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2017年9月10日 (日)

 民法731条改正、737条及び757条の廃止に反対し、修正案を提案する パート3 要旨長文バージョン

 

 

修正案提案理由 要旨(長文バージョン)

 

.1617歳女子の婚姻資格はく奪は結婚し家庭を築き子どもを育てる権利という幸福追求に不可欠な権利、婚姻の自由(憲法二四条や一三条と密接な関連のある法的利益)の重大な侵害であり、憲法違反の疑いも濃厚である

 

 

 

 疑う余地なく、1617歳女子は古より婚姻に相応しい年齢とされ、たんに身体的・心理的な成熟のみならず婚姻適応能力のある年齢とみなされてきたにもかかわらず権利を剥奪するというのである。

 

 また男子にとっては若い女性に対する求婚行動を委縮させ1617歳女子と結婚する自由を否定され、痛い権利の喪失となる。こうした女性・男性の権利を剥奪するにあたっては、当事者の福祉に反する、または当事者の最善の利益に役立たないことが立証されるべきであるが、何一つ権利を剥奪する正当な理由がないにもかかわらず強行しようとする民法731条改正案は、婚姻の自由、幸福追求権という国民の権利、法益を縮小するものとして糾弾に値するものだ。

 

 

 

(一)再婚禁止期間訴訟大法廷判決の違憲判断基準について

 

  

 

 「婚姻の自由」にかかわる近年注目された判例として再婚禁止期間違憲訴訟大法廷判決・最大判平271216民集6982427では、加本牧子調査官解説[法曹時報695号]が「『婚姻をするについての自由』の価値は憲法上も重要なものとして捉えられるべきであり、少なくとも憲法上保護されるべき人格的利益として位置付けられるべきもの」と記しているように、最高裁が初めて「婚姻の自由」が憲法上の権利であることを明らかにした。

 事案は、元夫の暴力が原因で別居した女性が原告で、なかなか離婚に応じなかったため、離婚成立直前に後夫との子を妊娠した。再婚禁止期間を6か月とする民法7331項により、望んだ時期より遅れて再婚したことが、憲法141項の法の下の平等と、242項の婚姻についての両性の平等に違反するとして 憲法適合性が争われたものである。

 同判決は、父性の推定の重複を避けるという立法目的の合理性を肯定したが、(実質的)合理的関連がないとされた100日以上の再婚禁止期間を違憲と判断した。

 同判決の違憲判断基準は大筋で次のとおりである。まず憲法141項について「再婚をする際の要件に関し男性と女性とを区別」することが「事柄の性質に応じた合理的な根拠に基づくものと認められない場合には,本件規定は憲法141項に違反することになる」と従来と判例の基準を確認した。(なお、学説は14条1項後段列挙事由による区別について厳格司法審査を要求するが、判例は後段列挙事由に特段の意味を見出さない)

 憲法24条の婚姻と家族の事項については、第一次的には国会の裁量とし242項が立法に対して求める「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」は単に「指針」にとどまるものとする。

 しかし一方、憲法241項(婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し,夫婦が同等の権利を有することを基本として,相互の協力により,維持されなければならない。)について「婚姻をするかどうか,いつ誰と婚姻をするかについては,当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたもの」としたうえで、婚姻をするについての自由は,憲法241項の規定の趣旨に照らし,十分尊重に値するものと解することができる」としたうえ、「婚姻制度に関わる立法として,婚姻に対する直接的な制約を課すことが内容となっている本件規定については,その合理的な根拠の有無について以上のような事柄の性質を十分考慮に入れた上で検討をすることが必要である。」と判示した。

 このように再婚禁止期間大法廷判決は憲法14条の平等原則の枠組みでの司法審査であるが241項の「婚姻の自由」の趣旨もかなり重視されている。

 この点が憲法適合性審査に加味されたために、民法7331項の再婚禁止期間女性差別についても、たんに憲法14条の法的平等の問題として、緩い合理的関連性のテストではなく、立法目的の合理性、および、目的と具体的手段との間に(実質的)合理的関連性を必要とする、いわゆる「厳格な合理性基準」をとったと思われることである。[犬伏由子1916

 なお、本件は原告側が性差別を争点としていたが、加本牧子調査官解説によると。本件は、生まれながらの属性にもとづく区別ではなく、子をもうけることに関しての身体的差異の区別であるとし、重視すべき観点は、区別そのものではなく、区別の対象となっている権利利益の問題として憲法24条にいう「婚姻」を制約するものという点にある。それゆえに、憲法適合性の判断枠組みに「婚姻の自由」が論じられたと説明している。

 要するに本件はたんに平等原則、性差別事件として憲法違反を訴えるのは弱い事案なのであるが、「婚姻の自由」が重視されたために、司法積極主義の一部違憲判断を導いたのである。

 ちなみに、夫婦別姓訴訟最大判平271216民衆69-8-2586では、夫婦同氏制は、婚姻のあくまで「効力の一つ」で事実上の制約であり、婚姻の自由について直接の制約はないとして民法750条は合憲とされているのである。

 しかし 1617歳女子の婚姻資格剥奪(男性側からは求婚し、結婚することのできる権利の縮小)は、再婚禁止期間と同様、婚姻について直接的な制約を課す、婚姻の自由を抑制する法改正なのであるから、再婚禁止期間違憲訴訟大法廷判決の示した判断基準に従えば憲法24条の婚姻の自由の趣旨に照らして「厳格な合理性基準」(中間審査基準)が適用されることを示唆しているとみてよいだろう。

 

 しかし、今回の法改正の立法趣旨は、「厳格な合理性基準」中間審査基準に耐えるものでは全くない。次節よりことことを明らかにする。

 この点政府は、本件は、再婚禁止期間とちがって性差別の問題はないこと、憲法14条1項に年齢や成年、未成年の差別を明文で禁止していないので平等原則違反の問題にならないと安易に考えているのかもしれないが、これまで認められていた権利の無条件剥奪である。16歳・17歳女子は婚姻の自由、幸福追求権が否定され、子供を嫡出子とする等の法律婚の効果を享受できないが、18歳はこれまで未成年という点、16・17歳と同じ範疇であったのに、成人年齢引下げという政治的操作により権利が引き続き認められるという、政治的操作による社会的身分による差別はやはり憲法14条1項にもかかわる問題とみるべきである。

 再婚禁止期間訴訟大法廷判決は、多数意見だけでなく、共同補足意見で提示された適用除外の法令解釈の射程も、女性の婚姻の自由を重視する趣旨である。

 これほど再婚の自由が重視され、国会も同判決の趣旨にそって法改正したのに、一方で身体的、心理的にも明らかに成熟し古より結婚に相応しい年齢とされてきた16・17歳女子は成年でないという理由でばっさりと婚姻の自由を否定してしまってよいというのはあまりにも冷淡な手のひら返しのように思える。

 

 

 

(二)権利を剥奪するにあたって合理的、正当な立法目的は何一つない 

 

 

 

1. 成人年齢と法定婚姻適齢を一致させ、成年擬制や未成年者の親の同意要件をなくすのが世界的趨勢という説明は虚偽であり、成人年齢が18歳であっても16歳を婚姻適齢とし、成人擬制や未成年者の親の同意要件を定める婚姻法は英国や北米などで一般的である。

 

 

 

(外国の立法例)

 

〇イングランド 婚姻適齢は男女とも16歳で、未成年は親の同意を要する

 

〇スコットランド 婚姻適齢は男女とも16歳で、親の同意要件はない

 

〇アメリカ合衆国

 

 3233州が16歳を親の同意要件だけで婚姻適齢としている。その他の州でも17歳を婚姻適齢とする州が若干あるが(ニューヨーク・ネブラスカ)16歳は大多数の州で親・保護者の同意要件だけで、あるいは要件補充規定で裁判所の承認があれば結婚可能な年齢である。マサチューセッツ州男14歳女12歳、ニューハンプシャー州男14歳女13歳のようにコモン・ロー水準を維持している州もある。また27州が裁判所の承認等によって年齢制限なしに婚姻可能である。

 

 なお、アメリカ合衆国の各州においても我が国の民法753条(成年擬制)と似た未成年解放制度がある。婚姻、妊娠、親となること、親と別居し自活していること、軍隊への従事等を理由として原則として成年として扱う。(原則としてというのは刑法上の成年とはみなさないこと、選挙権、アルコール、タバコ、小火器の所持、その他健康・安全に関する規則では成年とみなされないという意味)[永水裕子2017]。

 

〇カナダ 主要州の婚姻適齢は男女とも16歳で、未成年者は親の同意を要する

 

 

 

 なおアメリカ合衆国で16歳を婚姻適齢の基準としている州が多く、16歳未満でも27州が年齢制限なしに婚姻可能としているのは、米国には私法の統一運動があり1970年代の統一州法委員会(各州の知事の任命した代表者で構成される)の以下に引用する統一婚姻・離婚法モデル案に従った州が多かったためであり、これが婚姻適齢の標準モデルとなっているからである。

 

 1970年公表統一婚姻・離婚法()は次のとおりである。[村井衡平1974]

 

203

 

1 婚姻すべき当事者は、婚姻許可証が効力を生じるとき、18歳に達していること。または16歳に達し、両親・後見人もしくは裁判上の承認(205条1項a)を得ていること。または16歳未満のとき、双方とも、両親もしくは後見人または裁判上の承認(2052a)を得ていること‥‥

 

 

 

2.「社会生活が複雑化・高度化した現時点でみれば、婚姻適齢は、男女の社会的・経済的成熟度に重きを置いて定めるのが相当」とは正当な立法目的とはいえない

 

 

 

1) 社会的・経済的成熟度を強調して婚姻年齢を引き上げるのは、憲法241項の含意する「婚姻の自由」の理念に反する。

 

 

 

 社会生活の複雑化・高度化とは何を意味するのか不明であり、社会的・経済的成熟度とは社会的地位や稼得能力・経済力を意味するものと思われるが、婚姻の自由とは、社会的地位や経済力を口実として法は結婚を妨げることはないという含意のあるものであり、それがローマ法に由来し英米法に継承された「婚姻は、自由でなければならぬ」Matrimonia debent esse liberaMarriages ought to be free)の法諺の含意とするところである。ことさら、社会的・経済的成熟度を持ち出す立法趣旨は、そもそもはじめから婚姻の自由(憲法241項)の趣旨に反するものといえる。

 

 コリント前書にあるようにたんに姦淫を避けて社会的な承認のある性欲充足の手段としての結婚であってもよいし、相互扶助の夫婦の共同体を形成する自然的欲求にもとづく結婚でもよいし、ミルトンのいうように孤独からの救済、慰めと生きる力を得るための結婚でもよく、「社会的・経済的成熟」は一般論としては結婚生活が成り立つための世俗的条件となっても、法が結婚の権利をはく奪する理由としては相当ではないと主張するものである。以下、その理由を具体的に述べる。 

 

 

 

 A 合意主義の歴史的由来と婚姻の自由

 

 

 

 憲法241項の当事者の合意を基本とする結婚観は、起草者は意識せずに定めたものかもしれないが、法制史的にいうと、ローマ法の無式合意主義諾成婚姻理論に由来する。

 

 すなわちユスティニアヌス帝の学説類集(Digesta533年)は、女が男の家に入る前にも婚姻が成立することを説く法文を採録した。帝はこのように迎妻の事実は必要とせぬ原則を示すとともに、他方書面の作成または嫁資の設定を婚姻成立のために重視しようとする一般の傾向に対して、嫁資の設定がなくても婚姻が当事者の合意によって成立するという古来の原則を確立する[船田享二1971改版40頁]

 

 すなわち合意主義とは、要式主義ではなく、また嫁資(ドース・持参金)など結婚に伴う財産移転を婚姻の成立要件としないというものであり、当事者の合意が第一義的に重視される趣旨であるが、カノン法によってさらに徹底的なものとなった。

 

 カノン法は無式合意主義諾成婚姻理論を継受したうえ、親や領主の同意要件を否定したため、その文明史的意義は大きく、たぶん人類史上もっとも当事者の自己決定権を重視する法制である。10世紀以降近世・近代の婚姻法の還俗化まで婚姻は教会裁判所の管轄権であったから、カノン法が西方の普遍的統一法である。(古典カノン法とはトレント公会議以降、1918年の新成文法典と区別するため用いている)

 

 すなわち婚姻は、当事者の相互の現在形の言葉による婚姻誓約という合意だけで婚姻が成立、合衾により完成婚となる。合衾以前に、二人とも修道生活入りするか、教皇の免除によって例外的に婚姻は解消できるが実質、合意だけで婚姻は成立し、証人は2人(俗人でよい)いればよいのである。

 

 このように本来の教会法の婚姻とは当事者の合意としての民事行為として12世紀に確定した。(概ねペトルス・ロンバルドゥス(没1160、パリ司教)の理論を教皇アレクサンデル3世(位11591181)が決定的に採用したものである)

 

 東方教会では、婚姻とは司祭の行為であり典礼儀式のことであったが、西方では合意説theria cosensusをとっているため司祭の祝福や典礼儀式は婚姻の成立とは全く無関係となった。

 

 12世紀の秘跡神学では婚姻の秘跡とは婚姻という一つの現実において表象されるキリストと教会の結合の秘儀というものであったから、儀式とは無関係である。合意主義を理論化した中世最大の教師ペトルス・ロンバルドゥスはキリストと教会の一致をかたどる一つのイメージは結婚愛によって開始され、性交により完成されるとする。[枝村茂1975

 

 従って、本来は神学的にも挙式は不要なのである。ところが教会法が自由すぎて秘密婚の温床となっているという非難から、1563年のトレント公会議タメットシ教令で婚姻予告と挙式を義務化したために婚姻の自由の理念は後退した。ただしフランスからの親の同意要件は断固拒否した。(今日でもカトリック教会の成文法典に同意要件はない)ガリカン主義のフランスは16世紀に王権による親権者の制御を重視した婚姻法に移行したためもっとも早い婚姻法の還俗化を果たした。

 

 一方、英国ではローマの軛を脱したため、古典カノン法が「古き婚姻約束の法」(コモン・ローマリッジ)として生ける法として近代まで継続したため、婚姻の自由の理念を最も色濃く継承した地域といえる。要するに秘密婚を容認する古典カノン法の影響が最も強いのは大陸ではなく英国でありつまり英米の法文化であるということである。 

 

 カノン法(=コモン・ローマリッジ)の合意主義婚姻理論は、当事者の合意がすべてだから秘密婚を是認するのである。血族(家族)間の社会的経済的利害を捨象しているのが特徴であり、結婚すること、しないことについて、血族や親権者のコントロールから個人を自由にしたため、近代個人主義的友愛結婚の淵源はカノン法にあるとみるべきである。

 

 つまりカノン法の合意主義婚姻理論=婚姻の自由といってもよい。合意主義婚姻理論は、親族の社会的経済的利害を捨象した婚姻理論であるからだ。社会的・経済的成熟は婚姻成立要件とは全く関係ないのである。

 

 

 

 婚姻適齢についてもカノン法はローマ法の男14歳、女12歳をさらに緩めた。すなわち婚姻適齢前であっても合衾すれば完成婚であり、婚姻不解消となるというのが教皇アレクサンデル3世の教令である。早熟は年齢を補うとした。教会法は性的不能を婚姻障碍としているので、実質性交可能ならば実質婚姻適齢としているのである。(コモン・ローも婚姻適齢は男14歳・女12歳)。

 

 「要求される年齢はいくつか?女子は最低11歳半、男子は13歳半である‥‥ただし、法律のいう、早熟が年齢を補う場合は別である。その例=10歳の少年が射精、もしくは娘の処女を奪い取るに足る体力・能力を備えているならば、結婚が許されるべきこと疑いをいれない。‥‥男との同衾に耐え得る場合の娘についても同様であり、その場合の結婚は有効である」Benedicti, J1601. La Somme des peches1601[フランドラン1992 342頁]

 

 このようにカノン法は徹底的に自由である。

 

 

 

B 婚姻の自由の法源に照らして、社会的経済的成熟の要求は不当である

 

 

 

「婚姻は、自由でなければならぬ」Matrimonia debent esse liberaMarriages ought to be free)の法諺はローマ法とカノン法の無式合意主義諾成婚姻理論に由来し、コモン・ローマリッジがカノン法と同じであることはすでに述べたとおりであるが、なぜ自由でなければならないか。その根拠としては新約聖書と秘跡神学、ローマ公教要理などがあげられる。

 

 

 

a)コリント前書72節、9節(淫欲の治療薬remedium concupiscentiaeというだけで結婚してよい

 

 

 

 婚姻の自由の神学的根拠は、古典カノン法成立期の初期スコラ学者(ロンバルドゥスなど)が最も重視した真正パウロ書簡のコリント前書の72節や79節である。

 

 「もし自ら制すること能はずば婚姻すべし、婚姻するは胸の燃ゆるよりも勝ればなり」すなわちふしだらな行為を避けるための結婚、情欲の緩和、情欲という原罪に由来する悪の治療の手段、毒をもって毒を制する同毒療法としての結婚である。これは初期スコラ学者によって淫欲の治療薬remedium concupiscentiaeと公式化された教説である。

 

 性欲を自制できない大部分の男女は結婚しなければならない。そうしなければもっと悪いことをするだろう。人々は罪を犯し、子は私生児になるだろう。したがって婚姻は容易になしうるものでなければならぬ。[島津一郎1974 240頁]人々に宗教上の罪を犯させたり、子を私生児にしないようにする配慮から結婚は容易に成立すべきものだったのである。ゆえに結婚は自由でなければならない。

 

 意思せずとも勃起するように原罪によって性欲は免れないものである。多くの人は制御不可能であり、それゆえ我慢できないなら結婚しなさいとの勧告である。パウロは我慢を強いるものではないから、婚姻の自由を抑制し婚姻適齢を制限することは、反聖書的なものとさえいえるのである。 

 

  remedium concupiscentiaeは古代教父では東方教会最大の説教者にして「黄金の口」と尊称されたコンスタンティノープル大司教ヨアンネス・クリュソストモス(聖人・407年没)が特に重視している。結婚とは自然の火を消すために始められたものである。すなわち姦淫を避けるために人は妻をもつのであって、子どもをつくるためのものではない。悪魔に誘惑されないように夫婦が一緒になることを命じる。「一つの目的が残った。すなわちそれは、放埓さと色欲を防止することである」『純潔論』[ランケ・ハイネマン1996 77頁]

 

 アウグスティヌスは子孫をつくることを結婚目的としたが、パウロのテキストに密着し忠実なクリュソストモスを私は高く評価したい。

 

 また13世紀の優れた組織神学者でバリ大学神学部教授オーベルニュのギヨームは、淫欲の治療薬としての結婚の効果を次のように語った。「若くて美しい女と結婚することは望ましい。なぜならば美人をみても氷のようでいられるから」この趣旨からすれば婚姻適齢引き上げなどとんでもないことだといわなければならない。

 

 

 

 一コリ章15節(田川建三訳)

 

「‥‥人間にとっては、女に触れない方がよい。しかし淫行(を避ける)ために、それぞれ自分の妻を持つが良い。また女もそれぞれ自分の夫を持つが良い。妻もまた夫に対してそうすべきである。妻は、自分の身体に対して、自分で権限を持っているのではなく、夫が持っている。同様に、夫もまた自分に対して自分が権限を持っているのではなく、妻が持っているのである。互いに相手を拒んではならない。‥‥‥」

 

 一コリ章89節(田川建三訳)

 

「結婚していない人および寡婦に対しては、私のように(結婚せずに)いるのがよい、と言っておこう。もしも我慢できなければ、結婚するが良い。燃えさかるよりは、結婚するほうがましだからである。」

 

 

 

 このように、結婚はたんに社会的に承認された性欲充足の手段というだけでも価値があるものであり、これは社会的・経済的成熟といった根拠のない口実によって妨害されるべきものではない。AD54年に書かれたパウロの真筆に由来するこれこそ西洋文明2000年の神髄ともいえる価値であり、忽せにできない。

 

 しかもこれはキリスト教の教説から離れて世俗的な青年心理学の立場からも肯定できる見解なのである。

 

 結婚は性欲を社会的承認のもとに充足できる点において意義がある。フロイト(Freud,S.)によれば性欲は乳幼児期(口唇期、肛門期、男根期)においてすでに発達するということであるが、一般的には思春期を迎え、脳下垂体、副腎、生殖腺(睾丸、卵巣からそれぞれのホルモンが分泌されるようになり、その結果性欲は生ずると考えられている。モル(Moll,A.)によれば、性衝動は生殖腺に根源をもつ放出衝動と接触衝動の2つの独立した要素から成り、この2つが結合して完全な性衝動になるという。エリス(Ellis,H .)は性的過程を充盈作用と放出作用の2局面をもった過程であるとして、この過程には循環的、呼吸的、運動筋肉的機能を伴い、この過程の修了は条件が揃っていれば、休息観、解放感、満足感、安心感を伴い元気が倍加されるという。

 

 性欲が適度に充足されない時、不眠症、機能低下、興奮症、頭痛等の症状や漠然としたヒステリー及び神経症の徴候をもたらすことがあり、更にせっ盗、放火、強姦、殺人等犯罪をひきおこすこともあるといわれている。尚性的欲求不満には性差があり、男性は身体的な不満、即ち射精が意のままになされ得ないときに不満を感ずるのであり、女性には感情的な不満、即ち愛情の損失や失望による不満が多い。故に男性は性交によらなくても自慰によって不満を解消できるが、女性は対人関係によるのであり自分には容易に解決できない場合が多い。そして以上のような性的不満を合理的に解決する方法は性的夫婦が適合した結婚をすることである。‥‥‥」[泉ひさ1975

 

 コリント前書に由来する淫欲の治療薬としての結婚は、結婚を個人的心理的充足のためとした近代個人主義的友愛結婚の思想の淵源であり、秘跡神学も夫婦愛を神聖視したので恋愛の結実としての結婚という現代人の結婚観の基礎となるものである。

 

 我が国は、明治15年に妻妾制を廃止して西洋の単婚理念を継受し、戦後憲法では24条1項で両性の合意をによる合意主義の婚姻理念(ローマ法・カノン法・コモン・ローマリッジ)を継受しているのである。

 

 にもかかわらず、ことさら社会的・経済的成熟に重きを置くという口実で婚姻の自由を抑制する政府の政策は、西洋文明2000年の単婚理念の本質を否定することになる点で反文明的性格を有するものである。

 

  2017AKB総選挙で結婚宣言した須藤凛々花がスポーツ紙の記者会見で「我慢できる恋愛は恋愛じゃない」と言ったことは芸能ニュースとして大きく扱われた。そのとおりだ、名言だと思う。一コリント79(田川建三訳)「もしも我慢できなければ、結婚するが良い。燃えさかるよりは、結婚するほうがましだからである。」

 

 我慢する必要はないのだ。須藤凛々花は20歳だったが、1617歳も同じこと。法改正案は、若い女性に待婚を強い、意地悪をするものだといってよいのである。 

 

 

 

b)秘跡神学 

 

 

 

 結婚が公式的に秘跡とされたのは15世紀以降のことだが、秘跡神学が進展したのは1112世紀であり、結婚は花婿キリストと花嫁教会の結合の聖なる象徴として積極的な意味をもたせたのである。秘跡によって恩恵が与えられるのであるから万人の婚姻の自由は否定することはできなくなったともいえる。

 

 サン・ヴィクトルのフーゴー(10961141)は、婚姻論を書いた最初の神学者であるが、非常に合意主義にこだわった立論をしているのが特徴である。婚姻を合意によってお互いに自分自身を相手に対して義務づける夫と妻の合法的生活共同体としたうえで、「彼の見解を要約すれば可見的共同体として-キリストとその教会との一致のかたどり-は夫婦愛と婚姻の人格的関係)の表現形態であり、他方この夫婦愛は神と人間との霊的関係を表象する外見的しるし(sacramentum)である。‥‥婚姻のもつ成聖の独自性は人間に対する神の秘跡としての夫婦愛のなかに見出されるのである」[枝村茂1975]。このような夫婦愛を神聖視したもう一人の神学者としては13世紀のヘールズのアレキサンデル(11901245)の結婚を秘跡として受けた人の恩恵とは愛の霊的一致(unio spiritualis caritatis)という思想をあげることができる。

 

 ペトルス・ロンバルドゥス(没1160)はキリストと教会の一致をかたどる一つのイメージは結婚愛によって開始され、性交により完成されるとする。[枝村茂1975

 

 また教皇アレクサンデル3世(位11591181)は、性交によって完成された婚姻はキリストと教会の秘儀のイメージをその中に有しており、キリストと教会の不解消的一致の秘跡であると述べている。[枝村茂1975

 

 枝村茂がわかりやすく説明している。すなわち、キリストに対する妻たる教会の愛と奉仕が、夫に対する妻の愛において象徴的に表されるのである。妻にとっては夫はキリストのかたどりであり、彼女の夫に対する忠実と奉仕はキリストへの間接的奉仕を意味したのである。ヴェールに覆われた花嫁とは‥‥純潔なものとして捧げられた女性なのである。童貞女[修道女]は直接的に、人妻は間接的にキリストに仕えるということである。[枝村1975

 

 初期スコラ学者の秘跡神学はそのように性的夫婦それ自体が秘跡なのであり、司祭の祝福や典礼儀式とは全く無関係のものだった。司祭の干与が強調されたのは時代が下ってのことである。

 

 結婚愛や性交といった其れ自体が秘跡であるから、それは社会的・経済的諸条件で阻害されてよいものではない。社会的・経済的成熟を理由にして秘跡としての結婚を妨げることは神学的にはありえないということになる。

 

 秘跡神学は離婚を認めない根拠とされたので、今日では嫌う人が多いが、思想としては美しいものであり、聖書的根拠もあるので世俗化された今日でも文明のレガシーとして尊重されるべきだろう。

 

 

 

 

 

 

 

c)ローマ公教要理 (相互の扶助の場として夫婦の共同体への自然的欲求というだけで結婚してよい)

 

 

 

 16世紀対抗宗教改革トレント公会議後の公式教導権に基づく文書である「ローマ公教要理」Catechismus Romanusでは男女が一つに結びつかなければならない理由として次の三つの理由を示している。

 

 第一の理由は、相互の扶助の場として夫婦の共同体への自然的欲求、第二の理由として子孫の繁殖への欲求、第三の理由として原罪に由来する情欲の緩和の手段を得るためである。[枝村茂1980]。

 

 重要なことは、理由付けは3つの理由のうち一つあればよいことになってることだ。相互の扶助の場として夫婦の共同体への自然的欲求だけでもいいし情欲の緩和だけでもよい。

 

 社会的・経済的要件は何一つなく、この点からもキリスト教の婚姻の自由の理念は明確である。

 

 私はもちろん「相互の扶助の場として夫婦の共同体への自然的欲求」も重要であると考えている。

 

 我が民法においても、家庭は、相互に扶助協力義務を有する夫婦(民法752条)を中心として、未成年の子の監護養育(民法820条、877条1項)や、他の直系血族の第一次的扶養(民法877条1項)等が期待される親族共同生活の場として、法律上保護されるのである。

 

 結婚相手を共感的に理解し、力づけ、感謝し合う、それは結婚以外に得難いものなのだ。結婚相手と喜びと苦労を分かち合うことにより、喜びは倍増し生活の苦労は軽減され、人生に困難があっても乗り越えられる。「相互扶助の場としての夫婦の共同体への自然的欲求」とはそういうことだ。

 

 

 

 しかも結婚はタイミングが重要である。恋愛感情の絶頂のときにスムーズに結婚するのが、最も満足感が高いものとなる。待婚を強いるということは、ともかく一緒にいて楽しいという感情的交流、体感の疎通が否定され、相互扶助の共同体を形成する自然的欲求が否定され、孤独から救済し慰めと生きる力を与える結婚が延期されることである。かりに同棲するにしても社会的に承認されない関係を続けることは大きな問題であり、いったん婚姻適齢引き上げが決まってしまえば、それはそうでなくても当事者の福祉に反する行為、桃色遊戯的非行として社会から指弾を受けることになるから愛情損失のリスクもあり当事者にとって苛酷といえる。

 

 これは社会的に恵まれている階層よりも、そうでない階層にとってより切実といえる。

 

 「相互扶助の場としての夫婦の共同体への自然的欲求」は社会的・経済的成熟に重きをおくという口実により否定されてはならない。

 

 

 

d)ミルトンの提唱した近代個人主義的友愛結婚(孤独からの救済・慰めと平穏と生きる力を得るための結婚happy conversationという結婚の目的)

 

 

 

 ミルトンが離婚論で示した結婚観は、同毒療法としての結婚の教説を清教徒的に洗練させたものといえる。離婚論は婚姻非解消主義という教会法の根幹を否定しているようだが、しかしながらミルトンとてコリント前書79節を引用して理論を組み立てており、初期スコラ学者の重視した remedium concupiscentiaeの教説のバリエーションとみてよい。

 

 ミルトンの離婚論が現代の婚姻の自由の法源とみなすのは、結婚は幸福追求に不可欠なものとしての理論を示した点で圧倒的な意義を有するからである。

 

 

 

 婚姻とは孤独な生活に対して人を慰め生きる力を与えるものであり、夫婦間の相愛関係・幸福な交わり(happy conversation)こそ婚姻の「もっとも主要な高貴な目的」である。それゆえ「神は生殖の面についてはあとになって言及し、それは必要性においてはともかく婚姻の尊厳さにおいては二次的なものに過ぎないとした」とミルトンは言及した。[稲福日出夫1985

 

 ミルトンの結婚目的の考え方は、結婚の自由を幸福追求に不可欠な基本的権利とする連邦最高裁1923年マイヤー判決や、1967年ラビング判決に連なる思想といえるし、広い意味では、日本国憲法13条の幸福追求権にも連なる意義を有するといえるだろう。

 

 すなわちミルトンによれば夫婦の相互愛と神への愛は同一であると考えられるが故に、強制的な結婚の維持以上に神は家庭の愛と平和を重視しているとする。家庭を幸福を築く場として、婚姻をその目的達成のための手段として捉えれば、そこに離婚の可能性が出てくるというのが離婚論の趣旨である。 

 

 ミルトンの結婚観は鈴木繁夫[2004]がいうように率直にセックスによる性的欲求の充足も第一義的目的とするのである。それはコリント前書79の淫欲の治療薬としての結婚の意義からしても当然のことである。

 

 ミルトンは「アダムとエバの夫婦関係に神が意図したような、「適切な楽しい交わり(カンヴァセーション)を手に入れることこそが結婚の目的なのだと断定する。‥‥ここでいう「交わり」(カンヴァセーション )を、ミルトンは「交 流」(ソサイアティー)とも言い換えているが、「交わり」というのはいま私たちが使うような言葉を交わすということだけに限定されない。魂のレベルにおける深い知的な交流、ともかく一緒にいて楽しいという感情的交流、手を握りキスをし体を触れあい感じあう体感の疎通、そこから一歩進んだ性交のエクスタシーまでも含んだ広い意味をもつのが、「交わり」である。ミルトンは「適切に楽しい」交わりを、「肉体の結合」とわざわざ対比させ、交わりも結合もともに重要で、結婚の第一義だと説明している。」 愛情にはフィリア的要因と、エロス的要因があるが両方同程度の意味が含まれた洗練された結婚観といえるだろう。

 

 一口でいえば結婚とはhappy conversation甘美な愛の巣をつくることを第一義とする価値観であるが、結婚の目的が、家系や財産の維持や親族の利害のためでもなく、子どもをつくることでもなく、当事者の心理的充足を第一義とする。現代人に広く普及した結婚観に通じている。

 

  happy conversationは社会的・経済的成熟に達してないという勝手な口実で1617歳女子の婚姻の権利と、求婚する男子の権利が否定されてはならない。だからこそ私は婚姻適齢引き上げに反対なのである。

 

 社会的・経済的成熟という不確定、不透明な概念によって幸福追求の権利が否定される理由はない。愛は社会的・経済的条件で妨げられることはないというのがまさに幸福追求権の核心なのだから。

 

 (なおミルトン自身初婚の相手がメアリー・パウエルという16歳とも17歳ともいわれる。美人だが悪妻で離婚論の執筆の動機となった女性であるが、相性の問題であって1617歳の女性を選んだことが過ちではない。三人の娘を儲けたのち死別した)

 

 

 

 

 

2)憲法13条の幸福追求権は社会的・経済的成熟度を口実として奪われるべきではない

 

 アメリカ合衆国最高裁判例は結婚を幸福追求に不可欠な『人間の基礎的な市民的権利』と宣言している。以下のような判例である。我が国においては憲法13条で幸福追求権を明文で規定している以上、直接の法源にはならないとしても参照してよい

 

Meyer v. Nebraska, 262 U.S. 390 (1923)

 

  マクレイノルズ判事による法廷意見は憲法修正第14条が保障する自由とは、

 

「単に身体的な拘束からの自由のみならず、個人が契約し、なんらかの普通の生業に従事し、有用な知識を習得し、結婚して家庭を築いて子供を育て、自己の良心の命ずるところに従って神を礼拝する権利、および公民(freemen)が通常幸福追求にあたって不可欠なものとして コモン・ローにおいて長い間によって認められている諸特権(privileges を遍く享受する権利をさす。」「先例によって確立されている法理によれば、この自由は、州の権能内にある何らかの目的と合理的なかかわりをもたない立法行為によって妨げられてはならない。‥‥」[佐藤全1984 173頁、米沢広一1984、中川律2008

 

 

 

Loving v. Virginia, 388 U.S. 1 (1967

 

 バージニア州の異人種婚姻禁止法を違憲とした判決である。ウォーレン主席判事による法廷意見は、「結婚の自由は、自由な人間が幸福を追求するのに不可欠で重要な個人の権利の一つとして、長らく認められてきた。結婚は『人間の基礎的な市民的権利』の一つである。まさに我々の存立と存続にとって基本的なものである。」と宣言した。

 

 

 

 またZablocki v.Redhail 434 US 374 1978)は、無職で貧困のため非嫡出子の養育料を支払っていない男性が別の女性と結婚するための結婚許可証を州が拒否した事件で、結婚の権利を再確認し違憲とされた。

 

 Turner v. Safley, 482 U.S. 78 (1987)は刑務所の所長の許可がなければ囚人は結婚出来ないとするミズーリ州法を違憲とし、受刑者であっても結婚の権利があり、憲法上の保護を受けることを明らかにした。[米沢広一1989]

 

 

 

 このように、米国では経済的義務を果たしてないことや、受刑者であることが婚姻する権利を妨げる理由にはならないとしており、この趣旨からすると社会的・経済的成熟の要求という不透明・不確定な概念で婚姻の権利を奪ってよいのかは疑わしいといえるだろう。

 

 

 

 結局、結婚が幸福追求に不可欠な基本的権利とするならば、また以上みてきた婚姻の自由の法源に照らすならば社会的・経済的成熟を要求するという勝手な口実で、婚姻の自由を制約するのは行き過ぎということになるし、未成年だから憲法上の権利が享受できないとするのは行き過ぎであり、結婚することが当事者の最善の利益とならないこと、婚姻適応能力のないことが立証されない以上、権利をはく奪する理由にはならない。今日でも未成年である20歳未満でも結婚の権利が認められて、成年擬制の制度もある以上、18歳に成人年齢を引き下げるからこの際未成年を無権利状態にしなければならないというのも行き過ぎである。

 

 また成人であっても疾病や身体的・精神的障害によって社会的・経済的成熟が乏しいとみられる人がいないわけではない。私も結婚していないからそうかもしれない。しかしだからといって婚姻の権利が否定されるわけでなく、社会的地位や経済力を法は婚姻障碍としていないのである。筧千佐子被告が何度再婚を繰り返そうが自由なのであって、未成年者であるから成人における婚姻の自由を享受できないものにしてしまうというのは行き過ぎなのである。

 

 

 

3 1617歳女子が婚姻適応能力を有する社会的・経済的成熟に達していないという具体的根拠は何もない

 

 

 

A 社会生活が複雑化・高度化した現時点で1617歳女子は婚姻適応能力を失ったという見解に論理性はない

 

 

 

 前節ではそもそも「社会的・経済的成熟」を口実とすることが過ちと述べたが、仮に「社会的・経済的成熟」を要求することは立法裁量権として相当であるとしても1617歳女子が婚姻適応能力に必要な「社会的・経済的成熟」を欠くという根拠に乏しいということを次に述べる。

 

 

 

 

 

 

 

a)古より我が国においては1617歳女子は結婚するに相応しい成熟した年齢とされ、その婚姻適応力に疑問の余地はない

 

 

 

我が国の婚姻適齢法制の変遷は以下のとおりである

 

 

 

〇令制 養老令戸令聴婚嫁条 男15歳女13歳(唐永徽令の継受)

 

〇明治初期より中期 婚姻適齢の成文法なし

 

 改定律例第260条「十二年以下ノ幼女ヲ姦スモノハ和ト雖モ強ト同ク論スル」により、12歳以下との同意性交を違法としていることから、内務省では12年を婚嫁の境界を分かつ解釈とされていた。[小木新造1979

 

〇明治民法(明治311898施行)は婚姻適齢男17歳、女15歳。女15歳は母胎の健康保持という医学上の見地。

 

〇戦後民法(現行)男18歳、女16歳は、米国の多くの州がそうだったため米法継受である。

 

 

 

 伝統的に民間の習俗としては子供から婚姻資格のある成女となる通過儀礼としては裳着、鉄漿つけ(お歯黒)、初花祝、十三参り、十三祝、娘宿入り等がある。端的にいえば赤い腰巻を着用した娘は成女であり、早乙女が田植えで腰巻をチラリと見せるのは、婚姻できる身分となった誇示である。近世では庶民で1314歳。皇族女子は比較的高く裳着は16歳だった。

 

 東京現住結婚年齢者対象表[小木新造1979

 

『東京府統計書』

 

明治17年

 

       男    女

 

14年以下   11  128

 

15年以上  604 2740

 

20年以上 1880 2691

 

25年以上 2679 1496

 

30年以上 1607  811

 

35年以上  871  442

 

40年以上  略    略

 

 明治初期の東京は早婚で結婚しやすい都市だったことは上記の統計で明らかである。少子化・晩婚化が顕著になった今から見ればうらやましいかぎりである。

 

 女子1617歳はいうまでもなく、古より結婚するに相応しい年齢とされその婚姻適応能力に疑問の余地はない。もっとも1617歳で結婚するカップルは1990年代に年間3000組ほどいたが、2015年には1357組まで減少している。しかし統計的に減少しているという事実と当事者の婚姻適応能力とは無関係であり、結婚し家庭を築き子供を育てるという、幸福追求に不可欠な憲法24条や13条と密接な関連のある法益をはく奪する理由とはならない。

 

 しかし、1996年法制審議会答申民法改正案要綱は「社会生活が複雑化・高度化した現時点でみれば、婚姻適齢は、男女の社会的・経済的成熟度に重きを置いて定めるのが相当」として1617歳女子は婚姻適応能力を失った年齢とするのである。

 

 

 

 この理屈は、現代の高度産業社会において晩婚化は必然であり、後期中等教育の進学率の高さからみても1617歳は婚期としては相応しくないという主張のように思えるが逐一反論しておく。

 

 

 

 

 

b)高度産業社会となるから晩婚化が必然という前提での議論の過ち 

 

 

 

 人口学者がいうように平均初婚年齢や未婚率は、社会的・経済的・文化的諸状況によって変位する変数であるが、高度産業社会だから晩婚化するというものでは全くないのである。

 

 歴史人口学の成果によれば北西ヨーロッパでは前近代においても晩婚で未婚率が高かったことを明らかにしている。16世紀末から18世紀末にかけてのイギリスの村落のサンプルでは、2024歳の既婚者は男16%、女18%が既婚にすぎない。2529歳でも46%と50%であった。女子は思春期から10年は奉公人として働いて結婚の準備をして20代半ば以降に結婚した[ミッテラウアー,ミヒャエル、 ジーダー,ラインハルト1993]。むしろ近代産業革命によって女子が工場労働に進出し持参金効果により初婚年齢が下がったのである。

 

 米国の未成年者の結婚の多い州は全体の比率でウェストバージニア.0.71%、テキサス0.69%だった。我が国の0.21%と比較するとかなり高いといえる。先進国でも文化的状況により異なるのである。

 

 アメリカ合衆国の2006 年の合計出生率は 2.10 と先進国はもちろん、一部の途上国と 比べても高い水準にある[是川 夕・岩澤美帆2009]。

 

 高度産業社会だからといって出生率が低くなるものではない。ユタ州は女子平均初婚年齢22歳と若く、白人女性の合計出生率について見ていくと,ユタ州の出生率が 2.452002年)と50州で最も高い。これはモルモン教徒の多いことと関連しているが、そのように先進国でも文化的状況によって初婚年齢が相対的に低く出生率の高い場合があるから、社会の複雑化・高度化を口実として婚姻適齢を引き上げるというのは論理性がない。

 

 婚姻適齢法制は、婚姻適応能力のある年齢を制定法で定める理念的なものであって、平均初婚年齢の変動があれ、それを変更する理由とはならない。

 

 

 

c)高校教育修了程度の社会的・経済的成熟の要求は全く論理性がない 

 

 

 

 とりわけ非論理的と言えるのは、1996年法制審議会答申の趣旨である高校卒業程度の社会的・経済的成熟の要求である。国民は婚姻のために政府から義務教育以上の教育を要求される理由は全くない。義務教育修了後、就労しようと、奉公・修業に出そうと、高校以外の各種学校に進学しようと、結婚準備、行儀見習い、あるいは結婚しようとそれは当事者(本人と身上統制権のある親)の私的自治にかかわることがらであり、学習指導要領では義務教育で実社会に出ても不都合がない教育課程が組まれているはずである。

 

 井山裕太六冠をはじめ囲碁のトップ棋士は、中卒が通例だといわれている。なるほど井山六冠は離婚した。しかしだからといって中卒だから婚姻適応能力がなかったとはいえないし、高校に進学していないことを政府から非難されるいわれもない。

 

 角界は近年学生相撲出身の力士が多くなったとはいえ横綱稀勢の里も、八角理事長も中卒であり、稀勢の里が学生出身の遠藤より婚姻適応能力も人格も劣るという立証は誰もできない。

 

 百歩譲って、仮に高校進学が望ましいという観点をとるとしても、生徒の多様な実態に対応して単位制高校など柔軟なシステムもあるから、学業と家庭生活との両立は可能である。16歳で結婚したタレントの三船美佳も横浜インターナショナルスクールを卒業しているから、高卒が望ましいという趣旨で婚姻適齢を引き上げるというのはナンセンスといえる。

 

 ちなみに、英国が義務教育修了を16歳とし、婚姻適齢も16歳だから義務教育とかぶっている。それでも問題ないということだ。

 

 中卒は労働法で就労を規制しておらず、稼得能力は当然ある。高卒の賃金と中卒の賃金が、婚姻適応能力を分かつ根拠も示されてない。高校教育無償化のみならず高等教育も無償化するのだから中卒は婚姻適応能力がないものにしなければならないなどというのは本末転倒した議論だろう。

 

  高卒程度の社会的・経済的成熟を要求した法制審議会の見解については民法学者の滝沢聿代氏(元成城大学・法政大学教授)が的を射た批判をされているのでここに引用する。[滝沢聿代1994

 

 「要綱試案の説明は、高校進学率の高まりを指摘し、婚姻年齢に高校教育終了程度の社会的、経済的成熟を要求することが適当であるとする。しかし、婚姻適齢の制度自体がそもそも少数者の例外的状況を念頭に置いた理念的内容のものである。高校を終了したら誰でも婚姻しようと考えるわけではない。他方、義務教育のみで学校教育を終える者は依然存在し、これらの者こそ婚姻適齢の規定が意味をもつ可能性は高い。加えて、高校進学率の高さの実態に含まれる病理に思いを至すならば、安易な現状肯定から導かれる改正案の裏付けの貧しさに不安を覚える‥‥。 高校教育修了程度の社会的、経済的成熟を要求するとはどのような意味であろうか。まさか義務教育を終了しただけの社会的地位、経済力では婚姻能力に疑問があるという趣旨ではなかろう」

 

 さらに滝沢氏は人口政策としても疑問を呈し、「一八歳未満に法的婚姻を全く否定する政策は、婚姻適齢を比較的高くし、一人っ子政策によって人口抑制を図る中国法(男二二歳、女二〇歳)のような方向に接近するものと理解しなければならない。それは明らかに婚姻の自由に対する抑制を意味する」と批判している。

 

 とにかく、これまで成年擬制制度をとっていて、結婚した男女は未成年でも成年の扱いでなんら問題なかったので、婚姻適応能力がないと決めつける理由など全くない。

 

 16歳の三船美佳が40歳の高橋ジョージと結婚し17年後に離婚したが、これが当事者の福祉に反していた、当事者の最善の利益に役立たなかった、あるいはとりかえしのつかない負担を課すものとなったとはいえない。もし政府がそういうのなら高橋氏に大変失礼なことになるだろう。鴛鴦夫婦として有名だったし、三船美佳はタレントとしても成功している。仮に18歳で結婚したとしても、離婚していたと考えるのが自然であり、16歳での結婚が良くなかったと決めつける根拠はなにもない。

 

 明らかに16歳は成熟した、婚姻適応能力のある年齢なのである。 

 

 

 

 

 

 

 

(三)「社会的・経済的成熟」の要求と1617歳の婚姻資格はく奪とは実質的(合理的)関連性がない

 

 

 

 結婚する権利のはく奪は、憲法24条、13条にかかわる法的利益の直接的妨害であるから、中間審査基準「厳重な合理性テスト」(合理的な立法目的と婚姻資格はく奪という手段の実質的関連性のテスト)で憲法適合性を判断することになる。

 

 これまで述べたとおり「社会生活が複雑化・高度化した現時点でみれば、婚姻適齢は、男女の社会的・経済的成熟度に重きを置いて定めるのが相当」という立法趣旨は不当である。1617歳に婚姻適応能力がないと結論するのは行き過ぎでありその具体的根拠に乏しいことで、合理的・正当な立法目的ではないと判断する。合理的な立法目的とみなされないという点ですでにアウトである。

 

 それでも婚姻制度の設計について国会に広範な裁量権があり、仮に正当な立法目的だと承認したとしよう。だとしても婚姻資格はく奪という手段との実質的関連がなければ中間審査基準ではアウトになる。

 

 つまり、仮に1617歳が「社会的・経済的成熟」を欠くという主張を認めても、そのことから婚姻適応能力を欠く、あるいは当事者の福祉に反する、最善の利益とはならないという結論にはならないのである。

 

 なぜなら結婚は、男女の相互扶助の共同体であるから、一方に稼得能力がなくて、他方の配偶者に稼得能力があれば、成立する性格のものだからである。お互い貧乏でも励まし合い、協力し感謝し合うなら結婚生活は成立する。

 

 すでに述べたとおり、わたくしは、社会的・経済的成熟の要求は婚姻の自由の抑制そのものを意味し不当であり、そんなことは無視しても結婚してよいはずと主張した。

 

 ミルトンを引用して結婚は孤独な生活に対して人を慰め生きる力を与えるものであり、夫婦間の相愛関係・幸福な交わり(happy conversation)を得る崇高な目的があると述べた。

 

 社会的に承認された性欲充足の手段としての結婚というだけでも価値があると述べた。

 

 エマーソンは、ボストン第二教会で公職を得たのち17歳のエレン・ルイサ・タッカーという美女と婚約し1年後に結婚したが、彼女は婚約ののち喀血し、結核のため20歳で亡くなるまで結婚生活はほとんど療養生活になった。病人とみすみす結婚したてのばかげているという論評があるが、それでもよいのだ愛があれば。そのような結婚も否定されるべきではない。結核を患った彼女の稼得能力は乏しい。しかし結婚が否定されなければならない理由はない。

 

 しかし百歩譲って、仮に婚姻するためには中卒の社会適応力・賃金・稼得能力で絶対だめだ、高卒以上の賃金・稼得能力が必要だ、婚姻するためには社会的・経済的成熟が第一義的に重要であり、それが18歳だという政府のかなり強引な主張を認めるとしても、配偶者の一方に社会的・経済的に成熟した稼得能力ないし経済力があれば愛の巣としての結婚生活は維持できるのであって、男女の双方に「社会的・経済的成熟」を求める必要はない。成人であっても配偶者の一方が疾病や障害により稼得能力の乏しい場合はあり、それによって結婚する権利がはく奪されることはないのと同じことである。獄中結婚の一方は稼得能力は一定期間ないがそれでも結婚できる。

 

 

 

 政府案のいう「社会的・経済的成熟」の要求と婚姻適応能力とは実質的合理的関連性がないといえる。

 

 加えて、「社会的・経済的成熟」の要求を満たさない結婚は、当事者の福祉に反する、当事者にとって最善の利益にならないという根拠はなにも示されていないのである。

 

 百歩譲って、結婚生活が破綻したとしても、結婚したことがそれが取り返しのつかない負担となるほど当事者の福祉を害するという立証は不可能である。

 

 配偶者の双方に相当の稼得能力・経済的成熟を求めることは婚姻するために不当な要求なのである。婚姻するために不当に高い要求を課すことは憲法241項の婚姻の自由の趣旨に反し、憲法13条の幸福追求権を否定する。この重要な法的利益の無視である。

 

 もっといえば双方とも経済力に乏しいとしても、実家の支援があったり自営業や資産家なら結婚生活は維持できる。

 

 だからわたくしは配偶者の一方が成人なら、他方は16歳以上で結婚を認め、従前から婚姻資格を有している1617歳女子をはく奪しない修正案としたのである。

 

 つまり、男女別の取扱いの差異をなくし法的平等にするには、1617歳女子の婚姻資格をはく奪しない方法が可能なのだから、それを選択すべきである。

 

 よって、正当な立法目的であったとしても、1617歳女子の婚姻資格はく奪という手段との実質的関連性がないのである。よって、違憲の疑いのある立法政策だといわなければならない。

 

 百歩譲って、それが憲法違反でないという主張があっても、立法政策としてはかなり悪質なものとして糾弾に値する。

 

 

 

(四)「社会的・経済的成熟」を要求する真意はジェンダー論ないしマルクス主義フェミニズムの公定化であり、特定のイデオロギーの偏重であり、婚姻生活の国民の私的自治を否定するものである

 

 

 

 法改正案が「加計ありき」ならぬ「16歳・17歳女子婚姻資格はく奪ありき」となっているのは表向きの理由が「社会生活が複雑化・高度化した現時点でみれば、婚姻適齢は、男女の社会的・経済的成熟度に重きを置いて定めるのが相当」というものだが、それは口実であって底意とするところは、16歳・17歳で結婚する女子と、未成年者に求婚する男子に対する敵意である。

 

男子の婚姻適齢を16歳に引下げて形式的平等としても、結局それは男性の稼得能力に依存する結婚生活になりやすく、それは性的分業を固定化し、男女役割分担の定型概念を促進するからよくない結婚であるとするためである。若い女性にとって結婚を幸福とすべきでないという価値観をとっているからである。ジェンダー論に反し許されないというものだろう、そういう人たちの幸福追求権は、否定して、ジェンダー論ないしマルクス主義フェミニズムを公定イデオロギー化しようというものである。

 

 そして、旧ソ連や、旧東独と同じ、婚姻適齢を18歳とすることにより日本の社会主義化が促進するということである。

 

 法的平等以上に、特定のイデオロギーによる結婚観を立法目的とすべきではない。アメリカ合衆国の多くの州は婚姻適齢が男女平等になっているが、だからといってジェンダー論や唯物史観的家族史観を公定化しているわけではないのである。政府がジェンダー論の観点から政策を進めていることから、あたかも唯物論的家族史観のように、伝統的性的分業が破棄されていくのが当然の進歩みたいに思っている人を多くみかけるがとんでもない。

 

 日本の「家」の構造(明治民法の「家」ではなく、1960年代のフィールドワークに基づく慣習としての「家」)を理論化しているのが厳密な定義で定評のある社会人類学の大御所清水昭俊[197019721973]である。

 

 清水は日本の「家」において家長と主婦という地位は必須の構成であること。家長と主婦は必ず夫婦であること。次代の家長と主婦を確保することで永続が保障されると理論化している。

 

 日本の「家」は家長と主婦の性的分業を前提としているのであって、そうするとジェンダー論は日本的「家」の否定になる。

 

 清水昭俊は、さらに婚姻家族を定義して「これは家内的生活が主として夫婦間の性的分業によって営まれる家と定義され、核家族や‥‥拡大家族はこれに含まれる」[清水1987 97頁]としており、夫婦間の性的分業によって営まれない家内的生活は人類学的には婚姻家族とは定義されないのであるから、ジェンダー論は婚姻家族を否定する恐るべき思想であり、マルクス主義の家族死滅論に接近するものというべきである。

 

 婚姻家族を否認するイデオロギー的立場を法改正趣旨に看取できるのであって、この民法改正案には反対せざるをえない。

 

 重ねて言うがたとえ、男性の稼得能力に経済的に依存する結婚生活であろうと、夫婦間の分業は当事者の私的自治の領域であるから、政府が干渉すべき事柄ではなく、最も共感的な理解者が結婚したい相手であり、お互い励まし合い、感謝し合う仲であれば、結婚で得られるものは大きく、人生の困難も乗り越えていくことができる。慰めと平穏を得る相互扶助の共同体としての結婚生活の意義における人格的利益を否定することはできない以上、その結婚生活の主たる稼ぎ手が夫であったとしても、それを特定の思想的立場から敵視して、彼と彼女の幸福追求権を否定する理由にはならないのである。

 

 

 

 

 

二 野田愛子氏(故人)の賢明な意見が不当にも無視された

 

 

 

 野田愛子氏(19242010)とは女性初の高等裁判所長官(札幌高裁)であり、中央更生保護審査会委員、家庭問題情報センター理事などを務めた。法制審議会のなかでは少数派であり、婚姻適齢改正に反対、16歳・17歳の婚姻資格のはく奪に反対されていて、下記の平成4年の講演は傾聴に値するものである

 

 

 

「‥‥現行法どおりでいいのではないか。つまり、婚姻適齢は男女の生理的な成熟度にあった規定であるからそれでいいという考え方と、いや、男女とも高校教育が一般化した今日、教育的、社会的平等に合わせて、年齢を男女とも一八歳にするべきという考え方があります。一八歳にしますと、女子の場合は一八歳未満で事実上の関係ができて、妊娠するという問題がある。ここに何か手当てが要るというと、むしろ一六歳に揃えたらどうか、という考え方もあります。しかし一六歳に揃えますと、婚姻による成年(民法七五三条)の問題があります。一六歳で成年となっては法律行為等においても問題ではなかろうか。それぞれにメリット、デメリットがございます。

 

 そこで仮に一八歳に揃えた場合には、一六歳で結婚しようというときに婚姻年齢を下げて婚姻を許すような法律的な手立てが、どうしても必要になります。各国の法制を見ますと婚姻適齢を男女同年齢(一八歳以上)にした法制の下では、必ず要件補充の規程を設けて、裁判所が許可を与えるとか、行政機関が許可を与えるとか、そういうような条文を設けている国もございます。

 

 そうなりますと、婚姻の問題に国家の機関が介入するということも問題ではなかろうかという議論もでてまいります。家庭裁判所の立場からは、婚姻を認めるとか認めないとか、いったい何を基準に判断するのかというようなことも一つの疑問として提議されましょう。統計的に、一六、一七歳で婚姻する者は、約三〇〇〇件あるそうです。私の家庭裁判所判事当時の経験に照らすと、一六、一七歳の虞犯の女子が、よい相手に巡り合って、結婚させると落着く、という例も多く経験しています。あながち、男女平等論では片付かない問題のように思われます」〔野田愛子「法制審議会民法部会身分法小委員会における婚姻・離婚法改正の審議について()『戸籍時報』41918頁〕

 

 

 

 最後の「虞犯女子」云々の発言は実務家の経験として貴重なものであると私は思う。90年代に16・17歳で結婚する女子は年間三千人いた。今日は当時より減っているが、それが千三百人であれ、永く認められていた権利の剥奪は慎重でなければならない。

 

 「虞犯女子」は社会的に恵まれていない社会階層といえる。夫婦の情緒的な依存関係、相手を共感的に理解し、力づけ、感謝し合う、それは結婚以外に得難いものなのだ。結婚相手と喜びと苦労を分かち合うことにより、喜びは倍増し生活の苦労は軽減され、困難があっても乗り越えられる。そのような人間学的洞察からみても年少者であれ、否、未成年者こそ結婚の価値は高いものであるといえよう。

 

 野田愛子氏のような実情に詳しい実務家のまともな意見が無視されている要因は、18歳に男女とも揃える改正は、古くから男女平等を主張してきた日弁連女性委員会、婦人団体の悲願であり、この圧力団体のメンツを潰すことはできないという事情によるものと推察する。そこで思考停止状況になっているためである。

 

 そもそも民法は社会変革のための道具ではない、特定の社会変革思想や特定社会階層の見解に偏った改革は好ましくない。ナポレオン民法はポティエによるフランスの慣習法の研究が基礎になっていたものであり、社会変革のためのものではなかったはずである。

 

 

 

五 法律婚制度の安定性を揺るがす

 

 

 

 我が国においては、法律婚と国勢調査の婚姻件数との差異がほとんどなく、経過的内縁関係が若干あっても、事実婚や非嫡出子は外国に比べ少数であり、法律婚制度は安定している。

 

 明治・大正期までは内縁関係は少なくなかったし、昭和期までは足入れ婚(試験婚)の慣行も農村では広範にみられた。しかし今日では芸能人でも入籍を結婚としているように法律婚制度は完全に定着しているので、我が国の制度は成功した事例といえるのである。

 

 ところが婚姻適齢引き上げは18歳未満で妊娠し出産したばあいの子供を非嫡出子にする問題がある。これについては、非嫡出子の法定相続分の差別をなくしたので、その子供が不利益にならないから問題ないし、子供の不利益にもならないとの主張がある。

 

 しかし法律婚制度をとる以上嫡出子(長子)となるべき子供をみすみす非嫡出子にしてしまう政策は疑問である。

 

 法律婚制度の安定性という観点で、経過的内縁関係を強要したり、嫡出子になるべき子供を婚外子にしてしまう政策は間違っている。

 

 当事者に国民の権利よりも圧力団体の要望に応え票にするのが政治なのだというのだろう。婚外子になろうがそんなことはどうでもよいというかもしれない。

 

 一方で、国会議員はLGBT基本法は成立させるだろう。圧力団体がロビー活動しているし、人口比率で7.6%いるといわれるから、票になることはやりたいということだろう。

 

 しかしまともな異性愛者の結婚の権利は縮小させるというのであり、古より結婚するに相応しい年齢だった1617歳で結婚したい女子の幸福追求権の否定を躊躇しない。

 

 1300~1400組のカップルといっても経過措置によって、怒りが向けられることもない。政治家は票にも利権にもならないからこいつらの剥奪は当然だ。こいつらの幸福追求権や婚姻の自由なんて政治とは関係ないというかもしれないが、あまりにも冷淡きわまりない。そもそも成人年齢の引下げも、国民投票法を成立させるための与野党の取引(当時の自民党の中川政調会長が民主党の公約だった選挙権の18歳引き下げを丸呑みした)からはじまったものであり、政治家の自己満足にすぎない。国民特に若者が要求しているものではなく、成人は20歳と定めた太政官指令以来安定している私法をあえていじくるというものである。それに便乗しての1617歳婚姻資格はく奪であるからこの改正案は政治への信頼も失う結果になるだろう。

 

 

 

 

 

四 想定される当局側の反論に対する反論

 

 

 

 以上の私の主張に対して、法務省当局が言いそうな反論を想定すると、2008年フランスがそれまでの男18歳・婚姻適齢15歳であったのを男女とも18歳としていること。2017年ドイツは東西統合以来、婚姻適齢を男女とも18歳を原則としつつも、配偶者の一方が18歳以上ならば16歳以上で婚姻可能としていたものを、男女とも18歳とすることを原則とすると閣議決定したとの報道があることから、フランスやドイツの動向に我が国も追随すべきだというに違いない。

 

 これについては私は次のように反論する。

 

 フランスが未成年者の婚姻を否定した主たる理由は、北アフリカ・中東のイスラム圏移民が増加し、親による強制結婚への非難によるものである。ドイツも同様にイスラム圏移民の強制結婚に対する非難である。

 

 当事者との同意を基本とする法文化は、ローマ法にはじまり、特に教会婚姻法が、親の同意要件を一貫して否定したことにより、ラテン=キリスト教世界で定着した法文化であってイスラム圏は異なることから摩擦を起こしたものとみてよいだろう。我が国ではイスラム圏の移民は少数で、未成年者の結婚が社会問題ともなっていないし、我が国では未成年者の婚姻はたいていの場合は当事者の合意が先行し親が追認するケースと考えられるので、仏独の事情とは異なるから追随する理由はない。

 

 また、ごく最近のことだが20176月にニューヨーク州が従来14歳以上で結婚できる法制だったものを、婚姻適齢を17歳以上と改正した事実がある。

 

 近年、発展途上国に広範にみられる親の強制による児童婚撲滅を主張する人権団体の活動が目立っているが、ニューヨークでもヒューマンライツウォッチという児童婚に反対する団体が、14歳で結婚できるニューヨーク州法を敵視し、民主党州議会議員に働きかけ、クォモ知事も賛同したため法改正がなされてしまった。人権団体の言いなりになった感がある。

 

 しかし米国では先に述べたように結婚は『人間の基礎的な市民的権利』の一つとされていることから、結婚を妨げることが子供や女性の人権だという主張は主流の考え方とはいいがたい。

 

 年少者の結婚を敵視するヒューマンライツウォッチが天下を取っているのでもないのに、政治が人権団体の主張に踊らされてる傾向はとてもよくない情勢といえる。

 

 

 

 しかし、一方で男14歳、女13歳と婚姻適齢の低いニューハンプシャー州は20173月に婚姻適齢引上げ法案を州議会が否決している。またニュージャージー州では婚姻適齢引き上げの法案が議会を通過したが、クリス・クリスティー知事が拒否権を発動したということである。ニューハンプシャー州議会とクリスティー知事の見識を讃えたい。したがってニューヨーク州の法改正をとらえてそれがトレンドだとはいえない。

 

 私の主張は、結婚し家庭を築き子供を育てる権利は、幸福追求に不可欠な基本的権利ともいえるもので、古くから性的に成熟し婚姻するに相応しい年齢であった1617歳女子の婚姻資格はく奪は憲法二四条や一三条と密接な関連のある法的利益の重大な侵害というものである。未成年者だからといって当事者の最善の利益に反することが証明されることもないのに安易に権利をはく奪することは許されないとする考えである。

 

 児童婚撲滅論者の主張は、早婚は女性に貧困をもたらし、性病に罹患したり、夫から暴力を受けたり、高校中退の可能性を高くし当事者の福祉に反するものと決めつけたうえで、各国政府は早婚を規制すべき法を定めるべきというものであるから、結婚を妨げることが人権擁護という主張である。親の強制結婚を非難するが、後述のとおり当事者の合意を基本とするのはローマ法、とりわけ教会婚姻法の理念で、西洋文明における理念である。そうでない文化的背景の地域については、文化相対主義の見地から、それが是正されるべき慣習などというのはあつかましいことであって、同意できない。180度異なる考えである故、イデオロギー上の敵である。

 

 法務省は今後こうした団体からの突き上げがないよう、この際未成年者の権利をすべてはく奪しておきたいのかもしれないが、圧力団体のクレームが面倒だから、法改正をして国民の権利を取り上げるというのは立法目的としては正当なものとはいえない。

 

 

文献表(引用・参考)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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