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カテゴリー「夫婦別姓等民法改正問題」の51件の記事

2015/12/20

12.16夫婦同氏制「合憲」最高裁判決の欺瞞作戦のような薄気味悪さ

に 12.16は非常に気が重かった。膵臓癌宣告を受けるような怖い日だった。マスコミの事前予想が出ておらず不透明だったからなおさらである、結果は癌宣告(違憲)にならず、一瞬ほっとしたものの、踏み込んだ憲法24条の判断枠組の提示されており、婚姻にかかわる法の国会の立法裁量について、実質的平等を考慮した「両性の本質的平等」に立脚したものでなければならないというふうに縛りをかけているので、カウンターパンチをくらったような判決内容だった。
 すでに今回の判決は将来の違憲判決の布石が打たれているという論評が出ている(関田 真也:東洋経済オンラインhttp://toyokeizai.net/articles/-/97572?page=4)欺瞞作戦が仕組まれているような薄気味の悪い判決である。
 つまり今後、夫婦別姓推進論者がゆさぶりをかけてくる可能性がある。
 たとえばドイツのように原則夫婦同氏としつつも、夫婦どちらの姓を選択するか合意にいたらなかったときは、別姓のまま法律婚とし、初生子誕生までに決定しないときは、籤引で子供の姓を決めるというかたちで、事実上別姓を認めるような法改正を迫るというやり方だが、我が国は戸籍制度であるため、このやり方はなじまないとはいえ、夫婦同氏制を攻撃する口実を与えているのである。
 
 八木秀次氏の夕刊フジ12.19(発行12.18)のコラムは「家族の価値を重視したおおむね妥当なもの」としている。同氏は90年代から夫婦別姓反対のオピニオンリーダーの一人であり、合憲判決にほっとしたものと思えるが、手放しで評価できる判決とは全くいえない。

 私は憲法24条の「両性の本質的平等」云々は、「家」制度廃止と、妻の無能力規定の廃止で達成されていることであり、今回の判決のような憲法24条の判断枠組みについて踏み込むべきではなかったと思う。もし自分が裁判官なら結論に同意するが多数意見に一部反対する強硬な意見を書くことになる。
 それはなぜかというと、社会人類学の大御所である清水昭俊[『家・身体・社会』1987 97頁]によれば婚姻家族とは「家内的生活が主として夫婦間の性的分業によって営まれる家」と定義していることである。裏返して言えば一口でいえばジェンダーフリーではもはや婚姻家族でないという人類学者の定義ということである。

 つまり家長-主婦という地位構成、夫唱婦随というような性的役割分担、性的分業がなければ婚姻家族とはいえないのである。結婚を花婿キリストと花嫁教会の結合を象徴とする秘蹟神学も、教会はキリストに従うのだから夫唱婦随と同じことである。新教の万人祭司も家長が家庭という小さな教会の主教とするものである。日本の婿養子は家長継承予定者として婚家に迎えられるので、婚姻家族は性的分業が基本であるから、憲法24条の「両性の本質的平等」をつきつめてしまうと、婚姻家族が崩壊するという矛盾を内包しているからである。
 一方、性的分業の否定による男女対等のパートナーシップというようなジェンダー論にもとづく男女共同参画等の政策が推進され、つまり婚姻家族を崩壊させる方向の政策が展開されている。 

 伝統的儒教の家族倫理、婦人道徳教育を喪失している我が国の現状では、婚姻家族の理念を支えているのは、民法の夫婦同氏制や戸籍という制度によるところが大きいため、選択的夫婦別姓は事実上婚姻家族の崩壊をまねくものといわなければならない。だから私は絶対反対なのである。

 12.18東京新聞(朝刊)によれば17日の自民党の法務部会で「女性の活躍社会の中で、女性裁判官が三人全員違憲としていることを考えるべきだ」との意見が出たという。丸山和也部会長は、記者団に「世論調査でも賛否は半々近くなっている。もう一度抜本的に議論すべきだという意見が出たので、十分議論していきたい」といったというが、右派ではない谷垣幹事長ですら、総裁時代に夫婦別姓に反対し法改正しないことを選挙公約にしていたことから、政策転換となれば投票してきた有権者への裏切りになるだろう。

 私は職場の労務管理改革について提言をまとめる予定で、地方公営企業と地方公共団体に関連する法律関係を研究していたが、夫婦別姓の問題が大きかったので一時中断した。これは再開することとする。しかし夫婦別姓について法改正の動きに懸念を抱いているため引き続き、最高裁判決の批判的検討を含め夫婦別姓反対論をまとめる作業を継続することとする。カウンターパンチをくらったが、癌宣告はなく延命したのでまだ頑張るということだ。

2015/12/17

それでも敗北感の強い判決

 憲法24条の解釈がリベラルで、「実質的平等」はやばいんじゃないのという感じがする。「アイデンティティーの喪失感などの不利益」を認めたりして、実際はかなり原告の言い分をきいているように思える。ドイツの憲法裁判所の判例と比較する必要がある。
 
 10人の合憲裁判官といっても、保守的補足意見を言う人が一人もいないのである。深刻に受け止めている。

合憲 寺田 (菅)  違憲 桜井(福田)
   千葉 (鳩山)    岡部(鳩山)
   大谷剛彦(菅)    山浦(野田)
   大橋 (野田)    鬼丸 (安倍) 
   小貫 (野田)    木内 (安倍)
   山本 (安倍)
   山崎 (安倍)
   池上 (安倍)
   大谷直人(安倍)
   小池 (安倍)

 

論旨は疑問だらけの夫婦同氏最高裁大法廷判決

 全般的にみて余計なことを書きすぎているような心証である。
 まず、憲法24条は国会の立法裁量を次のように制約するという。
「憲法24条が,本質的に様々な要素を検討して行われるべき立法作用に対してあえて立法上の要請,指針を明示していることからすると,その要請,指針は,単に,憲法上の権利として保障される人格権を不当に侵害するものでなく,かつ,両性の形式的な平等が保たれた内容の法律が制定されればそれで足りるというものではないのであって,憲法上直接保障された権利とまではいえない人格的利益をも尊重すべきこと,両性の実質的な平等が保たれるように図ること,婚姻制度の内容により婚姻をすることが事実上不当に制約されることのないように図ること等についても十分に配慮した法律の制定を求めるものであり,この点でも立法裁量に限定的な指針を与えるものといえる。」

 憲法上直接保障された権利とはいえない人格的利益も尊重しなければならず、形式的平等ではなく実質的平等が保たれるべきとしていることは、今後、ジェンダー論者やフェミニストの主張を通しやすい言質をあたえてようできわめて不快である。実質的平等というと結局社会主義国と同じ制度にいうことなのか。。

「婚姻前に築いた個人の信用,評価,名誉感情等を婚姻後も維持する利益等は,憲法上の権利として保障される人格権の一内容であるとまではいえないものの,後記のとおり,氏を含めた婚姻及び家族に関する法制度の在り方を検討するに当たって考慮すべき人格的利益であるとはいえる」

 憲法上の権利ではないというなら、それで終わりにすればよいのに、でも考慮しなければならないというのである。

 全体的にみて、最高裁は現行法を直ちにたたきつぶすようなドラスティックなことはしたくなかったようだが、選択的夫婦別姓についてもかなり好意的で、国会に立法を促すと受けとられかねない書き方になっており、かなり不快だ。

2015/12/16

報ステの解説者、中島岳志北大准教授は勉強不足だ「北条政子」は昭和以降広まった人名表記にすぎない

テレ朝の「報道ステーション」で最高裁大法廷のニュースを見た。明治9年の太政官指令に言及していたが、。私の太政官指令批判は、13日のブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/7501075010-6deb.html とその前のブログhttp://antilabor.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/750-0941.htmlに書いたとおりだが、
 明治9年太政官指令「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は社会生活の実態とまったく乖離しており、事実上実効性がなかったと考えられる。それは夫婦の別氏を称することの不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。代表的な伺文を以下のとおりである。
(廣瀬隆司「明治民法施行前における妻の法的地位」『愛知学院大学論叢法学研究』28巻1・2号 1985.03参照)
 
 明治22年12月27日宮城県伺

 「婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」

 明治23年5月2日東京府伺

 「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」

  さらにコメンテーターの中島岳志北大法学部准教授が、夫婦別姓を立法施策として支持する理由で旧慣習であると主張していたが、旧慣習説がまちがいだということは、上記ブログに書いたとおりである。
 一例として源頼朝と北条政子をあげていたが、高橋秀樹という中世史学者の『中世の家と性』山川出版社日本史リブレット2004年http://www.yamakawa.co.jp/product/detail/731で「北条政子」という人名表記はここ数十年で広まり、特に1960年以降一般化したのであって、大正より古い学者が「北条政子」と表記したケースは一例もなく、同時代人は尼御台所、二位尼などと称した。しかも「政子」という実名は、夫頼朝、父時政の没後の叙位に際しての命名なので、頼朝も時政も「政子」という名は知らないということを書いていて、もっとも位記は「平政子」だろうが、「北条政子」は同時代人どころか戦前まで使われたことがないので、夫婦別姓の根拠としてはダメ出しせざるをえない。

 なおヤフー知恵袋「北条政子についてなんでもいいので教えてくだい」http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1491409294同時代人がどう指称していたか詳しく書かれてます。

最高裁の判断を前にしてカウンターレポート民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである (選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)その1(未完)

 もし違憲判断だったら気が狂うぞ。

川西正彦

  

目次

 

 Ⅰ 明治民法で夫婦同氏()制を採用した梅謙次郎の立法趣旨は正しい

 

 (Ⅰ)妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致しているとの立法趣旨は正しい

 

  

 

1 出嫁女の婚家帰属(婚家の成員である)の立証

 

 

 

() 清水昭俊説

 

  A 家成員の資格

 

  B〈家連続者〉と婚入配偶者

 

  C 排除予定者

 

  D 定形の地位構成団体としての「家」

 

  E 仏体系

 

  F 家成員獲得過程を規制する規則群

 

 ()いわゆる核家族も「家」である

 

 ()明治民法施行前に夫婦同氏が普及、慣例になっていた 

 

 ()白無垢・色直し

 

 2 夫婦斉体思想が東西文明の婚姻家族理念の根本であるゆえ、夫婦同氏がわれわれの文明にふさわしい

 

 () 東洋の夫婦斉体思想

 

 () 我が国における正妻制の確立と夫婦同氏慣行の一致

 

  A 一対一、差し向かいの夫婦像は中世後期以降

 

  B 正妻制が確立された戦国時代の公家では社会的呼称として夫婦同氏が定着した

 

 (Ⅱ)欧州の夫婦同氏法制(ファミリーネーム)の継受も妥当である

 

 1 明治民法のファミリーネームの継受と西洋の夫婦斉体思想

 

  2  憲法24条は教会法(古典カノン法)の理念を継受しており、夫婦同氏がその理念に一致

 

 (1) 憲法24条は西洋の合意主義婚姻理論を継受していると解釈できる

 

 2)憲法24条の夫婦の同等の権利も教会婚姻法やキリスト教的夫婦倫理の継受という側面がある

 

 Ⅱ 9698%が夫の氏を選択する慣行が性差別という主張は、我が国が準父系の出自形式の社会構造にあり、大化改新の男女の法以来の法制的根拠を有するものであるから、「我千古ノ国体」の否定であり、母系社会では私有財産制を発達させることができず、文明世界は原則どこでも父系出自形式の社会なのであるから文明の否定という結論にいきつくので容認できない。

 

1  9698%が夫の氏となる理由

 

 2 「国体」としての「家」

 (1) 出自形式からみた「家」は古代より存在する
 父系原則の起源と準父系へ変質への法制史
(A) 男女の法
(B) 律令相続法(戸令戸主条)父系出自原則の明確化
(C) 嫡子の制の進展 (父から子への地位の継承の慣例化)
(D)異姓養子による父系出自原則の変質
(E) 鎌倉幕府の養子制度

   選択的夫婦別姓とは社会主義政策である

 () 中国は元々夫婦別姓ではなかったが、宋家姉妹の例から一般に広まった

 

 () 夫婦別姓はソ連の1924年の法令に由来する

 

 () 司法部が立法府をさしおいて社会主義政策を促進するのは三権分立に反する

(Ⅳ) 夫婦同氏制違憲は、唯物論的家族史観の勝利を導く

 

 

 

(本文)

 

 

Ⅰ 明治民法で夫婦同氏()制を採用した梅謙次郎の立法趣旨は正しい

 

 

明治民法起草者穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三者のうちもっとも強く夫婦同氏を推進したのが梅謙次郎である。梅は儒教道徳より愛情に支えられた夫婦・親子関係を親族法の基本とし、士族慣行より、庶民の家族慣行を重視した点で開明的だった考える。つまり進歩的な民法学者が夫婦同氏を強く推進したのであって、その趣旨は今日においても全く妥当である。要約すればそれは

 

◎夫婦同氏は婚入配偶者が婚家に帰属する日本の「家」、家族慣行に慣習に合致する。(明治民法施行前から実態として夫婦同氏だった)

 

◎ドイツ、オーストリア、スイス、イタリア等の法制が夫婦同姓でありそれに倣う。欧米の単婚家族におけるファミリーネームの継受。

 

これは夫婦同氏()が日本の家族慣行に合致するとともに、欧米の家族慣行にも合致しているものと評価できるのである。日本の伝統的な家族観も生かし、欧米の友愛結婚の理念にも合致する。

 

 

(Ⅰ)妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致しているとの立法趣旨は正しい

 

梅は法典調査会で、漢土法に倣って夫婦別氏とすべきという一部の意見に強く反対し、日本の慣習では妻が夫の家に入ることが慣習である以上、実家の苗字を唱えることは理屈にあわないとはっきり言っている。

 

「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信しシラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ‥‥」『人事慣例全集』58[江守1990 57]

 

実際、日本において出嫁女は主婦予定者あるいは主婦として婚家に迎えられてその成員となり、死後は婚家の仏となるのが慣習なのである。それは今日でも全く同じなのだ。

 

実はシナにおいても妻は夫の宗に帰属し、後述するように清朝の姓名記載慣習は夫婦別姓ではない。漢土法については誤解があると思われる。第Ⅵ章で明らかにするが我が国においても夫婦別氏(姓)は旧慣習ではなく夫婦同氏(姓)が妥当なものである。

 

婚入配偶者の婚家帰属は揺るがせにできない根本的社会規範・倫理であるので、この立法趣旨は堅持されるべきで、これが民法750条を合憲としなければならない第一の理由である。

 

ところが法制史家は、夫の家に入ることを象徴するための氏という明治民法立法趣旨に批判的な人が多い。夫婦同氏制度を妻が夫の家に入って共同生活に入ると同時に夫の戸主権に服する「家」制度の残滓[熊谷開作1987 208頁]とみなすのである。

 

しかし、ナポレオン法典231条「夫は妻を保護し、妻は夫に服従する義務を負う」とある。ナポレオン法典には、父権、夫権、親族会議の力を示すものが多い。父権、夫権は近代市民社会において全く正当な価値である。

 

戦後の改正で戸主権に服するという法意は喪失したとはいえ、実質、妻が夫の家に入るという、(出嫁女は婚家の成員となる)ということが慣習と合致しているとする立法趣旨が今日でも有効性を失ってないというのが私の主張である。

しかし夫婦別姓推進論者の法制史家井戸田博史は、現行法では、氏に親権・扶養・相続の権利や義務を結び付けておらず、家名を表象しないという。また戦後民法改正により「家」が廃止されたのであるから、氏から「家」が払しょくされ、家名の性質はなくなった。氏は個人の同一性を表す「個人の呼称」となったとする[井戸田1986]。

しかしこの見解は、実定法の構造を述べたにすぎず、実態とかけ離れている。氏(苗字)を冠称することが「家名」を示すものではないというのが国民の一般的意識とはとても思えない。そして私はジェンダー論のように、家制度や家督、戸主、家長、主婦という地位構成に拒絶反応を示す論者に強く反対である。それでは全く国民の社会的営為の実態を無視したものになるからである。

戦後民法の改正により確かに明治民法の「家」制度・嫡子単独相続は崩壊した。公家や武士についていえば嫡子単独相続に移行したのはおよそ13世紀末から14世紀であるから、600700年の伝統の瓦解を意味する。男性は戸主権を喪失し弱くなり、長男は分割相続により威信を失ったというのは社会的事実である。しかしながら社会構造、慣行として日本的「家」、単性家族は明らかに存在している。

社会人類学の大御所といえる清水昭俊国立民族学博物館名誉教授の出雲地方の1967年の調査によれば、相続の際、象徴物が伝達されることを「家督相続」と言っている。これは家内統制権というよりも、物象化された家長位の地位の継承のことである[清水1970 210]。今日でも家長位は慣行として存在する。

村落社会での「家」は①家内的生活(domestic life食・住・養育等)、②宗教(祖先祭祀)③政治(村落共同体の政治)④経済(家計と農業生産労働)という幅広い生活を共同で営む[清水1987 205頁]。

戸主権は喪失したといっても、家長にはその「家」の指し示す家格と、それを裏付ける経済力、家格に応じて村落社会から家に課せられる、社会的義務と期待、これを維持、発展させる役割があり、家業その他の社会的営為の統括者としての役割がある[清水1970 208頁]。水利組合の下部組織「島」「組」、市や農協の事務を行う「区」といった村落共同体の組織に対する家の代表者でもある。

したがって、民間の慣習として家長という地位が否定されなければならない理由などもちろん全くないのである。

日本の社会学では、欧米の婚姻家族との対比において日本の「家」の独自性、特殊性を強調し、封建的、前近代的なものとして否定的する傾向が強いが、レヴィ=ストロースの「家社会」の研究により、日本の「家」に類似するような社会制度は世界各地に存在していることがわかってきた。レヴィ=ストロースは次のように「家」を定義する。「物質的および非物質的財から構成される財産を保有する法人であり、この法人は現実の系あるいは想像上の系にそって、名前、財産、称号を伝えることを通して永続する。この連続性は親族関係または姻族関係の言葉において、たいていはその双方の言葉において表現されている限り正当なものとみなされる」。また家は成員権が出自規則によって明確に定められているクラン、リニィジより家はある程度融通性があると説明されている[小池誠2005]。

従って、「家」を否定的に評価する理由などない。

重要なことは日本の家とは、離接単位で、同時に複数の家に帰属する事はあり得ない。家長と主婦という地位が永続していくリネジ団体であり、主婦予定者として嫁が、家長予定者として婿が迎えられといるという構造である。この構造から夫婦同氏は当然のものとして理解できるのである。

 

1 出嫁女の婚家帰属(婚家の成員であること)の立証

 

 

(1)清水昭俊説

 

 論旨を明快にするため人類学者では厳密な定義で定評のある清水説を中心に取り上げる。

 

 清水は日本の「家」を次のように定義する。

 

「家は家族というよりもむしろ出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的である」[清水1980b 清水1987 219]。清水は1967年の出雲地方斐伊川下流の村落の調査にもとづき精緻な理論で「家」成員交替過程を明らかにした。

 

結論を先に述べると、清水は日本の「家」の構造を理論化し、家長-主婦という地位は必須の構成であること。家長と主婦は必ず夫婦であること。次代の家長と主婦を確保することで永続が保障されること。嫁は主婦予定者として、婿は家長予定者として婚家の成員であること。婚入配偶者は、死後も婚家の世代仏となるので、その婚家帰属性は論理的に明らかである。

 

A 家成員の資格

 

家成員は実子、養子、婚入者の3つの範疇と断言している。子供(実子・養子)と婚入者(嫁・婿)の2つの範疇と言い換えてもよい。[清水昭俊1973 62頁]

 

 つまり、家成員の獲得とは、出生、家外からの婚入、養取である。

なお、清水は妻妾制の廃止された明治から昭和の「家」について論じており、近世においては密子・猶子というカテゴリーも認められるが、ここでは論外としたい。

 

B〈家連続者〉と婚入配偶者

 

清水が独自に定義している用語で、家長-主婦の地位構成で婚姻に先立って家の成員であった者を〈家連続者〉と定義する。つまり跡取息子、家付き娘等の範疇である。〈家連続者〉の配偶者、家外から婚入して来る者を、男なら婿、女なら嫁という。婚姻は両性の個人の結合のみならず、家と個人の結合でもあり、この家を婚入者にとって婚家という。

 

従って、この結合の終息は離婚ではなく、家との結合の断絶でありこれを不縁という。

 かくして、家連続者夫婦→子供の出生=次代家連続者獲得→(次代)家連続者夫婦という循環的な過程が繰り返されるのである[清水1973]

 

C 排除予定者

 

〈家連続者〉だけが、生涯、家の成員であり、その余の子供たちは婚姻より前に生家から離れなければならないので、これを排除予定者と定義する。

 生家からの排除は、婚出、養出、分家設立の3つの形態のみである[清水1973]

 

D 定形の地位構成団体としての「家」

 

家成員は、おのおの与えられた地位に伴う役割を分担するものとして家生活に参与する。家は集団として不定形ではなく、限られた数の地位が一定の秩序に配列されている。つまり家は、時間的に配列された夫婦の対の地位(前・現・次代の家長・主婦-下記参照)と排除予定者以外の地位を用意していない。

 

前家長(おじっつぁんold man,grandfather)-前主婦(おばばold woman,grandmother)

 

家長(おっつぁんmale adult)-主婦(おばさんfamale adult

 

 家長予定者(わけぇしゅyoung fellow)-主婦予定者〈嫁〉(よめじょinMarrying young woman)

[清水1987 209]

 

E 仏体系

 

 人は死亡時に所属した家の仏になる。仏には世代仏と子仏の2種類がある。世代仏(セタイホトケ)とは、清水が出雲の調査で発見した概念だが、日本の「家」の標準的な仏体系とみなしてよいと思う。

これは、歴代の家長・主婦達であり、出雲では永久に年忌が営まれる(弔い上げはない)。生前結婚し、家長・主婦に予定されながら、家長・主婦になる前に死亡した者、男の家連続者(家長予定者)が、結婚年齢に達しながら未婚で死亡した場合を含む。ただし婿、嫁で不縁とされた者、中継ぎとして分家した夫婦、女の家連続者については夫が世代仏にならない限り、世代仏とはならない[。一系列に配列された歴代の世代仏は、生きている家成員と、家の創始者(先祖)を結びつける媒体である[清水1987 208頁]。

子仏とは生涯独身であった排除予定者、婚家で不縁とされて出戻り再婚しなかったケース等である。位牌とは区別されて箱位牌に収められ、父母兄弟など近い血族が家成員でなくなると忘れ去られていく。

清水が家を家族というよりは出自集団descent group[i]あるいはリネジ団体と定義したヒントが世代仏であったと考えられる。

例えば社会人類学者の蒲生正男は〈出自〉を、「社会的に承認された親子結合の世代的連鎖にもとづく、特定祖先への系統的帰属の方法」と規定し、〈出自集団〉の基本的特性は「単系性」と「自律性」にあり、出自の認知を明確に親子関係の連鎖としてたどれるものを〈系族lineage〉、単なる信念としてのみ出自の認知があるのを〈氏族clan,sib〉と説明している[蒲生1974]。

世代仏は見事に「世代的連鎖にもとづく特定祖先への系統的帰属」を表しているといえるだろう[ii]

 

F 家成員獲得過程を規制する規則群

 

 清水の学者としての能力の高さは、この精緻な規則群の提示によって明らかである。

 

(A)最下世代を基点とした家成員を基点とした家成員獲得過程を規制する規則群

 

指定される〈家連続者〉とは

 

) 下の世代が上の世代に優先する

 

)上記の枠内で男子が女子に優先する。

 

)上記の枠内で年長者が年少者に優先する。

 

 つまり第一に最下世代夫婦の長男子、第二に長女子、第三に最下世代夫婦のうち家連続者の弟、第四に最年長姉妹である。

 

 上記の可能性が不可能な場合は、家外から養子を求めるが、有力な家では血筋の中切れを嫌い分家から養子を求めるが、それは強制的な規則ではない。

 

 

(B)最下世代夫婦に事故が生じた場合の対処を規制する規則群

 

)次代家連続者長男が結婚後間もなく死亡した場合

 

 弟妹が家に残っていた場合、寡婦は生家に戻し、弟妹を家連続者に指定する。

 残っていたのが弟であり、死亡した兄と年齢差がなければ、寡婦と弟の結婚(レビレート婚)が指定される。

 弟妹も家に残って言いない場合は、婚入配偶者であった寡婦が、〈家連続者〉となり、あらたに婿を迎える。血筋としては〈中切れ〉になるがそれでも家は連続していく。

 

)息子を残して最下世代夫婦の夫が死亡した場合

 

 死者夫婦の息子を次の次の家連続者に指定したうえで、死者の弟ないし妹夫婦を〈中継ぎ〉として、息子が成人するまで家の運営を代理させる。息子の成人後、〈中継ぎ〉夫婦は分家を創設する[清水1987 211]

 

(C) 清水説(B)の補足 寡婦・寡夫の再婚による家の継承

 

 清水説はフィールドワークに基づいて家の連続は、婚入者〈寡婦・寡夫〉を介しても実現されているという規則を提示した。婚入者〈寡婦・寡夫〉は家連続者としてあらたに配偶者を迎えることにより家は連続する。

〈家連続者〉は「婚入配偶者を迎えて家成員を増殖させるために、家がその内部に用意する家成員」と定義されるため、婚入配偶者たる嫁・婿は家成員であることを見事なロジックで立証している。

 

この論点を補足すると、寡婦・寡夫の再婚による家や名跡の継承は歴史的モデルケースがある。

)畠山氏

畠山重忠未亡人北条時政女が岩松義純と再婚した例

畠山重忠は秩父平氏の嫡流、長寛二年(1164)に畠山館(現深谷市)に出生し、知勇兼備の武将として「坂東武士の鑑」とされた著名な人物であるが、元久二年(1205)北条時政後室牧の方の謀略により、嫡子重保が由比ガ浜で討たれ、重忠は二俣川で北条兄弟軍により討たれた。重忠の末子、弟による家門再興は許されず、平姓畠山氏は断絶、政子の命令で重忠の所領は没収されたが、承元四年(1210)重忠未亡人北条時政女の所領は改易されないこととなり、この未亡人は足利義兼の次男、岩松義純と再婚し、畠山泰国を出生しており、畠山の名跡は泰国の子孫が継承、足利一門として室町時代には管領となる[福島1990]

 

 )住友家

 婿養子が家外から後妻を迎え、その間の子孫が家業を継承した例

 住友社史によると、家祖は政友であり、京都で書籍と医薬品を商う「富士屋」を開き長男の政以が継いだが、長女の婿となったのが蘇我理右衛門の長男理兵衛(16021662)であり、住友に改姓し、住友友以(とももち)と名乗った。実家より銅吹き業を持込み、実質住友財閥を興した人といえる。大阪に移転し代々銅精錬業として「泉屋」の家号を用いた。このため住友社史では蘇我理右衛門を元祖あるいは業祖としているのである。

 友以は岩井善右衛門女を後妻としており、実質的な家業は婿養子の友以と岩井間の子孫が継いでいる。しかし友以の母が政友姉であるから、住友家の血筋は女を介して中切れにはなっていない。しかし八代目で血筋が絶え岡村家から養子を迎え、十五代目に徳大寺家の子孫を婿養子としている[官2005 266頁][iii]

 

 () いわゆる核家族も「家」である

 

 上記清水説AFによって主婦予定者として婚入する嫁、家長予定者として婚入する婿が婚家に帰属することは明らかであるが、次のような反論が考えられる。上記の理論は日本の農村の典型的な直系家族のことではないか、現代都市のいわゆる核家族の増大を考慮してないとの。

 しかし、いわゆる核家族も「家」であることに変わりない。清水昭俊は、清水盛光、川本彰、リーチを引いたうえで日本語の「家」と欧語のfamilyは近似したものとの認識を示している。

「家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団]と親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の最広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」[清水1987 56頁]としている。

 さらに清水[1987 96頁]は次のようにも云う「家‥‥は家族本位制のもとに、つまり〈いえ〉といった理念の下に共同意識で結ばれた家内的生活集団と定義され‥‥伝統的社会の家で営まれる家内的生活の内容は豊富で、多くの機能が累積している。つまり重責的共同体である。またこのように家を定義すれば、現代都市の核家族もまた〈マイホーム〉〈かぞく〉〈いえ・うち〉といった理念で結ばれた家だということができる」とする。

 家業の継承のない核家族といっても親族との連帯関係がないということは考えにくい。相続、盆暮の帰省、特定祖先への系統的帰属意識、何よりも民法自体直系血族の第一次的扶養(民法877条1項)等が期待される親族共同生活の場とされているので、親族構造と無関係な単なるドメティックグループであり得るはずがない。

 人類学者の蒲生正男は、単純に日本の伝統的家族を二類型に分け〈直系家族はunilateral familyと〈隠居制家族〉はconjugal unilateral family[iv]とする。共住を家族の要件としていないのは、レヴィ=ストロースに倣ったものだろう。世帯分離でも家族と規定できるのである。

 

 人類学者の定義に従えば、夫婦別姓推進論者に多いジェンダー論は婚姻家族を崩壊させる懸念が強い。つまり母系家族と対極をなすのが婚姻家族であって「これは家内的生活が

 主として夫婦間の性的分業によって営まれる家と定義され、核家族や核家族からなる拡大家族はこれに含まれる」[清水1987 97頁]とされている。婚姻家族において性的分業は当然であるからだ。

 

 

()明治民法施行前から夫婦同氏が普及し慣行となっていた

 

 明治九年三月十七日の太政官指令で、内務省の夫婦同氏案を覆し「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事、但、夫ノ家ヲ相続シタル上ハ夫家ノ氏ヲ称スヘキ事」としたのであるが、これが民間の家族慣行とかい離し、事実上実効性がなかったということは、夫婦別氏を称することの不便さや慣習に反するとの各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。代表的な伺文を引用する。

 

 明治22年12月27日宮城県伺

 「婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」

 明治23年5月2日東京府伺

 「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」[廣瀬1985

 折井[2003]が発掘した資料によると西欧式を意識していた側面もうかがえられる。明治24年8月創刊の『女鑑』(教育勅語の精神を女性に徹底する国粋主義的婦人雑誌)では「土方子爵夫人亀子」「高島子爵夫人 春子」「土岐夫人 理世子」などとなっており、田辺龍子が明治21年に発表した小説『藪の鶯』では「レディ篠崎」「ミスセス宮崎」と呼びかけている。

 明治初期に女性の新しい生き方を模索して格闘した女性たち、岸田俊子は明治18年に結婚して中島俊子に、景山英子は明治18年に結婚し福田英子に、星良は明治30年に結婚して相馬良となっている。進歩的な女性たちを含め夫婦同姓だったのである。

 この点につき折井は「○○夫人と呼ばれることで夫と一体化するように感じて、旧時代にはない新しい家族像を実感していたのではなかろうか」と述べ、明治9年太政官指令にもかかわらず現実には夫方の姓を名乗る妻が多く存在し、生家の姓氏を名乗る場合は、儒教的道徳に従う古い慣習と考えられていたとする。

以上、妻は所生の氏とした明治9年太政官指令は、慣習、実態に反しており、論理性に乏しかったと断言してよいのであって、この点、明治民法で夫婦同氏()制を採用した梅謙次郎は民間の家族慣行、実態を良く知っており、婚入配偶者の婚家帰属に即した夫婦同氏を採用したのは全く正解だったといわなければならない。

 

()白無垢・色直し

 

 

白無垢・色直しは現代の婚礼・披露宴においても、和装花嫁衣装の定番であるから日本人なら誰でも知っている。

嫁入は、古くは嫁取(よめどり)と言い、嫁入婚の成立儀礼を「嫁娶」とよんでいるように、儀礼の基本は、嫁を夫家に迎い入れる「嫁迎え」にあった。(江守五夫『日本の婚姻』弘文堂1986 294頁)つまり、出嫁女の婚家帰属が嫁入婚であるが、端的に「白無垢・色直し」だけを切り取ってもその意味が込められていると言ってよいのである。

色直しは本来、嫁迎えから三日目に行われ、その後、嫁が舅姑、親族と対面披露されたが、明治以降では祝言の盃が済むとすぐに色直しの儀式を行うようになり、大きな披露宴では主要な儀式となった。

歴史人類学者の江守五夫によれば「白無垢が死装束であって、花嫁が生家を出るときにいったん死ぬとみなされ、また、婚家に入ってから、赤色の衣装に色直しすることが再生をあらわしているということは、日本各地の人々が語っている」とする。(江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993 51)

また、徳島県立博物館によれば、 花嫁行列は日が沈んで提灯を携える。 花嫁の出立時には生家の門で藁火をたき、花嫁が使用していた茶碗を割った。「県内の花嫁行列に見られるこれらの習俗は、葬送の際、死者を送り出す所作と非常に類似しています。‥‥死者と同様にあつかうことで、花嫁に象徴的な死を与え、生まれ変わることを指し示したものだと考えられます‥‥角隠し、白無垢の花嫁衣装の特徴は、死者に着せる死装束、または、葬送に参列する人々の服装に類似します。死者の装束は一般に白色とされ、額には三角形の白布の宝冠が被せられます。‥‥かつては喪服が黒色でなく白色であったと言い伝えも耳にします」(徳島県立博物館企画展図録『門出のセレモニー -婚礼・葬送の習俗』徳島県立博物館編2001) 色直しについて「婚礼には披露宴の際、花嫁が白無垢から色打掛などに着替える色直しと言う習俗が見られます。色直しには、白無垢によって死の状態にあるとされる花嫁が、色のついた衣装に着替えることによって、 あらたに嫁いだ家の人間として生まれ変わったことを示す」と説明している。

また小笠原流の伝書においても「嫁入りは惣別死にたるもののまねをするなり。さて輿もしとみよりよせ白物を着せて出すなり。さて輿出て候えば門火など焼くこと肝要なり。ことごとく皆かえらぬ事を本とつかまつり候」(小笠原敬承斎「結婚にまつわるしきたり その起源と意味」『歴史読本』2010.10. 55 10 通巻856)とあり、白無垢=死装束の模倣との見解を裏打ちしている。

しかし伊勢流有職故実研究家伊勢貞丈の見解では、白無垢の白色は五色の大本であるためとし死装束であるとはいってない。ただ通俗的によくいわれるのは「白無垢」は婚家の家風にしたがい何色にでも染まりますとの意味を込めたものとされているから、実質的な意味に大きな差はないと考える。

 

これについては反論もありうる。新郎も色直しするからである。しかし本来の意味がどうであれ、国民に広く流布されているのが上記の解釈であるから、白無垢-色直しは出嫁女の婚家帰属性を表徴するものと理解して問題ないと考える。

うちは和装はやらない、教会挙式だという人も少なくないだろうが、ヴァージンロードはゲルマン法の嫁の引き渡しであって、父から夫へムント権(保護権・庇護権)を譲り渡す儀式を簡略化したものであるから、生家から婚家へ移ることを意味するものといってよいのである。

夫婦別姓の導入は一般的嫁入婚を否定するのである。女は婚家の舅姑を真の父母と思い仕えるべきというような儒教的婦人道徳は根底から否定され、白無垢・色直しというよう日本の婚姻習俗、醇風美俗はジェンダー論のイデオロギーによって破壊されることになる。

そのような蛮行を私はとても容認できない。

 

 

2 夫婦斉体思想が東西文明の婚姻家族理念の根本であるゆえ、夫婦同氏がわれわれの文明にふさわしい

 

 夫婦別姓が家族共同体の一体感を損なうから反対だという主張はよくきかれる。しかし私は最も重要なのは夫婦斉体思想である。文明的婚姻家族の理念が夫婦は一体のものであるから同氏であるべきと考える。

 

()東洋の夫婦斉体思想

 

世界的に一夫一婦の単婚制の理念といえば、キリスト教がそうたが、実は中国の儒教倫理も一夫一婦(多妾制)であり、嫡妻の権利を重んじている点では洋の東西の文明規範は類似したものとなっているのである。

むろん江守五夫のように、我が国の基層文化には北方民族の流入により古代より嫁入婚があったという学説もあるが、正妻制の確立は、やはり令制以後の中国の儒教思想の影響によるところが大きいとみるべきだろう。

我が国の家族道徳の基本は孝子・順孫・義夫・節婦(総じて「孝義」)という儒教道徳である。律令国家の統治理念は儒教道徳による民衆教化なのである。それで日本は安定した社会の基盤を形成し、礼節をわきまえた国民性の基本になっている。

儒教は親孝行というように親子関係を重視していると考えがちだが、偕老同穴の思想にみられるように、夫婦の一体性も重視していることに注意したい。

そしてそれは、福沢諭吉が「古来偕老同穴は人倫の至重なるものとして既に已に其習慣を成し、社会全体の組織も之に由りて整頓したることなれば、今俄に変動せんとするも容易に行はる可きに非ず」『福翁百話』と言ったように、それは近代社会にも通じる夫婦倫理といえる。

令制では、儀制令春時祭田条の〈郷飲酒礼〉、戸令国守巡行条の〈五教教喩〉や、賦役令の孝子・順孫・義夫・節婦の表旌などによる家族道徳の形成により、村落社会の秩序を確立した。婦人道徳が民衆に浸透していったのは節婦の表旌に多くの記事がみられる9世紀と考えられる(賦役令では孝子・順孫・義夫・節婦の聞こえがある者を太政官に報告し、天皇へ奏聞を行い、その家の門前か所属する里の入口に孝状を掲げてその人物と同一戸の全ての公民に対する全ての課役を免除した)

節婦とは「願守其(夫)墳墓以終天年」「其守節而有義」「謂、夫亡後葬舅姑負土、営墓、慕思不止也」とされる。

(一例をあげると。三代実録、清和天皇、貞観七年三月廿八日巳酉条 近江国に言えらく、伊香郡の人石作部廣継女、生まれて年十五にして、初めて出でて嫁ぎ、卅七にして、夫を失ふ。常に墳墓を守り、哭きて声を断たず、専ら同穴を期ひて再び嫁ぐに心無し。其の意操を量るに節婦と謂ふべし』と。勅あり『宜しく二階を叙して戸内の租を免じ。即ち門閭に表すべし』)

つまり節婦には単に二夫に仕えずという貞操概念だけでなく、偕老同穴という夫婦の羈絆性を重視する価値観が含まれており、キリスト教の夫婦の伴侶性を重んじる価値観にも通じている。

(もっとも我が国の婦人道徳の形成において特徴的なのは節婦にみられる儒教的倫理と仏教が混淆して、貴人の女性の出家という習慣がはじめは貴族、後に武家に広まった。初例は9世紀の仁明女御藤原貞子と考えられる。)

もちろん、儒教の家族道徳はこれだけではない。七出の状も戸令に定められているし、舅姑にしたがうべきという道徳は公定イデオロギーだったし、これ徳川時代まで寺子屋の女子教育にいたるまで一貫したものである。むろん三従四徳も基本的なものである。また「修身・斉家・治国・平天下」という『大学』のことばが表すように、礼の基本として、社会の基本単位としての家族のあり方を繰り返しとくのが儒教である。それは我が国に継受された規範的な価値である。

しかし、出嫁女の婚家帰属性という観点では、近年の王権論の流行で注目された中国の夫婦斉体思想に着目する必要がある。

「妻は家事を伝え祭祀を承く」戸婚律二九条疏

「夫れ祭なるものは、必ず夫婦これを親らす」『禮記』祭統

 

夫婦単位の祖先祭祀という意味が含まれている。

基本的な文献として谷口やすよ[1978]であり、これは漢代の太后臨朝の根拠を明らかにしたものである。皇帝が帝嗣を定めずに崩御の場合、皇后が皇帝に代わる者として皇帝の王朝創始者の徳を帝嗣に継承させたとし、漢代の皇后の役割を高く評価した論文であり、多く引用されている。

儀禮』『禮記』によると、婚姻によって、嫡妻たる女は、夫と同一の身分になる。それは夫の宗廟社稷につかえるためであるとする。また『儀禮』喪服の伝には「夫妻一体」「夫妻ハン合」等の言葉がみえ、夫妻を夫の宗廟につかえる単位としている。『禮記』郊特性では、婚姻の礼を経た夫妻は、尊卑を同じくして秩序の根本の単位となるとされ、さらに同書祭統においては、夫妻は一体であるから、国君の嫡妻は、国君とともに国を有し、国君とともに宗廟社稷につかえるとするのである。

後漢時代には皇后珊立に際して、「皇后の尊、帝と體を齊しくす」『績漢書』禮儀志劉昭注引蔡質「立皇后儀」)という詔が発せられたように、皇后は皇帝と一体な存在とみなされていた[保科季子2002]。

法制史家では滋賀秀三が夫婦斉体思想を説明していた。「異なる「宗」出身の妻は、夫と共に夫が属す宗廟祭祀の主体となり、子孫から孝養を尽くされる者となる「婦女雖複非丁、拠礼与夫斉体」(名例律二七条)と、夫婦斉体=一体とみなされる。ただし、夫婦一体といっても「夫者婦之天也」(名例律六条)というように、あくまでも夫の人格に妻が包接されるという意味での一体であって、夫が生存する限りは妻の存在は夫の陰に隠れてみえない。ようやく寡婦になったときには夫の代位者として夫の有していた諸権利をもつことができるが、これは妻のうちに亡夫の人格が合体したことに帰属する‥‥。[梅村恵子2004]」

つまり中国の宗法では夫婦一体で祭り祭られる存在であり、これは日本でも世代仏として夫婦一対の位牌となることで基本的に我が国に継受された思想といえるし、まさに婚家帰属性を明らかにしている思想である。

夫婦別氏()を批判する立場では偕老同穴等の我が国が古来より夫婦倫理として継受され重んじられていたまさに夫婦斉体思想の崩壊をもたらすと観念されるからである。

()我が国における正妻制の確立と夫婦同氏慣行の一致

A  一対一、差し向かいの夫婦像は中世後期以降

夫婦斉体思想にもとづく正妻制はいつ確立したのだろうか。

我が国の律令法では、貴族層に対して妻=正妻を届け出ること、嫡子と庶子との区別を設けることを義務づけ、蔭位の制度も嫡子とを区別して適用される。制度上、正妻制ははじめからあった。

しかし九世紀中葉までは前代との慣習を引きずって正妻と妻との間に社会的地位の違いはみられず、子どもの出身の位階についても、正妻の子どもと他の妻の子どもと区別されることがなかった[梅村2007]。

貴族層において正妻制が一旦確立した時期として、梅村[2007]は関白基経の子供たちの時代つまり10世紀としている。

服部早苗[1991]によれば我が国の元服儀礼は、天皇とその周辺から政治的社会的地位の確立過程で出現し、それが日本的特色であった。

 転換期となったのが関白基経の嫡男時平と、その弟の仲平・忠平の元服叙爵である。16歳の時平は光孝天皇の仁和二年(886)正月二日仁寿殿において「天皇手ずから冠をとって」元服儀礼が行われると同時に正五位下に叙位がなされた。宸筆の位記には「名父の子、功臣の嫡」と叙位理由が記載され、このような天皇御自ら冠をとるという儀礼はこの三兄弟に限られた空前絶後の殊遇であり、基経の権力の絶頂を思わせるが、こののち元服儀礼は父の功績、政治的社会的地位の父子継承表明の性格が濃厚なものとなるのである。

重要なことは時平・忠平・仲平の母が人康親王女(仁明二世女王)であり、人康親王女が正妻として扱われており、父子の地位継承と正妻制がリンクしていて、異腹の兼平とは差がつけられている。

藤原道長は左大臣源雅信女倫子を正妻とし、左大臣源高明女明子は次妻、副妻ともいうが公的には妾であった[梅村2007 。源倫子を母とする頼通、教通だけが元服後の最初の位階として従五位下を授けられ、即日昇殿を許されており、父と同じ地位、摂関を継承している。

明子を母とする頼宗、顕信、能信、長家とは明らかに差別化されているので、正妻制が実質を有していたといえる。

しかし、一般には正妻制は容易に確立せず、実質後継男子を生んだ母親が一家の女主人とされる傾向が強かった。梅村[2007]によれば、一対一、差し向かいの夫婦像が一般的になるのは、中世後期であるという。つまり日本において礼記等の夫婦斉体思想が一般的に受容されたのが、中世後期になってからだということである。

そうすると公家や武家が嫡子単独相続の家に移行したのは、おおよそ南北朝期とされるが、単独相続を特徴とする日本的「家」制度の成立と、多少の時期のずれはあるが、正妻制の確立とリンクしているように思える。正妻が婚家に帰属するものである以上、婚家帰属性を否定する夫婦別姓は、一夫一婦の正妻制(嫡妻観念)を変質させることになる。一夫一婦の単婚の理念にもとづいている今日の法律婚制度の核心にかかわることで、夫婦別姓が、社会の凝集力となる規範を崩壊させるものとして容認できない理由の一つである。

 ただし、前近代において正妻制が確立しなかった例外がある。皇室である[v]

 

 B 正妻制が確立された戦国時代の公家では社会的呼称として夫婦同氏が定着した

1) 後藤みち子説

後藤みち子[2014]によれば、先行研究として脇田晴子を引用し、中世における嫁取婚の成立は「家」の成立を意味し、嫁取婚形式の「家」は基本的には一夫一妻制が成立し、正妻の地位が確立するとし、梅村恵子を引用し平安中期の正妻制は、その後根付かず、室町時代になっても天皇家、宮家、摂関家に正妻はおかれなかったが、戦国時代になって正妻がおかれるようになるとする。

実際、室町時代の公家日記で「嫁娶」の記事が少なく、戦国時代になると婚姻儀礼の記事が多くみられ、これが正妻の確立を意味すると考えられている。

正妻の確立=嫁取婚とすると、西洋的な一夫一妻制の確立=嫁取婚であり、嫁取婚を攻撃する夫婦別姓論は、正妻、一夫一妻制度に対応した婚姻のあり方を否定するもので、婚姻制度の変質を意味することとなるのである。

後藤によれば戦国時代に嫁取儀礼が公家日記に書かれているのは、「家」の継承者である「嫡子」に正妻を迎える儀礼として重視され、誰がいつだれを正妻としたかを公表する意味もあったとする。

嫁取儀礼後「正妻は夫方の父母や親族と対面し、三献で祝うことで夫の親族として認められたことになる。また「家」の家司と祝いの宴が催されるが、これは「家」の家司たち「家」の継承者の正妻を披露したことになり、正妻が「家」の一員と認められたことになる。」婚礼のあり方としては武家の文化との混淆があるかもしれない。

また後藤みち子[2009]中世後期の貴族は基本的に夫婦同苗字というか夫婦同じ家名で称されるのが普通であるとしている。摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。

清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。近衛尚通(14721544)の『後法成寺関白記』によると久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。

西洋でも○○家出の○○卿夫人というように、夫の家名や爵位にちなんで称されるのと同じ感覚である。例えばクリフォード・チャタレイ准男爵の妻をチャタレー夫人というように。

一般公家は、正妻を「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。

三条西実隆(14551537)『実隆公記』では中御門宣秀正妻を「中御門西向」と称し、甘露寺親長(14251500)『親長卿記』では中御門宣秀の父である中御門宣胤の正妻を「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。

三条西家の家妻の役割が検討されているが、使用人の給分の分配、食料の手配・管理、追善仏事の運営、連歌会・和歌会の設営があげられている。近現代の庶民の家の主婦の役割に通じるものがある。このように公家社会において家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して指称された。差し向かいの夫婦像であり今日の婚姻家族とほとんど同じあり方といえる。

当時においても女叙位の位記は所生の氏であろうからそのような意味では、夫婦別氏だが、それは律令国家では改賜姓が天皇大権とされていて、位記や口宣案は源平藤橘等の古代的姓氏と実名であったが、実名敬避の慣習から、通常社会生活では用いないし、そもそも明治4年の太政官布告で、本姓といわれる源平藤橘等の古代的姓氏を公用で用いてはならないことになって、それ以降は藤原朝臣実美ではなく三条実美、越智宿祢博文ではなく、伊藤博文と、苗字を使うこととなり今日、姓とか氏とか称されているものは苗字、家名としての称号であるから論外としてよい。

戦国公家の社会的呼称は、婚家の苗字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから実質的には夫婦同氏()の感覚に近いものと認識できる。

正妻制(嫡妻)の確立=妻の婚家帰属の明確性=夫婦斉体思想の受容=一対一差し向かいの夫婦像=「家」の成立=夫婦同氏(苗字)とリンクして理解することができる。

ゆえに婚姻家族の基本理念にかかわる夫婦同氏はゆるがせにできない事柄なのである。

2)湯川敏治説

戦国時代の「家」は重要な論点なので後藤みち子以外の研究者からも引用しておく。

湯川[2005]公家日記での夫婦同氏の呼称について解説しており参考になる。

 公家日記で自己の室、他人の室に対してどのように称しているか

 三条西実隆(14551537)の『実隆公記』(いうまでもなく当代随一の文化教養人である)

 自分の室を指して 室家(しっか)、青女 「今日室家、小女等向勧修寺亭」

 「青女向勧修寺亭」

 他人の室に対しては「滋野井室家今日帰宅」「今夜勧修寺中納言新嫁云々」「入夜鷹司亜相殿北方来臨」「九条北政所来臨」

 婚家名で称しており今日の夫婦同氏と同じ感覚である。

甘露寺親長(14251500)の『親長卿記』(後花園・後土御門の信任の厚かった廷臣)

 中御門宣胤に嫁した女を指して「東向予息女、中御門室家今日帰大津」

甘露寺元長(14561527)の『元長卿記』

  中御門宣胤に嫁した姉を指して「中御門大納言室、予姉也、東向入来」

自己自身の娘、姉であっても、婚家名で称していることから、夫婦同氏のならわしと理解してよいと考える。(以上18頁)

次に摂関の正妻を北政所と称するが、呼称勅許が必要であるとしている。

三条西実隆の女保子は九条尚経に嫁いでおり、実隆が内々に北政所勅許を朝廷に働きかけていたが、嫁いで8年後に治定された。それまでは「九条姫御料人」「九条御料人」と記されている。

 三条西実隆の女であっても自ら「九条御料人」と記しているのだから、これも夫婦同氏のならわしと理解できるのである。64頁

 

 

 

 

(Ⅱ)欧州の夫婦同氏法制(ファミリーネーム)の継受も妥当である

1 明治民法のファミリーネームの継受と西洋の夫婦斉体思想

 

我が国は明治15年に妻妾制度を廃止、西洋的な単婚理念を受け入れるとともに、明治民法が、欧米の法制を参考にし、とくにドイツ、オーストリア、スイス、イタリアの立法例にならって夫婦同氏制が採用され、西欧的なファミリーネームを継受したといえる[嵐義人1998]。西洋文明の婚姻家族の理念り継受でありこれも妥当なものである。

アナール派の歴史家フランドラン[1993]によればフランスで血族の概念が確立したのは1314世紀、父系姓の確立を14世紀としている。英国やドイツもこれとほぼおなじだろう日本の公家や武家の家名及び嫡子単独相続への移行が概ね鎌倉末期から南北朝、室町時代とされているから、だいだい同じである。

教会法の近親相姦の範囲が拡大したのは1012世紀である。それは、教会が復讐や私闘を本質的機能としていた双系的な系族の連帯意識を弱めるためだった。13世紀から姓の出現に先行して現れた父系重視の傾向をうけて近親相姦の範囲は縮小したが、系族の絆が復讐にしても土地の権利にしても緩んだことと対応している。古典カノン法は1213世紀に整備されており、教会が系族の連帯より父系姓の家族への移行を促したと考えられる。父系姓(血族名)が今日まで続くファミリーネームである。

父系姓のファミリーネーム(夫婦同姓)は、妻の寡婦産や寡婦扶養料の夫からの分与の担保する意味をもって妻が名乗るという側面もあると思うが、基本的にはかす夫婦一体性を強調するキリスト教の影響により普及したとみられている。

 

西洋の夫婦斉体思想の要点は次の3点である

a) 新約聖書の旧新約聖書の「人は、その父と母と離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となる」というもの(創世記224、マタイ195[[vi]、エペソ5.31

その解釈はユダヤ教とキリスト教では著しく異なるが、夫婦斉体思想の核心といえる。

b)パウロの夫の身体は妻のもの、妻のからだは夫のもの、結婚相手の性的欲求に応える義務とする思想(コリントⅠ7・1-5)。これは初期スコラ学者により夫婦倫理として重視された。[vii]

c) aの進展としてキリストと教会との間の秘儀を、結婚の秘儀に類比する思想である(エペソ5253132、コリントⅡ112)。とくに第二パウロ書簡[viii]のエペソ書の思想といえるが、秘儀とは、教会は、キリストの神秘的花嫁である故に、ただ一つのキリストのからだであるというものである[松永1959]。もっとも新約聖書においては、キリストが花婿で、教会が花嫁ないし妻であるとは直接的な表現はないけれども、これが12世紀にいたって結婚が秘蹟とそれる根拠となった。

 つまり結婚はキリストと教会の結合の映像となるものとされたのである。キリストと教会の結合が不分離であるように、その結合の象徴たる結婚も絶対不分離とされた。よってスコラ的婚姻観によれば、婚姻の基本的特性は「一体性とキリスト教徒の婚姻において秘蹟に基き特に強固にされた非解消性」とされるのである[福地1956]。

 

 

2 憲法24条は教会法(古典カノン法)の理念を継受しており、夫婦同氏がその理念に一致。

(1) 憲法24条は西洋の合意主義婚姻理論を継受していると解釈できる

これまで、わが国の家族慣行に照らして夫婦同氏制が妥当なものであると言ってきたが一転して視点を変えたい。

争点になっている憲法24条だが、夫婦別姓論者が憲法違反というのとは逆に、むしろ夫婦同氏が憲法24条の理念に合致していると私の見解である。

なぜならば「.婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」というのは12世紀古典カノン法の合意主義婚姻理論に由来するものだからである。

むろん憲法24条起草者が古典カノン法を意識して起草はしていないかもしれない。しかし、人類史上、親や領主の承諾も不要、挙式も不要、個人の合意のみで(理念的には二人の証人がなくても)婚姻が成立するというのはラテン的(西方)キリスト教世界の教会法だけなのである。ラテン的キリスト教世界では10世紀半ばより教会裁判所が婚姻を専属管轄権としたため、中世高期に婚姻法が体系化されたのであるが、合意主義的婚姻理論とは、ランのアンセルムス、シャルトルのイヴォ、サンヴィクトルのフーゴ、ぺトルス・ロンバルドゥス[ix]が理論化し、教皇アレサンデル3(115981)、が決定的に採用したものである(正確には緩和的合意主義。合衾により解消不能な完成婚となるというもの)。

西洋文明世界の規範提示者は、古代教父だけではない、婚姻という観点では、中世最大の教師ロンバルドゥス、グラティアヌスの弟子でもあった教皇アレクサンデル3世は、大きな存在なのであり、それは現代の個人主義的友愛結婚についても同じことだ。 

なぜ、グラティアヌスなどの合衾主義を採用しなかったかというと三つ理由がある、第一にヨゼフは許婚者とされるのがならわしだが、サン・ヴィクトルのフーゴはマリアとヨゼフの間に真実の結婚があったと主張し、合衾がなくても婚姻が成立しないと辻褄があわなくなるからである。第二に合意がなければ結婚はないということは、結婚は自己決定であり、逆に結婚なせざる自由、独身を通し聖職者になる可能性を拡大した。第三に合意主義はイギリスからの上訴を教皇が裁定してカノン法になったもので、婚前交渉のある北西ヨーロッパの基層文化に合致していた。処女性を重視する地中海沿岸では合衾主義でもよかったが、教会法はどの地域でも通用する普遍的な制度を採用したのである。

教会挙式は16世紀の教会法が秘密結婚の温床となっているという非難をかわすためトレント公会議以降義務付けられたのであり、イギリスにいたっては、宗教改革でトレント公会議を否定したので、古典カノン法がコモンローマリッジとして18世紀中葉まで生ける法だった。居酒屋であれ二人の証人さえいれば容易に婚姻は成立した。婚姻法のもっとも早い還俗化は16世紀のトレント公会議で親の承諾権という主張を拒否されたガリカニズム教会つまりフランスである。近代の婚姻法の還俗化によって婚姻非解消主義が維持できなくなったが、キリスト教的婚姻の基本特性である。夫婦の一体性という理念は、西洋文明圏では一貫したものといえる。

 

もっとも教会がファミリーネームを制定したわけではない。しかし教会法が適用されたラテン的キリスト教世界、例えばフランスにおいて血族の概念が確立したのは1314世紀、父系姓の確立は14世紀である[フランドラン1993]。先に述べたように父系姓というのがファミリーネームで、夫婦同姓なのであり、これは、夫婦の一体性を基本特性とする教会法的婚姻理念の影響が最も大きいと考えられるからである。

2)憲法24条の夫婦の同等の権利も教会婚姻法やキリスト教的夫婦倫理の継受という側面がある

ところで憲法24条の「夫婦が同等の権利を有することを基本として」というのはどうか。私はこれもキリスト教の婚姻理念に継受している側面があると考える。ローマにおいては、家父権を有する家父の一個の男性の支配下に家族が従属するものとされたが、教会法は、家族集団から政治的公権的性格を排除した。家族集団は倫理的に規範を維持するものとしたのである。

聖書にも夫婦の対等な権利に言及している部分がある。コリント前書735がある。「夫はその分を妻に尽し、妻も夫に然すべし。妻は己が身を支配する権を持たず、之を持つ者は夫なり、斯くのごとく夫も己が身を支配する権を持たず、之を有つ者は妻なり。相共に拒むな‥‥」

夫の身体は妻のもの、妻の身体は夫のもの。相手の性的欲求を拒むなとしている点、全く対等なのである。

もっともパウロは同じコリント前書で次のように云う。れが正統教会の規範である。

男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」(第一コリント11:3)「男は神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきでない。女はまた男の光栄である。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだから」(第一コリント11:7~9)。「婦人たちは教会で黙っていなさい。婦人たちに語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい」(第一コリント14:34))。とも述べているから、いんまでもなく男女平等論者では全くないが、コリント前書735に限っていえば全く対等であり、これも夫婦一体性の論理的帰結でもあるといえるのである。

故に憲法24条の背景に、古典カノン法の合意主義婚姻理論、夫婦一体性を強調するキリスト教的な婚姻理念があり、それし夫婦同氏と適合的である以上、夫婦同氏が24条に反するはずがない。

 

 

 

 

 

 

 

Ⅱ 9698%が夫の氏を選択する慣行が性差別という主張は、我が国が準父系の出自形式の社会構造にあり、大化改新の男女の法以来の法制的根拠を有するものであるから、「我千古ノ国体」の否定であり、母系社会では私有財産制を発達させることができず、文明世界は原則どこでも父系出自形式の社会なのであるから文明の否定という結論にいきつくので容認できない。

1  9698%が夫の氏となる理由

 

9698%が夫の氏を選択する慣行は、第一に我が国の社会構造が準父系の出自形式をとるためである。

人類学の大御所である清水昭俊は、「家」を出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的であるとし、さらに「家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団と親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の再広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」とも述べている。これは、日本の夫婦同姓(家名)と西洋のファミリーネームが近似した概念であるという根拠となる。核家族が「家」であることもすでに述べた

また清水昭俊[1987]は日本の家・同族の出自形式は、中国の宗族のような父系(厳密には準父系)出自集団と、ポリネシア的複系集団との中間に位置するとの見解である

つまり既に詳しくのべたように、清水のいう〈家連続者〉(婚入配偶者を迎える側の家成員)は第一に最下世代夫婦の長男子、第二に長女子、第三に最下世代夫婦のうち家連続者の弟、第四に最年長姉妹である。上記の可能性が不可能な場合は、家外から養子を求めるが、有力な家では血筋の中切れを嫌い分家から養子を求めるが、それは強制的な規則ではないという規則性を出雲の調査で明らかにした。

つまり〈家連続者〉の大多数は男子(一般的嫁入婚)になり、散発的に婿取婚があり、分家からの養子、あるいは非血縁養子となるというものである。

しかも重要なことは、我が国では婿は、家長予定者として迎えられるので、家長はつねに父から男子の継承なので、父系傾斜が慣習であるのは当然である。

 

第二に、戦後民法の改正により「家」制度が崩壊し、産業構造が変化して家業の継承のない家族が増えたことにより、婿取婚や非血縁養子によって家を継承しなければならない理由が少なくなったことは、むしろ父系出自傾斜が強まったともいえる。

 

2 「国体」としての「家」

日本的家制度の典型とされる嫡子単独相続は、貴族社会(公家)では、13世紀中盤にはじまり、南北朝期に一般化した。また武家の単独相続への移行は、鎌倉末期から南北朝にはじまり、室町期に一般化した[西谷2006[x]。 小農民は、17世紀後期以降、幕藩領主が百姓経営維持のため分地を制限したため、田畑、屋敷、家名、家業、祖先祭祀が一体となった単独相続が一般化したとされている[大藤修2001]

 従って、大ざっぱにいって日本の戦後民法改正まで300700年単独相続の時代があり、それを日本的家制度といってもよいが、しかし、「家」は単独相続が崩壊しても存在していることは社会的事実であることはすでに述べたとおりである。

清水昭俊が定義するように、「家」を出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的であると定義していることから、出自集団としての家という観点をとるとその歴史はもっと古いのである。

 つまり私は、嫡子単独相続が成立した後の「家」を狭義の「家」とみなし、出自集団のしての家は、古代にさかのぼるものでありまさに、穂積八束が「我千古ノ国体ハ家制二則ル家ヲ大二スレハ国ヲ成シ国ヲ小二スレハ家ヲ成ス」といったように「国体」ともいうべき社会構造と理解すべきであると考える。

 

(1) 出自形式からみた「家」は古代より存在する

 

 父系原則の起源と準父系への変質への法制史

日本の家を準父系出自形式といっても、明らかに父系に傾斜しているので、女子を介することがあるがそれは男子がいない場合であり、稀に血筋が中切れとなる非血縁養子が〈家連続者〉となるというものである。

さらに重要なことは、日本的「家」では婚入配偶者としての婿は、家長予定者として迎えられるので、(中国の男子の孫を得るための贅婿は宗法に反するので軽蔑された存在であり、たんに添え物であり、日本の婿養子とは違う)。これは外国の他の父系的出自集団と同じことだが、血筋として父系で徹底していないとしても、家長〈家督〉継承は常に父から男性に継承されるということである。

 

原則父系というのは法制史的には古代に由来する

(A) 男女の法

 

大化元年 (645) 年八月に発布された,(1) 良民の父母の間に生れた子は父に帰属させる。 (2) それぞれ主人を異にする奴婢の間に生れた子は,母方の婢に帰属させるという法令であるが、法制での父系出自原則の起源ともいえる。

 もっとも大化前代、古日本の基層文化については、民族学では岡正雄が5つの文化の複合という構想を示している。

すなわち古日本の基層は①母系的・秘密結社的・芋栽培=狩猟民文化(メラネシア方面)②母系的・陸稲栽培=狩猟民文化(東南アジア方面)③父系的・「ハラ」氏族的・畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)④男性的・年齢階梯制的・水稲栽培=漁撈民文化(中国江南地方)⑤父権的・「ウジ」氏族的=支配者文化(アルタイ・朝鮮半島)の文化複合であり、大ざっぱにいえば南方と北方の文化の複合であり、私は、東南アジアは母系というより双系(複系)なのではないかという疑問を抱きつつも、この構想は大筋で妥当なものと理解している。

歴史人類学・法社会学の江守五夫[19901993[xi]1998]は婚姻習俗に北方民族との共通点を多く見出していて、嫁入婚古代起源説を主張、民族学の大林太良[1993][xii]2世紀から父系的な傾向との見解を示しており、男女の法は基層文化と大きなずれのないものという理解でよいと思う。

なお、我が国では、高群逸枝が古代における母系社会の根強い存在を主張し、思想的共鳴者も少なくないし、社会一般では高群説が広く信じられているふしがあるが、栗原弘[1994]などによって意図的操作にもとづく学説であり誤謬として厳しく批判されていることである[xiii]

(B) 律令相続法(戸令戸主条)父系出自原則の明確化

大宝令および養老令は継嗣令に家相続の規則を定めている。継嗣は「承家の人」(令集解古記)、すなわち家の相続人をいう。養老令戸令戸主条に「凡そ戸の主には皆家の長を以ってせよ」とあり、嫡妻の長男を嫡子として家を相続さらせるのが基本原則で、大宝令は有位者を有位者のみを対象としていたが、養老令(天平宝字元年757年施行)は庶民にも適用するものとした。相続権者を直系卑属たる男子に限定し、男子孫なき時は。たとい女子孫があっても「なお、子無しというべし」(令集解優位朱説)として同姓中の男子を養子に迎えて相続させるもの(戸令聴養条)としている(大竹[1977)

(C) 嫡子の制の進展 (父から子への地位の継承の慣例化)

嫡子の制は日本律令に特有である。これは蔭位の制(高位者の子孫を父祖である高位者の位階に応じて一定以上の位階に叙位する制度)を中心とする出身法と、財産相続法に関連して規定されている。

いずれも唐令とは異なり嫡子を他の子供とは異なり特別に扱おうとするものであるが、吉田孝[1963]は中国とは違う制度を導入した理由について、「首長位が傍系の範囲で移動する「氏」ではなくて、嫡子制による「家」に支配の基礎を置こうとしたのは、「氏」の組織が律令国家の支配集団の単位としてはあまりにも流動的であった‥‥嫡子制の導入は、家長の地位の継承を父-子のあいだに固定し、「家」を律令国家の支配機構の基本単位として意図的に設定しようとするものだった。」とする。

もっとも、奈良時代には嫡子制は定着しなかったし、平安前期までは、蔭位による貴族優遇と矛盾するが、官人登用の柱である徳行才用主義(能力主義)も機能していた、たとえぱ卑姓氏族出身の朝野鹿取とか、春澄善縄は参議まで昇進したのである。とくに春澄善縄の父は従八位下・周防国大目という官人としては最も低い階層の出自であったし、九世紀前半までは藩邸の旧臣体制といわれるように、門閥というより天皇の東宮時代の側近や寵臣が昇進していくケースが目立った。

しかし、承和の変を契機として、源藤二氏を頂点とする門閥社会のヒエラルキーが形成されていくのである。

 嫡子制が後世の日本的「家」制度に進展するエポックメーキングは、関白藤原基経の嫡男時平と、その弟の仲平・忠平(いずれも母は人康親王女)の三平元服叙爵である。わが国の元服儀礼は、天皇とその周辺から政治的社会的地位の確立過程で出現し、位階は王権との距離をあらわし本来律令では臣君に仕えて忠をつくし功を積んでから授与されるものであった。この位階授与原理は8世紀には遵守され、勅授すら21歳にほぼ蔭位どおりに授与され、祥瑞出現の特例でも20歳だった。

つまり、元服と叙位は別であった。ところがこの原則が破られたのである。

藤原時平は仁和二年(886)正月二日仁寿殿において「天皇手ずから冠をとって」元服儀礼が行われると同時に正五位下に叙位(初叙叙爵)がなされた。位記には「名父の子、功臣の嫡」と叙位理由が記載され、こののち元服儀礼は父の功績、政治的社会的地位の父子継承表明の性格が濃厚なものとなるのである(服藤[1991])

諸大夫が明らかに家格をあらわす称となるのが、10世紀末から11世紀、実務官人の官職請負制が11世末以降、蔵人と弁官、摂関家政所執事といった国政中枢を高藤流(勧修寺流)、内麿流(日野流)、高棟流平氏の名家三流で独占するのが12世紀の鳥羽院政期と考えられるこのころには家筋の家格がほぼ決まっていった。

それに先立ち、11世紀前期に元服叙爵と若年元服が定着し、頼通のような十代参議を生み出したが、公卿の数には限度があるので、すべて子供が元服叙爵されるわけでなく、父の後継者として嫡庶が区別され、嫡妻子の特定の子息が父の地位を継承していくこととなる。こけは正妻制の成立ともいってもよいが、若年公卿に昇進した子息も若年で公卿となるサイクルを繰り替えすことによって、父から子息に地位継承がなされ、子供は父の地位を継承すべきものという観念が浸透した。家筋により昇進スピード、昇進ルートがパターン化していくことにより、家格が確立していったのである。

家格制とは、原則として子息は最終的に父の地位まで昇進することが前提になっている。

D)異姓養子による父系出自原則の変質

律令相続法は父系出自原則を明確にしたものであるが、この原則は、10世紀以降異姓(他姓)養子の多くの事例を見出すことにより変質する。

異姓養子の例をいくつかあげることとする。

まず大江広房だが、陸奥守橘以綱が実父であり大江匡房(10411111)が橘氏から養子をとったのである。異姓養子であるが、娘を娶っており、今日でいう入婿、婿養子である[田端1994]。 天永2年(1111年)に本姓に復し橘氏長者であった父以綱の後を受け長者となる

12世紀では大江広元(1148122)だが、桃裕行[1947]によると明経博士中原広季の四男で、中原広元として明法博士に就任した。広季の実子なのか大江維光が実父の養子なのかわからない。さらに広元は参議藤原光能の子で、母が中原広季に再嫁したので中原姓となり後に大江維光と父子契約したとの説もあるという。

三善為康 (算博士。『朝野群載』や『二中歴』の著者として知られる1049~1139)は、越中国射水郡の豪族射水氏の出身で18歳のとき上洛して算博士三好為長に師事したうえ、猶子(養子)となった。所[1971]によれば三好行康も為康の猶子だった。

曽我[2012]によれば外記・史・諸道博士家で家職を継ぐ子供がいない場合、もしくは子供にその能力がない場合には優秀な養子を迎えることで家名の存続を図ろうとする動きがあったとする。後継者を確保したい師匠=養父(三善為長)と中央に出仕したい弟子=養子(射水→三善為康)の思惑の合致が縁組の要因と考えられている。

このほか異姓養子の著名な例としては、後白河院近臣平業房と高階栄子(丹後局)との間の子である教成が、藤原実教の養子となった。後の山科家である。血筋としては平氏だが、藤原氏であるから異姓養子である[田端1994]。

改賜姓は天皇大権であり、勝手に改姓することは違法だったが、明法家が令聴養条をゆるく解釈したためになしくずし的に異姓養子容認になっていたと考えられる。また、官職の世襲は、官位相当制を原則とする律令の官僚制を破るものであるが、平安末期から鎌倉時代初期、明法家が家業のためなら律令を破ることも許されるという説を公然と揚言するようになって既成事実化したのである。むろんその背景には、受領監察体制、律令的国家給付(封戸、位禄等)が崩壊した12世紀以降の歴史的展開がある。

しかしながら、世襲氏族、律令国家封禄制度家格制の形成、に先立って、10世紀半ばより、諸道博士家では、世襲氏族が多くあらわれるようになり、それは家職の継承が意識されるようになったことが背景にあると考えられる[告井2007]。

紀伝道

紀伝道における世襲氏族は、菅原・大江両氏はよく知られているけれども、藤原氏の日野流(北家内麿-真夏流)式家、南家も世襲氏族である。世襲を確立したのは

日野流(北家内麿-真夏流)が広業(任文章博士寛弘5年(1008))、資業(任文章博士寛仁元年(1017))兄弟。

 式家が明衡(任文章博士治暦二年(1066))

 南家が実範 (任文章博士天喜元年(1053))とされている。

局務-これは12世紀以降の展開だが、中原氏と清原氏で固定化される。

官務-11世紀末以降小槻氏が官職請負

法家-すぐれた著作のある惟宗氏が家学を継承できず、坂上(本姓中原氏)・中原氏にとって替えられ固定化。

陰陽道-10世紀中葉より賀茂氏と安倍氏で固定化。

医道-10世紀末より和気氏、丹波氏で固定化

楽家―10世紀より多氏が活躍

算博士―小槻氏と三善氏が知られている。

告井[2007]によると、特定氏族の世襲固定(父から子の継承)は摂関期にあらわれた。10世紀の改姓は理念的だったが、院政期以降は養子としての改姓であった。

非血縁養子により父系出自原則は変質していった。

 

(E) 鎌倉幕府の養子制度

 

 明石[2006]鎌倉幕府法は男子がいない場合、嫡子として兄弟の子をはじめ「一族並二傍輩」の男子を養子とするのが一般的であった。原則は同姓養子であるが、他人養子といって非血縁の傍輩を養子とする(異姓養子)や女人養子といって女性が養子を取って継がせることは禁止していなかった。のみならず、平安末期から女系の妹の子(甥)や女子の子(外孫)を跡取り養子とする方法が多くとられるようになったという。中原広季は外孫藤原親能を、大友経家は外孫藤原能直を、宇都宮朝定は外孫三浦朝行を、得川頼有は外孫岩松政経を、大屋秀忠は外孫和田秀宗をそれぞれ養子とし跡を継がしめている。これを明石は婿養子への過渡的な養子制とみなしている。

 

以上、概略的だったが法制史的にいえば、父系出自原則は大化改新より1300年以上の歴史の重みをもつもので、非血縁継承や婿養子も11世紀以降法的にも許容されていく経過にもとづいて、準父系出自形式が我が国の社会構造となったものであるから、9698%が夫の姓を選択しているのはある意味当然の事柄であって、この慣習が違憲だというならば、大化改新以来の歴史の否定であり「我千古ノ国体」の否定となり断じて容認することはできないのである。

 

 

 

 

 

選択的夫婦別姓とは社会主義政策である

 

 

(中国は元々夫婦別姓ではなかったが、宋家姉妹の例から一般に広まった

 中国では孫文-宋慶齢、蒋介石-宋美齢、毛沢東-江青、劉少奇-王光美、習近平-彭麗媛というように夫婦別姓が伝統と思っている人が多いと思うが、この固定観念は間違いで清朝の姓名記載慣習は夫婦別姓ではないと島村修治(『外国人の姓名』ぎょうせい1971年24頁以下)が指摘している

 もっとも伝統的な中国の宗族や朝鮮・韓国の門中においては、同姓不婚()という族外婚制と異姓不養の原則[xiv]があるけれども。外婚規則と、社会的標識としての姓名とは別の問題ということである。

 島村によると清朝の姓名記載慣習は、女は結婚すれば夫と一心同体のものとして無姓無名の存在となり、一般の人々は〈何々家の奥さん〉、〈誰某の妻〉、〈誰某の嫁〉、〈誰某の母〉と呼びかたをしていた。

 王竜妻張氏、あるいは 王張氏(王家に嫁入した張氏の娘との意味)というふうに書いたという。

 中華民国の婚姻法(民法第1000条)でも夫婦は原則として同じ姓を称することになっていた。しかし実態としては1930年代以降、婚前の姓に字を添え、婚家の姓をかぶせ在り方が増加した。それは孫文-宋慶齢[xv]、蒋介石-宋美齢は原則に反するが、夫婦間の特約により婚前の旧姓を保持することも認められていたためだという。

従ってファーストレディーとしての宋家姉妹がこのモデルを普及させた要因とみられ、新しい慣行である。

 中華人民共和国では1950年5月1日公布の新婚姻法では、男女は平等であり互に独立した人格者であるとして、姓名についても「夫婦それぞれ自分の姓名を使用する権利をもつ」と定め、いずれの姓を選ぶかは当事者の任意とした。

 この法律のモデルはソ連である。

() 夫婦別姓はソ連の1924年の法令に由来する

 

 島村氏によると(前掲書148頁以下)

 ア 帝政時代、妻は当然のものとして夫の姓を称した。

 イ 1919年の法典では、夫婦同一姓の原則により共通の姓を称するが、夫の姓か、双方の姓を連結した姓を称するかは、両当事者の自由とした。

 ウ 1924年11月の法令で夫婦異姓の可能性が認められ、同一の姓を称する義務がなくなった。(1926年に連結姓と第3の姓の選択を否定)

 1926年に事実婚主義を採用し、1936年の登録婚制度法定まで事実婚の時代といわれている。夫婦別姓はスターリン時代の事実婚社会にふさわしかったのである。

 以上のことから夫婦別氏ないし夫婦別姓というのはレーニンが死去した1924年のソ連の法令に由来する。それが1950年の共産中国の婚姻法に継受されたとみることができる。そして最高裁が我国でも継受させようとたくらんでいる。 

 最高裁に社会主義的立法政策(司法による立法形成)を推進してよいという権限があるというのか。

() 司法部が立法府をさしおいて社会主義政策を促進するのは三権分立に反する

私は、国政選挙では一貫して、選択的夫婦別氏導入に消極的とみられる政党、もしくは夫婦別氏に反対する国民運動を展開している日本会議に近い候補者に投票してきた。

  ところが、国民から直接選挙されているわけでもない最高裁判事が違憲判決により、このような国論を二分する事案につき、立法府をさしおいて勝手に政策形成を促すことになれば、これまで投票行動の意味を全て失う。噴飯ものであり、怒って当然である。国民をこれほどバカにすることはない。

[xvi]ドブ板を踏んで有権者に接し活動をしている国会議員こそが、国民の常識と乖離しない政策か否かを判断できるのであり、法制審議会答申の政府による実行を長年止めていたことは日弁連が主張するような怠慢ではなく、むしろ立派な見識だったのである。司法部による事実上の立法行為は、三権分立、民主主義をないがしろにするものとして糾弾されるべきである。

() 夫婦同氏制違憲は、唯物論的家族史観の勝利を導く

 むろん、夫婦別姓を推進している論者、それは女権拡張論者でありジェンダー理論、フェミニズムといってもよいが、日弁連女性委員会=社会主義者と言っているのではない。

しかし日本的「家」制度の残滓とみなされる、夫婦同氏制を潰す政策を後押ししているのは共産主義イデオロギーを信奉している勢力と考えられるのである。つまりエンゲルスの唯物論的家族史論[xvii]は、嫁入婚と家父長制家族の成立が私有財産制の淵源であると同時に「世界史的女性の敗北」と称しており、逆に嫁入婚と家父長制家族に打撃を加え、女権の拡大により、事実上社会主義革命の展望が開かれるという理屈になるからである。男女平等やジェンダー理論は本質的に共産主義と親和的な思想なのである。

 

(未完成)


[i]社会人類学の概念を用いて初めて家・同族を定義したのは中根千枝(1926~東大名誉教授)である。中根は出自集団descent group(中根は血縁集団と訳す)を定義して、成員権が「正式の結婚による父母を前提とする出生によって決定され」、この成員権は「原則として‥‥個人の一生を通じて変わらない」としたうえで、日本の家・同族においては婿養子や養子が成員権を得ることと、養取や婚姻によって個人が所属を変えることなどから、同族は(父系)出自集団ではないとした[中根1970]

これに対して蒲生正男(19271981)は、この理解は人類学の常識を逸脱し、重大な誤解があり、偏見、空想であると批判した[蒲生1974]。これを中根-蒲生論争という

 蒲生は出自を規定する要因として「出生のみに根拠をおくことは、実体の理解に適切ではない」「社会的に認知され‥ればそれで充分である」[蒲生1968]

嫁を家の「ムスメ」とする「『カマドの一体化原理』」[蒲生1970]や非親族を養子としてとり込む養取の方式ゆえ、及川宏や喜多野清一も理解していたように同族を出自集団と扱ってよいと結論し、蒲生は日本の伝統的家族を「単性家族unilateral family」、同族は「practicallevelで言うなら‥‥cognatic lineage‥‥ideallevelで言うならpatrilineageと規定」することができるとした[蒲生1968]

 

私はこの論争について次のように判断する。清水昭俊[1987]が、中根説を批判し、厳密に父系出自集団といえるのは韓国の門中だけだと言い、日本の家・同族について準父系の出自形式と定義し精緻な理論で説明している、家は家族というよりも出自集団と論じ、江守五夫[1990]も中根説が中国の宗族について女性は婚姻の後も出生の宗族の成員としたこと重大な誤りと指摘し、韓国の門中(姓族)も婚姻後は夫族に帰属すると述べた[1990]。いずれも首肯できるのであり、中根説は重大な欠陥があるとみなすほかない。

 

[ii]上野和男[1985]が位牌祭祀の諸類型を分類しているが、清水が発見した世代仏は、上野の分類する相続者夫婦を本幹とするもので位牌が深く蓄積する「父系型」と類型化されており、日本で最も広い分布をもつものとされている。〈出自集団〉の基本的特性は「単系性」にある以上、あえて「父系型」と類型化する必要もないだろう。バリエーションとしては、位牌が蓄積しないケースもあるまた少数例であるが、特殊な形態として分牌祭祀と、位牌分けがある。

 分牌祭祀は1934年に五島列島で発見され、その後北限の福島県まで事例が報告されているが、これは生前より本家(長男)が父を世話し、分家(次男)が母の世話をする。死後の年忌法要も本家が父と分家が母というように分担するものである。これは婚家の同族での分牌であるから、婚入配偶者の婚家帰属を否定するものではない。

位牌分けは、複数の子供たちが位牌を別々に祀るもので、養出、婚出した子供の家に持ち込まれると双系祭祀になってしまう特異な例である。しかし上野は養出、婚出した家では一代限りのものとしており、この例外的事例をもって 、婚入配偶者の婚家帰属が揺らぐというものではない。このほか複寺檀制(半檀家)の指摘もあるが、きわめて例外的なケースにすぎずこだわる理由などない

[iii]日本の伝統的な家(単独相続)制度は、中国や韓国のように均分相続でないので、家族経営規模を保全して零細化を防止し、婿養子や非血縁養子により永続性が確保でき、家業・家職の継承に有利なだけでなく、住友家は婿養子が「持参金」代わりに製銅業を持ち込んだケースだが、経営能力のある婿を迎えて家業を興したり、養入により生家の家業を持参して事業を拡大できる等メリットが多く、ジォンダー論者のように敵視されるべきものではない。

[iv]

蒲生は家族を「夫婦関係ならびに親子関係、もしくはその連鎖で結ばれた特定範囲の人たちからなる集団」と単純に規定した。

 

そして親子関係が尊重されるか夫婦関係を尊重するかで、婚姻家族と親子家族というと変差を生み出すとする[蒲生1974]。

 

そのうえで「日本の伝統的な〈直系家族〉はunilateral familyであり、〈隠居制家族〉はconjugal unilateral familyであって、日本の伝統的家族の基本構造をunilateral なものとして理解しようとするものである。たとえば家の象徴として〈家名〉〈家屋〉〈家職〉〈家督〉などがあげられているが、これらの継承相続が一方の親からのものに限られているなら、その構造はunilateralというべきもの」[蒲生1975]つまり日本の家を単性家族と規定した。

 

この概念は、ミードやレヴィ=ストロースが批判した核家族批判説の議論のなかで登場した「単性家族unilateral family」「双性家族bilateral family」の類型論にもとづくものであり[上野1982]、蒲生は一方の親子関係をとりわけ優先的に尊重するものを単性家族、一方夫婦別産が顕著なら双性家族と認知しうるとする[蒲生1974]。

 

蒲生正男(1974)の家族類型論

 

lateral family

 

(親子家族)

 

bilateral family(双性家族)‥‥アラスカ・エスキモーの家族

 

unilateral family(単性家族)‥‥日本の直系家族

 

conjugal family

 

(婚姻家族)

 

bilateral family(双性家族)‥‥ オーストリア農村家族

 

unilateral family(単性家族)‥‥日本の隠居制家族

 

 

日本の直系家族は明治民法が理想として規定してきた家族形態であり、東北や北陸地方を中心に東日本に広く分布する。しかしもう一類型あり、夫婦関係を尊重する西日本の隠居制家族 でありconjugal unilateral familyと規定し、いずれも単性家族としているのである。

 

むろん蒲生が顕著な夫婦別産とみなしているオーストリア農村とて夫婦同姓であり、たとえ夫婦別産でもキリスト教的な絆の強い夫婦倫理から、父系姓=ファミリーネームが西欧では普通だから、それが夫婦別姓の理由になるわけではないが、日本的「家」を単性家族と定義され、出嫁女が婚家に帰属する以上、夫婦同氏制が我が国の家族慣行に合致しているという根拠の一つといえるだろう。

 

 

[v] むろん、皇后とは天子の嫡妻と定義されるが、令制皇后は実態としては政治的班位である。円融后中宮藤原遵子は女御より直接皇太后にのぼせられた藤原詮子(一条生母)の女房から「素腹后」と嘲られたが、東三条院藤原詮子は厳密にいうと皇后でなかったから嫡妻でない。円融天皇の嫡妻はあくまでも中宮藤原遵子であるはずだが、嫡妻たる藤原遵子をさしおいて皇太后にのぼせられたのは藤原詮子である。しかし太上天皇に准じた身位である女院宣下された詮子を側妾などというのは全く憚られることであって、つまり女御所生の親王は有力な皇位継承候補者たりうるのであって、この意味では皇后と女御にはさほど大きな格差がないといえる。この在り方は嫡妻権が明確な厳密な意味での婚姻家族ではない。

立后が政治行為だというのは、例えば光明皇后は聖武践祚の6年後(長屋王排斥後)、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては、皇太子保明親王が薨じた緊急事態において醍醐践祚の26年後の立后だからである。

政治的な理由で一帝二妻后の例もある。また政治的理由で皇后が里第で籠居を余儀なくされるようなケースもある。むしろ前近代のいわゆる天皇制の特徴は嫡妻たる皇后を冊立せずとも、正配たる配偶者がなくても後宮女官が側妾の役割を果たして続いていくような柔軟性があることだろう。この点は近代の皇后のように嫡妻権の明確なあり方(大正天皇の公式の母は昭憲皇太后であって柳原愛子ではない)。嫡妻権が明確で皇后と妾の格差が明確な中国王権のあり方とも違う制度である。

 

[vi]○創世記

 主なる神がアダムの肋骨からイヴを造ったときアダムはこう言った。

創世記2.23-24

「『「これこそついにわたしの骨と骨、

わたしの肉と肉

彼女は女とよばれることになろう。

彼女は男より取られたのだから。』

それゆえ男は彼の父母を離れて、彼の妻に結びつき、彼らはひとつの肉となるのである。」

 西洋文明の夫婦斉体思想の根拠は創世記だった。

ユダヤ教のラビは、のこれらの数行を性的ふるまいの基準とした。「彼の父母を離れて」は近親姦禁止の根拠とした。

の根拠である。ラビ・アキバ(紀元後135年頃)「彼の妻に結びつき」の解釈として、それは隣人の妻でも男でも、動物でもないとして、姦淫、同性愛、獣姦禁止の根拠とした。ラビ・イシ(145年頃)は「彼らはひとつの肉となる」という婉曲な表現から、受胎を抑制する不自然な性行為や体位の禁止の根拠とした。そのうえで、生殖を容易にするものは、離婚であれ多妻であれ是認するのである[ぺイゲルス1988 55頁]。

ところがイエスは、創世記この重要な箇所について、ラビの解釈とは逆に離婚禁止の根拠とするのである。パリサイ人に対しイエスは次のようにいう。

しかしイエスはラビの一般的な解釈とは正反対に婚姻非解消主義の根拠にしてしまう。

マタイ福音書1946

「あなたがたは読んだことはないのか。最初に彼らを創造された方は、彼らを男と女に創造し、そして言われた。『それゆえ男は彼の父母を離れて彼の妻と結びつき、二人はひとりになる』だから彼らはもはや二人でなく、ひとりである。したがって神が結びつけられたものを人は離してはならない」

イエスによるヘブライのポリガミーと離婚という習慣の否定と解釈されているが、これが単婚・婚姻非解消主義というこれが西洋の夫婦斉体思想の核心かもしれない。

しかし逆説的だが、イエスは婚姻家族に全く好意的でない。御国のために家族の義務を捨てよ、家族の絆を裂き、家族を憎みなさいと説く。

「‥‥自分の父、母、妻、子供、兄弟。姉妹を、さらには自分の生命をも憎まないなら、私の弟子となることはできない。」(ルカ福音書14・26)。

「私が来たのは地上に火を投じるためである‥‥あなたがたは私を地上に平和をもたらすために来たと思うのか。否、言っておくが、分裂である。今から後ひとつの家庭では五人が分裂し‥‥父は息子と、息子は父と、母は娘と、娘は母と、姑は嫁と、嫁は姑と対立するからである」(ルカ福音書12・49-54)

さらに、イエスは永遠の生命は独身者にふさわしいとも説く。

「この世の子らは娶ったり嫁いだりするが、かの世に入って死者のなかから復活するのにふさわしいとみなされる人々は、娶ることも嫁ぐこともない。彼らは天使に等しい者であり、復活の子らとして神の子であるがゆえにもはや死ぬことはないからだろう」(ルカ福音書20・34-36)

[vii]コリント前書はAD53年に書かれた、疑う余地のないパウロの真筆である。コリント前書第7章が消極的ながら結婚を是認し最もキリスト教的な結婚の意義を示す。

「‥‥男は女にふれないほうがよい。しかし淫らな行為を避けるために、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持つがよい。妻は自分の身体を夫の自由にまかせ、夫も自分の身体を妻の自由にゆだねなければならない。互いに拒んではいけない。‥‥」(コリントⅠ7・1-5)

「わたしのように、独りでおれば、それが一番よい。しかし、もし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、結婚する方が、よいからである。」(コリントⅠ8-9)

当時コリントは人口60万人超ギリシャ最大の都市だった、神殿売春ももちろんあった。「コリント娘」とは娼婦を暗示させる言葉だった。パウロは誘惑の多いコリントの信徒に対し、淫らな行為を避けるために次善の選択として結婚を認め、結婚において相手の性的欲求にじるのは義務であり、夫の身体は妻のもの、妻の身体を夫のものと説いた。これも夫婦斉体思想の一つといえるだろう。

 みだらな行為を避けるための結婚は、初期スコラ学者により定式化する。パリ大学神学教授のオーベルニュのギヨーム(1180/901249)はこういった。「若くて美しい女性と結婚することが望ましい。なぜなせば美人を見ても氷のようにいられるから」。毒をもって毒を制するということ。

同毒療法としての結婚の意義づけであるが、別の見方をすればイエスと真正パウロの結婚に関する見解は結婚を生殖目的から解放したのである。終末論的状況において生殖は意味をなさないからである。西洋の個人主義的友愛結婚の根拠はここにあった。

 

[viii]第二パウロ書簡とは、聖書正典としてパウロの名に帰せられているが、文献学的には偽パウロの筆による二次的なパウロ主義的書簡をいう(テモテ第一、第二、テトス、エペソ、コロサイ、テサロニケ第二、)。ヘブル書は伝統的にパウロに帰せられているが、パウロによるものと限定する必要はないので、パウロ書簡に含まれないことが多い。又ペテロ第一、第二はペテロの名に帰されているが、パウロ主義に近く、これらも含めてここでは第二パウロ書簡等と称することとする。

ペイゲルス女史がわかりやすい説明をしている。パウロの死後30年~50年の時点で、初期クリスチャンは、急進的禁欲主義者と通常の結婚を支持する穏健派との間で遺産の分捕り合いのような争いとなった。その結果大多数の教会が、2世紀末までに今日新約聖書とよばれている福音書と書簡の目録の結集を正典として受け入れることにより穏健派が勝利した。[ペイゲルス1988 78頁]

 真筆性の疑義は、決して正典としての価値を毀損する趣旨ではない。イエスもパウロも独身主義者である以上、禁欲主義の主張はそれなりの根拠をもっていたが、「家庭訓」ジャンルを有する第二パウロ書簡等が下記のように急進的禁欲主義を排斥したため、キリスト教は、急進主義的なセクトで終わることなく、世界的宗教に進展することができたからである。

 「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、結婚の床は汚されてはならない」(ヘブライ134)。エペソ書は禁欲主義的キリスト教徒を愚か者と呼び「自分の肉体を憎んだ者は誰もおらず、むしろそれを養い、いたわるものである。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。『それゆえに、人は父母から離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』この奥義は大きい。それはキリスト教会とをさしている。いずれにしての、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。また妻も夫を敬いなさい」(エペソ52933)と主張した<。

 エペソ書の著者は、アダムとイヴのその結果としての結婚のヴィジョンをキリストと教会の大いなる秘儀を象徴するものとした[ぺイゲルス1988]とした。

[ix]中世最大の教師、パリ司教、1160没。塙陽子「カトリック教会婚姻不解消主義の生成と発展」『家族法の諸問題()』1993 信山社 からロンバルドゥスの理論を引用する。

「先ず、合意が『私は汝を娶ろう』の意味において、≪ego te accipiam in uxorem≫≪ego te accipiam in maritum≫なる言葉でなされたとき、sponsalia per verba de futuro(未来文言の約婚)として婚約が成立する。これに対し『私は汝を娶る』の意味において≪ego te accipio in uxorem≫≪ego te accipio in maritum≫なる言葉で交換された場合には、 suponsalia per verba de praesente(現在文言の約婚)であって、婚姻はただちに成立する。しかしこの婚姻は所謂matrimonium ratum(et non consummatum)(未完成婚)であって、信者間にのみ成立する婚姻であり、原則として非解消で在るが若干の例外を認めうる。 すなわち、夫婦の一方が婚姻に優る状態であるところの修道生活に入る場合、又は教皇の免除(despensatio)を得た場合には解消しうる。この未完成婚の状態にある夫婦にcopula carnalis(身体的交渉)を生じた場合、始めて『二人の者合して一体となり』(erunt duo carne una)、キリストと教会の結合を顕わし、秘蹟としてmatrmonium ratum et cosummatum(完成婚)が成立する。これは絶対に不解消である。また、婚約の場合において、当事者がverba de praesentiを交換した場合、これは婚姻に転換するが、単に未完成婚にすぎず、完成婚になるためには更にcopula carnalis(consummatio)を要する。唯、verba de futuroを表示した当事者間においてverba de praesentiを交換する前にcopula carnalisを生じたときは、直ちに完成婚を生じた。したがってconsummatioは婚姻の成立に不可欠のものではなく、単に婚姻を不解消とするものにすぎない」

 図式化すれば以下のようになる。ロンバルドゥスは合意主義婚姻理論とされ、合意主義にこだわった神学者といわれるが、合衾の意義もそれなりに重視されており、巧妙に折衷させた理論といえるだろう。

①現在文言での約言(婚姻成立)→合衾(完成婚)

②現在文言での約言(婚姻成立)→合衾の前に修道生活入り又は教皇の免除(例外的に婚姻解消)

③未来文言での約言(婚約)→現在文言での約言(婚姻に転換)→合衾(完成婚)

④未来文言での約言(婚約)→合衾(完成婚)

[x] 武士の場合は史料上、嫡子単独相続を明記したものとして 宝治元年(1247)平朝秀譲状が最も古い。

 貴族層では、暦仁(りゅくにん)元年(1238)の藤原忠定置文 (藤原北家御子左流、歌人として著名な藤原定家の伯父にあたる人物)が最も古いとされ、次に仁治(にんじ)3(1242)石清水八幡宮宇美宮家の房清処分状案とされる。

 正応6(1293)関白を辞した九条忠教による家督の内大臣師教宛の譲状は、「為興隆家門、不分譲諸子」として日記・文書・剣・平緒と荘園所領の全てを長子師教一子に処分したものである。これは忠教の父忠家の遺誡によるものなので、分割相続の停止は、忠家薨去の単独建治元年1275よりも早い時期とされるのである。

 ただし、元享元年(1322)西園寺実兼処分譲状案は分割相続である(ただし、関東申次を継がせた実衡を「家督之正流」として日記文書や氏寺妙音院を譲与している)。久我家が単独相続に移行したのは南北朝期(岡野友彦「中世久我家と久我家領庄園』続群書類従完成会2002』、勧修寺家も南北朝期(『中村直勝著作集第4巻』淡交社1978』とされている

 実務官人について、官務(大夫史)は11世紀末頃より小槻氏が世襲・独占し官司請負制となり、局務(大外記)は12世紀半ば中原氏と清原氏によって独占され官司請負制になったというのというのが通説であるが、遠藤珠紀『中世朝廷の官司制度』吉川弘文館2011は、後世から遡って系図の特徴から「家」成立の起点設定しているあり方に疑問を呈し、小槻氏については13世紀後半、中原氏は14世紀に中世的「家」が成立するという。

文永4(1267)、小槻秀氏(大宮流)と小槻有家(壬生流)の代に所領相論の結果、小槻「氏」のなかで永業流(大宮家)と隆職(壬生家)の優越を宣言し、両流で官務職と相伝文書の独占的継承を認めたことが「家」成立の画期とする。

  文永10(1273)つまり元寇の前年の「小槻有家起請」は「所領事(中略)有家子孫中、伝文書仕朝廷之者、為其財主可惣領(攻略)」と文書だけでなく所領の嫡子単独相続を定めた。実際には所領争論はこの後も繰り返されているが、嫡子単独相続の自覚的宣言として、戦後の民法改正まで700年近く続いた、嫡子単独相続の濫觴とみなしてよいだろう。

  関連して三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館 2007によれば、文永10年に九条忠家が関白に就任し、いわゆる五摂家が摂関職に就任できる家と確定したのであり、蒙古襲来の前年文永10年はその意味でも画期といえるのではないか。

[xi] 江守は、出嫁女の婚家帰属について漢族の嫁入婚文化の影響のほか、朝鮮族との関連性、さらにギリヤーク族に日本の東北地方にみられる「カマド分け」儀礼に似た習俗がみられることから近似していることを報告している。

  火による祓除

 火の儀礼は、韓国や満州族(中国では満族という)と共通し、ユーラシアに広くみられるものであるが、『隋書』倭国伝に「婦、夫家に入るや、必ず先ず火を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ」の一文があり、大化前代にも嫁入婚があった。その他労役婚(年期婿)、養老招婿婚など北方民族との共通点を多く指摘しているが 日本では花嫁が夫家に入るとき、火を跨いだり、交叉する松明の下をくぐらされたり、焚火の傍らを通る火の儀礼は各地で行われていた。二木謙一『中世武家の作法』吉川弘文館1999が文明-永正期の政所執事伊勢貞陸(さだみち)の著書でも、武家の婚礼でも夕刻の輿入れで門火という篝火がたかれるとしている。

[xii] 父系的な傾向は2世紀からというのは、倭国の大乱で西日本が内乱状態だった。妻方居住婿入り婚だと、戦力となる若い男の忠誠心が維持できず戦闘に不利であり、内乱期には嫁入(夫方居住)の父系を促したとの見解。

 結婚にあたって火を跨いで妻が夫の家に入るという習俗は、わが国に広くみられる、火の間を通るのもあるが、火によって花嫁が清められて夫の家に入るという西ヨーロッパにいたるまでユーラシアで広くみられる習俗であるから、古代から嫁入り婚があったという説である。また牧場の経営も父系となるといっている。東国武士の同族は牧場の経営組織からでてきたという仮説も提示されている。

[xiii] 高群逸枝は、平安前期の「一時的妻訪婚」を意図的な創作により「純婿取婚」とした。八九四年より一〇八七年までの結婚は婿の実家に妻子を連れていくことはないとするのである。

 要するに  ツマドイ、ムコトリとは、婚姻の初期の段階であるのに、母系原理の根強い存続を主張するために、意図的資料操作により虚構の学説をでっち上げたのである。 

 栗原弘[1994]によると、高群逸枝説というのは、日本は古代から一貫して父系家父長制であり、男性による女性支配が宿命であるとの説を打破し、男性社会に反撃する目的で創られたもので、女性史を冷静にみようとするものではなかった。 栗原は藤原氏の主要な邸宅の伝領過程を明らかにすることによって、高群が父系異居構想のために意図的操作をしていることを明らかにしている。高群学説について学問的否定者は、洞富雄、江守五夫、鷲見等曜、思想的批判者として、緒方和子、中山そみ、犬童美子である。

 ところが批判的継承者や思想的共鳴者のほうがずっと多いのである。このために高群学説がいまだに偉大だと勘違いしている人が多いのが大問題である。

  私が思うに、当事者の合意で婚姻が成立するのは古典カノン法の理念である。秘密結婚を承認したのは教会法だった。しかしラテン的キリスト教世界の教会法圏外の社会ではそうではない。一般的に、婚姻成立のために重要なのは妻方の父母、親族の承認である。そうでないと駆け落ちになるからである。日本の古風なムコトリの意味は娘との婚姻を承認することを公にする儀式として重要なのだろう。

 柳田国男の「聟入考」は、日本は古代か一貫して父系社会であり、「聟入」を付随した古風の婚姻と、「聟入」を喪失した新しい婚姻を峻別しない[栗原1994 32頁]。

  私は必ずしもそう考えない。当事者が結婚相手を探して仲人が仲介する村落と、家と家との取決を仲人が仲介する結婚が基本の村落では結婚のあり方が違うからである。

  しかし一時的妻訪婚とて、いずれ、夫方に居住し落ち着くということであれば、柳田の結婚のあり方としては大差ないと認識してよい

 京楽真帆子[1993]は高群逸枝の古代招婿婚・妻方居住が基本だったとする説を明確に否定している。 「貴族の居住は、一般に「仮住まい」・「寄住」を経たのち、買得、譲渡によって所有権を正式に得た邸宅で行われるようになる。平安貴族にとって、妻方居住はこうした「仮住まい」・「寄住」の一形態にすぎなかった」  妻方居住は仮住まいの選択肢の一つにすぎなかったわけである

 

[xiv] 家族制度の本義として、祖先の祭祀はその血統の子孫が営むべきであって、異姓からの養子を嗣子とすると、その宗族を乱すと考えられたため、同一血族の同族の男子(厳密には昭穆制により同世代の)を養子とする。異姓は養子に迎え入れない。なお、正確にいうと華北・華中では、同姓父婚でなく同宗不婚、伝統的な韓国の門中は同姓同本不婚である。(なお、中華人民共和国では宗法を封建制度として否定している、韓国では1997年同姓同本不婚が違憲とされ、2008年に戸主制度と戸籍が廃止され新しい、新しい身分登録制度に移行している)

[xv] 宋慶齢は1927年にソ連にて共産党の支援を仰ぐためモスクワに行っており、共産中国の国家副主席でもある。

[xvi] 民主党政権千葉法相時代に法改正が行われそうになったが、日本会議が大集会を行なって抵抗したし、結局不人気な政策を強行できなかったのであり、それを最高裁が肩代わりしてやってあげるというのはおかしい。

[xvii] エンゲルス/戸塚訳『家族・私有財産・国家の起源』岩波書店1960戸塚訳は次のようにいう。

 「原始社会には。生産力や技術からみて、集団的土地所有と集団労働が必要不可欠であり、生産物も共同で所有していたから、貧富の差はさほどなかった。生産力の発展によって、より多くの生産物が蓄積されるようになると、その生産物を財産とする私的所有が生まれてくる。

  さらに、私的所有物を、確実なわが子に継がせるために、夫は妻を自分の家屋に住まわせる嫁入婚とし、夫婦と子どもと奴隷で構成される社会的単位としての家族が生まれた。財産所有者は夫だったから、家長が奴隷を支配するように妻も子どもも隷属させる家父長制家族として成立した。世界史的女性の敗北である。そして家父長どうし奴隷の反乱防止と相互の利害調整のために、法と軍隊をそなえて国家を作りあげる。家族・私有財産・国家は、こうして歴史的に誕生した。」

文献表

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2000「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下

2006『古代・中世のイエと女性』校倉書房196頁以下

荒井献

1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号1985日本聖書協会発行 162頁以下 『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス 1988も同内容

嵐義人

1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社222)

井戸田博史

1986『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 

2003『氏と名と族称』法律文化社

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1968「出雲調査短報」『民族學研究』331号 1968

上野和男

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ウタ・ランケ・ハイネマン

1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 20頁以下

宇根俊範

1983「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して宇根俊範「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』(広島大)147 1980

梅村恵子

2000「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

江守五夫

1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990

1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993

1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998

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1977『「家」と女性の歴史』

大藤修

1996『近世農民と家・村・国家 : 生活史・社会史の視座から』吉川弘文館1

2001「幕臣体制の成立と法」『新体系日本史2 法社会史』

折井美耶子

2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636 

加地信行

1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書

勝俣鎭夫

2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社

蒲生正男

1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970

1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

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河内祥輔

2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館

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2007「摂関・院政期における官人社会」『日本史研究』535

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2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版

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2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会

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1963『歴史のなかの家族』酒井書店

1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社,

クーランジュ

1924 田辺訳『古代都市』白水社1961、原著1924)

栗原弘

1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店 

久留島京子

1989「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185, 1989

小池誠

4 2005「序言 「家社会」とは何か(特集 アジアの家社会)」『アジア遊学 』74 

後藤みち子

2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

柴桂子

2003「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003]

(2004「〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント」『総合女性史研究』(21) [2004.3])上記と同内容

 

清水昭俊

1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

滋賀秀三

1967『中国家族法の原理』創文社1967 

シロコゴロフ

1924大間知訳満州族の社会組織」『満州族』(大間知篤三著作集6)未来社1982原著1924)

鈴木明日見

2013「ランゴバルド諸法における男子未成年者の婚姻 : リウトプランド王付加勅令128条、カロリング勅令140条を中心としてThe Marriage of Male Minor in the Lombard Laws : Based on the Article 128 of the Laws of King Liutprand and the Article 140 of the Laws of Carolingian」『駒沢史学』80 2013

曽我良成

2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館

高橋秀樹

2004『中世の家と性』山川出版社

ダニエル・デフォー

1724山本和平訳「世界文学全集10」集英社1981 379頁

谷口やすよ

1978「漢代の皇后権The Political Power of the Empress in the Han Dynasty」『史學雜誌 』87(11) 1978 

所功

1971「続類従未収本『三善氏系図』考「続類従」『塙保己一記念論文集』温故学会

仁井田 陞

1952『中国法制史』岩波書店1952

西谷正浩『日本中世の所有構造』塙書房2006

中根千枝

1970『家族の構造-社会人類学的分析』東京大学出版会1970「日本同族構造の分析」

樋口健太郎

2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年

2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

福島正義

1990『武蔵武士-そのロマンと栄光』さいたま出版会

福地陽子

1956<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展<Article>THE GROWTH AND DEVELOPMENT OF THE CATHOLIC PRECEPT AGAINST DIVORCE」『法と政治』7(4)1956

服藤早苗

1991『家成立史の研究』 校倉書房1991

J・Lフランドラン

1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

イレイン・ぺイゲルス

1988 邦訳1993絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社

保科季子

2002「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』6121

洞富雄

1957「明治民法施行以前における妻の姓」『日本歴史』137号

松永晋一1959

「キリストのからだとしての教会The Church as the Body of Christ」『神學研究』 9  1959

宮地正人

1981『天皇制の政治史的研究』校倉書房

桃 裕行

1947『上代学制の研究』畝傍史学叢書

湯川俊治

2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

吉田孝

 

1963 『律令国家と古代の社会』岩波書店

2015/12/15

下書きの修正 カウンターレポート民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである (選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)その1 

川西正彦

 

 

目次

 

 Ⅰ 明治民法の夫婦同氏()制 梅謙次郎の立法趣旨は正しい

 

(Ⅰ)妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致しているとの立法趣旨は正しい。

 

1 出嫁女の婚家帰属(婚家の成員である)の立証

 

() 清水昭俊説

 A 家成員の資格

 B〈家連続者〉と婚入配偶者

 C 排除予定者

 D 定形の地位構成団体としての「家」

E 仏体系

 F 家成員獲得過程を規制する規則群

()いわゆる核家族も「家」である

 

 

 

Ⅰ 明治民法の夫婦同氏()制 梅健次郎の立法趣旨は正しい

 

 

明治民法起草者穂積陳重・富井政章・梅謙次郎の三者のうちもっとも強く夫婦同氏を推進したのが梅謙次郎である。梅は儒教道徳より愛情に支えられた夫婦・親子関係を親族法の基本とし、士族慣行より、庶民の家族慣行を重視した点で開明的だった考える。つまり進歩的な民法学者が夫婦同氏を強く推進したのであって、その趣旨は今日においても全く妥当である。要約すればそれは

 

◎夫婦同氏は婚入配偶者が婚家に帰属する日本の「家」、家族慣行に慣習に合致する。(明治民法施行前から実態として夫婦同氏だった)

 

◎ドイツ、オーストリア、スイス、イタリア等の法制が夫婦同姓でありそれに倣う。欧米の単婚家族におけるファミリーネームの継受。

 

これは夫婦同氏()が日本の家族慣行に合致するとともに、欧米の家族慣行にも合致しているものと評価できるのである。日本の伝統的な家族観も生かし、欧米の友愛結婚の理念にも合致する。

 

 

(Ⅰ)妻は婚入配偶者として夫の家に入るのであるから夫婦同氏が日本の慣習に合致しているとの立法趣旨は正しい。

 

梅は法典調査会で、漢土法に倣って夫婦別氏とすべきという一部の意見に強く反対し、日本の慣習では妻が夫の家に入ることが慣習である以上、実家の苗字を唱えることは理屈にあわないとはっきり言っている。

 

「支那ノ慣例ニ従テ、妻ハ矢張リ生家ノ苗字ヲ唱フベキモノト云フ考ヘガ日本人ノ中ニ広マッテ居ルヤウデアリマス〔ガ〕‥‥之カ日本ノ慣習少ナクトモ固有ノ慣習テアルトハ信しシラレマセヌ、兎ニ角妻カ夫ノ家ニ入ルト云フコトガ慣習デアル以上ハ夫ノ家ニ入ッテ居ナガラ実家ノ苗字ヲ唱ヘルト云フコトハ理窟ニ合ワヌ‥‥」『人事慣例全集』58[江守1990 57]

 

実際、日本において出嫁女は主婦予定者あるいは主婦として婚家に迎えられてその成員となり、死後は婚家の仏となるのが慣習なのである。それは今日でも全く同じなのだ。

 

実はシナにおいても妻は夫の宗に帰属し、後述するように清朝の姓名記載慣習は夫婦別姓ではない。漢土法については誤解があると思われる。第Ⅵ章で明らかにするが我が国においても夫婦別氏(姓)は旧慣習ではなく夫婦同氏(姓)が妥当なものである。

 

婚入配偶者の婚家帰属は揺るがせにできない根本的社会規範・倫理であるので、この立法趣旨は堅持されるべきで、これが民法750条を合憲としなければならない第一の理由である。

 

ところが法制史家は、夫の家に入ることを象徴するための氏という明治民法立法趣旨に批判的な人が多い。夫婦同氏制度を妻が夫の家に入って共同生活に入ると同時に夫の戸主権に服する「家」制度の残滓[熊谷開作1987 208頁]とみなすのである。

 

しかし、ナポレオン法典231条「夫は妻を保護し、妻は夫に服従する義務を負う」とある。ナポレオン法典には、父権、夫権、親族会議の力を示すものが多い。父権、夫権は近代市民社会において全く正当な価値である。

 

戦後の改正で戸主権に服するという法意は喪失したとはいえ、実質、妻が夫の家に入るという、(出嫁女は婚家の成員となる)ということが慣習と合致しているとする立法趣旨が今日でも有効性を失ってないというのが私の主張である。

しかし夫婦別姓推進論者の法制史家井戸田博史は、現行法では、氏に親権・扶養・相続の権利や義務を結び付けておらず、家名を表象しないという。また戦後民法改正により「家」が廃止されたのであるから、氏から「家」が払しょくされ、家名の性質はなくなった。氏は個人の同一性を表す「個人の呼称」となったとする[井戸田1986]。

しかしこの見解は、実定法の構造を述べたにすぎず、実態とかけ離れている。氏(苗字)を冠称することが「家名」を示すものではないというのが国民の一般的意識とはとても思えない。そして私はジェンダー論のように、家制度や家督、戸主、家長、主婦という地位構成に拒絶反応を示す論者に強く反対である。それでは全く国民の社会的営為の実態を無視したものになるからである。

戦後民法の改正により確かに明治民法の「家」制度・嫡子単独相続は崩壊した。公家や武士についていえば嫡子単独相続に移行したのはおよそ3世紀末から14世紀であるから、600700年の伝統の瓦解を意味する。男性は戸主権を喪失し弱くなり、長男は分割相続により威信を失ったというのは社会的事実である。しかしながら社会構造、慣行として日本的「家」、単性家族は明らかに存在している。

社会人類学の大御所といえる清水昭俊国立民族学博物館名誉教授の出雲地方の1967年の調査によれば、相続の際、象徴物が伝達されることを「家督相続」と言っている。これは家内統制権というよりも、物象化された家長位の地位の継承のことである[清水1970 210]。今日でも家長位は慣行として存在する。

村落社会での「家」は①家内的生活(domestic life食・住・養育等)、②宗教(祖先祭祀)③政治(村落共同体の政治)④経済(家計と農業生産労働)という幅広い生活を共同で営む[清水1987 205頁]。

戸主権は喪失したといっても、家長にはその「家」の指し示す家格と、それを裏付ける経済力、家格に応じて村落社会から家に課せられる、社会的義務と期待、これを維持、発展させる役割があり、家業その他の社会的営為の統括者としての役割がある[清水1970 208頁]。水利組合の下部組織「島」「組」、市や農協の事務を行う「区」といった村落共同体の組織に対する家の代表者でもある。

したがって、民間の慣習として家長という地位が否定されなければならない理由などもちろん全くないのである。

日本の社会学では、欧米の婚姻家族との対比において日本の「家」の独自性、特殊性を強調し、封建的、前近代的なものとして否定的する傾向が強いが、レヴィ=ストロースの「家社会」の研究により、日本の「家」に類似するような社会制度は世界各地に存在していることがわかってきた。レヴィ=ストロースは次のように「家」を定義する。「物質的および非物質的財から構成される財産を保有する法人であり、この法人は現実の系あるいは想像上の系にそって、名前、財産、称号を伝えることを通して永続する。この連続性は親族関係または姻族関係の言葉において、たいていはその双方の言葉において表現されている限り正当なものとみなされる」。また家は成員権が出自規則によって明確に定められているクラン、リニィジより家はある程度融通性があると説明されている[小池誠2005]。

従って、「家」を否定的に評価する理由などない。

重要なことは日本の家とは、離接単位で、同時に複数の家に帰属する事はあり得ない。家長と主婦という地位が永続していくリネジ団体であり、主婦予定者として嫁が、家長予定者として婿や迎えられるという構造である。この構造から夫婦同氏は当然のものとして理解できるのである。

 

1 出嫁女の婚家帰属(婚家の成員であること)の立証

 

 

(1)清水昭俊説

 

 論旨を明快にするため人類学者では厳密な定義で定評のある清水説を中心に取り上げる。

 

 清水は日本の「家」を次のように定義する。

 

「家は家族というよりもむしろ出自集団descent group、それも分節リネジ体系における最末端分節としてのリネジ団体に類比的である」[清水1980b 清水1987 219]。清水は1967年の出雲地方斐伊川下流の村落の調査にもとづき精緻な理論で「家」成員交替過程を明らかにした。

 

結論を先に述べると、清水は日本の「家」の構造を理論化し、家長-主婦という地位は必須の構成であること。家長と主婦は必ず夫婦であること。次代の家長と主婦を確保することで永続が保障されること。嫁は主婦予定者として、婿は家長予定者として婚家の成員であること。婚入配偶者は、死後も婚家の世代仏となるので、その婚家帰属性は論理的に明らかである。

 

A 家成員の資格

 

家成員は実子、養子、婚入者の3つの範疇と断言している。子供(実子・養子)と婚入者(嫁・婿)の2つの範疇と言い換えてもよい。[清水昭俊1973 62頁]

 

 つまり、家成員の獲得とは、出生、家外からの婚入、養取である。

なお、清水は妻妾制の廃止された明治から昭和の「家」について論じており、近世においては密子・猶子というカテゴリーも認められるが、ここでは論外としたい。

 

B〈家連続者〉と婚入配偶者

 

清水が独自に定義している用語で、家長-主婦の地位構成で婚姻に先立って家の成員であった者を〈家連続者〉と定義する。つまり跡取息子、家付き娘等の範疇である。〈家連続者〉の配偶者、家外から婚入して来る者を、男なら婿、女なら嫁という。婚姻は両性の個人の結合のみならず、家と個人の結合でもあり、この家を婚入者にとって婚家という。

 

従って、この結合の終息は離婚ではなく、家との結合の断絶でありこれを不縁という。

 かくして、家連続者夫婦→子供の出生=次代家連続者獲得→(次代)家連続者夫婦という循環的な過程が繰り返されるのである[清水1973]

 

C 排除予定者

 

〈家連続者〉だけが、生涯、家の成員であり、その余の子供たちは婚姻より前に生家から離れなければならないので、これを排除予定者と定義する。

 生家からの排除は、婚出、養出、分家設立の3つの形態のみである[清水1973]

 

D 定形の地位構成団体としての「家」

 

家成員は、おのおの与えられた地位に伴う役割を分担するものとして家生活に参与する。家は集団として不定形ではなく、限られた数の地位が一定の秩序に配列されている。つまり家は、時間的に配列された夫婦の対の地位(前・現・次代の家長・主婦-下記参照)と排除予定者以外の地位を用意していない。

 

前家長(おじっつぁんold man,grandfather)-前主婦(おばばold woman,grandmother)

 

家長(おっつぁんmale adult)-主婦(おばさんfamale adult

 家長予定者(わけぇしゅyoung fellow)-主婦予定者〈嫁〉(よめじょinMarrying young woman)

[清水1987 209]

 

E 仏体系

 人は死亡時に所属した家の仏になる。仏には世代仏と子仏の2種類がある。世代仏(セタイホトケ)とは、清水が出雲の調査で発見した概念だが、日本の「家」の標準的な仏体系とみなしてよいと思う。

これは、歴代の家長・主婦達であり、出雲では永久に年忌が営まれる(弔い上げはない)。生前結婚し、家長・主婦に予定されながら、家長・主婦になる前に死亡した者、男の家連続者(家長予定者)が、結婚年齢に達しながら未婚で死亡した場合を含む。ただし婿、嫁で不縁とされた者、中継ぎとして分家した夫婦、女の家連続者については夫が世代仏にならない限り、世代仏とはならない[。一系列に配列された歴代の世代仏は、生きている家成員と、家の創始者(先祖)を結びつける媒体である[清水1987 208頁]。

子仏とは生涯独身であった排除予定者、婚家で不縁とされて出戻り再婚しなかったケース等である。位牌とは区別されて箱位牌に収められ、父母兄弟など近い血族が家成員でなくなると忘れ去られていく。

清水が家を家族というよりは出自集団descent group[i]あるいはリネジ団体と定義したヒントが世代仏であったと考えられる。

例えば社会人類学者の蒲生正男は〈出自〉を、「社会的に承認された親子結合の世代的連鎖にもとづく、特定祖先への系統的帰属の方法」と規定し、〈出自集団〉の基本的特性は「単系性」と「自律性」にあり、出自の認知を明確に親子関係の連鎖としてたどれるものを〈系族lineage〉、単なる信念としてのみ出自の認知があるのを〈氏族clan,sib〉と説明している[蒲生1974]。

世代仏は見事に「世代的連鎖にもとづく特定祖先への系統的帰属」を表しているといえるだろう[ii]

 

F 家成員獲得過程を規制する規則群

 

 清水の学者としての能力の高さは、この精緻な規則群の提示によって明らかである。

 

(A)最下世代を基点とした家成員を基点とした家成員獲得過程を規制する規則群

 

指定される〈家連続者〉とは

 

) 下の世代が上の世代に優先する

 

)上記の枠内で男子が女子に優先する。

 

)上記の枠内で年長者が年少者に優先する。

 

 つまり第一に最下世代夫婦の長男子、第二に長女子、第三に最下世代夫婦のうち家連続者の弟、第四に最年長姉妹である。

 

 上記の可能性が不可能な場合は、家外から養子を求めるが、有力な家では血筋の中切れを嫌い分家から養子を求めるが、それは強制的な規則ではない。

 

 

(B)最下世代夫婦に事故が生じた場合の対処を規制する規則群

 

)次代家連続者長男が結婚後間もなく死亡した場合

 

 弟妹が家に残っていた場合、寡婦は生家に戻し、弟妹を家連続者に指定する。

 残っていたのが弟であり、死亡した兄と年齢差がなければ、寡婦と弟の結婚(レビレート婚)が指定される。

 弟妹も家に残って言いない場合は、婚入配偶者であった寡婦が、〈家連続者〉となり、あらたに婿を迎える。血筋としては〈中切れ〉になるがそれでも家は連続していく。

 

)息子を残して最下世代夫婦の夫が死亡した場合

 

 死者夫婦の息子を次の次の家連続者に指定したうえで、死者の弟ないし妹夫婦を〈中継ぎ〉として、息子が成人するまで家の運営を代理させる。息子の成人後、〈中継ぎ〉夫婦は分家を創設する[清水1987 211]

 

(C) 清水説(B)の補足 寡婦・寡夫の再婚による家の継承

 

 清水説はフィールドワークに基づいて家の連続は、婚入者〈寡婦・寡夫〉を介しても実現されているという規則を提示した。婚入者〈寡婦・寡夫〉は家連続者としてあらたに配偶者を迎えることにより家は連続する。

〈家連続者〉は「婚入配偶者を迎えて家成員を増殖させるために、家がその内部に用意する家成員」と定義されるため、婚入配偶者たる嫁・婿は家成員であることを見事なロジックで立証している。

 

この論点を補足すると、寡婦・寡夫の再婚による家や名跡の継承は歴史的モデルケースがある。

)畠山氏

畠山重忠未亡人北条時政女が岩松義純と再婚した例

畠山重忠は秩父平氏の嫡流、長寛二年(1164)に畠山館(現深谷市)に出生し、知勇兼備の武将として「坂東武士の鑑」とされた著名な人物であるが、元久二年(1205)北条時政後室牧の方の謀略により、嫡子重保が由比ガ浜で討たれ、重忠は二俣川で北条兄弟軍により討たれた。重忠の末子、弟による家門再興は許されず、平姓畠山氏は断絶、政子の命令で重忠の所領は没収されたが、承元四年(1210)重忠未亡人北条時政の所領は改易されないこととなり、この未亡人は足利義兼の次男、岩松義純と再婚し、畠山泰国を出生しており、畠山の名跡は泰国の子孫が継承、足利一門として室町時代には管領となる[福島1990]

 

 )住友家

 婿養子が家外から後妻を迎え、その間の子孫が家業を継承した例

 住友社史によると、家祖は政友であり、京都で書籍と医薬品を商う「富士屋」を開き長男の政以が継いだが、長女の婿となったのが蘇我理右衛門の長男理兵衛(16021662)であり、住友に改姓し、住友友以(とももち)と名乗った。実家より銅吹き業を持込み、実質住友財閥を興した人といえる。大阪に移転し代々銅精錬業として「泉屋」の家号を用いた。このため住友社史では蘇我理右衛門を元祖あるいは業祖としているのである。

 友以は岩井善右衛門女を後妻としており、実質的な家業は婿養子の友以と岩井間の子孫が継いでいる。しかし友以の母が政友姉であるから、住友家の血筋は女を介して中切れにはなっていない。しかし八代目で血筋が絶え岡村家から養子を迎え、十五代目に徳大寺家の子孫を婿養子としている[官2005 266頁][iii]

 

 () いわゆる核家族も「家」である

 

 上記清水説AFによって主婦予定者として婚入する嫁、家長予定者として婚入する婿が婚家に帰属することは明らかであるが、次のような反論が考えられる。上記の理論は日本の農村の典型的な直系家族のことではないか、現代都市のいわゆる核家族の増大を考慮してないとの。

 しかし、いわゆる核家族も「家」であることに変わりない。清水昭俊は、清水盛光、川本彰、リーチを引いたうえで日本語の「家」と欧語のfamilyは近似したものとの認識を示している。

「家内的親族集団とりわけ家族を内包とし、家内的集団]と親族的機能集団を、あるいはさらに機能的親族集団が何らかの機能的関係(一族としての連帯関係など)に取り込むことのできる範囲の(遠い)親族を外延とする概念」を表す用語として日本語では「家」、欧語の最広義でのfamilyないしその同系語、あるいはhouseないしその同系語が適当」[清水1987 56頁]としている。

 さらに清水[1987 96頁]は次のようにも云う「家‥‥は家族本位制のもとに、つまり〈いえ〉といった理念の下に共同意識で結ばれた家内的生活集団と定義され‥‥伝統的社会の家で営まれる家内的生活の内容は豊富で、多くの機能が累積している。つまり重責的共同体である。またこのように家を定義すれば、現代都市の核家族もまた〈マイホーム〉〈かぞく〉〈いえ・うち〉といった理念で結ばれた家だということができる」とする。

 家業の継承のない核家族といっても親族との連帯関係がないということは考えにくい。相続、盆暮の帰省、特定祖先への系統的帰属意識、何よりも民法自体直系血族の第一次的扶養(民法877条1項)等が期待される親族共同生活の場とされているので、親族構造と無関係な単なるドメティックグルーブであり得るはずがない。

 人類学者の蒲生正男は、単純に日本の伝統的家族を二類型に分け〈直系家族はunilateral familyと〈隠居制家族〉はconjugal unilateral family[iv]とする。共住を家族の要件としていないのは、レヴィ=ストロースに倣ったものだろう。世帯分離でも家族と規定できるのである。

 

 人類学者の定義に従えば、夫婦別姓推進論者に多いジェンダー論は婚姻家族を崩壊させる懸念が強い。つまり母系家族と対極をなすのが婚姻家族であって「これは家内的生活が

主として夫婦間の性的分業によって営まれる家と定義され、核家族や核家族かになる拡大家族はこれに含まれる」[清水1987 97頁]とされている。婚姻家族において性的分業は当然であるからだ。

 

 


[i]社会人類学の概念を用いて初めて家・同族を定義したのは中根千枝(1926~東大名誉教授)である。中根は出自集団descent group(中根は血縁集団と訳す)を定義して、成員権が「正式の結婚による父母を前提とする出生によって決定され」、この成員権は「原則として‥‥個人の一生を通じて変わらない」としたうえで、日本の家・同族においては婿養子や養子が成員権を得ることと、養取や婚姻によって個人が所属を変えることなどから、同族は(父系)出自集団ではないとした[中根1970]

これに対して蒲生正男(19271981)は、この理解は人類学の常識を逸脱し、重大な誤解があり、偏見、空想であると批判した[蒲生1974]。これを中根-蒲生論争という

 蒲生は出自を規定する要因として「出生のみに根拠をおくことは、実体の理解に適切ではない」「社会的に認知され‥ればそれで充分である」[蒲生1968]

嫁を家の「ムスメ」とする「『カマドの一体化原理』」[蒲生1970]や非親族を養子としてとり込む養取の方式ゆえ、及川宏や喜多野清一も理解していたように同族を出自集団と扱ってよいと結論し、蒲生は日本の伝統的家族を「単性家族unilateral family」、同族は「practicallevelで言うなら‥‥cognatic lineage‥‥ideallevelで言うならpatrilineageと規定」することができるとした[蒲生1968]

 

私はこの論争について次のように判断する。清水昭俊[1987]が、中根説を批判し、厳密に父系出自集団といえるのは韓国の門中だけだと言い、日本の家・同族について準父系の出自形式とし精緻な理論で説明し手いる、家は家族というよりも出自集団と論じ、江守五夫[1990]も中根説が中国の宗族について女性は婚姻の後も出生の宗族の成員としたこと重大な誤りと指摘し、韓国の門中(姓族)も婚姻後は夫族に帰属すると述べた[1990]]。いずれも首肯できるのであり、中根説は重大な欠陥があるとみなすほかない。

 

[ii]上野和男[1985]が位牌祭祀の諸類型を分類しているが、清水が発見した世代仏は、上野の分類する相続者夫婦を本幹とするもので位牌が深く蓄積する「父系型」と類型化されており、日本で最も広い分布をもつものとされている。〈出自集団〉の基本的特性は「単系性」にある以上、あえて「父系型」と類型化する必要もないだろう。バリエーションとしては、位牌が蓄積しないケースもあるまた少数例であるが、特殊な形態として分牌祭祀と、位牌分けがある。

 分牌祭祀は1934年に五島列島で発見され、その後北限の福島県まで事例が報告されているが、これは生前より本家(長男)が父を世話し、分家(次男)が母の世話をする。死後の年忌法要も本家が父と分家が母というように分担するものである。これは婚家の同族での分牌であるから、婚入配偶者の婚家帰属を否定するものではない。

位牌分けは、複数の子供たちが位牌を別々に祀るもので、養出、婚出した子供の家に持ち込まれると双系祭祀になってしまう特異な例である。しかし上野は養出、婚出した家では一代限りのものとしており、この例外的事例をもって 、婚入配偶者の婚家帰属が揺らぐというものではない。このほか複寺檀制(半檀家)の指摘もあるが、きわめて例外的なケースにすぎずこだわる理由などない

[iii]日本の伝統的な家(単独相続)制度は、中国や韓国のように均分相続でないので、家族経営規模を保全して零細化を防止し、婿養子や非血縁養子により永続性が確保でき、家業・家職の継承に有利なだけでなく、住友家は婿養子が「持参金」代わりに製銅業を持ち込んだケースだが、経営能力のある婿を迎えて家業を興したり、養入により生家の家業を持参して事業を拡大できる等メリットが多く、ジォンダー論者のように敵視されるべきものではない。

[iv]

蒲生は家族を「夫婦関係ならびに親子関係、もしくはその連鎖で結ばれた特定範囲の人たちからなる集団」と単純に規定した。

 

そして親子関係が尊重されるか夫婦関係を尊重するかで、婚姻家族と親子家族というと変差を生み出すとする[蒲生1974]。

 

そのうえで「日本の伝統的な〈直系家族〉はunilateral familyであり、〈隠居制家族〉はconjugal unilateral familyであって、日本の伝統的家族の基本構造をunilateral なものとして理解しようとするものである。たとえば家の象徴として〈家名〉〈家屋〉〈家職〉〈家督〉などがあげられているが、これらの継承相続が一方の親からのものに限られているなら、その構造はunilateralというべきもの」[蒲生1975]つまり日本の家を単性家族と規定した。

 

この概念は、ミードやレヴィ=ストロースが批判した核家族批判説の議論のなかで登場した「単性家族unilateral family」「双性家族bilateral family」の類型論にもとづくものであり[上野1982]、蒲生は一方の親子関係をとりわけ優先的に尊重するものを単性家族、一方夫婦別産が顕著なら双性家族と認知しうるとする[蒲生1974]。

 

 

 

蒲生正男(1974)の家族類型論

 

 

lateral family

 

(親子家族)

 

bilateral family(双性家族)‥‥アラスカ・エスキモーの家族

 

unilateral family(単性家族)‥‥日本の直系家族

 

conjugal family

 

(婚姻家族)

 

bilateral family(双性家族)‥‥ オーストリア農村家族

 

unilateral family(単性家族)‥‥日本の隠居制家族

 

 

日本の直系家族は明治民法が理想として規定してきた家族形態であり、東北や北陸地方を中心に東日本に広く分布する。しかしもう一類型あり、夫婦関係を尊重する西日本の隠居制家族 でありconjugal unilateral familyと規定し、いずれも単性家族としているのである。

 

むろん蒲生が顕著な夫婦別産とみなしているオーストリア農村とて夫婦同姓であり、たとえ夫婦別産でもキリスト教的な絆の強い夫婦倫理から、父系姓=ファミリーネームが西欧では普通だから、それが夫婦別姓の理由になるわけではないが、日本的「家」を単性家族と定義され、出嫁女が婚家に帰属する以上、夫婦同氏制が我が国の家族慣行に合致しているという根拠の一つといえるだろう。

 

 

2015/12/13

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその10(選択的夫婦民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 

下書きは今回で終了する

 

Ⅴ 井戸田博史などの法制史学者の夫婦別姓旧慣習説は否認されている

 

4)明治9年太政官指令の批判的検討

 

A 位記は夫婦別氏の根拠にはならない

  

(要旨) 位階授与の宛名が所生の氏(源平藤橘等古代姓氏)なのは、歴史的経緯から当然のことだが、中世・近世において叙位の対象となる女性はごく少数にすぎず、しかも後宮女官も平安時代以降は、女房名ないし候名で呼称するのが通例となり、実名敬避の慣習から、叙位の氏名を社会生活で使用される実態はきわめてとぼしい。さらに古代的姓氏は明治四年以降使用されなくなり、いわゆる苗字に氏が法的にも一元化されたことから、旧慣習とみなすのは合理的でない。

 

 「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ」が妻は所生の氏とする理由しているが、これは古代的姓氏の性格にかかわるものともいえる。

 

 

 (A)位階授与と古代的姓氏の性格について

 

 女性に関して、明確に姓を冠し文書に登場するのが位階授与(位記)であった。叙位の宛名は(天皇の賜与・認定の古代的姓氏源平藤橘等)+実名である。

 従一位左大臣一条忠香の三女は、はじめの諱が勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)であったが、明治元年と改名(皇女富貴宮の諱を避けるため)。一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)

 從三位藤原朝臣美子

 右中辨藤原朝臣長邦傳宣

 權中納言藤原朝臣公正宣

 奉 勅宜爲女御者

 明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世奉(ウィキペディアより引用)

 従三位の叙位は藤原朝臣美子である。したがって 叙位文書から所生の氏という観念を引きずったとも思える。

所生の氏は当然のことで律令国家では10世紀以降有名無実になったとはいえ、改賜姓はそもそも天皇大権であり、天皇が賜与、認定あるいは奪うものであって、公民の秩序を定めたのである。氏とカバネ(真人・朝臣・宿禰・忌寸等)は朝廷政治上に占める地位に応じており、政治的に認定された身分標識としての性格も強かった、例えば桓武生母和史新笠の高野朝臣賜姓は、皇太夫人とされる前提での賜姓であるが、個人だけのもので、親族の和氏にまで及ぶものではないのである。臣下が結婚など事情で勝手に改姓するような性格のものではもちろんないのである。

 

 例えば九世紀の文人貴族として知られる南淵氏は南淵朝臣弘貞が参議、南淵朝臣年名が大納言にまで昇進しているが、もともと息長真人、槻本公、坂田宿禰、坂田朝臣という氏姓だった。改賜姓は才用による登用や天皇側近としての地位の向上に伴うものと理解できるが、十世紀以降ほとんど歴史に登場しなくなる。   

一方、称徳女帝により、和気清麻呂を別部穢麻呂に貶められて流罪にしたり、不破内親王は臣籍に降下させて厨真人厨女にされ京外追放とされたりした。それも天皇の権能であり、源平藤橘等狭義のカバネがついていた古代的姓氏は、われわれが今日使っている苗字(これも氏とも姓ともいう)とはかなり性格がちがう。

 氏やカバネは九世紀までは確実に律令官人社会において機能しており、国家は宿禰賜姓によって卑姓氏族に門戸を開き、有為な実務官僚を登用する才用主義重視の政策をとったとさられた。また高い姓に改姓することによって、系譜上同族であるという多くの氏が、昇進の機会を得たともいわれている。

 しかし承和の変以降、源藤二氏(正確にいえば北家藤原氏冬嗣流-摂関家が中心)を頂点とする門閥貴族のヒエラルキーが次第に形成されて、天皇の改賜姓権能が有名無実化していくと、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために「氏族」が父系出自のリネージとは言い難いケースが少なくないのである[宇根1983]。宇根は改賜姓の具体的事例を列挙しているが、ここでは局務家についてのみ引用する。院政期以後になると史官や外記局などの実務官人は「官職請負」的な、ほぼ特定の氏によって担われることになるが、局務(太政官外記局を統括する大外記)中原朝臣・清原真人がそうである。「局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる清原真人と直接系譜的につながるものではなく、その前身は海宿祢で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿祢広澄が清原真人姓に改姓したものである。」「中原朝臣も、その前身は大和国十市郡に本貫をもつ十市氏であり、天慶年間に少外記有象が宿祢姓を賜与され、更に天禄二年(971)にウジ名を中原に改め、天延二年(974)に至って中原朝臣となったものである。これも推測を加えるならば『三代実録』にみえる助教中原朝臣月雄らの系譜にむすびつけたものかも知れない。」[宇根1983]とされている。

大藤修[1996]によると官位を天皇から賜わるには由緒のある特定の尊貴な姓氏を持っていることが前提条件であるが、武家領主たちは、自らの系譜を由緒づけ、京都の権門勢家に画策して官位を得んと努めた。例えば家康は、三河の一土豪にすぎない松平氏を由緒づけるために、清和源氏の嫡流である上野国新田氏の支族得川氏の系図を借り受け、「徳川」氏となり、それを前提にして、誓願寺の慶岳、吉田兼右、近衛前久らの仲介により朝廷より「従五位下三河守源家康」宣下を得た、

また近世朝廷は、官職授与は武家や神職のみならず、職人などにも授与されていたのである。

 

「禁裏番衆所之記」寛永十九年条には次の職人受領のことがのっている。

 

二・四 瓦師藤原紹真任摂津掾、同藤原真清任河内大掾

 

二・九 香具屋藤原芳隆任河内目

 

二・二六 筆結藤原方富任若狭目

 

三・六 大工藤原宗政任播磨大掾、同藤原友庸任越前大掾、檜大工壬生盛政任近江大掾、各叙正七位下

 

五・二八 油煙師藤原貞鎮任豊後掾、上卿三条大納言 奉行綏光朝臣[宮地1981

 

上記8名の職人のうち7名が本姓藤原氏なのであるが、貴族の藤原氏と系譜で繋がっているはずはない。源平藤橘等古代的姓氏はもはや父系出集団ともいえない政治的に認定された標識となってしまっている。

 

B]女叙位の対象はきわめて限定されている

 

 女叙位について大藤[1996]がピックアップした近世の事例ではいずれも、将軍か将軍世嗣生母で徳川家に妾として入った女性であるがいずれも実父か養父の本姓である。

元禄15214日 従一位 藤原朝臣光子 

五代将軍徳川綱吉母桂昌院(名は玉)、家光妾、本庄(藤原)宗利養女

文政11110日 従二位 故従三位藤原輝子(追贈)

七代将軍徳川家継母月光院(名は喜世、左京の局とも称する。 家宣妾 勝田(藤原)玄哲女

文政11110日 従三位 故無位平朝臣篤子(追贈)

徳川家基母蓮光院(お知保の方)、家治妾、津田()日向守信之姉

 

 現代では生まれてすぐ命名された実名で生涯同じだが、前近代は異なる。佳字+子という実名は叙位の際命名されるのが通例と考えられる。

桂昌院の従一位は破格とも思えるが、もともとお玉といい俗説ではもともと京都堀河の八百屋の娘で、春日局のお茶子として江戸城に入り、偶々家光の御手が付いて四男の母となり、幸運にも四男は将軍に就任し、朝幕関係も良好だったかためである。

 しかし、桂昌院が藤原光子とされたのは、位記以外見出せないし自著することもないから、これを旧慣習と評価できないのである。

 なお、正妻の場合だが、後藤[2009 74]によると応仁の乱勃発の前年『後法興院記』文正元年(1466)に女叙位の聞書きがあり、「従三位源益子 関白室」は二条持通正妻の伯家雅兼王女のことであるから、女叙位は一貫して所生の氏として理解してよい。しかしこの時も女官17名に対し、正妻としては二条北政所だけである。当時、妻として叙位されるのは摂関家だけだという。したがって一般に叙位される女性などほとんどいなかったのであって、これをもって夫婦別氏の旧慣習とはいえない。

 

 

(C)後宮女官の呼称について

 

  ア 奈良時代が夫婦別氏であっても、嫡妻制が確立されておらず今日のような婚姻家族とは違うので先例とはならない

 

 

 伊集院[2014 156頁]に次のような大臣とその妻の一覧表があるが、妻が女官であることが多いのは嵯峨朝で蔵人所が設置されるまで、内侍司が「常侍」「奏請」「宣伝」を職掌とし天皇と男性官僚をとりもつ地位にあり、有力女官を妻とすることにメリットがあったためである。

 

     夫      妻

 

右大臣 藤原不比等 -県犬養橘三千代

左大臣 橘諸兄   -藤原多比能

左大臣 藤原永手  -大野仲千(尚侍・尚蔵)

右大臣 大中臣清麻呂-多治比古奈禰(尚侍)

右大臣 藤原是公  -橘真都我(尚蔵)

右大臣 藤原継縄  -百済王明信(尚侍)

右大臣 藤原内麻呂 -百済永継(女孺)

右大臣 清原夏野  -葛井庭子

右大臣 藤原三守  -橘安万子(典侍)

右大臣 橘氏公   -田口真仲(乳母)

太政大臣 藤原良房 -源潔姫

右大臣 藤原良相  -大枝乙枝

 

上記の表は、左大臣藤原冬嗣-藤原美都子のような同姓の妻のケースと、妻が不詳の大臣等を除いている。一見してこれは夫婦別氏を示すものと考えるのは早計である。論理的には実はそうではない。

貴族で嫡妻制が成立するのは関白基経以降といわれ、中世前期に嫡妻制はくずれてしまうのである。ここに記載された時期は、嫡妻制度が確立されていない。従って今日の婚姻家族とは違う。

 

例えば藤原内麻呂の妻は桓武天皇皇子(良峯安世)を生んだ女孺の百済永継と記載されているが、百済永継を妻としたことが内麻呂にとってメリットがあったとしても、坂上苅田麻呂女が最も子供が多く事実上正妻に近い、依当大神女も妻だったし、格からいうと藤原衛の母だった左大臣藤原永手女が嫡妻に近い立場ともいえる。

つまり嫡妻制が確立していない一夫多妻で、今日の家族概念と違う。

藤原衛は仁明天皇の蔵人頭、式部大輔、大宰大弐を歴任したが参議には昇進していない、九世紀、蔵人頭・式部大輔を歴任した官人は大抵参議に昇進しているので異例である。たぶん淳和上皇近臣だったため甥の良房に警戒されていたのか承和の変の影響と思える。また依当大神女を母とする大納言藤原愛発は承和の変で謀反人にされなければ大臣や氏長者となっていた可能性が高い。

従って百済永継を母とする冬嗣流が最も有力な門流となったのは結果論にすぎず、永継が嫡妻であったわけではなかった。

また嫡妻制が確立していない証拠として、藤原不比等が姦通罪にされていないことを挙げることができる。

県犬養宿禰三千代は天武12年(683)ころ敏達天皇曽孫の美努王と結婚し葛城王(橘諸兄)佐為王(橘佐為)、牟漏女王を生んだ。

ところが持統八年(694)美努王が大宰帥に赴任する際に三千代は同行せず、飛鳥に残って不比等と再婚した。

三千代は阿閉皇女(元明)付きの女官で持統上皇の信任厚く、不比等にとって有益な結婚だった。現代では夫が単身赴任で別居しても結婚は継続し、間男に妻を奪われるということは考えにくいが、この時代はさほど問題なかったと考えられている。

戸令二七先姧条に違反する姦通と思われるが、なんらお咎めはなかった。石田純一が「不倫は文化でしょ」というのも嫡妻制が確立されていなかった時期が古代・中世にあるのである意味正しいともいえるのである。

したがってこのことから、この時代は嫡妻制が成立しておらず、対偶婚的状況にあったと説明されることがある。

今日の婚姻家族とは違う。夫婦別氏の先例としては論外である

また飛鳥・奈良時代の後宮時代についていえば天武八年に中央豪族から氏女を出仕させる制度が定められ氏女は出身母体である氏から推薦されて代表として氏の名を負っているので、既婚・未婚を問わず所生の氏であり県犬養橘三千代は県犬養氏の氏女であった。公文書で女官は、職名・氏・姓と記した。氏女の場合、五位以上が氏名+命婦、六位以下が氏名+イラツメと称し、采女は五位以上が郡名+命婦、六位以下が郡名+采女と称する。[伊集院2014]。

氏女は氏の代表として宮廷に出仕しているのだから所生の氏は当然のことである。采女の場合は出身母体の郡名なのである。

 

 

イ 平安中期以降、女房の候名が確立し、通常は実名で呼称されることはない

 

平安時代中期から女房の候名が確立した。日常生活で呼称されているのは候名であって姓+実名ではない。清少納言や紫式部の実名が不詳であるのは、実名で指称されることがなかったからである。角田文衛[2006 178頁ベジ]によると平安時代中期の女房の候名は主として父、やむをえぬ場合は、夫、兄弟、祖父の官職名に因んで賜った。候名は優雅であり「実名敬避」に役立ち、女房たちの実名に煙幕をはった。女流歌人の次のような事例である[角田2006 121頁]。

 和泉式部 式部は父の藤原為時が(蔵人)式部丞の任にあったため。和泉は夫の橘道貞の任和泉守に因む。

 伊勢大輔 父の大中臣輔親が伊勢の祭主で神祇官の権大副。

 上東門院中将 父藤原道雅の任左近衛中将に因む。

 馬内侍 右馬権頭源時明の女。

 相模 相模守大江公資の妻。

 もっとも姓氏をもって指呼されている事例もある。『類聚雑例』長元九年五月十七日条に後一条天皇の御大葬に当たって素服を賜るべき人々「女房十八人」が書き出されている。

 先藤三位。藤三位。江三位。菅典侍。已上御乳母。少将内侍。兵部内侍。左兵衛内侍。左衛門命婦。左京命婦。小馬命婦。侍従命婦。中務命婦。兵衛命婦。小左門命婦。式部命婦。兵衛命婦。馬命婦。

 つまり、乳母四名は姓氏で指呼されている。しかし天皇乳母に称される例外的事例をもって夫婦別姓とはいえないだろう。しかも江三位とは近江守藤原惟憲の妻藤原美子であり大江氏の三位ではない。新田[1992]によれば夫の官職に因んで近江の内侍と称されていたが、昇叙により『栄花物語』第十九の禎子内親王着裳の儀の記述では「近江の三位」となり、第二十八の中宮威子出産の記述では「大弐の三位」となる。これは夫惟憲が大宰大弐であったためである。つまり後一条天皇乳母藤原美子の女房名は「近江内侍」「近江三位」「大弐三位」と変遷しているが、いずれも夫の官職に因むものである。

 では赤染衛門、清少納言はどう解釈すべきか。

 

赤染衛門は夫婦別氏の根拠にはならない

 

赤染衛門は帰化系氏族の赤染時用が父または養父とされる(赤染氏は燕国王公孫淵の後裔と伝え、河内を本貫として赤染部を掌る。天平勝宝二年に赤染造広足、高麿ら24人が常世連姓を賜う。)

夫は、従四位下式部大輔大江匡衡であるから、夫婦別姓の典型としてみることもあるが、父の氏で指呼する候名は珍しいものであって、例外的事例とみなす。衛門では女房相互の符牒になりえないからではないか。角田文衛氏[2006 119頁]は『紫式部日記』に依拠して赤染ではなく「匡衡衛門」と称されていたという。これは赤染衛門が夫の昇進のための運動に熱心であったためだか、いかにもあてこすった言い方であり年長者に対して非礼でもある。

むしろ『紫式部日記』に丹波守北の方と称されているこちらのほうが一般的指称(当時大江匡衡は任丹波守で妻は任地に下向せず京に止まっていた)だと思う。

 

清少納言も夫婦別氏の根拠にならない

 

 清少納言は、清原元輔の女だが実名不詳である。角田[2006 120頁]によるとこの候名は再婚した相手の少納言藤原信義の官名に因むとされる。清少納言は第三者から指称であり、日常生活において、女房相互の符牒としては少納言と指呼されていたことは『枕草子』の有名な「香炉峯の雪」より明白である。

 

 雪のいと高う降りたるを、例ならずして御格子まゐりて、炭櫃に火おこして、物語などして集まりさぶらふに、「少納言よ、香炉峯の雪いかならん」と仰せらるれば、御格子あげ

させて、御簾を高くあげたれば、わらはせ給ふ。

 

 中宮藤原定子は「少納言よ」と呼んでいるのであって清氏とは指呼しないのである。し

かも少納言が夫の官名に因むのであるから、これを夫婦別姓の論拠とはできない。

 

 候名は時代的変遷があり、南北朝・室町時代になると禁裏女房は男官の「公卿、殿上人、地下」に対応して「上臈、中臈、下臈」とし、上臈には公卿の官職(大納言など)を、中臈には京官の上位のもの(四等官のかみである卿、督、大夫)を付し、下臈には外官(地方官 伊予、播磨)を付けて呼んでいた[桑山1996]。吉野[1982]によると室町時代に女房名を遺跡として相続する慣習があったとしている。大納言典侍は広橋家の女(含猶子)で相続され、匂当内侍は奥向経済を掌握し女房奉書を書き出す重要な職掌であるが、南家高倉、東坊城両家の女が補された。しかも候名の変わり方に一定の決まりがあって、南家高倉家は右衛門督局か右衛門内侍から匂当内侍、東坊城家は別当局、左衛門督局、中内侍から匂当内侍であった。下臈の伊予局は和気氏の女が相続した。相続の慣習は江戸時代に姿を消した。こうした後宮女官の呼び名から夫婦別姓の慣習を見いだすことは全くできない。

 

D)明治4年10月27日太政官布告で、公文書で古代的姓氏は称されなくなった

 

 版籍奉還(明治2年6月)直後の明治2年7月8日に「職員令」「官位相当表」が布告され復古的な官制に改革がなされた。このために「藤原朝臣実美」「大江朝臣孝允」といった王朝風表記となり、これは天皇賜与・認定による古代的姓氏をメインとするものである。

 しかし、この復古的改革は版籍奉還をスムーズにさせるための措置と考えられる。先に述べたように、将軍との君臣関係は苗字、天皇との君臣関係は古代的姓氏であり、伝統的に王政と苗字での君臣関係はなかったからである。しかしながら、現実には藤原朝臣実美よりも三条実美、越智宿禰博文ではなく伊藤博文のほうが、わかりやすく、家名ないし苗字のほうが家筋を識別できる機能があるため、見直されることとなり、明治4年10月21日の太政官布告で「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」[井戸田1986 7884頁]により、古代的姓氏を公文書で用いることはできなくなった。

 さらに、明治8年2月13日の太政官布告の平民苗字必称令により、姓氏は苗字(公家の場合は称号とされる家名)に一元化されたのであるから、近世以前の位記において所生の氏の冠称が伝統的なものであるとしても、今日の姓氏は、天皇の賜与認定によるところの源平藤橘等の古代的姓氏ではなく、武家であれば開発領主の地名に由来する家名としての苗字、公家であれば15世紀ごろまでに確定した称号に由来するところの家名、農民については15世紀後半以降の苗字、総じていえば苗字を氏、姓として一元化したものであるから、きわめて論理的に範疇の違う古代的姓氏の事例をもって旧慣習とみなすことはできない。

 

E)明治9年太政官指令に実効性なく、事実上明治民法施行前より夫婦同氏が慣行になっていた

 

明治9年太政官指令「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事」は社会生活の実態とまったく乖離しており、事実上実効性がなかったと考えられる。それは夫婦の別氏を称することの不便さが各府県の多くの伺文で取り上げられていることでも明らかである。役所が公文書に生家姓を強いることも困難な実態にあり、事実上明治民法に先行して夫婦同氏が普及し慣行となっていたことが看取することができる。代表的な伺文を引用する。

 

 明治22年12月27日宮城県伺

 「婦女嫁スルモ仍ホ生家ノ氏ヲ用フベキ旨曽テ石川県伺御指令モ有之候処嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方一般ニ慣行ニシテ財産其他公私ノ取扱上ニ於テモ大ニ便益ヲ覚候ニ付嫁家戸主トナル者ノ外ト雖モ必ズシモ生家ノ氏ヲ称セサルモ便宜ニ任セ嫁家ノ氏ヲ称スルハ不苦義ニ候哉」

 明治23年5月2日東京府伺

 「婦人結婚ヲ為シタル後ト雖夫ノ氏ヲ称セス其生家ノ氏ヲ称用スル事ニ付イテハ明治九年四月石川県伺ニ対シ内務卿御指令ノ趣モ有之候得共凡ソ民間普通ノ慣例ニ依レハ婦ハ夫ノ氏ヲ称シ其生家ノ氏ヲ称用スル者ハ極メテ僅々二有之然ルニ右御指令之レアルカ為メ公文上ニ限リ強イテ生家ノ氏ヲ称用セシメサルヲ得スシテ習慣ニ反シ往々苦情モ相聞実際ノ取扱上ニ於テモ錯誤ヲ生シ易キ義ニ付夫家ノ氏ヲ称セシムル方事実適当ナルノミナラス既ニ民法人事編草案第三十六条ニモ婦ハ夫ノ氏ヲ称用云々ト有之法理ニ於テモ然ルヘキ義ト相信シ候ニ付自今夫家ノ氏ヲ称用セシメ候様致度」[廣瀬1985

 

 折井[2003]が発掘した資料によると西欧式を意識していた側面もうかがえられる。明治24年8月創刊の『女鑑』(教育勅語の精神を女性に徹底する国粋主義的婦人雑誌)では「土方子爵夫人亀子」「高島子爵夫人 春子」「土岐夫人 理世子」などとなっており、田辺龍子が明治21年に発表した小説『藪の鶯』では「レディ篠崎」「ミスセス宮崎」と呼びかけている。

 明治初期に女性の新しい生き方を模索して格闘した女性たち、岸田俊子は明治18年に結婚して中島俊子に、景山英子は明治18年に結婚し福田英子に、星良は明治30年に結婚して相馬良となっている。進歩的な女性たちを含め夫婦同姓だったのである。

 

 この点につき折井は「○○夫人と呼ばれることで夫と一体化するように感じて、旧時代にはない新しい家族像を実感していたのではなかろうか」と述べ、明治9年太政官指令にもかかわらず現実には夫方の姓を名乗る妻が多く存在し、生家の姓氏を名乗る場合は、儒教的道徳に従う古い慣習と考えられていたとする。

 

以上、妻は所生の氏とした明治9年太政官指令は、慣習、実態に反しており、論理性に乏しかったと断言してよい。

 

 

5)柴桂子によって近世における夫婦別姓旧慣習説は明確に否定されている

 

夫婦別姓推進論の背景として井戸田博史[2003]、洞富雄[1957]、熊谷開作[1963]などの法制史学者が夫婦別姓旧慣習説を唱えていたことである。特に井戸田博史が夫婦別姓を支持する方向で論じていたことである。しかし、近世史研究プロパー、女性史研究者が井戸田説や法制史学者の見解を批判している。

近世については大藤修[1996]、とくに柴桂子[2003]が一次史料を詳細に検討したうえで、江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしていないことを明らかにしており、井戸田説を批判している。

 

 柴によれば、法制史研究者によって「江戸時代の妻の氏は夫婦別氏だった」と流布されているが、夫婦異姓の根拠とされる史料はごくわずかに過ぎない、女性の立場や実態把握に疑問があるとする。

「法制史研究者は別姓の根拠を、主として武士階級の系図や妻や妾の出自の氏に置いている。ここに疑問がある。妾や側室は雇人であり妻の範疇には入らない。給金を貰い借り腹の役目を終わると解雇され配下の者に下賜されることもある。

 より身分の高い家の養女として嫁ぐことの多い近世の女性の場合には、系図などには養家の氏が書かれ「出自重視説」も意味をなくしてしまう。

 別姓説の中に「氏の父子継承原理」が語られるが、女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。

 また、宗門人別帳でも夫婦同宗とされ、婚家の墓地に埋葬されるなど婚家への一体性・帰属性が強かった。」

 

 実態として近世の既婚女性はどう呼ばれどう名乗っていたのか

 

◎他称の場合

 

○出版物 『近世名所歌集』嘉永四年(1851)、『平安人物誌』文政五年(1822)

姓はなく名前のみで○○妻、○○母と婚家の身分が記されている。『江戸現在広益人名録』天保一三年(1842)も同様だが、夫と異なる姓で記載されている場合もわずかある。

 

○人別書上帳・宗門人別帳

庶民の場合は姓も出自もなく、筆頭者との続柄・年齢が記される。

 

○著書・歌集・写本などの序文や奥付

 

武士階級でも姓も出自もなく、院号や名のみの場合が多い。

 

○犯科帳、離縁状、訴状、女手形

 

姓はなく名のみが記され○○妻、○○後家と書かれ、名前さえ記されないものもある。

 

○門人帳 

別姓の例としてよく取りあげられる「平田先生門人姓名録」であるが、幕末の勤王家として名高い松尾多勢子は「信濃国伊那郡伴野村松尾左次右衛門妻 竹村多勢子 五十一歳」と登録されている。しかし、この門人帳には29名の女性の名があるが、既婚者で生家姓で登録されているのは多勢子を含め5名で、婚家の名で登録されているのは10名、名だけで登録されているのが3名である。他は○○娘とあり未婚者と考えられる。

他に心学門人帳などあるが、姓はなく名のみが記され、○○妻、○○娘と細字で傍書されている。

 

○墳墓、一般的には正面に戒名、側面に生家と婚家の姓が刻まれている。

 

◎自称・自署の場合

 

○著書 多くは姓はなく名のみを自署している。

 

○書画・短冊 雅号のみの場合が多い

 

○書簡 これも名前のみサインである。

 

○『古今墨跡鑑定便覧』本人の署名を集めたもので、姓はなく名前のみサインである。

 

例外的にフルネームの署名もあるが書画や文人の書簡であって夫婦別姓とはいいがたい。なぜ、自署は名前だけだったのだろうか、これは私の見解だが、たぶん近世の既婚女性は手紙を書くとしても親族の範囲にとどまるのであり、名前だけで十分個人が特定できる範囲が交際範囲であると考えられる。

 

 柴桂子の指摘から一般に、江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしているわけではないと断言してさしつかえないだろう。夫婦別姓は旧慣習とはいえない。多勢子のような例外的事例をもって夫婦別姓というのは過当な一般化だろう。

 墓碑名については、明治民法施行前において、例えば明治五年、神道布教の中央機関として設置された大教院が神葬の儀礼を編纂せる近衛忠房・千家尊福『葬祭略式』を刊行し、そのなかで、「妻には姓名妻某氏霊位と記す」となし、妻の生家の氏を刻むよう奨導した例がある江守[1990]があるが、そもそも教派神道を別として、神道式の葬式は今日普及しておらず、墓碑名に生家姓を刻むとしても、それは妻の由緒、姻戚関係を明らかにする趣旨で、生きている人の実態において生家姓を冠称していたとする根拠にはならない。

 夫婦別姓推進論者は舅姑や夫と同じ墓に入りたくないと言うが、しかし我が国においては、婚入配偶者が、生家に帰葬されるという慣習はきわめて例外的なものである。

 もっとも江守[1990]は「子持たずの若嫁の帰葬」を論じている。新潟県岩船郡・西頸城郡・青森県三戸郡田子町・秋田県鹿角市、仙北地方に「子持たずの若嫁の帰葬」の習俗があるとしている。これは子どもができないで若死にした場合、特に不正常死した若嫁の遺骸や遺骨を生家が引き取るというならわしであるという。江守[1990]は、中国の東北地区の満族・ダフール族・エヴァンギ族にも類似した出嫁女の帰葬の習俗があリ、ツングース系の北方民族との一致点を見いだしているが、しかしながら、こうしたローカルな習俗から、出嫁女の婚家帰属性を否定することに論理性はない。我が国というか東アジアに共通していえることだが、例えば足入れ婚のように、初生子を出産するまでの、嫁の地位が不安定であるということは指摘されている。しかし、今日足入れ婚の悲劇はきかなくなったし法律婚が定着している以上この問題を論ずる必要はないだろう。

 

 柴桂子氏の重要な論点として

 女の道として教訓書では、「婦人は夫の家をわが家とする故に、唐土には嫁入りを帰るという。我が家に帰ることなり」(『女大学宝箱』)とあり、女の家は婚家であり、夫とともに婚家を継ぐ者ということが、日常道徳の規範とされていた。

 という指摘があるが、出嫁女の婚家帰属性については我が国も漢土法も近世朝鮮・韓国も同じことである。

 

6)戦国時代の公家と農民において夫婦同氏の旧慣習が認められる

 

A 後藤みち子説

 

 後藤みち子[2009]によれば戦国時代の貴族は基本的に夫婦同じ家名で称されるのが普通であるとしている。摂関家では嫁取式を経た嫡妻は「婚家の名字+女中」と称する。夫が関白となると「婚家の名字+北政所」と称する。

 清華家の正妻は「婚家の名字+女中」と称するようである。近衛尚通(14721544)の『後法成寺関白記』によると久我通信正妻を「久我女中」と称し、徳大寺実淳妻は「徳大寺女中」、夫が死去すると「徳大寺後室」と称している。

 西洋でも○○家出の○○卿夫人というように、夫の家名や爵位にちなんで称されるのと同じ感覚である。

 一般公家は、「女中」のほかに「方角+向」の「向名」で称された。姑と嫁は東-西、南-北と対になって形づけられた。

 三条西実隆(14551537)『実隆公記』では中御門宣秀正妻を「中御門西向」と称し、『親長公記』では中御門宣秀の父である中御門宣胤の正妻を「中御門東向」と称している。姑が「東向」で嫁が「西向」である。

 三条西家の家妻の役割が検討されているが、使用人の給分の分配(使用人の給料を決定する)、食料の手配・管理、追善仏事の運営、連歌会。和歌会の設営があげられている。これは近現代に庶民の家の主婦の役割に通じるものがあるといえるだろう。このように公家社会において嫡子単独相続確立期に、家妻は、家政・家職の経営の役割を分担し、婚家の名字を冠して称された。

 後藤の著書の表現は、女叙位の位記は所生の氏であるから夫婦別氏、夫婦同苗字と述べているが、社会的呼称は、婚家の名字+妻の社会的呼称(女中、向名)であるから実質的には夫婦同氏といってよいと思う。であるから、旧慣習は別氏というより同氏なのである。

 さらに後藤は、『実隆公記』紙背文書、公家の正妻からの58通の消息の差出書(発信者の署名)を検討しているが、九条尚経正妻や二条尹房正妻は「き」と署名しこれは正妻を意味する北政所の略であるとする。以下は、正妻を意味する向名の略である。

           差出書

三条西公条正妻    に   西向

正親町実胤正妻    き   北向

正親町三条実望正妻  き   北向

中御門宣秀正妻    に   西向

甘露寺元長正妻    き   北向

 

 つまり婚家の地位を発信者の署名としているのであり、婚家帰属性を示すものといえる。

 

B 坂田聡説

 

 坂田聡は中世史の研究者だが、明確に選択的夫婦別姓支持を主張している[坂田2002]。しかし、坂田[2006 2009]の丹波国山国荘は夫婦同苗字が3例、北近江菅浦にも同様の例があるとし、庶民においては15世紀後半以降夫婦同苗字のほうが一般的とみなし、明治初期庶民は夫婦同姓を当然視していたことからそうだとするのである。一方、農民に苗字が成立していない鎌倉時代は夫婦別氏としており、少なくとも家が成立した後は、夫婦同苗字としているので、これは事実上夫婦別氏旧慣習説を否定しているものと読めるのである。


文献表

明石一紀

2000「鎌倉武士の「家」-父系集団かに単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下

2006『古代・中世のイエと女性』校倉書房196頁以下

荒井献

1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号1985日本聖書協会発行 162頁以下 『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス 1988も同内容

嵐義人

1998「姓氏・名乗、あれこれ」(『日本「姓氏由来」総覧』新人物往来社222)

井戸田博史

1986『『家』に探る苗字となまえ』雄山閣1986 

2003『氏と名と族称』法律文化社

井上兼行・清水昭俊

1968「出雲調査短報」『民族學研究』331号 1968

上野和男

1982「日本の祖名継承法と家族--祖先祭祀と家族類型についての一試論」『政経論叢』5056

1985「日本の位牌祭祀と家族--祖先祭祀と家族類型についての一考察」『国立歴史民俗博物館研究報告』6

ウタ・ランケ・ハイネマン

1996高木昌史他訳『カトリック教会と性の歴史』三交社1996 20頁以下

宇根俊範

1983「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して宇根俊範「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』(広島大)147 1980

梅村恵子

2000「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店

江守五夫

1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂

1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993

1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998

大竹秀男

1977『「家」と女性の歴史』

大藤修

1996『近世農民と家・村・国家 : 生活史・社会史の視座から』吉川弘文館1

2001「幕臣体制の成立と法」『新体系日本史2 法社会史』

折井美耶子

2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636 

加地信行

1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書

勝俣鎭夫

2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社

蒲生正男

1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968

1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970

1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)

1974b「婚姻家族と双性家族-オーストリア農村のメモから-」『講座家族・月報3

 1975「〈家〉の再検討を目ざして」『九州人類学会報』3 

河内祥輔

2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館

告井幸男

2007「摂関・院政期における官人社会」『日本史研究』535

官文娜

2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版

京楽真帆子

1993「平安京における居住と家族-寄住・妻方居住・都市」『史林』76巻2号

金宅圭

2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会

熊谷開作

1963『歴史のなかの家族』酒井書店

1987『日本の近代化と「家」制度』法律文化社,

クーランジュ

1924 田辺訳『古代都市』白水社1961、原著1924)

栗原弘

1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店 

桑山浩然

1996「室町時代における公家女房の呼称 」『女性史学』(通号 6) [1996]

久留島京子

1989「市民社会の成立と女性論-メアリー・アステル」『史學研究』185, 1989

小池誠

4 2005「序言 「家社会」とは何か(特集 アジアの家社会)」『アジア遊学 』74 

後藤みち子

2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館

坂田聡

2002「中世後期~近世の家・家格・由緒--丹波国山国地域の事例を中心に 」『歴史評論 』630

2007「家制度の期限を探る-転換期としての戦国時代-」『青少年問題』625

2006『苗字と名前の歴史』吉川弘文館

2009「戦国女性の姓・苗字・名」『歴史読本』544

柴桂子

2003「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003]

(2004「〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント」『総合女性史研究』(21) [2004.3])上記と同内容

清水昭俊

1970<>の内的構造と村落共同体 : 出雲の<>制度・その一」『民族學研究』 35(3), 177-215, 1970

1972<>と親族 : 家成員交替過程 : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 37(3), 186-213, 1972

1973<>と親族 : 家成員交替過程() : 出雲の<>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973

1985a「出自論の前線」『社会人類学年報』vol.11 1985

1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 

1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987

滋賀秀三

1967『中国家族法の原理』創文社1967 

シロコゴロフ

1924大間知訳満州族の社会組織」『満州族』(大間知篤三著作集6)未来社1982原著1924)

鈴木明日見

2013「ランゴバルド諸法における男子未成年者の婚姻 : リウトプランド王付加勅令128条、カロリング勅令140条を中心としてThe Marriage of Male Minor in the Lombard Laws : Based on the Article 128 of the Laws of King Liutprand and the Article 140 of the Laws of Carolingian」『駒沢史学』80 2013

曽我良成

2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館

高橋秀樹

2004『中世の家と性』山川出版社

ダニエル・デフォー

1981山本和平訳「世界文学全集10」集英社 379頁

谷口やすよ

1978「漢代の皇后権The Political Power of the Empress in the Han Dynasty」『史學雜誌 』87(11) 1978 

角田文衛

2006『日本の女性名-歴史的展望』国書刊行会

所功

1971「続類従未収本『三善氏系図』考「続類従」『塙保己一記念論文集』温故学会

中根千枝

1970『家族の構造-社会人類学的分析』東京大学出版会「日本同族構造の分析」

仁井田 陞

1952『中国法制史』岩波書店1952

西谷正浩

2006『日本中世の所有構造』塙書房

新田孝子

1992「栄花物語』の女官名称-乳母「近江の内侍」」関根慶子博士頌賀会編『平安文学論集』 風

樋口健太郎

2005「藤原忠通と基実-院政期摂関家のアンカー」元木康雄編『古代の人物6王朝の変容と武者』清文堂(大阪)2005年

2011『中世摂関家の家と権力』校倉書房2011

廣瀬隆司

1985「明治民法施行前における妻の法的地位」『愛知学院大学論叢法学研究』28巻1・2号

福島正義

1990『武蔵武士-そのロマンと栄光』さいたま出版会

福地陽子

1956<論説>カトリック姻非解消主義の生成と發展<Article>THE GROWTH AND DEVELOPMENT OF THE CATHOLIC PRECEPT AGAINST DIVORCE」『法と政治』7(4)1956

服藤早苗

1991『家成立史の研究』 校倉書房1991

J・Lフランドラン

1993森田・小林訳『フランスの家族』勁草書房

イレイン・ぺイゲルス

1988 邦訳1993絹川・出村訳『「楽園神話」解釈の変遷アダムとエバと蛇』ヨルダン社

保科季子

2002「天子の好逑 : 漢代の儒敎的皇后論」『東洋史研究』6121

洞富雄

1957「明治民法施行以前における妻の姓」『日本歴史』137号

松永晋一1959

「キリストのからだとしての教会The Church as the Body of Christ」『神學研究』 9  1959

宮地正人

1981『天皇制の政治史的研究』校倉書房

桃 裕行

1947『上代学制の研究』畝傍史学叢書

湯川俊治

2005『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会

吉田孝

1963 『律令国家と古代の社会』岩波書店

吉野芳恵

1982「室町時代の禁裏の女房-匂当内侍を中心にして」『國學院大學大学院紀要文学研究科』13号

2015/12/06

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその9(選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)

Ⅴ 井戸田博史などの法制史学者の夫婦別姓旧慣習説は否認されている

 

(要旨)

 夫婦別姓推進論の背景として井戸田博史[2003]、洞富雄[1957]、熊谷開作[1963]などの法制史学者が夫婦別姓旧慣習説を唱えていたことである。特に井戸田博史が夫婦別姓を支持する方向で論じていたことである。しかし、近世史プロパー、女性史研究者が井戸田説や法制史学者の見解を批判している。

近世については大藤修[1996]、とくに柴桂子[2003]が一次史料を詳細に検討したうえで、江戸時代の既婚女性は生家姓を冠称して、呼称、指称、自称、自署はしていないことを明らかにしており、柴桂子は名指しで井戸田説を批判し、夫婦別姓は旧慣習とはいえないと断言している。例外的事例として「竹村多勢子」などもあるが、例外を故意に強調するのは過当な一般化である。

戦国時代については後藤みち子[2009]、湯川俊治[2005]が公家日記において、既婚女性は婚家の家名(称号ともいうが苗字に相当する)を冠称して記していることを指摘している。

例えば後花園・後土御門が最も信頼していた廷臣、甘露寺親長(14251500)『親長卿記』は、中御門宣胤に嫁いだ自己の娘を指して「中御門室家今日帰大津」と記す。

三条西実隆(14551537)『実隆公記』においても、他人の妻を指して「滋野井室家今日帰宅」「今夜勧修寺中納言新嫁云々」「入夜鷹司亜相殿北方来臨」と婚家名を冠称している。

九条尚経に嫁いだ自己の娘保子を指して、北政所が勅許される以前は、「九条姫御料人」「九条御料人」と称していた。

当時は実名敬避の慣習であるから、女性も実名で指称することはないので、今日の夫婦同氏に近い感覚と考えられ、夫婦同氏が慣習に合致していることを示唆している。

以上の見解に対して、次のような反論が考えられる。朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は一貫して源平藤橘等の王朝的姓氏であるが、改賜姓が天皇大権であった以上、女叙位についても結婚によって姓が変更するものではなく、所生の氏であると。

それはそのとおりである。しかし、我が国では通常、位記の宛名にあるような本姓+実名(名字)で指称することはない。実名敬避の慣習からである。

平安時代の女流歌人でも女房名、候名で呼称されるのであり、通常、父や夫、場合によっては子の官職にちなむケースが圧倒的に多い(赤染衛門などについては本文で反論する)、通常用いられる女官の女房名、候名は時代によって変遷があるが、基本的に官名や地名であり、平安時代に父の姓を冠称する例もないわけではないが、慣例でははなかったと云ってよい。

つまり飛鳥・奈良時代(天武8年に中央豪族から氏女を出仕させる制度が定められ、氏女は氏の代表として氏の名を負っているので、既婚・未婚を問わず所生の氏であり県犬養橘三千代は県犬養氏の氏女であった。公文書で女官は、職名・氏・姓と記した[伊集院2014]。采女は郡名・職名、したがって奈良時代まで遡れば夫婦別氏を認めることにやぶさかではない。しかし氏の代表として宮廷に出仕しているのだから所生の氏は当然のことで、しかも奈良時代は嫡妻制が確立しておらず対偶婚に近いとの説もあるので論外とすべきである)を別として、位記に示される氏が社会生活で使用されることは時代を下るほどなくなっていったのであり、これをもって旧慣習とはいえない。

また女性の実名は、叙位のために命名されることが多く、女叙位は9世紀半ば以降女官として出仕し職務を遂行することによる叙位より、母、祖母、妻として男性との関係での社会的地位によるケースが多くなるとされ、叙位など朝廷の公文書で用いられるだけといって過言ではなく、通常の社会生活で用いる、今日の氏名の感覚とは全く違う。

例えば北条政子はかつて夫婦別姓の根拠とされていた。しかし高橋秀樹[2004

が「北条政子」という人名表記は1960年代以降一般化したのであって、戦前より古い学者が「北条政子」と記したケースは一例もなく、同時代人は尼御台所、二位尼などと称した。しかも「政子」という実名は、夫頼朝、父時政の没後の叙位に際しての命名なので、頼朝も時政も「政子」という名は知らないということを明らかにしたので、今では「北条政子」を夫婦別姓の根拠にすると恥をかくことになっている。

しかし叙位の宛名は「平政子」ではないかとの反論があるだろう。この表記が朝廷との君臣関係、女叙位以外用例がないとするならば、社会生活で用いられるものではないと理解できるから、夫婦別姓が旧慣習とはいえない。

肝心なことは、明治4年に、近世以前の姓氏の二元システムが、家名(いわゆる称号)ないし苗字に一元化されたということである。つまり近世以前は、朝廷から賜る位記、口宣案、宣旨の宛名は本姓+実名、例えば常陸土浦藩主の場合「源寅直」、将軍の領知主印状の宛名は苗字+官職、「土屋能登守」というように、本姓と苗字(いずれも姓とも氏ともいう)を使い分けしていた。明治4年以降は、藤原朝臣実美ではなく三条実美、越智宿禰博文ではなく、伊藤博文と称するようになったのである[井戸田1986]。

それはなぜかというと、王朝的姓氏は十世紀以降、天皇の改賜姓権能が有名無実化していくと、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために「氏族」が父系出自のリネージとは言い難いケースが少なくないのである[宇根1983]。むしろ政治的に認定された身分標識と云う性格も強くなった。徳川氏が河内源氏の得川氏と実系で繋がっていると信じている歴史家など一人もいない。近代社会では社会的標識として機能しないからである。

例えば近世朝廷は、官職授与は武家や神職のみならず、職人などにも授与されていたのである。

「禁裏番衆所之記」寛永十九年条には次の職人受領のことがのっている。

二・四 瓦師藤原紹真任摂津掾、同藤原真清任河内大掾

二・九 香具屋藤原芳隆任河内目

二・二六 筆結藤原方富任若狭目

三・六 大工藤原宗政任播磨大掾、同藤原友庸任越前大掾、檜大工壬生盛政任近江大掾、各叙正七位下

五・二八 油煙師藤原貞鎮任豊後掾、上卿三条大納言 奉行綏光朝臣[宮地1981

上記8名の職人のうち7名が本姓藤原氏なのであり、結局、天皇の賜与・認定した姓氏では家筋が特定できず識別不能におちいる。家・同族にリンクしている苗字のほうが識別機能がある。

我々が夫婦の姓氏のあり方を議論しているのはむ、令制での天皇が賜与・認定するところの源平藤橘等の古代的姓氏ではなく、武家ならば院政期以降、公家ならば15世紀頃確定した、農民は15世紀以降の苗字とか称号とかいわれる方の姓・氏なのである。したがって、女叙位の古代的姓氏は範疇が異なるものとして論外としてよく、きわめて論理的に夫婦別姓は旧慣習ではないと断言できる。

 

(本文)

 

1 明治民法施行前の妻の氏

 

まず法制史的展開である。

明治3年9月19日太政官布告「自今平民苗字被差許候事」により庶民も氏を名乗ることが許されたが、明治8年2月23日太政官布告により氏は必ず唱えるものとした。そこで妻の氏の扱いが問題になってくるが、明治7年8月20日内務省は婦女の姓氏について、養女の場合、婚嫁した場合、夫の家督を相続した場合について伺を太政官に提出した。

 

 

(1)幻の明治7年左院議案-夫婦同氏

 

内務省伺を受けて太政官では左院で審議がなされ、明治7年9月4日に左院議案が提出されたが、結論は夫婦同氏であった。御指令按は

 

本邦二於テ中古以来人ノ妻タル者本生ノ姓ヲ称スル習慣有之候得共現今ノ御制度二於テ妻ハ夫ノ身分ニ従ヒ貴賤スヘキ者ニ付夫ノ姓氏ヲ用イル儀ト相心得候事

 

中古以来妻は本生の姓氏を称する習慣があるが「現今ノ御制度二於テ妻ハ夫ノ身分ニ従ヒ貴賤スヘキ道理ニ拠リ」夫の姓氏を用いるのが相当であるとする。

 

ところが左院議案はどういう経過をたどったのか不明であるが採用されずに埋もれてしまうのである。(廣瀬隆司「明治民法施行前における妻の法的地位」『愛知学院大学論叢. 法学研究 』28(12) [1985.03]

 

2)明治8年の内務省案も夫婦同氏 

 

 明治8年11月9日妻の氏について未だに成例がないために内務省は、腹案を示しつつ伺出を太政官に提出している。

 

華士族平民二諭ナク凡テ婦女他ノ家二婚家シテテ後ハ終身其婦女実家ノ苗字ヲ称ス可キ儀二候哉、又ハ婦女ハ総テ夫ノ身分ニ従フ筈ノモノ故婚家シタル後ハ夫家ノ苗字ヲ終身称ヘサセ候方穏当ト相考ヘ候ヘ共、右ハ未タ成例コレナキ事項ニ付決シ兼候ニ付、仰上裁候‥‥

 

この伺文の内務省の見解は、妻が実家の氏を称するより夫の氏を称することを二つの根拠から方向づけている。すなわち、一つは、妻は夫の身分に従うはずのものであるということ。他の一つは妻は婚嫁したる後は婿養子と同一に看倣すべきこと。従って妻は夫の氏を終身称することである。この方針で内務省は取り扱いを処理したいのであるが、これまでに成例のない事項であるとして太政官に伺出をしたものである。

 

妻は婚嫁したる後は婿養子と同一に看倣すべきこととしている点で、婚入配偶者が婿であれ嫁であれ家の成員としていることである。つまり出嫁女の婚家帰属性にもとづいて夫婦同氏案を提示したことだが、嫁の婚家帰属性については理論的な厳密さで定評のある人類学者である清水昭俊氏が日本の出雲地方の家族制度を実地に研究され「家連続者」(家内の夫婦の内、その婚姻に先立って家の成員であった者)という日本的「家」に特徴的な概念を用いて家の成員を論じているが、家の成員とは実子・養子・婚入配偶者の三つであると明確に説明している。(清水 昭俊 < >と親族--家成員交替過程(出雲の<>制度-2-) 」『民族学研究』 37(3) [1972.12.00] )婚入配偶者たる嫁は、未亡人となって家連続者となりあらたに婿を迎えて家は継承されるのである。この趣旨からすれば同じく成員である実子・養子とともに婚家の氏を唱えることは道理である。

 

(3)明治9年太政官指令「妻は所生の氏」

 

ところが明治九年三月十七日の太政官指令で、内務省の見解を覆し「婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユ可キ事、但、夫ノ家ヲ相続シタル上ハ夫家ノ氏ヲ称スヘキ事」とされたのである。

 太政官は下部機関の法制局に審議させた結果、次のような理由を付して指令案を作成した。

 

 別紙内務省伺嫁姓氏ノ儀審案候処婦女人ニ嫁シタル者夫家ノ苗字ヲ称スル事不可ナル者三ツアリ

第一 妻ハ夫ノ身分ニ従フヲ以テ夫ノ姓ヲ冒サシムヘシト云ハ是ハ姓氏ト身分ヲ混同スルナリ

第二 皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ皇后ヲ皇族部中ニ入ルゝハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ

第三 今ニシテ俄カニ妻ハ夫ノ姓ニ従フトスレハ歴史ノ沿革実ニ小事ニアラス例ヘハ何々天皇ハ何々天皇ノ第幾子母ハ皇后〔王〕氏ト署セントスル歟 

 帰スル処今別二此制ヲ立テント欲スルヲ以テ一ノ大困難ヲ醸スナリ右等ハ都テ慣法ニ従ヒ別ニ制ヲ設ケサル方可然歟因テ御指令案左ニ仰高裁候也 

 

(山中永之佑「明治民法施行前における妻の氏」『婚姻法の研究上高梨公之教授還暦祝賀』有斐閣1976 

 廣瀬隆司「明治民法施行前における妻の法的地位」『愛知学院大学論叢法学研究』28巻1・2号 1985.03

 

 夫婦同氏を覆した重要な理由が第二と第三の理由であり。皇親・王氏といった単系出自系譜の父子継承の自然血統的 親族概念を混乱させるという理由づけである。

 

「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ皇后ヲ皇族部中ニ入ルゝハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ」とあるがここで王氏というのは令制の皇親概念(父系単系出自概念)の範疇である。

この見解では明治聖后藤原美子(昭憲皇太后-従一位左大臣一条忠香女)、皇太后藤原夙子(英照皇太后-孝明女御明治養母-関白九条尚忠女)はあくまでも藤原氏ということです。皇后はその身位ゆえに皇族部なのであって、族姓ゆえに皇族なのではないと言ってする。臣下の女子は、皇后に立てられることによって皇親ないし王氏に族姓が変更されることはありえないという趣旨になる。

これはある意味で正論でもあり、法制局が夫婦同氏にまったをかけたのは、皇室ではそれは通用しないということである。

しかし、この理由づけは夫婦同氏とする左院議案・内務省案と妥協的解決が不可能なものではないと考える。というのは令制の立后制度、後宮職員令は、嫡妻権の明確な中国の制度とも違うし、嫡妻権の明確な厳密な意味での婚姻家族とみなせない。令制の皇后という身位はむしろ政治的な班位のように思えるから、民間の婚姻家族と同列に論じないで、庶民の「家」は女系継承や非血縁継承もあり血筋が中切れになっても永続性があり、家職の継承に合理的なのが日本的「家」制度であるから、皇室の単系出自系譜とは明確に性格が異なるので、別の制度としてとらえることで克服できる課題でもあったとはいえる

文献表
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2006『古代・中世のイエと女性』校倉書房196頁以下
荒井献
1985「新約聖書における女性の位置」『聖書セミナー』第1号1985日本聖書協会発行 162頁以下 『新約聖書の女性観』岩波セミナーブックス 1988も同内容
嵐義人
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2000「天皇家における皇后の地位」伊東・河野編『おんなとおとこの誕生4古代から中世へ』藤原書店
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1990『家族と歴史民族学-東アジアと日本-』弘文堂1990
1993「日本の家族慣習の一源流としての中国北方民族文化」江守五夫・大林太良ほか『日本の家族と北方文化』第一書房1993
1998『婚姻の民俗-東アジアの視点から-』吉川弘文館1998
大竹秀男
1977『「家」と女性の歴史』
大藤修
1996『近世農民と家・村・国家 : 生活史・社会史の視座から』吉川弘文館1
2001「幕臣体制の成立と法」『新体系日本史2 法社会史』
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2003「明治民法制定までの妻と氏」『歴史評論』636 
加地信行
1998『家族の思想 儒教的死生観の果実』PHP新書
勝俣鎭夫
2011『中世社会の基層をさぐる』山川出版社
蒲生正男
1968「《日本の親族組織》覚書-descent groupと同族について」『社』2 1968
1970「日本の伝統的家族の一考察」『民族学からみた日本―岡正雄教授古稀記念論文集』河出書房新社1970
1974「概説・人間と親族」『人間と親族』(現代のエスプリ80)
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河内祥輔
2007『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館
告井幸男
2007「摂関・院政期における官人社会」『日本史研究』535
官文娜
2005『日中親族構造の比較研究』思文閣出版
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2000『日韓民俗文化比較論』九州大学出版会
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1963『歴史のなかの家族』酒井書店
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1924 田辺訳『古代都市』白水社1961、原著1924)
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1994『高向群枝の婚姻女性史像の研究』高科書店 
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後藤みち子
2009『戦国を生きた公家の妻たち』吉川弘文館
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2003「歴史の窓 近世の夫婦別姓への疑問」『江戸期おんな考』(14) [2003年]
(2004「〔総合女性史研究会〕大会の記録 夫婦と子の姓をめぐって--東アジアの歴史と現状) のコメント」『総合女性史研究』(21) [2004.3])上記と同内容

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1973「<家>と親族 : 家成員交替過程(続) : 出雲の<家>制度・その二」『民族學研究』 38(1), 50-76, 1973
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1985b「研究展望「日本の家」『民族學研究』50巻1号 1985 
1987『家・身体・社会 家族の社会人類学』弘文堂1987
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1967『中国家族法の原理』創文社1967 
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1924大間知訳満州族の社会組織」『満州族』(大間知篤三著作集6)未来社1982原著1924)
鈴木明日見
2013「ランゴバルド諸法における男子未成年者の婚姻 : リウトプランド王付加勅令128条、カロリング勅令140条を中心としてThe Marriage of Male Minor in the Lombard Laws : Based on the Article 128 of the Laws of King Liutprand and the Article 140 of the Laws of Carolingian」『駒沢史学』80 2013
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2012『王朝国家政務の研究』吉川弘文館
高橋秀樹
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民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその8(選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)

 

Ⅲ 民法752条、820条、877条との関連で夫婦同氏制は合憲である

 

1 滝沢聿代説が最も妥当な見解である

 

 法制審議会民法部会が5年かけ1996年選択的夫婦別氏制度を含む「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申したが、これは日本会議などの保守勢力が危険性に気づいて反対し、日本会議関連議員の多い自民党等が慎重姿勢で結論先送り、棚上げ状態にされていたものである。 

しかし、これはもともと自民党海部俊樹内閣で政府が推進した政策なのである。端緒は、女子差別撤廃条約批准して以来の女性の地位向上を図ろうという潮流の中で、平成三年五月、婦人問題企画推進本部長(内閣総理大臣)が婦人問題企画推進会議の報告を受けて策定した「国内行動計画」にあり、そこには男女共同参画推進の具体的政策として「男女平等の見地から、夫婦の氏や待婚期間の在り方を含めた婚姻及び離婚に関する法制の見直しに行うこと」とされていた。(野田 愛子「随想 夫婦別氏出デテ家亡ブ?」『ジュリスト』(通号 1104) [1997.01.01]。

 夫婦別氏(夫婦別姓)を要求しているのは、日弁連や女性団体といった一部のノイジーマイノリティであって全国民的利益になるものではないし、国民感情に反する面が多分にあるのみならず、社会の擬集力である基礎にある健全な道徳・家族倫理を崩壊させる懸念があるので、立法政策としての棚上げ状態は当然のことである。

 私は、民法750条改正という立法政策に反対し、現行法制は当然合憲だと主張であるが、法学者には立法政策の是非と、憲法判断とを分けて、選択的夫婦別氏という立法政策に賛成するが、現行法制は合憲であると主張する人もいる。

 滝沢聿代法政大学大学院教授がそうであるが、次に引用する憲法判断については妥当であると考える。(滝沢 聿代 「 夫婦別氏の理論的根拠--ドイツ法から学ぶ」『判例タイムズ』 42(10) [1991.04.15]

「現行法制のもとにおいても、家庭は、個人の尊厳と両性の本質的平等を基本としながら、その健全な維持を図るべき親族共同生活の場として、尊重すべきものとされている(家事審判法一条参照)。

 すなわち家庭は、相互に扶助協力義務を有する夫婦(民法752条)を中心として、未成年の子の監護養育(民法820条、877条1項)や、他の直系血族の第一次的扶養(民法877条1項)等が期待される親族共同生活の場として、法律上保護されるべき重要な社会的基礎を構成するものである。

 このような親族共同生活の中心となる夫婦が、同じ氏を称することは、主観的には夫婦の一体感を高めるのに役立ち、客観的には利害関係を有する第三者に対し夫婦であることを容易にするものといえる。

 したがって、国民感情または国民感情及び社会的慣習を根拠として制定されたといわれる民法750条は、現在においても合理性を有するものであり、何ら憲法13条、24条1項に反するものではない」

 

要するに、家庭は、相互に扶助協力義務を有する夫婦(民法752条)を中心として、未成年の子の監護養育(民法820条、877条1項)や、他の直系血族の第一次的扶養(民法877条1項)等が期待される親族共同生活の場として、重要な社会的基礎を構成するものである。国民感情及び社会的慣習を根拠として制定された民法750条は断乎維持されるべきということである。

 

2 夫婦別姓推進論者は民法752条も廃止したいのが本音

 

 ところが夫婦別姓推進論者による1993年の榊原富士子・吉岡睦子・福島瑞穂『結婚が変わる・家族が変わる-家族法・戸籍法大改正のすすめ』日本評論社は次のように主張されている。(72頁以下)。

○ 夫婦の同居・協力・扶助義務の規定もいらない(民法752条廃止)

○ 夫婦の日常の家事費用の連帯責任の廃止を(民法761条)

○ 老親介護は「嫁」のただ働きか( 日本的家制度における出嫁女の婚家帰属性を女性差別として非難)

 

 舅姑に仕えたくないと云う趣旨は伝統的婦人道徳に反し邪悪そのものと云えるが、そうした伝統的な婚姻家族の破壊を意図するだけでなく、ラディカルな改革を指向しているのである。

民法752条の廃止とセットにすると抵抗がより大きいので、まず民法750条を改正し、左翼が得意な一点突破主義でやろうとのもくろみであろう。

 もし、こんなところで違憲判決が出るならば、すでに韓国ではフェミニズムの改革によれ戸籍が廃止され、新しい身分登録制度になったように、我が国も戸籍が廃止され、身分登録制度とマイナンバーだけの制度に一気に進む懸念がある。

2015/12/05

民法750条・夫婦同氏(夫婦同姓)制は合憲とされるべきである 下書きその7(選択的夫婦別氏・夫婦別姓絶対反対)

Ⅱ 9698%が夫の氏を選択する慣行が性差別という主張は、たんに我が国が準父系の出自形式の社会構造にあるというだけでなく、大化改新の男女の法以来の法制的根拠を有するものであるから、「国体」の否定であり、母系社会では私有財産制を発達させることができず、文明世界は原則どこでも父系出自形式の社会なのであるから文明の否定という結論にいきつくので容認できない

 

 

3 先進文明国は父系出自形式が原則であり、近代資本主義、私有財産制、市民社会に対応しているあり方として父系への傾斜は当然のことで、それを否定するのは、文明の放棄か、共産主義社会への移行を前提とするものなので容認できない

  厳密な意味で父系出自が徹底しているのは韓国の門中だけである。しかし、ギリシャ、ローマ、14世紀以降西欧の父系姓、中国、日本というように、高度な文明が発達した地域は、原則として父系出自(厳密には準父系)形式であり、伝統的に父祖からの系譜や由緒が重視される社会である。ローマのアグナテオ、中国の宗が父系出自の親族のことである。それが東西文明の基盤であった。ゆえに父系出自形式を変革するなどということがいかに無謀なことかということである。

 ところで父系制が世界において主流、大多数というのは偶然か必然なのかはわからない。ユーラシアの中心にいたアーリア人が父系だったのでそれが伝播したのか、それとも若い男性が婿に入るあり方では、他の村との戦争になったとき忠誠心が維持できず、嫁を娶る形式のほうが若者が戦力になるため父系のほうが戦争に有利という説もあるので、母系の駆逐は必然だったかもしれないが、いずれにせよ、母系制では私有財産制を発達させることができず、生産力の高い文明や、今日の自由主義経済に発展しない。その意味では父系傾斜が自然な結果であり、それを違憲の根拠にするなど甚だしい誤りである。

 今日、母系制の特徴を有するものとしてよく知られているのは、台湾の非漢民族のアミ人、ネイティブアメリカンの西プエブロ族(ホピ人、ズニ人)、ニューギニア東南端沖合のメラネシア・トロブリアンド島民などであり、いずれも原始的な農耕民である。

 もっとも母系制は南インドのナーヤル・カーストのように高文化に属する場合もある。ただしナーヤル・カーストは婚姻家族のない(父という地位がない)社会なのでここでは考察の対象外とする。

 

2)夫婦別姓は日本人をアミ人化させる

 

 アミ人(アミ族とも称されるが民族ではない)は「家母長」制社会ともいわれるが、清水昭俊によれば、女は生涯単一の家(生家)に属すのに対して、男は婚姻によって婚家と生家の両属になるとしている。家々の境界があいまいで、重複している社会である[清水1987 100]

 日本では出嫁女は婚家に帰属し、家は離接単位なので重複して帰属することはないし、婿は家長継承者として迎えられるので、われわれの家ないし家族観念とは異質の社会といえる。

 つまり日本のいわゆる核家族のように〈マイホーム〉〈かぞく〉〈いえ・うち〉といった理念でむすばれた家は存在しない。

ところで夫婦別姓推進論者は、夫権に従いたくない、舅姑に仕えたくない、同じ墓に入りたくないと主張し、でも婚家の財産は法定相続によりいただきますいう身勝手な主張なのだが、財産の収奪という目的だけで婚家にも帰属するというずるい考え方なのである。

 つまり、アミ人と逆パターンでの女性の家帰属の両属ということになり、日本的家は崩壊するのであり、つまり夫婦別姓導入は日本人をアミ人の逆パターン化の状況にさせるものといえるのであり、故に容認できないのである。日本人はアミ人になる、そんなことになってよいのか。

 

(2)母系制では男性はいくら努力し働いても自己の収入にならない

 

 トロブリアンド島では男は父のダラ(母系出自集団)の村で、村外の娘と結婚し、別処にある自分のダラの村に移り住む。従って母系集団といっても、女性成員は常に他村にある。夫はダラから割り当てられた土地で名誉のために懸命に耕作するが、収穫物の半分しかも出来の良い部分は義理の兄弟のものになる。夫は愛着をもって子供を育てるが、子供は後継者ではない。いずれオジが子供の監督者、被相続人になる。父系制のように父が自己の地位・財産を子に継承できない。 

清水[1987 104頁]は〈母系家族の思想〉を定義し、「それは女のみを通して血縁関係を辿ること、男に対する女の優位ではない。それは、男が努力を傾注した結実を自分のものとしては領有ならないということ‥‥男の参与する家や家内的生活の場が分散し多重化していること」としている。

明らかに、われわれの文明とは異質の社会だ。耕地の所有者はダラの首長であり、私有財産が発達しない社会なのだ。共産主義者は母系制がうるわしいと思うかもしれない、しかし私有財産が神聖だという価値観がわれわれの近代文明なのである。つまり合衆国最高裁で極保守派といわれたブリューワ判事(David Josiah Brewer任1889~1908)のは1891年のイェール大学の講演で次のように述べた。こちらのほうがわれわれの文明の価値観に近い。

「イヴが禁断の果実さえ欲して占有をした、その記録に残る最初の時代から、財産の観念とその占有権の神聖さとは、一度も人類から離れたことはなかったのである。理想的人間性についていかなる空想が存在しえようとも‥‥歴史の夜明けから現代の時代にいたるまで、現実の人間の経験は、占有の喜びと一緒になった獲得の欲求が、人間活動の現実的な動機となっていることを明らかにしている。独立宣言の断定的な表現のなかで、幸福の追求は譲渡することのできない権利の1つると断言されているとき、財産の獲得、占有、及び享有は、人間の政府が禁ずることができず、それが破壊することのない事柄であることが意味されているのである。‥‥永遠の正義の要請は、合法的に取得され合法的に保有されたいかなる私的財産も公衆の健康、道徳あるいは福祉の利益のために、補償なく略奪されあるいは破壊されることを禁ずるものである」ラッセル・ギャロウェイ著佐藤・尹・須藤共訳『アメリカ最高裁判所200年の軌跡 法と経済の交錯』 八千代出版1994年 89頁

 

 

そうしたことで、われわれの出自形式が父系に傾斜していることは当然のことである。この慣習が違憲判断とされるならば、まさに司法部が文明からの逸脱を宣言する愚の骨頂といわなければならない。

 

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