カテゴリー「夫婦別姓等民法改正問題」の19件の記事

2009/11/24

下書き4 夫婦別姓は社会主義政策である(1)

 伝統的な中国や近世朝鮮・韓国においては、同姓不婚と異姓不養の原則がある。家族制度の本義として、祖先の祭祀はその血統の子孫が営むべきであって、異姓からの養子を嗣子とすると、その宗族を乱すと考えられたため、同一血族の同族の男子(厳密には昭穆制により同世代の)を養子とする。異姓は養子に迎え入れない。(なお、中華人民共和国では宗法を封建制度として否定したので、韓国のように同姓同本不婚のような法規定はない)
 
 この漢民族の法文化はわが国には受容されていない。なぜならば高麗のように元を宗主国としたわけではないし、満洲族のようにシナを支配するために積極的に宗法制度に同化することもなかった。高麗末期のような儒者による廃仏運動はなかったし、李氏朝鮮のように朱子家礼による祖先祭祀が広まることもなかったからである。
 
 したがって、中国や韓国のように夫婦別姓を導入する余地はないと考えていたが、法務省入国管理局職員(1972年当時)の島村修治の著書(『外国人の姓名』ぎょうせい1971年24頁以下)を読んだところ、清朝の姓名記載慣習は夫婦別姓ではないことがわかった。

 著名な人物として例えば、孫文-宋慶齢、蒋介石-宋美齢、毛沢東-江青、劉少奇-王光美、周恩来-鄧穎超と姓名記載するように昔から夫婦別姓だという固定観念を持っていたがそうではないことがわかった。とすると、宗法制度=夫婦別姓とみなす必要はない。

 島村氏によると清朝の姓名記載慣習は、女は結婚すれば夫と一心同体のものとして無姓無名の存在となり、一般の人々は〈何々家の奥さん〉、〈誰某の妻〉、〈誰某の嫁〉、〈誰某の母〉と呼びかたをしていた。(この在り方は近世日本の庶民の在り方と同様である)

しいて名のる必要がある時は、

 王竜妻張氏、あるいは 王張氏(王家に嫁入した張氏の娘との意味)というふうに書いたという。

 中華民国の婚姻法(民法第1000条)でも夫婦は原則として同じ姓を称することになっていた。しかし実態としては1930年代以降、婚前の姓に字を添え、婚家の姓をかぶせ在り方が増加した。孫文-宋慶齢、蒋介石-宋美齢は原則に反するが、夫婦間の特約により婚前の旧姓を保持することも認められていたためだという。

 中華人民共和国では1950年5月1日公布の新婚姻法では、男女は平等であり互に独立した人格者であるとして、姓名についても「夫婦それぞれ自分の姓名を使用する権利をもつ」と定め、別姓であれ同姓であれいずれの姓を選ぶかは当事者の任意とした。
 この法律のモデルはいうまでもくソ連である。

 島村氏によると(前掲書148頁以下)

 ア 帝政時代は妻は当然に夫の姓を称した

 イ 1919年の法典では、夫婦同一姓の原則により共通の姓を称するが、男の姓か、双方の姓を連結した姓を称するかは、両当事者の自由とした。

 ウ 1924年11月の法令で夫婦異姓の可能性が認められ、同一の姓を称する義務がなくなった。

 なお、1926年に連結姓と第3の姓の選択は否定されたとも書かれている。

 ソ連は1926年に事実婚主義を採用し、1936年の登録婚制度法定まで事実婚の時代といわれている。夫婦別姓はスターリン時代の事実婚社会にふさわしかったのである。

 以上のことから夫婦別姓というのはレーニンが死去した1924年のソ連の法令に由来するものであり、それが1950年の共産中国の婚姻法に継受されたとみることができる。そして民主党政権千葉景子法相の手によってついに、我が国にもソ連・共産中国モデルの民法改正がなされようとしているのである。

 

 

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2009/11/23

下書き3

1 夫婦別姓推進論者の言う旧慣習説は誤りであることが近年明らかになっている

(1)少なくとも近世において既婚女性が生家姓(氏)を冠称したという実態はない

(要旨)

 夫婦別姓推進論者は、明治九年の太政官指令や豊田武、井戸田博史などの夫婦別姓旧慣習説を論拠として、反対論者を批判するが、近年、夫婦別姓旧慣習説を否認する有力な学説が出ている。近世については大藤修(註1)、柴桂子(註2)〔特に後者が詳細に〕徳川時代の出版物、人別書上帳・宗門人別帳、犯科帳、離縁状、訴状、女手形、門人帳、書画、短冊、書簡といった史料の他称・自称・自署を検討し、既婚女性が生家姓(氏)を冠称することはきわめて例外的事例しかなく、従来の夫婦別姓旧慣習説には資料的裏づけがないことを明らかにしている。
 つまり、現代の中国や韓国における、胡錦涛と妻の劉永清、李明博と妻の金潤玉というような既婚女性に生家姓を冠称して他称する。あるいは自称、自署するという実態は少なくとも近世に関する限りなかったのである。
 もっとも、 朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は天皇の賜与、認定による姓(古代的姓氏)と実名であるのが、幕末・維新期までの一貫した伝統であり、後宮女官などの既婚女性の女叙位における位記は所生の姓(父の姓)だったと考えられる。女官除目も同様であり、古代の内侍司牒の既婚女官の署名も父の姓であったと考えられる。
 しかしながら少なくとも平安中期以後「実名敬避」の慣習から公家女房は候名で呼称する慣習が確立され、日常生活において、本姓+実名で呼称、自称することはありえないということはよく知られていることである。
 候名は時代的変遷があり、平安中期についていえば父・夫等の官職に因んだケースが一般的だった。室町・戦国時代の禁裏女房は男官の「公卿、殿上人、地下」に対応して「上臈、中臈、下臈」の別があり、上臈には公卿の官職(大納言など)を、中臈には京官、下臈には外官を付けて呼んでいた(註3)。後宮女官の候名から、夫婦別姓を旧慣習とみなすことはできない。
 むしろ注目すべきは室町・戦国時代の公家の正妻の呼称である。今年出版された後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館であるが、摂関家の嫡妻は「婚家名+女中」、夫が関白となると「婚家名+北政所」と称され、一般公家は「婚家名+向名または女中」と称された。つまり正妻は婚家の名字を名乗っていた。
 室町・戦国時代が限嗣(嫡妻)単独相続の日本的家制度の成立期とみられる。後藤みち子によるとこの時期に公家の家妻は、家政・家業を分担の役割が明確となり、婚家の名字を名乗ることも社会的に認知され、婚家の名字は父の正妻から嫡子の正妻へ継承されるものとなったとする。我が国における夫婦同氏の基本はこの時期に確立されたという説である。
 従って、朝廷から賜る位記などの例から夫婦別姓を前近代の旧慣習とみなすのは妥当ではない。それは既婚女性一般の他称、自称、自署の実態と全く異なるのである。大藤修氏は夫婦旧慣習説を批判して次のように述べる。「近世において妻がどちらの姓を称していたかを資料的に確認するのは難しいのが実情である。第一、それについての法的規定は存在しない。そもそも近世においては、女性の役割は家の内部に限定され、社会的役割を果たしていなかったので、女性が姓を冠して対外的に自己を表示する必要はあまりなく、したがって法的に問題にすらならなかったのである。文書のうえでも女性は「某室(女房)○○」「某女○○」「某母○○」というふうな、当主たる夫や父あるいは息子との関係で表示されるのが通例である。」(註4)
 これは学者らしい慎重すぎる表現だが夫婦別姓は資料的に確認されてないので旧慣習説は否定されると言いきってよいだろう。
 のみならず、明治4年に氏が苗字に一元化されるにいたって、それまで朝廷の文書にあった令制的姓氏(古代的姓氏)は実質的意味を失ったのであるから、旧例として復活することは全く意味がない。

(詳論)

 わが国の女性が、明確に姓を冠し文書に登場するのが位階授与(位記)である。これは父の本姓+実名である。本姓とは天皇の賜与認定による令制的姓氏(源平藤橘、天皇の賜与認定による令制的姓氏(源平藤橘、菅原氏、高階氏、大江氏、紀氏、越智氏、清原氏、加茂氏など)であるが、同姓の婚姻(例えば左大臣藤原冬継と尚侍藤原三守の姉藤原美都子のケースを別として夫婦同姓はありえない。下記の奈良時代のケースについて限って云えば夫婦別姓という見方をとることにやぶさかではない。

右大臣藤原朝臣不比等の後室は命婦県犬養宿禰三千代
参議藤原朝臣宇合の妾久米連若女(悪名高い)
左大臣藤原朝臣永手の妻は尚侍兼尚蔵大野朝臣仲仟、
内大臣藤原朝臣良継の妻は尚侍兼尚蔵阿部朝臣古美奈

 時代は下って南北朝時代の『園太暦』に記される女叙位の記事はこうである。

康永三年正月廿七日女叙位〔1344〕(註5)

正五位下  藤原為子 掌侍
従五位上  藤原房子 典侍
        和氣仲子 命婦
従五位下  秦 相子 女婦
        河 氏子 采女
        藤原末子 女史
外従五位下 藤井池子 内教坊
         藤井次子 女孺
         海 浦子 水取
         藤井枝子 掌縫

 上記のどの官女が既婚であるかは不明だが女叙位、除目に関しては夫婦別姓とみてよい。

 近世において、位記の宛名の例として下記のような例がある。

元禄15年2月14日 従一位 藤原朝臣光子〔徳川綱吉母桂昌院、家光妾、本庄(藤原)宗利養女〕
文政11年1月10日 従二位 故従三位藤原輝子〔追贈-徳川家継母月光院、家宣妾 勝田(藤原)玄哲女〕(註6)

 しかしながら朝廷から賜る位記などの例をもって社会の慣習が夫婦別姓であったという根拠とはできない。これはあくまでも朝廷との君臣関係だけである。それは既婚女性一般の社会生活における他称、自称、自署の実態と全く異なるからである。
 我が国には古くから「実名敬避」の慣習があって、貴人の女性を実名で指称することは憚られることであった。清和生母藤原明子は「染殿后」陽成生母藤原高子は「二条后」と称されるのが一般的であるように。

 また平安時代中期から女房の候名が確立した。日常生活で呼称されているのは候名であって姓+実名ではない。清少納言や紫式部の実名が不詳であるのは、通常は実名で指称されることはなかったからである。角田文衛氏によると平安時代中期の女房の候名は主として父、やむをえぬ場合は、夫、兄弟、祖父の官職名に因んで賜った。候名は優雅であり「実名敬避」に役立ち、女房たちの実名に煙幕をはった。女流歌人の次のような事例である(註7)。

 和泉式部 式部は父の藤原為時が(蔵人)式部丞の任にあったため。和泉は夫の橘道貞の任和泉守に因む。

 伊勢大輔 父の大中臣輔親が伊勢の祭主で神祇官の権大副。
 上東門院中将 父藤原道雅の任左近衛中将に因む。
 馬内侍 右馬権頭源時明の娘。
 相模 相模守大江公資の妻。

 もっとも姓氏をもって指呼されている事例もある。『類聚雑例』長元九年五月十七日条に後一条天皇の御大葬に当たって素服を賜るべき人々「女房十八人」が書き出されている。

 先藤三位。藤三位。江三位。菅典侍。已上御乳母。少将内侍。兵部内侍。左兵衛内侍。左衛門命婦。左京命婦。小馬命婦。侍従命婦。中務命婦。兵衛命婦。小左門命婦。式部命婦。兵衛命婦。馬命婦。

 つまり、乳母四名は姓氏で指呼されている。しかし天皇乳母に称される例外的事例をもって夫婦別姓とはいえないだろう。しかも江三位とは近江守藤原惟憲の妻藤原美子であり大江氏の三位ではない。新田孝子氏(註8)によれば夫の官職に因んで近江の内侍と称されていたが、昇叙により『栄花物語』第十九の禎子内親王着裳の儀の記述では「近江の三位」となり、第二十八の中宮威子出産の記述では「大弐の三位」となる。これは夫惟憲が大宰大弐であったためである。つまり後一条天皇乳母藤原美子の女房名は「近江内侍」「近江三位」「大弐三位」と変遷しているが、いずれも夫の官職に因むものである。

 では赤染衛門、清少納言はどう解釈すべきか。赤染衛門は帰化系氏族の赤染時用が父または養父とされる(赤染氏は燕国王公孫淵の後裔と伝え、河内を本貫として赤染部を掌る。天平勝宝二年に赤染造広足、高麿ら24人が常世連姓を賜う。)夫は一条朝の鴻儒、従四位下式部大輔大江匡衡であるから、夫婦別姓の典型としてみることもあるが、父の氏で指呼する候名は珍しいものであって、例外的事例とみなす。衛門では女房相互の符牒になりえないからではないか。角田文衛氏(註9)は『紫式部日記』に依拠して赤染ではなく「匡衡衛門」と称されていたという。これは赤染衛門が夫の昇進のための運動、裏面工作に熱心であったためだか、いかにもあてこすった言い方であり年長者に対して非礼でもある。むしろ『紫式部日記』に丹波守北の方と称されているこちらのほうが一般的指称(当時大江匡衡は任丹波守で妻は任地に下向せず京に止まっていた)だと思う。

 清少納言は、清原元輔の娘だが実名不詳である。角田文衛によれば(註10)この候名は再婚した相手の少納言藤原信義の官名に因むとされる。清少納言は第三者から指称であり、日常生活において、女房相互の符牒としては少納言と指呼されていたことは『枕草子』の有名な香炉峯の雪のやりとりにより明白である。

 雪のいと高う降りたるを、例ならずして御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などし
て集まりさぶらふに、「少納言よ、香炉峯の雪いかならん」と仰せらるれば、御格子あげ
させて、御簾を高くあげたれば、わらはせ給ふ。
http://nihongo-sokki-steno.seesaa.net/article/78262308.html
 中宮藤原定子は「少納言よ」と呼んでいるのであって清氏とは指呼しないのである。しかも少納言が夫の官名に因むのであるから、これを夫婦別姓の論拠とはできない。

 候名は時代的変遷があり、南北朝・室町時代になると禁裏女房は男官の「公卿、殿上人、地下」に対応して「上臈、中臈、下臈」とし、上臈には公卿の官職(大納言など)を、中臈には京官の上位のもの(四等官のかみである卿、督、大夫)を付し、下臈には外官(地方官 伊予、播磨)を付けて呼んでいた(註11)。吉野芳恵によると室町時代に女房名を遺跡として相続する慣習があったとしている。大納言典侍は広橋家の女(含猶子)で相続され、匂当内侍は奥向経済を掌握し女房奉書を書き出す重要な職掌であるが、南家高倉、東坊城両家の女が補された。しかも候名の変わり方に一定の決まりがあって、南家高倉家は右衛門督局か右衛門内侍から匂当内侍、東坊城家は別当局、左衛門督局、中内侍から匂当内侍であった。下臈の伊予局は和気氏の女が相続した(註12)。相続の慣習は江戸時代に姿を消した。こうした後宮女官の呼び名から夫婦別姓の慣習を見いだすことはできない。

 次に、公家の正妻の呼称であるが、今年出版されたたもので注目すべきものとして後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館がある。
 戦国時代に公家の妻たちは夫の名字を名乗り、同じ墓地に葬られるようになったと言う。限嗣(嫡子)単独相続という日本的家制度が確立したのが室町・戦国時代である。この時期に家妻が、家政・家職の経営の役割を分担することが明確になった時期でもある。
 後藤みち子によれば、摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。
 清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。近衛尚通の『後法成寺関白記』によると久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。
 一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。『実隆公記』では中御門宣秀正妻を「中御門西向」と称し、『親長公記』では中御門宣秀の父である中御門宣胤の正妻を「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。
 三条西家の家妻の役割が検討されているが、使用人の給分の分配(使用人の給料を決定する)、食料の手配・管理、追善仏事の運営、連歌会。和歌会の設営があげられている。これは近現代に庶民の家の主婦の役割に通じるものがあるといえるだろう。このように公家社会において嫡子単独相続確立期に、家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して称された。
 後藤みち子によれば、女叙位の位記は所生の氏であるから夫婦別氏、夫婦同苗字と述べているが、社会的呼称は、婚家の名字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから実質的には夫婦同氏の感覚に近いものと認識できる。
 
 次に徳川時代のありかただが、近世女性史研究者の柴桂子氏が、夫婦別姓旧慣習説には史料的裏付けがないとして厳しく批判していることが特筆できる。 夫婦別姓推進論者の依拠する旧慣習説は明確に否定してよいと思う。
 
 以下引用もしくは要約した引用である。

 法制史研究者によって「江戸時代の妻の氏は夫婦別氏だった」と流布されているが、夫婦異姓の根拠とされる史料はごくわずかに過ぎない、女性の立場や実態把握に疑問がある。
 法制史研究者は別姓の根拠を、主として武士階級の系図や妻や妾の出自の氏に置いている。ここに疑問がある。妾や側室は雇人であり妻の範疇には入らない。給金を貰い借り腹の役目を終わると解雇され配下の者に下賜されることもある。
 より身分の高い家の養女として嫁ぐことの多い近世の女性の場合には、系図などには養家の氏が書かれ「出自重視説」も意味をなくしてしまう。
 別姓説の中に「氏の父子継承原理」が語られるが、女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。
 また、宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かった。
 
 実態として近世の既婚女性はどう呼ばれどう名乗っていたのか
◎他称の場合
○出版物 『近世名所歌集』嘉永四年(1851)、『平安人物誌』文政五年(1822)
姓はなく名前のみで○○妻、○○母と婚家の身分が記されている。『江戸現在広益人名録』天保一三年(1842)も同様だが、夫と異なる姓で記載されている場合もわずかある。
○人別書上帳・宗門人別帳
庶民の場合は姓も出自もなく、筆頭者との続柄・年齢が記される。
○著書・歌集・写本などの序文や奥付
武士階級でも姓も出自もなく、院号や名のみの場合が多い。
○犯科帳、離縁状、訴状、女手形
姓はなく名のみが記され○○妻、○○後家とと書かれ、名前さえ記されないものもある。
○門人帳 
別姓の例としてよく取りあげられる「平田先生門人姓名録」であるが、幕末の勤王家として名高い松尾多勢子は「信濃国伊那郡伴野村松尾左次右衛門妻 竹村多勢子 五十一歳」と登録されている。しかし、この門人帳には29名の女性の名があるが、既婚者で生家姓で登録されているのは多勢子を含め5名で、婚家の名で登録されているのは10名、名だけで登録されているのが3名である。他は○○娘とあり未婚者と考えられる。
他に心学門人帳などあるが、姓はなく名のみが記され、○○妻、○○娘と細字で傍書されている。
○墳墓、一般的には正面に戒名、側面に生家と婚家の姓が刻まれている。
◎自称・自署の場合
 
○著書 多くは姓はなく名のみを自署している。
○書画・短冊 雅号のみの場合が多い
○書簡 これも名前のみサインである。
○『古今墨跡鑑定便覧』本人の署名を集めたもので、姓はなく名前のみサインである。
例外的にフルネームの署名もあるが書画や文人の書簡であって夫婦別姓とはいいがたい。

 以上の柴桂子氏の指摘から江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしているわけではないと断言してさしつかえないだろう。夫婦別姓は旧慣習とはいえない。多勢子のような例外的事例をもって夫婦別姓というのは過当な一般化だろう。
 墓碑名については、明治民法施行前において、例えば明治五年、神道布教の中央機関として設置された大教院が神葬の儀礼を編纂せる近衛忠房・千家尊福『葬祭略式』を刊行し、そのなかで、「妻には姓名妻某氏霊位と記す」となし、妻の生家の氏を刻むよう奨導した例がある(江守五夫『家族の歴史人類学-東アジアと日本-』弘文堂1990 53)があるが、そもそも教派神道を別として、神道式の葬式は今日普及しておらず、墓碑名に生家姓を刻むとしても、それは妻の由緒、姻戚関係を明らかにする趣旨で、生きている人の実態において生家姓を冠称していたとする根拠にはならないと考える。

1 大藤修『近世農民と家・村・国家』第三章第三節「妻の姓の問題-夫婦別姓説をめぐって」吉川弘文館1996
2 柴桂子 「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003年]柴桂子「近世の夫婦別姓への疑問」〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめ ぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント『総合女性史研究』(21) [2004.3]
3 桑山浩然「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』(通号 6) [1996]
4 大藤修 前掲書
5 角田文衛『日本の女性名-歴史的展望』国書刊行会2006年 178頁
6 大藤修 前掲書
7 角田文衛前掲書121頁以下
8 新田孝子「栄花物語』の女官名称-乳母「近江の内侍」」関根慶子博士頌賀会編『平安文学論集』 風間書房1992
9 角田文衛前掲書119頁
10角田文衛前掲書120頁
11桑山浩然前掲論文
12吉野芳恵「室町時代の禁裏の女房-匂当内侍を中心にして」『國學院大學大学院紀要文学研究科』13号1982
13 柴桂子前掲論文参照。引用は2004年のコメントから

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2009/10/29

請願書 嫡出子と非嫡出子の相続分の差別撤廃  反対

請 願 書

鳩山由紀夫内閣総理大臣 殿
                                                                 平成21年10月31日
【請願する法案】

嫡出子と非嫡出子の相続分の差別撤廃

【法案に反対する理由】
 
 婚姻家族が社会秩序の根幹であり、我が国は法律婚制度が定着し、社会が安定化しているのに、嫡妻・嫡出子が重んじられなければ婚姻家族は維持できない、社会を不安定化させる。

 
 民法900条4四号ただし書は非嫡出子の相続分は嫡出子の相続分の二分の一としているが、1996年法制審議会答申は嫡出子と非嫡出子の相続分を同等とするものとした。しかしながら、この問題は学説においても顕著ではなかったし、最高裁でも合憲判断であるのに、あえて改正する必要はない。
 婚姻家族保護の観点、被相続人とその配偶者が居住していた不動産について、配偶者(寡婦)の居住の保護をどうするか。非嫡出子の死後認知による相続人の不利益といった問題点が多い。
 我が国は、結婚とは入籍と言われるように法律婚が定着しており、経過的内縁関係が若干ある程度で、世界的にも法律婚制度としては成功例である。今日足入れ婚の悲劇などはきかれなくなってた。事実婚の割合は外国より少ない。
 我が国の社会が相対的に安定しているのは家族が曲がりなりにも健全で、シングルマザー問題が外国ほど深刻ではないということがある。私はスターリン時代のソ連の事実婚社会、フランスやスウェーデンのように法律婚があまり意味なさなくなった社会が良いとはとても思えない。嫡妻が嫡妻として遇され、嫡出子か嫡出子として遇されなければ婚姻家族、法律婚は意味をなさなくなる。社会に混乱をもたらすだけである。

                         以上
 住所
 氏名 川西正彦 印
 年齢 49歳

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2009/10/27

請願書 民法731条改正反対

請 願 書

鳩山由紀夫内閣総理大臣殿

                                                                           平成21年10月27日

【請願する法案】

民法731条改正(男18歳女16歳の婚姻年齢を男女とも18歳とする)に反対

【法案に反対する理由】

1)米英独仏といった主要国では女子16歳は法定婚姻年齢であり、女子18歳引き上げが世界的趨勢というのは真っ赤な嘘である

 イギリスが男女とも16歳が法定婚姻適齢である(正確にはイングランドが16~17歳は親の同意要、スコットランドは親の同意も不要)。ドイツは成年である18歳を基準とするが、未成年者においても配偶者が成年であるという条件で16歳以上で婚姻の可能性を開いている。つまり男女を問わず結婚相手18歳以上なら16歳の婚姻を可としている。16-16はダメだが、18-16なら良いというものです。フランスは男18歳、女15歳(例外規定もある)であるが、それが差別だとは論じられていないとする。
 アメリカ合衆国は、50州及びDistrict of Columbia and Puerto Ricoの法定婚姻適齢についてコーネル大学ロースクールLIIのMarriage lawsのサイトを見てくださいhttp://topics.law.cornell.edu/wex/table_marriage。各州の婚姻適齢の一覧表があります。マサチューセッツではコモンローの婚姻適齢男14歳、女12歳が今でも生きている。
 1970年以前は18-16のケースが多かったのですが、アメリカでは古くから統一州法全国委員会が主体となって統一州法というものが幾つかあり、婚姻法についても一定の方向性を打ち出している。これは拘束力はないが、男女とも16歳を婚姻適齢とし、18歳は親の同意を得ないで結婚できる年齢とするもので、16歳未満についても裁判所の許可で婚姻が可能なモデルで、各州で70年代以降部分的に採用されてます。その場合でも、統一州法のモデルどおり男女とも16歳を法定婚姻適齢の基準としている州が圧倒的に多い。私が数えたところでは50州のうち41州は16歳女子は文句なしに婚姻適齢とされています。17歳、18歳を基準とする州でも例外規定があるケースが多い。さらに16歳未満でも例外規定で裁判所の許可により結婚可能としている州が結構多く、男女差をなくす場合でも、16歳、17歳の結婚の可能性を否定することにはなっていないんです。
 法制審議会は、男女とも婚姻年齢を18歳以上とするのが世界的趨勢とか言ってますが、嘘ですね。悪質にも国会と国民をだましているんですよ。ソ連やスウェーデンがそうかもしれませんが、米・英・独・仏といった主要国では16歳女子は結婚できることになっています。

2)野田愛子氏の見解を無視すべきでない。
 
「統計的に、16、17歳で婚姻する者は、〔年間〕約3000件あるそうです。私の家庭裁判所判事当時の経験に照らすと、16、7歳の虞犯の女子がよい相手と巡り会って、結婚させると落ち着く、という例も数多く経験しています。あながち、男女平等論では片付づかない問題のように思われます。」改正は望ましくないとする野田愛子氏のような家庭裁判所の実務家の見解(戸籍時報419号)を無視していることが疑問です。家庭環境に問題があり「非行」に走る少女も結婚すると落ち着くということです。結婚が解決策になるのです。人間学的に言えば、喜びと苦労を分かち合うことで喜びは倍になり、苦しみは軽減され、人生の困難を乗り越えていくことができるのです。従って必ずしも恵まれていない環境にある若い女性から法定婚姻資格を剥奪するのは過酷であると私は考えます。なるほど、16歳、17歳女子が結婚するカップルは、年間3000組程度ですが、全体数からみて少ないから切り捨てよというのは乱暴な議論であり、人情にも欠くものです。結婚し家庭を築くことは幸福追求にかかわる基本的な価値でありますから、安易に伝統的に容認されていた婚姻適齢での婚姻資格を剥奪することは、個人の幸福追求権より形式な平等追求を重んじるもので賛成できません。

以上
 住所
 氏名 川西正彦 印
 年齢 49歳

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2009/10/26

請願書 女性差別撤廃選択議定書に反対

請 願 書

鳩山由紀夫内閣総理大臣殿

                                    平成21年10月27日

【請願する法案】

女性差別撤廃選択議定書に反対

【法案に反対する理由】

国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW) など権威ある組織ではなく勧告など受ける必要はない。

 女子差別撤廃条約(アメリカ合衆国が批准していないので、これが国際的スタンダードな考え方であるわけではない)は人権条約の実施措置としてはもっとも緩い報告制度をとっている。これは条約の趣旨ができるだけ多くの国に批准しやすいようにして、各国の義務については厳格に求める性格のものではないからです。あまり厳格にして、例えばイスラムのシャーリア法をやめろとか、あるいは女子割礼の慣習をやめさせろとか言ったら、多くの国が批准できませんからもともとぬるい。そもそもキリスト教の聖書も仏教もヒンズー教もイスラムのシャーリア法にも、儒教はもちろんのこと女性差別的な思想があります。もしそれを否定したら文明は崩壊するのです。
 締約国の義務は国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW) に条約批准の一年後とその後は四年ごとに条約の実施のためにとった立法上、司法上、行政上のその他の措置の報告をするだけ。要するに四年おきになんらかの報告のための実績づくりを政府にさせることによって、女性団体が監視して女性政策を促そうとするものです。
 浅山郁の1985年の論文(「女子差別撤廃条約の報告制度と締約国からの報告 (女性そして男性) -- (外国における女性と法) 」『法学セミナー増刊 総合特集シリーズ 』日本評論社  (通号 30))によると、CEDAWの権限は弱く条約十八条で提案と一般的勧告をを行うことができるが、実際には「委員会の委員が度々、締約国による条約義務の不遵守(あるいは不十分な遵守)を認めたにもかかわらず、いかなる特定の締約国についてもその旨の意見発表は一度も行ってない」とのことです。もともと条文の解釈は締約国に委ねられているから、これこれの女性政策を締約国に強要というものではないです。例えばソ連の第一回報告では教育の分野について「憲法に基づいて教育の平等は完全に保障されている。なぜなら、教育は国家の手で行われているので、すべての男女に同一の授業内容をうけさせることが可能となる。教育上の男女差はすでに克服されてしまった‥‥」と説明してますが、中等教育の技術教育の男女別の授業内容を問うとか意地悪な質問もなく賞賛されるだけだったようです。そんなもんです。日本は1987年に第一回の報告を行ってますが、売春防止法を説明したところ、委員は「単純売春」に関心を示し、意味がわからないという質問が出たそうです。そんな程度のことです。たいした権威もない委員会です。
 いずれにせよ、女子差別撤廃条約は有害でした。米国のように批准しないほうがましでした。実際には条約の解釈はいかようにもなるんですが、フェミニストが勝手に条約違反とわめきたてることにより有害な政策が促されました
もともと条文の解釈は締約国に委ねられているから、これこれの女性政策を締約国に強要というものでないはずだったのに個人通報制度により、CEDAWのようなばかげた機関の内政干渉を容易になるというのは大変危険な事だと思う。

                                               以上
 住所
 氏名 川西正彦 印
 年齢 49歳

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請願書 民法733条改正反対

 27日は日本解体法案請願受付には日比谷公園には時間的に間に合わないのでいかないが、請願書を持参して憲政記念館には行く予定にしている。当初郵送だけにしようかとも思ったが夫婦別姓を阻止すべく伊藤玲子さんどなどが必死に呼びかけているで行かないとまずいと思ったため。

                          請 願 書

鳩山由紀夫内閣総理大臣殿
                                                                                            平成21年10月27日

【請願する法案】

民法733条改正(女性の再婚禁止期間を6ヶ月から100日間へ短縮)に反対

【法案に反対する理由】

 6か月の再婚禁止期間は国民的倫理として堅持されるべきものである。

 民法733条の再婚禁止期間は明治民法767条を引き継いだものだが、これは道徳的理由にもとづかない。父性不明防止のためであり、近代的再婚禁止規定といわれる。しかも、明治民法767条は、明治7年9月29日太政官指令の300日、西欧の立法例、フランス300日、ドイツ10ヶ月、スイス300日より短い6か月であり、明治民法起草委員の梅謙次郎は「六ヶ月の期間は法医の意見を聴いて定めた」とされているが進歩的であったといえる。
 ソ連・東ドイツ・中国等の社会主義国では機械的男女平等の原則により再婚禁止期間が全くない。日弁連は社会主義国を規範とし再婚禁止期間を廃止すべきとする主張だが、1996年法制審議会民法部会答申は100日間の短縮という結論であった。
 しかし今日でもドイツが10か月、フランスが300日と我が国より長期の再婚禁止期間が堅持されている。我が国でも明治民法施行から110年を経過しもはや6か月の待婚は国民的倫理として定着したものであり、あえてフェミニスト・女性団体のご機嫌をとるためにいじる必要はないと考える。
 私は滝沢聿代法政大教授の「民法改正要綱試案の問題点(上)」(『法律時報』66巻12号1994年11月)の意見に賛同するので以下、引用する。
「100日に短縮したとしても、回避されるのは法文上の形式的推定の重複だけであるから、事実に反する推定がなされた場合は民法773条の嫡出否認の訴えに持ち込まれることとなる‥‥(中略)‥‥待婚期間の短縮は必然的に別個の対応による問題解決の提案を含まざるをえないが‥‥余りに不用意である。現行民法の733条の六ヶ月の期間は明治民法以来のわが国の伝統であり、いわば国民的倫理となり得るものではなかろうか。婚姻は長期にわたる深い人間関係を予定する制度であるから、前婚と後婚との間に六ヶ月程度の時間的空白が置かれることは、原則的に見ればそれほどの重大な拘束ではない。またその空白の必要性は子の出生の可能性に根拠を置く故に女性だけの拘束となる事も合理的である。」

以上
 
 住所
 氏名 川西正彦 印
 年齢 49歳

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請願書 夫婦別姓反対 確定版

請 願 書

鳩山由紀夫内閣総理大臣殿

平成21年10月27

【請願する法案】

夫婦別姓 (選択的別姓)

法案に反対する理由】

)夫婦同氏を採用した明治民法は優れており、女性にも有益な制度であるから断乎堅持されるべきである。
 
 明治民法は国民感情及び社会的慣習を根拠として夫婦同氏を制定されたといわれるが、起草者穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三者のうちもっとも強く夫婦同氏を推進したのが梅謙次郎である。梅謙次郎は「家」制度に批判的で、儒教道徳より愛情に支えられた夫婦・親子関係を親族法の基本とし、士族慣行より、庶民の家族慣行を重視した点で開明的だった。その判断は正しかったし近代法の父ともいえる梅博士の業績を否定するのは誤りである。
 梅謙次郎は法典調査会議事速記録第146回で次のように述べた。「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信シラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ」。(熊谷開作『日本の近代化と「家」制度』法律文化社1987 207頁)
 中国や韓国の家族慣行は出嫁女が婚家に帰属することについて我が国と同様であるが、夫婦別姓である。これは宗法制度において同姓不婚・異姓不養という鉄則により姓がファミリーネームでなく、血族標識と認識されているためである。我が国が中国に支配された歴史がなく宗法制度が受容されず、近世朝鮮・韓国のように儒教による祖先祭祀も普及しなかったことから、夫婦別姓を許容する必然性などない。
 支那の慣例に従う必要などないとする一方、明治民法は当時ドイツ・オーストリア・スイス・イタリアの法制を参考としており、西欧の夫婦同氏を継受したという側面もある。正確には、スペインは複合姓であり、イギリスやフランスでは婚姻によって妻は夫の氏を取得するとされる。イギリス・ドイツの夫婦同氏の慣習は少なくとも13~14世紀に遡ることができる。
 栗生武生『婚姻の近代化』87頁ははゲルマン法は教会の「二人の者一体となるべし」の教えによって妻に夫の氏を称させたとする説だか、疑問がある。
 むしろ姓は家産の相続と関連しているみるべきでろう。鵜川馨「十八世紀英国における婚姻契約」『イングランド中世社会の研究』聖公会出版 1991によるとウェディングの語源についてゲルマン法に固有の婚姻契約の履行を担保するものとしての動産質(E pledge,OE wedd)を与える儀礼と述べ、weddという言葉は将来夫の死後に寡婦産として現実に土地の引き渡しを担保する者として、指輪あるいは銀貨が与えられるのであって、本来は質物、担保を意味したが、やがてこの語は、結婚式に関連して専ら用いられ、wedは結婚するという意味に変わり、本来の保証するという言葉としてはpledgeなる語が用いられるようになった。つまり、中世イギリスにおいては夫家の家産である土地の一部が寡婦産として設定され、花嫁は終身的経済保障を得る。夫家の家産を相続するのであるから、夫姓を唱える権利を取得するのである。つまり夫婦同氏の意味するところは婚家の財産分与で寡婦の終身的経済保障を得る権利に繋がっており、女性にとって有利な制度であるのにこれをみすみす破壊することは女性にとって利益とはならない。
 我が国の家族慣行にも合致し、西欧のファミリーネームも継受した夫婦同氏は優れた制度であって、日弁連やフェミニストの利己主義によって破壊されてはたまらない。

)婚家の氏を唱えず、婚家の財産を分捕るのは道義に反する

 夫婦別姓推進論者は、女性は婚嫁して夫とともに婚家を継ぐという家族道徳を全面的に否定し、夫や舅姑に仕えるのはまっぴらごめん、墓も夫や舅姑と一緒になりたくないとして婚家帰属性を否定するのであるが、慣習に反するものであり、民法730条「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」の趣旨にも反するものである。婚家姓も唱えず、夫や舅姑に仕えるのも面倒もみたくないとしているのに、夫(婚家)の財産は法定相続により分捕ってしまうというのはムシが良すぎるし、道義に反する。紀元前のローマに無夫権婚姻という制度があった。これは持参金のない婚姻なので、寡婦となっても亡夫(婚家)からの財産分与・終身的経済保障はない。女性にとってはみじめな在り方だが、夫婦別姓論者が婚家に帰属したくないなら、夫(婚家)の家産を分捕る権利など与えるべきではなく、福島瑞穂国務大臣のように事実婚でよいのではないだろうか。
 住所

 氏名 川西正彦 印

 年齢 49歳

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2009/10/25

請願書 (下書き1)夫婦別姓反対

請 願 書

鳩山由紀夫内閣総理大臣殿

平成21年10月 日

【請願する法案】

夫婦別姓 (選択的別姓)

法案に反対する理由】

1) 選択的夫婦別姓の導入は社会主義国の模倣である。

 かつて大正時代など内縁婚の多い時代があった。しかし今日法律婚は国民に定着しており、入籍=結婚と認識され、諸外国には世界的にも類例がないほど成功している。国勢調査の統計と法律婚と有意の差はない。昭和30年代頃まで社会問題になっていた足入れ婚の悲劇もきかれなくなっており、これほど安定している法律婚制度を世論が分裂している問題であるのに日弁連や女性団体のメンツを立てるために法律婚制度をいじるのはやめるべきだ。親族構造から夫婦別氏としている韓国を除くと、夫婦の姓を自由としていたのはソビエト、東独、チェコスロバキア、中華人民共和国といった社会主義国であり(滝沢聿代「フランスの判例からみた夫婦の氏--夫婦別氏制への展望」『成城法学』34号1990)、このような社会主義国型立法を容認することはできない。

2)夫婦同氏を採用した明治民法は優れており、女性にも有益な制度であるから断乎堅持されるべきである。
 
 明治民法は国民感情及び社会的慣習を根拠として夫婦同氏を制定されたといわれるが、起草者穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三者のうちもっとも強く夫婦同氏を推進したのが梅謙次郎である。梅謙次郎は「家」制度に批判的で、儒教道徳より愛情に支えられた夫婦・親子関係を親族法の基本とし、士族慣行より、庶民の家族慣行を重視した点で開明的だった。その判断は正しかったし近代法の父ともいえる梅博士の業績を否定するのは誤りである。
 梅謙次郎は法典調査会議事速記録第146回で次のように述べた。「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信シラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ」。(熊谷開作『日本の近代化と「家」制度』法律文化社1987 207頁)
 中国や韓国の家族慣行は出嫁女が婚家に帰属することについて我が国と同様であるが、夫婦別姓である。これは宗法制度において同姓不婚・異姓不養という鉄則により姓がファミリーネームでなく、血族標識と認識されているためである。我が国が中国に支配された歴史がなく宗法制度が受容されず、近世朝鮮・韓国のように儒教による祖先祭祀も普及しなかったことから、夫婦別姓を許容する必然性などない。
 支那の慣例に従う必要などないとする一方、明治民法は当時ドイツ・オーストリア・スイス・イタリアの法制を参考としており、西欧の夫婦同氏を継受したという側面もある。正確には、スペインは複合姓であり、イギリスやフランスでは婚姻によって妻は夫の氏を取得するとされる。イギリス・ドイツの夫婦同氏の慣習であり少なくとも13~14世紀に遡ることができる。
 栗生武生『婚姻の近代化』87頁ははゲルマン法は教会の「二人の者一体となるべし」の教えによって妻に夫の氏を称させたとする説だか、疑問がある。
 むしろ姓は家産の相続と関連しているみるべきでろう。鵜川馨 「十八世紀英国における婚姻契約」『イングランド中世社会の研究』聖公会出版 1991によるとウェディングの語源についてゲルマン法に固有の婚姻契約の履行を担保するものとしての動産質(E pledge,OE wedd)を与える儀礼と述べ、weddという言葉は将来夫の死後に寡婦産として現実に土地の引き渡しを担保する者として、指輪あるいは銀貨が与えられるのであって、本来は質物、担保を意味したが、やがてこの語は、結婚式に関連して専ら用いられ、wedは結婚するという意味に変わり、本来の保証するという言葉としてはpledgeなる語が用いられるようになった。ウェディングとは花嫁の終身的経済保障の担保・質物を与えるということを原義としていたのである。つまり、中世イギリスにおいては夫家の家産である土地の一部が寡婦産として設定され、花嫁は終身的経済保障を得る。夫家の家産を相続するのであるから、夫姓を唱える権利を取得するのである。つまり夫婦同氏の意味するところは婚家の財産分与で寡婦の終身的経済保障を得る権利に繋がっており、女性にとって有利な制度であるのにこれをみすみす破壊することは女性にとって利益とはならない。
 我が国の家族慣行にも合致し、西欧のファミリーネームも継受した夫婦同氏は優れた制度であって、日弁連やフェミニストの利己主義によって破壊されてはたまらない。

3)婚家の氏を唱えず、婚家の財産を分捕るのは道義に反する

 夫婦別姓推進論者は、女性は婚嫁して夫とともに婚家を継ぐという家族道徳を全面的に否定し、夫や舅姑に仕えるのはまっぴらごめん、墓も夫や舅姑と一緒になりたくないとして婚家帰属性を否定するのであるが、慣習に反するものであり、民法730条「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない」の趣旨にも反するものである。婚家姓も唱えず、夫や舅姑に仕えるのも面倒もみたくないとしているのに、夫(婚家)の財産は法定相続により分捕ってしまうというのはムシが良すぎるし、道義に反する。紀元前のローマに無夫権婚姻という制度があった。これは持参金のない婚姻なので、寡婦となっても亡夫(婚家)からの財産分与・終身的経済保障はない。女性にとってはみじめな在り方だが、夫婦別姓論者が婚家に帰属したくないなら、夫(婚家)の家産を分捕る権利など与えるべきではなく、福島瑞穂国務大臣のように事実婚でよいのではないだろうか。
 
4)夫と共に婚家を継ぐという我が国の社会構造となっている出嫁女の婚家帰属性を否定する男女の結びつきを法律婚として容認することは、「家」を破壊し、婦人道徳を否定し、社会秩序を破壊するものである。

 人類学者でも厳密な定義で定評のある清水昭俊(元一橋大学社会学研究科教授)によると「家」成員を実子、養子、婚入者(婿・嫁)、家成員からの排除を、婚出、養出、分家設立と定義したうえ、婿とは家長(予定者)、嫁とは主婦(予定者)の地位であると明確に定義された。我が国の「家」において特徴的なことは寡婦となった嫁が、あらたに家外から婿を迎えて(血筋が中切れでも)家が継承されるのである。従って嫁が家成員であることはいうまでもない。理論的に明確に出嫁女は婚家に帰属する。(「〈家〉と親族:家成員交替過程(続)-出雲の〈家〉制度・その二」『民族学研究』38巻1号)又、法社会学者で嫁入婚の歴史に詳しい江守五夫(千葉大学名誉教授)によると婚礼の白無垢が死装束であり、緋の衣装の「色直し」が婚家での再生を意味するという考え方は古来説かれていた。伊勢流などの礼道では別の見解のようだが、嫁の生家出立の際に、出棺の方式をまねて、座敷から後ろ向きに出たり里方(生家)において死ぬことを意味とするとする習俗は広く認められているとする。(『家族の歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990) いずれにせよ、婚礼が出嫁女の婚家帰属を象徴するものである事に疑いはない。

 古くは「戸令」二十八の七出・三不去の制も律令国家の公定イデオロギーである。凡そ妻棄てむことは七出の状有るべしとされるのである。子無き。間夫したる妻。舅姑に事へず。心強き妻。ものねたみする妻。盗みする妻。悪疾。であるけれども子無きはさしたる咎にあらずともされている。舅姑に事へないことは悪事とされている。

 近世の女子教訓書の代表作『女大学宝箱』(享保元年)には「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁いりを゛帰る″という。わが家にかえるという事なり」とあり、また「女は、我が親の家をば継がず、舅・姑の跡を継ぐゆえに、わが親より舅・姑穂大切に重い、孝行を為すべし」と説かれ(柴桂子 「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003年])、出嫁女の婚家帰属性を明確に述べている。女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐのが女性の日常道徳の基本である。

 『女大学』19ヵ条には女性にとって本来の家は婚家。七去の法。 生家の親より、舅・姑に孝養をつくすべき  とされておりそれが婦人道徳の根幹であり、これがなくなれば「家」は解体する。まさしく夫婦別氏出デテ家亡ブのである。
 こうした婦人道徳の根幹を否定するのが夫婦別姓であり、容認できない。むしろそれを推進する日弁連・フェミニストとそれに迎合した法制審議会民法部会こそ、道徳的価値を否定し社会秩序を混乱させ社会主義立法を目指すものとして糾弾されるべきである

以上

住所
氏名 川西 正彦 (印)(*ワープロの場合には印鑑が必要)
年齢 49歳

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明治民法の夫婦同氏の意義その5未完(夫婦別姓反対下書き)

  中山成彬東京事務所への請願書の郵送の締め切りが10月31日消印と時間がなくなってきたので、基礎研究は不十分ですがいったんこれで打ち切って次は請願書の下書きをポストします。http://sitarou09.blog91.fc2.com/blog-entry-41.html

明治民法施行前の妻の氏その4(承前)

 中世においては養子がまず同姓から選ばれるべきだという中国式の原則はあったものの適当な者がいないとき異姓の養子を迎えるのが通例とされていた。徳川時代は儒学が官学とされ、儒教的な異姓不養の原則を「筋目」たるべきものとする「筋目尊重政策」がとられたとはいえ、やはり異姓不養の原則を貫徹することはなかった。
 この点については江守五夫が要領よく説明している(『家族の歴史民族学-東アジアと日本-』第一篇第二章養子制度にみる二つの父系出自概念 弘文社1990)

 初期の徳川幕府は無嗣による大名取り潰しを図るべく、武家の養子に対して厳しい要件を出し末期養子を禁ずるとともに「筋目なきもの」の養子取り立てを禁じ異姓不養の原則を貫徹させた。

 元和元年(1615)の禁中方御条目「養子者連綿。但可被用同姓。女縁者家督相続・古今一切無事」と定め、寛永九年(1632)の諸士法度「跡目之儀養子は存生之内に可得御意、末期におよひ忘却の刻艱申之、御もちいあるへからず。勿論筋目なきもの御許容有間敷」と規定。

 ところが幕府は、慶安事件(由井正雪の乱-慶安四年1651)を契機として、治安対策上、浪人発生源となる大名取潰しを防止する政策に転換した。寛文三年(1663)の武家法度で異姓の養子取り立てを解禁した。これは天和三年(1683)の武家諸法度でも継承され、宝永七年(1710)の武家諸法度では付則において「同姓の中継嗣たるへき者なきにおいてハ、旧例に准じて、異族の外族を撰ひて言上すへし」と定めた。
 異姓養子解禁後のよく知られている女系継承例が出羽米沢藩主(第四代)上杉綱憲である。実父が忠臣蔵の仇役で有名な吉良義央で、実母が第二代米沢藩主上杉定勝女富子(第三代綱勝の妹)だから、先々代からみて外孫、先代からみて外甥を養子としたことになりますが、これは異姓養子だが、非血縁継承ではなく、血縁としては女を介して繋がっている事例である。このように幕府は原則は貫徹しなかったが、幕藩権力の「筋目尊重主義」政策により異姓不養がフォーマルなあり方とはされた。
 異姓養子の解禁によって儒学者と国学者による論争が展開されたが、室鳩巣、本居宣長、跡部良顕は異姓養子容認論を展開、三浦梅園は儒学者「から〔唐〕の書に見なれ、からの教にあはざる事をば疑ひあやしむ」あまり「我国のならわし」たる他姓の養子とくに婿養子を非難するが、それはまさに「学習の弊なるべし」と批判。異姓不養を説く儒学者ですら自家の継嗣に異姓養子を立てたのであり、荻生徂徠や太宰春台は言行不一致により太田錦城の非難をうけた。(穂積陳重「養子正否論」『祖先祭祀ト日本法律』有斐閣1917附録)しかしながら幕藩権力の「筋目尊重主義」政策により異姓養子は非とするのがフォーマルなあり方とはされたし、その観念は明治末期まで士族層に固執されていたとの説もある。

(乃木伯爵家絶家再興のケースが問題とされる。陸軍大将乃木希典の息子は二人とも日露戦争で戦死、三男は夭折したため、山縣有朋や寺内正毅から乃木家の旧主にあたる長府藩主の後裔、毛利子爵家の次男元智を養子を立てて相続させようとする運動があったが、乃木伯爵は明治天皇大葬の夕に殉死、遺書によりいったんは絶家とされた。これについては井戸田博文『乃木希典殉死・以後―伯爵家再興をめぐって 』新人物往来者1989という研究がある。自刃と伯爵家絶家については、西南戦争で軍旗を奪われたこと、日露戦争で多くの部下を犠牲にしたことに責任を痛感していて、受爵は一代限りとする考えを持っていたようであるが、もともと会沢正志斎『新論』などを読んでいて異姓養子を非とする考えであった。その後養子制度に批判的な見解を持っていて、長州閥による旧主家を養子とする運動に乗り気でなかった。自刃の三年後に毛利元智により乃木伯爵家が再興されるが、絶家を望む故人の遺書が報道されたことから国民の反対運動が起き、結局昭和九年に爵位を返上、姓も毛利に戻した。)

 明治維新後の養子制度については、明治元年(1868)11月28日堂上諸侯中下大夫の家督に関して法令を発し、同姓養子の原則を採用した。ところが、明治三年(1870)の閏10月17日の布告であっさり覆され、華士族の養子につき「実子無之輩ハ、年齢二不拘わり、養子願子之儀可為勝手事」とされた。
 明治六年1月の太政官官布告第28号華士族家督相続法は、男女子共にないとき「血統ノ者」を養子とすべきことを原則としつつも婿養子をとることを認めた。さらに佐賀県の伺に対して、太政官は「実子并血統者之無時ハ、他人の子弟養子致シ‥‥候儀不苦候事」ち回答しており実質的に他姓養子を是認した。
 そして明治31年民法は、養子について血統上の要件を一切付けなかった。

 なぜ日本で徳川時代に儒学が官学とされながら、異姓不養原則が根付くことがなかったのだろうか。
 李氏朝鮮は朱子学を国政の基本とし、崇儒排仏政策をとり、朱子家礼による祭祀が浸透していったが、韓国においては婿養子はありえないのであって、異姓不養の原則が貫徹される。しかも昭穆制というものがあり、これは宗廟における太祖以下代々の配置を述べたもので左側に偶数代を昭、右側に奇数代を穆。廟には木主(位牌)を安置する意味だが、養子は昭穆にそった同世代の親族てなければならない。養子資格者がなければ、その家は断絶し、位牌は山に埋められるのであって、日本の家のように他姓養子をとる事による永続性はない。
 江守五夫によると異姓養子を非とする最大の理由は、春秋左氏伝に「神不歆非類、民不祀非族」とあるごとく、神霊は自己の血族以外の者の祀を享けないとする祭祀観念にあるとする。祖先の祭祀は父系的血族によってのみ執行されるべきであり、その祭祀の絶えざるが為に養子が取り立てられるがゆえに、養子は祖先と血縁者(同姓)であらねばならないとするものである。この思想を貫徹するなら、我が国のような非血縁養子は道義に反するものである。

実際、韓国の門中(5代祖以上の祖先を祭祀する父系出自親族集団)で重要な祭祀である時祭(年一度墓所で行われる)は単に死者の霊を生者が祀るというものではなく、親子関係に基づく尊卑の序列を前提とするものであり、子が親に尽くすべき孝の延長とみなされている。時祭は女性は絶対に参加しないものとされ、それは同姓不娶で血縁関係にないから当然のことである。
 日本は高麗のように元に支配されなかった。あるいは満洲族のように中国を支配するために積極的に漢族の法文化に同化していくこともなかった。また高麗末期から李氏朝鮮にみられる儒者による崇儒廃仏運動もなかった。徳川幕府の宗教政策は寺壇制度(家単位でどこかの寺の信徒に登録されることを通じ管理を受ける)であって、我が国では仏教による祖先供養が一般的で、儒教の祖先祭祀は普及しなかったというのは決定的差異であり、異姓不養に固執しなければならない社会構造にはなっていない。
 中国の漢族、李氏朝鮮-韓国においては出嫁女は夫宗に帰属し、出嫁女が婚家に帰属することは日本と同じであるが、夫婦別姓であるのは、同姓不娶という宗法制度の鉄則を維持する血族識別の為である。韓国では同姓同本の血族の通婚が禁じられている。朝鮮には300近い姓があるが、金氏は500、李氏は470にのぼる本貫を姓に冠して血族識別の標識としている。(李丙洙「朝鮮の「同姓不婚」制」高梨公之教授還暦祝賀論文集『婚姻法の研究. 上 婚姻制度論』有斐閣1976  )
 我が国は宗法制度による親族構造に再編されることはなかったから、血族識別としての夫婦別姓が受容される基盤はなかったのである。
 
 だだ私は、明治9年の太政官指令が「妻は所生の氏」とした社会的背景として山中永之祐氏が(「明治民法施行前における妻の氏」高梨公之教授還暦祝賀論文集刊行発起人会編『婚姻法の研究 上 婚姻制度論』有斐閣 1976)、封禄を挙げているのは妥当な見解かもしれない。「徳川時代、武士は一般に世襲の封禄によって家族の生活を維持した。封禄は武士個人は武士個人ではなく「家」に対して与えられ、家格によって序列がつけられていた。そのため家を象徴した氏も当然尊重された。武士の世界はいうまでもなく男子優位の世界であった。男子が「家」を嗣ぎ、世襲の封禄をうけたからである。」 
 したがってこの趣旨では、婚入配偶者が姓を冒すことは認めないという趣旨は理解できる。
 しかし、だからと言って徳川時代に妻が生家姓を冠称していたわけではない。これについては大藤修や柴桂子の夫婦別姓旧慣習説批判で明らかなことである。
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  つづく

 

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2009/10/21

明治民法の夫婦同氏の意義その4(夫婦別姓反対下書き)

 明治民法施行前の妻の氏その3(承前)

 明治9年の太政官指令は「妻は所生の氏」とするものであったが、我が国の社会構造からすると、妻に所生の氏を唱えさせる法文化的基盤(姓が単系出自の血族概念であるという)は弱かったと考えるし、だからこそこの指令はほとんど浸透することがなかった。なぜならば我が国では厳密にいうと王朝時代(十~十二世紀)から既に姓は血族概念でも父系出自系譜とはいえなかったのである(例外は皇親であるが皇室には姓はないが父系出自系譜で貫徹する)。-今回はこれまでブログに出した切り貼りのような内容のみ-

 日本の標準的な村落の家成員交替過程の規則性については、清水昭俊(「〈家〉と親族:家成員交替過程(続)-出雲の〈家〉制度・その二」『民族学研究』38巻1号 197)が出雲地方の調査のうえ、現地の慣行を詳細に分析して厳密な定義を行っており、庶民の一般的な慣行を示していると思うので引用する。
 清水昭俊は家成員を実子、養子、婚入者(婿・嫁)、家成員からの排除を、婚出、養出、分家設立と定義したうえ、家の時間的連続は次代の家長(夫)と主婦(妻)を確保することによって保証されるとする。
 但し、次の二点で清水は特徴的な見解を示す。第一に「婿養子」という用語は法律用語、民俗用語としてはともかく、学的用語としては不適切とする。「嫁養子」という言葉はないから、たんに「婿」でよいのだという。なぜならば、「婿養子」はたんなる配偶者、養子ではなく、「家督相続」と学的に認識されており、婿とは家長(予定者)、嫁とは主婦(予定者)の地位である、という説明が要領をえており理屈のうえでは清水の見解に従うが、私は外孫の養取による女系継承に類比することもできるから、婿養子という言葉を用いないというわけにはいかない。
 第二に婚姻に先立って家成員である者を「家連続者」という概念を提示し、家督相続予定者の概念と区別している点。つまり通常は長男が「家連続者」であり家督相続者でもあるが、男子のないとき又は死亡したときは長女が「家連続者」になって婚入配偶者(婿)を迎える、この場合婿が家督相続者、長女が主婦となる。
 最下世代の夫が結婚後死亡し実子がなく寡婦が結婚可能な年齢である場合、生家に帰されることもあるが、家内に亡夫の弟がいれば、寡婦となった嫁が亡夫の弟に再嫁するレヴィレート婚(逆縁婚)が選択されるが、弟がいない場合には「家連続者」となってあらたに家外から婚入配偶者(婿)を迎えることもある。婚入配偶者の嫁も家成員であるから「家連続者」たりうるのである。このケースは血筋は中切れになる。清水の理論は家成員の実子、養子、婚入配偶者は全て、婚入配偶者を迎えて家連続者たりうるということで明快であり、それがまさに日本的家制度の特徴といってもよい。優れた概念提示であると思う。
 さらに出雲地方の現地調査から家連続者には優先順の規範性があることを示している。アンシャンレジーム時代のフランスのパリ-オルレアン地域が父母権が強く選定相続の慣習であったことが知られているが(エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリー木下賢一訳「慣習法の体系」アナール論文選2『家の歴史社会学』)日本の家は違う。慣習上の規範性がある。
1-最下世代夫婦の長男、2-同夫婦の長男に次ぐ長男子、3-同夫婦の長女子(婿が家督相続者となる)、4-同夫婦内の家連続者の弟、5-同じく妹(婿が家督相続者となる)、6-家外に求めた養子 
 
 この出雲地方の事例はたぶん農村における庶民的な家の標準的な在り方を示しているとみなしてよいだろう。つまり第一の規則は父系継承、第二の規則は双系的継承、第三の規則は事実上非血縁継承。もっとも家格の上の家ほど血筋の中切れを嫌う。中切れによって家格の下降をもたらす要因と認識されているという(清水昭俊「〈家〉の内的構造と村落共同体」『民族学研究』35巻3号 1970 212頁註27)。
  
 清水昭俊は日本の「家」制度を準父系とする。父系出自が原則だが、非血縁の異姓の男子にも家を継がすの是とするためである。日本の「家」の非血縁継承ないし女系継承の歴史をふりかえっておこう。

 日本の場合、既に平安時代から姓は血族概念ではない。我が国は大化元年の「男女の法」が「良民の男女に生まれた子は父に配ける」と定め父系規則であり。律令国家の族姓秩序は父系相承規則である(なお「氏」というのは厳密にいうと「氏族」という広義の概念のなかでも天武八姓の忌寸以上のカバネを有し、五位以上の官人を出す資格と、氏女を貢上する資格を有する範囲をいうのであって、臣・連・造等の卑姓氏族を含まない)。
 しかしながら、宇根俊範(律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』)147 1980)によると九世紀以降の改賜姓の在り方、十世紀以降、天皇の改賜姓権能が有名無実化していくと、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために「氏族」が父系出自のリネージとは言い難いケースが少なくないのである。宇根は改賜姓の具体的事例を列挙しているが、ここでは局務家についてのみ引用する。院政期以後になると史官や外記局などの実務官人は「官職請負」的な、ほぼ特定の氏によって担われることになるが、局務(太政官外記局を統括する大外記)中原朝臣・清原真人がそうである。

 宇根俊範によると「局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる清原真人と直接系譜的につながるものではなく、その前身は海宿祢で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿祢広澄が清原真人姓に改姓したものである。」「中原朝臣も、その前身は大和国十市郡に本貫ををもつ十市氏であり、天慶年間に少外記有象が宿祢姓を賜与され、更に天禄二年(971)にウジ名を中原に改め、天延二年(974)に至って中原朝臣となったものである。これも推測を加えるならば『三代実録』にみえる助教中原朝臣月雄らの系譜にむすびつけたものかも知れない。」(宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99)とされている。
 局務家清原真人と、舎人親王裔の皇別氏族(王氏)で崇文の治の大立者右大臣清原真人夏野や、夏野とは別系だが、やはり舎人親王裔である清少納言の父清原元輔の清原氏とは系譜で繋がらないということである。同姓氏であるが同一の祖先でないから父系出自集団のリネージとみなすわけにはいかない。これと同様の例は少なくないのであるから、九世紀以後の氏族の性格は曖昧なものであった。

 関連して実務官人では11世紀には諸道博士の家で非血縁養子が指摘されている。曽根良成によると史や外記などの実務官人の姓は、11世紀中葉を境とした時期に三善・中原・清原などの姓が、増加する。これらは、それらの一族が血縁者を飛躍的に拡大させた結果ではなく官司請負制のもとで請負の主体となった博士家の姓を名のった官人が増加したための現象だった。その実態は11世紀中葉までと同じく地方豪族出身の有能な官人だった。‥‥これは養子形式の門弟になることによって居姓の改姓を制限した延喜五年宣旨の空文化を図るものだった。〔違法であるが〕政府は暗黙のうちにこれを認めることにより、官司請負に必要な有能な実務官人を安定的に地方から補給できた」(曽根良成「官司請負下の実務官人と家業の継承」『古代文化』37-12、1985)とする。博士家の門弟の改姓が非血縁継承のたぶん初期の事例とみてよいだろう。
 
 
 明石一紀(明石一紀「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下)によると鎌倉幕府法は男子がいない場合、嫡子として兄弟の子をはじめ「一族並二傍輩」の男子を養子とするのが一般的であった。原則は同姓養子であるが、他人養子といって非血縁の傍輩を養子とする(異姓養子)や女人養子といって女性が養子を取って継がせることは禁止していなかった。のみならず、平安末期から女系の妹の子(甥)や女子の子(外孫)を跡取り養子とする方法が多くとられるようになったという。明石が列挙されている事例は中原広季は外孫藤原親能を、大友経家は外孫藤原能直を、宇都宮朝定は外孫三浦朝行を、得川頼有は外孫岩松政経を、大屋秀忠は外孫和田秀宗をそれぞれ養子とし跡を継がしめている。これを明石一紀は婿養子への過渡的な養子制とみなしている。
 中央の貴族社会で限嗣単独相続となったのは、室町時代以後だから、限嗣単独相続の日本的家制度の成立は室町から戦国時代以後となるが、非血縁継承や女系継承のある原型は院政期以前に遡ると私は考える。
 また、婚入配偶者たる嫁が亡者の遺跡を相続し、家連続者となり新たに婿を迎えて血筋が中切れでも家産が継承される事例の原型と思える歴史的事例として、室町幕府管領家畠山氏である。もとは桓武平氏、秩父氏の一族で武蔵国男衾郡畠山荘の荘司となって畠山氏を称し、畠山重忠は源頼朝の有力御家人となり、戦功多く鎌倉武士の鑑と称揚されたが、元久二年(1205)六月畠山重忠の子息重保が、北条時政の後妻牧の方の女婿で時政が将軍に擁立しようとした平賀朝雅(信濃源氏)と争ったため、北条時政夫妻に叛意を疑われ武蔵二俣川で追討軍に滅ぼされた後、後家(北条時政女)に遺跡を継がせて、足利義兼の長子義純を婿として子孫に畠山を名乗らせている。
 明石一紀(前掲書)は、秩父一門の平姓系図の畠山氏と、足利一門・管領家の源姓系図の畠山氏は全く別の存在で、義純は重忠を先祖とは認めていないので源氏畠山家を新しく興したという解釈を示している。それはそうだろうが、名字(家名といってもよい)と家産を継承しているのである。私は畠山氏は平姓から源姓に血筋が切り替わったという見方をとってさしつかえないと思う。
 要するに平姓畠山氏は婚入配偶者で後家の北条時政女が足利義純を娶ったため、平姓から源姓に切り替わる非血縁継承となったのである。これは先に述べた清水昭俊のいう婚入配偶者たる嫁が家外から配偶者を迎えて家を継承する非血縁継承の原型となる重要な先例として特に記した。
 

 しかしながら、明治初年までフォーマル養子制度の観念として父系血縁者たる同姓(同宗)の男子を収養して継嗣とすべきだという中国伝来の「異姓不養」の観念も一貫して存在した事も歴史的事実と考えられるので次回その経緯に言及する。

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