夫婦別氏(夫婦別姓)を要求しているのは、もともと日弁連や女性団体といった一部のノイジーマイノリティであって社会の擬集力である基礎にある健全な道徳・家族倫理を崩壊させる懸念がある。
一 滝沢聿代説が妥当な見解である
滝沢聿代法政大学大学院教授の次に引用する憲法判断については妥当であると考える。(滝沢 聿代 「 夫婦別氏の理論的根拠--ドイツ法から学ぶ」『判例タイムズ』 42(10) [1991.04.15] )
すなわち家庭は、相互に扶助協力義務を有する夫婦(民法752条)を中心として、未成年の子の監護養育(民法820条、877条1項)や、他の直系血族の第一次的扶養(民法877条1項)等が期待される親族共同生活の場として、法律上保護されるべき重要な社会的基礎を構成するものである。
このような親族共同生活の中心となる夫婦が、同じ氏を称することは、主観的には夫婦の一体感を高めるのに役立ち、客観的には利害関係を有する第三者に対し夫婦であることを容易にするものといえる。
したがって、国民感情または国民感情及び社会的慣習を根拠として制定されたといわれる民法750条は、現在においても合理性を有するものであり、何ら憲法13条、24条1項に反するものではない」
二 梅謙次郎の妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致しているとの明治民法の立法趣旨は正しい
明治民法起草者穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三者のうちもっとも強く夫婦同氏を推進したのが梅謙次郎である。梅は儒教道徳より愛情に支えられた夫婦・親子関係を親族法の基本とし、士族慣行より、庶民の家族慣行を重視した点で開明的だったと考える。つまり進歩的な民法学者が夫婦同氏を強く推進したのであって、その趣旨は今日においても全く妥当である。要約すればそれは
◎夫婦同氏は婚入配偶者が婚家に帰属する日本の「家」、家族慣行に慣習に合致する。(明治民法施行前から実態として夫婦同氏だった)
◎ドイツ、オーストリア、スイス、イタリア等の法制が夫婦同姓でありそれに倣う。欧米の単婚家族におけるファミリーネームの継受。
これは夫婦同氏(姓)が日本の家族慣行に合致するとともに、欧米の家族慣行にも合致しているものと評価できるのである。日本の伝統的な家族観も生かし、欧米の友愛結婚の理念にも合致する。
梅は法典調査会で、漢土法に倣って夫婦別氏とすべきという一部の意見に強く反対し、日本の慣習では妻が夫の家に入ることが慣習である以上、実家の苗字を唱えることは理屈にあわないとはっきり言っている。
「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信しシラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ‥‥」『人事慣例全集』58頁
実際、日本において出嫁女は主婦予定者あるいは婚家に迎えられてその成員となり、死後は婚家の仏となるのが慣習なのである。それは今日でも全く同じなのだ。
実はシナにおいても妻は夫の宗に帰属し、清朝の姓名記載慣習は夫婦別姓ではない。漢土法については誤解があると思われる。我が国においても夫婦別氏(姓)は旧慣習ではなく夫婦同氏(姓)が妥当なものである。
婚入配偶者の婚家帰属は揺るがせにできない根本的社会規範・倫理であるので、この立法趣旨は堅持されるべき
ところが法制史家は、夫の家に入ることを象徴するための氏という明治民法立法趣旨に批判的な人が多い。夫婦同氏制度を妻が夫の家に入って共同生活に入ると同時に夫の戸主権に服するとみなすのである。
しかし、ナポレオン法典231条「夫は妻を保護し、妻は夫に服従する義務を負う」とある。ナポレオン法典には、父権、夫権、親族会議の力を示すものが多い。父権、夫権は近代市民社会において全く正当な価値である。
戦後の改正で戸主権に服するという法意は喪失したし、戦後、家長と長男の権威が喪失したとはいわれるが、、妻が夫の家に入るという、(婿は家長予定者といて、嫁は主婦予定者として婚家の成員となる)ということが慣習と合致しているとする立法趣旨が今日でも有効性を失ってない。婚入配偶者の婚家帰属が崩壊すれば、我が国の家族慣習は維持できなくなり醇風美俗がすたれる。
三 選択的夫婦別姓とは社会主義政策である
(一) 中国は元々夫婦別姓ではなかったが、宋家姉妹の例から一般に広まった
中国では孫文-宋慶齢、蒋介石-宋美齢、毛沢東-江青、劉少奇-王光美、習近平-彭麗媛というように夫婦別姓が伝統と思っている人が多いと思うが、この固定観念は間違いで清朝の姓名記載慣習は夫婦別姓ではないと島村修治(『外国人の姓名』ぎょうせい1971年24頁以下)が指摘している
もっとも伝統的な中国の宗族や朝鮮・韓国の門中においては、同姓不婚(娶)という族外婚制と異姓不養の原則があるけれども。外婚規則と、社会的標識としての姓名とは別の問題ということである。
島村によると清朝の姓名記載慣習は、女は結婚すれば夫と一心同体のものとして無姓無名の存在となり、一般の人々は〈何々家の奥さん〉、〈誰某の妻〉、〈誰某の嫁〉、〈誰某の母〉と呼びかたをしていた。
王竜妻張氏、あるいは 王張氏(王家に嫁入した張氏の娘との意味)というふうに書いたという。
中華民国の婚姻法(民法第1000条)でも夫婦は原則として同じ姓を称することになっていた。しかし実態としては1930年代以降、婚前の姓に字を添え、婚家の姓をかぶせ在り方が増加した。それは孫文-宋慶齢、蒋介石-宋美齢は原則に反するが、夫婦間の特約により婚前の旧姓を保持することも認められていたためだという。
従ってファーストレディーとしての宋家姉妹がこのモデルを普及させた要因とみられ、新しい慣行である。
中華人民共和国では1950年5月1日公布の新婚姻法では、男女は平等であり互に独立した人格者であるとして、姓名についても「夫婦それぞれ自分の姓名を使用する権利をもつ」と定め、いずれの姓を選ぶかは当事者の任意とした。
この法律のモデルはソ連である。
(二) 夫婦別姓はソ連の1924年の法令に由来する
島村氏によると(前掲書148頁以下)
ア 帝政時代、妻は当然のものとして夫の姓を称した。
イ 1919年の法典では、夫婦同一姓の原則により共通の姓を称するが、夫の姓か、双方の姓を連結した姓を称するかは、両当事者の自由とした。
ウ 1924年11月の法令で夫婦異姓の可能性が認められ、同一の姓を称する義務がなくなった。(1926年に連結姓と第3の姓の選択を否定)。
1926年に事実婚主義を採用し、1936年の登録婚制度法定まで事実婚の時代といわれている。夫婦別姓はスターリン時代の事実婚社会にふさわしかったのである。
以上のことから夫婦別氏ないし夫婦別姓というのはレーニンが死去した1924年のソ連の法令に由来する。それが1950年の共産中国の婚姻法に継受されたとみることができる。
日本的「家」制度の残滓とみなされる、夫婦同氏制を潰す政策を後押ししているのは共産主義イデオロギーを信奉している勢力と考えられるのである。つまりエンゲルスの唯物論的家族史論は、嫁入婚と家父長制家族の成立が私有財産制の淵源であると同時に「世界史的女性の敗北」と称しており、逆に嫁入婚と家父長制家族に打撃を加え、女権の拡大により、事実上社会主義革命の展望が開かれるという理屈になるからである。男女平等やジェンダー論は本質的に共産主義と親和的な思想なのである。
四 法制史学者の夫婦別姓旧慣習説は間違い
(一)明治民法前から夫婦同氏が事実上慣例だった。
2015/12/16のブログを一部補足し再掲する。
報ステの解説者、中島岳志北大准教授は勉強不足だ「北条政子」は昭和以降広まった人名表記にすぎない
テレ朝の「報道ステーション」で最高裁大法廷のニュースを見た。明治9年の太政官指令に言及していたが、私の太政官指令批判は、13日のブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/7501075010-6deb.html とその前のブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/750-0941.htmlに書いたとおりだが、
明治9年太政官指令「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は社会生活の実態とまったく乖離しており、事実上実効性がなかったとされている。それは夫婦の別氏を称することの不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。代表的な伺文を以下のとおりである。内務省や左院は夫婦同氏案だったが太政官法制局が夫婦別氏にこだわったのは、「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」という見解だった。むろん律令国家において改賜姓は天皇大権であって、昭憲皇太后の一条家は藤原氏であって、婚姻によって王氏なるものではない。しかし明治維新により源平藤橘等の古代的姓氏は使ってはいけないことになって、近世の二元的姓氏(例えば土浦藩主土屋氏は源氏)が苗字(名字)に一元化されたのである。この点を考慮すれば、太政官指令の実効性がなかったことは理解できるだろう。
(廣瀬隆司「明治民法施行前における妻の法的地位」『愛知学院大学論叢法学研究』28巻1・2号 1985.03参照)
明治22年12月27日宮城県伺
「婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」
明治23年5月2日東京府伺
「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」
折井美耶子2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636によれば、夫婦同氏は西欧式を意識していた側面もうかがえられる。明治24年8月創刊の『女鑑』(教育勅語の精神を女性に徹底する国粋主義的婦人雑誌)では「土方子爵夫人亀子」「高島子爵夫人 春子」「土岐夫人 理世子」などとなっており、田辺龍子が明治21年に発表した小説『藪の鶯』では「レディ篠崎」「ミスセス宮崎」と呼びかけている。
明治初期に女性の新しい生き方を模索して格闘した女性たち、岸田俊子は明治18年に結婚して中島俊子に、景山英子は明治18年に結婚し福田英子に、星良は明治30年に結婚して相馬良となっている。進歩的な女性たちを含め夫婦同姓だったのである。
この点につき折井は「○○夫人と呼ばれることで夫と一体化するように感じて、旧時代にはない新しい家族像を実感していたのではなかろうか」と述べ、明治9年太政官指令にもかかわらず現実には夫方の姓を名乗る妻が多く存在し、生家の姓氏を名乗る場合は、儒教的道徳に従う古い慣習と考えられていたとする。
以上、妻は所生の氏とした明治9年太政官指令は、慣習、実態に反しており、論理性に乏しかったと断言してよいのであって、この点、明治民法で夫婦同氏(姓)制を採用した梅謙次郎は民間の家族慣行、実態を良く知っており、婚入配偶者の婚家帰属に即した夫婦同氏を採用したのは全く正解だったといわなければならない。
なお、報道ステーションのコメンテーターの中島岳志北大法学部准教授が、夫婦別姓を立法施策として支持する理由で旧慣習であると主張していたが、旧慣習説がまちがいだということは、上記ブログに書いたとおりである。
一例として源頼朝と北条政子をあげていたが、高橋秀樹という中世史学者の『中世の家と性』山川出版社日本史リブレット2004年http://www.yamakawa.co.jp/product/detail/731で「北条政子」という人名表記はここ数十年で広まり、特に1960年以降一般化したのであって、大正より古い学者が「北条政子」と表記したケースは一例もなく、同時代人は尼御台所、二位尼などと称した。しかも「政子」という実名は、夫頼朝、父時政の没後の叙位に際しての命名なので、頼朝も時政も「政子」という名は知らないということを書いていて、もっとも位記は「平政子」だろうが、「北条政子」は同時代人どころか大正ころまで使われたことがないので、夫婦別姓の根拠としてはダメ出しせざるをえない。
法制史学者の夫婦別姓旧慣習説を批判する論者として後藤みち子説と、柴桂子説を引用しておく。
(二)戦国時代の公家は夫婦同苗字
公家の正妻の呼称について、後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館2009と言う業績がある。
戦国時代に公家の妻たちは夫の名字を名乗り、同じ墓地に葬られるようになったと言う。限嗣(嫡子)単独相続という日本的家制度が確立したのが室町・戦国時代である。この時期に家妻が、家政・家職の経営の役割を分担することが明確になった時期でもある。
後藤みち子によれば、摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。
清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。近衛尚通の『後法成寺関白記』によると久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。
一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。『実隆公記』では中御門宣秀正妻を「中御門西向」と称し、『親長公記』では中御門宣秀の父である中御門宣胤の正妻を「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。
三条西家の家妻の役割が検討されているが、使用人の給分の分配(使用人の給料を決定する)、食料の手配・管理、追善仏事の運営、連歌会、和歌会の設営があげられている。これは近現代に庶民の家の主婦の役割に通じるものがあるといえるだろう。このように公家社会において嫡子単独相続確立期に、家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して称された。
後藤みち子によれば、女叙位の位記は所生の氏であるから夫婦別氏、夫婦同苗字と述べているが、天皇の賜与ないし認定による源平藤橘等の古代的姓氏は婚姻などで変更されるものではもちめろんないが叙位の位記は社会的呼称にはならないのである。とくに貴人は実名を呼称することは憚れることである。
婚家の名字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから実質的には夫婦同氏の感覚に近いものと認識できる。夫婦同苗字は公家起源であるかもしれない。
(二)近世女性史研究者は夫婦別姓旧慣習説を否定
次に徳川時代のありかただが、近世女性史研究者の柴桂子氏が、夫婦別姓旧慣習説には史料的裏付けがないとして厳しく批判していることが特筆できる。 夫婦別姓推進論者の依拠する旧慣習説は明確に否定してよいと思う。引用は柴桂子「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003年]柴桂子「近世の夫婦別姓への疑問」〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント『総合女性史研究』(21) [2004.3]
以下引用もしくは要約した引用である。
法制史研究者によって「江戸時代の妻の氏は夫婦別氏だった」と流布されているが、夫婦異姓の根拠とされる史料はごくわずかに過ぎない、女性の立場や実態把握に疑問がある。
法制史研究者は別姓の根拠を、主として武士階級の系図や妻や妾の出自の氏に置いている。ここに疑問がある。妾や側室は雇人であり妻の範疇には入らない。給金を貰い借り腹の役目を終わると解雇され配下の者に下賜されることもある。
より身分の高い家の養女として嫁ぐことの多い近世の女性の場合には、系図などには養家の氏が書かれ「出自重視説」も意味をなくしてしまう。
別姓説の中に「氏の父子継承原理」が語られるが、女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。
また、宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かった。
実態として近世の既婚女性はどう呼ばれどう名乗っていたのか
◎他称の場合
○出版物 『近世名所歌集』嘉永四年(1851)、『平安人物誌』文政五年(1822)
姓はなく名前のみで○○妻、○○母と婚家の身分が記されている。『江戸現在広益人名録』天保一三年(1842)も同様だが、夫と異なる姓で記載されている場合もわずかある。
○人別書上帳・宗門人別帳
庶民の場合は姓も出自もなく、筆頭者との続柄・年齢が記される。
○著書・歌集・写本などの序文や奥付
武士階級でも姓も出自もなく、院号や名のみの場合が多い。
○犯科帳、離縁状、訴状、女手形
姓はなく名のみが記され○○妻、○○後家とと書かれ、名前さえ記されないものもある。
○門人帳
別姓の例としてよく取りあげられる「平田先生門人姓名録」であるが、幕末の勤王家として名高い松尾多勢子は「信濃国伊那郡伴野村松尾左次右衛門妻 竹村多勢子 五十一歳」と登録されている。しかし、この門人帳には29名の女性の名があるが、既婚者で生家姓で登録されているのは多勢子を含め5名で、婚家の名で登録されているのは10名、名だけで登録されているのが3名である。他は○○娘とあり未婚者と考えられる。
他に心学門人帳などあるが、姓はなく名のみが記され、○○妻、○○娘と細字で傍書されている。
○墳墓、一般的には正面に戒名、側面に生家と婚家の姓が刻まれている。
◎自称・自署の場合
○著書 多くは姓はなく名のみを自署している。
○書画・短冊 雅号のみの場合が多い
○書簡 これも名前のみサインである。
○『古今墨跡鑑定便覧』本人の署名を集めたもので、姓はなく名前のみサインである。
例外的にフルネームの署名もあるが書画や文人の書簡であって夫婦別姓とはいいがたい。
以上の柴桂子氏の指摘から江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称したり、呼称、指称、自称、自署はしているわけではないと断言してさしつかえないだろう。夫婦別姓は旧慣習とはいえない。竹村多勢子のような例外的事例をもって夫婦別姓というのは過当な一般化だろう。
墓碑名については、明治民法施行前において、例えば明治五年、神道布教の中央機関として設置された大教院が神葬の儀礼を編纂せる近衛忠房・千家尊福『葬祭略式』を刊行し、そのなかで、「妻には姓名妻某氏霊位と記す」となし、妻の生家の氏を刻むよう奨導した例がある(江守五夫『家族の歴史人類学-東アジアと日本-』弘文堂1990 53)があるが、そもそも教派神道を別として、神道式の葬式は今日普及しておらず、墓碑名に生家姓を刻むとしても、それは妻の由緒、姻戚関係を明らかにする趣旨で、生きている人の実態において生家姓を冠称していたとする根拠にはならないと考える。
五 白無垢・色直しは出嫁女の婚家帰属をあらわす
白無垢・色直しは現代の婚礼・披露宴においても、和装花嫁衣装の定番であるから日本人なら誰でも知っている。
嫁入は、古くは嫁取(よめどり)と言い、嫁入婚の成立儀礼を「嫁娶」とよんでいるように、儀礼の基本は、嫁を夫家に迎い入れる「嫁迎え」にあった。(江守五夫『日本の婚姻』弘文堂1986 294頁)つまり、出嫁女の婚家帰属が嫁入婚であるが、端的に「白無垢・色直し」だけを切り取ってもその意味が込められていると言ってよいのである。
色直しは本来、嫁迎えから三日目に行われ、その後、嫁が舅姑、親族と対面披露されたが、明治以降では祝言の盃が済むとすぐに色直しの儀式を行うようになり、大きな披露宴では主要な儀式となった。
歴史人類学者の江守五夫によれば「白無垢が死装束であって、花嫁が生家を出るときにいったん死ぬとみなされ、また、婚家に入ってから、赤色の衣装に色直しすることが再生をあらわしているということは、日本各地の人々が語っている」とする。(江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993 51頁)。なお江守はマルキストだが、私はその人の政治的信条がどうであれ、学問的業績は業績として素直に認めるので、共産党系の学者も引用する。
また、徳島県立博物館によれば、 花嫁行列は日が沈んで提灯を携える。 花嫁の出立時には生家の門で藁火をたき、花嫁が使用していた茶碗を割った。「県内の花嫁行列に見られるこれらの習俗は、葬送の際、死者を送り出す所作と非常に類似しています。‥‥死者と同様にあつかうことで、花嫁に象徴的な死を与え、生まれ変わることを指し示したものだと考えられます‥‥角隠し、白無垢の花嫁衣装の特徴は、死者に着せる死装束、または、葬送に参列する人々の服装に類似します。死者の装束は一般に白色とされ、額には三角形の白布の宝冠が被せられます。‥‥かつては喪服が黒色でなく白色であったと言い伝えも耳にします」(徳島県立博物館企画展図録『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』徳島県立博物館編2001) 色直しについて「婚礼には披露宴の際、花嫁が白無垢から色打掛などに着替える色直しと言う習俗が見られます。色直しには、白無垢によって死の状態にあるとされる花嫁が、色のついた衣装に着替えることによって、 あらたに嫁いだ家の人間として生まれ変わったことを示す」と説明している。
また小笠原流の伝書においても「嫁入りは惣別死にたるもののまねをするなり。さて輿もしとみよりよせ白物を着せて出すなり。さて輿出て候えば門火など焼くこと肝要なり。ことごとく皆かえらぬ事を本とつかまつり候」(小笠原敬承斎「結婚にまつわるしきたり その起源と意味」『歴史読本』2010.10. 55巻 10号 通巻856)とあり、白無垢=死装束の模倣との見解を裏打ちしている。
しかし伊勢流有職故実研究家伊勢貞丈の見解では、白無垢の白色は五色の大本であるためとし死装束であるとはいってない。ただ通俗的によくいわれるのは「白無垢」は婚家の家風にしたがい何色にでも染まりますとの意味を込めたものとされているから、実質的な意味に大きな差はないと考える。
これについては反論もありうる。新郎も色直しするからである。しかし本来の意味がどうであれ、国民に広く流布されているのが上記の解釈であるから、白無垢-色直しは出嫁女の婚家帰属性を表徴するものと理解して問題ないと考える。
和装でなく教会挙式だという人も少なくないだろうが、ヴァージンロードはゲルマン法の嫁の引き渡しであって、父から夫へムント権(保護権・庇護権)を譲り渡す儀式を簡略化したものであるから、生家から婚家へ移ることを意味するものといってよいのである。
夫婦別姓の導入は一般的嫁入婚を否定するのである。女は婚家の舅姑を真の父母と思い仕えるべきというような儒教的婦人道徳は根底から否定され、白無垢・色直しというよう日本の婚姻習俗、醇風美俗はジェンダー論のイデオロギーによって破壊されることになる。
そのような蛮行を私はとても容認できない。
最近のコメント