高橋紘の伏見宮御流切り捨て論がまかりとおってよいのか(第4回)
今回の内容
1 補遺 後花園天皇即位の意義
2 後花園天皇の叡慮(貞常親王の永世伏見殿御所称号)の決定的意義
3 世襲親王家(定親王家)の意義
川西正彦(平成17年10月16日)
1 補遺 後花園天皇即位の意義
つい最近出た雑誌で『新潮』2005-10月号(102巻10号)の三田村雅子「 〈記憶〉の中の源氏物語(16)後花園天皇の王権回復」を読みましたが、後花園即位の経緯が要領よく説明されているので、引用する。「後花園院の父貞成王は栄仁親王の次男であったが、経済的にも窮迫が続く中で、出家してそこそこの寺の門跡になることが唯一の道と考えられていたが、思いがけず兄治仁王が急死すると、伏見宮家を継承し、後光厳院流の後小松天皇にも代々の宝物を献上し、足利将軍とも協調路線を取り、伏見宮家に伝えられてきた膨大な文書の力により次第に重要な存在と認識されるようになっていた。後小松の継承者称光天皇は体が弱く、精神にも異常をきたすことが多く、到底後継者は期待できずその弟の小川宮も兄以上に評判が悪く、称光より早く亡くなったので、後小松の血筋は近い将来断絶することが予想されていた。そうした中で、天皇の位が南朝〔?南朝系〕に移ることはどうしても避けたい足利将軍家の意向もあって、貞成は後小松の猶子して親王になったが〔?貞成親王は猶子とされてないと思う〕、病篤い称光天皇がこの措置に猛反発したため、貞成の即位は実現せず、貞成もまた出家に追い込まれた。貞成に代わって皇位継承候補者として急浮上したのがその息子十一歳〔?十歳では〕の彦仁王(後花園院)で、性格も良く、秀才の評判が高かった。今度は称光天皇を刺激しないように、彦仁は親王に立てられることもなく、称光の死後、親王宣下も立太子の儀礼もなく、いきなり後小松の猶子として帝位についたのである」
新主御決定は正長元年(1428)七月十六日の将軍足利義宣(のち改名義教以下義教と記す)が院参し、皇位継承者を尋ね、執柄二条持基が疲労のゆえ会おうとしない後小松上皇に書状で伝えたところ、院の「伏見殿の宮、御猶子となして定め申」という勅答で決定しているが、それ以前に幕府の彦仁擁立工作は進んでいたのである。応永三十二年(1425)七月の段階で称光天皇の「御悩」は「諸医も捨て申すと云々」手の施しようがなく、そう永くないとみられていたが、将軍足利義持は鹿苑院主厳仲和尚を通じて、法体となった貞成親王に「若宮の御年齢、密々に注し賜うべき由」との問い合わせあり貞成親王は「吉慶念願極まりなし」と記しており、この時点で最有力候補になっていた。正長元年(1428)七月六日嵯峨の小倉にいた小倉宮が出奔し、伊勢国司北畠満雅のもとに身を寄せているらしいとの風聞があり、七日称光天皇危篤、十二日に幕府首脳部が協議し伏見宮彦仁王を内定、貞成親王には彦仁王は明日十三日にも入京されたいとの申し入れがあり、伏見御所に管領畠山満家一隊四・五百人の出動で極秘裏に、洛東岡崎の若王子社の坊に移されており、十七日に彦仁王は、仙洞御所に移ったが牛車も牛飼も義宣の計らいによるものだった(註32)。二十日称光天皇崩御、二十八日後花園践祚という経過からみて、小倉宮挙兵より前に将軍足利義教の機敏な動きによってスムーズな皇位継承がなされており、重要な役割を果たしている。
ところで持明院統正嫡の伏見宮彦仁王が最有力候補であったのは当然としても、あらゆる可能性を考えてみると他の皇位継承候補もありえたのである。南朝系を幕府が担ぐことは考えにくいが、後小松胤子の宗純王(一休)の還俗の可能性もあったという説がある。
それよりも、亀山系(大覚寺統)の常磐井宮や木寺宮家が存在していた。常磐井宮は亀山の末子一品式部卿恒明親王からはじまり、全仁-満仁-直仁-全明-恒直と代々親王宣下をうけて約250年続いた。常磐井宮とは恒明親王生母昭訓門院(西園寺実兼女瑛子)が亀山法皇より譲られた殿邸、常磐井殿(大炊御門京極)にちなむものである(註33)。
常磐井宮家が続いたのは、恒明親王は父帝亀山法皇に鍾愛され、遺詔により正嫡と定められ皇位継承者とされていた(伏見上皇も合意していた)ので、正統性を主張できること。所領を有し経済基盤も有していたことだろう。要するに法皇は晩年になって昭訓門院を寵愛し所生の恒明親王を鍾愛されるあまり、後宇多-後二条を疎んじて、父権をもって後宇多-後二条の子孫の皇位継承の望みを放棄させるとともに、後宇多に主要所領の管領もさせない厳しい方針をとったのである(問題は恒明親王が皇位継承者と定められた時点-嘉元三年1305年-で、亀山-後宇多-後二条と亀山皇孫まで皇位を継承し、さらに曾孫の邦良親王も恒明親王より年長者だった)。
しかし亀山法皇崩後、後宇多上皇は法皇の遺詔を履行せず、反故にして、恒明親王の後見者西園寺公衡を勅勘に処して出仕を止め伊予・伊豆両国以下西園寺氏重代の諸職を没収する事態にいたり、西園寺公衡は幕府のとりなしで許されるまで二ヶ月籠居を余儀なくされた。恒明親王と生母昭訓門院に譲渡されるべき大覚寺統主要所領も後宇多上皇の管領の下に置かれ恒明親王は政治的敗者となったが、所領については幕府が介入し徳治三年に安楽寿院領は恒明親王に渡されたので(註34)、経済的基盤を有したのである。 南北朝時代に入って恒明親王は「式部卿宮」と称され、北朝公家社会を身を置いていたが観応二年(1351)薨去。嫡子全仁親王は中務卿三品と相応の地位であったけれども恒明孫の満仁になると無位のまま常磐井宮を号し、親王宣下が二十八歳(永徳元年1381)と遅かった。『後愚昧記』(記主三条公時)によると足利義満に愛妾を遣わした裏面工作があり、幕府の推挙による勅許であったという。『後愚昧記』が「大幸といふべし。およそ親王宣下において左右なく勅許を被りがたきの人なり」というように、常磐井宮は厚遇をうけていたわけではない(註35)。しかし裏面工作というより次のような見解もある。義満は栄仁親王の所領を没収して後小松の管領とし、親王を出家させ、伏見御所まで一時奪い取ったようにアンチ持明院統嫡流=崇光院流であった。小川剛生は常磐宮満仁王が義満の強い推挙で親王宣下されていること、義満の命により光厳院の孫、南都東南院の僧観覚に親王宣下があったが、観覚自身にその希望がなかったことに着目され、当時、義満は持明院統皇統の正統性を弱めるため、敢えて異例の親王宣下を濫発させたふしもあるという(註36)。
木寺宮は後二条院流皇太子邦良親王系で東宮立坊二回、大覚寺統の嫡流とされていたが後二条皇子皇太子邦良親王は早世し、光厳天皇の皇太子(後伏見上皇の方針で両統迭立だった)であった後二条孫の康仁親王は後醍醐天皇の復辟、京都還幸で廃位とされたため、即位できなかった。邦良親王-康仁親王-邦恒王-世平王と二代親王宣下を蒙らなかったが、次の邦康親王が、後崇光院貞成親王の猶子となって親王宣下され、邦康の次の師煕親王まで宮家を維持した。宮号は邦良(くになが)親王が洛西葛野郡木寺に居所を構えたことによる。北畠親房はいうまでもなく吉野の朝廷の正統論であるが、一方、後二条院流が大覚寺統嫡流たることは後宇多法皇の方針であったということは史料の分析からみて否定できないとする歴史家の見解があり、重大な問題なので別途詳しく検討したいが、少なくとも、持明院統(後伏見上皇)及び鎌倉幕府は後二条院流を大覚寺統正嫡と認めていて正統性を主張できる皇統であったのだ。しかし木寺宮の政治的・経済的基盤は弱く、二代親王宣下を被っていないことからもうこの時点では皇位継承候補にはならなかったと考えられる。
ということで、幕府が南朝系を担ぐことは考えにくいとしても、もし彦仁王が存在していなければ常磐井宮や木寺宮を担ぐ選択肢はあったとみてもよいと思う
しかし、幕府にとって、伏見宮彦仁は性格が良く英明であっただけでなく、政権の安定性という観点では持明院統正嫡が皇位を回復するのが最も望ましい選択肢であったとみて間違いない。しかも足利義教は諒闇(天皇が父母の喪に服する期間)問題でも、伏見宮を支持しているのである。
すなわち永享五年(1433)後小松上皇は危篤の床で勅書を認めた。史上に知れた「遺詔」であるが、後小松は後光厳皇統の継承という擬制にこだわった。それによると貞成親王の太上天皇尊号の沙汰あるべからず、旧院仙洞は伏見宮の御所たるべからず。御追号は後小松院たるべきこと(註37)であった。
遺詔を第一義として、後花園は後小松の猶子であるから諒闇とする後小松近臣と、実父でないから諒闇としないとする足利義教らが対立、結果諒闇となったが、足利義教が後小松の遺詔より伏見宮の立場を重んじた点を評価したい。のみならず義教は熱田社領を貞成親王に返還し、永享七年(1435)には貞成入道親王に一条東洞院内裏の近くに御所を建設し進上したいと申し出てきた。後小松の仙洞御所は解体され、京都の伏見殿の御所が完成した。これで貞成親王は事実上の上皇の待遇に近いものとなった。嘉吉の乱足利義教殺害事件の後、文安元年(1444)に次男貞常王が親王宣下、貞成入道親王は貞常親王に、伏見御領、播磨国衙以下相伝の所領、家督を譲った。文安四年に貞成入道親王に太上天皇尊号、翌年辞退。結果論として、後小松上皇に没収されていたが、もともと崇光上皇-栄仁親王の所領であった主要所領である長講堂領・法金剛院領が禁裏(後花園)に、伏見御領・旧室町院領の一部・播磨国・熱田社領などが伏見殿を継承した貞常親王の管領となったことで、事実上伏見殿は本領を回復したうえで分割相続となったといえるのである。
「両御流皇統は断絶してはならない」(『花園天皇宸記』元享元年十月一三日条裏書)にみられるような鎌倉幕府以来の武家政権の明確な方針だったが、足利義教が明確に変更し後南朝断絶の方針をとった、万人恐怖の恐怖政治で知られ、あまり義教を持ち上げると後南朝ファンにお叱りを受けるかもしれないが、しかしそれはある意味で現実的な政治ともいえる。両御流皇統の迭立はうまくいけばよいが、常に皇位継承の紛糾の要因をかかえることとなり、幕府も調停に苦慮することとなる。
この点は既に述べたとおり南北朝史の第一人者である村田正志が後花園天皇即位の歴史的意義につき「かくて皇統は持明院統正嫡の崇光院御一流に定まるとともに寶祚愈御光を添へ、皇運益々固きを加へられた。これ偏へに皇祖天照大神の神慮、國體の精華と拝し奉る次第である」と述べておられるとおりだと思います。(註38)
皇統は持明院統正嫡の崇光院御一流に定まることによる安定的皇位継承の意義が重要である。
2 後花園天皇の叡慮(貞常親王の永世伏見殿御所称号)の決定的意義
ふつう伏見宮の初代は栄仁(よしひと・なかひと)親王とされている。『皇室制度史料 皇族四』宮内庁書陵部編纂吉川弘文館 1986 44頁がそうであり、 『国史大辞典』第12巻吉川弘文館1991の 「伏見宮」(武部敏夫執筆)によると「その宮号は、栄仁親王が父天皇にひきつづき山城国伏見の地に居を定めて伏見殿とよばれたことに由来するが、さらに貞成親王はみずから伏見宮と号し、また第四代貞常親王の代に至り、康正二年(1456)十月、後花園天皇の叡慮により御所号を加えて永世伏見殿御所と称することを許された。」と説明されている。
しかし阿哈馬江のホームページ、伏見宮總説 に、『下橋敬長談話筆記』が引かれていて、「維新前まで伏見宮の方では、宮の字を御用ゐにならずに、伏見殿とばかり御書きになりまして、御所へでも、攝家へでも、皆伏見殿で御使が參りました。伏見宮の家來の申分では、朝廷も當御殿も同じであるから、宮ではない、殿であるといふのです。つまり後花園院天皇が伏見宮貞成親王(後崇光院太上天皇)の御子で、皇統を御繼ぎになり、御代々が其の御血統であらせられるといふ所から、かやうに申すのです。併し殿と稱するのは御當主だけで、王子達は皆宮と稱して居ました。御初代の榮仁親王は有栖川においで遊ばしたので有栖川殿と申上げましたが、二代の貞成親王から伏見殿と稱せられました」とされている。
なるほど、維新前ではみずから伏見宮と号した貞成王を別として、伏見殿と称されていたということです。但し、栄仁親王は応永八年に伏見御所が炎上したため、洛西嵯峨の洪恩院に入居したのち嵯峨の有栖川にあった斯波武衛義重の山荘に移って七、八年過ごしていたことから「有洲河殿」と称されたことはあるが、一条経嗣の『北山殿行幸記』では「ふしみの入道親王」と称されており(註39)、必ずしも貞成親王からというわけではない。
松薗斉は家記の継承を軸にした家継承を論じ、同氏の見解では持明院統の家記を失った(後花園天皇が継承されたため)貞常親王が継承した家、つまり伏見宮家とは貞成の「看聞御記」を「支證」とする「日記の家」だから、太上天皇後崇光院を「曩祖」とするという見解であるが(註40)、独特な見解であり引き連られることもないが、いわゆる定親王家としての伏見宮家の成立は、貞成親王の意図と、後花園天皇の認定によるという見方は基本的に正しいと思う。火災や戦乱で、内裏や院御所を含む「天皇の家」は様々な勢力から狙われやすく、日記をはじめとする文化資本を集中しておくよりは、皇室の藩屏としての伏見殿に分散して相伝する安全策をとったことは堅実だったと思える。むろん、伏見宮成立の意義はそうした文化資本の相伝に主としてあるのではない、世襲親王家(定親王家)としての本質的意義が重要である。
この点については康正二年(1456)十月に後花園天皇が皇弟貞常親王に永世伏見殿御所と称すべしとの叡慮の意義が決定的である。つまり『皇室制度史料 皇族四』の64頁にある伏見宮系譜「貞常親王御記云、康正二年十月(虫損)日、晴、從内御使(後花園)源黄門來、故院(後崇光院)異紋以下之事、其儘永世當家可用、且永世伏見殿御所ト可稱慮之旨傳申」であるが、この意義についての具体的論評は不勉強で読んだことがないが、
『皇室制度史料 皇族四』44頁が「爾後代々、伏見殿或いは伏見宮と号し近代に至った。その間、宮家の継承は、第十六代邦忠親王が嗣子に恵まれずに薨じた後、桃園天皇の皇子貞行親王を迎えて家督としたほかは、すべて実系の王子が天皇又は上皇の猶子となって親王宣下を蒙り、宮家を継承した」と説明していることから、後花園天皇が皇弟貞常親王に永世伏見殿御所を称することを許したということは、貞常親王の子孫に永久に同等の身位、歴代親王宣下を受けて皇族の崇班を継承される定親王家としての地位を明確にされたとみてよいだろう。
元禄・享保頃に成立した『有職柚中抄』において「定親王トハ伏見殿ノ如キ永代不易ノ親王也、是ハ帝二御子ナキ時ハ位二ソナヘ玉ハン義也」(註41)としていることからも明らかなように、後花園天皇が定めた、永世伏見殿御所と称すべしとは定親王家=永代不易の親王家=皇位継承候補の控えとしての性格を有するものと理解してよいだろう。
なお桃園皇子の第十七代伏見宮貞行(さだもち)親王は年少で薨去されたので、第十六代邦忠親王の実弟で、勧修寺門跡だった入道寛宝親王が還俗邦頼親王と称し、伏見宮を継承された。このため伏見宮は昭和二十二年(1947)第二十四代博明王が皇籍を離脱して伏見氏を称するまで、五百五十年の長きにわたって実系で相承されたのである。
その間、第二十二代貞愛親王までは世襲親王家として代々親王宣下を受けた。また近代にあっては、貞愛親王は元帥・陸軍大将・内大臣府出仕に、次代の博恭王は元師・海軍大将・軍令部総長に任ぜられ、ともに皇族の長老として重んぜられた(『国史大辞典』第十二巻「伏見宮」)。
永世伏見殿御所という定親王家を定めたことは、鎌倉幕府の「両御流皇統は断絶してはならない」という方針よりもずっと重いのである。なんといっても英明な君主、後花園天皇の叡慮によるものであるから。従って昭和二十二年の伏見宮とその御分かれの宮家の皇籍離脱は後花園天皇の叡慮をないがしろにした全く誤った政策であったと断言することができる。
宮家の皇籍離脱に関連して、高松宮宣仁親王が昭和五十三年に次のように書いている「終戦処理ニテ国体ハ護持サレタ。ソシテ天皇制ガ実現シ皇室ハ存在スル。シカシ皇族ハイルガ、皇室制度ニオイテノ皇族制度ハ崩壊シテシマッタト思フ」(註42)
であるから、今こそ深刻きわまりない危機を跳ね返して、この際、終戦後の誤った政策を正し、後花園天皇の叡慮を今こそ重んじて、実系で男系を維持している伏見宮の御分かれの属籍を復すべきだと思う。政府が五百五十年前の後花園天皇の叡慮を決して無にしないことを言明して国民に示し、それを実現する目処を立てれば、首相は尊皇家として不朽の名声を得るはずだ。決して国民の理解を得られないということではない。宮内庁その他にもスタッフはいるだろうし、優秀な歴史家は少なくないのだから、伏見宮の御分かれの属籍を復すことについて国民に説明することは難しいことではない。万古不易の伝統・規範を重んじる国家として、諸外国からも我が国は尊敬されることとなり、国民にとっても有益である。
首相が後花園天皇の叡慮を無にすることはないと言明すれば感激するし、皇位継承問題はそういう方向であるべきだ。
女帝-女系論者は後花園天皇の叡慮なんて知ったこっちゃないし、この際どうでもよい。フェミニズムに迎合して女帝ブームをつくればそれでいいんだよとでもいうんだろう。もし首相がそういうつまらないお考えならば大きな勘違いです。こういうことをいうのもなんだが、英明な後花園天皇の即位で皇室は救われたという面は多分にあるのであり、称光天皇は半狂乱状態で手のつけようのない君主だったし、もし後花園でなく、大覚寺統(亀山系)の常磐井宮、木寺宮、あるいは順徳系が、あるいは後南朝が皇位を継承したら、今日の姿とはかなり異なった姿の国家になったはずである。後花園天皇あっての今日の皇室、日本国の存在であるから、今こそ伏見宮の御分かれに属籍を復していただき、崇光院流皇統の永続を万世一系の皇統を維持すべく最大限の努力をなすべきというのが私の意見であります。
3 世襲親王家(定親王家)の意義
世襲宮家についてまず竹島寛(註43)から引用する。「平安朝以降、皇子、皇孫に賜姓のこと多く、また出家し入道し給ふ方も少なくなかったので、親王、諸王の号を称せらるる皇族方が漸次数少なくならせられたが其の代り鎌倉時代の初め頃から、皇孫、皇曾孫など疎親の皇族方に親王号を宣賜せられ、代々世襲し宮号を称しせらるることが起こったのである。これを定親王または世襲親王と申し、其の御家筋を某宮家と申し上げたので、後には皇統の御直系に御即位遊ばす御近親の御方が無い場合、入りて皇統を御継承遊ばさるる御家柄として御尊崇申すこととなったのである」とされ、宮家のもっとも古い例として、高倉皇子惟明親王の大炊御門宮とされている。大炊御門・六条・岩倉・鎌倉将軍・常磐井・木寺・伏見・桂・有栖川・閑院・山階の十一宮家が明治維新以前創立の宮家、明治維新以後創立は久邇宮・賀陽宮・朝香宮・東久邇宮・小松宮・北白川宮・竹田宮・華頂宮・東伏見宮・梨本宮の十宮家で悉く伏見宮の御分かれである。
伏見宮の御分かれについて、山階宮は伏見宮第二十代邦家親王の御子晃親王が元治元年の御創立。久邇宮は明治八年伏見宮十八代貞敬親王の御子朝彦親王の御創立、賀陽宮・朝香宮・東久邇宮は久邇宮の御分かれ、小松宮は伏見宮第二十代邦家親王の御子彰仁親王の御創立。北白川宮は同じく邦家親王の御子智成親王が明治三年に始めされ、明治五年に実弟能久親王が相続遊ばされた。竹田宮は能久親王の第一王子恒久王の御創立。華頂宮は伏見宮第二十代邦家親王の御子博経親王の御創立。東伏見宮は伏見宮第二十代邦家親王の御子依仁親王の御創立。梨本宮は伏見宮十八代貞敬親王の御子守脩親王の御創立。
次に橋本義彦は、宮家の歴史を概観して「宮家の皇族は皇室の藩屏となり、天皇の補佐に任ずるのみならず、天皇の血筋を温存し、時には中継ぎとして皇位に即き、さらに天皇に後嗣のない事態に際会した場合には、入って皇統を継ぐことも期待されていたことがわかる。すなわち、宮家は皇統の一系を補完する重要な役割を果たしたのである」(註44)と説明されている。
しかしながら中世の宮家は皇統の一系を補完する役割のために創立されたというのではなく、基本的には管領所領を有し政権より安堵されることにより王統は継続することができたと考える。例えば四辻宮は順徳皇子善統親王系であるが代々親王宣下されてはいないが室町時代まで存続した。金井静香(註45)によると四辻宮善統親王は七条院(後鳥羽生母)-修明門院(順徳生母)と伝わった38箇所の七条院領を相続し、21箇所は後宇多天皇に献上され、さらに残りの17箇所も献上を申し入れたが、正和三年に東宮尊治親王の令旨により安堵されたのだという。そのように管領所領を有する以上宮家は存続する。 しかし、四辻宮家は歴代親王宣下ではなく三代めの源善成が応永二年に左大臣にまで昇進し官を辞したえう親王宣下を望んだが、斯波義将に断念させられたため、出家したことによりこの王統も杜絶することになる。、
私は素人なので、封禄や国家財政の変遷で不明な点が多いが、九世紀末には位禄、王禄、時服、月料、官人給与財源はかなり苦しくなっていた。藤原冬緒による財政改革にもかかわらず元慶官田は冬緒の構想とは違って、諸司に分割され下級官人給与財源になってしまったので、王禄の財源不足は解消しない(註46)。季禄や節禄は10世紀中葉に崩壊するものの(註47)、十世紀以後財政改革により国家財政はかえって効率的になったという見方もある。しかし12世紀初頭には、太政官の受領監察制度である受領功過定が機能しなくなり(註48)、限定的に支給されていた位禄も支給されなくなったことからみて、少なくとも皇親、とりわけ諸王については令制に基づく国家給付は12世紀にはかなり困難になったと考えられる。令制の皇親制度は変質せざるをえない。
国家財政の変質により皇子はもとより、皇孫以下に対しても旧来の如き待遇が困難になった朝廷が、当時頓に増大した仏寺の地位・財力を借りてその処遇の道を得ようとし中世以降、皇子処遇の道として寺院に入室せしめることが殆ど常例になった(註49)。従って中世においては管領所領を有するか相当な外戚の援助がない限り王統を維持することは困難である。一方、定親王家ではないが、先に述べた四辻宮のように政治力学的に皇位継承の可能性の低い皇親でも旧女院領の相続という経済的基盤により宮家が存続したのである。
しかし歴代親王宣下の定親王家については、皇位継承の正統性を主張できる皇統であることが、前提であると私は考える。常磐井宮を嚆矢とみなすこともできるが、亀山法皇に正嫡と定められ、皇位継承の正統性を主張できる王統だが、常磐井宮は大覚寺統の「反主流派」で、政治的に有力ではなくなっていた。
従って本当の意味での世襲親王家、皇族の崇班として皇室の藩屏としての定親王家は貞常親王の伏見殿からというべきだろう。武部敏夫によれば、江戸時代においては四親王家となったが、当時の皇統は伏見宮家より入って皇位を受けられた後花園の系統であるため、同宮は皇室にとって殊に由緒ある家柄とされ、その家系も栄仁親王以来この時代中期に至るまで、血脈連綿として相承け、他系を交えることがなかったことは、更に由緒を深らしめることとなった〔桃園皇子貞行親王は早世され、次の邦頼親王で伏見宮は実系に復している〕(註50)。(なお伏見宮は江戸時代にあっては山城国の葛野・愛宕・紀伊・乙訓四郡内で千二十二石余を家領とした-註51)。
伏見殿は徳川氏との縁戚関係もあり徳川光貞室に貞清親王王女照子女王、徳川家綱室に同顕子女王、徳川吉宗室に貞致親王王女理子女王。徳川家重室に邦永親王王女培子女王、徳川重好室に貞建親王皇女貞子女王が婚嫁している(註52)。
室町時代以降において皇儲及び宮家を創立、若しくは継承した親王、或いは婚嫁のあった皇女・王女のほかは出家することが常例となっており、経済的基盤の制約もあり親王家の新立は容易に認められない。武部敏夫によれば、世襲親王家は元来、皇子その他皇親に対する個人的な待遇として行われた親王宣下とは性格が異なり、家系に対する優遇に転用せられ、一種の家格として慣習的に形成されたとされる見解で、江戸時代に於いては明らかに皇位の継承という観点に立って理解されていたとして次の例をあげている(註53)。
有職柚中抄(元禄・享保頃)
「定親王トハ伏見殿ノ如キ永代不易ノ親王也、是ハ帝二御子ナキ時ハ位二ソナヘ玉ハン義也」
故実拾要第一(元禄・享保頃)
「凡親王立テ被置事ハ継躰ノ君ナキ時践祚アルカ為二立テ置ルゝ也」
中山竹山の草茅危言巻一も世襲親王の建置を「継統ノ御備へ、天下二於テ第一ノ切要」と説いているとおりである。
したがって伏見殿は永代不易の定親王家=皇位継承の万一の備えとしての性格は明確なのである。
つづく
(註32)横井清『室町時代の一皇族の生涯『看聞日記』の世界』講談社学術文庫2002 292頁以下。旧版『 看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』 そしえて1979 、
(註33)橋本義彦『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館1996「皇統の歴史」16頁、三浦周行 「鎌倉時代史 第九十二章 後深草、亀山両法皇の崩御」(『日本史の研究 新輯一』.岩波書店.1982年.p404以下)、森茂暁 「皇統の対立と幕府の対応-『恒明親王立坊事書案徳治二年』をめぐって-」(『鎌倉時代の朝幕関係』.思文閣.1991.p235以下)、森茂暁『南朝全史』講談社メチエ 2005年 38頁以下。
(註34)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 213頁。
(註35)森茂暁『南朝全史』講談社メチエ 2005年 180頁以下参照
(註36)小川剛生「四辻善成の生涯 」『国語国文』 69巻7号(通号 791) [2000.07] の16頁註(9)
(註37)横井清 前掲書 319頁以下
(註38)『村田正志著作集第2巻續南北朝史論』思文閣出版(京都)1984
「後小松天皇の御遺詔」137頁
(註39)横井清 前掲書 78~79頁
(註40)松薗斉『日記の家』吉川弘文館 192頁
(註41)武部敏夫「世襲親王家の継統について--伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』(通号 12) [1960.10] 49頁
(註42)川田敬一「ドキュメント十一宮家の皇籍離脱」『歴史と旅 』秋田書店 27巻11号 [2000.09]、高松宮宣仁親王伝記刊行委員会『高松宮宣仁親王』朝日新聞社1991の孫引き
(註43)竹島寛『王朝時代皇室史の研究』右文書院 1936 169頁以下
(註44)橋本義彦『平安の宮廷と貴族』吉川弘文館1996「皇統の歴史」19頁
(註45)金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版(京都)1999 215頁以下
(註46)西別府元日『律令国家の展開と地域支配』思文閣出版(京都)2002「元慶期の財政政策と元慶官田」260頁以下元行基
(註47)吉川真司『律令官僚制の研究』「禄制の再編」369頁以下 初出1989
(註48)佐々木宗雄『日本王朝国家論』名著出版1994「十~十一世紀の授領と中央政府」初出1990
(註49)(註50)武部敏夫「世襲親王家の継統について--伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』(通号 12) [1960.10]
(註51)『国史大辞典』第12巻吉川弘文館1991の 「伏見宮」(武部敏夫執筆)
(註52)武部敏夫「世襲親王家の継統について--伏見宮貞行・邦頼両親王の場合」『書陵部紀要』(通号 12) [1960.10] 55頁の註(7)
(註53)武部敏夫 前掲論文 49頁
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