨が「私は大賛成ですが」をカットしたこと。後追いの朝日新聞にいたっては側室復活の提案それ自体をカットして掲載したことを怒っていて、寛仁親王が側室復活に肯定的な見解を示されたことを非難していました。
 その趣旨は当日の配布資料『伊勢青々』第60号(平成17年11月10日)という冊子に掲載されている所功の「寛仁親王の『ひとり言』に対する管見」という記事に示されています。
 所功教授は寛仁親王殿下の提案である「①臣籍降下された元皇族の皇籍復帰②現在の女性皇族(内親王)に養子を元皇族(男系)から取る事が出来る様に定め、その方に皇位継承権を与える。(差し当たり内廷皇族と直宮のみに留める)③元皇族に、廃絶となった宮家(例=秩父宮・高松宮)の祭祀を継承して戴き再興する。(将来の常陸宮・三笠宮家もこの範疇に入る)」について逐一批判してます。ここではそれらの論評を省略しますが、③と関連して桂宮家が幕末に女性当主を立てた例に言及している。これは仁孝第三皇女淑子内親王である。内親王は天保十一年閑院宮愛仁親王と婚約したが、天保十三年に親王が薨ぜられた。文久二年異母弟・節仁親王の薨後空主となっていた桂宮家を継承、慶応二年准三后、一品に叙されている。これは婚約者を失った内親王を遇するためのものだろう。淑子内親王は独身を貫いており、明治14年内親王薨去により継嗣がないため桂宮家は断絶した。この先例では女性当主はあくまでも独身であり、今回の有識者会議のような入夫によって女系宮家を継承していくものではないのである。淑子内親王の例をもって女系宮家を導き出す論理性はない。
 
 そして問題の側室復活提案批判ですが、所功教授はこういうのである。
 「さらに『④嘗ての様に“側室”を置くという手もあります。私は大賛成ですが』云々といわれる。しかし、これは“雑感”ですまされない過激な“放言”と評するほかない。確かに歴代の約半数が「御側室との間のお子様」であり、それゆえ何とか男系男子継承を維持しえてきたのであるが、それを明確に拒絶して近代的な常識の一夫一婦制を確立されたのは、皇太子裕仁親王=昭和天皇にほかならない。その大御心を無視して、側室復活(庶子継承)大賛成論を主張されるのであれば、まず御自身で実践してみられるべきであろう。その結果、妃殿下や二人の女王(大学生)がどんなお気持ちになられるか、申すまでもあるまい。」
 要するに、側室復活云々は、昭和天皇の大御心を無視するものでけしからんと言っているわけですが、後段の部分は暴言のようにも思える。
 ひとくちに側室制度といっても、時代によっては、正式に入侍していない女性を側妾とすることは非難の対象になりうる。たとえば藤原得子は鳥羽上皇の殊寵を蒙り懐妊にまでいたった。藤原得子の母が左大臣源俊房女とはいえ、善勝寺流藤原氏は中級貴族で、女御として立てられるような家格ではない。正式に上皇の宮に入侍したわけではない。上皇による得子の溺愛、痴態に関する情報は逐一天皇に報されていたらしい。長承三年16歳と若く純粋な崇徳天皇は、上皇をかえりみることもなく、母后(待賢門院)の名誉を傷つけるものとして激怒され、得子の親族や、鳥羽上皇近臣に厳しい勅処分を下したのである(角田文衛『待賢門院藤原璋子の生涯』朝日選書1985 208頁以下参照)。このことは、天皇と上皇の対立の要因にもなっているが、そのように上皇であっても正式に上皇の宮に入侍していない女性に手を出したために政治問題となることがあるのである。
 そういうこともあり側室復活というならまず自ら実践されてはいかがとは言い過ぎだし、失礼ではないかとも思う。
 竹田恒泰氏の見解については論評しませんが、要するに所功氏は、竹田恒泰氏に執拗に質問して、側室復活に肯定的な見解を引き出そうと誘導していたのではないか。少しでも肯定的なニュアンスがあれば、それを口外して、この人は昭和天皇の大御心を無視しているからけしからんと攻撃の材料を得ることになるので有利とみていたのではないでしょうか。
 
 私は、所功氏よりずうっとリベラルな思想なので昭和天皇の宮中改革至上主義みたいな考え方はとらない。だから寛仁親王のエッセーに違和感は全然ないし、それも検討課題としてよいと思う。私自身初回のブログの「はじめに」と9月1日ブログで後宮制度の再構築に言及しています。この点は側室制度に否定的な八木秀次氏らとも見解は異なります。ただ、優先順位としては、有識者会議や女系論者の旧皇族の属籍復帰否定の反駁が先決であり、だからこそ10月17日ブログでは旧皇族の属籍を復す方向で男系継承を堅持すべきであると主張してきた。まず有識者会議の結論と女系容認論者の理屈を徹底的に潰すことが第一でそれもできていない段階では、とりあえず側室制度提案は棚上げである。
 
 川西正彦(平成18年2月26日-その2)

3月4日追記

 所功『伊勢青々』第60号(平成17年11月10日)「寛仁親王の『ひとり言』に対する管見」のうち、青色で引用した部分は、所功『皇位継承のあり方』PHP新書2006年1月30日新刊を本日購入して目を通したところ、125頁にもほぼ同内容で記されていました。なお、同書についてはあらためて批判する予定。

2006/02/19

田中卓女系容認論反駁(2)

  やたらと前置きが長くて恐縮しますが、今回は前回を補足する程度の小幅な内容にとどめ、田中卓反駁の核心については次回以降とします。

川西正彦(平成18年2月19日)

 前回2月5日ブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_13a3.html

 前回の補足

 田中卓『諸君』3月号論文の「゛天照大神を母系とする子孫″であれば、男でも女でも、皇位につかれて何の不都合もないのである。つまり母系にせよ、明瞭に皇統につながるお方が「即位」して、三種神器をうけ継がれ、さらに大嘗祭を経て、「皇位」につかれれば「天皇」なのである」(64頁)という見解が、厳然たる男系による万世一系の皇統譜の規範性、万世一系という日本固有の美質を明確に否定する奇妙な説であり、到底容認できないことについて前回述べました。

 前回、天皇に姓がないが、姓概念を否定して議論することはできない。この点で田中卓論文は全くインチキだと書きました。田中卓は「皇統に関して男系とか女系とか言い出したのは、西洋の学問を摂取した明治以来のことで、管見では、それ以前に議論になったことはない」(64頁)とも言っているが、だからといって女系容認という方向に結論づけるのは屁理屈というほかない。
 男系継承は自明な事柄であるから、近世以前は男系継承を疑う余地など全くないから議論にならないだけである。令制皇親概念、世襲宮家もそうですが父系単系出自の自然血統主義の親族概念で、皇胤ないし王胤でなければ皇位継承者たりえないという観念は自明である。例えば前回引用した花園上皇の『誡太子書』「 吾朝は皇胤一統なり」がそうですし、慈円(天台座主-関白藤原忠通六男)の『愚管抄』巻七に
「日本ノ国ノナライハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国」(註1)
「コノ日本国ハ、初ヨリ王胤ハホカヘウツルコトナシ。臣下ノ家又サダメヲカレヌ。ソノマゝニテイカナル事イデクレドモ、ケフマデタガハズ‥‥」(註2)
 神武天皇より王胤によって皇位が継承されてきた。自明の事柄ですが、男でも女でも不都合はないという田中卓博士は『愚管抄』のこの見解を否定しますか。
 
 北畠親房の『神皇正統記』(序論)
「彼国(天竺)の初の民主も、衆のためにえらびたてられしより相続せり。又世くだりては、その種姓もおほくほろぼされて、勢力あれば下劣の種も国主となり、あまさへ五天竺を統領するやからもありき。
 震旦又ことみだりがはしき国なり。昔世すなほに道ただしかりし時も、賢をえらびてさづくるあとありしにより、一種をさだむる事なし。乱世になるまゝに、力をもちて国をあらそふ。かゝれば、民間より出でゝ位に居たるもあり、戎狄より起て国を奪へるも有。或は累世の臣として其君をしのぎ、つゐに譲をえたるもあり。伏犧氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさいふにたらざる者哉。
 唯我国のみ天地ひらけし初より、今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓のなかにをきても、をのずと傍より伝給しすら、猶正にかへる道ありてぞたもちましましける。是併神明の御誓あらたにして、余国にことなるべきいはれなり」(註3)
 天竺とはインドの古称、震旦とは中国です。村井章介の解釈は「「神国」たる日本と「みだりがはしき」天竺・震旦とのちがいは、天子の「氏姓」が易わるか否かに求められる。」としてます。「一種姓」も女系を含まない概念であることは当然です。ところが田中卓は「古来、皇室は他の氏族と区別する必要はなく、天皇(古くは大王)の家と断然隔絶されていたからである。」(65頁)と非常に混乱した見解を述べてますが、田中卓博士は北畠親房の神国日本は「一種姓」で天子の氏姓が易わらないのが外国と異なるという考え方を否定しますか。
 
 令制皇親、親王や諸王の範疇が父系単系出自集団であることはいうまでもないから、男でも女でも不都合はないとする田中卓説が無茶苦茶だということは前回述べましたが、東アジア世界における「王」号については西嶋定生(註4)の説明がわかりやすいので要約して引用する。「王」というのは春秋時代には最高の君主を意味するが、戦国時代に有力な諸侯が「王」を自称したので地位が相対化した。漢王朝においては帝室一族のみに「王」号を称しうるが、「王」は帝室一族のみならず、外夷の君長にも王号が与えられた。そうしたことで、「王」は皇帝によってあたえられる最高の爵位となる。「王」は臣礼をもって皇帝に服従し、印綬賜与によって初めて許されるものであるから、独立した君主権を意味しない。なお卑弥呼が「親魏倭王」に冊封されたが印綬賜与はない。勝手に「王」名号を自称するのは、皇帝の支配秩序を乱す非法になる。そういう性格のもので、爵位であるから、姓概念とも違う。
 1月20日新刊の吉田孝(古代史専攻-青山学院大学名誉教授)の『歴史のなかの天皇』岩波新書を読みましたが、「王」と「姓」という項目があって、唐制との違いに言及されている(60頁)。唐制では「王・公・侯・伯・子・男」の爵位は承襲者(一般に嫡子)の単独継承が原則であるが、日本律令の「王」(天皇の二世~五世)は嫡子に限らず、しかも嫡庶、男女を問わず父系で一律に継承された。要するに、承襲者だけの「王」名号が中国、日本は、父系で天皇に繋がれば、嫡庶男女を問わずすべて「王」名号を称するのである。但し、「「王」族の急増をもたらした。その結果、「賜姓」による臣籍降下が日常化し、「王」も「姓」の一種とみなされるようになる。」と吉田孝は説明している。
 「王」名号を称しうる皇親は父系で天皇に繋がってなければならない。女系で天皇に繋がっても「王」名号を称されることはないという規則性がある。だから、男でも女でも不都合はないとする田中卓説は令制の基本的な制度を全く無視する無茶苦茶な見解なのである。

 吉田定房奏状こそ真に価値のある諫言だ
 
 寛仁親王への御諫言という田中卓論文は後醍醐天皇の御精神を仰ぐとして「後醍醐天皇は、何とおっしゃったか。『今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし。』と」(69頁)それゆえ、女系天皇の新例をひらいていいんだみたいな含意を示唆する言葉で論文をしめくくっている。女性天皇・女系天皇容認を未来の先例とする急進的な改革をやろうと煽っているわけですが、このレトリックは異常なものである。
 これは『梅松論』が伝える言葉だが、「朕が新儀」とは具体的に何かという点については村井章介から引用する。「延喜・天暦の治にかえれ」のスローガンのもとに関白鷹司冬教を解任、その究極的な意図は将軍・執権はおろか摂政・関白・院など天皇の独裁を掣肘するすべての機関を否定することにあった。また太政官の議定官会議を許さず、八省卿を天皇直属の執政官に位置づけ、特定の家系に特定の官職や知行国が長期にわたって相伝する体制も否定した。天皇独裁体制のために、先例、家格の序列、官位相当などの貴族層の伝統的な秩序観念を乱暴に踏みにじるもので、北畠親房・顕家親子のような腹心とも路線のずれを生じさせるものだった(註5)。
 ここでは建武中興の評価に踏み込まないが、仮にこうした空前絶後の急進的政治改革を「朕が新儀」として評価する立場をとるとしても、思想的内実は万世一系、皇孫思想を前提とするものある。つまり後述する正中の変の釈明書にみられる、後醍醐天皇が北条氏の天下管領を否定する根拠を「戎夷」という出自に求めたこと(註6)。いずれにせよ政府改革、朝廷政治の刷新と皇位継承は全く別の次元の事柄であるから、後醍醐天皇の御精神を仰ぐことから女系を導き出す論理性など全くない。

 また田中卓は花園天皇の宸記が後醍醐天皇を「聖主」「政道の中興」と称賛されていることを引用するが(69頁)、これも一面的な取り上げ方のようにも思う。花園上皇は正中の変の収拾過程で後醍醐天皇の有徳を疑う言説を記している。『花園院宸記』元亨四年十一月十四日の条である。正中の変において、密謀が露見した際に後醍醐天皇は万里小路宣房に釈明書を持たせて関東に下向させた。曰く、「関東は戎夷なり。天下管領然るべからず。率土之民、皆、皇恩を荷ふ。聖主の謀反と称すべからず。ただし、陰謀の輩あらば、法に任せて尋沙汰すべし」(註7)。関東者戎夷也とし、率土之民という王土王民思想がみられる。この天皇統治思想は正義であるとしても、釈明書が釈明になっていないという点で過激な内容といえる。花園上皇はこの釈明書について、「多被引本文(漢籍を引用することが多く)、其文体如宋朝之文章」と仰せになる。一方で、「但此書猶難信用」としながらも「若為実事者(もし本当ならば)」、「君臣皆是狂人歟」とまで非難なさっている(註8)。
 関連していうと本郷和人(東大史料編纂所助教授)「文保の和談」(註9)がこんなことを言っている。
 「K子氏は先日某学会で報告者を務めたが、この時つい「後醍醐天皇の建武政権はパロディだ」と口をすべらせ、まわりから「おれのメシのタネを奪う気か」とばかりに批判の集中砲火を浴びたという。けれども私には、彼女の発言を一笑に付すことはできそうにない。文保の和談時の朝廷と幕府の関係をふまえてみると、後醍醐天皇の倒幕行動はあまりに唐突な感じがするからである。過去との脈絡において今日を捉えることをせず、さしたる準備もなしに(何より自前の軍事力がない)倒幕に突進するさまは、改革とか異形とか何やら耳に心地よい言葉ではなく、みもふたもない「別の語」で形容した方が適切であるように思う。この点で私は、『日記』元亨四年十一月十四日条の花園上皇の意見に全く賛成である。」結果論として幕府は崩壊したが、後醍醐の討幕は破天荒な行動であった。
 
 そこで後醍醐天皇の近臣で討幕計画を諫言した吉田定房奏状(村井章介によれば書かれたのは元亨元年1321という)を前回に続いて取り上げておきたい。
「異朝は紹運の躰頗る中興多し。蓋し是れ異姓更に出ずる故のみ。本朝の刹利(国王)天祚一種(いっしょう)なるが故に、陵遅日に甚だしく、中興期(ご)なし」(註10)
 中国では異姓の天子が出現することで、政治改革(中興)が行われてきた。日本で中興の実があがらないのは、天子の種がただひとつだけだからだとする。異姓に帝位が継承されない天祚一種が日本であることをはっきり述べている。これは女系を含む概念でありうるはずがない。村田章介は「あえて天皇制の正統性の根源に直截に疑いをなげかける驚くべき言説である」(註11)と評するが、これは無謀な討幕計画を諫止するための逆説論で吉田定房の真意が万世一系の否定ではないことはいうまでもない。
 定房は討幕を不可とする理由として「今時関東之武士無逆天理之志歟」「革命之今時関東無妖、其儀聞上」と天は今のところ関東をみはなしていないことを、しつこく繰り返す(註11)。そのうえで、
 「今の時、草創の叡慮若し時機に叶わざれば、忽ち敗北の憂あらんか、天嗣殆ど此に尽きなんか。本朝の安否此の時に在り。豈に聖慮を廻らさざらんや」(註12)。

 村井章介によると定房の危機意識は、後醍醐天皇の運命を超えて、王家断絶の可能性、「本朝の安否」にむけられていた。なにがなんでもみずからの子孫に皇統を伝えようとする後醍醐の暴走は危険因子であったとする(註13)。
  吉田定房(名家-実務的中級貴族)の諫言は全く正しい。第一に重要なのは、本朝の安否である。後醍醐天皇の運命、傍系の一代限りの天皇になってしまうかどうかという、二の次の問題である。「忽ち敗北の憂あらんか、天嗣殆ど此に尽きなんか」も大げさな表現にも思えるが、リスクの大きい政策判断を諫言するのは当然のことである。
  個人の運命より大義という観点からすれば、雅子妃や愛子内親王の運命が第一義とされるのは間違いである。それと同じことである。

なお、本筋の議論と外れるが、後醍醐が討幕を企てた要因については複雑な皇位継承問題が絡んでいるので、一応説明することとして、田中卓反駁は次回以降核心的な議論を行うこととする。
  皇位継承問題の幕府の斡旋案にもとづく「文保譲国」いわゆる「文保御和談」(1317)は、結果的に花園天皇譲位後、尊治親王(後醍醐)-邦良親王(後二条皇子)-量仁親王(光厳)という皇位継承順となり、大覚寺統が二代続くことになって持明院統にとって不利益なものとなった。その背景として本郷和人(註14)は正和四年の京極為兼第二次配流事件をあげている。西園寺実兼が伏見上皇と為兼が幕府に異図を抱いていると讒したことによるが、為兼土佐配流後も伏見上皇が幕府を敵視しているとの噂が囁かれ、上皇は必死の弁明を試み、無実を訴えたため幕府は罪を問わなかったが、このことは持明院統にとって不利に働いたとみられる。
  なお「文保御和談」当時執権北条高時、実権者は秋田城介(安達)時顕と長崎円喜だが、連署金沢貞顕は六波羅探題として十年以上宮廷社会との接触があったことから、特に大覚寺統の人々と深くつながっていた。後醍醐践祚後の邦良親王立坊には貞顕の影響力の行使があったといわれている(註15)。
  しかし、本質的には後宇多法皇が正嫡と定めた後二条の第一皇子邦良親王への相続を明確にするためのものであり、幕府が後宇多法皇の御意を尊重したためであろう。後宇多法皇の延慶元年(1308)閏八月の宸翰によればその御領をすべて尊治親王(後醍醐)に譲与せられ、親王一期の後は、悉く邦良親王の子孫に伝へ、尊治親王の子孫は賢明の器済世の才あるとも臣下として之に仕へよと特に誡められている(註16)。つまり尊治親王は一期相続の中継ぎ的即位で大覚寺統ではあくまでも傍流の扱い、「一代の主」と引導を渡されていた。
  そもそも尊治親王立坊は後二条天皇の早世と邦良親王が病弱であったこと。さらに、亀山法皇末子で法皇の遺詔で皇位継承者とされた恒明親王の即位の可能性を潰す意図もあったといわれている。つまり花園践祚の前年(徳治二年1307)に「恒明親王立坊事案徳治二年」とする事書が関東に送られ、これは持明院統サイドの文書であるが亀山法皇の「素意」に反する後宇多を幸道に反する不幸の仁と批判し、恒明親王を次期東宮とすべきことが述べられていた(註17)。つまり伏見上皇(持明院統)と恒明生母昭訓門院が提携していた。要するに皇位継承争いは持明院統と大覚寺統反主流派が提携して大覚寺統主流派に対抗するという複雑な様相になった。しかし東宮に立ったのは後二条の弟で一代限りの中継ぎである尊治親王(後醍醐)だった。後宇多法皇は、鎌倉幕府に使者(六条有房、吉田定房)を派遣し政治工作を行っていた。後宇多の構想は尊治立坊で恒明の望みを塞いで、持明院統の策動を潰すとともに嫡孫邦良親王の成長を待つというものであったとみられている。もっとも神皇正統記は、後宇多が「若し邦良親王早世の御事あらば、この御末(後醍醐の子孫)継体あるべし」と御遺勅された旨載せている。これは微妙な問題になるが、大覚寺統の正嫡・後嗣と定められたのはあくまでも後二条系、一品邦良親王なのであり、この理屈では後醍醐系より、邦良親王系に皇位継承の正統性が有することとなる。
  正中元年(1324)後宇多法皇が崩御になられると、東宮邦良親王は不安を感じ、皇位継承の速やかならんことを熱望し、しきりに使者を遣わして鎌倉幕府に説かしめ、催促した(つまり後醍醐の譲位を促すよう幕府が圧力をかけるよう熱望)。それがために後醍醐天皇との間がはなはだしく疎隔し、険悪となった。後醍醐は邦良親王の運動を阻止するため吉田定房を鎌倉に下向させ、対幕府工作を行った。後醍醐の政権維持には定房が貢献している。邦良親王は嘉暦元年(1326)三月二十日東宮のまま病により薨じた。薨後、東宮候補には大覚寺統から三人、邦良親王の同母弟邦省親王、亀山皇子恒明親王、後醍醐皇子尊良親王が推薦され、東宮ポストを争った。つまり大覚寺統が三派に分裂したことを意味するが、「文保御和談」の線で持明院統嫡流量仁親王立坊となった。
  量仁親王(光厳天皇)の次が問題になるが、幕府が後二条-邦良親王流が大覚寺統正嫡という認識をとる以上、後醍醐系は疎外されることになる。ということで、後醍醐がみずからの子孫の皇統を形成するには討幕という選択肢しかなかった。
 
    
(註1)村井章介『中世の国家と在地社会』校倉書房2005「易姓革命の思想と天皇制」217頁、初出、永原慶二他編『講座・前近代の天皇』5世界史のなかの天皇 青木書店、1995
(註2)村井章介 前掲書238頁
(註3)村井章介 前掲書241頁
(註4)西嶋定生『倭国の出現  東アジア世界のなかの日本』東京大学出版会  1999
(註5)村井章介「南北朝の動乱」村井章介編『日本の時代史10南北朝の動乱』吉川弘文館2003 39~40頁
(註6)村井章介 註1の230頁
(註7)筧敏博 日本の歴史第10巻『蒙古襲来と徳政令』講談社2001 358頁

(註8)ウェブサイト中世日本紀略「鎌倉幕府の衰亡(3)~正中の変~」http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/histo4.htm
(註9)本郷和人「文保の和談」『UP』281号 96.3

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/

業績一覧、新稿の一覧にこの記事がある。

(註10)村井章介 註1の219頁
(註11)村井章介 『中世の国家と在地社会』校倉書房2005「吉田定房奏状はいつ書かれたか」248頁、初出『日本歴史』587号 1997年4月
(註12)村井章介 註1の222頁
(註13)村井章介 『中世の国家と在地社会』校倉書房2005「吉田定房奏状はいつ書かれたか」
(註14)本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』東京大学出版会1995 174頁
(註15)筧雅博 日本の歴史第10巻『蒙古襲来と徳政令』講談社2001 345頁
(註16)今井林太郎「中世の朝幕関係」歴史科学協議会編「歴史科学大系17巻天皇制の歴史(上)」校倉書房1987所収 173頁
 延慶元年閏八月譲状 村井章介 南北朝の動乱」村井章介編『日本の時代史10南北朝の動乱』吉川弘文館2003 の11頁参照。
(註17)森茂暁 『鎌倉時代の朝幕関係』思文閣1991「皇統の対立と幕府の対応-『恒明親王立坊事書案徳治二年』をめぐって-」、森茂暁『南朝全史』講談社メチエ 2005年 38頁以下。

2006/02/05

田中卓女系容認論反駁(1)

 皇室典範改正問題は依然として厳しい情勢のように思う。小泉首相の強気発言は相変わらずだし、日本経済新聞2月4日(朝刊)3面の記事では「首相に近い中川秀直政調会長らは予定どおり進めるべきだとの立場。党内閣部会で今月中旬から非公式な法案の調整に入り、三月上旬には国会提出準備を終えたい考えだ」と報道されているほか、4日の報道では山崎拓前副総裁も今国会で成立させたほうがよいと発言している。
 もうひとつ気がかりなのが2月1日に発売された『諸君』3月号54頁以下の田中卓博士の「女系天皇で問題がありません」という寛仁親王に御諫言するという趣旨の論文で有識者会議支持の論陣を張っていることの影響だ(以下田中卓論文と略す)。これに先立ち、通常国会に合わせて、永田町と宮内庁、官邸周辺に田中卓『諸君』論文とほぼ同じ内容らしい小冊子が配布され、保守系議員が動揺しているとの情報をトラックバックにより知りました。これは小泉の強気発言をサポートしているとみてよいだろう。
 田中卓皇學館大学名誉教授は女系容認論者では最大級の人物になると思う。早速発売日に購入して読んでますが、明らかに誤った歴史認識があり、非常に奇妙な説が述べられている。ほうっておけないので、反駁に着手したいと思います。なお、田中卓説と所功説は重なる部分があり、所功京都産業大学教授の女系容認論も関連して反駁します。
 
川西正彦(平成18年2月5日)

 田中卓が女系容認論者だということは、11月19日(土)国士舘大学日本政教研究所の秋期シンポジウム「皇位継承をめぐって」(バネリストは嵐義人・高橋紘・所功・百地章で、コーディネーターが藤森馨)の所功京都産業大学教授の報告資料で知ってました。
 それは『伊勢青々』11月10日号田中卓「゛皇位継承論″に欠ける一の精神」というもので「「万世一系」の歴史の誇りは、皇族内の男女性別の問題よりも「君臣の義」を正すことにあり、千数百年間、臣下が皇位を覬覦する革命がなかったということです」(田中論文の引用は赤字)という記述から女系容認論であることがわかりました。
 所功は田中卓と頻繁に電話で連絡をとっていて、皇位継承問題はほとんど同意見と言ってました。つまり女系容認であるということです。
 であるから、早めに反駁しておくべきだったが、年末が忙しかったこともあり、思いの外、対策が遅れてしまった。しかしここが正念場、徹底的に反駁し潰しておきたい。
 
1 非王姓者が皇婿でも男系に戻りうるという奇説に論理性は全くない
 
 田中卓論文(引用-赤色)でまず取り上げたいのが〔14〕皇室には「氏」がないという特色を理解せよ(64~65頁)で述べられている、非常識な奇説である。

(1) 女系の概念規定の疑問

 田中卓は「普通、民間で「女系」という場合は、女から女へと相続の続く家系、婿養子が何代も続く家系、母方の系統、等の意味である」(64頁)と概念規定するがこれから問題がある。女から女へと相続の続く家系というのは人類学でいう母系制社会のことではないか。つまり台湾のアミ族のような子供は母方の姓を継ぎ、財産、地位は女の子供が継承する母系制社会のことだと思います。
 しかし女系継承批判というのはそういう意味での女系ではない。女性天皇、「女系天皇」を容認することにより非単系、双系もしくは無系になってしまって、125代続いた男系の皇統譜が途絶するという事態が、「皇統ハ男系二限リ女系ノ所出二及バザルハ皇家ノ成法ナリ‥‥祖宗ノ皇統トハ一系ノ正統ヲ承クル皇胤ヲ謂フ」という旧皇室典範義解に違背し、万世一系の男系の皇統譜、皇孫思想、皇胤一統という伝統を否定するのみならず、易姓革命を是認することになるということです。
 日本的家制度では婿養子と外孫を養嗣子とするケースが女系継承の典型的な事例である。婿養子、外孫が異姓であれば、血統として父系は中切れになる。私はそのような意味で女系を用いるのが普通の感覚だと思う。
 例えば忠臣蔵で必ず登場する出羽米沢藩主(第四代)上杉綱憲ですが(註1)、実父は吉良義央で、実母が第二代米沢藩主上杉定勝女富子(第三代綱勝の妹)ですから、先々代からみて外孫、先代からみて外甥を養嗣子としたことになりますが、これは異姓養子ですが、非血縁継承ではなく、血縁としては女を介して繋がっているので、こういうケースを女系継承というわけです。また小泉純一郎の祖父は逓信大臣を務めた小泉又次郎、祖父が防衛庁長官を務めた小泉純也ですが、小泉純也は旧姓鮫島で婿養子ですから、これも純一郎は女を介して祖父又次郎に繋がっているということで女系継承ということになります。
 もっとも、入婿や外孫を養嗣子とする場合でも同族内婚の同姓で父系で共通の祖先であるならば男系を維持しているといえますが、皇位継承では一般社会の家名継承とは違って、異姓養子、非血縁継承はむろんのこと、非王姓者を父とする純然たる意味での女系継承は前例がなく、男系継承が血筋で中切れになり、他姓の血筋に帝位が移ることは事実上の易姓革命になるから、容認できないということを女系反対論者は主張しているわけです。であるから、田中卓が母系社会の概念を持ち込んで論述するのは的はずれ。そして次のような奇説が展開されるのである。

(2)母方で皇族に繋がっていれば、三種神器を承継し、大嘗祭を経て「皇位」につけば「天皇」にかわりないという奇説 

 田中卓は次のようにいう「「女系の男子(A)」であっても、後に即位されて「天皇」となり、娶られた皇妃(皇族出身以外を含む)との間に「男の御子(B)」が生まれて、そのお方(B)が皇位につかれると、この系統は母方にあたる女帝(乙)の血をうけられているので、古来からの皇族の継承とみて、皇統は「再び」男系にかえると考えてもよい。」(64頁)

 これを例えていうと、醍醐皇女康子内親王が藤原師輔に降嫁した例がありますが、仮に康子内親王が女帝、藤原師輔を皇婿として、その間に生まれた藤原公季(太政大臣)が即位して、その男子、藤原実成(中納言兼大宰帥)が皇位につくと、皇統は再び「男系」にといえるのでしょうか。そんなばかなことはない。これは帝位の異姓簒奪、事実上の易姓禅譲革命になりますから、田中卓説は全く論理性がない。このケースでは公季が皇胤でないので、この時点で男系が中切れで途絶したことになり、「古来からの皇族の継承」とみることはできません。
 
 「古来からの皇族の継承」に関連していうと、所功が6月8日の有識者会議ヒアリング「「皇位」とは何かということを考えます場合に、よく万世一系という言葉が使われますけれども、その意味は、それを祖宗以来の皇統に属する皇族在籍の方々のみが継承されてきたということであり、それを一般国民が絶対に覬覦(きゆ)しない、ということであろうと思います。」と述べてますが、田中卓論文もほぼ同じ趣旨を述べてます。神武天皇の建国以来、皇族の籍を有される一系の天子が、千数百年にわたって、一貫した統治者であり、他系(皇族以外の諸氏)の権力者が帝位を簒奪した例がないという、世界にも類をみない歴史の事実」(66頁)と述べている。
 所功も田中卓も女系容認ですから、女系であれ皇族で繋がっていれば伝統に反しないという脈絡で読者は理解してしまうと、とんでもないことである。
 所功が「 皇統に属する皇族在籍の方々のみが継承されてきた」のが「万世一系」だと概念規定する出所が村尾次郎の『よみがえる日本の心』(日本教文社、昭和四十三年二月刊)所収「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」の「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味」とする見解であるということは1月9日ブログで説明してますが、原著者の村尾次郎が「必ず皇族の籍」というのは、万世一系を父子の相続で続いていく概念、あるいは家名の継承と混同した見解を示す人がいるがそうではなく、傍系親族の皇親、宮家を含めた帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたことを言っていて、直系継承指向の強い庶民の家の継承と皇位の継承は違うんだとの趣旨です。むしろ所功が「女系の天皇だからといって皇室そのものがズタズタになってしまうことなどあり得ません。これは卑近すぎる例かもしれませんが、一般の商家や伝統芸能の家元が養子をとった場合でも、家そのもの(家名・家系)が変わってしまうことなどありえないでしょう」(註2)というように家名相続のように皇位継承を類比してしまう考え方を示しており、原著者の論旨に真っ向から反対することを言っているわけです。
 村尾説では男系継承は自明の前提であり、女系も含めて皇族で繋がっていれば万世一系だみたいなことは全く言っていません。
 ところが所功は、原著の脈絡を無視して、直系継承にこだわり、旧宮家の復帰を排除する理屈としてこの文章を引用しているのみならず、さらにすすんでこの引用が独り歩きして、皇族で繋がっていれば男系、女系を問わないとする有識者会議の論拠にもされてしまってるわけです。
 
 一方、田中卓ですが、次のような伝統的規範に明確に反する博士独自の特異で奇妙な説を打ち出している。
 「゛天照大神を母系とする子孫″であれば、男でも女でも、皇位につかれて何の不都合もないのである。つまり母系にせよ、明瞭に皇統につながるお方が「即位」して、三種神器をうけ継がれ、さらに大嘗祭を経て、「皇位」につかれれば「天皇」なのである。子供は父母から生まれるのであって、男系とか女系の差別より、父母で一家をなすというのがというのが日本古来の考えかただからそれを母系(又は女系)といっても男系といっても、差し支えなく、問題とはならない」(64頁)
 厳然たる男系による万世一系の皇統譜の規範性を明確に否定している。そんなばかなことがあるか。再三引用してますが花園上皇の『誡太子書』(註3)は、元徳二年(1330年)二月、花園上皇の猶子で甥の皇太子量仁親王(光厳)に参らせたものだが次のようにいう。

「‥‥所以に秦政強しと雖も、漢にあわされ、隋煬盛なりと雖も、唐に滅ぼさるゝなり。而るに諂諛の愚人以為へらく、吾朝は皇胤一統し、彼の外国の徳を以て鼎を遷し、勢に依りて鹿を逐ふに同じからず。故に徳微なりと雖も、隣国窺覦の危無く、政乱ると雖も、異姓簒奪の恐無し、是れ其の宗廟社稷の助け余国に卓礫する者なり。(以下略)」

 大略して要旨は日本においては外国のように禅譲放伐の例はなく、異姓簒奪はないという観念(それは諂諛の愚人にしても常識的な観念であるが)に安住することなく君徳涵養の必要を皇太子に説いたものだが、異姓簒奪とは、禅譲放伐その他いかんにかかわらず父系出自で天皇に繋がらない者が帝位を継承すれば論理的に全てである。女系を容認して非王姓者が帝位継承者の父となれば、異姓間の帝位継承となり、事実上の易姓禅譲革命にほかならない。
 「 吾朝は皇胤一統なり」とは男系継承とは違うともいうんですか。男でも女でも差し支えないなどというのは明確に規範に違背するのに田中卓はそれを認めようというとんでもないことだ。
 後醍醐天皇の討幕構想に対する諫言として知られている、吉田定房奏状では「異朝は紹運の躰頗る中興多し。蓋し是れ異姓更に出づる故のみ。本朝の刹利(国王)天祚一種なるが故に、陵遅日に甚だしく、中興期なし」(註4)とあり、日本で政治改革(中興)の実があがらなかったのは日本の天子が一種だからだ(異朝はその逆)という、あえて天皇制の根源に直截に疑いをかけることによって逆説的な議論を展開してますが、ここでも異姓に帝位が継承されない天祚一種が日本であることをはっきり述べている。これは女系を含む概念でありうるはずがない。
 官文娜によると(註5)中国の「姓」概念は、もともと内在的で観察できない血縁関係を外在化し、ある父系血縁親族集団と他の父系血縁親族集団を区別するものである。我が国の姓概念も歴史的過程で変質しているとはいえ、中国の姓概念を基本的には継受しているのだから、父系でも母系でもよいなどというのは暴論である。令制における皇親という天皇の親族が父系単系出自集団であり、姓の概念に相当するとみてよいのである。

 例えば中国では日本の内親王に相当する皇帝の娘を公主といいますが、大唐帝国中宗の娘安楽公主は、母の韋后とともに権勢を有しました。母と共謀で帝権を握ろうとし,安楽公主を皇太女にする約束で,母娘により中宗は毒殺され、温王李重茂を帝位につけたが李隆基(のちの玄宗)が挙兵し,韋后と安楽公主は殺された。安楽公主は則天武后の甥武三思の子武崇訓に降嫁し、後に武廷秀に再嫁しているが、もし安楽公主の権勢が続いて皇太女から女帝になって武氏とのあいだの男子に帝位が移ると仮定した場合、李氏大唐帝国は簒奪され、武氏の周に王朝が交替することとなり、易姓禅譲革命になります。女帝に皇婿はそれと同じこと。
 
 また田中卓は「父母で一家をなすというのがというのが日本古来の考えかた」と言ってますが、古代の家族については諸説あり古代対偶婚説や貴族社会で嫡妻観念が明確になったのは十世紀もしくは九世紀というような議論があることや、光明皇后の皇后宮が内裏外であったことなどから、古くは皇后が独立した居所としていたことなどから、我が国の古代は例えばキリスト教の婚姻理念のように羈絆性の強い夫婦、婚姻家族の在り方とは少し違うとの心証を得ていますので、そのように言い切っていいのかかなり疑問がある。
 
(3)田中卓説は皇親の制や、王氏概念といった父系出自の親族概念を無視して、女系でも男系でも問題ないと言っており、歴史的伝統的脈絡をいっさい無視する無茶苦茶なもの

 天皇に姓がないが、姓概念を否定して議論することはできない。この点で田中卓論文はは全くインチキだ。非王姓の嫡妻の后妃も含めて皇族とされたのは近代皇室典範であって、令制の皇親の制(9月25日ブログ参照)や、王氏という概念が父系出自の自然血統の親族概念(非皇親、非王姓者の配偶者は含まない-婚姻家族概念とは違う)で端的にいえば性的無差別概念でない以上、父系でも母系でも問題ないというのは令制皇親制度、歴史と伝統を無視した新奇な説になる。
 天皇に姓がないのは日本は中国王権に冊封されていないので君主が姓を冠称する必要が全くないからだと思う。姓を賜与・認定する主体であり、改賜姓は天皇大権であった。
 しかし王姓と云ふ概念は正史にも記されている。天武天皇八年(689)正月詔に「凡当正月之節(中略)其諸王者、雖母非王姓者莫拝。凡諸臣亦莫拝卑母。雖正月節復准比」とあり、諸王に対し「非王姓」母の拝礼の禁止を定めるものだが、同年三月に天皇は越智に行幸され斉明天皇陵を参拝されているが、これは卑母腹の大友皇子(弘文天皇)に対して皇位継承の正当性を誇示する意義があるとみなすことができ、「非王姓」母の拝礼の禁止は天智皇女を母とする草壁皇子と大津皇子が皇位継承者にふさわしいことを示唆する政治的意義があると解釈されている(註6)。
 王姓者という概念が正史に記されているのだから、天皇に姓はなくても田中卓のように姓概念を否定して論じるのは全くナンセンスというほかない。
 『宋史』四九一にある十世紀末に入宋した奝然の記録であるが、奝然は職員令と「王年代記」持参し、日本の国柄を「東の奥州、黄金を産し、西の別島、白銀を出し、もって貢賦をなす。国王、王をもって姓となし、伝襲して今の国王に至ること六四世」として「王年代記」を提示した。奝然を召見した宋の太宗は「其の国王、一姓伝継、臣下みな世官」と聞いて嘆息したというが、「国王、王をもって姓となし」「一姓伝継」という国制意識をみてとることができる(註7)。従って継嗣が男系出自にあたらない、非王姓であれば、それは易姓革命である。
 次に「王氏」という概念を考えてみよう。角田文衛は「王氏」について八~九世紀における概念と断ったうえで、「臣籍に降った旧王族とその男系の子孫をさす。天武天皇十三年以降は、真人の姓を帯びていた。橘宿禰は王氏。これは特別の事情による例外」(註8)という。角田説では良岑朝臣や在原朝臣、源朝臣なども王氏ということになる。
 しかし王氏爵で王氏というのは皇親諸王のことであって皇親賜姓の皇別氏族のことではない。氏爵というのは平安時代にはじまるもので、毎年正月叙位に王氏及び源氏藤原氏橘氏等諸氏のなかで、正六位の者のなかから一人づつ推挙して叙爵して恩典に浴させる制度であり、蔵人、式部、民部、外記、史などの巡爵、諸司労、左右近衛将監、外衛、馬寮の叙爵、諸院、諸宮との御給とでセットになっていた。毎年正月だけではなく即位叙位、大嘗会叙位と19年に一度十一月朔日が冬至になることを祝う朔旦叙位があった。これらの特別な叙位には伴氏、佐伯氏、和気氏、百済王氏も氏爵も加えられ、なんと戦国時代の後柏原天皇の治世まで続いていた。田島公の論文を読んではじめて知ったのだが、伴氏や百済王氏はとっくに没落してしまった氏族であるが、戦国時代にも氏爵がなされているのである。これら詳細については参考文献(註9)をみていただくこととして、王氏爵の推挙者は十世紀には親王中の官位第一の者、例えば延喜十二年には式部卿是忠親王となっているが、後に諸王のなかの長者となった。
 氏爵の恩典に浴するのは諸王であって親王ではないが、十世紀においては式部卿や中務卿に任用されている第一親王が推挙者であることからみて、皇親(天皇の親族、父系出自)が王氏という概念になっているとみることもできる。とにかく『殿暦』『玉葉』その他の史料で「王氏爵」を説明している以上王氏概念を否定できない。叙爵者については阿哈馬江(Ahmadjan)のホームページ王氏爵表を御覧ください。
 だから田中卓の女系でも男系でも差し支えないという爆発的な新奇な説は無茶苦茶であり、皇親の制や王氏(父系単系出自の親族概念)という歴史的、伝統的脈絡を否定することになり、到底容認できるものではない。

つづく

(註1)参考-田原昇「近世大名における養子相続と幕藩制社会」『史学』67巻2号
(註2)「特集女系天皇と国家の品格を問う「天皇制度」崩壊の秋」所功・長谷川三千子・八木秀次の鼎談『諸君』2006年2月号137頁
(註3)岩崎小弥太『花園天皇』吉川弘文館人物叢書、1962 52頁
橋本義彦「誡太子書の皇統観」『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館、1996 21頁
(註4)村井章介「南北朝の動乱」村井章介編『日本の時代史10南北朝の動乱』吉川弘文館2003 22頁
(註5)官文娜「氏族系譜における非出自系譜の性格」『日中親族構造の比較研究』思文閣出版(京都)2005 128頁
(註6)井上亘『日本古代の天皇と祭儀』第一章「「天武系」王権再考」吉川弘文館1998 35頁
(註7)保立道久『歴史学をみつめ直す-封建制概念放棄』校倉書房2004、367頁以下
(註8)角田文衛『律令国家の展開』塙書房1965「天皇権力と皇親権力」18頁
(註9)宇根俊範「氏爵と氏長者」坂本賞三編『王朝国家国政史の研究』吉川弘文館1987、田島公「「氏爵」の成立」『史林』71巻1号1988

2006/01/28

国会議員の先生方へ

女性天皇に全面的に反対です
 

川西正彦(平成18年1月28日その2)

 自分のように下流の者が、畏れ多くも皇位継承云々と論じるのは憚られることではありますが、しかしながら政府の皇室典範改正案が事実上異姓簒奪容認、事実上の易姓禅譲革命合法化であり、皇朝、日本国を滅ぼす最悪の内容となっているゆえ、生意気ではあるが、やむにやまれず意見を述べることをどうかお許しください。我國體の精華を永遠に亙って護持することは、畏くも皇室を本宗と仰ぎ奉る臣民に課せられた責務であります。神聖不可侵の皇位國體の危機に際して、傍観できません。従って僭越ながら国会議員の先生方に法改正に賛同されないよう伏して願うものであります。
 私は、明確に女性立太子・女性天皇・女性当主・女系宮家に強く反対です。これらについては当ブログ「川西正彦の公共政策研究」に女帝即位絶対反対論と題するかなり長文の記事を多数掲載し、有識者会議の批判もあります。素人作文ですがご笑覧いただければ幸甚に存じます。
ブログ総目次http://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_8f5a.html
 (私の氏名でヤフー・グーグル等の検索エンジンなら上位で出てきます)

 ここでは、有識者会議報告書でインチキな理屈を二点だけ指摘しておきます。こんなひどい報告書はないです。御皇室と国会議員を騙そうとしている。容易にインチキが見破ることができます。こんなものを認めないでほしい。

1.世襲原則の勝手な解釈は全く論理性がない

 1.(3)女子や女系の皇族への皇位継承資格の拡大の検討のウ伝統で次の記述があります。「皇位の継承における最も基本的な伝統が、世襲、すなわち天皇の血統に属する皇族による継承であることは、憲法において、皇位継承に関しては世襲の原則のみが明記されていることにも表れており、また、多くの国民の合意するところ」と述べ、女系であっても「皇族による継承であること」によって伝統を維持できるという底意で記されている。

このことにより、「女子や女系の皇族に拡大することは、社会の変化に対応しながら、世襲という天皇の制度にとって最も基本的な伝統を、将来にわたって安定的に維持するという意義を有するものである。」とされ皇族で繋いでいれば伝統に反しないと強弁しているわけですが、次に述べるようにこの理屈は破綻している。

 皇位継承が「皇族による継承であること」としているのは何を引用したものかというと、その出所ですが、たぶん女系継承容認で有識者会議に大きな影響を与えている、所功京都産業大学教授が平成17年6月8日の有識者会議ヒアリングで提出した論文「皇位継承の在り方に関する管見」PDF。4~5頁の「男女皇族とも皇籍を離れたものは復帰できない」とする理由を述べた次の部分だろう。
 5頁にこうあります。「旧憲法の第一条に明文化された「万世一系の天皇」というのも、「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味」に解される(註-村尾次郎氏『よみがえる日本の心』(日本教文社、昭和四十三年二月刊)所収「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」以下略)。」
 しかし、原著の歴史家の村尾次郎の著書を読みますと、皇族で繋がっていれば女系でもよいなどとは全くいってない。それは「他姓の者に皇位が移されたことは絶対にない」としていることからも明白です。

 むしろこの著作は基本的に京口元吉の万世一系虚構論を論駁しているものだということがわかる。
 つまり、後桃園天皇に後嗣なく閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳が後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定められた。光格天皇でありますが、後桃園天皇とは七親等離れた傍系親族です。京口元吉は今の民法で六親等までが親類なので、これは他人さまが入って跡をついだも同然だから万世一系じゃないとか言っているわけです。
 これに対して村尾次郎は「京口氏は、皇位の継承を一般庶民の家でよくある家名の相続と混同しています」と批判し、「民法の親等概念などをもちだしてきて親類だの他人だのというのは、皇位継承論としては全くでたらめ」と論駁しているわけです。前記村尾氏の著作を引用します。
 「万世一系を否定する人は、一系を純然たる「父子一系」と定義してこの原則を皇統にあてがい、 勝手にきめたその原則に照らしてみると皇統は六系にも七系にもなる、戦前に宣伝された「万世一系」はありゃ国民をあざむく大嘘なのだと称している」「皇統断絶の危険を避けるために、ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵が生まれてきます」「典範制定以前の慣習時代には、それぞれの時代の社会制度に応じて皇族の範囲がきめられているのです」「江戸時代になると宮家の創立があって、この宮家制度は今日に及び、皇統の連綿のための備えになっているわけです。皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと。それがすなわち「万世一系」の史実です」これは正論です。「ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵」と述べているから、この論旨から旧宮家排除という論理、ましてや女系容認を導き出すことはできません。
 むしろ所功が皇位継承を一般庶民の家名相続のような趣旨で女系を容認していることが、原著者の論旨に反しています。所功は原著の脈絡を無視して意図的に歪めた解釈でこの著作の一部を引用したため、ただ皇族で繋がってればいいんだみたいな誤った理屈にすり替えられ、独り歩きしてしまっているのです。だから有識者会議の理屈というのは非常にインチキなんです。詳論1月9日ブログ

2.出生数の確率論はインチキで全く論理性がない

.有識者会議は「少子化」問題を強引に結びつけて、男系継承では皇位が安定的に継承されていくことは極めて困難と断定しているが、その際出生数の試算に用いられているのが合計特殊出生率 1.29-2004年というデータである。報告書は1.(2)男系継承維持の条件と社会の変化で「一般社会から配偶者を迎えるとするならば、社会の出生動向は皇室とも無関係ではあり得ない」として合計特殊出生率による確率論を展開するがこれは全くインチキだ。そもそも一般社会の出生動向と関連させて論じる前提についても疑問がないわけではないが、仮に有識者会議の発想を肯定して人口統計学上の指標を参考にするとしても、それは完結出生児数(結婚持続期間15~19年の夫婦の平均出生子ども数2.23-2002年)や、合計結婚出生率(夫婦の平均出生児数1.9水準といわれている)ではないのか。皇位継承資格者に限らず、ある社会階層に属するある家系(同族)の出生数試算としては、1.29という数値はあまりにも低すぎて合理的なものではない。
 合計特殊出生率は夫婦の出生力を示す指標ではない。非婚・既婚・離別者いかんにかかわらず女性の年齢別出生率を15~49歳にわたって合計した数値で、女性がその年齢別出生率にしたがって子どもを生んだ場合、生涯に生む平均の子ども数に相当するとされているが、結婚の動向により左右される。合計特殊出生率が低下している重要な要因は20代~30代の有配偶率の低下、独身者の割合が高くなっていることである。もっとも合計結婚出生率が低下していることは夫婦の出産ペースが落ちていることが指摘されているが、そもそも有配偶率、初婚年齢などは、社会的、経済的、文化的諸状況によって変位する変数であって、社会階層によっても異なるもの。これを単純に出生数試算の根拠にしているのは全く論理性がない。

 現世代を5人(男性)と仮定した場合に誕生する男系男子の子孫の数

有識者会議の試算-インチキ!
(合計特殊出生率1.29-2004年)

有識者会議報告書参考資料〔参考15〕PDF

1世(子) 3.23 (5×1.29×1/2)
2世(孫)  2.08 (3.23×1.29×1/2)
3世(曾孫)1.34 (2.08×1.29×1/2)

私の試算
(完結出生児数2.23-2002年)

1世(子)  5.72(5×2.23×0.513)
2世(孫)   6.54 (5.72×2.23×0.513)
3世(曾孫) 7.48 (6.54×2.23×0.513)

(なぜ完結出生児数-国立社会保障・人口問題研究所第12回出生動向調査2002年の数値2.23かということですが、30年間2.2水準で安定した数値である完結出生児数による試算が合理的に思える。生涯非婚男子皇族や事故で結婚期間の短いケースも想定しなければならないとしても、一般社会のように経済的理由による出生数調整、避妊や中絶による出生数のコントロールはあまり必要ないと考えられるから、平均値を採用することにより、そうした不確定要因を相殺できると判断した。もし皇室の出生力をホワイトカラーより非農自営に準拠できるとするならば2.27という数値でもよいわけである。前掲第11回(1997)調査PDF9頁の以下の数値参照)。また人口統計では正確にいうと男子の産まれる割合は女子の105~106%であるから、私の試算では0.513を掛けた。

1997夫の現在職業別完結出生児数
農林漁業   2.64
非農自営  2.27
ブルーカラー  2.26
ホワイトカラー 2.17
 
 百歩譲って私の試算が甘いとしても、有識者会議の試算は次のデータから、全く不合理であることがわかる。国立社会保障・人口問題研究所第12回出生動向調査2002年のⅢ夫婦の出生力「表Ⅲ-2-1結婚持続期間別にみた平均出生子ども数」結婚持続期間 
0~4年     0.75
5~9年     1.71
10~14年   2.04
15~19年   2.23
20~24年   2.30

 結婚期間0~4年の0.75と、5~9年の 1.71の中間が、有識者会議の試算で用いられている合計特殊出産数の1.29です。ということは、結婚5~6年での離別、離婚を前提として試算してしまっていることになります。これは御皇室を侮辱するものです。国会議員をこんないいかげんな理屈で騙そうとする、有識者会議はきわめて悪質なのです。詳論12月26日ブログ

2006/01/09

所功の女系継承容認論駁・皇室典範に関する有識者会議報告書論駁(その1)

 目次
1.旧皇族の皇籍復帰を否定する理由に論理性がない。
  また所功は歴史学者の村尾次郎の万世一系の定義などをもちだしているが、この論旨から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。

(1)臣籍に降下した者が属籍を復した例は歴史上多く、所功と有識者会議は例外性を強調しすぎている
(2)明治四十年の皇室典範増補で属籍復帰を否定していても当時とは状況が異なる
(3)臣籍に降ったケースでも皇位継承候補者たりうる歴史上の事例
(4)所功のいう村尾次郎の万世一系の定義から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ

 川西正彦(平成18年1月9日)

 所功京都産業大学教授の女系継承容認論が有識者会議の方向性に大きな影響を与え、所功の説が報告書で多く採用されている。ここでは所功が平成17年6月8日の有識者会議ヒアリングで提出した論文「皇位継承の在り方に関する管見」PDFを中心(以下「管見」と略す。とくに断らない限りこの論文から引用)についてそのインチキと非論理性を明らかにするとともに、併せて同趣旨を採用している有識者会議報告書を批判するものである。
 所功の説はインチキと非論理的な説明があまりにも多い。順序にこだわらず、一つづつ潰していくこととする。
 所功の論文からの引用は青色、有識者会議報告書は赤色とします。
 
 1.旧皇族の皇籍復帰を否定する理由に論理性がない。
  また所功は歴史学者の村尾次郎の万世一系の定義などをもちだしているが、この論旨から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。
 

 有識者会議報告書は旧皇族の皇籍復帰を明確に否定する理由のひとつに
「いったん皇族の身分を離れた者が再度皇族となったり、もともと皇族でなかった者が皇族になったりすることは、これまでの歴史の中で極めて異例なことであり、さらにそのような者が皇位に即いたのは平安時代の二例しかない(この二例は、短期間の皇籍離脱であり、また、天皇の近親者(皇子)であった点などで、いわゆる旧皇族の事例とは異なる。)。これは、皇族と国民の身分を厳格に峻別することにより、皇族の身分等をめぐる各種の混乱が生じることを避けるという実質的な意味を持つ伝統であり、この点には現在でも十分な配慮が必要である」

 上記の部分についてはまず所功の論文の4頁以下の「男女皇族とも皇籍を離れたものは復帰できない」とする理由を述べた次の部分を根拠にしているものと思われる。所説を採用しているのでまずこの論旨について批判しておきたい。

(三)皇族による“"万世一系”の継承 
 ‥‥古来の男系男子による皇位継承を今後も何とか維持するためには、皇族の養子制度を復活する前提として「‥‥昭和二十二年十月に皇籍を離脱し臣籍降下された旧宮家の男子が個別に皇籍できるようにする」べきだという提案が八木秀次氏により再三主張されている。‥‥この提案には賛同できない。
 最近も八木氏は‥‥、天皇の「血統原理」は神武天皇の遺伝子を今に継承している‥‥男系男子でしか継承できない」とか「大嘗祭を行う資格もそのような血筋に限られる」という(註-略)。 しかし、これはいかがだろうか。もし神武天皇の男系男子孫に「Y染色体の刻印」が伝わっている。ということを皇位継承の資格要件とすればそのような男性は全国にたくさんいる。既に平安初期(八一五年)撰進の『新撰姓氏録』現存抄本(京畿内のみ)によれば、神武天皇より嵯峨天皇までの歴代から分かれた男系男子孫の「皇別」氏族が三三五もあり(註-略)、それに続く賜姓源氏や平氏などもきわめて多い。
 むしろ根本的に重要なことは、天皇の子孫として「皇族」身分の範囲内にあり、皇位継承としての自覚をもっておられるかどうかにほかならない。旧憲法の第一条に明文化された「万世一系の天皇」というのも、「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味」に解される(註-村尾次郎氏『よみがえる日本の心』(日本教文社、昭和四十三年二月刊)所収「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」。なお、『太平記』にも「三種の神器は、古より継体の君、位を天に受けさせ給ふ」とあるごとく、皇位の継承者には、正当性を示す「三種の神器」が不可欠の要件とされてきた。ちなみに里見岸雄氏『萬世一系の天皇』(錦正社、昭和三十六年十一月刊)も大旨同趣。同氏『憲法・典範改正案』(同上、三十三年七月刊)では、皇位継承者として「皇族男子のない時は、皇統に属する皇族女子」を加え、その結婚(皇統出自の名族の入婿)も認める案が示されている)。
 (中略)ところが、八木氏とほぼ同意見の小堀桂一郎博士は、「人臣から皇族へ、復帰の実例」として三年余り臣籍にあった59宇多天皇のケースを見習うように説いておられる(註-略)。しかし‥‥この点には賛成しえない。
 何となれば、当時の立て役者である藤原基経は、要するに権勢家として恣意的に皇位を左右したのであって、このような策動を「政治家の器量」とか「遵依すべき道理」などと評価することは到底できないと思われる(註-略)。
 既に明治四十年、「皇室典範増補」の第六条で、「皇族ノ臣籍二入りタル者ハ皇族ニ復帰スルコトヲ得ズ」と規定した際も、その義解で「臣籍二降リシ皇族二シテ‥‥皇位ヲ践ミタマヒシ宇多天皇ノ例ナキニ非ラズト雖‥‥恒範ト為スベカラズ」と断っている。
 このような「上下ノ名分」(皇族と一般国民の区別)を厳守することは、国家秩序の維持安定に最も重要だからこそ、その法意を新典範(第五・第六・第十五条)も受け継いだのである‥‥」
 

(1)臣籍に降下した者が属籍を復した例は歴史上多く、所功と有識者会議は例外性を強調しすぎている

 上記の論旨は全面的に承服できない。いったん臣籍降下した者が属籍を復した例は歴史上かなり多数ある。有識者会議が強調するような極めて例外というほどのことではない。既にこのブログで述べていることとかなり重複しますが、あらためて述べます。
 『師守記』貞和三年六月十四日条裏書に「賜姓後立親王人」の先例として中納言源是忠(光孝男)、大蔵卿源盛明(醍醐男)、左大臣源兼明(醍醐男)、右兵衛督源昭平(村上男)、中納言兼征夷大将軍源惟康(宗尊親王男)、権中納言源忠房の計六例(註1)が挙げられてます、。大外記中原師守の日記ですが、これだけではないはず。賜姓後諸王に復帰した例も奈良時代に多数あります。
 平成17年5月31日の有識者会議のヒアリングにおける八木秀次の意見陳述資料(PDF)にもそうした例が記載されてます。そこで歴史上の事例について若干個別にみていきたいと思います。
 まず和気王は状況いかんでは皇位継承候補にもなりえた皇親である。舎人親王の孫で天武曾孫(三世王)父は御原王である。天平勝宝七年(755)、岡真人賜姓、任因幡掾、いったん臣籍に降下したが、天平宝字二年(758)、舎人親王に崇道尽敬皇帝号が追号されたことにより、二世王として属籍を復し、従四位下、同八年参議従三位兵部卿にのぼりつめた。仲麻呂(恵美押勝)の乱の後、淳仁天皇の兄弟、船親王は隠岐、池田親王は土佐配流となったが、和気王は、仲麻呂の謀反を密告するなどの功績により、天平神護元年(765)功田五〇町を賜った。しかし称徳女帝と道鏡を批判する謀反が発覚し、死を賜った(伊豆配流の途中絞殺)(註2)。
 天武曾孫、舎人親王の孫、笠王についてみてみます。天平宝字八年(764)十月九日、淳仁天皇が廃位配流となったとき、故守部王の男子笠王ら三名を、三長真人賜姓の上丹後国に配流(続紀宝亀二年七月乙未条)。宝亀二年(771)七月、故守部王の男王、故三原王の男王、船王の子孫、故三嶋王の女王らを皇籍に復す。同年九月、故守部王の男王らに山辺真人を賜姓。宝亀五年(774)十二月、山辺真人笠(もと笠王)を皇籍に復す(註3)。というように、いったん臣籍に降って属籍を復帰、再度臣籍に降下したがまた、皇籍に復すというようなケースがあり、臣籍に降ることが、属籍の復帰の可能性つまり皇位継承資格を喪失することを意味するものではないと考える
 また、後嵯峨孫の第七代鎌倉将軍源惟康については青山幹哉が賜姓と親王宣下の政治史的意義について論じている(註4)、将軍は源氏-藤原氏と推移したが、建長四年(1252)皇族将軍を迎えた。後嵯峨第一皇子第六代将軍宗尊親王である。しかし親王は文永三年(1266)京都に追放され、その息惟康王(三歳)が擁立されたが、文永七年(1270)十二月に賜姓されて源惟康となった。源氏将軍の再登場について「武家の正統君主」の出現(つまり将軍は源氏であるべきだ)を願望する安達泰盛の関与を青山氏が想定されているが議論があるところである
 弘安十年(1287)年東使佐々木宗綱は関東申次と東宮践祚つまり伏見天皇践祚、亀山院政の中止を要求する事書が手交されたが、源惟康の親王宣下も奏請され立親王、しかし親王は正応二年(1289)に父と同じく追放されているので鎌倉殿在任期間の大半は源姓であった。弘安八年(1285)霜月騒動で泰盛派が滅亡したため、幕府の政権変動に伴い源氏将軍でなく親王将軍路線に軌道修正されたものとみられている。これも臣籍から皇親に属籍を復した先例である。なお、将軍惟康王-源惟康は大河ドラマ「北条時宗」でも登場したように記憶しておりこの間の事情は一般にもよく知られていると思う。
 
 ところで諸王の員数であるが、竹島寛によると、『日本三代実録』清和天皇の貞観十二年(870年)二月二十日条に、従四位上豊前王は、当時王禄に預かる諸王の数五六百に及ぶを以て、賜禄の王の御員数に制限を加えんことを奏請し、勅して四百二十九方を定員とせられたが、この員数は在京諸王であり、京外の諸王を加えるともっと多数であるとされている。また一条天皇の長保 の頃(11世紀初頭)でもなお二百方が女王禄に預かっていたという(註5)。このように平安時代は諸王の数は多かった。しかし、季禄・節禄は10世紀半ばに崩壊し、11世紀末に太政官の受領功過定による監察体制が機能しなくなって、12世紀以降限定的に支給されていた位禄も支給されなくなり、12世紀以降は、皇親諸王を支える禄制は崩壊していったとみられる。中世以降は出家して法親王となるケースが多くなったほか、管領所領を相続しない限り、皇親諸王の王統を継承していくことは難しくなった。王胤の環境は厳しく一家を立てえず僧籍で一生を終わるのを常とした。
 そうしたなかで、順徳院流王統(岩倉宮・四辻宮)が、順徳上皇が承久の乱に深く関与し佐渡配流とされ鎌倉幕府に警戒されていたにもかかわらず、七条院領という経済的基盤を有していたため、四辻宮は室町時代まで存続した。ここで四辻宮善統親王と甥の岩倉宮彦仁王との所領相続をめぐる争いは複雑な経過なので深入りしないが、順徳曾孫の岩倉宮系の源忠房が後宇多上皇に頗る愛され猶子となり権中納言に昇進したのみならず、親王宣下され属籍を復した(註6)。このケースについては八木秀次が有識者会議のヒアリングでとくに言及されている。
 また系譜上順徳曾孫の四辻宮源善成(源氏物語研究など古典学の権威で歌人としても活躍した)であるが親王宣下を望んだことが知られている。小川剛生が忠房親王の実子である可能性を言及されているが(註6)、そうすると実系で順徳玄孫になり、令制の四世王に相当することになる。延文三年(1356年)善成王は源姓を賜り従三位に叙された。源善成は二条良基の猶子という格で昇進し、応永元年(1394)年には内大臣に、当時は足利義満が朝廷の人事を掌握していたが、翌二年には、管領斯波義将の口添えで左大臣にまで昇進した。善成は左大臣を辞退して親王宣下を望んだが、斯波義将に反対され到仕出家した。善成は古典学者として歌壇において名望があり、斯波義将ら上流武家を多く門弟としていて尊敬されていたので左大臣にまで昇進した。
 小川剛生は源善成が親王宣下を望んだその背景として、忠房親王の例を意識しており非現実的なものでなかったとする。大臣に昇った後に親王となったのは前中書王兼明親王の先例のみで、吉例でない。義将の反対もそんなところだろうと述べておられる。また南北朝時代に末流の王胤にも親王宣下が行われるようになったことを挙げている(註7)。
 これについては、10月16日ブログでも既に述べているとおり、常磐井宮恒明親王の孫(亀山曾孫)の満仁王二十八歳が永徳元年(1381)に足利義満の推挙により親王宣下された例や、時代は下るが、後二条五世孫の木寺宮邦康王が後崇光院貞成親王の猶子となって親王宣下された例をあげることができるが、これらは属籍を復したのではなく宮家としての家格を確立するための親王宣下である。
 以上述べたように属籍を復した例は多いのだが、有識者会議報告書参考資料の45頁「皇籍を離脱した者の子で、その後皇族となった例は宇多天皇の子の事例がみられるのみ」として例外性を強調し、旧宮家の皇籍復帰を否定する理由としている。
 しかし 皇親の数が少なくなった中世以降は王胤の環境が厳しく、僧籍に入って王統は途絶するケースがほとんどなのである。令制の禄制・国家的給与は11世紀末までに崩壊しており、また親王宣下でなければ皇親に復帰する意味はなく、親王宣下は常磐井宮・木寺宮・伏見宮のように皇位継承の正統性を主張できる由緒があるか、管領所領を相続できなければ実質的に親王宣下は難しいのであって、皇籍を離脱した者の子で、その後皇族となった例が中世以降ないのは当然のことだろう。有識者会議がことさら例外性を強調し過ぎである。

(2)明治四十年の皇室典範増補で属籍復帰を否定していても当時とは状況が異なる

 また所功は明治四十年の皇室典範増補が皇族に復すことを否定した。このことの意義をことさら強調するが、この点については明治皇室典範制定までの経緯から考えてみたい(註8)。
 幕末期より以前は世襲親王家として伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮の四宮家しかなかったのである。しかし、幕末動乱期文久三年(1862)二月伏見宮邦家親王の第一王子青蓮院宮尊融親王が還俗し中川宮朝彦親王(後に賀陽宮、久邇宮に改称)となったことを皮切りに(11月23日ブログ参照)、明治初年以降も宮門跡還俗により伏見宮系の宮家が次々と創設された。
 しかし、明治三年十二月に四親王家の存続を認めるが、新たに取り建てられた親王家は二代めより姓を賜って華族に列する布告が達せられ、皇親の範囲を限定することになったが(なお明治四年五月に諸門跡比丘尼御所号が廃止されている)、この政策は有名無実になった。
 明治五年に北白川宮智成親王薨後を兄の能久王に継がせ、明治九年には華頂宮博経親王の王子博厚王を明治天皇の特旨をもって皇族に列するなどして明治十年代後半の段階で伏見宮・有栖川宮・閑院宮・山階宮・華頂宮・東伏見宮・梨本宮・北白川宮・久邇宮の九宮家が存在し、明治二十二年の皇室典範制定まで賜姓降下で華族に列したケースは一件もなかった。そうしたことで内規取調局(明治十五年設置)の調査立案段階では宮家の数を限定し、皇族数を限定しようとした。皇族の品位を保持するためにも多すぎるのは好ましくないという考えがあったようだ。
 島善高によれば(註9)井上毅が内規取調案に反対したためか成案にならなかったのだという。つまり井上は「継嗣ヲ広メ皇基ヲ固クスル」ためには五世以下を華族に列するのは不可であり、親王宣下も光仁帝以来の古礼であるから一概に抹殺できないだろう。親王宣下の存続、四親王家存続等を主張、皇室の繁栄のためにも永遠に皇族の身分に留まるべきであるとの立場をとった。
 高久嶺之介(註10)によれば、「皇室典範艸案」段階では、宮家の数を限定しようとし「皇位継承権者増加スルニ従ヒ皇位ヲ距タルコト五世以下疎遠ノ皇族ヨリ逓次臣籍二列シ爵ヲ授ク」と規定したが「皇室典範枢密院諮詢案」では賜姓降下規定が削除され永世皇族制となった。周囲の批判的雰囲気をおしてこの制度の採用は伊藤博文、井上毅によるものだったという。井上は枢密院会議で「五世以下皇族ニアラサルトスレハ忽チ御先代二差支ヲ生スヘシ」「皇葉ノ御繁栄マシマサハ是レ誠ニ喜フヘキ事」と述べたという。
 ただ、明治皇室典範は、宗系紊乱を防ぐなどという口実で、第42条で養子を迎えて継嗣とすることができなくなった。これは永世皇族制を採用した妥協なのかもしれない。
 しかし江戸時代の世襲親王家(八条宮や高松宮・有栖川宮の例)はしばしば後嗣なく、天皇や上皇の皇子を継嗣として宮家が継承されたケースが少なくない。〔11月20日ブログ(八条宮相続の例)(高松宮-有栖川宮相続の例)参照〕。また閑院宮家も明治五年に伏見宮家の易宮(後の載仁親王)によって継承されている。世襲宮家の数が限定されていれば養子もしくは皇子や他の宮家の皇親が遺跡を継承していくことでなければ宮家は存続しないし、皇位継承の備えとなる候補の絶対数が不足してしまうことは江戸時代の例でも明らかである。
  にもかかわらず、幕末維新~明治にかけて宮家が急増したことと、諸門跡比丘尼御所の廃止により僧籍に入ることがなくなったこととも関連するが、皇族の員数を限定しようという動きがあった。しかし伊藤博文や井上毅により、永世皇族制を採用したためか養子も否定し、さらに明治四十年の増補で属籍復帰も否定したという脈絡であろうが(明治三十三年に賀陽宮、三十六年に東伏見宮、三十九年には竹田宮、朝香宮、東久邇宮が立てられており、宮家がさらに増加していたという事情)、今日、皇位継承資格者の絶対数が不足している危機的状況にあり、明治~昭和22年以前の皇族が多数現存していた時期の環境と異なる。所功のように明治四十年の皇室典範増補の規定にこだわるのは本末転倒。歴史的に古くから属籍復帰の事例があるのだから、中古の例に倣うべきである。

(3)臣籍に降ったケースでも皇位継承候補者たりうる

 所功がいうように、定省王が源定省だった期間が3年間で宇多天皇は例外的との見解を仮に受け容れるとしても、私は既に9月22日ブログで、安田政彦の「奈良時代後半における皇位継承には出家や皇親賜姓された者が有力候補として名を挙げられており出家や皇親賜姓が皇位継承資格の喪失とはみられていない」(註11)とする説を引用しているとおり、皇親男子の候補者が少ない状況や特殊な事情においては臣籍に降下した者でも皇位継承候補者たりうると考える。
 
 文室真人浄三・文室真人大市については臣籍に降下しても有力な候補者であった。称徳女帝は皇太子を立てることなく不予に陥り厳戒態勢がしかれた。『日本紀略』宝亀元年(770)八月癸巳条は「百川伝」を引いてそのときの皇嗣策定会議は激論紛糾したことを伝えられている。右大臣吉備真備が、天武孫で長親王の子、前大納言文室真人浄三(もと智努王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓、智努はのちに浄三と改名)を推薦したが、「有子十三人」を理由に排除されると、今度は浄三の弟の参議文室真人大市(もと大市王、天平勝宝四年九月文室真人賜姓)を擁立したが固辞された。一方左大臣藤原永手と宿奈麻呂、百川が白壁王(光仁天皇)を擁立するため立太子の当日宣命を偽作する非常手段をとったとされている。これを史実として確定できるかについては批判的な見解があり(註12)、私も偽作という点については疑問に思うし左大臣藤原永手が称徳朝を支えた実力者とみれば白壁王立太子で順当だと思うが、仮に史実とは違う可能性を認めるとしても称徳女帝のブレーンとして活躍し右大臣にまで昇進した吉備真備が浄三・大市を推薦し候補者として急浮上したという話が伝えられているということは、当時の貴族が臣籍に降下しても属籍を復して、立太子という手続きをとることもありうるという認識を示している。
 また天武曾孫、新田部親王の孫である氷上真人志計志麻呂と氷上真人川継の兄弟が、天武系王氏、しかも母が聖武皇女不破内親王で聖武とも近親であるため皇位継承者に担がれようとしたこと。とくに桓武天皇の治世の初期、延暦元年閏正月の川継の謀反については藤原浜成・大伴家持・大伴伯麻呂といった参議クラス、武官長老の坂上刈田麻呂をはじめ大量の連坐者を出したこと、さらに理由不明だが、左大臣藤原魚名の左降追放も川継の謀反との関連を想定する説もあり、相当な企画性を有した深刻な事件であった可能性がある(註13)。当時の貴族は第一に血統を重視しており臣籍に降下したことが、皇位継承資格を喪失するものではないとみることができる。
 陽成天皇遜位の後、『大鏡』が伝える左大臣源融(嵯峨源氏仁明猶子)が「いかがは。近き皇胤をたずねば、融らも侍は」と皇位継承に意欲をみせたところ、関白太政大臣藤原基経は「皇胤なれど、姓たまはりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例ある」と一蹴したエピソードについては、必ずしも賜姓源氏は皇位継承者たりえないという解釈をとる必要はない。当時は親王の数が多く、賜姓源氏まで候補者を拡大する必要はなかったし、政治家の実力としては基経が断然上であり、基経の意中は当初から一品式部卿時康親王(光孝天皇)であったと考えられるから、源融の軽口を一喝したということだろう。
  
(4)所功のいう村尾次郎の万世一系の定義から属籍復帰の否定を導き出す論理性など全くない。これはインチキだ。

 所功の「管見」は次のようにいう。「‥‥古来の男系男子による皇位継承を今後も何とか維持するためには、皇族の養子制度を復活する前提として『‥‥昭和二十二年十月に皇籍を離脱し臣籍降下された旧宮家の男子が個別に皇籍できるようにする』べきだという提案が八木秀次氏により再三主張されている。‥‥この提案には賛同できない。最近も八木氏は‥‥、天皇の『血統原理』は神武天皇の遺伝子を今に継承している‥‥男系男子でしか継承できない』とか『大嘗祭を行う資格もそのような血筋に限られる』という(註-略)。しかし、これはいかがだろうか‥‥(中略)‥‥ むしろ根本的に重要なことは、天皇の子孫として『皇族』身分の範囲内にあり、皇位継承としての自覚をもっておられるかどうかにほかならない。旧憲法の第一条に明文化された『万世一系の天皇』というのも、『天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味』に解される(註-村尾次郎氏『よみがえる日本の心』(日本教文社、昭和四十三年二月刊)以下略)。」
 つまり村尾次郎の「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され ‥‥皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことは絶対にないという意味」という「万世一系」の定義を所功は旧皇族皇籍復帰を排除する理由として挙げているが、これから述べる理由で全く論理性がないと私は断言する。
 この引用の解釈というのはきわめて悪質でインチキなのだ。つまり「天皇位が必ず皇族の籍を有せられる方によって継承され」という見解が原著者の論旨と離れて全く違った意味に独り歩きしてしまっている。それは所功が「管見」要点で「日本の天皇として本質的に重要なことは、男性か女性かではなく、国家・国民統合の象徴として公的な任務を存分に果たされること」などとして、女性天皇・女系天皇を容認していることから、この見解が男系・女系いかんにかかわらず皇族で繋がってればいいんだみたいに女系継承容認論に都合のよいように歪められて解釈される傾向になっていることだ。
 例えば有識者会議報告書Ⅲ-1-(3)-イ「今日、重要な意味を持つのは、男女の別や男系・女系の別ではなく、むしろ、皇族として生まれたことや皇室の中で成長されたことであると考えられる」という結論に所功説が採用されていることを看取できる。さらに1月3日ブログ で引用した『週刊文春』の2005年12月8日号(47巻47号)「女帝問題ご意見を『封印』された天皇・皇后両陛下のご真意」という記事におけるある有識者会議委員の発言
「皇室の歴史は"なんとなく男系"で繋がってきただけだと思いますよ。明治以前は典範もなく男系男子で繋げなくてはいけないという規則があったわけでもありません。側室が山ほどいて、たくさんの男子がいれば、当時の男性優位の社会では男の子が継ぐと考えられるのが当然ですから」(154頁)。
 これにみられるように、男系女系いかんにかかわらず皇族で繋がっていればいいんだみたいに極めて安易な発想の論拠とされてしまっているように思えるのである。
 それゆえ、所功の村尾次郎の引用による歪められた勝手な解釈は断乎容認するわけにはいかないのであります。
 
 そこでまず原著 村尾次郎『よみがえる日本の心-維新の靴音』日本教文社 昭和43年 1968 「天皇の万世一系をめぐる疑問に答える」129頁以下要所を引用します。

 「一系」の正しい意味
「皇統は万世一系ではない」という説は一部の歴史学者によって唱えられ‥‥それは一系の意味についてまったくの誤解、あるいは曲解から出てきたことであり、国民を迷わすも甚だしい説であると言わなくてはなりません。
 皇統一系とは、天皇位が必ず「皇族」に籍を有せられる方によって継承されてきたこと、つまり言葉を換えていえば、皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことが絶対にないという意味であって、「父から子への相続関係」で貫かれてきたという意味ではありません。万世一系を否定する人は、一系を純然たる「父子一系」と定義してこの原則を皇統にあてがい、 勝手にきめたその原則に照らしてみると皇統は六系にも七系にもなる、戦前に宣伝された「万世一系」はありゃ国民をあざむく大嘘なのだと称しているのです。‥‥‥‥皇室におかれては実に百二十四代を重ねておられるのです。国の中心に立たれ‥‥百代にあまって皇位と血統との一致の上に皇統を維持して来られたのですから、それがいかに困難なことであったか、よくよく考えるべきことだと思うのです。この困難を克服し、皇統断絶の危険を避けるために、ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵が生まれてきます。‥‥典範制定以前の慣習時代には、それぞれの時代の社会制度に応じて皇族の範囲がきめられているのです‥‥大化改新以来の律令制度では、天皇の御子(親王)から数えて四世、または五世の諸王までを「皇親」とし、当代の天皇に皇子や皇兄弟がなければこの皇親諸家の中から皇太子が選定されることになっていました。皇親であっても、姓を賜って臣籍に降る人がかなりあり、特に平安時代にはその現象が顕著になりましたから、皇親の人員は時代の下降、家族制度の変化とともにむしろ減少し、範囲も狭められてきました。鎌倉時代には、大覚寺統と持明院統の両皇統が交互に皇位を継承され、江戸時代になると宮家の創立があって、この宮家制度は今日に及び、皇統の連綿のための備えになっているわけです。皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと、それがすなわち「万世一系」の史実です。‥‥
 
 皇位の継承は家を継ぐのではなく位を継ぐこと
 参考までに、学者の誤った見方を紹介します。
 
 万世一系といいますが、僕の計算では万世七系ですよ。今の皇室は、六代前からの皇統でしょう。閑院宮から入って嗣いだのですが、今の民法で、六等親までが親類だというなら、他人さまが入ってその跡を継いでるんですよ。
 
 これは、講和が成立し、日本が独立を回復した昭和二十七年の七月に発行された総合雑誌『改造』の増刊号「生きるための日本史」の中の共同討議「日本史はいかに捏造されたか」の記事で、早稲田大学の京口元吉教授が述べているところです。京口氏は、皇位の継承を一般庶民の家でよくある家名の相続と混同しています。家名相続は他人の養子でもできますが、皇位の継承は家を継ぐ事ではなくて位を継ぐことであり、しかも皇族たる宮家の所生(しょしょう)という基礎条件の上にのみそのことは行われるのですから、今の民法の親等概念などをもちだしてきて親類だの他人だのと言うのは、皇位継承論としては全くでたらめです。とうていまじめな歴史家の学問的根拠にたった見解であるとみなしえません。

 
 以上が引用です。原著を読めば明らかなように村尾次郎博士は、いったん臣籍に降った皇親が属籍を復すことを否定するという脈絡で「天皇位が必ず「皇族」に籍を有せられる方によって継承」と言っていません。ましてや男系でも女系でもよいから皇族で繋げればいいんだなどとは全く言ってない。原著の趣旨を歪めてます。「つまり言葉を換えていえば、皇族以外の他姓の者に皇位が移されたことが絶対にないという意味」であるから女系容認論でないことは明らかです。そもそも、この本が出版された昭和43年というのは秋篠宮殿下は既に誕生されていた。その後、まさか女子が9人も続くなんてことは誰も想像していなかったことで、今日のような女帝容認論や皇室典範改正は政治日程には全く無かった。旧皇族排除の論理としてこの論文を引用することは、唐突というか不可解です。所功の論法は原著の文脈を無視して特定の文句を都合のよいように引用したこじつけとしか思えません。
 この論文は基本的に京口元吉の万世一系虚構論を論駁しているものだということがわかる。私は1950年代のことは生まれる前でよく知らないが、京口元吉のような勘違いの万世一系虚構論がわりあい広まっていたのかもしれない。そういう誤解を正しているのが村尾次郎博士です。
 つまり、後桃園天皇に後嗣なく閑院宮典仁親王の第六王子(東山天皇の曾孫)で聖護院への入寺が予定されていた祐宮(さちのみや)九歳が後桃園天皇女御藤原維子(近衛内前女)の養子にして皇位継承者に定められた。光格天皇でありますが、後桃園天皇とは七親等離れた傍系親族です。京口元吉は今の民法で六親等までが親類なので、これは他人さまが入って跡をついだも同然だから万世一系じゃないとか言っているわけです。
 これに対して村尾次郎は「京口氏は、皇位の継承を一般庶民の家でよくある家名の相続と混同しています」と批判し、「民法の親等概念などをもちだしてきて親類だの他人だのというのは、皇位継承論としては全くでたらめ」と論駁しているわけです。
 「万世一系を否定する人は、一系を純然たる「父子一系」と定義してこの原則を皇統にあてがい、 勝手にきめたその原則に照らしてみると皇統は六系にも七系にもなる、戦前に宣伝された「万世一系」はありゃ国民をあざむく大嘘なのだと称している」「皇統断絶の危険を避けるために、ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵が生まれてきます」「典範制定以前の慣習時代には、それぞれの時代の社会制度に応じて皇族の範囲がきめられているのです」「江戸時代になると宮家の創立があって、この宮家制度は今日に及び、皇統の連綿のための備えになっているわけです。皇室のぐるりに皇親、あるいは宮家があって、帯条の血統の幅のなかで皇位が他姓に移ることなく継承されてきたこと。それがすなわち「万世一系」の史実です」これは正論です。「ゆとりのある幅で皇族たる身分の範囲を定めておくという知恵」と述べているから、この論文から旧宮家排除という論理を導き出すことはできません。
 「万世一系」とは直系継承のことではない。それは誤解であって、傍系親族を含めた帯状の幅のなかで皇位を継承してきたという趣旨は、むしろ男系継承論の八木秀次(例えば「女性天皇容認論を排す 男系継承を守るため旧宮家から養子を迎えればよい」2004年9月号 Voice 「近代の天皇制度の基礎を築かれたといっていい光格天皇が傍系のご出身で、途中から図らずも皇位を継承されたという事実は、皇統とは何か、そして今日の皇統断絶の危機をどのようにして乗り越えるかについて考える際に大きな示唆を与えてくれる」という見解、あるいは小堀桂一郎「女性天皇の即位推進は皇室と日本国の弥栄に通ずるか」『正論』平成17年5月号の「直系の皇嗣(?)が女子しか居られない場合、皇位を継ぐべきは直系の皇女ではなくて傍系の男性皇族とした‥‥且つその傍系の皇胤を‥‥皇統譜(民間なら族譜)の上で直系に組み入れる、もしくは近づけるために、上皇や大行天皇の猶子とする、といふ手続きを履んだ」〔この見解を補足すると後花園天皇は後小松上皇の猶子として皇位を継承し、光格天皇は後桃園天皇女御藤原維子の猶子、藤原維子は皇太后となる〕という趣旨に類似しています。むしろ男系論者に有益な論文なのです。
 むしろ所功が家名の相続との類比により女系継承を容認しているので、京口元吉説にある意味で接近しており、村尾次郎の論文の趣旨に反しているのではないですか。

つづく

(註1)小川剛生『二条良基研究』笠間書院2005「附章 四辻善成の生涯」578頁の註(9)〔初出「四辻善成の生涯」『国語国文』69巻7号 2000〕
(註2)倉本一宏『奈良朝の政変劇』吉川弘文館歴史ライブラリー53、1998 174頁参照
(註3)http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/moribe.html
(註4)青山幹哉「鎌倉将軍の三つの姓」『年報中世史研究』13,1988
(註5)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936 147頁
(註6)小川剛生前掲書 558頁
(註7)小川剛生前掲書 562~563頁
(註8)島善高『近代皇室制度の形成』成文堂1994、高久嶺之介「近代日本の皇室制度」鈴木正幸編『近代日本の軌跡7近代の天皇』吉川弘文館1993所収
(註9)島善高前掲書14頁
(註10)高久嶺之介前掲論文139~140頁    
(註11)安田政彦「皇位継承と皇親賜姓-『大鏡』の記事をめぐって」『古代文化』53巻3号
(註12)瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版(京都)1991「四章藤原永手と藤原百川」
(註13)林陸朗「県犬養家の姉妹をめぐって-奈良朝後期宮廷の暗雲-」『國學院雑誌』62-9 1961-9

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