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カテゴリー「皇室典範問題 高橋紘 批判」の5件の記事

2005/10/23

皇室典範に関する有識者会議の論点整理について反対意見1(続)

高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第5回

今回の内容-高橋紘の軽薄な発言

川西正彦(平成17年10月23日)

 高橋紘の発言「江戸時代以前には、多くの国民は天皇の存在すら知らなかった。つまり伝統といっても皇族間と幕府だけの狭い世界で続いてきたもの」(『週刊ポスト』37巻43号、2005年10月21日号 47~48頁)そんなばかな。こういういい加減な人の意見を有識者会議が採用してよいのか。

 今回は本筋から離れてしまいますが、見逃すことのできないふざけた発言を読んだので批判しておきたい。『週刊ポスト』の10月21日号(先々週の発売)の46頁に「愛子さまは「女性天皇」の扉を開くか」という記事があり、女性天皇容認論者として 高橋紘の発言が載っていて「江戸時代以前には、多くの国民は天皇の存在すら知らなかった。つまり伝統といっても皇族間と幕府だけの狭い世界で続いてきたもの。もちろん伝統は大切だが、時代と共に変わってもいい」というのである。多くの民衆は天皇の存在すら知らなかっただと、そんなばかなことはない。とんでもない誤った歴史認識だ。

 私は財政史について全く素人で、とやかくいえる立場ではないが、上島亨が中世王権の民衆的基盤について、一国平均役と、官位秩序の社会への浸透などについて述べ、中世王権の社会的浸透は現代にまで影響しているということは一般向けの書物で述べていることであり(註54)、多くの民衆が天皇や朝廷の存在を理解していない無知蒙昧であったということはない。歴史を無視した軽口を叩くこういういいかげんな人が世論を誘導したうえ、元東大学長らの有識者会議もそれに追随して、易姓革命を是認し国を滅ぼす方向で結論しようとしている。これは全く不幸なことだといわなければならない。

一国平均役

 一国平均役とは平安後期(11世紀中葉以降)に成立した荘園・公領(国衙)の別なく国内あまねく賦課される臨時徴税で、「造内裏役」(内裏造営)、大嘗会、「役夫工米」(伊勢神宮式年遷宮用途)、斉宮関係、御願寺・一宮などの費用に限られる。後白河の時代に課役体制が確立され、鎌倉期を通じて維持されたとされているが、具体的な事例での実効性については私は素人なので検証していない。
 その起源は、調庸・雑搖の系譜をひく臨時雑役で、律令制の租税制度が崩壊したのち、全国一律の国家的租税としては一国平均役だけが室町時代まで存続した(註55)。一国平均役の賦課・免除権は朝廷にあったが、足利義満の時代に幕府に接収(公武合体政権とみることもできるが)されることにより、その役割は段銭賦課に移行することとなる。 
 上島亨は「一国平均役は‥国内支配を一任された受領が経費負担をまかなうため生み出した租税であった‥‥天皇や伊勢神宮などの存在を強調し、国内のすべての田地に一国平均役を課すことで、任国支配の強化を図ったのである」とされ、この受領が築いた民衆的基盤に立脚して、後白河天皇が保元新制で宣言した王土思想は、中世王権が社会的民衆的基盤を確立したことを示すとの見解であるが(註56)、いずれにせよ、一国平均役があるからどんなに辺鄙な田舎の百姓でも天皇の存在は理解していたはずである。われわれ一般庶民の祖先は中世においてまず確実といってもよいほど国家的臨時徴税である一国平均役のために勤仕してきたはずだし、臨時徴税の意味するところの天皇や大神宮の存在も理解していなかったとはとても考えられない。

 地下官人の成功と衛門・兵衛などの民衆社会への浸透 

 次に成功(じょうごう)制の展開について、上島亨は従来成功が「売位・売官」とみなされ、消極的側面を強調していたのは誤りである。平安・鎌倉時代を通じて成功を「売位・売官」とみなす例はほとんどない。成功の「功」とは朝廷に対する功績を意味し、むしろ国家財政のなかで果たした役割を積極的に評価すべきとの見解である(註57)。
 成功制は時代的変遷があり、10世紀後半において造営事業の請負において出現した。11世紀末より受領功過定による受領統制の弛緩で国宛や臨時召物の進納が悪化し、庄園の不輸不入権の付与により、12世紀中葉にはますます悪化する。このため12世紀中期より、成功での経費調達を目的に臨時除目(闕官を前提としていない)が行われ国家財政の一翼を担うようになる。恒常的、臨時的公事経費の調達のために地下官人の成功を大量に採用することになった。
 受領の莫大な費用を要する造営事業についてはここでは論じない。官位秩序の社会的浸透という観点では任官・叙爵を目的とする地下官人の成功が重要である。元暦元年(1184)の後鳥羽天皇の即位式は源平争乱(治承・寿永の内乱)により国宛が滞ったため、経費は全て成功でまかなわれた。成功が多用されるとともに、12世紀には功を成しても容易に希望する官職に任官できない状況が生じていたが、この時は成功希望者の要求で、朝廷は経費進納者を任じる臨時除目を実施している(註58)。朝廷は経費確保の必要性から地下官人の成功を採用せざるをえなかったのである。

 地下官人はあらかじめ申文で希望官職を申請する。成功の補任対象は既に形骸化していた六位以下に対応する諸官司の三等官・四等官であったが、富を持つ有力者は競って成功に応じたとみられている。武官、とりわけ左右衛門尉、左右兵衛尉、左右馬允、近衛将監あるいは内舎人の任官希望者が殺到した。衛門尉として任官しても検非違使と活動できるわけでも官職に伴う所得があるわけでもない。官職は形骸化しても身分の標識として価値があったのである。また従五位下も成功による補任対象になっており身分標識として特別な意味を持った(註59)。
 鎌倉時代に公事用途調達はますます成功に依存するようになった。もっとも寛元四年の後深草天皇の大嘗会は全て諸国調進でまかなわれている。しかし即位式になると三分の一が幕府からの進納に依存している。また恒例公事用途をみてみると、「賀茂祭」の調進物修理物についての成功の額について土御門天皇の建仁元年(1201)に九千疋だったものが、四条天皇の嘉禎時(1235頃)には五万疋、後深草天皇の宝治時(1247頃)になると十三万疋というように、成功への依存度を増している。そうしたことで後嵯峨天皇は公事用途の経費を見直すため成功の停止といった抜本的改革に意欲を持ち、慣例を破って鬼間議定に出御され、実務的中級貴族から直接意見を聴取したが(註60)、結局抜本改革にはならなかった。
 地下官人の成功は官職のインフレ状況を惹起させ健全な財政の在り方とはいえないかもしれない。しかしこのことが、大夫(従五位下)や衛門尉、兵衛尉といった官職を在地に浸透させたことは社会史的に重大な意義がある。地方名士クラスにおいてはステータスであり、それは、支配者階層の末端に連なることを意味した。
 鎌倉後期より宮座が形成され、村落上層民は官途を有し、惣村という法人組織から大夫、衛門、兵衛などの身分標識が付与されていた。むろんそれは朝廷の補任ではなく、惣村が独自に付与するものであるが、上島亨は官位秩序が惣村の身分規範とされたことから、社会に広く浸透したことを重視している(註61)。要するに惣村の自治組織は朝廷の叙位除目を模倣して衛門・兵衛をいった官途を付与して身分規範としたということです。

秀吉や家康といった天下人といえども官位秩序に代わる身分構成原理を創出できなかったのは、中世王権が民衆を基盤にして深く社会に浸透したためであり、江戸時代の町人・百姓の通称「太郎衛門」とか「次郎兵衛」も王権の民衆への浸透の結果である。
 明治政府の布告(明治三年十一月の国名・旧官名禁止令)で旧官名が禁止されているが、実際には完全に実施されておらず、いつしか沙汰やみになり禁令が終焉したらしい。村落社会には「衛門」を名乗る家筋と、「兵衛」を名乗る家筋というような村法があり、そう簡単に改められるものでもなかったのである。大正初期の総理大臣に山本権兵衛があった。武田薬品の社長は武田長兵衛を襲名することになっていた。デパートの松坂屋の伊藤家も次郎左衛門の名を継ぐのがしきたりで、今日でもこうした例は格別珍しくない。もっとも明治政府の布告の趣旨もそれなりに浸透していったようで、四郎右衛門はたんに四郎、武右衛門は武一、庄兵衛は庄七、源助は源作というように、旧官職名をつけない命名が広まっていったことも事実である(註62)。つまり旧官名禁止令は名前の近代化を促したとみてもよいが、しかしながら現代においても「ドラえもん」や「ホリエモン」というニックネームが存在する。
 「ドラえもん」を見ている多くの子どもは天皇を警護する官人である衛門尉に由来するということは知らないかもしれない。しかしこうした官名がこれほど民衆に根付いていたのに、江戸時代以前の多くの民衆が天皇の存在すら知らなかったというそんなばかなことはないはずだ。
 
 近世朝廷と社会諸階層

 江戸時代の朝廷の社会諸階層への深い関わりについては既に女帝即位絶対反対論の第1回で宮地正人の著作(註63)から引用し言及していることだが、繰り返し述べます。
 医師や絵師は、朝廷から法印・法眼・法橋という位階をもらうことによって組織され、典薬頭に半井・今大路両家、絵師は狩野・土佐両家を頂点としてピラミッド型に組織された。
 神職は白川家との関係をつけるか、基本的には吉田家の神道裁許状と受領名をもらうことが身分を確定し、社会的プレステージを高める決定的要件であった。中世末から戦国期は守護大名クラスが神職補任状を出していたが、幕府の統制によって、寛文年中までに朝廷による神職への徹底した官位授与制になったのだという。このような身分制を維持するために、神道では吉田家や白川家は江戸出張所をはじめとして全国各地に役所や諸機関を設置して、各地域の身分行政を寺社奉行と協同で担当していた。
 暦道・天文道・陰陽道は土御門家が支配し、盲人は中世より検校・別当・勾当・座頭の四階層に分かれ、座的な支配をおこなっていたが、座頭から検校にあがるのに七一九両の「官金」を要するところの久我家を本所とする官職補任システムがあった。全国ほとんどの鋳物師は禁裏蔵人所真継家の支配をうけていて、鋳物師代替わりに上京して継目の許状をうけ、天皇即位のときは上京して祝儀勤仕をおこなっていたが、朝廷との関係は鋳物師だけでなく、職人層全体がふかく受領・位階を朝廷よりうけることによって社会的プレステージを高めていた。
 浄土宗は増上寺の上申をえた宮門跡寺の知恩院が朝廷から僧綱、上人号、紫衣勅許をもらい、真言宗では宮門跡寺の仁和寺・大覚寺両寺をへて僧綱が勅許され、曹洞宗は永平寺から寺社伝奏の勧修寺家を仲介として勅許をえていた。修験は宮門跡の聖護院、摂家門跡醍醐寺三宝院が支配する仕組みであった。このようにすべての宗派の本寺・末寺関係の上下関係と統制は、朝廷の存在が前提となっていた。

 江戸時代、伊勢まいりは全時代を通じて流行したが、明和八年の「おかげまいり」の総人数は、不明確ですが、宮川の渡し人数から見ても二百万人以上に達し、東北地方を除く全国に及んだと言われています。さらに、文政十三年の場合は、約五百万人が伊勢へ伊勢へと押し寄せている(註64)。
 
 だから、高橋紘の発言「江戸時代以前には、多くの国民は天皇の存在すら知らなかった」なんてそんなばかなことはないです。あまりにも軽薄すぎる。だから伝統なんて無視していいんだみたいな物言いは暴言というほかない。ところが、元東大学長以下の有識者会議がこういういいかげんな人の意見を採用し追随しようとしているわけです。こんな異常なことまかりとおってよいのですかと訴えたいです。

(註54)大津透・大隅清陽・関和彦・熊田亮介・丸山裕美子・上島亨・米谷匡史ほか『日本の歴史第08巻 古代天皇制を考える』の上島亨「第六章中世王権の創出と院政」
(註55))京大日本史辞典編纂会『新編日本史辞典』東京創元社1990「一国平均役」(棚橋光雄)
(註56)上島亨 前掲書 280~281頁
(註57)上島亨「成功制の展開」『史林』75巻4号1992-7
(註58)上島亨 前掲論文 106頁以下
(註59)上島亨註54「第六章中世王権の創出と院政」281頁以下
(註60)白川哲郎「鎌倉期王朝国家の政治機構-公事用途調達を素材とした基礎的考察」『日本史研究』347号1991-7
(註61)上島亨註54「第六章中世王権の創出と院政」285頁以下
(註62) 井戸田博史『『家』に探る苗字と名前』雄山閣出版1984 115頁以下
(註63)宮地正人『天皇制の政治史的研究』校倉書房 1981 25~54頁
(註64)山口千代己「多くの民衆伊勢へ「おかげまいり」」
http://www.pref.mie.jp/BUNKA/TANBO/BUNKA/mieb0239.ht

2005/10/16

皇室典範に関する有識者会議の論点整理について反対意見1(続)

高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第4回)

今回の内容
1 補遺 後花園天皇即位の意義
2 後花園天皇の叡慮(貞常親王の永世伏見殿御所称号)の決定的意義
3 世襲親王家(定親王家)の意義

川西正彦(平成17年10月16日)

1 補遺 後花園天皇即位の意義

 つい最近出た雑誌で『新潮』2005-10月号(102巻10号)の三田村雅子「 〈記憶〉の中の源氏物語(16)後花園天皇の王権回復」を読みましたが、後花園即位の経緯が要領よく説明されているので、引用する。「後花園院の父貞成王は栄仁親王の次男であったが、経済的にも窮迫が続く中で、出家してそこそこの寺の門跡になることが唯一の道と考えられていたが、思いがけず兄治仁王が急死すると、伏見宮家を継承し、後光厳院流の後小松天皇にも代々の宝物を献上し、足利将軍とも協調路線を取り、伏見宮家に伝えられてきた膨大な文書の力により次第に重要な存在と認識されるようになっていた。後小松の継承者称光天皇は体が弱く、精神にも異常をきたすことが多く、到底後継者は期待できずその弟の小川宮も兄以上に評判が悪く、称光より早く亡くなったので、後小松の血筋は近い将来断絶することが予想されていた。そうした中で、天皇の位が南朝〔?南朝系〕に移ることはどうしても避けたい足利将軍家の意向もあって、貞成は後小松の猶子して親王になったが〔?貞成親王は猶子とされてないと思う〕、病篤い称光天皇がこの措置に猛反発したため、貞成の即位は実現せず、貞成もまた出家に追い込まれた。貞成に代わって皇位継承候補者として急浮上したのがその息子十一歳〔?十歳では〕の彦仁王(後花園院)で、性格も良く、秀才の評判が高かった。今度は称光天皇を刺激しないように、彦仁は親王に立てられることもなく、称光の死後、親王宣下も立太子の儀礼もなく、いきなり後小松の猶子として帝位についたのである」
 新主御決定は正長元年(1428)七月十六日の将軍足利義宣(のち改名義教以下義教と記す)が院参し、皇位継承者を尋ね、執柄二条持基が疲労のゆえ会おうとしない後小松上皇に書状で伝えたところ、院の「伏見殿の宮、御猶子となして定め申」という勅答で決定しているが、それ以前に幕府の彦仁擁立工作は進んでいたのである。応永三十二年(1425)七月の段階で称光天皇の「御悩」は「諸医も捨て申すと云々」手の施しようがなく、そう永くないとみられていたが、将軍足利義持は鹿苑院主厳仲和尚を通じて、法体となった貞成親王に「若宮の御年齢、密々に注し賜うべき由」との問い合わせあり貞成親王は「吉慶念願極まりなし」と記しており、この時点で最有力候補になっていた。正長元年(1428)七月六日嵯峨の小倉にいた小倉宮が出奔し、伊勢国司北畠満雅のもとに身を寄せているらしいとの風聞があり、七日称光天皇危篤、十二日に幕府首脳部が協議し伏見宮彦仁王を内定、貞成親王には彦仁王は明日十三日にも入京されたいとの申し入れがあり、伏見御所に管領畠山満家一隊四・五百人の出動で極秘裏に、洛東岡崎の若王子社の坊に移されており、十七日に彦仁王は、仙洞御所に移ったが牛車も牛飼も義宣の計らいによるものだった(註32)。二十日称光天皇崩御、二十八日後花園践祚という経過からみて、小倉宮挙兵より前に将軍足利義教の機敏な動きによってスムーズな皇位継承がなされており、重要な役割を果たしている。
 

 ところで持明院統正嫡の伏見宮彦仁王が最有力候補であったのは当然としても、あらゆる可能性を考えてみると他の皇位継承候補もありえたのである。南朝系を幕府が担ぐことは考えにくいが、後小松胤子の宗純王(一休)の還俗の可能性もあったという説がある。 

  それよりも、亀山系(大覚寺統)の常磐井宮や木寺宮家が存在していた。常磐井宮は亀山の末子一品式部卿恒明親王からはじまり、全仁-満仁-直仁-全明-恒直と代々親王宣下をうけて約250年続いた。常磐井宮とは恒明親王生母昭訓門院(西園寺実兼女瑛子)が亀山法皇より譲られた殿邸、常磐井殿(大炊御門京極)にちなむものである(註33)。
  常磐井宮家が続いたのは、恒明親王は父帝亀山法皇に鍾愛され、遺詔により正嫡と定められ皇位継承者とされていた(伏見上皇も合意していた)ので、正統性を主張できること。所領を有し経済基盤も有していたことだろう。要するに法皇は晩年になって昭訓門院を寵愛し所生の恒明親王を鍾愛されるあまり、後宇多-後二条を疎んじて、父権をもって後宇多-後二条の子孫の皇位継承の望みを放棄させるとともに、後宇多に主要所領の管領もさせない厳しい方針をとったのである(問題は恒明親王が皇位継承者と定められた時点-嘉元三年1305年-で、亀山-後宇多-後二条と亀山皇孫まで皇位を継承し、さらに曾孫の邦良親王も恒明親王より年長者だった)。
 しかし亀山法皇崩後、後宇多上皇は法皇の遺詔を履行せず、反故にして、恒明親王の後見者西園寺公衡を勅勘に処して出仕を止め伊予・伊豆両国以下西園寺氏重代の諸職を没収する事態にいたり、西園寺公衡は幕府のとりなしで許されるまで二ヶ月籠居を余儀なくされた。恒明親王と生母昭訓門院に譲渡されるべき大覚寺統主要所領も後宇多上皇の管領の下に置かれ恒明親王は政治的敗者となったが、所領については幕府が介入し徳治三年に安楽寿院領は恒明親王に渡されたので(註34)、経済的基盤を有したのである。 南北朝時代に入って恒明親王は「式部卿宮」と称され、北朝公家社会を身を置いていたが観応二年(1351)薨去。嫡子全仁親王は中務卿三品と相応の地位であったけれども恒明孫の満仁になると無位のまま常磐井宮を号し、親王宣下が二十八歳(永徳元年1381)と遅かった。『後愚昧記』(記主三条公時)によると足利義満に愛妾を遣わした裏面工作があり、幕府の推挙による勅許であったという。『後愚昧記』が「大幸といふべし。およそ親王宣下において左右なく勅許を被りがたきの人なり」というように、常磐井宮は厚遇をうけていたわけではない(註35)。しかし裏面工作というより次のような見解もある。義満は栄仁親王の所領を没収して後小松の管領とし、親王を出家させ、伏見御所まで一時奪い取ったようにアンチ持明院統嫡流=崇光院流であった。小川剛生は常磐宮満仁王が義満の強い推挙で親王宣下されていること、義満の命により光厳院の孫、南都東南院の僧観覚に親王宣下があったが、観覚自身にその希望がなかったことに着目され、当時、義満は持明院統皇統の正統性を弱めるため、敢えて異例の親王宣下を濫発させたふしもあるという(註36)。
 

 木寺宮は後二条院流皇太子邦良親王系で東宮立坊二回、大覚寺統の嫡流とされていたが後二条皇子皇太子邦良親王は早世し、光厳天皇の皇太子(後伏見上皇の方針で両統迭立だった)であった後二条孫の康仁親王は後醍醐天皇の復辟、京都還幸で廃位とされたため、即位できなかった。邦良親王-康仁親王-邦恒王-世平王と二代親王宣下を蒙らなかったが、次の邦康親王が、後崇光院貞成親王の猶子となって親王宣下され、邦康の次の師煕親王まで宮家を維持した。宮号は邦良(くになが)親王が洛西葛野郡木寺に居所を構えたことによる。北畠親房はいうまでもなく吉野の朝廷の正統論であるが、一方、後二条院流が大覚寺統嫡流たることは後宇多法皇の方針であったということは史料の分析からみて否定できないとする歴史家の見解があり、重大な問題なので別途詳しく検討したいが、少なくとも、持明院統(後伏見上皇)及び鎌倉幕府は後二条院流を大覚寺統正嫡と認めていて正統性を主張できる皇統であったのだ。しかし木寺宮の政治的・経済的基盤は弱く、二代親王宣下を被っていないことからもうこの時点では皇位継承候補にはならなかったと考えられる。
 

 ということで、幕府が南朝系を担ぐことは考えにくいとしても、もし彦仁王が存在していなければ常磐井宮や木寺宮を担ぐ選択肢はあったとみてもよいと思う
 しかし、幕府にとって、伏見宮彦仁は性格が良く英明であっただけでなく、政権の安定性という観点では持明院統正嫡が皇位を回復するのが最も望ましい選択肢であったとみて間違いない。しかも足利義教は諒闇(天皇が父母の喪に服する期間)問題でも、伏見宮を支持しているのである。
 すなわち永享五年(1433)後小松上皇は危篤の床で勅書を認めた。史上に知れた「遺詔」であるが、後小松は後光厳皇統の継承という擬制にこだわった。それによると貞成親王の太上天皇尊号の沙汰あるべからず、旧院仙洞は伏見宮の御所たるべからず。御追号は後小松院たるべきこと(註37)であった。
 遺詔を第一義として、後花園は後小松の猶子であるから諒闇とする後小松近臣と、実父でないから諒闇としないとする足利義教らが対立、結果諒闇となったが、足利義教が後小松の遺詔より伏見宮の立場を重んじた点を評価したい。のみならず義教は熱田社領を貞成親王に返還し、永享七年(1435)には貞成入道親王に一条東洞院内裏の近くに御所を建設し進上したいと申し出てきた。後小松の仙洞御所は解体され、京都の伏見殿の御所が完成した。これで貞成親王は事実上の上皇の待遇に近いものとなった。嘉吉の乱足利義教殺害事件の後、文安元年(1444)に次男貞常王が親王宣下、貞成入道親王は貞常親王に、伏見御領、播磨国衙以下相伝の所領、家督を譲った。文安四年に貞成入道親王に太上天皇尊号、翌年辞退。結果論として、後小松上皇に没収されていたが、もともと崇光上皇-栄仁親王の所領であった主要所領である長講堂領・法金剛院領が禁裏(後花園)に、伏見御領・旧室町院領の一部・播磨国・熱田社領などが伏見殿を継承した貞常親王の管領となったことで、事実上伏見殿は本領を回復したうえで分割相続となったといえるのである。
 
 「両御流皇統は断絶してはならない」(『花園天皇宸記』元享元年十月一三日条裏書)にみられるような鎌倉幕府以来の武家政権の明確な方針だったが、足利義教が明確に変更し後南朝断絶の方針をとった、万人恐怖の恐怖政治で知られ、あまり義教を持ち上げると後南朝ファンにお叱りを受けるかもしれないが、しかしそれはある意味で現実的な政治ともいえる。両御流皇統の迭立はうまくいけばよいが、常に皇位継承の紛糾の要因をかかえることとなり、幕府も調停に苦慮することとなる。
 この点は既に述べたとおり南北朝史の第一人者である村田正志が後花園天皇即位の歴史的意義につき「かくて皇統は持明院統正嫡の崇光院御一流に定まるとともに寶祚愈御光を添へ、皇運益々固きを加へられた。これ偏へに皇祖天照大神の神慮、國體の精華と拝し奉る次第である」と述べておられるとおりだと思います。(註38)
 皇統は持明院統正嫡の崇光院御一流に定まることによる安定的皇位継承の意義が重要である。
 

2 後花園天皇の叡慮(貞常親王の永世伏見殿御所称号)の決定的意義

 ふつう伏見宮の初代は栄仁(よしひと・なかひと)親王とされている。『皇室制度史料 皇族四』宮内庁書陵部編纂吉川弘文館  1986 44頁がそうであり、 『国史大辞典』第12巻吉川弘文館1991の 「伏見宮」(武部敏夫執筆)によると「その宮号は、栄仁親王が父天皇にひきつづき山城国伏見の地に居を定めて伏見殿とよばれたことに由来するが、さらに貞成親王はみずから伏見宮と号し、また第四代貞常親王の代に至り、康正二年(1456)十月、後花園天皇の叡慮により御所号を加えて永世伏見殿御所と称することを許された。」と説明されている。
 

 しかし阿哈馬江のホームページ、伏見宮總説 に、『下橋敬長談話筆記』が引かれていて、「維新前まで伏見宮の方では、宮の字を御用ゐにならずに、伏見殿とばかり御書きになりまして、御所へでも、攝家へでも、皆伏見殿で御使が參りました。伏見宮の家來の申分では、朝廷も當御殿も同じであるから、宮ではない、殿であるといふのです。つまり後花園院天皇が伏見宮貞成親王(後崇光院太上天皇)の御子で、皇統を御繼ぎになり、御代々が其の御血統であらせられるといふ所から、かやうに申すのです。併し殿と稱するのは御當主だけで、王子達は皆宮と稱して居ました。御初代の榮仁親王は有栖川においで遊ばしたので有栖川殿と申上げましたが、二代の貞成親王から伏見殿と稱せられました」とされている。
 

 なるほど、維新前ではみずから伏見宮と号した貞成王を別として、伏見殿と称されていたということです。但し、栄仁親王は応永八年に伏見御所が炎上したため、洛西嵯峨の洪恩院に入居したのち嵯峨の有栖川にあった斯波武衛義重の山荘に移って七、八年過ごしていたことから「有洲河殿」と称されたことはあるが、一条経嗣の『北山殿行幸記』では「ふしみの入道親王」と称されており(註39)、必ずしも貞成親王からというわけではない。
 松薗斉は家記の継承を軸にした家継承を論じ、同氏の見解では持明院統の家記を失った(後花園天皇が継承されたため)貞常親王が継承した家、つまり伏見宮家とは貞成の「看聞御記」を「支證」とする「日記の家」だから、太上天皇後崇光院を「曩祖」とするという見解であるが(註40)、独特な見解であり引き連られることもないが、いわゆる定親王家としての伏見宮家の成立は、貞成親王の意図と、後花園天皇の認定によるという見方は基本的に正しいと思う。火災や戦乱で、内裏や院御所を含む「天皇の家」は様々な勢力から狙われやすく、日記をはじめとする文化資本を集中しておくよりは、皇室の藩屏としての伏見殿に分散して相伝する安全策をとったことは堅実だったと思える。むろん、伏見宮成立の意義はそうした文化資本の相伝に主としてあるのではない、世襲親王家(定親王家)としての本質的意義が重要である。
 
 この点については康正二年(1456)十月に後花園天皇が皇弟貞常親王に永世伏見殿御所と称すべしとの叡慮の意義が決定的である。つまり『皇室制度史料 皇族四』の64頁にある伏見宮系譜「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申」であるが、この意義についての具体的論評は不勉強で読んだことがないが、
 『皇室制度史料 皇族四』44頁が「爾後代々、伏見殿或いは伏見宮と号し近代に至った。その間、宮家の継承は、第十六代邦忠親王が嗣子に恵まれずに薨じた後、桃園天皇の皇子貞行親王を迎えて家督としたほかは、すべて実系の王子が天皇又は上皇の猶子となって親王宣下を蒙り、宮家を継承した」と説明していることから、後花園天皇が皇弟貞常親王に永世伏見殿御所を称することを許したということは、貞常親王の子孫に永久に同等の身位、歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される定親王家としての地位を明確にされたとみてよいだろう。

 元禄・享保頃に成立した『有職柚中抄』において「定親王トハ伏見殿ノ如キ永代不易ノ親王也、是ハ帝二御子ナキ時ハ位二ソナヘ玉ハン義也」(註41)としていることからも明らかなように、後花園天皇が定めた、永世伏見殿御所と称すべしとは定親王家=永代不易の親王家=皇位継承候補の控えとしての性格を有するものと理解してよいだろう。
 

 なお桃園皇子の第十七代伏見宮貞行(さだもち)親王は年少で薨去されたので、第十六代邦忠親王の実弟で、勧修寺門跡だった入道寛宝親王が還俗邦頼親王と称し、伏見宮を継承された。このため伏見宮は昭和二十二年(1947)第二十四代博明王が皇籍を離脱して伏見氏を称するまで、五百五十年の長きにわたって実系で相承されたのである。
 その間、第二十二代貞愛親王までは世襲親王家として代々親王宣下を受けた。また近代にあっては、貞愛親王は元帥・陸軍大将・内大臣府出仕に、次代の博恭王は元師・海軍大将・軍令部総長に任ぜられ、ともに皇族の長老として重んぜられた(『国史大辞典』第十二巻「伏見宮」)。
 

   永世伏見殿御所という定親王家を定めたことは、鎌倉幕府の「両御流皇統は断絶してはならない」という方針よりもずっと重いのである。なんといっても英明な君主、後花園天皇の叡慮によるものであるから。従って昭和二十二年の伏見宮とその御分かれの宮家の皇籍離脱は後花園天皇の叡慮をないがしろにした全く誤った政策であったと断言することができる。
 宮家の皇籍離脱に関連して、高松宮宣仁親王が昭和五十三年に次のように書いている「終戦処理ニテ国体ハ護持サレタ。ソシテ天皇制ガ実現シ皇室ハ存在スル。シカシ皇族ハイルガ、皇室制度ニオイテノ皇族制度ハ崩壊シテシマッタト思フ」(註42)
 であるから、今こそ深刻きわまりない危機を跳ね返して、この際、終戦後の誤った政策を正し、後花園天皇の叡慮を今こそ重んじて、実系で男系を維持している伏見宮の御分かれの属籍を復すべきだと思う。政府が五百五十年前の後花園天皇の叡慮を決して無にしないことを言明して国民に示し、それを実現する目処を立てれば、首相は尊皇家として不朽の名声を得るはずだ。決して国民の理解を得られないということではない。宮内庁その他にもスタッフはいるだろうし、優秀な歴史家は少なくないのだから、伏見宮の御分かれの属籍を復すことについて国民に説明することは難しいことではない。万古不易の伝統・規範を重んじる国家として、諸外国からも我が国は尊敬されることとなり、国民にとっても有益である。

 首相が後花園天皇の叡慮を無にすることはないと言明すれば感激するし、皇位継承問題はそういう方向であるべきだ。
 女帝-女系論者は後花園天皇の叡慮なんて知ったこっちゃないし、この際どうでもよい。フェミニズムに迎合して女帝ブームをつくればそれでいいんだよとでもいうんだろう。もし首相がそういうつまらないお考えならば大きな勘違いです。こういうことをいうのもなんだが、英明な後花園天皇の即位で皇室は救われたという面は多分にあるのであり、称光天皇は半狂乱状態で手のつけようのない君主だったし、もし後花園でなく、大覚寺統(亀山系)の常磐井宮、木寺宮、あるいは順徳系が、あるいは後南朝が皇位を継承したら、今日の姿とはかなり異なった姿の国家になったはずである。後花園天皇あっての今日の皇室、日本国の存在であるから、今こそ伏見宮の御分かれに属籍を復していただき、崇光院流皇統の永続を万世一系の皇統を維持すべく最大限の努力をなすべきというのが私の意見であります。
 

3 世襲親王家(定親王家)の意義

 世襲宮家についてまず竹島寛(註43)から引用する。「平安朝以降、皇子、皇孫に賜姓のこと多く、また出家し入道し給ふ方も少なくなかったので、親王、諸王の号を称せらるる皇族方が漸次数少なくならせられたが其の代り鎌倉時代の初め頃から、皇孫、皇曾孫など疎親の皇族方に親王号を宣賜せられ、代々世襲し宮号を称しせらるることが起こったのである。これを定親王または世襲親王と申し、其の御家筋を某宮家と申し上げたので、後には皇統の御直系に御即位遊ばす御近親の御方が無い場合、入りて皇統を御継承遊ばさるる御家柄として御尊崇申すこととなったのである」とされ、宮家のもっとも古い例として、高倉皇子惟明親王の大炊御門宮とされている。大炊御門・六条・岩倉・鎌倉将軍・常磐井・木寺・伏見・桂・有栖川・閑院・山階の十一宮家が明治維新以前創立の宮家、明治維新以後創立は久邇宮・賀陽宮・朝香宮・東久邇宮・小松宮・北白川宮・竹田宮・華頂宮・東伏見宮・梨本宮の十宮家で悉く伏見宮の御分かれである。
 伏見宮の御分かれについて、山階宮は伏見宮第二十代邦家親王の御子晃親王が元治元年の御創立。久邇宮は明治八年伏見宮十八代貞敬親王の御子朝彦親王の御創立、賀陽宮・朝香宮・東久邇宮は久邇宮の御分かれ、小松宮は伏見宮第二十代邦家親王の御子彰仁親王の御創立。北白川宮は同じく邦家親王の御子智成親王が明治三年に始めされ、明治五年に実弟能久親王が相続遊ばされた。竹田宮は能久親王の第一王子恒久王の御創立。華頂宮は伏見宮第二十代邦家親王の御子博経親王の御創立。東伏見宮は伏見宮第二十代邦家親王の御子依仁親王の御創立。梨本宮は伏見宮十八代貞敬親王の御子守脩親王の御創立。 
   

   次に橋本義彦は、宮家の歴史を概観して「宮家の皇族は皇室の藩屏となり、天皇の補佐に任ずるのみならず、天皇の血筋を温存し、時には中継ぎとして皇位に即き、さらに天皇に後嗣のない事態に際会した場合には、入って皇統を継ぐことも期待されていたことがわかる。すなわち、宮家は皇統の一系を補完する重要な役割を果たしたのである」(註44)と説明されている。
  しかしながら中世の宮家は皇統の一系を補完する役割のために創立されたというのではなく、基本的には管領所領を有し政権より安堵されることにより王統は継続することができたと考える。例えば四辻宮は順徳皇子善統親王系であるが代々親王宣下されてはいないが室町時代まで存続した。金井静香(註45)によると四辻宮善統親王は七条院(後鳥羽生母)-修明門院(順徳生母)と伝わった38箇所の七条院領を相続し、21箇所は後宇多天皇に献上され、さらに残りの17箇所も献上を申し入れたが、正和三年に東宮尊治親王の令旨により安堵されたのだという。そのように管領所領を有する以上宮家は存続する。 しかし、四辻宮家は歴代親王宣下ではなく三代めの源善成が応永二年に左大臣にまで昇進し官を辞したえう親王宣下を望んだが、斯波義将に断念させられたため、出家したことによりこの王統も杜絶することになる。、
 
  私は素人なので、封禄や国家財政の変遷で不明な点が多いが、九世紀末には位禄、王禄、時服、月料、官人給与財源はかなり苦しくなっていた。藤原冬緒による財政改革にもかかわらず元慶官田は冬緒の構想とは違って、諸司に分割され下級官人給与財源になってしまったので、王禄の財源不足は解消しない(註46)。季禄や節禄は10世紀中葉に崩壊するものの(註47)、十世紀以後財政改革により国家財政はかえって効率的になったという見方もある。しかし12世紀初頭には、太政官の受領監察制度である受領功過定が機能しなくなり(註48)、限定的に支給されていた位禄も支給されなくなったことからみて、少なくとも皇親、とりわけ諸王については令制に基づく国家給付は12世紀にはかなり困難になったと考えられる。令制の皇親制度は変質せざるをえない。
  国家財政の変質により皇子はもとより、皇孫以下に対しても旧来の如き待遇が困難になった朝廷が、当時頓に増大した仏寺の地位・財力を借りてその処遇の道を得ようとし中世以降、皇子処遇の道として寺院に入室せしめることが殆ど常例になった(註49)。従って中世においては管領所領を有するか相当な外戚の援助がない限り王統を維持することは困難である。一方、定親王家ではないが、先に述べた四辻宮のように政治力学的に皇位継承の可能性の低い皇親でも旧女院領の相続という経済的基盤により宮家が存続したのである。
 
  しかし歴代親王宣下の定親王家については、皇位継承の正統性を主張できる皇統であることが、前提であると私は考える。常磐井宮を嚆矢とみなすこともできるが、亀山法皇に正嫡と定められ、皇位継承の正統性を主張できる王統だが、常磐井宮は大覚寺統の「反主流派」で、政治的に有力ではなくなっていた。
  従って本当の意味での世襲親王家、皇族の崇班として皇室の藩屏としての定親王家は貞常親王の伏見殿からというべきだろう。武部敏夫によれば、江戸時代においては四親王家となったが、当時の皇統は伏見宮家より入って皇位を受けられた後花園の系統であるため、同宮は皇室にとって殊に由緒ある家柄とされ、その家系も栄仁親王以来この時代中期に至るまで、血脈連綿として相承け、他系を交えることがなかったことは、更に由緒を深らしめることとなった〔桃園皇子貞行親王は早世され、次の邦頼親王で伏見宮は実系に復している〕(註50)。(なお伏見宮は江戸時代にあっては山城国の葛野・愛宕・紀伊・乙訓四郡内で千二十二石余を家領とした-註51)。
  伏見殿は徳川氏との縁戚関係もあり徳川光貞室に貞清親王王女照子女王、徳川家綱室に同顕子女王、徳川吉宗室に貞致親王王女理子女王。徳川家重室に邦永親王王女培子女王、徳川重好室に貞建親王皇女貞子女王が婚嫁している(註52)。

  室町時代以降において皇儲及び宮家を創立、若しくは継承した親王、或いは婚嫁のあった皇女・王女のほかは出家することが常例となっており、経済的基盤の制約もあり親王家の新立は容易に認められない。武部敏夫によれば、世襲親王家は元来、皇子その他皇親に対する個人的な待遇として行われた親王宣下とは性格が異なり、家系に対する優遇に転用せられ、一種の家格として慣習的に形成されたとされる見解で、江戸時代に於いては明らかに皇位の継承という観点に立って理解されていたとして次の例をあげている(註53)。
  有職柚中抄(元禄・享保頃)
 「定親王トハ伏見殿ノ如キ永代不易ノ親王也、是ハ帝二御子ナキ時ハ位二ソナヘ玉ハン義也」
 故実拾要第一(元禄・享保頃) 
「凡親王立テ被置事ハ継躰ノ君ナキ時践祚アルカ為二立テ置ルゝ也」
 中山竹山の草茅危言巻一も世襲親王の建置を「継統ノ御備へ、天下二於テ第一ノ切要」と説いているとおりである。
 したがって伏見殿は永代不易の定親王家=皇位継承の万一の備えとしての性格は明確なのである。

つづく

(註32)横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 292頁以下。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979 、
(註33)橋本義彦『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館1996「皇統の歴史」16頁、三浦周行 「鎌倉時代史 第九十二章 後深草、亀山両法皇の崩御」(『日本史の研究 新輯一』.岩波書店.1982年.p404以下)、森茂暁 「皇統の対立と幕府の対応-『恒明親王立坊事書案徳治二年』をめぐって-」(『鎌倉時代の朝幕関係』.思文閣.1991.p235以下)、森茂暁『南朝全史』講談社メチエ 2005年 38頁以下。
(註34)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 213頁。
(註35)森茂暁『南朝全史』講談社メチエ 2005年 180頁以下参照
(註36)小川剛生「四辻善成の生涯 」『国語国文』 69巻7号(通号 791) [2000.07]  の16頁註(9)
(註37)横井清 前掲書 319頁以下
(註38)『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1984 
「後小松天皇の御遺詔」137頁
(註39)横井清 前掲書 78~79頁
(註40)松薗斉『日記の家』吉川弘文館 192頁
(註41)武部敏夫「世襲親王家の継統について--伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』(通号 12) [1960.10] 49頁
(註42)川田敬一「ドキュメント十一宮家の皇籍離脱」『歴史と旅 』秋田書店  27巻11号 [2000.09]、高松宮宣仁親王伝記刊行委員会『高松宮宣仁親王』朝日新聞社1991の孫引き
(註43)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936 169頁以下
(註44)橋本義彦『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館1996「皇統の歴史」19頁
(註45)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 215頁以下
(註46)西別府元日『律令国家の展開と地域支配』思文閣出版(京都)2002「元慶期の財政政策と元慶官田」260頁以下元行基
(註47)吉川真司『律令官僚制の研究』「禄制の再編」369頁以下 初出1989
(註48)佐々木宗雄『日本王朝国家論』名著出版1994「十~十一世紀の授領と中央政府」初出1990
(註49)(註50)武部敏夫「世襲親王家の継統について--伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』(通号 12) [1960.10]
(註51)『国史大辞典』第12巻吉川弘文館1991の 「伏見宮」(武部敏夫執筆)
(註52)武部敏夫「世襲親王家の継統について--伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』(通号 12) [1960.10] 55頁の註(7)
(註53)武部敏夫 前掲論文 49頁

2005/10/12

皇室典範に関する有識者会議の論点整理について反対意見1(続)

高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第3回)

  石清水八幡宮の託宣の意義を否定してよいのか

川西正彦(平成17年10月12日)

 石清水八幡宮(京都府八幡市)は、古来より、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟と称せられ、歴代天皇の崇敬が深く、行幸啓・奉幣はしばしばで、行幸は永祚元年(989)正月二十一日の円融法皇の御参詣を初めとし、明治十年、明治天皇の行幸に至るまで天皇・上皇の行幸や美幸は二百四十度にも及ぶ。(註25)
 八馬朱代「円融天皇と石清水八幡宮」(註26)によれば、八幡神の祈願の特徴について①乱平定の神(藤原広嗣の乱、承平・天慶の乱)②対外の神(新羅賊船侵入事件)③皇位継承・守護の神(道鏡事件、天皇の即位報告)と三つの側面を有するとされ、、嵯峨朝より仁明朝に八幡神は「皇位の正統性を承認・守護する神」としての神格を朝廷より付加されたと概括され、宇佐八幡宮の即位奉幣の初例は天長十年四月五日の仁明天皇であるが、後一条天皇まで(宇多・村上・冷泉天皇を除いて)代々即位奉幣が八幡神に対して行われていた。
 円融上皇の石清水八幡宮への信仰が顕著にあらわれているのは、永祚元年(991)のことで一条天皇に「御悩」があり、そのことを安倍晴明に占いをさせ、報告があった直後から石清水八幡宮への御幸を行い、奉幣活動を度々行っていることから、度重なる祈願は一条天皇の在位を維持したいという思いにより、「皇位の正統性を承認・守護する神」という八幡神に深い信仰を抱かせたのではないかという。なるほど、円融天皇はただひとりの皇子である懐仁親王(一条)が誕生しなけければ、一代限りで、冷泉天皇から花山天皇への中継ぎにすぎなかった。しかし、石清水八幡の祈願のためか、皇孫の後一条以後歴代天皇は全て円融系の皇統となっている。
 持明院統の歴代天皇も幕府においても石清水八幡を尊崇していたことはいうまでもない。足利義教は石清水八幡で行われたくじ引きて選ばれた将軍だが、恐怖政治で評判の悪い独裁者である。しかし伏見宮贔屓であり、後花園を支えたことは評価されてよいのではないか。

 さて、後崇光院伏見宮貞成親王(当時-貞成王)は応永二十八年の八月二十八日の石清水八幡宮に代参を立てた。この時の奉納祈願の願文の内容であるが、「‥‥そのひとつは無官無位にして世にあらむ事、名をはづかしむる第一の恨とす。又一つは窮困のうれへ、法に過て世路をわたるに治術なし。わづかに管領の地ありといへども、闕乏をおきぬ(補)うにたらず、殊眼目とたのむ懸命の地は別相伝なり(中略)抑先親かたじけなくも岩(石)清水の正流を受たりといへども、宿運つたなきによりて皇統忽ちに断絶せり。この神明のさだむる所の前葉(業カ)のしからしむるゆへか、凡慮さらにわきまへがたし。しかりといへども、子孫猶相続て一流の絶えざらむ事をこいねがふ。庶流なを区々に跡を残せり、況嫡流においてふ(ママ)や。ことに八幡(菩薩)は正直の頭にやとりまします。われつたなき身にも正直ならむと思心ふかし。又他の人よりは我人はちがひまします。いかでか正嫡をすて給はんや。我齢すでに知命に及べり。いまいとけなき緑子あり(中略)寿福のふたつことにねがふ所なり。かつうは又父祖の怨念をやすめたてまつりて、孝子の心ざしをとげんと思ふ。願は相伝の旧領を本に復して、宮中二たび繁盛せしめ、殊には官位の先途を達して、朝廷にまじはる名を子孫につたへん。小児息災安穏にして、一流万代に相続せし給へ。いま祈請する所過分の望をも祈らず。たゞ理運の願ばかりけり(後略)」(註27)とある。小児息災安穏の小児とは彦仁王(後花園)のことであるが、自らが皇統の正嫡であり、嫡流が不遇の境界に置かれ放しなのはいかにも道理に合わぬこととしている。位藤邦生は、願文といいながら個性的な文章と評され、一面からみれば甚だ欲深な内容に満ちており、八幡の神と取引する気味が感じられ、後小松上皇、称光天皇健在の時点では過激な文章との論評(註28)だが、それだけ強い正統、嫡流意識を持っていたということである。
 伏見宮貞成親王の『椿葉記』であるが、崇光院流の正統性、太上天皇号の望み、天皇としての心構え等を記し、後花園天皇の叡覧に訴えた内容の書であるが、この書名が石清水八幡宮と深いかかわりをもっている。「おほよそ称光院の絶たる跡に皇胤再興あれは、後嵯峨院の御例とも申ぬへし。八幡の御託宣に、椿葉の陰ふたゝひ改としめし給へは其ためしを引て椿葉記と名付侍ることしかり」とあり、八幡の御託宣とは「古今著聞集」「増鏡」の後嵯峨院の逸話のことで「古今著聞集」では「仁治元年冬の比、八幡へまいらせ給て、御出家の御いとま申させ給けるに、暁御寶殿のうちに「徳是北辰、椿葉影再改」と鈴のこゑのやうにて、まさしくきこえさせ給ければ、これこそ示現ならめと、うれしく思し召して還御ありけり」(註29)との話である。「椿葉影云々」とは『新撰朗詠集』の大江朝綱の「聖化万年春」のことで「徳是北辰、椿葉影再改、尊猶南面松花之色十廻」の句のことで、後嵯峨が二十歳を過ぎても元服の沙汰もなく、一旦御出家も思召立たれようとされたが、石清水八幡宮に参籠した際、「徳是北辰、椿葉影再改」という御託宣を蒙った。意味するところは、帝王となってその徳高く、子孫の栄え久からむこと(註30)であるが、四条天皇が事故で急に崩御になられ、嗣子なく、入って大統を継がせられるようになった事例をさしている。称光天皇に嗣子なく、皇位を継承した後花園の事例がそれに類似しているので、石清水八幡宮に尊崇あつい貞成親王がこの託宣から書名としている。したがって『椿葉記』には「皇位の正統性を承認・守護する神」である八幡神の御託宣により皇位を継承した後嵯峨天皇のその皇子後深草の正嫡の皇統の永続の意義がこめられているといってよいだろう。
 貞成親王がの石清水八幡宮の神徳を詠んだ歌は非常に多く、
 おとこやまたゝしき御代をまもるへき神のちかひは今の時かも
 なみならぬ恵そふかき石清水むすふ契や代々をかけけん
 君が代を猶こそいのれ男山さかゆくすゑに我やあふとて
 わか人の数ならすとも男山さかゆく末をまもらさらめや

  などがある(註31)

 いま後崇光院の皇統、すなわち後花園の子孫である今日の皇室と、後花園より永世伏見殿御所の称号を許された貞常親王の子孫、つまり伏見宮の御分かれ、旧皇族ですが、後崇光院の皇統を全面的に否定して女系宮家、女系継承で易姓革命を事実上是認する制度化を計ろうとしているのが有識者会議です。とんでもないことですね。それでは石清水八幡の託宣や、貞成親王の願文「一流万代に相続せし給へ」の意味を否定するもので全く無意味になってしまう。絶対にあってはならないことです。「皇位の正統性を承認・守護する神」がそんなことを容認するでしょうか。後崇光院にどう申し開きしますかと問いたいです。

つづく

(註25)http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/kinki/s_ki2.html
(註26)八馬朱代「円融天皇と石清水八幡宮」『日本歴史』684号2005年5月 

(註27)横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 200頁以下。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979
(註28)位藤邦生『伏見宮貞成の文学』清文堂出版社(大阪)1991 328頁
(註29)位藤邦生 前掲書 323~324頁
(註30)鹿島曻 『日本王朝興亡史』新国民社1989 477頁 同氏の見解にはむろん賛同しないが、後嵯峨の逸話の意味について引用した。

(註31)位藤邦生 前掲書 324~325頁

2005/10/10

皇室典範に関する有識者会議の論点整理について反対意見1(続)

高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第2回)

川西正彦(平成17年10月10日)

今回の内容(補遺 伏見宮の成立過程)

1 光厳法皇の所領処分と崇光院流の正統性

2 栄仁親王と緒仁親王との皇位継承争いと後小松天皇による崇光院流所領の没収

前回がかなり粗っぽい作文になったため、まず持明院統所領の伝領過程について補足しておきたい。

1 光厳法皇の所領処分と崇光院流の正統性

 正平九年(文和三-1354)三月、三上皇廃太子(光厳・光明・崇光・花園皇子直仁親王)は大和賀名生より河内金剛寺観蔵院に遷られた。賀名生の掘立小屋程度より居住環境はずっと良くなっていて、京都への通信も可能になった。この地で光厳法皇は正平十一年(延文元)までに崇光上皇に持明院統正嫡の「帝王学」である琵琶の秘曲を伝授されている(註13)。持明院統相伝の琵琶の秘曲を伝授したということは正嫡と認められたことを意味する。光厳第二皇子(実は第三皇子)の後光厳が皇位についたにもかかわらず、光厳法皇が第一皇子の崇光を正嫡と定めたということにほかならない。
 ところが実は、康永三年(1344)の時点では光厳上皇(当時は、光明天皇・東宮興仁親王)は、花園皇子直仁親王を正嫡に定めていたのである。それは、康永三年四月の置文と譲状により、直仁親王を将来継体とし、荘園群のなかでももっとも重要な長講堂領は光明天皇から直仁に伝領されるように定められ、興仁(のち崇光天皇)には因幡国と法金剛院領を譲るが、一期ののちは直仁に伝領するよう定めたことで明確なのである(註14)。
 持明院統の正統長嫡路線からみて、第一皇子の興仁親王の皇子は必ず仏門に入れよとされ、興仁親王(崇光)が中継ぎの扱いで、光厳の従兄弟にあたる直仁が正嫡とされたのは不可解というほかない。ところが直仁親王の母宣光門院(正親町実明女藤原実子)は花園院最愛の寵人であるから、花園皇子とされているが、実は直仁親王は光厳胤子であり、宣光門院が懐妊する前に春日大明神のお告げがあり、その霊験によって出生した。このことは光厳上皇と宣光門院以外他人は全く知らないことと置文に記されていた。つまり不義の交際があったことを上皇御自ら告白されているのである(註15)。春日大明神のお告げにより実は第二皇子の直仁親王を正嫡に定めたということらしい。(この文書は事の性質上戦後になって明らかになった)
 しかし、足利将軍家の内訌による観応の擾乱は、足利直義が南朝に降ったことから争乱が大規模になり、和睦も模索されたが、桃井直常のような直義党の強硬派が和睦を拒否したため、観応二年(1351)十月ついに足利尊氏は、直義を討つため南朝に降って尊氏勅免の綸旨と、直義追討の治罰綸旨が発給され、尊氏は関東に進発した。
 正平一統とよばれる南朝による政権の接収により状況は大きく変化した。崇光天皇(当時18歳)は大嘗祭未遂のまま廃位、神器も南朝に回収された。正平一統は直義が毒殺された時点で破綻し、正平七年(1352)閏二月北畠顕能率いる南軍が京都に突入、警戒を怠っていた足利義詮が七条大宮の市街戦で大敗し、三上皇皇太子(光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・直仁親王)を置き去りにしたまま、近江に敗走する大失態で、結果、三上皇皇太子は大和賀名生まで連れて来られた。ここにいたって登極していない直仁親王を正嫡と定めることに無理があり、崇光上皇を正嫡と定める方針となったとみられる。
 
 三上皇皇太子が南朝本拠地へ移送される異常事態のため、京都では妙法院門跡に入室する予定で日野資名に養育されていた光厳第二(実は第三)皇子(当時15歳)の後光厳践祚により北朝が再建された。
 後光厳天皇が皇位について後、ほどなく南軍の攻撃が開始され、文和二年(1353)六月に南軍の楠正儀や山名時氏が京都を攻め、足利義詮は敗退して、後光厳天皇を奉じ美濃の垂井に走り、同国の小島を行宮とした。京都は奪還され天皇は還御され、尊氏も京都に戻ったが、あくことなく足利方の武将の抗争は続いて、文和三年十二月にも尊氏は後光厳天皇を奉じて近江の武佐寺に逃れた。翌年、足利直冬、山名時氏、桃井直常の南軍が入京、二月から三月にかけて京都内外で激戦がくり返され、南軍は敗れて京都を退き、三月二十八日に後光厳天皇の還幸をあおぐことができた。
 そうしたことで南朝強硬派の北畠親房も文和三年に薨じており、南朝が北朝の上皇や廃太子を抑留する意味が薄れてきた。まず光明法皇は正平十年(文和四)に帰京され伏見法安寺に入っている。光明法皇は繊細な性質の人で長期の幽閉生活には耐えられなかったようだ。
 正平十二年(延文二-1357)に光厳法皇・崇光上皇と直仁親王が突然、河内金剛寺より還幸され、光厳法皇は深草金剛寿院、崇光上皇は大光明寺の伏見殿に還御された。
 長講堂領など持明院統の管領所領は、上皇の政務を代行していた光厳・光明生母広義門院(西園寺寧子)の沙汰とされていたが延文二年閏七月に崩ぜられたことから、貞治二年(1363)までには光厳法皇の管領に属していたとみられている(註16)。光厳法皇は帰京後、政務に関するかかわりをいっさい断っているが、北朝内部の所轄権、管領所領の処分権は法皇に属したのである。
 貞治二年四月に光厳法皇は、長講堂領・法金剛院領・熱田社領・播磨国衙など持明院統主要所領を崇光上皇に譲与され(註17)直仁親王は花園上皇が相続した旧室町院領だけが譲られ、親王の歿後は宗領に返付されるものとされた。
 持明院統の文庫や琵琶も崇光上皇に伝えられている。飯倉晴武によると、後光厳は光厳院の承認をえないで践祚した天皇で、よくいっても緊急避難としての中継ぎの天皇としての存在という認識であり、光厳院は皇位は正嫡崇光院流にもどすよう考えられていたとされる(註18)。後光厳天皇が相続したのは祖母の広義門院領だけであり、経済的基盤の弱さは否めない。それは政治力にも影響するものだったとみてよいだろう。この光厳院の措置に後光厳天皇もかたくなな気持ちになって父子の間を冷たくしたといわれている。
 しかし、『椿葉記』にある光厳法皇の置文の内容はあらゆる事態が想定されていて、よく練られたものであったと思う。
 崇光上皇に譲与された長講堂領など主要所領について、「(一)(崇光院の)親王践祚あらば、ただちに相続すべし。(二)もししからずば禁裏(後光厳天皇)御管領あるべし(三)ただし、末代両方(崇光院流・後光厳流)御治天あらば、正統(嫡流)につきて伏見殿(崇光院)の御しそん御管領あるべき由‥‥」(註19)とされている。また武家政権が後光厳を支持し崇光皇子の子孫が即位できない場合でも、最低限経済的基盤が維持できるようにされていた。つまり光厳法皇は長講堂領のうち、伏見御領(伏見荘)については切り離して大光明寺に寄進し、仙洞=崇光院の子孫の管掌とされた。崇光院流は別相伝所領を有することとなり、政局がどう転んでも宮家として存続できる工夫がなされているのである。伏見宮家が昭和二十二年まで存続したひとつの根拠は歴史を辿っていけば光厳法皇の先見の明にあったといえると思います。
 光厳上皇の事績については歴史家、中世文学研究者により高く評価されています。
 例えば岩佐美代子の「光厳天皇-その人と歌-」(註20)から長文ですが引用させていただきます。
「光厳天皇は、近江の番場まで六波羅勢と逃れてそこで捕らわれて退位されます。まさに土崩瓦解の乱世の中で、建武三年、尊氏が後醍醐天皇に反して一旦敗れて、二月十日に九州に逃れますけれども、その時三宝院賢俊を仲介として、光厳院の院宣を受けている。どういう事情で、どういうふうなお心持で、光厳院が尊氏に院宣を授けられたかということは、従来ほとんど考察されていないと思います。‥‥そのすぐ後、三月十四日、二十五日、二十九日の三回に亙りまして、宸筆の般若心経を、伊勢・石清水・春日社にそれぞれ奉納して、三界流転の衆生の救済を願っておられる。‥「日吉山王七社和歌」‥恐らくこれも同じ頃に詠まれたかと思われる。そういう資料の存在から考えまして、花園院の教えを実践するために、正統長嫡である持明院統、--伏見院以来、持明院統の方々は正統長嫡の天子ということを非常に強調なさる。これは系図でご覧の通り、後嵯峨から後深草・伏見・後伏見・光厳というのはまさに正統長嫡に違いないので、これは後醍醐といえども否定することができない。その正統長嫡である持明院統に皇位を回復するのはこの時をおいて外には無い、という光厳さんの一大決断であったと考えられます。‥‥光厳院は文和元年(1352)賀名生で出家なさいまして‥‥延文二年許されてようやく帰京なさいますけれども、以後は人を避けて小倉山に小さい庵を結び、貞治二年(1362)に法隆寺に参詣、それから高野山を巡拝なさって、『太平記』によりますと、吉野にもいらして後村上天皇とお会いになる。それから各地を廻って、戦没者の霊を弔い、‥常照寺に入られます。そして山寺の一老僧として貞治三年(1364)七月七日、五十二歳で亡くなられるのでございます。光厳天皇という方は、御自分で望んだのでもない、苛酷な運命に弄ばれながら、歴代天皇の中でおそらくたったお一人、天皇というご自分の地位がもたらした、いろいろな罪障に対して、はっきりとした態度なり行動を以て贖罪を果たし、ただ一人の人間となって亡くなられた方でございます。日本の天皇の中に、こういうお方が、お一人でもいらしたということを皆様に知っていただきたいと思います。」
 光厳天皇は元弘の年江州番場宿において(関東に遷られる途中)、六波羅勢四百三十人の集団自害という血なまぐさい陰惨な地獄を見た。歴代天皇の中で戦乱に会ったケースはあるが、ならず者に包囲され拘引されるという屈辱は光厳天皇だけといってもよい。それでありながら、確固たる正統意識のもとに皇権の回復に努めた。院宣が多数であることから光厳上皇は政務に意欲的だったといわれる。しかし尊氏の裏切りにより、掘立小屋での幽閉生活を強いられた。大変な苦労をされている。
 その光厳院が正統と定めた崇光院流、それは栄仁親王-伏見宮貞成親王の皇統です。後花園天皇と永世伏見殿御所の称号を許された貞常親王の父が後崇光院貞成親王ですから、今日の皇室と伏見宮御流も含めた系統でもあるわけです。こんなところで女帝-女系継承で、上皇の皇統の永続性を全面的に否定してよいのでしょうか、もしそんなことをやって有識者会議の方々はどう申し開きしますか。
 
 2 栄仁親王と緒仁親王との皇位継承争いと後小松天皇による崇光院流所領の没収
 
 応安三年(1370)半ばから、後光厳天皇は皇子緒仁親王(後円融)に譲位の意向を持ったようで、この風聞から崇光上皇は中納言日野教光を使者として幕府に送り「後深草院以来、正嫡にてまします御理運の次第」を説き、崇光皇子栄仁親王の践祚を積極的に申し入れていた。しかし、後光厳天皇は柳原忠光を使者に立て、三宝院光済を介して、幕政の実権者細川頼之にはたらきかけ、細川頼之の判断は「聖断たるべきよし」とされ、後光厳天皇の裁断とされたのである。むろん、幕府は政権の安定性という観点で正嫡栄仁親王を支持する選択肢もあったはずである。しかし戦陣の間苦楽を共にして二十年近い長期在位となった後光厳天皇の意思を尊重せざるをえなかった。応安四年(1371)三月後円融践祚、後光厳院政となった。
 しかし新帝の即位式挙行を目前とした十二月二日に興福寺衆徒が、一乗院、大乗院の処罰を要求して春日神木を捧げて入洛、後光厳上皇が神木を大原野神社に遷して即位式を挙行しようとしたため、衆徒が憤激し、院側近の柳原忠光、広橋仲光、中御門宣方らを次々と放氏したため院政は混乱に陥った。しかも四年にわたって春日神木が王城に鎮座し続けたため、後円融の即位式も延期され、深刻な政治的空白を生じたのである(註21)。
 応安七年(1374)は後光厳上皇(37歳)は疱瘡にかかって急に崩御になられた。これは春日の怒りにふれたと噂された。17歳の後円融親政となりますが、天皇は政務に意欲があったが、神木入洛の後遺症による廷臣の無気力はいかんともしがたく朝廷政治は惨憺たる様相になり、この間に朝儀が衰退していった。
 後円融天皇は、永徳二年(1382)6歳の第一皇子後小松天皇に譲位した。この時崇光上皇は栄仁親王(当時32歳)を推す公然たる動きをみせることもなかった。すでに足利義満の権力基盤が固められていたためだろう。
 明徳三年(1392)閏十月崇光上皇は剃髪入道されました。また南北朝の合一がなりました。応永五年(1398)正月十三日崇光法皇は崩御になられました。つまり35年の長期にわたって崇光上皇が持明院統の長講堂領、法金剛院領などの主要所領の本所であった。それは後光厳天皇の記録所の所轄外であった。崇光上皇が治天の君ではないので政治力に疑問を持つのである。素人目にみても院宣の数は少ないとされており、南北朝の動乱期において、現地の違乱などは少なくなかっただろうと推定できます。
 崇光法皇の崩後、百日をすぎた頃に、栄仁親王にとって晴天の霹靂としかいいようのない事態が生じた。伏見殿の所領として栄仁親王に伝えられるはずの所領のうち長講堂領、法金剛院領、熱田社領、播磨国衙が後小松天皇によって召し上げられてしまったのである(註22)(ただ、この所領移管は栄仁親王が践祚できない場合は、禁裏が管領するとした貞治二年の光厳法皇の「置文」の趣旨に沿っているので、理は後小松天皇にあるともいえる)。むろん所領没収は、後小松を支えている義満の権力を背景としており栄仁親王は同年五月二十六日義満の沙汰により剃髪入道を余儀なくされている。
 栄仁親王は窮境に陥った。突然の発心入道に驚いた近臣の庭田経有は、「凡そ天照大神以来一流の御正統、既に以て失墜、言語に絶するものなり。只、悲涙に溺れおわんぬ」と同情を惜しまず、「御前途を期せらるゝの処、にわかの此の如き御進退。さりながら、彼の相国の申沙汰なり」と記し、貞成親王の後年の言(『椿葉記』)によれば「あまりになさけなき次第、申せばさらなり」とある(註23)。
 しかし同年十月に旧室町院領の一部(持明院統の傍系の廃太子直仁親王の遺領)、播磨国衙、同別納十箇所が栄仁親王に与えられ(註24)、応永十五年には貞治二年の光厳法皇の置文により長講堂領だが崇光の子孫へ別相伝としていた伏見御領も返還され、栄仁親王家の所領となっている。
 私としては「天照大神以来一流の御正統、既に以て失墜、言語に絶するものなり」の言にみられるように、確固とした正統意識がみられる点を強調しておきたい。窮境に陥ったが崇光院流こそ正統なのである。
 
つづく
 
(註13)飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』吉川弘文館歴史ライブラリー2002 193頁
(註14)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 185頁以下 
(註15)飯倉晴武 前掲書 139頁
(註16)森茂暁『南北朝公武関係史の研究』文献出版1984 227頁以下
(註17)森茂暁 前掲書 247頁 註(58)、金井静香 前掲書 236頁、飯倉晴武 前掲書 207頁以下
(註18)飯倉晴武 前掲書 202頁
(註19)横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 44頁。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979

(註20)岩佐美代子「光厳天皇-その人と和歌」『駒沢国文』29号 1992  
(註21)小川剛生『南北朝の宮廷誌 二条良基の仮名日記』臨川書院(京都)2003 141頁
(註22)横井清 前掲書 43頁
(註23)横井清 前掲書 45~46頁
(註24)金井静香 前掲書 236頁

2005/10/03

有識者会議の論点整理について反対意見1

高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか

川西正彦(平成17年10月3日)

  女帝-女系論者で世論を誘導している 高橋紘は伏見宮御流を虚仮にしまくっている。5月31日の皇室典範に関する有識者会議の席上でも次のように発言した。
  「11宮家の皇籍離脱の理由はきちんとあるわけです。有識者会議の資料を拝見いたしますと、そのような勉強もされたようでありますけれども、現在の天皇家から終戦当時既に550 年前に分かれた宮家、伏見宮家一統の方々なのです。
 昔、宮内庁を取材しておりまして話を聞いたのですけれども、その11宮家の中に香淳皇后のお里の久邇宮家はどうするとか、あるいはご長女の照宮様が嫁がれた東久邇宮家はどうするとか、または昭和天皇の叔母様方、北白川宮家、竹田宮家など、そういった方々をどうするのかというような議論もあったということです。しかし、それほど大きな議論にはならなかった。なぜか。要するに天皇家と遠い血、親等がずっと離れているという問題。この冷厳な事実が基準とされたということです。もちろん、過去の例として、継体天皇とか何人かの天皇は、そういった遠系から即位されたという例はありますけれども、皇籍を離脱いたしまして、もう既に六十年近く経っているという方を、男系男子を存続させるために、わざわざ養子にお迎えするということが、果たして現在の国民感情に合うのかどうかという気がします。 」(註1)
 要するに初代栄仁親王から昭和二十二年皇籍を離脱するまで550年の長きにわたって相承されたきた伏見宮御流を蹴っ飛ばして切り捨てろという暴論です。何様のつもりか知りませんが、伏見宮御流を虚仮にして国民の理解なんてありえないと勝手に決めつけ切って棄てる乱暴な立論です。
 この見解は7月26日の有識者会議の論点の整理でも採用されていて
「旧皇族は、60年近く一般国民として過ごしており、また、今上天皇との共通の祖先は約600年前にさかのぼる遠い血筋の方々である。このような旧皇族やその子孫を皇族とすることについて、国民の理解を得るのは難しいのではないか。」(註2)とありますが、この暴論は女系継承論の根拠の一つにされるのではないかと思います。
 要するに有識者会議は伏見宮御流を虚仮にしまくっている高橋紘の勝手な見解を丸呑みにして、女帝-女系継承-易姓革命是認-日本国滅亡路線に暴走しようとしているわけです。伏見宮切り捨て論という暴論に対してはそれこそしかるべき歴史家によって明確に反駁されるべき事柄ではありますが、僭越ながら私自身は王権ファンというほどでもない素人であるけれども重要な点なのでコメントしておきたいと思います。そのために、世襲宮家成立の歴史的意義を縷々述べることとしますが(補説1 令制皇親の概念と世襲宮家の意義-後日掲載予定)まず今回は基本的な考え方だけを述べます。

 (伏見宮家成立の歴史的意義と後花園天皇即位の歴史的意義)
 
 これ自体大きなテーマで、概略的なことしか述べられませんが、ここでは伏見宮家-定親王家成立過程を、栄仁親王から後崇光院貞成親王の幅で検討します。
 
 後花園天皇は、寛正の大飢饉の際、将軍足利義政の奢侈を誡める詩を作るなど、「近来の聖主」と讃えられましたが、南北朝史の第一人者である村田正志は後花園天皇即位の歴史的意義につき「かくて皇統は持明院統正嫡の崇光院御一流に定まるとともに寶祚愈御光を添へ、皇運益々固きを加へられた。これ偏へに皇祖天照大神の神慮、國體の精華と拝し奉る次第である」と述べておられます(註3)。
 
 端的にいえば、持明院統傍系庶流の後光厳系が武家政権に擁立されて、嫡流の伏見宮家が皇位を継承できない捻れた状況が解消されたという意義です。後花園以後、二度と崇光院流でない皇統に皇位が移ることはなくなりました。ゆえに、安定的な皇位継承路線となったことの意義もあると思います。
  崇光曾孫で伏見宮貞成親王の御子彦仁王(後花園)は後小松上皇の猶子として即位しており、形式的には後光厳系の皇統の継承者にされていますが、崇光院流伏見宮家の正統性、持明院統正嫡たることは、後花園の実父後崇光院伏見宮貞成(さだふさ)親王の『椿葉記』(後花園天皇に献呈された-註4)に示されているとおりです。後光厳-後円融-後小松-称光の後光厳系については女帝絶対反対論第12回でもふれたが、正平の一統の後、正平七年(1352)南朝が反幕府強硬策で攻勢をかけ、三上皇(光厳・光明・崇光)廃太子(花園皇子直仁親王)の大和賀名生遷幸(拉致軟禁ともいわれる)という異常事態において、北朝再建の窮余の策として、光厳第二皇子、崇光皇弟で妙法院門跡に入室する予定だった後光厳が即位したもので、後光厳系は持明院統の正嫡の皇統とはいえないのである。後光厳は祖母の広義門院領しか相続してない(註5)、あくまでも傍系庶流の扱いである。三上皇廃太子は延文二年(1357)に還京され、崇光上皇は洛南の伏見殿を居所とされた。後光厳の次の皇位継承者が問題になった。崇光上皇は「後深草院以来、正嫡にてまします御理運の次第」を説き、御子の栄仁(よしひと)親王の践祚を幕府に申し入れるが、後光厳天皇の意向は御子の緒仁親王(後円融)であり、皇位継承争いとなったが、当時の幕府実権者執事細川頼之は、後円融を支持したため、正嫡たる栄仁親王は敗者となったのである。
伏見宮について「終戦当時既に550 年前に分かれた宮家」と高橋は発言していますが、なにか伏見宮が分派、庶流にすぎないみたいな心証を与え、誤解を招くもので不適切である。
 崇光上皇が伏見殿と称されたことが宮家の由来ですが、持明院統正嫡たる崇光上皇が持明院統の主要所領である長講堂領、法金剛院領、熱田社領、播磨国衙を相続し、崇光法皇が応永五年(1398)に正月に崩御したとき、後小松天皇が武家政権を背景にして栄仁親王から持明院統代々の所領を没収した。しかし同年十月に旧室町院領の一部(持明院統の傍系の廃太子直仁親王の遺領)、播磨国衙、同別納十箇所が栄仁親王に与えられ、その後も内裏や幕府から幾つかの荘園・国衙領が勧められて伏見宮家領が成立した(註6)、さらに、後花園天皇は皇弟の貞常親王が猶子とされ、熱田社領は貞常親王に還された。
 伏見宮家は経済的基盤を有した。のみならず伏見宮の正統性というものはたんに持明院統正嫡という血統原理だけではない。伏見宮家は、後嵯峨天皇以来の皇室の重要記録文書を所蔵していて、火災で焼失はした分もかなりあるが、後崇光院貞成親王がよく文書類を整理保管しており二千点にのぼるとされています。伏見宮家文書は現在宮内庁書陵部が所蔵していますが、古い記録類が多く貴重なものです。後光厳流には古い文書は伝えられておらず、『看聞日記』永享二・七・二四によると、大嘗祭関係の記録と、「累代之文書」で、「代々御秘蔵」であった神膳に関する後深草院・伏見院・後伏見院の自筆の日記を後小松上皇に進献したとあり、これは貞成親王が後小松の猶子となった実子の彦仁王の即位に備えるためのものであるが、後花園即位によって、伏見宮家の文化資本が後小松上皇や後花園天皇に進献されていったのである。しかし全てではなかった。松薗斉(註7)が述べているように、文安三年の貞成親王による宮家を継承した子息貞常親王への譲状によると、御記(代々天皇の日記)だけが、禁裏(後花園)に進められたが、その他の記録文書は貞常親王に相伝することを指示している。
 また、貞常親王に伝えられたものとして琵琶がある。天皇が習得されるべき芸能について順徳天皇の『禁秘抄』は学問・管弦・和歌の順に記されているが、伏見宮貞成親王の『椿葉記』は楽道・学問・和歌の順である。伏見宮貞成親王は、後小松天皇の例により笙を始められるという風聞のあった後花園天皇に琵琶を強く勧めた(註8)。その理由は、後深草、伏見、後伏見、光厳、崇光、栄仁親王が琵琶を能くされ、貞成親王も百日稽古などで熱心だったことが知られている。琵琶は持明院統正嫡の「帝王学」だったのである。しかし、後花園天皇は筝と笙の「絃管」を習得されたので、琵琶は天皇の弟の貞常親王に伝えられることとなった。このように禁裏に継承されなかった文化資本は宮家でカバーする役割も有していたとみてよいだろう。
 そのような伏見宮家成立の過程からみて、伏見宮というのは分派、分流ではないです。正統長嫡が伏見宮で、後小松の系統が庶流だったわけです。後光厳の系統より伏見宮に皇室の文化資本が蓄積しているという捻れの状況が後花園が皇位継承したことで解消した意義があります。また伏見宮に伝わった文化資本の全てが後花園に伝えられたわけではなく、伏見宮家の文化資本のかなりの部分は宮家を継いだ貞常親王に継承されることとなったのである。要するに、後花園と皇弟で猶子の貞常親王は親しく、禁裏と宮家の双方で王権の文化資本が継承され現代にまでいたったのである。 
 
 次に後花園天皇即位の政治的経緯について述べます。称光天皇は病弱、歴代天皇のなかでも暗愚とされ評判はよくありませんが、もう一人の皇子小川宮も応永三十二年(1425)若くして亡くなられたため後小松上皇は、大覚寺統の小倉宮の挙兵の動きもあり、急ぎ皇嗣を決定しなければならなかった。正長元年崇光天皇の曾孫で伏見宮貞成(さだふさ)親王の御子彦仁王を親王宣下のないまま猶子とした。正長元年(1429)後小松天皇の後光厳流が、称光天皇が嗣子のないまま崩御され杜絶したため、彦仁王践祚。後花園天皇である。もっとも後小松上皇は後小松胤の宗純王(一休)か伏見宮の彦仁王(後花園)で迷っていたとの説がある(註9)。称光天皇御大病の状況で、後亀山皇孫の小倉宮が皇位継承を熱望し、御在所嵯峨を出奔されたので幕府としても万全の策を講じる必要に迫られ、上皇に無断ではあるが幕府の計らいで彦仁王は伏見御所より若王子社に渡御あり、赤松の兵之を厳重に警護した。このことは御用心のためとされており、新主御決定は上皇の叡慮によるものだが(註10)、若王子坊渡御の計らいは将軍足利義教以下幕府首脳部の推載の意思を行動示したものだろう。
 問題は後小松上皇が直系継承の擬制に拘り、あくまでも猶子の後花園を実父と切り離して後光厳流は断絶していないことを示そうとしたことである。
 永享五年(1433)後小松上皇は危篤の床で勅書を認めた。史上に知れた「遺詔」であるが、それによると貞成親王の太上天皇尊号の沙汰あるべからず、旧院仙洞は伏見宮の御所たるべからず。御追号は後小松院たるべきこと(註11)であった。
 後花園天皇は後小松の猶子として即位したため御報恩の誠を致させ給ひし御事績あり、しかし後花園天皇は後小松上皇の遺詔に反し、文安四年(1447)実父伏見宮貞成親王に太上天皇尊号を宣下された。翌年辞退されていますが、この意義は重いものであって、天皇実父が無品親王で終わった例はなく、光仁天皇の即位で先考施基皇子に春日宮天皇と追尊、山陵の地により田原天皇とも称されたが、天智-施基皇子系皇統を創成したのである。そうした先例にもとづいての太上天皇尊号は当然の事と考える。これは皇統がもともと持明院統正嫡であった崇光院流に定まったことを示すものである。
 
  要するに後花園即位は皇位継承の安定化という観点で決定的な歴史的意義を有するということです。すなわち元中九年(明徳三年)閏十月五日三種の神器が、大覚寺より後小松天皇の京都御所に渡御されて南北朝合一なる。鎌倉時代からの不幸なる皇統の紛糾は基本的に解決されたのである。
  南北朝正閏論争については明治44年3月3日に首相桂太郎の奏請により南朝正統の勅裁が下され決着しましたが、村田正志によると「勅裁の経過内容はもとより伺ひ知るべくもないが、仄聞するところによれば、後醍醐天皇より後小松天皇の皇統は、後醍醐天皇・後村上天皇・後亀山天皇・後小松天皇たるべきに御認定あらせられ、ただし光厳・光明・崇光・後光厳・後円融の各天皇に対しては御尊崇の思召に依り、尊号・御陵・御祭典等は従来通りたるべき事の御沙汰があった由である」(註12)とされているように、後小松天皇は南朝正統論においても正位の天皇であり、後小松の猶子となり即位した後花園が正位であることはいうまでもない。
   もっとも嘉吉三年(1443)九月の後南朝一味による神器強奪事件(禁闕の変)や応仁・文明の乱で西軍の旗頭に「小倉宮」が擁立され入洛した事件もありましたが、大勢に影響はなく、皇統は崇光院流で安定的確固たるものとなりました。いうまでもなく今上陛下は父系で遡っていくと後花園、後崇光院伏見宮貞成親王、栄仁親王、崇光、光厳、後伏見、伏見、後深草と持明院統正嫡に繋がっているのであります。
 以上のような歴史的脈絡から考えて、伏見宮家存続は安定的な皇位継承と文化資本の継承に大きな貢献があり、皇室の藩屏の役割を果たしてきた意義を正当に評価することもなく、ジャーナリストの伏見宮御流を虚仮にして国民が理解するはずがないから切り捨て当然だみたいな物言いは到底容認できません。真に良識的で国と自国の文化を愛している人は、そういう暴論を吐くはずがない。それでも高橋紘の伏見宮御流切り捨て論に丸呑みして、有識者会議は女系継承の結論に暴走するのでしょう。それは易姓革命から日本国を終焉させる第一歩となる決定的に誤った政策判断になるでしょう。

 つづく 
 
(註1)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai6/6siryou2.html
(註2)http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai10/10siryou1.html
(註3)『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1984 
「後小松天皇の御遺詔」137頁
(註4)『村田正志著作集第4巻證註椿葉記』思文閣出版(京都)1984 
(註5)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 171頁
(註6)金井静香 前掲書 236頁
(註7)松薗斉『日記の家』吉川弘文館「持明院統天皇家の分裂」186頁以下
(註8)相馬万里子「『代々琵琶秘曲御伝受事』とその前後-持明院統天皇の琵琶-」『書陵部紀要』36号 1984   
(註9)今谷明「明正践祚をめぐる公武の軋轢」『室町時代政治史論』塙書房2000 331頁
(註10)『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1984 
「後小松天皇の御遺詔」

桜井英治『日本の歴史第12巻室町人の精神』講談社「称光天皇の死」127頁 双方を参照した。
(註11)横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 319頁以下。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979 、
(註12)『村田正志著作集第1巻増補南北朝史論』思文閣出版(京都)1983
36頁、なお長慶天皇は大正十五年10月21日に詔書により正式に皇統に加えられた。

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