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カテゴリー「皇室典範問題 仁藤敦史 批判」の4件の記事

2006/05/06

仁藤敦史『女帝の世紀』批判(4)

淳仁天皇と孝謙上皇の擬制的婚姻関係という奇説

川西正彦

承前
 仁藤は「皇位継承と宣命」平川・沖森・栄原・山中編『文字と古代日本1』吉川弘文館2004年所収(「『女帝の世紀』128頁以下もほぼ同内容)で次のように言ってます。
「淳仁の位置づけであるが「吾子為弖皇太子止定弖」光明→淳仁 第二十五詔「前聖武天皇乃皇太子定」聖武→淳仁 第二十五詔という宣命の呼びかけによれば、‥‥淳仁は光明子と聖武の子(皇太子)に擬制されている。『霊異記』下巻三十八話の「大炊天皇、皇后に賊たれ、天皇位をやめ」という表現とあわせ考えるならば、孝謙の皇太子ではなく聖武の皇太子としているのは皇統譜上の擬制として聖武の娘孝謙を「大炊天皇」(淳仁)の「皇后」格として位置づけていることになる‥‥『霊異記』には「朕が子阿倍内親王と道祖親王と二人を以ちて天下を治めしめむと欲ふ」「是れ道鏡法師の皇后と枕を同じくして交通ぐ」との表現もあり、孝謙と道祖王や道鏡ともそうした擬制関係を想定することが可能と思われる。」
 さらに仁藤は不婚の女帝は男帝・男性と擬制的婚姻関係を結ぶ存在だったという持論から、道鏡即位の可能性を合理的に説明しようとし、『女帝の世紀』角川選書2006年第三章「ミオヤ」と「ワガコ」141頁では「反対にいえば、道鏡は女帝の子ではなく夫として、聖武の「我が子」に擬制的に位置づけられることにより即位の可能性が生じたことになる。道鏡が称徳の子たる「皇太子」とならなかったのはこのためである。」とまで言っている。
 それはともかく淳仁が聖武の皇太子とされた意味について、孝謙と擬制的婚姻関係を結ぶためというかなり強引な解釈をしているが、きわめて特徴的な見解といえる。というのは、先行説では、淳仁天皇が聖武の皇太子とされているのは孝謙女帝が皇統から外され、女帝が中継ぎにすぎないことの証左とみなされているためである。
 瀧浪貞子によれば「古代中国では皇帝の嫡子を皇太子と称したが、淳仁の場合、聖武の“皇太子”に立てることで聖武の嫡子に擬し、それによって傍系の淳仁を草壁系の天皇に仕立てて正統性を強調しようとした。‥‥(孝謙は)女子であることは皇権継受の上で決定的なマイナス要因であった。大炊王が孝謙女帝から譲位されたにも拘わらず、ことさら「聖武の皇太子」に仕立てられたのは、その何よりの証左であった。これは、皇統が孝謙を飛び越えて聖武から継承されたということにほかならない。‥‥それはひとえに、孝謙の立場を否定するかたちですすめられているわけである。」と述べており、こちらの先行説のほうが常識的な見方だろう。
 さらに、問題になるのが仁藤は「孝謙と淳仁が同居していることを前提に不仲が語られている」として同居を示唆し、「入り婿のような扱い」だったとしている点(『女帝の世紀』第三章「ミオヤ」と「ワガコ」142頁)。孝謙と淳仁が夫婦のように同居していたとはとても思えない。これも擬制的婚姻関係説によるものだろうが、上皇の居所については、先行説があるので、それをみておきたい。
 仁藤が同居を前提としているという論拠は、天平宝字六年六月庚戌条第二十七詔で「別宮に御坐坐さむ時、しかえ言はめや」云々と述べている点である。これは前年の十月に天皇、上皇は平城京の改作のため近江保良宮に遷御されたが、その折り上皇の病気に侍した道鏡の寵愛により、天皇と不仲になり、天平宝字六年五月二十三日に平城京に還御されると天皇は「中宮院」に遷り、上皇は「法華寺」に御し別宮を居所とされた。そして六月三日に孝謙上皇が五位以上の官人を朝堂に召集して下した詔で上皇は淳仁天皇を激しく非難して怒りを爆発、トラブルを理由に別宮に御したこと。自らは国家大事・賞罰を決せんと宣した。
 瀧浪貞子の現代語訳はこうである。

「私は女の身であるが、岡宮御宇天皇の皇統を断絶させないため母光明皇太后の勧めによって即位し、天皇として政治を行ってきた。そして今淳仁天皇に譲位し年月を経てきたが、その間淳仁は私に恭順することはなく、謀反人のような暴言をはき、また無礼を働いてきた。私にはそのようなことを言われる覚えはない。同じ宮に住んでいるからこそ聞きたくもないことを聞かねばならないのであって、こうして別の宮に住めばそんなことを言われるわけもない。それは私が不徳であるからなのだが、何と恥ずかしいことか。別宮に住んだもう一つの理由は、いまこそ菩提心をおこす時期と考え、出家したからである。但し政事については今の天皇淳仁は常祀と小事を行ない、国家の大事と賞罰の二つは、私が行おう。」(瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』「薬子の変と上皇別宮の出現」思文閣1991年、268頁)
 上皇の居所については奈良時代と平安時代で慣例が異なる点で注意したい。嵯峨上皇以後においては、内裏から内裏以外のしかるべきところに遷御されることが慣例になる。嵯峨天皇は冷然院、淳和天皇は西院、清和天皇は染殿院で譲位されている。『貞観儀式』巻五譲国儀冒頭で、「天皇預去本宮、百官従遷御於御在所」とあり、天皇は譲位以前に本宮(内裏にいれば内裏を指す)を退去してしかるべきところに居を移すとしている(春名宏昭「平安期太上天皇の公と私」『史学雑誌』100巻3号1991)。従って我々は天皇は内裏、あるいは里内裏、上皇は後院、仙洞御所と別々に居所があるという固定観念を持っているし、例えば鎌倉時代の持明院統の天皇と上皇が同じ宮を居所としていた例などは例外と判断するくせがついている。しかし奈良時代はそうではない。上皇が内裏外の御所を居所とする慣例となったのは薬子の変によって平城上皇派官人の粛清による嵯峨天皇の勝利により、平城上皇の権能を奪取し、上皇を政治的に無力化するプロセスにより天皇に権力が収斂される政治過程を経てのことである。嵯峨太上天皇以後の新たな太上天皇制においての展開なのであった。
 瀧浪貞子によると奈良時代は天皇と上皇が平城宮(内裏)を居所とされていたことが通例であった。「特別の事情がない限り上皇となっても原則として宮外に出ることはなく、宮内にとどまるのが慣習であった‥‥建物は別であっても平城宮(内裏)内で天皇とともにあるのが通例だった」(瀧浪前掲書284頁)。具体的には、元明上皇は養老五年十二月「平城宮中安殿」で崩御されている。元正上皇は天平十八年の平城還都により「中宮西院」(万葉集巻17-3922)を御在所とされていた。天平二十年四月に崩御した「寝殿」も「中宮西院」の建物だろう。平城還都により聖武天皇は「中宮院」(続紀天平十七年五月戌辰条)を在所としていて上皇はその近くに住んでいた。また天平勝宝八年の聖武上皇崩御は『東大寺要録』が「天皇崩於平城宮」とある。もっとも春名宏昭によると「中宮西院」や「中宮院」は臨時のもので奈良時代の上皇の居所や家政機関についてはほとんどわかってないという(春名宏昭「太上天皇制の成立」『史学雑誌』99編2号1990、注53)。
 しかしいずれにせよ、天平宝字六年六月庚戌条の解釈から、天皇と上皇が同じ殿舎で夫婦のように同居していたと示唆するような仁藤の記述の仕方は、一般読者に誤解を与えるのではないかと思います。それはたんなる仁藤の憶測にすぎない。上皇は後院、仙洞御所を居所とするという固定観念にとらわれている一般読者を惑わしているように思える。
 
 奈良時代には上皇は国政の総覧者として勅詔の発給の主体であったと春名宏昭(前掲論文)は言う。それゆえ、薬子の変以前は、天皇と上皇が別宮に御すことは、王権の分裂を印象づけることとなり政治危機を意味する。例えば、天平十六年に、紫香楽宮に聖武天皇、光明皇后、中務卿藤原仲麻呂、難波宮に元正上皇、左大臣橘諸兄がいて、上皇により難波宮の皇都宣言がなされたケースである。結局上皇が紫香楽宮に遷って折り合うかたちで危機が回避されたが、この二所朝廷的状況は仏教重視の聖武と、経済重視の元正との路線の対立なのだろうか。もっとも春名宏昭はこれは危機ではなく紫香楽・難波の副都制であって王権の分裂ではない(前掲論文)としているし、聖武と元正の決裂は考えにくい。しかし、淳仁と孝謙、嵯峨と平城のケースは別宮となって天皇と上皇の抗争に突入した。政治的安定のためには、同じ宮を居所とすることが求められていたともいえるだろう。
 奈良時代以前の天皇と上皇の共治体制は次の六例である。
 文武天皇-持統上皇(孫-祖母)藤原京
 元正天皇-元明上皇(娘-母)
 聖武天皇-元正上皇(甥-伯母)20年の年齢差
 孝謙天皇-聖武上皇(娘-父)
 淳仁天皇-孝謙上皇(六親等の遠戚)15年の年齢差
 桓武天皇-光仁上皇(子-父)
 淳仁と孝謙のケースだけが親子(もしくはそれに准じた)関係でない。近親でもないし、ソリも合わないから共治体制が決裂したのだろうが、もともと天皇と上皇の二重構造は親子関係もしくは准じたケースでない場合に危機をはらむ制度であった。
 孝謙上皇は詔勅が多いことが知られており、即座の言葉から口勅として下されることもあった。また朝廷の公式の行事に、天皇と相並んで御している記事が少なくない。天平宝字四年正月四日の叙位、その翌日、藤原仲麻呂邸へ天皇とともに幸している。渤海使の引見は淳仁天皇のみであるが、七日節会で渤海使の叙位と、国王・国使への賜物は、天皇と並んで上皇が御している。このように天皇と上皇が相並んで、朝廷の行事に臨んでいることから孝謙は平安時代の隠退した上皇とは違って、共同統治者であった。
 しかしながら、このように天皇と行動を共にしていることから、擬制的婚姻関係を想定する必要はない。ましてや、淳仁を入婿の扱いだとみなす根拠もない。孝謙上皇の反対にもかかわらず光明皇太后の決裁で淳仁天皇の先考舎人親王に崇道尽敬皇帝号の謚号を贈り、舎人親王系皇統の創成を図っている(天平宝字三年六月十六日)。従って、淳仁天皇は聖武の皇太子に擬制されなければならない必然性はなかったし、入婿でもない。そもそも孝謙と擬制的配偶関係にあったわけではない。それは仁藤の勝手な憶測である。にもかかわらず聖武の皇太子と定められたのは、淳仁の立場をより強化する趣旨と前政権から継承性、女帝は皇統を形成できないということであろう。
 つづく -次回は藤原宮子大夫人号問題をとりあげます

5月12日訂正

人名 春名宏昭氏の字が宏明になってましたので訂正しました

2006/05/05

仁藤敦史『女帝の世紀』批判(3)

承前
 仁藤敦史によれば、孝謙女帝には「直系として配偶者との関係によって連続していく可能性が残されていた」とされ「聖武が遺詔として新田部親王系の道祖王を立てたのも、孝謙の配偶者としての立場を考慮していた」と言います。
 道祖王が立太子した時点(天平勝宝八年)の年齢については渡辺晃宏(『日本の歴史04巻平城京と木簡の世紀』講談社2001年281頁)は少なくとも40歳としています。
 阿倍内親王(孝謙・称徳)は21歳で立太子、32歳で即位していますが、道祖王立太子の時点で孝謙女帝は39歳です。もし皇太子の道祖王が配偶者として想定されていたとしても婚期としては遅いと思います。
 他の皇位継承候補者の年齢もみていきます。天平勝宝九年道祖王廃太子後の皇嗣策定会議で、出席した貴族から推薦された皇位継承候補者ですが、まず塩焼王(父新田部親王、聖武皇女不破内親王の夫)は当時推定45歳、池田王(父舎人親王)は43歳、船王(父舎人親王)は51歳。これらの候補者を退けて皇太子に立てられた大炊王(のち淳仁天皇-父舎人親王)は25歳ということです(渡辺前掲書282頁)。
 仁藤によると女帝は不婚を強制されていたのではない「即位後(あるいは即位前)における婚姻および出産の可能性」があり「つまり女帝は婚姻により新たな女系を創出できる」と言います。だとするならば15歳年下の大炊王を別にして、塩焼王・道祖王・池田王・船王は阿倍内親王(孝謙)の結婚相手として年齢的には釣り合いがとれていると思います。
 しかし、女帝即位は不婚が前提であるからこそ、これらの皇親との結婚はなかったというのが常識的な見方です。もし配偶者も妊娠も可ということなら、もっと早い時期に天武系皇親と結婚してますよ。
 皇嗣策定会議で孝謙女帝の裁定はこうでした。「皇太子は皇族の長老格であった舎人・新田部両親王の子から選ぼうとして先に(新田部親王の子の)道祖王を皇太子に立てたけれども、私の命に従わず淫らな行い〔孝謙の侍童と密通していたらしい〕が収まらない。そこで今度は舎人親王の子から皇太子を選ぼうと思う‥‥」(渡辺前掲書より引用)と発言し、池田王、船王、塩焼王について資質においてそれぞれ難色を示したうえ、若いが悪い風評のない大炊王を皇太子としたいと裁定しています。

 消去法による選定ですが、孝謙女帝が禁欲的でないとしてもこれが配偶者選びであるはずがありません。

 もし配偶者選びだとしたら、不破内親王(母は県犬養広刀自、孝謙の異母妹)を妻としている塩焼王を藤原豊成、藤原永手という常識的な政治家が推薦していますが、 仁藤敦史の擬制的婚姻関係説をあてはめると、もし塩焼王が即位すると孝謙と不破内親王の二方が皇后格となるということですか。そんなばかなことはありえません。皇嗣策定会議に呼ばれた有力貴族はあくまでも非婚独身女帝を前提として次の皇位継承者を推薦しているのだと思います。

川西正彦

2006/05/04

仁藤敦史『女帝の世紀』批判(2)

 仁藤敦史の女帝中継ぎ説批判を要約しているのは次の文章だろう。(『女帝の世紀-皇位継承と政争』角川選書2006年、第三章「ミオヤ」と「ワガコ」139~140頁)
「‥‥当時の皇統意識が後世のような男系中心の直系継承ではなく、父母両系の関係を意識し、擬制を含んだ双方的な直系継承であり、かつ継嗣令皇兄弟条本注が男帝以外の男性と女帝との即位後(あるいは即位前)における婚姻および出産の可能性を視野に入れての立法、つまり女帝は婚姻により新たな女系を創出できるという法意であったとするならば、孝謙(称徳)への譲位は、不婚を強制された女帝の存在が必然的にもたらす「皇位の袋小路」などではなく、彼女が直系として配偶者との関係によって連続していく可能性が残されていたと考えるべきだろう。聖武が遺詔として新田部親王系の道祖王を立てたのも、孝謙の配偶者としての立場を考慮していたと考えられる。事実、称徳没後の後継においても、天智系の白壁王が聖武の娘井上内親王との婚姻を前提に光仁天皇として即位できた正統性も、天武系から天智系への「王朝交替」ではなく白壁王が娘の井上内親王を介して、聖武の「我が子」として処遇されたことによると考えられる。通説のような女帝に対する不婚強制は結果論的解釈であり、明証する史料は存在しないのである。」

 この文章のなかに仁藤独自の新奇な説が凝縮されているわけです。まず道祖王(天武孫、父新田部親王、天平勝宝八年聖武上皇の遺詔により立太子、翌年三月廃太子、同年七月橘奈良麻呂の変に座してマドヒと改名させられ、杖に打たれて死ぬ。)の件ですが、仁藤は3月12日ブログで紹介した擬制的婚姻関係説からさらにすすんで、道祖王は孝謙女帝の配偶者となることが想定されていたという趣旨を上記の文章で言ってますね。
 仁藤の論拠は『日本霊異記』下巻第三十八話の「朕が子阿倍内親王と道祖親王と二人を以ちて天下を治めしめむと欲ふ」ですが、佐藤長門が「天皇と皇太子(あるいは太上天皇と天皇)として共同統治させるという意味」であって擬制的婚姻関係を抽出するのは強引な解釈と批判されているとおりです(佐藤長門「『日本霊異記』における天皇像」『歴史評論』668号2005-12)。
 もし配偶者として想定されていたとすると、道祖王が即位すると孝謙女帝は皇帝を退位して皇后に冊立されるとでもいうのでしょうか。天皇のキサキが太上天皇であるというような歪な制度が想定されていたなどとはとても信じられません。
 次に光仁后井上内親王(聖武皇女、母夫人県犬養広刀自)の結婚時期ですが、内親王が伊勢斎宮二十年以上の在任から帰京されたのは天平十八年。同十九年正月内親王が無品から二品に特叙されたのは斎宮の任務を遂げたことによる。この前後に天智孫の白壁王と結婚したとみられている。所生の酒人女王(光仁即位により内親王)が天長六年薨76歳であるから、逆算して天平勝宝六年生まれである。少なくとも聖武上皇が健在のうちに結婚したとはいえる。しかしこの時点で皇位継承候補者として有力だったのは、天平勝宝九年道祖王廃太子後の皇嗣策定会議で塩焼王、池田王、船王が推薦されていることからみて新田部親王や舎人親王の子で天武系皇親です。白壁王が有力な候補者として浮上するのは天武系皇親が次々に粛清されていった称徳朝においてである。結果論として聖武皇女を妻に持ったことは白壁王にとって有利に働いているが、これは皇位継承を前提としての結婚なのではない。上記仁藤の文章は一般の読者に誤解を与える表現である。
 又、仁藤は光仁が聖武の「我が子」として処遇されていたとか言ってますが、史料的根拠は示されてない。光仁天皇の即位で先考施基皇子(光仁の父)を御春日宮天皇と追尊されました。山陵の地により田原天皇とも称されます。さらに光仁生母紀橡姫に贈皇太后。施基皇子が天皇号の追尊をうけることにより、天智-施基皇子系皇統を創成したのであるから、聖武の「我が子」に擬制されなければならない必然性はないと思う。

川西正彦

2006/04/26

仁藤敦史『女帝の世紀』批判(1)

 古代史専攻の仁藤敦史国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学助教授の『女帝の世紀-皇位継承と政争』角川選書平成18年3月30日初版発行を購入しました。パラパラっと読んだだけですが、放置できない。著者の女帝論に全面的に反対するので、さしあたり目についた1点のみ批判しておきたいと思います。
 まず、112頁以下の養老継嗣令皇兄弟子条本注「凡そ皇の兄弟、皇子をば、皆親王と為よ〈女帝の子も亦同じ〉」の解釈ですが、この問題について私は1月3日ブログで次のように書いてます。
 
 継嗣令皇兄弟子条の本註〔女帝子亦同〕も例外的規定ですが既に高森明勅の反駁でも述べたとおり
  義解は「謂。拠嫁四世以上所生。何者。案下条。為五世王不得娶親王故也。」
 
 「女帝子」とは四世王以上との婚姻の結果、生んだ子である。その根拠は下条つまり継嗣令王娶親王条「凡王娶親王、臣娶五世王者聴。唯五世王。不得娶親王」である。これは諸王は(内)親王を娶ることができる。臣下は五世(女)王を娶ることを許すが、ただ五世女王のみ。
五世王は二世(女)王を娶ることができるが、(内)親王を娶ることはあってはならないという皇親女子の皇親内婚規定です。
 《赤字部分は原文から欠落していた》

 私は男帝優先原則ということもさかんに言ってきましたが、皇親内婚で男性皇親をさしおいて女性皇親が即位することは絶対ない。但し、御配偶の草壁皇子が早世し、所生の文武天皇も早世し、先帝生母が緊急避難的に即位した元明女帝のケースや、斉明女帝のよう既婚歴があって皇后となり、さらに御配偶の舒明崩後即位した例もあるから、女帝の子が必ず男帝の子とはいえない。その場合でも、上記内婚規定により、必ず女帝の子は天皇か親王か四世王までの皇親男子の子になるから、女帝の子が即位したとしたも男系継承原理から逸脱することは全く想定されてない。ということをこのブログを通じて述べてきたわけです。関連して高森明勅説批判の8月27日ブログ以下もみて下さい。
 

 ところが仁藤敦史は律令の公定注釈書である「義解」の解釈を、それは平安初期の解釈であるなどとして否定し、「単独の法意としては、必ずしも皇親男性との婚姻に限定されていなかったとも考えられる」と言うのである。さらに「男帝以外の男性と女帝の即位後(あるいは即位前)における婚姻および出産の可能性を視野に入れての立法であった」などととんでもない解釈を導きだし、高森明勅説をさらに進めたような女系原理を展開している。
 仁藤説は継嗣令第四条(王娶親王条)では違法なのに第一条(皇兄弟子条)本注の「単独の法意」は違法とはいわないから混乱してます。整合性を無視した歪めた解釈である。、皇兄弟子条本注を王娶親王条とセットで解釈している「義解」が正しいんじゃないですか。王娶親王条は女皇親(内親王以下四世女王まで)は臣下に降嫁するを得ずとし、且つ五世王は二世女王以下を娶り得れども内親王と婚することを禁じ、臣下の男はただ五世女王のみを娶り得ると定めている。王娶親王条により男系世襲原理から明確に逸脱しないことになっているんですよ。
 仁藤が皇太后としての女帝即位だけなら本注は不要だ。なぜならばその場合は女帝の子は男帝の子であるから親王であることに変わりないから、ゆえに本注は女帝が男帝以外との男性との即位後の婚姻・出産の可能性を視野に入れての立法などというのは何の根拠もないんです。例えば史実は持統-文武-元明の皇位継承順ですが、仮に持統が長命でなかったと想定します。草壁皇子も薨じた。この場合持統-元明-文武という継承順もありえないわけではない。天武皇子の皇位継承争いによる混乱を回避するため緊急避難的に皇太子妃が即位する想定です。このようなケースで本注が生きてくる。文武が即位以前に親王の処遇となるということです。だから仁藤説は論理的でもないです。本注は令制成立期の政治的状況から緊急避難的な女帝の即位を想定していた程度のことしかいえないと思います。
 今江広道(「八世紀における女王と臣下の婚姻に関する覚書」『日本史学論集』上巻所収 吉川弘文館1983)によると奈良時代は王娶親王条の令意が比較的よく守られていた。明確に令条に反し皇親女子が臣家に嫁した例としては、藤原仲麻呂の息男久須麻呂と舎人親王系の三世女王加須良女王の結婚である。天下の政柄を握った仲麻呂にとっては問題ではなかったのだろうが、違法婚といっても三世女王である。もっとも斉明女帝は令制概念で三世女王にあたるが、斉明が母方も皇親で純血種皇親であること。聖徳太子の世代が即位しなかったため、舒明天皇も二世王であることから皇極即位は違和感がないとしても、加須良女王の即位はまず想定できない。
 なお、参議藤原房前に嫁し、左大臣藤原永手、大納言藤原真楯の母牟漏女王は敏達五世孫か六世孫である。慶雲の格制で皇親の範囲を五世王に拡大したことにより解釈の仕方もあるが、明確に違法とみなすことはできない。いずれせよ牟漏女王が女帝として即位することは全く考えられないのであって、本注の解釈から、女系継承を正当化しようとするのはナンセンス。
 
 川西正彦

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