(附属論文)第五章結婚は自由でなければならない 婚姻法制史 概略バージョン2
2 概略 バージョン2(バージョン1とかなり重複する)
(1) 明治民法施行前、そもそも婚姻適齢法制がなくても何の問題もなかったし、婚姻適齢を引上げる正当な理由は何一つない
我が国の婚姻適齢法制は 養老令戸令聴婚嫁条が男15歳女13歳(唐永徽令の継受)、明治初期は婚姻適齢の成文法はなく、法定強姦罪に相当する改定律例第260条「十二年以下ノ幼女ヲ姦スモノハ和ト雖モ強ト同ク論スル」により、12歳以下との同意性交を違法としていることから、内務省では12年を婚嫁の境界を分かつ解釈としていた。[小木新造1979]
明治民法(明治31年、1898年施行)は婚姻適齢男子17歳、女子15歳と制定したが、明治の30年間のように婚姻適齢の成文法がなかったというのは、婚姻年齢のことは国家が規定せず民間の慣習に干渉しなくても、本質的には何の問題もなかったといえるのである。
明治民法のように医学上の見地から母胎の健康保持に必要な体力を有する年齢を婚姻適齢とする考え方も、身体的心理的成熟には個人差があるだけでなく、医学の発達、女子の体格・栄養状況から見ても、出産リスクが小さくなった今日には不要であり、婚姻適齢を引き上げる理由はむしろなくなったというべきである。
(2) 婚姻適齢法制の文明基準2000年以上続いているローマ法の男14歳女12歳
結婚の定義とはなんだろうか。西洋の単婚理念をあらわすものとしてひとくちでいえばユスティニアヌス帝の法学提要にある「婚姻を唯一の生活共同体とする一男一女の結合」といえるだろう。[船田享二1971 24頁]
法制史的に言えば婚姻適齢法制の文明基準は2000年以上続いているローマ法の男14歳、女12歳で、カノン法はローマ法を継受し、コモン・ローもカノン法と同じである。もっとも、カトリック教会は1918年施行新教会法典で婚姻適齢を男16歳、女14歳とし、英国も1929年に制定法で男女とも16歳を婚姻適齢としている。
しかし、マサチューセッツ州は、現在でも未成年でも親の同意もしくは裁判所の承認で、男14歳、女12歳を婚姻適齢とし、ニューハンプシャー州は同様に男14歳、女13歳であり、2017年3月婚姻適齢引上げ法案は議会が否決したのであり、2000年の伝統はなお継続しているというべきである。
ローマの適齢法制はアウグストゥスの婚姻立法以来女子の婚約年齢を7歳、婚姻適齢を12歳としたことにはじまると考えられる。
船田享二[1971 49頁]は「婚姻適齢は、男子については最初は個別的に決定され、後には満十四歳に達したときとされ、女子については第十二歳目に入ったとき規定された。」と述べ出所はガイウス1・196、ウルピアヌス11・28、学説類集12・4・8、勅法類集5・60・3としている。
(3)親や領主の同意要件を否定し未成年者の婚姻を肯定する教会法が婚姻成立要件では人類史上もっとも自由主義的な立法である
ラテン的キリスト教世界で婚姻が霊的裁治権として教会裁判所の管轄となったのは10世紀である。婚姻適齢はローマ法を継受した。グラティアヌスは教会法で明らかにされていない問題はローマ法に従うべしと述べているのでこれは自然な流れである。
婚姻成立についてはパリ学派の合意主義と、ボローニャ学派の合衾主義との対立があったが、教皇アレクサンデル三世(位1159~1181)が緩和的合意主義を決定的に採用し、教会婚姻法が成立した。当事者の自由意思による現在形の言葉による相互的な合意(二人の証人)だけで婚姻は成立し、合衾により完成婚とされた。未来形の言葉による相互的合意は、合衾の時点で婚姻が成立するというものである。
ユスティニアヌス帝が当事者の合意によって婚姻が成立する原則を明確にしており、大筋でローマ法の無式諾成婚姻理論を継受したといってよい。
ただし1つ大きな違いがある。ローマ法は婚姻当事者が家長権に服するときは家長の同意を必要とするとされているが、教会法は親や領主の同意要件を明確に否定している。
婚姻は自由でなければならない。その神学的根拠は何だろうか
結婚の目的として初期スコラ学者はコリント前書7章2節,7章9節(淫行を避けるための手段としての結婚)を決定的に重視した。これが婚姻の自由の聖書的根拠の第一にあげてよいだろう。
淫欲の治療薬remedium concupiscentiaeと初期スコラ学者により公式化された教説である。ふしだらな行為、姦淫を避け放埓さを防止するため、情欲に燃えるよりは結婚したほうがよいというもので、パウロは、独身であることがより望ましいとしているが、しかし多くの人は、性欲を我慢できない、ゆえに結婚は自由で容易に成立するものでなければならないのである。
結婚に関して最大限自己決定権を認める古典カノン法の無式合意主義婚姻理論は秘密婚の温床となった。この自由な婚姻理念は、結婚に伴う社会的利害関係を捨象しており、親権者の子供の結婚のコントロールを困難にするものであったから、世俗社会と軋轢を生じた。しかし教会は自由な婚姻のために数世紀にわたって世俗権力と抗争したのである。
教会は教会法では秘密婚を防止できないという非難をかわすために1563年トレント公会議閉幕年に婚姻予告と教会挙式を義務化したが、フランス(ガリカニスム教会)からの親の同意要件の要求は断固として拒否し、このため1566年フランス国王アンリ2世は「婚姻に関する王示」により、独自の婚姻法を定めた[小梁吉章2005]。これが婚姻法の還俗化の嚆矢である。
したがってカノン法の男子14歳、女子12歳の婚姻適齢というのは、親や領主の同意要件のないものである。婚姻の自由と、修練者となる(結婚せざる)自由は、コインの裏と表であり、未成年者であっても個人の自由としたことが、教会法は人類史上画期的な意義のあるものといって過言でない。
少なくともトレント公会議以前、教会法の理念ではロミオ16歳とジュリエット13歳が勝手に婚姻誓約しても婚姻の成立を妨げることはできない。
しかも教会法学者はさらに婚姻適齢を緩和しようとした。
「要求される年齢はいくつか?女子は最低11歳半、男子は13歳半である‥‥ただし、法律のいう、早熟が年齢を補う場合は別である。その例=10歳の少年が射精、もしくは娘の処女を奪い取るに足る体力・能力を備えているならば、結婚が許されるべきこと疑いをいれない。‥‥男との同衾に耐え得る場合の娘についても同様であり、その場合の結婚は有効である」Benedicti, J1601. La Somme des peches1601[フランドラン1992 342頁]
そもそも12世紀の教皇アレクサンデル3世は、婚姻適齢前であっても合衾により完成婚に至ったならば性関係を続けなければならないとしているので、合衾(床入り)が可能なら実質婚姻適齢とするとは当然の理といえる。
初期スコラ的見解では、結婚の第一義的目的が淫欲の治療薬、情欲の緩和の手段を得るためであるから、性行動が可能な身体的・心理的成熟=婚姻適齢とするのが理にかなっている。
加えて、結婚は11~12世紀の秘跡神学の進展により、花婿キリスト、花嫁教会の結合を象徴するしるしとして、秘跡とされたため、性交や夫婦愛も神聖化された。したがって若いからといって、神聖化された結婚を妨げる理由はない。
また教会法は性的不能を婚姻障碍としているので、思春期以前の婚姻は実は婚姻障碍にひっかかるのである。したがって14歳・12歳はローマ法にならった目安で、合衾(床入り)が可能なら実質婚姻適齢でよいわけである。
婚姻は教会の霊的裁治権とされ、教会法は福音書で告げられた法と同じく神の法であったから、まさしくこれこそが文明基準であった。
もっとも、トレント公会議後の公式教導権に基づく文書である「ローマ公教要理」では男女が一つに結びつかなければならない理由として第一の理由は、相互の扶助の場として夫婦の共同体への自然的欲求、第二の理由として子孫の繁殖への欲求、第三の理由として原罪に由来する情欲の緩和の手段を得るためである。[枝村茂1980]とあり、3つの結婚する理由の1つが情欲の緩和となっているだけだが、聖書的根拠が明確なのは第三の理由なのである。
また1917年に公布されたカトリック教会法典は婚姻の第一目的を「子供の出産と育成」第二目的を「夫婦の相互扶助と情欲の鎮和」[枝村1980]と明文化され、情欲の鎮和は第二目的に後退しているものの、現代においても無視できない意義を有することは聖書的根拠が明白であるから当然のことだろう。
(4)秘密婚を容認する古典カノン法が近代まで継続したイギリス(結婚は自由でなければならない、それは現代人の結婚観の基本となった)
婚姻法の還俗化は、ルターの教会法拒否と、16世紀のフランス王権による婚姻立法を嚆矢とするが、イングランドが婚姻を世俗議会の立法としたのがフランスより200年遅れた1753年のハードウィック卿法、婚姻と遺言検認が教会裁判所の管轄から世俗裁判所に移管したのが1857年であった。
イギリスは15世紀の宗教改革により、トレント公会議を受け入れる理由はなく、中世教会婚姻法は、「古き婚姻約束の法」(コモン・ローマリッジ)と称され生ける法として継続した。それは、教皇アレクサンデル三世の法といってもよいし、中世最大の教師にしてパリ司教ベトルス・ロンバルドゥスの合意主義婚姻理論そのものといってもよい。
スコットランド改革教会はトレント公会議に強く反発していたので、要式主義をとらず、古典カノン法の無式合意主義が継承された。
このため英国は、フランスや大陸よりも古典カノン法の自由な理念が近現代まで色濃く継承された。
これは逆説ではない、そもそも教会婚姻法成立期に、イングランドから活発な教皇上訴があり、英国で採録された教皇令が、13世紀のグレゴリウス9世教皇令集に多く採録されており、イギリスは古典カノン法形成に寄与したばかりでなく、そもそもアングリカン教会というのも教皇アレクサンデル3世の命名で、王権・諸侯は土地の相続に関して、教会裁判所の干渉を拒絶したが、英国において婚姻と遺言検認は教会裁判所の管轄権として安定していた。メイトランドがいうように、イングランド婚姻法とはローマ教会婚姻法そのものだったのである。
もっとも英国教会は1604年に、婚姻予告もしくは婚姻許可証による挙式を義務付け、未成年者の親の同意要件を定めるが、一方で無方式合意主義婚姻理論の「古き婚姻約束の法」(古典カノン法と同じ)も生ける法であったため、歴史的由来(教皇の免除により理論上は教皇の直轄)により、主教の管轄の及ばない特権教会や特別教区が存在していたので、そこでは親の同意のないカップルであれ法的に有効な婚姻となった。
このためロンドンのメイフェア礼拝堂と、フリート監獄、フリート街(フリート結婚)が特に有名な秘密婚媒介所であり、カップルの聖地となった。
当時のロンドン市民の多くは、たとえ駆け落ちでなくても、教区教会での婚姻予告を嫌っており秘密結婚センターで結婚した。自由な結婚を求める民衆が少なくなかったのである
しかし、1753年ハードウィック卿法により英国においても婚姻法を還俗化し、挙式と未成年者の親の同意要件を定め、ついに「古き婚姻約束の法」を無効とした。
しかし、これで自由な結婚が終焉したわけではなく抜け道があった。同法はスコットランドには適用されず、スコットランド改革教会はトレント公会議に強く反発したことから古典カノン法は継続していた。イングランド-スコットランドの協定でイングランド人がスコットランド婚姻法によって結婚しても有効な結婚とされていたのである。
このため、スコットランドの国境地帯に結婚媒介所が営業され、駆け落ち婚のメッカとなり、純粋な愛に燃えたカップルが胸を轟かせ馬車を駈けるロマンチックな結婚は大人気となった(グレトナ・グリーン結婚)。しかしこれも風紀が乱れたため1856年のプールアム卿法で、スコットランド法による結婚はスコットランド人か、スコットランドに3週間居住した住民に限られると定めたことによりグレトナ・グリーン結婚は衰退することになる。
とはいえ英米文化圏において、婚姻の自由が重視されるのは古典カノン法=コモンロー・マリッジが一貫して、束縛のない自由な結婚の理念を色濃く継承してきた数百年の歴史的背景によるのである。教会法は名家のお嬢さんと家令という身分差のある結婚を断固として擁護した。フリート結婚は、客引きが寄ってきて聖職禄を剥奪された僧侶が立ち会う如何わしい雰囲気のある結婚だったが、グレトナ・グリーン結婚は馬車を駈けるロマンチックなもので有名人士も多くスコットランドで結婚し、演劇や文学作品の題材となった。要するに、婚姻予告が不要で、未成年者でも親の同意なく自由な結婚がなされていたことが語り継がれ、「結婚は自由であるべきである」」という法文化が浸透している風土が英米文化圏にはあるといえる。
私は近代社会の自由(経済的自由・宗教の自由等精神的自由)、個人主義的自由主義の起源は、カノン法の結婚の自由にあるという見解である。それゆえ文明史的意義のあるものであるから、この法文化は継承されなければならない。ゆえに婚姻の自由を抑制する、婚姻適齢引上げに絶対的に反対である。
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